黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版マタイ伝

マタイ伝第4章

分類
2 準備 3:1 - 4:25
2-3 荒野の試誘(こころみ) 4:1 - 4:11
(マコ1:12、13)(ルカ4:1-13) 

註解: イエスがその公生涯に入り給うや否や彼を襲ってきたものは悪魔であった。あたかも彼の降誕の際ヘロデが彼を苦しめまつりしと同様である。人が神に近づき神の御旨を行う事を最も嫌う者は悪魔であって、かかる都合に悪魔はその暴威を振るうのである。イエスすらその厄を免れることができなかった。

4章1節 ここにイエス御靈(みたま)によりて荒野(あらの)(みちび)かれ(たま)ふ、惡魔(あくま)(こころ)みられんとするなり。[引照]

口語訳さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
塚本訳間もなくイエスは悪魔の誘惑にあうため、御霊につれられて荒野に上られた。
前田訳そこでイエスは荒野へと霊に導かれた。悪魔に試みられるためであった。
新共同さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
NIVThen Jesus was led by the Spirit into the desert to be tempted by the devil.
註解: この荒野の試誘(こころみ)は人類の受けるすべての(さそい)の標本である。イエスも「自ら試みられて苦しみたれば試みられる者を助け得る」のであって、「すべてのことにおいて兄弟のごとくなる」がためにこの試誘(こころみ)に会い給うことが必要であった。聖霊が彼を導いたのはそのためである(ヘブ2:17、18)。▲「試みられんとするなり」は「試みられんために」であって、御霊がイエスを(わざ)と荒野に導いたのであった。サタンが彼を導いたのではなかった。
辞解
[荒野] 伝説によればエリコの西北の山であったとのことである。もしモーセとエリヤの場合と同一であったとすればシナイ山であろう。場所は確定することができない。

4章2節 四十(しじふ)(にち)四十(しじふ)()斷食(だんじき)して、(のち)()ゑたまふ。[引照]

口語訳そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
塚本訳四十日四十夜断食をされると、ついに空腹を覚えられた。
前田訳四十日四十夜断食し、ついに飢えられた。
新共同そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
NIVAfter fasting forty days and forty nights, he was hungry.
辞解
[四十日四十夜] 四十日四十夜は聖書中において最も意味深き数である。モーゼとエリヤも共に四十日四十夜をシナイ山に費やした(引照参照)。ただモーセは栄光の中にありしに反し、キリストは卑下りて人の(すがた)を取り給い、エリヤは予め天使に養われしに反しキリストは後に至って辛うじて天使がきたり仕えるところとなった。この四十日は彼の公生涯に入り給う準備であって断食しつつ祈り給うことが必要であった。

4章3節 (こころ)むる(もの)きたりて()ふ『(なんぢ)もし(かみ)()ならば、(めい)じて(これ)()(いし)をパンと()らしめよ』[引照]

口語訳すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
塚本訳すると誘惑する者[悪魔]が進み寄って言った、「神の子なら、(そんなにひもじい思いをせずとも、)そこらの石ころに、パンになれと命令したらどうです。」
前田訳試みるものが彼に近づいていった、「もし神の子なら、これらの石にパンになれといいなさい」と。
新共同すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
NIVThe tempter came to him and said, "If you are the Son of God, tell these stones to become bread."
註解: イエスは飢えて切にパンの必要を感じ給うた。これ万人共通の要求である。もしイエスがその神の子たるの力をもってこの石をパンとなし給うならば・・・そして彼はもしこれを欲するならばなし得給うた・・・彼の飢えはいやされ、また同時に人類の飢えはいやされて、生活問題はこの世界より消滅するであろう。しかるにキリストはこれを行い給わなかった。神の言にはかなわなかったからである。
辞解
[試むる者] サタンである

4章4節 (こた)へて()(たま)ふ『「(ひと)()くるはパンのみに()るにあらず、(かみ)(くち)より()づる(すべ)ての(ことば)()る」と(しる)されたり』[引照]

口語訳イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
塚本訳しかし答えられた「“パンがなくとも人は生きられる。(もしなければ、)神はそのお口から出る言葉のひとつびとつで(パンを造って、)人を生かしてくださる”と(聖書に)書いてある。」
前田訳答えていわれた、「聖書にいわく、『パンだけで人は生きるのではなく、神の口から出るすべてのことばによる』と」。
新共同イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
NIVJesus answered, "It is written: `Man does not live on bread alone, but on every word that comes from the mouth of God.' "
註解: 申8:3の引用である。肉の生命はパンにより、霊の生命は神の言葉による。人間の人間たるゆえんは後者によるのである。イエスは聖言の剣をもって悪魔を撃退し給うた。以下の二つの試誘(こころみ)においても同様である。これを見てもイエスが聖者に通暁(つうぎょう)し給いしこととまた彼が聖書を神の言葉として信じ、これを用い給いしこととを知る事ができる。かかる実例はなお多く存している (マタ12:3-8、マタ21:24マタ22:29マタ26:31マタ26:54ルカ4:21ヨハ5:39ヨハ7:38ヨハ7:42ヨハ13:18) 。▲ただし注意すべきことは、イエスは聖書の言葉に文学的、機械的に服従したのではなく(6節を見よ)、父なる神の御心に従われたのであった(7節を見よ)。

4章5節 ここに惡魔(あくま)イエスを(せい)なる(みやこ)につれゆき、(みや)頂上(いただき)()たせて()ふ、[引照]

口語訳それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
塚本訳そこで悪魔はイエスを聖なる都(エルサレム)に連れてゆき、宮の屋根の上に立たせて
前田訳そこで悪魔は彼を聖都へ連れ行き、宮の屋根に立たせて彼にいう、
新共同次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
NIVThen the devil took him to the holy city and had him stand on the highest point of the temple.
辞解
[聖なる都] エルサレムで「宮」はその神殿である

4章6節 (なんぢ)もし(かみ)()ならば(おの)()(した)()げよ。それは「なんぢの(ため)御使(みつかひ)たちに(めい)(たま)はん。(かれ)()にて(なんぢ)(ささ)へ、その(あし)(いし)にうち()つること()からしめん」と(しる)されたるなり』[引照]

口語訳言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。
塚本訳言った、「神の子なら、下へ飛びおりたらどうです。“神は天使たちに命じて、手にてあなたを支えさせ、足を石に打ち当てないようにしてくださる。”と(聖書に)書いてあります。(人々はそれを見て信じ、たちどころにあなたの国が出来ます。)」
前田訳「もし神の子なら、あなた自身を下に投げなさい。聖書にいわく、『彼はなんじのために天使たちを動かし、彼らは手のうちになんじを支えよう、なんじが足を石に打ちつけないように』と」。
新共同言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
NIV"If you are the Son of God," he said, "throw yourself down. For it is written: "`He will command his angels concerning you, and they will lift you up in their hands, so that you will not strike your foot against a stone.' "
註解: 悪魔はイエスが聖言をもって彼を撃退し給いしを見て、次に同じく詩篇より聖書を引用して(引照参照)彼を誘いキリストをしてその資格に相応しき奇跡を行わしめんとした。すなわち宗教的の試誘(こころみ)であった。もし彼がこれを行い給うたならば、その奇蹟を見て多くの人は彼を信じ、彼の宗教は非常なる勢力を得るであろう。しかるに彼はこれをも行い給はなかった、それが神の命令にあらずして悪魔のささやきであったからである。悪魔すら聖言を用いることができる。

4章7節 イエス()ひたまふ『「(しゅ)なる(なんぢ)(かみ)(こころ)むべからず」と、また(しる)されたり』[引照]

口語訳イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
塚本訳イエスは言われた、「ところが、“あなたの神なる主を試みてはならない”とも書いてある。」
前田訳イエスはいわれた、「聖書にまたいわく、『なんじの神である主を試みるな』と」。
新共同イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
NIVJesus answered him, "It is also written: `Do not put the Lord your God to the test.' "
註解: 神の命によりて危険を冒す場合には神必ずこれを守り給う、自己の思想または悪魔のささやきに従って危険を冒しつつ神はたしてこれを護り給うや否やを見んとするものは神を試みるものであって、なすべきことではない。イエスは聖言に対し、また聖言をもって答え給うた。

4章8節 惡魔(あくま)またイエスを(いと)(たか)(やま)につれゆき、()のもろもろの(くに)と、その榮華(えいぐわ)とを(しめ)して()ふ、[引照]

口語訳次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
塚本訳悪魔はまたイエスを非常に高い山に連れてゆき、世界中の国々と、栄華とを見せて
前田訳また悪魔は彼をいと高き山に連れ行き、世のすべての王国とその繁栄を彼に示していった、
新共同更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
NIVAgain, the devil took him to a very high mountain and showed him all the kingdoms of the world and their splendor.

4章9節 (なんぢ)もし平伏(ひれふ)して(われ)(はい)せば、(これ)()(みな)なんぢに(あた)へん』[引照]

口語訳言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
塚本訳言った、「あれを皆あげよう、もしひれ伏してわたしをおがむなら。」
前田訳「もし伏してわれを拝むならば、これらすべてをなんじに与えよう」と。
新共同「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
NIV"All this I will give you," he said, "if you will bow down and worship me."
註解: 第三の試誘(こころみ)は政治的試誘(こころみ)であった。まづ政治的にこの世の国々を征服したる後にその福音を伝え、人民を導いたならば容易に彼らを信ぜしむることを得るであろうとはすべての人の考える点である。そして悪魔は「この世の君」(ヨハ14:30)、または「この世の神」(Uコリ4:4)であって「世のもろもろの国とその栄華」は彼の支配の下にあるのである。これを得んと欲せば彼に跪かなければならぬ。もしイエスが誠実よりも政策を愛するごとき人であったならば、このサタンの試誘(こころみ)にしたがったであろう。

4章10節 ここにイエス()(たま)ふ『サタンよ、退(しりぞ)け「(しゅ)なる(なんぢ)(かみ)(はい)し、ただ(これ)にのみ(つか)(まつ)るべし」と(しる)されたるなり』[引照]

口語訳するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
塚本訳そこでイエスは言われる、「引っ込んでいろ、悪魔!(聖書に)“あなたの神なる主をおがめ、”“主に”のみ“奉仕せよ”と書いてあるのだ。」
前田訳そこでイエスはいわれる、「サタン、消えてうせよ。聖書にいわく、『なんじの神である主を拝み、彼ひとりに仕えよ』と」。
新共同すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
NIVJesus said to him, "Away from me, Satan! For it is written: `Worship the Lord your God, and serve him only.' "
註解: ここにおいてイエスは奮然として怒り給うた。キリストに取ってたとえ結果はいかに望ましきことであっても、悪魔に跪拝(きはい)することは神を拝することの反対であって絶対になし得ないことであった。ゆえに彼は申6:13を引用して彼を撃退し給うた。この一節は実にキリスト者が悪魔と戦う場合の最良の武器である。

4章11節 ここに惡魔(あくま)(はな)()り、()よ、御使(みつかひ)たち(きた)(つか)へぬ。[引照]

