黒崎幸吉著 旧約聖書略註 Web版 詩篇





詩篇 第42篇

関根訳 待ち望み
文語訳 伶長(うたのかみ)にうたはしめたるコラの()のをしへの(うた)
口語訳 聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子のマスキールの歌
関根訳42篇1節 聖歌隊の指揮者に、コラの子のマスキールの歌。
新共同42篇1節 【指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。】

第42篇が第43篇と共に一つの詩を形成していることはその詩形、思想等の同一なる点および第43篇に表題を欠く点、および5、11と同一の折返しが43:5にも存する点等より疑問の余地がない。ただし(1)一つの詩が後日何らかの目的(例えば礼拝用等のため)に分離したものか、(2)または同一の作者が異る時に作り足したものか、(3)または異る作者が後に追加したものかにつき諸説あり、作者は「ヨルダンの地ヘルモンの辺」に異教徒の中にありとのこと故エルサレムより遠く離れている地方に住めるコラの一族ならん、作詩の時代につき明かにすべき材料は詩そのものには存在しない。作者につきても不明であり種々の想像説あるにすぎない。それにもかかわらずその内容は極めて敬虔にしてエルサレムなるエホバの宮をしたう心に溢れている。この二篇はこれを三つに分つことができる(42:1−5。6−11。43:1−5)。



42篇1節ああ(かみ)よ、渇したる*しかの激しき渇望を以て*渓水(たにがは)をしたひ(あへ)ぐがごとくわが霊魂(たましひ)なんぢを離れて淋しさにたえずして切になんぢをしたひあへぐなり。

文語訳 42篇1節 あゝ(かみ)よ しかの溪水(たにがは)をしたひ(あへ)ぐがごとく わが靈魂(たましひ)もなんぢをしたひあへぐなり
口語訳 42篇1節 神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。
関根訳 42篇2節 鹿が乾いた河床に向かってあえぐようにヤヴェよ、わが魂もあなたに向かってあえぐ。
新共同 42篇2節 涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。


補註
「しか」はここには女性として用いている。「渓川」は「水流」。


42篇2節わがたましひは(かわ)けるときに狂わんばかりの強き渇望を以て水を求むるごとくに(かみ)をしたふ、しかもそれは偶像のごとく死ねる神にあらず、今も生命の泉の源として我らの渇を醫し給う()ける(かみ)をぞしたふ、然るに我今妨げありてエルサレムに上ること能わず(いづ)れのときにか(われ)エルサレムの宮に*ゆきて*(かみ)のみまへにいでん。その時のみぞひたすらに待たるる。

文語訳 42篇2節 わがたましひは(かわ)けるごとくに(かみ)をしたふ 活神(いけるかみ)をぞしたふ (いづ)れのときにか(われ)ゆきて(かみ)のみまへにいでん
口語訳 42篇2節 わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか。
関根訳 42篇3節 わが魂はヤヴェに向かい生ける神に向かってうえかわいている。いつわたしは行って、ヤヴェのみ顔を見うるのであろう。
新共同 42篇3節 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか。


補註
「神のみまへに出でん」は母音符を少しく変更すれば「神の御面を見ん」となる。目のあたり神を見るものは死ぬることの信仰の影響下に、読み方を変えたものであろう。「ゆきて」は三つの節会(出エジプト23:17)にエルサレムに上ることに用いる通用文字。


42篇3節かれら神を知らざる異邦人ら終日(ひねもす)われにむかひてエホバの神を嘲弄し*なんぢの(かみ)はいづくにありや全く汝を救わざるにあらずや』とののしる(あひだ)われ悲しみにたえず食事すら口に入らずただわが*(なみだ)のみ晝夜(よるひる)《の》【そそぎてわが】(かて)なりき。

文語訳 42篇3節 かれらが終日(ひねもす)われにむかひて なんぢの(かみ)はいづくにありやとのゝしる(あひだ)はたゞわが(なみだ)のみ晝夜(よるひる)そゝぎてわが(かて)なりき
口語訳 42篇3節 人々がひねもすわたしにむかって「おまえの神はどこにいるのか」と言いつづける間はわたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。
関根訳 42篇4節 彼らが一日中わたしに向かって「お前の神はどこにいる」と言いつづける間涙は昼も夜もわたしの糧であった。
新共同 42篇4節 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う 「お前の神はどこにいる」と。


補註
「汝の神は何處にありや」はユダヤ人にとりて堪え難き侮辱と感じられた(79:10。115:2。ヨエル2:17。ミカ7:10)。涙を糧とすることにつきては80:5。ヨブ3:24。


