マルコ伝第8章
分類
3 異邦におけるイエスの活動 7:24 - 8:26
3-1-ハ 四千人を養い給う 8:1 - 8:10
(マタ15:32-39)
口語訳 | そのころ、また大ぜいの群衆が集まっていたが、何も食べるものがなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、 |
塚本訳 | そのころ、また多くの群衆が(集まって)いて、何も食べるものを持っていなかったとき、弟子たちを呼びよせて言われる、 |
前田訳 | そのころ、また大勢の群衆がいて何も食べ物を持たなかったので、彼は弟子たちを呼んでいわれる、 |
新共同 | そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。 |
NIV | During those days another large crowd gathered. Since they had nothing to eat, Jesus called his disciples to him and said, |
註解: 前章よりの継続と見れば、デカポリス地方すなわちガリラヤの湖の東岸にての出来事となる。やや不明の点あり、マコ7:31註解を見よ。
また
註解: 「また」はマコ6:34−44の五千人を養い給える事実に照応す。大なる群衆の集り来れる所以はイエスの行い給える奇蹟につき聞き伝えたからであった(マコ7:36)。
イエス
8章2節 『われ
口語訳 | 「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。 |
塚本訳 | 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしをはなれずにいるので、何も食べるものを持っていない。 |
前田訳 | 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしのところにいて食べ物を持たない。 |
新共同 | 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。 |
NIV | "I have compassion for these people; they have already been with me three days and have nothing to eat. |
註解: マタ15:30の大なる群衆に相当し、彼らはその病者を醫されんとの希望に熱心にしてイエスの許を去らんとしなかった。イエスは凡てを忘れて彼に従う者を心より憫み給う。
8章3節
口語訳 | もし、彼らを空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱り切ってしまうであろう。それに、なかには遠くからきている者もある」。 |
塚本訳 | 空腹のままで家に帰したら、途中でへたばってしまうにちがいない。それに、中には遠くから来た者もある。」 |
前田訳 | 空腹のまま家へ帰したら、途中で弱り切ろう。それに、なかには遠くからのものもある」。 |
新共同 | 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」 |
NIV | If I send them home hungry, they will collapse on the way, because some of them have come a long distance." |
註解: イエスは単に霊魂の問題のみではなく、肉体の問題につきても御心を労し給う(ヤコ2:16)。
8章4節
口語訳 | 弟子たちは答えた、「こんな荒野で、どこからパンを手に入れて、これらの人々にじゅうぶん食べさせることができましょうか」。 |
塚本訳 | 弟子たちが答えた、「こんな荒野で、いったいどこからパンを買って来て、この人たちを満腹させることが出来ましょうか。」 |
前田訳 | 弟子たちは答えた、「この荒野でどこからパンを手に入れてこの人々を満腹させえましょう」と。 |
新共同 | 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」 |
NIV | His disciples answered, "But where in this remote place can anyone get enough bread to feed them?" |
註解: 第6章の場合はパンを求むるための金銭の不足が弟子たちの躊躇の原因であり今回はパンを求むべき場所の無きことがその理由であった。第一回のパンの奇蹟を目撃せる弟子たちが再びこの不信仰なる疑惑を繰返すことは不可解であるとされているけれども、群衆が相集うごとに必ずかかる奇蹟が行われるものと考え得ないことも無理もなきことである。非常に特別なる奇蹟なるが故にかえってその反復を期待し難きことがむしろ当然であろう。イエスが再びかかる奇蹟を行い得ないと考えたのではないが、この場合も行い給うならんと信じ得なかったとしても弟子たちを責むる理由はなく、またこの記事を否定する理由とはならない。
8章5節 イエス
口語訳 | イエスが弟子たちに、「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります」と答えた。 |
塚本訳 | 彼らに尋ねられた、「手許にいくつパンがあるか。」「七つ」とこたえた。 |
前田訳 | 彼らにたずねられた、「パンがいくつあるか」と。彼らはいった、「七つです」と。 |
新共同 | イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。 |
NIV | "How many loaves do you have?" Jesus asked. "Seven," they replied. |
註解: マタ15:34にはパンと魚とを一緒に取り扱っている。本書の記事の方がいっそう事実の目撃者らしさを有す。
8章6節 イエス
口語訳 | そこでイエスは群衆に地にすわるように命じられた。そして七つのパンを取り、感謝してこれをさき、人々に配るように弟子たちに渡されると、弟子たちはそれを群衆に配った。 |
塚本訳 | イエスは群衆に命じて地面にすわらせ、それからその七つのパンを(手に)取り、(神に)感謝して裂き、群衆に配るため弟子たちに渡されると、それを配った。 |
前田訳 | そこで彼は群衆に地にすわるよう命じ、七つのパンを手にし感謝して裂き、群衆に配るように弟子たちに渡された。彼らは配った。 |
新共同 | そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。 |
NIV | He told the crowd to sit down on the ground. When he had taken the seven loaves and given thanks, he broke them and gave them to his disciples to set before the people, and they did so. |
註解: イエスが平日家にて弟子たちと共に食事をし給う時の態度も、これと何ら異なる処がなかったであろう。イエスにとりては一人も千人のごとく、千人も一人のごとくである。
8章7節 また
口語訳 | また小さい魚が少しばかりあったので、祝福して、それをも人々に配るようにと言われた。 |
塚本訳 | また小魚が少しあったのをイエスは祝福して、これも配るように言われた。 |
前田訳 | 小さい魚も少しあった。それを祝福して、これも配るようにいわれた。 |
新共同 | また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。 |
NIV | They had a few small fish as well; he gave thanks for them also and told the disciples to distribute them. |
註解: 数尾の小魚を四千の群衆の前に置かしむるイエスの態度を見よ、イエスは数の観念を超越してい給えるもののごとくである。
8章8節
口語訳 | 彼らは食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七かごになった。 |
塚本訳 | 人々は食べて満腹した。そして余った(パンの)屑を拾うと、七篭あった。 |
前田訳 | 人々は食べて満腹した。余ったくずを拾うと、七籠あった。 |
新共同 | 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。 |
NIV | The people ate and were satisfied. Afterward the disciples picked up seven basketfuls of broken pieces that were left over. |
註解: 神を信ずる者にとりては不足が変じて過剰となる。如何に僅かなる物といえども、感謝をもってこれを受くる時、溢れて、無限に豊かなる賜物となるからである。
辞解
[籃 ] spuris とマコ6:43の「筺 」kophinos との区別につきてはマタ16:10辞解参照。▲口語訳、塚本訳はこの「籃 」と「筺 」とに同一の訳語を当てている。日本語の発音は同一であるがせめて漢字だけは区別しておくのが便利ではあるまいか。もし異なった適当の訳があれば一層よいであろう。例えば「ざる」と「かご」のごとく。
口語訳 | 人々の数はおよそ四千人であった。それからイエスは彼らを解散させ、 |
塚本訳 | それは四千人ばかりであった。イエスは人々を解散させられた。 |
前田訳 | それは四千人ほどであった。彼は人々を解散なさった。 |
新共同 | およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。 |
NIV | About four thousand men were present. And having sent them away, |
註解: 女と子供とを除きたる数としてマタ15:38に掲げられている。
イエス
8章10節
口語訳 | すぐ弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方へ行かれた。 |
塚本訳 | それからすぐ弟子たちと一しょに舟に乗って、ダルマヌタ地方に行かれた。 |
前田訳 | それからすぐ弟子たちと舟に乗ってダルマヌタの地方に行かれた。 |
新共同 | それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。 |
NIV | he got into the boat with his disciples and went to the region of Dalmanutha. |
註解: ダルマヌタなる地名は何処を指すか不明であり、マタ15:39にはマガダンとあり。また異本にマグダラとあり、マガダンも不明の地である。
附記 七つのパンをもって四千人を養える奇蹟はマコ6:30−44の奇蹟と相類似するのみならず、(1)「その頃」なる漠然たる時の指示、(2)場所の不明、(3)かかる多数の群衆の集り来れることは不可解なること、(4)全体として第一回のパンの奇蹟に類似しており、かかる事が二度も行われることは不思議なること、(5)および4節の弟子たちの不信が不可解なること等の理由により、これは同一事実が異なるもののごとくに記録せられて異なれる資料に掲げられていたために、二つの事実として記載されているのであると解する学者も多いけれども、前記各節註解に説明せるごとき理由により、かかる説はこれを採用する必要を認めない。かえってかかる類似の事実を同一の記者または同一の編者が二つとも収録することは、二つの事実が存在せることの充分なる確信が有るからであって、もしこの確信が無かったならば、学者の説を待つまでもなく、彼ら自らその中の何れか一つを除いたことであろう。なおマタ15:39附記参照。
口語訳 | パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた。 |
塚本訳 | するとパリサイ人たちが出てきて、イエスを試そうとして議論を吹きかけ、(神の子である証拠に、)天からの(不思議な)徴を(示すようにと)彼に求めた。 |
前田訳 | するとパリサイ人が出て来て、議論をはじめ、天からの徴を求めた。彼を試みたのである。 |
新共同 | ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。 |
NIV | The Pharisees came and began to question Jesus. To test him, they asked him for a sign from heaven. |
註解: ダルマヌタ附近に住めるパリサイ人(マタ16:1はこれにサドカイ人をも加う)らイエスが久しく不在の後再び現れ給いしを聴きその家より(M0、I0)出で来り、イエスに向って挑戦した。彼らはイエスのメシヤに非ざることを暴露せんとの悪意に充ちていた。
イエスと
註解: パリサイ人らはイエスとは根本的に性が合わなかった。彼らはイエスを陥れこれを信ぜざらんとする心に充たされていたので、イエスの行い給える多くの奇蹟殊にそのパンの奇蹟も彼らを信ぜしむるに足らず、さらにイエスを陥れんとして天よりの徴を求めた。彼らには不信と悪意より外になかった。不信と悪意の前には神も自らその栄光をかくし給う。
辞解
[天よりの徴] マタ16:1辞解参照。
口語訳 | イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。 |
塚本訳 | イエスは心の中で大きく溜息をついて言われる、「この時代の人はなぜ徴を求めるのだろうか。アーメン、わたしは言う、この時代の人に徴が与えられるものか。」 |
前田訳 | 彼は心に深く溜息をついていわれる、「なぜこの世代は徴を求めるのか。本当にいう、この世代に徴は与えられまい」と。 |
新共同 | イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」 |
NIV | He sighed deeply and said, "Why does this generation ask for a miraculous sign? I tell you the truth, no sign will be given to it." |
註解: 直訳「霊にて深く呻吟 き」「霊の底より呻吟 き」との意で、イエスはパリサイ人らの不信と悪意とを深く悲しみ憤り給えることを示す。
『なにゆゑ
註解: もし純真なる心をもってイエスを仰ぐならば、イエスの為し給える不思議を見ただけで、充分に彼を信ずることができたはずである。神に対する信仰が真正ならば、その心はそのままイエスを信ずる心となる。これに反し神に対して「邪曲にして不義なる」心を持てる「代は徴を求む」(マタ12:39)かかる者はたとい徴を与えられてもこれを信ずることはできない。それ故にかかる者に向って神は徴を与え給わない。
