ヨハネ伝第10章
分類
3 イエスとユダヤ主義との争闘
5:1 - 11:57
3-3 假廬(かりいほ[お])祭に於けるイエスの御業
7:2 - 10:21
3-3-8 真の牧羊者の比喩
10:1 - 10:21
3-3-8-イ 牧者の真偽の別
10:1 - 10:6
註解: 本章1−18節の御言はこれを前章末尾(35節以下)の継続と見るべきであって、イエスはここに比喩を用いて醫されし盲人に対するパリサイ人らの態度を責め、パリサイ人らが神の国の強盗であり、イエスが真の牧羊者であることを示し給うた。1−6節は牧者の真偽の別、7−10節は羊の門の比喩、11−18節は善き牧者の比喩である。
10章1節 『まことに
口語訳 | よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。 |
塚本訳 | アーメン、アーメン、あなた達に言う、羊の檻に入るのに、門を通らず、ほかの所を乗り越えてくる者は、泥坊である、強盗である。 |
前田訳 | 「本当にいう、門を通らずにほかのところを乗りこえて羊のおりに入るものは盗びとであり強盗である。 |
新共同 | 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 |
NIV | "I tell you the truth, the man who does not enter the sheep pen by the gate, but climbs in by some other way, is a thief and a robber. |
註解: ユダヤ地方の羊は夜の間は羊の檻の中に入れて保護せられていた。この檻は垣根または壁をもって区画せられ、牧羊者らは(数人共同に)その羊をこの檻の中に追い込み門番一人を残して家に帰り、翌朝再び来りて羊を野に引出すのである。イエスはまず己を羊の門に譬え給い、牧者も(1−5)羊も(9、10)みなこの門より出入せざるべからざることを教え、キリストを拒む者、すなわち門より入らずして障壁を踰越 する者は羊の牧者ではなく盗人または強盗であって羊を自己の餌食とせんとする者であることを示し給う。而してイエスはこの場合、前章のごとくにユダヤ人らがイエスを受けず、イエスを信ぜんとする癒されし盲人を逐出だししを見給い、かかる者はこの盗人、強盗に外ならず、決して神の羊の牧者にあらざることを示し給うたのである。
辞解
[まことにまことに] 議論の頭初にある場合は絶対にない。前からの議論の継続中特に注意を要する場合に用いる。
口語訳 | 門からはいる者は、羊の羊飼である。 |
塚本訳 | 門を通って入る者が、(ほんとうの)羊飼である。 |
前田訳 | 門を通って入るものは羊飼いである。 |
新共同 | 門から入る者が羊飼いである。 |
NIV | The man who enters by the gate is the shepherd of his sheep. |
註解: ユダヤ人すなわち祭司パリサイ人らはキリストの門より入らんとせず、他より越えんとする。然らば門より入る牧者は誰なるやにつき、多くの註解家はこれを真の正しき牧師を意味すると解しているけれども、ここにキリストは御自身を「羊の門」(7節)および「善き牧者」(16節)としての二重の資格において考え給うたのを見れば、この場合「門より入る者」と言いて同じく御自身を指し給えるのを見るべきである。すなわち2節−5節は大体羊と牧者の関係の一般的事実を例示したのであって、その通用は7節以下である。
10章3節
口語訳 | 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。 |
塚本訳 | 羊飼には門番が(門を)あけてやり、羊はその声を聞き分ける。羊飼は一匹一匹、自分の羊の名を呼んで(檻から)つれだし、 |
前田訳 | 番人が彼に門を開く。羊は彼の声を聞き、彼はおのが羊を名ざして呼んで連れ出す。 |
新共同 | 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 |
NIV | The watchman opens the gate for him, and the sheep listen to his voice. He calls his own sheep by name and leads them out. |
註解: 真の牧者であれば門守はその顔を知って彼のために門を開く。而して真の牧者と羊との愛の関係の密なることは日本においてはこれを目撃することができないのでほとんど想像ができないほどであり、羊は誤らずにその牧者の声を聞き分け牧者は一々その羊に命名し、その名を呼んでこれを率き出すのである。キリストと信者との関係を牧者と羊との関係に譬えられてあるのは(11−18節)寔 に故あることである。
辞解
[門守] 多くはこれを神と解する(使14:27。コロ4:3。黙3:7。B1、C1、T0)。その外或は聖霊、キリスト、モーセ、バプテスマのヨハネ、或は全く指示すべき特別の人物なしと解する学者もあるけれども、一々これを比喩的に解することはかえって真の意味を見失う恐れがあるであろう。
[名を呼びて] 原語は一つ一つその名を呼ぶ意味を有つ。
10章4節
口語訳 | 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。 |
塚本訳 | 自分の羊を皆出すと、その先に立って歩く。羊はその声を知っているので、あとについて行く。 |
前田訳 | おのが羊を皆出すと、彼は先立って歩く。羊はその声を知るゆえに彼に従う。 |
新共同 | 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 |
NIV | When he has brought out all his own, he goes on ahead of them, and his sheep follow him because they know his voice. |
註解: イエス・キリストがその選び別ち給える民に先立ちてこれを導き給い、その民は平和の心をもって彼に従い行く。イエスに属する羊は彼の声を聞き分けることができるからである。癒されし盲人の彼に従ったのも彼の声を知ったからである。
10章5節
口語訳 | ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。 |
塚本訳 | しかしほかの人には決してついて行かない、かえって逃げる。ほかの人たちの声を知らないからである。」 |
前田訳 | 羊はほかの人たちには決して従わないで逃げる、ほかの人たちの声を知らないから」。 |
新共同 | しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 |
NIV | But they will never follow a stranger; in fact, they will run away from him because they do not recognize a stranger's voice." |
註解: 神の羊はイエスの声以外の声を知らずこれを聞きて逃げる。盲人がユダヤ人の声に従わなかったと同様である。以上の御言をもってイエスは神の羊の真の牧者と、然らざる者との区別を明らかにし、ユダヤ人をしてその意義を覚らしめんとしたのである。
10章6節 イエスこの
口語訳 | イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。 |
塚本訳 | イエスはこの譬をパリサイ人に話されたが、彼らは何を話されているのかわからなかった。 |
前田訳 | イエスはこの譬えを彼らに話された。しかし彼らは何を話されているかわからなかった。 |
新共同 | イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。 |
NIV | Jesus used this figure of speech, but they did not understand what he was telling them. |
註解: 見ても見ず聞けども聞かざる類。彼らはそれほど盲目であって、しかも己の盲目を覚らなかった(ヨハ9:41)。
10章7節 この
口語訳 | そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。 |
塚本訳 | そこでイエスはまた話された、「アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしが羊への門である。(羊飼はわたしを通らずに、羊に近づくことはできない。) |
前田訳 | そこでふたたびイエスはいわれた、「本当にいう、わたしは羊の門である。 |
新共同 | イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 |
NIV | Therefore Jesus said again, "I tell you the truth, I am the gate for the sheep. |
註解: 1−5節の比喩をパリサイ人らが悟らなかったので、イエスはここにその意義を明示し給う。これにより前数節の「門」はキリストを指すことがわかる。イエスは常に「我は」と言いて御自身を指し給う (ヨハ6:35、ヨハ8:12、ヨハ11:25、ヨハ14:6、ヨハ15:1) 。また「我は牧者の門」なりと宣わずして「羊の門」なりと言い給い、羊が主要の目的なることを示す。
10章8節 すべて
口語訳 | わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。 |
塚本訳 | (わたしより)前に来た者は皆(羊飼でなく、)泥坊であり、強盗である。羊は彼らの言うことを聞かなかった。 |
前田訳 | わたしよりも前に来たものは皆盗びとであり強盗である。羊は彼らに聞こうとしなかった。 |
新共同 | わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 |
NIV | All who ever came before me were thieves and robbers, but the sheep did not listen to them. |
註解: パリサイ人祭司らユダヤの教権階級を指してかく言い給うたのである。彼らはキリストよりも前に来ってあたかも真の牧者なるがごとき態度を取っていた。しかも真の羊ともいうべきこの盲人は、彼らの声に耳を傾けなかった。▲真の牧羊者と強盗との二極に分たれたことに注意すべし。自己のために牧する者は後者に属し、羊のために牧する者は前者に属す。
辞解
[すべて我より前に来りし者] 難解の文字であって、単に文字の上のみより解すればアブラハムもモーセも預言者もみなこの中に入ることとなる。(従って多くの解釈あり、また異本も少なくない。)しかしこの語がかかる意味に用いられていないことは明らかであって(ヨハ7:19、ヨハ5:45)、キリスト以前に自ら牧者なりとして僭越なる態度を取れる者を指す。この比喩は一々機械的正確さをもっていない。例えば「門」と「盗人」とを対照するごとき、また「羊」と言いて「我が羊」と言わないがごときもこの類である。
10章9節
口語訳 | わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。 |
塚本訳 | (また、)わたしが(羊の出入りするための)門である。わたしを通って入る者(羊)は救われる。(いつもこの門を)入ったり出たりして、牧草を得るであろう。 |
前田訳 | わたしは門である。わたしを通って入るものは救われ、出入りして牧草を得よう。 |
新共同 | わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 |
NIV | I am the gate; whoever enters through me will be saved. He will come in and go out, and find pasture. |
註解: キリストは羊の門に在し給う。盗人、強盗は羊を喰わんがために他より入り来るのであって、従って羊を自由に檻より出さない。ゆえに羊は檻より出入りして草を食うことができず、檻の中に束縛せられる。これは律法主義と、形式主義と、教権主義に束縛せられているパリサイ人およびその主義の犠牲となっている信者を意味する。その反対にキリストの門より入る者、すなわち信仰によりてキリストに頼る者は、これによりて救われて義とせられ、而して彼との間の親密なる霊的交通に生くることができ(「出入し」とはこの状態をいう。使1:21)、従って形式、制度、教権に束縛せられず、また霊の糧(草)を豊かに喰うことができる。すなわちイエスの門よりてのみ羊は真の生命を得ることができる。
10章10節
口語訳 | 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。 |
塚本訳 | 泥棒が来るのは、ただ(羊を)盗み、殺し、滅ぼすだけのためである。わたしは(羊に)命を持たせるため、あり余るほど(の命を)持たせるために来たのである。 |
前田訳 | 盗びとが来るのは、盗み、殺し、滅ぼすためにほかならない。わたしが来たのは、いのちを得させ、いのちにあり余らせるためである。 |
新共同 | 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 |
NIV | The thief comes only to steal and kill and destroy; I have come that they may have life, and have it to the full. |
註解: パリサイ人らは羊を「盗み」てこれを自己の慾望の犠牲となし、これを「殺し」て霊的生命なき死せる形骸たらしめ、これを「亡 し」て永遠の滅亡の中に入らしめる。世にかかる宗教のいかに多きかを見よ。
わが
註解: パリサイ人らと全く反対の目的をもって来り給えるはキリストであった。すなわち盗みて自己の慾望の犠牲とする代りに自らを羊のための犠牲となし(11節)、殺し亡 す代りに生命をしかも豊富に与えた給う。キリストを信ずる者はこの事実を経験することができる。イエスは「わが来れるは」と言いて門の比喩より善き牧者の比喩に移り行くの第一歩を踏み給うた。▲それ故に人間の為すべき務めは人をキリストに導くことである。自己または自己の宗派に導こうとする者は強盗の一種である。
10章11節
口語訳 | わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。 |
塚本訳 | わたしが良い羊飼である。良い羊飼は羊のために命を捨てる。 |
前田訳 | わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のためにいのちを捨てる。 |
新共同 | わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 |
NIV | "I am the good shepherd. The good shepherd lays down his life for the sheep. |
註解: イエスはこれより進んで善き牧者と雇人なる牧者との差異を示して、自己の利益を中心とする雇人とキリストとがいかに異なるかを示し給う。すなわち善き牧者の特色は愛であって、羊のためにその生命を捨ててこれを犠牲にし、羊を生かさんがために己の生命をすてて贖罪の死を遂げ給う点にある。「今日は俸給を得て一町一村の羊を牧する者を牧師と呼んでいるけれども、本節において牧者なる名称の意義は遙かに崇高である」(B1)。
辞解
[牧者] 神とその民との関係を牧者と羊とに譬えた場合は旧約聖書に多い。引照参照。
10章12節
口語訳 | 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。 |
塚本訳 | (本当の)羊飼でない雇人(である羊飼)は、羊が自分のものでないので、狼が来るのを見ると、羊をすてて逃げる。・・すると狼は羊を奪い、また追い散らすのである。・・ |
前田訳 | 羊飼いでない雇人は、羊が自分のものでないので、狼が来るのを見ると、羊を捨てて逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。 |
