黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ヨハネ伝

ヨハネ伝第21章

分類
5 イエスの復活 20:1 - 21:23
5-2 ガリラヤに於ける顕現 21:1 - 21:23
5-2-1 漁りつつある弟子たちに現はれ給う 21:1 - 21:14

註解: 前章をもって一旦筆を()いたヨハネは、その後ある年月の間この書を出版せずに(かく)していたのであろう。而してその出版前に本章を追加したものであろう。多くの学者はこの解釈に一致している。

21章1節 この(のち)、イエス(また)テベリヤの海邊(うみべ)にて(おのれ)弟子(でし)たちに(あらは)(たま)ふ、その(あらは)(たま)ひしこと(ひだり)のごとし。[引照]

口語訳そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。
塚本訳そのあとで、イエスはテベリヤ湖のほとりで、かさねて弟子たちに現わされた。現わされ方はこうであった。──
前田訳こののち、イエスはテベリア湖でふたたび自らを弟子たちに現わされた。その様子はこうであった。
新共同その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
NIVAfterward Jesus appeared again to his disciples, by the Sea of Tiberias. It happened this way:
註解: 前章においてヨハネは唯ユダヤにおける主の顕現のみについて録した。ここに彼はガリラヤにおける顕現を録してこれを補充している。
辞解
[テベリヤの海] ヨハネ伝特有、ガリラヤの海、ゲネサレの海ともいう。

21章2節 シモン・ペテロ、デドモと(とな)ふるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの()(およ)びほかの弟子(でし)二人(ふたり)もともに()りしに、[引照]

口語訳シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。
塚本訳シモン・ペテロと、トマスすなわちデドモと、ガリラヤのカナ生まれのナタナエルとゼベダイの子たち二人と、ほかの二人の弟子とが一緒にいた。
前田訳シモン・ペテロと、デドモことトマスと、ガリラヤはカナの出のナタナエルと、ゼベダイの子らと、ほかのふたりの弟子がいっしょにいた。
新共同シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
NIVSimon Peter, Thomas (called Didymus), Nathanael from Cana in Galilee, the sons of Zebedee, and two other disciples were together.
註解: 他の福音書はゼベタイの子ヤコブとヨハネを必ずペテロの次に記す。ヨハネはこれを最後に記し、かつ自己およびヤコブにつき匿名を用いている。最後の二人はおそらく十二使徒以外の弟子であろう。

21章3節 シモン・ペテロ『われ漁獵(すなどり)にゆく』と()へば、(かれ)ら『われらも(とも)()かん』と()ひ、(みな)いでて(ふね)()りしが、その(よる)(なに)をも()ざりき。[引照]

口語訳シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。
塚本訳シモン・ペテロが「わたしは漁にゆく」と言うと、「わたし達も一しょに行く」と彼らが言う。みんなが出ていって舟に乗った。しかしその晩は何も捕れなかった。
前田訳シモン・ペテロが彼らにいう、「わたしは漁に行く」と。彼らはいう、「われらもいっしょに行く」と。彼らは出かけて舟に乗った。しかしその夜は何もとれなかった。
新共同シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
NIV"I'm going out to fish," Simon Peter told them, and they said, "We'll go with you." So they went out and got into the boat, but that night they caught nothing.
註解: 彼らはその本来の職業に還っていた。彼らはおそらくあまりに気が進まずに漁りをなしつつあったのであろう。また漁獲が少ないのでその失望は一層甚だしかったのであろう。ルカ5章もかかる場合であった。我らもまた「われ」または「われら」何事かを為さんとして失望に終ることが多い。この場合殊にイエスの助けを必要とする。イエスはここに弟子たちを新たに主の復活を宣伝うる使徒たらしめんがために漁獲の例をもって彼らを教え、自己の経験や発憤による伝道の虚しきを示し給う。

21章4節 夜明(よあけ)(ころ)イエス(きし)()(たま)ふに、弟子(でし)たち()のイエスなるを()らず。[引照]

口語訳夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
塚本訳もう夜も明けたころに、イエスが(どこからともなく)岸に出てこられた。それでも、弟子たちはイエスだと気づかなかった。
前田訳もう夜明けになるころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスとは知らなかった。
新共同既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
NIVEarly in the morning, Jesus stood on the shore, but the disciples did not realize that it was Jesus.

