黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ヨハネ伝

ヨハネ伝第6章

分類
3 イエスとユダヤ主義との争闘 5:1 - 11:57
3-2 イエス、ガリラヤに其の栄光を示し給う 6:1 - 7:1
3-2-1 イエス五千人を養い給う 6:1 - 6:15

註解: エルサレムにおいて受入れられざりしイエスはそこを去りてガリラヤに赴き給うたマタ4:12−14:32。マコ1:14−6:49の間の記事はこの時に始まっており、ヨハネはこれを大体に省略してこの一章にまとめ、唯五千人を養い給える奇蹟と海の上を歩み給える奇蹟の二つのみを記している。而してガリラヤにおけるイエスの声望がここに凋落を来している悲しむべき光景を描いている。

6章1節 この(のち)イエス、ガリラヤの(うみ)(すなは)ちテベリヤの(うみ)彼方(かなた)にゆき(たま)へば、[引照]

口語訳そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。
塚本訳そののち、イエスはガリラヤ湖すなわちテベリヤ湖の向こう岸に行かれた。
前田訳そののちイエスは、ガリラヤはテベリア湖の向こう岸に行かれた。
新共同その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
NIVSome time after this, Jesus crossed to the far shore of the Sea of Galilee (that is, the Sea of Tiberias),
註解: 「この後」は漠然たる時日を指し5:1が仮庵の祭とすればその後ある期間の後、イエスはエルサレムを去り、マタ4:13によりカペナウムに住み給い、遍(あまね)くガリラヤを巡りて或は教え或は癒しなどし給いて、ついに過越の祭に近き頃この場所に来り給うた。共観福音書(引照1)にはこの前後の事情および動機が一層詳細に記されている。ルカ伝によればこの事件はベテサイダユリウスで起った。
辞解
[テベリヤの海] ガリラヤ湖の別名でローマ皇帝チベリウスの名に因みてチベリアスの町をヘロデが建ててからこの名称を得た。外国人にはこの名の方が解り易かったのであろう。
[彼方] 湖水の東岸

6章2節 (おほい)なる群衆(ぐんじゅう)これに(したが)ふ、これは()みたる(もの)(おこな)ひたまへる(しるし)()(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。
塚本訳多くの群衆がついて行った。病人に行なわれたかずかずの徴[奇蹟]を見たからである。
前田訳多くの群衆が彼に従って行った。彼が病人に施された徴を見たからである。
新共同大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
NIVand a great crowd of people followed him because they saw the miraculous signs he had performed on the sick.
註解: イエスはむしろ群衆を避けて静かな処を選び給うたのに(マタ14:13)その欲求は充たされなかった。群衆はイエスの為し給える奇蹟に引付けられたのである。かく群り来たれる人々が本章の終りにおいてみな彼に躓きしを見よ。人の心はかくまでも変り易いものである。

6章3節 イエス(やま)(のぼ)りて、弟子(でし)たちと(とも)にそこに()(たま)ふ。[引照]

口語訳イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。
塚本訳イエスは山にのぼって、弟子たちとそこにお坐りになった。
前田訳イエスは山に上って、そこに弟子たちとすわられた。
新共同イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
NIVThen Jesus went up on a mountainside and sat down with his disciples.

6章4節 (とき)はユダヤ(びと)(まつり)なる過越(すぎこし)(ちか)し。[引照]

口語訳時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。
塚本訳ユダヤ人の祭りである過越の祭が間近であった。
前田訳ユダヤ人の祭りである過越が間近かった。
新共同ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
NIVThe Jewish Passover Feast was near.
註解: 場所と時とを掲げてこの事件の環境を明らかにしている。過越に近きことを特にここに掲げし所以は、まさに多くの人がエルサレムに上るべきその時期にイエスはガリラヤに止まり給いて、五千人の大衆に食を与えることによりて、荒野におけるマナの出来事を連想し、従って遡ってエジプトよりの過越の事実が心に浮び来ったのであろう(Z0)。これがついにキリスト教会の過越の祭ともいうべき聖餐式に関連あるイエスの言となりて示されし所以であった(53節)。

6章5節 イエス()をあげて(おほい)なる群衆(ぐんじゅう)のきたるを()て、ピリポに()(たま)ふ『われら何處(いづこ)よりパンを()ひて、()人々(ひとびと)(くら)はすべきか』[引照]

口語訳イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。
塚本訳イエスは目をあげて、多くの群衆があつまって来るのを見ると、ピリポに言われる、「どこからパンを買ってきて、この人たちに食べさせようか。」
前田訳イエスは目をあげて、多くの群衆が彼のところに来るのを見て、ピリポにいわれる、「この人たちに食べさせるように、どこでパンを買おうか」と。
新共同イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
NIVWhen Jesus looked up and saw a great crowd coming toward him, he said to Philip, "Where shall we buy bread for these people to eat?"
註解: 神は時々我らに解決を与え得ざる質問を発して我らの信仰を試み給う。飲食もを忘れてイエスに従い来る群衆の熱心を見よ。我らも凡てをすててイエスに従う場合には彼は必ず我らを飢えしめないであろう。

6章6節 かく()(たま)ふはピリポを(こころ)むるためにて、(みづか)()さんとする(こと)()(たま)ふなり。[引照]

口語訳これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。
塚本訳こう言われるのはピリポを試すためで、自分ではどうするか、わかっておられた。
前田訳こういわれたのは彼を試みるためであって、自分ではどうするか知っておられた。
新共同こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
NIVHe asked this only to test him, for he already had in mind what he was going to do.
註解: 共観福音書の記者の触れなかった点をヨハネは洞見しているのであって、イエスは集い来る群衆を見て早く既にその心中に何を為すべきかを明らかにせられたのであった。父なる神がイエスにこの機会を与えてその栄光を顕わさしめ給うたのである。唯ピリポを教訓せんがために不可能の問題を質問の形をもって提出し給うたのであって、彼が信仰的の答を為すを得るや否やを「試る」ためであった。なぜピリポに問い給えるやは明らかではない。おそらくピリポの性質はかかる問題によりてその信仰を深めらるる必要があったほど幼稚であったのであろう。(注意)共観福音書に弟子たちの方よりこの問題を提供した形になっているのは、弟子たちの思想を主として録したからであり、ヨハネ伝にはイエスの心の働きを主として書いたのである。

6章7節 ピリポ(こた)へて()ふ『()(ひゃく)デナリのパンありとも、人々(ひとびと)すこしづつ()くるになほ()らじ』[引照]

口語訳すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。
塚本訳ピリポが答えた、「二百デナリ[十万円]のパンでも、みんなに少しずつも行き渡らないでしょう。」
前田訳ピリポは彼に答えた、二百デナリのパンもめいめいが少しずつ受けるにさえ不十分でしょう」と。
新共同フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
NIVPhilip answered him, "Eight months' wages would not buy enough bread for each one to have a bite!"
註解: もし我ら自己の能力、自己の資産をもって凡てを為さんとする時必ず行詰る時が来るであろう。我らは常にキリストに連なり、彼が我らを用い給うようにすべきである。ピリポの答も、自己の力をもって凡てを為さんとする計画に過ぎず、而して結局その不可能を発見せるのみであった。二百デナリは二百日分の労銀に相当し(マコ6:37にもこの額を記している)約七十円(▲1930年頃の日貨の価値。なお12:5註▲▲参照)に相当している。「かかる大金をもってしても」という意味である。

6章8節 弟子(でし)一人(ひとり)にてシモン・ペテロの兄弟(きゃうだい)なるアンデレ()[引照]

口語訳弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、
塚本訳弟子の一人で、シモン・ペテロの兄弟のアンデレがイエスに言う、
前田訳弟子のひとりで、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスにいう、
新共同弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
NIVAnother of his disciples, Andrew, Simon Peter's brother, spoke up,

6章9節 『ここに一人(ひとり)童子(わらべ)あり、大麥(おほむぎ)のパン(いつ)つと(ちひさ)(さかな)(ふた)つとをもてり、されど()(おほ)くの(ひと)には(なに)にかならん』[引照]

口語訳「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。
塚本訳「ここに大麦パン五つと魚二匹持っている青年がいますが、こんな大勢の人に何の役に立ちましょう。」
前田訳「ここに大麦のパン五つと魚二匹持っている若者がいますが、それもこの大勢には何になりましょう」と。
新共同「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
NIV"Here is a boy with five small barley loaves and two small fish, but how far will they go among so many?"
註解: アンデレが何の役にも立たないと思いつつ提供せる材料が、意外にも主イエスの祝福を受けて五千人を養うことができた。キリストこれを祝用し給うとき人間の目には無価値に見ゆるものも偉大なる価値を発揮することができる。我らも自己の無価値を憂うるを要しない。自己をイエスに提供してその祝用にまかすべきである。
辞解
[シモン・ペテロの兄弟] 特に「シモン・ペテロの兄弟」と言ったのはペテロの名が当時小アジア地方にも特によく知れていたからであろう。
[大麦のパン] 最下等の食物。

6章10節 イエス()ひたまふ『人々(ひとびと)()せしめよ』その(ところ)(おほ)くの(くさ)ありて人々(ひとびと)()せしが、その(かず)おほよそ()(せん)(にん)なりき。[引照]

口語訳イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。
塚本訳イエスが言われた、「人々をすわらせなさい。」その場所には草がたくさんあった。そこで人々がすわった。その数、男五千人ばかり。
前田訳イエスはいわれた、「人々をすわらせなさい」と。そこには草がたくさんあったので人々はすわった。その数は男およそ五千人であった。
新共同イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
NIVJesus said, "Have the people sit down." There was plenty of grass in that place, and the men sat down, about five thousand of them.
註解: 丘陵起伏するペテサイダ・ユリウスの地、四月の新緑に地は緑の毛氈を敷きつめていた。五千人の大衆(女と子供はこの外)が百人五十人ずつの列をなしてこの毛氈の上に坐した(マコ6:40)。イエスの大なる奇蹟を見るに最も相応しき状態に置かれたのである。

6章11節 ここにイエス、パンを()りて(しゃ)し、()したる人々(ひとびと)(わか)ちあたへ、また(さかな)をも(しか)なして、その(ほっ)するほど(あた)(たま)ふ。[引照]

口語訳そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。
塚本訳するとイエスは(いつも家長がするように、)そのパンを手に取り、(神に)感謝したのち、(裂いて、)坐っている人々に分け、魚も同じようにして、ほしいだけ分けておやりになった。
前田訳そこでイエスはパンを取り、感謝してから、すわった人々に分け、魚も同じようにして、彼らの欲するだけ与えられた。
新共同さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
NIVJesus then took the loaves, gave thanks, and distributed to those who were seated as much as they wanted. He did the same with the fish.
註解: この時イエスは一家の家長の態度を取り、ユダヤ人が食事の際に為す習慣に従い(ルカ14:30)パンと肴とを取りてまず感謝をささげ給うた。唯イエスの感謝は形式的ではなく、霊の力の籠ったものであり、そこからこの奇蹟が生れた。この態度は深く弟子および群衆に銘じたことであろう。パンや肴が弟子たちの手に在りて増加するする有様は如何であるかとの好奇的疑問には何らの答も与えられていない、天地創造の光景が我らに不可知であると同じである。

6章12節 人々(ひとびと)()きたるのち弟子(でし)たちに()ひたまふ『(すた)るもののなきように()きたる(あまり)をあつめよ』[引照]

口語訳人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。
塚本訳人々が腹一ぱい食べると、弟子たちに言われる、「余った(パンの)屑を集めなさい、すこしもむだにならないように。」
前田訳彼らが満ち足りると、イエスは弟子たちにいわれる、「余ったくずを集めなさい、何も失われないように」と。
新共同人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
NIVWhen they had all had enough to eat, he said to his disciples, "Gather the pieces that are left over. Let nothing be wasted."
註解: かかる奇蹟を行い給えるイエスがなぜ喰残りのパンを集むることを命じ給えるか。答。彼は神の恩恵の一片すらもこれを空しうし給わず、彼の目には無用なるものは一つだにないからである。我らは神の恩恵の少なき時はつぶやき、これが溢るる時は浪費する。弟子たちの心もこれに類していた。イエスはここに我らに深き教訓を与え給うた。

6章13節 (すなは)(あつ)めたるに、(いつ)つの大麥(おほむぎ)のパンの()きたるを(くら)ひしものの(あまり)十二(じふに)(かご)滿()ちたり。[引照]

口語訳そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。
塚本訳そこで集めると、人々が食べのこした五つの大麦パンの屑で、十二の篭がいっぱいになった。
前田訳そこで彼らが集めると、大麦のパン五つの食べ残しのくずで十二の寵がいっぱいになった。
新共同集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
NIVSo they gathered them and filled twelve baskets with the pieces of the five barley loaves left over by those who had eaten.
註解: かく余分にパンを増し給いしことによりイエスは水を葡萄酒になし給いし場合(2:1−11)と同じく、神の能力と恩恵の満ち溢るる姿を示し給えるものである。

6章14節 人々(ひとびと)その()(たま)ひし(しるし)()ていふ『()にこれは()(きた)るべき預言者(よげんしゃ)なり』[引照]

口語訳人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。
塚本訳人々はイエスが行われた徴[奇蹟]を見て、「確かにこの人は、世(の終り)に来るあの預言者だ」と言った。
前田訳人々はイエスがなさった徴を見て、「これこそ世に来る預言者にちがいない」といいふらした。
新共同そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
NIVAfter the people saw the miraculous sign that Jesus did, they began to say, "Surely this is the Prophet who is to come into the world."
註解: 彼らにこの奇蹟を示し給える所以は彼らをして霊の国における饗宴を思い、キリストより豊かに霊の賜与にあずかることを得しめんがためであった。然るに彼らは単に「徴を見」たのみで彼を「世に来るべき預言者」(1:21註参照。申18:18)すなわちメシヤであると早呑込みをなし、彼らが要求するごときメシヤの王国が地上に来らんとしていると考えたのであろう。非常に危険な誤り易き思想である。この霊界の事実に対する理解力の欠乏がついに彼らがイエスを離るる原因となったのである。

6章15節 イエス(かれ)らが(きた)りて(おのれ)をとらへ、(わう)となさんとするを()り、(また)ひとりにて(やま)(のが)れたまふ。[引照]

口語訳イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。
塚本訳イエスは人々が来て、自分を(エルサレムに)攫って王にしようと計画しているのを知り、自分ひとり、またも山に引っ込まれた。
前田訳イエスは彼らが来て自らを捕えて王にしようとするのを知って、ふたたびひとり山へ引き込まれた。
新共同イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
NIVJesus, knowing that they intended to come and make him king by force, withdrew again to a mountain by himself.
註解: ここにサタンが乗ずべき機会があった(マタ4:9)。イエスは神の国を建設せんがためにまず人類の罪を負いて十字架の途に進むべきか、または今直ちに主となって神の国を建てんか、この二つの途の分岐点に立っていた。前者は神の声であり、後者はサタンの声であった。前者に苦痛多く、後者に誘惑が多かった。人民は前者を理解せず、後者を希望し無理にもイエスを捕えて王とせんとした。イエスはこの群衆の誤りを正し、この誘惑と戦わんがために弟子たちを「強て」(マタ14:22。マコ6:45)船に乗らせ自らは山に遁れて「祈り」(マタ14:23。マコ6:46)給うた。徴を見て信ずることの無価値を明らかにここに示している。
辞解
[とらへ] harpazô は掠奪すること、暴力をもって彼をとらえんとしたのであった。
要義 [五千人を養い給える奇蹟について]この奇蹟は四福音書全部に共通なる唯一の奇蹟である点においてその著しき重要さを示している。而してこの奇蹟は、その事実そのものが異常なる出来事たるのみならず、なお多くの教訓を我らに与えている。すなわち(1)神の国と神の義とを求めてイエスに従うものは必ず必要の糧を与えらるること、あたかも荒野においてイスラエルがマナを与えられ、またこの奇蹟においてパンを与えられしと同様なること、(2)我らの目に如何に価値なきものといえども、イエスこれを祝福し給えば計り得ざる価値を発揮し得ること、(3)我らまず神に信頼して彼の命を待ちて然る後に計画し計量すべきこと、(4)神の与え給う飲食は常に感謝をもってこれを飲食し決して感謝なしにこれを採らざること「感謝なしに食するものは神の賜物を涜すもので野獣のごとくに飲食するのである」こと(C1)、(5)神は我らに贅沢なる食物を与え給わないこと、(6)神は如何なるパンの残片をもこれを棄て去り給わないと同じく、我らの中の如何なるものもこれを無視し給わないこと、(7)而してこれらの凡てが天国の民の姿であること等の教訓をこの中より学ぶことができる。

3-2-2 イエス水上を歩み給う 6:16 - 6:21

註解: イエスの海上を歩み給える奇蹟はマタ14:22−32。マコ6:45−52に一層詳細に記されている。

6章16節 (ゆふべ)になりて弟子(でし)たち(うみ)にくだり、[引照]

口語訳夕方になったとき、弟子たちは海べに下り、
塚本訳夕方になると、弟子たちは湖の岸に下って、
前田訳夕になると、弟子たちは湖に下り、
新共同夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。
NIVWhen evening came, his disciples went down to the lake,
註解: イエスは祈りのために山に残り、弟子たちを強いて先に海に下らせしめた結果である。

6章17節 (ふね)にのり(うみ)(わた)りて、カペナウムに()かんとす。(すで)(くら)くなりたるに、イエス(いま)(きた)りたまはず。[引照]

口語訳舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウムに行きかけた。すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった。
塚本訳自分たちだけ舟に乗り、湖の向こう岸のカペナウムへ出かけた。もう暗くなってしまったのに、イエスはまだもどって来ておられなかったのである。
前田訳舟に乗って向こう岸のカペナウムヘ出かけた。もはや暗くなったのに、イエスはまだ彼らのところへ来られなかった。
新共同そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。
NIVwhere they got into a boat and set off across the lake for Capernaum. By now it was dark, and Jesus had not yet joined them.
註解: 彼らはイエスが船なしに帰り給うことが困難なのを知り、イエスに強いられたにもかかわらず、イエスが後より来り給うならんかとそれとなしに待ったのであろう。然るに未だ来り給わず、止むを得ずまず乗り出したことの意味が言外に表われている。

6章18節 大風(おほかぜ)ふきて(うみ)ややに荒出(あれい)づ。[引照]

