ヨハネ伝第5章
分類
3 イエスとユダヤ主義との争闘
5:1 - 11:57
註解: 5−11章においてはイエスはガリラヤおよびユダヤにおいて、多くの奇蹟を行い、人々を教え給うた。ヨハネ伝には特にその中のユダヤにおける事件について記されており、共観福音書には主としてガリラヤにおける事件について記されている。殊にヨハネ伝の記事の中にはイエスの多くの議論が挿入せられ、これに対するユダヤ人の躓きにつきて録されている。
5章1節 この
口語訳 | こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。 |
塚本訳 | そののちユダヤ人の祭があって、イエスはエルサレムに上られた。 |
前田訳 | そののちユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。 |
新共同 | その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。 |
NIV | Some time later, Jesus went up to Jerusalem for a feast of the Jews. |
註解: この祭が何の祭であったかは重要なる問題であって、この祭の何祭なるかによってイエスの地上において伝道し給える年数に大差を生ずる結果となる。然るに不幸にしてこれには種々の説あり。(1)三月のプリム祭(エス9:26−28)、(2)四月の過越の祭、(3)五月の五旬節、(4)十月の仮庵の祭、(5)十二月の宮潔の祭(ヨハ10:22)のいずれにも相当の主張者があり、有力なる学者が各々異なった説を主張している。これを見ても問題の困難を知ることができる。ヨハ4:35がサマリヤにおける十二月半頃の出来事とすれば、ヨハ6:4に過越の祭の近きことが記され、ヨハ7:2に仮庵の祭近づきたることが記されている。ゆえに本節の祭をプリム祭と解する場合には4:35と6:4との間に四ヶ月の時日を計算することができるけれども(2)(3)(4)のいずれかに解する場合には6:4の過越の祭と4:35との間に一年と四ヶ月を経過せることとなり、イエスの生涯に一ヵ年の差異を生ずることとなる。余は第四の説を採る(Z0)。ただしこの問題はイエスの歴史的研究にとっては重大であるけれども信仰の問題としてはそれほど重要ではない。以上の諸説のいずれにも相当の理由と相応の困難がある。
5章2節 エルサレムにある
口語訳 | エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。 |
塚本訳 | エルサレムの羊門のわきに、ヘブライ語でベテスダという池があり、(これを取り巻いて)五つの回り廊下があった。 |
前田訳 | エルサレムの羊門のそばに、ヘブライ語でベテスダといわれる池があり、それを五つの回り廊下がとり巻いていた。 |
新共同 | エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。 |
NIV | Now there is in Jerusalem near the Sheep Gate a pool, which in Aramaic is called Bethesda and which is surrounded by five covered colonnades. |
註解: 羊門についてはネヘミヤ記(引照1)参照。今のステパノ門でエルサレムの東北方にあり、昔羊商はこの門より入りここに羊等が売買された処であろう。ベテスダの池はステパノ門の近く目下の市街地の地下にあり、近年発掘された長方形の貯水池がおそらくそれであろう。四周と中央に廊がある間歇泉である。ベテスダの名称はおそらく「恵の家」を意味するであろう。ただしこの名称は聖書の写本の異なるに従い種々の差異あり確定することができない。従ってその意味にも種々あり得る。
5章3節 その
口語訳 | その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。 |
塚本訳 | 廊下には大勢の病人──盲人、足なえ、やせ衰えた者などが寝ころがっていた。【水の動くのを待っていたのである。 |
前田訳 | その中に大勢の病人たち、目しい、足なえ、麻痺者が横たわっていた。〔彼らは水の動くのを待っていた。 |
新共同 | この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。(†底本に節が欠落 異本訳<5:3b-4>)彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。 |
NIV | Here a great number of disabled people used to lie--the blind, the lame, the paralyzed. |
註解: いずれも医者より見離されしもの、または医者の力をもっては如何とも為し得ざる種類の人々である。神の御業はかえって著しくかかる人の上に顕われる。我らも全然我ら自身に絶望する時かえって神の力が我らの上に顕われることを見ることができる。
(
5章4節 それは
口語訳 | それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕 |
塚本訳 | それは、主の使がときどき池に下りてきて水をかきまわすので、水がかきまわされたとき真先に(池に)はいった者は、どんな病気にかかっていても、(きっと)直るからであった。】 |
前田訳 | ときどき主の使いが池に下って水を動かすので、水が動かされてからまっ先に入ったものが、どんな病に犯されていても直るからである。〕 |
新共同 | |
NIV |
註解: 多くの古き写本にこの括弧内の文字を欠き、かつこれを含む場合にも多くの文字上の差異がある。おそらく後日他地方の人がこの文字なしには7節があまりに卒然にて意味が不明瞭となるので、説明のために欄外に書き加えて置いたのが後に本文の中に入ったのであろう(G1)。この池は間歇泉でその水が時々短時間の間に湧き出でて水面を動かし、その瞬間に池に入る場合にその治癒力が殊に多かったのであろう。天使云々はその池に関する伝説そのままを記したのである。
口語訳 | さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。 |
塚本訳 | するとそこに三十八年病気の人がいた。 |
前田訳 | その中に三十八年病む人がいた。 |
新共同 | さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。 |
NIV | One who was there had been an invalid for thirty-eight years. |
註解: 全く絶望的の病人であったことを知ることができる。
5章6節 イエスその
口語訳 | イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。 |
塚本訳 | イエスはその人が横になっているのを見、すでに長い間わずらっていることを知ると、「直りたいか」とたずねられた。 |
前田訳 | イエスはその人が横たわっているのを見て、すでに長らくわずらっていることを知ると、彼にいわれる、「直してもらいたいか」と。 |
新共同 | イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。 |
NIV | When Jesus saw him lying there and learned that he had been in this condition for a long time, he asked him, "Do you want to get well?" |
註解: イエスは突然ここに現われ給うた。おそらく弟子を伴わずに一人来給うたのであろう。ヨハ2:13の場合との著しき差異に目を留めよ。本節はイエスがこの病人を憐れみ給いし有様を髣髴することができる。イエスの質問は我らも平日用うる「治りたいのかい」との俗語と同じく「さぞ癒えたく思っているだろう」との同情の語であって、果して癒えんことを欲するや否や不明のためにに質問したのでもなく、または患者やその他人々の注意と期待を起さんがため(M0)でもなく、また彼の眠れる心を覚さんとした(L2)のでもない。
5章7節
口語訳 | この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。 |
塚本訳 | 病人が答えた、「主よ、水がかきまわされた時に、わたしを池に入れてくれる者がないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に下りてゆきます。」 |
前田訳 | 病人は答えた、「主よ、水が動かされたとき池にわたしを入れてくれる人がないのです。わたしが行くうちに、ほかの人がわたしの先におりて行きます」と。 |
新共同 | 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」 |
NIV | "Sir," the invalid replied, "I have no one to help me into the pool when the water is stirred. While I am trying to get in, someone else goes down ahead of me." |
註解: 同病相憐れむ立場にある人々すら自己に不利益となれば他を顧みないのが人の常である。罪なきイエスが罪人のために死に給えるその愛の深さは量り知ることができない。
5章8節 イエス
口語訳 | イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。 |
塚本訳 | イエスが言われる、「起きて担架をかついて、歩きなさい。」 |
前田訳 | イエスはいわれる、「起きて床をあげて歩みなさい」と。 |
新共同 | イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 |
NIV | Then Jesus said to him, "Get up! Pick up your mat and walk." |
5章9節 この
口語訳 | すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。 |
塚本訳 | するとその人はすぐ直って、担架をかついで歩きまわった。あいにくその日は安息日であった。 |
前田訳 | たちまちその人は直って、床をあげて歩みはじめた。 |
新共同 | すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。 |
NIV | At once the man was cured; he picked up his mat and walked. The day on which this took place was a Sabbath, |
註解: イエスの愛は彼をしてユダヤ人の律法なる安息日を超越せしめ、彼の能力は数十年の病に打勝つことができた。彼欲し給う時は相手方の信仰の有無を論ぜずこれを癒し給うことができる。
その
註解: ▲イエスの病気治療の奇蹟は安息日に多く行われた。三十八年間の病人の治療を一日や二日延期することは差支えがないのだから、イエスは故意に安息日にこれを為したのであったと見なければならない。これは信仰の形式化律法化に対する挑戦であった。
5章10節 ユダヤ
口語訳 | そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った、「きょうは安息日だ。床を取りあげるのは、よろしくない」。 |
塚本訳 | そこでユダヤ人(の役人たち)が病気のよくなった人に言った、「(きょうは)安息日だ、担架をかつぐのは規則違反だ。」 |
前田訳 | そこでユダヤ人はいやされた人にいった、「安息日だからあなたが床をあげるのはゆるされない」と。 |
新共同 | そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」 |
NIV | and so the Jews said to the man who had been healed, "It is the Sabbath; the law forbids you to carry your mat." |
註解: 「ユダヤ人」はサンヘドリウムの議員らを意味する。ヨハ2:18参照。安息日には三十九種の行為(それがまた各々六つに区別せらる)を為すことが禁じられていた。その中に安息日に病人を床のまま運ぶことは許されていたけれども床のみを運ぶことは禁じられていた(S2)。ゆえにイエスが「床を取りあげて歩め」と言い給えるは明らかにこの安息日に関するラビの規則を破ることとなるのであった。なおマタ12:2註および引照参照。
5章11節
口語訳 | 彼は答えた、「わたしをなおして下さったかたが、床を取りあげて歩けと、わたしに言われました」。 |
塚本訳 | 彼は答えた、「わたしを直してくれた人が、『担架をかついで歩け』と言ったのです。」 |
前田訳 | 彼は答えた、「わたしを直してくれたその人が床をあげて歩めといいました」と。 |
新共同 | しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。 |
NIV | But he replied, "The man who made me well said to me, `Pick up your mat and walk.'" |
註解: 癒されし者の喜びは死せる律法に束縛せらる可くあまりに大きかった。新生せるキリスト者が律法以上に出づる時の心地もかくのごとくである。この答は一面彼のありのままの事実をいうと共に、他面イエスの権威が不知不識の間に彼に認められたのである。
5章12節 かれら
口語訳 | 彼らは尋ねた、「取りあげて歩けと言った人は、だれか」。 |
塚本訳 | 彼らが尋ねた、「『かついで歩け』と言った人はだれだ。」 |
前田訳 | 彼らはたずねた、「床をあげて歩めといった人はだれか」と。 |
新共同 | 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。 |
NIV | So they asked him, "Who is this fellow who told you to pick it up and walk?" |
註解: 彼らの質問は用意周到であった。「汝を醫したるは誰なるか」と問わなかったのは彼らはイエスの奇蹟を認めんとせずに、その律法違反を責めようとしたからであった。
5章13節 されど
口語訳 | しかし、このいやされた人は、それがだれであるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと出て行かれたからである。 |
塚本訳 | しかしいやされた人は、それがだれか知らなかった。大勢の人がその場所にいたので、イエスは(そっと)立ち去られたのであった。 |
前田訳 | しかしいやされた人はそれがだれか知らなかった。群衆がそこにいたのでイエスがぬけ出られたからである。 |
新共同 | しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。 |
NIV | The man who was healed had no idea who it was, for Jesus had slipped away into the crowd that was there. |
註解: イエスは彼を醫し給いし後群衆がこれを見て騒ぎ立てんことを思いこれを嫌いて避け給うた。「退き」は「面をそむけて避ける」ごとき貌を言う。
5章14節 この
口語訳 | そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」。 |
塚本訳 | そののちイエスは宮で彼に出合って言われた、「ほら、直ったではないか。もう罪を犯すなよ。もっとひどい目にあうかもしれないから。」 |
前田訳 | そののちイエスが宮で彼に出会っていわれた、「ごらん、あなたは直った。もう罪を犯すな。さもないと前よりも悪くなる」と。 |
新共同 | その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」 |
NIV | Later Jesus found him at the temple and said to him, "See, you are well again. Stop sinning or something worse may happen to you." |
註解: 「視よ」はその癒されしことに対する注意を喚起したのである。またこの場合はその病の原因が彼の罪にあった(然らざる場合もある。ヨハ9:3-12および要義参照)。それ故にイエスは彼が宮に来れる際に(おそらく癒されし喜びのために宮に来たのであろう。)彼をして癒されし喜びのあまり病の原因を忘れることなきように注意を与え給うた。蓋し神は罪に対する罰として病を与え給うけれどもその罪を再びする場合には神はさらに大なる叱責を必要とし給うからである(レビ26:14以下。申28:15以下)。ゆえに患難が続いて至る時我らは顧みなければならない。
5章15節 この
口語訳 | 彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスであったと、ユダヤ人たちに告げた。 |
塚本訳 | その人は行って、直してくれた人はイエスであると、ユダヤ人(の役人たち)に話した。 |
前田訳 | 彼は立ち去って、彼をいやしたのはイエスであるとユダヤ人に告げた。 |
新共同 | この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。 |
NIV | The man went away and told the Jews that it was Jesus who had made him well. |
註解: かく告ぐることによってユダヤ人らがイエスを迫害するならんとは毫 も考えなかったのであろう。彼がユダヤ人にこのことを告げたのは12節の問に対する答に過ぎない(M0)。その中にある学者が唱うるごとく或はイエスを陥れんとする悪意、或はユダヤ人の司たちに対する服従、或はイエスに対する感恩の念等があったものと強いて想像する必要がない。
5章16節 ここにユダヤ
口語訳 | そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。 |
塚本訳 | このためユダヤ人は、イエスを迫害しはじめた。安息日にたびたびそんなことをされたからである。 |
前田訳 | このためユダヤ人はイエスを迫害しはじめた。彼が安息日にこのようなことをされたからである。 |
新共同 | そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。 |
NIV | So, because Jesus was doing these things on the Sabbath, the Jews persecuted him. |
註解: 癒されし人に対しては床を取りあげて歩みしことが律法違反なりと責め、イエスに対しては彼を癒し給えることに対してこれを責める。ユダヤ人らの目には律法の形式のみが重要であって、その精神は見えなかった。いわんや神の御旨のごときは彼らこれを見るの明がなかった。かかる形式一点張りの道徳主義者は今日もなお多くこれを見受ける。彼らにとってはこの形式に違反することが罪であって、たといその心において彼ら以上に義しくとも彼らはこの形式を守らざるの故をもってこれを責める。
5章17節 イエス
口語訳 | そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。 |
塚本訳 | イエスは彼らに答えられた、「わたしの父上は、いまでもなお働いておられる。だからわたしも働く。」 |
前田訳 | 彼はいわれた、「わが父が今もなおお働きのように、わたしも働く」と。 |
新共同 | イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」 |
NIV | Jesus said to them, "My Father is always at his work to this very day, and I, too, am working." |
