ヨハネ伝第1章
分類
1 準備時代
1:1 - 1:51
1-1 イエスの系図
1:1 - 1:18
1-1-1 ロゴスの性質と歴史
1:1 - 1:5
註解: マルコ伝においてはイエスの系図を省略し、マタイ伝においてはこれをアブラハムに遡らしめ、ルカ伝においてはこれを始祖アダムに遡らしめ、ヨハネ伝においてはこれを神の言(ロゴス)まで遡らしめている、この点においてもマタイ伝のユダヤ的であり、ルカ伝の人類的であるのに対し、ヨハネ伝は宇宙的であることを示している。
口語訳 | 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 |
塚本訳 | (世の)始めに、(すでに)言葉はおられた。言葉は神とともにおられた。言葉は神であった。 |
前田訳 | はじめに ことばがあり、ことばは神のところにあり、ことばは神であった。 |
新共同 | 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 |
NIV | In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. |
註解: この序詞を読む場合には創1章念頭に浮かべることが必要である。ヨハネは確かに創世記の記事に対応する意味においてこれを認 めたのである。創1:1によれば元始に神天地を創造り給う際「光あれ」と言い給いければ光あり、凡ての宇宙は神の言に従ってそこに創造せられた。それゆえに神の言は宇宙万物よりも前にあり、従って無始である。すなわちこの言は「太初に」永遠の始めより存在したのである。創世記の冒頭の天地創造の記事は「言」がいかにして天地を創造せるかの記事であり、ヨハネ伝冒頭の序詞(1:1−8)はこの「言」がいかにして自己を顕現せしかを記載している。ゆえにキリストの受肉およびキリスト者の新生は創世記の天地創造の記事に対応すべき新天新地の創世記であると解することができる。
辞解
[太初に] 旧約聖書冒頭の「元始に」と同語。
[言] ギリシャ語のロゴスで「ことば」または「理性」を意味する文字であって、ヨハネはこの語を用いることによって読者がこれを上記の意味に理解することを知っていた。あるいはこの語をもって当時行われしギリシャの哲学(ストア派の)におけるロゴスの思想またはアレキサンドリヤのフィロンの宗教哲学におけるロゴスの思想の影響を受けしものであると論ずる人もあるけれども誤っている。((ヨハネのロゴスとこれらとの間に多くの類似があるにもかかわらず重大なる相違があることを知らなければならぬ。例えばストア哲学においては「世界理性」「世界法則」の意味に解し有機的関連を為している世界に法則と目的とを与うるものをロゴスと呼んでいるけれども、ヨハネの言うごとき神と偕にある人格ではない。またフィロンの場合においてもギリシャ思想と旧約聖書の神学とを調和することによりて彼の哲学的神学系統を形成したのであるが、彼によればロゴスは神と人との間の中間的存在であって神にあらず人にあらず、(ヨハネはロゴスを神となし、その受肉によりて人となり給えりと解す)神と人、神と宇宙との仲介者であってこれを神の長子または第二の神と呼んでいた。また宇宙の秩序運命を支配する法則なりとの意味において「神の人」「天の人」と呼ばれ、また神と人との中間にあるをもって創造、黙示、再生の中保者などと呼ばれていた。これらの点において名称はヨハネのいわゆる「言」の意義に近似しているけれども、フィロンは神の御霊とロゴスとを区別せず、またロゴスとメシヤとの関係なしとするなどの点においてヨハネのロゴスとは異なっている。ヨハネのロゴスは旧約聖書創世記および詩篇(詩33:4−6。詩107:20。詩119:89、詩119:105。詩147:15、詩147:18等)などの思想より転化せるものであった。然らばこの二者は全然無関係なりやというに、然らずむしろギリシャ哲学およびフィロンのロゴス説を彼のロゴス観によって完成することがヨハネの意味であったのであろう。ゆえに彼はイエス・キリストにおいて旧約聖書の「神の言葉」の受肉、化身を見、また同時に人間の思想に表れし真理の片鱗予兆の完成を見たのである。然らざれば彼はキリスト御自身も他の使徒らも用いなかったこの語を用うる必要はなかったのであろう。))
註解: 原語にて神と偕にはプロス、トン、テオン pros ton Theon であって、単に神と並びて共存するというよりも、むしろ神に向かって神との不断の交わりにおいて共存することを意味している(G1、Z0)、またこれによって「言」が神の性質や活動の一部ではなく、別個の個性格(ペルソナ)であることを示している。すなわちロゴスは無限の始めより神との間に愛の交わりにおいて存在し給うた。
註解: 「言」は単に神の性質を帯びているというのではなく、それ自身神に在し給うた。ここに「言」の本質が示されているのである。極端なる一神教なるユダヤ教より出でし使徒らがこの断言を為すことができたのは、聖霊の示顕によるのであって推理の結果ではない。「言」が神に在すことがイエスの神の子に在すことの前提である。─以上のごとく第一節は三段に分かれており、(1)「言」の永遠性、(2)その独立の人格と神との関係、(3)その神性を明らかならしめている。この三つのいずれにも「ありき」なる過去の動詞を用いし所以は「言」の歴史を記載せんとしてその過去の状態をまず記載したからである。
口語訳 | この言は初めに神と共にあった。 |
塚本訳 | この方は(世の)始めに神とともにおられた。 |
前田訳 | 彼ははじめに神のところにあった。 |
新共同 | この言は、初めに神と共にあった。 |
NIV | He was with God in the beginning. |
註解: 第一節の三つの命題を一つに集約しのであって「この言」は1節c、「太初に」は1節a、「神とともにありき」は1節bに相当している。ここにこれを繰返せる所以は第三節を引き出すがためである。
1章3節
口語訳 | すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 |
塚本訳 | 一切のものはこの方によって出来た。出来たものでこの方によらずに出来たものは、ただの一つもない。 |
前田訳 | すべては彼によって成った。成ったもので彼によらずに成ったものはひとつもない。 |
新共同 | 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 |
NIV | Through him all things were made; without him nothing was made that has been made. |
註解: 創1:1−31の要約である。「これ」は「彼」であって「言」を指す。宇宙の万物が創造せられしはロゴスによってであった。パウロが神の愛子キリストによって万物が創造されることを言っているのも(コロ1:16)先在のキリストすなわちこのロゴスを指しているのである。ヨハネはここに天地創造の理論を述べているのではなく創造の事実の荘厳さとそれがロゴスによりて成されし事の事実とを述べているのである。キリストなるロゴスはかくして無より有を生ぜしめしと同じく、功績なき者をも義とし給うことができるのである。
口語訳 | この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 |
塚本訳 | この方は命をもち、この命が人の光であった。 |
前田訳 | 彼にいのちがあり、いのちは人々の光であった。 |
新共同 | 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 |
NIV | In him was life, and that life was the light of men. |
註解: 「ロゴス」には生命があった。この生命は永遠の生命を意味し(人間、鳥魚、草木の生命ではない)神御自身の持ち給う処の生命であった(ヨハ5:24)。この生命に対比する場合には、この世における他の凡ての生命はみな「死」に相当し(ヨハ5:24)、従ってこの生命を得ずして人生は無意義である、而してこの生命の本源たる彼を信ずるものはこの生命を持つことができる(ヨハ3:16)。
この
註解: 「生命」と共に「光」はロゴスの性質を表わすに最も適当なる文字である。「神は光にして少しの暗き所なし」(Tヨハ1:5)智慧、知識、光明、光輝、明覚、聖潔、審判等道徳的善のみならず凡てよきものがこの「光」の一字をもって示され、この光は神の本質であると共にロゴスの本質である。従って反対に「暗黒」は罪悪的方面を示し上記諸性質の反対である。「人の光」とは人類は他の生物と異なり本来この光をもって照らされ、人はこの光の中を歩んでおりまた永久にいるべきであった。「光なりき」と過去の動詞を用いたのはアダムの堕落以前における人類の最も罪なき時代のことを述べているのである。「生命と光」とは相伴い神およびロゴスの性質を形成し、もって「暗黒と死」とに対立している。而して信仰によって新生命を獲得せる者もまたこの二つの性質を帯ぶるに至るのである。「我に従う者は暗き中を歩まず、生命の光を得べし」(ヨハ8:12)、「汝らは生命の言を保ちて世の光のごとくこの時代に輝く」(ピリ2:15。なおTテモ6:16)。
口語訳 | 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。 |
塚本訳 | この光は(いつも)暗闇の中に輝いている。しかし暗闇(のこの世の人々)は、これを理解しなかった。 |
前田訳 | 光は闇に輝くが、闇はそれを受けなかった。 |
新共同 | 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 |
NIV | The light shines in the darkness, but the darkness has not understood it. |
註解: 「照る」は現在動詞を用い、その状態が過去より現在に及んでいることを示す。この一節は人類の堕落以後の状態を録しているのであって、アダムの罪によりてパラダイスを逐われ、暗黒の罪の世界に住み居る人間にもなお良心、理性の一片が残存し、かつロゴスは、或はイスラエルの選びと救いにより、或は多くの預言者により、或は孔子釈迦のごとき異邦人の聖者らによってその光を示し給うた。世界の歴史が常に暗黒と罪悪の歴史であるにもかかわらず、なお滅亡に帰し終らなかったことはこのロゴスが暗黒の中に照っていたからである。
註解: 本来暗黒はこの光を受け、これを捉えて自分のものとすべきであったにもかかわらず常に光の敵としてこれと無関係の状態にあった。神はいかにこれを悲しみ給うたことであろう。
辞解
[悟る] カタラムバノー katalambanô 「捕える」は二様の意味に解することができる。一はヨハ12:35のごとく光を捕えてその活動を妨げる意味に解するのであって、オリゲネス、クリソストムのごときもこの意味にこれを解している。他の一は光を捕えてこれを己のものとする意味に解するのであって、この日本訳の「悟る」はこの意味であり、新約聖書においてもこの文字は多くこの意味に解している(ピリ3:12、13、Tコリ9:24、ロマ9:30)。後者が優っていることは明らかである。▲RSVおよび口語訳は katalambanô を「打勝たなかった」と訳しているけれどもこれはやや強過ぎるよう に思う。むしろ「確保する」意味である。10節と同じく世は暗黒であってイエスの光を把握し得なかったことの意味に取るべきである。
1章6節
口語訳 | ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。 |
塚本訳 | (そこで)一人の人が(この世に)あらわれた。神から遣わされたのである。その名はヨハネ。 |
前田訳 | 神からつかわされて現われた人がある。名はヨハネという。 |
新共同 | 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 |
NIV | There came a man who was sent from God; his name was John. |
註解: 6−8節においてロゴスの証者の中の最も偉大なるバプテスマのヨハネ(マタ11:11)について録している。彼は預言者の終りであり(マタ11:13)、ロゴスの歴史的発展の上の重大なる任務を掌る者であった。
辞解
[ヨハネ] 「神の恵み」を意味し最も相応しき名称である。他の三福音書に必ず「バプテスマのヨハネ」と録されているのは使徒ヨハネと区別するのに必要だったからで、ヨハネ伝には使徒ヨハネの名称を隠しているので、その必要がなく単にヨハネという。
1章7節 この
口語訳 | この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。 |
塚本訳 | この人は証しのため、すなわち、光について証しをし、彼の証しによってすべての人を信仰にいれるために来たのであった。 |
前田訳 | 彼は証のために来た。光について証し、すべての人が彼によって信ずるためであった。 |
新共同 | 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 |
NIV | He came as a witness to testify concerning that light, so that through him all men might believe. |
註解: 「証」は自ら熟知しているにかかわらずこれを知らない人々がある場合に後者に対して前者の為す証言である。福音を宣伝うることと同じ内容を有っている。この「証」に対して「信仰」をもって答えなければならない。彼の「証」は「光につきて」であって、殊に真の光なるキリストについて証することが彼の任務であった。彼より以前の預言者は、キリストを指してこの人がメシヤであると証することができなかったのにヨハネはこれを為すことができた。ゆえにヨハネの証の目的は人がこれによってイエスをキリストと信ぜんがためであった。かくしてイエス・キリストをこの世に遣わし給うべき神の準備は成ったのである。
1章8節
口語訳 | 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。 |
塚本訳 | 彼は光ではなかった。ただ光について証しをするために来たのであった。 |
前田訳 | 彼は光ではなかった。光について証するための人であった。 |