口語訳その上、強い風が吹いてきて、海は荒れ出した。
塚本訳湖は大風が吹いて荒れていた。
前田訳吹きすさぶ大風で湖は荒れていた。
新共同強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。
NIVA strong wind was blowing and the waters grew rough.
註解: ガリラヤ湖には時々急に突風が起ることがある。この時もこの種の場合であろう。

6章19節 かくて()()(じふ)(ちゃう)こぎ()でしに、イエスの(うみ)(うへ)をあゆみ、(ふね)(ちか)づき(たま)ふを()(おそ)れたれば、[引照]

口語訳四、五十丁こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。
塚本訳彼らは二十五か三十スタデオ[五キロか六キロ]ばかり漕ぎ出したとき、イエスが(あとから)湖の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、こわくなった。
前田訳さて、二十五か三十スタデオ漕ぎ出したとき、イエスが湖の上を歩いて舟に近づかれた。それを見て、彼らはおそれた。
新共同二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。
NIVWhen they had rowed three or three and a half miles, they saw Jesus approaching the boat, walking on the water; and they were terrified.
註解: イエスの身体は時に天上の復活体に類すと思わるるごとき異常ななる状態を呈し(マタ17:1以下の変貌、また人の心を透視し給うごとき)普通の自然法則の支配に打ち勝つ場合が少なくなかった。弟子たちが彼を見て変化の者なり(マタ14:26)として懼れたのも無理なきことであった。
辞解
[四五十丁] 原語二十五乃至三十スタデアで一スタデアは約百間である。
[海の上] epi tês thalassês 21:1と同文字で海辺とも解することができ、またかく解すべしとする学者があるけれども前後の関係上不可である。

6章20節 イエス()ひたまふ『(われ)なり、(おそ)るな』[引照]

口語訳すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。
塚本訳イエスが言われる、「わたしだ、こわがることはない。」
前田訳しかし彼はいわれる、「わたしだ。おそれるな」と。
新共同イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
NIVBut he said to them, "It is I; don't be afraid."
註解: この御言は深く弟子たちを慰め強くその心に印象したことであろう。マタイもマルコも同一の語をもってこれを記している。我らの心嵐になやむ時、我らイエスの御顔を仰ぐならば彼はそこに来給いて「我なり懼るな」と宣うであろう。唯彼を信ぜざる者にとりてはこの同じ語が懼れの原因となる。18:6を見よ。

6章21節 (すなは)ちイエスを(ふね)(よろこ)(むか)へしに、(ふね)(ただ)ちに()かんとする()()けり。[引照]

口語訳そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。
塚本訳そこで舟に迎えようと思っていると、その暇もなく、舟は目的地についた。
前田訳そこで舟に迎えようとしているうちに、じきに舟は彼らの目ざす地に着いた。
新共同そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
NIVThen they were willing to take him into the boat, and immediately the boat reached the shore where they were heading.
註解: 風止みて船は容易に目的地に着いた。一晩嵐と戦った弟子たちよりすれば風凪たる後の時間は一瞬間ののごとくに思われた。嵐と戦う人生の船においてもしイエスが来り給うならば、船は一瞬にして目的地に達するであろう。
辞解
[歓び迎えしに] 「迎えんとしたるに」と解する学者もある(H0、W2、M0)。文字の上よりはかく解し易いけれども本文のごとく解することは不可能ではない(Z0、A1、G1)。
要義 [海上を歩み給える奇蹟について]ユダヤ人はイエスを捕えて王たらしめんとした。されど彼らは単にイエスをイスラエルの王となし、地上の国の支配者たらしめんとしたに過ぎなかった。イエスはパンの奇蹟に亞(つ)ぐにこの奇蹟をもってして、その自然界の支配者なることを示し給い、同時に彼がやがて十字架にかかりて弟子たちより取り去られ、弟子たちのみ強いて荒波の中に漂いてこれと戦わなければならない状態に置かるることを示し給うたのである。その時復活昇天し給えるイエスは霊をもって彼らの処に来り、「我なり、懼るな」と宣い、彼らイエスをその心に迎うる時、この世の荒波すなわち迫害も困難も直ちに終息して彼ら直ちにその目的を達することができるのである。これ霊界の事実として我らもまた経験することができる事柄である。

3-2-3 天よりのパンの説教 6:22 - 6:59
3-2-3-イ 群集イエスを探す 6:22 - 6:25

6章22節 ()くる()(うみ)のかなたに()てる群衆(ぐんじゅう)は、一艘(いっさう)のほかに(ふね)なく、(また)イエスは弟子(でし)たちと(とも)()りたまはず、弟子(でし)たちのみ()でゆきしを()[たり]。[引照]

口語訳その翌日、海の向こう岸に立っていた群衆は、そこに小舟が一そうしかなく、またイエスは弟子たちと一緒に小舟にお乗りにならず、ただ弟子たちだけが船出したのを見た。
塚本訳あくる日、なお湖の向こう岸(すなわち東の岸)にのこっていた群衆は、(きのうの夕方)そこには一艘のほか小舟がなく、しかもイエスはその舟に弟子たちと一しょに乗らず、弟子たちだけがのって行ったことを知っていた。
前田訳あくる日まだ湖の向こう岸にいた群衆は、そこに舟が一隻しかなく、しかもイエスは弟子たちとともに舟に乗らず、弟子たちだけが乗って行ったことを知っていた。
新共同その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。
NIVThe next day the crowd that had stayed on the opposite shore of the lake realized that only one boat had been there, and that Jesus had not entered it with his disciples, but that they had gone away alone.
註解: 「明くる日」は24節の「船に乗り」に関連し「海のかたは」は弟子たちがすでにガリラヤ湖の西岸に達してより見てその東岸で、昨日の奇蹟の行われし場所である。群衆はなおも熱狂していかにしてもイエスを擁立して王となさんとして、彼を探している有様がここに記されている。すなわちイエス・キリストは後に残りたるはず故その付近にいるであろうと探した。いよいよ見出し得なかったので、彼らも西岸に渡らんとした。その時あたかもよし次節のことがあった。
辞解
[見たり] eidon は「見て」 idôn を可とする(原本に二種あり)。「見たり」とすれば「明くる日」にこれを見たこととなり、「見て」とすれば「明くる日」は24節まで連絡する。

6章23節 (とき)にテベリヤより數艘(すうさう)(ふね)(しゅ)(しゃ)して人々(ひとびと)にパンを(くら)はせ(たま)ひし(ところ)(ちか)くに(きた)る)[引照]

口語訳しかし、数そうの小舟がテベリヤからきて、主が感謝されたのちパンを人々に食べさせた場所に近づいた。
塚本訳(すると折りよく、)ほかの数艘の小舟がテベリヤから、主が感謝して人々にパンを食べさせられた場所の近くに来た。
前田訳そこへほかの数隻の舟がテベリアを出て、主が感謝し、群衆がパンを食べたところの近くへ来た。
新共同ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。
NIVThen some boats from Tiberias landed near the place where the people had eaten the bread after the Lord had given thanks.
註解: 原文に括弧なし。イエスを見出し得ず、ついに彼を尋ねてカペナウムの方に赴かんとする群衆にとって、渡しに舟であった。

6章24節 ここに群衆(ぐんじゅう)はイエスも居給(ゐたま)はず、弟子(でし)たちも()らぬを()て、その(ふね)()り、イエスを(たづ)ねてカペナウムに()けり。[引照]

口語訳群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知って、それらの小舟に乗り、イエスをたずねてカペナウムに行った。
塚本訳ところで群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、イエスをさがしに、その小舟に乗ってカペナウムへ行った。
前田訳群衆はイエスも弟子たちもそこにいないのを見ると、舟に乗ってカペナウムへイエスを探しに行った。
新共同群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
NIVOnce the crowd realized that neither Jesus nor his disciples were there, they got into the boats and went to Capernaum in search of Jesus.
註解: 22−24節においてかくまで詳細に記述せる所以は、彼らがイエスをいかに熱心に探し求めていたかを示さんがためであった。彼らはかくしてついにカペナウムに来た。

6章25節 (つい)(うみ)彼方(かなた)にてイエスに()ひて()ふ『ラビ、何時(いつ)ここに(きた)(たま)ひしか』[引照]

口語訳そして、海の向こう岸でイエスに出会ったので言った、「先生、いつ、ここにおいでになったのですか」。
塚本訳そして湖の向こう岸(すなわち西の岸)でイエスを見つけると、言った、「先生、いつここにこられたのですか。」
前田訳そして湖の向こう岸で彼を見つけていった、「先生(ラビ)、いつここにおいででしたか」と。
新共同そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
NIVWhen they found him on the other side of the lake, they asked him, "Rabbi, when did you get here?"
註解: 彼らの驚駭の情をあらわしている。
辞解
[海の彼方] 東岸より見て彼方すなわち西岸でカペナウムの会堂であった(59節)。
[何時云々] 原文よれば単に時刻に関する質問のみならず、かかる場所に来給えることに対する疑惑の念も含んでいる。

3-2-3-ロ キリストは生命のパンなり 6:26 - 6:40

6章26節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『まことに(まこと)(なんぢ)らに()ぐ、(なんぢ)らが(われ)(たづ)ぬるは、(しるし)()(ゆゑ)ならで、パンを(くら)ひて()きたる(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。
塚本訳イエスが答えられた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、あなた達がわたしをさがすのは、(パンの奇蹟でわたしが救世主である)徴を見たからでなく、パンを食べて満腹したからである。
前田訳イエスは答えられた、「本当にいう、あなた方がわたしを探すのは徴を見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。
新共同イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
NIVJesus answered, "I tell you the truth, you are looking for me, not because you saw miraculous signs but because you ate the loaves and had your fill.
註解: イエスの説教はこれより始まる。26−40節は生命のパンに関する議論。41−51節は信仰によりキリストの天より降れるパンなることを知ること、52−59節はキリストとの霊的一致がすなわち信仰なることを凡てパンの問題を捉えて論じ給う。本節の答えは群衆の質問に対する直接の答ではなく、例のごとく彼らの内心を洞見してこれに答え給うたのである。もし彼らは徴を真の意味において見たならば、イエスの神の子に在し給うことを知ったであろう。然るに彼らは徴に対して盲目であって、唯パンのみを見てこれに飽いた(2:23の「徴を見る」もこれに同じ)。彼らは唯物質的この世的満足を求めてイエスを尋ねたのである。

6章27節 ()ちる(かて)のためならで、永遠(とこしへ)生命(いのち)にまで(いた)(かて)のために(はたら)け。[引照]

口語訳朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。
塚本訳(食べれば)無くなる食べ物のためでなく、いつまでもなくならずに、永遠の命に至らせる食べ物のために働きなさい。これは人の子(わたし)があなた達に与えるのである。神なる父上が、(これを与える)全権を人の子に授けられたのだから。」
前田訳無くなる食べ物のためでなく、永遠のいのちへと残る食べ物のために働きなさい。それを人の子はあなた方に与えよう。父なる神が彼にその権限を与えられたから」と。
新共同朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
NIVDo not work for food that spoils, but for food that endures to eternal life, which the Son of Man will give you. On him God the Father has placed his seal of approval."
註解: 昨日食いて今日飢うる物質的の糧は重要ではない、永遠に生きる得べき霊の糧を尋ね求めて努力すべきである。4:13、14参照。▲口語訳に「朽ちない」とあるのは原文にはない。

これは(ひと)()(なんぢ)らに(あた)へんとするものなり、(ちち)なる(かみ)(いん)して(かれ)(あかし)(たま)ひたるに()る』

註解: ここにイエスは始めてパンの奇蹟の真の意味を表示し給うた。すなわちこの奇蹟はイエスがその血と肉とをもって(51、53節)永遠の生命に至るパンを与え給うことの型であった。このことは神がイエスに印して、すなわちこの奇蹟およびその他の証(5:31−47)によりて保証し給うことによりてこれを知ることができる。▲▲直訳「何となれば父なる神はこのイエスに証印を押したから」で神はイエスこそ我らに永遠の生命に至るパンを与え得る方であることを保証したことを意味する。口語訳の理由不明。

6章28節 ここに(かれ)()ふ『われら(かみ)(わざ)(おこな)はんには(なに)をなすべきか』[引照]

口語訳そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。
塚本訳すると人々がたずねた、「(それをいただくために)神の(御心にかなう)業をするには、何をすればよいのでしょうか。」
前田訳そこで彼らはいった、「神のわざをなすにはわれらは何をなすべきですか」と。
新共同そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
NIVThen they asked him, "What must we do to do the works God requires?"
註解: 「神の業」は神の要求し給う行為(複数)の意味であって、いかなる行為(複数)を為したならば永遠の生命に至る糧が与えらるるかを彼らは質問したのである。彼らの心はまず第一に律法的行為を問題とした天において充分にキリストを理解しなかったけれども、ここまで進んで来たことは彼らにとって大なる進歩であった。

6章29節 イエス(こた)へて()ひたまふ『(かみ)(わざ)はその(つかは)(たま)へる(もの)(しん)ずる(これ)なり』[引照]

口語訳イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。
塚本訳イエスは答えられた、「神がお遣わしになった者を信ずること、これが(御心にかなうただ一つの)神の業である。」
前田訳イエスは答えられた、「神がつかわされたものを信ずることが神のわざである」と。
新共同イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
NIVJesus answered, "The work of God is this: to believe in the one he has sent."
註解: イエスはこれに答えて神の要求し給う業(単数)は決して律法上の種々の行為ではなく、唯キリストを信ずることの一つであることを教え給うた。「業」は前節の質問において複数であり本節の答において単数である。永遠の生命に至る糧を得るに必要なる行為は、律法の行為ではなく唯一つ信仰である(ロマ3:28)。ただし信仰は行為の一種であるというのではなく、文章の連絡上かく言ったので、いわば「受動的行為」(C)である。

6章30節 (かれ)()ふ『さらば(われ)らが()(なんぢ)(しん)ぜしために、(なに)(しるし)をなすか、(なに)(おこな)ふか。[引照]

口語訳彼らはイエスに言った、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。
塚本訳そこで彼らが言った、「ではあなたは、どんな徴をわたし達にして見せて、自分を信じさせようとされるのですか。どんなことをされますか。
前田訳彼らはいった、「それならば、どんな徴をなさって、われらが見てあなたを信ずるようになさいますか。どんなことをされますか。
新共同そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
NIVSo they asked him, "What miraculous sign then will you give that we may see it and believe you? What will you do?
註解: 「神の遣わし給えるもの」とはイエス御自身を指すことをば彼らは了解した。唯曩(さき)に彼らの見しパンの奇蹟は地的の徴であって、彼らはイエスを信ぜんがためには天よりの奇蹟がなければならないと信じた(マコ8:11。ルカ11:16)。彼らはマナの奇蹟を天よりの徴と考え、イエスもこれに類する、またこれ以上の徴を行うであろうと考えた。これ27節より彼らの当然期待する処であった。彼らは霊の世界に対して盲目であったからである。

6章31節 (われ)らの先祖(せんぞ)荒野(あらの)にてマナを(くら)へり、(しる)して「(てん)よりパンを(かれ)らに(あた)へて(くら)はしめたり」と()へるが(ごと)し』[引照]

口語訳わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。
塚本訳わたし達の先祖は、(モーセが天から降らせた)マナを荒野で食べました。(聖書に)〃神は天からのパンを彼らに食べさせられた〃と書いてあるとおりです。(あなたもモーセのような徴を見せてください。)」
前田訳われらの先祖は荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からのパンを食べさせられた』と聖書にあるとおりです」と。
新共同わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
NIVOur forefathers ate the manna in the desert; as it is written: `He gave them bread from heaven to eat.' "
註解: ユダヤ人はこの事件を最大の奇蹟と信じモーセをその中保者として仰いだ(出16:12以下参照)。彼らはイエスに向い暗に「汝もかかる徴を示せ」との要求を提出したのである。

6章32節 イエス()(たま)ふ『まことに(まこと)(なんぢ)らに()ぐ、モーセは(てん)よりのパンを(なんぢ)らに(あた)へしにあらず、されど()(ちち)(てん)よりの(まこと)のパンを(あた)へたまふ。[引照]

口語訳そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。
塚本訳そこでイエスは言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、モーセが天からのパンをあなた達に与えたのではない。わたしの父上が、天からの本当のパンを与えられたのである。
前田訳イエスはいわれた、「本当にいう、あなた方に天からのパンを与えたのはモーセではない。わが父があなた方に天からの真のパンをお与えになる。
新共同すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
NIVJesus said to them, "I tell you the truth, it is not Moses who has given you the bread from heaven, but it is my Father who gives you the true bread from heaven.
註解: キリストによる新生命以外の凡てのものは凡て地的にして地のものである。律法もこの中に属する。たといその中に天的の要素があっても、それは唯来るべき天的キリストの予表に過ぎない。ゆえに真の意味において天よりのパンを与えたものはモーセではなかった。イエスのいわゆる天よりのパンはマナよりも一層貴いものであり真の意味における天よりのパンで、それを与え給うものは父なる神である。
辞解
[(私訳)] 「天よりのパンを汝らに与えし者はモーセにあらず」と訳すべきである。
[汝ら] イスラエルの民の意味。

6章33節 (かみ)のパンは(てん)より(くだ)りて生命(いのち)()(あた)ふるものなり』[引照]

口語訳神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。
塚本訳神の(与えられる)パンは天から下ってきて、世に命を与えられるものであるから。」
前田訳神のパンは天から下って世にいのちを与えるものである」と。
新共同神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
NIVFor the bread of God is he who comes down from heaven and gives life to the world."
註解: 「神のパン」は「天よりのパン」と同意義である。神の与え給う真のパンは本来地上には存せず、新たに天より降ったものである。また一時的の生命ではなく永遠の生命(50節を見よ)を世界万民(イスラエルのみならず)に与うるものである。かく言いてイエスは暗に己を指し給うた。マナは真の意味において天より降ったのではなく、また永遠の生命を与えることができない。同様に凡ての宗教も哲学も地より天を窺い視しに過ぎず、真に天より降りしものは唯イエス・キリストのみであることを知るべきである。

6章34節 (かれ)()いふ『(しゅ)よ、そのパンを(つね)(あた)へよ』[引照]