21章5節 イエス()(たま)ふ『()どもよ、()(もの)ありしか』(かれ)ら『なし』と(こた)ふ。[引照]

口語訳イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
塚本訳イエスが彼らに言われる、「子どもたち、何も肴があるまい。」「ありません」と彼らが答えた。
前田訳イエスは彼らにいわれる、「子どもたち、食べ物はあるのか」と。彼らは答えた、「いいえ」と。
新共同イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
NIVHe called out to them, "Friends, haven't you any fish?" "No," they answered.
註解: 彼らはイエスをそれと認識しなかった。イエスの御姿の変化についてはヨハ20:14参照。「獲物」prosphagion は副食物(おかず)の意、ここでは肴を意味す。

21章6節 イエス()ひたまふ『(ふね)(みぎ)のかたに(あみ)をおろせ、(しか)らば()(もの)あらん』(すなは)(あみ)(おろ)したるに、(うを)おびただしくして、(あみ)()(うへ)ぐること(あた)はざりしかば、[引照]

口語訳すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
塚本訳イエスが言われた、「舟の右側に網を打って御覧、獲物があるから。」網を打つと、(はたして捕れた)魚が多く、もはや網を引き上げることが出来なかった。
前田訳彼はいわれた、「舟の右がわに網を打ちなさい。獲物があろう」と。彼らが網を打つと、魚が多くて、もはや網を引きあげえなかった。
新共同イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
NIVHe said, "Throw your net on the right side of the boat and you will find some." When they did, they were unable to haul the net in because of the large number of fish.
註解: 知らずして為せるイエスに対する従順は彼らをして思い設けざりし収穫を得しめた。人を漁らんがための我らの伝道も「われ伝道せん」「われらも共に行かん」と称する場合に収穫はない。我ら唯見えざる主の御言に従う場合に大いなる収穫を得ることができる。

21章7節 イエスの(あい)(たま)ひし弟子(でし)、ペテロに()ふ『(しゅ)なり』シモン・ペテロ『(しゅ)なり』と()きて、(はだか)なりしを上衣(うはぎ)をまとひて(うみ)()びいれり。[引照]

口語訳イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
塚本訳するとイエスの愛しておられた弟子が気づいて、ペテロに「主だ!」と言う。主だと聞くと、シモン・ペテロは裸だったので(急いで)上っ張をひっかけ、湖に飛び込んだ。
前田訳イエスの愛された弟子がペテロにいう、「主だ」と。シモン・ベテロは、「主だ」と聞くと、裸であったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
新共同イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
NIVThen the disciple whom Jesus loved said to Peter, "It is the Lord!" As soon as Simon Peter heard him say, "It is the Lord," he wrapped his outer garment around him (for he had taken it off) and jumped into the water.
註解: 大なる漁獲はヨハネをして主を思わしめた。ルカ5:1以下の場合より自らここに思い至ったのであろう。ここにも二人の性格が如実に現われ、ヨハネはその鋭利なる洞察力を示し、ペテロはその勇敢なる実行力を示している。これが将来二人の伝道を一貫せる態度であった。水に飛び込むのに上衣を殊更にまとったのは主に対する礼儀の念からであった。

21章8節 (ほか)弟子(でし)たちは(をか)(はな)るること(とほ)からず、(わづか)五十間(ごじっけん)ばかりなりしかば、(うを)()りたる(あみ)小舟(こぶね)にて()(きた)り、[引照]

口語訳しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
塚本訳ほかの弟子たちは、魚の(はいっている)網を引っ張りながら舟で来た。陸から遠くなく、二百ペキュン(百メートル)ばかりしか離れていなかった。
前田訳しかしほかの弟子たちは、魚の網を引きながら舟で行った。陸からあまり離れず、二百ペキュスであった。
新共同ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
NIVThe other disciples followed in the boat, towing the net full of fish, for they were not far from shore, about a hundred yards.

