グノーモン

 

ヨハン・アルブレヒト・ベンゲル

 

坪井 正之 訳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

著者序文
訳者序文
ベンゲルの生涯と著作
新約聖書指針

 

 

 

目 次

 

著者序文. 2

訳者序文. 7

引用されている主要文献. 9

ベンゲルの生涯と著作. 10

新約聖書指針. 21

 


 

著者序文

 

読者である信徒たちにますます

恵みと平安がありますように

 

 

 昔の族長たちにとって信仰と行動の基準となった生ける神の言葉が、モーセの時代に書き物にされた。それに多くの預言者が続いた。そのあと、神の子が説かれたこと、聖霊が使徒たちを通して語ったことを使徒たちと福音記者たちが書き物にした。これらの書き物をまとめたものを『聖書』と呼ぶ。その呼び名はその書の尊厳と価値に対する最高の賛辞である。というのはそれが『聖書』と呼ばれるのは、それが神の言葉、主の書であることを示しているからである。「神の言葉はとこしえに変わることはない」(イザヤ40:8)と預言者は言い、「よくよく言っおく、天地が滅び行くまで、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされる」(マタイ.5:18)と、救主が言っておられる。また、「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」(同24:35)とも主は言われた。従って、旧約ならびに新約聖書は最も確実で尊い神の証言の集大成である。というのは聖書の各巻がそれぞれ神のみ名に値するばかりでなく、全体として完全で調和的な神の言の統一体系をなしているからである。聖書は全く知恵の真の基盤であって、それを一度、真に味わったものなら、いかに聖的で、経験豊かで、敬虔で、賢明な人が書いたどんな書物よりも、これを選ぶ。

 

 それゆえこのように尊い賜物を託されたものは、それを正しく用いるべきである。聖書自体がその正しい用い方を教える。すなわちそれを「実行する」することが正しい用い方である。実行するためには、「知る」ことが必要である。心の正しいものは誰でも聖書の意味を知ることができる。

 

 旧約の時代には、当時許された知性の光が今より乏しかったが、何千という註解書は書かれなかった。また新約時代の教会でも、始めはそのような助けが必要とは学者たちも考えなかった。聖書のどの書も最初、預言者や使徒たちがそれを書いたときは、人々は内なる光によってそれを明らかに理解でき、別に註解書を必要としなかった。絶えずすべての人の口にされ、すべての人に読まれた本文は自明で、それだけで完全に理解できた。聖徒たちはあたかも剪定や摘果をするように、聖書の一部分を切り取ったり、必要部分だけをせっせと収集するようなことはしなかった。また煩雑な註解を積み重ねることもしなかった。彼らには聖書があった。そしてそれで充分であった。知識のない者は旧・新約聖書をよく学んでいる者に教えを請えばよかった。

 

 註解の主な目的は、「本文の純粋性」を維持し、回復し、擁護すること、聖なる著者が使用した「言葉の正確な働き」を明示すること、書かれたことの「背後の事情」を説明すること、後代起こった「誤謬や乱用」を取り除くことである。最初、聖書の言葉を聞いた者には、こういうことは全く必要でなかった。今日の読者に以上のような助けを与えて、そうしたことを全く必要としなかった初めの読者と同じ立場に置くことが註解の役目である。現代人が過去の人々より有利な点が一つある。それは預言をその後起こった出来事によって理解できるということである。個々の読者が聖書の研究によって得たものは、どんな種類のことであれ、口頭または文書で、互いに知らせ合うことができるし、またそうすべきである。しかし、それは聖書自体の不易の効用を減じたり、妨げたり、歪めたりしないように配慮した上でのことである。

 聖書は教会のいのちであり、教会は聖書の番人である。教会が健康なときは、聖書も生き生きと輝いているが、教会が病むときは、聖書もおろそかにされ、蝕まれ、生気を失う。こうして聖書と教会の健康状態はつねに一致しており、聖書の取り扱い方はその時その時の教会の状態によって決まる。その扱い方には初期から今日まで、時代によっていろいろ変遷があった。第一は自然時代、第二は道徳時代、第三は不毛時代、第四は改訂時代、第五は宗教論争時代、第六は本文批評、文献学、言語学、考古学、説教学時代であると言える。しかし、聖書そのものによって聖書を吟味し、解明し、理解する方法はまだ教会内に広く行きわたっていない。このことは我々の間の多岐にわたる意見の食い違い、預言解釈に関する無知によって明らかである。我々は勇者のように邁進して、聖書に通暁することに努め、聖書の完全性に充分、答えることを要求されている。しかしそのためには試練を乗り越える覚悟がなければならない。苦労して始めて理解が得られる。

 

 

 聖書の註解をしようと思うものは、自らを吟味して、何の権利でそうしようとするのか、確認すべきである。わたしについて言えば、わたしに自信があって、始めから註解書を書こうと思ったのではなかった。神の導きで、思いがけずこの仕事を少しずつするに至ったのである。わたしは公職として二十七年余にわたって、熱心な若者たちにギリシヤ語新約聖書を講解する任務を担当し、そのためにまず聖書の各書について、講義メモを作製した。その数が増えるにつれて、私はそれを集録し始めた。それから、ある尊敬すべき聖職者(ローチの監督クリストファー・ツェラー)の勧めで、それに仕上げの手を入れた。釈義は本文の校訂を必要とした。黙示録註解のための本文校訂に当たっては、つぎつぎといろいろな写本を検べることになった。そのころ始めた『福音書の調和』と『黙示録註解』が“Ordo Temporum" 「時の秩序」を出すきっかけになった。今これらすべてを注意深く検討、訂正、補足して、一冊の新約聖書註解書にまとめた。

 