口語訳彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。
塚本訳彼らが言った、「主よ、(もしそうなら、)いつもそのパンを戴かせてください。」
前田訳彼らはいった、「主よ、そのパンをいつも下さい」と。
新共同そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
NIV"Sir," they said, "from now on give us this bread."
註解: 30節において永遠の生命に至る糧のために為すべき業はイエスを信ずるにあることを略了解した彼らは、再びパンの議論のために心奪われてこれを何らか物的のものと解し、これを不断に与えられんことをイエスに乞うた。この世の多くの宗教や哲学はたとい一時的には生命を与えることができても永遠にこれを与うることができない(禅の悟入のごときこれである)。

6章35節 イエス()(たま)ふ『われは生命(いのち)のパンなり、(われ)にきたる(もの)()ゑず、(われ)(しん)ずる(もの)はいつまでも(かわ)くことなからん。[引照]

口語訳イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。
塚本訳イエスが言われた、「わたしが命のパンである。わたしの所に来る者は決して飢えない。わたしを信ずる者は決して二度と渇かない。
前田訳イエスはいわれた、「わたしがいのちのパンである。わたしのところに来るものは決して飢えず、わたしを信ずるものは決して渇かない。
新共同イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
NIVThen Jesus declared, "I am the bread of life. He who comes to me will never go hungry, and he who believes in me will never be thirsty.
註解: ここに至って始めてイエスは問題の核心に突入し給い、「我こそは今まで論じ来たった生命のパンである」と宣言し給うた。而してこのパンを食うには彼に「来る」ことと彼を「信ずる」こととの二つが必要である。イエスを離れ去るもの(66節)、彼を信ぜざるもの(64節)はこの生命のパンに与ることができない。この生命のパンを食するものは永遠に飢渇を覚えない。

6章36節 されど(なんぢ)らは(われ)()てなほ(しん)ぜず、(われ)さきに(これ)()げたり。[引照]

口語訳しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。
塚本訳しかしわたしは(前に)『あなた達はわたしを見たのに、信じない』と言った。
前田訳しかし、わたしがいったように、あなた方は〔わたしを〕見たが信じない。
新共同しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。
NIVBut as I told you, you have seen me and still you do not believe.
註解: 「我を見て」、「我がメシヤとしての働き」(M0)すなわち奇蹟を見てすらも、ユダヤ人はなおイエスのキリストなることを信じなかった。このことをイエス・キリストは曩(さき)に26節に言い給うた。イエスはこれよりユダヤ人の不信を責め、かつ凡てが神の御旨なることを思いてその使命につき慰藉(いしゃ)を感じ給うた。

6章37節 (ちち)(われ)(たま)ふものは(みな)われに(きた)らん、[引照]

口語訳父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。
塚本訳(だが、信じないのは父上の御心である。)父上がわたしに下さるものは皆、わたしの所に来、わたしの所に来る者を、わたしは決して放り出さない。
前田訳父がわたしに賜わるものは皆わたしのところに来、わたしのところに来るものをわたしは決してしりぞけない。
新共同父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
NIVAll that the Father gives me will come to me, and whoever comes to me I will never drive away.
註解: ここでイエスは神学論を語り給えるにあらず、ユダヤ人の不信を責め給うたのである。曰く「汝らは神の選民であると誇っている。しかしながら焉(いずく)んぞ知らん汝らは神より棄てられたものである。何となれば神はその選び給えるものを我に賜い、かくして我に賜いしものは必ずその衷に我を求むる心を生じ、ついに来りて我を信ずるに至るからである(ロマ8:30)。この意味において信仰は各人の自由の意思によるのではなく神の賜物である(エペ2:8)。而して神は彼らをキリストに賜うがために彼らを「引き」(44節)これを「教え」(45節)給う。
辞解
[賜ふものは皆] 単数中性名詞を用い、全信者を一団として取扱っていることに重大なる意義あることに注意すべきである。この節は予定説の根拠となる。

(われ)にきたる(もの)(われ)これを退(しりぞ)けず。

註解: 「退けず」は原文「外に投げ棄てず」で激しい語である。ここにキリストは彼を信じて彼に来るものに対する永遠に変らざる愛護の約束を与え給う。この御言をききてキリスト者の心はキリストにある平安を味わうことができる。かかる愛に満てる招致をききてもなおユダヤ人は彼に来なかった。
辞解
[きたる者] 単数男性名詞でイエスの信者の個人々々に対する愛の関係を表示する。

6章38節 (それ)わが(てん)より(くだ)りしは、()(こころ)をなさん(ため)にあらず、(われ)(つかは)(たま)ひし(もの)御意(みこころ)をなさん(ため)な(ればな)り。[引照]

口語訳わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。
塚本訳(放り出すわけがない。)わたしは、自分のしたいことをするために天から下ってきたのではない。わたしを遣わされた方の御心を行うためである。
前田訳それは、わたしが天から下ったのは、わが心をでなく、わたしをつかわされた方のみ心を行なうためであるから。
新共同わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
NIVFor I have come down from heaven not to do my will but to do the will of him who sent me.
註解: 前節の理由の説明で5:30と6:38の繰返しである。イエスの意思および行為はみな父より出でている。ゆえに絶対の信頼を献げ得るものは彼のみである。

6章39節 (われ)(つかは)(たま)ひし(もの)御意(みこころ)は、すべて(われ)(たま)ひし(もの)を、(われ)その(ひと)つをも(うしな)はずして、(をはり)()(よみが)へらする(これ)なり。[引照]

口語訳わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。
塚本訳そして、わたしに下さったものを一つも無くさず、最後の日にそれを復活させること、これがわたしを遣わされた方の御心である。
前田訳わたしをつかわされた方のみ心は、わたしに賜わったものをひとりも失わず、最後の日に復活させることである。
新共同わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
NIVAnd this is the will of him who sent me, that I shall lose none of all that he has given me, but raise them up at the last day.
註解: 33、35節にイエスが天より降れるパンにして、永遠の生命を世に与うるものなることを述べ、37、38節にイエスは神の御意を為さんがために来り給えることを述べた。ゆえにこの二つの点をまとめてこれを詳述すれば本節のごとくになるのであって、「一つをも失わ」ないように彼らにイエスの血と肉(53節)すなわち生命の糧を与え、而して世の終りの日には(5:29)彼らを霊の体に甦らすることによりて永遠の生命に至らしむることが神の御意であることをイエスは彼らに示し給うた。すなわち神の御意は唯地上の生活におけるパンを与えることではなく、また地上のイスラエルを恢復することでもなく、神の国の民に霊の糧を与えて彼らに永遠の生命を賜い、これを甦らえしむることにある。「これが終局であってその先にはもはや何らの危険はない」(B1)絶対安全の境地である。

6章40節 わが(ちち)御意(みこころ)は、すべて()()(しん)ずる(もの)永遠(とこしへ)生命(いのち)()(これ)なり。われ(をはり)()にこれを(よみが)へらすべし』[引照]

口語訳わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。
塚本訳子(なるわたし)を見て信ずる者が皆永遠の命を持ち、わたしがその人を最後の日に復活させること、これがわたしの父上の御心であるから。(だから信じない者は、父上がわたしに下さらない人たちである。)」
前田訳わが父のみ心は、子を見て信ずるものが永遠のいのちを得、わたしがその人を最後の日に復活させることである」と。
新共同わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
NIVFor my Father's will is that everyone who looks to the Son and believes in him shall have eternal life, and I will raise him up at the last day."
註解: 前節と内容は同一であるけれども関係が異なっている。前節は神がキリストに要求し給う処であり、本節は神が人類に関して希望し給う点でキリストはその欲求に従って我らを終りの日に甦らしめ給う。すなわち父の人類に欲求し給う点は彼らが神の「子」キリストを「見て」熟視して彼を「信ずる」ことによって、永遠の生命を得ることである(3:16)。神の我らに要求し給うことはかくも偉大なる要求であって、我ら死に打勝ちて永遠の神の国に永遠の凱歌を揚げることであり、これがためにイエスをこの世に遣わし給うたのであった。我らの救いの意義の重大なることはこれによりて知ることができる。而してこれは地的思想に囚われていたユダヤ人らの夢想だにしない点であった。最後の一節は折返しのごとくに39、40、44、45節に繰返されており中心問題をなしている。
辞解
[すべて] 37節と異なり男性、すなわち信仰の個人的なるを示す。
要義1 [地より出でし宗教と天より降れる福音]我らの宗教心や(徴)理性や(智慧)または法悦の状態等を基礎とせる救いは真の救いではない。かかる救いは「天より降れるもの」にあらずして、すでに我らの中に神性として存し「天より与えらるるもの」にあらずして自ら発見、理解、悟入するものであるを主張する。またかかるものは「常に与えらるるもの」にあらずして時々与えらるるに過ぎない。天より与えられし永遠不変の生命は唯キリストにあるのみである。ゆえに我らは唯彼を信ずる外にこれを得るの途がない。
要義2 [永遠の生命について]永遠の生命とは単に霊魂の不滅というがごとき思想上の問題ではなく、また法悦の瞬間の絶対永遠性というごとき神秘主義の諸説とも異なっている。永遠の生命は神がキリストを天より降して我らに賜わる処の生命であり、この生命を養うパンは神の賜物なるキリスト(4:10)であり、またこの生命は終には甦らしめられ体を与えられて永遠に神と共に生くることができるのである。而してこの永遠の生命こそ神の切に求め給い与えんとし給う処なることを知りて、我ら神の経綸の偉大なるを讃美せざるを得ないのである(なお復活についてはTコリ15参照)。
要義3 [肉の糧と霊の糧]ユダヤ人が求めし処は肉の糧であり、キリストの与えんとし給えるものは霊の糧であった。今日この世の文明と称するものも、その求むる処は要するに肉の糧であって、衣食の問題、社会改良の問題に過ぎない。人類はすでに死ねる者である以上(5:24、25)これに肉の糧を与え、地上の国を与うることは最大なる問題ではない。而のみならずその固有せる罪性に支配せられ、サタンに囚われている人類は、如何に多くの肉の糧を与うるとも結局暗黒と死と滅亡の中にいるのであって、これらのユダヤ人らと同じく憐れむべき状態にあるのである。ゆえにイエスは彼らに肉のパンを与えることよりも、彼らをローマの束縛より救うことよりも、さらに一層重要なる事実すなわち父なる神の終局の要求をここに示し給うた。すなわち天より下れる霊の糧を与えて彼らをして永遠に生くることを得しめ、終りの日にこれを甦らすることであった。イエスの使命はこれ以下のものではなかった。而して信仰によりて彼を受くるものはこの恩恵に与ることができ、而してこの恩恵に与るものは肉の問題、この世の問題も完全にこれを解決することができる。

3-2-3-ハ 信仰によりて生命のパンを食うべきこと 6:41 - 6:51

註解: 41−51節においてイエスはさらに進んでキリストの天より降れるパンに在すことは、父より与えらるる信仰によりてのみこれを知ることができることを力説し給う。

6章41節 ここにユダヤ(びと)ら、イエスの『われは(てん)より(くだ)りしパンなり』と()(たま)ひしにより、[引照]

口語訳ユダヤ人らは、イエスが「わたしは天から下ってきたパンである」と言われたので、イエスについてつぶやき始めた。
塚本訳ユダヤ人はイエスが「わたしが天から下ってきたパンである」と言われたので、彼のことをつぶやいて
前田訳ユダヤ人はイエスが「わたしは天から下ったパンである」といわれたので彼のことをつぶやきはじめた。
新共同ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
NIVAt this the Jews began to grumble about him because he said, "I am the bread that came down from heaven."

6章42節 (つぶや)きて()ふ『これはヨセフの()イエスならずや、我等(われら)はその(ちち)(はは)()る、(なに)(いま)「われは(てん)より(くだ)れり」と()ふか』[引照]

口語訳そして言った、「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか」。
塚本訳言った、「この人はヨセフの子イエスで、わたし達はその父も母も知っているではないか。どうして今「わたしは天から下ってきた』と言うのだろう、」
前田訳彼らはいった、「これはヨセフの子イエスではないか。われらはその父と母を知っているではないか。どうして今『わたしは天から下って来た』というのか」と。
新共同こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
NIVThey said, "Is this not Jesus, the son of Joseph, whose father and mother we know? How can he now say, `I came down from heaven'?"
註解: 「ユダヤ人」は彼を尋ねて追及し来れる群衆の中にあるもの。「呟く」はイエスの言に対する不満に基く不信と非難であって42節はその内容を示している。彼らはイエスを肉によりて知っているのみであった。イエスはこれに対し、彼が聖霊により処女(おとめ)マリヤより生れ給えることをもって答え給わなかった理由は、たといこの事実を公示するも、イエスを信ぜざるものはこれを否定し嘲弄するに過ぎないからである。このことはイエスを信ずる者にのみ確実なる事実である。

6章43節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『なんぢら(つぶや)()ふな、[引照]

口語訳イエスは彼らに答えて言われた、「互につぶやいてはいけない。
塚本訳イエスが答えられた、「つぶやき合うのをやめよ。
前田訳イエスは答えられた、「互いにつぶやくのはやめよ。
新共同イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
NIV"Stop grumbling among yourselves," Jesus answered.

6章44節 (われ)(つかは)しし(ちち)ひき(たま)はずば、(たれ)(われ)(きた)ること(あた)はず、[引照]

口語訳わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。
塚本訳(わたしを信じないのは、父上が引っ張ってくださらないからだ。)わたしを遣わされた父上が引っ張ってくださらなければ、だれもわたしの所に来ることはできない。(しかし来れば、)わたしはその人をきっと最後の日に復活させる。
前田訳わたしをつかわされた父がお引きでなければ、だれもわたしのところに来られない。しかしわたしはその人を最後の日に復活させよう。
新共同わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
NIV"No one can come to me unless the Father who sent me draws him, and I will raise him up at the last day.
註解: 「汝ら互に呟くとも無益である。我に来り我を信ずるに至ることは、汝らの知識や理性をもってすることができないのであって、父なる神がまず聖霊をもって汝らに近付き、汝らの心を動かし、汝らを引きて我に来たらしめ給うにあらざれば不可能である。その他の方法をもって我に来ることはできない」とイエスは言い給う。マタ16:17参照。ゆえに「あたかも自己の努力によりて神に服従するもののごとくに考えて、神に引かれんことを欲する者にあらずば引かるることなしと唱うるは誤れる不信の断定である。何となれば神に従わんとする意思すらも神より与えられしものであるからである」(C2)。すなわちキリストに対する信仰もまず神我らに働き給うことより始まるのである。

(われ)これを(をはり)()(よみが)へらすべし。

註解: キリストに来る者は必ず終りの日に甦らしめられることを繰返して保証し給う。

6章45節 預言者(よげんしゃ)たちの(ふみ)に「(かれ)らみな(かみ)(をし)へられん」と(しる)されたり。すべて(ちち)より()きて(まな)びし(もの)(われ)にきたる。[引照]

口語訳預言者の書に、『彼らはみな神に教えられるであろう』と書いてある。父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである。
塚本訳預言書に、〃(最後の日に)人は皆神に教えを受けるであろう〃と書いてある。(そして神に引っ張られる者、すなわち本当に)父上に聞き、また学ぶ者は皆、わたしの所に来る。
前田訳預言書に、『皆が神の教え子になろう』と書いてある。父に聞き、また学ぶものはわたしのところに来る。
新共同預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
NIVIt is written in the Prophets: `They will all be taught by God.' Everyone who listens to the Father and learns from him comes to me.
註解: 前節のごとく父に引かるるものは、父より聴きて学ぶの意思を起すようになるのであって、単に無意思に機械的に引かるるのではない、イザヤ54:13よりの引照はこの意味である。かかる者のみがキリストに来るのであって自己の学問や判断や経験のみをもって、キリストに来ることはできない。ユダヤ人らの不信も神に対するこの関係がないからである。
辞解
[預言者たちの書] イザヤ書にこの句があるけれども他の預言者たちも同意見であって、預言者全体を意味すると見なければならぬ。エレ31:33、34。
[彼らみな] イザヤ書においてはイスラエル全体を意味し、ここでは神に選ばれしものの全体を意味する。

6章46節 これは(ちち)()(もの)ありとにあらず、ただ(かみ)よりの(もの)のみ(ちち)()たり。[引照]

口語訳神から出た者のほかに、だれかが父を見たのではない。その者だけが父を見たのである。
塚本訳(聞き、学ぶと言っても、)これはだれかが父上を見たというのではない。神のところから来た者、(すなわちわたし)だけが、父上を見たのである。
前田訳これは、だれかが父を見たというわけではない。神のところから来たもの、その人だけが父を見たのである。
新共同父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
NIVNo one has seen the Father except the one who is from God; only he has seen the Father.
註解: 前節のごとくに父より聴きて学ぶことは、人が直接に父に面接してこれを受けることができる訳ではなく、要するにキリストの許に来りキリストより聴きて学ばなければならない。何となれば「神よりの者」なるキリスト・イエスのみ父を見給いしが故である(1:18)。父は人を引きてキリストに至らしめ、キリストは彼らに父を示しこれを教え給う。イエスが父を見給いしはその受肉以前は勿論であるけれどもその以後も常にその懐にいまして父の御顔を見給う。
辞解
[▲神よりの者] para+第二格は側から離れて来る状態を示す。「神の許よりの者」の意。16:27参照。

6章47節 まことに(まこと)になんぢらに()ぐ、(しん)ずる(もの)永遠(とこしへ)生命(いのち)をもつ。[引照]

口語訳よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。
塚本訳アーメン、アーメン、わたしは言う、(わたしを)信ずる者は永遠の命を持つ。
前田訳本当にいう、信ずるものは永遠のいのちを得る。
新共同はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
NIVI tell you the truth, he who believes has everlasting life.
註解: 人は父を見ることができない。それ故にキリストが天より降れる生命のパンなることもこれを信ずるより外に道がない。その他の方法をもってこれを理解せんとしても不可能である。かくしてイエスはユダヤ人らに対し、最後の結論として彼らに信仰を要求し給い、而してこれに伴う永遠の生命を約束し給うた。

6章48節 (われ)生命(いのち)のパンなり。[引照]

口語訳わたしは命のパンである。
塚本訳わたしが命のパンであるから。
前田訳わたしはいのちのパンである。
新共同わたしは命のパンである。
NIVI am the bread of life.