新共同 | 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― |
NIV | The hired hand is not the shepherd who owns the sheep. So when he sees the wolf coming, he abandons the sheep and runs away. Then the wolf attacks the flock and scatters it. |
註解: 真の牧者は己が羊を愛するが故に、また神よりの命を受けしが故にその生命を捨ててまでも羊を牧 うのであるが、「雇人 」はその生活のため、または自己の利益のために羊を牧う者である。(▲▲俸給制度による牧師の弊は大きい。)豺狼 は前数節の強盗と同じくパリサイ主義の人々およびその他一般に神の国を迫害するもの(A1)を意味する。パリサイ主義はいずれの世においても豺狼 のごとくに跳梁 を恣 にしており、またキリストの羊はどこにても迫害に遭うものであって、真に羊を愛せざる雇人的牧者は彼らと戦うことができず、羊を彼らの蹂躙 にまかせ、これによりて自己の安全を図る。その結果豺狼 のために羊は奪われ、また散らされてる。
辞解
[雇人 、豺狼 ] これらが何を指すかについては学者により区々 の推測を行っており、必ずしも一定していない。前記のごとく解することにより(C1)1−3節に、強盗盗人としてのパリサイ人(1節)、真の牧者としてのキリスト(2、11節)、羊の門としてのキリスト(7節)、羊(8−10節)、雇人 (11−13節)等教会に関連する凡てのものを網羅することができる。▲これを現代的に解するならば軍国主義、共産主義、資本主義、享楽主義等いずれも有力な豺狼 である。
口語訳 | 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。 |
塚本訳 | 雇人であって、羊のことなどどうでもよいからである。 |
前田訳 | 彼は雇人で、羊を心にかけないからである。 |
新共同 | 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 |
NIV | The man runs away because he is a hired hand and cares nothing for the sheep. |
註解: 自己の安全を求むる心と、羊を愛せずこれを顧みない心とがこの結果を来たらす。ゆえに雇人根性の牧者はパリサイ主義の攻撃やその他の迫害に対しては無力である。
10章14節
口語訳 | わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。 |
塚本訳 | わたしが良い羊飼である。わたしはわたしの羊を知っており、わたしの羊もわたしを知っている。 |
前田訳 | わたしはよい羊飼いである。わたしはわが羊を知り、わが羊はわたしを知る。 |
新共同 | わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 |
NIV | "I am the good shepherd; I know my sheep and my sheep know me-- |
口語訳 | それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。 |
塚本訳 | 父上がわたしを知っておられ、わたしが父上を知っているのと同じである。そしてわたしは羊のために命を捨てる。 |
前田訳 | それは、父がわたしを知り、わたしが父を知るごとくである。そしてわたしは羊のためにいのちを捨てる。 |
新共同 | それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 |
NIV | just as the Father knows me and I know the Father--and I lay down my life for the sheep. |
註解: 善き牧者の特徴は羊と彼との間に、愛による親密な霊の交わりより来る相互の理解があることである。愛する者は最もよく相手方の心を知り、また己の心を相手方に示す。この善き牧者と羊との間の相互理解の内容は、神とキリストとの間に存する相互の知識、理解と同性質のものであって、最も高く潔く深き霊的交通の状態を指す。
辞解
[如し] kathôs は単なる比較、hôsper にあらずして性質の同一なることを示す。
註解: 善き牧者の態度は12節の雇人とは正反対に、羊が豺狼 に襲われる時、羊を生かさんがために自己の生命を犠牲にする。この御言の中にはキリストの贖罪の死を示すのみならず、また一般的に犠牲の行為を意味する。この一句はあたかも折返しのごとくに繰返され(11、17、18)、贖罪の死が善き牧者の特徴なることを示す。
10章16節
口語訳 | わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。 |
塚本訳 | ・・なおわたしには、この檻のものでない、ほかの羊がある。(彼らはまだ野山をさまよっている。)わたしはそれをも導いてやらねばならない。彼らはわたしの声を聞きわけ、かくて群一つ、羊飼一人となるであろう。・・ |
前田訳 | しかしわたしにはこのおりでないほかの羊がある。彼らをもわたしは導かねばならぬ。彼らはわが声を聞き知り、群れはひとつ、羊飼いはひとりとなろう。 |
新共同 | わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 |
NIV | I have other sheep that are not of this sheep pen. I must bring them also. They too will listen to my voice, and there shall be one flock and one shepherd. |
註解: イエスが羊のために贖罪の死を遂げ給うことは「この檻」すなわちイスラエルの羊のみならず、「他の羊」すなわち異邦人の中の信ずる者をも導く必要があるからである。かくしてイエスの死は世界万民の救いとなった。復活昇天し給えるイエスは聖霊として弟子たちに宿りこの御業を完成し給うた。
註解: 使28:28参照。神の選び給える羊であれば、ユダヤ人と異邦人との間の差別なくみなイエスの御声を聞き分ける。
註解: このことはユダヤ人の予想しない処であった。世界の万民が神の前に一つの牧場の羊となり、ユダヤ人と異邦人との間の隔 の中籬 は取り去られた。これキリストの贖罪の死の目的であり、また結果であった(エペ2:11−19)。
辞解
[一つの群] ヴルガタおよび英国欽定訳が「一つの檻」と訳したのは誤訳である。
10章17節
口語訳 | 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。 |
塚本訳 | だから父上はわたしを愛してくださる。(羊のために)命を捨てるからである。しかしわたしが捨てるのは、(まことの命として)ふたたび取るためである。 |
前田訳 | それゆえ父はわたしを愛される。わたしがいのちを捨てるからである。しかしそれはいのちをまた得るためである。 |
新共同 | わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 |
NIV | The reason my Father loves me is that I lay down my life--only to take it up again. |
註解: 「之によりて」すなわち父の命に従って羊のために生命を捨てて万国の羊を一つの群れとなすがゆえに父はイエスを愛し給う。すなわちこの理由を詳述すれば、イエスが人を救うことを己の生命よりも重んじ給いてその生命を捨て、しかもその救える人々を孤児となさずしてこれを牧せんがために「再び生命を得る」故であって、単にその生命を捨て給うだけではなく復活の希望と確信とをもち、この復活のキリストが異邦人をも一つの群れとなさんとし給うからである。イエスの眼中には十字架の贖罪の死と共に、常に復活してその羊群の牧者となり給うことの確信があった。而してかくみな父の御意に従い給うが故に父は彼を愛し給うたのである。
辞解
[之によりて・・・・・・それは云々] dia touto,hoti は前を受けてさらに後にその理由を詳述する場合のヨハネの慣用句である(ヨハ5:18、ヨハ8:47、ヨハ12:18、ヨハ12:39。Tヨハ3:1)。
口語訳 | だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。 |
塚本訳 | だれもわたしから(力ずくで)命を取り上げることはできない。わたしが自分で(自由に)捨てるのである。わたしにはこれを捨てる権利があり、ふたたびこれを取る権利がある。(命を捨て、また取る)この命令を、わたしは父上から受けた。」 |
前田訳 | 何びともわたしからいのちを奪わない。わたしが自分でそれを捨てる。わたしにはそれを捨てる権威があり、ふたたびそれを受ける権威がある。わたしはこのいいつけを父から受けた」と。 |
新共同 | だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」 |
NIV | No one takes it from me, but I lay it down of my own accord. I have authority to lay it down and authority to take it up again. This command I received from my Father." |
註解: イエスが十字架に釘 きて死に給えるは、ユダヤ人らに打勝つ力がなかったからではない(マタ26:52、53)。また自己の罪によるのでもない。自己の自由の意思よりこれを捨て給うたのである。イエスの死をもって彼の意思に反する失敗の死とする者はこの御言を解せざるものである。▲神がイエスを処罰したのではなく、イエス自ら我らの受くべき処罰に相当する死を選び給うたことに注意すべし。
註解: 神はキリストを我らに賜い(ヨハ3:16)、彼を立て彼を十字架につけて我らの罪のために宥 の供物となし給い(Tヨハ4:10。ロマ3:25)、また彼を死人の中より甦らしめ給うた(使2:24。ロマ6:4)。この意味においては父なる神がキリストを十字架に釘 け、また彼を甦らせ給うたのである。しかしながらこのことはキリストにその生命を捨て、またこれを得るの権なきことを意味しない。キリストはこの神の命に従い、神より与えられ給える権をもって自らその生命を捨て、また自らこれを得給うたのである。キリストは完全に神の御旨に従うことによりて、完全に自主の権を有ち給うた。完全なる服従は完全なる自主権のある場合にのみ可能である。神はこの完全なる自主権をキリストに与え給い、キリストはこの完全なる自主権を用いて完全に神の命に従い、その死と復活とを全うし給うた。▲▲「権」 exsousia を「力」 dynamis と同一の語で訳すのは混同され易い。権あるものは力を伴うけれども力は必ずしも権を伴うとは言えない。
要義 [善き牧者なるキリスト]牧羊の行われない我が国においてこの比喩の美わしさを想像するのは困難であるけれども、多くの詩人によって歌われ(詩23篇参照)、多くの書家によりて描かれしこの関係は我らもほぼこれを想像することができる。牧者が羊に対する深き愛とこれに対する羊の強き信頼、各の羊に対する牧者の知識と牧者の声を聞き分くる羊の智慧、折に叶える牧者の命令と牧者に対する羊群の服従、これらは凡てキリストとその弟子との間の関係、花婿たるキリストとその花嫁たる教会の関係を最も美わしく表顕しているものである。而してこの善き牧者の反対は盗人、強盗、雇人であって、羊を自己の宗派に引入れ、自宗派の勢力、反映の材料とせんとするもの、または自己の生活や利益の目的をもって羊を牧する者は、キリストなる唯一の善き牧者の敵である。我らはキリストに従い、キリストの御意を心とすることによりてのみキリストの羊を牧することができる(ヨハ21:15−17)。
10章19節 これらの
口語訳 | これらの言葉を語られたため、ユダヤ人の間にまたも分争が生じた。 |
塚本訳 | (イエスの)これらの言葉によって、ユダヤ人の間にまたもや意見が分れた。 |
前田訳 | イエスのこれらのことばによって、ユダヤ人の間がふたたび分裂した。 |
新共同 | この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。 |
NIV | At these words the Jews were again divided. |
註解: 神の言によりて人類は常に二分される。一はこれを信じ他はこれを拒む (ヨハ7:12、ヨハ7:30、31、ヨハ7:40、41。ヨハ9:8、9、ヨハ9:16) 。
10章20節 その
口語訳 | そのうちの多くの者が言った、「彼は悪霊に取りつかれて、気が狂っている。どうして、あなたがたはその言うことを聞くのか」。 |
塚本訳 | そのうち多くの者は、「あの人は悪鬼につかれて、気が狂っている。どうしてあなた達はあんな人の話を聞くのか」と言い、 |
前田訳 | 彼らの多くが「彼は悪霊につかれて、気が狂っている。なぜ彼のいうことを聞くのか」といい、 |
新共同 | 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」 |
NIV | Many of them said, "He is demon-possessed and raving mad. Why listen to him?" |
註解: 何れの時代においてもキリストに反対する者は大多数である。「悪鬼」についてはマタ8:16辞解参照。もしキリストが神の子にあらずば、確かに悪魔に憑かれし人に相違ない。然らざればかかる誇大なる言をなすことができないであろう。我らもイエスをもって神の子か悪鬼に憑かれし者かの二者中の一として認めなければならぬ。その中間を許さない。▲「悪鬼」 daimonion = demon は悪しき霊的存在で、単なる霊にあらず個体的に存在するものと考えられていた。口語訳の「悪霊」は訳語としては不完全なり。
10章21節
口語訳 | 他の人々は言った、「それは悪霊に取りつかれた者の言葉ではない。悪霊は盲人の目をあけることができようか」。 |
塚本訳 | またこう言う者もあった、「悪鬼につかれた者にあんな話はできない。悪鬼に盲人の目をあけることが出来ようか。」 |
前田訳 | ほかのものは「悪霊につかれたものにあんなことはいえない。悪霊に目しいの目は開けない」といった。 |
新共同 | ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」 |
NIV | But others said, "These are not the sayings of a man possessed by a demon. Can a demon open the eyes of the blind?" |
註解: イエスを拒まざる者はここに二つの理由を挙げている。その一はイエスの言が権威あるもののごとくであって、悪鬼に憑かれし者のごとくに無意味の囈語 にあらざること、その二はイエスが盲人の目を開き給えることであった。イエスの御言と御業とが明らかに彼の神の子に在し給うことを証している。
10章22節 その
口語訳 | そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった。 |
塚本訳 | そのあと・・(仮庵の祭の二か月後)・・エルサレムに宮清めの祭があった。時は冬であった。 |
前田訳 | そののちエルサレムに宮清めの祭りがあった。冬のころであった。 |
新共同 | そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。 |
NIV | Then came the Feast of Dedication at Jerusalem. It was winter, |
註解: この祭は紀元前165年ユダス、マカベウスの創始する処であって、アンチヲクス、エピフハネスによりて宮が穢されしを新たに潔めし記念に行われ、十二月半ばより一週間の間行われ、全市に燈火を点じてこれを祝した。仮庵の祭(ヨハ7:2)よりこの時まで約二ヶ月の間イエスがどこにい給いしやは明らかでない。