註解: 「わが父」であって「われらの父」ではない。神の独り子に在すイエスのみこの言を発することを得給うのである。而して父なる神は今に至るまで一日も安息なしに働き給う。ゆえにその子なるキリストもまた安息なしに働くのである。「御父は御子なしに働き給わず御子は御父なしには働き給わない」(B1)。勿論神は七日目にその創造の業を休み給うた。それ故に今日に至るまで自然界に新しき創造は行われない。唯神はその創造し給える自然を保持し、これを活動せしむるため、ならびに堕落せる人類を救わんがためには一日も休み給うことがない。而して安息日は特に神のために聖別せられし日である以上、神の御業に参加してならない理由はない。キリストが病者を癒すも、癒されし者が喜びのあまり床を取りあげて歩むのもみな神の御業に参加するのである。かつキリストは安息日以上に立ち給うた。キリストに在るものも同様に安息日によって律法的に束縛されることはない。
5章18節
口語訳 | このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。 |
塚本訳 | このためユダヤ人は、いよいよイエスを殺そうと思った。安息日を破るばかりでなく、神を自分の父と言って、自分を神と等しくされたからである。 |
前田訳 | このためユダヤ人はますますイエスを殺そうとした。安息日を破ったばかりでなく、神をおのが父といって、自らを神とひとしくされたからである。 |
新共同 | このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。 |
NIV | For this reason the Jews tried all the harder to kill him; not only was he breaking the Sabbath, but he was even calling God his own Father, making himself equal with God. |
註解: イエスが安息日を破れる行為も、その理由も共にユダヤ人にとっては赦すべからざる大なる冒涜であった。かくして彼らは律法を擁護して福音を拒否した。キリスト者にとってはイエスが安息日の律法以上に出でてこの律法を全うし給えることがかえって大なる福音となるのである。
5章19節 イエス
口語訳 | さて、イエスは彼らに答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。 |
塚本訳 | そのとき、イエスは彼らに答えて言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、子は父上のなさることを見て(それを真似るので)なければ、自分では何一つすることが出来ない。父上のなさるのと同じことを、子もまたするのだから。 |
前田訳 | イエスは彼らに答えていわれた、「本当にいう、子は、父がなさることを見る以外、自分からは何もできない、父がなさるのと同じことを子もまたするからである。 |
新共同 | そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 |
NIV | Jesus gave them this answer: "I tell you the truth, the Son can do nothing by himself; he can do only what he sees his Father doing, because whatever the Father does the Son also does. |
註解: 前半は消極的方面、後半は積極的方面を示し、これによりて父と子との完全な一致を顕わしている。すなわちイエスは完全に父に服従し給い、イエスの意思は完全に父なる神の意思に一致しているのであって、従って父の為し給わざることをイエスは父を離れて彼一人にて為すことができず(行為を為す能力がないというのではなく、これを為すことが道徳的に不可能なることをいう)、また父の為し給うことは凡てこれを為し給う。この御言葉によりユダヤ人の非難せる二つの点(18節)をことごとく反駁し給うた。すなわち安息日に病者を癒すは父の為し給うことであるとの意である。
5章20節
口語訳 | なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである。 |
塚本訳 | 父上は子を愛して、御自分でなさることをことごとく子に示されるのである。そればかりか、子がしたこれらのことよりもっと大きな業を子に示され、子がそれをすると、あなた達はびっくりするであろう。 |
前田訳 | 父は子を愛して、自らなさることすべてを子に示される。そしてそれらより大きなわざを子に示されよう、あなた方がおどろくために。 |
新共同 | 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。 |
NIV | For the Father loves the Son and shows him all he does. Yes, to your amazement he will show him even greater things than these. |
註解: イエスが「父のなし給うことを見る」こと(19節)ができるのは父が子を愛してその為す処を示し給うが故である。すなわち父と子との間は愛による人格的関係であって、父はその愛子に対しては何事も隠すことなくこれを示し給う。この愛に対してイエスは如何でかその御旨に逆らうことができようか。この愛とこれに対する完全なる服従がイエスの特徴であって、この服従は神性を否定する理由とはならず、かえってその証拠となる。
辞解
[示し給ふ] 原文「示し給えばなり」で前節の理由をいっている。
また
註解: 神は今後において今イエスが為し給える奇蹟よりもさらに大なる業を示し給うであろう。而してイエスはその示しに従ってこれを為し給うであろう。これ汝らのごとき我に敵する者がこれを見る時驚異に打たれんがためである。さらに大なる業とは21−29節に述ぶる処の事柄である(ヨハ14:12)。すなわち審判と復活である。
5章21節
口語訳 | すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう。 |
塚本訳 | それは、父上が(心のままに)死人を生き返らせて命を与えられるように、子も自分の欲する者に命を与えるからである。 |
前田訳 | 父が死人を起こしていのちを与えるように、子も欲する人々にいのちを与える。 |
新共同 | すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。 |
NIV | For just as the Father raises the dead and gives them life, even so the Son gives life to whom he is pleased to give it. |
註解: 本節以下27節に至るの間「死にし者」とは霊的死者を意味し、これを「活かす」ことは霊的に復活することを意味する。而して28節以下においては世の終末における最後の審判と肉体の復活とを意味する(M0)。この二つの事実をヨハネはあたかも一事実なるかのごとくに記載しているのであって、従ってこの数節に解釈上の難問が生ずるに至った。しかし以上のごとく解することが最も適当であろう(ヨハ3:18註参照)。神が死人を復活せしむることは旧約聖書にしばしば記されている(申32:39。Tサム2:6。エゼ37:1-10。ダニ12:2。T列17:17−24。U列4:18−37)。これと同じく子なるキリストもまた死人を活かし給う。而して現在においては霊的の死者を永遠の生命に醒めしめ、未来においてはこれに肉体の復活を与え給う。ただし「己が欲する者」を活かし給うのであって、救いは全くキリストの御旨のみが成るのである。
辞解
[起す、活す] 「起す」egeirein は復活せしむること、横たわっているものが立上る形、「活す」zôopoiein は生命を賦与すること、この二者に差別があるのではない。
5章22節
口語訳 | 父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。 |
塚本訳 | 父上は御自分ではだれも裁かれず、裁きはすべて子におまかせになったのである。 |
前田訳 | 父はだれも裁かず、裁きはすべて子にゆずられた。 |
新共同 | また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。 |
NIV | Moreover, the Father judges no one, but has entrusted all judgment to the Son, |
註解: 前節「己が欲する者」の説明であって、キリストは濫りにその権を用い給うのではなく、審判の権を父より委ねられ給いてこれを用い給うのである。而してこの権は現在においてはヨハ3:18−21のごとき形において行われ、未来においてはこれが完成せる形において実現する。「父は誰をも裁き給わず」とは、キリストは天の上、地の下の権を凡て委ねられ給いしが故であって(マタ28:18)、死人を甦らせ、すべての敵を亡ぼして国を父なる神に付し給うまでは(Tコリ15:23−28)審判の実行者はキリストである。唯勿論父の御旨を受けてこれを行い給う。本節は一見ヨハ3:17と矛盾するごときも、3:17の救いを実行し給う当然の結果救われずして審判に至るものが生ずるのである。
5章23節 これ
口語訳 | それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。 |
塚本訳 | これは皆の者をして、父上を敬うように子を敬わせるためである。子を敬わない者は、子を遣わされた父上をも敬わない。 |
前田訳 | これは、人が皆子を敬うこと父を敬うごとくするためである。子を敬わぬものは、彼をつかわされた父をも敬わない。 |
新共同 | すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。 |
NIV | that all may honor the Son just as they honor the Father. He who does not honor the Son does not honor the Father, who sent him. |
註解: 前節のごとく父が更生の権と審判の権とを子に与え給える目的は、父なる神に対する万人の畏敬を子にも及ぼさんがためである。ゆえに子なるキリストを敬わない者は父なる神をも敬わない大なる罪に陥っているのである。ユダヤ人らはこれを知らず、半死の病人を蘇生せしめしキリスト・イエスを殺さんとしているのである。人は一般にたとい神を敬うことを知ってもキリストを同じ神として敬うことを知らない(Tヨハ2:23)。
5章24節
口語訳 | よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。 |
塚本訳 | アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしの言葉を聞き、わたしを遣わされた方を信ずる者は、(今すでに)永遠の命を持っていて、(最後の日に)罰を受けない。その人はもはや死から命に移っているのである。 |
前田訳 | 本当にいう、わがことばを聞いて、わたしをつかわされた方を信ずるものは永遠のいのちを持ち、裁きにあわず、死からいのちへと移っている。 |
新共同 | はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 |
NIV | "I tell you the truth, whoever hears my word and believes him who sent me has eternal life and will not be condemned; he has crossed over from death to life. |
註解: 「誠にまことに」と言いてその語の重要なることに注意を引き給える後、イエスは彼を遣わし給いし神をキリストの言によりて信ずる者に関する重大なる事実を示し給う。すなわちかかる者にとりては世の終末に起るべき二つの重大事実 ─ 審判と復活 ─ がすで開始しているというのである。キリストを遣わし給える神(単なる神にあらず、この条件に注意せよ)を信ずる者は世の終末の審判において永遠の刑罰を免れ(ロマ8:1)、復活せしめられて永遠の生命を賜ること (ヨハ3:16、ヨハ6:39、40、ヨハ6:44、ヨハ6:54) は勿論であるが、それのみではなく、現在においてすでに永遠の生命を確実に所有し、かつ審判者なるキリストがその首 であれば、当然の結果審判に至らず、霊的に死する現在の状態から永遠の生命に移されているのである。而してこの生命はやがてキリストの御聲により霊体をとりて復活するのである。ヨハ3:18において不信者がすでに裁かれていると同じく、本節においては信ずる者はすでに永遠の生命を持ち審判を免れているのである。
5章25節
口語訳 | よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。 |
塚本訳 | アーメン、アーメン、わたしは言う、死人が(一人のこらず)神の子(わたし)の声を聞く時が来る、いや、今もう来ている。しかし(ただ聞くばかりでなく、ほんとうに)聞き従う者(だけ)が生きる。 |
前田訳 | 本当にいう、時が来る、もう来ている、死人が神の子の声を聞き、聞くものが生きようその時が。 |
新共同 | はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。 |
NIV | I tell you the truth, a time is coming and has now come when the dead will hear the voice of the Son of God and those who hear will live. |
註解: 「死にし人」は前節と同じく霊的に死にし人(マタ8:22。黙3:1)、「神の子の聲」はあたかも世の終末において死者を復活せしむるために号令し給うと同じく(Tテサ4:16)現在においてキリストの教訓がその声である。「きく」一般的に聞くこと。「きく人」はききてこれを信ずる人を意味する。「今すでに来れり」それ故にキリストその教えを始め給える今の時は非常に重要な時であって、この世の審判と死者の復活とがすでに始まったのである。以上のごとくヨハネは審判も永世も共にこの世においてすでに始まっている事実として記しているけれども、同時に未来においてそれが具体的に顕われることをも認めていた。28、29節がそれである。
5章26節 これ
口語訳 | それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。 |
塚本訳 | 父上は御自分で命を持っておられるように、子(たるわたし)にも命を持つことを許し、 |
前田訳 | 父が自らのうちにいのちをお持ちのように、子も自らのうちにいのちを持つようになさった。 |
新共同 | 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。 |
NIV | For as the Father has life in himself, so he has granted the Son to have life in himself. |
註解: 本節と次節は前節の理由の説明である。「みづから」生命を有つとは生命の本源であること、従って無限にその生命を有ち給うことを意味し(被造物の生命は神より分与され従って有限である。)キリストもまた神より与えられてこの生命の無限の源で在し給う。ゆえに無限にこれを人にも分与することができる(ヨハ1:4)。自ら有つことと与えられることとは矛盾せる事実のごとくであるけれども然らず、父なる神は絶対の主権をもって凡てをその子に与え給い、子は絶対の服従をもって自己の意思により凡てを神にささげ給う。ここに完全なる愛の調和がある。
辞解
[得させ] 次節と同じく原文「与え給い」である。
5章27節 また
口語訳 | そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。 |
塚本訳 | かつ、裁きをする全権を子にお授けになった。人の子である(わたしは、人間の心がわかる)からである。 |
前田訳 | そして裁きをする権威を子に与えられた。彼は人の子であるから。 |
新共同 | また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。 |
NIV | And he has given him authority to judge because he is the Son of Man. |
註解: キリストは永遠の生命の本源を有ちてこの世に来り給えるのみならず(前節)、また同時に父より審判する権を与えられ、この世において既に人を裁き給い(ヨハ3:18)、また世の終りにおいて最後の審判を行い給う。而して神が御子に審判の権を与え給える所以は、彼が人の子に在し、人間の凡ての性質を具有し給い、人間の凡ての心を知り給い、一般の人間と差別がなかったからである。この審判の権を与えられて彼は人の子たると同時に神の子に在すことの証拠がいよいよ明らかになってくるのである(ダニ7:13。使17:31。ヘブ2:5)。
辞解
[人の子なるによりて] 難解なる箇所である。他の場合と異なり「子」に冠詞を付せざる故これを「メシヤ」の意味と解することができない。ゆえに上述のごとく解した(C1)。ただし他に種々の解釈あり。また「人の子たるに因りて」は前節にも関係すると見る学者が多い。
5章28節
口語訳 | このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、 |
塚本訳 | あなた達は(子が裁くという)このことを驚くに及ばない。時が来ると、墓の中にいる者が皆子(たるわたし)の声を聞いて、 |
前田訳 | あなた方はこのことにおどろくな。時が来て、墓にあるものが皆彼の声を聞いて |
新共同 | 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、 |
NIV | "Do not be amazed at this, for a time is coming when all who are in their graves will hear his voice |
註解: 以上21節以下に述べし永遠の生命の賦与と審判につきて驚異の念を持ってはならない。さらに驚くべき事柄が起るであろう。何となれば現に生きている者が死より生命に移るのみならず、すでに肉体的に死んだものがみな復活する時が来るからである。彼らはキリストの声(Tテサ4:17)に応じて再び肉体を取って来るであろう。この復活は「みな」同時に起るのではなく、これには順序がある(Tコリ15:23。黙20:4−15)。(注意)本節および次節が世の終末の復活および審判に関するものなることを否定する人があるけれども誤っている。
5章29節
口語訳 | 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。 |
塚本訳 | (墓から)出てくるからである。すなわち、善いことをした者は(永遠の)命にはいるために復活し、悪いことをした者は(死の)罰を受けるために復活する。 |
前田訳 | 歩き出そう。善をなしたものはいのちの復活へ、悪をなしたものは裁きの復活へと向かって。 |
新共同 | 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。 |
NIV | and come out--those who have done good will rise to live, and those who have done evil will rise to be condemned. |
註解: 世の終末にはすべての人例外なしに復活する。ただし善を為しし者は復活して永遠の生命を事実的に獲得し、悪を行いし者は復活して永遠の滅亡に入る。「善」「悪」「為す」「行う」等につきてはヨハ3:20、21註参照。すなわちこの善悪は神およびキリストの眼における善悪であって、人間の標準に従う善悪ではない。ルカ18:9−14の取税人、十字架上に悔改めし強盗(ルカ23:42)、詩51篇のダビデ等みな善を為しし者であり、パリサイ人のごとく自己の道徳をもって満足する者は外見善を行うごとく見えても悪を行っているのである。