6章49節 (なんぢ)らの先祖(せんぞ)は、荒野(あらの)にてマナを(くら)ひしが()にたり。[引照]

口語訳あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。
塚本訳あなた達の先祖は荒野でマナを食べたけれども、死んだ。(天から降って来たが、永遠の命がないからだ。)
前田訳あなた方の先祖は荒野でマナを食べたが死んだ。
新共同あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
NIVYour forefathers ate the manna in the desert, yet they died.

6章50節 (てん)より(くだ)るパンは、(くら)(もの)をして()ぬる(こと)なからしむるなり。[引照]

口語訳しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。
塚本訳それを食べれば死なないもの、これが(本当に)天から下ってくるパンである。
前田訳食べれば死なないものこそ天から下ったパンである。
新共同しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
NIVBut here is the bread that comes down from heaven, which a man may eat and not die.
註解: 然らば永遠の生命を得る方法如何。イエスはここに至るまでは単に「我に来る者」「我を信ずる者」とのみ言い給うたけれどもついにここに至りて、それらの言は結局この生命のパンを「食う」ことであることに説き及ぼし給うた。すなわちキリストに来ること彼を信ずることは彼を食うことに他ならざることを示し給うたのである。然らば彼を食うとは如何なることであろうか。
辞解
[(私訳)] 「是は食う者の死ぬることなからんために天より降れるパンなり」。

6章51節 (われ)(てん)より(くだ)りし()けるパンなり、(ひと)このパンを(くら)はば永遠(とこしへ)()くべし。()(あた)ふるパンは()(にく)なり、()生命(いのち)のために(これ)(あた)へん』[引照]

口語訳わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。
塚本訳わたしが天から下ってきた、生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、わたしの肉である。世を生かすために、わたしはこれを(世に)与える。」
前田訳わたしは天から下った生きたパンである。このパンを食べるものは永遠に生きよう。わたしが与えるパンは世のいのちのためのわが肉である」と。
新共同わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
NIVI am the living bread that came down from heaven. If anyone eats of this bread, he will live forever. This bread is my flesh, which I will give for the life of the world."
註解: キリストは彼を食うとは彼の肉を食うことであるとの驚くべき結論に達し給うた。而してキリストの肉は生命を与うるパンであるのみならず、それ自身活きているパンであり、それ自身の中に生命を固有している(5:26)。ゆえにこれを食う者はその生命を享ける。而してキリストは世界万民に生命を与えんがためにその肉を与え給う。彼の肉を与うるとはこれを十字架に釘けて贖罪の死を遂げ給うことを意味する(2:19、3:14、15)。ゆえに十字架の贖罪の死を信じ、彼と霊的一致の状態に入ることは彼の肉を食うことに相当している。あたかも肉を食うことによってこれが我らの肉となるがごとき状態である。かくしてキリストの生命が我らの中に生くるに至るのである(ガラ2:20、エペ3:17)。(注意)「肉を与えん」の意義をキリスト肉体となりて我らの間に宿り給えることを意味すると解する学者があるけれども、「与えん」との未来動詞がその然らざることを示し、またこれを聖餐式の意義に取る学者があるが誤っている(W2)。
辞解
[▲▲之を与へん] 古い写本に欠けている。即ち「我が与えるパンは世の生命の為のわが肉なり」となる。
要義 [如何にして信仰を得るや]この問題につきキリストはパウロと同じく信仰が神の賜物なること、而してキリストの贖罪の死を信ずるにあることを我らに教え給い、ヨハネも全くこれと同一の信仰を有していたことに注意すべきである。神の御霊の働きなしには我ら神を求むることもできず、またキリストに来って彼に聴き彼より学ぶこともできない。而して彼の十字架上の贖いを信ずるものにあらざれば、結局彼の肉を食うということができないのであって、他に如何なる思想、如何なる信仰があってもそれは真の信仰ということができない。

3-2-3-ニ 信仰とはキリストとの霊的一致なり 6:52 - 6:59

註解: イエスはさらに進んでその信仰の内容如何に説き及ぼし給う。ユダヤ人の不理解なる質問を捉えて、巧みにこの高遠なる信仰生活の内容を示し給う処に彼の偉大なる教師に在し給うことを見ることができる。

6章52節 ここにユダヤ(びと)たがひに(あらそ)ひて()ふ『この(ひと)はいかで(おの)(にく)(われ)らに(あた)へて(くら)はしむることを()ん』[引照]

口語訳そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。
塚本訳するとユダヤ人は、「この人は、どうして自分の肉をわたし達に食べさせることができようか」と言って互に議論をはじめた。
前田訳そこでユダヤ人は互いに激論しあった、「どうしてこの人がわれらにその肉を食べさせうるか」と。
新共同それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
NIVThen the Jews began to argue sharply among themselves, "How can this man give us his flesh to eat?"
註解: 「呟き」は進んで「争い」となった。イエスの御言がますますその不可解の程度を増して来るに従い、これを霊的に解せんとするものとその不可解不合理を主張するものとが分かれたからである。かかる疑いを有たずに単純に彼の御言を信ずるものはこの意義をさとることができる。

6章53節 イエス()(たま)ふ『まことに(まこと)になんぢらに()ぐ、(ひと)()(にく)(くら)はず、その()()まずば、(なんぢ)らに生命(いのち)なし。[引照]

口語訳イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
塚本訳イエスが言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、人の子(わたし)の肉を食べず、その血を飲まねば、あなた達の中に命はない。
前田訳イエスがいわれた、「本当にいう、人の子の肉を食べかつその血を飲まねば、あなた方の中にいのちはない。
新共同イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
NIVJesus said to them, "I tell you the truth, unless you eat the flesh of the Son of Man and drink his blood, you have no life in you.
註解: キリストは前の問に答えずに直ちに彼を信ぜざるものの恐るべき運命につき宣告を与え給う。キリストの肉とその血は十字架にかかりて己を我らに与え給えるキリストであり、これを飲み食いすることは信仰により彼と完全なる一致を持つことである。かかる者に永遠の生命があるのであって、これなきものは死の中にいるのである。ユダヤ人といえども同様である。ここにキリストはその肉と血につきて語り給い、その十字架の死とその前に定め給える聖餐式とを予表し給うた(B1)。

6章54節 わが(にく)をくらひ、()()をのむ(もの)は、永遠(とこしへ)生命(いのち)をもつ、われ(をはり)()にこれを(よみが)へらすべし。[引照]

口語訳わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
塚本訳わたしの肉を食い、わたしの血を飲む者は、永遠の命を持つ。わたしはその人を最後の日に復活させる。
前田訳わが肉を食い、わが血を飲むものは永遠のいのちを得る。わたしはその人を最後の日に復活させよう。
新共同わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
NIVWhoever eats my flesh and drinks my blood has eternal life, and I will raise him up at the last day.
註解: 前節と反対の状態すなわち信仰にある者の運命はすなわちこれである。かかる者は現在においてすでに永生を所有し(もつ5:24)、終りの日に向かって復活せしめられる。

6章55節 (それ)わが(にく)(まこと)食物(しょくもつ)、わが()(まこと)飮物(のみもの)なり。[引照]

口語訳わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
塚本訳わたしの肉は本当の食べ物、わたしの血は本当の飲み物だから。
前田訳わが肉は真の食べ物、わが血は真の飲み物である。
新共同わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
NIVFor my flesh is real food and my blood is real drink.
註解: 我らのために犠牲となり給えるキリストの生命より外に我らの霊の生命を養うべき真の飲食物はない。十字架にかかり今甦りて神の右に在し給う活けるキリストを、我ら信仰によって把握する時、彼は真の飲食物として我らの生命を養い給う。

6章56節 わが(にく)をくらひ()()をのむ(もの)は、(われ)()り、(われ)もまた(かれ)()る。[引照]

口語訳わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。
塚本訳わたしの肉を食いわたしの血を飲む者は、わたしに留まっており、わたしも彼に留まっている。
前田訳わが肉を食べわが血を飲むものはわたしにとどまり、わたしも彼にとどまる。
新共同わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
NIVWhoever eats my flesh and drinks my blood remains in me, and I in him.
註解: ここに始めてキリストはその肉を食い血を飲むことの霊的意義を明らかにし給うた。すなわち犠牲として我らのために己を与え給えるキリストを信じ、彼と同化し彼と一致し彼を凡て我がものとなす時、ここにキリストと我らとの霊の交わりは完全に成立つのである。キリストを信ずる信仰とはこの状態を指すのであって、キリストがその全部を我らに与え給い、我らキリストの全部を我らの内に受け、また我らの全部をキリストに献ぐる時、そこに始めて信仰があり、そこに真の霊の交わりがある。
辞解
[居る] menô は「永住する」意味でヨハネ特愛の文字である。

6章57節 ()ける(ちち)(われ)をつかはし、(われ)(ちち)によりて()くるごとく、(われ)をくらふ(もの)(われ)によりて()くべし。[引照]

口語訳生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。
塚本訳生きておられる父上から遣わされたわたしが父上によって生きているように、わたしを食う者も、わたしによって生きる。
前田訳生きたもう父がわたしをつかわされ、わたしも父によって生きるように、わたしを食べるものもわたしによって生きよう。
新共同生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
NIVJust as the living Father sent me and I live because of the Father, so the one who feeds on me will live because of me.
註解: 前節の事実をキリストと神との関係より説明したのであって、父は「活きて」い給い、この父との不可離の霊的関係に立つキリストはこの父の生命を受けて活き給うと同じく、キリストを食いて彼と霊的一致にある者もこのキリストの生命を受けて活きることができる。ゆえに信者がキリストに在りて受くる生命は神の生命で上より生れたものである(3:3註参照)。

6章58節 (てん)より(くだ)りしパンは、先祖(せんぞ)たちが(くら)ひてなほ()にし(ごと)きものにあらず、()のパンを(くら)ふものは永遠(とこしへ)()きん』[引照]

口語訳天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。
塚本訳これが天から下ってきたパンであって、先祖が食べて死んだ(あのマナの)ようなものではない。このパンを食う者は永遠に生きるであろう。」
前田訳これこそ天から下ったパンで、先祖が食べて死んだようなものではない。このパンを食べるものは永遠に生きよう」と。
新共同これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
NIVThis is the bread that came down from heaven. Your forefathers ate manna and died, but he who feeds on this bread will live forever."
註解: ここにおいて永遠に活くることの意義がさらに一層深められたのであって、永遠に活くることは父の生命、キリストの生命をもって生くることである。単に我らの現在の不完全の生命の継続ではない、イエスはパンの奇蹟を機会にこの驚くべき真理に彼らを導き給うた。

6章59節 (これ)()のことはイエス、カペナウムにて(をし)ふるとき、會堂(くわいだう)にて()(たま)ひしなり。[引照]

口語訳これらのことは、イエスがカペナウムの会堂で教えておられたときに言われたものである。
塚本訳これはカペナウムの礼拝堂で教えておられたときに、話されたものである。
前田訳これはカペナウムの会堂で教えながらいわれたことである。
新共同これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
NIVHe said this while teaching in the synagogue in Capernaum.
註解: ヨハネにとりてはこのイエスの御言が印象深く残されていると共に、その語り給える場所も明らかに印象されていた。
要義 [信仰の本質]信仰とは単に神の存在を承認することでもなく、また教理を受入れることでもなく、また教会教団に属することでもなく、儀式礼典に列することでもなく、また霊的問題に熱中せる心の状態でもない。信仰とはイエス・キリストの肉を食い、その血を飲むことである。換言すれば「我らの罪のために付され、我らの義のために甦えらせられ給える」(ロマ4:25)キリストを全部我らのものとなし、我ら自身の生命を全部彼にささげ、彼のこの生命をもって自己の中に生きしむることである。要するにキリストと我らとの完全なる霊の一致が信仰の奥義であって、この状態にあるものはキリストがその霊のパンであり、キリストによりて養われて力付けられ、キリストなしには一日も生くることができない状態にいるのである。「彼の肉を食い、その血を飲む」との御言は寔(まこと)によくこの間の事実を示すものと言うべきである。

3-2-3-ホ 弟子たちの躓き 6:60 - 7:1

6章60節 弟子(でし)たちの(うち)おほくの(もの)これを()きて()ふ『こは(はなは)だしき(ことば)なるかな、(たれ)()()()べき』[引照]

口語訳弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。
塚本訳するとこれを聞いて、弟子のうちに、「(自分の肉を食えとは、)これはひどい言葉だ。誰が聞いておられよう」と言う者が大勢あった。
前田訳さて、これを聞いて、「これは激しいことばだ。だれが聞けよう」という弟子が多かった。
新共同ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
NIVOn hearing it, many of his disciples said, "This is a hard teaching. Who can accept it?"
註解: 十二弟子ならびにその他の弟子たちはイエスの「我が肉を食い我が血を飲め」との語に躓いた。聞くに堪えざる殺伐さと不可解な点とを有っていたからである。もしイエスが彼らの希望のごとくに彼らの王となったならば、彼らはこれをイスラエルの救い主として喜んで彼に従ったであろう。王とならないまでもせめても彼らの道徳の先生として彼らを教えたならば、彼らは安んじて彼に来り彼に躓かなかったであろう。しかしイエスに来るものはそれだけでは足りない。これ彼らの躓いた所以である。

6章61節 イエス弟子(でし)たちの(これ)()きて(つぶや)くを(みづか)()りて()(たま)ふ『このことは(なんぢ)らを(つまづ)かするか。[引照]

口語訳しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。
塚本訳イエスは弟子たちがそのことについて不満を抱いているのを見抜いて彼らに言われた、「このことがあなた達をつまずかせるのか。
前田訳イエスはこのことについて弟子たちがつぶやくのに気づいて、彼らにいわれた、「このことがあなた方をつまずかせるのか。
新共同イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。
NIVAware that his disciples were grumbling about this, Jesus said to them, "Does this offend you?

6章62節 さらば(ひと)()のもと()りし(ところ)(のぼ)るを()如何(いか)に。[引照]

口語訳それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。
塚本訳それなら、もし人の子(わたし)が(地上に下りてくる)前にいた所に上るのを見たら、どうであろう。(そのときあなた達は、肉を食い血を飲むのが、霊の意味であったことに気づくであろう。)
前田訳それなら、もし人の子がもといたところに上るのを見たらどうであろう。
新共同それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
NIVWhat if you see the Son of Man ascend to where he was before!
註解: 「我が現在人の子としての卑き状態を汝らは目撃している故に、我が言に躓くのであろう。しかし天より降れる我はやがて栄光の中に昇天するであろう。汝らもしこれを目撃したならば、それでも我を信じないつもりであるか」との意味である(8:28)。

6章63節 (いか)すものは(れい)なり、(にく)(えき)する(ところ)なし、わが(なんぢ)らに(かた)りし(ことば)は、(れい)なり、生命(いのち)なり。[引照]

口語訳人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
塚本訳霊が命を与える。肉はなんの役にも立たない。いまわたしがあなた達に話した言葉は、霊である。だから、命である。
前田訳霊は生かすもので、肉は何にも役だたない。わたしがあなた方に語ったことばは霊でありいのちである。
新共同命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
NIVThe Spirit gives life; the flesh counts for nothing. The words I have spoken to you are spirit and they are life.
註解: 「天に昇ってしまうならば勿論この肉も血もこれを飲み食うことができない。実はこれまで我が汝らに告げた言は霊の問題であり永遠の生命の問題であって、この肉体の問題ではない。」イエスはかく語りて始めてこれまで語り給える御言の真意を表明し給うた(Tコリ6:17)。▲イエスが聖餐式なる儀式を制定し給うたのではなかったことは本節から見ても明らかである。イエスを信ずることはその肉を食い、その血を飲み、彼の全生命を受けることであり、そのままが聖餐式である。

6章64節 されど(なんぢ)らの(うち)(しん)ぜぬ(もの)どもあり』イエス(はじめ)より、(しん)ぜぬ(もの)どもは(たれ)、おのれを()(もの)(たれ)なるかを()(たま)へるなり。[引照]

口語訳しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。
塚本訳しかしあなた達のうちには、信じていない者がすこしある。」イエスには、だれだれは信じない、だれは自分を敵に売ると、始めからわかっていたのである。
前田訳しかしあなた方のうちに信じないものが何人かある」と。イエスはだれだれが信じない、だれが彼にそむく、をはじめから知っておられた。
新共同しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
NIVYet there are some of you who do not believe." For Jesus had known from the beginning which of them did not believe and who would betray him.
註解: なぜイエスは信ぜぬ者を信ぜしめ、己を売らんとする者を悔改めしむることができなかったか。これに対しては唯「それが神の御意であった」と考えるより外にない(G1)。父の引き給わざる者を引かんとするは無益であり、父の与え給う苦杯を避けんとするは不信である。

6章65節 かくて()ひたまふ『この(ゆゑ)(われ)さきに(なんぢ)らに()げて、(ちち)より(たま)はりたる(もの)ならずば(われ)(きた)るを()ずと()ひしなり』[引照]

口語訳そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。
塚本訳そして言われた、「だから『父上に許された者でなければ、だれもわたしの所に来ることは出来ない』と言ったのだ。」
前田訳そしていわれた、「それゆえ、わたしがいったとおり、父から恵まれないかぎりだれもわたしのところに来られない」と。
新共同そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
NIVHe went on to say, "This is why I told you that no one can come to me unless the Father has enabled him."
註解: 父に対する絶対の信頼である。而してイエスに躓きて去らんとする弟子たちに対する訣別の辞である。この御言の中に無限の寂しさと悲しさがある。しかしイエスはこれがためにこの世に来り給うた。

6章66節 ここにおいて、弟子(でし)たちのうち(おほ)くの(もの)かへり()りて、(また)イエスと(とも)(あゆ)まざりき。[引照]

口語訳それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。
塚本訳(このはげしい言葉の)ために、多くの弟子がはなれていって、もはやイエスと一しょに歩かなくなった。
前田訳それ以来弟子の多くが離れ去って、もはや彼とともに歩まなくなった。
新共同このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
NIVFrom this time many of his disciples turned back and no longer followed him.
註解: 前節までイエスの説教は人を引付くるよりもかえってこれを反撥するごとき種類のものであった。(▲パンを求める者を引き付けるような伝道は無益である。)これによりて彼は肉的の思をいだける者と真の弟子とを篩(ふる)い分ち給い、少数の真の弟子のみを選み給うた。最も正しくかつ最も賢き方法である。
辞解
[かへり去る] 「退却する」意味で進んでイエスに従ったのに再び元の生活に帰ったこと。
[共に歩む] イエスと伝道旅行を共にすること。

6章67節 イエス十二(じふに)弟子(でし)()(たま)ふ『なんじらも()らんとするか』[引照]

口語訳そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。
塚本訳するとイエスが十二人(の弟子)に言われた、「まさか、あなた達まで離れようと思っているのではあるまいね。」
前田訳イエスは十二人にいわれた、「あなた方もわたしを離れるつもりか」と。
新共同そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
NIV"You do not want to leave too, do you?" Jesus asked the Twelve.
註解: イエスは一方深き淋しみを味わいつつ他方父の与え給わざるものをも交うることを欲し給わず、弟子の一団はかかる者なるべしとも思わないながらも、なお彼らの心を固むるためにこの問を発し給うた(M0)。
辞解
[十二弟子] ヨハネ伝にはここに卒然起って来、共観福音書のごとく(引照参照)その選任の事実を記していない、既知の事実として取扱ったのである。
[なんぢらも去らんとするか] この質問を或は「去りたければ去るべし」と解し(G1)、或は上記のごとく「まさか去るようなことはないだろうが如何」との意味にも解す(M0)。▲▲「汝らもまた去らんと欲するにあらずや」と直訳される文章で文法的には否定的の答を期待する質問である。「汝らはまさか去るのではあるまいがどうか」というような言い回し。

6章68節 シモン・ペテロ(こた)ふ『(しゅ)よ、われら(たれ)にゆかん、永遠(とこしへ)生命(いのち)(ことば)(なんぢ)にあり。[引照]

口語訳シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。
塚本訳シモン・ペテロが答えた、「主よ、(あなたを離れて)だれの所に行きましょう。永遠の命の言葉はあなただけがお持ちですから。
前田訳シモン・ペテロが答えた、「主よ、だれのところに行きましょう。永遠のいのちのことばはあなたがお持ちです。
新共同シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
NIVSimon Peter answered him, "Lord, to whom shall we go? You have the words of eternal life.

