コリントの信徒への手紙一13章12節
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
[→ネストレ引照]
●コリントの信徒への手紙二 3章18節
3章18節 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
●ヤコブの手紙 1章23節
1章23節 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。
●創世記 32章31節
32章31節 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
●民数記 12章8節
12章8節 口から口へ、わたしは彼と語り合う/あらわに、謎によらずに。主の姿を彼は仰ぎ見る。あなたたちは何故、畏れもせず/わたしの僕モーセを非難するのか。」
●コリントの信徒への手紙二 3章18節
3章18節 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
●コリントの信徒への手紙二 5章7節
5章7節 目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
●ヨハネの手紙一 3章2節
3章2節 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
●コリントの信徒への手紙一 13章9節
13章9節 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
●フィリピの信徒への手紙 3章12節
          ◆目標を目指して
3章12節 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
●コリントの信徒への手紙一 8章3節
8章3節 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。