黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ヨハネ伝

ヨハネ伝第12章

分類
4 受難週 12:1 - 19:42
4-1 受難前の出来事 12:1 - 13:38
4-1-1 マリヤの塗油 12:1 - 12:8

12章1節 過越(すぎこし)(まつり)六日(むゆか)(まへ)に、イエス、ベタニヤに(きた)(たま)ふ、ここは死人(しにん)(うち)より(よみが)へらせ(たま)ひしラザロの()(ところ)なり。[引照]

口語訳過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。
塚本訳イエスは過越の祭の六日前に(また)ベタニヤに行かれた。ここにはイエスが死人の中から生きかえらせたラザロがいた。
前田訳さてイエスは過越の六日前にベタニアに来られた。そこはイエスが死人の中から起こされたラザロのいたところである。
新共同過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
NIVSix days before the Passover, Jesus arrived at Bethany, where Lazarus lived, whom Jesus had raised from the dead.
註解: この日はニサンの月の十日(日曜日)であった。イエスの終末いよいよ近付き来りて、多くの意味深き光景があらわれた。ヨハネはその中よりマリヤの塗油(1−11)と、エルサレム入城(12−19)と、宮における最後の光景(20−36)とを記している。エルサレムにはイエスの敵の本拠があった。それ故に彼はその愛し給えるラザロの家をもってその死に先立てる一時の宿所となし給うた。幸福なる一家族なるかな。イエスは元来り給えるペレア地方を経てエリコに至り(ルカ18:35以下)ザアカイの家に宿り給い、そこよりベタニヤに行き給うた。(注意)この日が何日に当るかにつきて多くの異論あり。イエスの死の日を計算する上に重要である。ヨハ19:42(十九章末尾)附記1「イエスの死に給いし日の計算」参照。

12章2節 此處(ここ)にてイエスのために饗宴(ふるまひ)(まう)け、マルタは(つか)へ、ラザロはイエスと(とも)(せき)()ける(もの)(うち)にあり。[引照]

口語訳イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。
塚本訳するとそこでイエスのために宴会が催され、マルタは給仕をし、ラザロは相伴客の一人であった。
前田訳そこにイエスのために夕食がそなえられた。マルタは給仕し、ラザロはイエスの相客のひとりであった。
新共同イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
NIVHere a dinner was given in Jesus' honor. Martha served, while Lazarus was among those reclining at the table with him.
註解: 此處(ここ)」はラザロの家を意味せず、ベタニヤの村を指す。饗宴の場所はユダヤ人の嫌忌する癩病人シモンの家であった(Z0、マタ26:6等)。マルタは接待掛り、ラザロは客の中の一人であった。復活せるラザロの出席はイエスの大なる栄光であり、ユダヤ人の嫉視(しっし)の原因であった。

12章3節 マリヤは(あたひ)(たか)(まじ)りなきナルドの(にほひ)(あぶら)一斤(いっきん)()(きた)りて、イエスの御足(みあし)にぬり、[引照]

口語訳その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
塚本訳そのときマリヤは混ぜ物のない、非常に高価なナルドの香油一リトラ(三百二十八グラム)をイエスの足に塗り、髪の毛でそれをふいた。香油の薫が家に満ちた。
前田訳マリヤはというと、純粋で高価なナルドの香油一リトラをイエスのみ足にぬり、髪でそれをふいた。家は香油のかおりに満たされた。
新共同そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
NIVThen Mary took about a pint of pure nard, an expensive perfume; she poured it on Jesus' feet and wiped his feet with her hair. And the house was filled with the fragrance of the perfume.
註解: マタ26:7註参照。ナルドはインド産の植物の名で、これより採った貴重の香油である。マリヤのイエスに対する崇敬と親愛は、彼女をしてその最も貴重なる宝を彼にささげしめた。彼女はまずイエスの頭にこの油を塗り(マタ、マコ)、なおその全心全霊をもってイエスを崇めんとしてついにその御足にこれを塗った。

(おの)頭髮(かみのけ)にて御足(みあし)(ぬぐ)ひしに、

註解: ユダヤにては頭髪を解くことは婦人の恥辱と考えられていた。マリヤはこれによりて飽くまでもイエスの御前に己を(ひく)くしたのである。我らは慈善事業、社会事業等のごとき我らの行為を傲然(ごうぜん)として神の前に持ち出すごとき場合がある。マリヤの態度を見てつつしまねければならぬ。

(にほひ)(あぶら)のかをり(いへ)滿()ちたり。

註解: イエスを崇め彼に仕え彼の御前に卑下(へりくだ)る行為のかをりは、天において神の家に満つるであろう。「このかをりはユダを怒らしめた」(B1)。

12章4節 御弟子(みでし)一人(ひとり)にて、イエスを()らんとするイスカリオテのユダ()ふ、[引照]

口語訳弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
塚本訳弟子の一人で、イエスを売るイスカリオテのユダが言う、
前田訳弟子のひとりで彼を裏切るイスカリオテのユダはいう、
新共同弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
NIVBut one of his disciples, Judas Iscariot, who was later to betray him, objected,
註解: ユダはイエスに対する反逆心の化身とも見るべきもので、ユダの心は凡ての人がこれを有っている。この言を発したのは彼であったけれども、他の弟子も同じ思いを有っていた(マタ26:8マコ14:4参照)。

12章5節 (なに)ぞこの(にほひ)(あぶら)(さん)(ひゃく)デナリに()りて、(まづ)しき(もの)(ほどこ)さざる』[引照]

口語訳「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
塚本訳「なぜこの香油を三百デナリ(十五万円)に売って、貧乏な人に施さないのだろうか。」
前田訳「なぜこの香油を三百デナリに売って貧しい人に与えないのですか」と。
新共同「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
NIV"Why wasn't this perfume sold and the money given to the poor? It was worth a year's wages. "
註解: 功利的にまたは道徳的に考うるならば、この考えは最も正しき考えであると言わなければならぬ。しかしながら天国における価値判断は功利主義の原則によらない。一デナリは約三十五銭、三百デナリは百円余の価値を有す。▲▲この邦貨の価値は1930年頃の邦貨の価値で今日(1956年)の価値ではない。一デナリはイエスの当時の労働者一日の賃金であった。従って三百デナリはその約一年分の収入に匹敵する。このナルドの香油は労働者の一年の全収入に匹敵することとなる。

12章6節 かく()へるは(まづ)しき(もの)(おも)(ゆゑ)にあらず、おのれ盜人(ぬすびと)にして、財嚢(かねいれ)(あづか)り、その(うち)(をさ)むる(もの)(かす)めゐたればなり。[引照]

口語訳彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
塚本訳ユダがこう言ったのは、貧乏な人のためを考えたのではなく、(会計係であった)彼は泥坊で、あずかっている金箱の中に入るものをごまかしていたからであった。
前田訳こういったのは貧しい人を思ったからではなく、盗びとで金入れをあずかりながら中身を取っていたからである。
新共同彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
NIVHe did not say this because he cared about the poor but because he was a thief; as keeper of the money bag, he used to help himself to what was put into it.
註解: ユダは会計係であって、人々がイエスおよび弟子たちの必要に供うるために喜捨せる金銭を預っていた。他の弟子たちは真に貧者を思って前節の考えを懐いたけれども、ユダはこれによりてその金額を盗み取らんがためであった。貪慾の罪ほど恐るべきものはない。宗教的特権を利用して自己を利せんとする者は必ずイエスを売る者である。なぜにキリストはかかる者を十二使徒の一人となし、また会計係となし給いしか。キリストはユダについて無知ではなかった。従ってこれ神の御旨に従いてこれを用い給いしものであって、その目的はおそらく彼によりて神の経綸が実現せんがため、また最も優れたる人間といえども罪に陥る可能性あることを示めさんがため、またこの世においては聖徒の群中にすらサタンの侵入を免れることができないことを示すがためであろう。▲「思う」 melei は「気にかける」こと。

12章7節 イエス()(たま)ふ『この(をんな)()すに(まか)せよ、()(はうむ)りの()のために(これ)(たくは)へたるなり。[引照]

口語訳イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
塚本訳イエスは言われた、「構わずに、わたしの埋葬の日のためにそうさせておきなさい。
前田訳イエスはいわれた、「構うな。わが葬りの日までそうさせなさい。
新共同イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。
NIV"Leave her alone," Jesus replied. "[It was intended] that she should save this perfume for the day of my burial.
註解: マタ26:10−12註参照。我ら自己のために貯うる時我らの魂はそのために腐敗するけれども、キリストのために貯うる時、我らはこれを最もよき機会に用うることができる。マリヤはこれを貧民に施す代りにキリストのために貯えた。キリストに対する愛の発露である。マリヤが葬りのためにこれを注いだということは、マリヤ自身がキリストの死を明らかに意識せるものと解する必要がない。潜在意識の中にかかることを覚ったものであろう。女子はこの種の感応力に富み、殊にマリヤは主イエスを愛していたために、その死の予感によりて動かされたことであろう。

12章8節 (まづ)しき(もの)(つね)(なんぢ)らと(とも)()れども、(われ)(つね)()らぬなり』[引照]

口語訳貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。
塚本訳貧乏な人はいつもあなた達と一しょにいるが、わたしはいつも一しょにいるわけではないのだから。」
前田訳貧しい人はいつもあなた方といっしょにいるが、わたしはいつもいっしょではないから」と。
新共同貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
NIVYou will always have the poor among you, but you will not always have me."
註解: イエスはまさにこの世を去らんとし給うに、弟子たちはこれに対して無関心であった。キリストに対する愛が足らなかったのである。キリストを愛せずしていかで貧民を愛することができようか。いと小さき一人に対する愛の行為をも重視し給うイエスが、貧民に施すことを軽視し給うたのではない。唯マリヤの己の凡てを献ぐる態度を愛し給うたのである。なおマタ26:13要義[愛の神秘]参照。▲唯物主義者はこのイエスの言に反対するであろう。しかし愛と物質とを同価値と考え、または物質が愛以上であると考えることは決して永遠の真理ではない。

4-1-2 ユダヤ人の計画 12:9 - 12:11

12章9節 ユダヤ((びと)(うち))の(おほ)くの(たみ)ども、イエスの此處(ここ)居給(ゐたま)ふことを()りて(きた)る、これはイエスの(ため)のみにあらず、死人(しにん)(うち)より(よみが)へらせ(たま)ひしラザロを()んとてなり。[引照]

口語訳大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。
塚本訳するとイエスがそこに来ておられることを知って、大勢のユダヤ人があつまって来た。それはイエスのためばかりでなく、イエスが死人の中から生きかえらせたラザロをも見ようとしたのであった。
前田訳多くのユダヤ人がイエスがそこにおられると知って集まって来た。それはイエスのゆえだけでなく、彼が死人の中から起こされたラザロを見るためであった。
新共同イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。
NIVMeanwhile a large crowd of Jews found out that Jesus was there and came, not only because of him but also to see Lazarus, whom he had raised from the dead.
註解: ヨハ11:55、56節に記されし人々の多くはイエスを見んことを望み、さらに一層イエスと共にいるラザロを見んことを望んだ。
辞解
[民] 「群衆」と訳される場合が普通である。

12章10節 かくて祭司長(さいしちゃう)ら、ラザロをも(ころ)さんと(はか)る。[引照]

口語訳そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。
塚本訳そこで大祭司連はラザロをも殺す決意をした。
前田訳大祭司らはラザロをも殺すことに決めた。
新共同祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。
NIVSo the chief priests made plans to kill Lazarus as well,

12章11節 (かれ)のために(おほ)くのユダヤ(びと)さり()きてイエスを(しん)ぜし(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである。
塚本訳彼のことで多くのユダヤ人がだんだん離れていって、イエスを信じたからである。
前田訳彼のために多くのユダヤ人が離れ去ってイエスを信ずるようになったからである。
新共同多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。
NIVfor on account of him many of the Jews were going over to Jesus and putting their faith in him.
註解: 祭司長らはその教権を維持せんがためにはいかなる手段たるを問わずしてこれを行う。その動機の不純、その行為の不正憎むべきである。宗教的特権階級の心理は常にかくのごときである。

4-1-3 エルサレム入城 12:12 - 12:19

12章12節 ()くる()(まつり)(きた)りし(おほ)くの(たみ)ども、イエスのエルサレムに(きた)(たま)ふをきき、[引照]

口語訳その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、
塚本訳あくる日、祭に来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞くと、
前田訳あくる日、祭りに来た多くの群衆はイエスがエルサレムヘ来られると聞いて、
新共同その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
NIVThe next day the great crowd that had come for the Feast heard that Jesus was on his way to Jerusalem.

