黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ヨハネ伝

ヨハネ伝第20章

分類
5 イエスの復活 20:1 - 21:23
5-1 ユダヤに於ける顕現 20:1 - 20:31
5-1-1 空虚なる墓 20:1 - 20:10

20章1節 一週(ひとまはり)のはじめの()[引照]

口語訳さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
塚本訳(翌々日、すなわち)週の初めの日(日曜日)の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に来てみると、墓(の入口)から石がのけてあった。
前田訳週の第一日に、マグダラのマリヤが朝早く、まだ暗いうちに墓に来て、墓から石が移されているのを見た。
新共同週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
NIVEarly on the first day of the week, while it was still dark, Mary Magdalene went to the tomb and saw that the stone had been removed from the entrance.
註解: すなわち安息日終りて日曜日、キリスト者が日曜日礼拝を行うに至りし原因。マタ28:1参照。

(あさ)まだき(くら)きうちに、マグダラのマリヤ(はか)にきたりて、(はか)より(いし)取除(とりのぞ)けあるを()る。

註解: 多くの悩みより救われしマグダラのマリヤは(ルカ8:2マコ16:9)イエスに関する懐かしき追憶に耐えず、心ゆくばかりその墓前に泣きかつ祈らんがために、未だ日の昇らざる前に墓に赴いたのであろう。なお彼らはイエスの屍に香料を塗らんがために準備していた(マコ16:1)。ヨハネ伝に唯このマリヤのみを記して他の婦人(マタ28:1マコ16:1ルカ24:10)につき記さない理由は、一同が必ずしも同一行動を取ったのではなく(マコ16:2)、従ってヨハネは他の婦人に関する記事を省略したのであろう。

20章2節 (すなは)(はし)りゆき、シモン・ペテロ(の(もと))とイエスの(あい)(たま)ひしかの弟子(でし)[と]の(もと)(いた)りて()ふ『たれか(しゅ)(はか)より取去(とりさ)れり、何處(いづこ)()きしか(われ)()らず』[引照]

口語訳そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。
塚本訳そこでシモン・ペテロと、イエスが可愛がっておられたもう一人の弟子との所に走って行って言う、「主を墓から取っていった者があります。どこに置いたのかわかりません。」
前田訳そこで走ってシモン・ペテロとイエスの愛されたもうひとりの弟子のところへ来ていう、「主が墓から移されました。どこに置かれたかわかりません」と。
新共同そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
NIVSo she came running to Simon Peter and the other disciple, the one Jesus loved, and said, "They have taken the Lord out of the tomb, and we don't know where they have put him!"
註解: 共観福音書の記事は多くの婦人と十一弟子とのこの場合の行動を総括して簡略に記しているけれども、ヨハネ伝にはマグダラのマリヤとペテロ、ヨハネの行動の詳細を記載している。これヨハネの目撃者としての実録である。「我ら」と言いてマリヤのみにあらず他の婦人もこれを目撃していることを暗示している。ペテロとヨハネ(イエスの愛し給いし弟子)とに告げたのは彼らが弟子の首位を占めていたから。「の許に」を反復したのは二人に別々に話したからである(B1、G1)。

20章3節 ペテロと、かの弟子(でし)といでて(はか)にゆく。[引照]

口語訳そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。
塚本訳そこでペテロはもう一人の弟子と飛び出して、墓へと急いだ。
前田訳そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて墓に行った。
新共同そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
NIVSo Peter and the other disciple started for the tomb.

20章4節 二人(ふたり)ともに(はし)りたれど、かの弟子(でし)ペテロより()(はし)りて(さき)(はか)にいたり、[引照]

口語訳ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、
塚本訳二人とも(始めのほどは)一しょに走っていたが、もう一人の弟子の方が(年が若かったので、)ペテロより早く走っていって、先に墓に着いた。
前田訳ふたりは並んで走っていたが、ひとりの弟子がペテロを走り越して、先に墓に来た。
新共同二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
NIVBoth were running, but the other disciple outran Peter and reached the tomb first.
註解: 二人とも走りたるを見ればマリヤの報告に非常に驚いたことがわかる。ヨハネが先に墓に到着したのは彼が若くして体力が優っていたことを示している。その事件の当事者にあらざれば、かかる微細の点に(わた)って真を穿(うが)つことは困難である。

20章5節 (かが)みて(ぬの)()きたるを()れど、(うち)には()らず。[引照]

口語訳そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。
塚本訳身をかがめると、(墓の中に)亜麻布があるのが見えたが、それでも中には入らなかった。
前田訳かがむと亜麻布が置いてあるのが見えた。しかし中には入らなかった。
新共同身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
NIVHe bent over and looked in at the strips of linen lying there but did not go in.
註解: 思慮深き敏感なるヨハネは薄気味悪き墓の中に入ることを躊躇していた。

20章6節 シモン・ペテロ(のち)(きた)り、(はか)()りて(ぬの)()きたるを()[引照]

口語訳シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、
塚本訳続いてシモン・ペテロも来た。彼は墓に入り、亜麻布が(そのままそこに)あるのを見た。
前田訳つづいてシモン・ペテロも来た。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
新共同続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
NIVThen Simon Peter, who was behind him, arrived and went into the tomb. He saw the strips of linen lying there,

20章7節 また(かうべ)(つつ)みし手拭(てぬぐひ)(ぬの)とともに()らず、(ほか)のところに()きてあるを()る。[引照]

口語訳イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。
塚本訳また頭をつつんだ手拭は亜麻布と一しょになく、これだけ別の所に、包んだまま(の形)になっていた。
前田訳頭にかけた手拭も見たが、それは亜麻布といっしょには置いてなく、それだけでひとところにまるめてあった。
新共同イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
NIVas well as the burial cloth that had been around Jesus' head. The cloth was folded up by itself, separate from the linen.
註解: ペテロは老年のため走ることには後れたけれども、その直情径行の性質が(あら)われて直ちに墓の中に飛び込んだ。このヨハネとペテロの性格の微妙なる顕われが、ここに巧みに描き出されていることに注意せよ。而して身体を包みし布が置かれしことおよび手拭を巻きあることは、そこに屍体の盗去のごとき急激なる事件がなく、静かにこの変化が行われしことを想像せしめる。ゆえに「見る」「視る」 theôreô なる文字を用いて、これを眺めて思いに耽ったことを示している。

20章8節 (さき)(はか)にきたれる(かれ)弟子(でし)もまた()り、(これ)()(しん)ず。[引照]

口語訳すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。
塚本訳すると先に墓に着いたもう一人の弟子も入ってきて、見て、信じた。
前田訳そこへ先に墓に来たもうひとりの弟子も入って、それを見て、信じた。
新共同それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
NIVFinally the other disciple, who had reached the tomb first, also went inside. He saw and believed.

20章9節 (かれ)らは聖書(せいしょ)(しる)したる、死人(しにん)(うち)よりその(よみが)へり(たま)ふべきことを(いま)(さと)らざりしなり。[引照]

口語訳しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。
塚本訳イエスは死人の中から復活されねばならないという聖書の言葉が、(この時まで)まだ彼らにわかっていなかったのである。
前田訳「彼は死人の中から復活されねばならぬ」という聖書のことばが、彼らにはまだわからなかったのである。
新共同イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
NIV(They still did not understand from Scripture that Jesus had to rise from the dead.)
註解: この9節は「そは彼らは彼の死人の中より甦り給うべきことを録せる聖書を未だ悟らざりければなり」と訳すべきである。ヨハネはイエスの墓の空虚なることとその布や手拭の状態を見て、始めてマリヤの言う処の真なることを信じた。ペテロは先に墓に入りて凡てを見たけれども、ヨハネはこの時までマリヤの言を信ぜずにいたのである。彼らはもしキリストの復活に関する聖言(詩16:10詩110:1イザ53:8その他のごとき)を悟っていたならば、その墓の空虚となるべきことは当然のことと信じ得たであろう。然るにこれを見て始めてその空虚なる事実を信じたのは彼らが聖書を悟らなかった証であった。(▲ただし聖書の真の意味は聖霊を賜わることによって始めて把握し得るのであるから、この時まで弟子が聖書を悟れなかったのは止むを得ない事実であった。)この「信ぜり」を多くの学者(A1、C1、D0、E0、G1、M0、Z0その他)はキリストの復活したことを信じた意味に解しているけれども、かく解する時は彼らがあまりに歓喜が少なきこと(10節、19節)、およびマリヤにこのことを語らざることが不可解であり、また17節のイエスの命令およびルカ24:12ルカ24:24マコ16:11等より見てペテロ、ヨハネがなお未だイエスの復活を信ぜず唯マリヤの言を信ぜしものと見、9節はその理由の説明と見るを可とする(A2、B1、L1、S3等少数の学者らはこの解を取る)。

20章10節 (つい)二人(ふたり)弟子(でし)おのが(いへ)にかへれり。[引照]