口語訳そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
塚本訳そこで悪魔が離れると、たちまち天使たちが来てイエスに仕えた。
前田訳そこで悪魔が彼を去ると、見よ、天使たちが近づいて彼に仕えていた。
新共同そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
NIVThen the devil left him, and angels came and attended him.
註解: 神の言葉を信じ、神を試みることなく、ただ神のみを拝しこれのみに仕えるイエスに対してはサタンは全く施すべき術を知らず敗北して彼を離れ去った。完全に悪魔に勝ち給えるキリストはアダム以来サタンに従わしめられし人類のための勝利の第一声であった。彼にあるすべてのものはこの勝利を共にすることができる。かかる勝者には天の使い来たりてすべての彼の必要を満たし、彼のすべての目的を達せしむるのである。
要義1 [悪魔について] 悪魔に相当するヘブル語はサタンであって「敵」を意味し、旧約聖書において「悪魔」および「敵」と訳されている。旧約聖書においてはヨブ記に多く記される外、その存在はあまりに明らかではなかった。けれども新約時代に至りその存在はますます明瞭になってきたのである。(けだ)し光が強きに従って暗きがますますその暗きを加えるのは当然だからである。新約時代においてサタンは「デイアポロス」ともいい、また「この世の君」「この世の神」「暗きの権威」「この世の暗きをつかさどる者」「空中にある権をつかさどる者」 (ヨハ12:31ヨハ14:30Uコリ4:4エペ2:2エペ6:12コロ1:13等) とも称せられている。悪魔が実在するや否やは悪魔の力を実験して始めてこれを知ることができる。実在せずただ人間の中の罪性を人格化して悪魔というに過ぎずと唱える人は未だ悪魔の力を経験しない人の言葉である。悪魔の本質起源等は不明であって聖書はこれにつき好奇心を満足せしめようとはしない。ただ堕落せる天の使いにはあらずやと想像されている(Uペテ2:4ユダ1:6)。悪魔はある範囲の自由を許され、神の子をすら誘うことができるけれども、結局において神の支配の下にあって神と相対抗することができない(ヨブ1:7-12)。ただ神に許されし範囲において悪魔は人を試み、これを神より引き離さんとしているのである。キリスト再臨の時彼は千年の間縛られ(黙20:2)、その後解放されたるけれども最後に火の池に投げ入れられる(黙20:3黙20:7、8)のである。神に最も近きものを悪魔は最も強く試み、時には光の子のごとくに装うことすらある。
要義2 [荒野の試誘(こころみ)の意義] (1)ある意味においてこの試誘(こころみ)はキリスト特有の試誘(こころみ)であった。なんとなれば石をパンとすること、高度より無事に飛び降りること、世界を征服することは神の子にあらざれば為し得ないことであってこれをなし得給うキリストに取って始めてこれが誘惑となったのである。(2)しかしながら他の意味においてはまた我らの試誘(こころみ)とも見ることもできる。けだし我らの誘われる場合は第一に我ら困厄欠乏に陥った場合であって「我ら一片のパンのためにも罪を犯すなり」とあるがごとく、困難欠乏にあっていよいよ主の力に頼るにあらざれば誘惑に陥ることは常にあり得ることであり、第二に我らが倨傲(きょごう)の心を持っている時であって、サタンは巧みに我らの高慢を利用して自己の思うがままに我らを動かし、我らをして神を信ぜずして自己の力に信頼するに至らしめ、第三に我らが周囲の事情境遇を第一に置く場合であって、まづ境遇を変化したならば、信仰は自然これにしたがうであろうと考える場合においてはサタンは巧みに我らを彼に跪拝(きはい)せしめ、ついにまったく我らを捕らえてしまうのであって、この意味においてキリストの荒野の試誘(こころみ)はすなわち我らの試誘(こころみ)であると見ることができる。すべての人間およびすべての教会はこの三者中のいずれかに合っているのであって、我らキリストの取り給える方法によりてこのサタンの力に打ち勝たなければならない。
要義3 [聖書神言説について] 聖書は神の言葉であるゆえにキリスト者はこれを信じ、これに頼りこれを重んじなければならない。しかしながらこれを重んじる結果種々の弊害を生じ得るのであって、この一段におけるイエスの聖書の利用法は我らに取って最も善き模範である。第一イエスは非常に聖書に精通し給うた。サタンの試誘(こころみ)に対し聖句が口をついて出づるはそのためであった。第二にイエスは聖書の一字一句を、そのまま神の霊感によれるものとして取り扱い給わなかった。すなわちその引用中に原文と異なるところがあり、場合に適するように変更を敢えてしたのはそのためである。マタ4:10申6:13とを比較せよ。第三に悪魔すら聖書を引用し得ることに注意しなければならぬ。ゆえに聖書を引用するものは必ずしも神の旨を語っているものではなく、その反対が事実である場合があり得るのである。ゆえに聖書は常に聖霊によりて用いられなければならない。そしてイエスはかく聖言を用い給うた。第四に聖言の権威をイエスは信じ給うたのであって、聖書は聖書なるがゆえに神の言葉としてこれを受け入れ給うたことは明らかである。我らの聖書に対する態度も全くこれと同一であるべきであろう。あるいは聖書の権威を否定し、あるいは逐語霊感説を唱え、あるいは聖霊によらずして聖言を引用する者はみな過誤に陥っているのである。

2-4 ガリラヤにおけるイエス 4:12 - 4:25
2-4-イ イエス、カペナウムに住みたまう 4:12 - 4:17
(マコ1:14、15)(ルカ4:14、15)

4章12節 イエス、ヨハネの(とら)はれし(こと)をききて、ガリラヤに退(しりぞ)き、[引照]

口語訳さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。
塚本訳イエスは(洗礼者)ヨハネが牢に入れられたと聞くと、(郷里)ガリラヤ(のナザレ)に引っ込まれた。
前田訳彼はヨハネが捕われたと聞いてガリラヤに退かれた。
新共同イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
NIVWhen Jesus heard that John had been put in prison, he returned to Galilee.

4章13節 (のち)ナザレを()りて、ゼブルンとナフタリとの(さかひ)なる、海邊(うみべ)のカペナウムに(いた)りて()(たま)ふ。[引照]

口語訳そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。
塚本訳それから(間もなく)ナザレを去って、(昔)ゼブルン(族)とナフタリ(族)との(領地であった)地方にある、(ガリラヤ)湖畔の(町)カペナウムに行って住まれた。
前田訳そしてナザレを去ってカペナウムに居を定められた。そこはゼブルンとナフタリの地方で湖畔であった。
新共同そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
NIVLeaving Nazareth, he went and lived in Capernaum, which was by the lake in the area of Zebulun and Naphtali--
註解: 荒野に試誘(こころみ)を受け給いしよりこの時までは約十一ヶ月を経過していた。この間の記事はヨハ1:15-5:47にこれを詳記している。附記参照。
辞解
[カペナウム] 「慰めの所」の意味であってガリラヤ湖の北岸にあり、今は荒廃に帰しているけれども当時は人口稠密の市街であった。ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブおよびマタイの故郷である。

4章14節 これは預言者(よげんしゃ)イザヤによりて()はれたる(ことば)成就(じゃうじゅ)せん(ため)なり。(いは)[引照]

口語訳これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
塚本訳預言者イザヤをもって言われた言葉が成就するためであった。──
前田訳これは預言者イザヤのことばが成就されるためであった。いわく、
新共同それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
NIVto fulfill what was said through the prophet Isaiah:

4章15節 『ゼブルンの()、ナフタリの()(うみ)(ほとり)、ヨルダンの彼方(かなた)異邦人(いはうじん)のガリラヤ、[引照]

口語訳「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、
塚本訳“(ガリラヤの)湖に向かった、ゼブルン(族)の地とナフタリ(族)の地、ヨルダン川の向こう(のペレヤ)、異教人の(住む)ガリラヤ──
前田訳「ゼブルンの地、ナフタリの地、海沿いの道、
新共同「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、
NIV"Land of Zebulun and land of Naphtali, the way to the sea, along the Jordan, Galilee of the Gentiles--

4章16節 (くら)きに()する(たみ)は、(おほい)なる(ひかり)()()()()(かげ)とに()する(もの)に、(ひかり)のぼれり』[引照]

口語訳暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
塚本訳暗闇に住まう(これらの地方の)民は大いなる光を見、死の陰の地に住まうこの人々に光がのぼった、”
前田訳ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤ、闇に座す民は偉大な光を見た。死の陰の里に座すものどもに光がのぼった」。
新共同暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
NIVthe people living in darkness have seen a great light; on those living in the land of the shadow of death a light has dawned."
註解: イエスがガリラヤ地方に伝道し給えることも偶然ではなく、すでに神は預言をしてこのことを語らしめ給うた。この預言(15節引照参照)はイエスの光に照らされるべき地域を示している。これらの地方は霊的「暗黒」と「死」とに支配されている地方であった。
辞解
[海の邊] 原語「海の道」はガリラヤ湖畔の地
[ヨルダンの彼方] ヨルダン川の東の地方
[異邦人のガリラヤ] ガリラヤの西北部すなわちツロ、シドンの地方

4章17節 この(とき)よりイエス(をしへ)()べはじめて()(たま)ふ『なんぢら悔改(くいあらた)めよ、天國(てんこく)(ちか)づきたり』[引照]

口語訳この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
塚本訳この時から、イエスは「悔改よ、天の国は近づいた」と言って、教えを説き始められた。
前田訳そのころから、イエスは教えをひろめはじめていわれた、「悔い改めよ、天国が近づいたから」と。
新共同そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
NIVFrom that time on Jesus began to preach, "Repent, for the kingdom of heaven is near."
註解: キリストの福音は悔改めなしに始まることができない。この点においてはバプテスマのヨハネも同一であり、キリストとの間になんらの差異もない。しかしこれキリストの謙遜によるのであって、さらに進んでイエスご自身がキリストなることをば彼は主としてその奇蹟、その行為、その教訓によりそして最後に最も明らかにその死と復活とによってこれを人々に示し給うた。ゆえにこの教えの始めがバプテスマのヨハネと同一であることは決して彼の救い全体がヨハネの教以上に出でないことを示すのではない。▲ヨハネはイエスを指して「天国は近づいた」と叫び、イエスは自らを提示して「天国は近づいた」と叫んでいる。「近づいた」についてはマタ3:2脚注参照。

2-4-ロ イエス弟子を招き給う 4:18 - 4:22
(マコ1:16-20)(ルカ5:1-11)

4章18節 かくて、ガリラヤの海邊(うみべ)をあゆみて、二人(ふたり)兄弟(きゃうだい)ペテロといふシモンとその兄弟(きゃうだい)アンデレとが、(うみ)(あみ)うちをるを()(たま)ふ、かれらは漁人(すなどりびと)なり。[引照]

口語訳さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。
塚本訳ガリラヤ湖のほとりを歩いておられるとき、二人の兄弟、ペテロと言われたシモンとその兄弟アンデレとが、湖で網を打っているのを見られた。彼らは漁師であった。
前田訳ガリラヤ湖畔を歩まれたとき、ふたりの兄弟、ペテロことシモンとその兄弟アンデレがお目にとまった。彼らが湖に網を打っているときであった。彼らは漁夫であった。
新共同イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
NIVAs Jesus was walking beside the Sea of Galilee, he saw two brothers, Simon called Peter and his brother Andrew. They were casting a net into the lake, for they were fishermen.

4章19節 これに()ひたまふ『(われ)(したが)ひきたれ、さらば(なんぢ)らを(ひと)(すなど)(もの)となさん』[引照]

口語訳イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
塚本訳「さあ、ついて来なさい。人間の(漁をする)漁師にしてあげよう」と言われると、
前田訳彼らにいわれた、「さあ、ついて来なさい。あなた方を人間の漁夫にしてあげよう」と。
新共同イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
NIV"Come, follow me," Jesus said, "and I will make you fishers of men."
註解: イエスは一見して人の心を洞見するの力を持っている。シモンとアンデレを見て彼は彼らが真にキリストの弟子たるに相応しき者なることを知りてこれを召し給うた。彼の弟子として選ばれし人々は祭司、学者、政治家、文学者のごときものではなく頑健素朴なる漁夫であった、彼らの心は祭司のごとき高慢も学者のごとき議論も政治家のごとき策略もなく、文学者のごとくに感傷的でもなかった。イエスはかかる者を愛し給う。「我に従い来たれ」。キリストより宗教、哲学を学ぶのでもなく、また聖書を学ぶのでもなくただ彼に従うことが弟子たる者の唯一の必要なる態度である。かく彼に従う場合には彼は適宜に我らを用い給うのであって、ペテロとアンデレをば彼は人を漁る者とし給うた。▲▲「従う」は単に随行することではなく、弟子入りをすることであり、同時に師に「服従する」ことである。イエスに従うところに「神の国」がある。

4章20節 かれら(ただ)ちに(あみ)をすてて(したが)ふ。[引照]

口語訳すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
塚本訳彼らはすぐ網をすててイエスに従った。
前田訳彼らはただちに網を捨てて彼に従った。
新共同二人はすぐに網を捨てて従った。
NIVAt once they left their nets and followed him.
註解: 彼らはキリストの召しに応じその生活を支えるべき職業をもすて、しかも「直ちに」これをすててキリストに従った。そしてキリストに従って彼らはその生活に思い煩うことを必要としないのである。

