黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ルカ伝

ルカ伝第5章

分類
3 初期の活動 4:14 - 6:11
3-3 イエスの名声高まる 5:1 - 6:11
3-3-イ ゲネサレ湖の大漁 5:1 - 5:11  

註解: 1−11節はルカ伝特有。

5章1節 群衆(ぐんじゅう)おし(せま)りて(かみ)(ことば)()きをる(とき)、イエス、ゲネサレの(みづうみ)のほとりに()ちて、[引照]

口語訳さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、
塚本訳(ある日)群衆がおしかけてきて神の言葉を聞いていた時のこと、イエスはゲネサレ湖のほとりに立っておられて、
前田訳群衆が彼のところに押しよせて来て神のことばを聞いていたとき、彼はゲネサレ湖にお立ちであった。
新共同イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
NIVOne day as Jesus was standing by the Lake of Gennesaret, with the people crowding around him and listening to the word of God,

5章2節 (なぎさ)()(さう)(ふね)()せあるを()たまふ、漁人(すなどりびと)(ふね)をいでて(あみ)(あら)()たり。[引照]

口語訳そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。
塚本訳湖のほとりにある二艘の小舟がお目にとまった。漁師たちは舟から下りて網を洗っていた。
前田訳そして小舟二隻を水ぎわに見かけられた。漁夫たちは小舟からおりて網を洗っていた。
新共同イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
NIVhe saw at the water's edge two boats, left there by the fishermen, who were washing their nets.
註解: 前章末節の伝道を終えて再びその本拠ともいうべきカペナウムに帰り給える後の事件と思われる。

5章3節 イエスその一艘(いっさう)なるシモンの(ふね)()り、(かれ)()ひて(をか)より()しく()(いだ)さしめ、()して(ふね)(うち)より群衆(ぐんじゅう)(をし)へたまふ。[引照]

口語訳その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。
塚本訳イエスはその一艘のシモンの舟に乗り、彼に頼んで陸からすこし漕ぎ出させ、坐って、舟の中から群衆を教えられた。
前田訳彼はその一隻のシモンの小舟に乗って、陸から少し離れるよう頼み、すわって舟から群衆を教えられた。
新共同そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
NIVHe got into one of the boats, the one belonging to Simon, and asked him to put out a little from shore. Then he sat down and taught the people from the boat.
註解: この時ペテロは船を漕ぎつつ他の舟子と共にイエスの許に坐して教えを聴いた。そしておそらくその権威と力とに驚いたことであろう。

5章4節 (かた)()へてシモンに()ひたまふ『深處(ふかみ)()りいだし、(あみ)(おろ)して(すなど)れ』[引照]

口語訳話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。
塚本訳話がすむと、シモンに言われた、「沖に漕ぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい。」
前田訳話し終わると、シモンにいわれた、「沖に出して網をおろして漁をなさい」と。
新共同話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
NIVWhen he had finished speaking, he said to Simon, "Put out into deep water, and let down the nets for a catch."

5章5節 シモン(こた)へて()ふ『(きみ)よ、われら終夜(よもすがら)(らう)したるに、(なに)をも()ざりき、されど御言(みことば)(したが)ひて(あみ)(おろ)さん』[引照]

口語訳シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
塚本訳シモンが答えた、「先生、わたし達は(昨夜)一晩中働きましたが、何もとれませんでした。しかし先生のお言葉ですから、網をおろしてみます。」
前田訳シモンは答えた、「先生、夜どおしわれらは働きましたが何もとれませんでした。しかし、仰せですから網をおろしましょう」と。
新共同シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
NIVSimon answered, "Master, we've worked hard all night and haven't caught anything. But because you say so, I will let down the nets."
註解: イエスの教えには深く感動したペテロも、(すなど)りのことについては無経験なるイエスの言をそのまま受納れ得ず、昨夜来の経験に基き内心イエスの命令に対して不信を懐いた。人は往々その僅少なる経験に誇って神の言を無視する。ただし幸いにもペテロは主の御言に従ってそのとおりに実行した。これがペテロが大なる祝福を受くる基となった。
辞解
[君よ] ▲ルカにのみ特有の語 epistata。「先生」は適訳。
[随ひて] ▲▲「基いて」の意。 epi。

5章6節 かくて(しか)せしに、(うを)夥多(おびただ)しき(むれ)(かこ)みて、(あみ)()けかかりたれば、[引照]

口語訳そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。
塚本訳そしてその通りにすると、沢山の魚の群が入って網が裂けかかった。
前田訳そのとおりにすると、魚の大群が入って来て網が裂けかかった。
新共同そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
NIVWhen they had done so, they caught such a large number of fish that their nets began to break.

5章7節 (ほか)一艘(いっさう)(ふね)にをる(くみ)(もの)差招(さしまね)きて(きた)(たす)けしむ。[引照]

口語訳そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。
塚本訳そこでもう一艘の舟にいる仲間に合図をして、加勢に来てもらった。彼らが来て、二艘の舟いっぱい(魚を)つんだので、沈みそうになった。
前田訳そこでもう一隻の小舟の仲間に助けに来てもらうよう合図した。彼らが来て、両方の小舟をいっぱいにしたので沈みそうになった。
新共同そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
NIVSo they signaled their partners in the other boat to come and help them, and they came and filled both boats so full that they began to sink.
註解: この二節の動詞より、舟にはペテロの外にも弟子たちがいたことが判る。イエスの言に従う者の以外な収穫を得ることを暗示す。

(きた)りて(うを)()(さう)(ふね)滿(みた)したれば、(ふね)(しづ)まんばかりになりぬ。

5章8節 シモン・ペテロ(これ)()て、イエスの(ひざ)(した)平伏(ひれふ)して()ふ『(しゅ)よ、(われ)()りたまへ。(われ)(つみ)ある(もの)なり』[引照]

口語訳これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
塚本訳シモン・ペテロはこれを見て、イエスの足もとにひれ伏して言った、「主よ、あちらに行ってください。わたしは罪人です。」
前田訳それを見てシモン・ペテロはイエスの膝もとにひれ伏していった、「主よ、わたしをお離れください。わたしは罪びとです。」と。
新共同これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
NIVWhen Simon Peter saw this, he fell at Jesus' knees and said, "Go away from me, Lord; I am a sinful man!"
註解: この時ペテロは自分の凡ての誇りは打砕かれ、唯イエスを仰ぎ()るより他になき心持となった。そしてイエスを人間以上、すなわち神の子と直感してその前に平伏した。人間は自己の誇りが粉砕されるまでは神を見ることができない。而してイエスの中に神の姿を拝したペテロは同時に自己の全き罪人であることを発見し、イエスの前に立ち得ざる者なることを感じ、「我を去り給え」と叫んだ。この時ペテロは勿論5節のイエスに対する不信をもその罪と感じたに相違ないけれども、それだけではない。

5章9節 これはシモンも(とも)()(もの)もみな、(すなど)りし(うを)夥多(おびただ)しきに(をどろ)きたるなり。[引照]

口語訳彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。
塚本訳彼も一しょにいた者も皆、とれた魚(の多いの)に、びっくりしたのである。
前田訳彼も仲間も皆とれた魚におどろいたのである。
新共同とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
NIVFor he and all his companions were astonished at the catch of fish they had taken,

5章10節 ゼベダイの()にしてシモンの(とも)なるヤコブもヨハネも(おな)じく(をどろ)けり。[引照]

口語訳シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。
塚本訳シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも同様であった。イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今から後、あなたは人間を生け捕る(漁師になる)のだ。(きょうの漁は、あなたの大伝道の前ぶれである。)」
前田訳シモンとともにいたゼベダイの子ヤコブとヨハネも同じであった。イエスはシモンにいわれた、「おそれるな、これから先、あなたは人間をすなどろう」と。
新共同シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
NIVand so were James and John, the sons of Zebedee, Simon's partners. Then Jesus said to Simon, "Don't be afraid; from now on you will catch men."
註解: 9節は8節のペテロの告白の理由を示す。この漁獲の事実はペテロ中心の事件であったけれども、そこに他の二人の使徒ヤコブとヨハネもいたのであることがここに始めて明らかにされ、而してこの大漁獲の事実によりこの二人もまた同様に驚いたということは、この二人もまたペテロと同じく主イエスの御前に平伏し罪を告白したい心持であったことを示す。

イエス、シモンに()ひたまふ『(おそ)るな、なんぢ(いま)よりのち(ひと)(すなど)らん』

註解: (▲「(おそ)るな」はペテロの心がイエスの力の前に(おそ)(おのの)いていたことをイエスは看て取ったからであった。)偶然かあるいは神の黙示によるか、イエスはこの大漁獲を利用してペテロに人を(すなど)る者、すなわち福音を宣伝うることにより天国の網に人を(すなど)る者となり得ることを教え給うた。而してその方法は自己の経験や能力を頼りとせず、たとい如何に不可解であっても主イエスの御言に単純に信頼して進むこととイエスを主と仰ぎ自らの罪をその前に告白して悔改むること、而してかくする場合その伝道が必ず大なる結果をもって報いられるであろうことを示し給うた。
辞解
[(すなど)る] この場合、原語「生け捕る」の意。

5章11節 かれら(ふね)(をか)につけ、一切(すべて)()ててイエスに(したが)へり。[引照]

口語訳そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。
塚本訳彼らは舟を陸に引き上げ、何もかもすててイエスに従った。
前田訳彼らは小舟を陸につけると、すべてを捨てて彼に従った。
新共同そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
NIVSo they pulled their boats up on shore, left everything and followed him.
註解: 「かれら」はペテロの外ヤコブとヨハネを指す、すなわちここでこの三人はその職を棄ててイエスの使徒となりイエスに(したが)った。ペテロの兄弟アンデレはここに顕れないのであるが、以上の三人が使徒たちの首班であったのでルカはその記事を以上の三人に限定したのであろう。
附記 [使徒召命の記事について]上記1−11節の記事と、マタ4:18−22。マコ1:16−20とは如何なる関係にあるかは難問題である。マタイとマルコとは相類似しているけれども、ルカとそれらとは召命当時の事情も異なり、時期も違っている。それにもかかわらず「人を漁るものとせん」との御言と「舟(舟と父、一切等)を棄ててイエスに従える」こととは三者何れにもこれを見出す。もし全然異なった事件とすれば彼らは二回使徒として召され、二回その職を棄てて従ったこととなる。一事実の二つの異なった伝説と見るべきであろう。
要義1 [我は罪人なり]おそらくルカはマルコの記事があまりに単純で、使徒として一生涯をささげるだけの心の転機を説明するに不充分であることを感じ、その取得せる独特の資料をもって使徒の召命の時期および理由としたものと思われる。而してその時期と他の記事との前後の関係はルカ4:16−30の記事と同様ルカはあまりにこれに拘泥せず、その記事の意味に重点を置いたのであると解すべきであろう。
要義2 [人を(すなど)る者]1−11節は人を(すなど)る者の諸要件を暗示す。(1)自己の経験や知識に誇らずまたこれに頼らず単純に主の御言葉に服すべきこと(5節)。(2)かくすることにより自己の予期せざりし漁獲を得ること、すなわちその伝道はこれによってのみ成功すること。(3)互に助け合い、また獲物を分け合うべきこと(7節)。(4)而して何よりも重要なことは自己の罪を悔改めて主の御前に平伏し(8節)、(5)凡てをすてて主に従うこと(11節)である。
要義3 [イエスの言に従うこと]イエスの教訓の多くは実社会にては実行不可能と思われる。それ故何人もそれを御言のまま実行しようとしない。しかし思い切って御言のままに実行したならば全く思いがけない好結果を得ることを経験するであろう。例えば国際関係においてもしイエスの教えがそのまま実行されるならば世界の平和はたちどころに実現するであろう。