辞解
[徴] sêmeion ある事柄のしるしで、イエスがメシヤたることを表示する何らかの現象を指す。これが天より来る場合は「天よりの徴」でありイエスの地上にて為し給える奇蹟は地上における徴である(ヨハ3:2。ヨハ4:54等)。▲イエスを信じない者は、その徴を見ても信じないであろう。不真面目な心でイエスに接する者はイエスの怒りを買うだけのこととなる。
8章13節
口語訳 | そして、イエスは彼らをあとに残し、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。 |
塚本訳 | イエスは彼らを(そこに)のこし、また(舟に)乗って向う岸へ立ち去られた。 |
前田訳 | 彼らに別れてまた舟に乗って向こう岸へ立ち去られた。 |
新共同 | そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。 |
NIV | Then he left them, got back into the boat and crossed to the other side. |
註解: イエスのパリサイ人に対する離反は益々甚だしくなった(15節参照)。パリサイ人らはイエスが天よりの徴を与え給わないのを見て、イエスの無能が証拠立てられしものと考え、勝ち誇ったことであろう。この世の人の思いは神の思いと異なる。
辞解
[彼方 ] たぶんベテサイダであろう(22節)。
要義 [イエスの呻吟 ]四千人を七つのパンをもって養い給いしイエスは、如何に頑固なるパリサイ人といえども、この事実を耳にしたならば彼を信ずるであろうと考え給うた。然るに彼らはなおもイエスを試験せんとし天よりの徴を求むるのを見て、イエスは心中悲哀と憤激との錯綜せる不思議なる感情に充たされ給うた。これが彼の呻吟 となってあらわれたのである。真実に充てる心は人の不信と不真実とに耐え得ない。また不真実なる心はイエスの真実さを理解することができない。信仰と不信仰とは水と油とのごとく永遠に一致し得ない。
8章14節
口語訳 | 弟子たちはパンを持って来るのを忘れていたので、舟の中にはパン一つしか持ち合わせがなかった。 |
塚本訳 | ところがパンを持ってくるのを忘れたので、舟にはたった一つしかパンがなかった。 |
前田訳 | さて彼らはパンを持って来るのを忘れ、舟にはただ一つのパンしかなかった。 |
新共同 | 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。 |
NIV | The disciples had forgotten to bring bread, except for one loaf they had with them in the boat. |
註解: イエスがパリサイ人らより試みられ、怒りてそこを去り給うたのは、緊張せる瞬間であった。弟子たちもおそらく主イエスの呻吟 の意味を理解しなかったであろう。唯イエスの憤慨し給える有様に心奪われてパンを求むることを忘れ、そのまま舟に乗った。而して彼ら心中にパンなきことの不安に充たされていた。
辞解
[舟] マタ16:5にはこの物語が上陸後の出来事として録されている。マルコの方が事実らしく思わる。
8章15節 イエス
口語訳 | そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。 |
塚本訳 | するとイエスは弟子たちに、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに注意し、気をつけよ」と命じられた。 |
前田訳 | そこで彼は命じられた、「心せよ、パリサイ人のパン種とヘロデのパン種に注意せよ」と。 |
新共同 | そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。 |
NIV | "Be careful," Jesus warned them. "Watch out for the yeast of the Pharisees and that of Herod." |
註解: 弟子たちの心配がパンのことであったのとは正反対にイエスの御心はパリサイ人の不信に対する憤懣に充ちていた。またヘロデがバプテスマのヨハネを迫害した後であったのでその迫害がイエスおよびその弟子に及ばんことを感じ給うた。このパリサイ精神、ヘロデ精神こそ将来イエスおよび弟子たちを滅さんとする大敵であり、充分これに注意すべきである。イエスはこのことを弟子たちに強く印象付けんとした。
辞解
[パンだね] 善または悪、殊に悪の感化力すなわち腐敗作用の強烈なることに対する譬喩として用いらる。聖書においては主として世俗的思想による腐敗を示す。Tコリ5:6−8。ガラ5:9。なおマタ13:33辞解参照。パリサイ主義とは一般には神に対する不信、偽善(ルカ12:1)、形式主義、律法主義(マタ16:12)等の別名として取扱われているけれども、本節の場合はイエスの御心はその不信および敵意(W2)に集中していたことと思われる。
[ヘロデ] マタ16:6には「サドカイ人」とあり、ヘロデ党にはサドカイ人が多いと言われている。ただしこの場合はむしろイエスとその弟子の迫害者としてのヘロデを指すと見るを可とす。
8章16節
口語訳 | 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないためであろうと、互に論じ合った。 |
塚本訳 | 弟子たちは(その意味がわからず)、パンのないことを互に評議をしていた。 |
前田訳 | 弟子たちはパンのないことを互いに話しあっていた。 |
新共同 | 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。 |
NIV | They discussed this with one another and said, "It is because we have no bread." |
註解: 弟子たちの心はイエスの感じ給うことを感ぜず、イエスの思い給うことを思わなかった。イエスの心と彼らの心とは、あまりに甚だしく懸離れていた。イエスの淋しさは如何ばかりであったろう。
辞解
本節はまた「弟子たち互に彼らがパンを有たざることを思いなやみたり」とも訳す。
口語訳 | イエスはそれと知って、彼らに言われた、「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。 |
塚本訳 | イエスはそれと知って言われる、「なぜパンのないことを評議するのか。まだ解らないのか、悟らないのか。心が頑なになってしまったのか。 |
前田訳 | それに気づいて彼はいわれる、「なぜパンのないことを話しあうか。まだわからないのか、悟らないのか。あなた方の心は頑になってしまったのか。 |
新共同 | イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 |
NIV | Aware of their discussion, Jesus asked them: "Why are you talking about having no bread? Do you still not see or understand? Are your hearts hardened? |
註解: イエスは弟子たちの語り合うことの何たるかを知り給うた、而してイエスは彼らの不信を見抜き給うた。
『
8章18節
口語訳 | 目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。まだ思い出さないのか。 |
塚本訳 | “目があっても見えず、耳があっても聞えない”のか。覚えていないのか、 |
前田訳 | 目があっても見えず、耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか、 |
新共同 | 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。 |
NIV | Do you have eyes but fail to see, and ears but fail to hear? And don't you remember? |
註解: イエスの感情は非常に激していた。心中に蹲 れる鬱憤は大河の決するがごとくに迸 り出でて、あたかも機関銃の音のごとく七つの質問となりて弟子に向って発せられたのであった。パリサイ人の不信と敵意に対する鬱憤はここにその愛弟子らの無理解のために爆発したのであった。イエスは、せめては弟子だけでも彼のメシヤたることを理解しそうなものであると思い給うたのであろう。
8章19節
口語訳 | 五つのパンをさいて五千人に分けたとき、拾い集めたパンくずは、幾つのかごになったか」。弟子たちは答えた、「十二かごです」。 |
塚本訳 | わたしが五つのパンを五千人に裂いた時に拾った(パンの)屑は、篭に一ぱい、いくつあったか。」「十二」と弟子たちがこたえる。 |
前田訳 | パン五つをわたしが五千人に裂いたとき、拾ったくずでいっぱいの籠がいくつあったか」と。彼らはいう、「十二でした」と。 |
新共同 | わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。 |
NIV | When I broke the five loaves for the five thousand, how many basketfuls of pieces did you pick up?" "Twelve," they replied. |
8章20節 『
口語訳 | 「七つのパンを四千人に分けたときには、パンくずを幾つのかごに拾い集めたか」。「七かごです」と答えた。 |
塚本訳 | 「七つを四千人の時には、拾った(パンの)屑は篭に一杯いくつあったか。」「七つ」とこたえると、 |
前田訳 | 「七つを四千人にのときは、拾ったくずでいっぱいの籠がいくつあったか」。彼らはいう、「七つでした」と。 |
新共同 | 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、 |
NIV | "And when I broke the seven loaves for the four thousand, how many basketfuls of pieces did you pick up?" They answered, "Seven." |
註解: イエスはこの二度の奇蹟を弟子たちに思い起さしめ、しかも数千人を養いてもなお多くの余りのパンを集むることを得し事実を思い起さしむることにより、パンのことを思い煩うことの愚なることを示し給うと同時に、それよりも一層重要なること、すなわちイエスこそメシヤに在し給うことの事実を弟子たちに悟らしめんとし給うた。パリサイ人らの不信はなお忍ぶべし、弟子たちの無理解はイエスの大なる苦痛であった。それ故にイエスは次節をもって弟子たちの悟りを促した。
口語訳 | そこでイエスは彼らに言われた、「まだ悟らないのか」。 |
塚本訳 | 「まだ悟らないのか」と言われた。 |
前田訳 | そこで彼らにいわれる、「まだ悟らないのか」と。 |
新共同 | イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。 |
NIV | He said to them, "Do you still not understand?" |
註解: 弟子たちははたして悟ったであろうか、パリサイ人のパン種とヘロデのパン種すなわち不信と敵対の悪分子を弟子たちはは果たしてイエスのごとくに解していたであろろうか。
要義 [パリサイ人のパン種]マタ23章においてイエスは偽善なる学者、パリサイ人の諸罪悪を完膚 なきまでに痛撃し給うた。すなわち彼らの偽善、律法主義、形式主義に対する非難である。而して彼らのこの罪は彼らが神を信じていると思いつつ実は信ぜずして自己に誇っているからであり、この不信がそのままイエスに対する不信と迫害とになったのであった。弟子にとって最も警戒を要するものはこの不信である。イエスを神の子と信ぜざる心、これすなわちパリサイ人の心である。14−21節をこの意味に解すべきであって、これを単にイエスは少人数をも多人数と同じく養い給うことを教え給えるものと見るは(L2、Z0)適当ではない。
註解: 22−26節はこれに類似するマコ7:31−37と共にマルコ伝特有の記事である。
口語訳 | そのうちに、彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいとお願いした。 |
塚本訳 | 彼らはベッサイダに来る。人々が一人の盲人をイエスのところにつれて来て、さわって(直して)ほしいと願う。 |
前田訳 | 彼らはベツサイダに来ると、人々は目しいを連れて来て、さわっていただくようお願いした。 |
新共同 | 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。 |
NIV | They came to Bethsaida, and some people brought a blind man and begged Jesus to touch him. |
註解: ガリラヤ湖の東北のベテサイダ・ユリウスを指す。
註解: この盲人はベテサイダの人ではないようである(26節)。
8章23節 イエス
口語訳 | イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねられた。 |
塚本訳 | イエスは盲人の手を取って村の外につれ出し、その両方の目に唾をかけ、両手を(その目に)あてて尋ねられた、「何か見えるか。」 |
前田訳 | 彼は目しいの手を取って村の外に連れ出し、両目に唾し、両手をその上に置いてたずねられた、「何か見えるか」と。 |
新共同 | イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。 |
NIV | He took the blind man by the hand and led him outside the village. When he had spit on the man's eyes and put his hands on him, Jesus asked, "Do you see anything?" |
註解: マコ7:33の場合と同じくイエスはその奇蹟が一般に知られることを望み給わなかった。
その
註解: この場合もイエスは治療のために唾を用い給うた。弟子たちのみはおそらくイエスと共に村の外に出でこの治療を目撃したのであろう。
8章24節
口語訳 | すると彼は顔を上げて言った、「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」。 |
塚本訳 | 盲人は目をあげてこたえた、「人が見えます。木のようで、歩いているのがわかります。」 |
前田訳 | 目しいは見あげていった、「人が見えます。木のようで、歩いているのがわかります」と。 |