口語訳それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
塚本訳それから二人の弟子は家にかえった。
前田訳それで彼らはまた家路についた。
新共同それから、この弟子たちは家に帰って行った。
NIVThen the disciples went back to their homes,
註解: 驚きと不可解の感情とに充たされ、かつ彼らの心はまさに偉大なる啓示が与えられんとする前のごとき予感に支配せられつつ家路をたどったのであろうと想像せられる。

5-1-2 イエス、マリヤに現はれ給う 20:11 - 20:18

20章11節 ()れどマリヤは(はか)(そと)()ちて()()りしが、()きつつ(かが)みて(はか)(うち)()るに、[引照]

口語訳しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
塚本訳(二人について来ていた)マリヤは(ひとり)墓の外に立って泣いていた。(二人が去ったあと、)泣きながらかがんで墓の中をのぞくと、
前田訳マリヤは墓の外に立って泣いていた。泣きながら、墓にかがみ込むと、
新共同マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
NIVbut Mary stood outside the tomb crying. As she wept, she bent over to look into the tomb
註解: マリヤはなお未だキリストの甦り給えることを知らず、イエスの屍体に塗らんとて求めし香料(マコ16:1ルカ24:1)を空しく懐きつつ、無残の最後を遂げ給いし主を追想して泣いていた。人間の死はもし復活の希望がないならば唯悲しみのみを与えるに過ぎない。マリヤのこの態度はそこに一点も信仰の要素を含まざる純人間的の感情であった。美わしくはあるが(とうと)さがない。なお他の婦人たちもそこにいたのであろう。

20章12節 イエスの屍體(しかばね)()かれし(ところ)に、(しろ)(ころも)をきたる二人(ふたり)御使(みつかひ)(かうべ)(かた)にひとり(あし)(かた)にひとり()しゐたり。[引照]

口語訳白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
塚本訳白い衣をきた二人の天使が、一人はイエスの体が置いてあった所の頭の方に、一人は足の方に坐っているのが見えた。
前田訳白い装いの天使がふたり、ひとりはイエスの体が置かれていたところの頭のほうに、ひとりは足のほうにすわっているのが見えた。
新共同イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
NIVand saw two angels in white, seated where Jesus' body had been, one at the head and the other at the foot.
註解: マタ28:2に「一人の天使」とあり、マコ16:5に「一人の若者」とあり、ルカ24:4に「二人の人」とあり各々異なっている。かかる異象が現われし特別の機会に悲しみの中に陥れる数人の婦人は各々その全景を目撃し難かったであろう。従って種々の異なる伝説が伝わるに至った。これを強いて調和せんと試みる必要もなく、またこの不調和をもってこの事実を否定することができない。また何故にペテロ、ヨハネに見えざりしかを問う必要もない。天の使いは必要なる者に自己を示す。

20章13節 (しか)してマリヤに()ふ『をんなよ、(なに)()くか』マリヤ()ふ『(たれ)かわが(しゅ)取去(とりさ)れり、何處(いづこ)()きしか(われ)しらず』[引照]

口語訳すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
塚本訳天使がマリヤに言う、「女の人、なぜ泣くのか。」マリヤが言う、「わたしの主を取っていった者があります。どこに置いたのかわかりません。」
前田訳彼らはマリヤにいう、「女の人、なぜ泣くのか」と。彼女はいう、「わが主が移されて、どこに置かれたかわからないからです」と。
新共同天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
NIVThey asked her, "Woman, why are you crying?" "They have taken my Lord away," she said, "and I don't know where they have put him."
註解: マリヤの心は全くその悲しみに占領せられて己に語れる者の誰たるかをすら(わきま)えず、ただその思いのままを答えた。単純なる記述の中に深き意義を蔵しているのを見よ。

20章14節 かく()ひて(のち)振反(ふりかへ)れば、イエスの()居給(ゐたま)ふを()る、されどイエスたるを()らず。[引照]

口語訳そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
塚本訳こう言って後を振り向くと、イエスがそこに立っておられるのが見えた。しかしイエスだとは気づかなかった。
前田訳こういいながらうしろを向くと、イエスが立っておられるのが見えた。しかしそれがイエスとは気づかなかった。
新共同こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
NIVAt this, she turned around and saw Jesus standing there, but she did not realize that it was Jesus.
註解: 復活のイエスの御姿は肉のイエスとは異なっている点が有った。マリヤのみならず他の弟子たちも直ちに彼を認識することができなかった。ヨハ21:4ルカ24:13−31。マコ16:12

20章15節 イエス()(たま)ふ『をんなよ、(なに)()く、(たれ)(たづ)ぬるか』マリヤは園守(そのもり)ならんと(おも)ひて()ふ『(きみ)よ、(なんぢ)もし(かれ)取去(とりさ)りしならば、何處(いづこ)()きしかを()げよ、われ引取(ひきと)るべし』[引照]

口語訳イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
塚本訳イエスが言われる、「女の人、なぜ泣くのか。だれをさがしているのか。」マリヤはそれを園丁だと思って言う、「あなた、もしあなたがあの方を持っていったのだったら、どこに置いたか教えてください。わたしが引き取りますから。」
前田訳イエスは彼女にいわれる、「女の人、なぜ泣くのか。だれを探しているのか」と。彼女は園丁と思っていう、「あなた、もしあなたがあの方をお運びでしたら、どこにお置きかおっしゃってください。わたしがお引き取りします」と。
新共同イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
NIV"Woman," he said, "why are you crying? Who is it you are looking for?" Thinking he was the gardener, she said, "Sir, if you have carried him away, tell me where you have put him, and I will get him."
註解: イエスの御言は悲しむ者を慰め、その心を彼に導き給う。もし人の死に遭いて悲しむ者があるならばその人は復活のイエスを求むべきである。然らばイエスは彼の傍らに立ちて彼を慰め給うであろう。マリヤの答は13節と同じく唯主の肉の体の恢復に余念なきことを示している。しかしながら我らは肉によりてキリストを知る必要はない。霊の体に甦り給えるキリスト者を得るならば、それに優ったことはないことを知らなければならない。

20章16節 イエス『マリヤよ』と()(たま)ふ。マリヤ振反(ふりかへ)りて『ラボニ』(()けば()よ)と()ふ。[引照]

口語訳イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
塚本訳(こう言って、また墓の方を向いていると、)イエスが「マリヤ!」と言われる。マリヤが振り向いて彼に、ヘブライ語で「ラボニ!(すなわち「先生!」)と言う。(そしてイエスに抱きつこうとした。)
前田訳イエスが彼女にいわれる、「マリヤ」と。彼女は振り向いてヘブライ語でいう、「ラボニ(訳せば先生)」と。
新共同イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
NIVJesus said to her, "Mary." She turned toward him and cried out in Aramaic, "Rabboni!" (which means Teacher).
註解: マリヤにとって何物よりも慕わしかりし主の御声をききてマリヤは直ちにこれに応じて「師よ」と答えた。マリヤの歓喜は如何ばかりであったろうか。彼女は直ちにその御前に平伏し御足をいだかんとした(次節、マタ28:9)。かくのごとくにイエスの御声に接し、かくのごとく答うることを得る者は幸いである。

20章17節 イエス()(たま)ふ『われに()るな、(われ)いまだ(ちち)(もと)(のぼ)らぬ(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
塚本訳イエスが言われる、「わたしにすがりつくな。まだ父上の所に上っていないのだから。わたしの兄弟たち(弟子たち)の所に行って、『わたしは、わたしの父上、すなわちあなた達の父上、わたしの神、すなわちあなた達の神の所に上る』と言いなさい。」
前田訳イエスはいわれる、「わたしにさわるな。まだ父のところに上っていないから。わが兄弟たちのところへ行って、『わたしは、わが父であなた方の父、わが神であなた方の神のところへ上る』と告げよ」と。
新共同イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
NIVJesus said, "Do not hold on to me, for I have not yet returned to the Father. Go instead to my brothers and tell them, `I am returning to my Father and your Father, to my God and your God.'"
註解: マリヤは喜びの余り主イエスが十字架に懸かり給う以前のイエスと同一なりや否や等を考察する余裕もなく、唯何の思慮もなく、己を忘れてその愛せしイエスに触れんとしたのであろう。学者によりこのイエスが果して以前の肉体をもって甦り給えるのか、また単に霊であって肉体は一つの幻に過ぎざるかを確めんために、マリヤが彼に触れんとしたのであると解しているのは(M0)、この場合のマリヤをあまりに冷静に見過ぎている嫌いがある。イエスの答の意味は、マリヤの求むる者は地上におけるイエスとの交わりであるが、イエスの与えんとし給うものは、父の御許に昇り給いしイエス、すなわち父の御許より聖霊を賜わり聖霊によりて彼を信ずる者の中に永遠に留まり給うイエスとの交わりであることを示す(ヨハ14:16−20)。ゆえに父の御許に昇り給わざる現在のイエスとの交わりを持ち続けんことを欲するマリヤの態度を斥け給うたのである。(このイエスの答につきては多くの異なる解釈あり。G1参照)