新共同 | 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 |
NIV | He himself was not the light; he came only as a witness to the light. |
註解: 特に彼が光にあらざることを明らかにせる所以は光それ自身とその証者との間には重大なる価値の差あること、および当時小アジヤ地方のキリスト者の中にバプテスマのヨハネとキリストとの間の差別を過小に見ている者があったので(使19:3−4)この誤りを正さんとしたのであろう(なおヨハ1:15、ヨハ1:19−27、ヨハ1:29−34。ヨハ3:26−36。ヨハ5:33−36。ヨハ10:40以下も同じ目的であった)。
1章9節 もろもろの
口語訳 | すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 |
塚本訳 | この方(言葉)は、この世にうまれて来るすべての人を照らすべきまことの光であった。 |
前田訳 | 世に来て人皆を照らす真の光があった。 |
新共同 | その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 |
NIV | The true light that gives light to every man was coming into the world. |
註解: キリスト・イエスこそ真の光であった。ロゴスの光は以前にも暗黒を照らしていたけれども(ヨハ1:5)、それは真の光の輝きであった。今や真の光そのものに在し給うイエス・キリストがこの世に来りつつあり給うた(それ故にヨハ1:14節のごとくにもいうことができるのであって、ヨハ1:14節は重複ではなく同一事実を他方面より見たのである)。キリスト・イエスの顕現が人類の歴史において唯一の事実で非常に尊き事柄であることは、この一節によりてこれを知ることができる。
辞解
[真の] アレーシノス alêthinos はヨハネ特用の語であって、偽物に対する真物の意味ではなく不完全な実現に対する完全な実現を意味する(G1)。すなわちキリスト以前の凡ての光は光の実体ではなくその輝きであり、またその断片に過ぎなかった。ゆえに4節以下において中性名詞として用いられていた「光」は10節以下において男性の代名詞にて表わされ直接にキリストを指す。
口語訳 | 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 |
塚本訳 | この世に来ておられ、世はこの方によって出来たのに、世はこの方を認めなかった。 |
前田訳 | 彼は世にあり、世は彼によって成ったが、世は彼を知らなかった。 |
新共同 | 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 |
NIV | He was in the world, and though the world was made through him, the world did not recognize him. |
註解: 4節の重複(G1)ではなく、キリスト・イエス来りてこの世に住み給うことを意味する。本節に「世」なる語は三回繰返されている。この世界を意味するけれども第三の「世」は人間を意味するものと解すべきである。
註解: 彼は世界とその人類との創造主に在し給うた。それ故に彼らは、彼らの創造主がこの世に来臨し給える以上、心からの歓喜をもって彼を迎え奉るべきであった。然るに彼らはイエスの来臨に対して全く無関心であり、また全く無智であった。ここに人類の罪の深さと、罪の中にある者の無智と、彼らを罪より救い出さんとする神の御心の淋しさとが明らかに示されている。
1章11節 かれは
口語訳 | 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。 |
塚本訳 | いわば自分の家に来られたのに、家の者が受け入れなかったのである。 |
前田訳 | おのがところに来たのに、おのが人々は彼を受けなかった。 |
新共同 | 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 |
NIV | He came to that which was his own, but his own did not receive him. |
註解: 「己の国」はイスラエルであり、「己の民」はイスラエルの人民である。広義においては世界の万民がイエスのものであるけれども、神の摂理によりイスラエルは選ばれて特に神のものとなった(詩135:4。詩33:12)。たとい世界の人類はその罪のために彼を知らなくとも(ヨハ1:10)せめてその民のみは彼を迎え彼の前にひざまつくべきであったのに、反対に彼を排斥して十字架につけた。順逆の転倒ここに至ってその極に達した。
辞解
[己の国] 原語「己のもの」であって多くその住居を意味する語。▲Ta idea は「己の物」(中性複数)で自己の所有物一般を指す。イエスは神の子として凡ての被造物の所有主に在し給うた。
[受ける] パララムバノー paralambanô は公けに家に迎え入れることであたかも花嫁が花婿を迎うるがごとき状態を指す。
1章12節 されど
口語訳 | しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 |
塚本訳 | しかし受け入れた人々、すなわち、その名を(神の子であることを)信じた人には一人のこらず、神の子となる資格をお授けになった。 |
前田訳 | 彼を受けてみ名を信じた人々には皆神の子となる特権をお与えになった。 |
新共同 | しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 |
NIV | Yet to all who received him, to those who believed in his name, he gave the right to become children of God-- |
註解: イエスを神の子として迎え入れ、「その名」すなわち神の子たるイエス・キリストに対する信仰をいだき、彼にその全信頼をささぐる者をばこれを神の子となし給い、この神の子たるに相応する権力能力を与え給うた(権を与えられて然る後に神の子となるのではなく、神の子となることが、すなわち権を与えられることである。B1)前二節において人類一般とユダヤ人とがキリストを拒むことによりてキリスト降世の目的が失敗に帰してしまったのではなかった(ロマ11:1以下)。このことがかえって福音がユダヤ人を離れて異邦人に伝わり世界万民が救わるべき原因となったのである。
辞解
[受ける] 前節の「受ける」と異なり単にラムバノー lambanô を用いている。パララムバノーは公けに歓迎することを意味し、ラムバノーは個人的に迎えることを意味する。前節においてはイスラエルが国民としてイエスを迎うべきであったことを示し、この節には個人々々が信仰に入るべきことを述べている。
[その名] 名はその本質を示すものであって、彼の名を信ずるとは彼自身を信ずることである。
[権] 許可、権能、能力。
1章13節 かかる
口語訳 | それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。 |
塚本訳 | この人たちは、人間の血や、肉の欲望や、男の欲望によらず、神(の力)によって生まれたのである。 |
前田訳 | 彼らは血にも肉の欲にも男の欲にもよらず、神によって生まれたのである。 |
新共同 | この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 |
NIV | children born not of natural descent, nor of human decision or a husband's will, but born of God. |
註解: 自然のままの旧き人の誕生と、キリストにある新しき人の誕生との間には全く相反する処のものがある。神の子たる者は人間の血統関係によりて生れない。肉すなわち堕落せる人間性の生れながらの状態をもっていかに欲求しても神の子は生れない。また人間の意思をもっていかに決意しても神の子は生れない。キリストを受け彼を信じて神の子とせられし者は以上のごとき方法によって生れたのではなく神より生れたのである。すなわち神の意思により、神の愛の結果聖霊によって生れたのである(ヨハ3:6)。
1章14節
口語訳 | そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。 |
塚本訳 | この言葉は肉体となって、(しばらく)わたし達の間に住んでおられた。(これが主イエス・キリストである。)わたし達はその栄光を見た。いかにも父上の独り子らしい栄光で、恩恵と真理とに満ちておられた。 |
前田訳 | ことばは肉となってわれらのうちに宿り、われらはその栄光を見た。それは父のひとり子らしい栄光で、恵みと真に満ちていた。 |
新共同 | 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 |
NIV | The Word became flesh and made his dwelling among us. We have seen his glory, the glory of the One and Only, who came from the Father, full of grace and truth. |
註解: ここに9節以下前節に至るまでに記された真の光がいかなる形にてこの世に来り給えるかを録している。すなわちキリストは「血脈によらず肉の欲によらず人の欲によらず」してロゴス彼自身が肉となり、我ら人間と同質のものとなって、我らと同じ世界に宿り給うた。彼の肉すなわち人間性の中には我ら人間の凡ての性質機能を具備せると共に、彼の生命はロゴスそのものであった。(我らが新生によりて与えられる処のものもこれである。)ロゴスがかく肉の形を取りて顕われ人類の中に宿り給うたことは、まことに驚くべき事実である。
辞解
[▲宿る] skênoôは天幕を張って宿る事、すなわち仮の宿である。
註解: 「我ら」はペテロ、ヨハネその他の使徒らは勿論、彼の弟子となって彼を信じたる人々。彼らはイエス・キリストの栄光を直接に目撃した(Tヨハ1:1−3.Uペテ1:16)。栄光の内容は本節後半の恩恵と真理なる語をもって幾分代表せられ、なお四福音書の記事に略示されている(ヨハ2:11)。けれども、これを完全に文字をもって示すことはできない。かかる栄光を有ち得るものは父の独り子以外に有るはずがない。キリストが神の独り子に在し給う一つの確証はその比類なき栄光であった。
註解: 恩恵と真理は神の本質であり従ってキリストの栄光であった。(詩25:5、詩25:10。詩26:3。詩33:4、5。詩89:2、詩89:14。詩92:2。詩98:3。詩100:5。詩115:1。詩117:2。ロマ15:8、9。)神は自然の創造、人類の支配、救済、贖罪によりてその恩恵を示し、イスラエルならびに人類全般に与え給える約束を守ることによってその真実を示し給う。而してこの神の本質がイエスに満ち溢れた、彼は恩恵の化身であり、彼の中には一点の虚偽もなかった。恩恵と真理とに満つることにまさりて讃美すべき性質はない。▲キリストの栄光はその恩恵と真理とであった。宗教画にある後光(ゴコウ)のようなものではない。
1章15節 ヨハネ
口語訳 | ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。 |
塚本訳 | ヨハネはこの方のことを証しして、叫んで言う、「『わたしのあとから来られる方は、わたしよりも偉い方である。わたしよりも前から、(世の始めから)おられたのだから』とわたしが言ったのは、この方のことであった。」 |
前田訳 | ヨハネは彼について証し、叫んでいう、「これこそ『わがのちに来つつわたしにまさる方、わたし以前からおられたから』とわたしがいった方である」と。 |
新共同 | ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 |
NIV | John testifies concerning him. He cries out, saying, "This was he of whom I said, `He who comes after me has surpassed me because he was before me.'" |
註解: ヨハネは曩 にキリストについて預言した(ヨハ1:7−8)。その預言はこの人を指すのであるといいて受肉せるロゴスなるイエスを指した。預言の内容は、「我の後に従い来る人は実は我に先立ち我を導く人である。何となればこの人は我より後にこの世に来り給うけれども、実は我よりも前に世の創造より前に在し給えるロゴスであるから」との意味である。ヨハネは女の生める者の中の最大なるものであった。このヨハネがキリストを崇むることによりてその神の独り子たることを充分に証しているのである。
辞解
[我に勝れり] 原語「我より先にあり」であるけれども勝れることを意味する。
口語訳 | わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。 |
塚本訳 | わたし達は一人のこらず、この方に満ちみちているものの中から、恩恵また恩恵を戴いた。 |
前田訳 | 彼の完全さからわれらは皆恵みにまた恵みを受けた。 |
新共同 | わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 |
NIV | From the fullness of his grace we have all received one blessing after another. |
註解: 14節を受け我ら凡ての信徒はキリスト・イエスの中に満盈 せる恩恵と真理の中より、あたかも泉より水を汲むがごとくに恩恵と真理を汲み取っているのであっていかにこれを汲んでも尽くることがない。自己のために水溜を掘らずしてかかる泉の源より汲み取る者は幸いである(ヨハ4:14)。
辞解
[▲充ち満ちたる] plêroma ある器物に満盈 せる状態。