4章21節 (さら)(すす)みゆきて、また二人(ふたり)兄弟(きゃうだい)、ゼベダイの()ヤコブとその兄弟(きゃうだい)ヨハネとが、(ちち)ゼベダイとともに(ふね)にありて(あみ)(つくろ)ひをるを()()(たま)へば、[引照]

口語訳そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、
塚本訳またそこから進んでいって、ほかの二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟のヨハネとが、父ゼベダイと一しょに舟で網を繕っているのを見て、お呼びになった。
前田訳そこから進んで行くとほかのふたり兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネがお目にとまった。父ゼベダイと舟の中で網を整えているところであった。そこで彼らを招かれた。
新共同そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。
NIVGoing on from there, he saw two other brothers, James son of Zebedee and his brother John. They were in a boat with their father Zebedee, preparing their nets. Jesus called them,

4章22節 (ただ)ちに(ふね)(ちち)とを()きて(したが)ふ。[引照]

口語訳すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。
塚本訳彼らはすぐ舟と父とをのこして、イエスに従った。
前田訳彼らはただちに舟と父とを残して彼に従った。
新共同この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
NIVand immediately they left the boat and their father and followed him.
註解: 父を呼び給はなかった、老人は多くの場合において新しき真理を受け入れることができない。また父と舟をすてて彼に従った。ヤコブとヨハネの心には多くの人情的苦痛があり、また父も己を捨て去った子を恨んだことであろう、しかしイエスに引き付けられし若人らの心に取ってはこれはやむを得ない態度であった。神は一時の苦痛を永遠の報償をもって慰め給う。

2-4-ハ イエスのガリラヤにおける活動の概要 4:23 - 4:25
(マコ1:39)(ルカ4:44)

4章23節 イエスあまねくガリラヤを(めぐ)り、會堂(くわいだう)にて(をしへ)をなし、御國(みくに)福音(ふくいん)()べつたへ、(たみ)(うち)のもろもろの(やまひ)、もろもろの疾患(わずらひ)をいやし(たま)ふ。[引照]

口語訳イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
塚本訳それからガリラヤ中を回りながら、その礼拝堂で教え、御国の福音を説き、また人々の中のありとあらゆる病気や煩いをなおされた。
前田訳そして全ガリラヤをめぐって、彼らの諸会堂で教え、み国の福音をのべ、民のあらゆる病とあらゆるわずらいをいやされた。
新共同イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
NIVJesus went throughout Galilee, teaching in their synagogues, preaching the good news of the kingdom, and healing every disease and sickness among the people.
註解: 教訓と実行とはイエスにありては常に相伴って離れなかった。霊的にも肉的にも彼は世の救い主たることを示し給うた。
辞解
[会堂] シナゴグは集会または集会場所の意味であってその当時も今日もユダヤ人等が律法と預言者(すなわち聖書)を学び礼拝をなさんがために集まる建物である。その中にて人々は自由に語りまた教えることができた。
[御国の福音] マタ5-7章のごとき福音。
[病] nososは全身の疾病、「疾患」malakiaは部分的疾患、または疾患による衰弱

4章24節 その(うはさ)あまねくシリヤに(ひろま)り、人々(ひとびと)すべての(なや)めるもの、(すなは)ちさまざまの(やまひ)苦痛(くるしみ)とに(かか)れるもの、惡鬼(あくき)()かれたるもの、癲癇(てんかん)および中風(ちゅうぶ)(もの)などを()(きた)りたれば、イエス(これ)(いや)したまふ。[引照]

口語訳そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。
塚本訳そこでイエスの評判が全シリヤに広まり、人々がさまざまな病気や痛みに苦しむ病人、(中でも)悪鬼につかれた者、癲癇、中風の者を皆イエスのところにつれて来たので、それをなおされた。
前田訳そして彼のうわさは全シリアに行きわたった。そして人々は彼のところに病人を皆連れて来た。彼らはいろいろな病や痛みになやまされていた。悪鬼につかれたもの、てんかんのもの、中風のものであって、彼は彼らをいやされた。
新共同そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
NIVNews about him spread all over Syria, and people brought to him all who were ill with various diseases, those suffering severe pain, the demon-possessed, those having seizures, and the paralyzed, and he healed them.
註解: 最後にキリスト十字架につき給うとき、彼に従い来るものほとんど無かりしと対照せよ。人は自己の益のみを求め十字架を負いてキリストに従うことを欲しない。利益ある場合にキリストに従い、しからざる場合に彼を離れる。かかる態度は取るべきでない。キリストはこれを知りつつもなお彼らの病苦を癒し給えるは、ただ彼の愛と力との自然の流露(りゅうろ)であった。▲「悩める者」の原語は「具合が悪いもの」と直訳すべき語で、多くの場合疾病について用いるけれども、「病気」という語ではない。(口語訳参照)

4章25節 ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ(およ)びヨルダンの彼方(かなた)より、(おほい)なる群衆(ぐんじゅう)きたり(したが)へり。[引照]

口語訳こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。
塚本訳ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダン川の向こう(のペレヤ)から来た大勢の群衆が、イエスについて回った。
前田訳そして大勢の群衆がガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダン川の向こうから彼に従った。
新共同こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
NIVLarge crowds from Galilee, the Decapolis, Jerusalem, Judea and the region across the Jordan followed him.
辞解
[デカポリス] デカポリスは「十市地方」と訳することができる。ヨルダンの東部、パレスチナの東北地方に当たる一地方である。その中に十の主なる市があるのでかく名付けられている。
要義 [弟子の召命について] キリストが弟子を召し給うこと、および弟子が彼に従うことはいずれも非常に突然でかつ迅速であった。あるいはそれまでに彼らは屡々(しばしば)イエスの教をきき心の中に煩悶を持っており、イエスに従いたいとの希望を持っていたかもしれない。しかしそのことは明らかでない、いずれにしても神の召命は突然に来るものであってその場合には一刻の猶予もない。我らは直ちにこれに従わなければならないのである。あたかも出征の命を受けし軍人がその家族の病をも顧みることができないと同様である。そしてこの弟子らは直ちにイエスに従ったのであって、その点においてルカ9:57以下の弟子たちとは非常に異なれる正しき態度を取ったのである。
附記 第十二節に「イエス、ヨハネの囚われしことを聞きてガリラヤに退き」とあり、そしてヨハネ伝にはこのときまでに種々の事件があったことを記している。すなわち荒野の試誘(こころみ)の後なおユダヤにおいて、ペテロとアンデレの召命、ピリポとナタナエルの召命とあり(ヨハ1:35-51)、三日の後ガリラヤに在りてカナの婚筵(こんえん)に加わり給い「(ヨハ2:1-11)、次にカペナウムに数日留まり給い(ヨハ2:12)、次にエルサレムに来り給いて過ぎ越しの祭り、宮潔めのことあり(ヨハ2:13-22)、その後またガリラヤに行かんとてサマリヤを通過し給い(ヨハ4:1-42)、かくしてカペナウムに帰り給うた(ヨハ4:43-54)。三福音書とヨハネ伝とはかくのごとく互いに補充的に記事を排列しているのである。次にマタ4:12-14:15まではヨハネ伝に欠けているのも同様の理由によるのであって、我らは補充的にこれを読まなければならぬ。

マタイ伝第5章

分類
3 山上の垂訓 5:1 - 7:29

註解: 「山上の垂訓」と称される聖書のこの部分は、イエスの教訓の重なるものを秩序的に配列したのであって、あたかも幾百の宝石をちりばめた王冠のごとくに珠玉の文字をもって光り輝いている。その中になんら思索の臭みがなく、また方便主義、便宜主義の片影だにもない。全編ただ天来の真理が巨鐘のごとくに響き渡っているのをきくのみである。この山上の垂訓は世界のすべての宝玉的文字の中の最大のダイヤモンドであろう。▲5-7章の山上の垂訓は次のごとくに分類される。5:3-12は我らの心の在り方、5:13-48は対人関係としての新しい律法、6:1-18は宗教生活、6:19-34は経済生活、第7章は雑多の問題。

5章1節 イエス群衆(ぐんじゅう)()て、(やま)にのぼり、()(たま)へば、弟子(でし)たち御許(みもと)にきたる。[引照]

口語訳イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
塚本訳イエスはこれらの群衆を見て、(近くの)山に上られた。お坐りになると、弟子たちがそばに来たので、
前田訳群衆がお目にとまったので彼は山に上られた。彼がすわられると弟子たちがみもとに来た。
新共同イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
NIVNow when he saw the crowds, he went up on a mountainside and sat down. His disciples came to him,

5章2節 イエス(くち)をひらき、(をし)へて()ひたまふ、[引照]

口語訳そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
塚本訳口を開き、こう言って教えられた。(群衆も集まってきて聞いた。)──
前田訳そこで口を開いて彼らを教えられた、いわく、
新共同そこで、イエスは口を開き、教えられた。
NIVand he began to teach them, saying:
註解: どこの山であったかについては種々の伝説があるけれども確実にこれを知ることができない。あたかもモーセがシナイ山において神より律法を授けられしごとく、キリストも山において新たなる律法をその弟子らに授けた。この垂訓を与えられた直接の相手方は弟子らであったが群集もまた共にこれを聞くことができた。この山この人々は幸いである。▲▲ルカ6:17には「平かなる所」とあり「平野の垂訓」となっている。種々の場所で説かれた教訓であることは明らかである。
辞解
[口をひらき] 重大なることを言わんとする場合のまじめなる態度を示す。

3-1 幸福者 5:3 - 5:12
(ルカ6:20-26) 

5章3節 幸福(さいはひ)なるかな、(こころ)(まづ)しき(もの)天國(てんこく)はその(ひと)のものなり。[引照]

口語訳「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
塚本訳ああ幸いだ、神に寄りすがる“貧しい人たち、”天の国はその人たちのものとなるのだから。
前田訳「さいわいなのは霊に貧しい人々、
  天国は彼らのものだから。
新共同「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
NIV"Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.
註解: 真に幸福なるものは自己に道徳、知識、学術、智慧等を豊かに持っているとの自信がある人ではなく、却って乞食のごとくに自己に一物の誇るべきなく、すべてを神にまかせ、神より時々刻々にその必要なる心の糧を与えられる人である。かかる人々の受くる(むくい)はこの世における名誉地位権勢ではない。しかしながら「天国はその人のもの」であって、キリスト再臨のとき天国はかかる人によりて占められるのであり、かつ現在においても既にその一部を握っているのである。▲何となれば天国とは「神の支配」を意味し、この支配に服従するところに天国は存在するからである。
辞解
[貧しき] 原語ptôchosは乞食を意味する。

5章4節 幸福(さいはひ)なるかな、(かな)しむ(もの)。その(ひと)(なぐさ)められん。[引照]

口語訳悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
塚本訳ああ幸いだ、“悲しんでいる人たち、”(かの日に)“慰めていただく”のはその人たちだから。
前田訳さいわいなのは悲しむ人々、
  彼らは慰められようから。
新共同悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
NIVBlessed are those who mourn, for they will be comforted.
註解: 悲しみは不幸の印であると思われているけれどもこれ誤りである。この世には生老病死種々の苦痛がありいずれもみな悲しみに種ならざるはない。これに加えるに自己の罪の悲しみがある。これらの悲しみを悲しむ者こそ、真に天国を求め、神を求め、イエスを仰ぎ見る者であり、やがては愛の神よりの慰めを得ることができるのであって真の幸福者である。反対にこれらの悲しみを忘れんがために、一時の快楽を追う者は永遠に慰めを失ってしまうのである。

5章5節 幸福(さいはひ)なるかな、柔和(にうわ)なる(もの)。その(ひと)()()がん。[引照]