21章9節 (をか)(のぼ)りて()れば、炭火(すみび)ありてその(うへ)(さかな)あり、(また)パンあり。[引照]

口語訳彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
塚本訳彼らが陸に上がって見ると、炭火がおこしてあって、上に魚が一匹のっており、またパンがあった。
前田訳陸にあがって見ると、炭火がおこしてあって、魚がのせてあり、パンがあった。
新共同さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
NIVWhen they landed, they saw a fire of burning coals there with fish on it, and some bread.
註解: 彼らはその伝道の収穫をイエスの許に携え行くがごとくに、捕獲せし魚の網を労しつつ岸まで曳き来った。この時彼らの目は直ちにこのパンと肴とに注がれた。ちょうど朝食時となっていたので、彼らは相応に飢えを感じていたのであろう。炭火、肴、パンをイエスは如何にして何処より得給いしやを詮索する学者の労は虚しく、かつこの物語よりその深さを奪うに過ぎない。
辞解
[五十間] 原語 200ペークス pêchus で、改訳にはこれ「尺」と訳し、旧約聖書には「クピト」と訳している。前腕の長さをいうので一尺五六寸に相当す。

21章10節 イエス()(たま)ふ『なんぢらの(いま)とりたる(さかな)(すこ)()ちきたれ』[引照]

口語訳イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
塚本訳イエスが彼らに言われる、「今捕った魚をすこし持ってきなさい。」
前田訳イエスは彼らにいわれる、「今とった魚をすこし持って来なさい」と。
新共同イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
NIVJesus said to them, "Bring some of the fish you have just caught."
註解: イエスは伝道のために労苦してその収穫を持ち来れる使徒らを饗応し給う。而してその喜びを大ならしめんがために、使徒らの得し収穫をもこれに加えて共にこれを祝し給う。今日においても伝道者はキリストよりこの饗応を受け、その収穫を祝福される幸いなる職務を持っている。この饗応を聖餐の型と見、魚はイエス・キリストを代表する意味であると解する説がある(イエス・キリスト、神、子、救い主の五字の頭字を集めて魚なる文字となる)けれども、やや寓話的に解し過ぐる嫌いがある。

21章11節 シモン・ペテロ(ふね)()きて(あみ)(をか)()()げしに、(ひゃく)()(じふ)(さん)()(おほい)なる(うを)滿()ちたり、()(おほ)かりしが(あみ)()けざりき。[引照]

口語訳シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
塚本訳シモン・ペテロが(舟の)上にあがって網を陸へ引き上げると、百五十三匹もの大きな魚で一ぱいであった。こんなに大漁であったが、網は裂けなかった。
前田訳シモン・ペテロがあがって網を陸へ引くと百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。こんな大漁でも網は裂けなかった。
新共同シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
NIVSimon Peter climbed aboard and dragged the net ashore. It was full of large fish, 153, but even with so many the net was not torn.
註解: イエスの命に従いて人を漁る時、我らは自己の思いに優る多くの収穫を得ることができ、而して網が裂けて魚が逃れ出づるごときことはなく、父の選び給えるものを一人も残らず網羅することができる。百五十三なる数を種々表徴的の意味に解しまたは魚の全種類の数等と解する学者があるけれども適切なものはない。唯一同がその数を数えてその大なる漁獲に驚きたることをヨハネは逐一記憶してこれを録せるものと考うるべきであろう。

21章12節 イエス()(たま)ふ『きたりて(しょく)せよ』弟子(でし)たちその(しゅ)なるを()れば『なんぢは(たれ)ぞ』と()へて()(もの)もなし。[引照]

口語訳イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
塚本訳イエスが彼らに言われる、「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子のうちだれ一人、「あなたはどなたですか」と敢えて尋ねる者はなかった。主だと気づいた(が、何となく変だった)からである。
前田訳イエスはいわれる、「さあ、朝飯になさい」と。弟子はだれも「あなたはどなたで」とあえてたずねなかった。主であることを知っていたからである。
新共同イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
NIVJesus said to them, "Come and have breakfast." None of the disciples dared ask him, "Who are you?" They knew it was the Lord.
註解: 平常と異ならざるごとき親愛なる光景の中に、一種の恐怖、驚異、不可解、不思議等の錯綜せる心持が弟子たちの心の中に起ったことであろう。弟子たちは全くこの全光景の中に呑まれてその光景中の人物となってしまった。今さら「なんぢは誰ぞ」との問いを発してこの平和にして神秘的なる光景を乱さんとする弟子は一人もなかった。
辞解
[食せよ] ariston 主として朝食を意味する語。

21章13節 イエス(すす)みてパンをとり(かれ)らに(あた)へ、(さかな)をも(しか)なし(たま)ふ。[引照]