()兄弟(きゃうだい)たちに()きて「(われ)はわが(ちち)すなはち(なんぢ)らの(ちち)、わが(かみ)すなはち(なんぢ)らの(かみ)(のぼ)る」といへ』

註解: 「父」は愛の対象としての神であり、「神」は服従の対象としての父である。ここにイエスは父の許に昇り給うことを弟子たちに告げしめ、かつこのことは弟子たちを捨てて単にイエス一人そこに赴き給う意味にあらずして、イエスの昇天により父なる神は同時に凡てのキリスト者に対して、イエスにおけると同じく父となりまた神となり給うことを示したのである。それ故にイエスはその弟子たちを「我が兄弟」と呼び給うた(ロマ8:29ヘブ2:11、12、ヘブ2:17)。すなわちイエスの昇天により神と人との霊の交わりは全く新たな状態に入ったのである。

20章18節 マグダラのマリヤ()きて弟子(でし)たちに『われは(しゅ)()たり』と()げ、また云々(しかじか)(こと)()(たま)ひしと()げたり。[引照]

口語訳マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。
塚本訳マグダラのマリヤは行って弟子たちに、「わたしは主にお目にかかった」、また、主がこのことを彼女に言われた、と報告した。
前田訳マグダラのマリヤは弟子たちのところへ行って、主を見たこと、これらを主がいわれたことを告げた。
新共同マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
NIVMary Magdalene went to the disciples with the news: "I have seen the Lord!" And she told them that he had said these things to her.
註解: 前節に主イエスがその復活を弟子たちに告ぐべく命じ給わなかった所以は、マリヤが勿論これを告ぐることを知り給うたからである。
要義 [復活の記事に就いて]以上の本文および註のみによっても明らかであるごとく、復活の記事としてはヨハネ伝が最も優れており、凡ての事実を網羅してはいないけれども、記されし事実そのものは最も事実の真相を示しており、真の目撃者の筆になっていることを示している。ヨハネ、ペテロ、マリヤ、その他後に記されるトマス等の性格がこの簡単なる記事の中に生き生きとして現われていることは、本書の価値を無限に高めるに足るものであり、たとえ一見共観福音書と一致せざる多くの記事があるにしても、この不一致は互いに相補足して一つの復活史を成しているのであって、この不一致がこのヨハネ伝の記事の歴史的価値を傷つけることは絶対に不可能である。

5-1-3 イエス弟子たちに現はれ給う 20:19 - 20:23

20章19節 この()すなはち一週(ひとまはり)のはじめの()(ゆふべ)弟子(でし)たちユダヤ(びと)(おそ)るるに()りて、()るところの()()ぢおきしに、イエスきたり(かれ)らの(うち)()ちて()ひたまふ『平安(へいあん)なんぢらに()れ』[引照]

口語訳その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
塚本訳その日すなわち週の初めの日の晩であった。ユダヤ人を恐れて、弟子たちのおる部屋の戸には(皆)鍵がかけてあったのに、イエスが(どこからともなく)はいって来て(彼らの)真中に進み出て、「平安あれ」と言われた。
前田訳その日、すなわち週の第一日が夕方になって、弟子たちのいるところにはユダヤ人をおそれて戸に鍵がかけてあったが、イエスは入って彼らの真ん中に立ち、「ごきげんよう」といわれる。
新共同その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
NIVOn the evening of that first day of the week, when the disciples were together, with the doors locked for fear of the Jews, Jesus came and stood among them and said, "Peace be with you!"
註解: この一日中にイエスはマグダラのマリヤのみならず(16節)、エマオに赴く二人の弟子(ルカ24:13−32。マコ16:12、13)およびペテロ(ルカ24:34)に現れ、またこの記事のごとき顕現があった(ルカ24:36以下。マコ16:14はこの記事に相当する)。ユダヤ人を懼れたのはイエスに対する迫害が彼らにも及ばんことを恐れたからであった。イエスの復活体はあたかも純霊体と肉体との間の過渡期にあったごとくに見える(ヨハ20:26−28節。ルカ24:25−30、ルカ24:43)。閉じたままの戸が開かずにイエスがそこに現れ給うたのであった。如何なる物質も彼の通過を妨げることができなかった。(ルカ24:31参照)。「平安なんぢらに在れ」はユダヤ人の間に今日もなお行われている普通の挨拶の語であるけれども、イエスはこれを一層深き意義に用い、主すでに十字架に懸り今は甦りまさに神の右に昇らんとしつつあり給う以上、彼らの罪は凡て赦され、悪魔はすでに敗北し、死は亡ぼされ、やがて神の栄光に入るべき望みが与えられたのであって、この世の迫害も困難も彼らを懼れしむるに足らず、彼らは全き平安を味わうことを得るに至ったことを示し給うたのである。

20章20節 ()()ひてその()(わき)とを()せたまふ、弟子(でし)たち(しゅ)()(よろこ)べり。[引照]

口語訳そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
塚本訳そしてそう言いながら、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
前田訳こういいながら手と脇とをお見せになった。弟子たちは主を見てよろこんだ。
新共同そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
NIVAfter he said this, he showed them his hands and side. The disciples were overjoyed when they saw the Lord.
註解: イエスの顕現は最初にその弟子たちを驚駭と怪異の情をもって充たしたことであろう。それ故にイエスはその手と脇との傷跡を示してそのイエスなることを明らかにし給う。ここにおいて弟子たちの心の中にはあたかも暗黒の夜に曙の光が輝き初めしごとく大なる喜びがその心に湧き出づるに至った。この喜びは理論や神学や知識によりて来らず復活の主に見えし事実より来る。

20章21節 イエスまた()ひたまふ『平安(へいあん)なんぢらに()れ、(ちち)(われ)(つかは)(たま)へるごとく、(われ)(また)なんぢらを(つかは)す』[引照]

口語訳イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
塚本訳すると主はかさねて言われた、「平安あれ。父上がわたしを遣わされたように、わたしも(全権を授けて)あなた達を遣わす。」
前田訳イエスはまたいわれた、「ごきげんよう。父がわたしをおつかわしのように、わたしもあなた方をつかわす」と。
新共同イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
NIVAgain Jesus said, "Peace be with you! As the Father has sent me, I am sending you."
註解: イエスは同一の語「平安なんぢらに在れ」を繰返し給いて、キリストの残し給う平安の如何に大切であるかを示し、次にこの平安を基礎として彼らを伝道に遣わし給うたのである。而して復活の後始めて彼らに現れ給いしこの時に彼らにこの使命を授けられしことは、彼らをしてその使命が天につけるものなることを知らしめ、かつイエスの復活の証人ならしめた(使1:22)。

20章22節 ()()ひて、(いき)()きかけ()ひたまふ『(せい)(れい)をうけよ。[引照]

口語訳そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
塚本訳こう言いながら彼らに息を吹きかけて、言われる、「聖霊を受けよ。
前田訳こういいながら彼らに息を吹きかけていわれる、「聖霊を受けよ。
新共同そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
NIVAnd with that he breathed on them and said, "Receive the Holy Spirit.
註解: 使命を授けて後これを果すべき力を与え給う。この力は聖霊である。而して昇天後のイエスは弟子たちをして使命を果さしめんがために、ペンテコステの日に聖霊を豊かに上より注ぎ給いしごとく、昇天前のイエスはまず弟子たちをしてその使命に立ち上らしめんがためにその聖霊の幾分を初穂として彼らに注ぎ給うた。

20章23節 なんじら(たれ)(つみ)(ゆる)すとも()(つみ)ゆるされ、(たれ)(つみ)(とど)むるとも()(つみ)とどめらるべし』[引照]

口語訳あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。
塚本訳人の罪は、あなた達が赦してやれば赦されて消え、赦してやらねば赦されずに残る。」
前田訳人の罪はあなた方がゆるせばゆるされ、ゆるさねばそのまま残ろう」と。
新共同だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
NIVIf you forgive anyone his sins, they are forgiven; if you do not forgive them, they are not forgiven."
註解: 弟子たちはその与えられし権威をもって福音を宣伝うる時彼らは天国の鍵を握っている。而して福音の主なる目的は人の罪を赦すに在るのであって、使徒らがこの福音を宣伝うる時これを聴く者が単にこれを人の声として聴くことなく神の言として聴く必要があるので、神は使徒にこの権を授け給うたのである。ゆえに使徒の言により福音を信じて罪の赦しを受けしものは天国においてその罪赦され、信ぜざるものはその罪とどめられて審判に至る(マタ16:19)。而してこの権威は一般の信徒にも与えられている(マタ18:18)のであって、ペテロの直系と自称するローマ法王の独占ではない。ただしこの権はキリスト者の人間としての固有の権ではなく、またある制度によりて与えられる権でもなく、聖霊によりて福音を宣伝う者のその行為に付随する権である。ゆえにかかる福音の使者を拒む者は神を拒むものである。

5-1-4 トマスの不信と其の改信 20:24 - 20:29

20章24節 イエス(きた)(たま)ひしとき、十二(じふに)弟子(でし)一人(ひとり)デドモと(とな)ふるトマスともに()らざりしかば、[引照]

口語訳十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
塚本訳十二人の一人で、トマスすなわちギリシャ語でデドモ(二子)は、イエスが来られた時、みんなと一しょにいなかった。
前田訳十二人のひとりでデドモ(二子)ことトマスは、イエスが来られたとき彼らといっしょにいなかった。
新共同十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
NIVNow Thomas (called Didymus), one of the Twelve, was not with the disciples when Jesus came.

