ローマの信徒への手紙4章15節
実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。
[→ネストレ引照]
●ローマの信徒への手紙 3章20節
3章20節 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
●ローマの信徒への手紙 7章7節
          ◆内在する罪の問題
7章7節 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
●ローマの信徒への手紙 7章10節 - 25節
7章10節 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。
7章11節 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。
7章12節 こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
7章13節 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。
7章14節 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
7章15節 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
7章16節 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
7章17節 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
7章18節 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
7章19節 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
7章20節 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
7章21節 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
7章22節 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
7章23節 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
7章24節 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
7章25節 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
●コリントの信徒への手紙一 15章56節
15章56節 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
●ガラテヤの信徒への手紙 3章10節
3章10節 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。