12章13節 棕梠(しゅろ)(えだ)をとりて()(むか)へ、『「ホサナ、()むべきかな、(しゅ)御名(みな)によりて(きた)(もの)」イスラエルの(わう)』と(よば)はる。[引照]

口語訳しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。
塚本訳(手に手に)棗椰子の枝を持って、(町から)迎えに出てきた。彼らは叫んだ。──〃ホサナ!、主の御名にて来られる方に祝福あれ、〃イスラエルの王に!、
前田訳棕梠(しゅろ)の葉を手にして彼を迎えに出た。そして叫んだ、「ホサナ、祝福あれ、主のみ名によって来たるもの、イスラエルの王に」と。
新共同なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」
NIVThey took palm branches and went out to meet him, shouting, "Hosanna! " "Blessed is he who comes in the name of the Lord!" "Blessed is the King of Israel!"
註解: (イエスのエルサレム入城につきてはマタ21:1−11註参照)エルサレムにおいては凡ての人イエスの来り給うのを待ちつつあったので、その入城の報伝わるや異常なる光景を呈した。彼らは国王や凱旋将軍の帰国に際して用いられる棕梠の枝をとりて、詩118篇詩25篇詩26篇を歌いつつ彼を迎えた。▲「讃むべきかな」 eulogêtos は「祝福されるべきかな」の意。
辞解
[民] 「群衆」のこと。
[ホサナ] ヘブル語「救い給えかし」の意。マタ21:9辞解参照。
[主の御名によりて来る者] 主より遣わされし者との意。
[イスラエルの王] イエスは霊的イスラエルの王に在し給う。ヨハ19:19マタ27:42

12章14節 イエスは小驢馬(ころば)()(これ)()(たま)ふ。[引照]

口語訳イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは
塚本訳イエスは小さな驢馬を見つけて、それに乗られた。(預言書に)書いてあるとおりである。──
前田訳イエスは子ろばを見つげてそれに乗られた。聖書に、
新共同イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
NIVJesus found a young donkey and sat upon it, as it is written,
註解: 驢馬は平和と謙遜の(かたち)ゼカ9:9、10)。国王は軍馬または騾馬に乗りて入城する(T列1:38)のに反しイエスはこの賤しめられる驢馬に乗りて入城し給うた。

これは(しる)して、

12章15節 『シオンの(むすめ)よ、(おそ)るな。()よ、なんぢの(わう)驢馬(ろば)()()りて(きた)(たま)ふ』と()るが(ごと)し。[引照]

口語訳「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」と書いてあるとおりであった。
塚本訳〃恐れるな、〃〃シオンの娘よ、見よ、あなたの王が来られる、驢馬の子に乗って。〃
前田訳「おそれるな、シオンの娘、見よ、あなたの王がろばの子に乗って来られる」とあるように。
新共同「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」
NIV"Do not be afraid, O Daughter of Zion; see, your king is coming, seated on a donkey's colt."
註解: 「シオンの娘」はエルサレムの市またはその住民を指す。この世の王は裁き、キリストは救い給う。この世の王者が他国を征服し威儀堂々として入城する場合には人々の心に恐れをいだかしむるけれども、驢馬の子に乗りて来り給うイエスの御姿に対しては唯親愛の心が起るのみである。ゼカリヤは(引照1)このことを預言したのである。
辞解
[懼るな] ゼカ9:9には「大いに踊れ(文語訳:喜べ)」とあり、意味に差はない。

12章16節 弟子(でし)たちは最初(はじめ)これらの(こと)(さと)らざりしが、イエスの榮光(えいくわう)()(たま)ひし(のち)に、これらの(こと)のイエスに()きて(しる)されたると、[人々(ひとびと)が] ((かれ)(たい)して) ()()しし とを(おも)(いだ)せり。[引照]

口語訳弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起した。
塚本訳弟子たちは初めこのことがわからなかったが、イエスが(復活して)栄光を受けられた時にはじめてこれはイエスのことを書いたもので、人々がこれを(預言どおり)彼にしたのであることに気づいた。
前田訳弟子たちにははじめこのことがわからなかったが、イエスが栄化されてから、これがイエスについて書かれていて、人々がこのとおり彼にしたことに思い当たった。
新共同弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。
NIVAt first his disciples did not understand all this. Only after Jesus was glorified did they realize that these things had been written about him and that they had done these things to him.
註解: イエスが驢馬を見出し、これに乗りてエルサレムに入り給い、群衆が彼を迎えしことをもって弟子たちは始めは別に意義深き事実とは考えなかった。後にイエスの復活昇天の後に、彼らは霊を受け(ヨハ14:26)てその目開かれこの事実を思い起し、これが預言に叶える事実であり、イエスが真にシオンの娘の王に在し給う証であることを覚った。なお ヨハ2:22ヨハ13:7ヨハ13:36ヨハ16:4ヨハ20:9 にも同様の無智の場合が記されている。人は霊の眼が真に開かれるまでは重大なる事実をすら見ることができない。ルカ9:45参照。

12章17節 ラザロを(はか)より()(おこ)し、死人(しにん)(うち)より(よみが)へらせ(たま)ひし(とき)に、イエスと(とも)()りし群衆(ぐんじゅう)(あかし)をなせり。[引照]

口語訳また、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたとき、イエスと一緒にいた群衆が、そのあかしをした。
塚本訳また、イエスがラザロを墓から呼び出して死人の中から生きかえらせた時に居合わせた人々は、そのことを証しした。
前田訳証したのは群衆であった。彼がラザロを墓から呼んで死人の中から起こされたときいあわせたのである。
新共同イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。
NIVNow the crowd that was with him when he called Lazarus from the tomb and raised him from the dead continued to spread the word.
註解: 本節はイエス、エルサレムに入り給う時群衆が彼を迎えし理由の説明であって、すなわちラザロ復活の目撃者がこのことをエルサレムに言いふらしたことを意味する。「墓より呼び起し云々」は「大なる奇蹟が易々(やすやす)と為されしことを巧みに言い表わしている」(B1)。

12章18節 群衆(ぐんじゅう)のイエスを(むか)へたるは、かかる(しるし)(おこな)(たま)ひしことを()きたるに()りてなり。[引照]

口語訳群衆がイエスを迎えに出たのは、イエスがこのようなしるしを行われたことを、聞いていたからである。
塚本訳(今)群衆が出迎えたのは、イエスがこんな徴[奇蹟]をされたことを(その人たちに)聞いたからである。
前田訳それゆえ群衆は彼を出迎えもした。彼が徴を行なわれたことを聞いていたからである。
新共同群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。
NIVMany people, because they had heard that he had given this miraculous sign, went out to meet him.
註解: 私訳「この故に群衆はイエスを迎えたりそは斯る徴を・・・・・・」この群衆は前節の群衆からラザロの復活につきて聞きたる人々である。而してヨハ11:45の人々と同じくこれらの人もイエスを信じて彼を迎えた。この17節、19節の事実がゼカリヤの預言を実現するの機会として神の用いるところとなったのである。▲すなわちゼカ9:9の預言(15節)が17節、19節のごとき形をもって実現した。

12章19節 パリサイ(びと)(たがひ)()ふ『()るべし、(なんぢ)らの(はか)ることの(えき)なきを。()よ、()(かれ)(したが)へり』[引照]

口語訳そこで、パリサイ人たちは互に言った、「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」。
塚本訳そこでパリサイ人が互に言った、「見ろ、何もかもだめだ。世界中があんなに、あの男のあとについて行ってしまった。」
前田訳そこでパリサイ人が互いにいった、「見たことか、何をしてもむだだ。あのとおり世の人は彼について行ってしまった」と。
新共同そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」
NIVSo the Pharisees said to one another, "See, this is getting us nowhere. Look how the whole world has gone after him!"
註解: ラザロの復活は多くの群衆に17、18節の影響を与え、パリサイ人らにとりては本節のごとき影響を及ぼした。その結果イエスを殺すに至ったのである。
辞解
[汝らの謀ることの益なきを] 原語「とても駄目な事を」のごとき絶望的調子あり。
[彼に従へり] 「彼に(したが)って去り行けり」と訳すべきで、パリサイ人らのみ取り残されて切歯扼腕(せっしやくわん)復讎(ふくしゅう)せずには止まざる気勢を示している。
要義 [ラザロの復活よりイエスのエルサレム入城に至るまで]イエスはラザロを復活せしめて神の子としての力を示し給い、マリヤの愛の塗油を受けてその死を預示し給い、群衆の歓呼の下にエルサレムに入ることによりて、そのメシヤたることを示し給うた。その死を近くに控えしイエスの行動には、非常に緊張せるものがあったことを見逃すことができない。我々の罪を負うて死に給わんためにエルサレムに赴き給うまでのイエスのこの御姿は、やがて神の国において真の光榮の中に拝すべき彼の御姿の型である。ヨハネもこの意味においてこの記事を(したた)めたことは明らかである。

4-1-4 異邦人の救とキリストの死 12:20 - 12:36a

12章20節 禮拜(れいはい)せんとて(まつり)(のぼ)りたる(もの)(うち)に、ギリシヤ(びと)數人(すにん)ありしが、[引照]

口語訳祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。
塚本訳この祭にお参りするため上ってきた人たちの中に、数人の(改宗した)異教人があった。
前田訳祭りに礼拝のため上って来た人々の中に何人かのギリシア人がいた。
新共同さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
NIVNow there were some Greeks among those who went up to worship at the Feast.
註解: 異教徒にして今はエホバの神を信じユダヤ教の祭礼の一部に加わる者(半改宗者、Z0)を意味する。「神の国がユダヤ人より異邦人に移ることの序曲ともいうべきものであった」(B1)。

12章21節 ガリラヤなるベツサイダのピリポに(きた)り、()ひて()ふ『(きみ)よ、われらイエスに(まみ)えんことを(ねが)ふ』[引照]

口語訳彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。
塚本訳ガリラヤのベッサイダの人ピリポの所に来て、こう言って頼んだ、「君、イエスにお会いしたいのですが。」
前田訳彼らはガリラヤはベツサイダ出のピリポのところへ来て頼んだ、「お願いします。イエスにお会いしたいのですが」と。
新共同彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
NIVThey came to Philip, who was from Bethsaida in Galilee, with a request. "Sir," they said, "we would like to see Jesus."
註解: 彼らの切なる願いはイエスに逢いて彼と語ることであった。悩める人類の凡ての願望はこの一句に尽きている。彼らがピリポに紹介の労を依頼せる所以は、彼らがおそらくベツサイダの附近の住民であったからであろう。(例えばデカポリスの地方は全くギリシャ人の地方であった)。十二使徒中ピリポとアンデレのみギリシャ語源の名を持っていることもこの節の説明を助ける。

12章22節 ピリポ()きてアンデレに()げ、アンデレとピリポと(とも)()きてイエスに()ぐ。[引照]

口語訳ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。
塚本訳ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレはピリポと行ってイエスに話した。
前田訳ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行ってイエスに話した。
新共同フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
NIVPhilip went to tell Andrew; Andrew and Philip in turn told Jesus.
註解: ピリポの注意深き性質として、ユダヤ人の反対を受けつつあるイエス、また従来ユダヤ人のみに道を伝えしイエスに対して、ギリシャ人と語られんことを要求するは、如何ならんかと躊躇したのであろう。同郷の友アンデレに相談した。そして二人は共に往きてイエスにこのことを告げた。

12章23節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『(ひと)()榮光(えいくわう)()くべき(とき)きたれり。[引照]

口語訳すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。
塚本訳するとイエスは(非常に感動して)二人に答えられる、「人の子(わたし)が栄光を受ける時がついに来た。
前田訳イエスは答えられる、「人の子が栄化される時が来た。
新共同イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
NIVJesus replied, "The hour has come for the Son of Man to be glorified.
註解: イエスはギリシャ人らに面会を許し給うたことであろうけれども、そのことは省かれている。ゆえにこの答は二人の弟子とギリシャ人と群衆とに向って語り給うたのである。イエスはギリシャ人らが熱心に彼に面会を望むことと、反対にその選民ユダヤ人の不信とを見ていたく心を動かし給い、このことが己の死の近きことを示す一事実であることを感じ、異邦人の救われんがためにまずイエスが十字架上に死に給うことが必要であることを(ヨハ10:15−17)彼らに示し、また彼らもまたこの死を経ることが必要なることを教え給うた。「栄光を受くべき時」とは死を経て復活昇天し給う時を言う。(注意)この答は二人の弟子のみになされしものとする学者もあり(A1、G1、M0、H0、Z0)またはギリシャ人も共にいたことを認める学者もある(E0)。▲ギリシャ人はおそらく智慧や知識、すなわち哲学をイエスから学ぼうとしたのであろうがイエスはこれに対して自分の十字架の死を示し給うた(Tコリ1:22−23)。

12章24節 (まこと)にまことに(なんぢ)らに()ぐ、一粒(ひとつぶ)(むぎ)()()ちて()なずば、唯一(ただひと)つにて()らん、もし()なば、(おほ)くの()(むす)ぶべし。[引照]

口語訳よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
塚本訳アーメン、アーメン、わたしは言う、一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでもただの一粒である。しかし死ねば、多くの実を結ぶ。(だからわたしは命をすてる。)
前田訳本当にいう、一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでも一粒にすぎない。死ねば多くの実を結ぶ。
新共同はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
NIVI tell you the truth, unless a kernel of wheat falls to the ground and dies, it remains only a single seed. But if it dies, it produces many seeds.
註解: 福音が異邦人にも伝わり世界万民を救うためには、キリストがまず十字架につきて死に給い、後復活して神の右に坐し給うことが必要である。キリストの死は多くの人に生命を与うる原因である。このことはあたかも麦一粒地に落ちて死滅するかのごとくに見えながら、その中の生命が発育して多くの果を結ぶことに類似している。かく言いてイエスはその死がユダヤ人のみならずギリシャ人すなわち万民のための贖いの死であることを暗示し給うた。

12章25節 (おの)生命(いのち)(あい)する(もの)は、これを(うしな)ひ、この()にてその生命(いのち)(にく)(もの)は、(これ)(たも)ちて永遠(とこしへ)生命(いのち)(いた)るべし。[引照]

口語訳自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。
塚本訳(この世の)命をかわいがる者は(永遠の)命を失い、この世で命を憎む者は、命を守って永遠の命にはいるであろう。
前田訳おのがいのちを愛するものはそれを失い、この世でいのちを憎むものは永遠のいのちへとそれを保とう。
新共同自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
NIVThe man who loves his life will lose it, while the man who hates his life in this world will keep it for eternal life.
註解: 前節に己の死を預言し給えるイエスは、この節に弟子たちやギリシャ人らもまた彼に倣いてその生命を棄つべきこと、而してこれによりてのみ永遠の生命に至ることを教え給うた。このことは(さき)にしばしば弟子たちにも教え給える御言であって(マタ10:39マタ16:25。等)、イエスに(まみ)えんことを乞えるギリシャ人にもこのことを要求し給い、ここに異邦人のキリストの弟子たるべき要件を示し給うた。ゆえにキリストに面会を求むることは(よみ)すべきではあるけれども、それは単に師弟の関係に入るごとき程度のものではなく、イエスまず死に給い、弟子たちもまたその生命を憎まなければならない。キリストの弟子たることは至難であることを示している。「生命を憎む」とは己が生命を愛することの反対であって、神に仕えんとする者はこの世におけるその生命が、いかに多くの妨害を与うるかを知るが故にこれを憎むに至るのである。▲▲ギリシャ人は本来自己を愛しこれを完成しようとした。ヒューマニズムはこの点において福音と対立する。

