黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ルカ伝

ルカ伝第16章

分類
8 神の国の教訓 14:1 - 18:30
8-2 神の国に関する比喩 15:1 - 16:31
8-2-ニ 富める不義なる支配人の比喩 16:1 - 16:13  

16章1節 イエスまた弟子(でし)たちに()(たま)[引照]

口語訳イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。
塚本訳また弟子たちにも話された、「ある金持に一人の番頭があった。主人の財産を使い込んでいると告げ口した者があったので、
前田訳彼は弟子たちにもいわれた、「ある金持に支配人があった。主人の財産を浪費していると告げ口するものがあったので、
新共同イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。
NIVJesus told his disciples: "There was a rich man whose manager was accused of wasting his possessions.
註解: ルカ12:22参照。

(ある)()める(ひと)一人(ひとり)支配人(しはいにん)あり、主人(あるじ)所有(もちもの)(つひや)しをりと(うった)へられたれば、

16章2節 主人(あるじ)かれを()びて()ふ「わが(なんぢ)につきて()(ところ)は、これ何事(なにごと)ぞ、(つとめ)報告(はうこく)をいだせ、(なんぢ)こののち支配人(しはいにん)たるを()じ」[引照]

口語訳そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。
塚本訳主人は番頭を呼んで言った、『なんということをあなたについて聞くのだ!事務の報告を出してもらおう、もう番頭にしておくわけにはいかないから。』
前田訳主人は支配人を呼んでいった、『あなたについて耳にすることは何だ。会計の報告を出しなさい。もう支配人はつとまらない』と。
新共同そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
NIVSo he called him in and asked him, `What is this I hear about you? Give an account of your management, because you cannot be manager any longer.'

16章3節 支配人(しはいにん)(こころ)のうちに()ふ「如何(いか)にせん、主人(あるじ)わが(つとめ)(うば)ふ。われ(つち)()るには(ちから)なく、(もの)()ふは(はぢ)かし。[引照]

口語訳この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。
塚本訳番頭は心ひそかに考えた、『どうしたものだろう、主人がわたしの仕事を取り上げるのだが。(土を)掘るには力がないし、乞食をするには恥ずかしいし……
前田訳支配人は心に考えた、『どうしよう。主人がわたしの仕事を取りあげる。土を掘る力はなく、物乞いをするのは恥ずかしい。
新共同管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
NIV"The manager said to himself, `What shall I do now? My master is taking away my job. I'm not strong enough to dig, and I'm ashamed to beg--

16章4節 (われ)なすべき(こと)こそ()りたれ、()(ため)(つとめ)()めらるるとき、人々(ひとびと)その(いへ)(われ)(むか)ふるならん」とて、[引照]

口語訳そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。
塚本訳よし、わかった、こうしよう。こうしておけば仕事が首になった時、その人たちがわたしを自分の家に迎えてくれるにちがいない。』
前田訳わかった、こうしよう。仕事をやめさせられたとき、こうすれば、その人たちはわたしを自分の家に迎えてくれよう』と。
新共同そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
NIVI know what I'll do so that, when I lose my job here, people will welcome me into their houses.'
註解: この比喩は弟子たちに地上の財寳を賢明に使用すべきこと、神と財寳とに兼ね仕うべからざること(ルカ9:13節)を示すために語られたので、その例として不義なる支配人のことを語り給うた。弟子たちにとっては神に(つか)うることが根本であり、そのために地上の財寳をも有効に使用し、これを多くの人に惜しみなく与えて福音のために用い、天国に入るべき友を多く造ることが必要であることを示す。地の事と天の事、地の宝と天の宝とを混同せずに味読することが必要である。支配人は自己の罪状が主人に知られたので、直ちに自己の罷免後の生活に関して工夫した。徹底的に「この世の子」であることが知られる。次の三節はその方法を二つの例をもって示す。

16章5節 主人(あるじ)負債者(ふさいしゃ)一人(ひとり)一人(ひとり)()びよせて、(はじめ)(もの)()ふ「なんぢ()主人(あるじ)より()ふところ(なに)(ほど)あるか」[引照]

口語訳それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。
塚本訳そこで主人の債務者をひとりびとり呼びよせて、まず最初の人に言った、『うちの主人にいくら借りがあるのか。』
前田訳そこで主人の借り手をひとりずつ呼びよせて、最初の人にいった、『わたしの主人にいくら借りがありますか』と。
新共同そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。
NIV"So he called in each one of his master's debtors. He asked the first, `How much do you owe my master?'

16章6節 (こた)へて()ふ「(あぶら)(ひゃく)(たる)支配人(しはいにん)いふ「なんぢの證書(しょうしょ)をとり、(はや)()して()(じふ)()け」[引照]

口語訳『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。
塚本訳『油百バテ[二十石]』とこたえた。番頭が言った、『そら、あなたの証文だ。坐って、大急ぎで五十と書き直しなさい。』
前田訳『油百パテ』と答えた。支配人がいった、『ここにあなたの証文がある。すぐすわって五十と書きかえなさい』と。
新共同『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
NIV"`Eight hundred gallons of olive oil,' he replied. "The manager told him, `Take your bill, sit down quickly, and make it four hundred.'
註解: ▲原文「汝の証書を取れ」とあり、口語訳「ここにあなたの証書がある」は意訳ならん。次節の場合も同じ。

16章7節 (また)ほかの(もの)()ふ「()ふところ(なに)(ほど)あるか」(こた)へて()ふ「(むぎ)(ひゃく)(こく)支配人(しはいにん)いふ「なんぢの證書(しょうしょ)をとりて(はち)(じふ)()け」[引照]

口語訳次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。
塚本訳それから他の一人に言った、『あなたはいくら借りがあるのか。』『小麦百コル[二百石]』とこたえた。彼に言う、『そら、あなたの証文だ。八十と書き直しなさい。』
前田訳それからもうひとりにいった、『あなたはいくら借りがありますか』と。『小麦百コル』と答えた。支配人がいった、『ここにあなたの証文がある。八十と書きかえなさい』と。
新共同また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
NIV"Then he asked the second, `And how much do you owe?' "`A thousand bushels of wheat,' he replied. "He told him, `Take your bill and make it eight hundred.'
註解: 支配人の取った方法は自分の権限を悪用して負債者の債務を軽減し、主人の損失において債務者に利益を与えて恩を売り、やがて自分の遁れ場所を作ったのであった。自分は少しの損をも受けずして不義の利益を得んとする奸計(かんけい)であり、しかも極めて適切なる手段であった。一人には債務を半減し、一人は二割引きにしたことについては格別比喩的の意味があると考える必要はない。

16章8節 ここに主人(あるじ)不義(ふぎ)なる支配人(しはいにん)()しし(こと)(たくみ)なるによりて、(かれ)()めたり。[引照]

口語訳ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。
塚本訳すると主人はこの不埒な番頭の利巧な遣り口を褒めた(という話)。この世の人は自分たちの仲間のことにかけては、光の子(が神の国のことに利口である)よりも利巧である。
前田訳すると主人はこの不正な支配人の賢い仕方をほめた。この世の子らはおのが世代に対しては光の子よりも賢い。
新共同主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
NIV"The master commended the dishonest manager because he had acted shrewdly. For the people of this world are more shrewd in dealing with their own kind than are the people of the light.
註解: 不義を誉めたのではなく、その手段の巧みなことを誉めたのであった。これを混同して考えないことが必要である。イエスがかかる寓話を語り給うた目的は、専ら弟子たち(1節)をしてその地上の所有に対して正しくかつ賢明なる処置を取り、自由に用い自由に施し、神の国建設の準備たらしめようとの目的であった。ゆえにこの寓話の中でこれに無関係な点を強いて説明する必要なく、またその中の多くの困難(8a、9、11節等)な点を凡て無難に解釈し尽くすことは容易ではないけれども、右の中心点を明確に把握すれば比較的全体が解し易い。

この()()らは、(おの)時代(じだい)(こと)には(ひかり)()らよりも(たくみ)なり。

註解: 「光の子」はキリストを信ずる者であり「此の世の子」は彼を信じない者である。この世の事柄、自己の利害の問題等についてはキリスト者は断然この世の子らに比して愚昧(おろか)である。しかし神の国のことについては愚昧(おろか)であってはならない。如何にすべきか次節を見よ。

16章9節 われ(なんぢ)らに()ぐ、不義(ふぎ)(とみ)をもて、(おの)がために(とも)をつくれ。さらば(とみ)()する(とき)、その(とも)なんぢらを永遠(とこしへ)の[住居(すまひ)](幕屋(まくや))に(むか)へん。[引照]