10章23節 イエス
口語訳 | イエスは、宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。 |
塚本訳 | イエスが宮でソロモンの回廊を歩いておられると、 |
前田訳 | イエスは宮の中でソロモンの廊を歩いておられた。 |
新共同 | イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。 |
NIV | and Jesus was in the temple area walking in Solomon's Colonnade. |
註解: 冬であったので廊の中を歩み給うたのであろう。ソロモンの廊は宮の東方にあり、東廊ともいう。
10章24節 ユダヤ
口語訳 | するとユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」。 |
塚本訳 | ユダヤ人が彼を取り囲んで言った、「いつまで気をもませるのです。救世主なら(救世主だと、)はっきり言ってください。」 |
前田訳 | するとユダヤ人が彼を囲んでいった、「いつまでわれらに気をもませるのですか。あなたがキリストなら公においいなさい」と。 |
新共同 | すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」 |
NIV | The Jews gathered around him, saying, "How long will you keep us in suspense? If you are the Christ, tell us plainly." |
註解: 取囲めるはイエスをして答えしむるまでは逃さじとの態度を示したのである。その答の如何によりてユダヤ人らはイエスを殺さんと企てていた。しかしたといキリストこれを明示し給うとも、彼らは彼を信じなかったであろう。
10章25節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに答えられた、「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている。 |
塚本訳 | イエスは答えられた、「言ったが、信じないではないか。父上の言いつけでわたしがしているその業が、わたしのことを証明している。 |
前田訳 | イエスは答えられた、「わたしはいったがあなた方は信じない。わたしが父の名によってするわざこそわたしについて証している。 |
新共同 | イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。 |
NIV | Jesus answered, "I did tell you, but you do not believe. The miracles I do in my Father's name speak for me, |
10章26節 されど
口語訳 | あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。 |
塚本訳 | だが、あなた達は信じない。わたしの羊でないからだ。 |
前田訳 | しかしあなた方は信じない、わが羊でないから。 |
新共同 | しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。 |
NIV | but you do not believe because you are not my sheep. |
註解: イエスはすでにしばしば御言をもってこれを告げ(引照参照)、また御業をもってこれを証し給うた。然るに彼らはこれを解せず彼を信じなかった。これキリストの羊でないからである。もしユダヤ人らが真にキリストの羊であったならば、キリストの声をききてこれを解し(ヨハ8:47)その御業を見て彼を信じたであろう(ヨハ9:30−33、ヨハ10:21)。かくのごとくイエスが遠回しに答え給える理由は、もし直接に「我キリストなり」と言わばユダヤ人は彼らの想像するごときキリストと解する懼れあり、もし「キリストに非ず」と言えば事実と否定することとなるからである。
10章27節 わが
口語訳 | わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。 |
塚本訳 | わたしの羊はわたしの声を聞きわける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。 |
前田訳 | わが羊はわが声を聞きわける。わたしは彼らを知り、彼らはわたしに従う。 |
新共同 | わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 |
NIV | My sheep listen to my voice; I know them, and they follow me. |
10章28節
口語訳 | わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。 |
塚本訳 | するとわたしが永遠の命を与え、彼らは永遠に滅びない。また彼らをわたしの手から奪い取る者はない。 |
前田訳 | わたしは彼らに永遠のいのちを与え、彼らは永遠に滅びない。何びともわが手から彼らを奪わない。 |
新共同 | わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 |
NIV | I give them eternal life, and they shall never perish; no one can snatch them out of my hand. |
註解: キリストの羊はユダヤ人とは正反対にキリストの声を聞きて彼に従い、キリストは彼らを知りてこの間に愛の密なる関係が成立し、而してイエスは彼らに永遠に亡ぶことなき生命を与え、かつ愛をもって彼らを護り給えば、何物もこれをイエスより奪うことができない。イエスの言を信ぜずその御業の証を信ぜざるユダヤ人らはイエスに従わず永遠の生命を受くること能わず、悪魔来りて彼らを奪い去るのである。イエスをキリストと信ずる者とこれを信ぜざる者との間にかかる大なる運命の差が生ずるのである。
10章29節
口語訳 | わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。 |
塚本訳 | (というのは、彼らを)わたしに下さった父上はすべての者より強いので、(彼らを)父上の手から奪い取ることの出来る者はだれもなく、 |
前田訳 | わたしに(彼らを)与えられた父はすべてのものより偉大で、何びとも父の手から彼らを奪いえない。 |
新共同 | わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 |
NIV | My Father, who has given them to me, is greater than all ; no one can snatch them out of my Father's hand. |
註解: 前節にキリストは「我が手」をもってその羊を護り給うこと、本節においてそれは同時に「父の御手」にあること、したがってキリストは父とは一心同体であり、これによりて護られる「キリストの羊の絶対安全の状態」を示し給うた。蓋し父なる神は何者(男性)よりも大に在し給うが故である。この御言はその反面において、ユダヤ人らがいかに神の羊(目を開けられし盲人のごとき)を奪わんとしてもそれは不可能なることを包含し、また信ぜざるユダヤ人らの滅亡が明らかに預言せられ、イエスのキリストに在し給うことが鮮やかに示されている。▲本節原文に混乱あり、文語訳と口語訳との差は原文の差異に由る。
口語訳 | わたしと父とは一つである」。 |
塚本訳 | しかもわたしと父上とは一つである(からだ)。」 |
前田訳 | わたしと父とはひとつである」と。 |
新共同 | わたしと父とは一つである。」 |
NIV | I and the Father are one." |
註解: 前節にほぼ含蓄せられ、また曩 にも(ヨハ5:18)ほぼ暗示せられし事柄をイエスはここに明言し給うた。かくしてイエスは24節の問いに答え給うと同時にユダヤ人の不信を責め給うた。ユダヤ人が怒ったのも同然である。
辞解
[一つなり] 本質が同一であって従ってその働きも同一であることを意味する(A1)。
10章31節 ユダヤ
口語訳 | そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。 |
塚本訳 | これを聞くと、またもやユダヤ人は、イエスを石で打ち殺そうとして(外から)石を持ってきた。 |
前田訳 | またもユダヤ人はイエスを石打ちしようと石を運んで来た。 |
新共同 | ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。 |
NIV | Again the Jews picked up stones to stone him, |
註解: ヨハ8:59にに比し一層切迫していた。「取り上げて」はその切迫せる貌を示す。
10章32節 イエス
口語訳 | するとイエスは彼らに答えられた、「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。 |
塚本訳 | するとイエスは言われた、「わたしは父上の(命令による)善い業を沢山あなた達にして見せたが、そのうちのどの業のために、わたしを石で打ち殺すのか。」 |
前田訳 | そこでイエスはいわれた、「わたしは父のよいわざを示したが、そのどのわざのゆえにわたしを石打ちするのか」と。 |
新共同 | すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」 |
NIV | but Jesus said to them, "I have shown you many great miracles from the Father. For which of these do you stone me?" |
註解: イエスは御言をもって彼らの行動を止め給うた。イエスの質問は彼らの心を知らずして為し給うのではなく、彼らがイエスに対する反対を心に懐ける所以がイエスの奇蹟にあったので、イエスは彼らに対する憤激の情よりこの皮肉の言をもって、我らの心の奥底にその鋭き一撃を与え給うたのである。
辞解
[父によりて] 「父により出でし」の意味でイエスの為し給える凡ての善き業は己より出でしにあらず父の御旨によって為された。
10章33節 ユダヤ
口語訳 | ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」。 |
塚本訳 | ユダヤ人が答えた、「善い業のために石で打ち殺すのではない、冒涜のためだ。君が人間の分際で、神様気取りでいるからだ。」 |
前田訳 | ユダヤ人が答えた、「われらが石打ちするのはよいわざのゆえではなく、涜神(とくしん)のゆえである。人間のくせに自分を神とするからである」と。 |
新共同 | ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」 |
NIV | "We are not stoning you for any of these," replied the Jews, "but for blasphemy, because you, a mere man, claim to be God." |
註解: イエスの善き業を彼らは非難することができないにもかかわらず、これによりて多くの人がイエスに従うを見て彼らは嫉妬にたえなかった。而してイエスを神の子と信ずることができなかった彼らにとって、イエスの御言葉は涜神の言と聞こえ、まことによき口実を得たので、これを理由としてイエスを排斥せんとしたのである。伝統や教権に囚われしユダヤ人らは明瞭なる事実(キリストの御業)に対して盲目であった。恐るべきことである。
10章34節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。 |
塚本訳 | イエスが答えられた、「あなた達の律法[聖書]に、〃あなた達は神だ、とわたしは言った〃と書いてあるではないか。 |
前田訳 | イエスが答えられた、「あなた方の律法に『あなた方は神であるとわたしはいった』と書かれているではないか。 |
新共同 | そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。 |
NIV | Jesus answered them, "Is it not written in your Law, `I have said you are gods' ? |
10章35節 かく
口語訳 | 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない) |
塚本訳 | 神はこの言葉をたまわった人たち(すなわち御自分に代って裁判をする者)を、神と言われたのであるから・・聖書がすたれることはあり得ないので・・ |
前田訳 | 神のことばを与えられた人々が神といわれたのならば−−聖書はすたれえないので−− |
新共同 | 神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。 |
NIV | If he called them `gods,' to whom the word of God came--and the Scripture cannot be broken-- |
註解: 「律法」は旧約聖書全体を意味している。この引用は(詩82:6)イスラエルの司や審判人たちを指し、その司や審判人らは神より委任を受け神の代表者として政治を行う意味において、神(複数)または神の子(複数)と呼ばれている。イエスはこの事実を捉えて、ユダヤ人の迫害の理由を論駁 し給うた。聖書の廃るべからざることを特に強調していることに注意せよ。▲▲「神の言葉を賜りし人々」は原文直訳「その人に対して神の言が成った人」で、神の意志により重要な地位に任命された人。
10章36節 [
口語訳 | 父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。 |
塚本訳 | (まして)父上が聖別して世に遣わされた者(であるわたし)が、『わたしは神の子だ』と言ったからとて、どうしてあなた達はそれを『冒涜だ』と言うのか。 |
前田訳 | 父が聖めて世に送られたものが、『われは神の子』といったのを、あなた方は涜神というのか。 |
新共同 | それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。 |
NIV | what about the one whom the Father set apart as his very own and sent into the world? Why then do you accuse me of blasphemy because I said, `I am God's Son'? |
註解: 35節以下私訳「もし神の言を賜りし人々を神々と云わば、聖書は廃るべきにあらねば父も潔め別ちて云々」前節のごときユダヤ人の司ら審判人をすらかく神が呼び給いし以上、父の特別なる御意により聖別せられて世に遣わされしキリストが、神の子と自称しても聖書に叶っているではないかとの意である。勿論イエスは彼らと同じものまたは程度の差に過ぎないものであることを言い給うたのではない。仮にイエスが彼らと同じ程度のものまたはやや優れるに過ぎないにしても、神の子と呼び給うことが涜言でないならば、いわんや事実神の子に在し給うならばなおさらのことであって、この論法は弱きがごとくにして非常なる強さを有っている。
辞解
[潔め別つ] hagiazô はむしろ「聖別する」と訳すべきであって、この「聖」は罪汚れを潔める意味が主ではなく、自然の状態であるものと対立して、特にその中より区別せられて神のために用いられることを言う。 出29:1、出29:36。出40:13。レビ22:2、3。マタ23:17。 ゆえに本来は形式的儀礼的の意味であった。新約においてはこれをもって抽象的意味に解し全心を神にささぐることをいう。罪を洗い潔めることすなわち不潔の反対は katharizô を用いる(ヨハ17:17、ヨハ17:19)。