 わたしはずっと以前から、これらの註解ノートに 《Gnomon》[すなわち、指針、元来は日時計の指柱]という控え目な、そして適切であるとわたしが考えている名前をつけていたが、それはこの書はただ日時計の指柱の役目をするだけだからである。《Index》『指針』をこの書の表題として選ぶべきであったかも知れないが、それではその語の普通の用法から、誤解[すなわち、内容の目録とか、内容の一覧表と誤解される]が生じることを恐れた。新約聖書の中の語や文章の充分な働きを端的に指摘もしくは指示して、そこに内在しているが、必ずしも容易に看取されない意味を指し示し、言わば本文の中の狭い道を分けて読者を案内し、できるだけ豊かな牧草にありつかせるのがこの書の目的である。Gnomon は道を正しく指し示す。読者が賢ければ、本文そのものがすべてを教える。

 

中 略

 

XXV

 非常に困難な箇所では充分言葉を尽くしたが、たいていの場合、簡潔を旨とした。特に聖書の物語の部分では事柄がおおむね平明であるから、──同じ文章や文句が出る場合、その説明は最初のところで行ない、毎回繰り返さないことにしているから、──多くの事をすでに他のところで述べており、ここで繰り返す必要がないから、──本文の区切り、つなぎ、句読点に関することは、本文そのもの、またはわたしの校訂文だけでわかるから、──各書の『構成分析』は各書の始めに載せた一覧表に明示されており、註の中で繰り返すことは容易でないから、──多くのことが修辞学用語の使用によって、圧縮できるから、註はなるべく短くした。そのためこの註解書は新約聖書全巻を対象にしているにも拘わらず、新約聖書のいずれか一書に対する他の註解書より、大きさも重量も小さくなった。いわゆる「生活への応用」を各章に付ける必要がないと、わたしは考えた。なぜなら、「真理の中の神の愛」に身を委ねる者は、「神の言葉」の意味が真に理解できれば、救いに役立つ一切のことが、労せずして、何ら他からの刺激を待たないで、実行できるからである。正しく読む者、すなわちすべてのことをよく吟味し、本文から逸脱せず、本文に忠実である者は、この書から聖書の全き意味に到達するための、とくにⅣで述べた事柄について、幾分の助けを得ることができると確信する。巻末の索引も無用ではあるまい。これ以上、この書の推薦も弁護もしないが、ただ読者にお願いする。もし読者がたまたま他の新約聖書全巻または一部の註解書を手にし、その上にわれわれのグノーモンは「余分」と思われるならば、たとえばマタイ.24章、使徒.13章、ヘブル.12章、1ペテ.3章または黙示.10章について両方を比較して判断を決めて欲しい。わたしはここで、フィリップ・ダビッド・バークのことを述べなければならない。彼は『黙示録講義』“Ordo Temporum"、『グノーモン』の原稿を清書し、明敏な手腕をもって文献を渉猟して、難問を解決し、多くの事を解明して、わたしを助けてくれたばかりでなく、多年にわたる日常の交わりによって、私の考えや感じを熟知しているので、私の亡き後、疑問をもたれる方はわたしの代わりに、イソブシコス「同魂」の彼に尋ねてよいほどである。[このすぐれた人物はベンゲルの著述グノーモンを 1769年に、“Apparatus Criticus" 1763年に、『ドイツ語訳新約聖書』を 1769年に、それぞれ注意深く、忠実に校正して刊行した。]

 

XXVI

 『ギリシヤ語新約聖書』大版(四つ折り判)の序文の中では、釈義的註は、言語の問題についてはラテン語で、実際的な事柄についてはドイツ語で、分割して書くほうが良かろうとわたしは書いた。しかしその後、両者が容易に分離できないことがわかったので、このグノーモンの中に、その両方を併せて載せた。従ってわたしが計画中のドイツ語の著作は余り急いで出版する必要がなくなった。というのはわたしはドイツ語註解書を出版して、その中に新約聖書全体にわたるもっと実際的な註解を含めることに決めていた。その企画が今後どう進行するか、その結末がどうなるか、完成までわたしが生きているか、それまでに眠るか、一切は神に委ねる。その他には、もう新しい大きな著述を始めるつもりはない。最近、長い著述の一生の後、蒙昧に追いつかれた人々の例を多く見た。わたしにいま残っているもの、生涯の友あるいはわたしの余力など、すべては負債であると考える。ダビデの言葉を借用する、「わたしがここから去り、いなくなるまで、しばらく、(病いから)恢復することを許したまえ」。[この“German Version"『ドイツ語訳新約聖書』は実際的註を付して、死後間もなく、1753年、ストゥットガルトから出版された。バークの周到な校訂による再版が1769年に出た。本書の中で.V.G.と記された註はこの German Version から取ったものである。]

 

XXVII

 聖書の雑多な悪用と言うよりか、むしろ不埓な侮辱が、今日その頂点に達した。しかもそれが不信仰な人々ばかりでなく、自分では賢く、霊的であると思っている人々の行なっていることである。神の子ご自身が悪魔と戦われたとき、その攻撃を撃退するのに用いられた武器、gegraptai 「書いてある」が非常に安っぽく見られ、聖書を「そのまま、それのみ」を糧とするものは卑屈者か、愚か者のように言われる。こうしてにせ預言者は彼らの門が開かれているのを見いだすであろう。善意の著者たちも競って実際的な信仰書、祈祷書、賛美歌、神学書、宗教物語を書く。それらは個別的には、きわめて有用であるかも知れないが、全体としては、多くの人々を、有用なこと一切を最も豊かに、混じりけなく結集している神の書、聖書から引き離す役割を果たしている。最善を選ぶ者は、モーセの時から使徒たちの時まで絶えず盛んに現われた啓示によって、神がわれわれに賜った「天の預かり物」を大事にして欲しい。最後に、もしこの拙著が新約聖書を活用して救いを全うする一助になると考える人があるならば、その人はこれを神の栄光のために、彼自身と他者の益のために、有用に用いて欲しい、──そしてわたしのために祝福を祈って欲しい。


 

訳者序文

 

