緒言

 

[本書の著者ルカ]本書の著者がルカであることは、古よりの教会が一致して主張する処であって、今日も異論はほとんどない。その故は、(1)本書と使徒行伝とは同一著者の筆になり、(2)共に貴人にして富豪なるテオピロに献げられたのであったこと(1:4。使1:1)、(3)本書と使徒行伝とは共に巧みなるギリシャ文にて書かれ、ギリシャ的素養の豊かなるルカの著として相応しきこと、(4)使16:10−17。20:5。28:31においてこの部の記者がパウロと共に居りしことは明らかであるのでこれを(所謂「我ら部」がこの記事の中にあり、他と区別される。16:10−17。20:5−15。21:1−18。27:1−28:16)ルカ自身と推定することが他の如何なる弟子よりも良く適合すること、(5)医学上の理解に富める記事および医学上の術語が他の書に比して多く用いられているのが医者ルカに相応しきこと等により本書をルカの作と見ることが最も適切であるからである。ルカ(ラテン名ルカヌスの略称か)はエウセビウスの教会史によればシリヤのアンテオケ(異説あり)の人で異邦人の信者であり、医者を業としていた。アンテオケにおける最初の信徒団の一人であったのであろう(ただしルカがアンテオケの住民であったことには確定的証拠がない)。その後上記使徒行伝の(我ら部)においてはパウロに従いて伝道旅行に赴き、最後にパウロの第一回および第二回ローマ幽囚の際においても彼と共に居り(コロ4:14。ピレ24。Uテモ4:11)、彼の所謂「愛する医者ルカ」(コロ4:14)として彼を助けた。その後の彼の生涯は明らかではなく、七十四歳にてビテニヤにて死せりとの伝説あり。なお六世紀頃よりルカが画家であったとの伝説があるけれども、明らかには証明されていない。

 

[本書の資料および編纂]1:1、2の「書き列ねんと手を著けし者あまたある故に云々」は必ずしもこれらの人々により多くの著作が世に出されたことを意味しない。学者たりしルカはイエスに関する事柄を漠然たるままに放置することを好まず、「最初より詳細に推し尋ね」たのであった。それが彼がアンテオケに居りしものとすればその際にエルサレムより来れる使徒たちに聞き取ったものと思われ、またパウロに従いアジヤ、マケドニヤ等に伝道旅行を為し居りし際パウロより間接にイエスにつき聴き取る機会も充分にあったものと見るべきであり、殊にパウロが最後に二年の間カイザリヤに幽閉せられし際(使24:1−27)ルカも彼と共に在りて彼に(つか)え(使24:23)、パウロの許に出入する信仰の友人(この中には執事ピリポとその四人の娘もあったろう、使21:8、9)らより、イエスとその弟子たちのことにつき聴き取る機会が多かったことと思う。然のみならず、ルカがこの福音書を録した頃にはマルコはすでにマルコ伝を完成しており、ルカがこれをそのまま(多少の文体および内容の変更を加えて)ルカ伝の中に収録しており、またマタイの録したと称せらるる「イエスの語録」(ロギヤまたはQと称せらるるもの)もすでに存在し、ルカはこれによりその材料を取ったことは明らかである。この二者は本福音書の主要の資料であった。その他9:51−18:14にある旅行記は全然ルカ伝特有のものであって、その中にマタイ伝にもマルコ伝にもこれを欠いている材料を多く含んでいる。ルカが利用したこれらの特殊の材料は文書となっている他の資料であったのか、または口伝を収録したのかは不明である。その他随所に、殊に比喩的物語の中にルカ伝特有のものが多いのはルカの丹念なる資料集輯によったものであろう。

 

[本書の目的および特徴]本書は聖書中唯一の異邦人の作であって、従って異邦人に読ませることが本書の全目的であった。貴人テオピロに福音の内容を詳細に示さんとの目的が中心をなしていたのであるけれども(1:4)、同時に一般の異邦人にも読ませることがルカの心中にあったものと見るべきである。本書の特徴は(1)他の福音書の物語的なるに比して、その歴史的であること、(2)万人救済をその主眼とせること、(3)イエスを特に祈祷の人として描写せること(3:21。5:16。6:12。9:18、29。11:1。23:46)、(4)罪人に対する愛を強調せること(7:36−50。15:1−7、8−10。11:32。18:9−14。19:2−10。23:39−43)、(5)婦人につき特に多くの記事を掲げていること(7:36−50。8:1−3。10:38−42。11:27−28。13:10−17)、(6)イエスの人類愛を強調せること(10:30−37。14:1−6)等を挙げることができる。なおパウロの思想の影響を受けていることを察するに足る点少なからず、また異邦人キリスト者を対象とせる結果、アラム語の引用およびその翻訳、ラビの称号、旧約聖書の引用等を省略せること多きは自然の数である。同時にマタイ伝に見るごとき、律法主義的パリサイ人に対するイエスの反対等はできるだけこれを省約せる形跡がある。なお本書中に散在するヘブル語法が、原文の翻訳であることは、できるだけ原始キリスト者の気分を保存するためと、また一つは当時のキリスト者の間の通用の語調となっていた処とみるべきであろう。なお本書はギリシャ文としては新約聖書中の白眉である。

 

[著作の年代および場所]著作の年代は(1)本書がヨセフスの「ユダヤ古代史」(九十三、四年に出版さる)を参照せりとの推定より紀元百年頃の作と見る説があるけれども、この推定そのものが支持を得がたく、この説はあまり行われない。最も普通には(2)七〇−八〇年頃とする説が行われ、その理由としてマタ24:15。マコ13:14を変更して21:20のごとくせることを七〇年におけるエルサレムの陥落を眼中に置けるものと解し、19:43以下も同様に解さるべきことを掲げているけれども、(3)むしろこの通説に反し使徒行伝より前、紀元六十年または六十一年頃と見るべきもののごとくである。その理由の重要なるものは、使徒行伝註解の緒言「著作の場所および年代」に示せる使徒行伝の著作の年代に関連し、本書はその以前に完成せるが故であり、また21:20においてマタ24:15。マコ13:14を変更せるは、旧約聖書を知らざる異邦人を顧慮せるがためなるべく、19:43以下は必ずしもエルサレムの陥落と見ずとも言い得る事柄であり、またエルサレム陥落の預言が実現せることを強調せざるごとき(11:28以下を見よ)、またパウロのコリント前後書、ガラテヤ書等の影響を全然受けざるごとき、何れも本書の著作の年代の早きことを示すものと見るべきであろう。著作の場所につきては諸説紛々として一定せず、前述の年代を真なりとせばそれはローマにおいてパウロの幽囚に従いつつある間に完成されたものであろう。ただしその大部分はすでにカイザリヤにおけるパウロの幽囚時代に完成したものと見て差支えがない。ただしそれより後の年代を主張するのが通説である。勿論この書が世に実際発表せられし年代は不明である。