10章37節
口語訳 | もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。 |
塚本訳 | もしわたしが父上の業をしていないなら、わたしを信ぜずともよろしい。 |
前田訳 | もしわが父のわざをわたしがしないならば、わたしを信ずるな。 |
新共同 | もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。 |
NIV | Do not believe me unless I do what my Father does. |
註解: キリストが父より聖別され世に遣わされこと(前節)の証拠は父の業を行い給うことであった(マタ11:5、6。なおヨハ5:36註参照)。この業を見ても信ぜざる者は言逃れる術がないであろう。
10章38節 もし
口語訳 | しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」。 |
塚本訳 | しかしもし、しているなら、わたし(の言葉)を信ぜずとも、その業(が父上の業であること)を信ぜよ。そうすれば(父上とわたしとが一つで、)父上がわたしの中に、わたしが父上の中におることを、知りまた知るであろう。」 |
前田訳 | もししているならば、わたしを信ぜずとも、わざを信ぜよ。それは、父がわたしに、わたしが父にあることを知りまた悟るためである」と。 |
新共同 | しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」 |
NIV | But if I do it, even though you do not believe me, believe the miracles, that you may know and understand that the Father is in me, and I in the Father." |
註解: 「業を信ずる」ことはキリストを信ずることに比して低き程度の信仰であって、イエスはここにユダヤ人らに対して一歩を譲り給うた。ただしこの譲歩は敗北のための譲歩ではなく充分の勝算を有せる譲歩であって、イエスの御業を信ずる者は結局彼を信ずるに至るであろう。
さらば
註解: 30節と同意義であって、イエスの為し給える御業を信ずるならば、父とイエスの間に霊的一致の関係なしにかかる御業のでき得べからざることを知覚するに至るであろう。
辞解
[父の我にをり] 父なる神の御心がキリストを全く占領すること、ガラ2:20と同義。
[我の父にをること] 全信頼を父にささげその懐にいだかれること、ロマ8:1と同義。
[知りて悟る] 単純なる信仰と異なり、知識を基礎としてついにそれを確認するに至ること。
10章39節 かれら
口語訳 | そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた。 |
塚本訳 | そこで彼らはまたイエスを捕えようとしたが、その手から抜け出された。 |
前田訳 | そこで彼らはまたもイエスを捕えようとしたが、彼らの手からぬけ出られた。 |
新共同 | そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。 |
NIV | Again they tried to seize him, but he escaped their grasp. |
註解: 石にて打殺さんとする心を捨てたのは、彼を捕えて (ヨハ7:30、ヨハ7:32、ヨハ7:34) 祭司長らの許に引き行かんとしたのであろう。
10章40節 かくてイエス
口語訳 | さて、イエスはまたヨルダンの向こう岸、すなわち、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行き、そこに滞在しておられた。 |
塚本訳 | またヨルダン川の向こうの、最初ヨハネが洗礼を授けていた場所に行って、しばらくそこにおられた。 |
前田訳 | そしてイエスはまたヨルダンの向こうの、ヨハネが前に洗礼していた所へ行って、しばらくそこにとどまられた。 |
新共同 | イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。 |
NIV | Then Jesus went back across the Jordan to the place where John had been baptizing in the early days. Here he stayed |
註解: すなわちべレアの地方、マタ19:1以下。マコ10:1以下の記事はこの後の出来事であろうとする学者がある(G1)。
10章41節
口語訳 | 多くの人々がイエスのところにきて、互に言った、「ヨハネはなんのしるしも行わなかったが、ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった」。 |
塚本訳 | 大勢の人があつまって来て、「ヨハネは何一つ徴[奇蹟]を行わなかったが、この方についてヨハネの言ったことは全部本当だった」と言った。 |
前田訳 | すると多くの人が彼のところへ来ていった、「ヨハネは何の徴も行なわなかったが、ヨハネがこの方についていったことはみな本当であった」と。 |
新共同 | 多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」 |
NIV | and many people came to him. They said, "Though John never performed a miraculous sign, all that John said about this man was true." |
註解: エルサレムのユダヤ人に拒まれ給いしイエスは、かえってこの片田舎に知己を得給うた。彼らはヨハネの証を信じてイエスの徴を信じた。これらはエルサレムの人々の拒んだところのものであった。
10章42節
口語訳 | そして、そこで多くの者がイエスを信じた。 |
塚本訳 | そこで大勢の人がイエスを信じた。 |
前田訳 | そして、そこで多くの人が彼を信じた。 |
新共同 | そこでは、多くの人がイエスを信じた。 |
NIV | And in that place many believed in Jesus. |
註解: 福音は常に思わざる処に伝わるものである。
ヨハネ伝第11章
3-4-3 ラザロの復活
11:1 - 11:53
3-4-3-イ 準備
11:1 - 11:16
11章1節 ここに
口語訳 | さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、マリヤとその姉妹マルタの村ベタニヤの人であった。 |
塚本訳 | さて、ラザロというひとりの病人があった。。マリヤとその姉妹マルタとの村、ベタニヤの人である。 |
前田訳 | ラザロという病人があった。マリヤとその姉妹マルタの村ベタニアの人であった。 |
新共同 | ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。 |
NIV | Now a man named Lazarus was sick. He was from Bethany, the village of Mary and her sister Martha. |
11章2節
口語訳 | このマリヤは主に香油をぬり、自分の髪の毛で、主の足をふいた女であって、病気であったのは、彼女の兄弟ラザロであった。 |
塚本訳 | このマリヤは主に香油を塗り、髪の毛で御足をふいた女であるが、病気であったラザロはその兄弟であった。 |
前田訳 | マリヤは主に香油をぬり、み足を自分の髭でふいた女で、その兄弟ラザロが病んでいた。 |
新共同 | このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。 |
NIV | This Mary, whose brother Lazarus now lay sick, was the same one who poured perfume on the Lord and wiped his feet with her hair. |
註解: ヨハネはマリヤ、マルタの名を始めて掲げながら読者が知っているもののごとくに記しているのは、ルカ10:38−42の記事を知っているものと予想したのであろう。共観福音書(マタ26:6−13。マコ14:3−9。ルカ7:36以下は別)には香油を主に塗りし事件はベタニヤに起りしのみを記してそれがマリヤなりしことを記さず、ヨハネはここにこの事件およびラザロの復活の事件の人物と場所との関係を明示している。(この事件をばヨハ12:1以下に記す)ベタニヤは橄欖 山の東南麓エルサレムより二十五丁エリコに行く途中にあり。ヨハ1:28のベタニヤとは別村。
11章3節
口語訳 | 姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。 |
塚本訳 | マリヤとマルタとはイエスに使をやって、「主よ、大変です。あなたの可愛がっておられる人が病気です」と言わせた。 |
前田訳 | 姉妹たちはイエスに使いをやって、「主よ、あなたのお気に入りが病気です」といわせた。 |
新共同 | 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。 |
NIV | So the sisters sent word to Jesus, "Lord, the one you love is sick." |
註解: 彼らは使いをペレアに遣わした。彼らは主の彼ら凡てを愛し給うことを知り、この伝言により、イエスが必ず彼らを助け給うべきことを確信した。告白のみがよく愛の神を動かすことができる(Tヨハ1:9)。イエスに来り給わんことを乞わなかったのは、彼の危険につき知っていたのと、必ずしも来り給わずともその力を顕わし給うこと(ヨハ4:50)を信じたからであろう。
辞解
[愛し給ふもの] phileô なる動詞を用いている。なお36節も同様である。この動詞の意義につきてはTコリ13:3要義一。マタ5:48要義一参照。
11章4節
口語訳 | イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。 |
塚本訳 | イエスは聞いて言われた、「これは死ぬための病気ではない。神の栄光のためである。すなわち(神の栄光をあらわすために、)神の子(わたし)がこれによって栄光を受けるためである。」 |
前田訳 | イエスはそれを聞いていわれた、「この病は死に至らず、神の栄光のため、神の子が栄化されるためである」と。 |
新共同 | イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」 |
NIV | When he heard this, Jesus said, "This sickness will not end in death. No, it is for God's glory so that God's Son may be glorified through it." |
註解: これはイエスの答ではなく、使いおよび弟子たち一般に対する宣言また約束であった。イエスはこの時すでにその異常なる洞見力をもってラザロの復活を予見し給い、またこの復活が神の栄光とイエスの栄光とに如何に大なる寄与をなすべきかを知悉 し給うた。ヨハ9:3の場合に比してさらに大なる神の御計画がこの病者ラザロの上にあった。神の選び給える者に対する復活の事実とこれによりて受け給うべき神とキリストの栄光も、かくのごとくにして今より預言せられて居る。
11章5節 イエスはマルタと、その
口語訳 | イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。 |
塚本訳 | イエスはマルタとその姉妹ラザロとを愛しておられた。 |
前田訳 | イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 |
新共同 | イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 |
NIV | Jesus loved Martha and her sister and Lazarus. |
註解: それ故にベタニヤにおける彼らの家は苦難のイエスに対するオアシスであった(マタ21:17)。
11章6節 ラザロの
口語訳 | ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に滞在された。 |
塚本訳 | ところでイエスはラザロが病気と聞かれると、おられたところに(なお)二日留っていて、 |
前田訳 | しかし、ラザロが病むと聞かれると、おられたところに二日とどまって、 |
新共同 | ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。 |
NIV | Yet when he heard that Lazarus was sick, he stayed where he was two more days. |
11章7節
口語訳 | それから弟子たちに、「もう一度ユダヤに行こう」と言われた。 |
塚本訳 | そのあとで弟子たちに、「もう一度ユダヤに行こう」と言われた。 |
前田訳 | そのあとで弟子たちにいわれる、「今一度ユダヤへ行こう」と。 |
新共同 | それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」 |
NIV | Then he said to his disciples, "Let us go back to Judea." |
註解: なぜマリヤらの切望を知りつつ直ちにユダヤに往き給わざりしかについては種々の臆説あり(M0)。されどこの場合は父がその栄光を顕わさんとし給うこと、イエスは徹頭徹尾父の御意に従って動き給いしことは勿論であって、二日の滞留も父の指揮に従い給えるものと解すべきであろう。而してこれが弟子たちの信仰によき結果を与えた(15節)。またイエスの再臨もかくのごとくであって、いかに信徒がこれを切望するも、唯父の御意のみによりて最も適当の時に来り給うであろう。イエスが我ら復 ベタニヤに行くべしと言い給わずして「ユダヤに往くべし」と言い給える所以は、イエスの目的がラザロの復活によりて全ユダヤに神の栄光を顕わし給わんがためであったからである。
辞解
[二日留り、而してのち] 原語は「二日留りたれど遂にその後」というごとき語気あり、この二日の間の緊張せる心持を示す。大なる嵐の前の静けさにも比すべきである。
11章8節
口語訳 | 弟子たちは言った、「先生、ユダヤ人らが、さきほどもあなたを石で殺そうとしていましたのに、またそこに行かれるのですか」。 |
塚本訳 | 弟子たちが言う、「先生、ついこの間もユダヤ人があなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこに行かれるのですか。」 |
前田訳 | 弟子たちはいう、「先生(ラビ)、つい先ごろユダヤ人があなたを石打ちしようとしていましたのに、今一度あそこへ行かれるのですか」と。 |
新共同 | 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」 |
NIV | "But Rabbi," they said, "a short while ago the Jews tried to stone you, and yet you are going back there?" |
註解: 師に対する弟子の心づかいは優しかった(マタ16:22参照)。
11章9節 イエス
口語訳 | イエスは答えられた、「一日には十二時間あるではないか。昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。 |
塚本訳 | イエスが答えられた、「(心配するな。わたしが神に命ぜられた務を果す時までは、だれもわたしに手を下すことはできない。)昼間は十二時間あるではないか。人は昼間歩けば、つまづくことはない。この世の光(太陽)が照らしているからだ。 |