 ヨハン・アルブレヒト・ベンゲルの新約聖書註解《グノーモン》は註解の王と言われ、1742年、発刊以来二世紀に亙って高い評価を受けているが、《グノーモン》は元来、ラテン語で書かれたものであって、学者には大いに珍重されたが、一般の手には容易に届かなかった。ジョン・ウエスレーがそのうち貴重な註を翻訳してイギリスの大衆に紹介し、多くの人々に深い感動を与えたが、彼の紹介は《グノーモン》の一部に過ぎなかった。その後、185758年に、エディンバラから T.T.クラーク・ライブラリ(5巻)として全訳が出た。訳者は J・バンディネル、AR・フォーセットなどであった。これは日本のキリスト教界にも紹介され、大いに貴ばれたが、ラテン語文の直訳が多く、理解に難渋するところが少なくなかった。内村鑑三氏がだれか翻訳する者はいないかと言っていたが、一部翻訳する者はいても、全訳はついに出なかった。1853年、シュツットガルトから出たヴェルナーによるドイツ語訳はクラーク版に比べ意訳が多いが、はるかに正確で、理解し易い。186061年にフィラデルフィヤから出た C.T.ルーイスと M.R.ヴィンセントによる英訳(2巻)はベンゲル没後百年間の聖書研究の結果を取り入れ、ベンゲルの解釈のうち疑問と思われる点については、当時著名の学者の説を引用してそれを注記している。

 少し長くなるが、その訳本に添えられた編集者ヴィンセントによる序文の一部を引用する。「ベンゲルの《グノーモン》は百五十年前に書かれたものであり、その後、本文批評にも釈義にも多くの研究の進歩があったので、ベンゲルの註解をそのまま読者の手に渡すことは安全でない。他方、《グノーモン》が 1742年の研究成果に合わせて書かれたように、1860年の研究成果に合わせて《グノーモン》を書き直して、今日のために再提出することは至難なことである。それができる者はデ・ヴェッテの本文批評の鋭さ、トリュックの博識、オルスハウゼンの識見、スティアーあるいはネアンダーの霊的洞察力を兼ね備えた者でなければならない。マイヤーは他のだれよりも、最後のものを除いてはこれらのすべてを兼備しているが、その最後のものの欠落が痛ましいほど顕著である。彼は偉大であり、一作ごとにますます成長していく。しかし彼の註解書が全体として、ある部分は特に、これまで書かれた註解書中、最も学問的なものでありながら、『自らが御言に深く沈み、御言が自らのうちに深く沈む」ことを求める学徒は、なお古い《グノーモン》の方を選ぶであろう。しかし、ベンゲルの編集者に一つの道が残されている。それはベンゲルのテキストをそのまま翻訳し、現在の学界から異議がある箇所には、読者の誤解を防ぐために、適宜、他の著者の見解を注記することである」。 

 ルーイス=ヴィンセント版に多く引用されている著者と書名は後に列記するが、そのうち最も多く引用されているのが、ハインリッヒ・AW・マイヤーの “Kritisch exegetischer Kommentar über das Neue Testament" である。マイヤーのコンメンタールは今日でも最高権威を失っていないから、その段階までの修正で一応、用を達していると言えよう。

 この邦訳は以上のような修正を加えたルーイス=ヴィンセント版を底本としたが、訳文はクラーク版の英訳、およびヴェルナーのドイツ語訳と照合して、三者のうち最も正しいものと思われるものによった。ラテン語原本を見ることができなかったので、ラテン文と照合することができなかったのは遺憾である。もし後の学徒がそれをして下されば、望外のさいわいである。  ルーイス=ヴィンセント訳は Kregel Reprint Library では、《New Testament Word Studies》 という表題になっているが、この翻訳書ではやはり《グノーモン》という表題を残した。ベンゲルは二十七年間、神学生にギリシヤ語新約聖書を講解し、そのために聖書の各書について詳細な講義メモを作成した。その数が増えるにつれて、それを集録し始めた。ある尊敬すべき聖職者(ローチの監督クリストファー・ツェラー)の勧めによって、それに仕上げの手を入れたが、それを公刊するのにはなお十数年の年月を要した。彼は早くから、この註解ノートに《グノーモン》[すなわち《指針》、元来は日時計の《指柱》]という控え目な、そして彼がきわめて適当と考えていた名前をつけていた。というのは彼の註解は単に日時計の《指柱》の役目をするだけで、聖書の中の語や文章の十分な働きを端的に指摘し、聖書の言葉に内在している隠れた意味を指し示し、できる限り聖書そのものによって、聖書を理解させるのが彼の註解の目指すところであったからである。聖書そのものによって聖書を吟味し、解明し、理解するのが彼の聖書研究の基本的態度であった。(従って、彼が示している参照聖句は必ずそこを開いて読むことをお勧めする。)

 ベンゲルは長い間の本文批評の結果発表した「ギリシヤ語聖書」の序文の中に、聖書を正しく読む貴重な鍵を示した。ベンゲルの聖書に対する基本的態度を如実に表しているから、付記しておく。“Te totum applica ad Textum; Rem totam applica ad te". 「なんじのすべてをテキストに当て嵌め、書いてあることのすべてをなんじに当て嵌めよ」。

坪井 正之


 

引用されている主要文献

 

  Alford, Henry;The Greek Testament; with a critically revised Text," etc. Vol..,3d ed., 1857.  Vol..,2nd ed., 1857.  Vol..,part ., 1859.  Vol.., part ., 1861.

 

  Calvin, John;In Novum Testamentum Commentarii," etc., Vol,., .,and .  Berlin, 1834.

 

  De Wette, Dr. W.M.L.;Kurzgefasstes exegetisches Handbuch," etc.Leipzic.  Romans, 4th ed., 1847.  Corinthians, 3d ed., 1855.  Galatians, etc., 2nd ed., 1845.  Colossians, etc., 2nd ed., 1847.  Titus, etc., 2nd ed. 1847.  Peter, etc., 2nd ed., 1853.   Revelation, 2nd ed., 1854.

 

  Lücke, Dr. F.; Commentar über die Bliefe des Evangelisten Johannes," 2nd ed.,  Bonn, 1836.  Versuch einer vollständigen Einleitung in die Offenbarung Johannis. etc.,  Bonn, 1832.

 

  Lünemann, Geo.Conr.Gottl.;Thessalonians, Göttingen, 1850. Hebrews, 1855.