口語訳イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
塚本訳イエスは来て、パンを(手に)取って彼らに渡された。魚も同じようにされた。
前田訳イエスは来てパンを取って彼らに与えられた。魚もそうされた。
新共同イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
NIVJesus came, took the bread and gave it to them, and did the same with the fish.
註解: 十字架につき給う前に弟子たちと共に食し給いし時と全く同様の姿であった。キリストの霊的饗宴に与るものは同様の喜びに入ることができる。

21章14節 イエス死人(しにん)(うち)より(よみが)へりてのち、弟子(でし)たちに(あらは)(たま)ひし(こと)、これにて三度(みたび)なり。[引照]

口語訳イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。
塚本訳イエスは死人の中から復活されたのち、弟子たちに自分を現わされたのは、これですでに三度目である。
前田訳イエスが死人の中から復活して弟子たちに現われられたのはこれではや三度目である。
新共同イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
NIVThis was now the third time Jesus appeared to his disciples after he was raised from the dead.
註解: すなわち共観福音書の記事を補っているのであって、後者はイエスの顕現がまずガリラヤに行われしごとくに記してあるけれども(ルカを除く)、それは初回にあらず第三回である。ヨハネは特に十二弟子に顕われ給いし場合のみを数えているので、この数え方には誤りはない。第一回はヨハ20:19以下、第二回はヨハ20:26以下で、Tコリ15:5の十二弟子は第二回と第三回を一まとめにして記したのであろう(G1)。
要義 [人を漁る者]この復活の記事は多くの註解家によりて寓話的意味に解せられている(マタ4:18−22)。イエスはその生時すでに弟子たちを伝道に派遣し給うた(マタ10:1)。しかしながらその復活後はその伝道の目的は新たになってイエスの復活を伝うることとなり、その使命もまた天地の権を握りて神の右に坐し給うキリストより与えられるものであった。ゆえにこの使命を彼らに与えんがために漁獲の奇蹟をもってその意味を彼らに示し給うた。これイエスの人類に対する愛の切なるより起る事実である。

5-2-2 ペテロの使命 21:15 - 21:19

註解: (さき)にペテロは三度主を拒んだ。たとえその罪は彼の懺悔の涙によりて赦されたとしても、彼をして再び使徒の首班たらしむるには新たなる召命を必要とした。而して主は悔改めしペテロをこの職に任ぜずに放置し給わなかった。

21章15節 かくて(しょく)したる(のち)、イエス、シモン・ペテロに()(たま)ふ『ヨハネの()シモンよ、(なんぢ)この(もの)どもに(まさ)りて(われ)(あい)するか』[引照]

口語訳彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
塚本訳やがて食事がおわると、イエスはシモン・ペテロに言われる、「ヨハネの子シモン、(今でも)あなたは、この人たち(が愛する)以上に、わたしを愛しているのか。」イエスに言う、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたが御存じです。」彼に言われる、「わたしの小羊を飼いなさい。」
前田訳さて、食事が終わると、イエスはシモン・ペテロにいわれる、「ヨハネの子シモン、この人たちの愛以上にわたしを愛するか」と。彼はいう「はい、主よ、わたしがあなたを愛することはご存じです」と。イエスはいわれる、「わが小羊を飼いなさい」と。
新共同食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
NIVWhen they had finished eating, Jesus said to Simon Peter, "Simon son of John, do you truly love me more than these?" "Yes, Lord," he said, "you know that I love you." Jesus said, "Feed my lambs."
註解: ここにイエスはペテロをもって使徒の代表者として使徒たるものの責任とその運命とを告げ給うた。而して使徒たるものの最大の責任および必要はキリストを愛することである(Uコリ5:14)。ペテロは使徒の首班として誰よりも多くキリストを愛すべきであった。重き責任を負う者はそれに比例してキリストを多く愛することを要する。
辞解
[ヨハネの子シモン] 単にシモン・ペテロというよりも一層多くキリストの愛を示す。
[この者どもに勝りて] ペテロの地位に相応しからんがためである。なおペテロ自身の告白(マタ26:33マコ14:29)参照。
[愛す] agapaô Tコリ13:3要義1参照。聖愛、神の愛、信仰より出づる愛をいう。ペテロの答と対照せよ。

