ヨハネ福音書

 

[著者及び著作の年代この福音書はヨハネの三書簡及びヨハネの黙示録と共に、十二使徒の一人なるヨハネの作なることは、近代に至って多くの反対論が起っているにもかかわらず、最も確実なる伝説であると信ずべきであろう。その理由は最も古き伝説がこれを証明するのみならず、著者自身がイエスの栄光及び活動の目撃者であること(1:14。19:35。21:24)、この記事のいたるところに溌刺たる思い出の香りがあること(例 1:394513:419:3235。殊に20:3以下21:8等々)、用語がパレスチナに住めるユダヤ人の痕跡を存すること(シュラッター)、アラミ語をそのままに用いてこれに訳語を附せること(1:3841429:711:1619:1320:16)パレスチナの風俗習慣地理に詳しきこと、殊に全福音書を通じてヨハネ及び兄弟ヤコブの名が一回も用いられず、ヨハネとおぼしき所には多く「主の愛し給う弟子」なる名称を用いていること(13:2319:2620:2以下。21:720)等である。

 使徒ヨハネはヤコブと共にゼベタイの子であって十二弟子中においても殊に主イエスの重視し給える弟子の一人であった。ガリラヤの漁夫であった彼はその兄弟ヤコブと共に召されてイエスの弟子となり(マタイ4:21)、ペテロを加えてこの三人は殊に主イエスの重大なる機会に立会うの栄誉を担っていた(マタイ17:1以下の主イエスの変貌、マタイ26:37のゲツセマネの祈り)。彼は十二使徒中の最年少者として言伝えられ、イエスの特に愛し給うた弟子であり、十字架の死に際してイエスはその母マリヤをヨハネに托し給うた。性質熱烈であってイエスは彼を雷の子と名付け給うた(マルコ3:17)。

 イエスの死に給いし後、ヨハネはペテロと共にエルサレムに留まり、エルサレム教会の柱石と目されていた(ガラテヤ2:9)。年代は不明であるけれどもヨハネは晩年をエペソに送り、多くの迫害に耐えてトラヤン皇帝(紀元98111年)の時代まで長生きしたと言い伝えられている。有名なポリカープ(155年殉教)も彼の直弟子であった。ヨハネ伝(その他の書簡も黙示録も)はこの時代の作であって紀元90年ごろであったろうと想像することができる。

 

[本書の特徴(1)記事の内容が他の三福音書(共観福音書)と著しく異なり他の福音書と共通の点が非常に少なく、むしろ他の福音書に対して補充的に記されている点がその特徴の一である。共観福音書が主としてイエスのガリラヤにおける事跡を記載しているに対しヨハネ伝は主としてユダヤにおける事跡を記せるごときその主要の差別である。(2)共観福音書がイエスの御生涯に対する外部的方面の描写について極めて忠実であるのに反し、ヨハネ伝はその内面的方面を忠実に描写することをその本旨としており、イエスの御生涯及び御言を一旦著者の人格の中に消化して再びこれを著者のものとして吐露せる処にその特徴を持っている、ゆえにこの福音書中のイエスの御言は単に機械的描写ではなく生命ある言として溌剌たる感を与え、またイエスの行動及び奇蹟の中にも、事実以外に霊的意義あるもののごとくに記されている(例えば9:7のごとき明らかにこの意味が示されている)。(3)この福音書の中に溢れている思想は、愛、生命、光等の語をもって表わされており、「生命をもち又光であるロゴス」(1:2)の活動としてのキリスト伝に最も相応しきものとせられている。ゆえにユダヤ思想を背景とせざるギリシャ人、ローマ人その他の諸国民にとって、親しみ易き福音書である。

 

[本書の目的本書の目的は20:31に記されるごとく「イエスの神の子キリストたることを信ぜしめ信じて御名により生命を得しめんがためである。」ゆえにギリシャ哲学やフィロンの哲学とキリスト教の調和を図らんがために録されたのではない。