3-3-ロ 癩病人を醫し給う 5:12 - 5:16
(マタ8:1-4) (マコ1:40-45)  

註解: 本節より6:19まではマコ1:40−3:19までと大体同一の順序で同一の内容である。

5章12節 イエス(ある)(まち)居給(ゐたま)ふとき、()よ、全身(ぜんしん)癩病(らいびゃう)をわづらふ(もの)あり。[引照]

口語訳イエスがある町におられた時、全身らい病になっている人がそこにいた。イエスを見ると、顔を地に伏せて願って言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。
塚本訳ある町におられた時のこと、そこに体中癩病の人がいた。イエスを見ると、頭を地にすりつけ、「主よ、(清めてください。)お心さえあれば、お清めになれるのだから」と言って願った。
前田訳彼がある町におられたときのこと、らいにさいなまれた人がいあわせた。イエスを見ると、顔を地につけて願った、「主よ、お心さえ向けばわたしをお清めになれます」と。
新共同イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。
NIVWhile Jesus was in one of the towns, a man came along who was covered with leprosy. When he saw Jesus, he fell with his face to the ground and begged him, "Lord, if you are willing, you can make me clean."
註解: 何れの町かは不明である。

イエスを()平伏(ひれふ)し、(ねが)ひて()ふ『(しゅ)よ、御意(みこころ)ならば、(われ)(きよ)くなし(たま)ふを()ん』

註解: この癩病人はイエスの治癒の能力を全く疑わず、凡ては御心のままになることを信じた。唯その意思の有無を問うのであった。その平伏す態度その謙遜なる心持、その確信はイエスを喜ばせた。

5章13節 イエス()をのべ(かれ)につけて『わが(こころ)なり、(きよ)くなれ』と()(たま)へば、(ただ)ちに癩病(らいびゃう)((いや))されり。[引照]

口語訳イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、らい病がただちに去ってしまった。
塚本訳イエスは手をのばしてその人にさわり、「よろしい、清まれ」と言われると、たちまち癩病が消えうせた。
前田訳そこで手をのべてさわり、「よろしい、清くおなり」といわれた。するとたちまちらいは去った。
新共同イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。
NIVJesus reached out his hand and touched the man. "I am willing," he said. "Be clean!" And immediately the leprosy left him.
註解: 癩病人に手をつけることを(いと)わないのは、イエスが如何に深き愛をもってかかる病人に対し給うかを示す(マコ1:41参照)。その一言で全身癩病でいっぱいであった者が、たちどころに癒されるのはその能力を表わす。

5章14節 イエス(これ)(たれ)にも(かた)らぬやうに(めい)じ、[引照]

口語訳イエスは、だれにも話さないようにと彼に言い聞かせ、「ただ行って自分のからだを祭司に見せ、それからあなたのきよめのため、モーセが命じたとおりのささげ物をして、人々に証明しなさい」とお命じになった。
塚本訳イエスは、だれにも言ってはならない、「ただ、(全快したことを)世間に証明するため、(エルサレムの宮に)行って体を“祭司に見せ、”モーセが命じたように清めのために(供え物を)捧げよ」と言いつけられた。
前田訳彼は「だれにもいわぬように、ただし、証のため、行って体を祭司に見せ、モーセが定めたとおり清めのささげものをなさい」と命じられた。
新共同イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」
NIVThen Jesus ordered him, "Don't tell anyone, but go, show yourself to the priest and offer the sacrifices that Moses commanded for your cleansing, as a testimony to them."
註解: イエスはその疾病治癒を売物にする宗教家と同一に考えられることを最も好まなかった。それ故に誰にも語らぬように命じ給うた。マコ1:43の記事はこれらの点で殊に活き活きしている。

かつ()(たま)ふ『ただ()きて(おのれ)祭司(さいし)()せ、モーセが(めい)じたるごとく(なんぢ)(きよめ)のために献物(ささげもの)して、人々(ひとびと)(あかし)せよ』

註解: レビ13:49レビ14:2−32の規定による潔の式である。形式を嫌い給えるイエスが何故かかることを命じ給うたのであろうか。おそらくイエスは普通の行事や善良なる秩序や風俗はこれを強いて破壊せざる立場を取り給うたためであろう。ルカ17:14にも同様の事実があり、なおこの癩病人が喜びの余りイエスのことを言い広むることに熱中することを嫌い給うたのであろう。

5章15節 されど(いや)増々(ますます)イエスの(こと)ひろまりて、[引照]

口語訳しかし、イエスの評判はますますひろまって行き、おびただしい群衆が、教を聞いたり、病気をなおしてもらったりするために、集まってきた。
塚本訳しかしイエスの噂はいよいよ広まってゆき、大勢の群衆が、(教えを)聞き、また病気をなおしていただこうと集まってきた。
前田訳しかし彼の評判はひろまるばかりであった。そして多くの群衆が耳傾け、病をいやされようと集まって来た。
新共同しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。
NIVYet the news about him spread all the more, so that crowds of people came to hear him and to be healed of their sicknesses.
註解: マコ1:45によればこの癩病人はイエスの命を奉ぜずしてイエスのことを言い広めたのであった。その情熱において愛すべきものがあったけれども、イエスの命に従わないことは結局イエスに累を及ぼす結果となったことは次節を見よ。

(おほい)なる群衆(ぐんじゅう)、あるひは(をしへ)()かんとし、(あるひ)(やまひ)(いや)されんとして(あつま)(きた)りしが、

5章16節 イエス(さび)しき(ところ)退(しりぞ)きて(いの)(たま)ふ。[引照]

口語訳しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた。
塚本訳しかしイエスは人のいない所に引っ込んで、祈っておられた。
前田訳しかし彼は人のいないところに引っ込んで祈っておられた。
新共同だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。
NIVBut Jesus often withdrew to lonely places and prayed.
註解: 伝道者にとっての最大の危機はその伝道の不振な時でなく、それが最も栄えている時である。群衆の熱狂はイエスの喜び給う処ではなく、かれはそこにサタンの襲撃の危険を知り給うた。それ故にイエスは唯祈りをもって父と(とも)に在さんことを求め給うた。

3-3-ハ 中風の者を醫し給う 5:17 - 5:26
(マタ9:1-8) (マコ2:1-12)  

5章17節 (ある)()イエス(をしへ)をなし(たま)ふとき、ガリラヤの村々(むらむら)、ユダヤ(およ)びエルサレムより(きた)りしパリサイ(びと)教法(けうほふ)學者(がくしゃ)ら、そこに()しゐたり。[引照]

口語訳ある日のこと、イエスが教えておられると、ガリラヤやユダヤの方々の村から、またエルサレムからきたパリサイ人や律法学者たちが、そこにすわっていた。主の力が働いて、イエスは人々をいやされた。
塚本訳ある日のこと、イエスが(人々を)教えておられると、パリサイ人と律法学者が坐って(聞いて)いた。この人々はガリラヤとユダヤのすべての村から、ことにエルサレムから来たのである。主の力がイエスに臨んで病気を直させた。
前田訳ある日のこと、彼が教えておられると、パリサイ人と律法学者がすわっていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村とエルサレムから来ていた。主の力が彼にのぞんで病をいやさせていた。
新共同ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。
NIVOne day as he was teaching, Pharisees and teachers of the law, who had come from every village of Galilee and from Judea and Jerusalem, were sitting there. And the power of the Lord was present for him to heal the sick.
註解: 時日場所等全然不明。マタイ・マルコ伝にはカペナウムの出来事として記さる。ある個人の家での出来事であった(18節)。「ガリラヤの村々、ユダヤ及びエルサレム」は「ガリラヤ及びユダヤの村々ならびにエルサレム」と訳すべきで、ガリラヤおよびユダヤの主なる村々および主都エルサレムを意味し、山村落は除外されている。パリサイ人、教法学者らの列席を録したのは、21節以後の反対を録さんがためか、または始めより反対すべき意思をもって来ていたのである。

(やまひ)(いや)すべき(しゅ)能力(ちから)イエスと(とも)にありき。

註解: 私訳「主の能力はイエスが醫し給うことに向けられたり」。この時は神(主)の能力がイエスの上に特に働きかけ、イエスをして治病の奇蹟を行わしむるに至った。

5章18節 ()よ、人々(ひとびと)中風(ちゅうぶ)()める(もの)を、(とこ)にのせて(にな)ひきたり、(これ)(いへ)()れて、イエスの(まへ)()かんとすれど、[引照]

口語訳その時、ある人々が、ひとりの中風をわずらっている人を床にのせたまま連れてきて、家の中に運び入れ、イエスの前に置こうとした。
塚本訳するとそこに、数人の人が一人の中風にかかった人を寝床にのせてつれて来た。(家の中に)運び込んでイエスの前に置こうとしたが、
前田訳そこへ、数人がひとりの中風やみを床にのせて連れて来て、中に持ち込んで彼の前に置こうとした。
新共同すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
NIVSome men came carrying a paralytic on a mat and tried to take him into the house to lay him before Jesus.