口語訳柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
塚本訳ああ幸いだ、“(踏みつけられて)じっと我慢している人たち、”“(約束の)地(なる御国)を相続する”のはその人たちだから。
前田訳さいわいなのはくだかれた人々、
  彼らは地を継ごうから。
新共同柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
NIVBlessed are the meek, for they will inherit the earth.
註解: 現世のいわゆる成功者たらんとするものは柔和であってはならない。彼は他人を排除、圧迫、誹謗するの勇気と大胆さとを持っていなければならない。かくして成功せる人は現世の幸福者と見なされている。されど真の幸福者は柔和なるものである、人には排斥され、圧迫され、誹謗され、「侮られて人にすてられ悲哀の人にして病患を知れる」人である。かかる人こそ神これを救い給いやがてキリストと共に、この全地を支配する栄光の地に置かれる人である。ガラ3:18エペ1:11
辞解
[地を嗣ぐ] 神がその民に嗣業としてこの地を与え給う約束の実現を意味している。キリスト再臨後の状態である。

5章6節 幸福(さいはひ)なるかな、()()(かわ)(もの)。その(ひと)()くことを()ん。[引照]

口語訳義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
塚本訳ああ幸いだ、(神の)義に飢え渇いている人たち、(かの日に)満足させられるのはその人たちだから。
前田訳さいわいなのは義に飢え渇く人々、
  彼らは満ち足らわされようから。
新共同義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
NIVBlessed are those who hunger and thirst for righteousness, for they will be filled.
註解: この不義の世にありてあまりに熱烈に義を求むる者はこの世の失敗者となるであろう。この世の栄誉を得んとすればある程度の不義に安住しなければならない。この世に安住する人はこの世の成功を()ち得るかも知れない、しかしながら彼らは義に飽くことができない。飢えて食を求め渇して水を求むるごとき熱烈さを以て義を求める者は、たとえこの世の与える何物をも()ち得ないにしてもただ一つ義に飽くことができる。そして義に飽くことは自己の義に飽くのではなく、自己になんらの義なきことを発見してキリストを信じることにより、神はキリストの義をすべて我らに与えて我らを飽かしめ給うのである(Tコリ1:30)。

5章7節 幸福(さいはひ)なるかな、憐憫(あはれみ)ある(もの)。その(ひと)憐憫(あはれみ)()ん。[引照]

口語訳あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
塚本訳ああ幸いだ、憐れみ深い人たち、(かの日に)憐れんでいただくのはその人たちだから。
前田訳さいわいなのはあわれみの人々、
  彼らはあわれまれようから。
新共同憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
NIVBlessed are the merciful, for they will be shown mercy.
註解: 不幸なる人々を見て憐れむのみならず、自己を害せんとする者をも愛してこれをあわれみ、キリストのごとくに己に叛く罪人のために自己を十字架に釘けることができる人は幸福である。かかる人はこの世においては苦しみが絶える時がないであろう。この世に一人でも不幸な人がいる間は、かかる人は「愛による労苦」より免れることができないであろう(Tテサ1:2)。しかしながら神の憐れみは最も多くかかる人の上に下るのであって、憐れみ多きがゆえにこの世において受くる苦難と十字架とは、神よりくる憐れみによりて償われて余りあるであろう。(ヤコ2:13)。
辞解
[憐憫] eleos は最も高尚なる種類の憐み即ち神の人に対する憐みに最も多く用いられ、単なる同情以上の心を表している。

5章8節 幸福(さいはひ)なるかな、(こころ)(きよ)(もの)。その(ひと)(かみ)()ん。[引照]

口語訳心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
塚本訳ああ幸いだ、“心の清い人たち、”(御国に入って)神にまみえるのはその人たちだから。
前田訳さいわいなのは心の清い人々、
  彼らは神を見ようから。
新共同心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
NIVBlessed are the pure in heart, for they will see God.
註解: 心kardia-heart即ち心情の純にして邪念なき者は、この世の汚れを見てこれに耐えることができない。彼は阿諛(あゆ)、姦淫、狡計、欺瞞、不義、不正等あらゆる邪曲を行うことができず、これを目撃することすら彼には耐えられない。かかる人は一見社会と歩調を共にすることができず、世にありてただ不快のみにさらされているようであるけれどもそうではない。かかる人こそこの世の汚れに目を背けることにより神にその目を向けることができるのである。そして一点の汚れなき神は最もよく御自信をかかる心に映し給う。

5章9節 幸福(さいはひ)なるかな、平和(へいわ)ならしむる(もの)。その(ひと)(かみ)()(とな)へられん。[引照]

口語訳平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
塚本訳ああ幸いだ、平和を作る人たち、神の子にしていただくのはその人たちだから。
前田訳さいわいなのは平和をつくる人々、
  彼らは神の子と呼ばれようから。
新共同平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
NIVBlessed are the peacemakers, for they will be called sons of God.
註解: この世において平和を来たらせんとせば無抵抗より外にない。自己の権利利益を少しにても主張せんとすれば、必ず他人の主張と衝突してそこに争闘が生ずる。個人的闘争、階級闘争は皆この自己主張の結果である。キリストのみは完全に自己主張をし給わず、ゆえに「平和の君」と称えられ、また「平和ならしむる者」(エペ2:14-15)であった。かかる人は一生涯十字架を負い、ただ自己に対して損失のみを招くであろう、しかしながらかかる人こそキリストと皆に神の子と称えられるべきで人である。何となればかかる心はただ神のみこれを持ち給い、神の心を心とするもののみに与えられる心情であるからである。

5章10節 幸福(さいはひ)なるかな、()のために()められたる(もの)天國(てんこく)はその(ひと)のものなり。[引照]

口語訳義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
塚本訳ああ幸いだ、信仰のために迫害される人たち、天の国はその人たちのものとなるのだから。
前田訳さいわいなのは義のゆえに迫害される人々、
  天国は彼らのものであるから。
新共同義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
NIVBlessed are those who are persecuted because of righteousness, for theirs is the kingdom of heaven.
註解: この世は悪魔の支配下にある。そして悪魔はある程度まで正義を装っていながら、絶対の正義をば最もこれを忌み嫌っている。ゆえに絶対の正義を主張する人は悪魔に従うこの世より迫害せられることは当然の運命である。ゆえにこの迫害を恐れる者はまず悪魔に跪拝(きはい)し、絶対の正義をばこれを放棄しなければならない。世はキリストを十字架に釘けた、彼の義に耐えなかったからである。古来の預言者もかかる運命にあった。されどかかる人は天国を所有している。天国は悪魔の関与し得ざる範囲であって、ただ義しき人のみこれに属するのである。迫害は一時であって天国は永遠である。義のために責められるものの幸福はこの点に存している。

5章11節 ()がために、(ひと)なんぢらを(ののし)り、また()め、(いつは)りて各樣(さまざま)()しきことを()ふときは、(なんぢ)幸福(さいはひ)なり。[引照]

口語訳わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
塚本訳わたしゆえに罵られたり、迫害されたり、あらん限りの根も葉もない悪口を言われたりする時、あなた達は幸いである。
前田訳人々がわたしゆえにあなた方をののしり、迫害し、うそをついてあらゆる悪口をいうとき、あなた方はさいわいである。
新共同わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
NIV"Blessed are you when people insult you, persecute you and falsely say all kinds of evil against you because of me.

5章12節 (よろこ)びよろこべ、(てん)にて(なんぢ)らの(むくい)(おほい)なり。(なんぢ)()より(さき)にありし預言者(よげんしゃ)たちをも、()()めたりき。[引照]

口語訳喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
塚本訳小躍りして喜びなさい、褒美がどっさり天であなた達を待っているのだから。あなた達より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
前田訳よろこび、歓呼しなさい、あなた方の褒美が天にたくさんあるから。このように人々はあなた方より前の預言者たちをも迫害したのである。
新共同喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
NIVRejoice and be glad, because great is your reward in heaven, for in the same way they persecuted the prophets who were before you.
註解: 人は単に義のために迫害されるのみならず、また「我がため」すなわちキリストの御名を呼ぶがために迫害されることは今日我ら自身これを経験することができる。「罵り」「責め」「(いつわ)りて悪口する」ことも今日目前に行われている。キリストを信ずるのゆえをもってかかる運命に合うことは決して快いものではない。然るにキリストは「汝ら幸福なり喜び喜べ」と言い給うのはなぜであろうか。これ我らのこの世においては多くの不幸と不快さを味はなければならないけれども天国において大なる報償が待っているからである。昔の預言者すら同様の迫害を受けたのである。これ信仰に立つものの当然の運命である。
要義1 [七福の解] (1)幸福の観念がここに根本的革命をきたしているのであって、従来幸福と考えられていた事柄がすべて不幸であり、従来不幸と考えられていたことが幸福であることを見るのである。キリスト者は悔改めて新生を経験したものである以上、その観念もまたすべて一変するのが当然である。かくしてキリストを信ずることによりこの世の不幸はその不幸のままに不幸たるの性質を失ってしまったのである。(2)次に注意を要することは、この数節中に未来観すなわち来世に対する約束と憧憬が非常に強いことである。「天国はその人のものなり」「地を嗣がん」「天にて汝の報いは大なり」等はもちろん、その他の約束もすべて未来に対する希望であって、現世におけるあらゆる不幸をして、甘露のごとく甘からしむるものはこの希望によるのである。もしこの来世観を除いてしまうならば、このすべての幸福はたちまちにして不幸と化してしまうであろう。
要義2 [未来の報償について] 聖書にはいたるところ報償について記されてある(マタ6:1以下、ヘブ11:26その他)。報を得んがために信じまたは善き行為をなすことは、卑しい心持であるように思われ、したがって信仰は信仰それ自身の価値のために信ずべくして、これに対しなんらの報いをも要求しない心が最も高尚なる心であると思われている。しかるに聖書は明らかにこの思想に反対している。たとえばモーセは「キリストに因る(そしり)はエジプトの財産にまさる大なる富を思えり、これ報いを望めばなり」(ヘブ11:26)といわれ、またパウロもまた「われ善き戦闘を戦い、走るべき道程を果たし、信仰を守れり、今より後義の冠冕わがために備はれり」(Uテモ4:7、8)といっている。本来一定の行為または一定の事実に対し、これに相当の報いがあることは自然の理法である。しかるに人のこれを卑しむに至ったゆえんは、一定の行為または事柄に対して過度に多くの報いを求むる心を起こしたからに過ぎない(▲または逆に、ある報償を得る目的をもって一定の行為をなす場合もこれと同様である)。正当なる報いは神必ずこれを与え給うのであって、人はまた当然にこれを期待することができる。そして聖書の与えることを約束している報償の最大なるものは神の愛である。否是がすべてであるということができる。「神に愛される事」これに優れる報いはない、そしてこの報いはこれを望んではならない理由は少しもない。これは利己主義ではなく、神に対する人間の当然の関係であるからである。そして聖書に他の報償---例へば永遠の生命、未来の嗣業、義の冕、神の国の栄光、宇宙の支配等---が約束せられている場合においても、これらはみな神とのこの愛の関係の当然の結果であり、罪を除かれて完全に神の愛を享受し、神の栄光を見る者の当然の姿である。ゆえに信仰とこの報償とは一物の両面に過ぎない、報償とは信仰をその未来の形において見たるものをいい、信仰とは報償をその現在の姿においていい表したものを言う。

3-2 弟子たるものの地位 5:13 - 5:16
(ルカ14:34、35)(ルカ11:33) 

5章13節 (なんぢ)らは()(しほ)なり、(しほ)もし效力(かうりょく)(うしな)はば、(なに)をもてか(これ)(しほ)すべき。(のち)(よう)なし、(そと)にすてられて(ひと)()まるるのみ。[引照]

口語訳あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
塚本訳(預言者と同じく)あなた達は地の塩である。(世の腐敗を防ぐのが役目である。)しかしもし塩が馬鹿になったら、何で(もう一度)塩気をもどすか。外に捨てられて人に踏まれるほか、もはや何の役にも立たない。
前田訳あなた方は地の塩である。しかし塩がきかなくなったら、何で塩づけしよう。もはや何も役立たず、外に投げ捨てられて人に踏まれるほかはない。
新共同「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
NIV"You are the salt of the earth. But if the salt loses its saltiness, how can it be made salty again? It is no longer good for anything, except to be thrown out and trampled by men.
註解: キリスト者は3-12節に延べしごとく「心の貧しき者、悲しむ者…迫害される者」等、要するに「世の塵芥(ちりあくた)のごとく、万の物の垢のごときもの」である(Tコリ4:13)。しかるにも関わらず彼らは極めて重要な職務を演じているのであって、キリストは「塩」と「光」との二者をもってこの任務、地位を表示し給うた。キリスト者は種々の意味において塩に似ている。第一に塩は人間の生命を維持するに欠くべからざる養分であると同じく、この世にキリスト者なくしてその霊的生命は永く維持せられない。第二に塩は食物に味を与えるのであって、この社会をキリスト教がいかに美化したかは人皆これを知っている。第三に塩は物の腐敗を止むる力を有っているごとく、キリスト者はこの社会や国家の良心となってその腐敗を止めたこと幾何(いくばく)であるかを知らない。第四に塩はそれ自身のみでは何人もこれを食うことができない。このごとくキリスト者は多くの人々に敬遠せられている。(▲第五に塩はそれ自身の形体を他の食物の中に浸み込ませて自己を表さない。しかもその物に味を与える。キリスト者も自己の行動を人に誇示しないけれども世を潔める力がある。)以上の諸性質はみな塩がその味を有っているからであって、もしその味を失いてキリスト者が世の腐敗と歩調を合わせ人々の良心を刺す力がなくなるならば、全然無用のものとなってしまうのみならず、もしキリスト者が人に嫌われることを恐れて世の風潮に妥協するならば、却って人より軽蔑せられ外に棄てられ人に踏まれるにいたるのである。

5章14節 (なんぢ)らは()(ひかり)なり。(やま)(うへ)にある(まち)(かく)るることなし。[引照]

口語訳あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
塚本訳あなた達は世の光である。山の上にある町は隠れていることは出来ない。
前田訳あなた方は世の光である。山の上にある町は隠されえない。
新共同あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
NIV"You are the light of the world. A city on a hill cannot be hidden.