前田訳 | イエスは答えられた、昼間は十二時間あるではないか。人は昼間歩けばつまずかない、この世の光が見えるから。 |
新共同 | イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。 |
NIV | Jesus answered, "Are there not twelve hours of daylight? A man who walks by day will not stumble, for he sees by this world's light. |
11章10節
口語訳 | しかし、夜あるけば、つまずく。その人のうちに、光がないからである」。 |
塚本訳 | しかし夜歩けば、つまづく。その人の中に(心を照らす)光がないからである。」 |
前田訳 | 夜歩けばつまずく、光がその人の中にないから」と。 |
新共同 | しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」 |
NIV | It is when he walks by night that he stumbles, for he has no light." |
註解: 日中に歩く者は太陽の光があるので躓かない、躓くのは暗黒の中を歩く場合である。ここにイエスは神の御意、神の命令を太陽の光に譬え、この御旨に遵 って行動する場合には決して途を誤りまたは躓くことがない(詩91:11)。また如何にユダヤ人が彼を殺さんとするも決して彼を殺すことができない。神がイエスをこの世に置き給う間は太陽が彼の道を照らしているのであって、彼は如何なる途をも恐れなく歩むことができ、また神の命ならば進まなければならない。反対に神の命に従わず、迫害を恐れてユダヤに行かないならば、その時こそ神の光を失い暗黒の中を歩むのであって、その人は必ず躓くのである。イエスにとってはその一生涯の終りが近付いていたけれどもなお昼たるを失わなかった。(注意)本節には種々の誤れる解釈がある。
11章11節 かく
口語訳 | そう言われたが、それからまた、彼らに言われた、「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」。 |
塚本訳 | こう話して、またそのあとで言われる、「わたし達の友人ラザロが眠った。目をさましに行ってやろう。」 |
前田訳 | このことをいってからのちにいわれる、「われらの友ラザロは眠った、しかし起こしに出かけよう」と。 |
新共同 | こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」 |
NIV | After he had said this, he went on to tell them, "Our friend Lazarus has fallen asleep; but I am going there to wake him up." |
註解: ペレアよりベタニヤまでを一日路とすれば、17節によりラザロは4節の後間もなく死にたることは明らかである。イエスは充分これを知り、弟子たちにラザロを復活せしむべきことを告げ給うたのである。
辞解
[呼び起す] exhypnizô 目をさまさせること。
11章12節
口語訳 | すると弟子たちは言った、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」。 |
塚本訳 | 弟子たちが言った、「主よ、眠ったなら(きっと)助かりましょう。(眠る病人はなおると言います。起さない方がよいでしょう。)」 |
前田訳 | 弟子たちはいった、「主よ、眠ったのなら救われましょう」と。 |
新共同 | 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。 |
NIV | His disciples replied, "Lord, if he sleeps, he will get better." |
註解: 意訳「主よ、眠れるならば助からん」ゆえに行く必要はあるまい、病人に安眠は良薬である。弟子たちはこの普通の事実を捉え来ってイエスを引留めんとした。
辞解
[癒ゆべし] sôthêsetai 直訳「救われん」。意訳「助からん」マタ9:21辞解参照。
11章13節 イエスは
口語訳 | イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った。 |
塚本訳 | イエスはラザロが死んだことを言われたのに、弟子たちは安眠していることを言われるものと思ったのである。 |
前田訳 | イエスは彼の死についていわれたが、彼らは単なる眠りについていわれたと思った。 |
新共同 | イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。 |
NIV | Jesus had been speaking of his death, but his disciples thought he meant natural sleep. |
註解: 弟子たちのこの誤解をもってあまりに甚 だしき誤解ゆえ、事実にあらずとする学者があるけれども必ずしもそうではない。イエスといえども常に異常なる洞見力のみを顕わし給うたのではなく、平日は通常の人間として弟子たちと会話を交し給うたのである。
辞解
[寝ねて眠れる] 「寝ねて」と訳されし hypnos は睡眠を意味し、「眠れる」と訳されし koimêsis は睡眠と共に安静に横臥する意味をも含むゆえに死をも意味する。
11章14節 ここにイエス
口語訳 | するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、「ラザロは死んだのだ。 |
塚本訳 | そこでイエスが今度ははっきり言われた、「ラザロは死んだのだ。 |
前田訳 | そこでイエスはあからさまにいわれた、「ラザロは死んだ。 |
新共同 | そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。 |
NIV | So then he told them plainly, "Lazarus is dead, |
11章15節
口語訳 | そして、わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである。では、彼のところに行こう」。 |
塚本訳 | わたしがそこにいなかったことを、あなた達のために喜ぶ。あなた達の信仰を強めることができるからだ。さあ、ラザロの所に行こう。」 |
前田訳 | わたしがあそこにいなかったことをよろこぶ。いなかったのはあなた方のため、あなた方が信ずるためである。さあ、彼のところへ行こう」と。 |
新共同 | わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」 |
NIV | and for your sake I am glad I was not there, so that you may believe. But let us go to him." |
註解: 私訳「我は汝らが信ぜんためには、我がかしこにおらざりしを汝らのために喜ぶ」もしキリスト彼処 にい給いてラザロが死ななかったか、または死しても直ちに甦えらせられたならば、弟子たちはイエスを信ずることが充分に強くなかったであろう。「何となれば神の御業が自然界の普通の現象に近ければ近いほど、人は神の御業を尊むこと少なく、その御業が顕われ難いからである」(C1)。
11章16節 デドモと
口語訳 | するとデドモと呼ばれているトマスが、仲間の弟子たちに言った、「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」。 |
塚本訳 | するとトマスすなわち(ギリシヤ語で)デドモ(二子)が相弟子たちに言った、「(主の命があぶない。)わたし達も行って、主と一しょに死のう。」 |
前田訳 | デドモ(二子)ことトマスが相弟子たちにいった、「われらも行って彼とともに死のう」と。 |
新共同 | すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。 |
NIV | Then Thomas (called Didymus) said to the rest of the disciples, "Let us also go, that we may die with him." |
註解: イエスの御心は常に神の御旨を行い神の御栄えを掲ぐることにあった。弟子たちはイエスの生命につきて考うると同時に、己らの生命についても恐れていた。唯主イエスの決心があまりに堅いために、トマスもついに主に従って死なんとの決心をするに至ったのである。
辞解
[デドモ] はギリシャ語で、「トマス」はそれに相当するヘブル語。共に双生児の意味。
要義1 [直ちに聴かれざる祈り]六節にイエスが二日留り給えることは、切迫せるこの場合としてはあまりに悠長な態度であって、もしラザロがその危険状態を続けていたならばマルタ、マリヤにとっては耐え難く待遠 であったことであろう。しかしながら我らはこの目前の事情のみより見て神の愛の有無を判断してはならない。神は時に我らの祈りを直ちに聴き入れ給わずして、これによりて我らの忍耐を試み、また我らをして服従の態度を養うことを得しめ給うのである。ゆえに我らの祈願が直ちに聴き入れられざる場合といえども我らは祈願を続くべきであり、また神の愛を信じ、いかに遅くともついには我らの願いを聴き給うと確信して祈るべきである。
要義2 [光明と暗黒]9節によりて我らは次のことを学ぶことができる。すなわち「人が神の召命なしに自己の思い付きによりて導かれるままに委する場合には、その全生涯は放浪と誤謬の道程に過ぎない。自ら非常に賢なりと思惟する処の者も、もし神の口より出づる言を聴かず、聖霊をしてその行動を支配せしめざる場合においては、あたかも暗黒の中をさ迷う盲人のごとくである。人の取るべき唯一の正しき途は神の召命を充分に確かめ、常に神を案内者として我らの眼から離さないことである。我らの生涯を巧みに規律するこの規則は必ず好結果を得べしとの期待を伴うものである。何となれば神の支配が失敗に終ることは有り得ないからである。而してこの知識は我らにとって非常に必要である。何となれば信者がキリストに従わんとして一歩踏み出すや否や、サタンは直ちに無数の障碍 をもってこれを妨げ、種々の危険をもって四方を囲み、あらゆる手段をもってその進歩を妨げんとするからである。しかしながら主が我らの前に燈火を照らして我らに進めと命じ給う場合には、我らはたとい無数の死が我々の道を塞ぐとも勇敢に前進しなければならぬ」(C1)。かかる者は日中に歩むものであり、この途を避くるものは夜歩むものである。
11章17節 さてイエス
口語訳 | さて、イエスが行ってごらんになると、ラザロはすでに四日間も墓の中に置かれていた。 |
塚本訳 | さてイエスが(ベタニヤに)行って見られると、ラザロはもう四日も墓の中にあった。 |
前田訳 | イエスが来てみると、ラザロはすでに四日墓にあることがわかった。 |
新共同 | さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 |
NIV | On his arrival, Jesus found that Lazarus had already been in the tomb for four days. |
註解: ユダヤにおいては死人はその日の日没前に埋葬する習慣である。なお11節註参照。
11章18節 ベタニヤはエルサレムに
口語訳 | ベタニヤはエルサレムに近く、二十五丁ばかり離れたところにあった。 |
塚本訳 | ベタニヤはエルサレムの近くで、十五スタデオ(三キロ)ばかり離れていた。 |
前田訳 | ベタニアはエルサレムに近く、十五スタデオほどであった。 |
新共同 | ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 |
NIV | Bethany was less than two miles from Jerusalem, |
註解: 次節の多くの人がエルサレムより来れることの説明のために、この距離を掲げたのである。
辞解
[二十五丁] 原語「十五スタデア」(ヨハ6:19)。
11章19節
口語訳 | 大ぜいのユダヤ人が、その兄弟のことで、マルタとマリヤとを慰めようとしてきていた。 |
塚本訳 | マルタとマリヤの所には、大勢のユダヤ人がラザロの悔やみに来ていた。 |
前田訳 | それで多くのユダヤ人が兄弟の悔やみにマルタとマリヤのところに来ていた。 |
新共同 | マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 |
NIV | and many Jews had come to Martha and Mary to comfort them in the loss of their brother. |
註解: これがユダヤ人の習慣であって埋葬後七日の間行われた(S2)。マルタの一族はその地における名家であったのであろう(ヨハ12:5参照)。「ユダヤ人」はヨハ1:19の場合と同じくイエスに反対なるユダヤの司たち(M0、G1)。
11章20節 マルタはイエス
口語訳 | マルタはイエスがこられたと聞いて、出迎えに行ったが、マリヤは家ですわっていた。 |
塚本訳 | マルタは、イエスが来られると聞くと出迎えにいったが、マリヤは家に坐っていた。 |
前田訳 | マルタはイエスが来られると聞いて彼を迎えに出、マリヤは家にすわっていた。 |
新共同 | マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 |
NIV | When Martha heard that Jesus was coming, she went out to meet him, but Mary stayed at home. |
註解: マルタは活動的であったがためにイエスの来り給うことを早く聞きつけて村はずれまで出迎えた。マリヤは悲しみのあまり家に坐して弔問の客に接していた。ルカ10:38以下と対比して二人の性格が双方とも鮮やかに描写せられしを見よ。
11章21節 マルタ、イエスに
口語訳 | マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。 |
塚本訳 | マルタがイエスに言った、「主よ、あなたがここにいてくださったら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 |
前田訳 | マルタはイエスにいった、「主よ、もしあなたがここにおいででしたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 |
新共同 | マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 |
NIV | "Lord," Martha said to Jesus, "if you had been here, my brother would not have died. |
註解: イエスの不在なりしを悔やむ言であって、イエスの来給うことの遅かりしを恨む言ではない。イエスがすぐに来給うとも間に合わなかったことをマルタは知っていた。
11章22節 されど
口語訳 | しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」。 |
塚本訳 | しかしあなたがお願いになることなら、神様は何でもかなえてくださることを、わたしは今でも知っています。」 |
前田訳 | しかし今でも、わたしは知っています、あなたがお願いのことなら、何でも神がお与えくださいますことを」と。 |
新共同 | しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 |
NIV | But I know that even now God will give you whatever you ask." |
註解: このマルタの告白には力がなく「光輝がなかった」(C1)。その故はこの語はイエスに対する信仰ではなく、イエスに関する知識に過ぎないからである。「汝は復活の主に在し給う、汝は我が兄弟を甦らしめ給うことを得」との信仰を告白すべきであった。ゆえにイエスは25、26節をもって彼女を導き、27節の信仰に到達せしめ給うた。