5章19節 群衆(ぐんじゅう)によりて(にな)()るべき(みち)()ざれば、屋根(やね)にのぼり、(かはら)()(のぞ)けて、(とこ)のまま人々(ひとびと)(うち)に、イエスの(まへ)につり()(おろ)せり。[引照]

口語訳ところが、群衆のためにどうしても運び入れる方法がなかったので、屋根にのぼり、瓦をはいで、病人を床ごと群衆のまん中につりおろして、イエスの前においた。
塚本訳群衆のためどうしても運び込む方法がないので、屋根に上って瓦(をはがし、そ)の間から、寝床ごと、人々の真中、イエスの前に吊りおろした。
前田訳しかし群衆のためにどうして持ち込んでよいかわからないので、屋根に上って瓦の間から床ごと人々の中をイエスの前におろした。
新共同しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
NIVWhen they could not find a way to do this because of the crowd, they went up on the roof and lowered him on his mat through the tiles into the middle of the crowd, right in front of Jesus.
註解: マコ2:4の描写の方が優れている。家は小さく、群衆が充満して動きが取れなかったので屋根(パレスチナ地方の家の屋根は平面をなしている)の瓦を剥いで(マコ)病人をイエスの前に()り下した。非常な熱心、むしろ乱暴であったまでに彼らは熱心であった。イエスが必ず醫し得、また醫し給うことを信ずる信仰の故であった。イエスは彼らの信仰の故にその乱暴を責め給わなかった。
辞解
[群衆によりて] 「群衆の故に」とすべし。
[瓦を取り除け] 原文「瓦を通して」

5章20節 イエス(かれ)らの信仰(しんかう)()()ひたまふ『(ひと)よ、(なんぢ)(つみ)ゆるされたり』[引照]

口語訳イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
塚本訳イエスはその人たちの信仰を見て(驚き、中風の者に)言われた、「君、あなたの罪は赦されている。」
前田訳彼は人々の信仰を見ていわれた、「君、あなたの罪はゆるされている」と。
新共同イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
NIVWhen Jesus saw their faith, he said, "Friend, your sins are forgiven."
註解: 「彼ら」は担い来れる人および病人を含むと見ることを得。病人はおそらく病の原因たりし自己の罪を思い起し、心に悩んでいたのであろう。イエスは彼の上に憐憫の言を向け、まずその罪の赦しを宣言し給うた。イエスの大なる愛の顕れである。これに対し次節の学者、パリサイ人らの愛無き態度を見よ。

5章21節 ここに學者(がくしゃ)・パリサイ(びと)(ろん)()でて()ふ『涜言(けがしごと)をいふ()(ひと)(たれ)ぞ、(かみ)より(ほか)(たれ)(つみ)(ゆる)すことを()べき』[引照]

口語訳すると律法学者とパリサイ人たちとは、「神を汚すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と言って論じはじめた。
塚本訳聖書学者とパリサイ人は考え始めた、「冒涜を言うこの人はいったい何者だろう。ただ神のほか、だれが罪を赦せよう。」
前田訳学者とパリサイ人は考えはじめた、「けがしごとをいうこの人はだれか。ただひとりの神のほかだれが罪をゆるせよう」と。
新共同ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
NIVThe Pharisees and the teachers of the law began thinking to themselves, "Who is this fellow who speaks blasphemy? Who can forgive sins but God alone?"
註解: イエスを神の子と信じ得ない彼ら、しかもイエスの愛に感激せず、冷酷なる神学論をもって生命とする彼らは憐れむべき存在である。
辞解
[学者] ▲ grammateus と5:17の「教法学者」 nomodidaskalos との間には文語訳のごとく訳語を区別することが便利である。口語訳は双方とも「律法学者」と訳している。ただし「学者」なる呼称がはるかに多く用いられている。

5章22節 イエス(かれ)らの(ろん)ずる(こと)をさとり、(こた)へて()(たま)ふ『なにを(こころ)のうちに(ろん)ずるか。[引照]

口語訳イエスは彼らの論議を見ぬいて、「あなたがたは心の中で何を論じているのか。
塚本訳イエスは彼らの考えを見抜いて、「何を心の中で考えているのか。
前田訳イエスは彼らの考えを見ぬいていわれた、「何を心の中で考えているのか。
新共同イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。
NIVJesus knew what they were thinking and asked, "Why are you thinking these things in your hearts?

5章23節 「なんぢの(つみ)ゆるされたり」と()ふと「()きて(あゆ)め」と()ふと(いづれ)(やす)き、[引照]

口語訳あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか。
塚本訳あなたの罪は赦されている、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすい(と思う)か。
前田訳『あなたの罪はゆるされている』というのと、『起きて歩け』というのと、どちらがやさしいか。
新共同『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
NIVWhich is easier: to say, `Your sins are forgiven,' or to say, `Get up and walk'?
註解: イエスは「起きて歩め」なる困難なる命令を与え、これを実現し給うことによって、罪の赦しの宣告がイエスとしては決して瀆言ではなくその権威を有ち給うことを示さんとし給う。この質問に対し学者らは当然「前者が易い」と答えたであろう。

5章24節 (ひと)()()にて(つみ)をゆるす權威(けんゐ)あることを(なんぢ)らに()らせん(ため)に』――中風(ちゅうぶ)()める(もの)()(たま)ふ――『なんぢに()ぐ、()きよ、(とこ)をとりて(いへ)()け』[引照]

口語訳しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに対して言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた。
塚本訳では、人の子(わたし)は地上で罪を赦す全権を持っていることを知らせてやろう」と彼らに言いながら、中風の者に言われた、「あなたに命令する、起きて、寝床をかついで家にかえりなさい。」
前田訳しかし、人の子が地上で罪をゆるす権威を持つことをあなた方が知るように――」と。そして中風の人にいわれた、「あなたにいう、起きて床を持ちあげて家にお帰り」と。
新共同人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。
NIVBut that you may know that the Son of Man has authority on earth to forgive sins...." He said to the paralyzed man, "I tell you, get up, take your mat and go home."
註解: 21節をここに応用すれば「我が神たることを汝に知らせんために」と言うと同じこととなる。偉大なる宣言であり、而してまた偉大なる奇蹟である。

5章25節 かれ立刻(たちどころ)人々(ひとびと)(まへ)にて()きあがり、()しゐたる(とこ)をとりあげ、(かみ)(あが)めつつ(おの)(いへ)(かへ)りたり。[引照]

口語訳すると病人は即座にみんなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰って行った。
塚本訳すると彼は即座に人々の目の前で立ち上がり、床をかついで、神を讃美しながら家にかえって行った。
前田訳すぐに彼は人々の前に立ちあがり、寝ていた床を持ちあげて、神をたたえながら家に帰った。
新共同その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。
NIVImmediately he stood up in front of them, took what he had been lying on and went home praising God.
註解: かくしてイエスは神より能力を受けて学者パリサイ人を沈黙せしむると同時に、その奇蹟により神の子たることを一般の人々に証し給うた。
辞解
[神を崇めつつ] ルカ伝にのみあり。

5章26節 人々(ひとびと)みな(いた)(をどろ)きて(かみ)をあがめ(おそれ)滿()ちて()ふ『今日(けふ)われら(めづら)しき(こと)()たり』[引照]

口語訳みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、「きょうは驚くべきことを見た」と言った。
塚本訳皆が感動して神を讃美し、恐れに満たされて、「きょうは不思議なことを見た」と言った。
前田訳皆が感激して神をたたえ、おそれに満たされていった、「きょうは不思議なことを見た」と。
新共同人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。
NIVEveryone was amazed and gave praise to God. They were filled with awe and said, "We have seen remarkable things today."
註解: 人々は驚愕と恐怖とかつ神を崇むる心とに支配された。名状すべからざる心理状態である。神の能力を否定し得ず、さりとてイエスを信ずることができず、ゆえに神を崇めつつ、驚きかつ懼れた。
辞解
[驚く] 心も空になるばかりなること。
[珍しき事] paradoxa。

3-3-ニ レビの家における饗宴 5:27 - 5:32
(マタ9:9-13) (マコ2:13-17)  

5章27節 この(こと)(のち)[引照]

口語訳そののち、イエスが出て行かれると、レビという名の取税人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
塚本訳そのあとで、イエスは(湖のほとりに)出てゆき、レビという税金取りが税務所に坐っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われると、
前田訳そののち彼が出かけられると、レビという名の取税人が収税所にすわっているのを見ていわれた、「ついて来なさい」と。
新共同その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。
NIVAfter this, Jesus went out and saw a tax collector by the name of Levi sitting at his tax booth. "Follow me," Jesus said to him,
註解: 17−26節の事件の後の意。

イエス()でて、

註解: 同様前記の家を出で給いしこと。

レビといふ取税人(しゅぜいにん)收税所(しうぜいしょ)()しをるを()て『われに(したが)へ』と()(たま)へば、

5章28節 一切(すべて)()ておき、()ちて(したが)へり。[引照]

口語訳すると、彼はいっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた。
塚本訳何もかも捨てて、立って従った。
前田訳するとすべてを捨てて、立って従った。
新共同彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
NIVand Levi got up, left everything and followed him.
註解: レビは使徒マタイの別名(マタ9:9)。レビは以前にイエスの教えを聴き彼に私淑(ししゅく)しており、かつローマ政府の下請人たる取税人として同国人に卑しめられたことが、かえって彼の信仰の原因となったのであろう。
辞解
ルカ伝はマルコ伝(マタイ伝も同様)の「見て」 eiden を変更して etheasatô とした。前者は偶然見るごとき感じを与え、後者は注意して見ることを意味する。
[一切を棄てて] ルカの追加であるが、次節の大饗宴の前にこの語を置くことはやや適当でない。▲ただしもしマタイが一切を棄てなかったらこの大饗宴を催す勇気を持たなかったろう。すなわち棄てることは所有物を自分の心から離したことである。

5章29節 レビ(おの)(いへ)にて、イエスの(ため)(おほい)なる饗宴(ふるまひ)(まう)けしに、取税人(しゅぜいにん)および(ほか)人々(ひとびと)(おほ)食事(しょくじ)(せき)(つらな)りゐたれば、[引照]

口語訳それから、レビは自分の家で、イエスのために盛大な宴会を催したが、取税人やそのほか大ぜいの人々が、共に食卓に着いていた。
塚本訳レビがイエスのために家で大宴会を催すと、税金取り、その他の人々が大勢、(イエスや弟子たちと)共に食卓についていた。
前田訳レビは彼のために家で盛んに人をもてなした。取税人やその仲間が大勢席についていた。
新共同そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。
NIVThen Levi held a great banquet for Jesus at his house, and a large crowd of tax collectors and others were eating with them.
註解: マタイ・マルコ伝の原文のままでは必ずしも饗宴があったと解すべきか不明瞭であるが、ルカがそれをかく解したのか、または他の資料に因ったのか本節では大なる饗宴があったこととなっている。これが事実とすればイエスに対する歓迎を兼ねてマタイ自身がイエスに従うために多くの知友と袂別(べいべつ)の宴を開いたのであろう。
辞解
[他の多くの人々] マルコおよびマタイには罪人らとあり、取税人と共に世人に最も賤しめられた人々。

5章30節 パリサイ(びと)および()曹輩(ともがら)學者(がくしゃ)ら、イエスの弟子(でし)たちに(むか)ひ、(つぶや)きて()[引照]

口語訳ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」。
塚本訳パリサイ人とパリサイ派の聖書学者が弟子たちに向かってつぶやいた、「なぜあなた達は税金取りや罪人と一しょに飲み食いするのか。」
前田訳それで、パリサイ人やその派の学者らが弟子たちにつぶやいた、「なぜあなた方は取税人や罪びとらと飲み食いを共にするのか」と。
新共同ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
NIVBut the Pharisees and the teachers of the law who belonged to their sect complained to his disciples, "Why do you eat and drink with tax collectors and `sinners'?"
註解: パリサイ人もイエスの弟子たちもその食事の席にいたものとして記さる。「その曹輩(ともがら)の」は「彼らの」でパリサイ派に属する学者。

『なにゆゑ(なんぢ)らは取税人(しゅぜいにん)罪人(つみびと)らと(とも)飮食(のみくひ)するか』

註解: パリサイ派やその他の真面目なユダヤ人は取税人や罪人と共に食事をすることを嫌っていた。かくすることは自己を穢す所以と考えた。イエスの弟子たちは、かかることにおいて旧い習慣に拘泥せず、自由に真人間らしく行動した。パリサイ人は弟子たちに対し不満を含む質問を発したのであるが、実はかかることを自ら行いまた弟子にも行わしむる師イエスを非難したのであった。

5章31節 イエス(こた)へて()ひたまふ『健康(けんかう)なる(もの)醫者(いしゃ)(えう)せず、ただ(やまひ)ある(もの)これを(えう)す。[引照]

口語訳イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。
塚本訳イエスはその人たちに答えられた、「健康な者に医者はいらない、医者のいるのは病人である。
前田訳イエスは答えられた、「医者を要するのは健康人ではなく病人である。
新共同イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
NIVJesus answered them, "It is not the healthy who need a doctor, but the sick.