12章26節 (ひと)もし(われ)(つか)へんとせば、(われ)(したが)へ、わが()(ところ)(われ)(つか)ふる(もの)もまた()るべし。[引照]

口語訳もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。
塚本訳わたしに仕えようとする者は、わたしに従い(わたしと同じ道を歩き)なさい。そうすれば、わたしに仕える者もわたしがおる所におることができる。父上はわたしに仕える者に、(そんな)栄誉をくださるのである。]
前田訳わたしに仕えるものはわたしに従え。そうすれば、わたしに仕えるものもわたしがいるところにいよう。わたしに仕えるものを、父は尊ばれよう。
新共同わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
NIVWhoever serves me must follow me; and where I am, my servant also will be. My Father will honor the one who serves me.
註解: キリストの弟子たらんとする者はユダヤ人たるとギリシャ人たるとを問わず、イエスの進み給う十字架への途に、彼の後に従って進まなければならぬ。キリストに仕うる者はキリストの居給う処にいるのであって、従って彼とその苦難を共にしなければならぬ。しかしながら同時にその栄光も、これをキリストと共にすることができるのである(黙14:4)。ゆえにこの道は苦難の途であると共に栄光の途であって、イエスより離れて苦難の途を避くる者はこの栄光に達することができない。この御言によりイエスに従わんとするギリシャ人らにその困難について教え給う。▲キリスト者はイエスを信ずるだけでなくイエスに仕える者でなければならぬ。イエスを自己の救いに利用しようとする者は真のキリスト者ではない。

(ひと)もし(われ)(つか)ふることをせば、()(ちち)これを(たふと)(たま)はん。

註解: キリストに(つか)うる者はユダヤ人と異邦人との差別なく、父なる神はこれを貴び敬い、これにキリストの栄光に等しき栄光を与え給うであろう。父の目に最も喜ばしきことは人がキリストに(つか)うるのを見ることである。父が貴び敬い給うことは、いかにそのことが大切であるかがわかる。我ら父の御心を思い畏れつつキリストに(つか)えなければならぬ。▲▲世人は仕える人を賤しめるけれども神はイエスに(つか)える人を貴び給う。

12章27節 (いま)わが(こころ)さわぐ、われ(なに)()ふべきか。[引照]

口語訳今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。
塚本訳今、わたしは胸がどきどきしてならない。ああ、なんと言っ(て祈っ)たらよいだろう。『お父様、この(試みの)時からわたしを救ってください』(と祈ろうか。)いやいや、わたしはこのため、この時のために(この世に)来たのだ。
前田訳今、わが心はさわぐ。何といおうか。父上、この時から救い出してください。否、このため、この時にこそわたしは来たのです。
新共同「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
NIV"Now my heart is troubled, and what shall I say? `Father, save me from this hour'? No, it was for this very reason I came to this hour.
註解: ここまで語り来ってイエスの御心はその死の苦痛に対する予感と、その使命に服従せんとする御心との間に非常なる苦闘を味わい給い、またこれと同じ運命に陥るべき信徒のことを思いて心を乱し給うた。ロマ8:26のごとくにいかに祈るべきかに迷い給うた。
辞解
[心騒ぐ] 心が撹乱される貌。

(ちち)よ、この(とき)より(われ)(すく)(たま)へ、されど(われ)この(ため)にこの(とき)(いた)れり。

註解: まずイエスの人間性(ヘブ4:15)はその予見せる死の苦痛のために「父よ、この時(苦難の時)より我を救い給え」との祈りとなって顕われた。マタ26:39の祈りの前半に類似している。而して後イエスの御心は父の御旨を思いて「されど云々」の告白となり、「それ故に我はこの苦杯を飲み干さん」との決心を示し給うた(マタ26:39後半を見よ)。イエスはその自然の情を(おお)い給わなかった。しかしながらたとい大なる苦悩の後にても、神の御旨に対する服従が常にその自然の情を支配することができたのである。「この時より我を救い給え」は「救い給えと言うべきか」との意味に解する学者もある(G1)けれどもその必要を認めない。

12章28節 (ちち)よ、御名(みな)榮光(えいくわう)をあらはし(たま)へ』[引照]

口語訳父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。
塚本訳『お父様、(どうかわたしを御心のままになさって、)あなたの御名の栄光をあらわしてください!』」すると天から声がひびいた、「わたしは(あなたの業で)すでに(わたしの)栄光をあらわした。(今)また(あなたの苦しみによって)栄光をあらわすであろう。」
前田訳父上、あなたのみ名を栄化してください」と。すると天から声がした、「わたしは栄化したし、また栄化しよう」と。
新共同父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
NIVFather, glorify your name!" Then a voice came from heaven, "I have glorified it, and will glorify it again."
註解: 死の苦痛を免れることもイエスの願いであった。されどさらに大なる願いはイエスにとっていかに苦痛であっても、これによりて父の御名の栄光が顕わされることであった。この願いが彼を支配して彼の心の撹乱は静まった。
辞解
[御名の栄光] 「神の栄え」というに同じ。

ここに(てん)より(こゑ)いでて()ふ『われ(すで)榮光(えいくわう)をあらはしたり、(また)さらに(あらは)さん』

註解: ヨハ17:1−5。イエスの過去における御業はみな父の栄光となった。これ父がイエスをしてその栄光を顕わさしめ給うたのである。而して将来はイエスの死とその復活によりて異邦人をも救うことによりて、さらに父はその栄光を顕わし給うであろう。イエスはそのバプテスマと変貌の際にも天よりの証を受け給い(引照1)、今またここに父よりこの証を受け給うた。これらはみなイエスの生涯における重大なる機会であって、バプテスマはその公生涯に入り給う時を示し、変貌は律法時代の終りと福音時代の初めとを示し、この場合は福音が異邦人に及ぶことを示している。

12章29節 (かたは)らに()てる群衆(ぐんじゅう)これを()きて『雷霆(いかづち)()れり』と()ひ、ある人々(ひとびと)は『御使(みつかひ)かれに(かた)れるなり』と()ふ。[引照]

口語訳すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。
塚本訳そこに立っていてこれを聞いた群衆は、雷が鳴ったと言った。「天使がイエスと話した」と言う者もあった。
前田訳そこに立っていてそれを聞いた群衆は「雷が鳴った」といった。ほかに、「天使がイエスに話した」というものもあった。
新共同そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
NIVThe crowd that was there and heard it said it had thundered; others said an angel had spoken to him.
註解: 神の御声が事実天より響いたのであったけれども、信仰の程度によりてこれを聞き分くる力にも差異があった。あたかも人間が動物に向って語る時、動物の知識の程度によりて、或はこれを無意味の音響と解し、或は意味ある命令と解するがごときこの類である。ゆえに群衆すなわち大多数のものは雷霆の響きと解し、少数の人々はこれを天の使いの語と解した。▲この神の声がユダヤ人とギリシャ人とが共にいた時に聞こえたことは福音の全世界に及ぶことを示す。

12章30節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『この(こゑ)(きた)りしは、()(ため)にあらず、(なんぢ)らの(ため)なり。[引照]

口語訳イエスは答えて言われた、「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである。
塚本訳イエスは答えて言われた、「あの声がきこえてきたのは、わたしのためではない。あなた達のため(あなた達の信仰を強くするため)である。
前田訳イエスは答えられた、「あの声がしたのはわたしのためではなく、あなた方のためである。
新共同イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
NIVJesus said, "This voice was for your benefit, not mine.
註解: 人々は御使いがイエスに語れるものと思ったのは誤りであって、この声はイエスの祈りが聴かれしことを示すにあらず、人々のイエスに対する不信を戒め信仰に立ち帰らしめんがために、神がイエスによりて崇められ給うことを彼らに教えんとし給う声であった。

12章31節 (いま)この()審判(さばき)[は(きた)れり](あり)、[引照]

口語訳今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。
塚本訳今こそ、この世の裁きがおこなわれる。今こそ、この世の支配者(〔悪魔〕)が(この世から)放り出される。(今わたしが天に挙げられるからである。)
前田訳今、この世の裁きがある。今、この世の君が外へ投げ出されよう。
新共同今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
NIVNow is the time for judgment on this world; now the prince of this world will be driven out.
註解: 今キリスト十字架上に死に給うことによりて、従来完全に悪魔に従っていたこの世に対し審判が行われる。すなわちこの世は神の子キリストを十字架に()けしことによりて神に対する反逆の罪に定められる。而して最後の審判はこの時に始まりし審判の完全なる実現である。▲▲イエスはこの世の司から(さば)かれて死なれたように見えるけれども、その復活により永遠に世に勝ち、かえってイエスを殺した世が神の子の上に無力であること、サタンの力が支配力を失ったことが証明された。これによって世は(さば)かれたのであった。

(いま)この()(きみ)()()さるべし。

註解: キリスト十字架につきて死に給うことによりて、死の権力を有つ者なるこの世の君なる悪魔はその使命を終えた。而してキリスト死に打勝ちて甦り給うが故に、もはやキリストを信じキリストと共に甦る者の上に悪魔はその力を振るうことができない。すなわちキリストは「十字架より凱旋し給い」(コロ2:15)「悪魔を死によりて亡ぼし」給うた(ヘブ2:14)。ゆえにキリストの死によりて悪魔は逐い出されたのである。ただし悪魔はこの時この世の完全なる支配を失ったけれども、悪魔が最後に完全に逐い出されるのはこの世の終末においてである(黙20:10)。従ってその時迄は悪魔はなおその働きを(やす)めない(Uコリ4:4エペ2:2エペ6:12ロマ16:20)。
辞解
[この世の君] マタ4:1-10註参照。引照3参照。悪魔を指す。

12章32節 (われ)もし()より()げられなば、(すべ)ての(ひと)をわが(もと)()きよせん』[引照]

口語訳そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。
塚本訳(しかし)わたしは地から挙げられた時、みんなをわたしの所に引き寄せるであろう。」
前田訳そして、わたしが地から挙げられるとき、皆をわたしに引きよせよう」と。
新共同わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
NIVBut I, when I am lifted up from the earth, will draw all men to myself."
註解: キリスト「地より擧げられて」十字架に死して復活昇天し給う場合には、「凡ての人」すなわちユダヤ人のみならずギリシャ人も(20節)その他あらゆる民族もこれをキリストの御許に引きよせ、サタンの支配する罪のこの世より救い出し給うであろう。かくしてサタンはその位より逐い出されるのである。「凡ての人」なる文字をもって万人救済説を証明する理由とする学者もある(M0)けれども、やや牽強のように思われる(C1、C2 )。ただし聖書に万人救済の思想の閃きがあることは事実であって、本節もその一つである。
辞解
[擧げられ] 直接には十字架の死を示し(33節)、而してその中に復活昇天の意を含ましめている。ヨハ3:14ヨハ8:28参照。殊に「地より」と言いてこのことを明らかにしている。

12章33節 かく()ひて、(おの)如何(いか)なる()にて()ぬるかを(しめ)(たま)へり。[引照]

口語訳イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである。
塚本訳このように(「挙げられる」と)言われたのは、自分がどんな死に方で死なねばならぬかを、(すなわち十字架による死を)暗示されたのである。
前田訳こういわれたのは、どんな死に方で死ぬべきかを示されたのである。
新共同イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
NIVHe said this to show the kind of death he was going to die.
註解: キリストの十字架上の死は世の審判、悪魔の追放、万民の救済の原因となるのであって、イエスは前節のごとくに語り給うことによりてその死の有様が十字架に擧げられることでありその結果が世の審判、悪魔の追放、万民の救済であることを示し給うたのである。

12章34節 群衆(ぐんじゅう)こたふ『われら律法(おきて)によりて、キリストは永遠(とこしへ)(ながら)(たま)ふと()きたるに、(なんぢ)いかなれば(ひと)()()げらるべしと()ふか、その(ひと)()とは(たれ)なるか』[引照]

口語訳すると群衆はイエスにむかって言った、「わたしたちは律法によって、キリストはいつまでも生きておいでになるのだ、と聞いていました。それだのに、どうして人の子は上げられねばならないと、言われるのですか。その人の子とは、だれのことですか」。
塚本訳すると群衆が答えた、「われわれは律法[聖書]で、救世主は〃永遠に〃(地上に)生きながらえると聞いていたのに、あなたはどういう訳で、人の子は(死んで天に)挙げられねばならぬと言われるのですか。その人のことはいったいだれのことです。」
前田訳そこで群衆が答えた、「われらは律法でキリストは永遠に生きながらえると聞いている。それなのにあなたはどうして人の子は挙げられねばならぬというのか。人の子とはだれなのか」と。
新共同すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」
NIVThe crowd spoke up, "We have heard from the Law that the Christ will remain forever, so how can you say, `The Son of Man must be lifted up'? Who is this `Son of Man'?"
註解: 「律法」は旧約聖書全体の総称。旧約聖書にはメシヤの地上の位は永遠であることを教うる個所が多くある (詩16:10詩45:6詩72:5詩89:29詩110:4イザ9:6ダニ7:13、14) 。群衆はこれを読んで知っていた。それ故にイエスが「我もし地より擧げられなば」と言い給いしに対してその矛盾の解決を求め、かつもし人の子なるメシヤが聖書の教うるところと異なり死ぬべきものであるならば、いったい人の子の任務と本質はいかなるものであるかを問うている。▲イエスは23節に「人の子」と言い、32節に「我」と言ったのであるから群衆はイエスが人の子であることを知ったはずであるが、本節の質問のごとく人はイエスの復活まではこのことがわからなかった。