註解: キリストより受くる恩恵は尽くる時なく、一の恩恵を受くるや否やさらに他の恩恵がその上に加わって来る(またはその代りにやって来ると解することもできる)。彼は恩恵をもって我らを導き、また恩恵をもって我らを救い、我らに御自身を与え給う。この無限の恩恵を経験せしものはイエスの神の独り子に在し給うことを疑うことができない。
1章17節
口語訳 | 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。 |
塚本訳 | すなわち律法はモーセをもって与えられたが、恩恵と真理とはイエス・キリストをもって(はじめて)あらわれた。 |
前田訳 | 律法はモーセによって与えられ、恵みと真はイエス・キリストによって成った。 |
新共同 | 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 |
NIV | For the law was given through Moses; grace and truth came through Jesus Christ. |
註解: 「律法を与え給いし神はまた恩恵と真理とを与え給う。ただし律法をばその僕によりて与え、恩恵をば彼自らこれを携えて来り給うた」(アウグスチヌス)。律法は我らに罪を示し、神の怒りと審判とを教うるに反し(ロマ4:15。Uコリ3:9)恩恵の福音は我らに罪の赦しと救いとを示し、永遠の生命を与う。キリスト来り給うて人を死に至らしむべき律法は終りを告げ、生命を与うる恩恵の福音がこれに代った(ヨハ4:23。ロマ10:4。ガラ3:19)。今や人類はこの恩恵を受け得る時代に生くるの幸福を享有しているのである。真理がイエス・キリストによりて来れることもこれと同じく、ロゴスの化身にして始めて真の意味において真理であることができる。ここにヨハネは始めてイエス・キリストの御名を言い表わし「真の光」「肉となれるロゴス」がこのイエスなることを明示した。
口語訳 | 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。 |
塚本訳 | 神を見た者は、いまだかつて一人もない。ただ、いつも父上の胸に寄り添っておられる独り子(のキリスト)だけが、(わたし達に神を)示してくださったのである。 |
前田訳 | 神を見たものはかつてひとりもなかったが、父のふところにいますひとり子の神だけが彼を示された。 |
新共同 | いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 |
NIV | No one has ever seen God, but God the One and Only, who is at the Father's side, has made him known. |
註解: 神は人の目をもって見ることができず、人の観念をもって描くことができず、人の体験をもって知ることができない。幻象 、神顕(創18:2以下のごとき)、神の観念、見神の実験等は真に神を見たのではない。神は見得べからざるものである。(引照1参照)
ただ
註解: 神の独り子イエスは受肉以前も以後も、また昇天し給える今も常に父なる神に対する密接なる愛の霊交を続け給う。このイエスのみがその行為と生涯とによりて父なる神を人々に顕示宣揚し給うた。「神と偕にあるロゴス」にあらざれば神を見ることができず、従ってまた神を顕わすことができない。真に神を顕わし給えるは唯イエスのみである。ゆえに彼を見し者は神を見しものである(ヨハ8:19。ヨハ14:9)。
辞解
[懐裡 にいます] 「神と偕に在る」ことの一層愛情の籠 れる状態を言い、「います」は現在分詞であって永遠に父の懐に在すことを示す(G1)。ただしこの「います」を過去の意味に取りてロゴスとして受肉前に父の懐裡 に在ししことをいうと解するもの(B1)、またはこれを現在の意味に解して昇天後父の懐裡 に在すイエス・キリストと解するもの(M0、Z0)があるけれども取らない。これらの解釈が生ずる所以は受肉中のキリスト・イエスが父の懐に在さざりしと解せんとするより生ずる誤りである。
[顕す] 「宣言する」。
要義1 [ヨハネの描きしイエス・キリストの姿]他の福音書において、或はメシヤとして或は人類の救い主として描かれしイエスは、ここにヨハネによりて宇宙的人格として描き出されている。彼はロゴスの化身に在し、宇宙の創造者、真の光、生命の実体、恩恵と真理の施与者、神の顕現である。人の口より出で得べきあらゆる崇敬は彼に向って捧げ尽され、彼を拝することは、神を拝することであり、彼を信ずることは神を信ずることであることを示されている(ヨハ12:44−50)。イエスを単に宗教的偉人と解する者はヨハネの示せるこのイエスを知らない者である。
要義2 [ヨハネのキリスト観とパウロのキリスト観]このヨハネ伝の序詞を読む者は何人もヨハネのキリスト観とパウロのキリスト観との間に驚くべき一致があることを発見するであろう。一見異なる用語を用い、異なる表顕法を用いているパウロとヨハネの間においても、そこに聖霊の働きによる完全なる一致あることはむしろ当然であると言うことができよう。パウロにとってもキリストは神の愛子に在し(コロ1:13)万物の創造者として万物の先に生れ給い(コロ1:15−17)凡ての徳が満ち足り(コロ1:19。コロ2:9)、律法はキリストによりて終りとなり(ロマ10:4。ガラ3:24。ガラ4:4)キリストは見得べからざる神の像(コロ1:15)従って愛であり(エペ3:18)また真理である(Uコリ1:19)。これらの語の中に描かれしキリストはヨハネの記せるキリストと全く同一のキリストである。
1章19節 さてユダヤ
口語訳 | さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。 |
塚本訳 | さて、ヨハネの証しというのはこれである。──ユダヤ人がエルサレムから祭司とレビ人とをヨハネの所に使いにやって、「あなたはだれですか」と尋ねさせた。 |
前田訳 | ヨハネの証はこれである−−ユダヤ人がエルサレムから祭司とレビ人を彼のところにつかわして、「あなたはだれですか」と問わせた。 |
新共同 | さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 |
NIV | Now this was John's testimony when the Jews of Jerusalem sent priests and Levites to ask him who he was. |
註解: 「ユダヤ人」はヨハネ伝にては一般のユダヤ人ではなく、当時の宗教上の権力階級たる衆議所の議員を指す。当時著者ヨハネは小アジアにいたのでユダヤ人中の内訳を掲ぐる必要がなかったのであろう。「レビ人」は祭司の補助者であった。当時ヨハネの風評嘖々 たるものがあり彼をメシヤなりと唱うる人もあった(ルカ3:15。使13:25)。エルサレムの衆議所はその真偽を確めんがために人を遣わしてこの質問を発せしめたのであろう。
辞解
[ユダヤ人] ヨハネ伝において「ユダヤ人」なる語は特別の意味を有ちキリストに反対の態度を取るユダヤ人を意味せしめている。▲引照3を参照すべし。
1章20節
口語訳 | すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した。 |
塚本訳 | そのときヨハネは正直に言って隠さなかった。「わたしは救世主ではない」と正直に言った。 |
前田訳 | すると彼は明言して隠さなかった。「わたしはキリストではない」と明言したのである。 |
新共同 | 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 |
NIV | He did not fail to confess, but confessed freely, "I am not the Christ. " |
註解: バプテスマのヨハネの率直にして偽らざる態度を見よ。これは公の質問に対する公の答弁であるゆえ重大である。
辞解
[言ひあらはす] 二回「言いあらわす」「告白する」なる文字を用いたのは意味を強めるがためである。
1章21節 また
口語訳 | そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。 |
塚本訳 | 「それではなんです。(預言者)エリヤ(の再来)ですか」と尋ねた。「そうではない」と言う。「(世の終りに来る)あの預言者ですか。」「ちがう」と答えた。 |
前田訳 | 彼らはたずねた、「それでは何ですか、エリヤですか」と。彼はいう、「そうではない」と。「預言者ですか」と問うた。答えは「否」であった。 |
新共同 | 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 |
NIV | They asked him, "Then who are you? Are you Elijah?" He said, "I am not." "Are you the Prophet?" He answered, "No." |
註解: エリヤはメシヤの先駆として来るべきことが預言せられていた(マラ3:23)。また彼は事実エリヤであった(ルカ1:17。マタ11:14)。けれどもユダヤ人らは昇天せるエリヤが再び天より降り来ることを信じていたのでヨハネはそのエリヤにあらずと確答した。
註解: かの預言者とは申18:18に記される預言者のことをいうのであって、これがキリストを指すか否かにつきて異なれる考えがあった(ヨハ6:14とヨハ7:40、41)。ゆえにこの質問は20節の答えの重複ではない。
1章22節 ここに
口語訳 | そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答を持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。 |
塚本訳 | すると彼に言った、「ではだれですか。(言ってください。)わたし達をよこした人たちに返事をしなければなりませんから。あなたは自分をなんだと言われるのです。」 |
前田訳 | そこで彼らはいった、「あなたはだれですか。われらをつかわした人たちに答えねばなりません。ご自身を何といわれますか」と。 |
新共同 | そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 |
NIV | Finally they said, "Who are you? Give us an answer to take back to those who sent us. What do you say about yourself?" |
註解: 使者として来たれる祭司レビ人らはもはやこの重大なるヨハネの何人たるかを考うる途がなくなった。ゆえにヨハネ自身をして告白せしめんとした。
辞解
[何] ▲「何」ti? は中性疑問詞でヨハネの職名を問うたのである。19、22節前半の問いとは異なる。従って口語訳の「どなた」は不適当である。キリスト(メシヤ)か、マラ3:23のエリヤか申18:18の預言者かを彼らは知ろうとしたのであった。
1章23節 [
口語訳 | 彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。 |
塚本訳 | 彼が言った、「わたしは、預言者イザヤが〃荒野に叫ぶ者の声はひびく、『主の道をまっすぐにせよ』〃と言ったあの声だ。」 |
前田訳 | 彼はいった、「わたしは、預言者イザヤがいったように、『主の道を直くせよ、と荒野に叫ぶものの声』である」と。 |
新共同 | ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」 |
NIV | John replied in the words of Isaiah the prophet, "I am the voice of one calling in the desert, `Make straight the way for the Lord.'" |
註解: マタ3:3註参照。バプテスマのヨハネは自ら主イエスの先駆をもって任じ、しかも自己を一つの声にたとえてでき得るかぎり自己をば隠して主イエスを顕わさんとした。ユダヤ人の心は真直ぐなる途なき荒れ果てし野のごとくであった。まず悔改めを説きてその途を直くすることがバプテスマのヨハネの使命である。
口語訳 | つかわされた人たちは、パリサイ人であった。 |
塚本訳 | ──彼らを使にやったのはパリサイ人であった。── |
前田訳 | 彼らはパリサイ人からつかわされていた。 |
新共同 | 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 |
NIV | Now some Pharisees who had been sent |
註解: 「パリサイ人らはイスラエルの極右保守党であったので、ヨハネが洗礼を施すことによりてなせる改革に対して最も甚 だしき憤慨を感じていた。・・・殊に神の民に対して浸礼を施し、あたかも彼らが異邦人のごとく全く汚れているごとくに取扱うことは宗教儀式の擁護者なりし当局者、殊にその中においても最も頑固に伝統に固執しているパリサイ人らの感受性を最も刺激せざるを得なかった」(G1)。
1章25節 また
口語訳 | 彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。 |
塚本訳 | 彼らはしつこく尋ねた。「救世主でも、エリヤでも、あの預言者でもないなら、なぜ、(なんの権威で)洗礼を授けるのです。」 |
前田訳 | 彼らはたずねた、「キリストでもエリヤでも、預言者でもなければ、なぜ洗礼なさるのですか」と。 |
新共同 | 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 |
NIV | questioned him, "Why then do you baptize if you are not the Christ, nor Elijah, nor the Prophet?" |
註解: パリサイ人らは教権を保持する宗教上の特権階級かまたは前節の神より遣わされし人々にあらざれば、バプテスマを施すことができないと信じてこの質問を放った。
1章26節 ヨハネ
口語訳 | ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。 |