5章32節 (われ)(ただ)しき(もの)(まね)かんとにあらで、罪人(つみびと)(まね)きて悔改(くいあらた)めさせんとて(きた)れり』[引照]

口語訳わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。
塚本訳わたしは正しい人を招きに来たのではない、罪人を招いて悔改めさせるために来たのである。」
前田訳わたしが来たのは、正しい人をではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである」と。
新共同わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
NIVI have not come to call the righteous, but sinners to repentance."
註解: イエスの愛は常に罪人・弱者・病者、また取税人のごとく社会に卑しめられる者の上に雪がれており、パリサイ人のごとくに自ら義人をもって任ずる者、強者、富者、権力者、宗教上の特権階級等に対して反感を有っていた。ただしイエスが猛烈に彼らを攻撃し給うたのは、彼らの救うべからざる頑迷さがいよいよ明らかになった時であって、当時はむしろ直接に彼らを攻撃せず間接にその覚醒を促す態度に出で給うた。自ら「健康なる者」「正しき者」と考えている学者、パリサイ人は、イエスを要求せず、イエスは彼らに不必要と思う事実を承認する態度を取り給うた。ただし「病者」「罪人」に対するイエスの愛そのものが、学者、パリサイ人に対し彼らこそ不義の病者であるを明白にする無言の非難であること勿論である。もし彼らこのことをさとるならば、彼らもイエスを必要とすることをさとるであろう。
辞解
[悔改させんとて] ルカ伝のみにあり、単に罪人をも饗宴に招くことの意味にあらざることを示さんがためか。

3-3-ホ 断食問答 5:33 - 5:39
(マタ9:14-17) (マコ2:18-22)  

5章33節 (かれ)らイエスに()ふ『ヨハネの弟子(でし)たちは、しばしば斷食(だんじき)祈祷(いのり)し、パリサイ(びと)弟子(でし)たちも(また)(しか)するに、(なんぢ)弟子(でし)たちは飮食(のみくひ)するなり』[引照]

口語訳また彼らはイエスに言った、「ヨハネの弟子たちは、しばしば断食をし、また祈をしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。
塚本訳彼らがイエスに言った、「(洗礼者)ヨハネの弟子はしばしば断食をし、祈りをするのに、あなたの弟子は(平気で)飲み食いしている。」
前田訳彼らはイエスにいった、「ヨハネの弟子たちはよく断食をし、祈りをし、パリサイ人の弟子たちもそうですのに、あなたの弟子たちは飲み食いしています」と。
新共同人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」
NIVThey said to him, "John's disciples often fast and pray, and so do the disciples of the Pharisees, but yours go on eating and drinking."

5章34節 イエス()ひたまふ『新郎(はなむこ)(とも)だち新郎(はなむこ)(とも)にをるうちは、(かれ)らに斷食(だんじき)せしめ()んや。[引照]

口語訳するとイエスは言われた、「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。
塚本訳イエスは言われた、「あなた達は花婿がまだ一しょにいるうちに、婚礼の客に(悲しみの)断食をさせることが出来るのか。
前田訳イエスはいわれた、「花むこがいっしょの間、婚客に断食させうるか。
新共同そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。
NIVJesus answered, "Can you make the guests of the bridegroom fast while he is with them?

5章35節 されど()(きた)りて新郎(はなむこ)をとられん、その()には斷食(だんじき)せん』[引照]

口語訳しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」。
塚本訳しかしいまに(悲しみの)時が来て、花婿が奪いとられたら、その時、彼らは(いやでも)断食をするであろう。」
前田訳しかし花むこが取られる日が来よう。そのとき彼らは断食しよう」と。
新共同しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」
NIVBut the time will come when the bridegroom will be taken from them; in those days they will fast."
註解: 旧きものすなわちユダヤ教およびヨハネの弟子たちの思想や生活とイエスおよびその弟子たちのそれとの間の差をイエスは五つの点に分ちて説明を与え給うた。その一は前記32節であり、その二は34、35節、その三は36節、その四は37、38節、その五は39節であり、各々その特色をもつ(要義参照)。「断食と祈祷」はユダヤ人の宗教生活の重要なる行事でありまた彼らの信仰の訓練の道であった。イエスも決してこれを軽視せず自ら祈りに熱中し、断食をも行い給うたものと思われる。唯イエスはこれを形式化せず自然の心が赴くがままにし、むしろその心を正しくすることに力を注ぎ給うた。(▲イエスおよびその弟子たちは旧い習慣や宗教的行事に対してはこれに束縛されない態度を取っていた。マタ9:14参照。)イエスは新郎であり弟子たちはその婚姻を祝せんとして集う友だちであった。イエスを迎えてその友だちの歓喜が頂点に達している時これに断食を強いても不可能(マコ2:19)である。イエスが十字架に()けらるる日来らば彼らの悲しみは、彼らをして自然に断食せしめるであろう。主と共にいる時は断食の必要なし、主が離れ給う時は断食を要す。今日も同様である。
辞解
33節の「彼ら」はマタ9:14に「ヨハネの弟子」、マコ2:18に「ヨハネの弟子とパリサイ人」とあり、ルカ伝の「パリサイ人および彼らの学者」30節とは各々異なる。マルコが最も適当と思われる。

5章36節 イエスまた(たとへ)()(たま)ふ『たれも(あたら)しき(ころも)()()りて、(ふる)(ころも)(つくろ)(もの)はあらじ。もし(しか)せば、(あたら)しきものも(やぶ)れ、かつ(あたら)しきものより()りたる(きれ)(ふる)きものに()はじ。[引照]

口語訳それからイエスはまた一つの譬を語られた、「だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。
塚本訳なお一つの譬を彼らに話された、「新しい着物を切って、古い着物に継ぎをする者はない。そんなことをすれば、新しい着物も疵ものになり、新しいのから切った継ぎも古いのにあわない。
前田訳彼らにいまひとつの譬えをいわれた、「新しい衣を切って古い衣につぐものはない。そうすれば、新しいのもやぶれ、新しい衣の切れも古いのに合わない。
新共同そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。
NIVHe told them this parable: "No one tears a patch from a new garment and sews it on an old one. If he does, he will have torn the new garment, and the patch from the new will not match the old.
註解: マタイおよびマルコ伝は字句のみならず内容を異にし、新しき布切れをもって旧き衣の破れを繕うことはかえって旧き衣を破ることに重点を置き、ルカの場合は新しき衣と旧き衣とは各々それ自身一つの(まと)った全体であって一方の一部を切って他方に継ぎ合せることすなわちいわゆる折衷的態度は双方を無効にする所以であることを示す。ゆえにイエスはその弟子をして新しき信仰に従って自由に行動せしめ、強いて自己の態度をヨハネの弟子やパリサイ人の弟子に強要せず、また勿論反対に旧き生活様式や生活態度をもって自己を繕う必要を感じ給わなかった。これが旧と新との関係を解決する第三の原理である。

5章37節 (たれ)(あたら)しき葡萄酒(ぶだうしゅ)を、ふるき革嚢(かはぶくろ)()るることは()じ。もし(しか)せば、葡萄酒(ぶだうしゅ)(ふくろ)をはりさき()()でて、(ふくろ)(すた)らん。[引照]

口語訳まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。
塚本訳また新しい酒を古い皮袋に入れる者はない。そんなことをすれば、新しい酒は皮袋を破って流れ出し、皮袋もだめになるであろう。
前田訳新しい酒を古い皮袋に入れるものはない。そうすれば、新しい酒は皮袋を裂いて流れ出し、皮袋もそこなわれよう。
新共同また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。
NIVAnd no one pours new wine into old wineskins. If he does, the new wine will burst the skins, the wine will run out and the wineskins will be ruined.

5章38節 (あたら)しき葡萄酒(ぶだうしゅ)は、(あたら)しき革嚢(かはぶくろ)()るべきなり。[引照]

口語訳新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。
塚本訳新しい酒は新しい皮袋に入れねばならない。
前田訳新しい酒は新しい皮袋に入れるものである。
新共同新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。
NIVNo, new wine must be poured into new wineskins.
註解: 第四の原理は溌剌たる活気を有する新しい信仰を旧い伝統の形式の中に入れることの不可なることである。かかる試みは旧新双方のために不幸の結果となること、あたかも葡萄酒と革嚢との関係と同一である。新しい信仰は新しい形式の中に入れなければならない。新しい形式は新しい革嚢のごとくに弾力性に富む故に新しい信仰を入れるに適する。ただし真の信仰は常に新しき故、常に新しい革嚢にいれられなければならぬ。

5章39節 (たれ)(ふる)葡萄酒(ぶだうしゅ)()みてのち、(あたら)しき葡萄酒(ぶだうしゅ)(のぞ)(もの)はあらじ。「(ふる)きは()し」と()へばなり』[引照]

口語訳まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。
塚本訳また、古い酒を飲んだ者は、新しいのをほしがらない。『古い方が甘い』と言って。」
前田訳また、古い酒を飲んだ人は新しいものを欲しない。『古いのはよい』とその人はいう」と。
新共同また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
NIVAnd no one after drinking old wine wants the new, for he says, `The old is better.'"
註解: ルカ伝にのみ特有の一節。33節に対する答の結論である。これは第五の点で旧と新の関係の原理というよりむしろその実状または傾向を示している。すなわちヨハネの弟子やパリサイ人らは「古酒は結構である」と言って古酒を飲むことを好み、新しき酒には手を出さないと同様、新しき福音の信仰には容易にその心を傾ける人は無い。イエスおよび弟子たちの信仰が一般に顧みられずかえって反感を買い、これに反し旧き形式が何時までも好まれるのは当然である(A1)。ただしイエスはこれを是認し給うたのではない。なお本節の意味は種々に解せられ異論が多い。また饗宴(29節)より婚宴の比喩(34節)となりそれより衣服(36節)および葡萄酒(37節)に及んでいることは一連の思想の連絡がある。
要義 [新と旧]新旧思想の衝突は何れの時、ところにおいても免れないところであるが、イエスの時代にも同様であった。これに対してその解決の態度として27−39節の記事は大体五つの原則を示していると見ることができる。すなわち(第一)新しき教えの伝道は、まず愛をもって貧者弱者に向けらるべく、旧き伝統を墨守(ぼくしゅ)して自ら正しと考うる階級に対しては、愛の行為そのものがその非難となるようの態度を取るべきこと(30−32節)。(第二)旧き宗教的行事または慣習に対しては、それに束縛されることなく、また濫りにそれを否定または破壊することなく、新しき信仰より出づる心持が自然にその取捨選択を為すべきこと(33-35節)。(第三)旧きものと新しきものとはこれを折衷することなく、各自その進むべき途に進むべきこと(36節)。(第四)新しき思想や信仰を強いて旧き型の中に入れてはならないこと(37、38節)。而して(第五)は凡て旧き思想、信仰、その習慣、形式等は容易に除去し難きものであり、新しき思想や信仰を求むる者は決して多くはないことを示している。以上は何れも福音を新たなる世界に伝道する上に極めて重要なる原則である。

ルカ伝第6章
3-3-ヘ 安息日問題(その一)麦の穂をつむ 6:1 - 6:5
(マタ12:1-8) (マコ2:23-28)  

註解: 学者パリサイ人らはルカ5:17−26においてイエスの罪を赦す権威に反対し、ルカ5:27−32節においては取税人、罪人らと共に飲食してユダヤの社会慣習を乱すことに非難を向け、ルカ5:33節においては断食と祈祷の慣行に反することを暗に誹謗していたが、本節より11節までは、イエスの態度が益々強化すると共にその反対も益々熾烈となり行くことを示す。

6章1節 イエス安息(あんそく)(にち)(むぎ)(はたけ)()(たま)ふとき、弟子(でし)たち()()み、()にて()みつつ(くら)ひたれば、[引照]

口語訳ある安息日にイエスが麦畑の中をとおって行かれたとき、弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べていた。
塚本訳ある安息日に麦畑の中を通られたときのこと、弟子たちが(空腹を覚えて)穂を摘み、手でもんで食べていた。
前田訳ある安息日に麦畑を通り抜けられたときのこと、弟子たちが穂を摘み、手でもんで食べていた。
新共同ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。
NIVOne Sabbath Jesus was going through the grainfields, and his disciples began to pick some heads of grain, rub them in their hands and eat the kernels.