 

  Meyer, Dr. Heinrich A. W.; Kritisch exegetischer Kommentar über das Neue Testament."  Göttingen,  Romans, 3d ed., 1859.  1st Corinthians, 3d ed., 1856.  2nd Corinthians, 3d ed., 1956.  Galatians, 3d ed., 1857.  Ephesians, 2nd ed., 1853.  Phillipians,etc., 2nd ed., 1859. (Continued)

 

  Tregelles, Samuel Prideaux; The Book of Revelation in Greek, edited from ancient authorities, withh a new English Version and various readings."  London, 1844. 

 


 

ベンゲルの生涯と著作

 

 ヨハン・アルブレヒト・ベンゲルは 1687624日、ヴュルテンベルヒのヴィンネンデンで生れたが、ひ弱で、いまにも死にそうであったので、自宅で急いで洗礼を施された。その町の教区副牧師であった父のアルブレヒト・ベンゲルが彼の最初の教師であった。彼は後年、父の『気楽で楽しい教え方』のことを、感謝しながら語っている。この親が 1693年に死んだので、DW・シュピンドラーが第二の父の役を引き受け、シュトゥットガルトの高等学校の教師として、セバスチャン・クニアーと共に、この少年の初等教育を終了した。ルイ十四世時代、フランス軍によるシュヴァーベン進攻のために、父の蔵書を失ったが、このことさえ彼は後年、神の配剤によって、雑多な書籍濫読の誘惑を免れたと言って感謝した。十三才で上級学校に進学した。そこでホッホシュテッター、エルカードその他に学び、種々な課目で、かなり優秀な成績を示した。母親が 1703年、マウルブロン神学校の事務長グルックラーと再婚したが、べンゲルがチュービンゲン大学の神学部で学ぶことができたのはこの有能な人物のお陰であった。ここでいろいろな教科を学び、特殊研究としてはアリストテレスとスピノザを選んだ。後者の研究ではかなりの進歩があったので、エーガー教授がその後出版した論文 ”De Spinocismo " の資料整理を彼に一任したほどであった。同教授が編集した教会史のための準備研究にも携わった。そのころエーガーの著述に関与したことから、それらの著作の編成と表現の明快さを学んだ。当時形而上学と数学に熱中したことも、聖書の言語を分析するための頭脳訓練に役立った。ホッホシュテッター教授が大学時代とそれに続く時期にベンゲルを助けたもう一人の人物であった。後者が M.A.に前者が D.D.になるとき、ホッホシュテッターの最終討論『贖いの値について』を答弁者として弁護したのはべンゲルであった。彼はその後ホッホシュテッタ-と共に、出来る限りルター訳を変えないでヘブル語に忠実な『ドイツ語聖書』新版の改訂作業に従事した。これはその後の新約聖書本文批評の有益な準備になった。またそれはヘブル語アクセントについての論文を書く機縁にもなった。その中で、すべての預言書のアクセント間には一般的な統一はあるけれども、各書によつて独自なアクセントがあり、そのためヘブル語アクセントは聖書の理解のために、テキストと同等とはいかないまでも、極めて重要であることを証明しようとした。

 大学卒業後、1706年、聖職叙任を受けるとすぐ、ホツホシュテッターの下で、チュービンゲンの市教会の副牧師になった。つぎにメツチンゲン・ウンテン・ユーラツハの教区副牧師になった。回想録の中でこう言っている、「メッチンゲンの副牧師として着任して半か月で思い知らされたことは、若い牧師がこのような仕事をこなすには、なんとさまざまな資格が必要かということであった。大学で考えていたこととなんと違うことか」!

 一年たたないうちに、チュービンゲンの神学部助手の仕事に呼び返された。これは彼にとって無益ではなかった。彼は言っている、「しばらく外に出て、人々の間で過ごして、民衆の味、gustum plebeium et popularem を知ったのち、またしばらく大学に帰って、第二の神学教育を受けることは有益である。こうして再度出ていけば、経験に支えられたりっぱな仕事ができるであろう」。

 1711年から 1713年まで、シュトゥットガルトの副牧師として働いた。彼がラテン語論文、『神の聖について』を書いたのはこの時期であったが、その中で、聖書の平行記事をひいて、神の属性はすべて、ヘブル語“カードーシュ”『聖』の中に含まれており、事実、神の聖は神のすべての最高の卓越性を包含していることを示した。

 1713年には、新しく政府がデンケンドルフに開設した神学校の主席指導教官に栄転した。この職に就く前に許された官費による視察旅行は、将来の仕事のために、大いに役立った。ハイデルベルヒで、ゲルハルト・メストリヒトの『原典批評』を知ったが、それについては『グノーモン』の序文で批評している。ハルレではランゲを識り、彼によってヴィトリンガの ”Anacricis ad Apocalypsin" に注目させられたが、この書はシュペーナーの弟子であつたランゲとの対話と共に、彼をのちに黙示録註解に現われる思想に導いた。

 ベンゲルは非常に幼い時から、霊性の目覚めを感じていた。彼が生れた町の教会の壁に書かれていた罪、義、十字架等についての聖句が彼の心に「大きな喜びと平安の感動を呼び起こし、それがのちのちまでも良い印象を残した」と、彼自身語っている。内にある神の霊の働きが外から与えられた敬虔な両親の宗教的薫陶によって、順調に育った。少年時代の愛読書はアールントの『真のキリスト教』、ストーンの『黄金の宝』、ゲルハルトの『聖想』(ラテン語)、フランケとシャーデの『聖書入門』であった。彼が告白しているように、時として若者の軽薄な戯れと無縁ではなかつたが、恵みによって天父からの大きな逸脱は免れることができた。たいていの真摯な思想家のように、彼もまた知性を揺るがす懐疑を経験したこともあったが、それはかえって素朴な祈りによって、彼をますます神に近づける結果になった。彼が初めて主の晩餐式にあずかったときには、非常に大きな心の平安を感じ、「世を避けてキリストと共に生きる心からなる願い」を覚えた。懐疑の経験は彼に、疑う者をすげなく拒否する代わりに、同情をもって受け入れる包容力を与えた。「回心は容易に異端に通ずる」という彼の言葉は逆説的であるが、注目に値する。回心していない者は問題に全く無関心なのだから、何の困難も見いださない。しかし価高い真珠を見いだした者は、その宝を細心の注意をもって検べる。真理には戦いなしに到達し得べくもないから、「すべてを検証する」過程において、前には思いもよらなかった疑いが生じる。しかし苦闘と祈りがついに勝利する。信仰は育ち初めのとき、暴風に揺さぶられて初めて固く根づく。