12章35節 イエス()(たま)ふ『なほ(しば)(ひかり)(なんぢ)らの(うち)にあり、[引照]

口語訳そこでイエスは彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。
塚本訳するとイエスは(それには答えず、)彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなた達のところにある。光のある間に(早く)歩いて、暗闇に追い付かれないようにせよ。暗闇を歩く者は、自分がどこへ行くのか知らない。
前田訳イエスは彼らにいわれた、「いましばらく光はあなた方のところにある。光のある間に歩いて、闇が追い越さぬようにせよ。闇の中を歩むものは自分がどこへ行くか知らない。
新共同イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。
NIVThen Jesus told them, "You are going to have the light just a little while longer. Walk while you have the light, before darkness overtakes you. The man who walks in the dark does not know where he is going.
註解: (▲▲光はイエス自身を指す。)イエスは彼らの問に直接に答え給わなかった。而してイエスは光として短時日彼らの間に居り給うに過ぎざることを示し、この切迫せる場合における彼らの覚悟につき語り給うた。イエスの態度は常にかくのごとくであって、彼らの虚しき好奇心のごときに対しては何らの答をも与え給わなかった。

(ひかり)のある(うち)(あゆ)みて、暗黒(くらき)追及(おひつ)かれぬやうにせよ、(くら)(うち)(あゆ)(もの)往方(ゆくて)()らず。

註解: 彼らの為すべきことは空なる神学論聖書論を闘わすことではなく、この光のある間に直ちに為すべきことを為し終ることであった。光なしに人は歩むことができない。もしキリストの光がある中に歩まないならば暗黒が彼らを捕え、彼らを迷路の中に陥れるであろう。キリストの光なしに凡ての人は暗黒なる迷路の中にいるのである。

12章36節 (ひかり)()とならんために、(ひかり)のある(うち)(ひかり)(しん)ぜよ』[引照]

口語訳光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。
塚本訳光のある間に光を信じて、光の子になりなさい。」、こう話すと、イエスは(そこを)立ち去って、彼らから姿をお隠しになった。(イエスの伝道はこれで終ったのである。)
前田訳光のある間、光を信ぜよ、光の子らになるために」と。こう話してからイエスは立ち去って彼らから姿を隠された。
新共同光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。
NIVPut your trust in the light while you have it, so that you may become sons of light." When he had finished speaking, Jesus left and hid himself from them.
註解: 而して光のある間に為すべきことは光の源なるイエスを信ずることである。この信仰によりてイエスの光を身に受けて自ら光り輝くもの、すなわち「光の子」となることができる(ヨハ8:12マタ5:14)。この数節においてイエスが特にその死の以前に彼に来ることを薦め給うたのは、イスラエル全体を問題とし給うたのであって(G1)、異邦人はその死後一般に救われるけれども、イスラエルは一国民として彼をメシヤとして受入れるべきはずであったので、このことを特に力をこめて主張し給うたのである。
要義 [サタンの逐放とその後]イエスの死によりてサタンなるこの世の君は放り出された。すなわちキリストの死によってサタンはこの世におけるその主権を失ったのである。彼はもはやその絶対権を行使すること能わず、キリストを信じて彼に属する者はもはやサタンの権威より脱出したのである(使26:18コロ1:13)。しかしながらサタンはあたかも位を奪われし王のごとくキリストに属する反逆者の立場に立ち、その部下を率いてその暴威を(たくま)しくし、殊に激しくキリストに属する者を攻める。ゆえにキリスト者は今日もなおサタンおよびその軍勢と闘わなければならぬ(エペ6:10−17)。

4-1-5 ユダヤ人の不信は神の定なり 12:36b - 12:50
4-1-5-イ 神の予定 12:36b - 12:43

イエス(これ)()のことを(かた)りてのち、(かれ)らを()けて(かく)(たま)へり。

註解: あたかも太陽が没したようにイエスはこの時を限りとしてユダヤ人の目より離れ給い、今後は唯弟子たちのみに語り給うた。▲20−36節はイエスの死と復活に関する大宣言であった。

12章37節 かく(おほ)くの(しるし)人々(ひとびと)(まへ)におこなひ(たま)ひたれど、なほ(かれ)(しん)ぜざりき。[引照]

口語訳このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。
塚本訳(以上のように、)イエスはこんなに多くの徴[奇蹟]を人の見ている前で行われたが、人々は彼を信じなかった。
前田訳これほど徴を彼らの前で行なわれたのに彼らはイエスを信じなかった。
新共同このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。
NIVEven after Jesus had done all these miraculous signs in their presence, they still would not believe in him.
註解: イエスの徴はヨハネ伝に記される六つの奇蹟に限られていなかった(ヨハ7:30ヨハ20:30)。これをもなお信ぜざりしユダヤ人の不信の罪は大であった。▲▲病を(いや)されパンを与えられることをば熱心に求めながら、イエスを信じ彼に(つか)えようとする者は少ない。

12章38節 これ預言者(よげんしゃ)イザヤの(ことば)成就(じゃうじゅ)せん(ため)なり。(いは)く『(しゅ)よ、(われ)らに()きたる(ことば)(たれ)(しん)ぜし。(しゅ)御腕(みうで)(たれ)にあらはれし』[引照]

口語訳それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。
塚本訳預言者イザヤの言葉が成就するためであった。──〃主よ、だれがわたし達に聞いたことを信じましたか。だれが主の御腕(の偉大な力)を認めましたか。〃
前田訳それは預書者イザヤのことばが成就するためであった。いわく、「主よ、だれがわれらに聞いたことを信じましたか。だれに主のみ腕が示されましたか」と。
新共同預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」
NIVThis was to fulfill the word of Isaiah the prophet: "Lord, who has believed our message and to whom has the arm of the Lord been revealed?"
註解: イスラエルの不信は神の預言し給える処であり、これが成就せんがためであった。すなわち一方ユダヤ人の自由意思によりイエスを拒んだことが、すなわち他方より見れば神の予定の成就となったのである。イザ53:1のこの引用はイエスに関する大預言(イザ53:1−12)の前置であって、ここでは「我らに聞きたる言」は使徒らの言を示し、「主の御腕」はイエスの力によるその奇蹟を示す。すなわち使徒等の言をイスラエルは信ぜず、主の奇蹟を彼らは受けなかった。

12章39節 (かれ)らが(しん)()ざりしは()(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳こういうわけで、彼らは信じることができなかった。イザヤはまた、こうも言った、
塚本訳(そして)人々が信じ得なかったのは、イザヤがさらにこう言っているからである。──
前田訳それゆえ彼らは信じえなかった。またイザヤはいった、
新共同彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
NIVFor this reason they could not believe, because, as Isaiah says elsewhere:
註解: 彼らは信ぜざりのみならず、信じ得なかったのである。「此の故」は前を受けて次に、その理由を詳述する意。ヨハ10:17辞解を見よ。

(すなは)ちイザヤまた()へらく、

12章40節 (かれ)らの()(くら)くし、(こころ)頑固(かたくな)にし(たま)へり。これ()にて()(こころ)にて(さと)り、ひるがへりて、(われ)(いや)さるる(こと)なからん(ため)なり』[引照]

口語訳「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。
塚本訳〃主は彼らの目を見えなくし、その心を頑なにされた。これは彼らが目で見、心で解り、心を入れかえて、わたし(主キリスト)に直されないようにするためである。〃
前田訳「主は彼らの目を目しいにし、彼らの心を頑にされた。これは彼らが目で見ず、心で悟らず、心を転ぜず、わたしが彼らをいやすことのないためである」と。
新共同「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
NIV"He has blinded their eyes and deadened their hearts, so they can neither see with their eyes, nor understand with their hearts, nor turn--and I would heal them."
註解: 彼らの信じ得なかったのは神がこれを預言し給えるのみならず(38節)、またこれを予定し給えるがためであった。すなわちイザヤの言えるごとく神は彼らの霊の眼を暗くし、心を頑固にし給うた。キリストによりて(M0)醫されざらんがためである。予定と個人の自由意思の関係につきてはロマ9−11章殊にロマ9:14−33註参照。▲37−40節はイザヤの預言を多く引用し、神に対する人間の反逆の執拗さを示す。神は人間のこの反逆心をその赴くままに放任し給うた。これが予定説の意味である。神が好んで人をかく為したのではない。40節はこれを強意的に表示したものである。
辞解
この引用はイザ6:9、10よりの引用であってヘブル語の原書とは異なり、七十人訳とも少しく異なっている。ヨハネはこれを自由に引用したのである。

12章41節 イザヤの()()へるは、その榮光(えいくわう)()(ゆゑ)にて、イエスに()きて(かた)りしなり。[引照]

口語訳イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。
塚本訳イザヤがこう言ったのは、(ウジヤ王の死んだ年に)彼[主キリスト]の栄光を見たからである。すなわちイザヤはキリストのことを言ったのである。
前田訳こうイザヤがいったのは、彼(キリスト)の栄光を見て彼について語ったのである。
新共同イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。
NIVIsaiah said this because he saw Jesus' glory and spoke about him.
註解: 神はイザヤに受肉前のイエス(ヨハ8:56Tコリ10:4ピリ2:6)を示し、イザヤは彼を見、彼について語ったのである。神にとっては凡ての過去も凡ての未来も現在の事実である。

12章42節 されど(つかさ)たちの(うち)にもイエスを(しん)じたるもの(おほ)かりしが、パリサイ(びと)(ゆゑ)によりて()(あらは)すことをせざりき、除名(じょめい)せられん(こと)(おそ)れたるなり。[引照]

口語訳しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。
塚本訳とは言え、(最高法院の)役人たちのうちにも、彼を信じた者が多かった。ただパリサイ人をはばかって、(公然)それを告白しなかった。礼拝堂追放にされるのをおそれたのである。
前田訳それにもかかわらず、司たちの中にも彼を信じたものが多かった。しかしパリサイ人をおそれて告白しなかった。会堂から追放されないためであった。
新共同とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。
NIVYet at the same time many even among the leaders believed in him. But because of the Pharisees they would not confess their faith for fear they would be put out of the synagogue;
註解: 全国民としてはイスラエルはイエスを拒んだけれども個人としては彼を信ずる者あり、また「司たちの中にも」有った。ただし最も有力者なる司たちは、その地位を失わんことを恐れてこの信仰を告白しなかった。意気地なき人々よ、彼らの良心は常にこれがために責められていたことであろう。されどイエスはなお彼らを赦し容れ給うた(ヨハ19:38、39参照)。
辞解
[司] 衆議所の議員で多くはパリサイ派に属していた。

12章43節 (かれ)らは(かみ)(ほまれ)よりも(ひと)(ほまれ)(あい)でしなり。[引照]

口語訳彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。
塚本訳彼らは神からの名誉よりも、人間からの名誉の方を愛したのである。
前田訳彼らは神の誉れよりも人の誉れを好んだのである。
新共同彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。
NIVfor they loved praise from men more than praise from God.
註解: 神より誉められることよりも人より誉められることを好むキリスト者は今日も多く存在する。同様に神の栄光を求めずして己の安逸を求め、神の喜びを求めずして人の好意を求め、神の審判を恐れずして人の批難を恐れることは愚かなことである。もし人常に神を見つめるならばその心はかかる弱さに陥らないであろう(マタ10:32、33。使4:19使5:29)。
要義 [イスラエルの不信と神の経綸]ヨハネ伝記者はここに以上十二章の要約としてイスラエルの不信につきて論じ、これをギリシャ人の求道者(20節)に対立せしめて、福音が異邦人に及ぶことを示した。この問題はパウロが論じている問題であって(ロマ書9-11章)、ユダヤ人の不信はかえって福音が異邦人に及ぶ原因となったのである(使13:46−48、使18:6ロマ11:11)。ここに使徒ヨハネはこの問題に深く立入らないけれど、大体においてこれと同一の思想をここに陳述しているのである(ヨハネとパウロの一致はここにも明らかにこれを認めることができる。)ゆえにこの問題についてはさらにパウロの諸書簡、使徒行伝等を参照すべし。

4-1-5-ロ ユダヤ人に対するイエスの叫び 12:44 - 12:50

12章44節 イエス(よば)はりて()(たま)ふ『われを(しん)ずる(もの)(われ)(しん)ずるにあらず、(われ)(つかは)(たま)ひし(もの)(しん)じ、[引照]

口語訳イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、
塚本訳(つまり)イエスはこう言って叫ばれた、「わたしを信ずる者は、わたしを信ずるのではない、わたしを遣わされた方を信ずるのである。
前田訳イエスは叫んでいわれた、「わたしを信ずるものは、わたしをでな<、わたしをつかわされた方を信じ、
新共同イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。
NIVThen Jesus cried out, "When a man believes in me, he does not believe in me only, but in the one who sent me.