口語訳またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。
塚本訳それでわたしもあなた達に言う、あなた達も(この番頭に見習い、今のうちにこの世の)不正な富を利用して、(天に)友人[神]をつくっておけ。そうすれば富がなくなる時、その友人が永遠の住居に迎えてくださるであろう。
前田訳それでわたしはいう、不正の富で友だちをつくりなさい。富がなくなったとき、あなた方を永遠の住居に迎えてくれよう。
新共同そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
NIVI tell you, use worldly wealth to gain friends for yourselves, so that when it is gone, you will be welcomed into eternal dwellings.
註解: 弟子たちよ、もし汝らに「不義の富」すなわちこの世の富があるならば、金銭、学問、健康などの何であっても(さき)の支配人が利用した「不義の富」と同じく神より汝らに委托せられたものである。それ故汝ら「光の子」は、これを天国に迎えられる準備のため、すなわち神のため福音のために用いて多くの人々に奉仕し、これによって多くの友をつくるその巧妙さにおいてはこの世の子であった支配人に劣らないようでなければならぬ。これらの「友」はキリスト者同士であること(Z0)もあるべく、また然らざる場合もあろう(マタ25:40)。彼らは汝ら弟子たちがその富を失った時、すなわち死んでこの世を去る時には天国において汝らを永遠の幕屋に迎えるであろう。
辞解
多くの問題を起し、解釈上の迷路である。「不義の富」を以上のごとくに解した(Z0、L2、A1)訳は、一般に「富」なるものが本来「不義なる」ものが多いからということよりも、ここでこの世と神の国とを対立せしめこの世の富は「不義の富」神の国の富は「真の富」(11節)という簡単な区別をもって表顕したものと思われるからである。なお一つは前記「不義の支配人」の連想より、弟子たちが財寳を(いやし)めていた関係からこの名称はさほど不適当ではない。

16章10節 小事(せうじ)(ちゅう)なる(もの)大事(だいじ)にも(ちゅう)なり。小事(せうじ)に[()(ちゅう)](不義(ふぎ))なる(もの)大事(だいじ)にも[()(ちゅう)](不義(ふぎ))なり。[引照]

口語訳小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。
塚本訳ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。
前田訳小事に忠実なものは大事にも忠実である。小事に不忠実なものは大事にも不忠実である。
新共同ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
NIV"Whoever can be trusted with very little can also be trusted with much, and whoever is dishonest with very little will also be dishonest with much.
註解: 一般に使用されていた格言、この世の財寳すなわち不義の財寳は天国における真の財寳に比較すれば小事である。しかしこれを忠実にその委托者なる神の御旨に叶うように使用しないような者は、多くの人の霊魂の救いというごとき大なる問題にも忠実であり得ない。この世の財寳を貧しき者に施さないのは、一つの不義である。

16章11節 さらば(なんぢ)()もし不義(ふぎ)(とみ)(ちゅう)ならずば、(たれ)(まこと)(とみ)(なんぢ)らに(まか)すべき。[引照]

口語訳だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。
塚本訳だから、もし(この世の)不正な富に忠実でなかったならば、だれが(天の)まことの富をあなた達にまかせようか。
前田訳それゆえ、不正な富に忠実でなければ、だれが真の富をまかせよう。
新共同だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
NIVSo if you have not been trustworthy in handling worldly wealth, who will trust you with true riches?

16章12節 また(なんぢ)()もし(ひと)のものに(ちゅう)ならずば、(たれ)(なんぢ)()のものを(なんぢ)らに(あた)ふべき。[引照]

口語訳また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。
塚本訳もし他人のもの[この世のこと]に忠実でなかったならば、だれがあなた達のもの[天のもの]をあなた達に与えようか。
前田訳また、(地上にある)他人のものについて忠実でなければ、だれがあなた方に(天にある)自分のものを与えよう。
新共同また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
NIVAnd if you have not been trustworthy with someone else's property, who will give you property of your own?
註解: 前述のごとく「不義の富」を「この世の富」、「真の富」を「天国の富」なる意義に解すれば意味が通ずる。この世の富を如何に神の御旨に従って忠実に用うべきかを真面目に考える弟子でないならば、神は永生、義認、罪の赦し等のごとき真の富を彼らに委托し給わないであろう。またもし彼ら弟子たちが他人の事柄に忠実でないならば、すなわち、他人のために自己の不義の富をささげることをしないならば「汝らのもの」すなわち汝らの受くべき天国の祝福を神は汝らに与え給わないであろう。
辞解
[汝等のもの] 異本に「我らのもの」「我がもの」等とあるのもあるが、「他人のもの」に対しては「汝等のもの」が適当である。

16章13節 (しもべ)二人(ふたり)(しゅ)()(つか)ふること(あた)はず、(あるひ)(これ)(にく)(かれ)(あい)し、(あるひ)(これ)(した)しみ(かれ)(かろ)しむべければなり。(なんぢ)(かみ)(とみ)とに()(つか)ふること(あた)はず』[引照]

口語訳どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。
塚本訳しかし(この世のことはみな準備のためであるから、それに心を奪われてはならない。)いかなる僕も(同時に)二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることは出来ない。」
前田訳どの僕もふたりの主人には仕ええない。ひとりを憎んで他を愛するか、ひとりに親しんで他をうとんじるか、である。あなた方は神と富との両方には仕ええない」と。
新共同どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
NIV"No servant can serve two masters. Either he will hate the one and love the other, or he will be devoted to the one and despise the other. You cannot serve both God and Money."
註解: この二節はマタ6:24参照。この二節の精神をもって1節以下の精神として考察する時は上記のごとき解釈が最も適当と思われる。すなわち弟子とこの世の財寳との関係を示し給うたものと解するのである。
要義 [不義なる支配人の比喩について]上記のごとき困難のためにこの比喩は多くの専門的また非専門的の解釈から種々勝手な解釈が与えられている例の一つである。それらの解釈を一々ここに挙げることはいたずらに繁雑さを増すに過ぎない故これを省略する。唯この比喩が如何に多様に解されているかの例として、1節の「富める人」は、1.ローマ人、2.ローマ皇帝、3.神、4.悪魔、5.財寶、6.意味なきもの等々、その他「支配人」は、1.一般の人、2.富裕な人、3.イスラエルの民、4.イスラエルの有力者、5.罪人、6.イスカリオテのユダ、7.パリサイ人、8.取税人、9.弟子たちその他。9節の「不義の富」は、1.不義の行為により貯えられし富、2.誘惑的の財寶、3.不敬虔の富、不浄財、4.空にして無なる財寶、5.弟子が禁慾的思想から凡て富を不義なるものと考えたことに対する隠れた皮肉と解するがごときそれである。一々数え挙げたならば解釈の種類は無数であり、一人一解釈というごとき結果となるであろう。

8-2-ホ パリサイ人を戒む 16:14 - 16:18  

16章14節 ここに(よく)(ふか)きパリサイ(びと)ら、この(すべ)ての(こと)()きてイエスを嘲笑(あざわら)ふ。[引照]

口語訳欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。
塚本訳金の好きなパリサイ人の人々は一部始終を聞いて、イエスを鼻で笑った。(富は信仰の褒美と考えていたのである。)
前田訳金好きのパリサイ人がこの話をのこらず聞いて、彼をあざけった。
新共同金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。
NIVThe Pharisees, who loved money, heard all this and were sneering at Jesus.
註解: ルカ14:1ルカ15:2等のパリサイ人らがなおこの時も続けてイエスの御言を聞いていたものと思われる。イエスを嘲笑ったのはイエスが弟子たちに教えた1−13節の教訓、すなわち地上の富に仕えず神のみに仕え、地上の富は神の国を建てる準備のために()しむことなく用うべきことの教訓が全く無一物のイエスやその弟子たちでなければ実行できない教訓であると考え、また社会の現実を知り尽くしている彼らは、イエスの教訓は全く現実から遊離した空論であると考えたからであろう(▲何れの時代でもこの世の人は真面目なキリスト者を嘲笑する。キリスト者はそれを恐れてこの世の人に(なら)ってはならぬ)。また彼らは「慾深き」(原語 ─ 金銭を愛する)人であったので、俗人中の俗人であり、イエスの御心を正しく解することができなかった。かかる人々に対しイエスは次の諸点(15−18)に注意を与え、最後に19−31節の比喩をもって訓戒を与え給うた。

16章15節 イエス(かれ)らに()(たま)ふ『なんぢらは(ひと)のまへに(おのれ)()とする(もの)なり。されど(かみ)(なんぢ)らの(こころ)()りたまふ。(ひと)のなかに(たふと)ばるる(もの)は、(かみ)のまへに(にく)まるる(もの)なり。[引照]