 オクスフォード版ギリシヤ語聖書の中に見いだしたさまざまな異文が最初、疑惑の種になったが、祈りの結果それが克服され、かえってそれが『神の言葉』を一つ一つ丹念に考慮する有益な契機となったと考えるようになった。その後、弟子のロイスに手紙を書いて、「多くの転記者がおり、その一人ひとりが誤り易い人間であることを考えると、聖書が考えられるさまざまな欠損を免れて、今日のすがたで残っていることは非常な奇跡です。わたしはただただ今日見られる程度以上に異文が多くないこと、そしてその異文のどれ一つとして、いささかも我々の信仰の根底を揺るがすものでないことを不思議に思うだけです」と告げている。

 彼の霊的生活はチュービンゲンのキリスト者学生の間に結成されていた信仰団体に参加することによってもますます豊かになった。 1705年に重病のために死に瀕したが、その病気のさなかに、詩.118:17、「私は死ぬことなく、生きながらえて、主のみわざを物語るであろう」という不思議な確信を経験した。この試練の結果、神の助けにより、「この許された新しい地上の生をことごとく神の奉仕にささげよう」と決心した。ドイツ国内の所々を旅行して廻り、種々様々な意見の信仰者に触れたことは彼の宗教的性格に、冷い形式主義にも、党派的な狂信主義にも偏しない精神的正統性を植えつけた。  デンケンドルフの神学校の開校式のとき、ホッホシュテッターが校長として、ツェラーが教頭として、ベンゲルが主席指導教員として、就任演説をした。ベンゲルが行なったラテン語演説の題目は『真の学問に到達する最も確実な方法としての敬虔のたゆまざる追求』で、健全な学問のための三大要件は天分と教育と努力であるというアリストテレスの見解を取り入れ、さらに進んで熱心な敬虔がこの三要件のいのちであり、たましいであることを示した。彼は学生達のために、”Denkendorf Dic cur hic " 『なぜこれかを言え』という学習計画を作成したが、その中で、「万事」において我々の行動の動機となるべき「一事」、すなわち神の栄光と良心と公益を終始念頭に置き、教育の目的は学生を「教える」というよりはむしろ「形成する」ことであると述べている。彼は学生達を最高の目的にむかって訓練する一方、彼らの敬愛を得ることにも成功したので、彼らの多くは終生、彼との通信を絶やさなかった。その中には、後の大学総長J.F.ロイス、後のムールハルト監督C.F.エーティンガーなどがある。二十六才から五十四才まで、指導教員として熱心な勤務を続けた。 1741424日、ヘルブレヒティンゲン監督への栄転のため、二十八年前の就任時と同じように、『青年の学習に及ぼす敬虔の影響』というラテン語による告別演説で、その任務を終了した。

 説教者としてもベンゲルは練達の域に達していた。彼の標語は「多く考え、少なく書け」であった。しかし死に至るまで、あらゆる説教の骨子を書きしるした。「使徒たちが『何を言おうかと、前もって心配するな』と告げられたのは非常の時であって、普通の時ではなかった」と言い、「恩寵は自然の手段が尽きたところから始まる」を自明の理とした。説教のしめくくりについては特に苦心した。というのは好きなときに好きなようにしめくくれる説教者は説教全体を楽に行なうことが出来るというのが彼の考えであったからである。美辞麗句や人気取りは罪であり、奇をてらう下卑たことわざは厭わしいものと考えた。彼は終始、聖書が命じる謹厳 (セムノテース)を保つことを望んだ。彼は若い牧師にこう忠告した、「前の説教が終わったら、すぐあなたの霊が熱く内に燃えている間に、つぎの説教に取り掛かりなさい」。牧師の霊的適格性については、こう言つている、「牧師を志願する者は霊的誕生証明書が提出できなければならない。なぜなら、回心していない牧師は祈りの人でないので、片翼の鳥と同様、飛ぶことができないからである」。ベンゲルは正式な聖職叙任、正式な教会組織の必要性を十分信じていた。しかし教会からの脱退分離が教会の堕落に対する神の叱責である場合もあると考えていた。 晩年、自ら決して求めなかった栄誉がベンゲルに加わった。ヘルブレヒティンゲン監督への就任は学生や学者たちと常時、接触する労苦と多忙の生活から、比較的閑暇で静かな生活への変化をもたらした。そのころ、彼の著作はほとんど完了しており、グノーモンは彼が新しい任務に就任した日に出版許可を受けていた。しかし彼は間もなく、新しい環境でも、新しい活動の分野を見つけた。デンケンドルフでしていたように定期的な研究会を始め、四福音書、続いて黙示録の講解を行なった。有名な『黙示録実践的講義六十講』は受講者たちが記録した後者の講義ノートに彼自身が手を加えたものである。 1749年、宗教会議議長兼アルピルスバッハ監督に任命されたので、ヘルブレヒティンゲンを去って、シュトゥットガルトに住まなければならなくなった。以後、全教会の総務を指揮するのが彼の正式な仕事になった。しかし、この昇進も彼の考え方を世俗的にはしなかった。三年前、1746年に、彼は「私はこの生活に少し辟易している。おお、もし真実なる神がただこの感じと共に完全な棄我の精神を与えて下されば、万事は良くなるであろう。しかし多分私は間もなく成熟するであろう」と言っていた。そしてこの昇進の年、1746年にはこう書いた、「歳をとって永遠の門に近づけば近づくほど、ますます外面的なことから離れ、中心的なことに向かいたい。私にとっては神の前に立つほうが学問の世界のすべて以上に望ましい」。