20章25節 (ほか)弟子(でし)これに()ふ『われら(しゅ)()たり』[引照]

口語訳ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
塚本訳そこでほかの弟子達が、「わたし達は主にお目にかかった」と言うと、彼らに言った、「わたしはその手に釘の跡を見なければ、わたしの指をその釘の場所に差し込まなければ、手をその脇腹に差し込まなければ、決して信じない。」
前田訳それでほかの弟子たちが、「われらは主にお目にかかった」といったが、彼はいった、「その手に釘跡を見なければ、わが指を釘跡にさし込まねば、わが手をその脇にさし込まねば、わたしは決して信じまい」と。
新共同そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
NIVSo the other disciples told him, "We have seen the Lord!" But he said to them, "Unless I see the nail marks in his hands and put my finger where the nails were, and put my hand into his side, I will not believe it."
註解: トマスにつきてはヨハ11:16ヨハ14:5参照。彼は具体的なる証拠を握るまでは容易に信じ難き性質であった。

トマスいふ『(われ)はその()(くぎ)(あと)()、わが(ゆび)(くぎ)(あと)にさし()れ、わが()をその(わき)差入(さしい)るるにあらずば(しん)ぜじ』

註解: この語気の中に頑固なる彼の性質が髣髴しており、また自己の不信につき誇るがごとき心持さえも入っている。今日もキリストの奇蹟や復活を信ぜずしてその証明を科学に求めている者の中に、かかる頑固と高慢とを見出すことができる。自己の理解力をもって最上となすものは信仰を得ることができない。信仰の性質につきヘブ11:1参照。

20章26節 八日(やうか)ののち弟子(でし)たちまた(いへ)にをり、トマスも(とも)()りて()()ぢおきしに、イエス(きた)り、(かれ)らの(うち)()ちて()ひたまふ『平安(へいあん)なんぢらに()れ』[引照]

口語訳八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
塚本訳八日ののち、弟子たちはまた家の中に(集まって)いた。今度はトマスも一しょであった。戸には(皆)鍵がかけてあったのに、イエスがはいって来て(彼らの)真中に進み出て、「平安あれ」と言われた。
前田訳八日ののち、弟子たちはまた家にいた。トマスもいっしょであった。戸に鍵がかけてあるのにイエスは来て真ん中に立っていわれた、「ごきげんよう」と。
新共同さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
NIVA week later his disciples were in the house again, and Thomas was with them. Though the doors were locked, Jesus came and stood among them and said, "Peace be with you!"
註解: イエスの復活および顕現は多く日曜日に起った(ヨハ20:1ヨハ20:19黙1:10以下)。この日の顕現はおそらく特に信ぜざるトマスのためであったのであろう。一匹の迷える羊のために主は多く労し給う。

20章27節 またトマスに()(たま)ふ『なんぢの(ゆび)をここに()べて、わが()()よ、(なんぢ)()をのべて、()(わき)にさしいれよ、(しん)ぜぬ(もの)とならで(しん)ずる(もの)となれ』[引照]

口語訳それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
塚本訳それから(すぐ)トマスに言われる、「指をここに持ってきて、わたしの手(の釘の跡)をよく見てごらん。手を持ってきて、わたしの脇腹に差し込んでみなさい。不信仰をやめて、信ずる者らしくしなさい。」
前田訳それからトマスにいわれる、「あなたの指をここに出し、わが手を見よ。あなたの手を出してわが脇に入れよ。不信はやめて信ずるものになれ」と。
新共同それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
NIVThen he said to Thomas, "Put your finger here; see my hands. Reach out your hand and put it into my side. Stop doubting and believe."
註解: イエスは25節におけるトマスの語をほとんど繰返し給いて、トマスをしてその不信を悔いてイエスを信ぜしめんとし給うた。一人の魂を救わんがために主は往々その魂が疑問としている点に対し、特に答解を示し給うことがあることは多くの人の経験する事実である。トマスもかかる解決法を主より示され、主の復活を信ずる機会を与えられた。これトマスをして不信に陥らざらしめんとのキリストの愛の結果である。

20章28節 トマス(こた)へて()ふ『わが(しゅ)よ、わが(かみ)よ』[引照]

口語訳トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
塚本訳トマスがイエスに答えて言った、「わたしの主よ!わたしの神よ!」
前田訳トマスは答えた、「わが主よ、わが神よ」と。
新共同トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
NIVThomas said to him, "My Lord and my God!"
註解: トマスは容易に信ぜざる性質を有っていたけれども、いよいよ信ずる場合には熱烈に単純にこれを信じた。イエスがトマスの心をも見通し給えることに驚き、今またその傷跡を示されて、トマスは唯主を拝してその聖前に(ひざまづ)くより外はなかった。而して不信の谷底より信仰の絶頂に一躍せるトマスは、イエスを主とし神と呼び奉ることにより最も深き信仰の告白を為した。

20章29節 イエス()(たま)ふ『なんぢ(われ)()しによりて(しん)じたり、()ずして(しん)ずる(もの)幸福(さいはひ)なり』[引照]

口語訳イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
塚本訳イエスは言われる、「わたしを見たので、信じたのか。幸いなのは、見ないで信ずる人たちである。」
前田訳イエスはいわれる、「わたしを見たから信ずるのか。さいわいなのは見ないで信ずる人々!」と。
新共同イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
NIVThen Jesus told him, "Because you have seen me, you have believed; blessed are those who have not seen and yet have believed."
註解: この時までのトマスは復活のキリストを直接見ることができた人々以外のキリスト者の型であった。これらのキリスト者はみな復活のキリスト者を目撃することなく、使徒たちの言および聖書によりてこのことを教えられるだけである。復活のキリストを見て信じたる使徒たち、殊に特別にキリストが現れ給えるトマスは幸福であった。しかしながら見ずして信ずるものは直接に信仰の世界に突入するのであって、何ら五感によることなしに直ちに霊界の事実に接することができ、最も幸福なる者であることをイエスは宣告し給うた。而してかくして信ずる者は霊の眼をもって復活の主を見ることができる。「信仰は見ぬ物を真実とするなり」(ヘブ11:1)。
辞解
[信じたり] 「信ずるか」とも読むことができ、これを優れりとする学者もある(M0)。
要義 [イエスの復活に対する信仰]我らイエスの復活を目撃する能わざる者が、如何にしてこれを信ずることができるであろうか。これ蓋し至難の事柄であると言わなければならない。しかしながらこれを信ずることは決して不可能でもなくまた不合理でもない。すなわち(1)Tコリ15章にパウロが論ずるごとく、凡ての生命に体を賦与し給える神は、イエスの霊にもまた復活体を賦与し給うことは当然有り得べきこと、(2)罪なかりしイエスは罪人と共に腐朽に帰し給うべきものにあらずと考うることが道理に叶っていること、(3)弟子たちがこれを目撃せる記事をもって虚構無根の記事となすことは弟子たちを虚言者となし、従って聖書全体の印象と反すること、(4)イエスの復活が人類の復活の前提として見る時、人間世界の窮極如何の問題に関して最も明瞭にして適切なる解決を与うること、すなわち人生の帰趣(きすう)がこれによりて明らかにされること、(5)イエスの復活なしには罪の赦しの福音が架空の思想に過ぎざることとなり、キリスト教教理の全組織を破壊すること等、なお他に理由を掲ぐることができる。ゆえにこれを「見ずして信ずる者」がこのキリスト教教理の全体を理解することができ、反対にこれを見ざるが故に信ぜざるものはキリスト教の全体を破壊してしまうのである。イエスが「見ずして信ずる者は幸福なり」と宣いしはかかる者のみが真にキリスト者としてキリストの救いに与ることができるからである。

5-1-5 附記 20:30 - 20:31

20章30節 この(ふみ)(しる)さざる(そと)(おほ)くの(しるし)を、イエス弟子(でし)たちの(まへ)にて(おこな)(たま)へり。[引照]

口語訳イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。
塚本訳このほか、この本に書いてない、多くの徴[奇蹟]を、イエスは弟子たちの前で行われた。
前田訳このほかイエスはこの本には書いてない多くの徴を弟子たちの前でなさった。
新共同このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
NIVJesus did many other miraculous signs in the presence of his disciples, which are not recorded in this book.