12章45節 (われ)()(もの)(われ)(つかは)(たま)ひし(もの)()るなり。[引照]

口語訳また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。
塚本訳また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
前田訳わたしを見るものはわたしをつかわされた方を見る。
新共同わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
NIVWhen he looks at me, he sees the one who sent me.
註解: 本節以下50節に至るまでをイエスが大声にて叫び給える所以は、ユダヤ人の不信または薄信を責めて、強くイエスの何たるかを聴く者の心に印象せしめんがためであって、従来種々の場合にイエスの言い給いしことの反復要約である。イエスは最も重要なる結論としてこれを彼らに与え給うたのである。すなわちイエスを信ずることは一人の人間を信ずるに非ずして神を信ずることであり、イエスを見て真に彼を知る者は単に一人の人を知るにあらずして神を知るのである。イエスは実に神に在し給う。イエスによらずして我ら神を信じ、また彼を見ることができない。かくして神がイエスにおいて完全に御自身を示し給いしことは感謝すべきことである。なお引照の外44節についてはヨハ7:16ヨハ5:19ヨハ8:42参照。45節についてはヨハ8:19ヨハ14:10参照。(注意)この場合このイエスの言を聴き居る者はだれなるやにつきて諸説あり。(1)ユダヤ人が36節においてまさに去らんとする時彼らに向って呼び給えりとする説(B1、Z0)、(2)ヨハネがイエスの従前の御言の大体の要約をここに為せりとする説(M0)、(3)弟子たちに対するとする説などあり。第一の説を採る。

12章46節 (われ)[は](ひかり)[として]()(きた)れり、すべて(われ)(しん)ずる(もの)暗黒(くらき)()らざらん(ため)なり。[引照]

口語訳わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。
塚本訳わたしが光として世に来たのは、わたしを信ずる者はだれも、暗闇の中に留っていないようにするためである。
前田訳わたしが光として世に来たのは、わたしを信ずるものがだれも闇の中にとどまらないためである。
新共同わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
NIVI have come into the world as a light, so that no one who believes in me should stay in darkness.
註解: ヨハ8:12註および引照の箇所参照。44、45節がイエスの父と一つなる実体を示すとすれば、本節は光としてのその属性を示すものである。

12章47節 (ひと)たとひ()(ことば)をききて(まも)らずとも、(われ)(これ)(さば)かず。[引照]

口語訳たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。
塚本訳しかしわたしの言葉を聞いて守らぬものがあっても、わたしはその人を罰しない。なぜなら、わたしは世を罰するために来たのでなく、世を救うために来たのだから。
前田訳わがことばを聞いて守らぬものをも、わたしは裁かない。わたしが来たのは世を裁くためでなく、世を救うためであるから。
新共同わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
NIV"As for the person who hears my words but does not keep them, I do not judge him. For I did not come to judge the world, but to save it.
註解: 本節はキリストの使命を示す。キリストは現世においては彼らを(さば)き給わない(世の終末においては彼らを(さば)き給うことは勿論であるが)。ヨハ3:17a参照。▲31節に示すごとくイエスの死がかえって世を(さば)くこととなる。

(それ)わが(きた)りしは()(さば)かん(ため)にあらず、()(すく)はん(ため)なり。

12章48節 (われ)()()(ことば)()けぬ(もの)(には(これ))を(さば)(もの)あり、わが(かた)れる(ことば)こそ(をはり)()(これ)(さば)くなれ。[引照]

口語訳わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。
塚本訳(だが、)わたしを排斥し、わたしの言葉を受け入れない者を罰する者が(ほかに)ある。わたしが話した言葉、それが最後の日にその人を罰するのである。
前田訳わたしをしりぞけ、わがことばを受けぬものには、それを裁くものがある。わたしが語ったことばこそ終わりの日に彼を裁く。
新共同わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
NIVThere is a judge for the one who rejects me and does not accept my words; that very word which I spoke will condemn him at the last day.
註解: イエスは専ら世を救わんがために専心に働き給い、そのために十字架にさえ()き給うた。しかしながらこれを見て人類は終末の審判を免れたと思ってはならない。イエスの語り給える言すなわち福音そのものが彼らを審判(さば)くに充分である。その故は次節の説明によりて明らかである。ゆえにイエスの言を信ぜざるものはこれによりて(さば)かれる。ヨハ5:45、46には旧約聖書によりて不信者は(さば)かるべきことを示し、ここにはイエスの御言すなわち新約聖書が終りの日に我らを審判(さば)くことを教え給うた。我ら顧みなければならない。

12章49節 (われ)はおのれに()りて(かた)れるにあらず、(われ)(つかは)(たま)ひし(ちち)みづから、()()ふべきこと(かた)るべきことを(めい)(たま)ひし(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。
塚本訳わたしは自分勝手に話したのではない。わたしを遣わされた父上が、何を言い、何を話すべきかを命じられたのである。
前田訳わたしは自分から語ったのではない。わたしをつかわされた父ご自身がわたしに何をいい、何を語るべきかをいいつけられた。
新共同なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。
NIVFor I did not speak of my own accord, but the Father who sent me commanded me what to say and how to say it.
註解: ヨハ7:16ヨハ8:28ヨハ8:38ヨハ14:24参照。父の命によりてイエスの語り給える言を受けざる者はすなわち父の命に背くものであって、当然審判(さば)かれなければならない。ゆえにイエスを信ぜざるものは単にイエスなる一人の人を信ぜざるにあらず神を信じないのであって、恐るべき運命に陥らなければならない。

12章50節 (われ)その命令(めいれい)永遠(とこしへ)生命(いのち)たるを()る。[引照]

口語訳わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。
塚本訳わたしは父上のこの命令が永遠の命であることを知っている。だからわたしが話していることは、父上の言われたことと寸分ちがわないのである。」
前田訳わたしは知る、彼のいいつけは永遠のいのちと。わが語ることは、父がわたしにいわれたとおりに語るそのことにほかならない」と。
新共同父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」
NIVI know that his command leads to eternal life. So whatever I say is just what the Father has told me to say."
註解: 神の言には生命あり(ヨハ1:4Tヨハ1:2)。イエスはこの永遠の生命の言をもち給う(ヨハ6:63ヨハ6:68ヨハ8:51)。

されば(われ)(かた)るに()(ちち)(われ)()(たま)ふままを(かた)るなり』

註解: イエスの御言は父の御言のままである。ゆえにこれを受けぬ者はこの言によりて(さば)かれ(48節)、これを受くるものはこの言によりて永遠の生命を獲得する。
要義 [イエスの「我れ」]44節以下においてイエスは「我」なる語を殊に多く繰返し給うた。完全なる権威をもって自己を他人の前に呈出し得る者は唯イエスのみである。イエスはその本質においても(44、45節)その属性においても(46節)、その使命においても(47節)、その言においても(48−50節)みな父なる神の代表であった。ゆえにイエスが「我」と言い給いし時、我らは神自ら語り給うことを信ずることができる。このイエスに完全なる神の御姿を見得る者は幸いである。

ヨハネ伝第13章
4-1-6 イエス弟子の足を洗い給う 13:1 - 13:17
4-1-6-イ 洗足の動機 13:1 - 13:3

註解: 前章をもってユダヤ人の不信の歴史は終りを告げ、これよりイエスはその少数の弟子に対してその愛を示し(13章)、その深き愛より流れ出でし最後の教訓を与え(14−16章)、最後に天の父に対する感謝と祈りを捧げ給うた(17章)。これイエスの死に対する準備であって、その死に先立ちて弟子たちの信仰を固め、彼らに必要なる凡ての教訓を与え給うた。この部分は山上の垂訓と対照して聖書中の最も貴重なる宝石である。

13章1節 過越(すぎこし)のまつりの(まへ)に、イエスこの()()りて(ちち)()くべき(おの)(とき)(きた)れるを()り、()()(おのれ)(もの)(あい)して、(きはみ)まで(これ)(あい)(たま)へり。[引照]

口語訳過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
塚本訳過越の祭の前、イエスはこの世から父上の所に移ってゆく時が(ついに)来たことを知って、この世で愛された弟子たちを、最後の瞬間まで愛しぬかれた。──
前田訳過越の祭りの前に、イエスは、彼の時が来て世から父へと移るべきことを知り、世にあるおのがものを愛して、彼らを最後まで愛しつくされた。
新共同さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
NIVIt was just before the Passover Feast. Jesus knew that the time had come for him to leave this world and go to the Father. Having loved his own who were in the world, he now showed them the full extent of his love.
註解: 過越のまつり(マタ26:30要義参照)は過越の食(ニサンの月の14日)と除酵祭(マタ26:17マコ14:12、ニサンの月の15−21日)の双方を併せて呼ぶゆえに「過越のまつりの前」とは過越の食の始まる前すなわち14日夕刻を意味する(ただしこれを13日と解する節が多くある。なおヨハ19:42[19章末尾の]附記参照)。イエスの心はその十字架と昇天の時近きを知り、己世を去りて後に「世にある」すなわち世に残されるその弟子たちおよびその後に来るべき凡てのキリスト者のことにつき憂慮し給い、彼の愛をさらに無限に延長して、世の終りにおいて彼が再び来給う時まで、変らざるその愛をもって彼らを愛し給うた。すなわちイエスは復活昇天の後もこの愛により中保者として彼らのために執成し給う。この一節は十三章以下全部を包含する要約であり、而して洗足の事蹟(4−17節)は、その本来の意味と共になお昇天し給える後のイエスの執成しの御業の型と見ることができる。
辞解
[己の時] 十字架の死と復活昇天の時、なお引照参照。
[極まで] eis telos は多くは「イエスの死まで」と解し、または「非常に」の意味に解するけれどもここではマタ20:22マタ24:13マコ13:13Uコリ3:13Tテサ2:16のごとく「最後まで」「永遠に」「徹底的に」の意味であろう(H0)。而してこの愛は洗足や十字架のみ(H0)ではなく、復活後の執成(とりな)しにまで及んでいると解すべきであろう。

13章2節 夕餐(ゆふげ)のとき、惡魔(あくま)(はや)くもシモンの()イスカリオテのユダの(こころ)に、イエスを()らんとする(おもひ)()れたるが、[引照]

口語訳夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、
塚本訳(祭の前日の)夕食のとき、すでに悪魔はシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを売ろうとする考えを吹き込んだ。
前田訳夕食になると、すでに悪魔がシモンの子イスカリオテのユダの心にイエスにそむくという考えを吹き込んだ。
新共同夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
NIVThe evening meal was being served, and the devil had already prompted Judas Iscariot, son of Simon, to betray Jesus.
註解: イエスが切にその弟子を愛し居給うその時悪魔がユダの心の愛なきに乗じて彼を誘った。一方キリストはその弟子たちを終りまで愛し、十字架の死をも味わんとし給うに際して、他方悪魔はこのイエスを売らんとの思いをその弟子の一人に入れたのである。愛と憎、光明と暗黒とは常に著しき対照をなすものである。この夕餐は最後の晩餐であった。マタ26:20以下等に記されるものと同一である。ヨハネ伝によれば過越の食は未だ行われざるもののごとくに見えるけれども (ヨハ13:29ヨハ18:28ヨハ19:14ヨハ19:31) 必ずしも然らず(各当該節註参照)。他の三福音書はこの最後の晩餐が過越の食であったことを明らかに録している。この間の問題につきてはヨハ19:42(19章末尾)の附記参照。

13章3節 イエス(ちち)萬物(ばんぶつ)をおのが()にゆだね(たま)ひしことと、(おのれ)(かみ)より()でて(かみ)(いた)ることを()り、[引照]

口語訳イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、
塚本訳イエスは、父上が一切のものを自分の手におまかせになっていること、また自分が神のところから出てきて、(今また)神に帰ってゆく(身の上である)ことを知りながら、
前田訳イエスは、父がすべてをその手にゆだねられたこと、神から出て神へ帰ることを知りながら、
新共同イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
NIVJesus knew that the Father had put all things under his power, and that he had come from God and was returning to God;
註解: キリストはその死後に受くべき権力と栄光とを知り給うた。すなわちやがてはその権力の中に万物を保持し(マタ28:18ヨハ3:35マタ11:27)神の右に坐してその権を握り給うことを知った。而して彼は神の右に坐して常に彼を信ずる者のために執成(とりな)し給うべきことを思い給うた。このことを最も適切なる型をもって示さんとして彼は弟子たちの足を洗い給うたのである。すなわちキリストはこれによってその極端なる謙遜を示し給うと同時に、彼は今日もなお神の右に在しキリスト者の日々の歩みの汚穢を洗い給うことを表明している。本節と次節以下との連絡はかく解することによりて最も滑らかとなる。普通イエスの洗足の意義を唯イエスの謙遜とのみ解せんとする人は「知り」を「知るにもかかわらず」との意に解せんとするけれども文法上無理である。

4-1-6-ロ 洗足の行為と其の意義 13:4 - 13:11

13章4節 夕餐(ゆふげ)より()ちて上衣(うはぎ)をぬぎ、手巾(てぬぐひ)をとりて(こし)にまとひ、[引照]

口語訳夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
塚本訳夕食の席から立って、上着をぬぎ、手拭を取って腰に巻かれた。
前田訳夕食の席から立ちあがって上着を脱ぎ、手拭を取って体に巻かれた。
新共同食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
NIVso he got up from the meal, took off his outer clothing, and wrapped a towel around his waist.