ペテロいふ『(しゅ)よ、(しか)り、わが(なんぢ)(あい)する(こと)は、なんぢ()(たま)ふ』イエス()(たま)ふ『わが羔羊(こひつじ)(やしな)へ』

註解: ペテロの答は従来の彼の態度に比して著しく謙遜であった。「他の使徒に勝りて」と答えなかったのはマタ26:33の失敗の痛みが、なお彼の心を苦しめたからであろう。またイエスの「愛するか」は agapaô を用い、これに対してペテロの「愛す」は他の語 phileô を用いたのも(Tコリ13:3要義)聖愛はあまりに高く深いが、唯人としての切なる愛をペテロはキリストに対して有っていたことは彼の断言し得る点であったことを示している。イエスは彼を愛する者に彼を愛する羔羊を養い、これに食を与うるの任務を授け給うた。キリストの羔羊はキリストを愛する者より霊の食物を受けることができる。単に理知的にイエスを知るに過ぎざるものより霊の養いを受けることができない。「わが羔羊」キリストの羔羊であって牧師の羔羊ではない。かく言いてキリストが真の牧者たることを示し、その羊に対する愛を示し給う。
辞解
[わが羔羊] ヨハ10:5ヨハ10:27

21章16節 また二度(ふたたび)(めに)いひ(たま)ふ『ヨハネの()シモンよ、(われ)(あい)するか』ペテロ()ふ『(しゅ)よ、(しか)り、わが(なんぢ)(あい)する(こと)は、なんぢ、()(たま)ふ』イエス()(たま)ふ『わが(ひつじ)()へ』[引照]

口語訳またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
塚本訳二度目にまた言われる、「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しているのか。」イエスに言う、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたが御存じです。」彼に言われる、「わたしの羊の番をしなさい。」
前田訳二度目にまたいわれる、「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか」と。彼はいう、「はい、主よ、わたしがあなたを愛することはご存じです」と。イエスはいわれる、「わが羊を養いなさい」と。
新共同二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
NIVAgain Jesus said, "Simon son of John, do you truly love me?" He answered, "Yes, Lord, you know that I love you." Jesus said, "Take care of my sheep."
註解: イエスはここに再びほぼ同様の質問を繰返し給い、この愛が如何に重要なる事柄なるかを深くペテロに印象し給うた。前節との差は「この者どもに勝りて」を省けること(ペテロの謙遜を承認し給うたのであろう)、羔羊の代りに羊を用いしこと(教会には種々の羊があるから)、および「養へ」の代りに「()へ」を用いしことである。(養うことは個人的注意を意味し、「()う」ことは群れ全体を導き支配し管理する動作を意味する。)

21章17節 三度(みたび)(めに)いひ(たま)ふ『ヨハネの()シモンよ、(われ)(あい)するか』[引照]

口語訳イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
塚本訳三度目に言われる、「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しているのか。」ペテロは、イエスが三度も「あなたはわたしを愛しているのか」と言われたので悲しくなって、言った、「主よ、あなたはなんでも御存じです。わたしがあなたを愛していることはあなたが御存じです。」イエスが言われる、「わたしの羊を飼いなさい。
前田訳三度目にいわれる、「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか」と。ペテロは、イエスが三度目にも、「わたしを愛するか」といわれたので、悲しくなって、いった、「主よ、あなたはすべてがおわかりです。わたしがあなたを愛することはご存じです」と。イエスはいわれる、「わが羊を飼いなさい。
新共同三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
NIVThe third time he said to him, "Simon son of John, do you love me?" Peter was hurt because Jesus asked him the third time, "Do you love me?" He said, "Lord, you know all things; you know that I love you." Jesus said, "Feed my sheep.
註解: 第三回の問においてイエスは「聖愛」アガパオーの代りに「自然愛」フィレオーを用い、ペテロ自ら用いし語をもって彼に質問し給うた。このことが一層強くペテロの心を憂いしめた。

ペテロ三度(みたび)(めに)『われを(あい)するか』と()(たま)ふを(うれ)ひて()ふ『(しゅ)よ、()りたまはぬ(ところ)なし、わが(なんぢ)(あい)する(こと)は、なんぢ()りたまふ』

註解: 第三回目のイエスの問いはあたかもペテロの彼に対する自然の愛情(フィリヤ)すらもこれを疑い給うもののごとくに聞えたのでペテロはいたく憂いに沈んだ。そしてキリストの全知に訴えて自己の心の偽らざることを告白した。この「愛す」は二つともフィレオーを用いている。