20章31節 されど(これ)()(こと)(しる)ししは、(なんぢ)()をしてイエスの(かみ)()キリストたることを(しん)ぜしめ、(しん)じて御名(みな)により生命(いのち)()しめんが(ため)なり。[引照]

口語訳しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。
塚本訳しかし(ほんの一部分であるが、いま)これらのことを書いたのは、あなた達に、イエスは救世主で、神の子であることを信じさせるため、また、それを信じて、イエスの名によって(永遠の)命を持たせるためである。
前田訳しかしこれらを書いたのは、あなた方がイエスはキリストで神の子であると信ずるため、信ずるものがみ名によっていのちを受けるためである。
新共同これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
NIVBut these are written that you may believe that Jesus is the Christ, the Son of God, and that by believing you may have life in his name.
註解: ここにヨハネは29節をもって一旦全福音書の結尾としていることがわかる。蓋しトマスの告白がヨハネが本書を(したた)めし目的の実現の頂点に達したものであり、而してこれに対するイエスの教訓がその後に来るべきキリスト者の態度の根底をなすからである。而してイエスが為し給いし徴すなわち奇蹟は本福音書に記されし以外のものも数多かったが、ヨハネはこの福音書を著す目的によりてこれを取捨して以上のごとき記録に止めた。この目的は「汝ら」すなわちこの福音書の読者(ヨハネは少数の特定の読者を考えたかもしれないけれども、事実は全キリスト教会を指すこととなる)が単にイエスの伝記に関する外部的知識を得ることではなく、イエスに対する信仰を得しめ、このイエスの御名に対する信仰によりイエスの生命を受けて永生を獲得することである。この信仰の内容を最も簡潔に言表わすならば、イエスは神の子にしてメシヤなりと信ずることに外ならない。31節は「福音の要旨」(B1)である。

ヨハネ伝第21章
5-2 ガリラヤに於ける顕現 21:1 - 21:23
5-2-1 漁りつつある弟子たちに現はれ給う 21:1 - 21:14

註解: 前章をもって一旦筆を()いたヨハネは、その後ある年月の間この書を出版せずに(かく)していたのであろう。而してその出版前に本章を追加したものであろう。多くの学者はこの解釈に一致している。

21章1節 この(のち)、イエス(また)テベリヤの海邊(うみべ)にて(おのれ)弟子(でし)たちに(あらは)(たま)ふ、その(あらは)(たま)ひしこと(ひだり)のごとし。[引照]

口語訳そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。
塚本訳そのあとで、イエスはテベリヤ湖のほとりで、かさねて弟子たちに現わされた。現わされ方はこうであった。──
前田訳こののち、イエスはテベリア湖でふたたび自らを弟子たちに現わされた。その様子はこうであった。
新共同その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
NIVAfterward Jesus appeared again to his disciples, by the Sea of Tiberias. It happened this way:
註解: 前章においてヨハネは唯ユダヤにおける主の顕現のみについて録した。ここに彼はガリラヤにおける顕現を録してこれを補充している。
辞解
[テベリヤの海] ヨハネ伝特有、ガリラヤの海、ゲネサレの海ともいう。

21章2節 シモン・ペテロ、デドモと(とな)ふるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの()(およ)びほかの弟子(でし)二人(ふたり)もともに()りしに、[引照]

口語訳シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。
塚本訳シモン・ペテロと、トマスすなわちデドモと、ガリラヤのカナ生まれのナタナエルとゼベダイの子たち二人と、ほかの二人の弟子とが一緒にいた。
前田訳シモン・ペテロと、デドモことトマスと、ガリラヤはカナの出のナタナエルと、ゼベダイの子らと、ほかのふたりの弟子がいっしょにいた。
新共同シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
NIVSimon Peter, Thomas (called Didymus), Nathanael from Cana in Galilee, the sons of Zebedee, and two other disciples were together.
註解: 他の福音書はゼベタイの子ヤコブとヨハネを必ずペテロの次に記す。ヨハネはこれを最後に記し、かつ自己およびヤコブにつき匿名を用いている。最後の二人はおそらく十二使徒以外の弟子であろう。

21章3節 シモン・ペテロ『われ漁獵(すなどり)にゆく』と()へば、(かれ)ら『われらも(とも)()かん』と()ひ、(みな)いでて(ふね)()りしが、その(よる)(なに)をも()ざりき。[引照]

口語訳シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。
塚本訳シモン・ペテロが「わたしは漁にゆく」と言うと、「わたし達も一しょに行く」と彼らが言う。みんなが出ていって舟に乗った。しかしその晩は何も捕れなかった。
前田訳シモン・ペテロが彼らにいう、「わたしは漁に行く」と。彼らはいう、「われらもいっしょに行く」と。彼らは出かけて舟に乗った。しかしその夜は何もとれなかった。
新共同シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
NIV"I'm going out to fish," Simon Peter told them, and they said, "We'll go with you." So they went out and got into the boat, but that night they caught nothing.
註解: 彼らはその本来の職業に還っていた。彼らはおそらくあまりに気が進まずに漁りをなしつつあったのであろう。また漁獲が少ないのでその失望は一層甚だしかったのであろう。ルカ5章もかかる場合であった。我らもまた「われ」または「われら」何事かを為さんとして失望に終ることが多い。この場合殊にイエスの助けを必要とする。イエスはここに弟子たちを新たに主の復活を宣伝うる使徒たらしめんがために漁獲の例をもって彼らを教え、自己の経験や発憤による伝道の虚しきを示し給う。

21章4節 夜明(よあけ)(ころ)イエス(きし)()(たま)ふに、弟子(でし)たち()のイエスなるを()らず。[引照]

口語訳夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
塚本訳もう夜も明けたころに、イエスが(どこからともなく)岸に出てこられた。それでも、弟子たちはイエスだと気づかなかった。
前田訳もう夜明けになるころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスとは知らなかった。
新共同既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
NIVEarly in the morning, Jesus stood on the shore, but the disciples did not realize that it was Jesus.

21章5節 イエス()(たま)ふ『()どもよ、()(もの)ありしか』(かれ)ら『なし』と(こた)ふ。[引照]

口語訳イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
塚本訳イエスが彼らに言われる、「子どもたち、何も肴があるまい。」「ありません」と彼らが答えた。
前田訳イエスは彼らにいわれる、「子どもたち、食べ物はあるのか」と。彼らは答えた、「いいえ」と。
新共同イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
NIVHe called out to them, "Friends, haven't you any fish?" "No," they answered.
註解: 彼らはイエスをそれと認識しなかった。イエスの御姿の変化についてはヨハ20:14参照。「獲物」prosphagion は副食物(おかず)の意、ここでは肴を意味す。

21章6節 イエス()ひたまふ『(ふね)(みぎ)のかたに(あみ)をおろせ、(しか)らば()(もの)あらん』(すなは)(あみ)(おろ)したるに、(うを)おびただしくして、(あみ)()(うへ)ぐること(あた)はざりしかば、[引照]

口語訳すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
塚本訳イエスが言われた、「舟の右側に網を打って御覧、獲物があるから。」網を打つと、(はたして捕れた)魚が多く、もはや網を引き上げることが出来なかった。
前田訳彼はいわれた、「舟の右がわに網を打ちなさい。獲物があろう」と。彼らが網を打つと、魚が多くて、もはや網を引きあげえなかった。
新共同イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
NIVHe said, "Throw your net on the right side of the boat and you will find some." When they did, they were unable to haul the net in because of the large number of fish.
註解: 知らずして為せるイエスに対する従順は彼らをして思い設けざりし収穫を得しめた。人を漁らんがための我らの伝道も「われ伝道せん」「われらも共に行かん」と称する場合に収穫はない。我ら唯見えざる主の御言に従う場合に大いなる収穫を得ることができる。

21章7節 イエスの(あい)(たま)ひし弟子(でし)、ペテロに()ふ『(しゅ)なり』シモン・ペテロ『(しゅ)なり』と()きて、(はだか)なりしを上衣(うはぎ)をまとひて(うみ)()びいれり。[引照]

口語訳イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
塚本訳するとイエスの愛しておられた弟子が気づいて、ペテロに「主だ!」と言う。主だと聞くと、シモン・ペテロは裸だったので(急いで)上っ張をひっかけ、湖に飛び込んだ。
前田訳イエスの愛された弟子がペテロにいう、「主だ」と。シモン・ベテロは、「主だ」と聞くと、裸であったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
新共同イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
NIVThen the disciple whom Jesus loved said to Peter, "It is the Lord!" As soon as Simon Peter heard him say, "It is the Lord," he wrapped his outer garment around him (for he had taken it off) and jumped into the water.
註解: 大なる漁獲はヨハネをして主を思わしめた。ルカ5:1以下の場合より自らここに思い至ったのであろう。ここにも二人の性格が如実に現われ、ヨハネはその鋭利なる洞察力を示し、ペテロはその勇敢なる実行力を示している。これが将来二人の伝道を一貫せる態度であった。水に飛び込むのに上衣を殊更にまとったのは主に対する礼儀の念からであった。

21章8節 (ほか)弟子(でし)たちは(をか)(はな)るること(とほ)からず、(わづか)五十間(ごじっけん)ばかりなりしかば、(うを)()りたる(あみ)小舟(こぶね)にて()(きた)り、[引照]

口語訳しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
塚本訳ほかの弟子たちは、魚の(はいっている)網を引っ張りながら舟で来た。陸から遠くなく、二百ペキュン(百メートル)ばかりしか離れていなかった。
前田訳しかしほかの弟子たちは、魚の網を引きながら舟で行った。陸からあまり離れず、二百ペキュスであった。
新共同ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
NIVThe other disciples followed in the boat, towing the net full of fish, for they were not far from shore, about a hundred yards.