6章2節 パリサイ(びと)のうち(ある)(もの)ども()ふ『なんぢらは(なに)ゆゑ安息(あんそく)(にち)()まじき(こと)をするか』[引照]

口語訳すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。
塚本訳パリサイ人が言った、「なぜあなた達は、安息日にしてはならぬことをするのか。」
前田訳すると何人かのパリサイ人がいった、「なぜあなた方は安息日にしてならぬことをするのか」と。
新共同ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。
NIVSome of the Pharisees asked, "Why are you doing what is unlawful on the Sabbath?"
註解: 穀物の収穫は安息日に禁止された事項の一つであり、この規則の応用として穂を摘んでこれを手にて揉むことも収穫の一種となる。律法主義パリサイ主義は如何に他人の行動の末梢的なるものに検察の目を注ぐかを見よ、これに対する主イエスの態度は根本的、精神的、実際的であった。▲イエスおよびその弟子たちの行動が、当時の宗教家たちの目には甚だしく不信仰に見えたことに注意せよ。

6章3節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『ダビデその(ともな)へる人々(ひとびと)とともに()ゑしとき、()しし(こと)をすら()まぬか。[引照]

口語訳そこでイエスが答えて言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。
塚本訳イエスが答えて言われた、「あなた達は、ダビデ(王)が自分も供をしている者も空腹の時にしたことを、(聖書で)読んだことすらないのか。
前田訳イエスは答えられた、「ダビデが自分もお伴も飢えたときしたことを読まなかったのか。
新共同イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
NIVJesus answered them, "Have you never read what David did when he and his companions were hungry?

6章4節 (すなは)(かみ)(いへ)()りて、祭司(さいし)(ほか)(くら)ふまじき(そなへ)のパンを()りて(くら)ひ、(おのれ)(とも)なる(もの)にも(あた)へたり』[引照]

口語訳すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれも食べてはならぬ供えのパンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。
塚本訳──彼が神の家に入って、ただ祭司のほかはだれも食べてはならない“供えのパンを”取って食べ、供の者にわけてやったことを。」
前田訳彼が神の家に入って、祭司のほか食べることがゆるされない供えのパンを取って食ベ、お伴にも与えたことを」と。
新共同神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」
NIVHe entered the house of God, and taking the consecrated bread, he ate what is lawful only for priests to eat. And he also gave some to his companions."
註解: Tサム21:7参照。「食物は人間のために存するのであって人間が食物のために存するのでない。それ故に飢えたる時に食を取ることは至当のことであり、安息日なりとてそれを不当とすべきではない。ダビデとその一行が餓えた時神の宮において祭司以外に食うべからざることがレビ24:9に規定されている供えのパンをすら食うたではないか。いわんやパリサイ人らが勝手に定めた些末な規律に束縛せらるべきではない。聖書を知っているはずの汝らでありながら、これを読んだことがないのであるか」というのがイエスの御言の意味である。凡ての規律、法律、形式、慣習はその精神を活用すべきであって、その形式の奴隷となってはならぬ。
辞解
3節および4節に対しマコ2:26には祭司の名をも録し、マタ12:5−7にはさらに著しき追加あり参照すべし。

6章5節 また()ひたまふ『(ひと)()安息(あんそく)(にち)(しゅ)たるなり』[引照]

口語訳また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」。
塚本訳また彼らに言われた、「人の子(わたし)は安息日の主人である。」
前田訳また彼らにいわれた、「人の子は安息日の主である」と。
新共同そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」
NIVThen Jesus said to them, "The Son of Man is Lord of the Sabbath."
註解: 安息日の奴隷となってそれに束縛せらるべきではない。イエス自身についてその確信を吐露せられたのであるが、これはまた彼を信ずる者一般の心持であり、また原則である。
辞解
本節をマコ2:27はさらに詳述して、「安息日は人間の故に作られたので人間は安息日の故に作られたのではない」ことをも教えている。D写本では本節が10節の後にあり、その代りに注意すべき添加の一文あり。「同じ日、安息日に働き居る人あるを見て彼に言い給ふ『人よ、汝の為す所の何たるかを知らば汝は幸福なり、若し知らずば汝は詛はれたる者、又律法の違反者なり』」イエスの語としてはやや禅的に過ぎるようであるが、含蓄多き語である。

3-3-ト 安息日問題(その二)手なえたる者を醫し給う 6:6 - 6:11
(マタ12:9-14) (マコ3:1-6)  

6章6節 (また)ほかの安息(あんそく)(にち)に、イエス會堂(くわいだう)()りて(をしへ)をなし(たま)ひしに、此處(ここ)(ひと)あり、()(みぎ)()なえたり。[引照]

口語訳また、ほかの安息日に会堂にはいって教えておられたところ、そこに右手のなえた人がいた。
塚本訳またほかの安息日に、礼拝堂に入って教えられた。するとそこに一人の人がいて、右手がなえていた。
前田訳別の安息日に、彼が会堂に入って教えられたときのこと、そこに右手のなえた人がいた。
新共同また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。
NIVOn another Sabbath he went into the synagogue and was teaching, and a man was there whose right hand was shriveled.

6章7節 學者(がくしゃ)・パリサイ(びと)ら、イエスを(うった)ふる(かど)見出(みいだ)さんと(おも)ひて、安息(あんそく)(にち)(ひと)(いや)すや(いな)やを(うかが)ふ。[引照]

口語訳律法学者やパリサイ人たちは、イエスを訴える口実を見付けようと思って、安息日にいやされるかどうかをうかがっていた。
塚本訳聖書学者とパリサイ人たちが、イエスは安息日になおされるかどうかと、ひそかに様子をうかがっていた。訴え出る口実を見つけるためであった。
前田訳学者とパリサイ人は彼が安息日にいやしをなさるかと見守っていた。それは訴える口実を見つけるためであった。
新共同律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。
NIVThe Pharisees and the teachers of the law were looking for a reason to accuse Jesus, so they watched him closely to see if he would heal on the Sabbath.
註解: 学者、パリサイ人らは手なえたる人を如何に扱うべきかを自己の愛心に訴えず、イエスの愛を思わず、かえってイエスが如何なる律法違反を為すかを窺い、これを陥れんと企てた。善意と悪意、本質的と末梢的との極端な対立をここに見るのである。この両極端は結局両立しない。

6章8節 イエス(かれ)らの(おもひ)()りて、()なえたる(ひと)に『()きて(うち)()て』と()(たま)へば、()きて()てり。[引照]

口語訳イエスは彼らの思っていることを知って、その手のなえた人に、「起きて、まん中に立ちなさい」と言われると、起き上がって立った。
塚本訳イエスは彼らの考えを知って、手のなえた男に「立って真中に出てこい」と言われると、立ち上がって出てきた。
前田訳彼らの考えを悟って、彼は手のなえた人にいわれた、「起きて真ん中にお立ち」と。すると起きあがって立った。
新共同イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。
NIVBut Jesus knew what they were thinking and said to the man with the shriveled hand, "Get up and stand in front of everyone." So he got up and stood there.
註解: イエスが彼らの態度より察知し給うたのか、またはイエスの霊眼をもって透視し給えるのかは明かにされていないが彼らの悪意を洞察して、これに対し戦いを挑み給うた。イエスの彼らに対する憤瞞は次第に加重しつつある。病人を人々の中に起立せしめたのは勿論凡ての人に目立つようにであった。

6章9節 イエス(かれ)らに()(たま)ふ『われ(なんぢ)らに()はん、安息(あんそく)(にち)(ぜん)をなすと(あく)をなすと、生命(いのち)(すく)ふと(ほろび)すと、(いづれ)かよき』[引照]

口語訳そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。
塚本訳イエスが彼らに言われた、「尋ねるが、安息日には、善いことをするのと悪いことをするのと、命を救うのと、滅ぼすのと、どちらが正しいだろうか。」
前田訳イエスは彼らにいわれた、「あなた方にきくが、安息日に許されているのは善をなすことか悪をなすことか、いのちを救うことか滅ぼすことか」と。
新共同そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
NIVThen Jesus said to them, "I ask you, which is lawful on the Sabbath: to do good or to do evil, to save life or to destroy it?"
註解: イエスの態度は始めから安息日にも何か善を為さずにいられないという心持であった。これに反して学者、パリサイ人は安息日にイエスを陥れてこれを亡ぼす手掛りを求めていた。イエスは人を救わんとし彼らは人を亡ぼさんとす。イエスは善を為さんとし彼らは律法を形式的に人にも強要せんとす。いずれが相応しきか、いずれが許さるべきか。手なえたる者を醫さないことが「悪をなす」こと、「生命を亡ぼす」ことであるというのは、イエスの心が如何ばかり善を為し生命を救うことに熱中していたかを知ることができる。事実イエスにとっては、これが悪事であり生命を亡ぼすこととして感じられたのであったろう。▲安息日聖守という宗教的行事と病を癒す人道的行為といずれが重要かは今日の教会生活においても反省さるべき点である。

6章10節 かくて一同(いちどう)()まはして、[引照]

口語訳そして彼ら一同を見まわして、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、その手は元どおりになった。
塚本訳そして一同を見まわして、その人に言われた、「手をのばせ。」その通りにすると、手が直った。
前田訳そして皆を見まわしてその人にいわれた、「手をおのばし」と。そのとおりにすると、手がなおった。
新共同そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。
NIVHe looked around at them all, and then said to the man, "Stretch out your hand." He did so, and his hand was completely restored.
註解: 彼らが答える所を知らずして躊躇して居る有様を他の会衆にも目撃せしめ、