42篇4節われこの涙の中にありて過去の幸福なりし日を回想するにむかし(むれ)をなして祭日(いはひのひ)をまもらんがためにエルサレムに向って巡礼の旅に上(おほ)くの(ひと)とともに神の都を指して進みゆき、歓喜(よろこび)讃美(さんび)(こゑ)をあげてかれらを(かみ)(いへ)にともなへり。その時の心の満足は如何ばかりなりしぞ、(いま)これらの(こと)追想(おもひおこ)して、*わが(うち)よりわがたましひを(そそ)ぎいだすかくて心ゆくままに種々の思い出に耽るなり。

文語訳 42篇4節 われむかし(むれ)をなして祭日(いはひのひ)をまもる衆人(おほくのひと)とともにゆき歡喜(よろこび)讃美(さんび)のこゑをあげてかれらを(かみ)(いへ)にともなへり (いま)これらのことを追想(おもひおこ)してわが(うち)よりたましひを(そそ)ぎいだすなり
口語訳 42篇4節 わたしはかつて祭を守る多くの人と共に群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。今これらの事を思い起して、わが魂をそそぎ出すのである。
関根訳 42篇5節 かつてわたしは喜びと讃美の声をあげ祭りを守る多くの群とともに栄光の幕屋、神の家へと入った。このことを今想い起こして、わたしはわが中にわが魂を注ぎ出す。
新共同 42篇5節 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす 喜び歌い感謝をささげる声の中を 祭りに集う人の群れと共に進み 神の家に入り、ひれ伏したことを。


補註
「わが衷より」は原語「わが上に」となっており、あたかも「たましひ」は自己を離れて別に存在しているかの如き考え方である。5節も同様。


*42篇5節ああわが霊魂(たましひ)よ、なんぢ(なん)希望なく信仰なきものの如くにうなたるるや、なんぞ平安をうしなひてわが(うち)におもひみだるるや、なんぢ(かみ)をまちのぞめ、神は必ず汝の願を聴き給わん。(そは)《(われ)()ほわが(かほ)(たすけ)我を凡ての失望苦悩より助くる者なる()(かみ)を》【われに聖顔(みかほ)のたすけありて(われ)なほわが(かみ)を】ほめたたふべければなり。

文語訳 42篇5節 あゝわが靈魂(たましひ)よ なんぢ(なん)ぞうなたるゝや なんぞわが(うち)におもひみだるゝや なんぢ(かみ)をまちのぞめ われに聖顏(みかほ)のたすけありて(われ)なほわが(かみ)をほめたゝふべければなり
口語訳 42篇5節 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。
関根訳 42篇6節 わが魂よ、何故くずおれ、わがうちにうめくのか。ヤヴェを待ち望め、何故なら再びわが顔の助け、わが神に感謝する時も来るであろうから。
新共同 42篇6節 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう 「御顔こそ、わたしの救い」と。


補註
後半の私訳は11節および43:5の折返しと揃えるために本節に誤写があったものとして訂正せるもの。而してこの誤写は極めて有り勝ちな場合なり。



42篇6節〔わが(かみ)よ、〕わがたましひは淋しさのためにわが(うち)にうなたる、()ればわれわが今住み居る*ヨルダン(およ)びヘルモンの()》【ヨルダンの地よりヘルモン】より*ミザルの(やま)より遥に隔りたるシオンの山に在す(なんぢ)をおもひいづ。

文語訳 42篇6節 わが(かみ)よ わがたましひはわが(うち)にうなたる (され)ばわれヨルダンの()よりヘルモンよりミザルの(やま)より(なんぢ)をおもひいづ
口語訳 42篇6節 わが魂はわたしのうちにうなだれる。それで、わたしはヨルダンの地から、またヘルモンから、ミザルの山からあなたを思い起す。
関根訳 42篇7節 わがうちにわが魂はくずおれる。それ故わたしはヨルダンの地から、ヘルモンから、ミツァルの山からあなたを想い起こす。
新共同 42篇7節 わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から


補註
「ヨルダン及びヘルモンの地」の「地」は双方にかかる。ヘルモンの山麓ヨルダンの上流付近の地を指すならん。ミザルの山は不明、「小さき山」を意味す。


42篇7節我が上に襲い来る苦悩の数々はヘルモンの水がヨルダンに流れ降る際に起るなんぢの大瀑(おほだき)のひびきによりて淵々(ふちぶち)よびこたへ、互いに相応じて恐るべき音を立つるが如き勢を以て我に襲いかかり、なんぢの(なみ)、なんぢの猛浪(おほなみ)ことごとくわが(うへ)をこえゆけり。我がなやみは繰返し繰返し我を襲い来りて我をその浪の中に巻き込む。

文語訳 42篇7節 なんぢの大瀑(おほだき)のひゞきによりて淵々(ふちぶち)よびこたへ なんぢの(なみ)なんぢの猛浪(おほなみ)ことごとくわが(うへ)をこえゆけり
口語訳 42篇7節 あなたの大滝の響きによって淵々呼びこたえ、あなたの波、あなたの大波はことごとくわたしの上を越えていった。
関根訳 42篇8節 あなたの激流のひびきによって淵は淵に呼びかけ、あなたの波、あなたの大波はみなわたしの上を過ぎていった。
新共同 42篇8節 あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて 深淵は深淵に呼ばわり 砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。