21章9節 (をか)(のぼ)りて()れば、炭火(すみび)ありてその(うへ)(さかな)あり、(また)パンあり。[引照]

口語訳彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
塚本訳彼らが陸に上がって見ると、炭火がおこしてあって、上に魚が一匹のっており、またパンがあった。
前田訳陸にあがって見ると、炭火がおこしてあって、魚がのせてあり、パンがあった。
新共同さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
NIVWhen they landed, they saw a fire of burning coals there with fish on it, and some bread.
註解: 彼らはその伝道の収穫をイエスの許に携え行くがごとくに、捕獲せし魚の網を労しつつ岸まで曳き来った。この時彼らの目は直ちにこのパンと肴とに注がれた。ちょうど朝食時となっていたので、彼らは相応に飢えを感じていたのであろう。炭火、肴、パンをイエスは如何にして何処より得給いしやを詮索する学者の労は虚しく、かつこの物語よりその深さを奪うに過ぎない。
辞解
[五十間] 原語 200ペークス pêchus で、改訳にはこれ「尺」と訳し、旧約聖書には「クピト」と訳している。前腕の長さをいうので一尺五六寸に相当す。

21章10節 イエス()(たま)ふ『なんぢらの(いま)とりたる(さかな)(すこ)()ちきたれ』[引照]

口語訳イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
塚本訳イエスが彼らに言われる、「今捕った魚をすこし持ってきなさい。」
前田訳イエスは彼らにいわれる、「今とった魚をすこし持って来なさい」と。
新共同イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
NIVJesus said to them, "Bring some of the fish you have just caught."
註解: イエスは伝道のために労苦してその収穫を持ち来れる使徒らを饗応し給う。而してその喜びを大ならしめんがために、使徒らの得し収穫をもこれに加えて共にこれを祝し給う。今日においても伝道者はキリストよりこの饗応を受け、その収穫を祝福される幸いなる職務を持っている。この饗応を聖餐の型と見、魚はイエス・キリストを代表する意味であると解する説がある(イエス・キリスト、神、子、救い主の五字の頭字を集めて魚なる文字となる)けれども、やや寓話的に解し過ぐる嫌いがある。

21章11節 シモン・ペテロ(ふね)()きて(あみ)(をか)()()げしに、(ひゃく)()(じふ)(さん)()(おほい)なる(うを)滿()ちたり、()(おほ)かりしが(あみ)()けざりき。[引照]

口語訳シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
塚本訳シモン・ペテロが(舟の)上にあがって網を陸へ引き上げると、百五十三匹もの大きな魚で一ぱいであった。こんなに大漁であったが、網は裂けなかった。
前田訳シモン・ペテロがあがって網を陸へ引くと百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。こんな大漁でも網は裂けなかった。
新共同シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
NIVSimon Peter climbed aboard and dragged the net ashore. It was full of large fish, 153, but even with so many the net was not torn.
註解: イエスの命に従いて人を漁る時、我らは自己の思いに優る多くの収穫を得ることができ、而して網が裂けて魚が逃れ出づるごときことはなく、父の選び給えるものを一人も残らず網羅することができる。百五十三なる数を種々表徴的の意味に解しまたは魚の全種類の数等と解する学者があるけれども適切なものはない。唯一同がその数を数えてその大なる漁獲に驚きたることをヨハネは逐一記憶してこれを録せるものと考うるべきであろう。

21章12節 イエス()(たま)ふ『きたりて(しょく)せよ』弟子(でし)たちその(しゅ)なるを()れば『なんぢは(たれ)ぞ』と()へて()(もの)もなし。[引照]

口語訳イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
塚本訳イエスが彼らに言われる、「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子のうちだれ一人、「あなたはどなたですか」と敢えて尋ねる者はなかった。主だと気づいた(が、何となく変だった)からである。
前田訳イエスはいわれる、「さあ、朝飯になさい」と。弟子はだれも「あなたはどなたで」とあえてたずねなかった。主であることを知っていたからである。
新共同イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
NIVJesus said to them, "Come and have breakfast." None of the disciples dared ask him, "Who are you?" They knew it was the Lord.
註解: 平常と異ならざるごとき親愛なる光景の中に、一種の恐怖、驚異、不可解、不思議等の錯綜せる心持が弟子たちの心の中に起ったことであろう。弟子たちは全くこの全光景の中に呑まれてその光景中の人物となってしまった。今さら「なんぢは誰ぞ」との問いを発してこの平和にして神秘的なる光景を乱さんとする弟子は一人もなかった。
辞解
[食せよ] ariston 主として朝食を意味する語。

21章13節 イエス(すす)みてパンをとり(かれ)らに(あた)へ、(さかな)をも(しか)なし(たま)ふ。[引照]

口語訳イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
塚本訳イエスは来て、パンを(手に)取って彼らに渡された。魚も同じようにされた。
前田訳イエスは来てパンを取って彼らに与えられた。魚もそうされた。
新共同イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
NIVJesus came, took the bread and gave it to them, and did the same with the fish.
註解: 十字架につき給う前に弟子たちと共に食し給いし時と全く同様の姿であった。キリストの霊的饗宴に与るものは同様の喜びに入ることができる。

21章14節 イエス死人(しにん)(うち)より(よみが)へりてのち、弟子(でし)たちに(あらは)(たま)ひし(こと)、これにて三度(みたび)なり。[引照]

口語訳イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。
塚本訳イエスは死人の中から復活されたのち、弟子たちに自分を現わされたのは、これですでに三度目である。
前田訳イエスが死人の中から復活して弟子たちに現われられたのはこれではや三度目である。
新共同イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
NIVThis was now the third time Jesus appeared to his disciples after he was raised from the dead.
註解: すなわち共観福音書の記事を補っているのであって、後者はイエスの顕現がまずガリラヤに行われしごとくに記してあるけれども(ルカを除く)、それは初回にあらず第三回である。ヨハネは特に十二弟子に顕われ給いし場合のみを数えているので、この数え方には誤りはない。第一回はヨハ20:19以下、第二回はヨハ20:26以下で、Tコリ15:5の十二弟子は第二回と第三回を一まとめにして記したのであろう(G1)。
要義 [人を漁る者]この復活の記事は多くの註解家によりて寓話的意味に解せられている(マタ4:18−22)。イエスはその生時すでに弟子たちを伝道に派遣し給うた(マタ10:1)。しかしながらその復活後はその伝道の目的は新たになってイエスの復活を伝うることとなり、その使命もまた天地の権を握りて神の右に坐し給うキリストより与えられるものであった。ゆえにこの使命を彼らに与えんがために漁獲の奇蹟をもってその意味を彼らに示し給うた。これイエスの人類に対する愛の切なるより起る事実である。

5-2-2 ペテロの使命 21:15 - 21:19

註解: (さき)にペテロは三度主を拒んだ。たとえその罪は彼の懺悔の涙によりて赦されたとしても、彼をして再び使徒の首班たらしむるには新たなる召命を必要とした。而して主は悔改めしペテロをこの職に任ぜずに放置し給わなかった。

21章15節 かくて(しょく)したる(のち)、イエス、シモン・ペテロに()(たま)ふ『ヨハネの()シモンよ、(なんぢ)この(もの)どもに(まさ)りて(われ)(あい)するか』[引照]

口語訳彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
塚本訳やがて食事がおわると、イエスはシモン・ペテロに言われる、「ヨハネの子シモン、(今でも)あなたは、この人たち(が愛する)以上に、わたしを愛しているのか。」イエスに言う、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたが御存じです。」彼に言われる、「わたしの小羊を飼いなさい。」
前田訳さて、食事が終わると、イエスはシモン・ペテロにいわれる、「ヨハネの子シモン、この人たちの愛以上にわたしを愛するか」と。彼はいう「はい、主よ、わたしがあなたを愛することはご存じです」と。イエスはいわれる、「わが小羊を飼いなさい」と。
新共同食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
NIVWhen they had finished eating, Jesus said to Simon Peter, "Simon son of John, do you truly love me more than these?" "Yes, Lord," he said, "you know that I love you." Jesus said, "Feed my lambs."
註解: ここにイエスはペテロをもって使徒の代表者として使徒たるものの責任とその運命とを告げ給うた。而して使徒たるものの最大の責任および必要はキリストを愛することである(Uコリ5:14)。ペテロは使徒の首班として誰よりも多くキリストを愛すべきであった。重き責任を負う者はそれに比例してキリストを多く愛することを要する。
辞解
[ヨハネの子シモン] 単にシモン・ペテロというよりも一層多くキリストの愛を示す。
[この者どもに勝りて] ペテロの地位に相応しからんがためである。なおペテロ自身の告白(マタ26:33マコ14:29)参照。
[愛す] agapaô Tコリ13:3要義1参照。聖愛、神の愛、信仰より出づる愛をいう。ペテロの答と対照せよ。