塚本訳 | ヨハネが答えた、「わたしは水で洗礼を授けているが、君たちの真中に君たちの知らない人が立っておられる。 |
前田訳 | ヨハネは答えた、「わたしは水で洗礼するが、あなた方の中に、未知の方が立っておられる。 |
新共同 | ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 |
NIV | "I baptize with water," John replied, "but among you stands one you do not know. |
1章27節
口語訳 | それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。 |
塚本訳 | これがわたしのあとから来られる方で、わたしはその方の靴の紐をとく資格もない。」 |
前田訳 | 彼はわがのちに来る方、わたしはその靴のひもを解くにも値しない」と。 |
新共同 | その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 |
NIV | He is the one who comes after me, the thongs of whose sandals I am not worthy to untie." |
註解: 前節の質問に対する答である。曰く「我は準備として悔改めのために水のバプテスマを施しているに過ぎない。すなわちやがて汝らの受くるべき聖霊による新生のバプテスマの準備のためである。この聖霊のバプテスマを施す人キリストは汝らの中に立っているけれども汝らは彼を知らず、彼は我より後に来る者であるがその価値は遥かに我に勝っており、主と僕とのごとき関係にある」。かくいいてヨハネは自己の使命が、その後に来るべきイエス・キリストを示すにあることを明らかにし、従ってエリヤまたは預言者の任務を全うするものなることを暗示し、バプテスマを施すの権あることを主張した。
辞解
[鞋の紐を解く] 奴隷の職務である。
1章28節 これらの
口語訳 | これらのことは、ヨハネがバプテスマを授けていたヨルダンの向こうのベタニヤであったのである。 |
塚本訳 | これはヨルダン川の向こうのベタニヤでの出来事で、ヨハネはそこにいて、洗礼を授けていたのである。 |
前田訳 | これはヨルダンの向こうのベタニアでおこったこと。そこでヨハネは洗礼をしていた。 |
新共同 | これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。 |
NIV | This all happened at Bethany on the other side of the Jordan, where John was baptizing. |
註解: イエスの時代にはエルサレムの近きベタニヤの外にヨルダンの東岸にも同名の邑があったのであろう。(第三世紀始めにはこの邑は消滅した。オリゲネスはこれを発見することができなかったのでベタニヤをベタバラと訂正している。)使徒ヨハネはこの場所にいてこの事実を目撃したので、老年に至ってその場所の思い出を持っていた。
要義 [イエス・キリストの優越]「女の産みたる者の中の最大なるもの」とイエスの宣いしバプテスマのヨハネすらイエスの絶大の人格の前には「その鞋の紐を解くにも足らず」と告白している。而してこれは正直なる告白であった。罪を持ち給わざる神の独り子イエス・キリストの御前に出づる場合には孔子も釈迦も、みなこのヨハネと同一の告白を為すであろう。実にイエスは人類中唯一の例外、神の子、第二のアダム、被造物より先に生れ給いし神の初子に在し給う。
1章29節
口語訳 | その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。 |
塚本訳 | あくる日、ヨハネはイエスが自分の方に来られるのを見て言う、「そら、あれが世の罪を取りのぞく神の小羊だ。 |
前田訳 | あくる日、イエスが彼のところへ来られるのを見ていう、「見よ、世の罪を除く神の小羊。 |
新共同 | その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 |
NIV | The next day John saw Jesus coming toward him and said, "Look, the Lamb of God, who takes away the sin of the world! |
註解: これまでのヨハネの証はイエスを間接に指すに過ぎなかった。この日おそらく荒野試練を終えて来り給えるイエスを指して直接にそのメシヤに在すことをその弟子たちに証した。
『
註解: イエスはイザ53:4−7に示されるごとく世界万民の罪を自己の上に負い給い、また過越の羔羊のごとくその血を流すことによって人の罪の贖いをなして世の罪を除き給う。使徒ヨハネは当時過越の祭が近付き、かつ過越の祭の際に死に給えるイエスを思いて、過越の羔羊に懸けてこの語を記したのである(S2)。
辞解
[除く] アイレオー aireô は「負う」および「除く」の二義あり、前者はイザ53:4に相応し、後者は過越の羔羊に相応している。従ってこの語の訳語の如何およびその旧約聖書との関係につきて学者間にこの二種の節が互いに争っている。予はこの二者を一つの事実と見、要するにキリストはこの預言(イザ53:4−7)およびイスラエルの歴史(出12章)をすべてその身に実現し給えるものと解したいと思う。
1章30節 われ
口語訳 | 『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。 |
塚本訳 | 『わたしのあとからひとりの人が来られる。わたしよりも偉い方である。わたしよりも前からおられたのだから』とわたしが言ったのは、この方のことだ。 |
前田訳 | これこそ、『わがのちにわれらにまさる方が来られる、わたし以前からおられたから』とわたしがいった方である。 |
新共同 | 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。 |
NIV | This is the one I meant when I said, `A man who comes after me has surpassed me because he was before me.' |
註解: ヨハ1:15註参照。ヨハネは常にこの語をもってイエスの来り給うべきことをその弟子たちに証していた。必ずしも26、27節に限った訳ではない。▲ヨハネの使命は徹頭徹尾イエスを指すことに集中した。
1章31節
口語訳 | わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。 |
塚本訳 | (最初)わたしはあの方が(救世主だと)わからなかった。しかしわたしはあの方(がそれであること)をイスラエルの民に知らせるため、水で洗礼を授けに来たのである。」 |
前田訳 | わたしも彼を知らなかったが、彼をイスラエルに知らせるために、わたしは水で洗礼しに来た」と。 |
新共同 | わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」 |
NIV | I myself did not know him, but the reason I came baptizing with water was that he might be revealed to Israel." |
註解: 水にて悔改めのバプテスマを施し、キリストを信ずべきことを教えたのがヨハネのバプテスマであった(使19:4)。彼の使命は全くイスラエルをしてイエスを信ぜしめんがための道案内であった。
辞解
[我も〔と〕彼を知らざりき] 「我も亦」と訳すべきで26節の「汝らの知らぬもの」に対応している。彼はイエスを個人的には知っていなかった。
1章32節 ヨハネまた
口語訳 | ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。 |
塚本訳 | ヨハネはまたこう言って証しをした、「洗礼を授けると、御霊が鳩のように天から下ってきて、あの方の上に留るのをわたしは見た。 |
前田訳 | さらにヨハネは証した、「霊が天から鳩のように下って彼の上にとどまるのを見た。 |
新共同 | そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 |
NIV | Then John gave this testimony: "I saw the Spirit come down from heaven as a dove and remain on him. |
註解: マタ3:16註参照。ヨハネがイエスにつきて証をなす理由として32−34節に彼の目撃せる聖霊降下の事実と神の黙示(1:33)とを挙げている。
1章33節
口語訳 | わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。 |
塚本訳 | 最初わたしはあの方がわからなかった。しかし水で洗礼を授けさせるためにわたしを遣わされた方(神)が、わたしに言われた、『御霊が下ってきて、ある人の上に留るのを見たら、その人が聖霊で洗礼を授ける人である』と。 |
前田訳 | わたしも彼を知らなかったが、わたしが水で洗礼するようつかわされた方がいわれた、『霊が下ってその上にとどまるのをなんじが見るならば、彼こそ聖霊で洗礼するもの』と。 |
新共同 | わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 |
NIV | I would not have known him, except that the one who sent me to baptize with water told me, `The man on whom you see the Spirit come down and remain is he who will baptize with the Holy Spirit.' |
註解: ヨハネの証は彼自身より出でしにあらず「彼を遣わしてバプテスマを施させ給いし」神より出でていた。ゆえに真実であり荘厳である。「或人」といいて不確定の状態に置き聖霊降下の事実をもってその誰なるかを示し給い、「聖霊にてバプテスマを施すもの」といいてそのメシヤなることを示している。「聖霊のバプテスマ」は聖霊による新生を意味する。
1章34節 われ
口語訳 | わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。 |
塚本訳 | わたしはそれを見た。それで、その方が神の子であると証しをしているのである。」 |
前田訳 | わたしはそれを見た。そして彼こそ神の子であると証してきた」と。 |
新共同 | わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」 |
NIV | I have seen and I testify that this is the Son of God." |
註解: ヨハネはイエスにバプテスマを施せる際に、この神より掲示せられし現象を目撃して(マタ3:17)イエス神の子に在すことを知りこのことを証した。
要義 [キリスト来臨の準備]1:19−34において第四福音書記者はロゴスの化身なるキリストの来臨の準備について語っている。この中より学び得る真理および教訓は(1)イエス・キリストの卑しき誕生と同じくその先駆者たるヨハネも宗教的特権階級の中の伝統的職業宗教家にあらずして「野に呼ばわる者の声」たる平民ヨハネであったこと。(2)これらの職業的、伝統的、階級的宗教家はキリストを求むるの熱心もなく、またその先駆者たるヨハネをも見失ったこと、(3)キリストに関する証しは神より出でしものであって、人間中の最大なるものによってこれが宣伝えられ、厳粛な光景の下に証せられしこと、(4)神とキリストと聖霊とが共に一つの神としてキリストにおいて働き、キリストを通して働き給うこと、等である。
1章35節
口語訳 | その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、 |
塚本訳 | あくる日またヨハネは、二人の弟子と一しょに立っていた。 |
前田訳 | あくる日またヨハネはふたりの弟子と立っていた。 |
新共同 | その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。 |
NIV | The next day John was there again with two of his disciples. |
註解: 弟子の独りはアンデレ(40節)で他の一人はこの福音書の著者なる使徒ヨハネであったことはほぼ確かである(この記事の明瞭さを見よ。緒言参照)。
1章36節 イエスの
口語訳 | イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。 |
塚本訳 | イエスが通りすぎられるのをじっと見て言う、「そら、あれが神の小羊だ。」 |
前田訳 | そしてイエスが歩まれるのを見ていう、「見よ、神の小羊」と。 |
新共同 | そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。 |
NIV | When he saw Jesus passing by, he said, "Look, the Lamb of God!" |
註解: ヨハネのこの証はその弟子に向い「彼に往け、彼こそメシヤである」との意味である。イエスは曩 にヨハネより洗礼を受け給いし以上、もはやヨハネの許に来り給う必要がなかった。
辞解
[見て] エムブレプサス emblepsas は熟視する意味。
[神の羔羊] ヨハ1:29註参照。
1章37節 かく
口語訳 | そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。 |
塚本訳 | 二人の弟子はその言葉を聞いて、イエスについて行った。 |
前田訳 | ふたりの弟子は彼がそういうのを聞いてイエスに従った。 |
新共同 | 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。 |