()なえたる(ひと)に『なんぢの()()べよ』と()(たま)ふ。かれ(しか)なしたれば、その()()ゆ。

註解: イエスはなえたる手に触ることもせず言の威力をもって彼の手を癒し給うた。学者、パリサイ人に対する公然たる挑戦であった。

6章11節 (しか)るに(かれ)狂氣(きゃうき)(ごと)くなりて、イエスに(なに)をなさんと(かた)(かな)へり。[引照]

口語訳そこで彼らは激しく怒って、イエスをどうかしてやろうと、互に話合いをはじめた。
塚本訳彼らは狂わんばかりに怒って、イエスをどうしょうかと話し合った。
前田訳彼らは怒りに満たされ、イエスをどうしようかと互いに話しあった。
新共同ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。
NIVBut they were furious and began to discuss with one another what they might do to Jesus.
註解: イエスの公然たる挑戦に合い、彼らは思慮を失える者のごとくになり、イエスに対して何を為さんかを論じ合った。マタ12:14マコ3:6によれば彼らはイエスを殺すことの計略を廻らしていた。ルカかはそれを上記のごとく緩和した。何れにしても彼らは彼ら自身の誤れる熱心と確信とによりその態度をもって最も正しいものと信じていたことは確かである。誤った信仰はかえって不信仰以上の害を与える。
要義1 [イエスと伝説]安息日聖守に関するユダヤ人の態度は、モーセの十誡の本来の精神より離脱せる形式的の規律として人を束縛するのみのものとなった。これに対しイエスは、よく安息日に会堂における集会に出席し、あるいは教え、あるいは祈り給うたけれども、学者、パリサイ人がこの安息日の精神を無視しているのを見てそこにパリサイ的信仰の病根が最も強く顕れていることを感得し、ついには特に故意に安息日を破り、安息日以上の精神を生かすことに全力を注ぎ、そのために生命の危険をも冒し給うた。凡そ固定せる伝統を破り、真の生命を救うことは生命の犠牲に値する。
要義2 [善を為さざるの罪]6:9によればイエスは、手なえたる人を醫さないことが悪事を為すことであり、人を救わないことが人を亡ぼすことであると感じ給うたことが窺われるのであるが、善を為さざることを罪と感ずる程までも善を為すことを熱心に希求する心を我らもまた持たなければならない。常に善を為すことに熱中して他を忘れるほどである場合、我らはあらゆる伝統や形式に超越することができる。然らざる者は形式や伝統を非難する資格がない。

分類
4 伝道の前進 6:12 - 8:56
4-1 十二弟子の選任 6:12 - 6:16
(マコ3:13-19) 

6章12節 その(ころ)イエス(いの)らんとて(やま)にゆき、(かみ)(いの)りつつ(よる)(あか)したまふ。[引照]

口語訳このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。
塚本訳このころのこと、イエスは祈りのため山に行って、神に祈りながら夜をあかされた。
前田訳そのころ、彼は山へ祈りに行って、神への祈りのうちに夜をあかされた。
新共同そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。
NIVOne of those days Jesus went out to a mountainside to pray, and spent the night praying to God.
註解: 十二弟子選定の前に特に深き徹夜の祈りを必要としたものと思われる。多数の中より少数を選ぶは容易のことではなく、また神の国の福音を伝うる使命を担うに適する人を見出すことはなおさら容易ではない。
辞解
[山] 定冠詞あり、イエスの常に往き給う山のこと、イエスの祈りはルカ伝に殊に多く記さる。

6章13節 夜明(よあけ)になりて弟子(でし)たちを()()せ、その(うち)より十二(じふに)(にん)(えら)びて、(これ)使徒(しと)()づけたまふ。[引照]

口語訳夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。
塚本訳朝になると弟子を呼びよせ、その中から十二人を選び、これをまた使徒と名づけられた。
前田訳朝になると、弟子たちを呼びよせ、その中から十二人を選んで使徒と名づけられた。
新共同朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。
NIVWhen morning came, he called his disciples to him and chose twelve of them, whom he also designated apostles:
註解: 「十二」はイスラエルの十二の支族に因んだものと思わる。天の数三と地の数四との相乗積で重要な数。使徒 apostolos は「遣される者」の意。

註解: 本節以下16節まではマルコとほぼ同一順序に、二人ずつ一組として使徒の名を記す。なお十二使徒の選任の項、マタ10:2−4。マコ3:16−19。使1:13註参照。

6章14節 (すなは)ちペテロと()づけ(たま)ひしシモンと[引照]

口語訳すなわち、ペテロとも呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、
塚本訳すなわち、シモン──この人をまたペテロと名づけられた──と、その兄弟アンデレと、ヤコブとヨハネと、ピリポとバルトロマイと、
前田訳すなわち、ペテロともいわれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、
新共同それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、
NIVSimon (whom he named Peter), his brother Andrew, James, John, Philip, Bartholomew,
註解: ペテロの首位は凡ての場合一致している。

()兄弟(きゃうだい)アンデレと、

註解: ルカはアンデレの名をこの一回だけ録す。

ヤコブとヨハネと、

註解: これらはゼベダイの子。

ピリポとバルトロマイと、

註解: バルトロマイはヨハ1:45のナタナエルならん。

6章15節 マタイとトマスと、[引照]

口語訳マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと、熱心党と呼ばれたシモン、
塚本訳マタイとトマスと、アルパヨの子ヤコブと熱心党と呼ばれたシモンと、
前田訳マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党と呼ばれたシモン、
新共同マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、
NIVMatthew, Thomas, James son of Alphaeus, Simon who was called the Zealot,
註解: マタイは又の名をレビ、ルカ5:27

アルパヨの()ヤコブと熱心(ねっしん)(たう)()ばるるシモンと、

註解: ヤコブは多くある故父の名を附す。熱心党はまたカナン党と呼ばる。マコ3:18

6章16節 ヤコブの()ユダ[引照]

口語訳ヤコブの子ユダ、それからイスカリオテのユダ。このユダが裏切者となったのである。
塚本訳ヤコブの子ユダと、イスカリオテのユダ──この人は(あとで)裏切者になった。
前田訳ヤコブの子ユダ、イスカリオテのユダ、この人は裏切り者になった。
新共同ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。
NIVJudas son of James, and Judas Iscariot, who became a traitor.
註解: これはマタ10:3マコ3:18のタダイと同人。

とイスカリオテのユダとなり。

註解: イスカリオテは「カリオテ人」の意。

このユダは[イエスを]()(もの)となりたり。


4-2 多くの人々集まり来る 6:17 - 6:19
(マタ12:15-21) (マコ3:7-12) 

6章17節 イエス(これ)()とともに(くだ)りて、平かなる(ところ)()(たま)ひしに、弟子(でし)(おほい)なる群衆(ぐんじゅう)、およびユダヤ全國(ぜんこく)、エルサレム(また)ツロ、シドンの海邊(うみべ)より(きた)りて、(あるひ)(をしへ)()かんとし、(あるひ)(やまひ)(いや)されんとする(たみ)(おほい)なる(むれ)も、そこにあり。[引照]

口語訳そして、イエスは彼らと一緒に山を下って平地に立たれたが、大ぜいの弟子たちや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロとシドンの海岸地方などからの大群衆が、
塚本訳イエスはこの人々を連れて(山を)下り、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子の群と、ユダヤ全国、ことにエルサレム、また(遠く)ツロ、シドンの沿岸から来た大勢の民衆の群も、
前田訳イエスは彼らとともに山を下り、平らなところに立たれた。大勢の弟子の群れと、全ユダヤ、ことにエルサレム、またツロとシドンの海岸から来た大勢の民がいた。
新共同イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、
NIVHe went down with them and stood on a level place. A large crowd of his disciples was there and a great number of people from all over Judea, from Jerusalem, and from the coast of Tyre and Sidon,
註解: 大なる説教がまさに開始せられんとする前の盛んなる光景を叙す。ユダヤ全国はガリラヤ、ペレヤ等を包含するパレスチナの地。ツロ、シドンは異邦人の地。群衆の目的は教えを聴くことと病を癒されることで、前者は20節以下、後者は18、19節に記さる。

6章18節 (けが)れし(れい)(なやま)されたる(もの)(いや)される。[引照]

口語訳教を聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた。そして汚れた霊に悩まされている者たちも、いやされた。
塚本訳教えを聞き、また病気を直していただこうとして、そこにいた。汚れた霊になやまされていた者もなおされた。
前田訳彼に耳傾け、病をいやしてもらおうとしたのである。けがれた霊になやまされていたものもいやされた。
新共同イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。
NIVwho had come to hear him and to be healed of their diseases. Those troubled by evil spirits were cured,

6章19節 能力(ちから)イエスより()でて、(すべ)ての(ひと)(いや)せば、群衆(ぐんじゅう)みなイエスに(さは)らん(こと)(もと)む。[引照]

口語訳また群衆はイエスにさわろうと努めた。それは力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやしたからである。
塚本訳群衆が皆、なんとかしてイエスにさわろうとした。彼から力が出て、一人のこらず直したからである。
前田訳群衆は皆なんとかして彼にさわろうとしていた。彼から力が出て皆をいやしていたからである。さいわいな人々、わざわいな人々
新共同群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
NIVand the people all tried to touch him, because power was coming from him and healing them all.
註解: イエスは勿論多くの病を醫し給うたけれども、一層重要なことは福音を宣伝えることであった。群衆はその反対に病を醫されることを主として熱望した。20節以下の、弟子たちに主として着眼せる説教は、この霊と肉との二つの世界の対立を背景として見る時、その真意が理解される。19節の群衆の希望とこれに対する20節のイエスの態度を見よ。

4-3 野の垂訓 6:20 - 6:49
4-3-イ 幸福なるかな 6:20 - 6:26
(マタ5:3-12)   

6章20節 イエス()をあげ弟子(でし)たちを()()ひたまふ[引照]

口語訳そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
塚本訳イエスは目をあげ、(十二人の使徒その他の)弟子たちを見ながら話された。──「ああ幸いだ、“貧しい人たち、”神の国はあなた達のものとなるのだから。
前田訳彼は目をあげ、弟子たちを見ながらいわれた、「さいわいなのは貧しい人々、神の国はあなた方のものだから。
新共同さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
NIVLooking at his disciples, he said: "Blessed are you who are poor, for yours is the kingdom of God.
註解: 以下49節に至るまでの説教はマタイ伝5−7章の山上の垂訓に相当する処の個所であるが、ルカ独特の選択を行っており、ユダヤ教との関係に深入りせず、旧約聖書に関するイエスの態度を省略し、一般的、人道的の問題を中心に編纂されたものである。用語もマタイ伝とはかなり異なっていることについては種々の理由を考えることができるのであるが、おそらくルカが原資料に自己の思想に適応せる表現を与えたのであろう。「弟子たち」がイエスの説教の目標であったが、同時にその周囲にある各地より集って来た群衆(17b)をも教訓するためであったことは明かである。

幸福(さいはひ)なるかな、

註解: マタイ伝には八つの幸福が列挙され、ここでは四つの幸福とこれに対する四つの禍害とが対照とされている。マタイ伝では一般的の観点から語られるようになっており、本節以下では殊に弟子たちの実生涯に関していわれている。