6章69節 (また)われらは(しん)じかつ()る、なんぢは(かみ)聖者(しゃうじゃ)なり』[引照]

口語訳わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。
塚本訳あなたこそ神の聖者(救世主)であると、わたし達は信じております。また知っております。」
前田訳われらは信じ、また知っています、あなたこそ神の聖者と」。
新共同あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
NIVWe believe and know that you are the Holy One of God."
註解: ペテロは共観福音書使徒行伝におけるペテロと同じ性格がここにもあらわれ、十二弟子の代言者としてこの答を発した。彼らがイエスの御言を凡て解したかどうかは疑問であるけれども、彼らの心は密接にイエスに連なって離れることができなかった。「われら誰にかゆかん」まずこの心をもつことがキリスト者にとっての最大の必要である。彼らはこの愛をイエスに対して持っていたので、イエスの御言はこの世より出でし死ぬべき言ではなく永遠の生命から出るものであることを知った。そしてイエスは「神の聖者」神の特に聖め別ちて世に遣わし給いし者であること(10:36)を信じて知っていた。なお黙3:7。マコ1:24。ルカ4:34。知ることは信ずることより後に来るのであって、信ぜずしてイエスを知ることはできない。
辞解
[神の聖者] 異本には「活ける神の子」とあり。

6章70節 イエス(こた)(たま)ふ『われ(なんぢ)十二(じふに)(にん)(えら)びしにあらずや、(しか)るに(なんぢ)らの(うち)一人(ひとり)惡魔(あくま)なり』[引照]

口語訳イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。
塚本訳イエスが彼らに答えられた、「あなた達十二人を選んだのは、このわたしではなかったのか。ところが、そのうち一人は悪魔だ!」
前田訳イエスは彼らに答えられた、「あなた方十二人を選んだのはわたしではなかったか。それなのにそのうちのひとりは悪魔である」と。
新共同すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」
NIVThen Jesus replied, "Have I not chosen you, the Twelve? Yet one of you is a devil!"
註解: 68、69節のペテロの悦ばしき告白を聴きつつもイエスはなお他の半面に暗黒の影が漂っていることを知らずにい給わなかったことを示す。イエスはその十二弟子の一人が悪魔なることを予知し給うた。ゆえにユダの反逆はイエスの無智の証とならない(13:18、15:16)。かくして喜ばしき告白を聴きつつもイエスは彼の十字架の姿を眼前に髣髴し給うたことであろう。然るにこの御言を聞きたる弟子たちは未だその言の意義の重大さを覚らなかった。彼らの霊の眼が閉じられていたからである。

6章71節 イスカリオテのシモンの()ユダを()して()(たま)へるなり、(かれ)十二(じふに)弟子(でし)一人(ひとり)なれど、イエスを()らんとする(もの)なり。[引照]

口語訳これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである。このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
塚本訳イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを思っておられたのである。この人は(あとで)イエスを売るべき人であったから。──十二人のうちの一人でありながら。
前田訳彼はイスカリオテのシモンの子ユダのことをいわれたのである。これが彼を売ろうとしていた、十二人のひとりでありながら。
新共同イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
NIV(He meant Judas, the son of Simon Iscariot, who, though one of the Twelve, was later to betray him.)
註解: 後に事実となってあらわれし時、ヨハネはこれがユダを指せるものであったことを覚った。
辞解
[イスカリオテ] 「カリオテの人」を意味し、カリオテはユダヤの一村である。
要義 [ガリラヤ伝道の頽勢(たいせい)]イエスの宣伝うる神の国の真理があまりにユダヤ人らの期待せるものと異なっているので、彼らは次第にイエスを離れた。然のみならずイエスはすでにユダの反逆を知り給うた。彼の心は無限の淋しさを覚え給うたであろう。ガリラヤの反対は勿論ユダヤにおけるそれのごとく強烈ではなかったけれども、なおイエスの足を止め得ないほどのものであった。イエスは次章において再びユダヤを訪い給うたのはこれがためである。

ヨハネ伝第7章

7章1節 この(のち)イエス、ガリラヤのうちを(めぐ)りゐ(たま)ふ、ユダヤ(びと)(ころ)さんとするに()りて、ユダヤのうちを(めぐ)ることを(ほっ)(たま)はぬなり。[引照]

口語訳そののち、イエスはガリラヤを巡回しておられた。ユダヤ人たちが自分を殺そうとしていたので、ユダヤを巡回しようとはされなかった。
塚本訳そののち、イエスはガリラヤを巡回しておられた。ユダヤ人が殺そうとしていたので、ユダヤは巡回したくなかったのである。
前田訳こののちイエスはガリラヤをめぐっておられた。ユダヤ人が彼を殺そうとしていたので、彼はユダヤをめぐりたくなかったのである。
新共同その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。
NIVAfter this, Jesus went around in Galilee, purposely staying away from Judea because the Jews there were waiting to take his life.
註解: 「この後」は前章の出来事の後で過越の祭の後のことを意味する。イエスは四月半の過越の祭より次節の仮庵の祭まで六ヶ月間ガリラヤを巡り伝道し奇蹟を行い給うた。ユダヤを巡ることを欲し給わない理由はユダヤ人が彼を殺さんとするに因ることがここに記されている。勿論彼にはこの反対に打勝つ力がなかったのではなく、彼は人としての弱さを完全に有ち給い、また十字架の死が彼の使命であることを知っていたけれども、その時の至るまでは彼は自ら死をえらぶことを欲しなかったのである。マタ14:34−18:35の記事はこの間の出来事である。

3-3 假廬(かりいほ[お])祭に於けるイエスの御業 7:2 - 10:21
3-3-1 イエス祭に登り給う迄の出来事 7:2 - 7:13

7章2節 ユダヤ(びと)假廬(かりいほ)(まつり)ちかづきたれば、[引照]

口語訳時に、ユダヤ人の仮庵の祭が近づいていた。
塚本訳しかしユダヤ人の仮庵の祭が近くなると、
前田訳しかし、ユダヤ人の仮庵の祭が近づくと、
新共同ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。
NIVBut when the Jewish Feast of Tabernacles was near,
註解: 第七月すなわちチスリの月(十月)十五日より八日間行わるる祭で、イスラエル人が四十年間荒野において天幕の中に住みしことを記念せんがために屋上、路傍などに天幕を作ってその中に住み、荒野の生活を記念すべき種々の儀式が行われ、最後に新穀を神にささげて大祝宴を催す。後に至ってその本旨は忘れられて唯いわゆる御祭り騒ぎと化した。この祭にも多くの人々これを祝せんためにエルサレムに集った(レビ23:33−44)。

7章3節 兄弟(きゃうだい)たちイエスに()ふ『なんぢの(おこな)(わざ)弟子(でし)たちにも()せんために、此處(ここ)()りてユダヤに()け。[引照]

口語訳そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った、「あなたがしておられるわざを弟子たちにも見せるために、ここを去りユダヤに行ってはいかがです。
塚本訳イエスの兄弟たちが言った、「ここから移ってユダヤに行き、(今ここで)している業を(そこの)弟子たちにも見せたらどうです。
前田訳彼の兄弟たちがいった、「ここから移ってユダヤヘ行きなさい、あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見うるように。
新共同イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。
NIVJesus' brothers said to him, "You ought to leave here and go to Judea, so that your disciples may see the miracles you do.
註解: (▲口語訳「いかがです」は原語にはない。)兄弟たちは未だ彼を信じなかった(5節)。復活の後に至って始めて信じたものと思われる(使1:14)。兄弟たちは一方にイエスの行い給う奇蹟を見てそのメシヤに在すことを絶対に否定することもできず、他方肉親の関係もあり、また多くの弟子が彼を離れて淋しく各地を伝道し給う姿を見て(6:66)、果して真のメシヤなりや否やを疑いてかかる忠告を彼に与えたのであろう。
辞解
[弟子たち] ユダヤに多くの弟子がありイエスの弟子よりバプテスマを受けた。
[兄弟たち] その名はマタ13:55、マコ6:3にあり、なお十九章附記二参照。

7章4節 (たれ)にても(みづか)(あらは)れんことを(もと)めて、(ひそか)(わざ)をなす(もの)なし。(なんぢ)これらの(こと)()すからには、(おのれ)()にあらはせ』[引照]

口語訳自分を公けにあらわそうと思っている人で、隠れて仕事をするものはありません。あなたがこれらのことをするからには、自分をはっきりと世にあらわしなさい」。
塚本訳世に認められようとする者が、隠れた所で事をする法はあるまい。こんな(えらい)ことをしているのだから、(都に行って、)自分を世間に現わしたらどうです。」
前田訳だれも公になろうとするのに隠れて事をするものはない。これらのわざをなすからには、自らを世に示しなさい」と。
新共同公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」
NIVNo one who wants to become a public figure acts in secret. Since you are doing these things, show yourself to the world."
註解: 兄弟たちはイエスが自らをメシヤと主張し給うことを知っていた。ゆえにその本質上当然「自ら顕れんことを求め」ている筈であった。然るにガリラヤにおいて少数の人々の間にものその御業を行い給うた。(▲イエスには自分を顕す意思はなく神の為し給うままに任せていた。)兄弟たちはこのことを「誰にても」といいて一般の意味をもって非難したのである。「これらのことは」イエスの為し給う奇蹟を意味し、「世」はユダヤ人の世界であって、従って事実上はその中心の都たるエルサレムを意味する。殊に祭の間は最も適当であることが言外にあらわされている。

7章5節 (これ)その兄弟(きゃうだい)たちもイエスを(しん)ぜぬ(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳こう言ったのは、兄弟たちもイエスを信じていなかったからである。
塚本訳兄弟たちも彼を信じなかったからである。(彼らはイエスの国がこの世のものでないことを知らなかった。)
前田訳兄弟たちも彼を信じなかったのである。
新共同兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。
NIVFor even his own brothers did not believe in him.
註解: イエスのメシヤに在し給うことを信ずるならば、隠るるも顕わるるもみな神の御意であることを思いて人間的智慧をもって差出口をしなかったからであろう。ただしこの「信ぜぬ」は絶対的不信ではなくむしろ半信半疑の状態であったと見るべきである。何となればもし彼がイエスのメシヤに在すことに絶対に反対であったならば、かえってかかる御業を為し給うことを止めたであろう。

7章6節 ここにイエス()(たま)ふ『わが(とき)はいまだ(いた)らず、[引照]

口語訳そこでイエスは彼らに言われた、「わたしの時はまだきていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている。
塚本訳イエスは兄弟たちに言われる、「わたしの(世にあらわれる)時はまだ来ていない。あなた達の時はいつでも準備ができている。(いつでもしたいことができるのだから。)
前田訳イエスは彼らにいわれる、「わが時はまだ来ていない。あなた方の時はいつもそなわっている。
新共同そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。
NIVTherefore Jesus told them, "The right time for me has not yet come; for you any time is right.
註解: 「わが時」は神が彼に賜う時であって、この場合は彼がこの祭によりて彼を公に世に顕わし給うべき時(Z0)である。ゆえにここでは強いて十字架につき給うべき時(C1)を意味していない(2:4)。イエスのごとき重大なる使命を持つ身にとっては何事を為し給うにも、父なる神に示さるる時があるのであって、その時来るまでは他人の容嘴(ようし)や群衆の扇動に乗って動き給わない。

(なんぢ)らの(とき)(つね)(そなは)れり。

註解: 特別の使命を神より受けていない兄弟たちにとっては、かかる特別の時はなく、いつでも彼らを世に顕わして差支えない。その故は

7章7節 ()(なんぢ)らを(にく)むこと(あた)はねど(われ)(にく)む、(われ)()所作(しわざ)()しきを(あかし)すればなり。[引照]

口語訳世はあなたがたを憎み得ないが、わたしを憎んでいる。わたしが世のおこないの悪いことを、あかししているからである。
塚本訳この世はあなた達を憎むことはできないが、わたしを憎む。(あなた達はこの世のものだが、)わたしはこの世の(ものではなく、この世の人々の)することを悪いとはっきり言うからだ。
前田訳世はあなた方を憎めないが、わたしを憎む。わたしが世について証して、そのわざは悪いというからである。
新共同世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。
NIVThe world cannot hate you, but it hates me because I testify that what it does is evil.
註解: キリストを信ぜざるその兄弟は世の主義に従って生きている。ゆえにその身を世に顕わすも危険はさらにない。然るに世はその悪行を非難せらるるのでキリストを憎み(引照1)、彼は殺さんとする。それ故に父の命じ給う時来るまで自ら進んでかかる危険に己を曝すべきではない(マタ4:6-7)。▲▲イエスさえ世に憎まれた。我らは世に憎まれるのを恐れてはならない。

7章8節 なんぢら(まつり)(のぼ)れ、わが(とき)いまだ滿()たねば、(われ)は[(いま)]この(まつり)にのぼらず』[引照]

口語訳あなたがたこそ祭に行きなさい。わたしはこの祭には行かない。わたしの時はまだ満ちていないから」。
塚本訳あなた達は祭りに上ったがよかろう。わたしはこの祭りには上らない。わたしの時はまだ満ちていないのだから。」
前田訳あなた方こそ祭りに上りなさい。わたしはこの祭りには上らない、わが時がまだ満ちていないから」。
新共同あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」
NIVYou go to the Feast. I am not yet going up to this Feast, because for me the right time has not yet come."
註解: 「時満つる」は「時到る」よりもさらに強い意味であって、イエスはそれ故に「この祭」にはエルサレムに上り給わないことを断言し給うた。(次の過越にはエルサレムに上って十字架につき給うべきであった。)この後まもなく10節にイエスがこの言を翻し給うたので、これに対する変心または不節操の非難を免れんため、本節を種々に曲解せんとしている。或は「上らず」なる現在動詞の中に「今」なる意味を含むと解し、「後に上る」意味を保留せりとするもの(C2、T0、S1、トールツク、ステール、改訳本文に「今」なる文字を入れたものもこの解釈によったものであろう。原文にはこの文字はない。)或は本節の「上る」はメシヤたることを示すために上ること、十節の「上る」は祭のために上ることを意味すと解するもの(G1)その他種々あり。異本に「我未だ上らず」とあるのもこの理由により後に挿入したものであろう。予はかかる区別をする必要を認めない。

7章9節 かく()ひて(なほ)ガリラヤに(とどま)(たま)ふ。[引照]

口語訳彼らにこう言って、イエスはガリラヤにとどまっておられた。
塚本訳こう言ってガリラヤに留まっておられた。
前田訳こう彼らにいってイエスはガリラヤにとどまっておられた。
新共同こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
NIVHaving said this, he stayed in Galilee.
註解: そして兄弟のみまず祭に上った。

7章10節 (しか)して兄弟(きゃうだい)たちの(まつり)にのぼりたる(のち)、((かれ)もまた)あらはならで(しの)びやかに(のぼ)(たま)ふ。[引照]

口語訳しかし、兄弟たちが祭に行ったあとで、イエスも人目にたたぬように、ひそかに行かれた。
塚本訳しかし兄弟たちが祭に上ると、自分もあとから上られた。──だが公然とではなく、いわば微行で。
前田訳兄弟たちが祭りに上ったとき、彼も上られた。しかし公にではなく、いわばおしのびであった。
新共同しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。
NIVHowever, after his brothers had left for the Feast, he went also, not publicly, but in secret.
註解: この時イエスはかくのごとくしてエルサレムに上るべき時来れることを示され給うたのであろう。彼は明らかにその計画を変更し給うた。しかしこれは彼の不節操を示すものではなく、かえって彼の常に神の御旨に従いて行動し、人の思いを恐れ給わないことを示すものである。神は人の声のあまりに高き場合には、たとい同じ御意であても往々にしてその御声を出し給わず、人の霊が静まりて後その御声を出し給う。イエスはこの声をきき給うた。潜びやかに上り給うたのもこのためである。

7章11節 (まつり)にあたりユダヤ(びと)らイエスを(たづ)ねて『かれは何處(いづこ)()るか』と()ふ。[引照]