口語訳そこで彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。
塚本訳そこで彼らに言われた、「あなた達は人の前では信心深そうな顔をしているが、神はあなた達の心を見抜いておられる。人の中で尊ばれるものは、神の前では嫌われるものである。
前田訳そこで彼らにいわれた、「あなた方は人の前で自らを正しいとするが、神はあなた方の心をご存じである。人の間で尊ばれるものは神の前ではきらわれる。
新共同そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
NIVHe said to them, "You are the ones who justify yourselves in the eyes of men, but God knows your hearts. What is highly valued among men is detestable in God's sight.
註解: これらのパリサイ人らは自己の貪慾をば巧みに掩い隠しつつ、律法を形式的に厳守することにより人の前に自己を義人と見せかけていた。しかし神は汝らの心を見給う、そこには唯金銭を愛する心があるばかりである。人の前に尊ばれる者は必ず偽善があり、また人を喜ばせんとする肉の念(律法や道徳等の上辺の価値を人に示してこれを喜ばせようとの念)がある。神はかかる者を深く憎み給う。

16章16節 律法(おきて)預言者(よげんしゃ)とはヨハネまでなり、その(とき)より(かみ)(くに)宣傳(のべつた)へられ、(ひと)みな(はげ)しく()めて(これ)()る。[引照]

口語訳律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。
塚本訳(あなた達は聖書を誇るが、時代はもう変っている。)律法と預言書と([聖書]の時代)は(洗礼者)ヨハネ(の現われる時)までで、その時以来神の国の福音は伝えられ、だれもかれも暴力で攻め入っている。
前田訳律法と預言書はヨハネまでで、そのとき以来神の国がのべ伝えられ、だれでもそこに無理押しして入り込む。
新共同律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。
NIV"The Law and the Prophets were proclaimed until John. Since that time, the good news of the kingdom of God is being preached, and everyone is forcing his way into it.

16章17節 されど律法(おきて)一畫(いっかく)()つるよりも、(てん)()()()くは(やす)し。[引照]

口語訳しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい。
塚本訳しかし(神の言葉はすたったのではない。)律法(と預言書と)の一画がくずれ落ちるよりは、天地の消え失せる方がたやすい。
前田訳しかし律法の一画が落ちるよりは天地が消え去るほうがやさしい。
新共同しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。
NIVIt is easier for heaven and earth to disappear than for the least stroke of a pen to drop out of the Law.
註解: パリサイ人よ汝らは「律法と預言者」すなわち旧約聖書を重んじ、我ら(イエスとその弟子)を律法を軽んじる者として非難するけれども、旧約の時代はヨハネをもって終りを告げたのである。その後はイエスと弟子たちとによって神の国の福音が宣伝えられ、多くの人これに入らんとして殺到している。汝らが我が言を理解しないのはこのことを知らないからである。神の国に入らんとするものはこの世の凡てを棄てる。しかし律法が終ったことはそれが消滅したのかというに然らず、その一点一画も決して失墜することはない。必ずこれを成就しなければならぬ。それ故汝らには次節のことが大切である。

16章18節 (すべ)てその(つま)()して、(ほか)(めと)(もの)は、姦淫(かんいん)(おこな)ふなり。また(をっと)より()されたる(をんな)(めと)(もの)も、姦淫(かんいん)(おこな)ふなり。[引照]

口語訳すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである。
塚本訳(だから、)妻を離縁して別な女と結婚する者は皆、姦淫を犯すのであり、夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すのである。
前田訳妻を出して別の女をめとるものは皆姦淫し、夫から出された女をめとるものも姦淫する。
新共同妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」
NIV"Anyone who divorces his wife and marries another woman commits adultery, and the man who marries a divorced woman commits adultery.
註解: 神の合せ給えるものは人がこれを離すことができない永遠的のものであるから、以上の場合は当然姦淫罪となるのであるが、汝らはかかることを平気で行っており、しかも自ら律法の擁護者をもって任じていることは誤っている。
要義 [愛は律法の成就]富を(おし)みなく与うることは愛より出づる行為である。これを嘲笑うパリサイ人には、律法遵守の誇りがあるけれども愛がない。この愛の律法に照して考えるならば、妻を出す者は律法違反者であり、金銭を愛する者もまた律法違反者である。

8-2-ヘ 富者とラザロの比喩 16:19 - 16:31  

16章19節 (ある)()める(ひと)あり、紫色(むらさき)(ころも)細布(ほそぬの)とを()て、日々(ひび)(おご)(たの)しめり。[引照]

口語訳ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。
塚本訳(つぎに、利巧な番頭と反対に、神の国の準備をしなかった人の話を聞け。)一人の金持があった。紫(の上着)と細糸の亜麻布(の下着)を着て、毎日華やかに楽しく暮していた。
前田訳ある金持がいて、紫の衣と細糸の布を着て毎日はでな生活を楽しんでいた。
新共同「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
NIV"There was a rich man who was dressed in purple and fine linen and lived in luxury every day.

16章20節 (また)ラザロといふ(まづ)しき(もの)あり、腫物(しゅもつ)にて()れただれ、()める(ひと)(もん)()かれ、[引照]

口語訳ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、
塚本訳またその金持の門の前に、ラザロという出来物だらけの乞食がねていた。
前田訳その門の前に、ラザロという名の貧乏人ができ物だらけで寝ていて、
新共同この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
NIVAt his gate was laid a beggar named Lazarus, covered with sores

16章21節 その食卓(しょくたく)より()つる(もの)にて()かんと(おも)ふ。(しか)して(いぬ)ども(きた)りて()腫物(しゅもつ)(ねぶ)れり。[引照]

口語訳その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。
塚本訳せめて金持の食卓から落ちる物で満腹できたらと思った。それどころか、犬まで来て出来物をねぶっていた。
前田訳金持の食卓から落ちるもので飢えをしのげればと思っていた。そのうえ犬が来てでき物をなめていた。
新共同その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
NIVand longing to eat what fell from the rich man's table. Even the dogs came and licked his sores.
註解: 乞食の名が挙げられ富人の名が示されないのは注意すべき点である。神の目には富者よりも貴人よりもこの可憐(かれん)の乞食が大きく見えるのである。この富者は特別に悪人でもなく、積極的の律法違反の罪を犯しているのでもないが、隣人を愛すべしとの根本的律法を実行せず門前の貧者を憐れまず、唯自己の贅沢、享楽生活のみを送っていた点がかえって大きい罪人であった。一方腫れ物にて腫れただれている一乞食は餓えのあまり富者の残飯でもほしく思ったけれども与えられた形跡がないので、おそらく道行く人の憐みによって生きていたことであろう。かえって犬どもがその貧病者を憐みこれを看病するかのごとくにその腫れ物を舐めてくれたのであった。何たる皮肉であろう。なお富者の門に放置され他に逐いやられないこと、および富者はラザロを名をもって知っていたこと、等より考えるならばラザロは従順な愛すべき人間で天国に直行する人間と感じられていたのであろう。唯問題は富者の奢侈(おごり)と貧者を顧みないことであった。
辞解
「紫色の衣」も「細布」も値高き貴人の衣服であり、「楽しむ」 euphrainomai は多く酒宴楽の楽しみについて用いられている (ルカ15:24ルカ15:29ルカ15:32) 。「飽かんと思う」は「飽かせられん事を絶えず願っている」という意。「而して」の原語はここでは「反って」のごとき意(Z0)、「ラザロ」なる名は実在の人であったとすれば問題はないが、寓話であるとすれば、その意味「神助け給えり」= エレアザルからかく名づけたのであろう。

16章22節 (つい)にこの(まづ)しきもの()に、御使(みつかひ)たちに(たづさ)へられてアブラハムの懷裏(ふところ)()れり。()める(ひと)もまた()にて(はうむ)られしが、[引照]

口語訳この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。
塚本訳やがて乞食は死んで、天使たちからアブラハムの懐につれて行かれ、金持も死んで葬られた。
前田訳やがてその貧乏人は死んで、天使たちにアブラハムのふところへと連れられた。金持も死んで葬られた。
新共同やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
NIV"The time came when the beggar died and the angels carried him to Abraham's side. The rich man also died and was buried.