13章5節 (つい)(たらひ)(みづ)をいれて、弟子(でし)たちの(あし)をあらひ、(まと)ひたる手巾(てぬぐひ)にて(これ)(ぬぐ)ひはじめ(たま)ふ。[引照]

口語訳それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
塚本訳それから盥に水を入れて、ひとりびとり弟子たちの足を洗っては、(腰に)巻いた手拭で拭き始められた。
前田訳それから盥(たらい)に水を入れ、弟子たちの足を洗っては巻いた手拭でふきはじめられた。
新共同それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
NIVAfter that, he poured water into a basin and began to wash his disciples' feet, drying them with the towel that was wrapped around him.
註解: 当時の習慣として食前に足を洗うのを常としていた。而してこれ奴隷の仕事であった。万物を支配し給う神の子イエスが愛のゆえに奴隷の務めを行い給うことはいかに弟子たちを感動せしめたことであろうか。而して、これこの席のみの事実ではなく、イエスが肉身となりてこの世に来給えること、而して十字架の死を遂げ給えることはみなこの愛より出でし自己犠牲の行為であった(ピリ2:6−8)。而して神の右に在し今も活き給うイエスは、今もなお天に在して我らの足の汚れを洗い給う。

13章6節 かくてシモン・ペテロに(いた)(たま)へば、(かれ)いふ『(しゅ)よ、(なんぢ)わが(あし)(あら)(たま)ふか』[引照]

口語訳こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
塚本訳こうしてシモン・ペテロの所まで来られると、ペテロが(こばんで)言う、「主よ、わたしの足を、あなたが洗われるのですか。」
前田訳そうしてシモン・ペテロまで来られると、ペテロがいった、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いですか」と。
新共同シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
NIVHe came to Simon Peter, who said to him, "Lord, are you going to wash my feet?"
註解: ペテロを第一に洗い給わなかったことは明らかであるが、いずれの弟子を先にしたかは不明である。ペテロは恐怖と疑惑のあまりこの質問を発した。彼の率直なる性質がここにも発露している。キリストの愛による謙遜(受肉と十字架の死)はその意義あまりに深くして肉の心はこれを理解することができない。ペテロもその一人であった。ペテロが惑える謙遜の心持は尊い心持ではあるが、神の為し給うままに従順に服従することは一層尊い心持である。我らの罪のためにキリスト十字架に()き給うことも我らの理解を超越する。されどこれを疑わずして受くるものはその恵みに与ることができる。

13章7節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『わが()すことを(なんぢ)いまは()らず、(のち)(さと)るべし』[引照]

口語訳イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
塚本訳イエスが答えて言われた、「わたしが何をしているのか、いまはあなたにわからない。(わたしがいなくなった)あとでさとるだろう。」
前田訳イエスが答えられた、「わたしのすることは今はあなたにわからない。あとで悟ろう」と。
新共同イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
NIVJesus replied, "You do not realize now what I am doing, but later you will understand."
註解: 神の我らに語り給う御言、為し給う御業の意義をその時直ちに解し得なくとも、我らはこれに服従すべきである(36節)。主は後に悟りを与え給うであろう。12−17節においてイエスは弟子たちにこの意義を説明し給うた。ただこれがその意義の凡てを尽くしていると考える必要はない(C1、T0)。

13章8節 ペテロ()ふ『永遠(とこしへ)()(あし)をあらひ(たま)はざれ』[引照]

口語訳ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
塚本訳ペテロが言う、「わたしの足は、いつまでも絶対に洗わないでください。」イエスは答えられた、「わたしが(足を)洗ってやらないなら、あなたはわたしとなんの関係もない人だ。」
前田訳ペテロはいう、「わたしの足はいつまでも決して洗わないでください」と。イエスは答えられた、「わたしが洗わないなら、あなたはわたしの仲間ではない」と。
新共同ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
NIV"No," said Peter, "you shall never wash my feet." Jesus answered, "Unless I wash you, you have no part with me."
註解: 強き拒絶である。神を畏れるのあまり、その憐憫を拒絶することは大なる罪である。神は己を畏れると共に己の憐憫を望む者を好し給う(詩147:11)。我らは畏れをもって神の憐憫を凡て受くべきである。また自己の汚穢をイエスによりて潔められる必要を感ぜざる者は高慢の罪に陥っている者である。かかる者はイエスの恩恵に与ることができない。
辞解
[永遠に] 強き否定の場合に用いられる。例えばTコリ8:13

イエス(こた)(たま)ふ『(われ)もし(なんぢ)(あら)はずば、(なんぢ)われと關係(かかはり)なし』

註解: 我らは日毎に犯す我らの罪をイエスによりて洗い潔められることが必要である(Tヨハ1:9)。イエスの愛と義とはこのことを要求し給う。もしこれを拒むならば我らはイエスに連なりて一体となることができない。このことをイエスは弟子たちの足を洗うことの型をもって示し給うた。ゆえにこのイエスの行動には12−17節の説明以上に深き意義を含んでいることを見ることができる。今日もイエスは神の右にありて同じ愛をもって我らの足を洗い、我らのために執成し給う(ロマ8:34ヘブ7:25ヘブ9:24Tヨハ2:1)。▲イエスの洗足を拒むことはその十字架を拒むことである。十字架は我らの全身を潔めるための入浴である。

13章9節 シモン・ペテロ()ふ『(しゅ)よ、わが(あし)のみならず、()をも(かしら)をも』[引照]

口語訳シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
塚本訳シモン・ペテロがうろたえて言う、「主よ、(それでは、)足だけでなく、手も、頭も。」
前田訳シモン・ペテロはいう、「主よ、足だけでなく手も頭も」と。
新共同そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
NIV"Then, Lord," Simon Peter replied, "not just my feet but my hands and my head as well!"
註解: 極端より極端まで一瞬間に移り行くペテロの性格がここにも顕われている。ペテロはイエスと離れることが何よりも大なる苦痛であった(ヨハ6:68)。ゆえに前節の主の御言におどろけるあまりこの答を発したのであった。而してこの答が次節の主の説明のごとき不信仰を意味することを彼自身は考えなかったのである。

13章10節 イエス()(たま)ふ『すでに(よく)したる(もの)(あし)のほか(あら)ふを(えう)せず、全身(ぜんしん)きよきなり。[引照]

口語訳イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。
塚本訳イエスが言われる、「(一度)湯浴みした者は、(あとでよごれた)足のほかは洗う必要はない、全身が清いのだから。(もう)あなた達は清い。だが、(あなた達)みんながそうではない。」
前田訳イエスはいわれる、「湯あみしたものは足のほか洗う必要はない、全身が清いから。あなた方は清い、皆ではないが」と。
新共同イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
NIVJesus answered, "A person who has had a bath needs only to wash his feet; his whole body is clean. And you are clean, though not every one of you."
註解: キリストを信ずる者は新たに生れたものであってその表徴なるバプテスマの示すがごとく、すでに全身潔められている者である。イエス・キリストに在る者は全く潔き新たなる生命である(Uコリ5:17ヘブ10:14ヘブ10:18)。ゆえに再び全身を潔める必要がない。唯その日々の歩みにおいてその足に塵を受け、罪に陥り汚れを受くることは有り得るのであって、これをキリストによりて潔められることが必要である。この二者の区別はこれを明らかにしなければならない。

()(なんぢ)らは(きよ)し、されど(ことご)とくは(しか)らず』

13章11節 これ(おのれ)()(もの)[の(たれ)なる]を()りたまふ(ゆゑ)に『ことごとくは(きよ)からず』と()(たま)ひしなり。[引照]

口語訳イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。
塚本訳イエスは自分を売る者(がだれであるか)を知っておられた。それで、「みんなが清いのではない」と言われたのである。
前田訳彼はそむくものを知っておられた。それゆえ、皆が清いのではないといわれたのである。
新共同イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
NIVFor he knew who was going to betray him, and that was why he said not every one was clean.
註解: 弟子たちはみなイエスに対する信仰によりて全身を潔められし人々であった。今またその足を洗われて彼らは全く潔い者となった。我らが審判の日に神の前に立つ時はかくのごとき姿においてするのである。イエスはユダが彼を売らんとするを知り給いて「悉くは潔からず」と宣い彼をして悔改めしめんとし給うた。
要義 [罪の赦しと個々の罪の潔め]キリスト者はキリストの贖罪によって罪の根を断ち、全く潔きものとして新たに生れ、悪魔に仕うることをやめてキリストに仕うる者となったのである。この意味において彼は全く潔い者である。唯肉の性質はなお彼に附帯しているのであって、彼は肉に従う者にあらず霊に従う者であるけれども肉の力は悪魔の利用する処となりて彼をして個々の罪に陥らしむるのである。ゆえに我らにとりて助け主キリストが必要であり、キリスト我らのために執成しをなし個々の罪より我らを潔め給うのである。この真理はキリスト者によりても種々に誤解せらる。(1)或はいつまでも全身を洗われんことをのみ(こいねが)うことが信者の本分なりとするもの、(2)或は全身の洗われしことのみ知りて個々の罪すなわち汚れし足を洗われる必要を忘れるもの、(3)或は全身は勿論足も潔くなり、すなわち個々の罪をも犯さざるに至れりと信じてキリストの執成しを必要とせざるもの等であっていずれも誤っている。

4-1-6-ハ 洗足につき弟子たちを教え給う 13:12 - 13:17

13章12節 (かれ)らの(あし)をあらひ、(おの)上衣(うはぎ)をとり、(ふたた)(せき)につきて(のち)いひ(たま)ふ『わが(なんぢ)らに()したることを()るか。[引照]

口語訳こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。
塚本訳さて、みんなの足を洗い終ると、上着を着てふたたび席について、言われた、「いまわたしは何をあなた達にしたか、(そのわけ)がわかるか。
前田訳彼らの足を洗い終え、上着を着、ふたたび席についていわれた、「わたしがあなた方にしたことがわかるか。
新共同さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
NIVWhen he had finished washing their feet, he put on his clothes and returned to his place. "Do you understand what I have done for you?" he asked them.
註解: この時までイエスはその行為について説明を与え給わなかった。弟子たちの心はみな驚駭と不審とに充たされていたことであろう。かかる心の状態に向って与えられる教訓は最も有効である。

13章13節 なんぢら(われ)()また(しゅ)ととなふ、()()ふは(うべ)なり、(われ)(これ)なり。[引照]

口語訳あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。
塚本訳あなた達はわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいるが、そう言うのは正しい。その通りだから。
前田訳あなた方はわたしを先生とか主とか呼ぶ。それは正しい。わたしはそのとおりだから。
新共同あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
NIV"You call me `Teacher' and `Lord,' and rightly so, for that is what I am.
註解: イエスはまず弟子たちに対する己の地位につき明らかにし給う。しかもこれ神の国の「師」または「主」はこの世のそれらとは異なることを示さんがためであった。▲この世の「師」や「主人」は僕の足を洗うことをしない。

13章14節 (われ)(しゅ)また()なるに、(なほ)なんぢらの(あし)(あら)ひたれば、(なんぢ)らも(たがひ)(あし)(あら)ふべきなり。[引照]

口語訳しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。
塚本訳してみると、主であり先生であるこのわたしが足を洗ってやったのだから、あなた達も互に足を洗う義務がある。
前田訳それで、わたしが主として先生としてあなた方の足を洗ったゆえに、あなた方も互いに足を洗うべきである。
新共同ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
NIVNow that I, your Lord and Teacher, have washed your feet, you also should wash one another's feet.
註解: 神の国においては自らを(ひく)くするものは高くされることをイエスは実行をもって示し給い、弟子たちもかく行うべきことを命じ給うた。而してこの謙遜は愛をもって他人の罪を負い給いしイエスに倣う意味であって、弟子たちも互に愛をもて他人に仕え、他人の罪を己が身に負いてこれを潔むることが必要であることを示し給うたのである。もしイエスが今もなお神の右に在して我らの足の塵を洗い給うことを深く思うならば我らも彼に倣うことができるであろう。

13章15節 われ(なんぢ)らに模範(もはん)(しめ)せり、わが()ししごとく(なんぢ)らも()さんためなり。[引照]

口語訳わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。
塚本訳わたしがしてやったとおりあなた達もするようにと、手本を示したのである。
前田訳わたしがあなた方にしたようにあなた方もするようにと、摸範を示した。
新共同わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
NIVI have set you an example that you should do as I have done for you.
註解: 第四世紀以来本節に従い洗足がカトリック教会の儀式の一つになっていた。キリストは深くこれを忌み給うであろう。(▲我らの日常生活の信仰的道徳的教訓の数々が簡単な儀式や形式に化してしまい、この形式の実行が信仰や道徳そのもの以上に重視されることは信仰の堕落である。洗礼式、晩餐式みな然り。)イエスのこの御言は勿論イエスの愛と謙遜との行為を為せよとの意味であった。またイエスの昇天後今日まで為し給うことを型をもって示し給うたのであった。活けるキリストに連なるキリスト者は常に彼のごとくに行うべきである。

13章16節 (まこと)にまことに(なんぢ)らに()ぐ、(しもべ)はその(しゅ)よりも(おほい)ならず。(つかは)されたる(もの)(これ)(つかは)(もの)よりも(おほい)ならず。[引照]

口語訳よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。
塚本訳アーメン、アーメン、わたしは言う、僕はその主人よりもえらくはない。また使は本人よりもえらくはない。(だからわたしを真似るがよい。)
前田訳本当にいう、僕は主人より偉くはなく、使いはつかわす人より偉くはない。
新共同はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
NIVI tell you the truth, no servant is greater than his master, nor is a messenger greater than the one who sent him.
註解: この句はイエスのしばしば用い給える句であって(ヨハ15:20マタ10:24)キリストとその弟子とは同一の運命を持ち、また同一の責任を有つことを示している。その関係は主人と僕、遣わす者と遣わされたる者との関係と同一であって、キリストすら弟子の足を洗う犠牲の生涯を送り給う以上、弟子はこれを思いて益々自己を(ひく)くしなければならない。

13章17節 (なんぢ)()これらの(こと)()りて(これ)(おこな)はば幸福(さいはひ)なり。[引照]

口語訳もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。
塚本訳このことがわかったなら、そのとおりにすれば、幸いである。
前田訳これがわかって、そのとおりすれば、あなた方はさいわいである。
新共同このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
NIVNow that you know these things, you will be blessed if you do them.
註解: 知と行とは相伴わなければならぬ。而して互に足を洗うことは一見人を不快ならしむる厄介な仕事のようであるけれども然らず、人はこれによりて、否これによりてのみ真に幸福となることができる。

4-1-7 イエス、ユダの反逆を指示し給う 13:18 - 13:30

13章18節 これ(なんぢ)(すべ)ての(もの)につきて()ふにあらず、(われ)はわが(えら)びたる(もの)どもを()る。されど聖書(せいしょ)に「(われ)とともにパンを(くら)(もの)、われに(むか)ひて(きびす)()げたり」と()へることは、[(かなら)ず]成就(じゃうじゅ)すべきなり。[引照]