口語訳ユダヤ人らは祭の時に、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。
塚本訳祭りの時に、ユダヤ人(の役人たち)は「あれはどこにいるだろう」と言って、イエスをさがした。(でも見つからなかった。)
前田訳祭りに際してユダヤ人が「あの人はどこか」といって彼を探していた。
新共同祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。
NIVNow at the Feast the Jews were watching for him and asking, "Where is that man?"
註解: 「ユダヤ人ら」は学者パリサイ人らを首とするイエス反対の人々(6:41、52。7:13、15)本節によりてすでにイエスの行き給わざる先より彼に対する異常なる興奮が感ぜられていたことがわかる。彼らが彼を尋ぬる意味は彼を試みてこれを陥れんがためである。

7章12節 また群衆(ぐんじゅう)のうちに(ささや)(もの)おほくありて、(あるひ)は『イエスは()(ひと)なり』といひ、(あるひ)は『いな、群衆(ぐんじゅう)(まどは)すなり』と()ふ。[引照]

口語訳群衆の中に、イエスについていろいろとうわさが立った。ある人々は、「あれはよい人だ」と言い、他の人々は、「いや、あれは群衆を惑わしている」と言った。
塚本訳イエスについて群衆の中にひそひそ話が盛んであった。「善い人だ」と言う者があり、「いや、民衆をまどわす者だ」と言う者があった。
前田訳彼について群衆の中にいろいろなささやきがあった。あるものは「よい人だ」、あるものは「否、群衆を迷わす」といった。
新共同群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。
NIVAmong the crowds there was widespread whispering about him. Some said, "He is a good man." Others replied, "No, he deceives the people."
註解: 前節の人々以外の各地から集って来た群集中にもイエスに関する意見が二つに分れていた。けれどもそれは公然なる争いに到らず、唯潜かにその思いを囁き合う程度のものであった。その理由は次節である。

7章13節 されどユダヤ(びと)(おそ)るるに()りて、(たれ)もイエスのことを公然(おほやけ)()はず。[引照]

口語訳しかし、ユダヤ人らを恐れて、イエスのことを公然と口にする者はいなかった。
塚本訳それでもユダヤ人を恐れて、だれ一人おおっぴらに彼のことを話す者はなかった。
前田訳しかし、ユダヤ人をおそれて、だれも公には彼のことをいわなかった。
新共同しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。
NIVBut no one would say anything publicly about him for fear of the Jews.
註解: 宗権が政権と結合する場合には信者には信仰言論の自由がない。群衆はイエスに賛成なると反対なるとを問わず、ユダヤ人すなわち前節のパリサイ人学者の一派を懼れていた。▲「公然に」は「大胆に」「憚(はばか)る処なく」との意。

3-3-2 イエス宮にて教え給う 7:14 - 7:52
3-3-2-イ イエス自己を弁護し給う 7:14 - 7:24

7章14節 (まつり)も、はや(なかば)となりし(ころ)、イエス(みや)にのぼりて(をし)(たま)へば、[引照]

口語訳祭も半ばになってから、イエスは宮に上って教え始められた。
塚本訳祭がすでに半ばになったとき、(すなわち祭の四日目に、)イエスが宮に上って教えておられると、
前田訳祭りがすでに半ばのころ、イエスは宮に上って教えはじめられた。
新共同祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。
NIVNot until halfway through the Feast did Jesus go up to the temple courts and begin to teach.
註解: 潜かに来り給えるキリストは神の御旨に従いついに宮にて己を人々に顕わし給うた。彼の行動の自由さを見よ。▲▲「教へ」edidasken は教え続けていたこと。

7章15節 ユダヤ(びと)あやしみて()ふ『この(ひと)(まな)びし(こと)なきに、如何(いか)にして(ふみ)()るか』[引照]

口語訳すると、ユダヤ人たちは驚いて言った、「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」。
塚本訳ユダヤ人は驚いて言った、「この人は学校に行ったこともないのに、どうして聖書を知っているのだろうか。」
前田訳ユダヤ人はおどろいていった、「この人は何も学問してないのに、どうして聖書を知っているのか」と。
新共同ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、
NIVThe Jews were amazed and asked, "How did this man get such learning without having studied?"
註解: イエスは宮において聖書について教え給うた。彼の聖書知識の異常であったことは福音書のいたる処にこれを発見することができる。然るに彼は何ら正則の学歴を有ち給わなかった。これユダヤ人らが驚いた所以である。しかしながら聖書の知識は聖霊によりて与えらるるのであって、学問によりて与えらるるのではない。
辞解
[書] grammata はむしろ「文字」と訳する方が適当であろう。聖書がユダヤ文学の主要なるもの故意味は結局「聖書」というと異ならないけれども、聖書をば多く graphai なる語を用いて表わす。

7章16節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『わが(をしへ)はわが[(をしへ)]にあらず、(われ)(つかは)(たま)ひし(もの)の[(をしへ)]なり。[引照]

口語訳そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。
塚本訳イエスは答えて言われた、「わたしの教えはわたしの教えではない。わたしを遣わされた方の教えである。
前田訳イエスは彼らに答えられた、「わが教えはわがものでなく、わたしをつかわされた方の教えである。
新共同イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。
NIVJesus answered, "My teaching is not my own. It comes from him who sent me.
註解: 「自分が今教えている教えは自分に属するものではなく父のものである。」ここにイエスは、彼らに向い、また彼と父との霊的関係を明らかにし給う。父彼に真理を啓示し給う以上彼はラビの学校において学ぶよりも遙かに優れる教師を有ち給うた。

7章17節 (ひと)もし御意(みこころ)(おこな)はんと(ほっ)せば、()(をしへ)(かみ)よりか、()(おのれ)より(かた)るかを()らん。[引照]

口語訳神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。
塚本訳その方の御心を行おうと決心する者には、わたしの教えが神から出たものか、それともわたしが自分で勝手に話しているかがわかるであろう。
前田訳彼のみ心を行なおうとするものは、わが教えについて、神からのものか、わたし自身から語るものかを知ろう。
新共同この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。
NIVIf anyone chooses to do God's will, he will find out whether my teaching comes from God or whether I speak on my own.
註解: キリストの教えが神より出でしもの(ek)であるか、またはキリストの自己流のもの(apo)であるかを知る唯一の方法は、人が神の御意を行わんことを熱望することである。哲学的考察、神学的研究、心理学的比較、歴史的証明、聖書研究、儀式礼典、教会の出席、これらのいかなる方法をもってもこの区別を知ることができない。唯人が真面目に神の御旨と信ずる処を実行せんとして努力するならば、直ちに自己の無力と自己の罪とを知り、ついに神より遣われしイエスの贖罪に与るより外に途なきを知るに至るのである。ゆえにキリストの教の神より出でしことを知らない者は、真面目に徹底的に神の御旨を行わんとせざる者である。神の御意は主として聖書に、その他の聖賢の教えに、また我らの良心に示されている。

7章18節 (おのれ)より(かた)るものは(おのれ)榮光(えいくわう)をもとむ、(おのれ)(つかは)しし(もの)榮光(えいくわう)(もと)むる(もの)(まこと)なり、その(うち)不義(ふぎ)なし。[引照]

口語訳自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない。
塚本訳自分で勝手に話す者は、自分の名誉を求める。(そしてその言うことが偽りである。)しかし自分を遣わされた方の言葉を語って、その方の名誉を求める者は、真実であり、(すこしも)偽りがない。
前田訳自分から語るものはおのが栄光を求める。自分をつかわされた方の栄光を求めるものこそ真であり、そのうちに不義がない。
新共同自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。
NIVHe who speaks on his own does so to gain honor for himself, but he who works for the honor of the one who sent him is a man of truth; there is nothing false about him.
註解: ユダヤ人らは神の御意を行わんと欲せざるのみならず己の栄光を求めている。もしイエスも己の栄光を求め給うならばユダヤ人らの心に叶うことを言い、また行い給うたであろう。この場合神より出づるものなくみな己より語り給うこととなるのである。イエスは反対に常に神の栄光を求め給うた。ゆえに真であって一点の虚偽なく、正義に叶いて一点の不義もない。義と不義の区別はユダヤ人らが考えるごとき彼らの伝統を守ること(安息日等)によってではなく、神の栄光を求むるや否やによりて定まる。かく言いてイエスは、己の権威を否定しその行為を批判せんとするユダヤ人らに答え給うた。▲「不義」を口語訳に「偽り」と訳してあるが adikia をかく訳すのは問題である。

7章19節 モーセは(なんぢ)らに律法(おきて)(あた)へしにあらずや、されど(なんぢ)()のうちに律法(おきて)(まも)(もの)なし。(なんぢ)(なに)ゆゑ(われ)(ころ)さんとするか』[引照]

口語訳モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」。
塚本訳(いったい)あなた達に律法を与えたのはモーセではないか。しかしあなた達のうちにだれ一人、その律法を守る者がない。(モーセ、モーセと言いながら、)なぜわたしを殺そうとするのか。(モーセは『殺してはならない』と言っているではないか。)」
前田訳モーセがあなた方に律法を与えたではないか。しかしあなた方はだれも律法を守らない。なぜわたしを殺そうとするか」と。
新共同モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」
NIVHas not Moses given you the law? Yet not one of you keeps the law. Why are you trying to kill me?"
註解: 本節より24節まではイエスは逆にユダヤ人らに対して攻勢をとり、極めて巧みなる論理をもって、霊の根本原則を掲示し、形式的に言えば彼らも安息日聖守の律法に違反しても(22節)これを正しと認めていることを摘発し、勿論論法をもって自己の安息日に病人を醫し給いしことを弁護している。すなわち「汝らに律法を与えたものはモーセであって、汝らは彼を尊敬している。それにもかかわらず内面的には勿論のこと単に外面的に見るも22節の場合においては、汝らは明らかにこの律法を破っている(G1、Z0)。汝らがこのごとく律法を破っていながらなぜ我が安息日に人を醫したとて汝らは我を殺さんとするのであるか。」
辞解
[律法を守る者なし] これを律法一般と解し(M0、H0)または「殺す勿れ」の律法と解する人(B1)があるけれども、かく解することによりて前後の関係が不明となる。

7章20節 群衆(ぐんじゅう)こたふ『なんぢは惡鬼(あくき)()かれたり、(たれ)(なんぢ)(ころ)さんとするぞ』[引照]

口語訳群衆は答えた、「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうと思っているものか」。
塚本訳群衆が答えた、「あなたは悪鬼につかれている。いったいだれがあなたを殺そうとしているのか。」
前田訳群衆は答えた、「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか」と。
新共同群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」
NIV"You are demon-possessed," the crowd answered. "Who is trying to kill you?"
註解: 群衆はユダヤ人の主なるものら(11節註)がイエスを殺さんとする心を有つことを知らなかった。これ堕落せる宗教界の常態であって、信徒はその宗権を握れる者の心を知らない。かえってイエスの気が確かでありや否やを疑った。

7章21節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『われ(ひと)つの(わざ)をなしたれば、(なんぢ)()みな(あや)しめり。[引照]

口語訳イエスは彼らに答えて言われた、「わたしが一つのわざをしたところ、あなたがたは皆それを見て驚いている。
塚本訳イエスは答えて言われた、「わたしが(この間安息日に三十八年の足なえを直すという)一つの業をしたので、あなた達は皆驚いている。
前田訳イエスは答えられた、「ただひとつのわざを(安息日に)したのにあなた方は皆おどろいている。
新共同イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。
NIVJesus said to them, "I did one miracle, and you are all astonished.
註解: 安息日に病人を醫し彼を立たしめ、床を取りて歩ましめたのがこの一つの業であった(5:2−9)。「これがために汝ら群衆は驚き怪しんだのである。これがユダヤ人らの我を殺さんとする理由であった。然るに汝らは22、23節の示すがごとく連続的律法破壊をやっているではないか。我らは決して悪鬼につかれたのではない」との意味が含まっている。

7章22節 モーセは(なんぢ)らに割禮(かつれい)(めい)じたり(これはモーセより(おこ)りしとにあらず、先祖(せんぞ)より(おこ)りしなり)この(ゆゑ)(なんぢ)安息(あんそく)(にち)にも(ひと)割禮(かつれい)(ほどこ)す。[引照]

口語訳モーセはあなたがたに割礼を命じたので、(これは、実は、モーセから始まったのではなく、先祖たちから始まったものである)あなたがたは安息日にも人に割礼を施している。
塚本訳(しかし驚くことはない。)モーセがあなた達のために割礼の制度を設けたので──これは(実は)モーセから始まったのではなく、(大昔の)先祖(の時代)からであるが──あなた達は安息日にも人に割礼をほどこしている。
前田訳モーセはあなた方に割礼(の律法)を与え−−それはモーセからでなく、父祖からであるが−−あなた方は安息日に人に割礼をしている。
新共同しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。
NIVYet, because Moses gave you circumcision (though actually it did not come from Moses, but from the patriarchs), you circumcise a child on the Sabbath.
註解: モーセの律法とはいえど実はモーセほどの偉人ではなかった処の他の先祖アブラハムより起り、十誡よりも重大ならざる割礼であったのに、これをモーセより伝わった安息日すなわち神の与え給える十誡よりも重きものと見ていることの事実を、イエスはここに掲げて後節の議論の前提たらしめている。蓋し子供が生れて八日目がすなわち安息日であってもユダヤ人らは彼に割礼を施したからである。
辞解
[この故に] 原文には本節の初頭にあり、難解の句で種々の解釈を生じた。大体の教訓の根本はこれら解釈の相違に影響さるるほどではない故これを略す。

7章23節 モーセの律法(おきて)(すた)らぬために、安息(あんそく)(にち)(ひと)割禮(かつれい)()くる(こと)あらば、(なに)安息(あんそく)(にち)(ひと)全身(ぜんしん)(すこや)かにせしとて(われ)(いか)るか。[引照]

口語訳もし、モーセの律法が破られないように、安息日であっても割礼を受けるのなら、安息日に人の全身を丈夫にしてやったからといって、どうして、そんなにおこるのか。
塚本訳(割礼についての)モーセの律法を破るまいとして、人は安息日にも割礼を受ける以上、わたしが安息日に人の全身を直したからとて、なにも腹を立てることはないではないか。(ことに割礼は、ただ体の一部分を健康にするだけであるのに!)
前田訳モーセの律法を破らないために人が安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をいやしたからとてなぜ怒るのか。
新共同モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。
NIVNow if a child can be circumcised on the Sabbath so that the law of Moses may not be broken, why are you angry with me for healing the whole man on the Sabbath?
註解: 実のところモーセから起ったのでなく、唯モーセの律法として伝わっている割礼が廃(すた)らないために重大なる安息日を破ることが正当とさるる位であるならば、神より直接にイエスに命ぜられ、身体の一部の潔めにあらずして全身を潔め醫すこと(M0)を為さんがために安息日を破ってもそれは正当である。モーセの律法以上に重んずべき神の御意が廃(すた)れないためにこれが必要である。これは形式的に安息日を破っており実質的にこれを聖守しているのである。

7章24節 外貌(うはべ)によりて(さば)くな、(ただ)しき審判(さばき)にて(さば)け』[引照]

口語訳うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」。
塚本訳うわべで裁くな、(律法の精神を見て、)正しい裁きをせよ。」
前田訳見かけで裁かず、正しい裁きをせよ」と。
新共同うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」
NIVStop judging by mere appearances, and make a right judgment."
註解: 形式的に見れば律法違反に見えても、かえってこれが律法を行い律法を全うする所以である場合がある。この点より人の行為を審(さば)くのが真の審きである。宗教が形式になってしまう時この正しき審き為すことができないようになってしまう。(注意)21−24節の論法はなおこれを要約すれば「我は唯一つの驚くべき行為を安息日に行って問題となったが、汝らは常習的に安息日を破っている。すなわちモーセより出でしにあらずして単に父祖の伝説に過ぎず、また身体の一部を潔むるに過ぎざる割礼をすらこれをモーセの律法と信じ、これを守るがために安息日を破っている。然らば我モーセ以上の父の御意を行うがために割礼以上の全身の治癒を安息日に行ったとて、如何でこれを非難し我を殺すことができようか」というのである。▲イエスは善行を宗教行事よりも重視し、善行のためには生命を賭して伝統に反抗し給うた。信仰は形式化することによって死滅する。
要義1 [神の教えと人の教え]「人もし御意を行はんと欲せば、此の教の神よりか、我が己より語るかを知らん」(17節)。この世に多くの宗教あり哲学あり教訓があるけれども、この中キリスト・イエスの福音のみが真の意味において神より出でしものであり、その他はみな人より出でしものである(人より出でし場合にも神の影響指導を受くる場合があり得ることは勿論である)。而してこのことを知るの方法は比較宗教学を研究して各宗教の長所短所を知ることでもない、神学や哲学によりて各宗教の内容を悟ることでもない、その他凡ての方法は無効である。唯一つ真面目に神の御意と考え、真理と信ずる処を実行しようと努力することがキリスト教の真に神より出づる教えであることを知るの手段となる。この努力なしには人は自己の無力を知ることができない。自己の中に神性ありとか、または修養努力によりて安心立命の境地に達することを得るごとくに考うる者は、みなこの努力を充分に為さざるより起る空しき誇りである。もし人が誠の心をもって正義と信じ神の御旨と信ずる処を実行せんとするならば、当然の結果として自己の罪の深さと自らこれより脱出する力無きことを覚るに至るのである。ここに至ってキリストの十字架の贖いのみが唯一の救いの道であって、その他の凡ての教えが人より出て人の案出せる思想に過ぎないことを知るに至るのである。
要義2 [外貌による審きと正しき審き]形式主義、伝統主義に囚われている者は、その伝統や形式の意義をば考えずに唯その形骸を重んじ、これを破る者を大なる罪を犯せる者と考える。無数の実例が我が国にも存在している。イエスはこれを無下に非難し給わずして、彼ら自身形式をもって形式を破る場合を示し、その精神を尊重してこれを自己の場合に当てはめ、勿論々法をもってその行為を弁護し給うた。我らも彼らにその形式の意義を示し、場合によりてはその形式を破ることによりて一層完全にその形式の意義目的を達する場合があることを明らかにし、かくして彼らに正しき審きを要求すると共に自ら正しき行いを為さなければならない。この場合のイエスの弁駁(べんばく)は極めて謙遜な弁駁であることに注意せよ。

3-3-2-ロ イエスの出所 7:25 - 7:36

7章25節 ここにエルサレムの(ある)人々(ひとびと)いふ『これは人々(ひとびと)(ころ)さんとする(もの)ならずや。[引照]