16章23節 黄泉(よみ)にて苦惱(くるしみ)(うち)より()()げて、(はるか)にアブラハムと()懷裏(ふところ)にをるラザロとを()る。[引照]

口語訳そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。
塚本訳金持は黄泉で苦しみながら、(ふと)目をあげると、はるか向こうにアブラハムとその懐にいるラザロとが見えたので、
前田訳金持は黄泉(よみ)で苦しみのうちに目をあげると、はるかかなたにアブラハムとそのふところにいるラザロとが見えたので、
新共同そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
NIVIn hell, where he was in torment, he looked up and saw Abraham far away, with Lazarus by his side.
註解: 二人とも死んだのであるが、この世の生活とは正反対にラザロは「御使いたちに携えられ」て天国に赴き、先祖アブラハムの懐で永遠の幸福に与り、富者は黄泉(よみ)で苦悩の中に投込まれた。注意を要する点は、富者が特別の不善を為したためでもなく、またラザロが特別に善事を行ったためでもなしに二人の死後の運命が非常に違っている点である。しかし富者が貧者を少しも顧なかったことが、すでにかかる死後の審判に値していること、およびその運命に従順に従い、呟かず疑わずに一生を送る者をこそ神は特に愛し給うことをイエスは示し給うたのであって、イエスを嘲笑ったパリサイ人らをして、彼らもまた愛なき律法主義者である点でこの富者のごときものであることを知らしめんとしたのであった。ラザロが善人であったとか信仰が有ったとかを説明する方法はないが同時にまた彼が悪人であると考えることもできない。ここでは富者と貧者の生活態度が問題である。なおイエスは死後の世界について、当時の通俗の考え方を材料として所要の真理を示し給うたのであって、死後の世界がどのようなものであるかを説明し給うたのではない。従ってこの部分をイエスの終末観の材料とするのは往き過ぎである。
辞解
[黄泉(よみ)] 死後善人も悪人も往く処と考えられていた。善人はそこより甦り悪人はそこで苦しむ。

16章24節 (すなは)()びて()ふ「(ちち)アブラハムよ、(われ)(あはれ)みて、ラザロを(つかは)し、その(ゆび)(さき)(みづ)(ひた)して()(した)(ひや)させ(たま)へ、(われ)はこの(ほのほ)のなかに(もだ)ゆるなり」[引照]

口語訳そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。
塚本訳声をあげて言った、『父アブラハムよ、どうかわたしをあわれと思ってラザロをよこし、指先を水にひたしてわたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの焔の中でもだえ苦しんでおります。』
前田訳声をあげていった、『父アブラハム、わたしをあわれんで、ラザロをよこし、指先を水にひたしてわたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえています』と。
新共同そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
NIVSo he called to him, `Father Abraham, have pity on me and send Lazarus to dip the tip of his finger in water and cool my tongue, because I am in agony in this fire.'
註解: 富者の心理は苦痛の中においても相も変らず自己中心的であり利己的である。その生時に一顧だにもせず一片のパンだに与えなかったラザロであったが、今に至って彼はラザロをして自分を助けさせようとしているのである。この一節によりイエスはこの富める人の苦痛の激しさとその悪の甚だしさとをパリサイ人らに示し、陰にその反省を促し給う。なお富者がラザロの名を知っていたこと、および彼の助けを求めたことは、二人の間に生前必ずしも反感がなかったことを示すと見るべきである。

16章25節 アブラハム()ふ「()よ、(おも)へ、なんぢは()ける(うち)なんぢの()(もの)()け、ラザロは()しき(もの)()けたり。(いま)ここにて(かれ)(なぐさ)められ、(なんぢ)(もだ)ゆるなり。[引照]

口語訳アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
塚本訳しかしアブラハムは言った、『子よ、考えてごらん、あなたは生きていた時に善いものを貰い、ラザロは反対に悪いものを貰ったではないか。だから今ここで、彼は慰められ、あなたはもだえ苦しむのだ。
前田訳アブラハムはいった、『子よ、思いおこせ、おまえは生前よいものを受け、ラザロは同じく生前悪いものを受けた。今ここでは彼が慰められ、おまえはもだえる。
新共同しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
NIV"But Abraham replied, `Son, remember that in your lifetime you received your good things, while Lazarus received bad things, but now he is comforted here and you are in agony.
註解: 富者は前節に「父アブラハムよ」と言いてアブラハムの子孫であることの自覚を表顕したのであるが、アブラハムも本節において富者に対して反感らしいものを有たず、唯この世における生活態度がその人の永遠の運命を決定すること、そしてモーセと預言者とに真実に(したが)う者はイエスを信じて救われ、反対にたとい聖書を学んでも真実にこれに(したが)おうとしない者は復活のイエスを見てもこれを信じないことを示す。富者が「生ける間に善き物を受けた」という理由だけで、かかる苦悩に遭うのであるとアブラハムは言っているのであるが、彼が少しもラザロを憐まなかったことが重大なる理由を為していることは言外に含まれ、パリサイ人らがこれを聴いて自然自己の良心に反省させられるようにされたのであった。結局余裕あるほど資産が一人に与えられるのはこれを有効に神のために使用するがためであるのだから、これを自己に保留して「富者」となること、またさらにこれを自己の享楽に使用すること、そのことの中にすでに永遠の死に値する罪があることは何人も認め得る処である。

16章26節 (しか)のみならず、此處(ここ)より(なんぢ)らに(わた)()かんとすとも()ず、其處(そこ)より(われ)らに(きた)()ぬために、(われ)らと(なんぢ)らとの(あひだ)(おほい)なる(ふち)(さだ)めおかれたり」[引照]

口語訳そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。
塚本訳そればかりではない、わたし達とあなた達との間には大きな(深い)裂け目があって、ここからあなた達の所へ渡ろうと思っても出来ず、そこからわたし達の所へ越えてくることもない。』
前田訳そのうえわれらとおまえらとの間に大きな裂け目があって、ここからおまえらのところへ渡ろうとしてもできず、そちらからわれらのほうへ越えて来れもしない』と。
新共同そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
NIVAnd besides all this, between us and you a great chasm has been fixed, so that those who want to go from here to you cannot, nor can anyone cross over from there to us.'
註解: アブラハムのいる世界と黄泉(よみ)との間には大きい間隙があり、互に行き来することができない。死後に陥った運命はもはや変更ができないのだから、生前に如何なる生活をすべきかを考えなければならない。後悔してもそれは間に合わない。

16章27節 ()める(ひと)また()ふ「さらば(ちち)よ、(ねが)はくは()(ちち)(いへ)にラザロを(つかは)したまへ。[引照]

口語訳そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。
塚本訳金持が言った、『父よ、それではお願いですから、ラザロをわたしの父の家にやってください。
前田訳金持はいった、『父よ、お願いです、ラザロをわたしの父の家にやってください、
新共同金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
NIV"He answered, `Then I beg you, father, send Lazarus to my father's house,

16章28節 (われ)()(にん)兄弟(きゃうだい)あり、この苦痛(くるしみ)のところに(きた)らぬよう、(かれ)らに(あかし)せしめ(たま)へ」[引照]

口語訳わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
塚本訳わたしに五人の兄弟があります。彼らまでがこの苦しみの場所に来ないように、よく言って聞かせてください。』
前田訳わたしに五人の兄弟があります。彼らまでがこの苦しみの場所に来ないように、よくいってください』と。
新共同わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
NIVfor I have five brothers. Let him warn them, so that they will not also come to this place of torment.'
註解: 富者はその五人の兄弟がやがて自分と同じような耐え難い苦痛に陥ることが有っては可哀そうに思い、自分の地上生活と死後の現状について知っているラザロを彼らに遣わして彼らに警告を与えてくれるようアブラハムに願った。黄泉(よみ)との間には淵があって渡れずとも娑場には行けるだろうと彼は考えたのであった。

16章29節 アブラハム()ふ「(かれ)らにはモーセと預言者(よげんしゃ)とあり、(これ)()くべし」[引照]

口語訳アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
塚本訳しかしアブラハムは言う、『(その必要はない。)彼らにはモーセ(律法)と預言書と[聖書]がある。その教えに従えばよろしい。』
前田訳アブラハムはいう、『彼らにはモーセと預言者がある。それに耳傾ければよい』と。
新共同しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
NIV"Abraham replied, `They have Moses and the Prophets; let them listen to them.'
註解: 彼らにはすでにモーセと預言者、すなわち旧約聖書があるのだから、もしそれらの人々がこの聖書に従うならば、ラザロが行く必要はない。この一言が、この富める者に多くの反省を与えたことであろう。もし彼がその生時、一層徹底的に聖書の精神を学び、その教えに従ったならば、かかる苦しみに遭わなかったであろうと。

16章30節 ()める(ひと)いふ「いな、(ちち)アブラハムよ、もし死人(しにん)(うち)より(かれ)らに()(もの)あらば、悔改(くいあらた)めん」[引照]

口語訳金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
塚本訳彼が言った、『いいえ、父アブラハムよ、もしだれかが死人の中から行ってやれば、きっと悔改めます。』
前田訳彼はいった、『いいえ、父アブラハム、もし死人のだれかが行ってやれば悔い改めましょう』と。
新共同金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
NIV"`No, father Abraham,' he said, `but if someone from the dead goes to them, they will repent.'
註解: 死人が彼らの処に往き、死後の状態を語ったならば悔改めるであろう。さもなくば聖書だけでは、自分もそうであったと同じく彼らも悔改めないであろう。彼らの心はパリサイ人も同様、形式的に律法に違反しない点で満足し誇っており、それが彼らの永遠の死を意味することを知らないのであった。

16章31節 アブラハム()ふ「もしモーセと預言者(よげんしゃ)とに()かずば、たとひ死人(しにん)(うち)より(よみが)へる(もの)ありとも、()(すすめ)()れざるべし」』[引照]

