ピリピ人への書
[ピリピの教会]ピリピはギリシャの北部マケドニヤの一都市であって使徒時代においてはこの地方における有数のローマ帝国植民地であった(使16:12辞解)。本来クレーニデスと称していたのを歴山(アレクサンドロス)大帝の父ピリポによりて大規模に再建せられ、その名に因んでピリピと称せられたのであった。パウロはその第二伝道旅行に際し、トロアスにおいて幻影を見、マケドニヤ人に招かれて欧州に渡り、始めてピリピに教会を建設した(使16:11−40)。そこにて少数の弟子を得ると共に、彼に対する迫害が起って獄に投ぜられた。この獄中にて獄守の一家の入信等、記憶すべき数々の出来事があり、パウロにとりても最も印象深き教会であった。その後第三伝道旅行の往復にもピリピに立寄り(使20:1、3)、またピリピの教会はパウロを物資的にも助くることが多かった(2:25。4:15、16、18。Uコリ2:9)のを見ても、パウロとの間に特に深い関係があったことを考えることができる。
[本書の認(したた)められし事情]ピリピの教会は、かつてその一員たるエパフロデトに托してパウロに金銭上の贈物を送った(2:25)。しかるにこのエパフロデトは病んで重態となり(2:26、30)、一時危篤の状態となったが、幸い治癒したのであった(2:27)。然るにちょうどこの頃エパフロデトの見舞いをかねてまたまたパウロに贈物をしたので(4:10)、その感謝の意を伝えんとし、同時にエパフロデトをピリピに返さんとし、その機会に本書を認(したた)めたのである。
[本書の認(したた)められし時と処]本書はエペソ書、コロサイ書、ピレモン書と共に獄中書簡と称せらる。獄中にて認めたからである(1:7、13−17。なおエペソ書緒言参照)。而してその入獄の場所はカイザリヤ説、エペソ説等があるけれども、ローマ説が最も有力かつ一般的である。1:13の「近衛の全営」、4:22の「カイザルの家の者」等はこの見解を裏書する。ローマ説の弱点として挙げられる点すなわちコロ4:10以下にある人々よりの挨拶を欠くこと、殊にルカよりの挨拶を欠くことは、おそらくピリピ書が特にパウロの個人的の心持を表顕せる書簡であるためと見ることができるであろう。本書が他の獄中書簡よりも前に認められしや後に認められしやにつき学説が分かれており、何れとも決定し得ない。唯大体の印象としては、獄中における伝道に相当の時日を経過せるもののごとく(1:12−19)、またその判決が間もなく下り、速やかに釈放されるならんとの心持のごとき(2:24)も幽囚の後期を想わしめる。文章の調子および文体はエペソ書コロサイ書と異なり、前記の書簡に近いことは確かであるけれども、これはこの書簡の認められし時期の如何よりも、その内容の如何に関るものと見るべきであろう。従って本書は紀元六十二年頃ローマにおいて認められたこととなる。
[本書の内容及び特徴]本書は「喜びの書簡」であって、全篇歓喜に満ち溢れているのを見る。「喜悦(よろこび)」「喜ぶ」等の語が本書の中に特別に多く用いられていることはこのことを示す。エペソ書における教会観、コロサイ書におけるキリスト観が、パウロの獄中生活の貴重なる遺産であると同じく、苦難の中にあって唯キリストのみを望みて生くることにより、大なる歓喜に生くることを得るの事実を示したのは本書の貴重なる特徴である。従って本書は他の二つの獄中書簡のごとく神学的、説明的ではなく、パウロの感情の有りのままの表顕である意味において、最も個人的なる気分を豊かに漂わせている。而して他の獄中書簡と同じくキリストとの深き霊の交わりに徹底していることは注意すべき点である(1:21、29。2:5、11。3:8、20)。
[本書の著者]本書簡の筆者が使徒パウロであることは古き時代より一般に認められている事実であり、書簡の内容よりいうもこれを否定すべき理由がない。唯極端な説をなすパウル一派の反対論が存する程度に過ぎざる故、これを詳論する必要がない。