5章15節 また(ひと)燈火(ともしび)をともして(ます)(した)におかず、燈臺(とうだい)(うへ)におく。かくて燈火(ともしび)(いへ)にある(すべ)ての(もの)(てら)すなり。[引照]

口語訳また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
塚本訳また、(せっかく)明りをともして枡をかぶせる者はない。かならず燭台の上に置く。すると、家の中におる人を皆照らすのである。
前田訳人は明りをつけて枡の下にでなく燭台の上に置く。それは家にあるものすべてを照らす。
新共同また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
NIVNeither do people light a lamp and put it under a bowl. Instead they put it on its stand, and it gives light to everyone in the house.
註解: 「神は光にして少しの暗き所なし」(Tヨハ1:5)。神は光である「もろもろの人を照らす真の光ありて世にきたれり」(ヨハ1:9)。キリストは世の光なり(ヨハ8章)。ゆえにキリスト者の性質を示すに最も相応しき語の一つは「光」である。何となれば光は暗黒に相対立していると同じく、キリスト者は神とキリストの光を反射してこの世の暗黒 (ヨハ1:5Tヨハ5:19コロ1:13) に対立しているからである。すでに世の光であるとするならば、光相応の任務を果さなければならない、即ちキリスト者は谷間の町や升の下の燈火のごとくに人より隠れることなく、山の上の町や燈台の上の燈火のごとくに人々の仰ぐところとなりこの世の暗黒を照らさなければならぬ。存在を認められざるキリスト者や、また世の罪悪を照らしてこれを潔めることのできないキリスト者は、光たるの性質をもっていないものである。
辞解
[山の上にある町] パレスチナにはこの種の町が多い、ガリラヤのサフエツトやナザレ等はこれであって、イエスはおそらくこれを指しつつ語り給うたであろう。
[燈臺] ▲▲誤解を避けるには、「燈台」よりも口語訳の「燭台」が適当である。

5章16節 かくのごとく(なんぢ)らの(ひかり)(ひと)(まへ)にかがやかせ。これ(ひと)(なんぢ)らが()行爲(おこなひ)()て、(てん)にいます(なんぢ)らの(ちち)(あが)めん(ため)なり。[引照]

口語訳そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
塚本訳そのようにあなた達も、その光を世の人の前に輝かし、人があなた達の良い行ないを見て、あなた達の天の父上をあがめるようにせよ。
前田訳このようにあなた方の光が人の前に照るようにせよ、人があなた方のよいわざを見て天にいますあなた方の父をたたえるために。
新共同そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
NIVIn the same way, let your light shine before men, that they may see your good deeds and praise your Father in heaven.
註解: キリストの弟子は決してただ山中に隠遁し、または自らの心の中にのみ立て籠もって独自の安心を得ることをもって満足してはならない。光の本領を発揮して人の前にこれを輝かさなければならない。ただしこれは自己の名誉を求めるからではない、人々をしてキリスト者の父にいます神を崇めしめんがためである。主観的満足をもって足れりとしてその信仰を他人に対して隠しているキリスト者は神の光を受けてこれを私用しているものであって、やがては神はその光を彼より奪い給うであろう。キリスト者の目的は自己の安心ではなく神の御名が崇められんことである。

3-3 律法の完成 5:17 - 5:48
3-3-イ 概論 5:17 - 5:20  

5章17節 われ律法(おきて)また預言者(よげんしゃ)(こぼ)つために(きた)れりと(おも)ふな。(こぼ)たんとて(きた)らず、(かへ)つて成就(じゃうじゅ)せん(ため)なり。[引照]

口語訳わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
塚本訳わたしが律法や預言書[聖書]を廃止するために来たと思ってはならない。廃止するどころか、成就するために来たのである。
前田訳律法または預言書をこわすためにわたしが来たと思ってはならない。わたしが来たのはこわすためでなく全うするためである。
新共同「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
NIV"Do not think that I have come to abolish the Law or the Prophets; I have not come to abolish them but to fulfill them.
註解: 「律法また預言者」とは全旧約聖書を指しており、新約聖書ができあがるまでは旧約聖書をかく読んでいた。これを(こぼ)つとは、旧約聖書に示されし律法を守らないこと、これを「成就する」とは、これを「充実せしむる」ことを意味し、律法を完全に守ることはもちろん更にこの欠けたるを補い、生命をこれに吹き入れ完全に律法を実現することである。キリストに対し彼は過激主義、律法破壊主義であるとの非難があったことに対する反対の説明であって、「予は律法破壊者にあらざるはもちろん、律法を単に形式的に守るだけでなく、これをその本来の意義において完全に成就し実現せんがために来たのである」との意味である。

5章18節 (まこと)(なんぢ)らに()ぐ、(てん)()()()かぬうちに、律法(おきて)一點(いってん)一畫(いっかく)(すた)ることなく、ことごとく(まった)うせらるべし。[引照]

口語訳よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
塚本訳アーメン、わたしは言う、天地が消え失せても、(そこに書かれている)すべてのことが実現するまでは、律法(と預言書)から、その一点一画といえども決して消え失せない。
前田訳本当にいう、天と地が過ぎ行くまで、万物が成就するまで一点一画も律法から過ぎ行かない。
新共同はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
NIVI tell you the truth, until heaven and earth disappear, not the smallest letter, not the least stroke of a pen, will by any means disappear from the Law until everything is accomplished.
註解: 律法は神の与え給えるものである、いかなる小なる律法も(すた)れることなく必ず成就せられるべきものである。しかしながらキリストが「(ことごと)く全うせらるべし」といい給いし意味は、律法が死せる文字として形式的に全うされることではなく、活ける神の言葉として内容的、本質的、霊的に全うされることを意味していた。21-48節はこのことを明らかにしている。ユダヤ人は律法の成就の困難を知っていた。しかるにキリストはその人格をもって完全に律法を成就し給うた。キリストの人格の中に律法に反せる一点をも見出すことができない。
辞解
[誠に] 原語は「アーメン」
[汝らに告ぐ] キリストの神の子たる権威を示す、預言者は「エホバ言い給う」といい、使徒は「主言い給う」といい、キリストは「我なんじらに告ぐ」といい給うた。
[一點一畫] 律法が記されてあるヘブル文字の中には、一点からなっている文字もあり、またその畫が相類似していて、これを区別するのに些細の差異をもってすることが必要な文字もある。かかる些細な点に至るまで皆成就すること
[過ぎ往かぬ] ▲口語訳「滅び行く」は意訳。
[癈る] ▲▲「過ぎ往く」と同様。原語はparerchomai。

5章19節 この(ゆゑ)にもし(これ)()のいと(ちひさ)誡命(いましめ)(ひと)つをやぶり、(かつ)その(ごと)(ひと)(をし)ふる(もの)は、天國(てんこく)にて(いと)(ちひさ)(もの)(とな)へられ、(これ)(おこな)ひ、かつ(ひと)(をし)ふる(もの)は、天國(てんこく)にて(おほい)なる(もの)(とな)へられん。[引照]

口語訳それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
塚本訳だから、これらの掟の中で一番小さいものを一つでも破り、またそのように人に教える者は、天の国で一番小さい者となり、反対に、これを行ない、また(そのように人に)教える者は、天の国で一番大きい者となろう。
前田訳これらの掟のいと小さいものひとつでも破り、そのように人を教えるものは、天国でいと小さいものといわれ、それを行ない教えるものは天国で偉大といわれよう。
新共同だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
NIVAnyone who breaks one of the least of these commandments and teaches others to do the same will be called least in the kingdom of heaven, but whoever practices and teaches these commands will be called great in the kingdom of heaven.
註解: ユダヤの律法の文字的遵守にあらず、その精神の完全なる実現を言うのである。この節および前節は一見文字的に律法遵守を教えることを意味している様であるけれども、21節以下および主イエスの生涯を見る場合にこの然らざることを知ることができる。そして聖書を深く探る場合には、この一見律法の文字に違反する行為のごとくに見えることも返って文字的にも律法にかなうことを発見するであろう、キリストもまたかくこれを説明し給うた(マタ12:1-8、9-12)。▲口語訳の「しかし」は必要。

5章20節 (われ)なんぢらに()ぐ、(なんぢ)らの()學者(がくしゃ)・パリサイ(びと)(まさ)らずば、天國(てんこく)()ること(あた)はず。[引照]

口語訳わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
塚本訳わたしは言う、あなた達の行ないが聖書学者やパリサイ人以上にりっぱでなければ、決して天の国に入ることはできない。
前田訳わたしはいう、あなた方の義が学者とパリサイ人のそれにまさらねば決して天国に入れまい、と。
新共同言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
NIVFor I tell you that unless your righteousness surpasses that of the Pharisees and the teachers of the law, you will certainly not enter the kingdom of heaven.
註解: 学者、パリサイ人らの義は律法を文字通りに遵守せんとする律法的の義であり、キリスト者の義は信仰により神に愛せられ神を愛し人を愛する信仰の義である。ゆえに律法の文字以上に出で、しかも律法を完全に守ることができる。「愛は律法の完成なり」(ロマ13:10)。
要義1 [モーセとキリスト、律法と福音] ユダヤ人は千数百年の間モーセの律法(十戒のみならずその他の律法の数々)によりて訓練されていた。これとキリストの福音との関係は重大なる問題である。この関係はロマ書その他においてなお詳細これを学ばなければならないけれども、要するに(1)すべての人は律法を完全に守り得ざるがために律法は人を呪いこれを殺すものであり (申27:26ロマ7:9-12。Uコリ3:6) 、これに反しキリストの福音は我らの罪を赦して、我らに生命を与えるものであること (ロマ8:2ヨハ3:16) 。(2)律法はこれによりて自己の罪を知らしめ、その結果キリストによる罪の赦の福音の何たるかを覚らしめるための働きをなすに過ぎざること。(3)律法は外部より我らを規律し福音は心を新たにして、内部より新たなる力となりて我らを動かすこと。(4)したがって律法の文字に違反するが如くに見えても、却って律法を完全に成就することができること等である。モーセがシナイ山において「雷と(いなづま)と密雲との中」にエホバに接し、その山の四周(まわり)には境界が設けられ、これに触るものは必ず殺さるべしとの恐るべき宣言の中に、その十戒を与えられたのと、主イエスがガリラヤの春の山の上に、なんらの障壁もなく弟子たちと群集とに囲繞(いにょう)せられて、愛と真理とに満てる生命の福音を与え給うたのとは、よき対照をなしているのであって律法と福音との性質を暗示しているがごとくである。そしてユダヤ人以外の人に取っても神は何らかの形において(孔子、釈迦、モハメットその他により)律法を与え給うたのであってこれらは皆キリストにおいて完成せらるべきものである。
要義2 [キリストと旧約聖書] キリストは(ただ)に旧約聖書の預言の実現であり(マタ1:22註)、また旧約聖書を神の言葉として信じかつこれを用い給いしのみならず(マタ4:4註)、キリストの生涯が旧約全時代の律法、歴史、祭事の実現であった。レビ記の祭事はすべてキリストにおいて実現した(ヘブ9章ヘブ10章)。キリストは「我らの過ぎ越しの子羊」(Tコリ5:7)であった。モーセが野に銅の蛇を挙げたのは、キリストの十字架の型であった(ヨハ3:14)。のみならず彼はその愛をもって旧約のすべての律法を完全に成就し給い、その一点一画も廃ることが無きことを示し給うた、「キリストの律法」(ガラ6:2)すなわちこれである。