口語訳アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。
塚本訳しかしアブラハムは答えた、『モーセと預言書との教えに従わないようでは、たとえ死人の中から生き返る者があっても、その言うことを聞かないであろう。』」
前田訳アブラハムは答えた、『モーセと預言者に耳傾けねば、たとえ死人のだれかがよみがえって行っても従うまい』」と。
新共同アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
NIV"He said to him, `If they do not listen to Moses and the Prophets, they will not be convinced even if someone rises from the dead.'"
註解: 「死人の中より甦へる者」はイエスが自らを指し給うたのであることは明らかである。イエスはパリサイ人の徹底せる頑固さを経験し給うた。パリサイ人は自らモーセと預言者とを信じ、その教えを実行しているつもりでいるが実はモーセをも預言者をも信じていなかったのである。「彼の書を信ぜずば、いかで我が言を信ぜんや」(ヨハ5:47)、かくして結局においてイエスを信じないパリサイ人らは永遠の苦悶の中に陥るより外に途がないのである。ラザロを彼らに遣わす必要はない。汝ら速やかにイエスを信じなければならない。
要義1 [貧富の問題]この寓話は金銭を愛するパリサイ人に対する教訓として残されたのであるが、これは一般に貧富の問題に対して多くの示唆を与えていることを注意しなければならない。元来貧富の差の生ずる原因は本人の能力のみならず、運命、健康、社会状態等、種々の原因があり、また一面道徳的に事業を経営するより来る利益によることもあり、また他面悪事を行って利益を得、これによって富を蓄積する場合も多くあり得るのである。従って富を凡て善行の報いと見ることもできず、また反対にすべて悪行の結果とも見ることが出来ない。貧も同様である。唯如何なる場合においても凡ての富は神のものであり、神のため、また凡ての人のために存するものであることは不動の真理であり、貧富の問題の解決の大前提である。従って如何なる富者もその富を自己の奢侈(しゃし)享楽のために消費する権利はなく、また富の不公平なる分配や偏在が一般の不幸を来たらしむるごとき事態は許すことができない。その富が全く正当に得られたものであっても同様である。この比喩における富者の死後の運命は、この立場より考えて極めて正当なる結論であることを見ることができる。
 同様に貧者の方でも、たとい自己の貧が自然力や社会の変遷などの不可抗力から来た場合でも、富者のものを掠奪する権利がなく、従順に神の与え給える運命に服従すべきである。いわんや自己の怠惰等から貧困に陥った場合はなおさらである。神は如何なる場合でも暴力による掠奪を認め給わず、また反対に富者の剰余的富の私有を許し給わない。

ルカ伝第17章
8-3 神の国に入るもの 17:1 - 18:30
8-3-イ 人を躓かすな 17:1 - 17:2
(マタ18:6-7) (マコ9:42)  

17章1節 イエス弟子(でし)たちに()(たま)ふ『躓物(つまづき)(かなら)(きた)らざるを()ず、されど(これ)(きた)らす(もの)禍害(わざはひ)なるかな。[引照]

口語訳イエスは弟子たちに言われた、「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。
塚本訳それから弟子たちに言われた、「罪のいざないが来るのは致し方がない。だが、それを来させる人は禍だ。
前田訳彼は弟子たちにいわれた、「つまずきが来ないようにはできない。しかしそれを来させる人はわざわいである。
新共同イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
NIVJesus said to his disciples: "Things that cause people to sin are bound to come, but woe to that person through whom they come.

17章2節 この(ちひさ)(もの)一人(ひとり)(つまづ)かするよりは、(むし)碾臼(ひきうす)(いし)(くび)()けられて、(うみ)()()れられんかた()きなり。[引照]

口語訳これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。
塚本訳この小さな者を一人でも罪にいざなうよりは、挽臼を頚にかけられて海に放り込まれる方が、その人の為である。
前田訳これら小さなもののひとりをつまずかせるよりは、ひき臼を首にかけられて海に投げ入れられたほうがその人にましである。
新共同そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
NIVIt would be better for him to be thrown into the sea with a millstone tied around his neck than for him to cause one of these little ones to sin.
註解: マタ18章参照。躓物は信仰の躓きで、そのために神から離れ信ずる者たちの交わりから離れるようになることである。人間は極めて弱いもので、弟子たちの中にも信仰を失う者があり、または道徳的の罪に陥り、または信者同志の間に争いが起る場合は絶無ではない。これらの事実が起る場合を考えてイエスは深い憂慮を覚え、かかる躓きを与える原因となる人々に対し大きい義憤を投げかけ給うた。躓きを引起す人が、一人の神の国の民の信仰を失わしめることは本人に不幸を与えるのみならず、天において神に対し大きい悲嘆を投げかけることである。それほど重い罪はない。かかる人はむしろ海中に沈められる方が遙かに幸福である。それ故イエスの弟子が最も注意しなければならないことは、イエスの血によって贖われし神の子たち ─ その中のいと小さき者の一人をも ─ を躓かせないことである。▲skandalon「躓き」は口語訳の「罪の誘惑」よりも内容は広い。

8-3-ロ 罪を赦せ 17:3 - 17:4
(マタ18:15-22)   

註解: 3、4節は躓きを与えないようにするための一つの重要なる注意であって、それは互に罪を戒めまた赦し合うことである。

17章3節 (なんぢ)()みづから(こころ)せよ。もし(なんぢ)兄弟(きゃうだい)(つみ)(をか)さば、これを(いまし)めよ。もし悔改(くいあらた)めなば(これ)をゆるせ。[引照]

口語訳あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。
塚本訳(人を罪にいざなわぬよう)注意せよ。(また)もし兄弟が(あなたに対して)罪を犯したら、これを咎め、悔改めたら、赦してやりなさい。
前田訳自ら気をつけよ。兄弟が罪を犯したら、いましめよ。悔い改めたら、ゆるしなさい。
新共同あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
NIVSo watch yourselves. "If your brother sins, rebuke him, and if he repents, forgive him.

17章4節 もし一日(いちにち)七度(ななたび)なんぢに(つみ)(をか)し、(しち)たび「悔改(くいあらた)む」と()ひて、(なんぢ)(かへ)らば(これ)をゆるせ』[引照]

口語訳もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。
塚本訳あなたに対して一日に七度罪を犯しても、七度『すまなかった』と言って、あなたの所へもどってきたら、七度赦してやらねばならない。」
前田訳一日に七度あなたに罪を犯しても、七度あなたのところに来て、『改めます』というなら、ゆるしなさい」と。
新共同一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
NIVIf he sins against you seven times in a day, and seven times comes back to you and says, `I repent,' forgive him."
註解: マタ18:15−22参照。兄弟たちの間に罪を犯せる者のある場合は公明正大に(マタ18:15−17)これを処置し、その間に不明朗な点、不透明な点が残ってはならない。すなわち責むべき点を責め、戒むべき点を戒めて、もし心から「悔改む」という場合心からこれを赦すべきである。しかしてその度数は無制限である。心から「悔改む」ということは勇気を要するけれどもこれを明白に言うことは、決して恥ではなく相手方との関係を以前にも増して親しくすることであり、かつその交わりを一段と高い水準に高揚する力を持っている。そして神との間にもまた一層の強く親しい交わりを得るようになる。

8-3-ハ 芥種の信仰 17:5 - 17:6
(マタ17:20)   

17章5節 使徒(しと)たち(しゅ)()ふ『われらの信仰(しんかう)()したまへ』[引照]

口語訳使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。
塚本訳使徒たちが主に言った、「もっと信仰を下さい。」
前田訳使徒たちが主にいった、「われらの信仰を増してください」と。
新共同使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
NIVThe apostles said to the Lord, "Increase our faith!"
註解: ルカ9:10以来使徒に直接語り給うたのは本節以下である。使徒たちは1−4節のイエスの御言を聞き、その重い責任を感じてその信仰を増すことを主に請うた。これに対してイエスは如何にすれば信仰を増し得るかについて一言も教え給わず、また信仰を増すとは如何なることか、また信仰を増すことが必要であるかどうかにも觸れ給わず、単純に二つの比喩をもって使徒たちに答え給うた。

17章6節 (しゅ)いひ(たま)ふ『もし芥種(からしだね)一粒(ひとつぶ)ほどの信仰(しんかう)あらば、()(くは)()に「()けて(うみ)(うわ)れ」と()ふとも(なんぢ)らに(したが)ふべし。[引照]