口語訳あなたがた全部の者について、こう言っているのではない。わたしは自分が選んだ人たちを知っている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』とある聖書は成就されなければならない。
塚本訳(幸いであると言っても、)あなた達みんながそうだと言うのではない。どんな人を(弟子に)選んだか、わたしは(始めから)知っている。(中には不心得な者もあるようだ。)しかしそれは、〃(いつも一しょに)わたしのパンを食べる(親しい)者が、踵をあげてわたしを蹴飛ばした〃という聖書の言葉が成就するためである。
前田訳あなた方の皆についていうのではない。わたしはだれを選んだかを知っている。しかしそれは、『わがパンを食べるものが踵(かかと)をあげて去った』とある聖書が成就するためである。
新共同わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。
NIV"I am not referring to all of you; I know those I have chosen. But this is to fulfill the scripture: `He who shares my bread has lifted up his heel against me.'
註解: しかしながら前節の幸福を享有する者は彼らの全部ではない。愛なき高ぶりのためにこの幸福を失う者がある。それはユダであった。イエスはその選び給いし使徒たち(ユダをも含む、ヨハ6:70)のいかなる人物なるかを(M0)知り給うた。それにもかかわらずユダのごときものをも選んだのは聖書の言の成就せんがために神の御旨に従い給うたのである。この引用は詩41:9よりの自由引用で、ダビデ(と称されている)の場合の事実すなわち最も親密なる者が叛逆者となったことがイエスに関する預言であったことを示している。
辞解
[我とともにパンを食ふ者] 食卓を共にする者の意味で親友を指す。
[踵を擧ぐ] 蹴ること、悪意ある暴行、すなわち叛逆を意味す。この部分は種々に解せらる。(1)『されど聖書の成就せんために「我とともにパンを食ふ者われに向いて踵を擧げたり」』、この訳はイエスが聖書をイエスの言の一部として引用し給いしこととなり他に例なし。(2)「我とともに・・・・・・擧げたり」なる聖書の成就せんために[このこと起れるなり]または[我は彼らを選べり]M0と訳す。すなわち[ ]内の語を補充する必要あり。予はこの中の最後の訳によった。改訳本文は適当ではない。▲▲18節後半を次のごとくに試訳したい、「されど聖書が成就せんが為に我と共にパンを食する者、我に向って踵を挙げたり」、引用の句がイエスの言の中に溶け込んだとする読み方。

13章19節 (いま)(より)その(こと)()らぬ(まへ)(これ)(なんぢ)らに()ぐ、(こと)()らん(とき)、わが(それ)なるを(なんぢ)らの(しん)ぜんためなり。[引照]

口語訳そのことがまだ起らない今のうちに、あなたがたに言っておく。いよいよ事が起ったとき、わたしがそれであることを、あなたがたが信じるためである。
塚本訳事のおこらない先に、いまから言っておく。事がおこった時に、わたしがそれ(救世主)であることをあなた達が信ずるためである。
前田訳今、事がおこる前にそれをいうのは、事がおこったときに、わたしがそれ(キリスト)であることをあなた方が信ずるためである。
新共同事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。
NIV"I am telling you now before it happens, so that when it does happen you will believe that I am He.
註解: もしイエスが予めこのことを弟子たちに告げ給わなかったならば、ユダの裏切りによりてイエスが付され給いし時、弟子たちはみなイエスのメシヤに在すことを疑ったであろう。今イエスがこのことを予告し給いしにより疑惑の原因が確信の原因となった(M0)。
辞解
[我のそれなるを] ヨハ8:24註参照。

13章20節 (まこと)にまことに(なんぢ)らに()ぐ、わが(つかは)(もの)()くる(もの)(われ)をうくるなり。(われ)()くる(もの)(われ)(つかは)(たま)ひし(もの)()くるなり』[引照]

口語訳よくよくあなたがたに言っておく。わたしがつかわす者を受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをつかわされたかたを、受けいれるのである」。
塚本訳アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしが遣わす者を受けいれる者は、わたしを受けいれるのであり、わたしを受けいれる者は、わたしを遣わされた方を受けいれるのである。」
前田訳本当にいう、わたしがつかわすものを受ける人はわたしを受け、わたしを受ける人はわたしをつかわされた方を受ける」と。
新共同はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
NIVI tell you the truth, whoever accepts anyone I send accepts me; and whoever accepts me accepts the one who sent me."
註解: マタ10:40註参照。弟子たちが互に相愛し、互に足を洗い合うならば、それはキリストを受くることであり、もし互の間に愛がないならばキリストをも受けない。而してキリストに叛くユダは結局神に叛くと同じく、相互に愛の行為を行わざるものは結局父を受けざる叛逆者となるのである。ゆえに愛は信仰の本質である。─ 本節と前節または後節の連絡は難解不明で種々の異説あり。
要義 [愛なき者はキリストに叛く]キリストに在りて兄弟を愛する者はこの愛の中に凡ての幸福と満足とを見出すことができ、これに反して愛なき者はユダのごとくにキリストの価値を疑い、自己の野心や慾望の支配する処となり、サタンに乗じられてついにキリストに叛くに至るのである。

13章21節 イエス(これ)()のことを()()へて、[(こころ)](御霊(みたま))さわぎ(あかし)をなして()(たま)ふ『まことに(まこと)(なんぢ)らに()ぐ、(なんぢ)らの(うち)一人(ひとり)われを()らん』[引照]

口語訳イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。
塚本訳こう言ったあと、イエスはひどく興奮して、(弟子たちに)はっきりこう言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、あなた達のうちの一人が、わたしを(敵に)売ろうとしている!」
前田訳こういわれると、イエスは心騒ぎ、断言された、「本当にいう、あなた方のひとりがわたしを売ろう」と。
新共同イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
NIVAfter he had said this, Jesus was troubled in spirit and testified, "I tell you the truth, one of you is going to betray me."
註解: いよいよユダの叛逆が近付いたのでイエスは御霊 pneuma の動揺を禁じ得なかった(「心」ではない。すなわち自己の死を恐れる人情的動揺ではなく不信を悲しむ宗教的動揺である)。サタンがその席に入り愛する弟子の一人を捕虜にせんとしている以上、イエスの御霊は擾乱(じょうらん)せられざるを得ない。一方父なる神の御旨には服従せざるべからず、一方その愛する弟子の一人が彼を敵に渡さんとしていること、イエスにとって堪え難き苦痛であった。ここにおいて血を吐くの思いをもってついに明らかに叛逆者について証し給うた。1018節には唯漠然とこのことを暗示し給い、今ここに一層明らかにこれを告げ給うた。

13章22節 弟子(でし)たち(たがひ)(かほ)()(あは)せ、(たれ)につきて()(たま)ふかを(いぶか)る。[引照]

口語訳弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた。
塚本訳弟子たちはだれのことを言われるのか見当がつかず、顔を見合わせていた。
前田訳弟子たちはだれのことをいわれるのかわからず、互いに顔を見あわせていた。
新共同弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。
NIVHis disciples stared at one another, at a loss to know which of them he meant.
註解: ヨハネはその当時のイエスの苦悶と弟子たちの憂慮に充てる顔つきをいつまでも目に浮かべることができたのであろう。

13章23節 イエスの(あい)したまふ一人(ひとり)弟子(でし)、イエスの御胸(みむね)によりそひ()たれば、[引照]

口語訳弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。
塚本訳一人の弟子がイエスの胸に寄り添って席についていた。イエスはこの弟子を(特別に)愛しておられた。
前田訳弟子のひとりがイエスのみ胸に近い席にいた。イエスは彼を愛しておられた。
新共同イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。
NIVOne of them, the disciple whom Jesus loved, was reclining next to him.
註解: ヨハネは一切自己の名を顕さず、ヨハネ伝全体を通して「イエスの愛し給う弟子」として己を呼んでいる(引照参照)。ただし「ヨハネ」は「神の恩恵」を意味し、イエスに愛されることの中にヨハネの名称が暗示せられている(B1)。

13章24節 シモン・ペテロ(かうべ)にて(しめ)し『(たれ)のことを()(たま)ふか、()げよ』といふ。[引照]

口語訳そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」。
塚本訳シモン・ペテロがその弟子に首で合図をして(ささやいて)言う、「だれのことを言っておられるのか、おしえてくれ。」
前田訳シモン・ペテロがその弟子に合図していう、「おっしゃるのはだれか、教えてくれ」と。
新共同シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。
NIVSimon Peter motioned to this disciple and said, "Ask him which one he means."
註解: 6節よりみるもペテロはイエスの近くに坐していなかったことがわかる。この光景は実に如実に描かれている。目撃者にあらざればかくこれを録すことは不可能であろう。

13章25節 (かれ)そのまま御胸(みむね)によりかかりて『(しゅ)よ、(たれ)なるか』と()ひしに、[引照]

口語訳その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、「主よ、だれのことですか」と尋ねると、
塚本訳それでその弟子は(うしろの)イエスの胸にもたれかかって、たずねる、「主よ、だれですか。」
前田訳そこで、その弟子はイエスのみ胸にもたれていう、「主よ、だれですか」と。
新共同その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、
NIVLeaning back against Jesus, he asked him, "Lord, who is it?"

13章26節 イエス(こた)(たま)ふ『わが一撮(ひとつまみ)食物(しょくもつ)(ひた)して(あた)ふる(もの)(それ)なり』[引照]

口語訳イエスは答えられた、「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。
塚本訳イエスが(彼に)答えられる、「わたしが一きれのパンをひたして渡すその人が、それだ。」それからパンを(汁に)ひたし、イスカリオテのシモンの子ユダに渡される。
前田訳イエスは答えられる、「わたしがパン一切れを浸して渡すその人がそれだ」と。それからパン一切れ浸し、取ってイスカリオテのシモンの子ユダにお渡しになる。
新共同イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。
NIVJesus answered, "It is the one to whom I will give this piece of bread when I have dipped it in the dish." Then, dipping the piece of bread, he gave it to Judas Iscariot, son of Simon.
註解: この問答は二人の間に小声に行われたのであろう、共観福音書にはこれを略す。食事の際家長は果実を葡萄酒をもって煮て作れるソースの中にパンを浸して客に与うる礼があった。これ友情を表示する意味である。親の愛は最も多く不良の子に注がれるごとく、イエスの愛は深くユダに注がれた。

かくて一撮(ひとつまみ)食物(しょくもつ)(ひた)して、シモンの()イスカリオテのユダに(あた)へたまふ。

註解: イエスはその万能力をもって強制的にユダをしてその計画を放棄せしめず、彼のこの一(つま)みの食を与うることによりてなおその愛を示し、それとなく悔改むべきことを促し給うた。ユダが悔改むべき機会はなお残っていたのである。

13章27節 ユダ一撮(ひとつまみ)食物(しょくもつ)()くるや、[引照]

口語訳この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。
塚本訳ユダがそのパンを受け取(って食べ)ると、その時、悪魔がユダに入った。そこでイエスがユダに言われる、「しようとしていることをさっさとしたがよかろう。」
前田訳パンをいただいたそのとき悪魔がユダに入った。そこでイエスが彼にいわれる、「することを早くせよ」と。
新共同ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。
NIVAs soon as Judas took the bread, Satan entered into him. "What you are about to do, do quickly," Jesus told him,
註解: これまで長い年月の間悪魔は外よりユダを誘い、ユダの心の中に或はイエスがメシヤに在すことを疑わしめ、或は彼の野心を刺激しつつあった。従ってこれまで彼の心中に強き闘いがあった。然るに今この最後の瞬間に悪魔はついにユダの心に入りてこれを占領し、彼をして断然イエスに(そむ)かしめたのである。我らはそれ故に常に意を注ぎて一歩も悪魔を心中に踏込ましめないことが必要である。
辞解
[ユダ一(つまみ)の食物を受くるや] 原文「一(つまみ)の食物の後直ちに」であって悪魔が彼の心に入ったのはその後である。

惡魔(あくま)かれに()りたり。イエス(かれ)()ひたまふ『なんぢが()すことを(すみや)かに()せ』

註解: イエスはこのユダの罪をも負うて速に十字架につき、父の御旨を成就せんことを望み給う。

13章28節 (せき)()きゐたる(もの)一人(ひとり)として、(なに)(ゆゑ)かく()(たま)ふかを()らず。[引照]

口語訳席を共にしていた者のうち、なぜユダにこう言われたのか、わかっていた者はひとりもなかった。
塚本訳しかしなんのためにこう言われたのか、食卓につく者のだれにもわからなかった。
前田訳同席のものは、イエスが何のためにこういわれたのか、だれもわからなかった。
新共同座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。
NIVbut no one at the meal understood why Jesus said this to him.
註解: イエスとヨハネとユダのみがこの意味を解していた(B1、L2、C1)。

13章29節 ある人々(ひとびと)は、ユダが財嚢(かねいれ)(あづか)るによりて『(まつり)のために(えう)する(もの)()へ』とイエスの()(たま)へるか、また(まづ)しき(もの)(なに)(ほどこ)さしめ(たま)ふならんと(おも)へり。[引照]

口語訳ある人々は、ユダが金入れをあずかっていたので、イエスが彼に、「祭のために必要なものを買え」と言われたか、あるいは、貧しい者に何か施させようとされたのだと思っていた。
塚本訳中には、ユダは金箱をあずかっているので、イエスは「祭に必要な物を買っておけ」とか、貧乏な人たちに何かやるように、とか言われるのだと思った者があった。
前田訳中には、ユダが金入れをあずかっていたので、イエスが祭りに要るものを買うようにとか、貧しい人に何かを与えるように、とかいわれたと思ったものもあった。
新共同ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。
NIVSince Judas had charge of the money, some thought Jesus was telling him to buy what was needed for the Feast, or to give something to the poor.
註解: もしユダがイエスを売らんがために席を立ちしことが明らかであったならば、ペテロのごとき弟子がおそらく彼を殺し兼ねまじき勢いを示したであろう。然るにこのことなしに神の御計画は進行した。ニサンの月の十四日も買物をすることは自由であった(S2)。急ぎユダが外出せるを見れば十五日にならぬ前に買物をしに行ったことと弟子たちが想像したのであろう。ゆえにこれを十三日と見るよりも十四日と見る方が事実に近い。

