ロマ人への書
[著者使徒パウロ] 本書の著者は使徒パウロである。バウロはユダヤ人であってキリキヤのタルソに生れ(使9:11。22:3)、エルサレムに於てラビ・ガマリエルの下に学び(使22:3)かくしてギリシャ文化の影響と共にユダヤの律法に精進した。生れながらロマの国籍を持った事より判断すればその家は相当の名家であったろう(使22:28)、彼は祖先の律法に熱心であったので(ピリ3:5、6)
[ロマの教会] ロマの教会は恐らくユダヤ、シリヤ、小アジア地方の信徒のロマに移住せるもの又は使2:10の如きロマよりエルサレムに上りて基督教に帰依して帰還せる者等が紀元四、五十年代の間にロマに於て福音を伝えた結果、自然教会が成立したものと見るべきであろう。使徒の中の誰かがロマに布教せる事は聖書によりこれを知る事ができない、又ペテロが紀元四十二、三年頃ロマに布教せりとの伝説は不確実であり且つ「他人の据えたる基礎の上に建てじ」(ロマ15:20)と主張するより見てその当時はロマにぺテロが教会の基礎を置かなかった事を知る事が出来る。
ロマの教会はユダヤ人と異邦人との混合であった。その何れが主要素であったかについては諸種の説があるけれども、書簡の内容その他の事情より考えて異邦人が主要部分であったと見るべきであろう。ガラテヤの教会に於ける如きユダヤ主義の基督者の撹乱はこれを認める事が出来ない。
[本書簡の認(したため)られし理由] 小アジア、マケドニヤ、アカヤの首都の伝道を終えしパウロの切願は当時の世界の首都ロマにその鳳翼を伸ばし、やがてイスパニアにも福音を伝道する事であった(1:15。15:22-24)。而してロマの都は当時の世界の中心であるので、パウロはその処に伝道する事に就て特別に深い関心を持ち、その教会を福音の真理につき正しく教育する事の必要を痛感した。それが為にはパウロ自身その地に赴く以前に予め書簡を以て彼らを教育せんが為に本書簡を認めたのである。ユダヤ主義の基督者に対して闘う事等はこの書簡の主目的ではなかった。
[本書簡の特質] 本書簡は所謂(いわゆる)パウロの四大書簡の隨一であり且つ前記の如き目的をもて認められし結果、パウロの他の書簡の如き特種の問題を取扱ったのではなく、福音の根本即ち信仰のみによりて義とせられるの教理に関する秩序ある最も堂々たる議論である。しかしながらパウロの痛切なる体験を基礎とせる真理そのものの熱烈なる叙述であって、冷たき理論ではない。この熱烈さは真理そのものより出たのであってガラテヤ書の如く敵に対する戦闘の心持からではないと見るべきである。
[本書間の認められし場所と時] 本書簡がコリントより認められし事は使19:21以下とロマ15:25-29とを比較する事によってこれを知る事が出来る。即ちパウロが第三伝道旅行を終えてまさにコリントを発してエルサレムに赴き、それよりロマに旅せんとする際に、一は彼の受難に対する予感と(使20:22、23)一は彼の至る前にこの書簡によりてロマの基督者の心を準備せしめんが為にコリントよりこれを認めたのである。従ってその年代は五十七、八年頃であったろう。