新共同 | すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」 |
NIV | He looked up and said, "I see people; they look like trees walking around." |
註解: 未だ完全に醫されない状態である。
辞解
[見ゆ] 「見ゆる故なり」となっている。
8章25節 また
口語訳 | それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。 |
塚本訳 | それから、かさねて両手を目にあてられると、よく見えてきてすっかり直り、なんでも遠くからはっきり見えるようになった。 |
前田訳 | そこでふたたび手を両目にあてられると、見えはじめてなおってき、何もかもはっきり見えるようになった。 |
新共同 | そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。 |
NIV | Once more Jesus put his hands on the man's eyes. Then his eyes were opened, his sight was restored, and he saw everything clearly. |
註解: 驚くべきイエスの治病力を見る。徐々に治癒せる例はこの一つなり。
8章26節
口語訳 | そこでイエスは、「村にはいってはいけない」と言って、彼を家に帰された。 |
塚本訳 | イエスは「村にも入るな(、まっすぐに帰りなさい)」と言って、その人を家にかえされた。 |
前田訳 | そこで「村にも入るな」といって家に帰された。 |
新共同 | イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。 |
NIV | Jesus sent him home, saying, "Don't go into the village. " |
註解: 彼が彼を伴い来れる人々に逢わんとてベテサイダの村に入ることを望んだに相違ないと思うがイエスはこれをも禁止してその家に帰し給うた。
要義 [弟子たちの目は次第に開かれた]この盲人の目がイエスの御手によって徐々に開かれしと同じく、弟子たちの目も14−21節においてあまりに明かに見えなかったものが、後に次第に明かに見えて29節にはペテロはついにイエスをキリストなりと告白するに至った。我らの信仰も必ずしも一度に凡てを見得る必要はない。イエスは必ずその御手をもって我らを明かに見得るように導き給う。
附記 8:1−26は6:30−7:37の重複記事と認むる学者多し。
分類
4 十字架に対って進み給う 8:27 - 9:50
4-1 受難の予告 8:27 - 9:32
4-1-イ ペテロの告白 8:27 - 8:30
(マタ16:13-20) (ルカ9:18-22)
8章27節 イエス
口語訳 | さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。 |
塚本訳 | イエスは(そこから)弟子たちとピリポ・カイザリヤの(町に近い)村々に出てゆかれた。道すがら弟子たちにこう言って尋ねられた、「世間の人はわたしのことをなんと言っているか。」 |
前田訳 | イエスは弟子たちとピリポ・カイサリアの村々へと出で立たれた。道すがら彼は弟子たちにたずねられた、「人々はわたしのことを何といっているか」と。 |
新共同 | イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 |
NIV | Jesus and his disciples went on to the villages around Caesarea Philippi. On the way he asked them, "Who do people say I am?" |
註解: ピリポ・カイザリヤはガリラヤ湖の北五十キロ、ヘルモン山麓にあり、分封の国守ピリポがカイザル・アウグストの栄誉のために名付けた邑で、地中海に面するカイザリヤと区別するためにピリポ・カイザリヤという。イエスは遥々この地に来て弟子たちと共に静かに御自身の使命につき思いを廻らし給う。「自分は果してメシヤなのであろうか。内に溢れるこの力の自覚は、自分の普通の人間にあらざることを示すもののごとくにも思われるけれども、さればとてメシヤとしてはあまりに無力であり、世の迫害にさらされている。しかしながら予は腕力をもって世界を支配することを欲しない。唯神のみに依り頼んで行こう、たとい如何なる苦痛が来ようとも」というのがイエスの御心であった。而してイエスは心中にそのメシヤたることの意識が益々強くなりつつあったもののごとくである。
註解: これは次に来る弟子たちの信仰を試さんがための質問の前提であった。イエスは世人が如何なる程度まで彼を理解しているかを知ることを望み給うた。
『
8章28節
口語訳 | 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。 |
塚本訳 | 彼らが言った、「洗礼者ヨハネ。あるいはエリヤ、あるいは(昔の)普通の預言者と言う者もあります。」 |
前田訳 | 彼らはいった、「洗礼者ヨハネと申します。エリヤ、あるいは預言者のひとり、というものもいます」と。 |
新共同 | 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 |
NIV | They replied, "Some say John the Baptist; others say Elijah; and still others, one of the prophets." |
註解: 一般の世人すらイエスをもって彼らの最も尊敬すべき預言者のごとき人と見做 した。これは一人の人間に対して払い得る最高の尊敬であった。イエスはこの答を得て益々自己の中に満ちている力を感ぜざるを得なかった。
8章29節 また
口語訳 | そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。 |
塚本訳 | イエスは尋ねられた、「では、あなた達はわたしのことをなんと言うのか。」ペテロが答えて言う、「あなたは救世主であります!」 |
前田訳 | 彼はたずねられた、「あなた方はわたしのことを何というか」と。ペテロが答えた、「あなたはキリストです」と。 |
新共同 | そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 |
NIV | "But what about you?" he asked. "Who do you say I am?" Peter answered, "You are the Christ. " |
註解: イエスの最も憂い給う点は、その弟子らが果してイエスのメシヤたることを認めているかどうかの点であった。もし彼らにしてこれを認めないならばイエスの伝道は徒然であり、もしまた彼らにしてこれを認めているならば、来るべきイエスの苦難が彼らの躓きとなるであろう。
ペテロ
註解: キリストはメシヤのギリシャ語、ペテロは、イエスこそは全イスラエルの待ち望む救い主に在すことを直感した。これは実に神の示し給う処であった(マタ16:17)。他の弟子たちもまたペテロと同様の信仰を有っていたのであろう。而してこの問答は取りもなおさず従来イエスがメシヤとして御自身を示し給わなかったことをあらわす。
辞解
マタイ伝には「なんぢはキリスト活ける神の子なり」とあり。「神の子」なる文字はマルコ伝になし(マコ1:1註参照)。マタイ伝の場合はおそらく後日の弟子たちの信仰がイエスの口に遡って置かれたのであろう。マルコの方が一層自然らしい。またマタ16:17−19にペテロの信仰を賞讃せる一層詳しいイエスの御言があるけれどもマルコ伝にはこれが省略されている。孰 れが原形かにつき学者間に論議があるけれども、決定し難い。おそらくマルコはその師ペテロを賞揚することを遠慮してこれを略したのであろう。なおペテロと「教会の礎」の問題に関してはマタ16:17註および要義一を見よ。
8章30節 イエス
口語訳 | するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。 |
塚本訳 | イエスは自分のことをだれにも言ってはならないと、弟子たちを戒められた。 |
前田訳 | 彼は自分のことをだれにもいわぬよう弟子たちをいましめられた。 |
新共同 | するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。 |
NIV | Jesus warned them not to tell anyone about him. |
註解: 最も深い奥義に関することは濫 りにこれを語るべきではなく、語りてもこれを悟ることはできない。
要義 [イエスはキリストなり]この告白は、イエスに対して人間以上のもの、神に遣されて世界の救い主たるべき人としての称呼を奉ったのであった。弟子と共に村から村へと経巡っている一青年伝道者に対してかかる思い切った称呼を奉ることは決して尋常一様のことではない。弟子たちはイエスの中に真の神的なるものの存することを感ぜずにはいられなかったからであろう。単にイエスを偉人とか預言者とかとして解するだけでは足りない。彼を人間以上のものすなわち神として知ることによりて真に彼を知ったのであり、福音の基礎はここに存するのである。
8章31節
口語訳 | それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、 |
塚本訳 | (この時から、)イエスは、「人の子(わたし)は多くの苦しみをうけ、長老、大祭司連、聖書学者たちから排斥され、殺され、そして三日の後に復活せねばならない。(神はこうお決めになっている)」と弟子たちに教え始められた。 |
前田訳 | そして彼らに教えはじめられた、「人の子は苦しみを重ね、長老、大祭司、学者らに排斥され、殺されて、三日ののちに復活せねばならない」と。 |
新共同 | それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 |
NIV | He then began to teach them that the Son of Man must suffer many things and be rejected by the elders, chief priests and teachers of the law, and that he must be killed and after three days rise again. |
口語訳 | しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、 |
塚本訳 | しかもおおぴっらにこのことを話された。するとペテロはイエスをわきへ引っ張っていって、忠告を始めた。(救世主が死ぬなどとは考えられなかったのである。) |
前田訳 | しかもあからさまにこのことをいわれた。そこでペテロは彼をわきへ引いて制止しはじめた。 |
新共同 | しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 |
NIV | He spoke plainly about this, and Peter took him aside and began to rebuke him. |
註解: イエスがメシヤたることを告白するや否や、弟子たちは全く予想に反して、イエスの受難の予告を受けたのであった。メシヤはまずユダヤ人を異邦の圧迫より救うべきであった。然るにイエスにはこのことなくしてかえって自ら時の権力者のために殺されるとは、弟子たちの考え得ざる点であった。イエスをメシヤと信ずることと、彼が時の権力者の手に殺されることとは、同時に弟子の心を支配し得ざる事実であった。ゆえにイエスのこの告白は弟子たちの心には甚だ不可解なる謎のごときものとして残っていた(ルカ9:45)。然るにイエスの敵は、イスラエルを圧迫する異邦ではなくむしろ神の民を治むべき学者、長老、祭司長たちであった。その故は彼らが神に従っていなかったからである。神より遣されしイエスと神に反している彼らとは所詮対立するより外に無く、而してイエスはこの対立を意識しつつもこの世の権力や兵力を用いて真理を擁護することを欲し給わなかったために、結局において彼らに殺されることがその運命であることを悟り給うたのであった。三日の後に甦るべきことを予告し給うたのは、神はその遣し給えるイエスを永遠に陰府に捨て置き給うはずなく、ヨナの場合のごとく、三日目に甦らされるであろうことの確信から出て来た預言であった。一見不可思議なるこの預言も、イエスのメシヤたる意識と、その受難の予感との相乗積と見れば、決して解し得ないことではない。
辞解
[人の子] マタ8:20辞解参照。この語はイエス御自身のみ用い給える自己称呼で、キリスト教以前においても(ダニ7:13)メシヤを「人の子」と呼んだことは事実である。すなわちこの中に多分に終末的のもの、または終末審判の意義を含む。
長老、祭司長、学者の三者は衆議所の議員であり、ユダヤ人の最高幹部であった。
[三日の後] また「三日目」とも録さる。同一の意味。
[あらはに] 少しも隠すことをせず率直にとの意。
[語り給ふ] 未完了過去形で繰返し語り給えることを示す。
8章33節 イエス
口語訳 | イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。 |
塚本訳 | イエスは振り返って、弟子たちの見ている前でペテロを叱りつけられた、「引っ込んでろ、悪魔!お前は神様のことを考えずに、人間のことを考えている!」 |
前田訳 | イエスは振り返り、弟子たちを見ながら、ペテロをいましめられた、「引きさがれ、悪魔よ。おまえは神のことをでなく人間のことを考えている」と。 |
新共同 | イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 |
NIV | But when Jesus turned and looked at his disciples, he rebuked Peter. "Get behind me, Satan!" he said. "You do not have in mind the things of God, but the things of men." |
註解: イエスはその死に向って突進せんとしペテロはこれを引き留めんとした。イエスといえども死にたくはなかったに相違ない。しかし、これはあくまでも「人のこと」であった。イエスの死は神の御旨であった。イエスは神の御旨に従う場合死より外に途がなかったのである。ペテロにはこの神の御旨が全く解し得ず唯師を思う人間的の心持だけであり、この心が強くイエスを動かしたのでイエスにとりてはサタンの誘いであった。人間的親切も往々にしてサタンの声として退けなければならない。これを識別する唯一の方法は、唯神のみに従う生活より外にない。
辞解
マルコの記載は何時もながら当時の光景を生き生きとして髣髴せしむるものある。
