緒言
[ガラテヤの教会]ガラテヤに二つの意義あり、その一は紀元前280年頃東欧および小アジアの戦乱に乗じてゴール地方(今のフランス東南部)よりゴール人の軍族が東漸して遂に小アジアの中央高原の北部に土着するに至りしその地方を指し、その二は紀元前25年頃ローマの一行政区画として定められたるガラテヤを指している。この後者は本来のガラテヤの外にルカオニヤ、ピジデヤ、イサウリアおよびフルギヤの東南部を含む広義のガラテヤである。パウロが本書簡を送りしはこの二者のいずれなるやにつき今日も二説相対立し、前者なりとするものを北部ガラテヤ説、後者なりとするものを南部ガラテヤ説と称し、双方とも有力なる学者の支持を受けている。予はラムゼー、ツァーン等の説に従い南部ガラテヤ説を採る。その故は(1)使徒行伝にパウロが北部ガラテヤに伝道せることの詳細なる記事なきこと、(2)使18:23のガラテヤは使13章14章に詳述せらるる南部ガラテヤの諸市と見ざれば理解困難なること、(3)使16:6は「フルギヤのガラテヤ地方」と読むべきでフルギヤの中で行政区画としてガラテヤに属する地方の意味であると解すべきこと、(4)パウロは地方名を呼ぶ時に当時ローマ帝国の行政区画によりこと多きこと(1コリント16:19.2コリント8:1。9:2。ガラテヤ1:22。1テサロニケ2:14)、(5)パウロは一度ならず(1:9。2:5)二度までも(4:13)その地に伝道せる形跡あることなどを掲ぐることができる。この南部ガラテヤはパウロが第一伝道旅行の際に訪問し第二伝道旅行において再びこれを訪問せる(使16:1−5)ピシデヤのアンテオケ(使13:14)、イコニウム(使13:51)、ルステラ(使14:6)、デルベ(使14:20)等の諸都市を含み、彼の設立せる教会はこれらの地方にあった。
[本書を認(したた)めし理由]ガラテヤ地方の人々はパウロが始めてその地に伝道せる際は非常に彼を歓迎し、彼を尊敬した(4:13−15)。然るにユダヤ主義のキリスト者が彼らの中に入り来り、信仰のみにては救われず信仰と共に割礼を受け、その他の律法を守ることが救いに必要なることを教え始め、またパウロの使徒職に対する否認的態度を示し、またこれを教うる者があった。かかる教えはキリストの福音そのものを破壊してユダヤ教に逆転せしめ、キリストの十字架の死を空しくすることなので、パウロは断然これに反対し、己の真の使徒たることと信仰のみによりて救わるる教理とを釈明した。ユダヤ教に対するキリスト教のいかに革命的であるかを知らんがためには本書は最良の書簡である。
[本書の特質]以上のごとき事情の下に認(したた)められし書簡なるがゆえに本書は徹頭徹尾戦闘的、弁駁的論調をもって終始しており、パウロの書簡中にても最も活気と力に充てるものである。内容においてロマ書に類似しているけれどもロマ書は一層説明的であり、論調においてコリント後書に類似しているけれどもコリント後書よりも一層戦闘的でかつ教理的である。蓋しガラテヤにおいては福音の根本に動揺を来さんとしていたのでパウロの熱情が一層激しく爆発したためであろう。
[本書の内容]従って本書の内容はこの目的に叶い、まず自己の使徒職の人間的のものにあらず、神より授けられしものなることを強調して、その述ぶる福音の権威を証明したる後(1、2章)、進んで信仰のみによって義とせらるることと律法主義との根本的差別を明らかにし(3、4章)、最後に信仰による自由と行為との関係を示して自由を濫用せざらんことをすすめている。(5、6章)。全編にパウロの自由なる信仰と自由なる信仰により生るる行為との放香が漲(みなぎ)っており、実に「キリスト者の自由の大憲章」である。
[認(したた)められし時と場所]この書簡がパウロの生涯のいずれの部分に属するやは確実に決定し難い。従ってその時と場所とにつきても諸説ありて一定しない。パウロの書簡中最古のものとして第二伝道旅行中53年コリントより認められしとする説(Z0)や最も遅く58年頃と見る説もあれど、使18:19のエペソに至りてそこよりこれを認めしものとしこれを54、55年の頃と見る説が最も適当であろう。