口語訳さて、エルサレムのある人たちが言った、「この人は人々が殺そうと思っている者ではないか。
塚本訳するとエルサレムの人の中に、こう言った人々があった、「これはあの人たちが殺そうとしている人ではないか。
前田訳すると、エルサレムのある人たちはいった、「これは人々が殺そうとしている人ではないか。
新共同さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。
NIVAt that point some of the people of Jerusalem began to ask, "Isn't this the man they are trying to kill?
註解: エルサレムの住人は他地方より来れる群衆に比して事情に詳しかった。ユダヤ人の主なる人々がイエスを殺さんとしていることをも知っていた。それ故にかく言ったのである。

7章26節 ()よ、公然(おほやけ)(かた)るに、(これ)(たい)して(なに)をも()(もの)なし、(つかさ)たちは()(ひと)のキリストたるを(まこと)(みと)めしならんか。[引照]

口語訳見よ、彼は公然と語っているのに、人々はこれに対して何も言わない。役人たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知っているのではなかろうか。
塚本訳あんなにおおっぴらに話しているのに、なんとも言う人がない。もしかしたら(最高法院の)役人たちは、この人が救世主だと本当にわかったのではなかろうか。
前田訳それなのに、あのように公に話していても人々は何ともいわない。司たちはこの人がキリストと本当にわかったのではないか。
新共同あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。
NIVHere he is, speaking publicly, and they are not saying a word to him. Have the authorities really concluded that he is the Christ ?
註解: エルサレムにおいてはイエスが公然と語るならば、彼は直ちに殺さるるならんと予期していたことがこれによりて知られる。ゆえにこのことがなかったので、或は司たちが彼をキリストと承認したのではないか疑った。(司たちは勿論このことを承認しなかった。)

7章27節 されど(われ)らは()(ひと)何處(いづこ)よりかを()る、キリストの(きた)(とき)には、その何處(いづこ)よりかを()(もの)なし』[引照]

口語訳わたしたちはこの人がどこからきたのか知っている。しかし、キリストが現れる時には、どこから来るのか知っている者は、ひとりもいない」。
塚本訳でも(そんなわけがない。)わたし達はこの人がどこから来たか知っている。救世主が来る時には、だれもどこから来るか知らないはずだから。」
前田訳しかしわれらはこの人がどこの出だか知っている。キリストが来るときは、彼がどこから来るか知るものはない」と。
新共同しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」
NIVBut we know where this man is from; when the Christ comes, no one will know where he is from."
註解: 前節の疑問は本節によりて当然解決せられていると彼らは考えた。すなわち彼らはイエスの住み居りし場所のみならず、その父母親戚の誰であるかも知っていた。メシヤが来る時はメシヤとして公然に顕わるるまではどこかに隠れていて、他人は勿論本人すらも自己のメシヤなることを知らない。またその力も持たないというのが当時一般に信ぜられている処であった(S2)。浅薄なる神学知識、聖書によらざる人の言伝えは今日も同じくキリストを見失う原因をなしている。「何處より」とは場所の意味ではないと解する人もある(M0、G1)。

7章28節 ここにイエス(みや)にて(をし)へつつ(よば)はりて()(たま)ふ『なんぢら(われ)()り、(また)わが何處(いづこ)よりかを()る。[引照]

口語訳イエスは宮の内で教えながら、叫んで言われた、「あなたがたは、わたしを知っており、また、わたしがどこからきたかも知っている。しかし、わたしは自分からきたのではない。わたしをつかわされたかたは真実であるが、あなたがたは、そのかたを知らない。
塚本訳すると宮で教えていたイエスは、こう言って叫ばれた、「なるほどあなた達はわたしを知っている。どこから来たかも知っている。だが、わたしは自分で勝手に来たのではない。わたしを遣わされた真実な方がある。あなた達はその方を知らないが、
前田訳すると、宮で教えておられたイエスは叫んでいわれた、「あなた方はわたしを知り、わたしがどこの出かも知っている。しかし、わたしは自分から来たのではない。わたしをつかわされた真の方がいますが、あなた方は彼を知らない。
新共同すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。
NIVThen Jesus, still teaching in the temple courts, cried out, "Yes, you know me, and you know where I am from. I am not here on my own, but he who sent me is true. You do not know him,
註解: 前節までのエルサレム人の言に対する直接の答としてではなく、別に宮においてユダヤ人らの前に一般的にこの問題をイエスは説明し給うた。「呼ばる」は大声叱呼することで問題の重要なることを示す。イエスは自己の生地人格および血統に関する肉による知識を彼らが持っていることを承認し給う。これ事実であって何ら否認するの理由も必要もなかったからである。

されど(われ)(おのれ)より(きた)るにあらず、(まこと)(もの)ありて(われ)(つかは)(たま)へり。

註解: 「されど霊的意味においては我が出所はこの肉と我とは無関係である。我の父母親戚にあらざる「真のもの」すなわち「神」が我を遣わしたのであって、我が出所はこの神であり、我こそ真のメシヤである」との宣言をイエスは大声をもって叫び給うた。実に大胆なる宣言である。キリスト者もその肉より見ての美醜善悪如何にかかわらず、霊的には神につける新たなる存在であることを主張することができる。世人はこのことを知らない。

(なんぢ)らは(かれ)()らず、

7章29節 (われ)(かれ)()る。(われ)(かれ)より()で、(かれ)(われ)(つかは)(たま)ひしに()りてなり』[引照]

口語訳わたしは、そのかたを知っている。わたしはそのかたのもとからきた者で、そのかたがわたしをつかわされたのである」。
塚本訳わたしは知っている。わたしはその方のところから来、その方から遣わされたのだから。」
前田訳わたしは彼を知る。わたしは彼のところから来、彼がわたしをつかわされたから」と。
新共同わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
NIVbut I know him because I am from him and he sent me."
註解: 而してイエスのこの霊的出所は肉の眼には見ることを得ざる結果「汝ら」ユダヤ人は彼を知らずとの断言をなし給うた。これ一神教を誇っているユダヤ人に対する痛撃であると同時に大胆なる挑戦であり、またイエスは死を賭してこの証を為し給いしことは勿論である。我らもまたこの大胆なる信仰の証をしなければならなぬ。而して後イエスはあたかも27節の主張に対立するかのごとくに、自ら真の神を知り、その神が彼の出所であり、その神より彼の使命を受け給えることを明らかにし給うた。すなわちユダヤ人がイエスの何處よりかを知ると言ったのはかえってその全く無智なることを示しているに過ぎないことをこれによりて明らかにし給うたのである。

7章30節 ここに[人々(ひとびと)]イエスを(とら)へんと(はか)りたれど、(かれ)(とき)いまだ(いた)らぬ(ゆゑ)()()しする(もの)なかりき。[引照]

口語訳そこで人々はイエスを捕えようと計ったが、だれひとり手をかける者はなかった。イエスの時が、まだきていなかったからである。
塚本訳そこで(最高法院の)人々はイエスを捕えようとしたが、手をかける者はなかった。彼の時がまだ来ていなかったからである。
前田訳人々はイエスを捕えようとしたが、だれも彼に手をかけなかった。彼の時がまだ来ていなかったからである。
新共同人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。
NIVAt this they tried to seize him, but no one laid a hand on him, because his time had not yet come.
註解: 「人々」はユダヤ人の主なるものを意味する(31、32節を見よ)。彼らは前節のイエスの言をもって冒涜と解した(5:8)。ゆえに彼を捕えんと求めたけれども、彼がユダヤ人に捕えらるべき時(M0、Z0、H0)がまだ来ないので、換言すれば彼が捕えられ給うのは未だ父の御旨でなかったので誰も彼に手を掛けなかった。我らも主を証するとき如何なる迫害が来るとも恐るるを要しない。父の御旨のみが成るからである。
辞解
[彼の時] 彼の死期と解する説があるけれども(G1)取らない。
[手出しする] 「彼の上に手を掛ける」(直訳)。
[謀る] zêteô 「熱求する」。

7章31節 かくて群衆(ぐんじゅう)のうち(おほ)くの人々(ひとびと)イエスを(しん)じて『キリスト(きた)るとも、()(ひと)(おこな)ひしより(おほ)(しるし)(おこな)はんや』と()ふ。[引照]

口語訳しかし、群衆の中の多くの者が、イエスを信じて言った、「キリストがきても、この人が行ったよりも多くのしるしを行うだろうか」。
塚本訳しかし群衆のうちにイエスを信じたものが大ぜいあって、言った、「救世主が来ても、この人がしたより多くの徴[奇蹟]をすることはできまいと思うが、どうだろう。」
前田訳群衆の中の多くがイエスを信じていった、「キリストが来てもこの人がしたよりも多くの徴をしようか」と。
新共同しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。
NIVStill, many in the crowd put their faith in him. They said, "When the Christ comes, will he do more miraculous signs than this man?"
註解: 反対に群衆の中にはイエスをメシヤと信ずるものがあった(12節参照)。彼らには何ら宗派的偏見がないためにかえってイエスの本質を直感した。イエスの為し給える徴が彼らにとっては充分の証拠であったからである(6:30参照)。

7章32節 イエスにつきて群衆(ぐんじゅう)のかく(ささや)くことパリサイ(びと)(みみ)()りたれば、祭司長(さいしちゃう)・パリサイ(びと)(かれ)(とら)へんとて下役(したやく)どもを(つかは)ししに、[引照]

口語訳群衆がイエスについてこのようなうわさをしているのを、パリサイ人たちは耳にした。そこで、祭司長たちやパリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、下役どもをつかわした。
塚本訳イエスについて、群衆がこんなひそひそ話をしているのがパリサイ人の耳に入ったので、大祭司連とパリサイ人とはイエスを捕えようとして、下役らをやった。
前田訳群衆が彼について、こううわさするのをパリサイ人が耳にした。祭司長とパリサイ人は使いたちをやってイエスを捕えようとした。
新共同ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。
NIVThe Pharisees heard the crowd whispering such things about him. Then the chief priests and the Pharisees sent temple guards to arrest him.
註解: ここには単に「ユダヤ人ら」と言わずしてその内容を祭司長パリサイ人らとして掲げている。これは衆議所の別名と見ることができる。彼らの憂うる処は彼らが神の真理と思う処のものがイエスによりて乱されんことではなく、群衆がイエスに従って彼らを離れんことであった。職業宗教家の憂うる処は常にこれである。次節より見るに彼らは下役を遣わして直ちに彼を捕えしめたのではなく、彼らをしてイエスを捕うべき口実をまず発見せしめ、然る後にこれを捕えしめんとしたものであろう。

7章33節 イエス()(たま)ふ『(われ)なほ(しばら)(なんぢ)らと(とも)()り、(しか)してのち(われ)(つかは)(たま)ひし(もの)御許(みもと)()く。[引照]

口語訳イエスは言われた、「今しばらくの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く。
塚本訳するとイエスは言われた、「わたしはもうしばらくの間あなた達と一しょにいて、それから、わたしを遣わされた方の所に行く。
前田訳そこでイエスはいわれた、「いましばらくわたしはあなた方とともにいて、それからわたしをつかわされた方のところへ行く。
新共同そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。
NIVJesus said, "I am with you for only a short time, and then I go to the one who sent me.
辞解
[我を遣し給ひし者の御許] イエスが言い給うたのではなくヨハネが附加したのであると唱うる学者がる(M0)。その故は、もしイエスがかく言い給うたならば下役どももこれを理解したであろうというのである。しかしながらこれまでイエスの説教を聞きしや否やも不明であり、かつ多くの場合霊的問題に無関心なる彼らは、これをかく解し得なかったと見る方がむしろ事実に近いであろう。

7章34節 (なんぢ)(われ)(たづ)ねん、されど()はざるべし、(なんぢ)()わが()(ところ)()くこと(あた)はず』[引照]

口語訳あなたがたはわたしを捜すであろうが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所に、あなたがたは来ることができない」。
塚本訳(その時)あなた達はわたしをさがすが、見つからない。わたしがおる所に、あなた達は来ることが出来ない(からだ)。」
前田訳あなた方はわたしをたずねても見いだすまい。わたしのいるところへあなた方は来られない」と。
新共同あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」
NIVYou will look for me, but you will not find me; and where I am, you cannot come."
註解: 衆議所の下役どもが来たのでイエスは主として彼らに向ってこの二節の言を語り給うた。その他に群衆も聴いていたこと勿論である。而してイエスはここに極めて表徴的の語をもってその死と復活昇天とを語り給うた。この語はイエスの言の霊的意義を解せざる衆議所の下役どもにとっては、イエスは間もなく何處にか身を隠しこれを探しても見出し能わず、従ってもはやユダヤ人らを扇動する懼れなく、これを捕縛する必要なきもののごとくに聴えたことであろう。また群衆中のイエスを理解する者にとっては、尋ね求めても彼に遭うことができずとの宣言は、大なる淋しさを与え、彼らをして速やかにイエスを信ずる必要を感じせしめたことであろう。

7章35節 ここにユダヤ(びと)(たがひ)()ふ『この(ひと)われらの()()ぬいづこに()かんとするか、ギリシヤ(びと)のうちに()りをる(もの)()きて、ギリシヤ(びと)(をし)へんとするか。[引照]

口語訳そこでユダヤ人たちは互に言った、「わたしたちが見つけることができないというのは、どこへ行こうとしているのだろう。ギリシヤ人の中に離散している人たちのところにでも行って、ギリシヤ人を教えようというのだろうか。
塚本訳するとユダヤ人が互いに言った、「この人は私たちに見つからないように、いったいどこに行くつもりだろう。まさか異教人の中に離散しているユダヤ人のところに行って、異教人に教えるつもりではあるまい。
前田訳そこでユダヤ人が互いにいった、「この人はどこへ行くつもりか、われらは彼を見いだすまいとは。ギリシア人の中にいる散在の(ユダヤ)人のところへ行ってギリシア人を教えるつもりか。
新共同すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。
NIVThe Jews said to one another, "Where does this man intend to go that we cannot find him? Will he go where our people live scattered among the Greeks, and teach the Greeks?
註解: この「ユダヤ人」は前掲の下役(32節)どもである。彼らはイエスの御言の意味を充分に解せず本文のごとくに推量した。すなわちイエスは外国に行きユダヤ人にしてこれらの異邦に散り居る人々に道を伝え、彼らを足場として異邦人にその道を伝えるつもりであろうかと推察したのである。この下役らの言は一つの預言となり、その後イエスの弟子において実現したことをヨハネは目撃しつつこの語を回想して深き感慨に打たれつつこれを録したことであろう。
辞解
[ギリシャ人のうちに散りをる者] diaspora tôn Hellênôn はユダヤ人にして異邦に散布している人々(ヤコ1:1、Tペテ1:1)。

7章36節 その(ことば)に「なんぢら(われ)(たづ)ねん、()れど()はざるべし、(なんぢ)()がをる(ところ)()くこと(あた)はず」と()へるは(なに)ぞや』[引照]

口語訳また、『わたしを捜すが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所には来ることができないだろう』と言ったその言葉は、どういう意味だろう」。
塚本訳『あなた達はわたしをさがすが、見つからない。わたしがおる所に、あなたたちは来ることが出来ない』と言ったあの言葉は、いったいどういう意味だろう。」
前田訳『あなた方はわたしをたずねても見いだすまい。わたしのいるところにあなた方は来られない』と彼がいったことばは何の意味であろう」と。
新共同『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」
NIVWhat did he mean when he said, `You will look for me, but you will not find me,' and `Where I am, you cannot come'?"
註解: 彼らはついにイエスの語の真相を捉え得ずして帰った。いわゆる煙に巻かれたともいうべき心地であったろう。
要義 [イエスに対する人々の種類]ここにイエスに対する各種の人物が代表せられていることを見出すことができる。最もイエスを憎みてこれを殺さんとするものはその当時の宗権の保持者、既成宗教の擁護者なるパリサイ人、祭司ら(本文にユダヤ人らとあり)である。彼らは自己の霊的盲目に加うるにその利益特権の擁護を目的としていたがためにイエスの真理の光にたえることができなかった(3:20)。その次に来るものはエルサレムの人々であった。彼らはパリサイ人らに接する機会が多いために幾分宗教的知識を有っていた。このことがかえって彼らを禍して彼らをしてイエスを信ぜざらしめた。これに次ぐものは群衆であって彼らは平信徒であり、かつパリサイ人らのごとき宗教的特権階級によりて禍されざる純真なる人々であった。それ故にイエスをキリストと信ずるものは最も多く彼らの中より出たのである。次は下役であった。彼らは宗教問題に全く無関心なるもののごとく、イエスの御言を全く理解しなかった。彼らは唯その刻々の思想に従って機械的に行動するに過ぎない。以上の四種は今日の宗教界にもこれを発見することができる。イエスが如何なる階級に最もよく知らるるかは注意すべき事実である。

3-3-2-ハ 活ける水の説教と影響 7:37 - 7:44

7章37節 (まつり)(をはり)(おほい)なる()に、イエス()ちて(よば)はりて()ひたまふ[引照]

口語訳祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
塚本訳祭の最後の大際の日に、イエスは立って叫ばれた、「渇く者はわたしの所に来て飲みなさい。
前田訳祭りの最終最大の日に、イエスは立って叫ばれた、「渇くものはわたしのところに来て飲め。
新共同祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
NIVOn the last and greatest day of the Feast, Jesus stood and said in a loud voice, "If anyone is thirsty, let him come to me and drink.
註解: 「祭の終の大なる日」とは七日間仮庵の祭を終りて第八日に人々は仮庵なるその天幕より各々家に帰り、最後の日として盛んなる祝祭を行う(レビ23:35、36、39)。ゆえにこれをも祭の一部として八日間の祭といわれていた。これを大なる日と呼ぶ所以は、おそらくイスラエルが荒野の旅を終えてカナンに入る日を記念する意味からであろう(L2)。「立ちて呼ばる」と特に記しし所以はイエスが特にこの祭の大なる日に相応しき態度を取り、大声にて絶叫したまえることを示している。