[戒め] epitimaô ペテロがイエスを戒めしはペテロの感情が激していたことを示す。マタ16:20の「戒め」はこれよりも柔らかな言葉 diastellô を用う。
要義1 [受難の予告]如何にしてイエスはその受難を予知し給いしかは勿論記されていない。しかしながらイエスにとりては唯神の御旨を宣伝える以外に道なく、而して地上において神の御旨を行いまたは教うべき祭司長、長老、学者等が神の御旨に反していることはイエスにとりて明かであった。本質的に相反する二者が共に存在することはできない。イエスにおいては敵に降伏することもできずまた敵と妥協することもできずまた敵を倒すべき暴力を用うることができなかった以上、その当然の帰結が死より外になかった。この本質的差別を見破り得なかった弟子たちはこの予告の意味を解し得なかった。
要義2 [復活の予告]苦難の予告よりも一層不可思議とも言うべきは復活の予告である。イエスは如何にしてその復活を予知し給うたか。おそらくイエスの神との霊交が非常に親密であったがために、彼の地上の生活は肉体の中にある生活でありながら、すでに肉を離れて霊の世界に生き給うたのであった。かかる生活がそれ自身死を超越せるものであったことは想像に難くはない。かかる生命が肉体の死と共に永遠に滅亡するがごときこと、またそれが陰府の中に閉込められるごときことは考え得ざる事柄であった。それ故にイエスはその死を予感し給うと同時に新たに復活し給うこともまた彼の心に浮かんだに相違ない。これは決して考え得ないことではなく、詩16:8−11(使2:25−28)のごときもまたイエスを首肯せしめたことであろう。我らのごときアダムの裔に過ぎざる者も信仰によりて新たに生れる時、この新生命の不死たること、而してたとい肉体は死してもやがては復活すべきものであることを予感することができる。「三日め」というごとき確実なる期間まで予知し給えることはやや不可解であるけれども(ある学者は、それほど精確に預言し給うたのではあるまいと唱える)、ヨナの徴をイエスの預言として解し給うたのであろう。また最も鋭き感覚には、我らの想像し得ざる事実をも知り得る力がある。
8章34節
口語訳 | それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 |
塚本訳 | それから、群衆を弟子と一しょに呼びよせて言われた、「だれでも、わたしについて来ようと思う者は、(まず)己れをすてて、自分の十字架を負い、それからわたしに従え。 |
前田訳 | そして群衆を弟子たちとともに呼びよせていわれた、「わたしについて来ようと思うものはだれでも、自分を捨てておのが十字架を負ってわたしに従え。 |
新共同 | それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 |
NIV | Then he called the crowd to him along with his disciples and said: "If anyone would come after me, he must deny himself and take up his cross and follow me. |
註解: マタ16:24には群衆のことを記していない。おそらくイエスが弟子たちと共に人を避けてい給う処に、群衆はこれを聴きつけてイエスの御許に集り来ったのであろう。イエスは到る処磁石に集る鉄粉のごとくに人を引付けた。
『
註解: イエスの弟子たらんとする者はイエスと同一の態度に出ることと同一の運命に遭うこととの覚悟を要する。すなわちイエスと同じく自己放棄の態度を取り、己のことを求めず唯神の御旨のみを求め、己が十字架を負いて死に向って進まなければならない。
辞解
[従ふ] 弟子となることの意味に用う。
[己をすて] 「己を拒み」で、自己否定の意、自己なるものを保存しつつイエスの弟子となることはできない。
[己が十字架を負ふ] 罪人が十字架刑を受くる時は、自己の釘 くべき十字架を負わされる習慣があった。それ故に「己が十字架を負ふ」とは死につくこと。
8章35節
口語訳 | 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。 |
塚本訳 | (十字架を避けてこの世の)命を救おうと思う者は(永遠の)命を失い、わたしと福音とのために(この世の)命を失う者は、(永遠の)命を救うのだから。 |
前田訳 | おのがいのちを救おうと思うものはそれを失い、わたしと福音のゆえにいのちを失うものはそれを救おう。 |
新共同 | 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 |
NIV | For whoever wants to save his life will lose it, but whoever loses his life for me and for the gospel will save it. |
註解: ここに重要なる逆説がある。肉体の生命は自己である、これを全うせんとするものは永遠の生命を失い、前者を棄てて死につく者は永遠の生命を獲得する。大死一番始めて真の生命に達する。
辞解
マタイ伝ルカ伝には「福音のために」を欠く。
8章36節
口語訳 | 人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。 |
塚本訳 | 全世界をもうけても、命を損するのでは、その人になんの得があろう。 |
前田訳 | 全世界をかち得ても、おのがいのちを取られれば何の役に立とう。 |
新共同 | 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 |
NIV | What good is it for a man to gain the whole world, yet forfeit his soul? |
口語訳 | また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。 |
塚本訳 | また、人は(一度失った永遠の)命を受けもどす代価として、何か(神に)渡すことができようか。 |
前田訳 | おのがいのちの代価に何を与ええようか。 |
新共同 | 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 |
NIV | Or what can a man give in exchange for his soul? |
註解: 大切なのは生命であって、物質ではない。人は自己の生命のために物質を要求する。しかしながら所有慾満足の絶頂は全世界の所有であるけれども、これによるもその生命の損失を補うことはできない。一旦失われし生命は代償をもってこれを買戻すことはできない。それ故に我らの求むべきは不死の生命であって、死ぬべき生命に宿れる慾望の満足ではない。而して不死の生命を獲得することは、己を棄て、己が十字架を負いてイエスに従うことである。
辞解
[損する] 最後の審判の際において死の宣告を受くることを指す。
8章38節
口語訳 | 邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。 |
塚本訳 | (わたしを信ずると言いながら、)神を忘れた、罪のこの時代において、わたしとわたしの福音(を告白すること)とを恥じる者があれば、人の子(わたし)も、父上の栄光に包まれ、聖なる天使たちを引き連れて(ふたたび地上に)来る時、その(臆病)者を(弟子と認めることを)恥じるであろう。」 |
前田訳 | この邪悪な罪の世でわたしとわがことばを恥じるものがあれば、人の子も、父の栄光を受けて聖なるみ使いらとともに来るときに、そのようなものを恥じよう」と。 |
新共同 | 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」 |
NIV | If anyone is ashamed of me and my words in this adulterous and sinful generation, the Son of Man will be ashamed of him when he comes in his Father's glory with the holy angels." |
註解: この世において今の時代に、その不義と罪悪との生活に調子を合せていくことは極めて容易であり、反対に主イエスを信じその御言を守る者はこの世の人々よりは偏屈、固陋 、潔癖として排斥せられ辱められる運命に置かれている。それ故に極めて強き決心をもってイエスに従うにあらざれば、人はこの侮辱にたえることができない。イエスすらこの辱しめを受け給うた。況 してその弟子をや。この侮辱にたえ得ずして福音を恥とする者は(ロマ1:16ロマ1:16)、世の終りにおいてイエスが世を審 かんがために再び来り給う時、イエスは彼を見ることを恥とし給うであろう。
辞解
[不義なる] moichais は「姦淫の」で神を離れて神ならざるものを拝すること、不信仰の時代をいう。
[人の子] 審判または再臨に関する場合に多く用いらる。
[父の栄光をもて云々] キリスト再臨の時の光景。
マルコ伝第9章
9章1節 また
口語訳 | また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。 |
塚本訳 | また言葉をつづけられた、「アーメン、わたしは言う、(その時はじきに来る。)今ここに立っている者のうちには、死なずにいて、力強い神の国が来るのを見る者がある。」 |
前田訳 | そしていわれた、「本当にいう、ここに立つもののうち、神の国が権威をもって現われるまで死を味わわぬものがある」と。 |
新共同 | また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」 |
NIV | And he said to them, "I tell you the truth, some who are standing here will not taste death before they see the kingdom of God come with power." |
註解: 本節は前章の終りに入るべきものである。神の国が権能をもて来るとはイエスの再臨の時であり、イエスが王として権能をもって世を審 き神の国を立てんとて来り給う場合を指す。ここに立つ者はイエスの再臨の切迫せることを思い緊張せる態度をもってこれを待望むべきである。
辞解
本節を第9章の初頭に置きし所以は、これを次に録されるイエスの変貌の預言と解したためである。本節をかく解することは適当ではない。むしろ前章末尾の論の継続と見るべきである。「死を味わぬ者」これを肉体の死と解する場合は、イエスの再臨が「此處に立つ者」の中のある者がなお存命中に起ることの意味となる。もしまたこれを永遠の死の意味と解する時は、「此處に立つ者」の中に信仰によりて永遠の生命を獲得する者があることの意味となる。イエスの再臨が非常に近いと思われたのはこれを前者の意味に取ったからであろう。而してイエスの再臨が彼らの生時に起らなかったので、後代の人々はこれをイエスの変貌、または聖霊降下、またはエルサレムの陥落に関する教えと解することによりこの困難を除かんとした。しかしながらこの御言は主の再臨の時期を知る材料とすべきではなく、主の再臨に対する態度を教えられしものと見るべきである。
要義 [生死の転換]マコ8:34−9:1におけるイエスの御言は、「生」と「死」とについて全く特異の世界を展開していることに注意することが必要である。イエスにとりては生に二種の生あり死にも二種の死あり、この世における肉体的生命の生死と、霊の世界、神の国における永遠の生命とである。この二者は互に相対立しているのであって、一つを得んとすれば他を失わなければならない。イエスもその肉体の生命を失って永遠の生命に復活し給うた。我らもまた己をすてて永遠に生きなければならない。
口語訳 | 六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、 |
塚本訳 | (それから)六日の後、イエスはただペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山にのぼられた。すると彼らの見ている前でイエスの姿が変った。 |
前田訳 | 六日ののちイエスはペテロとヤコブとヨハネを連れて高い山へ上られた。彼らだけの内輪であった。すると彼らの目の前でイエスのお姿が変わり、 |
新共同 | 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 |
NIV | After six days Jesus took Peter, James and John with him and led them up a high mountain, where they were all alone. There he was transfigured before them. |
註解: ルカ9:28には「八日ばかり過ぎて」とあり、六日にその前後の日数を加えし漠然たる言い方である。総じてユダヤ人の日数の表顕法は日本人のそれと同様不精密である。
イエスただペテロ、ヤコブ、ヨハネのみを
註解: 直訳「イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネを伴い、人を避けて唯彼らのみを高き山上に連れゆき給う」。この三人はイエスの弟子中の最も大なるもので重要なる機会においては、イエスは常に彼らのみを伴い給うた(マコ5:37。マコ14:32。マタ26:37)。イエスが人を避けて山に登り給える動機は来るべき苦難に対して祈りをもって準備し給わんがためであった(ルカ9:28に「祈らんとて」とあるを見よ)。主なる弟子のみを携え給いしは、彼らにもその心の備えを為さしめんがためであった。このおごそかなる祈りはイエスを変貌せしめたのであった。
辞解
[高き山] マタ17:1辞解参照。
9章3節
口語訳 | その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。 |
塚本訳 | 着物(まで)が真っ白に輝きだし、この世のどんな晒し屋でも、これほど白くは出来ないくらいであった。 |
前田訳 | お着物が真白に輝きはじめ、世のどのさらし屋もできないほど白くなった。 |
新共同 | 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 |
NIV | His clothes became dazzling white, whiter than anyone in the world could bleach them. |
註解: 苦難を前にして切に祈り給うイエスの御姿は、それだけでもすでに神々しき極みであったに相違ない。かかる状態がその極点に達した時のことを考えるならばイエスの変貌も、考え得ないことではない。また蛹 が蛾に変るごとき事実を見るならば肉体の変化も不可能なことではない。この変貌がイエスの再臨の時の栄光に類せるものと考えられた(Uペテ1:16−18)。
辞解