要義1 [審判と永生とについて]ヨハネ伝においてはこの二者を現世においてすでにその一部を獲得しているものとして記していることに注意すべきである。キリスト者は往々二つの極端に馳せ、一方に審判は単に現在における良心の審判であり、永世は単に現世における霊的完全なりとして将来におけるこれらを否定する者あり、他方にその正反対にこれらは単に世の終末における出来事として、現在の生活とは没交渉なるもののごとくに考えている者がある。この二者いずれも誤っているのであって、キリスト肉体となりて来り給える結果、彼を信ずる者と信ぜざる者とが現世においては既に一つは永生を獲得して死を見ざるに至り、一つは審判を受けてやがて永遠の死に入れられるのである。ゆえに現世と来世とは一つの継続せる事実である。
要義2 [神とイエスとの関係]「父の懐にいます者」なる語は最も明瞭にこの数節に展開されている。実にイエスと父なる神とは完全なる愛の調和において生き給うた。イエスは常に父と共に働き給い(17節)、父の為し給うことを見ての外は何事をも為し給わず(19節)、完全なる服従に終始し給うた。父はまたイエスを愛してそのあらゆる権力能力をイエスに与え、その生命をも彼のものとなし給うた(26、27節)。かくして父と子との完全なる一致の生涯を我らに示して我らの信仰の生涯の模範となし給うた。
註解: 以上のごとき父と子との完全なる一致の生涯をイエスはさらに諸種の方面よりの
証 を持って証明し、彼を信ぜざるユダヤ人の不信を責め給う。蓋し救いが神より出づるものである場合にはそのことに関する証明が必要であることとなるからである。
口語訳 | わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。 |
塚本訳 | わたしは自分では何一つすることが出来ない。(ただ父上から)聞いたとおりに裁く。だからわたしがする裁きは正しい。自分の考えでなく、わたしを遣わされた方の考えを行おうとするからである。 |
前田訳 | わたしは自分からは何もなしえない。わたしは聞くとおりに裁く。わが裁きは正しい。それはわが心をでなく、わたしをつかわされた方のみ心を求めるからである。 |
新共同 | わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」 |
NIV | By myself I can do nothing; I judge only as I hear, and my judgment is just, for I seek not to please myself but him who sent me. |
註解: イエスは凡てのことにおいて絶対に神の御意に服従し給うことをここに改めてこれを明示し給う。ゆえにイエスの言行を見てこれをイエス一個人の言行と見るべからず、神の為し給う言行と見るべきである。この一節を根拠として父なる神と子なる神との同一なることを否定するは誤りである(17、19節参照)。
ただ
註解: 21−29節に示せる審判も(従って更生も)みな父の御言を聞きてそのままにこれを行い給う。神とキリストとの間にはかかる絶えざる霊の交通があり神は常にその御旨を彼に啓示し給う。19節は「見る」こと本節は「聞くこと」と主題とす。行いは見ることを得、裁きは聞くことを得るからである。
わが
註解: 神の御意は常に正しい、否神の御意以外に真に正しいものはない。ゆえに明瞭なる自覚をもって常に神の御意を行い給いしイエスは、自らその行い給うこと(従ってその裁きも)正しいことを証することを得給うた。完全にかかる断定を為し得るは唯イエスのみであるけれども、我らも信仰にありて為せる行為につき幾分の度においてこの自証を為すことができる。
5章31節
口語訳 | もし、わたしが自分自身についてあかしをするならば、わたしのあかしはほんとうではない。 |
塚本訳 | (今わたしの裁きは正しいと言ったが、)もしわたしが自分で自分のことを証明するのであったら、わたしの証明は信用できない。 |
前田訳 | もし、わたしが自分について証すれば、わが証は真でない。 |
新共同 | 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。 |
NIV | "If I testify about myself, my testimony is not valid. |
註解: イエスは次節以下の証を掲示せんがために、まず仮にユダヤ人らが彼についてなせるごとく彼を普通の罪ある人間の立場に置きて考うることを許し給うた。この立場よりすれば、人が自ら自己の正しさを証してもそれは真偽不明である。すなわち真実性がない。なお申19:15参照。ギリシャ、ローマにも類似の格言あり。イエスがヨハ8:14に全く反対の言を発し給えるは、全く異なった立場より言い給うたからである。
5章32節
口語訳 | わたしについてあかしをするかたはほかにあり、そして、その人がするあかしがほんとうであることを、わたしは知っている。 |
塚本訳 | わたしのことを証明してくださるお方はほかにあるのである。そしてわたしは、わたしのことを証明されるその(方の)証明が、信用すべきであることを知っている。 |
前田訳 | わたしについて証する別の方がある。わたしは知る、わたしについてなされたその証が真であることを。 |
新共同 | わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。 |
NIV | There is another who testifies in my favor, and I know that his testimony about me is valid. |
註解: イエスは第一に30節において自らを証し給い、第二にここに32−35節においてバプテスマのヨハネの証(C2)を掲げ給う。「他にあり」とはすなわちこのヨハネのことである。イエスはヨハネの証の真なることを知り給うた。(注意)大多数の学者は「他にあり」を神と解する(A1、B1、G1、L1、M0、E0、Z0等々)。ヨハ8:18、ヨハ8:50、ヨハ8:54参照。余はこれに反し、クリソストム等少数者の説によりヨハネを指すものと解する。その理由は(1)32節後半の附加、(2)37節に父の証につき別に述べられてあること、(3)30−47にイエスは逐次にその証者を列挙し給いてその間に混乱なきこと。
口語訳 | あなたがたはヨハネのもとへ人をつかわしたが、そのとき彼は真理についてあかしをした。 |
塚本訳 | しかし(それは、あなた達が考えるように洗礼者ヨハネではない。)あなた達はヨハネに使をやり、彼は(わたしが)真理(であること)について証明したが、 |
前田訳 | あなた方はヨハネに使いをやり、彼は真について証した。 |
新共同 | あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。 |
NIV | "You have sent to John and he has testified to the truth. |
註解: ヨハ1:19註参照。▲「前に」は「遣す」なる動詞の完了形から意訳したもの。
註解: 「よし我自ら己につきて証することが真ならずともヨハネが我即ち真理につきて証せることは真であった」。すなわちユダヤ人はもしヨハネの証を信ずるならばイエスを神の子と信ずるべきであった。
5章34節
口語訳 | わたしは人からあかしを受けないが、このことを言うのは、あなたがたが救われるためである。 |
塚本訳 | わたしは人間(ヨハネ)から証明してもらう必要はない。わたしがヨハネのことを言うのは、ただあなた達が(彼の証明によりわたしを信じて)救われるためである。 |
前田訳 | わたしは人間から証を受けるのではないが、あなた方が救われるためにこれをいう。 |
新共同 | わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。 |
NIV | Not that I accept human testimony; but I mention it that you may be saved. |
註解: イエスはヨハネの証が誤っているとも無効であるとも言い給わない。ただイエスご自身は人よりの証しを受ける必要がない。自らの証にて充分である(ヨハ8:14)けれども、ユダヤ人らはヨハネを信ずるものが多かったので、それらの人の救われんためにヨハネの証をも一つの証としてここに掲げ給うたのである。
5章35節 かれは
口語訳 | ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。 |
塚本訳 | ヨハネは(光ではないが、まことの光に導く)燃えて輝く明りであった。しかしあなた達は(彼の言葉に従おうとせずに、)しばし彼の光にうち興じただけであった。 |
前田訳 | ヨハネは燃え輝く燈(ともしび)であった。あなた方はしばらくは彼の光をよろこぶ気持があった。 |
新共同 | ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。 |
NIV | John was a lamp that burned and gave light, and you chose for a time to enjoy his light. |
註解: ヨハネは光そのものではないけれども燈火として燃え輝きて世を照らした。これイエスの証のためであった。然るに汝らは唯その光の中に喜ぶのみであってイエスを信ずる信仰に至らなかった。その間に燃ゆるものは燃え尽きなければならず、ヨハネの光は暫時にして消えてしまった。かくしてユダヤ人はこの第二の証をも受けなかった。▲▲「光にありて」はヨハネの光の中に浴しての意。口語訳の「光を」は意訳で原文の意味を正確に伝えていない。
5章36節 されど
口語訳 | しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。 |
塚本訳 | わたしには、ヨハネの証明よりも有力な証明がある。父上がわたしに成しとげさせようとして賜った仕事、すなわちわたしがしている仕事そのものが、わたしが父上に遣わされたことを証明してくれるからである。 |
前田訳 | わたしにはヨハネよりも大きな証がある。父がわたしに与えて全うさせようとされたわざ、すなわちわたしがなすわざこそ、父がわたしをつかわされたことを証している。 |
新共同 | しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。 |
NIV | "I have testimony weightier than that of John. For the very work that the Father has given me to finish, and which I am doing, testifies that the Father has sent me. |
註解: 第三の証はヨハネ〔の証〕よりも大きい。すなわちイエスの為し給える御業であった。この御業は神がイエスをして完成せしめ給う救いの御業であって、神がこれまで長き期間にわたりて為し給えることの継続完了である。すなわちイエスの説教奇蹟は勿論その十字架に至るまでの凡ての業績を包含する(Z0)。この御業は神自ら為し給うのではなく、またキリスト自ら神を離れて為し給うのでもない。神がキリストにこれを与えてキリストをして成就せしめ給う業である。ゆえにイエスの御業を見るならば、イエスは父より遣わされ給えるメシヤであることを知ることができる。▲口語訳「我につきて」を脱落している。
5章37節 また
口語訳 | また、わたしをつかわされた父も、ご自分でわたしについてあかしをされた。あなたがたは、まだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない。 |
塚本訳 | その上、わたしを遣わされた父上御自身が、わたしのことを(聖書で)証明してくれるからである。(ところがあんなにはっきり書いてあるのに、)あなた達はいまだかって父上の声を聞いたことも、姿を見たこともなく、 |
前田訳 | そして、わたしをつかわされた父自らわたしについて証された。あなた方はいまだ彼の声を聞いたこともなく、彼の姿を見たこともない。 |
新共同 | また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。 |
NIV | And the Father who sent me has himself testified concerning me. You have never heard his voice nor seen his form, |
註解: 第四の証は神の直接の証である。イエスがバプテスマを受け給う時天より声あり、また御霊は鳩のごとく彼の上に降った(ヨハ1:32。マタ3:16、17)これ父の直接の証であった(C2、B1)。(注意)この証はまた旧約聖書にある神の証と解する学者も多い(C1、L1、M0、G1)。けれども余は取らない。
註解: イエスのバプテスマの際における神の声と御霊の形とはユダヤ人らが未だ見もせず聞きもしない。蓋し神は未だ見ゆべき形において聞ゆべき声をもってあらわれ給わなかった。唯もしユダヤ人らがイエスを信じさえしたならば彼らはイエスの中に神の声を聞き、神の形を見ることができたであろう。
5章38節 その
口語訳 | また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。 |
塚本訳 | また御言葉があなた達の心に留まっていない。父上の遣わされた者を信じないのがその証拠だ。 |
前田訳 | そして彼のことばはあなた方のうちにとどまっていない。彼がつかわされたその人をあなた方は信じないからである。 |
新共同 | また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。 |
NIV | nor does his word dwell in you, for you do not believe the one he sent. |
註解: ヨハネもこの神の言を証した。もしユダヤ人らの心にこの御言が止ったならば神の遣わし給いしキリストを信じたであろう。キリストを信ぜざる点より見て神の言が彼らの中に留まらないことがわかる。かくして第四の証もまたユダヤ人らにとって無効であった。
5章39節
口語訳 | あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 |
塚本訳 | あなた達は聖書(旧約)をもっていることが永遠の命を持っていることのように思って、それを研究している。ところがこの聖書は、(永遠の命である)このわたしのことを証明しているのに、 |
前田訳 | あなた方が聖書をしらべるのは、それによって永遠のいのちを得ると思うからである。しかし聖書こそわたしについて証している。 |
新共同 | あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。 |
NIV | You diligently study the Scriptures because you think that by them you possess eternal life. These are the Scriptures that testify about me, |
註解: 第五の証は聖書すなわち旧約聖書である。この聖書中の預言も歴史も教訓もみなキリストにつき証しているものであって(マタイ伝中にある「聖書の成就せんため」「聖書に応わんがため」等の語を精読せよ)、聖書によりてキリストを知るに至ることが聖書の目的である。然るにユダヤ人らは唯詳細に聖書の文字を査 べて、これにより永生を獲得せんとしているのであって、驚くべき迷であるといわなければならないぬ。
辞解
[されど] 「而して」の意(M0)。
5章40節
口語訳 | しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。 |
塚本訳 | あなた達はその命を得るためわたしの所に来ようとしない。 |
前田訳 | それなのに、あなた方はわたしのところに来ていのちを得ようとしない。 |
新共同 | それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。 |
NIV | yet you refuse to come to me to have life. |
註解: 彼ら聖書によりてキリストを発見し信仰をもって彼に来ったならば彼より永遠の生命を得ることができたであろう。しかるに我に来ること欲せずして徒 らに聖書の文言にのみ没頭して滅亡を招いている。
口語訳 | わたしは人からの誉を受けることはしない。 |
塚本訳 | (こう言うのは、自分を認めてもらいたいからではない。)わたしは人間の名誉などほしくない。 |
前田訳 | わたしは人の誉れを受けない。 |
新共同 | わたしは、人からの誉れは受けない。 |
NIV | "I do not accept praise from men, |
註解: 以上のごとくにイエスの言い給える所以は人より誉れを得んためではない、またイエスは人の誉れを受けんがために、人の目を喜ばすことを為し給わなかった。否、人よりの誉れはイエスこれを拒絶し給う(ヨハ2:24、25)。我らもまた彼にならい人の誉れを無視し人の軽蔑を無視しなければならぬ。イエスは本節以下においてユダヤ人の不信をいたく悲しみ、これを非難し給う。
口語訳 | しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。 |
塚本訳 | しかし(それをほしがる)あなた達は、心の中に神に対する愛を持たない。わたしはそれを知っている。 |
前田訳 | わたしはあなた方のことを知っている。すなわち、あなた方の中に神の愛がないことを。 |
新共同 | しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。 |
NIV | but I know you. I know that you do not have the love of God in your hearts. |
註解: イエスの憂い給う処は己が人より誉れを受けないことではなく、ユダヤ人らの心に真に神を愛する心がないことであった。この愛がないならばたといパリサイ人らに厳格なる律法遵守や、正統的教義や、聖書の知識があっても何の役にも立たない。彼らはこれによりて人より誉れを得んとしているに過ぎないからである。
5章43節
口語訳 | わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。 |
塚本訳 | (その証拠には、)わたしが父上の権威で来たのに、あなた達はわたしを受けいれず、だれかほかの人[偽救世主]が自分の権威で来れば、その人を受け入れるのである。 |
前田訳 | わたしは父のみ名によって来たのにあなた方はわたしを受けない。もし別のものがおのが名によって来れば、その人をあなた方は受けよう。 |
新共同 | わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。 |
NIV | I have come in my Father's name, and you do not accept me; but if someone else comes in his own name, you will accept him. |
註解: イエスは「我が父」すなわち神の御名によりて来り給うたけれども、己の誉れはこれを求めず、卑しき地位、栄えなき状態にその一生を終り給うた。ゆえに神を愛せず真理よりも虚偽を愛するユダヤ人は彼を信じなかった。もし「他の人」すなわち偽キリストがおのれの名によりて来り、自己の栄えを示し、ユダヤ人の肉を喜ばしめたならば、彼らはかえって彼を受けるであろう。これ神を愛せざるが故に、自己の肉の欲する処のものを受けるからである。不信仰は常に神以外のものを愛しこれを喜ぶ。ゆえに偽キリスト来ればこれによりてユダヤ人の信仰は試されるのである(申13:3)。
5章44節
口語訳 | 互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。 |
塚本訳 | 互に(この世の)名誉をやり取りして、ただひとりの神からの名誉を求めないあなた達が、どうして(わたしに対する)信仰をもつことが出来ようか。 |
前田訳 | あなた方はどうして信じえよう、あなた方は互いから誉れを受けながら、ただひとりの神からの誉れを求めないのに。 |
新共同 | 互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。 |