11章23節 イエス
口語訳 | イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。 |
塚本訳 | イエスは言われる、「あなたの兄弟は生き返る。」 |
前田訳 | イエスはいわれる、「あなたの兄弟は復活しよう」と。 |
新共同 | イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 |
NIV | Jesus said to her, "Your brother will rise again." |
註解: マルタが言うべくして言い得なかった信仰の内容をイエスの方より示し給うた。然るにマルタの信仰はこれに共鳴することができる程度に達していなかったために、マルタはイエスが単に終末の日における復活を示して彼女を慰め給うものと解した。
11章24節 マルタ
口語訳 | マルタは言った、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」。 |
塚本訳 | マルタが言う、「最後の日の復活の時に生き返ることは、知っています。」 |
前田訳 | マルタはいう、「終わりの日の復活の時に彼が復活しようことはわかります」と。 |
新共同 | マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 |
NIV | Martha answered, "I know he will rise again in the resurrection at the last day." |
註解: 従ってマルタはここにも復活に関する彼女の知識を告白するに過ぎなかった(「知る」を繰返しているのを見よ)。イエスに対する信仰はかかる知識だけでは足りない。彼の復活の生命に与り、永遠に死なざる状態に入ることを信ずる信仰でなければならない。ゆえにイエスは次の2節においてこのことを教え給う。
11章25節 イエス
口語訳 | イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 |
塚本訳 | イエスがマルタに言われた、「わたしが復活だ、命だ。(だから)わたしを信じている者は、死んでも生きている。 |
前田訳 | イエスはいわれる、「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信ずるものは死んでも生きよう。 |
新共同 | イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 |
NIV | Jesus said to her, "I am the resurrection and the life. He who believes in me will live, even though he dies; |
註解: 「我は」と言いてイエスはマルタの心を彼自身に引きよせ給う。信仰の対象は神学の知識にあらず、キリストに対する人格的信頼である。而してこのキリストが死にたる者の復活であり生けるものの生命であり給う。蓋しイエスは一度死にて復 甦り永遠に活き給うが故である。ゆえに彼を信じ、彼と人格的に結合しているものは肉体は死すとも永遠に死なない。やがては甦えらされるのである(ヨハ6:39-40、ヨハ6:44、ヨハ6:54)。
11章26節
口語訳 | また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。 |
塚本訳 | また、だれでも生きてわたしを信じている者は、永遠に死なない。このことが信じられるか。」 |
前田訳 | また、生きてわたしを信ずるものは永遠に死なない。このことをあなたは信ずるか」と。 |
新共同 | 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 |
NIV | and whoever lives and believes in me will never die. Do you believe this?" |
註解: 前節はすでに肉体的に死ねる信者を指し、本節は生存せる信者を指す。生きてキリストを信じ彼の復活の生命に与るものはすでに生命に移っているのであって(ヨハ5:24)、すでにキリストと共に甦って天の処に坐しているのである (ロマ8:10。Uコリ4:14。エペ2:6。コロ2:12。コロ3:1。Tペテ1:23) 。生くるも死ぬるも唯キリストを信ずること、彼と人格的一致の関係に入ることが主要の問題であることを示し給う。
11章27節
口語訳 | マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。 |
塚本訳 | イエスに言う、「はい、主よ、(信じます。)あなたが救世主で、神の子で、世に来るべき方であると、私は信じています。」 |
前田訳 | 彼女はいう、「はい、主よ、わたしは信じます、あなたはキリスト、神の子、世に来たるべき方と」と。 |
新共同 | マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 |
NIV | "Yes, Lord," she told him, "I believe that you are the Christ, the Son of God, who was to come into the world." |
註解: 理智的であったマルタもついに主イエスをキリストと仰ぐの信仰を告白するに至った。25、26節におけるイエスの御言は知識として受入れられたのではなく、イエスに対する信仰として彼女を動かしたのを見ることができる。これがイエスの凡ての人に要求し給う点である。
11章28節 かく
口語訳 | マルタはこう言ってから、帰って姉妹のマリヤを呼び、「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」と小声で言った。 |
塚本訳 | こう言ったのち、マルタは行って姉妹のマリヤを呼び、「先生が来て、あなたを呼んでおられる」とささやいた。 |
前田訳 | こういってから彼女は立ち去って姉妹のマリヤを呼び、そっといった、「先生がおいでで、あなたをお呼びです」と。 |
新共同 | マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。 |
NIV | And after she had said this, she went back and called her sister Mary aside. "The Teacher is here," she said, "and is asking for you." |
註解:竊 にマリヤを呼びしはその場に居りしイエスに反対なるユダヤ人らに気付かれないようにとの注意であった。31節参照。
11章29節 マリヤ
口語訳 | これを聞いたマリヤはすぐ立ち上がって、イエスのもとに行った。 |
塚本訳 | これを聞くとマリヤは、急いで立ち上がってイエスの所に行った。 |
前田訳 | それを聞くと「マリヤはすぐ立ちあがってイエスのところへ行った。 |
新共同 | マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。 |
NIV | When Mary heard this, she got up quickly and went to him. |
註解: マリヤの性質をよく表わしている事実である。
11章30節 イエスは
口語訳 | イエスはまだ村に、はいってこられず、マルタがお迎えしたその場所におられた。 |
塚本訳 | イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えたさっきの場所におられた。 |
前田訳 | イエスはまだ村に着かれず、マルタが出迎えたさっきのところにおられた。 |
新共同 | イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。 |
NIV | Now Jesus had not yet entered the village, but was still at the place where Martha had met him. |
註解: おそらくこれマルタの注意によりてイエスは郊外に留まり給い、そこにマリヤを呼びて彼らと共に竊 にラザロの墓に行かんとし給うたのであろう(ただしこの計画は成功しなかった。次節)
11章31節 マリヤと
口語訳 | マリヤと一緒に家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、彼女は墓に泣きに行くのであろうと思い、そのあとからついて行った。 |
塚本訳 | マリヤと一しょに家にいて慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急に立って出て行くのを見ると、墓に泣きに行くものと思って、あとについて行った。 |
前田訳 | マリヤとともに家にいて慰めていたユダヤ人たちは、マリヤがすぐ立ちあがって出かけるのを見ると、墓に泣きに行くと思ってついて行った。 |
新共同 | 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。 |
NIV | When the Jews who had been with Mary in the house, comforting her, noticed how quickly she got up and went out, they followed her, supposing she was going to the tomb to mourn there. |
註解: マルタが竊 にマリヤを呼び出しし目的はこれがために無効となった。
11章32節 かくてマリヤ、イエスの
口語訳 | マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。 |
塚本訳 | マリヤはイエスのおられる所に来ると、イエスを見るなり、足もとにひれ伏して言った、「主よ、あなたがここにいてくださったら、わたしの・・わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」 |
前田訳 | マリヤはイエスのおられるところに来て、彼を見るや否や、み足にひれ伏していった、「主よ、あなたがここにおいででしたら、わたしの兄弟ば死ななかったでしょうに」と。 |
新共同 | マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。 |
NIV | When Mary reached the place where Jesus was and saw him, she fell at his feet and said, "Lord, if you had been here, my brother would not have died." |
註解: マルタはイエスの足下に伏さなかった。マリヤはその全心全霊をもってイエスに敬意を表した。マリヤの言はマルタのそれと同一であった。この姉妹がラザロの重患に際して「イエスが居給いしならば」と如何に思い、かつ語り合ったことであろう。二人ともイエスを見てまず第一にこの言を発した。しかしイエスはすでに霊をもって彼らと共に居給いしことを(11節)彼らは覚らなかった。
11章33節 イエスかれが
口語訳 | イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、 |
塚本訳 | イエスはマリヤが泣き、一しょに来たユダヤ人たちも泣くのを見ると、(その不信仰を)心に憤り、かつ興奮して、 |
前田訳 | イエスは彼女が泣き、いっしょに来たユダヤ人も泣くのを見て、心になげき、激していわれた、 |
新共同 | イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 |
NIV | When Jesus saw her weeping, and the Jews who had come along with her also weeping, he was deeply moved in spirit and troubled. |
註解: 生命の主に在し給うイエスの前に開展せられし光景は、生命に対する最大の敵なる死が勝ち誇って、人々を苦しめ悲しませている光景であった。もし彼らがキリストを生命の主と信じたならば、この涙の中にも希望をもって彼を仰いだであろう。然るに彼らはこれを為すことができなかった。
註解: 私訳「御霊において憤激し」死が勝ち誇っている光景と、マリヤその他のユダヤ人が不信仰のため生命の主を仰ぎつつなお死の悲しみの中に捉われているのを見給いて、イエスの心は憤激の念に堪えなかった。人の死に際して肉の人は肉の思いがまず彼らを支配するに反し、イエスはその御霊がまず働き給う。
辞解
[心を傷め] embrimaomai は難解な文字であって、専ら憤怒の情を表わす文字であり(マコ14:5)、新約聖書中にはなお「厳しく戒む」る意味に用いられている(マタ9:30。マコ1:43)。要するにまさに起らんとする、またはすでに起れる事実に対する反対の激情を示す文字である。ゆえに単に「愁傷」の意味はなく、何事かに対する反対の激情を意味する。而してイエスがこの場合何に対してこの情を起し給いしやについては多くの説あり、(1)ユダヤ人の虚偽の悲嘆(M0)、(2)ユダヤ人の心にある敵意、(3)自己の悲しみの感情(B1)、(4)罪の業(T0)、(5)ユダヤ人がイエスのまさに行わんとする奇蹟をもってイエスを殺すの理由とすること。その他多くの解釈があるけれども予は上記の解(C1、ルートハルト、オルスハウゼン、カイムその他の説の混合)を適当と思う。なお38節も同定義に取るべきである。
註解: 私訳「心を騒がせて言い給う」憤激の次に来れるものは御心の中の動揺であった。これは単に死の悲しみではなく、イエスは今やその奇蹟を行わんとして不信なるユダヤ人がこれを理由に彼を殺さんとすることを明らかに知り給うた。これを恐れて行わざれば神の栄光を顕わすことができず、これを行えば彼らに殺される場合に立ち至った。イエスの御心は動揺せざるを得なかった。
辞解
[悲しみて] tarasso は「心騒ぎ」と訳されし場合多く (マタ2:3、マタ14:26。ヨハ12:27、ヨハ13:21、ヨハ14:1) 殊に12:27、13:21の場合はイエスの霊肉が苦闘の状態に在る場合であって、本節の場合に類似している(T0)。
11章34節 『かれを
口語訳 | 「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。 |
塚本訳 | (マルタとマリヤに)言われた、「どこにラザロを納めたか。」二人が言う、「主よ、来て、御覧ください。」 |
前田訳 | 「どこに彼を置いたか」と。彼らはいった、「主よ来て、ごらんください」と。 |
新共同 | 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 |
NIV | "Where have you laid him?" he asked. "Come and see, Lord," they replied. |
註解: イエスはその霊的憤激の情を有ち心の動揺を経過していよいよ父の御旨を行うことに取りかかり給うた。すなわち第一にラザロの墓の在所を問い給うたのである。
口語訳 | イエスは涙を流された。 |
塚本訳 | イエスが涙を流された。 |
前田訳 | イエスは涙された。 |
新共同 | イエスは涙を流された。 |
NIV | Jesus wept. |
註解: ついにイエスはその人間としての自然の感情に動かされて涙を流し給うた。「石のごとき心をもっては死人を甦らしむることができない」(ヘングステンベルグ)彼は決して自然の情に支配せられて凡てを忘れることもなく、また禁慾主義者のごとくに無感覚でもなかった。彼は神として神らしく感じ、人として人らしく感じ給うたのである。この間に何らの矛盾もなく、また何らの不合理もない。この節は原文三文字よりなり、聖書における最短の一節である。
11章36節 ここにユダヤ
口語訳 | するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。 |