イエス()(たま)ふ『わが(ひつじ)をやしなへ。

21章18節 まことに(まこと)になんぢに()ぐ、なんぢ(わか)かりし(とき)(みづか)(おび)して(ほっ)する(ところ)(あゆ)めり、されど()いては()()べて(ほか)(ひと)(おび)せられ、(なんぢ)(ほっ)せぬ(ところ)()れゆかれん』[引照]

口語訳よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
塚本訳アーメン、アーメン、わたしは言う、あなたは若い時分には、自分で帯をしめて、行きたい所へ行ったが、年を取ると、両手をのばして、ほかの人に帯をしめられ、行きたくない所へ連れてゆかれるであろう。」
前田訳本当にいう、あなたは若かったころ、自分で帯をしめて行きたいところへ行った。年をとると、両手をのばして、他人に帯をしめられ、行きたくないところへ連れられよう」。
新共同はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
NIVI tell you the truth, when you were younger you dressed yourself and went where you wanted; but when you are old you will stretch out your hands, and someone else will dress you and lead you where you do not want to go."
註解: イエスは三度「羊をやしなへ」と命じ給うことによりてペテロにその使命を授け給うた。(三度イエスに対する愛を告白せることは三度イエスを拒みしことを取消すに充分であった。)かくして使命を授け給いし後、進んでこの使命に伴う運命を予告し給うた。この予告は表徴的に語られ、青年期における手足の運動の自由と老年におけるその不自由に譬えて、ペテロが壮年時代には自由に伝道牧羊の活動を為し己の欲する処に赴くことができるけれども、老年に至れば他人のために縛られて己の意思にあらざる殉教の死を遂げざるを得ざるに至るであろうことを予告し給うた。この比喩をもって十字架の死の表徴となし、または老年における肉体的衰弱を示すものとなし、または霊的自己中心と霊的服従を示すものとなす等多くの解あり、かかる意味に応用することは場合によりて多くの教訓を与えるけれどもこの節の直接の意味ではない。
辞解
[手を伸べて] 他人に帯をしてもらう時の姿。これは必ずしも十字架上に手を伸べることを意味していない。
[他人に帯せられ] これも(ばく)に就く型であって十字架上に縛られることではない。
[汝の欲せぬ處] 殉教の死、これは何人もその自然の情として欲せぬ処である。

21章19節 これペテロが如何(いか)なる()にて(かみ)榮光(えいくわう)(あらは)すかを(しめ)して()(たま)ひしなり。[引照]

口語訳これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
塚本訳このように言われたのは、ペテロがどんな死に方をして[十字架について]、神の栄光をあらわさねばならぬかを暗示されたのである。こう言ったあと、ペテロに、「わたしについて来なさい」と言われる。
前田訳こういわれたのは、ペテロがどんな死に方をして神を栄化するかを示すためであった。こう話してから彼にいわれる、「わたしに従え」と。
新共同ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
NIVJesus said this to indicate the kind of death by which Peter would glorify God. Then he said to him, "Follow me!"
註解: 多くの伝説、歴史によればペテロは紀元64年7月ローマにて逆礫刑(さかさはりつけ)に処せられたとのことである。(これよりも12年遅しとの説もあり)かかる殉教の死は神の栄光を顕わすものである。ヨハネはかく記しているのを見れば、この書の読者がペテロの殉教の死の事実を熟知していることを推定することができる。

()()ひて(のち)かれに()(たま)ふ『われに(したが)へ』

註解: イエスはその宣教の始めに当っても「われに従へ」なる語をもって弟子を招き給うた(マタ8:22マタ9:9ヨハ1:43)。ゆえに「従う」ことはイエスの歩みしごとくに歩み、イエスの死に給いしごとくに死することである。而して本節の場合には殊にイエスの死に従って死すべきことを命じ給うたのである(M0)。
要義 [牧者の任務]牧者はまずキリストを愛することを要する。この愛のみがよく羊を養いまた牧することができる。この愛以外の動機をもって、キリストの羊を養いまた牧せんとする者は盗人強盗の類である。真の牧者はキリスト、地上の牧者はその使いに過ぎない。キリストを離れて彼らは何をも為すことができない。

5-2-3 ヨハネの運命に就いて 21:20 - 21:23

21章20節 ペテロ振反(ふりかへ)りて、イエスの(あい)したまひし弟子(でし)(したが)ふを()る。これはさきに夕餐(ゆふげ)のとき御胸(みむね)()りかかりて『(しゅ)よ、(なんぢ)()(もの)(たれ)か』と()ひし弟子(でし)なり。[引照]