NIV | When the two disciples heard him say this, they followed Jesus. |
註解: 彼らはこのイエスこそ彼らの求めていた救い主メシヤであることを発見するならんと予期して、イエスに従った。イエスに従わずして救いに与ることができない。
1章38節 イエス
口語訳 | イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、「何か願いがあるのか」。彼らは言った、「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」。 |
塚本訳 | イエスは振り返って二人がついて来るのを見て、言われる、「なんの用か。」彼らが言った、「ラビ(訳すると『先生』)、どこにお泊まりですか。」 |
前田訳 | イエスは振り返って彼らが従うのを見て、いわれる、「何の用か」と。彼らはいった、「ラビ(訳せば先生)、お宿はどちらで」と。 |
新共同 | イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、 |
NIV | Turning around, Jesus saw them following and asked, "What do you want?" They said, "Rabbi" (which means Teacher), "where are you staying?" |
註解: 弟子たちの心の中には種々の求めがあったのであろう。彼らはメシヤに逢わんことを求めつつもなお他に自己の救いやイスラエルの救いをも心の中に希求したことであろう。ゆえにイエスは「誰を求むるか」と言わずして「何を求むるか」と問い給うた。我らも始めは求むる処を知らず、何事かを求めているけれども、遂にキリストを見出すに至るのである。我らの求むるものはキリストでなければならなぬ。
註解: 彼らはイエスの宿所をつきとめ、彼と親しく語らんことを求める。「ラビ」なるヘブル語を釈 いているのはギリシャ人に読ませるためであった。
1章39節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに言われた、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。時は午後四時ごろであった。 |
塚本訳 | 彼らに言われる、「来なさい、そうすればわかる。」そこで一しょに行って、泊まっておられる所を見て、その日はイエスのところに泊まった。(着いたのは)午後四時ごろであった。 |
前田訳 | 彼らにいわれる、「来ればわかろう」と。そこで行って泊まられる所を見、その日は彼の所に泊まった。時は午後四時ごろであった。 |
新共同 | イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。 |
NIV | "Come," he replied, "and you will see." So they went and saw where he was staying, and spent that day with him. It was about the tenth hour. |
註解: イエスは彼らにその住所を示さず唯彼らを招きて彼に従わしめた。「然らば」その住所のいかなる処なるかを「見ん」と言い給いて、彼らをして彼を信ずる心をもって彼に従わしめ給うた。我らイエスに従う所以も天国の状態を予め聞きて従うのではない。彼に従えば天の国を見ることができるであろうことを信ずるからである。彼らはその日ともに留まった。おそらくイエスと語ったことであろう。而して彼らの発見せしものはその宿所ではなく、イエスのメシヤに在し給うことであった。
辞解
[第十時ごろ] ユダヤの時刻とすれば午後四時頃に相当する。日本改訳においてマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝においては原文のユダヤ時刻を今日の時刻に換算して訳しているけれどもヨハネ伝においては原文のままに訳されている(ヨハ4:6、ヨハ4:52。ヨハ19:14)。かく訳語に統一に欠ける所以はおそらくヨハ19:14「第六時」註(4)の説があるからであろう。
1章40節 ヨハネより
口語訳 | ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。 |
塚本訳 | ヨハネから聞いてついて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。 |
前田訳 | ヨハネから聞いてイエスに従ったふたりのひとりはシモン・ペテロの兄弟アンデレであった。 |
新共同 | ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。 |
NIV | Andrew, Simon Peter's brother, was one of the two who heard what John had said and who had followed Jesus. |
註解: 「他の一人は自分である」というべきを略したのであろう。シモン・ペテロを特に名指しせるは彼が使徒中の首脳者であったからである(ヨハ6:8)。
1章41節 この
口語訳 | 彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。 |
塚本訳 | (あくる日)まずこの人が自分の兄弟のシモンに出会って、「メシヤを見つけた」と言う。[メシヤは訳すると「救世主」である。] |
前田訳 | 彼がまずおのが兄弟シモンに会って、いう、「われらはメシア(訳せばキリスト)に出会った」と。 |
新共同 | 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。 |
NIV | The first thing Andrew did was to find his brother Simon and tell him, "We have found the Messiah" (that is, the Christ). |
口語訳 | そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」。 |
塚本訳 | シモンをイエスの所につれてゆくと、彼をじっと見て言われた、「あなたはヨハネの子シモンだ。あなたの名はケパがよかろう。」[ケパは(ヘブライ語であって、ギリシャ語に)訳するとペテロ(岩)。] |
前田訳 | 彼はシモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめていわれた、「あなたはヨハネの子シモンだ。ケパ(訳せばペテロ、岩)と呼ばれるがいい」と。 |
新共同 | そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。 |
NIV | And he brought him to Jesus. Jesus looked at him and said, "You are Simon son of John. You will be called Cephas" (which, when translated, is Peter ). |
註解: アンデレはイエスのメシヤなることを発見して、その喜びと驚きとを抑えることができず、これをその兄弟ペテロに告げた。「これが信仰の本質であって信仰は光を消さずしてこれを四方に発散する」(C1)。而してこの報を受けしペテロもすでに熱心にメシヤの出現を待ち望んでいたのでその喜びもまた大きくあった。「アンデレのこの発見は四千年来待望されし大発見であった」(B1)。
辞解
[まづ] 「まづ」とある以上に「次に」があるべきはずであるのに、省略されていることにつきて種々の解釈があるけれども、最も首肯し得る説は「次に」ヨハネがその兄弟ヤコブに逢いて彼をイエスの許に連れ来ることを略したのであろう。
イエス
註解: イエス目を留めて凝視し給うとき、その眼光は人の心底に達する。イエスは一見してこの一漁夫(マタ4:18)の中に教会の礎たるべき岩(アラミ語でケパ、ギリシャ語でペテロ)のごとき性質を発見し給うた。神が人に新たなる使命を与えんとし給う時、新たなる名を与え給う、アブラムはアブラハム、ヤコブはイスラエルと名付けられた(創17:5。創32:28)。「なんぢはヨハネの子シモンなり」はイエスがその名を奇跡的に予知し給うたのであると見るよりも、むしろ名称を改める場合の一定の形式と見るべきであろう。
要義 [キリストの力]この記事の中に我らの見失い難き点はペテロ、ヨハネ、アンデレ等の弟子があたかも鉄片の磁石に引付けられるがごとき有様でイエスに引付けられて行くことである。イエスは別に多くの言をもって語り給えるものとも思われない。しかしその簡単なる御言とその栄光の中に彼らを引付くる偉大な力があった。「来れ、さらば見ん」と。イエスが神の子に在し給うことを知るがためには来りて彼を見る必要があった。彼を見奉る時、苟 も霊の働きが死滅していない人は何人もその力に打たれない人はない。ロゴスが肉となりキリスト・イエスとなって地上を歩み給える事実があくまでもキリスト教の中心であり、この事実に伴えるイエスの力が人の心を動かして彼を信ずるに至らしむるのである。キリスト教が理論を基礎とせる宗教にあらざる点はここにある。
1章43節
口語訳 | その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい」。 |
塚本訳 | あくる日(そこを立って)ガリラヤに行こうとされたが、(道で)ピリポに出合われた。イエスが言われる、「わたしについて来なさい。」 |
前田訳 | あくる日、そこからガリラヤヘ行こうとしてピリポに出会われた。彼にいわれる、「わたしに従いなさい」と。 |
新共同 | その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。 |
NIV | The next day Jesus decided to leave for Galilee. Finding Philip, he said to him, "Follow me." |
註解: このイエスの言に従ってピリポは直ちにその弟子となった。選ばれし者の心には神の言は偉大なる力として働き、然らざる者にとってはいかに熱心なるイエスの招きも馬耳東風のごとくである(マタ23:37以下)。「われに従へ」と言い給いしイエスは、あたかも牧羊者のごとく、また雲の柱、火の柱のごとく(出13:21)弟子に先立ち給うた。
1章44節 ピリポはアンデレとペテロとの
口語訳 | ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダの人であった。 |
塚本訳 | ピリポはアンデレとペテロの町であるベッサイダの人であった。 |
前田訳 | ピリポはアンデレとペテロの町ベツサイダの出であった。 |
新共同 | フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。 |
NIV | Philip, like Andrew and Peter, was from the town of Bethsaida. |
註解: ベツサイダはガリラヤの湖畔カペナウムに近き邑。ピリポは良き先輩を持ち、アンデレとペテロは善き後輩を有つの幸福を感謝したことであろう。
1章45節 ピリポ、ナタナエルに
口語訳 | このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。 |
塚本訳 | (すると今度は)ピリポがナタナエルに出合って言う、「わたし達はモーセが律法に書き、預言者たちも書いている人を見つけた、ヨセフの子、ナザレ人イエスだ。」 |
前田訳 | ピリポはナタナエルに出会っていう、「われらはモーセが律法に書き、預言者も書いている人に出会った。ヨセフの子ナザレのイエスである」と。 |
新共同 | フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」 |
NIV | Philip found Nathanael and told him, "We have found the one Moses wrote about in the Law, and about whom the prophets also wrote--Jesus of Nazareth, the son of Joseph." |
註解: このことの起れる場所は不明である。第四福音書著者が時と処とを超越して唯霊的歴史をのみ記載しつつあるその態度を伺うことができる。モーセおよび預言者たちは来るべきメシヤについて録し、イスラエルの人々は常にこの来るべきメシヤを待望んでいた。ピリポはこのメシヤを見出して喜びに溢れてこれをその友ナタナエルに紹介した。ピリポが主イエスを「ヨセフの子」と呼んだのはルカ3:23による。
辞解
[ナタナエル] 神の賜物の意。ガリラヤのカナの人で(ヨハ21:2)十二使徒の一人なるバルトロメオ(トロメオの子の意)と同人ならん。
1章46節 ナタナエル
口語訳 | ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。 |
塚本訳 | ナタナエルが言った、「あのナザレから何か善いものが出るだろうか。」ピリポが言う、「来なさい、そうすればわかる。」 |
前田訳 | ナタナエルはいった、「ナザレから何かよいものが出うるか」と。ピリポはいう、「来ればわかろう」と。 |
新共同 | するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。 |
NIV | "Nazareth! Can anything good come from there?" Nathanael asked. "Come and see," said Philip. |
註解: ナタナエルの不信の原因はイエス御自身を見ないことと、ガリラヤ地方やナザレより善き者が出るはずがないとの根拠なき伝説(引照参照)が先入主となっていたからである。今日も根拠なき伝統的思想習慣などが人々のキリストに来ることを妨げている。
ピリポ
註解: 我らもピリポと同じく不信の人をキリストに導きキリストを示さなければならない。議論をもって人をキリストに導かんとするは無効である。