ペテロいふ『(しゅ)よ、(しか)り、わが(なんぢ)(あい)する(こと)は、なんぢ()(たま)ふ』イエス()(たま)ふ『わが羔羊(こひつじ)(やしな)へ』

註解: ペテロの答は従来の彼の態度に比して著しく謙遜であった。「他の使徒に勝りて」と答えなかったのはマタ26:33の失敗の痛みが、なお彼の心を苦しめたからであろう。またイエスの「愛するか」は agapaô を用い、これに対してペテロの「愛す」は他の語 phileô を用いたのも(Tコリ13:3要義)聖愛はあまりに高く深いが、唯人としての切なる愛をペテロはキリストに対して有っていたことは彼の断言し得る点であったことを示している。イエスは彼を愛する者に彼を愛する羔羊を養い、これに食を与うるの任務を授け給うた。キリストの羔羊はキリストを愛する者より霊の食物を受けることができる。単に理知的にイエスを知るに過ぎざるものより霊の養いを受けることができない。「わが羔羊」キリストの羔羊であって牧師の羔羊ではない。かく言いてキリストが真の牧者たることを示し、その羊に対する愛を示し給う。
辞解
[わが羔羊] ヨハ10:5ヨハ10:27

21章16節 また二度(ふたたび)(めに)いひ(たま)ふ『ヨハネの()シモンよ、(われ)(あい)するか』ペテロ()ふ『(しゅ)よ、(しか)り、わが(なんぢ)(あい)する(こと)は、なんぢ、()(たま)ふ』イエス()(たま)ふ『わが(ひつじ)()へ』[引照]

口語訳またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
塚本訳二度目にまた言われる、「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しているのか。」イエスに言う、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたが御存じです。」彼に言われる、「わたしの羊の番をしなさい。」
前田訳二度目にまたいわれる、「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか」と。彼はいう、「はい、主よ、わたしがあなたを愛することはご存じです」と。イエスはいわれる、「わが羊を養いなさい」と。
新共同二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
NIVAgain Jesus said, "Simon son of John, do you truly love me?" He answered, "Yes, Lord, you know that I love you." Jesus said, "Take care of my sheep."
註解: イエスはここに再びほぼ同様の質問を繰返し給い、この愛が如何に重要なる事柄なるかを深くペテロに印象し給うた。前節との差は「この者どもに勝りて」を省けること(ペテロの謙遜を承認し給うたのであろう)、羔羊の代りに羊を用いしこと(教会には種々の羊があるから)、および「養へ」の代りに「()へ」を用いしことである。(養うことは個人的注意を意味し、「()う」ことは群れ全体を導き支配し管理する動作を意味する。)

21章17節 三度(みたび)(めに)いひ(たま)ふ『ヨハネの()シモンよ、(われ)(あい)するか』[引照]

口語訳イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
塚本訳三度目に言われる、「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しているのか。」ペテロは、イエスが三度も「あなたはわたしを愛しているのか」と言われたので悲しくなって、言った、「主よ、あなたはなんでも御存じです。わたしがあなたを愛していることはあなたが御存じです。」イエスが言われる、「わたしの羊を飼いなさい。
前田訳三度目にいわれる、「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか」と。ペテロは、イエスが三度目にも、「わたしを愛するか」といわれたので、悲しくなって、いった、「主よ、あなたはすべてがおわかりです。わたしがあなたを愛することはご存じです」と。イエスはいわれる、「わが羊を飼いなさい。
新共同三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
NIVThe third time he said to him, "Simon son of John, do you love me?" Peter was hurt because Jesus asked him the third time, "Do you love me?" He said, "Lord, you know all things; you know that I love you." Jesus said, "Feed my sheep.
註解: 第三回の問においてイエスは「聖愛」アガパオーの代りに「自然愛」フィレオーを用い、ペテロ自ら用いし語をもって彼に質問し給うた。このことが一層強くペテロの心を憂いしめた。

ペテロ三度(みたび)(めに)『われを(あい)するか』と()(たま)ふを(うれ)ひて()ふ『(しゅ)よ、()りたまはぬ(ところ)なし、わが(なんぢ)(あい)する(こと)は、なんぢ()りたまふ』

註解: 第三回目のイエスの問いはあたかもペテロの彼に対する自然の愛情(フィリヤ)すらもこれを疑い給うもののごとくに聞えたのでペテロはいたく憂いに沈んだ。そしてキリストの全知に訴えて自己の心の偽らざることを告白した。この「愛す」は二つともフィレオーを用いている。

イエス()(たま)ふ『わが(ひつじ)をやしなへ。

21章18節 まことに(まこと)になんぢに()ぐ、なんぢ(わか)かりし(とき)(みづか)(おび)して(ほっ)する(ところ)(あゆ)めり、されど()いては()()べて(ほか)(ひと)(おび)せられ、(なんぢ)(ほっ)せぬ(ところ)()れゆかれん』[引照]

口語訳よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
塚本訳アーメン、アーメン、わたしは言う、あなたは若い時分には、自分で帯をしめて、行きたい所へ行ったが、年を取ると、両手をのばして、ほかの人に帯をしめられ、行きたくない所へ連れてゆかれるであろう。」
前田訳本当にいう、あなたは若かったころ、自分で帯をしめて行きたいところへ行った。年をとると、両手をのばして、他人に帯をしめられ、行きたくないところへ連れられよう」。
新共同はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
NIVI tell you the truth, when you were younger you dressed yourself and went where you wanted; but when you are old you will stretch out your hands, and someone else will dress you and lead you where you do not want to go."
註解: イエスは三度「羊をやしなへ」と命じ給うことによりてペテロにその使命を授け給うた。(三度イエスに対する愛を告白せることは三度イエスを拒みしことを取消すに充分であった。)かくして使命を授け給いし後、進んでこの使命に伴う運命を予告し給うた。この予告は表徴的に語られ、青年期における手足の運動の自由と老年におけるその不自由に譬えて、ペテロが壮年時代には自由に伝道牧羊の活動を為し己の欲する処に赴くことができるけれども、老年に至れば他人のために縛られて己の意思にあらざる殉教の死を遂げざるを得ざるに至るであろうことを予告し給うた。この比喩をもって十字架の死の表徴となし、または老年における肉体的衰弱を示すものとなし、または霊的自己中心と霊的服従を示すものとなす等多くの解あり、かかる意味に応用することは場合によりて多くの教訓を与えるけれどもこの節の直接の意味ではない。
辞解
[手を伸べて] 他人に帯をしてもらう時の姿。これは必ずしも十字架上に手を伸べることを意味していない。
[他人に帯せられ] これも(ばく)に就く型であって十字架上に縛られることではない。
[汝の欲せぬ處] 殉教の死、これは何人もその自然の情として欲せぬ処である。

21章19節 これペテロが如何(いか)なる()にて(かみ)榮光(えいくわう)(あらは)すかを(しめ)して()(たま)ひしなり。[引照]

口語訳これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
塚本訳このように言われたのは、ペテロがどんな死に方をして[十字架について]、神の栄光をあらわさねばならぬかを暗示されたのである。こう言ったあと、ペテロに、「わたしについて来なさい」と言われる。
前田訳こういわれたのは、ペテロがどんな死に方をして神を栄化するかを示すためであった。こう話してから彼にいわれる、「わたしに従え」と。
新共同ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
NIVJesus said this to indicate the kind of death by which Peter would glorify God. Then he said to him, "Follow me!"
註解: 多くの伝説、歴史によればペテロは紀元64年7月ローマにて逆礫刑(さかさはりつけ)に処せられたとのことである。(これよりも12年遅しとの説もあり)かかる殉教の死は神の栄光を顕わすものである。ヨハネはかく記しているのを見れば、この書の読者がペテロの殉教の死の事実を熟知していることを推定することができる。

()()ひて(のち)かれに()(たま)ふ『われに(したが)へ』

註解: イエスはその宣教の始めに当っても「われに従へ」なる語をもって弟子を招き給うた(マタ8:22マタ9:9ヨハ1:43)。ゆえに「従う」ことはイエスの歩みしごとくに歩み、イエスの死に給いしごとくに死することである。而して本節の場合には殊にイエスの死に従って死すべきことを命じ給うたのである(M0)。
要義 [牧者の任務]牧者はまずキリストを愛することを要する。この愛のみがよく羊を養いまた牧することができる。この愛以外の動機をもって、キリストの羊を養いまた牧せんとする者は盗人強盗の類である。真の牧者はキリスト、地上の牧者はその使いに過ぎない。キリストを離れて彼らは何をも為すことができない。

5-2-3 ヨハネの運命に就いて 21:20 - 21:23

21章20節 ペテロ振反(ふりかへ)りて、イエスの(あい)したまひし弟子(でし)(したが)ふを()る。これはさきに夕餐(ゆふげ)のとき御胸(みむね)()りかかりて『(しゅ)よ、(なんぢ)()(もの)(たれ)か』と()ひし弟子(でし)なり。[引照]

口語訳ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。
塚本訳ペテロが(ついて行きながら)振り返ると、イエスの愛しておられた弟子が(あとから)ついて来るのが見えた。この弟子は(最後の)夕食の時に、イエスの胸にもたれかかって、「主よ、あなたを売る者はだれですか」と言った者である。
前田訳ペテロが振り返ると、イエスの愛弟子が従うのが見えた。夕食のとき、イエスの胸にもたれて、「主よ、あなたを売るのはだれですか」といったのはこの弟子である。
新共同ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。
NIVPeter turned and saw that the disciple whom Jesus loved was following them. (This was the one who had leaned back against Jesus at the supper and had said, "Lord, who is going to betray you?")