(まづ)しき(もの)よ、(かみ)(くに)(なんぢ)らの(もの)なり。

註解: マタ5:3には「心の貧しき者」とあり、本節の場合もこれと同一の意味と解すること(Z0)はルカの本意ではなく、またルカが貧者は凡て必ず幸福であると考えてかく変更したのでもあるまい。このイエスの御言は一方弟子たちにはその貧しき伝道者としての生涯について心より幸福を感ぜしめると同時に、他方弟子たちと共にいた群衆は、多くこの世の富貴を求める心に充ちていたので、このイエスの御言は彼らにとってはその心を打ち砕く革命的爆弾宣言と響いたことであろう。イエスはかくして一石二鳥、最も効果的な説教をなし給うた。このイエスの「貧しき者」の一言が我らの眼前に髣髴せしむる所のものは、貧困に捉われこれを脱しようとして喘ぐ貧者の姿ではなく、霊的世界の満足を求めて物質的慾求を超越し身の貧富を忘れている者の姿である。おそらくマタ5:3よりもこの方がイエスの御言のままに近いであろう。「神の国は汝らの(もの)なり」これより大なる富はない。「神の国」は「神に支配されること」神を我の主として有つことである。人生の最大の幸福はこれである。

6章21節 幸福(さいはひ)なる(かな)、いま()うる(もの)よ、(なんぢ)()くことを()ん。[引照]

口語訳あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。
塚本訳ああ幸いだ、今飢えている人たち、(かの日に)満腹させられるのはあなた達だから。ああ幸いだ、今泣いている人たち、(かの日に)笑うのはあなた達だから。
前田訳さいわいなのは今飢える人々、あなた方は満たされようから。さいわいなのは今泣く人々、あなた方は笑おうから。
新共同今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。
NIVBlessed are you who hunger now, for you will be satisfied. Blessed are you who weep now, for you will laugh.
註解: マタ5:6参照。神の国における満足こそ人生の至幸である。伝道者は貧困の生活を送らなければならぬ。しかし、今この世で飢えることは問題ではなく真の不幸ではない。かえって今満ち足りている者こそ神の国を求めず、従ってこれを得ることができない不幸者である故に、飽かんとする慾望を棄てよ、飢える者こそかえって幸福である。

幸福(さいはひ)なる(かな)、いま()(もの)よ、(なんぢ)(わら)ふことを()ん。

註解: 涙の乾く間もなき不幸の中にいる者は神の慰めと救いとを求めずにいられない。かくして求むる者にはこれが与えられる。神の国の笑いはこの世の涙を通して与えられる。不幸に泣く者は実は不幸ではない。かえって幸福である。弟子たちは自己について考えず唯他人のために自己をささげている故自己の苦痛と他人の苦痛とのために泣かなければならぬがそこから真の幸福が生れる。

6章22節 (ひと)なんぢらを(にく)み、(ひと)()のために(とほ)ざけ、(そし)り、(なんぢ)らの()()しとして()てなば、(なんぢ)幸福(さいはひ)なり。[引照]

口語訳人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
塚本訳人に憎まれる時、また、人の子(わたし)のゆえに除名されたり、罵られたり、悪様に言われたりする時には、あなた達は幸いである。
前田訳さいわいなのはあなた方、人々が憎み、人の子ゆえに除名し、ののしり、汚名を着せるときに。
新共同人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
NIVBlessed are you when men hate you, when they exclude you and insult you and reject your name as evil, because of the Son of Man.
註解: マタ5:11参照。イエスの名または信者たる名のために迫害せられることは何時の時代でも免れ難い。殊に群衆の中にはイエスの弟子たちに対してかかる心を懐いている者が多く、弟子たちは彼らの嘲笑迫害の対象であった。弟子たちの心はこの御言によって躍ったことであろう。
辞解
[遠ざけ] 集会よりの除名、社会よりの排斥等。
[汝らの名] 後に至ってイエスの弟子は「ナザレ人」(使24:5)、「クリスチアノス」(使11:26)等と呼ばれたが、イエスの当時は未だかかる名は無かった。

6章23節 その()には(よろこ)(をど)れ。[引照]

口語訳その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。
塚本訳その日には躍りあがって喜びなさい、どっさり褒美が、天であなた達を待っているのだから。あの人達の先祖も、同じことを預言者たちにしたのである。
前田訳その日にはよろこび躍りなさい、天での褒美が多いから。同じように彼らの先祖も預言者たちにしたのである。
新共同その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
NIV"Rejoice in that day and leap for joy, because great is your reward in heaven. For that is how their fathers treated the prophets.
註解: マタ5:12参照。
辞解
[躍れ] ルカ1:44参照。

()よ、(てん)にて(なんぢ)らの(むくい)(おほい)なり、(かれ)らの先祖(せんぞ)預言者(よげんしゃ)たちに()ししも()くありき。

註解: イエスの弟子が迫害の中においても喜び躍り得る所以は、彼らが天国の生活を為しているからである。神に代って語る預言者たちが、この世において受けし運命とその天国における栄光とを見るならば、イエスの弟子たちもこれと同様の運命に逢うべきことを知ることができる。

6章24節 されど禍害(わざはひ)なるかな、((なんじ)ら)()(もの)よ、[引照]

口語訳しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。
塚本訳だが、ああ禍だ、富んでいるあなた達、もう慰めを受けたのだから。
前田訳しかし、わざわいなのは富んでいる人々、あなた方はもう慰めを受けたから。
新共同しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。
NIV"But woe to you who are rich, for you have already received your comfort.
註解: 24−26節に四つの禍害(わざわい)あり、正確に20−23節の四つの幸福に対照する。マタイ伝山上の垂訓にはこの部分なし。26節後半のみ存す。「汝ら富む者」であって弟子たちがその中に入り得ないことは当然である。群衆の中には富裕なる者も有ったに相違なく、しかも彼らはその富を神のため人のために用いず、全く自己の享楽のために使用し、これを誇りこれによって満足していた。彼らは神の国と神の義とを思わず、永遠の生命を求めなかった。人はかかる者を幸福としていたけれども彼らは禍害(わざわい)なるかなである。

(なんぢ)らは(すで)にその慰安(なぐさめ)()けたり。

註解: もはやそれ以上の何ものをも期待できない。
辞解
[受けたり] apechô は一般に金銭の領収済の意味に用いられ、領収証を apochê と言う。

6章25節 ((なんじ)ら)禍害(わざはひ)なる(かな)、いま()(もの)よ、[引照]

口語訳あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
塚本訳ああ禍だ、今食べあきているあなた達、(かの日に)飢えるのだから。ああ禍だ、今笑っている人たち、(かの日に)泣き悲しむのはあなた達だから。
前田訳わざわいなのは今食べ飽きている人々、あなた方は飢えようから。わざわいなのは今笑う人々、あなた方は悲しみ泣こうから。
新共同今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。
NIVWoe to you who are well fed now, for you will go hungry. Woe to you who laugh now, for you will mourn and weep.
註解: 21節の「今飢うる者よ」に対応する。飽衣飽食してそれだけで満足している者、またはかくありたいと望んでいる者が群衆の中にいたのであろう。かかる者はそれ以上の天国の幸福を求めようとしない。かかる者こそかえって禍害(わざわい)である。

(なんぢ)らは()ゑん。

註解: 直訳「何となれば汝らは飢えるであろうから」で「禍害(わざわい)なるかな」の理由である。境遇の変化によって飢えることもあろう。しかしそれのみでなく、物的飽満はやがてそれ自身では何らの満足を与えず必ず精神的飢渇に襲われる。少なくとも彼らは死に直面する時、その物質的飽満は何らその飢渇を醫し得ないことを見出すであろう。

禍害(わざはひ)なる(かな)、いま(わら)(もの)よ、(なんぢ)らは、(かな)しみ()かん。

註解: 「泣くべければなり」と訳すべきである。神の国においてのみ真の笑いが有り得るのであって、虚偽、不正、災害、不幸の充ちているこの世では、たとい自分にとって一時的幸福が訪れて来ても、その時の笑いはやがて悲しみの涙となる時が来るであろう。たとい幸いにして現世を笑いの中に終ることができても、死はその凡てをそれだけ大きい悲しみに変化するであろう。殊にこの世の幸福は浮雲のごとく草花の栄えと異ならない、思わない時に一瞬にして壊滅する。釈迦の出家の理由もここにあった。

6章26節 (すべ)ての(ひと)、なんぢらを()めなば、(なんぢ)禍害(わざはひ)なり。[引照]

口語訳人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。
塚本訳皆の人に良く言われる時、あなた達は禍である。あの人達の先祖も、同じことを偽預言者たちにしたのである。
前田訳わざわいなのは、あなた方をすべての人がよくいうとき。同じように彼らの先祖も偽預言者たちにしたのである。
新共同すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
NIVWoe to you when all men speak well of you, for that is how their fathers treated the false prophets.
註解: 義しき者には必ず敵が現れ、真の預言者は世に受納れられない。世間一般の人に誉められる人間は世間一般の人の要求に応う人であり、従って彼らの不義を不義として責め得ない人である。弟子たちは、かかる人間になってはならない。従って人に誉められることを望んではならない。
辞解
「凡ての人」といっても、一般人というごとき意味。
[誉める] 直訳「良く言う」。

(かれ)らの先祖(せんぞ)虚僞(いつはり)預言者(よげんしゃ)たちに()ししも()くありき。

註解: ユダヤ人の歴史が明かに示すように彼らの先祖は真の預言者を迫害し、虚偽の預言者を歓迎した。イエスの弟子たらんとするものは世の人より誉められようと考えてはならない。
要義1 [幸福とは何ぞや]イエスはこの説教によって幸福観に根本的革命を与えた。従来はこの世において富み、栄え、飽食、暖衣、歓楽を(ほしいまま)にし、而して世人の好評を博することが幸福と考えられていた。イエスが弟子たちに教え給える幸福は、ちょうどその正反対であり、貧困と飢餓と涙と迫害非難の中に神の国に在る永遠の幸福を享有することであった。この真の幸福を求めずしてこの世の幸福を求める者はイエスの弟子となることができない。またイエスの弟子となる者は、これらの世俗的幸福なしにも、それよりも遙かに優れる幸福を享有することができる。人はみな幸福を求めて労苦しているけれども、これを得ないのは求むべきところにこれを求めないからである。
要義2 [文化と幸福]この世の政治・経済・教育等凡ての文化活動は人間の幸福を目的としているのであるがそれだけではその目的を達し得ない。まずイエスに従い、神の国と神の義とを求め、そのために貧困・飢餓・悲哀を味わう場合始めてその目的を達成することができる。文化的活動そのものは正しいことであるが、神を離れてその目的の達成は不可能である。

4-3-ロ 愛敵の精神 6:27 - 6:36
(マタ5:39-48)   

註解: 本節以下36節までは愛の精神の極致を教うるために、マタ5:38−48より、38、41、43の三節を除き、さらにマタ7:12を加え、これを5:44、39、40、42。7:12。5:46、47、45、48の順序に排列し、さらに若干の附加(34、35a)と変更(例えば36節とマタ5:48とを比較せよ)とを与えてルカ独特の目的に排列している。すなわちマタイにおいては律法を完成する意味においての愛を説き、ルカにおいては人類一般の理想としての隣人愛を説き、その極致として愛敵の精神を最初に掲示しているのを見る。