1章47節 イエス、ナタナエルの
口語訳 | イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」。 |
塚本訳 | イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼のことをこう言われる、「そら、あれは生粋のイスラエル人だ。すこしもごまかしがない。」 |
前田訳 | イエスはナタナエルが彼のところに来るのを見て、彼についていわれる、「見よ、はえ抜きのイスラエル人、彼には偽りがない」と。 |
新共同 | イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 |
NIV | When Jesus saw Nathanael approaching, he said of him, "Here is a true Israelite, in whom there is nothing false." |
註解: 42節と同じくここにもイエスはその霊的眼光をもってナタナエルの真実たる性格を見ぬき給うた。彼はいかばかり驚いたことであろうか。かくのごとく我らの罪もまたイエスの前に全く隠れることができない。
辞解
[これを指して] ▲口語訳「彼について」の方が正しい。
[イスラエル人] ヤコブはその平生の策略をすて、真実なる祈りをもってエホバと格闘しついに「エホバに勝ち」イスラエルと呼ばれるに至った。(イスラエルは「神に勝つ者」の意)その子孫もこの真実を持つべきである(創32:28)。
1章48節 ナタナエル
口語訳 | ナタナエルは言った、「どうしてわたしをご存じなのですか」。イエスは答えて言われた、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」。 |
塚本訳 | ナタナエルが言う、「まあ、どうしてわたしを御存じですか。」イエスが答えて言われた、「ピリポが呼ぶ前に、あなたが無花果の木の下にいるのを見た。」 |
前田訳 | ナタナエルは彼にいう、「どうしてわたしをご存じですか」と。イエスは答えられた、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、いちじくの下にいるのを見た」と。 |
新共同 | ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。 |
NIV | "How do you know me?" Nathanael asked. Jesus answered, "I saw you while you were still under the fig tree before Philip called you." |
註解: おそらくナタナエルはイエスの目の届くはずなき遠方に、無花果の樹の下にイスラエルの救いにつきて真心をもって考え、かつ祈っていたのであろう。イエスはその奇跡的な力をもって遠隔の地よりこれを認識し給うた。ナタナエルが驚いたのも道理あることであった。
1章49節 ナタナエル
口語訳 | ナタナエルは答えた、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。 |
塚本訳 | ナタナエルが答えた、「先生、あなたは神の子であります。あなたはイスラエルの王であります。」 |
前田訳 | ナタナエルは答えた、「先生(ラビ)、あなたは神の子にいます。あなたはイスラエルの王にいます」と。 |
新共同 | ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 |
NIV | Then Nathanael declared, "Rabbi, you are the Son of God; you are the King of Israel." |
註解: ナタナエルはこのイエスを見て直ちに彼を信じ、彼が神の子に在し給うことを告白した。神の子にあらずしてかかることができるはずがないからである。
辞解
[神の子] 神に対するイエスの身分を示している。
[イスラエルの王] イスラエルに対するイエスの身分を示している。▲一人の人間に対して捧げる最高の尊称である。
1章50節 イエス
口語訳 | イエスは答えて言われた、「あなたが、いちじくの木の下にいるのを見たと、わたしが言ったので信じるのか。これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」。 |
塚本訳 | イエスが答えて言われた、「あなたを無花果の木の下で見たと言ったので、信ずるのか。信ずれば、あなたはもっと驚くべきことを見るであろう。」 |
前田訳 | イエスは答えられた、「あなたをいちじくの下で見た、といったから信ずるのか。これより大きなことを見るであろう」と。 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 |
NIV | Jesus said, "You believe because I told you I saw you under the fig tree. You shall see greater things than that." |
註解: 前には不信であったナタナエルがこの一事によってたちまち信じたのを見て、イエスは彼の信仰の動揺を恐れ給うたのであろう。更に大なることを見るべきことを予告して彼の信仰を固め給うた。
辞解
[信ずるか] 或はかかる僅かな理由をもって速に信仰に入りしを見て讃美し給える心持であると解し、或は理由不充分なるにもかかわらずあまりに軽卒に信仰に入ったことに対する叱責と解する。予はこの二者とやや解釈を異にし信ずる理由としては充分であっても、前に不信なりし彼としてはその変化のあまりにも急激なるを憂慮し給える心持と解する。
[是れよりも更に大いなる事] イエスの生涯、その奇蹟、その愛の業、その十字架の死と復活など凡てこれよりも更に大なる事であった。次節はこれらの事実を要約せるものと見ることができる。
1章51節 また
口語訳 | また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。 |
塚本訳 | そして(そこにいる人たちを見ながら)ナタナエルに言われる、「アーメン、アーメン、あなた達に言う、あなた達は天が開けて、人の子(わたし)の上に神の使たちが(たえず)上り下りするのを見るであろう。」 |
前田訳 | そしていわれる、「本当にいう、あなた方は天が開けて神の使いが人の子の上に上り下りするのを見よう」と。 |
新共同 | 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」 |
NIV | He then added, "I tell you the truth, you shall see heaven open, and the angels of God ascending and descending on the Son of Man." |
註解: 「天開け」は神と人との交通が開始せられ天と地とは合して一となれることを意味し(エペ1:10。コロ1:20)「神の使たちの昇降」は創28:12のヤコブの夢の記事を移し来ったのであって神とキリストとの間の不断の霊交を意味している。キリストの生涯はこの霊交の連続であった。この事実こそあらゆる奇蹟にまさりて大なる事柄であって、キリストの奇蹟もその他の業も、またその死すらもみな霊交の結果であって、父なる神の御旨のままを実行し給うたに過ぎない。
辞解
[人の子] メシヤ、救い主を意味する。マタ8:20辞解参照。
[まことに誠に] 原語はアーメン、アーメンであって、かく繰返せるものはヨハネ伝のみにあって他にはない。全部で25回用いられみな主イエスの御言として記されている。ヘブル語アーメンより起り全世界においてアーメンなる語は祈祷の際の同感の語として用いられている。「誠に然あれかし」の意味である。
要義1 [天は開けたり]キリスト来り給える前には天は閉ざされ、悪魔は人類の世界を支配していた。然るにキリスト来りて神の国の福音を宣伝え給うに及んで天開け、人々はキリストの口を通して常に神の声を聴くことができた。而してその後もこの天の戸は永久に閉ざされることなく、キリスト・イエスにある者の上には天の使い常に昇り降りしつつあるのである。
要義2 [弟子の招致につきて]マタ4:18−22の記事と第四福音書の記事(ヨハ1:37−42)とは一致していない。おそらくマタイ伝の記事はヨハネ伝の記事の後に起れる事実であって、始めにメシヤを見出せる驚異の感情をもってイエスに従いつつあった彼らが後に自覚的にイエスの弟子として従うに至ったのであろう。ヨハネ伝は共観福音書の記事を補充したのである。
ヨハネ伝第2章
分類
2 イエスの活動の初期
2:1 - 4:54
2-1 ガリラヤのカナの婚筵
2:1 - 2:11
2章1節
口語訳 | 三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 |
塚本訳 | それから三日目に、ガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 |
前田訳 | 三日目にガリラヤのカナで婚礼があり、イエスの母がそこにいた。 |
新共同 | 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 |
NIV | On the third day a wedding took place at Cana in Galilee. Jesus' mother was there, |
註解: 「三日目」はヨハ1:43から三日目のこと、ヨルダンの岸よりガリラヤのカナに達するのにほぼ三日を要する。「カナ」はナザレの東北約一時間半にして達す、チベリアスに通ずる途の半途にあり(G1)。ヨセフのことにつき沈黙しているのは既に死んだのであろう。
口語訳 | イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。 |
塚本訳 | イエスも弟子たちと婚礼に招かれた。 |
前田訳 | イエスと弟子たちも婚礼に招かれた。 |
新共同 | イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 |
NIV | and Jesus and his disciples had also been invited to the wedding. |
註解: バプテスマのヨハネはユダヤの荒野にて禁欲的生活をなし、イエスはガリラヤの小邑に婚姻の歓喜の宴に列し給う。人間生活を聖め、これに高き意義を与うべき歓喜と希望に満てる新たなる福音の曙光がここにイエスの周囲に輝いている。「弟子たち」は先の五人であろう。
2章3節
口語訳 | ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。 |
塚本訳 | すると宴会の最中に酒が足りなくなったので、母がイエスに言う、「お酒がなくなりました。」 |
前田訳 | ぶどう酒が切れたのでイエスの母が彼にいう、「ぶどう酒がなくなりました」と。 |
新共同 | ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 |
NIV | When the wine was gone, Jesus' mother said to him, "They have no more wine." |
註解: イエスおよびその数人の弟子が加わったためであろう。葡萄酒尽きて憂うべき状態となったので、母マリヤはこのことをイエスに告げ、心ひそかにイエスがその能力を顕わし奇蹟を行うならんことを期待した(G1)。
辞解
[かれらに葡萄酒なし] 「かれらに葡萄酒なし」と言いし動機について(1)単に心中の憂慮を漏らしたに過ぎずとするもの、(2)イエスに弟子たちと共に宴席より退去せんことを要求せりとするもの(B1)、(3)イエスにその宴席の無聊 を補うべく説教を為すことを要求せるもの解するもの(C1)等があるけれども適当でない。
2章4節 イエス
口語訳 | イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。 |
塚本訳 | イエスが言われる、「女の方、〃放っておいてください。〃わたしの栄光(を示す)時はまだ来ておりません。」 |
前田訳 | イエスはいわれる、「母上、何のご用ですか。まだわたしの時は来ていません」と。 |
新共同 | イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 |
NIV | "Dear woman, why do you involve me?" Jesus replied. "My time has not yet come." |
註解: イエスの母の無言の要求に直ちに応ずることをしなかった。イエスの行動は凡て神の御旨に従って為されたのであって、この点において彼と母との間に何の関係もなかった。マリヤはこのことを知るべきであった。イエスの御業は常に「我が時」すなわち父より示されて彼の為すべき時が来た場合に為されていた。我らも霊の欠乏は勿論、凡ての欠乏をイエスに訴うる時、もし時未だ至らざれば彼は直ちに我らの要求を充たし給わない。この場合において我らはイエスの母マリヤと共に「彼の時」至るまで望んで待たなければならない。
辞解
[をんなよ] 軽蔑の意味ではない。尊敬と愛情を含んでいる。ヨハ19:26も同様である。唯母マリヤはこの時よりその子イエスをもはや己の子として取扱うべきではなく、神の子として取扱うべきであることの苦き経験を味わい始めなければならなかった。
[我と汝と何の関係あらんや] 両者の間の無関係を示し、従って干渉を拒絶する語(マタ8:29辞解および引照参照)。
2章5節
口語訳 | 母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。 |
塚本訳 | 母は召使たちに言う、「〃なんでもこの方の言われるとおりにしてください。〃」 |
前田訳 | 母は召使いたちにいう、「何でも彼のいうとおりにしてください」と。 |
新共同 | しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 |