3-3-ロ 殺すなかれ 5:21 - 5:26
(ルカ12:57-59)   

5章21節 (いにし)への(ひと)に「(ころ)すなかれ、(ころ)(もの)審判(さばき)にあふべし」と()へることあるを(なんぢ)()きけり。[引照]

口語訳昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
塚本訳(だからわたしの戒めは彼らよりもきびしい。)──あなた達は昔の人が(モーセから、)“(人を)殺してはならない、”殺した者は裁判所で罰せられる、と命じられたことを聞いたであろう。
前田訳あなた方も聞いたように、昔の人々にいわれている、『殺すな、殺すものは裁きにあおう』と。
新共同「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
NIV"You have heard that it was said to the people long ago, `Do not murder, and anyone who murders will be subject to judgment.'
註解: モーセは古の人に告げ、キリストは「我は汝らに告ぐ」といい給う。「殺すなかれ」(出20:13申5:17)は十戒の第5戒であり、これを犯す者は各市に組織せられし七人の法廷(申16:18)によりて審判せられ殺さるべきであった(レビ24:17。民35:30

5章22節 されど(われ)(なんぢ)らに()ぐ、すべて兄弟(きゃうだい)(いか)(もの)は、審判(さばき)にあふべし。また兄弟(きゃうだい)(むか)ひて、(おろか)(もの)よといふ(もの)は、衆議(しゅうぎ)にあふべし。また痴者(しれもの)よといふ(もの)は、ゲヘナの()にあふべし。[引照]

口語訳しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
塚本訳しかしわたしはあなた達に言う、兄弟に腹をたてる者は皆、(ただそれだけの理由で、天国の)裁判所で罰せられる。兄弟に馬鹿と言う者は、最高法院で罰せられる。畜生と言う者は、火の地獄で罰せられる。
前田訳しかしわたしはあなた方にいう、すべて兄弟を怒るものは裁きにあおう。兄弟に愚かものというものは最高法院(サンヘドリン)にかけられよう。痴(し)れ者というものは火の地獄(ゲヘナ)に投げ込まれよう。
新共同しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
NIVBut I tell you that anyone who is angry with his brother will be subject to judgment. Again, anyone who says to his brother, `Raca, ' is answerable to the Sanhedrin. But anyone who says, `You fool!' will be in danger of the fire of hell.
註解: 「されど我は汝らに告ぐ」と言いてモーセの律法をキリストがいかなる意義において成就し給うかを示している。すなわち刀を以って人を殺すだけが殺人ではない、世人がほとんど顧みもしないことであるが、人に対し少しにても憤怒、罵詈(ばり)の言を用いるだけでも既に殺人の罪に相当せる罪を犯しているのである。従って審判を免れることができない。
辞解
[愚者よ] 原語ラカはヘブル語の音をそのまま用いているのであって、元来空虚を意味している語である(ヤコ2:20)。日本語の「トボケ!」等に相当しているであろう。意味の強さにおいて「怒」と「痴者」との中間に位する。
[痴者] は真に愚かなる者を意味している「馬鹿!」に相当する。
[審判] 前節に示せる七人の裁判
[衆議] エルサレムに開かれる七十二人の法官の会議で祭司長、長老、パリサイ人らにて組織せられ重罪を裁判するもの、この会議所を衆議所という。
[ゲヘナ] ゲイ・ヒンノムすなわち「ヒノムの谷」の転化で、エルサレムの南の谷で古代モロクにささげられし人の死骸が焼かれて、火が絶えず燃えていた所(エレ7:31、32)、これより転じて地獄の火のごとき意味に用いられている。以上の三種の罪とその罰は次第に重くなっていくことを見る事ができる

5章23節 この(ゆゑ)(なんぢ)もし供物(そなへもの)祭壇(さいだん)にささぐる(とき)、そこにて兄弟(きゃうだい)(うら)まるる(こと)あるを(おも)()さば、[引照]

口語訳だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、
塚本訳だからもし、あなたが祭壇に供え物を捧げるとき、そこで兄弟に恨まれていることを思い出したなら、
前田訳祭壇に供え物をするとき、そこで兄弟があなたをうらんでいることを思い出したら、
新共同だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、
NIV"Therefore, if you are offering your gift at the altar and there remember that your brother has something against you,

5章24節 供物(そなへもの)祭壇(さいだん)のまへに(のこ)しおき、()()きて、その兄弟(きゃうだい)和睦(わぼく)し、(しか)るのち(きた)りて、供物(そなへもの)をささげよ。[引照]

口語訳その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
塚本訳供え物をそこに、祭壇の前に置き、まず行ってその兄弟と仲直りをし、それからかえって来て供え物を捧げよ。
前田訳そこで祭壇の前に供え物を置いて、まず去って兄弟と和し、それから供え物をしに来なさい。
新共同その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
NIVleave your gift there in front of the altar. First go and be reconciled to your brother; then come and offer your gift.
註解: 申16:16、17に従い供え物を祭壇にささぐる時は人の心は最も真面目になり、平生気が付かざりし罪をも思い出すのである。良心に不安を持ちつつ神の祭壇にぬかずくことは何の役にも立たない、我らまず兄弟に対して全く罪なき状態に入らなければならない(Tヨハ3:15)。▲不義を行いながら如何ほど熱心に教会の礼拝に出席してもそれは神に受け容れられない。礼拝出席をすすめる前に、正義の実行を一層強調しなければならない。

5章25節 なんぢを(うった)ふる(もの)とともに(みち)()るうちに、(はや)和解(わかい)せよ。(おそ)らくは、(うった)ふる(もの)なんぢを審判(さばき)(ひと)にわたし、審判(さばき)(ひと)下役(したやく)にわたし、(つい)になんぢは(ひとや)()れられん。[引照]

口語訳あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。
塚本訳また告訴人とは、一しょに(裁判所へ)行く途中で、早く示談にするがよい。そうでないと、告訴人は裁判官に、裁判官は下役にあなたを引き渡して、牢に入れられるにちがいない。
前田訳あなたの告訴人と早く和解しなさい、彼とともになお道行くうちに。さもないと、告訴人はあなたを裁き人に、裁き人は下役に渡し、あなたは牢に投げ込まれよう。
新共同あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。
NIV"Settle matters quickly with your adversary who is taking you to court. Do it while you are still with him on the way, or he may hand you over to the judge, and the judge may hand you over to the officer, and you may be thrown into prison.
註解: 債務者が債権者に引き立てられて裁判所に赴く姿であって、最後の審判を比喩的に示したものと解することができる。この世において我ら人に対して多くの負債(おいめ)を持っている、このすべての罪は最後の審判において訴えられるのであるから、今の間にその負債を払って和解しなければならない、しからざれば必ず獄に入れられるであろう。この罰を代受し給えるイエスの十字架こそまことに尊き償いである。

5章26節 まことに(なんぢ)()ぐ、(いち)(りん)ものこりなく(つくの)はずば、其處(そこ)をいづること(あた)はじ。[引照]

口語訳よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。
塚本訳アーメン、わたしは言う、最後の一コドラント[十円]を返すまでは、決してそこから出ることはできない。
前田訳心からあなたにいう、最後の一コドラントまで払わないかぎり決してそこから出られまい、と。
新共同はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
NIVI tell you the truth, you will not get out until you have paid the last penny.
註解: 神の義は一点の不義をも罰せずにおき給わない、これ神の当然の性質である。
要義1 [我らは殺人犯である] この一段を読んで我らは殺人犯に相当していると気付かない人はないであろう。実際対人関係において我らの心の中には憤怒、軽蔑、嫉妬、負債等あらゆる罪を犯している、この一つ一つが最後に神の前に審判かれる時、我らは永遠の刑罰に処せられるに相当しているのである。律法は厳格である。その一点一画も廃ることがない、我らは罪の最後の一厘までもこれを償わなければならない。
要義2 [キリストの償いの必要] キリストはかかる厳格なる律法を示して我らの良心を覚醒し、我らすべてが永遠の獄に投ぜらるべき者なることを自覚せしめ、そしていかにしてもこれを自ら償うの力なきことを発見して、キリストの十字架の償いに信頼せしめる様に導き給う。彼はその実血を流して我らをすべての罪より償いだし給うた(Tペテ1:19テト2:14)。ゆえに最後の審判においてキリスト我らのためにその義を示し、我らを永遠の審判より免れしめ給う(ロマ8:1)。
要義3 [この教訓を文字的に解すべからざること] キリストのすべての教訓はこれを律法化し、文字化することによりてその精神を失ってしまう。常にこれを霊的に解しなければならぬ。キリスト自身マタ23:17において「痴者よ」といい給うたことを注意しなければならぬ。キリストは言行不一致の人であったのではない、またキリストご自信ゲヘナの火にあうべきではない、彼はこの教訓をその霊的意味において語り給うたのである。愛の心より「痴者よ」という事と、憎の心よりこれを言うことは全く別事である。

3-3-ハ 姦淫するなかれ 5:27 - 5:30  

5章27節 姦淫(かんいん)するなかれ」と()へることあるを(なんぢ)()きけり。[引照]

口語訳『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
塚本訳あなた達は(昔の人がモーセから、)“姦淫をしてはならない”と命じられたことを聞いたであろう。
前田訳あなた方が聞いたように、『姦淫するなかれ』といわれている。
新共同「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
NIV"You have heard that it was said, `Do not commit adultery.'

5章28節 されど(われ)(なんぢ)らに()ぐ、すべて色情(しきじゃう)(いだ)きて(をんな)()るものは、(すで)(こころ)のうち姦淫(かんいん)したるなり。[引照]

口語訳しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
塚本訳しかしわたしはあなた達に言う、情欲をもって人妻を見る者は皆、(見ただけで)すでに心の中でその女を姦淫したのである。
前田訳しかしわたしはあなた方にいう、『すべて欲望をもって女を見るものは彼の心のうちですでに彼女を犯したのである』と。
新共同しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
NIVBut I tell you that anyone who looks at a woman lustfully has already committed adultery with her in his heart.
註解: 実に徹底せる罪悪感である。心の中に罪の影が宿っただけで既に罪を犯したのである。21-26においてはいかなる小なる罪も大罪と同一なることを示し、ここにはいかに内面的な罪も外部に表れし罪と同一となることを示す。この聖言これを他にも応用するならば憎む者は殺人罪を犯し、他人のものを要求するものは窃盗罪を犯したこととなるのである。
辞解
[色情を懐きて] ▲「色情をとげんとて」の意。(pros to + 不定詞)
[姦淫] 主として他人の妻を犯す場合に用いる、
[女] 主として人妻の場合に用いていいるけれども、この場合はこれをその以外の女、および姦淫以外の淫行にも応用することができる。

5章29節 もし(みぎ)()なんぢを(つまづ)かせば、(くじ)(いだ)して()てよ、五體(ごたい)(ひと)(ほろ)びて、全身(ぜんしん)ゲヘナに()()れられぬは(えき)なり。[引照]

口語訳もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
塚本訳それで、もし右の目があなたを罪にいざなうなら、くじり出して捨てよ。体の一部が無くなっても、全身が地獄に投げ込まれない方が得であるから。
前田訳もし右の目があなたを迷わすならば、それを取り出して投げ捨てよ。体の一部を失っても全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよい。
新共同もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。
NIVIf your right eye causes you to sin, gouge it out and throw it away. It is better for you to lose one part of your body than for your whole body to be thrown into hell.

