ヨハネの黙示録
[本書の認められし目的] 黙示録は一見して知り得る如く、新約聖書中最も特色ある一書であって、福音書の如く歴史にもあらず、書簡の如く教訓にもあらず、新約聖書中唯一の預言書である。
本書の認められし所以はパトモスの島に在りしヨハネに黙示によりてかく記すべく示されしが為であるが(1:1-2、9-19)、尚ほ其の具体的の目的としては神の国、神の教会の将来に関する明瞭なる観念を信徒に有たしむる必要があることと、殊に其の当時、ネロ帝の迫害は過ぎて居つたけれどもドミティアヌス帝の迫害が行われて居つた時代であつたので、信徒をして此の迫害の中に慰を得しめ、力を失わざらしめ、かくしてその迫害の中に忍耐せしむる必要があったからである(13:10、18。14:12)。
夫故に本書に示されし黙示の主眼は天変地異等の自然現象、戦争飢饉等の歴史上の出来事は勿論、基督教会に対する迫害すらも凡て神の御旨により又は神の許容の下に行われるが故に、基督者は如何なる事変に遭遇するもその信仰を動揺すべからざる事、而して如何に激甚なる迫害が加えられるとも、神の敵は結局に於てキリストによりて滅ぼされ、信徒は、やがて新しきエルサレムが完成せられ神の国が実現する時、その民として永遠の福祉に入る事を示して信徒の希望を明かならしむるにあるのである。
故に本書は迫害に直面せる信徒の心持を以て読むべきものであつて、異象の意義や再臨の時日等に対する好奇心を以て読むべきものではない。
[本書の特徴と形式] 本書の最も特異なる点はその記述の形式にあるのであつて、その内容たるべき有形無形の事柄を表顕するに当り凡て特種の表徴を用いて居る事である。巻物、ラツパ、金の鉢、封印、徽章、竜、動物、女、都市等全部表徴の羅列であり、従ってそれらの表徴が何を指して居るかを知る事は必ずしも常に明瞭ではなく従つて異論が多い。
又本書は「七」なる完全数を骨格として組立てられて居るのであつて、七つの封印、七つのラツパ、七つの金の鉢を中心として他にも七なる数を非常に多く用い、其の他の数字も皆それぞれの意義に於て表徴的に用いられて居るのである(後に記す処を見よ)。
又本書の文章も特異性を有し、各節内の句が一定の数によりて排列せられる場合多く、文法的にも規則違反の形式を故意に用いし形跡あり、一見して全く特種の書である事を感じ得る様に録されて居る。
かかる特異なる記載法を用いし所以は、他の黙示文学の場合に於ける如く、当時の迫害者たる権力に対してその迫害のロ実を与えざらんが為であつたに相違ない。而して一方当時の基督者は、是らの表徴が一々何を指しているかを其の当時の事情に照して悟る事が出来たものであろうと思う。かくして此書は一方信徒に対しては力強き慰めの書であると共に他方此の世の人々に対しては彼らの滅亡を預言して居るにも関らず一の封ぜられたる神秘の書であつた。本書はかくあるべく録されたのである。
[旧約及黙示文学の影響] 本書の形式、及び思想に影響したものは第一に旧約聖書であって殊にダニエル書及びイザヤ書、エゼキエル書、ゼカリヤ書等の中の預言の部に負う処多く其他ヨエル1-2章(9:2-11)、出埃及記7-10章(8-9:16)、エゼキエル2-3章(10章)、ダニエル7章(13章)、エゼキエル26-27章(18章)等よりの援用と見るべき箇所もあり、旧約聖書と全く無関係なる章節は少い程である。其他当時行われていた黙示文学 Apocalyptic
Literature(バルクの黙示録、エノク書、第ニエズラ書、イザヤ昇天記、モーセ昇天記其他)より構造と表徴の示唆を得たものと思わるる点が少くない。是等の黙示文学も、ユダヤ人がその迫害と苦難の中に未来のメシヤ王国を期待する点に於て旧約と新約との中間を連結する文字であり、本書もその着想、表徴、形容等に於ては是らと同種族のものと見る事が出来る。