NIV | How can you believe if you accept praise from one another, yet make no effort to obtain the praise that comes from the only God ? |
註解: 人よりの誉れを求むることと神よりの誉れを求むることとは両立することができない。パリサイ人祭司らの不信も偽善も律法主義も形式主義もみな結局人より誉められんためである。ゆえに神の誉れを得ることができない。神の喜び給うことはその遣わし給える者を信ずることであって、神を愛せず、神を喜ばしめんとせざる彼らは信ずる能力すらない。「唯一の神よりの誉」と言いてその誉れの極めて狭く、局限せられていると同時にその価値の絶対なることを示す。
5章45節 われ
口語訳 | わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。 |
塚本訳 | (しかし)わたしが(最後の日に)あなた達を父上に訴えるなどと考えてはならない。いつも訴えている者がいる。あなた達が頼みとしているあのモーセである。 |
前田訳 | しかしわたしがあなた方を父に訴えると思うな。あなた方を訴えるのはモーセで、あなた方は彼に望みをかけて来た。 |
新共同 | わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。 |
NIV | "But do not think I will accuse you before the Father. Your accuser is Moses, on whom your hopes are set. |
註解: パリサイ人、祭司、学者等のユダヤ人らはイエスがたとい彼らの不信仰と神を愛せざることを責むるとも歯牙にかけるに足らないと思ったであろう。そしてその理由として彼らはモーセを信じており、モーセこそ彼らの味方であれば恐れるに足らないと思ったであろう。イエスはこの誤れる信念を根底より覆し、彼らが頼みとして「望みを置いている」(直訳)モーセこそかえって彼らを神に訴うる者であることを示し給うた。内容なき形式的宗教をいだいて誇る者はいずれの時代においてもこのユダヤ人のごとき運命にあるであろう。
5章46節
口語訳 | もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。 |
塚本訳 | もしもあなた達がモーセ(の言うこと)を信じたら、わたしを信じたはずである。モーセはわたしのことを書いているのだから。 |
前田訳 | もしあなた方がモーセを信じたら、わたしをも信じたろう。このわたしについて彼は書いたからである。 |
新共同 | あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。 |
NIV | If you believed Moses, you would believe me, for he wrote about me. |
5章47節 されど
口語訳 | しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。 |
塚本訳 | しかし彼の書いたものを信じないなら、どうしてこのわたしの言葉を信ずることができようか。」 |
前田訳 | もしあなた方が彼の書きものを信じなければ、どうしてわたしのことばを信じよう」。 |
新共同 | しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」 |
NIV | But since you do not believe what he wrote, how are you going to believe what I say?" |
註解: ここに新約と旧約、福音と律法との関係が明らかにせられている。もしモーセを信じたならば、モーセの記せる事柄(申18:15、出エジプト記の幕屋歴史、レビ記の祭典、犠牲等はみなキリストの型であった。Tコリ5:8、Tコリ10:4。なおヘブル書、使7章等を精読せよ)がみなキリストに関するものであること故、これをも信じたであろう。然るに彼らの心雲っているがためにこれを信ずることができなかった(Uコリ3:14)。すなわち旧約聖書全体殊にモーセの律法はキリストにおいて完成せられたのであって、キリストは律法の終りとなり給うたのである。ユダヤ人がこれを信じないのは結局彼らの信仰の柱石と考えているモーセを信じないことである。モーセを信じないならばキリストの言を信じないのは当然である。かく言いてイエスは自己に対するユダヤ人の不信を責め、彼らの足下よりその立ち居る基礎を奪い去り給うた。
要義1 [イエスに関する証について]初代弟子たちはイエスの偉大なる人格に接し、その恩寵と真理とに溢れる栄光を見た。我ら今日この生ける事実に接することができないけれども、なお四福音書を始め聖書の各部ならびに教会の歴史を通してこのイエスの人格の偉大さを偲ぶことができ、また聖霊によりて直接に活けるキリストに接することができる。この偉大なる人格の直接の証さえあれば他に何も必要がないと思うほどである。然るに神はその大なる憐憫により我らをして信ずることを得しめんがために、他に多くの証を我らに与え給うたことは感謝しなければならない。その証は註解の中にも示したるごとく、(1)キリストの自証、30−31節、(2)ヨハネの証、32−35節、(3)キリストの業の証、36節、(4)神の証、37−38節、(4)聖書の証、39節である。神は天地創造の始めより人類の救拯のために働き給い、ユダヤ人を選びてこれに荒野の生活を営ましめ、預言者を遣わして彼らの眠りを覚さしめ、最後にキリストを遣わして彼を十字架につけ給うた。この数十年の歴史と、最後に顕われしヨハネと、イエスの三年の御生涯を見て、キリストの神より遣わされし救い主に在すことの証拠がいかに豊富なるかを知ることができる。かかる豊富なる証拠をもって支えらる福音は最も確実なる福音であるというべきである。
要義2 [聖書について]聖書は、新約聖書は勿論、旧約聖書もみなキリストについて記せるものである。何となれば同じ御霊がこれを記し給うたからである。ゆえに聖書を充分に悟らざればキリストを知ることができず、聖書を基礎とせざるキリスト教は架空の教えである。唯聖書を一の文字と見、これを一の律法として学ぶ時は再び面帕 をその上に置くのであって、大なる誤りである。我らは霊をもって聖書を読み、聖書を通してキリストに至らなければならぬ。(Uコリ3:12−18およびその18節要義二参照)
要義3 [真の信仰と形式的信仰]ユダヤ人は一の立派な宗教団体としてモーセにその望みを置き、モーセの五書を始め他の旧約聖書を読み、宗教的儀式を行い、モーセによりて伝えられし律法を遵守している人々であった。然るにイエスはこのモーセがユダヤ人らを訴えるであろうと言い給いしことは、我らに対する深き教訓を与え給うたのである。もし我らの信仰が真のものでなく唯規則、制度、儀式、礼典、文字のみであったならば、我らの頼みとして望みを置くキリストが我らを訴え給うであろう。その時我らの驚きは如何ばかりであろうか。キリストの目にはユダヤの宗教団体は存在の意義を失った。唯神を愛し、聖書を信じてキリストに来る者のみ真の神の国の民であったのである。このことは今日の我らにとっても深き教訓である。
ヨハネ伝第6章
3-2 イエス、ガリラヤに其の栄光を示し給う
6:1 - 7:1
3-2-1 イエス五千人を養い給う
6:1 - 6:15
註解: エルサレムにおいて受入れられざりしイエスはそこを去りてガリラヤに赴き給うたマタ4:12−14:32。マコ1:14−6:49の間の記事はこの時に始まっており、ヨハネはこれを大体に省略してこの一章にまとめ、唯五千人を養い給える奇蹟と海の上を歩み給える奇蹟の二つのみを記している。而してガリラヤにおけるイエスの声望がここに凋落を来している悲しむべき光景を描いている。
6章1節 この
口語訳 | そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。 |
塚本訳 | そののち、イエスはガリラヤ湖すなわちテベリヤ湖の向こう岸に行かれた。 |
前田訳 | そののちイエスは、ガリラヤはテベリア湖の向こう岸に行かれた。 |
新共同 | その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。 |
NIV | Some time after this, Jesus crossed to the far shore of the Sea of Galilee (that is, the Sea of Tiberias), |
註解: 「この後」は漠然たる時日を指しヨハ5:1が仮庵の祭とすればその後ある期間の後、イエスはエルサレムを去り、マタ4:13によりカペナウムに住み給い、遍 くガリラヤを巡りて或は教え或は病を癒しなどし給いて、ついに過越の祭に近き頃この場所に来り給うた。共観福音書(引照1)にはこの前後の事情および動機が一層詳細に記されている。ルカ伝によればこの事件はベテサイダユリウスで起った。
辞解
[テベリヤの海] ガリラヤ湖の別名でローマ皇帝チベリウスの名に因みてチベリアスの町をヘロデが建ててからこの名称を得た。外国人にはこの名の方が解り易かったのであろう。
[彼方] 湖水の東岸
6章2節
口語訳 | すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。 |
塚本訳 | 多くの群衆がついて行った。病人に行なわれたかずかずの徴[奇蹟]を見たからである。 |
前田訳 | 多くの群衆が彼に従って行った。彼が病人に施された徴を見たからである。 |
新共同 | 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。 |
NIV | and a great crowd of people followed him because they saw the miraculous signs he had performed on the sick. |
註解: イエスはむしろ群衆を避けて静かな処を選び給うたのに(マタ4:13)その欲求は充たされなかった。群衆はイエスの為し給える奇蹟に引付けられたのである。かく群り来たれる人々が本章の終りにおいてみな彼に躓きしを見よ。人の心はかくまでも変り易いものである。
6章3節 イエス
口語訳 | イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。 |
塚本訳 | イエスは山にのぼって、弟子たちとそこにお坐りになった。 |
前田訳 | イエスは山に上って、そこに弟子たちとすわられた。 |
新共同 | イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。 |
NIV | Then Jesus went up on a mountainside and sat down with his disciples. |
口語訳 | 時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。 |
塚本訳 | ユダヤ人の祭りである過越の祭が間近であった。 |
前田訳 | ユダヤ人の祭りである過越が間近かった。 |
新共同 | ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。 |
NIV | The Jewish Passover Feast was near. |
註解: 場所と時とを掲げてこの事件の環境を明らかにしている。過越に近きことを特にここに掲げし所以は、まさに多くの人がエルサレムに上るべきその時期にイエスはガリラヤに止まり給いて、五千人の大衆に食を与えることによりて、荒野におけるマナの出来事を連想し、従って遡ってエジプトよりの過越の事実が心に浮び来ったのであろう(Z0)。これがついにキリスト教会の過越の祭ともいうべき聖餐式に関連あるイエスの言となりて示されし所以であった(ヨハ6:53節)。
6章5節 イエス
口語訳 | イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。 |
塚本訳 | イエスは目をあげて、多くの群衆があつまって来るのを見ると、ピリポに言われる、「どこからパンを買ってきて、この人たちに食べさせようか。」 |
前田訳 | イエスは目をあげて、多くの群衆が彼のところに来るのを見て、ピリポにいわれる、「この人たちに食べさせるように、どこでパンを買おうか」と。 |
新共同 | イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 |
NIV | When Jesus looked up and saw a great crowd coming toward him, he said to Philip, "Where shall we buy bread for these people to eat?" |
註解: 神は時々我らに解決を与え得ざる質問を発して我らの信仰を試み給う。飲食をも忘れてイエスに従い来る群衆の熱心を見よ。我らも凡てをすててイエスに従う場合には彼は必ず我らを飢えしめないであろう。
6章6節 かく
口語訳 | これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。 |
塚本訳 | こう言われるのはピリポを試すためで、自分ではどうするか、わかっておられた。 |
前田訳 | こういわれたのは彼を試みるためであって、自分ではどうするか知っておられた。 |
新共同 | こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。 |
NIV | He asked this only to test him, for he already had in mind what he was going to do. |
註解: 共観福音書の記者の触れなかった点をヨハネは洞見しているのであって、イエスは集い来る群衆を見て早く既にその心中に何を為すべきかを明らかにせられたのであった。父なる神がイエスにこの機会を与えてその栄光を顕わさしめ給うたのである。唯ピリポを教訓せんがために不可能の問題を質問の形をもって提出し給うたのであって、彼が信仰的の答を為すを得るや否やを「試る」ためであった。なぜピリポに問い給えるやは明らかではない。おそらくピリポの性質はかかる問題によりてその信仰を深められる必要があったほど幼稚であったのであろう。(注意)共観福音書に弟子たちの方よりこの問題を提供した形になっているのは、弟子たちの思想を主として録したからであり、ヨハネ伝にはイエスの心の働きを主として書いたのである。
6章7節 ピリポ
口語訳 | すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。 |
塚本訳 | ピリポが答えた、「二百デナリ[十万円]のパンでも、みんなに少しずつも行き渡らないでしょう。」 |
前田訳 | ピリポは彼に答えた、二百デナリのパンもめいめいが少しずつ受けるにさえ不十分でしょう」と。 |
新共同 | フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。 |
NIV | Philip answered him, "Eight months' wages would not buy enough bread for each one to have a bite!" |
註解: もし我ら自己の能力、自己の資産をもって凡てを為さんとする時必ず行詰る時が来るであろう。我らは常にキリストに連なり、彼が我らを用い給うようにすべきである。ピリポの答も、自己の力をもって凡てを為さんとする計画に過ぎず、而して結局その不可能を発見せるのみであった。二百デナリは二百日分の労銀に相当し(マコ6:37にもこの額を記している)約七十円(▲1930年頃の日貨の価値。なおヨハ12:5註の▲▲部参照)に相当している。「かかる大金をもってしても」という意味である。
6章8節
口語訳 | 弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、 |
塚本訳 | 弟子の一人で、シモン・ペテロの兄弟のアンデレがイエスに言う、 |
前田訳 | 弟子のひとりで、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスにいう、 |
新共同 | 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 |
NIV | Another of his disciples, Andrew, Simon Peter's brother, spoke up, |
6章9節 『ここに
口語訳 | 「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。 |
塚本訳 | 「ここに大麦パン五つと魚二匹持っている青年がいますが、こんな大勢の人に何の役に立ちましょう。」 |
前田訳 | 「ここに大麦のパン五つと魚二匹持っている若者がいますが、それもこの大勢には何になりましょう」と。 |
新共同 | 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 |
NIV | "Here is a boy with five small barley loaves and two small fish, but how far will they go among so many?" |
註解: アンデレが何の役にも立たないと思いつつ提供せる材料が、意外にも主イエスの祝福を受けて五千人を養うことができた。キリストこれを祝用し給うとき人間の目には無価値に見ゆるものも偉大なる価値を発揮することができる。我らも自己の無価値を憂うるを要しない。自己をイエスに提供してその祝用にまかすべきである。
辞解
[シモン・ペテロの兄弟] 特に「シモン・ペテロの兄弟」と言ったのはペテロの名が当時小アジア地方にも特によく知れていたからであろう。
[大麦のパン] 最下等の食物。
6章10節 イエス
口語訳 | イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。 |
塚本訳 | イエスが言われた、「人々をすわらせなさい。」その場所には草がたくさんあった。そこで人々がすわった。その数、男五千人ばかり。 |
前田訳 | イエスはいわれた、「人々をすわらせなさい」と。そこには草がたくさんあったので人々はすわった。その数は男およそ五千人であった。 |
新共同 | イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 |
NIV | Jesus said, "Have the people sit down." There was plenty of grass in that place, and the men sat down, about five thousand of them. |
註解: 丘陵起伏するペテサイダ・ユリウスの地、四月の新緑に地は緑の毛氈 を敷きつめていた。五千人の大衆(女と子供はこの外)が百人五十人ずつの列をなしてこの毛氈 の上に坐した(マコ6:40)。イエスの大なる奇蹟を見るに最も相応しき状態に置かれたのである。
6章11節 ここにイエス、パンを
口語訳 | そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。 |
塚本訳 | するとイエスは(いつも家長がするように、)そのパンを手に取り、(神に)感謝したのち、(裂いて、)坐っている人々に分け、魚も同じようにして、ほしいだけ分けておやりになった。 |
前田訳 | そこでイエスはパンを取り、感謝してから、すわった人々に分け、魚も同じようにして、彼らの欲するだけ与えられた。 |
新共同 | さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 |
NIV | Jesus then took the loaves, gave thanks, and distributed to those who were seated as much as they wanted. He did the same with the fish. |
