緒言

 

一、本書の成立及区分

詩篇百五十篇は現在において一巻の書となっているけれども、古くはモーセの五書に因みこれが五巻に分かれていた。このことは各巻の終りにおける特別の頌栄の句をもってこれを知ることができる(第一巻は141篇、第二巻は4272篇、第三巻は7389篇、第四巻は90106篇、第五巻は107150篇、ただし150篇には特別の頌栄なし、全篇が全詩篇の結末をなす)。而してこの五巻は詩篇成立の歴史、およびその内容よりこれを三つに区別することができる。第一部は、第一巻に相当し、第二部は、第二、第三巻、第三部は、第四、第五巻に相当する。この三つの部分は各々特徴を有し、第一部は、主としてダビデの名を冠せられし古き詩の多きこと、および神の名として主としてエホバ(ヤーヴェー)が用いられていること、第二部は、若干のダビデの歌以外アサフ及びコラの子等の歌が主体を為しており、神の御名にエロヒム(神)を用うること、第三部は、ダビデの詩以外は無名作者の詩の多いことおよびセラその他の音楽上の用語の少きこと、而して神の名は主としてエホバ(ヤーヴェー)を用うることがその特徴を為している。これらの諸点および各巻の内部における構成等より見て、詩篇は本来ダビデ歌集、アサフ歌集(507383)、コラの子等の歌集(42498489)、京もうで歌集(120134)、ハレルヤ歌集(主として第五巻にあり)等の小歌集が長き時代の間に各自独立に成立していたのをある時代に数巻に編輯せられ、これがさらに集輯合併の経路を経て、全一巻の詩篇となるに至ったものであろう。この集輯編纂の間にあるいは一つの歌集の一部を他に移した場合、または同一の詩の再録、または多くの詩句の集輯等が行われたものと見るべき場合あり、これによっても詩篇成立の経路を知ることができる。

 

二、詩篇の作者及び年代

詩篇の中にはダビデの名を冠するもの非常に多く(七十三篇)その他コラ、アサフ等もダビデの楽人であった関係上、古き時代において詩篇を悉くダビデの作と見る人もあるに至っていた。近代はその極端なる反動が起っており、学者によっては詩篇の詩は悉くマカベウス時代(紀元前二世紀)以後のものであると主張する者もあるに至っている。勿論詩各篇の表題は前述せる歌集の表題より来れるものと見るべく、従って「ダビデのうた」とあるも必ずしもダビデの作と断定することはできないけれども、さらばとてダビデの作にあらざる証拠ともなし得ないことは勿論である。学者は詩の内容および用語より判断してその詩の作者作詩の機会および時代を決定せんとしているけれども、これは非常に不完全なる独断であって、今日の学問の程度ではこれによって詩篇の作者および時代を決定することはできない。今日の学者の所説はやや行過ぎの感あり、おそらく今後学術の進歩と共に再びダビデの詩が案外に多きを占むることを知るに至ることは有り得ることであり、その他預言者時代のもの、バビロン捕囚時代のものも相当に多く、それ以後のものも若干あり、マカベウス時代のものも少数混合しているであろうと想像することができる。ただし詩篇全体が今日のごとき形に編纂されたのは比較的新しき時代と見るべきであるけれども、七十人訳の訳者の所持せる詩篇が今日の詩篇と大差なきを見ても(篇別に若干の差あり)詩篇が今日の形を取りしは相当に旧き時代であったことを見ることができる。

 

三、詩篇の形式及び音律

ヘブル語の詩は各行の音節の数、およびその各行の終の韻を合せる形式によらない、この点漢詩および欧州語の詩とその形式を異にしているのである。唯その強調アクセントの数を二、三、四等の数となし、これを繰返すことによって大体の音律を成すようにできている。その強調アクセントの数は必ずしも一つの詩につきて全部一定ではない。大体においてヘブルの詩は朗詠的にできているので、その調子は音節数または行尾の協音よりもむしろ内容による調子に重きを置き、節や句を並列し、その意味をあるいは繰り返し、あるいは対立せしめ、あるいは敷衍する等によりて詩の内容に一つの律動を与えて詩を美化しているのである。従ってヘブルの詩は他国語に翻訳せらるる場合、原詩の美を失わない特徴を持っている。

 

四、詩篇の内容

詩篇の詩は神に対する詩人の心情のあらゆる方面の偽らざる吐露であって、すなわち宗教詩である。他民族においてそれぞれその宗教詩を有っているけれども、この詩篇のごとくに内容的にも外形的にも、また数においても豊富なるものは他に存在しない。その内容としては敵の攻撃その他苦難に際して神に祈り、救を求むるの叫びあり、またこれらより救われし者の感謝と歓呼あり、また神の律法に対する尊敬と悦服の心を示すものあり、また神の自然界に対する統治を賛美するものあり、また神の世界的支配を望みこれを讃頌するものあり、また自己の罪の懺悔とその赦免の歓喜とを歌えるものあり、またエルサレムにおける礼拝の歓びをたたうるものあり、その他イスラエルの国民的苦難、感謝、歓喜、希望等を個人的立場において歌えるものと見るべきものあり、多種多様である。唯そこに一貫せるものはエホバに対する嬰児のごとき心情である。中にはメシヤ預言と解せらるる詩もあるけれども、作者自身これを意識して預言したのではなく、その純なる心とその信仰に立つが故の苦難と、これより救出さるべき希望とは、メシヤの来臨によりてのみ完全に実現すべき性質のものであることが、その詩を預言的たらしめるのであり、また国民詩と目すべきもの(すなわち作者が個人ではなく国民であると見ゆるもの)もあるけれども、これとても作者の個人的経験がその内容において国民的経験と同一の場合も有り得るのであることを思うべきである。すなわち詩は全体において個人的の色彩が多いけれども、個人が国民的感情をもって歌えるものも多く、またエホバの民としての個人である関係上これらが詩篇の構想をして非常に雄大なるものたらしむる所以をなしている。

 

五、詩篇の效用

詩篇はエホバを信ずる民の心の姿である故、エホバを信ずる者の心に何時も甚大なる共鳴と感動とを与うることができる。この点において旧約聖書の中、最も新約聖書に近いものは詩篇であるということができる。人は皆詩篇を繙いてそこに自己の心の姿を見ることができるのであって、信仰生活において我らの経験するあらゆる苦痛、歓喜、感謝、讃美の心は凡てその共鳴者および慰安者を詩篇の中に見出すことができる。それ故に主イエスやその使徒たちは勿論の事、古来多くの信仰の聖者や信仰の英雄たちは、この詩篇の中に彼らの力と慰藉と奨励と歓喜とを見出すことができた。今日といえどもこのことは変わらない。