併し乍ら本書はキリストが明かにその中心を為して居る点に於て、而して此の世の終に於てキリスト再び来りて万物を完成する事を希望の頂点とする点に於て他の預言及黙示文学に比して著しく其の深さを有する事は本書をして特異の地位に立たしむる所以である。
[本書の解釈法] 上述の如く本書は全部表徴的に録されて居る為にその解釈が極めてまちまちとなる事は免れる事が出来ない。その中主要なる立場は以下の諸説である。
其の一は「過去的解釈法」preterist interpretation であって、之によれば本書の諸表徴は本書の録されし当時に起りし事実(夫故に今日より見て過去に属する故に過去的解釈法と称す)を指すのであつて例えばネロやドミティアヌスの迫害、ユダヤ人の反乱、エルサレムの滅亡等を指したものであり、ローマの滅亡(18章)新天新地の出現(21-22:5)の如きも、やがて間もなく来るべき事実として録されしものであるとする解釈法である(此の解釈法による人々の中にも各の表徴が歴史上のいずれの事実を指すかに就きて不一致の点あるは勿論である)。此の解釈法は本書がキリストの再臨につき誤算を為した事となり、従って本書は現代の我らには必要も興味もなきものとなる等がその欠点である。
其の二は「歴史的解釈法」 historical interpretation で、之によれば、本書はその録されし時代より世の終に至るまでの歴史の縮図であり、各表徴は此の歴史中の主要なる事実を預示すと解する説である。此の解釈法によるも、歴史上の事実を教会史に限定すべきか、世俗史にも及ぼすべきかにつき意見の不一致あり、又各表徴は如何なる歴史的事実を指すかに就きて解釈者間に非常なる相違を生じ、結局に於て本書が何を意味するかが不明混沌たる事となる。従って本書の興味が唯歴史上の事実と本書の預言とを繋ぎ合せる如き技術的些事に集注され、本書が録されし精神、歴史の変遷を支配する原則等に無関心となる事が此の解釈法の欠点である。
其の三は「未来的解釈法」futurist interpretation と称せらる解釈法であって、本書殊に其の第4章以下をキリスト再臨の直前に起るべき出来事の表徴と解する事が其の特徴である。此の解釈を採る人々の中には更に進んで之を主の空中再臨(Ⅰテサ4:17)と地上再臨との間の期間に起るべき出来事であると解する人もある。此の種の解釈を採る人はキリストの再臨の切迫せる事を感ずる事の強きに従い、本書の表徴の多くを現在の社会の出来事に適用せんとし、其の結果往々にして牽強付会
に陥リ、又はキリストの再臨近しと称して徒(いたず) らに年代の計算をなし又は騒擾(さわぎ) を惹起す如き場合多く且つ本書の原理的歴史哲学的真理を唯眼前の事実によって解釈し去らんとして本書の深遠なる哲理を没却するの虞(おそれ)
があり、又本書4章以下の内容を注意して研究するならば現に其の当時の基督者に対する警戒と見得べき場合多き故に、此の解釈法も之を採用する事が出来ない。
其の四は「霊的解釈法」spiritual interpretation とも称すべきものであつて、之に二種あり、第一は黙示録の個々の表徴を以て個人の霊的生活に要する教訓を表徴的に録せるものと解せんとする解釈法であって、此の解釈法は黙示録の本質に適合しない。第二は本書の凡ての表徴を以て歴史を支配する原理原則を示すものと解し、個々の具体的事実そのものの預言ではないと解する解釈法である。或は之を原理的解釈法と称する方が一層適切であろう。即ち本書の内容をなす諸種の表徴は特定の歴史上の事実を指すのではなく、その根本に横わる原理を示すのであつて、此の世は神とサタンとの闘争場であり、神の民はサタンの迫害の下に苦難の生涯を送って居るけれども、やがてはキリストの再臨によりて此の世は審かれ、サタンは亡ぼされて新天新地が完成される事を記載したのである。夫故に例えばローマ皇帝を表徴すと一般に解釈される七人の王(17:9)は、決してローマ皇帝に限定せらるべきではなく、神に叛き神の民を迫害する地上の権力者を意味し、又ローマの都市を表徴すと解釈されるバビロンの滅亡(18章)も一般に神を離れし地上の文化の滅亡を表徴するものと解する如きこれである(マタ24章註及要義参照)。
