黒崎幸吉著 註解 新約聖書 序

 

 人類に取って最大の幸福は、神の言が文字を以て記され、聖書として我らに与えられて居る事である。「天地は過ぎゆかん、されど我が言は過ぎ往くことなし」。天地よりも悠久なる此の聖書こそ実に人類の至宝である。

 而して聖書は基督者の信仰の基礎である。基督者の信仰と聖書の教うる教理との差異が大なれば大なるほど其の信仰は弱く教会は振わない。其の反対に此の二者が一致して居る場合に、其処に真の教会が成立する。聖書を離れて其処に真の基督者も基督教会も無い。故に聖書は基督教会の信仰の基準である。

 夫故に聖書を根本的に学ぶ事は凡ての人に必要であり、殊に基督者に取っては毎日の食事よりも必要なる霊の食物である。然るに未信者は勿論、基督者さえもあまりに聖書を読まないのは何の為であらうか、それには種々の理由があると雖も、聖書の難解である事も確かに其の重大なる理由の一である。

 此の難解なる聖書を解し易く親しみ易きものたらしむるには、是非とも註解書によらなければならぬ。然るに日本の現状に於ては旧約聖書は勿論、新約聖書の註解書する極めて少なく、殊に其の全体を網羅するものは唯一二に過ぎない。而も是等は或は簡に過ぎ、或は繁に過ぐるが為めに、多くの不便が之に伴って居り、其の他の部分的註解の中には非常に優秀なものもあると同時に、或はあまりに通俗に過ぎ或はあまりに学究的に過ぎ、聖書本来の目的に叶わないものをも多く発見せらるる状態である。

 夫故に予の多年の希望は、此の愛する日本の為に信仰の糧となるべき註解書を書く事であった。幸ひ此の希望が日英堂主人横尾留治氏の同意を得、同氏の多大なる犠牲によって爰に新約聖書全解の大業に着手するに至ったのである。

 註解の至難の業である事は勿論予め之を知っていた。併し乍ら之に着手して始めて其の事実を明かにする事が出来た。殊に一定の限られし紙面の中に、即ち限られたる字数を以て註解する事が必要であるが為に(之を一巻にまとめる上に)自然断片的なる、極めて流暢ならざる文章となる事は免れ難い困難であった。殊に多くの異説中より最良と思わるるものを選出して之を数個の文字を以て表顕する場合、此の数個の文字の背後には非常に多くの異論が潜んで居り、此の短き結論を得んが為めに経来りし径路を示す事が出来ない。従って之を読む人は軽々に之を読過し易いことも免れ得ざる事実である。之も限られたる頁数中に全部を収めんとするより生ずる困難の一であった。

 その他あまりに文字に拘泥すれば、力無き乾燥無味なる註解となり、あまりに霊的に大意を記すに止むれば文字の意味不明となり、此の調和にも大なる困難を覚えた。然のみならず聖書中の難句に至っては無数の解釈があり、予の所持するあらゆる参考書を参照しても、尚且つ適切なる解釈を見出し兼ぬる場合が少くなかった。是等多くの困難と闘って本書が成ったのである。

 註解を書くが為には多くの資格を要する。其の第一は正しき深き信仰を有する事、其の二はギリシャ語、ヘブル語等聖書の原語を読み得る事、其の三はラテン語、英、独、仏語等、古今の良註解書を参考する能力を有する事、其の四は必ずしも是等の参考書に束縛せられざる独自の信仰体験を以て聖句を解する能力ある事、其の五は註解の大業を為すに要する時間を持つ事等である。而して予自身右諸種の条件につき非常に欠くる処多きを告白する。併し乍ら今日の日本に於て是等凡ての条件を具備する人は必ずしも多くは無い。且つ目下日本に於ける聖書註解書の必要は焦眉の急とも云うべきであって、右諸条件を完全に具備する人の出現を待つ事が出来ない。是予が不肖を以て此の事業を始め、其の困難のために屡々之を抛棄せんと思いつつも遂に之を続行せる所以である。故に此の註解は素より多くの欠陥を持って居るのであって、此の点は江湖の赦を乞わなければならない。

 本註解書の程度は出版社の要求に比し、稍程度の高きものとなってしまった事は出版社に取って申訳が無い。併し現今の日本の基督者に取りては本書の程度、即ちあまり学究的ならず、あまりに通俗的ならざるものも必要である事は疑いない、此の意味に於て本書存在の価値はある事と信ずる。勿論本書は学者の参考となる事を期待していない。平信徒の机上の参考とせん事を標準としたのである。

 本書の体裁は種々熟考と研究との結果、之に定めたのであって漢籍の註解の形式に依ったのである。此の形式には左の長所がある。

一 本文のみを読まんとする人は、何等困難なく本文のみを読み下す事が出来る。

二 従来の註解書中には本文と註解とが別々の個所にあって、此の間の連絡が円滑ならざるものがあるが、本註解はこの欠点を除いて居る。

三 本文の一部のみを掲げて居る註解書は、別に聖書を手にして本文を読まなければならないけれども、本註解はこの不便はない。

右の諸点を考慮して此の形式を採用した。勿論此の形式によっても尚不満足の点が無いでは無いけれども万全を期することは不可能の事故、之を以て最も適当の形式と信じて居る。

 目下新約聖書註解が各所に計画せられて居る事を耳にし、且つ既に進行中のものもある事を知って居る。併し是等は多々益々弁ずるのであって、日本に此の種の著書が多く出版せらるる事は何よりも望ましき事である故、予は躊躇せず自己の計画を進行する事とした。

 願わくは神の御祝福により此の小著が日本の人々の聖書研究の為によき助けとならん事を アーメン

一九二九年三月

著者