口語訳ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。
塚本訳ペテロが(ついて行きながら)振り返ると、イエスの愛しておられた弟子が(あとから)ついて来るのが見えた。この弟子は(最後の)夕食の時に、イエスの胸にもたれかかって、「主よ、あなたを売る者はだれですか」と言った者である。
前田訳ペテロが振り返ると、イエスの愛弟子が従うのが見えた。夕食のとき、イエスの胸にもたれて、「主よ、あなたを売るのはだれですか」といったのはこの弟子である。
新共同ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。
NIVPeter turned and saw that the disciple whom Jesus loved was following them. (This was the one who had leaned back against Jesus at the supper and had said, "Lord, who is going to betray you?")

21章21節 ペテロこの(ひと)()てイエスに()ふ『(しゅ)よ、この(ひと)如何(いか)に』[引照]

口語訳ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。
塚本訳ペテロはその人を見て、イエスに言う、「主よ、あの人はどうなるのでしょうか。」
前田訳彼を見てペテロはイエスにいう、「主よ、あの人はどうなるのですか」と。
新共同ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
NIVWhen Peter saw him, he asked, "Lord, what about him?"
註解: ペテロはイエスに従いて歩み、ヨハネはペテロの後に従った。ヨハネはイエスの特愛の弟子でもあり、また最後の晩餐のときイエスに対する最大の信頼と愛とを示したのであって、これを知り居るペテロはヨハネも彼と同じく殉教の死を遂ぐる必要ありや否やをイエスに問うた。ペテロの心中おそらくヨハネも殉教の光栄に与るならんかとの想像が起り、またこれと同時に彼の心中にヨハネと生死を共にしたい希望も起ったことであろう。ヨハネの虚弱なる身体に対する同情の心(G1)およびヨハネのみ殉教の死を免れることに対する嫉妬の心(M0)が有ったかどうかは疑わしい。要するにヨハネの運命に関する種々の疑問がペテロに起って来た。

21章22節 イエス()(たま)ふ『よしや(われ)、かれが(われ)(きた)るまで(とどま)るを(ほっ)すとも、(なんぢ)になにの關係(かかはり)あらんや、(なんぢ)(われ)(したが)へ』[引照]

口語訳イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
塚本訳イエスが言われる、「たといわたしが今度来るまで、あの人を生かしておきたいと思っても、それはあなたの知ったことではない。あなたは(ただ)わたしについて来ればよろしい。」
前田訳イエスはいわれる、「わたしがまた来るまで彼を生かしておきたくとも、それはあなたに関係ない。あなたはわたしに従え」と。
新共同イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
NIVJesus answered, "If I want him to remain alive until I return, what is that to you? You must follow me."
註解: イエスに従う者は唯イエスが彼に命じ給いしままに服従すべきであって、他人の運命を顧慮すべきではない。凡てがイエスと自己との直接関係である。ゆえにペテロがヨハネの運命についてかれこれ考うることは無用のことであることをイエスは彼に示し給うた。たとえイエスがヨハネに関して全く異なれる使命を与え、彼再び来り給うまで(すなわち世の終末の再臨の時まで)ヨハネを生き長らえしむることを欲し給うと仮定しても、それはペテロには何らの関係がないから、ペテロは命ぜられしままにキリストに従わなければならぬ、とキリストは教え給うた。

21章23節 ここに兄弟(きゃうだい)たちの(うち)に、この弟子(でし)()なずと()(はなし)つたはりたり。されどイエスは()なずと()(たま)ひしにあらず『よしや(われ)、かれが(われ)(きた)るまで(とどま)るを(ほっ)すとも、(なんぢ)になにの關係(かかはり)あらんや』と()(たま)ひしなり。[引照]