此の解釈法は本書の解釈上最も当を得たものであつて本書が歴史上の凡ての事実に対して密接なる関係を保持しつつ、而もその事実に捉われる事なく、其の事実の基礎たる原理を示す意味に於て永遠に真理であり、かくして本書は何れの時代の如何なる人々にも力と慰安と希望とを与え得るのである。而して本書が書かれし目的も亦茲にあるは疑い得ざる事実であってヨハネに示されし黙示は此の神より見たる歴史哲学の啓示であつたと云うべきである。
[本書の著者及著作の年代] 1:1、4、9。22:8により本書がヨハネによりて録されし事は明かである。唯問題となるのは、此のヨハネが使徒ヨハネ、即ちゼベダイの子ヤコブの兄弟ヨハネなりや又は他のヨハネなりやの問題である。既に二世紀時代より本書が使徒ヨハネの作なる事は多くの教父の信ずる処であり、唯少数の教父が之を長老ヨハネなる別人の作と見て居るに過ぎない。併し乍ら使徒ヨハネの外に長老ヨハネが実在した事には尚お議論の余地あるのみならず、使徒ヨハネがドミティアン帝の時パトモスの島に流されし事、又使徒ヨハネが晩年にエペソを中心に小アジアに伝道せる事等の伝説と併せ考うる時本書は之を使徒ヨハネの作と考うる事が最も適当であろう。本書の構想の雄大さ及びその中にほの見ゆる権威も之を裏書するものの如くである。従ってヨハネ伝及びヨハネの三書簡と同一の著者となる(ヨハネ伝緒言を見よ)。本書の文体、及び思想(神学)に就てはヨハネの福音書及び書翰との間に差異あるが如くに見えるけれども、是とても次に述ぶる如く本書を使徒ヨハネの作と見る事の妨げとはならない。
著作の年代につきても古来今日まで二つの主要の説があり、其の一は本書の文体の拙なる事と17:10の解釈と(其処参照)エルサレムの神殿の破壊を知らざるものの如くなる等の理由(11章)よりネロの時代即ち紀元六十七年頃の作と見、其の二は2-3章の教会の状態及び「主日」なる語(1:10)及び基督者の迫害がネロ時代には未だ一般に行き渡らずドミティアン時代に至りて地方にも行われるに至った事、又ヨハネのパトモスに流されしはドミティアン帝の時である等の理由より本書をドミティアン帝の晩年即九五―九六年頃と見る。尚お折衷説として本書を長期に互って次第に書き加えられ挿入加除せられしものと見る説もある(ハルナツク其の他)。予は第一説第三説の理由を不充分と信ずるが故に第二説を採る。
[本書の文体及び思想と他のヨハネ文書との比較] 本書のギリシヤ文がヨハネの福音書、書簡等に比して晦渋であり、時に故意とも思われる文法違反があり、又著しくヘブル語的語法が多い事は、本書の著者を使徒ヨハネにあらずとし又はヨハネの初期の著作であるとする説の根拠をなしているけれども、黙示文学は凡てユダヤ思想を代表している関係上、本書も特にユダヤ的色彩を濃厚ならしめたものと考うる事が出来、文体の差異は本書全体が特種の文学的作品である事の当然の結果であり、又文法上の不規則も故意に本書の特異性を誇示せるものと見る事が出来る。
本書の内容は一見する処福音書や書簡との間に非常に大なる差異があるが如くであるけれども、実は本書の終末的性質及び目的上是は当然の事であり、且つ注意して本書を読むならば其処に福音書や書簡に於けるヨハネの思想及び文字を隨処に見出す事が出来る。例えば「神の言」「証」「羔羊」「勝利」「真理」「生命」「生命の水」「牧者」「花嫁」等ヨハネ特愛の文字が本書の中にも多く見出されるのであつて、此の事実は著者の同一を推定せしむる有力なる材料である。反対の材料として掲げらる諸点(神と人との間に父子の関係なき事、光明と暗黒の対比なき事、神と世との対立なし、等・・・)は本書が神の審判を示す書たる点より自然に生ずる結果なる場合か又は本書を文字の末のみより観察せるより生ぜる説であつて、之を以て著者の異同を論ずる事が出来ない。