口語訳そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。
塚本訳主が言われた、「もしあなた達に芥子粒ほどでも信仰があれば、──(あなた達にはそれがないが、もしあれば)──この桑の木にむかい『抜けて海に植われ』と言っても、言うことを聞くであろう。
前田訳主はいわれた、「からしの一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜けて海に植われ』といってもいうことを聞こう。
新共同主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
NIVHe replied, "If you have faith as small as a mustard seed, you can say to this mulberry tree, `Be uprooted and planted in the sea,' and it will obey you.
註解: (▲口語訳「その言葉どおりになるであろう」。文語訳「汝らに従うべし」の意訳と思われるが、直訳でかえって意味は明瞭であり信仰の力を示したものだから「あなたがたに従うであろう」の方が良いと思う。)信仰は如何に小さくとも絶大の力がある。この比喩のごとく、人間の力ではでき得ないことも信仰はこれを可能ならしめる。そしてそれは信仰そのものの本質によることであって信仰の大小によることではない。信仰は神との霊の一体的状態であるから如何に小さい信仰でもそこから神の力が働き出す、信仰は増そうと考えず、純粋なものにすることを考うべきである。

8-3-ニ 僕の義務 17:7 - 17:10  

17章7節 (なんぢ)()のうち(たれ)(あるひ)(たがや)し、(あるひ)(ぼく)する(しもべ)()たんに、その(しもべ)(はた)より(かへ)りたる(とき)、これに(むか)ひて「(ただ)ちに(きた)(しょく)()け」と()(もの)あらんや。[引照]

口語訳あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。
塚本訳ただ(次の譬を聞け。)あなた達のうちに耕作、あるいは牧畜をする僕を持っている人があって、その僕が畑からかえって来たとき、『すぐここに来て食事をしなさい』とその人は言うだろうか。
前田訳あなた方のだれかに農耕か牧畜をする僕があって、その僕が野らから帰ったとき、『すぐ来て食事しなさい』というだろうか。
新共同あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
NIV"Suppose one of you had a servant plowing or looking after the sheep. Would he say to the servant when he comes in from the field, `Come along now and sit down to eat'?

17章8節 (かへ)つて「わが夕餐(ゆふげ)(そなへ)をなし、()飮食(のみくひ)するあひだ、(おび)して給仕(きふじ)せよ、(しか)(のち)に、なんぢ飮食(のみくひ)すべし」と()ふにあらずや。[引照]

口語訳かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。
塚本訳むしろ反対に、『夕食の用意をして、わたしが食事をすますまで裾をひきからげて給仕をし、そのあとで食事をしなさい』と言うのではあるまいか。
前田訳むしろ、『夕食の用意をして、わたしが食事するまで帯をしめて仕え、そのあとで食事しなさい』というまいか。
新共同むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
NIVWould he not rather say, `Prepare my supper, get yourself ready and wait on me while I eat and drink; after that you may eat and drink'?

17章9節 (しもべ)(めい)ぜられし(こと)()したればとて、主人(あるじ)これに(しゃ)すべきか。[引照]

口語訳僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。
塚本訳言いつけられたことをしたからとて、主人が僕に感謝するだろうか。
前田訳命じられたことをしたからとて、主人は僕に感謝しようか。
新共同命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
NIVWould he thank the servant because he did what he was told to do?

17章10節 かくのごとく(なんぢ)らも(めい)ぜられし(こと)をことごとく()したる(とき)「われらは()(えき)なる(しもべ)なり、()すべき(こと)()したるのみ」と()へ』[引照]

口語訳同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。
塚本訳そのようにあなた達も、(神に)命じられたことを皆なしとげた時、『われわれは役に立たない僕だ、せねばならぬことをしたまでだ。(褒美をいただく資格はない)』と言え。」
前田訳そのように、あなた方も、命じられたことをすべてなしとげたとき、『われらはお役に立たぬ僕です、すべきことをしただけです』といいなさい」と。
新共同あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
NIVSo you also, when you have done everything you were told to do, should say, `We are unworthy servants; we have only done our duty.'"
註解: イエスの時代の社会状態を背景としてこの寓話を理解しなければならない。すなわち当時の僕は奴隷とも称し得べき性質のものであるから主人の要求が如何に多くともそれを果さなければならず、そしてそれを果した場合、主人は彼に対し特に感謝する必要もなく、また彼は主人に対して特に恩を被らせたということはできなかった。単に為すべきことを為した無益の僕であると自ら告白する心を有つべきであった。神と神の僕たるキリスト者殊にその使徒たちの関係は、全くかく有るべきである。神の命に従って全力を尽くして働いておりながら、何事をも為さないかのごとくに感ずる心を有つのが真の使徒の在り方でなければならない。すなわち神の前に徹底せる謙遜を有たなければならない。自分の信仰が増大したと考える時はすでにこの謙遜を失った時であり、また信仰を増したいと思う時は、増さるべき信仰そのものすら失われてしまった時である。

8-3-ホ 十人の癩病人醫さる 17:11 - 17:19  

17章11節 イエス、エルサレムに()かんとて、サマリヤとガリラヤとの(あひだ)をとほり、[引照]

口語訳イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。
塚本訳エルサレムへ進んでおられた時のこと、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。
前田訳エルサレムへ進まれるときのこと、彼はサマリアとガリラヤの間を通られた。
新共同イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
NIVNow on his way to Jerusalem, Jesus traveled along the border between Samaria and Galilee.

17章12節 (ある)(むら)()(たま)ふとき、(じふ)(にん)癩病人(らいびゃうにん)これに()ひて、(はるか)()(とどま)り、[引照]

口語訳そして、ある村にはいられると、十人のらい病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、
塚本訳とある村に入ると、十人の癩病人に出合われた。彼らは(規則どおりに)遠くの方で立ち止まったまま、
前田訳ある村に入られると、十人のらい者に会われた。彼らは遠くで立ちどまり、
新共同ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
NIVAs he was going into a village, ten men who had leprosy met him. They stood at a distance

17章13節 (こゑ)()げて()ふ『(きみ)イエスよ、(われ)らを(あはれ)みたまへ』[引照]

口語訳声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。
塚本訳声をはりあげて、「イエス先生、どうぞお慈悲を」と言った。
前田訳声をあげていった、「師の君イエスさま、おあわれみを」と。
新共同声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
NIVand called out in a loud voice, "Jesus, Master, have pity on us!"

17章14節 イエス(これ)()()ひたまふ『なんぢら()きて()祭司(さいし)らに()せよ』(かれ)()(うち)(きよ)められたり。[引照]

口語訳イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。
塚本訳イエスは見て言われた、「(全快したことを世間に証明してもらうため、エルサレムの宮に)行って体を“祭司たちに見せなさい。”」すると行く途中で、(皆いつとはなしに体が)清まった。
前田訳見ていわれた、「行って体を祭司たちに見せなさい」と。すると行くうちに清まった。
新共同イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
NIVWhen he saw them, he said, "Go, show yourselves to the priests." And as they went, they were cleansed.
註解: 「或村」の名は不明。サマリヤに近い村であったと想像される。癩病人の叫びに対するイエスの答は彼ら各々祭司の処に行き、その身を見せよということであり、彼らはそれに従って出掛けたのであった。彼らは何のために祭司に見せなければならないのかの理由を知り得なかったけれども、唯イエスを信じてその言に従った。その信仰の結果、彼らは途を往く間に潔められたのであった。彼らは如何に驚きまた喜んだであろう。

17章15節 その(うち)一人(ひとり)、おのが(いや)されたるを()て、大聲(おほごゑ)(かみ)(あが)めつつ(かへ)りきたり、[引照]

口語訳そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、
塚本訳ところでそのうちの一人は自分が直ったのを見ると、大声で神を讃美しながら帰ってきて、
前田訳彼らのひとりは、なおったのを見ると、大声で神をたたえて帰ってきた。
新共同その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
NIVOne of them, when he saw he was healed, came back, praising God in a loud voice.

17章16節 イエスの足下(あしもと)平伏(ひれふ)して(しゃ)す。これはサマリヤ(ひと)なり。[引照]

口語訳イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。
塚本訳イエスの足下にひれ伏してお礼を言った。それはサマリヤ人であった。
前田訳そしてお足もとにひれ伏して感謝した。その人はサマリア人であった。
新共同そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
NIVHe threw himself at Jesus' feet and thanked him--and he was a Samaritan.
註解: 不治の癩病が醫されたのであるからかくも歓喜と感謝と讃美が自然に溢れて来、イエスをメシヤとしてその前に平伏すことは当然であった。イエスはサマリヤ人をも偏り見ず、サマリヤ人はイエスをメシヤとして拝することを躊躇しなかった。神の国は当然かく有るべきはずである。

17章17節 イエス(こた)へて()ひたまふ『(じふ)(にん)みな(きよ)められしならずや、()(にん)何處(いづこ)()るか。[引照]

口語訳イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。
塚本訳イエスは言われた、「十人とも清められたのではなかったか。九人はどこにいるか。
前田訳イエスはいわれた、「清まったのは十人ではなかったのか。九人はどこか。
新共同そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
NIVJesus asked, "Were not all ten cleansed? Where are the other nine?