塚本訳 | するとユダヤ人たちが言った、「まあ、なんとラザロを可愛がっておられることだろう!」 |
前田訳 | するとユダヤ人がいった、「見よ、何と彼を愛しておられたことか」と。 |
新共同 | ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 |
NIV | Then the Jews said, "See how he loved him!" |
11章37節 その
口語訳 | しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。 |
塚本訳 | しかし中には、「盲人の目をあけたこの人にも、このラザロが死なないように出来なかったのか」と言う者もあった。 |
前田訳 | 彼らの中には、「目しいの目をあけたこの人さえも、ラザロが死なないようにはできなかったのか」というものもあった。 |
新共同 | しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。 |
NIV | But some of them said, "Could not he who opened the eyes of the blind man have kept this man from dying?" |
註解: ここにもまたイエスの前に人々の意見が二分した(ヨハ10:19註参照)。その中の一種の人々はラザロに対するイエスの切なる愛を見て彼に好意を寄せ、他の者どもは飽くまで彼に対して批評的に出で彼を拒まんとしている態度を示している。すなわち盲人の目を開ける彼が唯涙を流すのみでラザロを死なざらしめなかったのは、彼の無力を示すか、さもなくば彼の愛の偽りなることを示すものであるとの語気がこの中に含まれている。
11章38節 (この
口語訳 | イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。 |
塚本訳 | そこでイエスはまたも心に憤りながら、(ラザロの)墓に来られる。墓は洞穴で、入口に石を置いて(ふさいで)あった。 |
前田訳 | イエスはまたも心になげいてへ墓に来られる。それは洞穴で、石でふさいであった。 |
新共同 | イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。 |
NIV | Jesus, once more deeply moved, came to the tomb. It was a cave with a stone laid across the entrance. |
註解: 私訳「イエス再び心の中に憤激しつつ墓に到れり」このユダヤ人の邪悪の心に対してイエスは憤り給うたのである。34−38節をもって只イエスがこれらの人々と共にラザロの死を悲しんだことを記せるものと解することは、イエスのこの場合における複雑なる心理を無視したのであり、かつ「心を傷め」と訳することはその原語の意味を殺すものである(33節辞解参照)。
註解: ユダヤ地方の普通の墓はこの形式による。穴の口は水平なるものと垂直なるものとあり。
11章39節 イエス
口語訳 | イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。 |
塚本訳 | 「石をのけなさい」とイエスが言われる。死んだ人の姉妹のマルタが言う、「主よ、もう臭くなっています。四日目ですから。」 |
前田訳 | イエスはいわれる、「石をのけよ」と。事切れた人の姉妹のマルタはいう、「主よ、もうにおいます、四日目ですから」と。 |
新共同 | イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 |
NIV | "Take away the stone," he said. "But, Lord," said Martha, the sister of the dead man, "by this time there is a bad odor, for he has been there four days." |
註解: マルタの性質は飽くまでも実際的具体的散文的であった。彼女はイエスの御言を聞きて、イエスがまさに不思議を行わんとし給うことを信ぜずして、眼をイエスより離してラザロの屍体を考えた。彼女はアブラハムのごとく、唯イエスの力を信じて単純にその命に従うべきであった。信仰は打算を超過する。アブラハムは子無くしてなお多くの国民の祖たることの約束を信じた。また神の命に従って直ちにその独子イサクをささげた。我ら死せる自己の肉、この世を見てそこには唯腐敗せる汚物を見るのみである。マルタはこれを見て畏縮した。
11章40節 イエス
口語訳 | イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。 |
塚本訳 | イエスがマルタに言われる、「信ずれば神の栄光が見られると、(さきほども)あなたに言ったではないか。」 |
前田訳 | イエスは彼女にいわれる、「信ずれば神の栄光が見えよう、とあなたにいったではないか」と。 |
新共同 | イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 |
NIV | Then Jesus said, "Did I not tell you that if you believed, you would see the glory of God?" |
註解: 25節および4節を見よ。彼を信ずれば神の栄光を見ることができる。にもかかわらず人は見て後に信ぜんとする傾がある。ヘブ11:1。この御言によってマルタを叱責してその消えんとする信仰を呼び起し給うた。信仰は神の力があらわれるの準備として必要である。
11章41節 ここに
口語訳 | 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。 |
塚本訳 | 人々が石をのけた。するとイエスは目を天に向けて言われた、「お父様、(まだお願いしないのに、もう)わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。 |
前田訳 | そこで彼らは石をのけた。イエスは目を上に向けていわれた、「父よ、お聞き届けくださったことを感謝いたします。 |
新共同 | 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 |
NIV | So they took away the stone. Then Jesus looked up and said, "Father, I thank you that you have heard me. |
註解: 祈祷に際して神との霊の交わりに入る場合のイエスの態度はかくのごとくであった(ヨハ17:1。マタ14:19。なおルカ18:13参照)。
『
註解: おそらくイエスはこの数日間常にラザロの復活について父に祈願し給うたことであろう。今この祈りがすでに聴かれ、彼にラザロを甦らしむべき力が与えられしことの確信を得てこの感謝をささげ給うた。
11章42節
口語訳 | あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。 |
塚本訳 | (願わずとも)あなたはいつもわたしの願いを聞いてくださることを、わたしはよく知っております。しかしまわりに立っている人たちのために、(今わざと声を出して感謝を)申したのであります。(わたしの願いはなんでもきかれることを彼らに示して、)あなたがわたしを遣わされたことを信じさせるためであります。」 |
前田訳 | あなたはいつもお聞き届けくださることをわたしは知っています。しかし、まわりに立つ人々のためにかく申しました。あなたがわたしをおつかわしのことを彼らが知るためです」と。 |
新共同 | わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 |
NIV | I knew that you always hear me, but I said this for the benefit of the people standing here, that they may believe that you sent me." |
註解: すなわち前節の感謝は決して特別の場合ではなく、父は常にイエスの祈りに聴き給うのであることをここに宣言し給い、同時にラザロを甦らしむる奇蹟によりてイエスは神の子メシヤに在すことを宣言し給うた。ゆえにもしラザロが甦らないならばイエスは神より遣わされ給うたのではなく、もし彼が甦って来るならばイエスが神から遣わされ給いしことの証拠であって、群衆はこれを信じなければならないこととなるのである。ゆえにイエスはこの祈りを高声にてささげ給いしは群衆にこれを示さんがためであった。而してこれ同時にイエスにとって決死の挑戦であった。何となれば、ラザロを甦することによりて、ユダヤ人らは益々彼を殺さんとすることが確実であったからである。
11章43節
口語訳 | こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。 |
塚本訳 | こう言ったのち、大声で、「ラザロ、出て来い」と叫ばれた。 |
前田訳 | こういってから大声で叫ばれた、「ラザロよ、出ておいで」と。 |
新共同 | こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 |
NIV | When he had said this, Jesus called in a loud voice, "Lazarus, come out!" |
註解: あたかも深き眠りに入っている者を呼び起すがごとくである。
11章44節
口語訳 | すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。 |
塚本訳 | 死人が手足を包帯で巻かれたまま、(墓から)出てきた。顔は手拭で包まれていた。イエスは「解いてやって(家に)帰らせなさい」と人々に言われた。 |
前田訳 | 死人が手足を布で巻かれたまま出て来た。顔は手拭でおおわれていた。イエスは人々にいわれた。「彼をほどいて家に帰らせなさい」と。 |
新共同 | すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。 |
NIV | The dead man came out, his hands and feet wrapped with strips of linen, and a cloth around his face. Jesus said to them, "Take off the grave clothes and let him go." |
註解: マルタとマリヤの喜びは勿論、人々の驚きはいかばかりであったろうか。ヨハネはかかることにつきては沈黙している。これかえってこの場合における光景の荘厳さを増す。
イエス『これを
註解: 甦らしむることはイエスの仕事、布と手拭いとを解くことは周囲の人々の仕事、歩みて家に往くことはラザロの仕事であった。イエスは人々として各々わずかずつにてもその業を為さしむることを喜び給う。
要義1 [ラザロと復活の意義]ラザロの復活はキリストの愛と能力との顕われであり、またこれによりて神の栄光が揚れることは勿論であるけれども、これは同時に世の終りにおける復活の見本であった。終末の日にキリストが再び来給いて「起きよ」「墓より出て来れ」と呼び給う時、キリストに在る死人はみなこのラザロのごとくに甦って出て来るであろう。ラザロは復活してまた死んだ。しかしながら終末の日においては永遠の生命に甦るであろう。
要義2 [死と生命]39節におけるマルタの言は我らに多くの霊的教訓を与える。マルタは四日を経過せるその兄弟の屍体につきて考え、その腐爛して悪臭を放つならんことを考うるのあまり、イエスの約束(ヨハ4:25)を忘れた。あたかもペテロがその脚下の浪を見て沈まんとしたのと相似ている。もしマルタが堅くイエスの約束を信じこれを望んでいたならば、彼女はその兄弟の屍体について考えなかったであろう。アブラハムの信仰を見よ(ロマ4章)、彼は望むべくもあらぬ時になおその望みをすてなかった。彼はエホバを信じたからである。もしマルタも生命の主に在し給うイエスを信じたならば、彼女はこの場合その屍体を見ることをせずにイエスを仰ぎ見、彼の御言を信じたであろう。我らも我らの肉を見る時その状態に絶望する。しかしながら我らイエスを仰ぎてその約束を信じ、そこに生命を見出すことができるのである。「信仰は望むところを確信することである」(ヘブ11:1)。
要義3 [見ずして信ずべし]「もし信ぜば神の栄光を見ん」40節。「信仰は見ぬ物を真実とするなり」ヘブ11:1。我らももし神の栄光を見んと欲するならば、信仰によりて見ぬものを真実として受けなければならない。これ神に対する絶対の信頼によりてのみ為し得る勇敢なる行為である。しかしながら神はこの信仰を嘉し給いて必ずこれに対してその栄光を顕わし給う。復活に対する信仰も、もし我らあらゆる科学の反対、理性の不承知を顧みず勇敢にこれを信ずるならば神の栄光を見ることができるであろう。アブラハムはイサクの復活を信じて彼を殺さんとした。而して彼は小羊が後ろに備えられているのを見出したのである。
11章45節 かくてマリヤの
口語訳 | マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。 |
塚本訳 | すると、マリヤの所に来てイエスのされたことを見たユダヤ人のうち、多くの者は彼を信じた。 |
前田訳 | マリヤのところに来てイエスのなさったことを見たユダヤ人の多くが彼を信じた。 |
新共同 | マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。 |
NIV | Therefore many of the Jews who had come to visit Mary, and had seen what Jesus did, put their faith in him. |
註解: 36、37節に比して一層明らかなる分離が彼らの間に起った。「信ずる」なる語はパウロのいわゆる信仰にまで到達せざるもの、すなわちイエスの弟子たらんとする心持を指す場合にも用いられるのであって、本節はその例である。なおヨハ2:11参照。
11章46節
口語訳 | しかし、そのうちの数人がパリサイ人たちのところに行って、イエスのされたことを告げた。 |
塚本訳 | しかし中には(彼を信ぜず、)パリサイ人の所に行って、イエスのされたことをあれこれと報告した者もすこしあった。 |
前田訳 | しかし中にはパリサイ人のところに行ってイエスのなさったことを告げるものもあった。 |
新共同 | しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。 |
NIV | But some of them went to the Pharisees and told them what Jesus had done. |
註解: パリサイ人らがイエスに極端に反対しているのを知り、この奇蹟が彼らに対する大事件として警戒を要することを注進した。不信の心の前にはいかなる神の御業も蹂躙 せられてしまう。豚に真珠である。
11章47節 ここに
口語訳 | そこで、祭司長たちとパリサイ人たちとは、議会を召集して言った、「この人が多くのしるしを行っているのに、お互は何をしているのだ。 |
塚本訳 | そこで大祭司連とパリサイ人は最高法院を召集して言った、「どうすればよいだろう、あの男はたくさん徴[奇蹟]をしているのだが。 |
前田訳 | そこで大祭司やパリサイ人は会議(サンヘドリン)を開いていった、「あの男が多くの徴をしているのをどうしよう。 |
新共同 | そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。 |
NIV | Then the chief priests and the Pharisees called a meeting of the Sanhedrin. "What are we accomplishing?" they asked. "Here is this man performing many miraculous signs. |