要するに本書と他のヨハネ文書との間には一見文体及び内容に於て大差あるが如くであるけれども、実は其の中に深い統一があるのであつて、本書は寧ろ他のヨハネ文書の補充の如き意味に於て録されしにあらずやと思われる程である。
[本書に用いられる数字の意義] 本書に用いられる生物無生物其の他の表徴が凡て其の背後に何ものかを意味すると同じく、本書に用いられる数も亦夫々特別の意義を有する事に注意しなければならぬ。最も必要なる数につきて略述すれば、一は絶対不可分を意味し、二は証又は証人に関し、三は三位の神、聖名三称の如く天を示す数であり、四は東西南北、地水火風の如く地を表し、七は三と四の合計であって完全を示し、本書に於て最も多く用いられて居る数である。又、十は人間的の完全を意味し、三と四の相乗積なる十二はイスラエルの十二の支族、十二使徒及び新しきエルサレムが十二の数よリ成っている如く(21:12-21)凡て神の民及び神の国に関聯している数である。其の他是らの数の種々の相乗積が多く用いられる故本書の読者は此の点に注意を必要とする(詳細は各々の場合につき学ぶべし)。
[使徒時代に於ける迫害史] ユダヤ人より受けし迫害は別として、基督者は又当時の世界的権力たるローマ皇帝より迫害を受けなければならなかつた。ネロ(54-68)がローマ市の火災の責任を転嫁せんとて基督教徒を殺戮せる事は有名であるが是はローマ全領土に及ばなかった、ドミティアン帝(81-96)に至りて始めて基督教を信ずる者を処罰すべき事の法律が定められ皇帝礼拝を強要し之に反する者を処罰した。本書はかかる迫害を目撃しつつ其の下に苦しむ信徒に宛てられしものである。夫故に此の困難の下に自己を置きて本書を読む事が本書の理解を助ける。
[本書の宛名人] 本書はアジア(小亜細亜の西端)にある七つの教会に宛てられて居る。併し乍ら此の七つの教会は「七」の数の示すが如く、全世界の全教会の代表であり、全時代の全教会の状態の縮図であると見るを至当とする。此の意味に於て本書は古今東西凡ての基督者に宛てられしものと見る事が出来る。
[本書の構造及び梗概] 本書の構造は一見極めて複難であり、前後の関係の不明なる幻象が突然あらわれて又突然消減し(10、11章の如く)、前に在りし幻象が又後にもあらわれ(14:1-5の如く)後に来るべき事が預じめ示され(7章、14:8、14-20)て居る等のため、本書の解釈上種々の難問題を生じ、中には是らの外見的不統一のために本書を多くの人、又は多くの時代に書かれしものと解せんとする学者も少くない。而して本書の構造を如何に見るかは要するに本書の解釈の方針を決定する事となるが故に、之は重大なる事柄である。余は之を下記の如き原則に従い解すべきものと思う(目次参照)。
(一)本書の主題となるべきものは神の審判とキリストの再臨による新天新地の顕現である。
(二)中間に挿入せられし数種の光景は主として神の救の方面を示す。
(三)未来に属する事柄が既に現在に眼前に実現せるものの如くに記載されて居る。
(四)歴史上に実在せる人物又は事件を指示するが如くに見ゆる場合と雖も、実はその人物又は事件によりて代表される原理を示す事を主眼とす。
(五)数字は実数にあらず、その数字の表徴的意義を以て使用せらる。
(六)審判の表徴の順序は実際の審判の行われる順序とは無関係なり。
(七)旧約聖書及び黙示文学の形式を出来得る限り応用する。
以上の如き方針を以て本書を解釈する時は次の如き構造を有し、其の梗概(こうがい) は下記の如きものとなる。
(Ⅰ)第1章に於て序言及びイエスの顕現を録し、イエスの御姿が審判者としての稜威に輝くを示す。