13章30節 ユダ一撮(ひとつまみ)食物(しょくもつ)()くるや、(ただ)ちに()づ、(とき)(よる)なりき。[引照]

口語訳ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。
塚本訳ユダはパンを食べると、すぐ出て行った。夜であった。(──そとは丸い月がかがやいていたが、ユダの心は真暗であった。)
前田訳ユダはパンをいただくとすぐ出て行った。夜であった。
新共同ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
NIVAs soon as Judas had taken the bread, he went out. And it was night.
註解: 暗黒は悪魔の世界であって悪魔の業を為すに適している。ユダはヨハ12:35の主の戒めに(そむ)いてついに暗黒に追及(おいつ)かれたのである。
要義1 [なぜ神はユダの反逆を用いてキリストを付し給いしか]キリスト凡ての人の罪を負うて十字架につき給うことは神の予定であった。ゆえにたといユダの叛逆なくともこのことが何らかの原因によりて行われたであろう。然るに神が特にユダの叛逆を利用し給いし所以は、イエスの最も愛する弟子の中にもなお最も深き堕落の危険が存することを示して、弟子たちならびにその後に来るべきキリスト者を警戒し、かつ人類の罪の深さは全く例外なしにいかなる階級の中にも存することを知らしめんがためであった。
要義2 [サタンは徐々に我らに働く]13:227。ユダの心の中にはすでに久しき以前よりキリストが果してメシヤなりや否や、彼が果してイスラエルをローマの束縛より脱せしむるや否や等に関する疑問をいだき、また時には彼自身の慾望野心が台頭し、イエスに従うことが果してこの慾望を充たし野心を遂げ得る所以であるかどうかを疑ったであろう。而してサタンはかかる機会に乗じて我らを誘い、ついに我らを捕囚にすると同じくユダをも捕囚にし、ついにイエスを付すに至ったのである。ゆえに我はサタンの第一歩に注意して彼をして一歩も我らの心に地歩を占めざらしむることが必要である。我らの心にキリストに関する疑問が起る時、またはこの世の富や美を慕う心が起る時、そこにサタンの乗ずる機会があるのであって、これがついにはサタンに全く占領される原因となり、恐るべき堕落の起因となるのである。

4-1-8 イエス栄光を予告し給う 13:31 - 13:35

13章31節 ユダの()でし(のち)、イエス()(たま)ふ『(いま)(ひと)()榮光(えいくわう)をう[く](けたり)、(かみ)(かれ)によりて榮光(えいくわう)をうけ(たま)[ふ](へり)。[引照]

口語訳さて、彼が出て行くと、イエスは言われた、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。
塚本訳ユダが出てゆくと、イエスは(顔をかがやかせながら、別れの言葉を弟子たちに)言われる、「今、人の子は(神に命じられた仕事を成しとげて、神から)栄光を与えられた。神も人の子(が仕事を成しとげたこと)によって、栄光をお受けになった。
前田訳ユダが出て行くと、イエスはいわれる、「今、人の子は栄化され、神が彼によって栄化されたもう。
新共同さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
NIVWhen he was gone, Jesus said, "Now is the Son of Man glorified and God is glorified in him.
註解: ユダが出で行きしことによってイエスの運命はいよいよ決定した。それは十字架の死への途であった。而してこの死は肉の目には屈辱の死であったけれども、霊の目には栄光の死であり、恩恵と真理、愛と義の発露であった(ヨハ1:14)。キリストこの栄光を受け給うことによりて、彼を遣わして世を救わんとし給う神の恩恵と真理が発露して神もまた栄光を受け給う。イエスはその死の決定したる瞬間にこの勝利の叫びを発し給うた。過去動詞を用い給いしは未来に確実に起るべき事実をすでに起りしものとして取扱い給うたのである。

13章32節 (かみ)かれに()りて榮光(えいくわう)をうけ(たま)はば、(かみ)(おのれ)によりて(かれ)榮光(えいくわう)(あた)(たま)はん、(ただ)ちに(あた)(たま)ふべし。[引照]

口語訳彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう。
塚本訳彼によって栄光をお受けになった以上は、神も(彼を天に挙げることによって、)彼に御自分の栄光を与えられるであろう。いますぐにも栄光を与えられるであろう。
前田訳神が彼によって栄化されるうえは、神ご自身も彼を栄化されよう。今すぐ栄化されよう。
新共同神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
NIVIf God is glorified in him, God will glorify the Son in himself, and will glorify him at once.
註解: 前節は現在において始まれる事実を示し、本節は未来に起るべき事実を預言す。すなわちキリストの完全なる従順とその愛の死によりて神が栄光を受け給う以上(ヨハ17:4、5)神はその栄光によりてキリストを甦らしめ昇天せしめてキリストに栄光を与え給うであろう(ピリ2:6−11)。

13章33節 若子(わくご)よ、(われ)なほ(しばら)(なんぢ)らと(とも)にあり、(なんぢ)らは(われ)(たづ)ねん、されど(かつ)てユダヤ(びと)に「なんぢらは()()(ところ)(きた)ること(あた)はず」と()ひし(ごと)く、(いま)(なんぢ)らにも()()ふなり。[引照]

口語訳子たちよ、わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言ったとおり、今あなたがたにも言う、『あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない』。
塚本訳子供たちよ、わたしはもう少しのあいだあなた達と一しょにいる。(いなくなったあとで)あなた達はわたしをさがすが、(前に)ユダヤ人に、『わたしが行く所に、あなた達は来ることが出来ない』と言ったのと同じことを、いまあなた達にも言う。
前田訳子らよ、今しばしわたしはあなた方とともにいる。あなた方はわたしを探そう。わたしはユダヤ人に、『わたしの去り行くところへあなた方は来られない』といったが、今は同じことをあなた方にもいう。
新共同子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
NIV"My children, I will be with you only a little longer. You will look for me, and just as I told the Jews, so I tell you now: Where I am going, you cannot come.
註解: 一方イエスはその現在(31節)および未来(32節)の栄光を思うと同時に、眼前の弟子たちを見、彼らを後に残す時の近きを思いて彼の心はあたかも臨終の床における父親の心のごとき心に充たされ給うたことであろう。「若子よ」 teknia なる語は福音書には他に用いられていない語であって、切なる愛より流れ出づる語である。イエスはこの語をもって弟子たちに呼びかけ、その復活と昇天とを弟子たちにも予告し給うた。(さき)にユダヤ人らにこれを告げ給いし際に(ヨハ7:33、34。ヨハ8:21)「我が居る処に汝ら行くこと能わず」と宣いしは彼らの滅亡を宣告し給える意味であり、今弟子たちに対してこのことを言い給えるは、しばらくの間彼は弟子たちと別れなければならぬことを教え給うたのである(36節)。イエスの死と復活昇天とは万民の救いのために必要であって(ヨハ12:24以下)、弟子たちの愛をもってしてもこれを留むることができず、またそこに赴くことができない。

13章34節 われ(あたら)しき誡命(いましめ)(なんぢ)らに(あた)ふ、なんぢら(あひ)(あい)すべし。わが(なんぢ)らを(あい)せしごとく、(なんぢ)らも(あひ)(あい)すべし。[引照]

口語訳わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
塚本訳(別れにのぞんで)新しい掟を与える、──互に愛せよ。わたしがあなた達を愛したのだから、そのようにあなた達も互に愛せよ。
前田訳あなた方に新しいいましめを与える。互いに愛せよ。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛せよ。
新共同あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
NIV"A new command I give you: Love one another. As I have loved you, so you must love one another.
註解: イエスはその袂別(べいべつ)の近きを思い、その最後の大説教(14−17章)に入る前にここにその中心ともいうべき誡命を彼らに与え給うた。これまではイエスが彼らの中に在しその愛をもって彼らを結び付け給うた。今やイエスは彼らの中を離れんとし給う時に当りイエスの彼らに要求し給うことは、イエスが彼らを愛し給いしごとき愛をもて互に相愛すべきことであった。この誡命の「新しき誡命」である所以は、すでに旧約聖書に記され(レビ19:18)またイエスが(さき)に語り給いし(マタ19:19マタ22:39等)「己のごとく汝の隣を愛すべし」なる誡命に比し「わが汝らを愛せしごとく」なる条件が加えられているからである(M0)。キリストの愛は従来未だかつて完全に顕わされなかった処のものであり神の愛の最初の啓示であった(Tヨハ3:16Tヨハ4:9ロマ5:8)。この愛をもって互に相愛すべしというのである。而してこれは「キリストに在りて」のみ可能である(G1)。まことにイエスの最後の教訓としてこれよりも相応しきものを考えることができない。なおこれは「新しき律法」ではなく「新しき誡命」であることに注意すべきである。

13章35節 (たがひ)(あひ)(あい)する(こと)をせば、(これ)によりて(ひと)みな(なんぢ)らの()弟子(でし)たるを()らん』[引照]

口語訳互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
塚本訳互に愛を持つならば、皆がそれによって、あなた達がわたしの弟子であることを知るであろう。」
前田訳互いに愛を持つならば、それによってあなた方は皆わが弟子であることを知ろう」と。
新共同互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
NIVBy this all men will know that you are my disciples, if you love one another."
註解: キリストの弟子たることの最良の目標は、キリスト者同士が互にキリストの愛をもって相愛することである。キリスト教会の歴史および現状がいかにこの主の御言に反するかを思うとき、我ら神の前に(ひく)くせられざるを得ない。

4-1-9 イエス、ペテロの拒否を予告し給う 13:36 - 13:38

13章36節 シモン・ペテロ()ふ『(しゅ)よ、何處(いづこ)にゆき(たま)ふか』[引照]

口語訳シモン・ペテロがイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのですか」。イエスは答えられた、「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」。
塚本訳シモン・ペテロが言う、「主よ、どこへ行かれますか。」イエスは答えられた、「あなたは今わたしの行く所について来ることは出来ないが、あとでついて来る。(いやでも、ついて来ねばならない時が来る。)」
前田訳シモン・ペテロが彼にいう、「主よ、どこへお出かけですか」と。イエスは答えられる、「わたしが行くところへあなたは今はついて来られない。あとで来られよう」と。
新共同シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」
NIVSimon Peter asked him, "Lord, where are you going?" Jesus replied, "Where I am going, you cannot follow now, but you will follow later."
註解: ペテロは主イエスを切に愛していたので、いかなる処たるを論ぜず彼に従い得ることを確信し、たといそれが死出の途であっても彼に従い得ることを思った。

イエス(こた)(たま)ふ『わが()(ところ)に、なんぢ(いま)(したが)ふこと(あた)はず。

註解: ペテロの心のいかなるものであるかは、ペテロ自身がこれを知るよりもイエスがよくこれを知り給うた。そしてペテロの現在の事情および肉の弱さをもってしては、イエスの死に従うこと能わざることを預言し給うた。キリストはペテロに命令を与えて強いてその死を共にせしめ給わなかった。信仰の世界においては凡てが自由の犠牲でなければならぬ。

されど(のち)(したが)はん』

註解: ペテロは後に殉教の死を遂げて(ヨハ21:18、19)キリストに従った。

13章37節 ペテロ()ふ『(しゅ)よ、いま(したが)ふこと(あた)はぬは(なに)(ゆゑ)ぞ、(われ)(なんぢ)のために生命(いのち)()てん』[引照]

口語訳ペテロはイエスに言った、「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、命も捨てます」。
塚本訳ペテロが言う、「主よ、なぜいますぐついて行くことが出来ないのですか。あなたのためなら、命でも捨てます。」
前田訳ペテロはいう、「主よ、なぜ今お伴できないのですか。わたしはあなたのためにいのちをも捨てます」と。
新共同ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」
NIVPeter asked, "Lord, why can't I follow you now? I will lay down my life for you."
註解: ペテロは自己の力とその弱さとを知らなかった。彼は己の決心をもってすれば何事をも為し得るものと信じていた。彼の最も誇りとせるこの忠実さとその勇気とが数時間の後に凡て破滅に帰しようとは唯神なるキリストのみ知り給うたに過ぎなかった。▲ペテロの決心そのものは真実であった。しかし人間の真実さもことに当たって無力な場合が多く起こってくる。ガラ2:11-15。

13章38節 イエス(こた)(たま)ふ『なんぢ()がために生命(いのち)()つるか、(まこと)にまことに(なんぢ)()ぐ、なんぢ三度(みたび)われを(いな)むまでは、(にはとり)()かざるべし』[引照]

口語訳イエスは答えられた、「わたしのために命を捨てると言うのか。よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」。
塚本訳イエスが答えられる、「わたしのためなら、命でも捨てると言うのか。アーメン、アーメン、わたしは言う、あなたが三度わたしを知らないと言うまで、鶏は決して鳴かないであろう。
前田訳イエスは答えられる、「わたしのためにいのちをも捨てるというのか。本当にいう、あなたが三度わたしを知らないというまでは、にわとりは決して鳴くまい」と。
新共同イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
NIVThen Jesus answered, "Will you really lay down your life for me? I tell you the truth, before the rooster crows, you will disown me three times!
註解: この時ペテロはおそらく主イエスのこの御言に対して不可解と同時に不満の心をいだいたことであろう。我らも我らに関する神の御言に対して同様の感をいだく場合が少なくない(例えばロマ3:1−17を自己に適用する場合のごとき)。しかしながら後に時至りて自己の弱さが暴露される時、ペテロと同じく泣きて神の言を真とする時が来るのである(マタ26:75等)
要義 [神は我らを最もよく知り給う]36節。我らは自己につき最もよく知っていると考えるけれどもそれは誤りである。我らにつき神は最もよく知り給う。而して我らに関する神の判断は聖書に示される神の言であって、神は我らの罪人たることを聖書に示し給う以上、たとい我らの心がこれを(うべな)わずともその判断が最も正しいのであって、我らもペテロと同じくついには神の言が真理たることを知らしめられるのである。「人をみな虚偽者とすとも神を誠実とすべし」(ロマ3:4)。