5章30節 もし(みぎ)()なんぢを(つまづ)かせば、()りて()てよ、五體(ごたい)(ひと)(ほろ)びて、全身(ぜんしん)ゲヘナに()かぬは(えき)なり。[引照]

口語訳もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。
塚本訳もしまた右の手があなたを罪にいざなうなら、切り取って捨てよ。手足が一本無くなっても、全身が地獄へ行かない方が得であるから。
前田訳また、もし右の手があなたを迷わすならば、それを切り取って投げ捨てよ。体の一部を失っても全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよい。
新共同もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
NIVAnd if your right hand causes you to sin, cut it off and throw it away. It is better for you to lose one part of your body than for your whole body to go into hell.
註解: 我らの五官はまず我らをして罪を犯さしむる原因となる。我らはかかる危険物を全くその身体より除き去り、もって罪に陥りて全身の滅亡することを免れることが必要である。そして五官は我らをして罪の思いを懐かしむる起因であって、実際上我らの罪は心の中に起こるのである以上、我らはこの心をも抉り出して棄てなければならぬ、ゆえにこの意味において我らの身体中生き残るべき部分はないであろう。我らが死してキリスト我が中に生き御霊を以って我らを導くの必要があるのはこのためである(ガラ2:20ルカ9:24)。この教訓ももちろん文字のままに取るべき教訓ではなく、全身完全に聖潔でなければならないことを教え給えるものである。▲▲すなわち事実目や手を切り取っても役に立たない。イエスは我らが我らの罪に対する嫌悪の心がかくも強くあるべきことを教えたのである。

3-3-ニ 離婚の禁止 5:31 - 5:32
(マコ10:11-12) (ルカ16:8)  

5章31節 また「(つま)をいだす(もの)離縁状(りえんじゃう)(あた)ふべし」と()へることあり。[引照]

口語訳また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。
塚本訳また(昔の人は)、“妻を離縁する者は離縁状を渡せ”と命じられた。
前田訳またいわれている、『妻と離婚するものは雑縁状を渡せ』と。
新共同「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。
NIV"It has been said, `Anyone who divorces his wife must give her a certificate of divorce.'

5章32節 されど(われ)(なんぢ)らに()ぐ、淫行(いんかう)(ゆゑ)ならで()(つま)をいだす(もの)は、これに姦淫(かんいん)(おこな)はしむるなり。また()されたる(をんな)(めと)るものは、姦淫(かんいん)(おこな)ふなり。[引照]

口語訳しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。
塚本訳しかしわたしはあなた達に言う、不品行以外の理由で妻を離縁する者は皆、その女に姦淫を犯させるのである。離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すのである。
前田訳しかしわたしはあなた方にいう、『すべて不身持のこと以外でその妻と離婚するものは彼女に姦淫をさせるし、離婚された女をめとるものは姦淫を犯す』と。
新共同しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
NIVBut I tell you that anyone who divorces his wife, except for marital unfaithfulness, causes her to become an adulteress, and anyone who marries the divorced woman commits adultery.
註解: 絶対に離婚を禁じた給える理由は、婚姻は神のあわせ給えるものであるからである(マタ19:1以下に詳しい)。ゆえに夫婦の関係と根本的に相容れない淫行の罪を除いては、絶対に夫婦は別離すべきではない、これを破って夫婦別居するに至ってもなお神の前に夫婦関係は継続しているものと認められる。ゆえに妻をいだす者はその妻の再婚によって淫行の罪を行はしめることとなり、又自ら他の女を娶るならば同じく姦淫を行うこととなり、又他人から出されたる女を娶れば又同様に姦淫である。ゆえにかかる場合の取るべき道はTコリ7:11に示され、又例外の場合はTコリ7:15に記されている。
要義 [キリスト教の夫婦関係] キリスト教の夫婦関係は、他のいかなる宗教においても見る事ができない清さを持っている。すなわち絶対的一夫一婦主義と不離婚主義である。この関係はキリスト以前に定められたものであるけれども、キリストに至りて始めて完全に実現するに至った。いずれの宗教を問わず一夫多妻主義を認め、かつ自由に離婚を許しているものが多い。ユダヤ教すらこの例に洩れなかった。しかるにキリスト以後厳格なる一夫一婦主義が行われるようになり、夫婦は神の合わせ給える神聖なる結合であることがますます明らかにされるに至った。かかる大なる変化を来たしたことはこのイエスの御言葉によると同時に、キリストと教会との関係が夫婦の関係に等しいことが明らかにされるに至ったからである(エペ5:22)。

3-3-ホ 誓うなかれ 5:33 - 5:37  

5章33節 また(いにし)への(ひと)に「いつはり(ちか)ふなかれ、なんぢの(ちかひ)(しゅ)(はた)すべし」と()へる(こと)あるを(なんぢ)()けり。[引照]

口語訳また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
塚本訳さらにあなた達は昔の人が(モーセから)、“偽りの誓いをしてはならない、”また“誓ったことは主に対して果たさねばならない”と命じられたことを聞いたであろう。
前田訳また、あなた方が聞いたように、昔の人々にいわれている、『偽り誓うな、あなたの誓いを主に果たせ』と。
新共同「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。
NIV"Again, you have heard that it was said to the people long ago, `Do not break your oath, but keep the oaths you have made to the Lord.'
註解: 「主に果たすべし」は「主に対して果たすべし」との意であって旧約聖書(引照参照)の文字通りの引用ではないが主意は変わらない。▲口語訳「すべて主に対して果せ」の「すべて」は原文にないが、意味の上からは正しい訳語である。

5章34節 されど(われ)(なんぢ)らに()ぐ、一切(すべて)ちかふな、(てん)()して(ちか)ふな、(かみ)御座(みくら)なればなり。[引照]

口語訳しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。
塚本訳しかしわたしはあなた達に言う、いっさい誓ってはならない。神の御名はもちろん、“天”にかけても(誓ってはならない)。(天は)“神の御座である”から。
前田訳しかしわたしはあなた方にいう、いっさい誓うな、天にかけても、神のみ座であるから。
新共同しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。
NIVBut I tell you, Do not swear at all: either by heaven, for it is God's throne;
辞解
[神の御座] イザ66:1よりの引用であって、神の支配の天地にあまねきを示す。ただし天には神の完全なる顕現があり、地にはただ神の足跡をのみ見ることができるに過ぎない。

5章35節 ()()して(ちか)ふな、(かみ)足臺(あしだい)なればなり。エルサレムを()して(ちか)ふな、大君(おほきみ)(みやこ)なればなり。[引照]

口語訳また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。
塚本訳“大地”にかけても。(大地は)“神の足台である”から。エルサレムにかけても。(エルサレムは)“大王(なる神)の都”であるから。
前田訳地にかけても、神の足台であるから。エルサレムにかけても、大君(おおぎみ)の都であるから。
新共同地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。
NIVor by the earth, for it is his footstool; or by Jerusalem, for it is the city of the Great King.
辞解
[神の足臺] 前節「神の御座」の辞解参照。
[大君] メシヤのこと。

5章36節 (おの)(かしら)()して(ちか)ふな、なんぢ頭髮(かみのけ)一筋(ひとすじ)だに(しろ)くし、また(くろ)くし(あた)はねばなり。[引照]

口語訳また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。
塚本訳自分の頭にかけても誓ってはならない。(頭は神のもので、)あなたは髪の毛一本を、白くも黒くも出来ないのであるから。
前田訳あなたの頭にかけても誓うな、髪一本白くも黒くもできないから。
新共同また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
NIVAnd do not swear by your head, for you cannot make even one hair white or black.
註解: 当時ユダヤには神のみならず、種々の被造物を指して誓う習慣があった。これ自己の不誠実をおおわんがための手段に過ぎなかった。のみならずその指す目的物の如何によりて、これを守る必要の有無すら生ずるに至った(マタ23:16-18)。かかる意味の誓いは誓いそれ自身がすでに虚偽を含んでいるのみならず、誓いをなすに至れる心が誠実を失っている。ゆえに「一切誓うな」とイエスは言い給い、かかる心とかかる習俗とを一掃し給うた。「天」も「地」も「頭髪」も皆神の被造物であって、これらを指すことと神を指すこととの間には差異がない。

5章37節 ただ(しか)(しか)り、(いな)(いな)といへ、(これ)()ぐるは(あく)より()づるなり。[引照]

口語訳あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
塚本訳あなた達はただはっきり『はい』とか、『いいえ』とだけ言え。これ以上は悪魔が言わせるのである。
前田訳あなた方のことばは然(しか)り然り、否(いな)否であれ、これら以上のことは悪から出ている。
新共同あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
NIVSimply let your `Yes' be `Yes,' and your `No,' `No'; anything beyond this comes from the evil one.
註解: もし心が常に忠実で神とともにいるならば然り然り、否否のみで充分である。これ以上さらに誓うことは自己の虚偽を隠さんとする不誠実の心の結果に過ぎない。すなわち悪心よりいでてくるのである。
要義 [誓うなかれとはいかなる意味なりや] ここにもまた33-37の御言を律法的に取るべきでないことに注意しなければならなぬ。神御自身も誓い給い (創22:16民14:23詩89:3詩110:4イザ45:23ヘブ6:13) 、キリストもまた誓い給い (マタ26:63) 、パウロもまたしばしば神の証を求めた (ロマ1:10ピリ1:8Tテサ2:5Tテサ2:10Uコリ1:23) 。キリストの求め給うところのものは、形式的に誓うことをしないということではなく、心の中に絶対に虚偽なく神の心のごとき誠実のみの支配する状態に達していることが必要であるというのである。律法はこれを文字的に解する場合にますますその力を失って、一つの形式と化し去り、反対にこれを霊的意義に解してその真意を発揮することができる。キリストは死せる律法に再びその生命を吹き込み給うたのである。またキリストが誓うことを禁じ給える他の理由は、未来の事柄に関しては人間には確実なる知識はない、したがって誓ってこれを断言することができないからである。「頭髪一筋だに白くし黒くすることができない」のに、いかで未来の事柄に対して誓うことができようか。これをしも誓うことは僭越の所為(しょい)であって悪より出づるものである。ゆえに自己の未来の行為および運命につきても神の支配を信じ、ただ誠実なる心のみを以って然りを然りとし否を否とするのが最もキリスト者に相応しい態度である。この心をもって裁判所、軍隊、学校等における宣誓をなすことは罪ではない。

3-3-ヘ 無抵抗 5:38 - 5:42
(ルカ6:29-30)   

5章38節 ()には()を、()には()を」と()へることあるを(なんぢ)()けり。[引照]

口語訳『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
塚本訳あなた達は(昔の人がモーセから、)“目には目、歯には歯”──(人の目をつぶした者は自分の目で、人の歯を折った者は自分の歯で、つぐなわなければならない)と命じられたことを聞いたであろう。
前田訳あなた方が聞いたようにこういわれている、『目には目、歯には歯』と。
新共同「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
NIV"You have heard that it was said, `Eye for eye, and tooth for tooth.'
註解: 引照の箇所は元来有司(ゆうし)が罪人を取り扱う場合の規則であって、私人としての復讐を許した律法ではなかった。しかし私人がその受けし損害を有司(ゆうし)に訴えて、これと同種の報復を要求することを常とし、これが当然であるかのごとくに考えられた。

5章39節 されど(われ)(なんぢ)らに()ぐ、()しき(もの)抵抗(てむか)ふな。(ひと)もし(なんぢ)(みぎ)(ほほ)をうたば、(ひだり)をも()けよ。[引照]