NIV | His mother said to the servants, "Do whatever he tells you." |
註解: 母マリヤはイエスの拒絶に会いつつもなおイエスがその愛する母の願いを絶対に拒絶することはなきことを直感したのであろう。その僕にイエスの命のままに行動すべきことを言いふくめた。立派な信頼の態度である。我らも我らの祈りが直ちに聴かれずとてもそのために神に背くきではない。かえって益々神の御旨に耳を傾け、その御旨を行いつつ、願いの聴かれる時を待たなければならない。神は愛なれば必ず我らの願いを聴き給う。
2章6節
口語訳 | そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。 |
塚本訳 | そこに、ユダヤ人の清めの(儀式の)ために、石の水瓶が六つ置いてあった。いずれも二、三メトレタ[八十から百二十リットル]入りであった。 |
前田訳 | そこにはユダヤ人の清めの風によって石の瓶が六つ置いてあった。おのおの二、三メトレタ入りであった。 |
新共同 | そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 |
NIV | Nearby stood six stone water jars, the kind used by the Jews for ceremonial washing, each holding from twenty to thirty gallons. |
註解: かく多量の水を葡萄酒に変ずることは不必要にして不合理であるとしてこの奇蹟の真実を疑う学者もあるけれども、キリストはこの奇蹟の質に重きを置き給うたのであって、その量は問題ではない。またキリストはこれによりてその豊なる力を示し祝宴の歓喜を助け給うたのであって、キリストは打算計量によりて行動し給わない。
辞解
[潔めの例] 食事の前後に手を洗うに用う。
2章7節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。 |
塚本訳 | イエスは召使たちに言われる、「水瓶に水をいっぱい入れよ。」口まで入れると、 |
前田訳 | イエスは彼らにいわれる、「瓶を水で満たせ」と。縁まで満たすと、 |
新共同 | イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 |
NIV | Jesus said to the servants, "Fill the jars with water"; so they filled them to the brim. |
2章8節 また
口語訳 | そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。 |
塚本訳 | 彼らに言われる、「さあ汲んで、宴会長に持ってゆきなさい。」彼らが持ってゆくと、 |
前田訳 | 彼らにいわれる、「今汲み出して宴会長に持って行くように」と。彼らはそうした。 |
新共同 | イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 |
NIV | Then he told them, "Now draw some out and take it to the master of the banquet." They did so, |
註解: かくのごとくして全然葡萄酒の元素を含まざる容器および材料をもってイエスは葡萄酒を造り給うた。神は平日は雨を降らせ、これを葡萄の樹の幹を通してその果実に送り、これより葡萄酒を造り給う。イエスはここにこの順序を略して一瞬の間に水を葡萄酒に変化し給うた(A2)。
辞解
[饗宴長 ] 給仕人長のごときもので料理の味を吟味する職。
2章9節
口語訳 | 料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで |
塚本訳 | 宴会長は酒になった水をなめてみて、──彼はその訳を知らなかったが、水を汲んだ召使たちは知っていた。──宴会長は花婿を呼んで |
前田訳 | 宴会長はぶどう酒になった水を味わったが、その由来がわからなかった。しかし、水を汲んだ召使いたちにはわかっていた。宴会長は花むこを呼んでいう、 |
新共同 | 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 |
NIV | and the master of the banquet tasted the water that had been turned into wine. He did not realize where it had come from, though the servants who had drawn the water knew. Then he called the bridegroom aside |
註解:饗宴長 のごとき料理道の達人であっても、イエスに近付き彼の命を守る者に比して無智であった。霊界の事柄につきてはイエスにある嬰児は、彼に従わざる学者より遥かに多くを知っている。
2章10節 『おほよそ
口語訳 | 言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。 |
塚本訳 | 言う、「だでれも初に良い酒を出し、酔がまわったところに悪いのを出すのに、あなたは、よくもいままで良い酒をとっておいたものだ。」 |
前田訳 | 「だれでもまずよいぶどう酒を出して、酔いがまわると悪いのを出すが、あなたは今までよい酒をとっておいてくれた」と。 |
新共同 | 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 |
NIV | and said, "Everyone brings out the choice wine first and then the cheaper wine after the guests have had too much to drink; but you have saved the best till now." |
註解: 宴会における普通の習慣として先によき葡萄酒をもって人を酔わしめ、その感覚の鈍れるのに乗じて悪しき葡萄酒を飲ましめる。これと同様に悪魔はまず人造のよきものをもって人の感覚を鈍らしめて後に人を悪に導いて行くのである。ゆえに人はこれを覚らない。イエスはこれに反して人造の手段の尽くる時、天よりのよきものを彼に与え給う。イエスが「我が時」と言い給いしはこれであった。饗宴長の語は驚愕と不可解とを示している。
2章11節 イエス
口語訳 | イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。 |
塚本訳 | イエスはこの最初の徴[奇蹟]をガリラヤのカナで行って、(神の子たる)その栄光をお現わしになった。弟子たちが彼を信じた。 |
前田訳 | この最初の徴をイエスはガリラヤのカナで行なって彼の栄光を現わされた。そして弟子たちは彼を信じた。 |
新共同 | イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。 |
NIV | This, the first of his miraculous signs, Jesus performed at Cana in Galilee. He thus revealed his glory, and his disciples put their faith in him. |
註解: 当初におけるイエスの二回のガリラヤ訪問は共観福音書に省略せられ、第四福音書にこれを補充している(ヨハ2:1−12。ヨハ4:3−54)。第二回の訪問の時にイエスは「第二の徴」を為し給うた(ヨハ4:54)。イエスの受肉が既に一大奇蹟であり、他の諸 の奇蹟は、この根本的奇蹟より発する光輝であった。ゆえに彼の栄光はかくして顕われたのである。弟子たちはこれを見て益々彼の神の子に在すことの確信を得、彼にその全き信頼を捧げた。(ヨハ1:35−52の信仰は初歩であり彼らここに始めて充分なる信頼に達した。)
要義 [葡萄酒の奇蹟の教訓]この奇蹟はイエスが一つの魔術を行い給えるにはあらずして、事実水を葡萄酒に変化せしめ給うたのであり、また飲酒のごとき不節制を奨励せんがための無用の奇蹟にあらずして、婚姻のごとき人生における最も重大なる祝宴を尊重してこれを共に祝い給う愛心の発露せる貴き御業であった。而してこの奇蹟の物語より学び得る教訓は(1)イエスは決して律法的禁慾主義者にあらず、人生における自然の歓びを喜び給う自由な、自然の子に在し給うと同時に、一方バプテスマのヨハネのごとき禁慾生活者をも尊重し給いて敢て彼の主張を曲げんとし給わず、彼をしてその使命を全うせしめ給いしこと。(2)イエスがその使命を行い、神の御旨に従い給う場合には肉親の母の命をすらもこれを超越し給いしこと。(3)イエスの力により水のごとき無味のものがよき葡萄酒に変化すると同じく、彼の霊によりて更生せる者は全く一変せる新たなる意義ある生涯に入ることができること。(4)サタンはよき物をもって人を誘いつつ遂に悪に陥れんとし、イエスは人をかかる状態より救い出してすべてのよき物をもって充たしめ給うこと、等である。
2章12節 この
口語訳 | そののち、イエスは、その母、兄弟たち、弟子たちと一緒に、カペナウムに下って、幾日かそこにとどまられた。 |
塚本訳 | そののちイエスは、母、兄弟たちおよび弟子たちとカペナウムに下り、数日そこに一しょにおられた。 |
前田訳 | こののちイエスは母と兄弟と弟子たちとカペナウムに下って、そこにしばらくとどまられた。 |
新共同 | この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。 |
NIV | After this he went down to Capernaum with his mother and brothers and his disciples. There they stayed for a few days. |
註解: マタ4:13参照。後にイエスは暫くの間このカペナウムに定住し給うた。カペナウムはガリラヤのユダヤ人の首都であった。
辞解
[兄弟] 古来三種の解釈がある。(1)ヨセフとマリヤとの間に生れしイエスの弟、(2)ヨセフの初婚の子でイエスの異母兄、(3)イエスの従兄弟でヨセフの兄弟クロパ(アルパヨ)の子。この中第一説が正しいであろう。 (参照聖句マタ1:25。ルカ2:7。マタ13:55。マコ6:3。ヨハ19:25。マタ27:56。マコ15:40。ルカ6:14−16等、なおヨハ19:42の附記2参照)
註解: イエスは二回エルサレムの宮を潔め給うた。ヨハネはその第一回目につき録し共観福音書は第二回目につきて録す(マタ21:12−13。マコ11:15−18。ルカ19:45−46)。
2章13節 かくてユダヤ
口語訳 | さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。 |
塚本訳 | ユダヤ人の過越の祭が近くなると、イエスは(弟子たちと)エルサレムに上られた。 |
前田訳 | ユダヤ人の過越の祭りが近かったのでイエスはエルサレムヘ上られた。 |
新共同 | ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 |
NIV | When it was almost time for the Jewish Passover, Jesus went up to Jerusalem. |
註解: 過越の祭においては多くのユダヤ人が各地方よりエルサレムに集った。従って彼の栄光を示し給うべき最も適当の場合であった。今やイエスは神の子メシヤとしての公生涯に入り給える以上は、その父なる神の宮が汚されるのを黙止することができなかった。これが彼をして次に記されるごとき行動を取らしめし所以である。
2章14節
口語訳 | そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、 |
塚本訳 | 宮の庭で牛や羊や鳩を売る者、また両替屋が坐っているのを見られると、 |
前田訳 | 宮で牛や羊や鳩を売るものや両替屋がすわっているのを見て、 |
新共同 | そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 |
NIV | In the temple courts he found men selling cattle, sheep and doves, and others sitting at tables exchanging money. |
註解: エルサレムの神殿は祭司の庭、イスラエル人(男子)の庭、婦人の庭および異邦人の庭に区画されていた。この異邦人の庭は最も外側にあり、ここに犠牲が捧げらるべき牛羊鳩などの諸動物の商人や、ローマの通貨をユダヤの納金(マタ17:24)なる半シケルすなわち2ドラクマと交換する両替商が商売を行っていた。
2章15節
口語訳 | なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、 |
塚本訳 | 縄で鞭をつくって、何もかも、羊も牛も宮から追い出し、両替屋の銭をまき散らし、その台をひっくり返し、 |
前田訳 | 縄で鞭を作って羊も牛もすべてを追い出し、両替屋の貨幣をまき散らし、机を倒し、 |
新共同 | イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 |
NIV | So he made a whip out of cords, and drove all from the temple area, both sheep and cattle; he scattered the coins of the money changers and overturned their tables. |
註解: 祭司長にも祭司にもあらざる一平民なるイエスがこの権威をもって彼らを逐い出し給いしことは、ユダヤ人の教権に対する決定的な挑戦であった。もしユダヤ人にしてイエスの神の子に在し給うことを信じたならば彼のこの権威に服従すべきであった。然るに彼らは彼を信ぜずして十字架に釘けたのである。イエスのこの行為の中にすでに彼の十字架が予示せられていた。
2章16節