*42篇8節(しか)はあれど〕かつてありし日においてはかくの如くならず(ひる)はエホバその憐憫(あはれみ)をほどこし〔たまふ、〕(よる)はその(うた)われとともにあり、()のうたはわがいのちの(かみ)にささぐる(いのり)なり。我が生涯は日夜感謝と讃美の絶ゆる時がなかった、これに比べて今日は何という心のくずほれかたであろうか。

文語訳 42篇8節 (しか)はあれど(ひる)はヱホバその憐憫(あはれみ)をほどこしたまふ (よる)はその(うた)われとともにあり (この)うたはわがいのちの(かみ)にさゝぐる(いのり)なり
口語訳 42篇8節 昼には、主はそのいつくしみをほどこし、夜には、その歌すなわちわがいのちの神にささげる祈がわたしと共にある。
関根訳 42篇9節 わたしは昼にはヤヴェを、夜にはその恵みを待ち明かす。わたしはわが生命の神に向かって祈りをささげる。
新共同 42篇9節 昼、主は命じて慈しみをわたしに送り 夜、主の歌がわたしと共にある わたしの命の神への祈りが。


補註
本節は一般に将来エホバの恩恵を受くるならんとの意味に解されているけれども本文の如くに解する方が適当であろう。然すれば4節と相対応す。ただし本節を後日の挿入ならんと考うる説にも相当の理由あり、(イ)本節を除けば思想の連絡が滑かとなる。(ロ)エホバなる名が卒然本節のみに混入している。(ハ)42、43篇の三区分は皆5節より成るに関らず第二部のみ六節よりなること。


42篇9節われわが*(いは)なる(エル)わが避所なる力強き神にいはん、なんぞわれを(わす)て今日に至るまでかかる悲しみの中に捨て置きたまひしや、なんぞわれは(あた)のしへたげによりて圧迫を受け(かな)しみありしを見給いつつ我をそのままに捨ておきたまいしや。

文語訳 42篇9節 われわが(いは)なる(かみ)にいはん なんぞわれを(わす)れたまひしや なんぞわれは(あた)のしへたげによりて(かな)しみありくや
口語訳 42篇9節 わたしはわが岩なる神に言う、「何ゆえわたしをお忘れになりましたか。何ゆえわたしは敵のしえたげによって悲しみ歩くのですか」と。
関根訳 42篇10節 わたしはわが岩なる神にいう、「何故あなたはわたしをお忘れになったのか。何故敵のしいたげによってわたしは悲しみつつ歩くのか」。
新共同 42篇10節 わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ 嘆きつつ歩くのか。」


補註
「わが盤なる神」「わが盤よわが神よ」とも訳す。


42篇10節わが(ほね)もくだくるばかりに()(てき)は《われをそしり、ひねもす(われ)にむかひて『(なんぢ)(かみ)はいづくにありや』といへり。》【ひねもす(われ)にむかひて、なんぢの(かみ)はいづくにありやといひののしりつつ(われ)をそしれり】かくして彼らは我を苦しめ殊に神よ汝をそしることによりて更にわれを苦しめ我が骨もろとも全身くだくるばかりに苦しみぬ。

文語訳 42篇10節 わが(ほね)もくだくるばかりにわがてきはひねもす(われ)にむかひて なんぢの(かみ)はいつくにありやといひのゝしりつゝ(われ)をそしれり
口語訳 42篇10節 わたしのあだは骨も砕けるばかりにわたしをののしり、ひねもすわたしにむかって「おまえの神はどこにいるのか」と言う。
関根訳 42篇11節 わが骨もくだけるばかりにわたしの仇はわたしをあざけり、終日お前の神はどこにいる、と言いつづける。
新共同 42篇11節 わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き 絶え間なく嘲って言う 「お前の神はどこにいる」と。


42篇11節ああわがたましひよ、(なんぢ)なんぞうなたるるや、(なん)ぞわがうちに(おも)ひみだるるや、なんぢ(かみ)をまちのぞめ、われ(なほ)わがかほの(たすけ)なるわが(かみ)をほめたたふべければなり(5節を見よ)

文語訳 42篇11節 あゝわがたましひよ (なんぢ)なんぞうなたるゝや (なん)ぞわがうちに(おも)ひみだるゝや なんぢ(かみ)をまちのぞめ われ(なほ)わがかほの(たすけ)なるわが(かみ)をほめたゝふべければなり
口語訳 42篇11節 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。
関根訳 42篇12節 わが魂よ、何故くずおれ、わがうちにうめくのか。ヤヴェを待ち望め、何故なら再びわが顔の助け、わが神に感謝する時も来るであろうから。
新共同 42篇12節 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう 「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。