口語訳しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
塚本訳しかしわたしはあなた達に言う、悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打ったら、左をも向けよ。
前田訳しかしわたしはあなた方にいう、悪者にさからうな。あなたの右の頬を打つものには、ほかの頬をも向けよ。
新共同しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
NIVBut I tell you, Do not resist an evil person. If someone strikes you on the right cheek, turn to him the other also.
註解: ロマ12:19-21にこの節の最良の注釈を見出すことができる。他人がいかに悪意を以って我に対し、かつ我に害を与えるとも、ただ善意と愛の心を持って彼に対すべきことを教えている。善意と愛なしに燃ゆる復讐心を抑えつつ、左の頬を向くるとも無意義である。

5章40節 なんぢを(うった)へて下衣(したぎ)()らんとする(もの)には、上衣(うはぎ)をも()らせよ。[引照]

口語訳あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
塚本訳(裁判所に)訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせてやれ。
前田訳あなたを訴えて下着を取ろうとするものには上着をも取らせよ。
新共同あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
NIVAnd if someone wants to sue you and take your tunic, let him have your cloak as well.
註解: 訴訟によりて我らより何物かを要求せんとする場合における我らの態度を教えている。我より奪わんとする相手方に対し我は与えんとしているならば、彼は恥じてその悪しき心を改めるであろう。

5章41節 (ひと)もし(なんぢ)一里(いちり)ゆくことを()ひなば、(とも)二里(にり)ゆけ。[引照]

口語訳もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
塚本訳だれかが無理に一ミリオン[一キロ半]行かせようとするなら、一しょに二ミリオン行ってやれ。
前田訳あなたに一ミリオン行くよう強いるものにはともに二ミリオン行け。
新共同だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
NIVIf someone forces you to go one mile, go with him two miles.
註解: 公共の労役に挑発される場合の態度を教えている。「強いる」は挑発の意味、愛の行為は律法上の義務遂行の場合にも及ぼすべきである。

5章42節 なんぢに()(もの)にあたへ、()らんとする(もの)(こば)むな。[引照]

口語訳求める者には与え、借りようとする者を断るな。
塚本訳求める者には与えよ、借りようとする者を断るな。
前田訳求めるものには与え、借りたく思うものを拒むな。
新共同求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
NIVGive to the one who asks you, and do not turn away from the one who wants to borrow from you.
註解: 思慮なしに貸し与えよというのではないこともちろんであって、たとえば放蕩息子がその遊蕩の資を借らんとするときにこれを拒まないごときことは不可である。ただ請われる場合、借らんと申し込まれる場合に第一に我らの心には惜しいという心が起こるのであって、かかる心を砕くべきことを教えられたものと見るべきである(Uコリ8:13)。
要義 [無抵抗主義の原則] この教訓を必ずしも文字通りに行えとの意味ではない。しかしこの教訓は今日あまりに軽視せられ、到底行うことを得ざるものとして敬遠せられていることは(はなは)だしき誤りである。今日キリスト教文明が失敗に帰しつつあるのもこの教訓を無視または軽視した罰である。もし今日この教訓が遵守さられるならば資本家は労働者に対してその要求する以上のものを与え、労働者は資本家に対してその要求以上の労役を提供するであろう。かくて労働時間の制限も、最低賃金の制定もその必要を失い、今日世界を悩ましつつある階級闘争もその跡を絶つに至るであろう。これをなすにはモーセの律法をキリストの愛をもって完成しなければならない。そして自己に対して害を与うる者ある場合において、自己の受くる害につき考えるひまなきまでに相手方を愛し、彼を正しき道に立ち返らしめんと考えることより外に、このキリスト御言を完全に成就するの道は無い。欧米人の権利義務の思想はこの教訓に反する人間的思想である。

3-3-ト 汝の敵を愛せよ 5:43 - 5:48
(ルカ6:27-28) (ルカ6:32-36)  

5章43節 「なんぢの(となり)(あい)し、なんぢの(あた)(にく)むべし」と()へることあるを(なんぢ)()きけり。[引照]

口語訳『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
塚本訳あなた達は(昔の人がモーセから、)“隣の人を愛し、”敵を憎まねばならない、と命じられたことを聞いたであろう。
前田訳あなた方が聞いたようにこういわれている、『隣びとを愛し、敵を憎め』と。
新共同「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
NIV"You have heard that it was said, `Love your neighbor and hate your enemy.'
註解: この引用句は旧約聖書中に発見することができない。ただ申7:2-3、申23:7申25:19等のごとくイスラエル人以外の者、すなわち隣人にあらざる者を憎むことを教えし排他的語句がないではなかった。イエスはこれを指し給うたのであろう。

5章44節 されど(われ)(なんぢ)らに()ぐ、(なんぢ)らの(あた)(あい)し、(なんぢ)らを()むる(もの)のために(いの)れ。[引照]

口語訳しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
塚本訳しかしわたしはあなた達に言う、敵を愛せよ。自分を迫害する者のために祈れ。
前田訳しかしわたしはあなた方にいう、『敵を愛し、迫害者のために祈れ』と。
新共同しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
NIVBut I tell you: Love your enemies and pray for those who persecute you,
註解: 愛敵の心は神の心であり、キリスト教の中心である(Tヨハ4:7-10)。したがってまたこの山上の垂訓もこの愛敵の戒めにおいて、その頂点に達していると見ることができる。一点の自我も私欲もなくただ愛のみ、仇すらも仇と思い得ずしてこれを愛する熱愛の生活、これキリストの弟子たるものの生活でなければならない(ロマ5:6-8)。そしてこの愛は生来の人の中にはない愛であって、これを()つためには我ら更生しなければならない。

5章45節 これ(てん)にいます(なんぢ)らの(ちち)()とならん(ため)なり。[引照]

口語訳こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
塚本訳あなた達が天の父上の子であることを示すためである。父上は悪人の上にも善人の上にも日をのぼらせ、正しい人にも正しくない人にも、雨をお降らしになるのだから。
前田訳かくてこそ天にいますあなた方の父の子らになれよう。父は悪人にも善人にも日をのぼらせ、義者にも不義者にも雨を降らせたもう。
新共同あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
NIVthat you may be sons of your Father in heaven. He causes his sun to rise on the evil and the good, and sends rain on the righteous and the unrighteous.
註解: 父は敵をも愛する愛に在し給うこの父の子たるものは、またこの愛がなければならない。そしてキリストを受け彼を信ずる者には神は神の子となるの力を与え給うのであって、その結果この愛を以って愛することを得るに至るのである。

(てん)(ちち)は、その()()しき(もの)のうへにも()(もの)のうへにも(のぼ)らせ、(あめ)(ただ)しき(もの)にも(ただ)しからぬ(もの)にも()らせ(たま)ふなり。

註解: 日と雨は生物の発育に一日も欠くべからざる神の恵みである。天の父はかかる大なる恩恵の施與(ほどこし)者に在しかつこれを万人に公平に施與(ほどこし)し給う。子の性質の良否により親の愛に変わりがないと同一である。

5章46節 なんぢら(おのれ)(あい)する(もの)(あい)すとも(なに)(むくい)をか()べき、取税人(しゅぜいにん)(しか)するにあらずや。[引照]

口語訳あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
塚本訳自分を愛する者を愛したからとて、なんの褒美があろう。(人でなしと言われるあの)税金取りでも同じことをするではないか。
前田訳自分を愛するものを愛したとて何の褒美を得よう。取税人さえもそれくらいはするではないか。
新共同自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
NIVIf you love those who love you, what reward will you get? Are not even the tax collectors doing that?

5章47節 兄弟(きゃうだい)にのみ挨拶(あいさつ)すとも(なに)(まさ)ることかある、異邦人(いはうじん)(しか)するにあらずや。[引照]

口語訳兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
塚本訳また兄弟にだけ親しくしたからとて、なんの特別なことをしたのだろう。異教人でも同じことをするではないか。
前田訳あなた方の兄弟にだけあいさつしたとて、何の格別のことをしたのか。異教徒さえもそれくらいはするではないか。
新共同自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
NIVAnd if you greet only your brothers, what are you doing more than others? Do not even pagans do that?
註解: 己を愛する者を愛し己を憎む者を憎み、兄弟に挨拶し、他人を冷遇するは肉につける人の普通の心情である。そして多くの人はこれを以ってその責務を果せるがごとくに考えているけれども、これだけのことならば最悪なる取税人も、神の律法を知らざる異邦人もこれを為すのであって、天の父の子たるものはこれに勝れるものでなければならない。
辞解
[取税人] ローマ政府より任命せられて、請負により租税を集むる役人であって多くはユダヤ人がこれに当たっていた。同胞を搾取してロマの政府と自己の懐とを富ましめていた彼らは、ユダヤ人よりは人非人のごとくに見られていた。聖書の中にしばしば取税人を「罪人」または「遊女」と同一に取り扱っているのもこのためである。
[異邦人] ユダヤ人以外の諸国人の総称であって、ユダヤ人は自国民を以て神の選民となし、異邦人をば神を知らざる民として(いやし)んでいた。キリストはこのユダヤ人の普通の観念をここに利用し給うたに過ぎない。

5章48節 さらば(なんぢ)らの(てん)(ちち)(まった)きが(ごと)く、(なんぢ)らも(まった)かれ。[引照]

口語訳それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
塚本訳だからあなた達は、天の父上が完全であられるように“完全になれ。”
前田訳それゆえ、あなた方は天にいます父が全くいますように全くあれ。
新共同だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
NIVBe perfect, therefore, as your heavenly Father is perfect.
註解: 天の父と同じく完全になることが人間の終局の目的である。これすなわち愛の完成であり、また律法の成就である。キリストは「我を見し者は父を見しなり」と言った(ヨハ14:9)、彼は天の全きがごとく完全であった。我らもキリストに在り、彼に(なら)いて現世において天の父の完全に近づき、来るべき世において遂に天の父のごとくに全くなることができる。
辞解
[全き] 天の父のごとくに量的に全知全能遍在であることを意味しない、質においてすなわち愛において完全なることを意味する。
要義1 [愛の二種類] 新約聖書の原語によれば「愛」「愛する」を二種に区別し、各々異なった文字を用いている。一つはphilia、phileôであり他はagapê、agapaô である。前者は主として人間が自然に持っている本能的愛好を意味し、男女、親子、朋友の愛等がこれであり (マタ10:37ヨハ5:20ヨハ11:3ヨハ11:36等) 、聖書にはこの言葉を用いる場合は(わず)かである。後者は主としてキリスト教の愛、慈悲、仁、道徳的愛、神の愛とも称すべきものであって、ギリシャの当時代の文献にはほとんど用いられていない文字であった。すなわち敵をも愛する愛、その独り子をも賜うほどの愛である。聖霊がこの二語を別々に用いるに至ったのは極めて意義深きことであって、これにより我ら聖なる愛と自然愛との区別を明らかにすることができる。ただ遺憾なことは英、仏、独、日、支、その他いかなる国語の訳本もこの二者の区別をもっていないのである。▲以上の外ギリシャの文献に多く現れるeraô、erôsは、本来は精神的な愛にも用いられたけれども、次第に肉欲的の愛に用いられるようになったので、新約聖書では用いられず、旧約聖書のギリシャ語(LXX)では Tサム19:1エス2:17箴4:6箴7:18 その他二ヶ所に用いられているだけである。
要義2 [律法はいかにして完成されるや] 学者パリサイの人等の最も切に要求していたことは、律法を完全に守ることであった。しかるに人間の弱さは彼らにも附着しているのであって、彼らは非常に熱心に律法を研究し、これを微細の点にいたるまで遵守せんと欲したけれども、しかもなお彼らはこれを完全に守り得なかった。「汝らの義、学者パリサイ人に勝らずば、天国に入ること能わず」とはこの意味である。しからばキリストはいかなる方法を以って律法を全うしようとしたのであるか。彼はパリサイ人よりも更に一点一画までもこれを(おろそ)かにせずして律法を守ろうとしたのであるか。決してそうではなかった。彼は敵を愛するの愛を以って律法を全うし、また我らをしてこの道以外に真に律法を全うすべき方法は全く存在しない(ロマ13:8-10)ことを知らしめた。そして幸いなるかな我ら神の愛を信じることにより更正して、この愛を持つことができる様になるのである。しからざれば我らは律法によりて束縛せられて死の苦痛をなめるか、またはパリサイ人のごとくに形式的律法遵守を主とする偽善者になり終わるであろう。