(ひと)もし(かわ)かば(われ)(きた)りて()め。

註解: 仮庵の祭の七日間はイスラエルの荒野の生活を記念するがためで、祭司は毎日黄金の水差しを携えてシロアムの池に至り、楽器と歌謡(イザ12:3を歌う)の中にその水を汲みて再び宮に帰り、これを祭壇の西に注いだ。群衆これに従い喚呼をもってこれを祝した。これイスラエルが荒野において岩より水を得てその渇きを醫ししことを記念せんがためであった(Tコリ10:4。出17:6以下。民20:10以下。詩78:15)。この岩はすなわちキリストであり(Tコリ10:4)この水はすなわち霊なる飲物であった(同上)。イエスはこの真理を示すに最も適当なるこの機会を捉え「汝らが過る一週間の間祝えるこの祭は我の型であり、我によりて実現したのである。ゆえに我に来ることと我より飲むこととが必要である」と叫び給うたのである。人間は凡てみな霊の渇きに死なんとしているのであって、何處にこの渇きを醫すべきかを知らない。この世の与うる水はこの渇きを根本的に醫すことができない。キリストなる岩に来り、その下より流れ出づる泉を飲むことによりて始めてこれを醫すことができる(4:13、14)。

7章38節 (われ)(しん)ずる(もの)は、聖書(せいしょ)()へるごとく、その(はら)より()ける(みづ)(かは)となりて(なが)()づべし』[引照]

口語訳わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
塚本訳わたしを信ずる者は、聖書が言っているように、『そのお腹から、清水が川となって流れ出るであろう。』」
前田訳わたしを信ずるものは、聖書がいうように、そのうちから清水が川と流れ出よう」と。
新共同わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
NIVWhoever believes in me, as the Scripture has said, streams of living water will flow from within him."
註解: キリストに来りて飲むことは彼を「信ずる」ことである。彼を信ずるものは啻(ただ)に自己の渇きを永遠に醫すのみならず、キリストなる水源に連なることによりて己の腹より活ける水(その何を示すかは次節を見よ)が川となって尽くることなく流れ出て、他の多くの人々の渇きを醫すことができるであろう。知識や修養や感情をもってはかかる豊富さ、自由さ、純潔さを持つことができない。而して信仰とはキリストとの人格的一致合一を意味する。ゆえに彼が泉なる水源であり、信ずる者はその腹中にこの水源を宿すことができる(4:14)。「聖書に云へるごとく」は聖書の一箇所を引用したのではなく、旧約聖書中に散在する多くの箇所の大意を指したのである(例えばイザ12:3、44:3、55:1、58:11。エゼ47:9。ゼカ13:1。14:8。その他)ただしこの本文の意味そのままの文字は見出すことができない。

7章39節 これは(かれ)(しん)ずる(もの)()けんとする御靈(みたま)()して()(たま)ひしなり。イエス(いま)榮光(えいくわう)()(たま)はざれば、御靈(みたま)いまだ[(くだ)ら]((いま)さ)ざりしなり。[引照]

口語訳これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
塚本訳これは、彼を信ずる者が受けるべき御霊のことを言われたのである。イエスは(その時)まだ栄光を受けておられなかったため、御霊がまだ下っていなかったからである。(「であろう」と言われたのはそのためである。)
前田訳これはイエスを信ずるものが受けるべき霊のことをいわれたのである。イエスがまだ栄光を受けておられなかったため、霊が与えられていなかったからである。
新共同イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
NIVBy this he meant the Spirit, whom those who believed in him were later to receive. Up to that time the Spirit had not been given, since Jesus had not yet been glorified.
註解: 使2:1以下に聖霊降臨の記事が掲げられている。イエスがこの地上に歩み給う間は彼自身聖霊に充たされ、聖霊の働きを為し給うた。イエスが来り給う前にもまた来り給いて後も聖霊が外より人の心の中に働きかけ、または特別の場合に御霊が宿り給うた事実は沢山にあった(詩51:10−12。創41:38。民27:18。Iサム16:13、18等。またUペテ1:21。使28:25。ヘブ3:7)。しかしながら聖霊が信ずる者の凡ての衷に内住し給い彼らの助け主となり、またキリストの地上の代理者として働き給うことは(14−16章)ペンテコステの時以後のことであった(使2:1以下)。キリストが昇天し給いし後に至っては彼の体なる教会の中に彼が宿ることが必要であるがために、御霊として地上に降り常住し給うに至ったのである。
辞解
[降る] 原本になし、「在す」(または異本に「賜る」)とあり、聖霊降臨して常に信ずる者の中に在すことを言う。ペンテコステの後は聖霊が一々降るのではない。

7章40節 (これ)()(ことば)をききて群衆(ぐんじゅう)のうちの(ある)(ひと)は『これ(まこと)にかの預言者(よげんしゃ)なり』といひ、[引照]

口語訳群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、
塚本訳すると群衆のうちにこの言葉を聞いて、「確かにこの人は(世の終りに来る)あの預言者だ」と言う者があり、
前田訳このことばを聞いて、群衆の中のあるものは「まことにこの人は預言者である」といい、
新共同この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、
NIVOn hearing his words, some of the people said, "Surely this man is the Prophet."
註解: 40−43節はイエスの説教が群衆に与えし種々の印象を記している。その一は彼をもって旧約聖書の預言せる(申18:15)預言者であると解した。
辞解
[かの預言者] 1:21参照。ここでは次節のキリストと対立せしめ、キリストの先駆者たるべき預言者と解す。

7章41節 (ある)(ひと)は『これキリストなり』と()ひ、[引照]

口語訳ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。
塚本訳「この人は救世主だ」と言う者もあり、また(反対して、)こう言う者もあった、「ガリラヤから救世主が出るとでも言うのか。
前田訳あるものは「この人はキリストである」といい、あるものは「キリストがガリラヤから来るものか。
新共同「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。
NIVOthers said, "He is the Christ." Still others asked, "How can the Christ come from Galilee?
註解: これが第二種の人で彼を預言者以上のメシヤと認めた。

(また)ある(ひと)は『キリストいかでガリラヤより()でんや、

註解: ▲口語訳参照。

7章42節 聖書(せいしょ)に、キリストはダビデの(すゑ)またダビデの()りし(むら)ベツレヘムより()づと()へるならずや』と()ふ。[引照]

口語訳キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。
塚本訳『救世主は〃ダビデの末〃から、ダビデの住んでいた村〃ベツレヘムから出る〃』と聖書が言っているではないか。」
前田訳聖書に、『キリストが来るのはダビデの末から、ダビデのいた村ベツレヘムから』とあるではないか」といった。
新共同メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」
NIVDoes not the Scripture say that the Christ will come from David's family and from Bethlehem, the town where David lived?"
註解: 第三の人はイエスのキリストたることの議論に反対した。而してその理由は聖書の預言に応わないからであるというのである。然るにこの反対論は実はイエスのキリストに在すことの証明であって、彼らはイエスの降誕の事実を知らずしてかかる反対をなしたに過ぎない。ヨハネはこれに対して何らの反対をも掲げずに記すことによって読者がマタ2:1。ルカ2:5よりかかる反対の空しきを理解することを予想しているもののごとくである。なおダビデ、ベツレヘムについては引照(2、3)参照。「聖書に」はミカ5:2。イザヤ11:1。エレミヤ23:5等を言う。

7章43節 ()くイエスの(こと)によりて、群衆(ぐんじゅう)のうちに紛爭(あらそひ)おこりたり。[引照]

口語訳こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。
塚本訳そこで群衆の間に、イエスのことで意見が分かれた。
前田訳そこで彼ゆえに群衆の中に分裂がおこった。
新共同こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。
NIVThus the people were divided because of Jesus.
註解: 真の平和と一致は神にある平和と聖霊による一致のみである。

7章44節 その(うち)には、イエスを(とら)へんと(ほっ)する(もの)もありしが、手出(てだし)する(もの)なかりき。[引照]

口語訳彼らのうちのある人々は、イエスを捕えようと思ったが、だれひとり手をかける者はなかった。
塚本訳なかには彼を捕えようと思う者もあったが、手をかける者はなかった。
前田訳彼らのうちのあるものは彼を捕えようと思った。しかしだれも彼に手をかけなかった。
新共同その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。
NIVSome wanted to seize him, but no one laid a hand on him.
註解: 時未だ到らざれば神彼らの手を抑え給うたのであって、結局において凡てに神の御心のみが成るのである。
要義 [活ける水なる聖霊]聖霊我らに宿り給う時、我らの心は歓喜に満たされ溢れてその恩恵を他人に及ぼすことができ、力は豊かに内に働きて悪魔に打勝つことができ、永遠の生命が内に宿ってこの世の慾を超越することができる。しかしながらこの聖霊はキリストより独立して我らのものとなり、我らの自由になり給うのではない。我らこの聖霊に満たされんがためには常に「キリストに連なりて飲み」「キリストを信じ」なければならぬ。キリストと霊の交わりにおいてのみ聖霊は我らに与えられ、あたかも川のごとく活ける水となりて溢れ出でるのである。

3-3-2-ニ イエスに対する種々の態度 7:45 - 7:52

7章45節 (しか)して下役(したやく)ども、祭司長(さいしちゃう)・パリサイ(びと)らの(もと)(かへ)りたれば、(かれ)()ふ『なに(ゆゑ)かれを()(きた)らぬか』[引照]

口語訳さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたので、彼らはその下役どもに言った、「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」。
塚本訳やがて下役らが(手ぶらで)かえって来ると、大祭司連とパリサイ人とが言った、「なぜあれを引いてこなかったか。」
前田訳使いたちが帰って来たので祭司長とパリサイ人はいった、「なぜあれを引っぱって来なかったか」と。
新共同さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。
NIVFinally the temple guards went back to the chief priests and Pharisees, who asked them, "Why didn't you bring him in?"
註解: 衆議所に集合してその下役の復命を待っていた祭司長、パリサイ人らは下役が充分に彼を捕縛する理由を見出したはずであると考えてかかる質問を発した。彼らは凡ての人が彼ら自身のごとく宗派的心情を有つもののごとくに考えていた。今の時代においてもこの種の人が少なくない。

7章46節 下役(したやく)ども(こた)ふ『この(ひと)(かた)るごとく(かた)りし(ひと)(いま)だなし』[引照]

口語訳下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。
塚本訳下役らが答えた、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
前田訳使いたちは答えた、「あの人が話すように話した人はいまだかつてありません」と。
新共同下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。
NIV"No one ever spoke the way this man does," the guards declared.
註解: 普通の事柄では容易に上役の命を拒まなかった下役らが、上役の意向をしりつつ勇敢にかかる答を与えたのは、彼らがイエスの高き人格とその天来の響きを発する言に威圧されたのであろう。宗派的偏見なきものはかえって真理をそのままに直観することができる。

7章47節 パリサイ(びと)()これに(こた)ふ『なんぢらも(まどは)されしか、[引照]

口語訳パリサイ人たちが彼らに答えた、「あなたがたまでが、だまされているのではないか。
塚本訳パリサイ人が答えた、「君たちまでが迷わされたのではあるまいね。
前田訳パリサイ人は答えた、「おまえたちまで迷わされたのか。
新共同すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。
NIV"You mean he has deceived you also?" the Pharisees retorted.

7章48節 (つかさ)たち(また)はパリサイ(びと)のうちに、一人(ひとり)だに(かれ)(しん)ぜし(もの)ありや、[引照]

口語訳役人たちやパリサイ人たちの中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。
塚本訳(最高法院の)役人かパリサイ人のうちに、あれを信じた者がひとりでもあるというのか。
前田訳司やパリサイ人のうち彼を信じたものがひとりでもあるか。
新共同議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。
NIV"Has any of the rulers or of the Pharisees believed in him?

7章49節 律法(おきて)()らぬこの群衆(ぐんじゅう)(のろ)はれたる(もの)なり』[引照]

口語訳律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」。
塚本訳(信じたのは民衆だけだ。)律法(聖書)を知らないあんな民衆は、呪われたがいい!」
前田訳律法を知らぬあんな群衆は呪われている」と。
新共同だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」
NIVNo! But this mob that knows nothing of the law--there is a curse on them."
註解: パリサイ人らはまず第一に下役に対する不満を吐露した。「群衆が惑わされるのみならず正統的教権を擁護すべき職に在る汝らまでも惑わされたのであるか。まさかそうではあるまい。迷わさるるのは無智のもののみであるから」と言いて彼ら自身迷妄の中にいることには心付かざるもののごとくである。而してイエスを信ずる者は惑わされしものであることの証として「司たち」や「パリサイ人」らの中一人もこれを信ずる者なきことを掲げている。(彼らはニコデモについて知らなかった。)彼らは彼らの階級のみが真理の独占者であるかのごとき迷誤に陥っているのを見ることができる。而してかかる誇りを有つ理由は「律法を知っている」からであって、この誇りがやがて「律法を知らぬ群衆に対する侮蔑」となってあらわれたのである。然るに何ぞ知らん「この世の司にはこれを知る者がない」(Tコリ2:8)またこの世の智慧は神の前に愚である(Tコリ1:19−25)。
辞解
[司たち] ルカ23:13註参照。
[詛はれたる者] 神の怒りを受くべき者。かかる語を発したのはパリサイ人らの鬱憤が爆発せるものであった。
[律法を知らぬ群衆] 「地の民」とも言い凡てにおいてパリサイ人らに比し一段劣れる人々として取扱われていた(S2)。

7章50節 (かれ)()のうちの一人(ひとり)にてさきにイエスの(もと)(きた)りしニコデモ()ふ、[引照]

口語訳彼らの中のひとりで、以前にイエスに会いにきたことのあるニコデモが、彼らに言った、
塚本訳そのうちの一人で、前に(夜ひそかに)イエスの所に来たニコデモが、彼らに言う、
前田訳彼らのひとりで、前にイエスのところに来たニコデモが彼らにいう、
新共同彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。
NIVNicodemus, who had gone to Jesus earlier and who was one of their own number, asked,
註解: パリサイ人らの予期しなかった反対論が彼らの中の一人から起ったことは、彼らにとっていかに大なる驚駭であったろうか。またニコデモとしては孤立無援の立場においてこの証を為したことはいかに勇気を要したことであろうか。

7章51節 『われらの律法(おきて)は、(さき)その(ひと)()き、その()すところを()るにあらずば、(さば)(こと)をせんや』[引照]

口語訳「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」。
塚本訳「われわれの律法は、まずその人に(言い分を)聞き、そのしたことを知った上でなければ、罰しないことになっているではないか。」
前田訳「まず彼の言い分を聞いて、彼が何をしたかを知らねば、われらの律法では裁けないではないか」と。
新共同「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」
NIV"Does our law condemn anyone without first hearing him to find out what he is doing?"
註解: ニコデモは直接イエスに対する敬意を告白するだけの勇気がなく、間接にパリサイ人らの激昂を抑えて彼らをその律法違反をもって責め、人民の律法を知らざるを責むる資格なきを示している。引照参照。ここにもニコデモの性格がさながらに表わされている。

7章52節 かれら(こた)へて()ふ『なんぢもガリラヤより()でしか、(しら)()よ、預言者(よげんしゃ)はガリラヤより(おこ)(こと)なし』[引照]

口語訳彼らは答えて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」。〔
塚本訳彼らは答えて言った、「あなたまでがガリラヤから出たわけではあるまいに。(聖書をよく)調べてみなさい。ガリラヤからは預言者があらわれないことがわかろう。」
前田訳彼らは答えた、「あなたまでがガリラヤの出か。しらべてみよ、ガリラヤから預言者は現われないことがわかろう」と。
新共同彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」
NIVThey replied, "Are you from Galilee, too? Look into it, and you will find that a prophet does not come out of Galilee."
註解: 彼らはニコデモの出所を知らないはずはない。彼らは激怒のあまりイエスに与(くみ)せんとする彼にガリラヤ人の汚名をもって呼びつつ彼を非難せんとした。「預言者はガリラヤより起る事なし」なる断言も彼らの誤りであって、彼らは激情にかられて歴史を無視か或は忘却したのである。何となれば王下14:25によれば、少なくともヨナはガリラヤの産であったからである。彼らの誇りはその聖書知識のみならずその故郷ユダヤに関する誇りとなってあらわれた。
要義 [キリストを拒む者]キリストを拒む者は必ずしも地位学問のある者とは限らない。ニコデモのごときはその例である。また必ずしも無学、卑賤のものとも限らない。群衆中の彼を否める者のごときそれである。イエスを理解せず彼を拒むものは正統派をもって任ずる者、その保持する宗権を擁護せんとするもの、その伝統を維持せんとするもの、自己の知識学問に誇る者などである。

3-3-3 姦淫せる女とイエス 7:53 - 8:11

7章53節 ()くておのおの(おの)(いへ)(かへ)れり。[引照]

口語訳そして、人々はおのおの家に帰って行った。
塚本訳人々はそれぞれ家にかえったが、
前田訳人々はめいめい家に帰った。
新共同〔人々はおのおの家へ帰って行った。
NIV Then each went to his own home.
註解: パリサイ人、祭司、司、下役、群衆みなその家に帰り、危険が迫って来たにもかかわらずイエスは無事にこの一日を過ごし給うた。
附記 7:53−8:11は新約聖書の全体を通して最も例外的の部分であって、今日残存せる多くの重要な写本にはこの部分を欠如しているのもかかわらず、これを含む写本もまた少なくない。またある写本にはこの部分に特別の符号を附しているなど特別に取扱っているのもある。のみならず二、三世紀の頃にすでにこの物語が存在していたことの確証があり、四世紀の写本にもこれが含まれているのも有るなどの点より見れば、すでに二、三世紀の頃においてこの物語が何らかの形において存していたことは確実である。唯これが本来ヨハネ伝の一部でなかったことは、その文体がむしろ共観福音書に似ていてヨハネの文体には似ていないこと、およびこの部分が載せられている場所が写本により、或はヨハネ伝の末尾に、或はルカ伝21章にこれを挿入していることよりこれを知ることができ、またこの部分に限り諸の写本の間に非常に多くの文言の不一致がある事より之を知ることが出来る。多くの写本に此の部分が欠けて居る事は、本来ありしものが取除かれたのであるか、または本来なかったものが附加せられたのであるか、また何故にこの部分に挿入されたか、また果して真正なるヨハネ文書なりや、または果して事実であるか、または逸話であったか等の問題については種々の想像説があるけれども確定的のものはない。唯古き時代よりこの美わしき物語を捨て難く考えて聖経のいずれかにこれを保存せんとせることは、そこに聖霊の奇しき導きが有ったものと考えることができる。英語改訳聖書は全文を除いているけれども、日本語改訳聖書に〔 〕を附して保存したことは幸いである。▲RSVは全文を欄外に移し、口語訳はこれを〔 〕に入れている。