テサロニケ前書

 

[テサロニケとその教会]テサロニケは今日のサロニカでテルマ湾に臨める海港であり、ローマと東方とを結ぶエグナチア道路の要衝に当り、当時ローマ領たるマケドニヤ州の首府として、第一の大都市であり、ローマの政庁の所在地として商業殷賑(いんしん)であった。住民の大部分はギリシャ人であって、ローマ人これに次ぎ、ユダヤ人も多数居住していたので、ユダヤ人の会堂も存在していた(使17:1)。パウロは紀元50年頃、その第二伝道旅行においてピリピよりこの地に来り、シラス(シルワノとも呼ぶ)およびテモテが彼に随伴していた(1:1582:1以下。3:1以下など参照。使徒17:110)。彼はこの地に四週間ばかり滞在したごとくであるが(使17:2)、一層長く滞在せるならんと想像する学者もある。何れにしてもパウロはこの地のユダヤ人らに迫害せられ、ついに夜の間に密かにこの地を去らざるを得ざるに至った(使17:10)。しかしながらこの地の教会はかくして堅立し、その後とも善き信仰の生活を維持していたことは、本書の処々にこれを見ることができる(1:2102:133:6104:9)。

 

[本書の認(したた)められし事情及び年代]テサロニケのユダヤ人らはパウロらを迫害したので(使17:5)彼らはベレヤに逃れ、パウロはさらにベレヤよりアテネに逃れ(使17:1415)、唯シラスとテモテとのみベレヤに留まった。パウロはアテネにおいてテサロニケの教会の迫害を耳にし、憂慮にたえず、しばしばテサロニケを訪問せんとしたけれども果さず(2:1718)、ついに彼の代りにその以前に彼の許に帰り来たれるテモテをアテネよりテサロニケに遣わした(3:2)。テモテはおそらく数週間をテサロニケに過したのであろうが、その間にパウロはアテネよりコリントに赴いた。その後テモテはテサロニケより帰り来ってパウロに復命し、その復命によってパウロはテサロニケの信徒の信仰状態を知り、非常に喜んでこの書簡を認(したた)めたのであった(3:610。使18:5)。なお使徒行伝には省略されているけれども、テモテはベレヤより一度アテネに来りてパウロに合流し、そこよりテサロニケに遣わされたもののごとくである(3:12)。従って本書は紀元50年頃コリントより認(したた)められしものであろう。

 

[本書の内容及び認(したた)められし原因]本書が認(したた)められたのは、パウロがテサロニケの教会の迫害を受けてベレヤよりアテネに逃れた後にも、なお、その地の教会に迫害の絶えざりしことを聞きてこれを憂い、これを力付けんがためにテモテを遣わしたのであるが(3:15)、その復命により彼らは苦難と患難の中にもなおその信仰に堅く立っているを聞きて歓喜にたえず本書を認(したた)めたのであった。従って本書の中にはテサロニケの教会の信仰の状態に関する感謝の念が充ちており(1:210)、またパウロが如何に彼らを恋い慕っているか、また彼らのために憂い、またその状態を聴きて歓んでいるかを陳べ(2章、3章)、而してこれと同時にこれに加えて異邦人に通有せる貪慾や性的放縦の罪より逃るべきことその他彼らに対して必要と思わるる諸徳を彼らにすすめ(4:1125:1222)、殊にキリストの再臨に対する希望を正しく把握してこれに相応しく生活を送るべきことを教うることにより、キリスト者として現世に対する態度を知らしめ、これによって己を潔くし、かつ苦難に耐うることを得しめている。

 

[本書の作者]本書簡のパウロの真正の書簡たることに関してはバウル一派の否定説が存するのみで、大体において疑うべからざる真正の書簡たることが認められている。而してバウルの否定説は有力なる説ではなく、ここにこれを陳ぶるの要を認めない。

 

[本書の梗概及び特質]本書の梗概は分類によってこれを知ることを得る通り、首尾の挨拶(1:15:2528)を除き、歴史的の部分(1:23:13)と教訓的部分(4:15:24)とにこれを区別することができる。前者はさらにテサロニケ教会の信仰状態に対する感謝(1章)、パウロの伝道の態度とテサロニケ人のパウロに対する態度(2章)およびパウロの憂慮と本書を認(したた)むるに到れる事情とに別つことを得(3章)。後者は若干の道徳的教訓と再臨の信仰およびこれに伴う信徒の態度とを記す。全体として原始的異邦人教会の雰囲気が豊かに漂っている書簡である。