17章18節 この(ほか)國人(くにびと)のほかは、(かみ)榮光(えいくわう)()せんとて(かへ)りきたる(もの)なきか』[引照]

口語訳神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。
塚本訳この外国人一人のほかには、(九人のユダヤ人のうちに)帰ってきて神に栄光を帰する者はだれもないのか。」
前田訳このよそもののほか帰って来て神に栄光を帰するものはだれもいないのか」と。
新共同この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
NIVWas no one found to return and give praise to God except this foreigner?"
註解: 異邦人やサマリヤ人の信仰を見る毎に、イエスは常にユダヤ人の不信に関する悲哀を一層深め給うた。まずイスラエルの迷える羊のために遣され給えるイエスとしてこれにまさる苦痛はなかったであろう。この十人の癩病人の場合もその一例であり、この二節はそのイエスの悲哀の表顕であった。

17章19節 かくて(これ)()ひたまふ『()ちて()け、なんぢの信仰(しんかう)なんぢを(すく)へり』[引照]

口語訳それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。
塚本訳そしてその人に言われた、「さあ立って行きなさい。あなたの信仰がなおしたのだ。」
前田訳そしてその人にいわれた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。
新共同それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
NIVThen he said to him, "Rise and go; your faith has made you well."
註解: 平伏している彼を起たせてその信仰を()め給うた。「救へり」はこの場合病の治癒を意味す。

8-3-へ 神の国は何処に在りや 17:20 - 17:21  

17章20節 (かみ)(くに)何時(いつ)きたるべきかをパリサイ(びと)()はれし(とき)、イエス(こた)へて()ひたまふ『(かみ)(くに)()ゆべき(さま)にて(きた)らず。[引照]

口語訳神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
塚本訳パリサイ人から神の国はいつ来るのかと尋ねられたとき、答えられた、「神の国は、(いつ来るのかと計算や)観測のできるようにしては来ない。
前田訳パリサイ人たちに神の国はいつ来るかとたずねられて、こう答えられた、「神の国は見える形では来ない。
新共同ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。
NIVOnce, having been asked by the Pharisees when the kingdom of God would come, Jesus replied, "The kingdom of God does not come with your careful observation,

17章21節 また「()よ、此處(ここ)()り」「彼處(かしこ)()り」と人々(ひとびと)()はざるべし。()よ、(かみ)(くに)(なんぢ)らの(うち)()るなり』[引照]

口語訳また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
塚本訳また『そら、ここに(ある)』とか、『かしこに(ある)』とか言うことも出来ない。神の国はあっと言う間に、あなた達の間にあらわれるのだから。」
前田訳また、『見よ、ここに』とか、『あそこに』ともいえない。見よ、神の国はあなた方のうちにある」と。
新共同『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
NIVnor will people say, `Here it is,' or `There it is,' because the kingdom of God is within you."
註解: 「見ゆべき(さま)にて」は「観察に由て」の意、神の国の到来の場所を指摘することはできない。従ってその時日も不明である。それは神の国は人間の心の中にあり、神が人の心を支配し給う処に神の国があるからである。多くの註解者は「中に」が他の場合のごとくに en (= in)を用いずに entos(= withinまたはamong)を用いている点と、パリサイ人の心の中には神の国は無いとの理由とから、これを「神の国は汝らの間にあり」と訳し、神の国それ自身であるイエスが彼らの間に来り給うたことを指すと解しているけれども(B1、M0、Z0)、唯かく解する場合には神の国が見ゆべき(さま)にて来たこととなり、矛盾を生ずる訳である。そして「汝らの中に」は一般に「汝ら人間の中に」の意味に取ることができ、そしてそれは不信な人間の中にも神の国があるという意味ではなく、神の国が来る時はそれは人間の心の中に来るのだから「此處(ここ)」「彼處(かしこ)」と見ゆべき状態では来ないという意味に取る方が適当であろう。現在動詞「在り」も一般的事実を表示すると見て差支えがない。そして「何時来るべきか」の問いに対しては何も答えられていないようであるが、それは以上のごとくに解すれば自然「何時」として概括的に答え得ないことも判明(わか)るからであろう。なおこの「神の国」と次節以下の「人の子の日」とは別であることに注意すべし。▲なお「国」 Basileia は「支配」を意味するのであるから、これを「神の支配」と見て神の御旨に従う心の中に神の国がある訳であるから自然人間の群の中の此処彼処(ここかしこ)にある訳である。

8-3-ト 人の子の日とその艱難 17:22 - 17:37
(マタ24:26-39)   

17章22節 かくて弟子(でし)たちに()(たま)ふ『なんぢら(ひと)()()一日(いちにち)()んと(おも)()きたらん、されど()ることを()じ。[引照]

口語訳それから弟子たちに言われた、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。
塚本訳それから弟子たちに言われた、「(いまに苦しい試みの)日が来て、あなた達は、せめて一日でも人の子(わたし)の(栄光の)日に生きたいと願うけれども、許されない。
前田訳そして弟子たちにいわれた、「時が来る。そのときあなた方は一日でも人の子の日を見たいと思っても、見えまい。
新共同それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。
NIVThen he said to his disciples, "The time is coming when you will long to see one of the days of the Son of Man, but you will not see it.
註解: 「人の子の日(複数)」はキリスト再臨の時の前後の期間である。弟子たちはその一日でも見たいと思う時が来るであろう。世界はイエスによって次第に完全に進み、救いは全世界に及び、ついに理想の世界が来ると考えたのであろう。しかしかかる意味および順序によるイエスの日はこれを見ることができないであろう。それは「人の子の日」は極めて突然に来るのであり、しかも我らの想像を絶した事実だからである。イエスは次にその再臨の光景を極めて表徴的に謎のごとくに説明し給う。なお21章にはさらにイエスの再臨について述べられており、マタイ伝24章がルカでは二つに分割され、別の場合に語り給うたこととなる。

17章23節 そのとき人々(ひとびと)なんぢらに「()彼處(かしこ)に、()此處(ここ)に」と()はん、されど()くな、(したが)ふな。[引照]

口語訳人々はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。
塚本訳(その試みの時に、)『そら、かしこに(人の子が)』『そら、ここに』と言う者があるが、ついて行くな、追いまわすな。
前田訳人々はあなた方に、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』といおうが、出かけるな、追いかけるな。
新共同『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。
NIVMen will tell you, `There he is!' or `Here he is!' Do not go running off after them.

17章24節 それ電光(いなづま)(てん)彼方(かなた)より(ひらめ)きて、(てん)(これ)(かた)(かがや)くごとく、(ひと)()もその()には(しか)あるべし。[引照]

口語訳いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。
塚本訳その日に人の子(わたし)が来るのは、ちょうど稲妻がひらめいて、大空の下をこの端からかの端まで照りかがやかすよう(に、はっきりわかるの)であるから。
前田訳ちょうどいなずまが光って、天の下を端から端まで照らすように、人の子はその日に来ようから。
新共同稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。
NIVFor the Son of Man in his day will be like the lightning, which flashes and lights up the sky from one end to the other.
註解: 人の子の日は、この世が次第に進歩発達して到達する日ではなく、それはイエスの再臨によって極めて突然にしかも全世界に行渡ることあたかも電光が天の一方から他方まで輝くのと同様な有様で来るのである。それ故、偽預言者、偽キリストが(マタ24:24)「見よ彼処に」「見よ此処に」と言って汝らを迷わしても、それに迷わされてはならない。

17章25節 されど(ひと)()()(おほ)くの苦難(くるしみ)()け、かつ(いま)()()てらるべきなり。[引照]

口語訳しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。
塚本訳しかし人の子はその前に多くの苦しみをうけ、この時代の人から排斥されねばならない。
前田訳しかしその前に人の子は多くの苦しみを受け、この世代に捨てられねばならない。
新共同しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。
NIVBut first he must suffer many things and be rejected by this generation.
註解: 人の子がこの世を次第に完全な世に進歩せしめるのでもなく、また人の子がその完成せられし世界の上に君臨するのでもない。それはやがて来るのであるが、その前に人の子は苦難を受け、この世から棄てられなければならない。

17章26節 ノアの()にありし(ごと)く、(ひと)()()にも(しか)あるべし。[引照]

口語訳そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。
塚本訳ちょうどノアの(洪水の)時にあったようなことが、人の子の(来る)日にも起るであろう。
前田訳ちょうどノアのときにおこったことが人の子の日にもおころう。
新共同ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。
NIV"Just as it was in the days of Noah, so also will it be in the days of the Son of Man.

17章27節 ノア方舟(はこぶね)()()までは、人々(ひとびと)()(くら)(めと)(とつ)ぎなど()たりしが、洪水(こうずゐ)きたりて(かれ)()をことごとく(ほろび)せり。[引照]

口語訳ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。
塚本訳“ノアが箱船に入った”日まで、人々が飲んだり食ったり、嫁にやったり取ったりしていると、洪水が来て、一人のこらず滅ぼしてしまった。
前田訳ノアが箱舟に入った日まで、人々は会い、飲み、めとり、とつぎしていたが、洪水が来て、ひとりのこらず滅ぼした。
新共同ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。
NIVPeople were eating, drinking, marrying and being given in marriage up to the day Noah entered the ark. Then the flood came and destroyed them all.