註解: この時イエスは一家の家長の態度を取り、ユダヤ人が食事の際に為す習慣に従い(ルカ24:30)パンと肴とを取りてまず感謝をささげ給うた。唯イエスの感謝は形式的ではなく、霊の力の籠ったものであり、そこからこの奇蹟が生れた。この態度は深く弟子および群衆に銘じたことであろう。パンや肴が弟子たちの手に在りて増加するする有様は如何であるかとの好奇的疑問には何らの答も与えられていない、天地創造の光景が我らに不可知であると同じである。
6章12節
口語訳 | 人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。 |
塚本訳 | 人々が腹一ぱい食べると、弟子たちに言われる、「余った(パンの)屑を集めなさい、すこしもむだにならないように。」 |
前田訳 | 彼らが満ち足りると、イエスは弟子たちにいわれる、「余ったくずを集めなさい、何も失われないように」と。 |
新共同 | 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 |
NIV | When they had all had enough to eat, he said to his disciples, "Gather the pieces that are left over. Let nothing be wasted." |
註解: かかる奇蹟を行い給えるイエスがなぜ喰残りのパンを集むることを命じ給えるか。答。彼は神の恩恵の一片すらもこれを空しうし給わず、彼の目には無用なるものは一つだにないからである。我らは神の恩恵の少なき時はつぶやき、これが溢れる時は浪費する。弟子たちの心もこれに類していた。イエスはここに我らに深き教訓を与え給うた。
6章13節
口語訳 | そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。 |
塚本訳 | そこで集めると、人々が食べのこした五つの大麦パンの屑で、十二の篭がいっぱいになった。 |
前田訳 | そこで彼らが集めると、大麦のパン五つの食べ残しのくずで十二の寵がいっぱいになった。 |
新共同 | 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 |
NIV | So they gathered them and filled twelve baskets with the pieces of the five barley loaves left over by those who had eaten. |
註解: かく余分にパンを増し給いしことによりイエスは水を葡萄酒になし給いし場合(ヨハ2:1−11)と同じく、神の能力と恩恵の満ち溢れる姿を示し給えるものである。
6章14節
口語訳 | 人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。 |
塚本訳 | 人々はイエスが行われた徴[奇蹟]を見て、「確かにこの人は、世(の終り)に来るあの預言者だ」と言った。 |
前田訳 | 人々はイエスがなさった徴を見て、「これこそ世に来る預言者にちがいない」といいふらした。 |
新共同 | そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。 |
NIV | After the people saw the miraculous sign that Jesus did, they began to say, "Surely this is the Prophet who is to come into the world." |
註解: 彼らにこの奇蹟を示し給える所以は彼らをして霊の国における饗宴を思い、キリストより豊かに霊の賜与にあずかることを得しめんがためであった。然るに彼らは単に「徴を見」たのみで彼を「世に来るべき預言者」(ヨハ1:21註参照。申18:18)すなわちメシヤであると早呑込みをなし、彼らが要求するごときメシヤの王国が地上に来らんとしていると考えたのであろう。非常に危険な誤り易き思想である。この霊界の事実に対する理解力の欠乏がついに彼らがイエスを離れる原因となったのである。
6章15節 イエス
口語訳 | イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。 |
塚本訳 | イエスは人々が来て、自分を(エルサレムに)攫って王にしようと計画しているのを知り、自分ひとり、またも山に引っ込まれた。 |
前田訳 | イエスは彼らが来て自らを捕えて王にしようとするのを知って、ふたたびひとり山へ引き込まれた。 |
新共同 | イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。 |
NIV | Jesus, knowing that they intended to come and make him king by force, withdrew again to a mountain by himself. |
註解: ここにサタンが乗ずべき機会があった(マタ4:9)。イエスは神の国を建設せんがためにまず人類の罪を負いて十字架の途に進むべきか、または今直ちに王となって神の国を建てんか、この二つの途の分岐点に立っていた。前者は神の声であり、後者はサタンの声であった。前者に苦痛多く、後者に誘惑が多かった。人民は前者を理解せず、後者を希望し無理にもイエスを捕えて王とせんとした。イエスはこの群衆の誤りを正し、この誘惑と戦わんがために弟子たちを「強て」(マタ14:22。マコ6:45)船に乗らせ自らは山に遁れて「祈り」(マタ14:23。マコ6:46)給うた。徴を見て信ずることの無価値を明らかにここに示している。
辞解
[とらへ] harpazô は掠奪すること、暴力をもって彼をとらえんとしたのであった。
要義 [五千人を養い給える奇蹟について]この奇蹟は四福音書全部に共通なる唯一の奇蹟である点においてその著しき重要さを示している。而してこの奇蹟は、その事実そのものが異常なる出来事たるのみならず、なお多くの教訓を我らに与えている。すなわち(1)神の国と神の義とを求めてイエスに従うものは必ず必要の糧を与えられること、あたかも荒野においてイスラエルがマナを与えられ、またこの奇蹟において群衆がパンを与えられしと同様なること、(2)我らの目に如何に価値なきものといえども、イエスこれを祝福し給えば計り得ざる価値を発揮し得ること、(3)我らまず神に信頼して彼の命を待ちて然る後に計画し計量すべきこと、(4)神の与え給う飲食は常に感謝をもってこれを飲食し決して感謝なしにこれを採らざること「感謝なしに食するものは神の賜物を涜すもので野獣のごとくに飲食するのである」こと(C1)、(5)神は我らに贅沢なる食物を与え給わないこと、(6)神は如何なるパンの残片をもこれを棄て去り給わないと同じく、我らの中の如何なるものもこれを無視し給わないこと、(7)而してこれらの凡てが天国の民の姿であること等の教訓をこの中より学ぶことができる。
口語訳 | 夕方になったとき、弟子たちは海べに下り、 |
塚本訳 | 夕方になると、弟子たちは湖の岸に下って、 |
前田訳 | 夕になると、弟子たちは湖に下り、 |
新共同 | 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。 |
NIV | When evening came, his disciples went down to the lake, |
註解: イエスは祈りのために山に残り、弟子たちを強いて先に海に下らせしめた結果である。
6章17節
口語訳 | 舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウムに行きかけた。すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった。 |
塚本訳 | 自分たちだけ舟に乗り、湖の向こう岸のカペナウムへ出かけた。もう暗くなってしまったのに、イエスはまだもどって来ておられなかったのである。 |
前田訳 | 舟に乗って向こう岸のカペナウムヘ出かけた。もはや暗くなったのに、イエスはまだ彼らのところへ来られなかった。 |
新共同 | そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。 |
NIV | where they got into a boat and set off across the lake for Capernaum. By now it was dark, and Jesus had not yet joined them. |
註解: 彼らはイエスが船なしに帰り給うことが困難なのを知り、イエスに強いられたにもかかわらず、イエスが後より来り給うならんかとそれとなしに待ったのであろう。然るに未だ来り給わず、止むを得ずまず乗り出したことの意味が言外に表われている。
口語訳 | その上、強い風が吹いてきて、海は荒れ出した。 |
塚本訳 | 湖は大風が吹いて荒れていた。 |
前田訳 | 吹きすさぶ大風で湖は荒れていた。 |
新共同 | 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。 |
NIV | A strong wind was blowing and the waters grew rough. |
註解: ガリラヤ湖には時々急に突風が起ることがある。この時もこの種の場合であろう。
6章19節 かくて
口語訳 | 四、五十丁こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。 |
塚本訳 | 彼らは二十五か三十スタデオ[五キロか六キロ]ばかり漕ぎ出したとき、イエスが(あとから)湖の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、こわくなった。 |
前田訳 | さて、二十五か三十スタデオ漕ぎ出したとき、イエスが湖の上を歩いて舟に近づかれた。それを見て、彼らはおそれた。 |
新共同 | 二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。 |
NIV | When they had rowed three or three and a half miles, they saw Jesus approaching the boat, walking on the water; and they were terrified. |
註解: イエスの身体は時に天上の復活体に類すと思われるごとき異常ななる状態を呈し(マタ17:1以下の変貌、また人の心を透視し給うごとき)普通の自然法則の支配に打ち勝つ場合が少なくなかった。弟子たちが彼を見て変化の者なり(マタ14:26)として懼れたのも無理なきことであった。
辞解
[四五十丁] 原語二十五乃至 三十スタデアで一スタデアは約百間(約180メートル)である。
[海の上] epi tês thalassês ヨハ21:1と同文字で海辺とも解することができ、またかく解すべしとする学者があるけれども前後の関係上不可である。
口語訳 | すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。 |
塚本訳 | イエスが言われる、「わたしだ、こわがることはない。」 |
前田訳 | しかし彼はいわれる、「わたしだ。おそれるな」と。 |
新共同 | イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」 |
NIV | But he said to them, "It is I; don't be afraid." |
註解: この御言は深く弟子たちを慰め強くその心に印象したことであろう。マタイもマルコも同一の語をもってこれを記している。我らの心嵐になやむ時、我らイエスの御顔を仰ぐならば彼はそこに来給いて「我なり懼るな」と宣うであろう。唯彼を信ぜざる者にとりてはこの同じ語が懼れの原因となる。ヨハ18:6を見よ。
6章21節
口語訳 | そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。 |
塚本訳 | そこで舟に迎えようと思っていると、その暇もなく、舟は目的地についた。 |
前田訳 | そこで舟に迎えようとしているうちに、じきに舟は彼らの目ざす地に着いた。 |
新共同 | そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。 |
NIV | Then they were willing to take him into the boat, and immediately the boat reached the shore where they were heading. |
註解: 風止みて船は容易に目的地に着いた。一晩嵐と戦った弟子たちよりすれば風凪たる後の時間は一瞬間のごとくに思われた。嵐と戦う人生の船においてもしイエスが来り給うならば、船は一瞬にして目的地に達するであろう。
辞解
[歓び迎えしに] 「迎えんとしたるに」と解する学者もある(H0、W2、M0)。文字の上よりはかく解し易いけれども本文のごとく解することは不可能ではない(Z0、A1、G1)。
要義 [海上を歩み給える奇蹟について]ユダヤ人はイエスを捕えて王たらしめんとした。されど彼らは単にイエスをイスラエルの王となし、地上の国の支配者たらしめんとしたに過ぎなかった。イエスはパンの奇蹟に亞 ぐにこの奇蹟をもってして、その自然界の支配者なることを示し給い、同時に彼がやがて十字架にかかりて弟子たちより取り去られ、弟子たちのみ強いて荒波の中に漂いてこれと戦わなければならない状態に置かれることを示し給うたのである。その時復活昇天し給えるイエスは霊をもって彼らの処に来り、「我なり、懼るな」と宣い、彼らイエスをその心に迎うる時、この世の荒波すなわち迫害も困難も直ちに終息して彼ら直ちにその目的を達することができるのである。これ霊界の事実として我らもまた経験することができる事柄である。
6章22節
口語訳 | その翌日、海の向こう岸に立っていた群衆は、そこに小舟が一そうしかなく、またイエスは弟子たちと一緒に小舟にお乗りにならず、ただ弟子たちだけが船出したのを見た。 |
塚本訳 | あくる日、なお湖の向こう岸(すなわち東の岸)にのこっていた群衆は、(きのうの夕方)そこには一艘のほか小舟がなく、しかもイエスはその舟に弟子たちと一しょに乗らず、弟子たちだけがのって行ったことを知っていた。 |
前田訳 | あくる日まだ湖の向こう岸にいた群衆は、そこに舟が一隻しかなく、しかもイエスは弟子たちとともに舟に乗らず、弟子たちだけが乗って行ったことを知っていた。 |
新共同 | その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。 |
NIV | The next day the crowd that had stayed on the opposite shore of the lake realized that only one boat had been there, and that Jesus had not entered it with his disciples, but that they had gone away alone. |
註解: 「明くる日」は24節の「船に乗り」に関連し「海のかなた」は弟子たちがすでにガリラヤ湖の西岸に達してより見てその東岸で、昨日の奇蹟の行われし場所である。群衆はなおも熱狂していかにしてもイエスを擁立して王となさんとして、彼を探している有様がここに記されている。すなわちイエス・キリストは後に残りたるはず故その付近にいるであろうと探した。いよいよ見出し得なかったので、彼らも西岸に渡らんとした。その時あたかもよし次節のことがあった。
辞解
[見たり] eidon は「見て」 idôn を可とする(原本に二種あり)。「見たり」とすれば「明くる日」にこれを見たこととなり、「見て」とすれば「明くる日」は24節まで連絡する。
6章23節 (
口語訳 | しかし、数そうの小舟がテベリヤからきて、主が感謝されたのちパンを人々に食べさせた場所に近づいた。 |
塚本訳 | (すると折りよく、)ほかの数艘の小舟がテベリヤから、主が感謝して人々にパンを食べさせられた場所の近くに来た。 |
前田訳 | そこへほかの数隻の舟がテベリアを出て、主が感謝し、群衆がパンを食べたところの近くへ来た。 |
新共同 | ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。 |
NIV | Then some boats from Tiberias landed near the place where the people had eaten the bread after the Lord had given thanks. |
註解: 原文に括弧なし。イエスを見出し得ず、ついに彼を尋ねてカペナウムの方に赴かんとする群衆にとって、渡しに舟であった。
6章24節 ここに
口語訳 | 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知って、それらの小舟に乗り、イエスをたずねてカペナウムに行った。 |
塚本訳 | ところで群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、イエスをさがしに、その小舟に乗ってカペナウムへ行った。 |
前田訳 | 群衆はイエスも弟子たちもそこにいないのを見ると、舟に乗ってカペナウムへイエスを探しに行った。 |
新共同 | 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。 |
NIV | Once the crowd realized that neither Jesus nor his disciples were there, they got into the boats and went to Capernaum in search of Jesus. |
註解: 22−24節においてかくまで詳細に記述せる所以は、彼らがイエスをいかに熱心に探し求めていたかを示さんがためであった。彼らはかくしてついにカペナウムに来た。
6章25節
口語訳 | そして、海の向こう岸でイエスに出会ったので言った、「先生、いつ、ここにおいでになったのですか」。 |
塚本訳 | そして湖の向こう岸(すなわち西の岸)でイエスを見つけると、言った、「先生、いつここにこられたのですか。」 |
前田訳 | そして湖の向こう岸で彼を見つけていった、「先生(ラビ)、いつここにおいででしたか」と。 |
新共同 | そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。 |
NIV | When they found him on the other side of the lake, they asked him, "Rabbi, when did you get here?" |
註解: 彼らの驚駭の情をあらわしている。
辞解
[海の彼方] 東岸より見て彼方すなわち西岸でカペナウムの会堂であった(ヨハ6:59節)。
[何時云々] 原文よれば単に時刻に関する質問のみならず、かかる場所に来給えることに対する疑惑の念も含んでいる。
6章26節 イエス
口語訳 | イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。 |
塚本訳 | イエスが答えられた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、あなた達がわたしをさがすのは、(パンの奇蹟でわたしが救世主である)徴を見たからでなく、パンを食べて満腹したからである。 |
前田訳 | イエスは答えられた、「本当にいう、あなた方がわたしを探すのは徴を見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。 |
NIV | Jesus answered, "I tell you the truth, you are looking for me, not because you saw miraculous signs but because you ate the loaves and had your fill. |
註解: イエスの説教はこれより始まる。26−40節は生命のパンに関する議論。41−51節は信仰によりキリストの天より降れるパンなることを知ること、52−59節はキリストとの霊的一致がすなわち信仰なることを凡てパンの問題を捉えて論じ給う。本節の答えは群衆の質問に対する直接の答ではなく、例のごとく彼らの内心を洞見してこれに答え給うたのである。もし彼らは徴を真の意味において見たならば、イエスの神の子に在し給うことを知ったであろう。然るに彼らは徴に対して盲目であって、唯パンのみを見てこれに飽いた(ヨハ2:23の「徴を見る」もこれに同じ)。彼らは唯物質的この世的満足を求めてイエスを尋ねたのである。