口語訳こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。
塚本訳このために、この(イエスの愛)弟子は死なないという噂が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは「死なない」と言われたのではない。ただ、「たといわたしが来るまで、あの人を生かしておきたいと思っても、それはあなたの知ったことではない」と言われたまでである。
前田訳それで、兄弟たちの間にこの弟子は死なないといううわさがひろまった。イエスは「死なない」といわれたのではない。「わたしがまた来るまで彼を生かしておきたくとも、それはあなたに関係ない」といわれたのである。
新共同それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
NIVBecause of this, the rumor spread among the brothers that this disciple would not die. But Jesus did not say that he would not die; he only said, "If I want him to remain alive until I return, what is that to you?"
註解: イエスが一つの仮定としてペテロに語り給いし語がその後兄弟たちの中に伝わり、殊にヨハネが長命であったので、彼らはこの語を誤解してヨハネは不死の人間であって、キリストの再臨まで生き延びて栄化する人であるとの風評が起った(Tテサ4:17Tコリ15:51−52)。ヨハネはこの誤聞を訂正して、イエスの御言が一つの仮定としてペテロを教え給いしに過ぎないことを示している。ただしヨハネは自己が必ず死ぬことを主張しているのではない。これは未定の事実である。何となれば彼の生時にイエス再び来り給うことは有り得るからである。唯ヨハネはイエスの言に関する誤聞を訂正したに過ぎない。ヨハネが復活のイエスの御言を如実に録すその自然さに注意すべし。
要義 [ペテロとヨハネ]本章において表明せられしペテロとヨハネの特徴は、よく二人の性質傾向とこれに相応せる上よりの使命とを物語り、同時に福音の宣伝においてもこの二種の傾向があることを示している。復活の主を見て直ちに海に飛び込みしペテロは熱烈なる伝道の後、あわただしく十字架上に殉教の死を遂げた。復活の主を見てもなお静かに船の中に止って魚を引上げしヨハネは、静かに長年月の間伝道に従事し、遂に静かなる死を味わうたのであった。福音伝道においてもこの二種類の傾向が必要であって、時には殉教の死を味わうことが必要であり、時には静かに後に残って福音を伝え、羊を牧うことが必要である。この復活の記事はこの二種の傾向とその帰着点を最も有効に示しているということができる。

分類
6 結尾 21:24 - 21:25

21章24節 これらの(こと)につきて、(あかし)をなし、(また)これを(しる)しし(もの)は、この弟子(でし)なり、我等(われら)はその(あかし)(まこと)なるを()る。[引照]

口語訳これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。
塚本訳これらのこと([ヨハネ福音書全体]が真実であること)を証明し、かつこれらのことを書いたのは、この(イエスの愛)弟子である。わたし達はこの弟子の証明が信用すべきであることを知っている。
前田訳これらを証して書いたのはこの弟子である。われらはその証が真であることを知っている。
新共同これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
NIVThis is the disciple who testifies to these things and who wrote them down. We know that his testimony is true.

21章25節 イエスの(おこな)(たま)ひし(こと)は、この(ほか)なほ(おほ)し、もし(ひと)(ひと)(しる)さば、(われ)おもふに世界(せかい)もその(しる)すところの(ふみ)()するに()へざらん。[引照]

口語訳イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。
塚本訳しかし、イエスのなさったことはこのほかにまだ山ほどあって、もしそれをひとつびとつ書きつけるならば、全世界にも、書いた書物の置場があるまいと思う。
前田訳イエスはこのほかにも多くのことをなさった。それらをひとつひとつ書けば、世界もそれが書かれた本を置けないと思う。
新共同イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
NIVJesus did many other things as well. If every one of them were written down, I suppose that even the whole world would not have room for the books that would be written.
註解: 「これらの事」は全福音を指すと見るべきで、単に21章のみを指しているのではない。この2節にこの福音書の証者にして著者はイエスの愛し給いしこの弟子なることと、この福音書の記事はイエスがこの地上において行い給いしことの一小部分に過ぎざることとを追加している。これによりてヨハネ伝がイエスの直弟子ヨハネの作なることが証明せられ、またこの記事の補充的性質をも知ることができる。「我ら」と言いしはヨハネがその同信者を証人として自己と共に立たしめし意味であり、25節の「我」はその節の内容が個人的意見に過ぎざるが故である。而して25節の誇張は東洋人の通性であって怪しむに足りない。これを強いて霊界の事柄、無限の事柄等と解する必要がない。なおこの2節はヨハネが記したものではなく、弟子たちがこの福音書を公布する際に後に附記したものと見る学者がある(G1、Z0等)。また或は25節のみ他人の追加と見る説もある(M0)。しかしながらこれらいずれも興味ある説であるけれども、充分の根拠があるということができない。ヨハネ自身その福音書の大終結としてこの結尾を附加せしものと見る方が自然である(A1、B1、C1、D0、E0)。