17章28節 ロトの()にも()くのごとく、人々(ひとびと)()(くら)ひ、()()ひ、()ゑつけ、(いへ)(つく)りなど()たりしが、[引照]

口語訳ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、
塚本訳ロトの時にも、ちょうど同じようなことがあった。人々が飲んだり食ったり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていると、
前田訳ロトのときにも似たことがおこった。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てていたが、
新共同ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、
NIV"It was the same in the days of Lot. People were eating and drinking, buying and selling, planting and building.

17章29節 ロトのソドムを()でし()に、(てん)より()硫黄(いわう)(くだ)りて、(かれ)()をことごとく(ほろび)せり。[引照]

口語訳ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。
塚本訳ロトがソドムから出た日に、“(神は)天から火と硫黄とを降らせて、“一人のこらず滅ぼしてしまわれた。
前田訳ロトがソドムから出た日に、天から火と硫黄が降って、ひとりのこらず滅ぼした。
新共同ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。
NIVBut the day Lot left Sodom, fire and sulfur rained down from heaven and destroyed them all.

17章30節 (ひと)()(あらは)るる()にも、その(ごと)くなるべし。[引照]

口語訳人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。
塚本訳人の子があらわれる日にも同じことが起るであろう。
前田訳人の子が現われる日も同じようであろう。
新共同人の子が現れる日にも、同じことが起こる。
NIV"It will be just like this on the day the Son of Man is revealed.
註解: 人の子の日はまず一般の世界の上に審判の日として顕れるであろう。そして審判は水と火とをもって行わる意味でノアとロトとが善き模範であった(各々引照の個所を参照すべし)。ノアの洪水の前にもソドムの滅亡の前にもこの世は非常な罪深い状態であり、その審判として洪水が起り火が降ったのであるけれども(創6:5、6、創6:13創18:20)、27、28節では単に人々が日常普通の生活を行っていたことを記すのみであるのは、人の子の顕わる日の突然であることを示すことに中心があるからである。ただし、ノアとロトが救われたように人の子の日にも救われる者と滅ぼされる者とがあることは34、35節で知られる。

17章31節 その()には、(ひと)もし()(うへ)にをりて、(うつは)(もの)(いへ)(うち)にあらば、(これ)()らんとて(くだ)るな。(はた)にをる(もの)(おな)じく(かへ)るな。[引照]

口語訳その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな。
塚本訳その日には、屋根の上におる者は、(何か大切な)家財道具が家の中にあっても下におりて取り出そうとするな。畑におる者も同じく“(家に)もどる”な。
前田訳その日には、屋根の上にいるものは道具が家の中にあっても取りにおりるな。野らにいるものも、同じくもどるな。
新共同その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。
NIVOn that day no one who is on the roof of his house, with his goods inside, should go down to get them. Likewise, no one in the field should go back for anything.

17章32節 ロトの(つま)(おも)へ。[引照]

口語訳ロトの妻のことを思い出しなさい。
塚本訳ロトの妻のことを思え。
前田訳ロトの妻を思い出しなさい。
新共同ロトの妻のことを思い出しなさい。
NIVRemember Lot's wife!

17章33節 おほよそ(おの)生命(いのち)(まった)うせんとする(もの)はこれを(うしな)ひ、(うしな)(もの)はこれを(たも)つべし。[引照]

口語訳自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。
塚本訳(この世の)命を保とうとする者は(永遠の)命を失い、(この世の命を)失う者は、(永遠に)生きながらえるであろう。
前田訳いのちを保とうとするものはそれを失い、失うものは生きつづけよう。
新共同自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。
NIVWhoever tries to keep his life will lose it, and whoever loses his life will preserve it.
註解: 主の日が突然非常な激しい自然界の変動として起るであろうが、その時自分の生命や財産に執着したり、これを助けようとしてはならない。ロトの妻はソドムの滅亡に際し、その残してきた家や財産を惜しんで後を顧みて(しお)の柱と化した。その場合は凡てにおいてノアのごとくロトのごとく、唯主の御言のみに固く依り頼むべきである。なお33節は若干語句の相違をもって種々他の機会にも語られているのであるが(ルカ9:24マコ8:35マタ16:25およびマタ10:39ヨハ12:25)ここではイエスの日における注意としてこれを解しなければならない。

17章34節 われ(なんぢ)らに()ぐ、その(よる)ふたりの(をとこ)(ひと)寢臺(ねだい)()らんに、一人(ひとり)()られ一人(ひとり)(つかは)されん。[引照]

口語訳あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。
塚本訳わたしは言う、その晩、二人の男が一つ寝床にねていると、一人は(天に)連れてゆかれ、他の一人は(地上に)のこされる。
前田訳わたしはいう、その夜ふたりの男がひとつ寝床にいると、ひとりは移され、ひとりは残されよう。
新共同言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。
NIVI tell you, on that night two people will be in one bed; one will be taken and the other left.

17章35節 二人(ふたり)(をんな)ともに(うす)ひき()らんに、一人(ひとり)()られ一人(ひとり)(つかは)されん』[引照]

口語訳ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。〔
塚本訳二人の女が一しょに臼をひいていると、一人は連れてゆかれるが、他の一人はのこされる。」
前田訳ふたりの女がいっしょに臼をひいていると、ひとりは移され、ひとりは残されよう。
新共同二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」
NIVTwo women will be grinding grain together; one will be taken and the other left. "
註解: この二節は主の再臨の日に誰が天に挙げられて主と共にいることができるかは全く思いがけない事実となることを示す。全く同じような条件の下にいる二人の男、二人の女の間でも差別が起り、一人は主の許に取り上げられ一人は審判の世界に遺されるであろう。かくのごとく救いも審判も(とも)にみな主の御旨のままに実行される時が来るのである。〔36節はなし〕

17章36節 [なし][引照]

口語訳ふたりの男が畑におれば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう〕」。
塚本訳[無し]
前田訳〔ふたりの男が野らにいると、ひとりは移され、ひとりは残されよう〕」と。
新共同(†底本に節が欠落 異本訳)畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。
NIV

17章37節 弟子(でし)たち(こた)へて()ふ『(しゅ)よ、それは何處(いづこ)ぞ』イエス()ひたまふ『屍體(しかばね)のある(ところ)には(わし)(また)あつまらん』[引照]

口語訳弟子たちは「主よ、それはどこであるのですか」と尋ねた。するとイエスは言われた、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」。
塚本訳弟子たちが尋ねる、(いつ)どこで(その裁きはありますか。)」彼らに言われた、「(時が来れば、いつでも。)死体のある所に、鷲も集まる。」
前田訳弟子たちがたずねた、「主よ、それはどこですか」と。彼はいわれた、「死体のあるところに鷲も集まる」と。
新共同そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」
NIV"Where, Lord?" they asked. He replied, "Where there is a dead body, there the vultures will gather."
註解: 人の子の日に関する前節までのような現象が何処に現われるかについての質問に対してイエスは極めて象徴的でかつ難解な答を与えており、従って多くの解釈が出て居るのであるが、(1)鷲が動物の屍体を発見することが困難であるように、このことが起る場所は知り難い(L2)。(2)屍体はユダヤ民族、鷲はローマの軍隊(B1)。(3)審判に適するもののある処で審判が行われること、すなわちキリストが(さば)かるべき者または救わるべき者を見出す処に審判が行われる(Z0)。(4)復活のキリストを屍体と見、そのキリストの許にTテサ4:17の雲の中に取り去られし聖徒(鷲のごとくに)が集る。その他種々の解あり、おそらく鷲が地上の屍体の上に飛び下るがごとく、審判を受くべき人間、すなわち「死ねる者」がある処に、神の使いが鷲のごとくに降って来てその審判を行うであろうとの意味であろう。すなわち(3)の解釈が正しい。一人は取られ一人は残されという事実はかくして行われるのである。
要義 [人の子の日]この日はイエスの弟子たちの待望の日であるにもかかわらず、その記述は極めて象徴的で難解である。唯上記のイエスの御言の中に明らかに知り得ることは、それが(1)イエスと密接な関係があること、(2)激しい審判が行われる日であること、(3)その中より救わるべきものが救われること、(4)苦難が急に襲いかかって来るから、如何なる場合でも自己の生命・財産等に心を奪われてはならないこと、そしてその時は不明であり、場所は漠然としているけれども、審判に相応しき者のいる凡ての処で行われるというようなことはほぼ確定的と考え得ることと思う。凡ての表徴をあまり具体的に解し過ぎることは、教訓の精神を没却する恐れがある。