ガラテヤの信徒への手紙2章16節
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
●ガラテヤの信徒への手紙 3章2節
3章2節 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。
●ローマの信徒への手紙 3章28節
3章28節 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
●ローマの信徒への手紙 3章8節 - 24節
3章8節 それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。
          ◆正しい者は一人もいない
3章9節 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
3章10節 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
3章11節 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。
3章12節 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
3章13節 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。
3章14節 口は、呪いと苦味で満ち、
3章15節 足は血を流すのに速く、
3章16節 その道には破壊と悲惨がある。
3章17節 彼らは平和の道を知らない。
3章18節 彼らの目には神への畏れがない。」
3章19節 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
3章20節 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
          ◆信仰による義
3章21節 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3章22節 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3章23節 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3章24節 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
●ローマの信徒への手紙 4章5節
4章5節 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。
●ローマの信徒への手紙 5章1節
          ◆信仰によって義とされて
5章1節 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
●エフェソの信徒への手紙 2章8節 - 9節
2章8節 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
2章9節 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
●フィリピの信徒への手紙 3章9節
3章9節 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
●詩篇 143章2節
143章2節 あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません。
●ローマの信徒への手紙 3章20節
3章20節 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
●創世記 6章12節
6章12節 神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。