 最後の病気は六十六才のとき、1752624日に始まった。彼のたましいは静かに安らかに黙々として、神に憩うていた。死の前日、近親者、子、孫、女婿たち十二人と共に主の晩餐にあずかった。一同が集まったとき、いつもはほとんど口をきかなかったベンゲルが、一同が驚いたことには、詳細な信仰告白をし、それにざんげと祈祷が続き、その間、三十分であった。その場にいたものはみな深く感動し、ベンゲルの言葉が終わると熱心なアーメンを繰り返した。それから、“ O Jesu Christ, mein schönstes Licht"で始まる賛美歌(現行賛美歌342番)を歌った。その後は、「恵みに貯め置きはない。それは必要なつど、願って与えられるものだ。貯め置きがあると思っている者には、神はしばしば窮乏を与えられる。しかし神はそれによって害を加えようとなさっているのではない」と言ったほかは、また以前のような沈黙に帰った。臨終のときは枕もとで、「主イエスよ。あなたに生き、あなたに苦しみ、あなたに死にます。死ぬるも生きるも、私はあなたのものです。私を救い、私を祝福して下さい。おお救主よ。 永遠に。アーメン」という言葉が唱えられた。『わたしはあなたのものです』という言葉を聞いたとき、それに同意を示すために、ベンゲルは右手を胸に当てた。こうして 1752112日、木曜日に、彼はイエスのもとに眠った。

 「ベンゲルは信仰を誇示する死に方はしたくなかった。そういうわけで、死ぬるときも、いつものように校正刷りの校正をしていた。かれが自分について言っていたことは『しばらくは忘れられるが、のちになって思い出されるような人でありたい』ということであった」と、エーティンガーが言っている。葬儀の説教はタフィンガーが、ヘブ.7:24,25,「彼は、永遠にいますかたであるので、変わらない祭司の務めを持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていてかれらのためにとりなしをしておられるので、彼によって神に来る人びとを、いつも救うことができるのである」によって行なった。このテキストが選ばれたのは、ベンゲルが死の床で、「私が立っている信仰の土台は、聖霊の力によって永遠の大祭司としてのイエスを信頼し、彼によってすべてを豊かに与えられるということです」と語っていたからであった。

 著述家としてのベンゲルの作品は数多く、その中には古典作家の校訂本の他に、約三十種の自著がある。しかし彼は「新しい書物の出版については、きわめて慎重でなければならない。なぜなら、いかなる書物も読者の知識を増し、少しでも人々の向上に寄与するものでなければならないから」というのを原則としていた。彼は著しい簡約化の能力を持っていたが、それは決して彼の時代、彼の国の著述家たちに普通の特徴ではなかった。

 最初の比較的大きな出版はキケロの書簡“ Ad Familiares "Stuttgart,1719)であった。細部にわたって良心的な注意を払い、そこからきわめて重大な釈義的結論を引き出すのが、宗教的文献と同様、古典に対する彼の手法の特徴であった。巻末に後書きを添え、この書を研究する効用と正しい使用法を述べているが、その中で、過度の哲学熱中が信仰に及ぼす危険について警告している。オビディウスの『トゥリスティアとペリシウス』を刊行するための材料を準備していたが、よりふさわしい仕事に取り掛かるために、その出版を断念した。 1717年、古典研究に従事している最中に、「死んだ異教徒の中では、私の霊性がしばしば退潮するのを覚える」と告白した。

 つぎの仕事は 1722年、学生達に使用させるためのグレゴリーの『オリゲネス称賛』(ギリシヤ語およびラテン語)の出版であった。彼がこれを選んだ理由は、探求好きの若者が異教的な哲学では満足が得られず、結局、キリスト教の不易の真理に避け所を求めざるを得ないことを、グレゴリーがこの書で、自分を手本として示しているからであった。

 1725年には、彼の校訂による“Chrysostom : De Sacerdotio"『聖職について』(キリシヤ語およびラテン語)をシュトゥットガルトから出版し、この書がクリソストムの筆になる最良の書であると断言した。彼はこれに、Prodromus Novi Testamenti Graeci rectè cautèque adornandi、すなわち、ギリシヤ語新約聖書新校訂版の見本を添えた。その他、《マカリウス註解》、《 Ephrem Syrus註釈》を書いた。

 ベンゲルはさきに述べたように、学生時代からすでに新約聖書の異文に深い関心を寄せていた。ジョン・ミル(16451707,イギリスの聖書学者)のギリシヤ語新約聖書(Robert Stephanusのギリシヤ語本文をそのまま用いたが、各ページの下欄に多くの異文を載せた)刊行までは、信者たちは信仰の本質的真理が脅かされるほど、聖書の文字が崩れることを神が許されるはずがないという公理で満足していなければならなかった。ベンゲルはいまその公理を確かな根拠のうえに据え、今後、信者はそのことを信じるばかりでなく、論理にもとずいて確認できるようにしようと思った。多くの版本と写本(ラテン本を含め、全部で 24種)と訳本を照合した後、1734年に彼の『ギリシヤ語新約聖書』を始め四つ折り判で、ついで八つ折り判で出版した。その上、前者と同時に“Apparatus Criticus"『原典批評比較資料』を公けにした。その中で、真の原典批評の原則を明らかにし、彼の用いた出典の価値を論じた後、多種多様な異文を整理して列挙した。彼のギリシヤ語聖書本文の中には、テキストが比較的乱れている黙示録の数箇所を除いては、現存の版本にない異文は一切入れなかった。しかし欄外には従来、写本に限定されていた異文も収録した。検討の結果、従来の版本にない異文はたいして重要でなく、それを本文に取り入れれば、徒らに弱いものをつまずかせる結果に終わると信じていたからである。かれの原典批評の基準の主たるものは、“Proclivi lectioni praestat ardua." 「難文が易文に優先する」であつた。というのは、転記者や改ざん者が難解な正文を理解し易い読み方に書き換える方が、その反対より明らかに多いという理由によった。八つ折り判『ギリシヤ語新約聖書』の序文の中で、聖書を正しく読むための貴重な鍵を示した。“Te totum applica ad Textum; Rem totam applica ad te." 「なんじのすべてをテキストに当て嵌め、記事のすべてをなんじに当て嵌めよ」。“Apparatus Criticus"の中で、正しい本文について特に詳論している箇所には、マタ.6:13,ヨハ.1:1,8:111,1テモ.3:16,1ヨハ.5:7 がある。最後に同書の中に、新約聖書中、最も異文の影響の多い黙示録(黙示録を含む写本は比較的少ないにも拘らず)の序説が収められている。なお、ベンゲルの努力によって黙示録を含む数個の写本が世に出た。 