6章27節
口語訳 | 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。 |
塚本訳 | (食べれば)無くなる食べ物のためでなく、いつまでもなくならずに、永遠の命に至らせる食べ物のために働きなさい。これは人の子(わたし)があなた達に与えるのである。神なる父上が、(これを与える)全権を人の子に授けられたのだから。」 |
前田訳 | 無くなる食べ物のためでなく、永遠のいのちへと残る食べ物のために働きなさい。それを人の子はあなた方に与えよう。父なる神が彼にその権限を与えられたから」と。 |
新共同 | 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」 |
NIV | Do not work for food that spoils, but for food that endures to eternal life, which the Son of Man will give you. On him God the Father has placed his seal of approval." |
註解: 昨日食いて今日飢うる物質的の糧は重要ではない、永遠に生きる得べき霊の糧を尋ね求めて努力すべきである。ヨハ4:13、14参照。▲口語訳に「朽ちない」とあるのは原文にはない。
これは
註解: ここにイエスは始めてパンの奇蹟の真の意味を表示し給うた。すなわちこの奇蹟はイエスがその血と肉とをもって(ヨハ6:51、ヨハ6:53節)永遠の生命に至るパンを与え給うことの型であった。このことは神がイエスに印して、すなわちこの奇蹟およびその他の証(ヨハ5:31−47)によりて保証し給うことによりてこれを知ることができる。▲▲直訳「何となれば父なる神はこのイエスに証印を押したから」で神はイエスこそ我らに永遠の生命に至るパンを与え得る方であることを保証したことを意味する。口語訳の理由不明。
6章28節 ここに
口語訳 | そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。 |
塚本訳 | すると人々がたずねた、「(それをいただくために)神の(御心にかなう)業をするには、何をすればよいのでしょうか。」 |
前田訳 | そこで彼らはいった、「神のわざをなすにはわれらは何をなすべきですか」と。 |
新共同 | そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 |
NIV | Then they asked him, "What must we do to do the works God requires?" |
註解: 「神の業」は神の要求し給う行為(複数)の意味であって、いかなる行為(複数)を為したならば永遠の生命に至る糧が与えられるかを彼らは質問したのである。彼らの心はまず第一に律法的行為を問題とした天において充分にキリストを理解しなかったけれども、ここまで進んで来たことは彼らにとって大なる進歩であった。
6章29節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。 |
塚本訳 | イエスは答えられた、「神がお遣わしになった者を信ずること、これが(御心にかなうただ一つの)神の業である。」 |
前田訳 | イエスは答えられた、「神がつかわされたものを信ずることが神のわざである」と。 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 |
NIV | Jesus answered, "The work of God is this: to believe in the one he has sent." |
註解: イエスはこれに答えて神の要求し給う業(単数)は決して律法上の種々の行為ではなく、唯キリストを信ずることの一つであることを教え給うた。「業」は前節の質問において複数であり本節の答において単数である。永遠の生命に至る糧を得るに必要なる行為は、律法の行為ではなく唯一つ信仰である(ロマ3:28)。ただし信仰は行為の一種であるというのではなく、文章の連絡上かく言ったので、いわば「受動的行為」(C)である。
6章30節
口語訳 | 彼らはイエスに言った、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。 |
塚本訳 | そこで彼らが言った、「ではあなたは、どんな徴をわたし達にして見せて、自分を信じさせようとされるのですか。どんなことをされますか。 |
前田訳 | 彼らはいった、「それならば、どんな徴をなさって、われらが見てあなたを信ずるようになさいますか。どんなことをされますか。 |
新共同 | そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。 |
NIV | So they asked him, "What miraculous sign then will you give that we may see it and believe you? What will you do? |
註解: 「神の遣わし給えるもの」とはイエス御自身を指すことをば彼らは了解した。唯曩 に彼らの見しパンの奇蹟は地的の徴であって、彼らはイエスを信ぜんがためには天よりの奇蹟がなければならないと信じた(マコ8:11。ルカ11:16)。彼らはマナの奇蹟を天よりの徴と考え、イエスもこれに類する、またこれ以上の徴を行うであろうと考えた。これ27節より彼らの当然期待する処であった。彼らは霊の世界に対して盲目であったからである。
6章31節
口語訳 | わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。 |
塚本訳 | わたし達の先祖は、(モーセが天から降らせた)マナを荒野で食べました。(聖書に)〃神は天からのパンを彼らに食べさせられた〃と書いてあるとおりです。(あなたもモーセのような徴を見せてください。)」 |
前田訳 | われらの先祖は荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からのパンを食べさせられた』と聖書にあるとおりです」と。 |
新共同 | わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」 |
NIV | Our forefathers ate the manna in the desert; as it is written: `He gave them bread from heaven to eat.' " |
註解: ユダヤ人はこの事件を最大の奇蹟と信じモーセをその中保者として仰いだ(出16:12以下参照)。彼らはイエスに向い暗に「汝もかかる徴を示せ」との要求を提出したのである。
6章32節 イエス
口語訳 | そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。 |
塚本訳 | そこでイエスは言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、モーセが天からのパンをあなた達に与えたのではない。わたしの父上が、天からの本当のパンを与えられたのである。 |
前田訳 | イエスはいわれた、「本当にいう、あなた方に天からのパンを与えたのはモーセではない。わが父があなた方に天からの真のパンをお与えになる。 |
新共同 | すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 |
NIV | Jesus said to them, "I tell you the truth, it is not Moses who has given you the bread from heaven, but it is my Father who gives you the true bread from heaven. |
註解: キリストによる新生命以外の凡てのものは凡て地的にして地のものである。律法もこの中に属する。たといその中に天的の要素があっても、それは唯来るべき天的キリストの予表に過ぎない。ゆえに真の意味において天よりのパンを与えたものはモーセではなかった。イエスのいわゆる天よりのパンはマナよりも一層貴いものであり真の意味における天よりのパンで、それを与え給うものは父なる神である。
辞解
[(私訳)] 「天よりのパンを汝らに与えし者はモーセにあらず」と訳すべきである。
[汝ら] イスラエルの民の意味。
6章33節
口語訳 | 神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。 |
塚本訳 | 神の(与えられる)パンは天から下ってきて、世に命を与えられるものであるから。」 |
前田訳 | 神のパンは天から下って世にいのちを与えるものである」と。 |
新共同 | 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 |
NIV | For the bread of God is he who comes down from heaven and gives life to the world." |
註解: 「神のパン」は「天よりのパン」と同意義である。神の与え給う真のパンは本来地上には存せず、新たに天より降ったものである。また一時的の生命ではなく永遠の生命(ヨハ6:50節を見よ)を世界万民(イスラエルのみならず)に与うるものである。かく言いてイエスは暗に己を指し給うた。マナは真の意味において天より降ったのではなく、また永遠の生命を与えることができない。同様に凡ての宗教も哲学も地より天を窺い視しに過ぎず、真に天より降りしものは唯イエス・キリストのみであることを知るべきである。
口語訳 | 彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。 |
塚本訳 | 彼らが言った、「主よ、(もしそうなら、)いつもそのパンを戴かせてください。」 |
前田訳 | 彼らはいった、「主よ、そのパンをいつも下さい」と。 |
新共同 | そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 |
NIV | "Sir," they said, "from now on give us this bread." |
註解: 30節において永遠の生命に至る糧のために為すべき業はイエスを信ずるにあることをほぼ了解した彼らは、再びパンの議論のために心奪われてこれを何らか物的のものと解し、これを不断に与えられんことをイエスに乞うた。この世の多くの宗教や哲学はたとい一時的には生命を与えることができても永遠にこれを与うることができない(禅の悟入のごときこれである)。
6章35節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。 |
塚本訳 | イエスが言われた、「わたしが命のパンである。わたしの所に来る者は決して飢えない。わたしを信ずる者は決して二度と渇かない。 |
前田訳 | イエスはいわれた、「わたしがいのちのパンである。わたしのところに来るものは決して飢えず、わたしを信ずるものは決して渇かない。 |
新共同 | イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。 |
NIV | Then Jesus declared, "I am the bread of life. He who comes to me will never go hungry, and he who believes in me will never be thirsty. |
註解: ここに至って始めてイエスは問題の核心に突入し給い、「我こそは今まで論じ来たった生命のパンである」と宣言し給うた。而してこのパンを食うには彼に「来る」ことと彼を「信ずる」こととの二つが必要である。イエスを離れ去るもの(ヨハ6:66節)、彼を信ぜざるもの(ヨハ6:64節)はこの生命のパンに与ることができない。この生命のパンを食するものは永遠に飢渇を覚えない。
6章36節 されど
口語訳 | しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。 |
塚本訳 | しかしわたしは(前に)『あなた達はわたしを見たのに、信じない』と言った。 |
前田訳 | しかし、わたしがいったように、あなた方は〔わたしを〕見たが信じない。 |
新共同 | しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。 |
NIV | But as I told you, you have seen me and still you do not believe. |
註解: 「我を見て」、「我がメシヤとしての働き」(M0)すなわち奇蹟を見てすらも、ユダヤ人はなおイエスのキリストなることを信じなかった。このことをイエス・キリストは曩 にヨハ6:26節に言い給うた。イエスはこれよりユダヤ人の不信を責め、かつ凡てが神の御旨なることを思いてその使命につき慰藉 を感じ給うた。
口語訳 | 父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。 |
塚本訳 | (だが、信じないのは父上の御心である。)父上がわたしに下さるものは皆、わたしの所に来、わたしの所に来る者を、わたしは決して放り出さない。 |
前田訳 | 父がわたしに賜わるものは皆わたしのところに来、わたしのところに来るものをわたしは決してしりぞけない。 |
新共同 | 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 |
NIV | All that the Father gives me will come to me, and whoever comes to me I will never drive away. |
註解: ここでイエスは神学論を語り給えるにあらず、ユダヤ人の不信を責め給うたのである。曰く「汝らは神の選民であると誇っている。しかしながら焉 んぞ知らん汝らは神より棄てられたものである。何となれば神はその選び給えるものを我に賜い、かくして我に賜いしものは必ずその衷 に我を求むる心を生じ、ついに来りて我を信ずるに至るからである(ロマ8:30)。この意味において信仰は各人の自由の意思によるのではなく神の賜物である(エペ2:8)。而して神は彼らをキリストに賜うがために彼らを「引き」(ヨハ6:44節)これを「教え」(ヨハ6:45節)給う。
辞解
[賜ふものは皆] 単数中性名詞を用い、全信者を一団として取扱っていることに重大なる意義あることに注意すべきである。この節は予定説の根拠となる。
註解: 「退けず」は原文「外に投げ棄てず」で激しい語である。ここにキリストは彼を信じて彼に来るものに対する永遠に変らざる愛護の約束を与え給う。この御言をききてキリスト者の心はキリストにある平安を味わうことができる。かかる愛に満てる招致をききてもなおユダヤ人は彼に来なかった。
辞解
[きたる者] 単数男性名詞でイエスの信者の個人々々に対する愛の関係を表示する。
6章38節
口語訳 | わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。 |
塚本訳 | (放り出すわけがない。)わたしは、自分のしたいことをするために天から下ってきたのではない。わたしを遣わされた方の御心を行うためである。 |
前田訳 | それは、わたしが天から下ったのは、わが心をでなく、わたしをつかわされた方のみ心を行なうためであるから。 |
新共同 | わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 |
NIV | For I have come down from heaven not to do my will but to do the will of him who sent me. |
註解: 前節の理由の説明でヨハ5:30と6:38の繰返しである。イエスの意思および行為はみな父より出でている。ゆえに絶対の信頼を献げ得るものは彼のみである。
6章39節
口語訳 | わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。 |
塚本訳 | そして、わたしに下さったものを一つも無くさず、最後の日にそれを復活させること、これがわたしを遣わされた方の御心である。 |
前田訳 | わたしをつかわされた方のみ心は、わたしに賜わったものをひとりも失わず、最後の日に復活させることである。 |
新共同 | わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 |
NIV | And this is the will of him who sent me, that I shall lose none of all that he has given me, but raise them up at the last day. |
註解: 33、35節にイエスが天より降れるパンにして、永遠の生命を世に与うるものなることを述べ、37、38節にイエスは神の御意を為さんがために来り給えることを述べた。ゆえにこの二つの点をまとめてこれを詳述すれば本節のごとくになるのであって、「一つをも失わ」ないように彼らにイエスの血と肉(ヨハ6:53節)すなわち生命の糧を与え、而して世の終りの日には(ヨハ5:29)彼らを霊の体に甦らすることによりて永遠の生命に至らしむることが神の御意であることをイエスは彼らに示し給うた。すなわち神の御意は唯地上の生活におけるパンを与えることではなく、また地上のイスラエルを恢復することでもなく、神の国の民に霊の糧を与えて彼らに永遠の生命を賜い、これを甦らえしむることにある。「これが終局であってその先にはもはや何らの危険はない」(B1)絶対安全の境地である。
6章40節 わが
口語訳 | わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。 |
塚本訳 | 子(なるわたし)を見て信ずる者が皆永遠の命を持ち、わたしがその人を最後の日に復活させること、これがわたしの父上の御心であるから。(だから信じない者は、父上がわたしに下さらない人たちである。)」 |
前田訳 | わが父のみ心は、子を見て信ずるものが永遠のいのちを得、わたしがその人を最後の日に復活させることである」と。 |
新共同 | わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」 |
NIV | For my Father's will is that everyone who looks to the Son and believes in him shall have eternal life, and I will raise him up at the last day." |
註解: 前節と内容は同一であるけれども関係が異なっている。前節は神がキリストに要求し給う処であり、本節は神が人類に関して希望し給う点でキリストはその欲求に従って我らを終りの日に甦らしめ給う。すなわち父の人類に欲求し給う点は彼らが神の「子」キリストを「見て」熟視して彼を「信ずる」ことによって、永遠の生命を得ることである(ヨハ3:16)。神の我らに要求し給うことはかくも偉大なる要求であって、我ら死に打勝ちて永遠の神の国に永遠の凱歌を揚げることであり、これがためにイエスをこの世に遣わし給うたのであった。我らの救いの意義の重大なることはこれによりて知ることができる。而してこれは地的思想に囚われていたユダヤ人らの夢想だにしない点であった。最後の一節は折返しのごとくに39、40、44、45節に繰返されており中心問題をなしている。
辞解
[すべて] 37節と異なり男性、すなわち信仰の個人的なるを示す。
要義1 [地より出でし宗教と天より降れる福音]我らの宗教心や(徴)理性や(智慧)または法悦の状態等を基礎とせる救いは真の救いではない。かかる救いは「天より降れるもの」にあらずして、すでに我らの中に神性として存し「天より与えられるもの」にあらずして自ら発見、理解、悟入するものであるを主張する。またかかるものは「常に与えられるもの」にあらずして時々与えられるに過ぎない。天より与えられし永遠不変の生命は唯キリストにあるのみである。ゆえに我らは唯彼を信ずる外にこれを得るの途がない。