[其の状 かはり] マタ17:2辞解参照。
9章4節 エリヤ、モーセともに
口語訳 | すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。 |
塚本訳 | するとエリヤがモーセと共に彼らにあらわれ、二人はイエスと話していた。 |
前田訳 | そしてエリヤがモーセとともに彼らに現われてイエスと語りあっていた。 |
新共同 | エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 |
NIV | And there appeared before them Elijah and Moses, who were talking with Jesus. |
註解: モーセもエリヤも共に特別なる死を経過せる人であり(申34:6。U列2:11)、モーセは律法の代表、エリヤは預言者の代表とも見ることができ、かつエリヤはメシヤの先駆者であり(マラ3:23)、モーセはまたエリヤの型であった(申18:15)。これらの諸点より、この場合イエスの死とその復活につきて語る(ルカ9:31)に最も適当せる人物であった。イエスの死は律法の完成であり、預言の成就であり、而して神の為し給う処である。
9章5節 ペテロ
口語訳 | ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。 |
塚本訳 | ペテロが口を出してイエスに言う、「先生、わたし達(三人)がここにいるのは、とても良いと思います。だから小屋を三つ造りましょう。あなたに一つ、モーセに一つ、エリヤに一つ。」 |
前田訳 | そこでペテロはイエスにいった、「先生、われらがここにいるのをさいわい、幕屋を三つ作りましょう、あなたに一つ、モーセに一つ、エリヤに一つ」と。 |
新共同 | ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 |
NIV | Peter said to Jesus, "Rabbi, it is good for us to be here. Let us put up three shelters--one for you, one for Moses and one for Elijah." |
註解: ペテロを始め他の二人もこの異常なる光景を見て畏怖と驚異の念に充された。而してペテロは例のごとく即座にその思うがままを吐露したのであった。彼らがモーセ、エリヤおよびイエスと共にいることの幸福をたたえ、三つの廬 (幕屋)を造りて彼らを住まわしめんとの意を漏した。ペテロはこの歴史的の三人が共にいることの歓喜に全く支配せられ、モーセやエリヤが永く地上に留り得るものなりや否やにつきて反省する余裕すらなかった。またイエスがモーセおよびエリヤによりて代表されることの完成者であることを知る由もなかった。
辞解
[差出でて] 「答えて」で、必ずしも人の問いに答える意味ではなく、何らかの事実に「応じて」の意味に用うるヘブル語法である。「差出でて」は適訳ではない。
「此處に居るは善し」を「汝らに事 うるために好都合である」と解する説あれど(L2)、不適当である。
9章6節
口語訳 | そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。 |
塚本訳 | 彼はなんと言ってよいかわからなかったのである。三人とも怯えていたから。 |
前田訳 | 何といってよいかペテロは知らなかった。三人はおそれていたのである。 |
新共同 | ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 |
NIV | (He did not know what to say, they were so frightened.) |
註解: 前節のペテロの言は全く狼狽の結果であった、ルカとマルコはこの説明を与えているけれども、おそらくペテロ自身その時の心持をマルコに語っていたに相違ない。
9章7節
口語訳 | すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。 |
塚本訳 | すると雲がおこって彼ら(イエスとモーセとエリヤと)を掩い、「これはわたしの“最愛の子、”“彼の言うことを聞け”」という声が雲の中からきこえてきた。 |
前田訳 | すると雲が出て彼らをおおい、加えて雲から声がした、「これはわがいとし子、彼に耳傾けよ」と。 |
新共同 | すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 |
NIV | Then a cloud appeared and enveloped them, and a voice came from the cloud: "This is my Son, whom I love. Listen to him!" |
註解: イエスのバプテスマの時に天より聞えしこの声が再び天より起った。この度は直接に弟子たちに向って語られ、かつ申18:15にモーセの預言せるごとく「汝ら之に聴け」との語が加えられた、これにより弟子たちにとりてイエスのメシヤたることがいよいよ明かにせられた。而して彼らはこの凡ての光景の中に明かに神の臨在を感得することができた。
辞解
[雲] 神の在し給う所と考えられた。雲が彼らを覆うたのは神が彼らを隠し給うたこととなる。
9章8節
口語訳 | 彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。 |
塚本訳 | 途端に(すべてが消えうせて、)見まわすと、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一しょにおられた。 |
前田訳 | その途端、あたりを見まわすと、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らとともにおられた。 |
新共同 | 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 |
NIV | Suddenly, when they looked around, they no longer saw anyone with them except Jesus. |
註解: 弟子たちの眼前の光景は一変して唯イエスが始めのごとき姿にて在し給うを見るのみであった。マタイは弟子たちが天よりの声を聴き懼れて地に倒れ伏している処をイエスがやさしき手をもって觸り彼らを励まし起たしめ給いしことを記す(マタ17:6、7)。マルコ伝の方が事実に近きもののごとくに思わる。イエスのみを見てモーセとエリヤが見えなくなったのは、イエスにおいて律法と預言者とが完成せられしことを示すものと見て意義深きを感ずる。
要義 [イエスの変貌と弟子たちに与えし印象]この現象は三人の弟子たちにとりてあまりに驚くべき事実であったので、彼らはイエスの戒命に従い(9節)このとこを当分誰にも告げなかった(ルカ9:36)。しかしながら彼らの心中にはその師が普通の人間ではなく、モーセやエリヤのごとく神の僕ではなく神の子として独一なる存在にいまし給うことを強く印象せられたに相違ない。而してこの栄光に耀けるイエスの御姿は、イエスの死後、その再臨の時の栄光を想わしむる材料となったことは疑う余地がない(Uペテ1:17、18)。神は我らに十分なる材料を与えてイエスを信ぜしめんとし給うた。これをしも信じないならば、その責任は凡て我らの側にあると言わなければならない。
9章9節
口語訳 | 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。 |
塚本訳 | 山を下りながら、イエスは、人の子(わたし)が死人の中から復活する時でなければ、いま見たことをだれにも話してはならないと彼らに命じられた。 |
前田訳 | 山をおりながら、人の子が死人の中から復活する時でなければ、彼らが見たことをだれにもいうな、と命じられた。 |
新共同 | 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。 |
NIV | As they were coming down the mountain, Jesus gave them orders not to tell anyone what they had seen until the Son of Man had risen from the dead. |
註解: イエスの復活の事実を知りて始めて変貌の真の意義を把握することができるのであって、それまでは、もしこの事実が一般に流布するならば、唯単にイエスを奇怪なる迷信の対象となすに過ぎないこととなるであろう。イエスは外部的に現われし奇跡が語り伝えられることを非常に嫌い給うた。なおイエスが確信をもって復活のことを語り給うことに注意すべし。9−13節はルカ伝にこれを欠く。
9章10節
口語訳 | 彼らはこの言葉を心にとめ、死人の中からよみがえるとはどういうことかと、互に論じ合った。 |
塚本訳 | 彼らはこの言葉をかたく守ったが、互の間では(人の子が)死人の中から復活するとは、いったい何事だろうと評議をしていた。 |
前田訳 | 彼らはこのことばを守ったが、死人の中から復活するとは何であるかを互いに論じあった |
新共同 | 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。 |
NIV | They kept the matter to themselves, discussing what "rising from the dead" meant. |
註解: 一般に復活ということは彼らの問題ではなかった。この場合はイエスが如何なる死と如何なる復活とを経給うかにつきて論じ合った。凡てが弟子たちにとりて不思議なる光景であったからである。
9章11節
口語訳 | そしてイエスに尋ねた、「なぜ、律法学者たちは、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。 |
塚本訳 | 彼らはこう言ってイエスに尋ねた、「なぜ聖書学者は、まずエリヤが(来てそのあとで人の子が)来るべきである、と言うのですか。(人の子は来られたのに、エリヤはまだ来ないではありませんか。)」(彼らは山の上のことを思い浮かべたのである。) |
前田訳 | そして彼にたずねた、「なぜ学者はまずエリヤが来ねばならぬというのですか」と。 |
新共同 | そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 |
NIV | And they asked him, "Why do the teachers of the law say that Elijah must come first?" |
註解: 学者はマラ3:23に基き、メシヤの出現の前に、先駆者としてエリヤが必ず来ることを主張しているのであるが、イエスがすでに来り給い、今やまさに死に赴くところであるのにエリヤが来ないではないかとの質問である。
9章12節 イエス
口語訳 | イエスは言われた、「確かに、エリヤが先にきて、万事を元どおりに改める。しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてあるのはなぜか。 |
塚本訳 | 彼らに言われた、「たしかにまず“エリヤが”来て、(人の子の道を準備するために)万事を“整頓する。”ただ(もしそれならば)、どうして人の子が多くの苦しみをうけて、軽蔑されることが(聖書に)書いてあるのだろうか。 |
前田訳 | 彼はいわれた、「まずエリヤが来て万物を改める。しかし、人の子について、『苦しみを重ねてはずかしめられる』と聖書にあるのはどうか。 |
新共同 | イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。 |
NIV | Jesus replied, "To be sure, Elijah does come first, and restores all things. Why then is it written that the Son of Man must suffer much and be rejected? |
註解: 後半私訳「然らば人の子につき如何に録されたるか。彼が多くの苦難を受け、かつ蔑 されることなり」(E0、I0、M0)。イエスの答は二部に分れ次節と相対応している。すなわちエリヤに関する預言は実現することは事実であることを余は認める。然らば汝らに反問するが聖書は人の子につきて如何に語っているか。言うまでもなくイザ53:1以下のごとく彼の苦難と蔑視を預言しているではないか。次節にいうごとく、前者はバプテスマのヨハネにおいて実現した。後者もやがて実現するであろう。
辞解
本節後半は現行訳のごとくに訳することを得(L2)るけれども連絡がやや不円滑なり。本分もやや難解なり。
9章13節 されど
口語訳 | しかしあなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」。 |
塚本訳 | しかしわたしは言う、エリヤも(すでに)来た。(洗礼者ヨハネがそれであった。)ただ人々は、彼について書いてあるとおりに、したい放題のことを彼にしたのである。(すなわち彼を殺し、人の子の道を準備させなかったので、人の子が苦しみをうけねばならない。)」 |
前田訳 | わたしはいう、エリヤも来た。ただ、人々は思うままに彼をあしらった、彼について聖書にあるように」と。 |
新共同 | しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」 |
NIV | But I tell you, Elijah has come, and they have done to him everything they wished, just as it is written about him." |
註解: 弟子たちはこれがバプテスマのヨハネを指していることを悟った(マタ17:13)。バプテスマのヨハネは我が先駆者たるエリヤとしてこの世に来た、然るに人々はヨハネをその心のままに取扱いついに彼を殺した。あたかもT列18章、T列19章においてエリヤの受けしごとき取扱いである、されば人の子にに対してもこの世は聖書に録されしごとくにこれを取扱うであろう(マタ17:12)。
要義 [預言を解する力]預言はその文字の表面においてこれを解する場合、その実現を見分くる力が無い。聖書の言をその霊的内容において把握し、同時に凡ての現象をもその霊的意義において把握する時始めて預言の真意とその実現とを知ることができる。イエスがバプテスマのヨハネをもってエリヤの再来と見たのもこの霊眼であり、ナザレの民がイザ61:1、2の預言がイエスにおいて実現せることを見分け得なかったのはこの霊眼を有たないからであった。イエスの弟子たちにも未だこの力が与えられなかった。預言は文字の知識をもってこれを理解することはできない。
9章14節 [
口語訳 | さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。 |