口語訳 | はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。 |
塚本訳 | また鳩を売る者に言われた、「それをここから持ってゆけ。わたしの父上の家を商店にするな。」 |
前田訳 | 鳩を売るものにいわれた、「それを持ち去れ、わが父の家を商いの家にするな」と。 |
新共同 | 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 |
NIV | To those who sold doves he said, "Get these out of here! How dare you turn my Father's house into a market!" |
註解: 鳩をば牛羊のごとく逐い出し難いので彼らに口をもってこれを取り去るべく命じ給うた。
わが
註解: 「わが父」と言いてここにイエスは神の子として父なる神の宮を潔むる権威があることを公表し給うた。ルカ2:49参照。蓋し最も神聖清浄なるべき父なる神の宮が利害と掛引きの場所と化せるを見て、イエスはこれに堪え得なかったのである。同様に祭司パリサイ人らがユダヤの宗権を保持してこれによりて自己の利益を謀らんとすることも一の商売であって、これに対してもイエスは憤慨禁ずること能わず、これを逐い出さずにいることができないであろう。イエスは外形に表われし神殿の潔めを行って霊的の宮の潔めを暗示し給うた。▲神との間の霊的関係が基本であるはずの信仰が堕落すると、必ず利益中心の教権の世界と化してしまう。
2章17節
口語訳 | 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。 |
塚本訳 | (これを見て)弟子たちは、〃(神よ、)あなたの家に対する熱心が、わたしを焼きつくします〃と(詩篇に)書いてあるのを思い出した。 |
前田訳 | 弟子たちは、「あなた(神)の家への熱心がわたしを食いつくす」と聖書にあるのを思い出した。 |
新共同 | 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 |
NIV | His disciples remembered that it is written: "Zeal for your house will consume me." |
註解: 本節以下はイエスの宮潔めの御業の結果を示している。第一に弟子は詩篇(引照参照)を思い出し、詩篇にあらわれし義人はメシヤの預言であったことを知った。実に義人は神の家を思う熱心のために自己を食い尽くすに至るのであって、イエスはその父なる神の家を思うことの切なる結果己を十字架に釘け給うたのである。
2章18節 ここにユダヤ
口語訳 | そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。 |
塚本訳 | するとユダヤ人が口を出した、「あなたはこんなことをするが、(その権威を証明するために、)どんな徴[奇蹟]をして見せることができるのか。」 |
前田訳 | ユダヤ人は彼にいった、「こんなことをして、どんな徴をわれらに示せるのか」と。 |
新共同 | ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 |
NIV | Then the Jews demanded of him, "What miraculous sign can you show us to prove your authority to do all this?" |
註解: ユダヤ人は外的徴(奇蹟)なしにはイエスをメシヤと信じることができなかった。彼らの良心はイエスの御言と御業によって刺されつつも、彼らはその良心の直感を掩い隠して、従来の伝説に従い外的の徴を求めた。然らざればイエスが宮を潔める権威を持ち給うことを彼らは信ずることができなかった。「ユダヤ人」ヨハ1:19辞解参照。
2章19節
口語訳 | イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。 |
塚本訳 | イエスは答えられた、「このお宮をこわせ、三日で造ってみせるから。」 |
前田訳 | イエスは答えられた、「この宮をこわせ、三日でわたしが建てなおそう」と。 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 |
NIV | Jesus answered them, "Destroy this temple, and I will raise it again in three days." |
註解: この不可解にして実行不能に見ゆる答は、いかにユダヤ人らを驚かしたことであろうか。ユダヤ人は勿論、弟子たちすらその当時この御言の意味を解することができなかった。然るに実際はこの御言によりイエスは自らを神の宮と呼び、エルサレムの神殿はイエスの型であることを意味し給うたのであった。ユダヤ人が神の宮を商売の家となし、ユダヤの教権を射利の具に供していた結果、事実この宮は霊的意味において既に壊たれていると同じであった。イエスはその代りに真の神の宮を建てんがために来給うたのである。然のみならずこの事実がやがてイエスの肉体の上にあらわれて来ることをイエスは予知し給い、かかる挑戦的の言を発し給うたのである。ユダヤ人は勿論石にて造れる宮を壊つことをしなかったけれども肉の宮なるイエスを十字架に釘けた。彼らはイエスのこの御言をもって涜神的なりとして彼を訴える理由となしておりながら(マタ26:61。マコ14:58)、彼ら自身イエスを十字架に釘けまつることによりて真の神の宮を壊ち、かえって大なる涜神的行為を犯したのである。しかもイエスは三日目に甦り給うてこの預言を実現し給うた(ヨハ10:18)。この謎のごときイエスの御言の中に神の御経綸の深き奥義が蔵されているのであってユダヤ人は到底これを悟ることができなかった。▲▲本節および20、21節で「宮」を口語訳で「神殿」と訳したことは正しい。マタ23:16の脚注参照。
2章20節 ユダヤ
口語訳 | そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。 |
塚本訳 | ユダヤ人が言った、「このお宮を建てるには四十六年もかかったのに、あなたは三日で造るというのか。」 |
前田訳 | ユダヤ人はいった、「この宮は四十六年かかって建ったのに、あなたは三日で建てなおすのか」と。 |
新共同 | それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 |
NIV | The Jews replied, "It has taken forty-six years to build this temple, and you are going to raise it in three days?" |
註解: 彼らはこの御言を解することができずして嘲弄と非難とをイエスに浴びせた。
辞解
[四十六年] 当時建築中なりしエルサレムの神殿はヘロデ王治世の十八年、すなわち西暦紀元前二十年に建て始めたのであった。従ってこの事件は紀元二十五、六年頃ならん。
2章21節 これはイエス
口語訳 | イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。 |
塚本訳 | しかしイエスは自分の体のことを宮と言われたのであった。 |
前田訳 | 彼がいわれたのはおのが体の宮についてである。 |
新共同 | イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 |
NIV | But the temple he had spoken of was his body. |
註解: 「をさして」は原語「について」であってイエスは己が体を指して語り給うたのではない。己が体の型なるエルサレムの宮を指すことによって己が体の宮を意味し給うたのである。信仰をもって神の言を読みまたは聴く者のみ、それがイエス御自身を示していることを覚ることができるのである。
2章22節
口語訳 | それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。 |
塚本訳 | だから死人の中から復活された時、弟子たちはこう言われたことを思い出して、聖書とイエスの言われた言葉と(が本当であること)を信じた。 |
前田訳 | 彼が死人の中から復活されたとき、弟子たちはかくいわれたことを思い出し、聖書とイエスのいわれたことばとを信じた。 |
新共同 | イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。 |
NIV | After he was raised from the dead, his disciples recalled what he had said. Then they believed the Scripture and the words that Jesus had spoken. |
註解: イエスが事実三日目に甦り給うまでは聖書の預言も(イザ53章、ホセ6:2、預言者ヨナ)イエスのこの御言も弟子たちはこれを真の意味に信ずることができなかった。
要義1 [宮潔めの意義]エルサレムの神殿はイエスにとっては「わが父の家」(ヨハ2:16。ルカ2:49)であった。父なる神の家には父の御心に叶わざるものは一つだに存在を許されないのは当然である。イエスは宮潔めによりてこの当然なる事柄を行い給うたのである。しかしながらイエスがこれにより唯宮を外部的に潔めんとし給うに過ぎないと見るならばこれは誤りである。イエスは神の宮をもって代表せられしユダヤの神政が形式主義、貪慾主義のために汚されているのを見るにたえなかった。それ故にこの外部的行動によって、やがて彼ら祭司、パリサイ人らもみなかかる審判に遭うであろうことを示し給うたのである。今日のキリスト教会といえどももしそれが商売の家となってしまうならば、イエスはかかる審判を行い給うであろう。
要義2 [神の怒り]神は怒り給わないと思うのは誤りである。神の怒りは凡ての不虔不義に対して必ずあらわれるのであって免れることができない(ロマ1:18)。神を怒らざるごとくに考えるのは人間の愛と神の愛との混同である。古よりかかる誤れる思想がキリスト教会の中に常に入っていた。神は怒るべきものに対してはその全憤怒をあらわし給う。ただ神は愛をもってその独り子を十字架につけてまでも我らを救わんとし給う。この怒りと愛との双方に徹底し給うは唯神のみである。而してこの神は怒ること遅く恩恵を施して千代に及ぶ神に在し、恩恵は遂に溢れて怒りに打勝つのである。
2章23節
口語訳 | 過越の祭の間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。 |
塚本訳 | 過越の祭の時エルサレムにおられる間に、多くの人がイエスの行われたかずかずの徴[奇蹟]を見て、その名を信じた。 |
前田訳 | 過越の祭りのときエルサレムにおられる間に、彼のなさった徴を見てその名を信ずる人が多かった。 |
新共同 | イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 |
NIV | Now while he was in Jerusalem at the Passover Feast, many people saw the miraculous signs he was doing and believed in his name. |
註解: 宮においてその権威を示し給える後、イエスはエルサレムの邑に在りて過越の祭の期間、そこに集い来れる各地方の人々に多くの奇蹟を示し(ヨハ3:2。ヨハ4:45)また多くの教訓を与え給うた(ヨハ3:1−21はその中の一例であろう)。その結果多くの人々は彼の行い給える徴を見て信じたとのことである。しかしかかる信仰は真の深き信仰ではない。真の信仰はイエスの中に輝く道徳的栄光を見て彼を信ずる道徳的関係である。従って単に外的の奇蹟を見て信ずる彼らの信仰は地的メシヤを待望む心より生ぜしユダヤ的、地的信仰であって、「彼らの内面生活をイエスにささげんとの決心に達していなかった」(M0)。
口語訳 | しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、 |
塚本訳 | しかしイエスの方では、彼ら(の信仰)を信頼されなかった。彼にはだれでもわかり、 |
前田訳 | しかし、イエス自身は彼らを皆知っておられたので彼らを信頼されなかった。 |
新共同 | しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 |
NIV | But Jesus would not entrust himself to them, for he knew all men. |
註解: イエスは彼らを信用しなかった。もしイエスが己を彼らに任せ給いしならば、彼らはイエスをイスラエルの救い主とし、この世の王として地上の国を建てしめんとしたであろう。
辞解
[任せ] 「信ずる」と同字。
それは
2章25節 また
口語訳 | また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。 |
塚本訳 | また人のことをだれからも教えてもらう必要がなかったのである。自分で人の心の中がわかったからである。 |
前田訳 | 彼は人についての証を要されなかった。彼自身人のうちに何があるかを知っておられたから。 |
新共同 | 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。 |
NIV | He did not need man's testimony about man, for he knew what was in a man. |
註解: イエスはその霊眼をもって万人を知悉 し、かつ人の心の中にいかなるものが潜んでいるかを知り給うた。すなわち今は彼を信ずるがごとくに見ゆる彼らの中にも、やがては彼に叛 き彼を殺さんとするに至る心が存している(ヨハ5:16、ヨハ5:18。ヨハ7:1)ことをイエスは何人の証言をも要せずして知悉 し給うたから、彼を己を人に任せ給わなかったのである。もしイエスが普通の野心家や、普通の宗教家であったならば、彼はこの機会を利用して群衆の指導者となり、宗教改革家としてその名を揚げんと試みたことであろう。