21章21節 ペテロこの(ひと)()てイエスに()ふ『(しゅ)よ、この(ひと)如何(いか)に』[引照]

口語訳ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。
塚本訳ペテロはその人を見て、イエスに言う、「主よ、あの人はどうなるのでしょうか。」
前田訳彼を見てペテロはイエスにいう、「主よ、あの人はどうなるのですか」と。
新共同ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
NIVWhen Peter saw him, he asked, "Lord, what about him?"
註解: ペテロはイエスに従いて歩み、ヨハネはペテロの後に従った。ヨハネはイエスの特愛の弟子でもあり、また最後の晩餐のときイエスに対する最大の信頼と愛とを示したのであって、これを知り居るペテロはヨハネも彼と同じく殉教の死を遂ぐる必要ありや否やをイエスに問うた。ペテロの心中おそらくヨハネも殉教の光栄に与るならんかとの想像が起り、またこれと同時に彼の心中にヨハネと生死を共にしたい希望も起ったことであろう。ヨハネの虚弱なる身体に対する同情の心(G1)およびヨハネのみ殉教の死を免れることに対する嫉妬の心(M0)が有ったかどうかは疑わしい。要するにヨハネの運命に関する種々の疑問がペテロに起って来た。

21章22節 イエス()(たま)ふ『よしや(われ)、かれが(われ)(きた)るまで(とどま)るを(ほっ)すとも、(なんぢ)になにの關係(かかはり)あらんや、(なんぢ)(われ)(したが)へ』[引照]

口語訳イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
塚本訳イエスが言われる、「たといわたしが今度来るまで、あの人を生かしておきたいと思っても、それはあなたの知ったことではない。あなたは(ただ)わたしについて来ればよろしい。」
前田訳イエスはいわれる、「わたしがまた来るまで彼を生かしておきたくとも、それはあなたに関係ない。あなたはわたしに従え」と。
新共同イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
NIVJesus answered, "If I want him to remain alive until I return, what is that to you? You must follow me."
註解: イエスに従う者は唯イエスが彼に命じ給いしままに服従すべきであって、他人の運命を顧慮すべきではない。凡てがイエスと自己との直接関係である。ゆえにペテロがヨハネの運命についてかれこれ考うることは無用のことであることをイエスは彼に示し給うた。たとえイエスがヨハネに関して全く異なれる使命を与え、彼再び来り給うまで(すなわち世の終末の再臨の時まで)ヨハネを生き長らえしむることを欲し給うと仮定しても、それはペテロには何らの関係がないから、ペテロは命ぜられしままにキリストに従わなければならぬ、とキリストは教え給うた。

21章23節 ここに兄弟(きゃうだい)たちの(うち)に、この弟子(でし)()なずと()(はなし)つたはりたり。されどイエスは()なずと()(たま)ひしにあらず『よしや(われ)、かれが(われ)(きた)るまで(とどま)るを(ほっ)すとも、(なんぢ)になにの關係(かかはり)あらんや』と()(たま)ひしなり。[引照]

口語訳こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。
塚本訳このために、この(イエスの愛)弟子は死なないという噂が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは「死なない」と言われたのではない。ただ、「たといわたしが来るまで、あの人を生かしておきたいと思っても、それはあなたの知ったことではない」と言われたまでである。
前田訳それで、兄弟たちの間にこの弟子は死なないといううわさがひろまった。イエスは「死なない」といわれたのではない。「わたしがまた来るまで彼を生かしておきたくとも、それはあなたに関係ない」といわれたのである。
新共同それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
NIVBecause of this, the rumor spread among the brothers that this disciple would not die. But Jesus did not say that he would not die; he only said, "If I want him to remain alive until I return, what is that to you?"
註解: イエスが一つの仮定としてペテロに語り給いし語がその後兄弟たちの中に伝わり、殊にヨハネが長命であったので、彼らはこの語を誤解してヨハネは不死の人間であって、キリストの再臨まで生き延びて栄化する人であるとの風評が起った(Tテサ4:17Tコリ15:51−52)。ヨハネはこの誤聞を訂正して、イエスの御言が一つの仮定としてペテロを教え給いしに過ぎないことを示している。ただしヨハネは自己が必ず死ぬことを主張しているのではない。これは未定の事実である。何となれば彼の生時にイエス再び来り給うことは有り得るからである。唯ヨハネはイエスの言に関する誤聞を訂正したに過ぎない。ヨハネが復活のイエスの御言を如実に録すその自然さに注意すべし。
要義 [ペテロとヨハネ]本章において表明せられしペテロとヨハネの特徴は、よく二人の性質傾向とこれに相応せる上よりの使命とを物語り、同時に福音の宣伝においてもこの二種の傾向があることを示している。復活の主を見て直ちに海に飛び込みしペテロは熱烈なる伝道の後、あわただしく十字架上に殉教の死を遂げた。復活の主を見てもなお静かに船の中に止って魚を引上げしヨハネは、静かに長年月の間伝道に従事し、遂に静かなる死を味わうたのであった。福音伝道においてもこの二種類の傾向が必要であって、時には殉教の死を味わうことが必要であり、時には静かに後に残って福音を伝え、羊を牧うことが必要である。この復活の記事はこの二種の傾向とその帰着点を最も有効に示しているということができる。

分類
6 結尾 21:24 - 21:25

21章24節 これらの(こと)につきて、(あかし)をなし、(また)これを(しる)しし(もの)は、この弟子(でし)なり、我等(われら)はその(あかし)(まこと)なるを()る。[引照]

口語訳これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。
塚本訳これらのこと([ヨハネ福音書全体]が真実であること)を証明し、かつこれらのことを書いたのは、この(イエスの愛)弟子である。わたし達はこの弟子の証明が信用すべきであることを知っている。
前田訳これらを証して書いたのはこの弟子である。われらはその証が真であることを知っている。
新共同これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
NIVThis is the disciple who testifies to these things and who wrote them down. We know that his testimony is true.

21章25節 イエスの(おこな)(たま)ひし(こと)は、この(ほか)なほ(おほ)し、もし(ひと)(ひと)(しる)さば、(われ)おもふに世界(せかい)もその(しる)すところの(ふみ)()するに()へざらん。[引照]

口語訳イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。
塚本訳しかし、イエスのなさったことはこのほかにまだ山ほどあって、もしそれをひとつびとつ書きつけるならば、全世界にも、書いた書物の置場があるまいと思う。
前田訳イエスはこのほかにも多くのことをなさった。それらをひとつひとつ書けば、世界もそれが書かれた本を置けないと思う。
新共同イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
NIVJesus did many other things as well. If every one of them were written down, I suppose that even the whole world would not have room for the books that would be written.
註解: 「これらの事」は全福音を指すと見るべきで、単に21章のみを指しているのではない。この2節にこの福音書の証者にして著者はイエスの愛し給いしこの弟子なることと、この福音書の記事はイエスがこの地上において行い給いしことの一小部分に過ぎざることとを追加している。これによりてヨハネ伝がイエスの直弟子ヨハネの作なることが証明せられ、またこの記事の補充的性質をも知ることができる。「我ら」と言いしはヨハネがその同信者を証人として自己と共に立たしめし意味であり、25節の「我」はその節の内容が個人的意見に過ぎざるが故である。而して25節の誇張は東洋人の通性であって怪しむに足りない。これを強いて霊界の事柄、無限の事柄等と解する必要がない。なおこの2節はヨハネが記したものではなく、弟子たちがこの福音書を公布する際に後に附記したものと見る学者がある(G1、Z0等)。また或は25節のみ他人の追加と見る説もある(M0)。しかしながらこれらいずれも興味ある説であるけれども、充分の根拠があるということができない。ヨハネ自身その福音書の大終結としてこの結尾を附加せしものと見る方が自然である(A1、B1、C1、D0、E0)。