塚本訳 | (山を下りて、ほかの)弟子たちの所にかえって見ると、大勢の群衆が弟子たちを取り巻き、聖書学者たちがこれと議論をしていた。 |
前田訳 | 弟子たちのところへ行かれると、大勢の群衆が彼らをかこみ、学者らが彼らと論じているのを見受けられた。 |
新共同 | 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。 |
NIV | When they came to the other disciples, they saw a large crowd around them and the teachers of the law arguing with them. |
註解: この弟子たちはイエスに従える三人の弟子以外の弟子たちを指す、十二使徒の他の九人と限ることは無理である。この記事はマルコ伝に最も詳細である。
辞解
異本に「かれ・・・・・来りて・・・・・見給う」と単数にて表わされるものあり。
[相共に] 原文になし、「来りて」を複数とすれば「見給う」と訳することは不適当なり。
[論ずる] 18節によれば弟子たちが治癒を行い得ざりしことに関するものであった。
9章15節
口語訳 | 群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。 |
塚本訳 | 群衆はイエス(の姿)を見るが早いか、皆びっくりして、駆けてきて歓迎した。 |
前田訳 | 群衆は皆すぐ彼を見つけ、おどろいて駆けよって来て歓迎した。 |
新共同 | 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。 |
NIV | As soon as all the people saw Jesus, they were overwhelmed with wonder and ran to greet him. |
註解: 群衆の驚きは、癲癇 の子が醫されずして、弟子と学者たちとの間に激論が始まり困憊 していたその瞬間に突然イエスが現われ給うたので喜び驚いたのであろう。なお他の理由を掲ぐる学者もある。例えば変貌の山におけるイエスの栄光がなお残っていたためと想像するがごとし。
9章16節 イエス
口語訳 | イエスが彼らに、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」と尋ねられると、 |
塚本訳 | イエスが群衆に尋ねられた、「弟子たちと何を議論しているのか。」 |
前田訳 | そこで彼らにたずねられた、「何を論じあっているのか」と。 |
新共同 | イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、 |
NIV | "What are you arguing with them about?" he asked. |
註解: 「かれら」は弟子たちを指す、群衆も学者に和して弟子たちを責めていた。
9章17節
口語訳 | 群衆のひとりが答えた、「先生、おしの霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。 |
塚本訳 | 群衆のうちの一人が答えた、「先生、唖の霊につかれている伜をあなたの所につれて来ました。 |
前田訳 | 群衆のひとりか答えた、「先生、息子をおそばに連れて来ました。唖者の霊につかれています。 |
新共同 | 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。 |
NIV | A man in the crowd answered, "Teacher, I brought you my son, who is possessed by a spirit that has robbed him of speech. |
9章18節
口語訳 | 霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。 |
塚本訳 | この子は霊がつくと所かまわず投げ倒され、泡をふき、歯斬りして、体がこわばってしまいます。それで霊を追い出すことをお弟子たちに頼みましたが、おできになりませんでした。」 |
前田訳 | 霊がとりつくと、どこでも地に倒され、泡をふき、歯ぎしりして硬直します。お弟子たちに霊を追い出すようお願いしましたが、できませんでした」と。 |
新共同 | 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」 |
NIV | Whenever it seizes him, it throws him to the ground. He foams at the mouth, gnashes his teeth and becomes rigid. I asked your disciples to drive out the spirit, but they could not." |
註解: 弟子も学者も群衆も誰一人答うる者が無かった。彼らは切実なる要求を伴わざる空論を闘わせていたからである。唯一人病児の父のみ真剣にその子の醫されんことを望み、イエスの問いに答えずして直ちに自己の願望をイエスに告げた。真実なる要求なき者にとりてイエスは用なき他人である。
辞解
[唖の霊] 人を唖ならしむる悪霊とも解することができ、また霊それ自身が唖にして、それが人に憑きてその人をも唖ならしむるものとも解することを得。
9章19節
口語訳 | イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。 |
塚本訳 | 彼らに答えられる、「ああ不信仰な時代よ、わたしはいつまであなた達の所におればよいのか。いつまであなた達に我慢しなければならないのか。その子をつれて来なさい。」(こう言って群衆のいない所に行かれた。) |
前田訳 | 彼は答えられた、「ああ不信の世よ、いつまでわたしはいっしょか。いつまであなた方を辛抱するのか。その子をお連れ」と。 |
新共同 | イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 |
NIV | "O unbelieving generation," Jesus replied, "how long shall I stay with you? How long shall I put up with you? Bring the boy to me." |
註解: 「彼ら」は「弟子」または「群衆」または「学者」と見るよりもそれらの全体に対するものと見るを可とす。学者らの不信仰はもとより、弟子も、群衆も不信であった。而してイエスは殊に弟子たちの無力を悲しみ給えることは勿論である。イエスは間もなくこの世を去り給うべきことを暗示し、彼らの不信を忍び得ざる悲憤の心を漏し給うた。而してイエスはこの奇蹟を衆人の前に行い給うことによりて、その能力を示し給い、かかる能力を有ち給う彼を殺さんとする不信の代の前に、その証を為し給うた。彼を信ぜざるものは言い逃るべき術がない。いわんや彼を殺す者おや。
9章20節
口語訳 | そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。 |
塚本訳 | 人々がイエスの所につれて来ると、霊はイエスを見るや否や、その子をひどくひきつけさせたので、子は地に倒れ、泡をふきながらころげまわった。 |
前田訳 | 人々は子を彼のところへ連れて来た。霊が彼を見るや否や、子をけいれんさせたので、子は地に倒れ、泡をふいてころげまわった。 |
新共同 | 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。 |
NIV | So they brought him. When the spirit saw Jesus, it immediately threw the boy into a convulsion. He fell to the ground and rolled around, foaming at the mouth. |
註解: これは悪霊の最後の活躍であるとしてここに記されている。この種の疾病は当時凡て悪霊の仕業と解せられていた。
9章21節 イエスその
口語訳 | そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。 |
塚本訳 | イエスが父親に尋ねられた、「こうなってから、どのくらいになるか。」父親がこたえた、「子供の時からです。 |
前田訳 | 彼は子の父にたずねられた、「こうなってからどれほどの時がたったか」と。父は答えた、「幼いころからです。 |
新共同 | イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。 |
NIV | Jesus asked the boy's father, "How long has he been like this?" "From childhood," he answered. |
9章22節
口語訳 | 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。 |
塚本訳 | 霊はこの子を殺そうとして、幾たびか、火の中、水の中に投げ込みました。それでも、もしなんとかお出来になるなら、わたしども(親子)を不憫と思って、お助けください。」 |
前田訳 | 霊はこの子を片づけようとして、火の中、水の中へ何度も投げ込みました。もしできましたらわれらをあわれんでお助けを」と。 |
新共同 | 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」 |
NIV | "It has often thrown him into fire or water to kill him. But if you can do anything, take pity on us and help us." |
註解: 21−24節はマルコ伝特有であって、その当時の光景を髣髴せしめている。永年の病疾であったので、その父すらイエスといえども必ず彼を醫し得るや否やを知らなかった。「なにか為し得ば」と言ったのはかかる心持を示す。
9章23節 イエス
口語訳 | イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。 |
塚本訳 | イエスは言われた、「もしお出来になるなら(と言うの)か。信ずる者にはなんでも出来る。」 |
前田訳 | イエスはいわれた、「もしできましたら、か。信じるものには何でもできる」と。 |
新共同 | イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」 |
NIV | "`If you can'?" said Jesus. "Everything is possible for him who believes." |
註解: 半信半疑の者、全心全霊をもって依り頼まざる者にとりては、神すら何をも為し得ずまた為し給わない。全心全霊をもって信ずる者には神はすべてのことを為し得給う。絶対の信頼のみが信頼である。半信半疑は不信に劣る。
辞解
[為し得ばと言ふか] 異本および異解によれば「もし信じ得るならば」とせらる。現行訳がまさっている(L2)。
9章24節 その
口語訳 | その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。 |
塚本訳 | 即座にその子供の父親が叫んだ、「信じます。不信仰をお助けください。」 |
前田訳 | その子の父はすぐ叫んだ、「信じます。不信のわたしにお助けを」と。 |
新共同 | その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 |
NIV | Immediately the boy's father exclaimed, "I do believe; help me overcome my unbelief!" |
註解: 病児の父はイエスの御言によりて心開かれ、断乎たる心をもってイエスを信じた。しかし彼はそれだけでもなお自己の不信ならんことを恐れて、不信仰の場合においてもなお彼を助けてその病児を醫し給わんことをイエスに求めた(L2、I0、M0、B0)。
辞解
[信仰なき我を助け給え] 直訳「我が不信仰を助け給え」で自分に信仰を与えて、その不信仰を補わんことの願いであると解す(B1、E0)。ただし結局において子供の醫されんことを祈ることとなること勿論である。
9章25節 イエス
口語訳 | イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「おしとつんぼの霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。 |
塚本訳 | イエスは群衆が駆けよってくるのを見ると、(急いで)汚れた霊を叱りつけて言われた、「唖と聾の霊、わたしが命令するのだ、この子から出てゆけ、二度と入るな!」 |
前田訳 | イエスは群衆が駆けよるのを見て、けがれた霊をいましめていわれた、「唖者と耳しいの霊よ、わたしが命ずる、この子から出よ、二度と入るな」と。 |
新共同 | イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」 |
NIV | When Jesus saw that a crowd was running to the scene, he rebuked the evil spirit. "You deaf and mute spirit," he said, "I command you, come out of him and never enter him again." |
註解: 前に集い来れる群衆の上に更に群衆が増し加わって来たのでイエスは急ぎその治療を行い給うた。群衆に言い広められることを嫌い給いしがためである。
9章26節
口語訳 | すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。 |
塚本訳 | 霊はどなって、はげしくひきつけさせて、出ていった。子は死んだようになったので、多くの人が、「死んだ」と言った。 |
前田訳 | 霊は叫んでひどく麻痺させて出て行った。子は死んだようになったので、多くの人が「死んだ」といった。 |
新共同 | すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。 |
NIV | The spirit shrieked, convulsed him violently and came out. The boy looked so much like a corpse that many said, "He's dead." |