要義2 [永遠の生命について]永遠の生命とは単に霊魂の不滅というがごとき思想上の問題ではなく、また法悦の瞬間の絶対永遠性というごとき神秘主義の諸説とも異なっている。永遠の生命は神がキリストを天より降して我らに賜わる処の生命であり、この生命を養うパンは神の賜物なるキリスト(ヨハ4:10)であり、またこの生命は終には甦らしめられ体を与えられて永遠に神と共に生くることができるのである。而してこの永遠の生命こそ神の切に求め給い与えんとし給う処なることを知りて、我ら神の経綸の偉大なるを讃美せざるを得ないのである(なお復活についてはTコリ15章参照)。
要義3 [肉の糧と霊の糧]ユダヤ人が求めし処は肉の糧であり、キリストの与えんとし給えるものは霊の糧であった。今日この世の文明と称するものも、その求むる処は要するに肉の糧であって、衣食の問題、社会改良の問題に過ぎない。人類はすでに死ねる者である以上(ヨハ5:24、25)これに肉の糧を与え、地上の国を与うることは最大なる問題ではない。而のみならずその固有せる罪性に支配せられ、サタンに囚われている人類は、如何に多くの肉の糧を与うるとも結局暗黒と死と滅亡の中にいるのであって、これらのユダヤ人らと同じく憐れむべき状態にあるのである。ゆえにイエスは彼らに肉のパンを与えることよりも、彼らをローマの束縛より救うことよりも、さらに一層重要なる事実すなわち父なる神の終局の要求をここに示し給うた。すなわち天より下れる霊の糧を与えて彼らをして永遠に生くることを得しめ、終りの日にこれを甦らすることであった。イエスの使命はこれ以下のものではなかった。而して信仰によりて彼を受くるものはこの恩恵に与ることができ、而してこの恩恵に与るものは肉の問題、この世の問題も完全にこれを解決することができる。
註解: 41−51節においてイエスはさらに進んでキリストの天より降れるパンに在すことは、父より与えられる信仰によりてのみこれを知ることができることを力説し給う。
6章41節 ここにユダヤ
口語訳 | ユダヤ人らは、イエスが「わたしは天から下ってきたパンである」と言われたので、イエスについてつぶやき始めた。 |
塚本訳 | ユダヤ人はイエスが「わたしが天から下ってきたパンである」と言われたので、彼のことをつぶやいて |
前田訳 | ユダヤ人はイエスが「わたしは天から下ったパンである」といわれたので彼のことをつぶやきはじめた。 |
新共同 | ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 |
NIV | At this the Jews began to grumble about him because he said, "I am the bread that came down from heaven." |
6章42節
口語訳 | そして言った、「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか」。 |
塚本訳 | 言った、「この人はヨセフの子イエスで、わたし達はその父も母も知っているではないか。どうして今「わたしは天から下ってきた』と言うのだろう、」 |
前田訳 | 彼らはいった、「これはヨセフの子イエスではないか。われらはその父と母を知っているではないか。どうして今『わたしは天から下って来た』というのか」と。 |
新共同 | こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」 |
NIV | They said, "Is this not Jesus, the son of Joseph, whose father and mother we know? How can he now say, `I came down from heaven'?" |
註解: 「ユダヤ人」は彼を尋ねて追及し来れる群衆の中にあるもの。「呟く」はイエスの言に対する不満に基く不信と非難であって42節はその内容を示している。彼らはイエスを肉によりて知っているのみであった。イエスがこれに対し、彼が聖霊により処女 マリヤより生れ給えることをもって答え給わなかった理由は、たといこの事実を公示するも、イエスを信ぜざるものはこれを否定し嘲弄するに過ぎないからである。このことはイエスを信ずる者にのみ確実なる事実である。
6章43節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに答えて言われた、「互につぶやいてはいけない。 |
塚本訳 | イエスが答えられた、「つぶやき合うのをやめよ。 |
前田訳 | イエスは答えられた、「互いにつぶやくのはやめよ。 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。 |
NIV | "Stop grumbling among yourselves," Jesus answered. |
6章44節
口語訳 | わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。 |
塚本訳 | (わたしを信じないのは、父上が引っ張ってくださらないからだ。)わたしを遣わされた父上が引っ張ってくださらなければ、だれもわたしの所に来ることはできない。(しかし来れば、)わたしはその人をきっと最後の日に復活させる。 |
前田訳 | わたしをつかわされた父がお引きでなければ、だれもわたしのところに来られない。しかしわたしはその人を最後の日に復活させよう。 |
新共同 | わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 |
NIV | "No one can come to me unless the Father who sent me draws him, and I will raise him up at the last day. |
註解: 「汝ら互に呟くとも無益である。我に来り我を信ずるに至ることは、汝らの知識や理性をもってすることができないのであって、父なる神がまず聖霊をもって汝らに近付き、汝らの心を動かし、汝らを引きて我に来たらしめ給うにあらざれば不可能である。その他の方法をもって我に来ることはできない」とイエスは言い給う。マタ16:17参照。ゆえに「あたかも自己の努力によりて神に服従するもののごとくに考えて、神に引かれんことを欲する者にあらずば引かれることなしと唱うるは誤れる不信の断定である。何となれば神に従わんとする意思すらも神より与えられしものであるからである」(C2)。すなわちキリストに対する信仰もまず神我らに働き給うことより始まるのである。
註解: キリストに来る者は必ず終りの日に甦らしめられることを繰返して保証し給う。
6章45節
口語訳 | 預言者の書に、『彼らはみな神に教えられるであろう』と書いてある。父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである。 |
塚本訳 | 預言書に、〃(最後の日に)人は皆神に教えを受けるであろう〃と書いてある。(そして神に引っ張られる者、すなわち本当に)父上に聞き、また学ぶ者は皆、わたしの所に来る。 |
前田訳 | 預言書に、『皆が神の教え子になろう』と書いてある。父に聞き、また学ぶものはわたしのところに来る。 |
新共同 | 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 |
NIV | It is written in the Prophets: `They will all be taught by God.' Everyone who listens to the Father and learns from him comes to me. |
註解: 前節のごとく父に引かれるものは、父より聴きて学ぶの意思を起すようになるのであって、単に無意思に機械的に引かれるのではない、イザ54:13よりの引照はこの意味である。かかる者のみがキリストに来るのであって自己の学問や判断や経験のみをもって、キリストに来ることはできない。ユダヤ人らの不信も神に対するこの関係がないからである。
辞解
[預言者たちの書] イザヤ書にこの句があるけれども他の預言者たちも同意見であって、預言者全体を意味すると見なければならぬ。エレ31:33、34。
[彼らみな] イザヤ書においてはイスラエル全体を意味し、ここでは神に選ばれしものの全体を意味する。
6章46節 これは
口語訳 | 神から出た者のほかに、だれかが父を見たのではない。その者だけが父を見たのである。 |
塚本訳 | (聞き、学ぶと言っても、)これはだれかが父上を見たというのではない。神のところから来た者、(すなわちわたし)だけが、父上を見たのである。 |
前田訳 | これは、だれかが父を見たというわけではない。神のところから来たもの、その人だけが父を見たのである。 |
新共同 | 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 |
NIV | No one has seen the Father except the one who is from God; only he has seen the Father. |
註解: 前節のごとくに父より聴きて学ぶことは、人が直接に父に面接してこれを受けることができる訳ではなく、要するにキリストの許に来りキリストより聴きて学ばなければならない。何となれば「神よりの者」なるキリスト・イエスのみ父を見給いしが故である(ヨハ1:18)。父は人を引きてキリストに至らしめ、キリストは彼らに父を示しこれを教え給う。イエスが父を見給いしはその受肉以前は勿論であるけれどもその以後も常にその懐にいまして父の御顔を見給う。
辞解
[▲神よりの者] para+第二格は側から離れて来る状態を示す。「神の許よりの者」の意。ヨハ16:27参照。
6章47節 まことに
口語訳 | よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。 |
塚本訳 | アーメン、アーメン、わたしは言う、(わたしを)信ずる者は永遠の命を持つ。 |
前田訳 | 本当にいう、信ずるものは永遠のいのちを得る。 |
新共同 | はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 |
NIV | I tell you the truth, he who believes has everlasting life. |
註解: 人は父を見ることができない。それ故にキリストが天より降れる生命のパンなることもこれを信ずるより外に道がない。その他の方法をもってこれを理解せんとしても不可能である。かくしてイエスはユダヤ人らに対し、最後の結論として彼らに信仰を要求し給い、而してこれに伴う永遠の生命を約束し給うた。
口語訳 | わたしは命のパンである。 |
塚本訳 | わたしが命のパンであるから。 |
前田訳 | わたしはいのちのパンである。 |
新共同 | わたしは命のパンである。 |
NIV | I am the bread of life. |
6章49節
口語訳 | あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。 |
塚本訳 | あなた達の先祖は荒野でマナを食べたけれども、死んだ。(天から降って来たが、永遠の命がないからだ。) |
前田訳 | あなた方の先祖は荒野でマナを食べたが死んだ。 |
新共同 | あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 |
NIV | Your forefathers ate the manna in the desert, yet they died. |
6章50節
口語訳 | しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。 |
塚本訳 | それを食べれば死なないもの、これが(本当に)天から下ってくるパンである。 |
前田訳 | 食べれば死なないものこそ天から下ったパンである。 |
新共同 | しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 |
NIV | But here is the bread that comes down from heaven, which a man may eat and not die. |
註解: 然らば永遠の生命を得る方法如何。イエスはここに至るまでは単に「我に来る者」「我を信ずる者」とのみ言い給うたけれどもついにここに至りて、それらの言は結局この生命のパンを「食う」ことであることに説き及ぼし給うた。すなわちキリストに来ること彼を信ずることは彼を食うことに他ならざることを示し給うたのである。然らば彼を食うとは如何なることであろうか。
辞解
[(私訳)] 「是は食う者の死ぬることなからんために天より降れるパンなり」。
6章51節
口語訳 | わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。 |
塚本訳 | わたしが天から下ってきた、生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、わたしの肉である。世を生かすために、わたしはこれを(世に)与える。」 |
前田訳 | わたしは天から下った生きたパンである。このパンを食べるものは永遠に生きよう。わたしが与えるパンは世のいのちのためのわが肉である」と。 |
新共同 | わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 |
NIV | I am the living bread that came down from heaven. If anyone eats of this bread, he will live forever. This bread is my flesh, which I will give for the life of the world." |
註解: キリストは彼を食うとは彼の肉を食うことであるとの驚くべき結論に達し給うた。而してキリストの肉は生命を与うるパンであるのみならず、それ自身活きているパンであり、それ自身の中に生命を固有している(ヨハ5:26)。ゆえにこれを食う者はその生命を享 ける。而してキリストは世界万民に生命を与えんがためにその肉を与え給う。彼の肉を与うるとはこれを十字架に釘けて贖罪の死を遂げ給うことを意味する(ヨハ2:19、ヨハ3:14、15)。ゆえに十字架の贖罪の死を信じ、彼と霊的一致の状態に入ることは彼の肉を食うことに相当している。あたかも肉を食うことによってこれが我らの肉となるがごとき状態である。かくしてキリストの生命が我らの中に生くるに至るのである(ガラ2:20、エペ3:17)。(注意)「肉を与えん」の意義をキリスト肉体となりて我らの間に宿り給えることを意味すると解する学者があるけれども、「与えん」との未来動詞がその然らざることを示し、またこれを聖餐式の意義に取る学者があるが誤っている(W2)。
辞解
[▲▲之を与へん] 古い写本に欠けている。即ち「我が与えるパンは世の生命の為のわが肉なり」となる。
要義 [如何にして信仰を得るや]この問題につきキリストはパウロと同じく信仰が神の賜物なること、而してキリストの贖罪の死を信ずるにあることを我らに教え給い、ヨハネも全くこれと同一の信仰を有していたことに注意すべきである。神の御霊の働きなしには我ら神を求むることもできず、またキリストに来って彼に聴き彼より学ぶこともできない。而して彼の十字架上の贖いを信ずるものにあらざれば、結局彼の肉を食うということができないのであって、他に如何なる思想、如何なる信仰があってもそれは真の信仰ということができない。
註解: イエスはさらに進んでその信仰の内容如何に説き及ぼし給う。ユダヤ人の不理解なる質問を捉えて、巧みにこの高遠なる信仰生活の内容を示し給う処に彼の偉大なる教師に在し給うことを見ることができる。
6章52節 ここにユダヤ
口語訳 | そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。 |
塚本訳 | するとユダヤ人は、「この人は、どうして自分の肉をわたし達に食べさせることができようか」と言って互に議論をはじめた。 |
前田訳 | そこでユダヤ人は互いに激論しあった、「どうしてこの人がわれらにその肉を食べさせうるか」と。 |
新共同 | それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。 |
NIV | Then the Jews began to argue sharply among themselves, "How can this man give us his flesh to eat?" |
註解: 「呟き」は進んで「争い」となった。イエスの御言がますますその不可解の程度を増して来るに従い、これを霊的に解せんとするものとその不可解不合理を主張するものとが分かれたからである。かかる疑いを有たずに単純に彼の御言を信ずるものはこの意義をさとることができる。
6章53節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。 |
塚本訳 | イエスが言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、人の子(わたし)の肉を食べず、その血を飲まねば、あなた達の中に命はない。 |
前田訳 | イエスがいわれた、「本当にいう、人の子の肉を食べかつその血を飲まねば、あなた方の中にいのちはない。 |
新共同 | イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 |
NIV | Jesus said to them, "I tell you the truth, unless you eat the flesh of the Son of Man and drink his blood, you have no life in you. |
註解: キリストは前の問に答えずに直ちに彼を信ぜざるものの恐るべき運命につき宣告を与え給う。キリストの肉とその血は十字架にかかりて己を我らに与え給えるキリストであり、これを飲み食いすることは信仰により彼と完全なる一致を持つことである。かかる者に永遠の生命があるのであって、これなきものは死の中にいるのである。ユダヤ人といえども同様である。ここにキリストはその肉と血につきて語り給い、その十字架の死とその前に定め給える聖餐式とを予表し給うた(B1)。
6章54節 わが
口語訳 | わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。 |
塚本訳 | わたしの肉を食い、わたしの血を飲む者は、永遠の命を持つ。わたしはその人を最後の日に復活させる。 |
前田訳 | わが肉を食い、わが血を飲むものは永遠のいのちを得る。わたしはその人を最後の日に復活させよう。 |
新共同 | わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 |
NIV | Whoever eats my flesh and drinks my blood has eternal life, and I will raise him up at the last day. |
註解: 前節と反対の状態すなわち信仰にある者の運命はすなわちこれである。かかる者は現在においてすでに永生を所有し(もつヨハ5:24)、終りの日に向かって復活せしめられる。
6章55節
口語訳 | わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。 |
塚本訳 | わたしの肉は本当の食べ物、わたしの血は本当の飲み物だから。 |
前田訳 | わが肉は真の食べ物、わが血は真の飲み物である。 |
新共同 | わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 |
NIV | For my flesh is real food and my blood is real drink. |
註解: 我らのために犠牲となり給えるキリストの生命より外に我らの霊の生命を養うべき真の飲食物はない。十字架にかかり今甦りて神の右に在し給う活けるキリストを、我ら信仰によって把握する時、彼は真の飲食物として我らの生命を養い給う。