(Ⅱ)第2-3章に於てアジアにある七つの教会に与うる書簡を掲げその現状を或は賞し或は戒む。此の戦闘の教会がやがて21、22章の勝利の教会となるのであつて其の中間が教会の艱難とキリストの審判である。
(Ⅲ)第4-18章は此の世に対する審判であって神の御旨によりキリストの審判が如何に行われるかを録し其の間に中間の挿景として神の救に関する事柄を介在せしむ。
第4-5章は審判の前提たるべき神の御旨につきて録され、第4章は神の御座の周囲の光景を叙し、第5章は屠られ給いし羔羊なるキリストのみが神の審判を録せる七つの封印ある巻物を開き得る事を記す。
(一) 第6章に於て第一ないし第六の封印開かる、而して第七の封印の開かれる前に中間挿景が介在する
挿景の一 神の預定 第7章1-8節に於て十四万四千人印される事を記す。
挿景の二 救われし者の讃美 第7章9-17節に於て前掲の救われし者が神の御座の前に於て讃美をささぐる光景を示す。
(二) 第8-9章に於て第七の封印が七つのラツパに分裂し其の中第一ないし第六のラツパの審判が行われ
挿景の三 聖書と預言 第10章は聖書と之による預言との表徴であって、人類の救の基礎を示す。
挿景の四 福音の証者 第11章1-13節は二人の証人を示し福音が彼らによって証せられる事を示す。
第11章14-19節は第七のラツパの序曲第一であって、第七のラツパの審判が実際行われるは第15章以下であり、その間に重要なる中間の挿景が介在する。
挿景の五 教会とサタン 第12章に於て神の国とサタンとの関係を示し、教会が地上に於てサタンに迫害される所以を録す。
挿景の六 サタンの諸想 第13章に於てサタンが獣及偽預言者として教会を迫害し之を惑わす事の事実を録す。赤き竜、獣、偽預言者はサタンの三位なり。
挿景の七 福音の伝播と審判 第14章に於て七つの幻象あり一方に福音の勝利他方に此の世の審判の全光景が縮図的に預示される。
(三) 第15章は第七のラツパの審判の序曲第二であつて、此の第七のラツパが七つの金の鉢に分れ、第16章に於て第一ないし第七の金の鉢の審判が行われる。此の第七の金の鉢は第17、18両章の審判となリ、第17章はローマの奢侈とその権力とを示し、その権力がやがて自己の同類によりて滅ぼされる事を預言し第18章に於てローマの文化及び富とその商業交通が滅亡に帰する事の光景を描く。
(Ⅳ)第19章及第20章10節まではサタンの三位(竜、獣、偽預言者)の審判で、19:1-10はその序曲であり、11節以下に於てサタンが順次に滅ぼされ信者は復活して千年王国が此の間に実現する。
(Ⅴ)第20章11-15節は全人類全死人の最後の審判であって基督者は之に与らない。
(Ⅵ)第21章ないし第22章5節迄は新天新地の偉観であって、本書の結論であると共に全聖書の終局を為し人間の想像し得る最も美わしき光景である。
(Ⅶ)第22章6節より本書の終迄は結尾の挨拶であって其中にも種々の重要なる事項を合む。
以上は本書の構造及梗概である。之を前掲の解釈上の根本法則に照して解釈するならば、本書の言わんとする処を理解する事が出来るであろう。
[ヨハネの受けし黙示の意義] ヨハネが黙示を受けて之を本書に記載した事は事実であるが、此の黙示の受け方は之を二様に考える事が出来る。其の一はヨハネが目を以て幻象(まぼろし)を見、之を其のまま筆を以て記載したと考うる事である。是は恰も新聞記者がある事件の進行を目撃して之を記すが如きものである。其の二は神が歴史を支配し給う原理が霊的にヨハネに啓示せられ、ヨハネは之を黙示文学の形式に鋳込みて表徴的具体的に録したものである。恰も詩人がその受けし啓示を具体的に詩の形に鋳込むが如きものである。若し黙示録が此の前者である場合にはヨハネは幻象の意義を全く理解しない事も有り得る訳であるけれども若し後者なりとすればヨハネには幻象の意義は凡て明かである訳である。余は後者の立場を採り、ヨハネの心持を汲取る事を以て本書を解釈する根本の方針とした。