註解: 議会(サンヘドリム)についてはマタ5:22辞解参照。重大なる問題がある場合にこの議会(衆議所とも訳されている)が開かれるのであって、イエスなる人物をいかに処置すべきかは彼らの目下の大問題であったことがわかる。
『われら
辞解
[▲われら如何に為すべきか] 口語訳「お互いは何をしているのだ」が正しい。
11章48節 もし
口語訳 | もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう。そのうえ、ローマ人がやってきて、わたしたちの土地も人民も奪ってしまうであろう」。 |
塚本訳 | もしこのまま放っておけば、皆があれを信じ(て王に祭り上げ)るであろう。すると騒動が起り、ローマ人が来て、われわれから(エルサレムの)都も国民も、取ってしまうにちがいない。」 |
前田訳 | 彼を、このままにしておけば、皆が彼を信じよう。そしてローマ人が来てわれらから土地も国民も奪おう」と。 |
新共同 | このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」 |
NIV | If we let him go on like this, everyone will believe in him, and then the Romans will come and take away both our place and our nation." |
註解: パリサイ人らの心にはイエスが真のメシヤに在すや否やを、または彼は真理を語り給うや否やを問うだけの正義慾がない。彼らの求むるものは自己の宗教的特権と勢力とを維持すること、および彼らに従来与えられし政治的権力を保持することであった。ゆえに彼らの最も懼れる処は、多くの人のイエスを信ぜんことと、ローマ人らが(議会に秩序維持の能力なきものとして)彼らよりその土地(エルサレム)とユダヤ人とに対する政権を奪うであろうことであった。彼らの動機のいかに卑しきかを見よ、宗教を商売とするものはいずれの時代においてもかくのごとき心情を有する。
11章49節 その
口語訳 | 彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った、「あなたがたは、何もわかっていないし、 |
塚本訳 | するとそのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが言った、「諸君は何もお解りにならない。 |
前田訳 | 彼らのひとりのカヤパは、その年の大祭司であったが、彼らにいった、「あなた方は何もご存じない。 |
新共同 | 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。 |
NIV | Then one of them, named Caiaphas, who was high priest that year, spoke up, "You know nothing at all! |
註解: 「此の年の」は「此の年だけ」という意味ではなく「此の世界歴史における最も重要な年」のという意味である。カヤパは紀元二十五年より三十六年まで大祭司であった。本来モーセの律法によれば終身職たりし大祭司も、ローマ政府の下には短日月で交替せしめられた。
『なんぢら
11章50節 ひとりの
口語訳 | ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だということを、考えてもいない」。 |
塚本訳 | また、一人の人が民(全体)に代って死んで全国民が滅びない方が、諸君にとって得であることも考えておられない。」 |
前田訳 | ひとりの人が民のために死んで全国民が滅びないほうが、あなた方に有利だとも考えておられない」と。 |
新共同 | 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」 |
NIV | You do not realize that it is better for you that one man die for the people than that the whole nation perish." |
註解: カヤパは議員共の優柔不断にして、いかにすべきかを知らないのを見て憤りその無智を非難し、もし国人すべてを救うためならば無辜 なる一人が死ぬことも彼らの益であることを唱えて、イエスを殺さんことを主張した。愛国の美名の下に隠れて彼らの利益特権を擁護せんとする最も賎しき心情の発露である。
11章51節 これは
口語訳 | このことは彼が自分から言ったのではない。彼はこの年の大祭司であったので、預言をして、イエスが国民のために、 |
塚本訳 | しかしこれは、カヤパが自分から言ったのではない。その年の大祭司であった彼は、イエスが国民のために死なねばならぬことを、(自分ではそれと気付かずに、神の預言者として)預言したのである。 |
前田訳 | これは自分からいったのではなく、その年の大祭司であったので、預言して、イエスが民のために死なれようということ、 |
新共同 | これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。 |
NIV | He did not say this on his own, but as high priest that year he prophesied that Jesus would die for the Jewish nation, |
11章52節
口語訳 | ただ国民のためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっていると、言ったのである。 |
塚本訳 | ──ただ、(ユダヤ)国民のためだけでなく、(世界中に)散らばっている(今はまだ異教人である)神の子たちを、一つに集めるために。 |
前田訳 | それは民のためだけでなく、散っている神の子らをひとつに集めるためであることをいったのである。 |
新共同 | 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。 |
NIV | and not only for that nation but also for the scattered children of God, to bring them together and make them one. |
註解: カヤパの言はその一面は己より言えるのであって自分の意見であった。しかし「カヤパにはこの際二枚の舌があったとも言い得る」(C1)のであって、彼自身の悪意より出でしこの言を神は用い給いて、キリストの十字架の贖罪の死の預言となし給うた。本来大祭司は神託を受けてこれを宣言する役目であったので、神はカヤパの口を用いてその預言を語らしめ給うたのである。「散りたる神の子ら」は異邦人中の神を信ずべく選ばれし者を意味する。イエスの死は国人の罪の贖いのみならず、これらの散りたる神の子らをもこの贖われし民の中に加えてこれを一つに集めんがためであった。
11章53節
口語訳 | 彼らはこの日からイエスを殺そうと相談した。 |
塚本訳 | そこで彼らはその日以来、イエスを殺す決意をしていた。 |
前田訳 | その日から彼らはイエスを殺すことに決めた。 |
新共同 | この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。 |
NIV | So from that day on they plotted to take his life. |
註解: 神の栄光を顕わし給えるこの奇蹟がかえってイエスを殺すの動機となった。虚偽は真理を迫害せずにいることができない。
要義1 [パリサイ主義の真相]パリサイ人らがイエスを殺さんと図りし動機は、彼らをして言わしむれば、その信者を愛してこれらがイエスに惑わされることを防ぐため、またその教権所在地の聖なるエルサレムと神の選民なるユダヤ人とを愛して、これをローマの政府の圧迫より救うためであると言うであろう。而してこのためにはイエスの教えの真理なるや否やは第二の問題であると言うであろう。しかしながら彼らの動機は、その内心に立入って考うる時、唯その教権の保持と彼らの利益の擁護以外の何物でもない。もし今日の教会も真理そのものよりもその伝統や教権や利益を重んじ、これを擁護せんがために真理に耳を藉 さないならば、彼らもこのパリサイ主義に陥っているのである。
要義2 [無意識的預言]預言者が預言する場合は、必ずしも自己の語りつつある言が未来において実現せらるべき事柄の預言であることを意識することを必要としない。イザヤが「処女みごもりて子を生まん」(イザ7:14、マタ1:23)と言いし時、イザヤ自身はアハズの子ヒゼキヤに関することを言ったのであると言われているけれども、しかもこのことが彼の意識とは無関係にイエスの降誕に関する預言たるを妨げなかった。カヤパの言もこれと同じであって、神は彼をして彼の意識とは無関係にキリストの贖罪の死を預言せしめたのである。この意味において四福音書の記者が旧約聖書の文字を前後の関係より切断して、これをキリストの預言と解釈することは誤りではなく、聖霊の指導によることである。
11章54節 されば
口語訳 | そのためイエスは、もはや公然とユダヤ人の間を歩かないで、そこを出て、荒野に近い地方のエフライムという町に行かれ、そこに弟子たちと一緒に滞在しておられた。 |
塚本訳 | それでイエスは、もはや公然とユダヤ人の中を歩きまわることをせず、そこを去って荒野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちと一しょにそこにおられた。 |
前田訳 | それで、イエスはもはや公にはユダヤ人の中を歩かずに、そこを去って荒野に近い地方のエフライムという町に行って、弟子たちとともにそこにとどまられた。 |
新共同 | それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。 |
NIV | Therefore Jesus no longer moved about publicly among the Jews. Instead he withdrew to a region near the desert, to a village called Ephraim, where he stayed with his disciples. |
註解: エフライムが何處なりやは確定し難い。エウセビウスはエルサレムの北東八哩の地なりと言い、ヒエロニムスは同二十哩の処なりと言う。イエスはこの淋しき地において、来るべき死についてで弟子たちを準備し給うた。
11章55節 ユダヤ
口語訳 | さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、多くの人々は身をきよめるために、祭の前に、地方からエルサレムへ上った。 |
塚本訳 | ユダヤ人の過越の祭が近づいた。多くの人が(律法に従って)身を清めるため、過越の祭の前(すこし早目)に、地方からエルサレムに上ってきた。 |
前田訳 | ユダヤ人の過越の祭りが間近かった。多くの人が身を清めに諸地方から祭りの前にエルサレムヘ上った。 |
新共同 | さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。 |
NIV | When it was almost time for the Jewish Passover, many went up from the country to Jerusalem for their ceremonial cleansing before the Passover. |
註解: 祭において献物を為すがためには身を潔むる必要があった。「田舎」はエルサレムに対し、各地方を指す、これがイエスの最後の過越であり彼自身人類の過越の小羊となり給うた。
11章56節
口語訳 | 人々はイエスを捜し求め、宮の庭に立って互に言った、「あなたがたはどう思うか。イエスはこの祭にこないのだろうか」。 |
塚本訳 | 彼らはイエスをさがし、(いつものように宮に姿が見えないので、)宮(の庭)に立って語り合った、「どう思うか、あの人はとてもこの祭には来ないだろう。」 |
前田訳 | 彼らはイエスを探し、宮に立って互いにいった、「どう思うか。もう宮には来ないであろうか」と。 |
新共同 | 彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」 |
NIV | They kept looking for Jesus, and as they stood in the temple area they asked one another, "What do you think? Isn't he coming to the Feast at all?" |
註解: 一方田舎者の好奇心と他方イエスを見出さんとする間謀 の動静(次節)を示している。いずれにしてもイエスの問題が人々の注意の中心点をなしていたことを見ることができる。イエスはその身辺の危険を知り、おそらくエルサレムに来ないだろうとの推測が多くあった有様をも想像することができる。
11章57節
口語訳 | 祭司長たちとパリサイ人たちとは、イエスを捕えようとして、そのいどころを知っている者があれば申し出よ、という指令を出していた。 |
塚本訳 | 大祭司連とパリサイ人たちは、イエスの居所を知っている者は届け出るようにと、命令を出していた。イエスを捕えるためであった。 |
前田訳 | それは、大祭司とパリサイ人がふれを出して、彼のありかを知るものは届けよといっていたからである。彼を捕えるためであった。 |
新共同 | 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。 |
NIV | But the chief priests and Pharisees had given orders that if anyone found out where Jesus was, he should report it so that they might arrest him. |
註解: イエスが捕えられて殺さるべきことはかくして予め告知せられ、その注進が命令せられていた。この場合にエルサレムに向って進み給えるイエスの勇気こそ、神より出でしものでなければならない。
附記 [ラザロの復活について]ラザロの復活についてこれが事実であらざることを主張する学者が少なくない。従ってこの記事をもって(1)或はラザロは仮死の状態に入りたるに過ぎずとなし(パウルス)、(2)或はこれを神話となし(シトラウス)、(3)或はこれを説話となし(パウル)、(4)或はこれを比喩となして(ヴイゼ)説明し去らんとする多くの学者がいる。しかしながら彼らは何れも復活をもって有り得べからざる事実なりとの前提の下にこれらの説を発明しているのであって、復活を否定することそのことがすでに大胆なる独断である以上、これらの説明は重要なる意義を有しない。殊に復活を可能なる事実と認むるならばこれらの説明法はみな無用に帰するのである。
以上の学説よりもさらに一層重要にして困難なる問題は、かかる大事実をなぜに他の三福音書に記して置かないのかの問題である。これについては種々の説明があるけれども、最も首肯し得る説明は、マルタ、マリヤの一家はベタニヤにおける名家であって、三福音書が記載される頃にはなお衆議所の議員とキリスト者との間にその当時の記憶が明らかに残っており、ラザロもなお生存していたために、この記事を記すことはこの家族とパリサイ人、祭司長らとの間の関係をまた再び険悪ならしむる恐れがあったためか(ヨハ12:10を見よ)、またはこの家族をしてあまりに高ぶる心を起さざらしめんがためであったのであろう。この種の沈黙または匿名は、これを聖書に多く見出すことができる。ゲッセマネにおいて大祭司の僕の耳を切り落せる人の名は三福音書に記されずして、ヨハネ伝が始めてそのペテロなることを記し(マタ26:51等。ヨハ18:10)、マタイ伝マルコ伝は(マタ26:6以下。マコ14:3以下)ベタニヤの村名を記して姉妹の名を略し、ルカ伝は反対に(ルカ10:38)姉妹の名を記して村名を隠している。これらの事実より見てラザロの復活のごとき大事実を記さずに置くことが必要であったのであろう。而して聖霊はヨハネを導きて後に至りこれらの障害が除去せられて後にこのことを記さしめた。