註解: 悪霊がその退却に際して最後の打撃を病者に与えたのであった。25、26節の治癒の過程はこれを今日の心理学的過程としても説明することができる。すなわち病者の錯乱せる精神がイエスの強烈なる精神力によりて調節せられ、その大なる変化に際して死人のごとくに凡ての力を喪失したのであると解することができる。ただし今日の精神病の諸疾患が他の霊的実在者の働きでないと確言することは医学的に見ても早計であろう。▲今日の精神分裂症に対する衝撃法は物質的の力によるものであるが、25節の治癒は霊の力によって同様の結果を来したものであろう。
口語訳 | しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。 |
塚本訳 | イエスはその子の手をとって起された。すると立ち上がった。 |
前田訳 | しかしイエスがその手を取って起こされると、立ちあがった。 |
新共同 | しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。 |
NIV | But Jesus took him by the hand and lifted him to his feet, and he stood up. |
註解: イエスは罪になやめる者の心を立たしめ給う、この病者を起たしめ給えるもその力による。
9章28節 イエス
口語訳 | 家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。 |
塚本訳 | 家にかえられると、弟子たちは人のいない時に尋ねた、「なぜわたし達には霊を追い出せなかったのでしょうか。」 |
前田訳 | 家にお帰りになると、弟子たちがそっとおたずねした、「なぜわれらに霊が追い出せなかったのですか」と。 |
新共同 | イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。 |
NIV | After Jesus had gone indoors, his disciples asked him privately, "Why couldn't we drive it out?" |
9章29節
口語訳 | すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。 |
塚本訳 | 彼らに言われた、「この種類(の霊)は、祈り以外(の手段)では決して出てゆかせることは出来ない。」 |
前田訳 | 彼はいわれた、「この類(たぐい)のものは祈りによるほか決して追い出せない」と。 |
新共同 | イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。 |
NIV | He replied, "This kind can come out only by prayer. " |
註解: この全体の出来事に関するイエスの教訓である。祈りは神との霊の交通である。人は祈りによりて神の力を受け、この力によりて悪の霊に打勝つことができる。悪霊の力は人よりも強い、故に祈ることなしに人はサタンの前に無力である。▲▲この際イエスはこの場で特に祈り給わなかった。変貌の山におけるイエスの祈りがこの力の源であった。
要義 [死人のごとくなりき]悪霊に憑かれて苦しめられし少年の姿は、サタンに捕われて苦悩する罪人に似ている。人間の罪は全く彼を支配し、彼を弄 び、彼をして転々苦悩せしめる。殊に彼がイエスに接するに及んでは、益々自己の罪の甚だしさを知り、ついに死にたるもののごとくなるに至るのである。罪の苦悩を経験してここに至らざる者は未だ真に罪の力を知っているものということができない。而してかくのごとくに死にたるものとなるに及べばイエスは御手を伸べて彼を立上がらしめ給う。悪霊より救われし者の姿も全くかくのごとくであるということができる。
9章30節
口語訳 | それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 |
塚本訳 | 一行は(エルサレムに上るため)そこを去って、ガリラヤを通った。しかしイエスは(この旅行が)人に知られることを好まれなかった。 |
前田訳 | 彼らはそこを出てガリラヤを通った。しかし彼はそれが人に知れることを望まれなかった。 |
新共同 | 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 |
NIV | They left that place and passed through Galilee. Jesus did not want anyone to know where they were, |
註解: 「此處 」はピリポ・カイザリヤ(マコ8:27)を指す、それよりイエスはガリラヤを通ってその旅路を続け給うた。一ヶ所に滞留し給うことがないように。而してイエスは次節に掲ぐる目的のために、その旅行が一般の人々に知られるを好まず、ひそかにその旅路を続け給うた。
9章31節 これは
口語訳 | それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。 |
塚本訳 | 「人の子(わたし)は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。殺されるが、三日の後に復活する」と言って、弟子たちに教えて(その覚悟を求めて)おられたからである。 |
前田訳 | それは、「人の子は人々の手に渡され、人々は彼を殺し、彼は殺されて三日ののちに復活しよう」と弟子たちに教えておられたからである。 |
新共同 | それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 |
NIV | because he was teaching his disciples. He said to them, "The Son of Man is going to be betrayed into the hands of men. They will kill him, and after three days he will rise." |
註解: 本節は前節末尾の理由を示す。この当時のイエスの最大の関心はマコ8:31に記されるごとく十二弟子の教育にその御心を集中することであり、かつその受難と復活とを、弟子たちの心に深く印象付けることであった。かかることは多くの群集の中においては為し得ないことであって、そのために、イエスは特に人々に知られずに過すことを要求し給うた。
9章32節
口語訳 | しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。 |
塚本訳 | 彼らはこの言葉(の意味)がわからなかった。でもこわいので尋ねなかった。 |
前田訳 | 彼らはこのことがわからなかったが、たずねることをおそれていた。 |
新共同 | 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。 |
NIV | But they did not understand what he meant and were afraid to ask him about it. |
註解: マコ8:32。マコ9:1の場合と同じく、この受難の予告を充分に悟らなかった。弟子の耳にはイエスの言が聞えていた。しかもその語が彼らの心に入らなかった。これを悟る能力が無かったのである。あたかも性に関する成年の言が幼少の時代にはこれを聞いても悟り得ないと同様である(ルカ9:45要義参照)。またこれを問うことを恐れたのは、イエスの態度があまりにも厳粛真剣であったので、これを理解しないのはイエスに対し大なる失望を与うることを感じたからである。
9章33節
口語訳 | それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。 |
塚本訳 | カペナウムに来た。家につかれるとイエスは、弟子たちにお尋ねになった、「道々何を評議していたのか。」 |
前田訳 | 彼らはカペナウムに来た。家に入って弟子たちにおたずねになった、「道すがら何を論じあったか」と。 |
新共同 | 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 |
NIV | They came to Capernaum. When he was in the house, he asked them, "What were you arguing about on the road?" |
註解: エルサレムに向って進み給うイエスはそのガリラヤ通過の際にカペナウムに立寄り給うた(マタ17:24)。人を避けて旅行し給えるイエスがカペナウムに立寄り給うことは不可解であるとする学者(L2)があるけれども、必ずしも然らず、弟子たちの議論につきイエスはこれを聴いていなかったのであろう。
9章34節
口語訳 | 彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。 |
塚本訳 | 彼らは黙っていた。(自分たちのうちで)だれが一番えらいかと、道々論じ合っていたからである。 |
前田訳 | 彼らは黙っていた。道すがらだれか一番偉いか論じあっていたからである。 |
新共同 | 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 |
NIV | But they kept quiet because on the way they had argued about who was the greatest. |
註解: 弟子たちが黙然たりしは、心に恥ずる処があったからである。弟子たちは皆野心満々たる青年であった。一方イエスがまさに十字架の露と消えんとしつつある時弟子たちはこれを知らざるもののごとく互いにその優位を争っていた。ここではマコ10:37のごとく神の国における優位(L2)と見るよりも、むしろ現世生活における優位(M0)と解するを可とす。弟子たちの考え方も次第に発展したものと見るべきである。
辞解
[大ならん] 直訳「ヨリ大ならん」。
9章35節 イエス
口語訳 | そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。 |
塚本訳 | イエスは坐って、十二人を呼んで言われる、「一番上になりたい者は皆の一番下になれ、皆の召使になれ。」 |
前田訳 | 彼はすわって十二人を呼んでいわれる、「先頭を切りたいものは、皆のしんがりで皆の僕(しもべ)になれ」と。 |
新共同 | イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 |
NIV | Sitting down, Jesus called the Twelve and said, "If anyone wants to be first, he must be the very last, and the servant of all." |
註解: 重大なる真理を示さんがために十二弟子をみな呼び集め給うた。この世において人の上に立つ者は、他の人々を押し除けてその上に立ち、他の人々を使役して自分に奉仕せしめるのであるが、神の国においてはその反対で謙遜をもって凡ての人の最後に自己を置き、凡ての人の役者 diakonos としてこれに仕うべしとのことである。かかる人が神の国における最高の存在である。
辞解
[なるべし] estai は未来動詞であるため、この節の意味を「頭たらんとの野心を持つものはその罰として最後に立たしめられ凡ての人の奴隷となるであろう」との意味に解せる説があるけれど適当ではない。
9章36節
口語訳 | そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。 |
塚本訳 | それから、一人の子供(の手)を取って彼らの真中に立たせ、それを抱いて言われた、 |
前田訳 | そしてひとりの子どもの手を取って一座の真ん中に立たせ、抱いていわれた、 |
新共同 | そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 |
NIV | He took a little child and had him stand among them. Taking him in his arms, he said to them, |
9章37節 『おほよそ
口語訳 | 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。 |
塚本訳 | 「わたしの名を信ずる一人のこんな子供を迎える者は、わたしを迎えてくれるのである。わたしを迎える者は、わたしを迎えるのでなく、わたしを遣わされた方をお迎えするのである。」 |
前田訳 | 「わが名のゆえにこのような子のひとりを迎えるものはわたしを迎えている。わたしを迎えるものはわたしをでなくて、わたしをおつかわしの方をお迎えしている」と。 |
新共同 | 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」 |
NIV | "Whoever welcomes one of these little children in my name welcomes me; and whoever welcomes me does not welcome me but the one who sent me." |
註解: マタイ伝には本節を省きルカ伝は33b−35の問答を省く、マルコ伝の記事は、連絡宜しからず。大体の思想は、大ならんとする者は小なるものとなり、幼児のごとき信仰を持たなければならぬ。而してこの世はかかる者を無視し虐待する。しかしながらキリストの名のため、キリストを信ずることの故にかかる者を受け納る者は結局キリストを受け、神を受け納れることとなる。それ故にキリスト者は凡ての人の後 となり、凡ての人の役者となるけれども、彼は決して軽蔑さるべきものではない。▲かかる一人の幼児はこの世の権力者に無視されるけれどもイエスの弟子はかかる者を受けこれに事 えなければならない。
要義 [幼児のごとき信仰]虚栄心なく、偽善なく、報いを求むることなくして喜んで人に事 え、人の後に置かれるも毫 もこれを恨むることなき無邪気な信仰が、最もキリストの喜び給う処であった。自ら高しとするものは天国おいて卑しとせられる。
9章38節 ヨハネ
口語訳 | ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。 |
塚本訳 | ヨハネがイエスに言った、「先生、わたし達の仲間でない者が、あなたの名を使って悪鬼を追い出しているのを見たので、止めるように言いました。仲間にならないからです。(しかし言うことを聞きませんでした。)」 |
前田訳 | ヨハネは彼にいった、「先生、われらについて来ないものであなたのみ名によって悪霊どもを追い出すのを見ました。しかしわれらについて来ないのでやめさせようとしました」と。 |
新共同 | ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 |
NIV | "Teacher," said John, "we saw a man driving out demons in your name and we told him to stop, because he was not one of us." |
