コロサイ人への書

 

[獄中書簡について]本書はエペソ書およびピレモン書と並んでいわゆるパウロの獄中書簡の一つである。獄中書簡の意義、その成立事情、目的、相互の関係、録されし場所および年代および各書の特徴および関係についてはエペソ書の緒論を参照すべし。

 

[コロサイの教会]コロサイはフリギヤの一都市でメアンデル河の支流リュコス河の畔にあり、エペソよりタルソへの公道にあたりかなりの大市街であったが、紀元六十四年(六十年?)の大地震によって破壊されたコロサイの教会はパウロの設立せるものでもなく、彼はコロサイを訪問したことすらなかった(1:4792:1)。コロサイの教会の設立者はコロサイ人エパフラスであった(1:74:12)。彼はなおその付近なるラオデキオヤおよびヒエラポリスにも福音を伝えたものと思われる(4:13)。おそらくパウロがエペソを去りて後(使20:1)、エパフラスはコロサイに赴きその付近に福音を伝えたのであろう。彼が何故、また如何にして、何時ローマに来りパウロと共にいるようになったかは不明である。而してコロサイの信徒は主として異邦人であった(1:21272:13)けれども、付近にユダヤ人の大植民地もあった関係上、ユダヤ人よりの反対がありしことも想像せられ、また異邦人間に存する種々の習慣や異説などによって信仰に動揺を来たす者もあり得る状態であった。

 

[本書の録(しる)されし事情]パウロはローマにありて、コロサイの地方に偽の教師が入り来り、彼らの信仰を迷わさんとしていることを聞いた(2:48)。この偽教師の如何なる人々であったかは明らかではないが、その教説の内容は「人の言伝えと世の小学」(2:8)であって、あるいは天使を拝し(2:18)、あるいは当時行われし空中の諸権、諸悪霊(2:1015)を拝するの必要を説くことによりて彼らの信仰をキリストより遠ざけ、あるいは種々の禁慾的戒律を強要することによりて(2:1621)形式的信仰を誇示せんとしたものであろう。その他種々の異教徒的肉慾(3:5)その他の不道徳によって彼らを信仰より離れしむる危険が非常に多かったので、パウロはエパフラスの憂慮によって心を動かされ、この書簡を認(したた)むるに至ったものと思われる。なおピレモン書およびエペソ書との関係についてはエペソ書の緒論を見よ。なおこの偽教師の思想がパレスチナに行われし禁慾主義の一派なるエッセネ派または二世紀において盛大となったグノシス主義またはモンタヌス主義の神秘思想と関係ありと論ずる学者があるけれども、これは単に若干の類似というに止まり、如何なる時代、如何なる国民の間にも若干これらに類する思想の存することはこれを事実と考えて差支えがない。

 

[真正のパウロの書簡なりや]本書はエペソ書に比すれば真正さを否定する説が強力ではないけれども、それでもなおこれを一部または全部において否定する学者は決して少なくはない。その理由とする処は、エペソ書の場合とほぼ類似し、種々の特種にして困難なる用語、特別のキリスト論(1:1520)等であるけれども、これ等は偽教師と戦うために彼らの思想を利用せるものとも見ることができ、またパウロの思想信仰が一層の深さを有するに至ったためとも見ることができる。大体の印象としても、また詳細に研究する場合に見出される文体等よりいうも、パウロの主要書簡と異なる調子があることはこれを認めなければならないけれども、これらは録されし時代、著者の年齢、書簡の目的、受信人の性格などにより起り得る可能の程度であって、パウロのごとき深き信仰的洞察なしには容易に生れ得ない文章であることはこれを「十二使徒の教訓」 didachê 等と比較して知ることができる。