 彼のこのような原典批評の業績は多くの人々から温かく迎えられたが、プロテスタントの中にも、カソリックの中にも、彼を危険な改革者として、攻撃するものもいた。

反対者の中で、最も著しいものは、“Early Gathered Fruits"と称する刊行物(その第4号が 1738年に出ている)の筆者たちであった。ベンゲルを「前代未聞の不敵者」として非難する論文を書いたのは、恐らくJ.G.Hagerであった。ヴェットシュタインが書いたと言われるアムステルダムの Bibliotheque Raisonnée 所載の一論文は逆の側から異議を唱えた。すなわち、「ベンゲルは不徹底である。かって印刷されたことがなくても、最良の写本に支持されている読み方を欄外でなく、むしろ本文に入れなかったのは臆病に過ぎる。我々の原典批評資料使用の権利は疑問の余地がない。これまでの刊行者はどんなに慎重に振る舞っても迫害を免れなかった。エラスムスはアリウス主義の悪評を取ったし、ロバート・ステファヌスは火刑を免れるために、ジュネーブに逃げねばならなかった。ベンゲル自身も黙示録刊行のためには、お気にいりの慎重さを放棄せねばならなかった。それゆえ、彼が最良と思う読み方なら、何であれ、刊本からでも、写本からでも、本文の中に取り入れるべきであった」と論じた。しかし、筆者は最後に「ベンゲルが校訂したギリシヤ語新約聖書はこれまで刊行されたうちで、最良のものである」と述べて、その論文を結んでいる。

 ベンゲルはこれに答えて、《『ギリシヤ語新約聖書』の弁護》を書いて、1734年、チュービンゲンから出版した。これは 1736年出版の『四福音書の調和』の中に収録されているが、上記の論文に対する答えのほかに、きわめて重要なことを言っている。すなわち、本文の正しさは典拠となる写本の数によって決まるとする考え方(ヴェットシュタインの)は不健全であると記している。写本の権威を確かめるためには、その出所を考えねばならない。一つの正しい出所は百の不確実な典拠にまさると言っている。

 ベンゲルは“Early Gathered Fruits"に対しても、“New Literary Notices from Tübingen"という定期刊行物を通じて、応答した。反対者たちが最もきびしく批判した黙示録テキストに対する彼の本文修正については、従来のエラスムス版ギリシヤ語聖書の黙示録の文尾はエラスムスが出版を急いだ余り、ウルガタ(ラテン語)聖書からギリシヤ語に復訳して原典本文に代えた事実を指摘して、自分の修正が止むを得なかったことを示した。彼のギリシヤ語聖書が不信心のものに武器を提供したという非難については、反対に、もし適切な校訂をしなかったら、かえって聖なるテキストを徒らにあらゆる不遜な論議にさらすことになると告げた。すなわち、不信心なものたちも種々様々な異文があることを知らないはずはないから、彼の校訂によって、彼らが反対すべきものが増えるのではなく、減ったのだと答えた。さらに一方の側からは不必要な慎重さを非難され、他の側からは無謀を咎められているのであるから、自分は中道、それゆえ正道を歩んでいることが明らかであると告げた。

 T.A.Berghauerをかしらとするローマ陣営も Bibliomachia と称する刊行物の中で、ベンゲルを攻撃したが、その中で筆者は「聖書で増長慢を燃え立たせた異端者どもは強い腕とカソリック教会の霊俗のつるぎによって罰されねばならない」とおどした。ベンゲルは『黙示録実践的講義六十講』の中で、それに答えて、自分はクシメネス枢機卿を始め、コンプルテンション聖書の編集者たちがレオ十世法王の許可を得て行なったことをしただけである、すなわちきわめて健全で穏当と思われる本文批評をしただけであると、穏やかに述べ、筆者たちがそのパンフレットを“Bibliomachia"『聖書の戦い』と名づけたのはもつともである、なぜなら、それはカソリックならびにブロテスタントの全聖書中の神の言葉に対する挑戦であるからと、書いた。さらにこのような迫害の脅迫は黙示録の中の多くの預言がいままさに成就しようとしていることを物語っているから、「我々は聖徒の忍耐と信仰をもって、身を護らねばならない。平和の子たちは争いを愛することができないから、真理のためであっても、争わねばならないことは苦痛である」と書いた。

 J.L.Hug はその『新約聖書概論』の中で、ベンゲルは写本を一般的な特徴とその中の特殊的な異文の類似によって、分類した最初の人であると言っている。彼は写本をアフリカ型とアジヤ型の二大分類に分けたが、彼のこのような研究結果は現代の原典批評の波を引き起こした。たとえ彼自身の校訂本が忘れられても、この波は今後も続くであろう。

 1742年に、J.Gambold がベンゲルのギリシヤ語聖書をオクスフォードから出版し、1745年にはベンゲルのテキストがデンマーク欽定訳聖書改訳の原本となった。“Apparatus Criticus"『原典批評比較資料』の再版が P.D.Burk によって、1763年に発行されたが、その中には、原著者のその後の校訂と、J.L.Mosheim によつて提供された新しい黙示録写本との校合結果が含まれている。