6章56節 わが
口語訳 | わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。 |
塚本訳 | わたしの肉を食いわたしの血を飲む者は、わたしに留まっており、わたしも彼に留まっている。 |
前田訳 | わが肉を食べわが血を飲むものはわたしにとどまり、わたしも彼にとどまる。 |
新共同 | わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 |
NIV | Whoever eats my flesh and drinks my blood remains in me, and I in him. |
註解: ここに始めてキリストはその肉を食い血を飲むことの霊的意義を明らかにし給うた。すなわち犠牲として我らのために己を与え給えるキリストを信じ、彼と同化し彼と一致し彼を凡て我がものとなす時、ここにキリストと我らとの霊の交わりは完全に成立つのである。キリストを信ずる信仰とはこの状態を指すのであって、キリストがその全部を我らに与え給い、我らキリストの全部を我らの内に受け、また我らの全部をキリストに献ぐる時、そこに始めて信仰があり、そこに真の霊の交わりがある。
辞解
[居る] menô は「永住する」意味でヨハネ特愛の文字である。
6章57節
口語訳 | 生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。 |
塚本訳 | 生きておられる父上から遣わされたわたしが父上によって生きているように、わたしを食う者も、わたしによって生きる。 |
前田訳 | 生きたもう父がわたしをつかわされ、わたしも父によって生きるように、わたしを食べるものもわたしによって生きよう。 |
新共同 | 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 |
NIV | Just as the living Father sent me and I live because of the Father, so the one who feeds on me will live because of me. |
註解: 前節の事実をキリストと神との関係より説明したのであって、父は「活きて」い給い、この父との不可離の霊的関係に立つキリストはこの父の生命を受けて活き給うと同じく、キリストを食いて彼と霊的一致にある者もこのキリストの生命を受けて活きることができる。ゆえに信者がキリストに在りて受くる生命は神の生命で上より生れたものである(ヨハ3:3註参照)。
6章58節
口語訳 | 天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。 |
塚本訳 | これが天から下ってきたパンであって、先祖が食べて死んだ(あのマナの)ようなものではない。このパンを食う者は永遠に生きるであろう。」 |
前田訳 | これこそ天から下ったパンで、先祖が食べて死んだようなものではない。このパンを食べるものは永遠に生きよう」と。 |
新共同 | これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 |
NIV | This is the bread that came down from heaven. Your forefathers ate manna and died, but he who feeds on this bread will live forever." |
註解: ここにおいて永遠に活くることの意義がさらに一層深められたのであって、永遠に活くることは父の生命、キリストの生命をもって生くることである。単に我らの現在の不完全の生命の継続ではない、イエスはパンの奇蹟を機会にこの驚くべき真理に彼らを導き給うた。
6章59節
口語訳 | これらのことは、イエスがカペナウムの会堂で教えておられたときに言われたものである。 |
塚本訳 | これはカペナウムの礼拝堂で教えておられたときに、話されたものである。 |
前田訳 | これはカペナウムの会堂で教えながらいわれたことである。 |
新共同 | これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。 |
NIV | He said this while teaching in the synagogue in Capernaum. |
註解: ヨハネにとりてはこのイエスの御言が印象深く残されていると共に、その語り給える場所も明らかに印象されていた。
要義 [信仰の本質]信仰とは単に神の存在を承認することでもなく、また教理を受入れることでもなく、また教会教団に属することでもなく、儀式礼典に列することでもなく、また霊的問題に熱中せる心の状態でもない。信仰とはイエス・キリストの肉を食い、その血を飲むことである。換言すれば「我らの罪のために付され、我らの義のために甦えらせられ給える」(ロマ4:25)キリストを全部我らのものとなし、我ら自身の生命を全部彼にささげ、彼のこの生命をもって自己の中に生きしむることである。要するにキリストと我らとの完全なる霊の一致が信仰の奥義であって、この状態にあるものはキリストがその霊のパンであり、キリストによりて養われて力付けられ、キリストなしには一日も生くることができない状態にいるのである。「彼の肉を食い、その血を飲む」との御言は寔 によくこの間の事実を示すものと言うべきである。
6章60節
口語訳 | 弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。 |
塚本訳 | するとこれを聞いて、弟子のうちに、「(自分の肉を食えとは、)これはひどい言葉だ。誰が聞いておられよう」と言う者が大勢あった。 |
前田訳 | さて、これを聞いて、「これは激しいことばだ。だれが聞けよう」という弟子が多かった。 |
新共同 | ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」 |
NIV | On hearing it, many of his disciples said, "This is a hard teaching. Who can accept it?" |
註解: 十二弟子ならびにその他の弟子たちはイエスの「我が肉を食い我が血を飲め」との語に躓いた。聞くに堪えざる殺伐さと不可解な点とを有っていたからである。もしイエスが彼らの希望のごとくに彼らの王となったならば、彼らはこれをイスラエルの救い主として喜んで彼に従ったであろう。王とならないまでもせめても彼らの道徳の先生として彼らを教えたならば、彼らは安んじて彼に来り彼に躓かなかったであろう。しかしイエスに来るものはそれだけでは足りない。これ彼らの躓いた所以である。
6章61節 イエス
口語訳 | しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。 |
塚本訳 | イエスは弟子たちがそのことについて不満を抱いているのを見抜いて彼らに言われた、「このことがあなた達をつまずかせるのか。 |
前田訳 | イエスはこのことについて弟子たちがつぶやくのに気づいて、彼らにいわれた、「このことがあなた方をつまずかせるのか。 |
新共同 | イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。 |
NIV | Aware that his disciples were grumbling about this, Jesus said to them, "Does this offend you? |
6章62節 さらば
口語訳 | それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。 |
塚本訳 | それなら、もし人の子(わたし)が(地上に下りてくる)前にいた所に上るのを見たら、どうであろう。(そのときあなた達は、肉を食い血を飲むのが、霊の意味であったことに気づくであろう。) |
前田訳 | それなら、もし人の子がもといたところに上るのを見たらどうであろう。 |
新共同 | それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。 |
NIV | What if you see the Son of Man ascend to where he was before! |
註解: 「我が現在人の子としての卑 き状態を汝らは目撃している故に、我が言に躓くのであろう。しかし天より降れる我はやがて栄光の中に昇天するであろう。汝らもしこれを目撃したならば、それでも我を信じないつもりであるか」との意味である(ヨハ8:28)。
6章63節
口語訳 | 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。 |
塚本訳 | 霊が命を与える。肉はなんの役にも立たない。いまわたしがあなた達に話した言葉は、霊である。だから、命である。 |
前田訳 | 霊は生かすもので、肉は何にも役だたない。わたしがあなた方に語ったことばは霊でありいのちである。 |
新共同 | 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 |
NIV | The Spirit gives life; the flesh counts for nothing. The words I have spoken to you are spirit and they are life. |
註解: 「天に昇ってしまうならば勿論この肉も血もこれを飲み食うことができない。実はこれまで我が汝らに告げた言は霊の問題であり永遠の生命の問題であって、この肉体の問題ではない。」イエスはかく語りて始めてこれまで語り給える御言の真意を表明し給うた(Tコリ6:17)。▲イエスが聖餐式なる儀式を制定し給うたのではなかったことは本節から見ても明らかである。イエスを信ずることはその肉を食い、その血を飲み、彼の全生命を受けることであり、そのままが聖餐式である。
6章64節 されど
口語訳 | しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。 |
塚本訳 | しかしあなた達のうちには、信じていない者がすこしある。」イエスには、だれだれは信じない、だれは自分を敵に売ると、始めからわかっていたのである。 |
前田訳 | しかしあなた方のうちに信じないものが何人かある」と。イエスはだれだれが信じない、だれが彼にそむく、をはじめから知っておられた。 |
新共同 | しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。 |
NIV | Yet there are some of you who do not believe." For Jesus had known from the beginning which of them did not believe and who would betray him. |
註解: なぜイエスは信ぜぬ者を信ぜしめ、己を売らんとする者を悔改めしむることができなかったか。これに対しては唯「それが神の御意であった」と考えるより外にない(G1)。父の引き給わざる者を引かんとするは無益であり、父の与え給う苦杯を避けんとするは不信である。
6章65節 かくて
口語訳 | そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。 |
塚本訳 | そして言われた、「だから『父上に許された者でなければ、だれもわたしの所に来ることは出来ない』と言ったのだ。」 |
前田訳 | そしていわれた、「それゆえ、わたしがいったとおり、父から恵まれないかぎりだれもわたしのところに来られない」と。 |
新共同 | そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」 |
NIV | He went on to say, "This is why I told you that no one can come to me unless the Father has enabled him." |
註解: 父に対する絶対の信頼である。而してイエスに躓きて去らんとする弟子たちに対する訣別の辞である。この御言の中に無限の寂しさと悲しさがある。しかしイエスはこれがためにこの世に来り給うた。
6章66節 ここにおいて、
口語訳 | それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。 |
塚本訳 | (このはげしい言葉の)ために、多くの弟子がはなれていって、もはやイエスと一しょに歩かなくなった。 |
前田訳 | それ以来弟子の多くが離れ去って、もはや彼とともに歩まなくなった。 |
新共同 | このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。 |
NIV | From this time many of his disciples turned back and no longer followed him. |
註解: 前節までイエスの説教は人を引付くるよりもかえってこれを反撥するごとき種類のものであった。(▲パンを求める者を引き付けるような伝道は無益である。)これによりて彼は肉的の思をいだける者と真の弟子とを篩 い分ち給い、少数の真の弟子のみを選み給うた。最も正しくかつ最も賢き方法である。
辞解
[かへり去る] 「退却する」意味で進んでイエスに従ったのに再び元の生活に帰ったこと。
[共に歩む] イエスと伝道旅行を共にすること。
6章67節 イエス
口語訳 | そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。 |
塚本訳 | するとイエスが十二人(の弟子)に言われた、「まさか、あなた達まで離れようと思っているのではあるまいね。」 |
前田訳 | イエスは十二人にいわれた、「あなた方もわたしを離れるつもりか」と。 |
新共同 | そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 |
NIV | "You do not want to leave too, do you?" Jesus asked the Twelve. |
註解: イエスは一方深き淋しみを味わいつつ他方父の与え給わざるものをも交うることを欲し給わず、弟子の一団はかかる者なるべしとも思わないながらも、なお彼らの心を固むるためにこの問を発し給うた(M0)。
辞解
[十二弟子] ヨハネ伝にはここに卒然起って来、共観福音書のごとく(引照参照)その選任の事実を記していない、既知の事実として取扱ったのである。
[なんぢらも去らんとするか] この質問を或は「去りたければ去るべし」と解し(G1)、或は上記のごとく「まさか去るようなことはないだろうが如何」との意味にも解す(M0)。▲▲「汝らもまた去らんと欲するにあらずや」と直訳される文章で文法的には否定的の答を期待する質問である。「汝らはまさか去るのではあるまいがどうか」というような言い回し。
6章68節 シモン・ペテロ
口語訳 | シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。 |
塚本訳 | シモン・ペテロが答えた、「主よ、(あなたを離れて)だれの所に行きましょう。永遠の命の言葉はあなただけがお持ちですから。 |
前田訳 | シモン・ペテロが答えた、「主よ、だれのところに行きましょう。永遠のいのちのことばはあなたがお持ちです。 |
新共同 | シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 |
NIV | Simon Peter answered him, "Lord, to whom shall we go? You have the words of eternal life. |
6章69節
口語訳 | わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。 |
塚本訳 | あなたこそ神の聖者(救世主)であると、わたし達は信じております。また知っております。」 |
前田訳 | われらは信じ、また知っています、あなたこそ神の聖者と」。 |
新共同 | あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」 |
NIV | We believe and know that you are the Holy One of God." |
註解: ペテロは共観福音書使徒行伝におけるペテロと同じ性格がここにもあらわれ、十二弟子の代言者としてこの答を発した。彼らがイエスの御言を凡て解したかどうかは疑問であるけれども、彼らの心は密接にイエスに連なって離れることができなかった。「われら誰にかゆかん」まずこの心をもつことがキリスト者にとっての最大の必要である。彼らはこの愛をイエスに対して持っていたので、イエスの御言はこの世より出でし死ぬべき言ではなく永遠の生命から出るものであることを知った。そしてイエスは「神の聖者」神の特に聖め別ちて世に遣わし給いし者であること(ヨハ10:36)を信じて知っていた。なお黙3:7。マコ1:24。ルカ4:34。知ることは信ずることより後に来るのであって、信ぜずしてイエスを知ることはできない。
辞解
[神の聖者] 異本には「活ける神の子」とあり。
6章70節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。 |
塚本訳 | イエスが彼らに答えられた、「あなた達十二人を選んだのは、このわたしではなかったのか。ところが、そのうち一人は悪魔だ!」 |
前田訳 | イエスは彼らに答えられた、「あなた方十二人を選んだのはわたしではなかったか。それなのにそのうちのひとりは悪魔である」と。 |
新共同 | すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」 |
NIV | Then Jesus replied, "Have I not chosen you, the Twelve? Yet one of you is a devil!" |
註解: 68、69節のペテロの悦ばしき告白を聴きつつもイエスはなお他の半面に暗黒の影が漂っていることを知らずにい給わなかったことを示す。イエスはその十二弟子の一人が悪魔なることを予知し給うた。ゆえにユダの反逆はイエスの無智の証とならない(ヨハ13:18、ヨハ15:16)。かくして喜ばしき告白を聴きつつもイエスは彼の十字架の姿を眼前に髣髴し給うたことであろう。然るにこの御言を聞きたる弟子たちは未だその言の意義の重大さを覚らなかった。彼らの霊の眼が閉じられていたからである。
6章71節 イスカリオテのシモンの
口語訳 | これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである。このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。 |
塚本訳 | イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを思っておられたのである。この人は(あとで)イエスを売るべき人であったから。──十二人のうちの一人でありながら。 |
前田訳 | 彼はイスカリオテのシモンの子ユダのことをいわれたのである。これが彼を売ろうとしていた、十二人のひとりでありながら。 |
新共同 | イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。 |
NIV | (He meant Judas, the son of Simon Iscariot, who, though one of the Twelve, was later to betray him.) |
註解: 後に事実となってあらわれし時、ヨハネはこれがユダを指せるものであったことを覚った。
辞解
[イスカリオテ] 「カリオテの人」を意味し、カリオテはユダヤの一村である。
要義 [ガリラヤ伝道の頽勢 ]イエスの宣伝うる神の国の真理があまりにユダヤ人らの期待せるものと異なっているので、彼らは次第にイエスを離れた。然のみならずイエスはすでにユダの反逆を知り給うた。彼の心は無限の淋しさを覚え給うたであろう。ガリラヤの反対は勿論ユダヤにおけるそれのごとく強烈ではなかったけれども、なおイエスの足を止め得ないほどのものであった。イエスは次章において再びユダヤを訪い給うたのはこれがためである。