註解: この者は単にイエスの御名を魔術の符号として用いたものと見るべきではなく、イエスを信じつつ、しかもイエスの弟子の一団の中に加わらない一人であったと見るべきであろう。イエスの弟子たちはイエスを自分らの一団の独占としようとした。それ故にその一団に加わらざる者がイエスの御名を唱え、またはこれによりて悪鬼を逐い出すことを禁止した。宗派心の顕れである。またヨハネの強き性格がここにも表われている。
辞解
ヨハネが唯一人にて登場するのは共観福音書においてはここだけである。38−41節はマタイ伝に之を欠く。
9章39節 イエス
口語訳 | イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。 |
塚本訳 | イエスは言われた、「止めさせるに及ばない。わたしの名を使って奇蹟を行ったすぐそのあとで、わたしの悪口の言える者はないのだから。 |
前田訳 | イエスはいわれた、「やめさせることはない。わが名を用いて奇跡を行ないながら、すぐわたしを悪くはいえまい。 |
新共同 | イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 |
NIV | "Do not stop him," Jesus said. "No one who does a miracle in my name can in the next moment say anything bad about me, |
口語訳 | わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。 |
塚本訳 | 反対しない者はわたし達の味方である。 |
前田訳 | われらにさからわぬものはわれらの味方である。 |
新共同 | わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 |
NIV | for whoever is not against us is for us. |
註解: イエスには宗派心が無かった。イエスの名に基きて奇蹟を行い得るくらいの者ならば、心よりイエスを信じている者に相違ない。かかる者は急にその態度を変じてイエスを譏 るはずがない。それ故にかかる者はイエスに逆うにあらざれば、たとい直接にその弟子の群に入らなくともイエスの仲間であると見るべきことをイエスは教え給うた。己が師を崇拝するのあまり、その師に接近する者以外を排斥せんとする心は、イエスの取らざる処である。
辞解
[我が名のために] epi で御名を基礎としてというごとき意。
要義 [師を崇拝する心]己が師を尊敬することは正しい。しかしながらその師の周囲の一団のみを特別の団体と考え、然らざるものを異端視することは、誤れる宗派心である。イエスは飽くまでもイエスを主と仰ぎその御名を呼ぶことを条件とし給うたけれども、必ずしも人間的の特別の団体に加入することを条件とし給わなかった。そこにイエスの偉大さがある。
9章41節 キリストの
口語訳 | だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。 |
塚本訳 | キリストの弟子だからとてあなた達に一杯の水を飲ませる者は、アーメン、わたしは言う、(天にて)その褒美にもれることはない。 |
前田訳 | キリストの弟子だからとあなた方に一杯の水を飲ませるものは、本当にいう、決して報いにもれまい。 |
新共同 | はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」 |
NIV | I tell you the truth, anyone who gives you a cup of water in my name because you belong to Christ will certainly not lose his reward. |
9章42節 また
口語訳 | また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。 |
塚本訳 | しかし(わたしを)信ずるこの小さな者を一人でも罪にいざなう者は、大きな 挽臼を頚にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかにその人の仕合わせである。 |
前田訳 | しかしこれら信ずる小さいもののひとりをつまずかせるものは、大きな臼を首にかけられて海に投げ込まれたほうがその人にとってましである。 |
新共同 | 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 |
NIV | "And if anyone causes one of these little ones who believe in me to sin, it would be better for him to be thrown into the sea with a large millstone tied around his neck. |
註解: イエスの御名を基として奇蹟を行うほどの者をば弟子の一団に属せざるの故をもって排斥すべきに非ざるは勿論、この世の人の目より見て極めて微々たるイエスの弟子の一人に対して為されし小なる親切すら、それがキリストの者すなわちキリスト者たる故に為されし場合は、その行為を為したる者はキリストに対する尊敬を有する者に相違なき故、またこれに相当する報いを天において与えらるべく、反対に、弟子の一人を弟子たるの故に躓かせ、彼の前に障害を置きて彼をイエスより離れしめんとする者は、最も残酷なる刑罰に値している者であり、むしろ今直ちに死する方が幸いである。イエスの御名に対する態度は、その極めて些細のものといえども必ずそれに相当する報いを受けずにいることができない。
辞解
[大なる碾臼 ] 驢馬に碾 かする碾臼 のこと。
要義 [キリスト者はこの世を審 きつつあり]キリスト者は自ら世を審 かんとせずして世は自然にキリスト者によって審 かれつつあることは不思議なる事実である。キリストのものたるが故に世がこれに対して如何なる態度を取るかは、キリスト者の幸不幸の問題ではなくむしろかかる態度を取るところの世の人の運命を支配する問題である。キリスト者の存在はこの世において小なる存在であるにかかわらずその影響するところは極めて大きい。
9章43節 もし
口語訳 | もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、かたわになって命に入る方がよい。 |
塚本訳 | もし手があなたを罪にいざなうなら、切ってすてよ。両手があって地獄の消えぬ火の中へ行くよりも、片手で(永遠の)命に入る方が仕合わせである。 |
前田訳 | もし手があなたをつまずかせるなら、切り捨てよ。両手があって地獄の消えぬ火に入るより、片手でいのちに入るほうがよい。 |
新共同 | もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 |
NIV | If your hand causes you to sin, cut it off. It is better for you to enter life maimed than with two hands to go into hell, where the fire never goes out. |
註解: 〔44なし〕
口語訳 | 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕 |
塚本訳 | [無し] |
前田訳 | |
新共同 | (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 |
NIV |
9章45節 もし
口語訳 | もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。〔 |
塚本訳 | もし足があなたを罪にいざなうなら、切ってすてよ。両足があって地獄に投げ込まれるよりも、片足で(永遠の)命に入るほうが仕合わせである。 |
前田訳 | もし足があなたをつまずかせるなら、切り捨てよ。両足があって地獄に投げ込まれるより、片足でいのちに入るほうがよい。 |
新共同 | もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 |
NIV | And if your foot causes you to sin, cut it off. It is better for you to enter life crippled than to have two feet and be thrown into hell. |
註解: 〔46なし〕
口語訳 | 地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕 |
塚本訳 | [無し] |
前田訳 | |
新共同 | (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 |
NIV |
9章47節 もし
口語訳 | もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。 |
塚本訳 | もしまた目があなたを罪にいざなうなら、えぐり出せ。両目があって地獄に投げ込まれるよりも、片目で神の国に入るほうが仕合わせである。 |
前田訳 | もし目があなたをつまずかせるなら、えぐり出せ。両目があって地獄に投げ込まれるより、片目で神の国に入るほうがよい。 |
新共同 | もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 |
NIV | And if your eye causes you to sin, pluck it out. It is better for you to enter the kingdom of God with one eye than to have two eyes and be thrown into hell, |
9章48節 「
口語訳 | 地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。 |
塚本訳 | 地獄では、“蛆は(永遠に)死なず、火は消えない”(で、その人たちを責めさいなむからである。) |
前田訳 | 地獄では、蛆(うじ)は絶えず、火は消えない。 |
新共同 | 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 |
NIV | where "`their worm does not die, and the fire is not quenched.' |
註解: 28−42節においてはキリスト者に対する外部の人々の態度如何の問題を論じているのであるが、43−48節においてはキリスト者自身の罪の問題につき強き言葉をもってこれを戒め給う。キリスト者は自己の中に己を躓かせてキリストより離れしむるものがあるならば、如何なる苦痛を忍んでも、如何なる犠牲を払ってもこれを除き去らなければならぬ。然らざれば永遠の火の刑罰を受くるゲヘナに投げ込まれるであろうことを教え給うた。「手」「足」は我らの活動すなわち行為を意味し、「眼」は我らの心の中に映る外界の光景の印象より来る心の中の罪を表わす。我らの行為よりまた心より、凡ての罪を除き去ることによりて、始めて神の国に生くることができる。
辞解
[ゲヘナ] ゲイ・ヒンノームすなわちヒンノームの谷を意味す。この谷はエルサレムの南より南西に亘る谷で昔ここでイスラエルの民も異教の神モロクにその子らをささげ、その犠牲の火が消ゆることがなかった(U列23:10。エレ7:31。エレ19:5以下)。48節はイザ66:24の引用で、腐朽と刑罰を表徴的に言ったものである。この二者は実際としては同時に存在し得ないこと勿論である。また手足を切断し目を抜き出すことも表徴的意味である。
口語訳 | 人はすべて火で塩づけられねばならない。 |
塚本訳 | 人は皆、火で塩味をつけられねばならない。(神のお喜びになる供え物となるためである。) |
前田訳 | 人はみな火で塩づけにされよう。 |
新共同 | 人は皆、火で塩味を付けられる。 |
NIV | Everyone will be salted with fire. |
9章50節
口語訳 | 塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。 |
塚本訳 | 塩は良いもの。しかしもし塩に塩気がなくなったら、何で(もう一度)それに塩気をつけるか。(いつも)心に塩を保って、互に仲良くせよ。」 |
前田訳 | 塩はよいもの。しかし塩に塩気がなくなれば、何で味をつけよう。あなた方のうちに塩を持て、そして互いに平和であれ」と。 |
新共同 | 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」 |
NIV | "Salt is good, but if it loses its saltiness, how can you make it salty again? Have salt in yourselves, and be at peace with each other." |
註解: 人は審判の火をもって心の中に鹽 つけなければならない。すなわち審判の火をもって自己の凡ての不義を焼き尽くすことによりて、自己を腐敗より救い、鹽 味を保つべきである。鹽 は食物に味をつけその腐敗を防ぐ、もしこの火の鹽 気が火としての働きを失い自己の腐敗を焼き尽くす力を失うならば、もはや如何ともすることができない。それ故に人は心の中に審判の火の鹽 気を保持し、自己をば厳格に批判しつつ、同時に他の人々に対しては互いに和らぎ、平和なる関係に入らなければならない。
辞解
この両節は解釈上の最難関の一つである。その故は49節に「何となれば」とありて前節と関連あることを示し、従って「火」は43、47節の火と関連し「鹽 つけらるべし」は50節の鹽 と関連するが故にこれを切り離して解し得ないからである。M0は十四の解釈の例を掲げている。殊に異本には49節にさらに「凡ての供物は鹽 にて鹽 つけらる」を加えて一層困難を増す。上記のごとく解釈することにより略 意味が通ずる。
要義 [火をもって鹽 つけよ]我らは我らの心の中より凡ての罪を除き凡ての不義を断ち去らねばならない。然らざればゲヘナの火に遭わなければならないこととなる。我らもしゲヘナの火を避けんと欲するならば、我々の心の中に悪を焼き尽くす火を保ち、これをもって心の中の凡ての腐敗を焼き尽し、凡ての不義を除き去らなければならない。而してこのことが我らに鹽 のごとき味を付ける結果となり、この鹽 をもって味つけることが我らの心を健全に保ち、我らをしてゲヘナの火を免れしむる唯一の途となる。それ故に我らが救われることは決して安易な業ではない。火を要し鹽 を要す。火をもって不義を焼き尽くし鹽 をもって腐敗を止めなければならぬ。然らざれば我らはついに躓きを免れることができない。