 ベンゲルは前記の“Chrysostom: de Sacerdotio" の中で、新約聖書本文の校訂のあと、それに対する註解書を発表すると予告していた。デンケンドルフの講義でこの著作の準備は充分整っていた。この註解書が“Gnomon Novi Testamenti"という表題で、1742年、チュービンゲンから四つ折り判で出版された(新版が 1759年と 1778年、 Steudel編集版が 1835年、出版された)。この表題はこの書が「聖書という羅針盤の中にあるものを指し示す“Gnomon”『指針』であって、聖書そのものが最善で最安全な註解書である」こと、すなわちこの書は読者のために テキストの徹底的註釈をするのではなく、テキストの正しい理解のヒントを提供しようとするものであることを端的に示している。表題がすでに、神の言葉の『簡明性』、その計り知れない『深さ』、その妙なる『調和』、あらゆる実践への『適用性』を高揚しようとする彼の意図を表わしている。彼はこの仕事のためにしばしば祈った。 1742328日、チュービンゲンの出版社から、完成した『グノーモン』が彼のもとに届けられたとき、その晩、彼はつぎの有名な賛美歌を歌った。
      我らのうちに、いと善きわざを起こし、

         我を助けて遂げさせたまいし主よ。

       我がこころに感謝を満たし、

         きよき大み名あがめさせたたまえ。

       今よりのちも主のために生き、

         み恵みをいよよたたえさせたまえ。

 ベンゲルは 1706年にはすでに、Hedingerのギリシヤ語聖書に註釈を付ける仕事を始めていた。 1713年以来、学生たちと共に、二年ごとにギリシヤ語聖書全巻を通読していたが、1722年、ついに註解書公刊を決意し、それを二年間で完成した。しかし公けにするまでなお十八年間、手もとに留めていた。『ドイツ語訳新約聖書』も同様であった。 174112月、グノーモンの序文を書き終えるまでは、『ドイツ語訳』に取り掛かることができなかった。『ドイツ語訳』の序文は彼の死のほんの数日前に書かれた。グノーモンの刊行が遅れた理由は、最も求められているのは正しい本文の校訂であって、従って“Apparatus Criticus"の公刊が先きであると考えていたからであ。『ドイツ語新訳聖書』が遅れた理由は新しい母国語訳の出版に対する一般の強い偏見に逆らいたくないという考えのためであった。ルーテル訳が概して正しかつたので、この偏見はきわめて強かった。彼自身よりもっと適当な誰かがこの仕事をすることを望んだが、それに当たるものが他にいない上に、ルーテル訳には聖書本文に多くの誤りがあるという彼の信念が固かったので、ついに『ドイツ語訳』公刊が自分の義務であると考えるにいたった。

 『グノーモン』の第二版は 1759年、彼の女婿でキルヒハイムの副監督であった P.D.バークの改訂によって出版された。第二版には、ベンゲルが書き残した未発表のノートから取られた多数の註解と本文批評補遺が含まれている。 1773年の第三版では、彼の次男のエルンスト・ベンゲルがその補遺のうち、註解部分はそのまま残し、本文批評の部分は“Apparatus Criticus" 第三版に移した。

 ベンゲルが最初、公けにした聖書釈義は種々の神学雑誌に載せられた黙示録に関するそれであった。続いて 1736年に『福音書の調和』、1740年に『ヨハネ黙示録釈義』、1741年に『時の秩序』、1742年に『グノーモン』、1745年に“Cyclus"1746年に『世界の時』、1747年に『黙示録実践的講義六十講』、1748年に『真理のあかし』、1753年にシュトゥットガルトから『ドイツ語新約聖書』、1755年に『聖書の擁護』が出た。『兄弟団の概要』は 1751年、ストゥットガルトから出版された。 比較的小さい著作には、『フラキウスの生涯』のための寄稿、S.Urlspergerの『病人のための教訓』に寄せた賛美歌、Berlenburg Bibleの註の一部、『グメリン』の註、『キリストの弟子たちに対する話し方』がある。

 [『時の秩序』と『世界の時』は聖書の歴史的ならびに預言的『時』の研究で、聖書のさまざまな『時』を整理分析して秩序づけ、キリスト来臨の時を示そうとした。ベンゲルはキリストの日は近いと信じ、その日を 1837年と指定した。そのため、この二書がベンゲルの名に嘲笑を招く因となったが、当時の聖書研究はまだ幼児期にあったことが記憶されねばならない。『黙示録釈義』も預言について同様の誤りを犯しているところがかなりあるが、それにもかかわらず、聖書の精神とその内奥の意味に対するベンゲルの深い洞察には、聖書知識が豊富になった今日の註解者が遥かに及ばないものがある。]

 ベンゲルには十二人の子がいたが、その半数は幼児期に死んだ。彼の娘、ソフィヤ・エリザベスは後のヴェルテンベルヒ公の侍医ロイス博士と結婚、ジョアンナ・ロジナはフランシス一世皇帝の顧問官 C.G.ウイリアーツと結婚、マリア・バーバラは後のキルヒハイム副監督 P.D.バークと結婚、カタリーヌ・マルガレートは後のゲッピンゲン副監督 E.F.ヘルヴァークと結婚した。長男ヴィクトルは医学生であったが、父の死後七年で死んだ。次男エルンストはチュービンゲン副監督になった。


 

 

 新約聖書指針

 

 

 厳密な意味で新しい契約と呼ばれるものをしるした聖文書の集大成を、新約聖書と呼ぶ。厳密な意味で新しい契約とは何かについては、マタ.26:28註を参照されたい。この聖文書集は二部に分けられる。その一は福音記者たちと使徒たちの文書であり、他はイエス・キリストの黙示の書である。前者はまず、イエス・キリストが肉のかたちをとって来られてから、昇天されるまでのわれらの主の歴史を示し、つぎに主の昇天後、使徒たちによって形成された教会の外的ならびに内的歴史をしるしている。後者すなわち、黙示録はそれとは別に、キリスト、教会、世界について、究極の完成に至るまでの未来史を示している。要するに、新約聖書には福音書と使徒たちの行伝と手紙、ならびに黙示録が含まれている。これら三様の文書が相依り相助けて、それぞれの完全を証明している。それぞれがいつごろ書かれたかについては、 “Ordo Temporum”「時の秩序」で述べた。