6章27節 われ(さら)(なんぢ)()くものに()ぐ、[引照]

口語訳しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。
塚本訳しかし(今わたしの話を)聞いているあなた達に言う、敵を愛せよ。自分を憎む者に親切をつくし、
前田訳しかし、耳傾けるあなた方にはいう、敵を愛し、あなた方を憎むものによくせよ。
新共同「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
NIV"But I tell you who hear me: Love your enemies, do good to those who hate you,
註解: これまでは不在であった人々(富者、笑う者等)から転じて現在聞いている人々に語った(L1)というのではなく(Z0)、弟子ならびに群衆に対し、充分に聴くように一層の注意を促したのである。重大問題だからである。

なんじらの(あた)(あい)し、(なんぢ)らを(にく)(もの)()くし、

註解: マタ5:44a参照。仇は我らに害を与える者である。人間はこれを愛し得ないのが自然である。その故は人間は自然に自己愛をその心の根本に蔵しているからである。この自己愛を全く放棄して神への愛に転換する場合、始めて人は神のごとき愛(35b、36)をもって仇をも愛し、己を憎む者に対して善を行うことができる。

6章28節 (なんぢ)らを(のろ)(もの)(しゅく)し、(なんぢ)らを(はづか)しむる(もの)のために(いの)れ。[引照]

口語訳のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。
塚本訳呪う者に(神の)祝福を求め、いじめる者のために祈れ。
前田訳呪うものを祝福し、なやますもののために祈れ。
新共同悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
NIVbless those who curse you, pray for those who mistreat you.
註解: マタ5:44bはこれに類似しているが、「詛う」「辱しむ」の代りに「迫害する」を用いている。一般にマタイ伝の方強い表顕を用いていることに注意すべし。ルカにおいては27節に「仇」の概論を与え、28、29節に仇の行動を分類列挙している。本節は主として口頭による敵対行為である、かかる者に対しては、言葉をもって応答することは無益であり、唯彼らを「祝福し」そのために「祈る」ことが最良の態度である。

6章29節 なんぢの(ほほ)()(もの)には、(ほか)(ほほ)をも()けよ。[引照]

口語訳あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。
塚本訳あなたの頬を打つ者には、ほかの頬をも差し出し、上着を奪おうとする者には、下着をこばむな。
前田訳あなたの頬を打つものには、ほかの頬をも出し、上着を取ろうとするものには下着をも拒むな。
新共同あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
NIVIf someone strikes you on one cheek, turn to him the other also. If someone takes your cloak, do not stop him from taking your tunic.
註解: マタ5:39。敵対心が行動となって顕われた場合、これに対して報復の心や憎悪の心を起してはならない。悪はこれに反抗すれば益々その悪念を強化するものであるから、相手を善に立還らしめんがためには、悪をしてその行きつく処まで行かせる方がよい。ただしこの凡ては愛の心を基礎としなければならない。心に復讐心を懐きつつ他の頬を向けても何の役にも立たない。

なんぢの上衣(うはぎ)()(もの)には下衣(したぎ)をも(こば)むな。

註解: マタ5:40の「下衣もやってしまえ」の方が意味も強く、かつ適当である。仇の行動が物質的損害を与える場合の態度を示す。すなわち物質的損害を惜しんだりまたはこれを回復せんとせず、かえって仇の欲する以上のものを与えることによって、その貪慾の心に反省を与えるのが最善の途である。

6章30節 すべて(もと)むる(もの)(あた)へ、なんぢの(もの)(うば)(もの)(また)(もと)むな。[引照]

口語訳あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。
塚本訳求める者にはだれにでも与えよ、あなたの物を奪った者から取り返すな。
前田訳求めるものにはだれにでも与え、あなたのものを奪うものから取り返すな。
新共同求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
NIVGive to everyone who asks you, and if anyone takes what belongs to you, do not demand it back.
註解: 自分の利益をまず考えるのは、自己愛から来る心である。まず求むる相手方の立場に立ち、これを愛するを以てこれに対すべきである。他人の物を奪う者は悪者であるが、かかる者よりこれを奪い返さんとすることによって、この悪者は自己の悪を反省しない結果となる。仇の悪行のために正しき被害者が苦しみつつしかも仇を怨まない愛の心は、その仇なる悪者にとって最も大きい良心的苦痛である(ロマ12:20)。

6章31節 なんぢら(ひと)()られんと(おも)ふごとく、(ひと)にも(しか)せよ。[引照]

口語訳人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。
塚本訳あなた達は自分にしてもらいたいと思うとおり、人にしなさい。
前田訳人にしてもらいたく思うそのとおりに人にせよ。
新共同人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
NIVDo to others as you would have them do to you.
註解: マタ7:12にある所謂金言で、聖書全体の要約である。論語の「己に施して願わずんば人に施すこと勿れ」は消極的方面のみを言っているのであるが、ここでは進んで他人に対し、人が己に施すことを欲するごとくに他人に施すべきことを教えている。この一節の位置はマタイ伝のそれよりも遙かに適当である。

6章32節 なんぢら(おのれ)(あい)する(もの)(あい)せばとて、(なに)(よみ)すべき(こと)あらん、罪人(つみびと)にても(おのれ)(あい)する(もの)(あい)するなり。[引照]

口語訳自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。
塚本訳自分を愛する者を愛すればとて、(神から)どんな恵みがいただけよう。不信者でも自分を愛する者を愛するのだから。
前田訳自分を愛するものを愛しても何の恵みがあろう。罪びとでも自分を愛するものを愛するから。
新共同自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
NIV"If you love those who love you, what credit is that to you? Even `sinners' love those who love them.
註解: これは自然の人情であって自己愛の基礎の上に起り得る態度である。従ってこれは何ら感謝に値していない。また罪人すなわち低い道徳的水準と低い教養より外にない人たちでも、己を愛する人をば自然に愛する。
辞解
[(よみ)すべき事] charis、ここでは「感謝に値する事」と訳するを可とす(L1、M0、Z0)。
[罪人] ここでは全人類が神の前に罪人であるという意味での罪人ではなく、取税人・遊女のごとく一般より罪深き人と見られている種類の人。

6章33節 (なんぢ)()おのれに(ぜん)をなす(もの)(ぜん)()すとも、(なに)(よみ)すべき(こと)あらん、罪人(つみびと)にても(しか)するなり。[引照]

口語訳自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。
塚本訳親切にしてくれる者に親切にしたからとて、どんな恵みがいただけよう。不信者でも同じことをするのだから。
前田訳自らによくするものによくしても、何の恵みがあろう、罪びとでも同じことをするから。
新共同また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
NIVAnd if you do good to those who are good to you, what credit is that to you? Even `sinners' do that.
註解: マタ5:47に類似している。すなわち32節は心の状態、本節はその外部に対する働きである。この二者は必ず相伴う。

6章34節 なんぢら()(こと)あらんと(おも)ひて(ひと)()すとも、(なに)(よみ)すべき(こと)あらん、罪人(つみびと)にても(ひと)しきものを()けんとて罪人(つみびと)()すなり。[引照]

口語訳また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。
塚本訳また、取りもどすつもりで貸したからとて、どんな恵みがいただけよう。不信者でも同じだけのものを取り戻そうとして、不信者に貸すのである。
前田訳取り返すつもりで貸しても何の恵みがあろう。罪びとでも同じものを取り返そうとして罪びとに貸す。
新共同返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
NIVAnd if you lend to those from whom you expect repayment, what credit is that to you? Even `sinners' lend to `sinners,' expecting to be repaid in full.
註解: 自己愛と利己心とは相伴う。貸すことは慈悲心のごとくに見えるけれども心の中に自己愛、利己心が働いている場合が多い。イエスは人々の心の中からこの罪の心を除かんとしてかく教え給うた。

6章35節 (されば))(なんぢ)らは(あた)(あい)し、(ぜん)をなし、(なに)をも(もと)めずして()せ、[引照]

口語訳しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。
塚本訳しかし、あなた達は敵を愛せよ、親切をせよ、何も当てにせずに貸しなさい。そうすれば褒美をどっさりいただき、かつ、いと高きお方の子となるであろう。いと高きお方は恩知らずや悪人にも、憐れみ深くあられるのだから。
前田訳しかし、あなた方は敵を愛し、人によくし、何も当てにせずに貸しなさい。そうすれば褒美は多かろう。そしていと高き方の子となろう。彼は恩知らずや悪者にも恵み深くいますから。
新共同しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
NIVBut love your enemies, do good to them, and lend to them without expecting to get anything back. Then your reward will be great, and you will be sons of the Most High, because he is kind to the ungrateful and wicked.
註解: 27−34節の要約であり反復である。
辞解
[何をも求めずして] 「何事にも失望せずに」「何人にも失望せずに」「何人をも失望せしめずに」等とも訳されているが何れも適当ではない。

さらば、その(むくい)(おほい)ならん。かつ至高者(いとたかきもの)()たるべし。

註解: これらの報いは凡て終末的に考えられ、現世において、愛の故に凡てを失うものは、神の国において大なる報いが与えられ、かつ最高の身分が与えられるであろうことを示す。なお「報い」についてはマタ5:12要義二参照。
辞解
[至高者] 神を指す。ルカ伝に最も多く用いられる。
[子たるべし] 「子とならん」で未来形。

至高者(いとたかきもの)は、(おん)()らぬもの()しき(もの)にも、仁慈(なさけ)[あるなり](あればなり)。

註解: 敵を愛する者が、至高者の子となることの理由(hoti)は、神は悪しきもの、感謝の念なきものをも愛し給うからである。マタ5:45にはこれを日光と雨との例をもって示す。

6章36節 (なんぢ)らの(ちち)慈悲(じひ)なるごとく、(なんぢ)らも慈悲(じひ)なれ。[引照]

口語訳あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。
塚本訳あなた達の(天の)父上が慈悲深くあられるように、慈悲深くあれ。
前田訳慈悲深くあれ、あなた方の父が慈悲深くいますように。
新共同あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
NIVBe merciful, just as your Father is merciful.
註解: 本節は一般に次節以下に関連する緒言と見られており、かつ次節の冒頭に「而して」があるので、文脈上この見解が正しいようにも見えるけれども、意味の上からは27−35節の結論であると見る方が適当である。あたかもこれに相当するマタ5:48がマタイ伝のその部分の結論であるのに相対応している。神のごとき慈悲心を有つより外には仇を愛するに至ることは不可能である。▲マタ5:48に「天の父の全きがごとく汝らも全かれ」とあり、本節の「慈悲なれ」とあるのが一層理解し易い。マタイ伝の「完全」も「慈悲」と同義と解して差支えがない。神は愛であるから神のごとき無私の愛はそれ自身完全である。
要義 [聖愛の本質] 聖愛の本質は、消極的には自己を愛しないことであり、積極的には仇を愛することである。この両面は必ず同時に存在すべきものであり、その一つを欠く場合他は成立たない。自己を愛しつつ同時に仇を愛することはできない。而して仇を愛するに至らない愛は真の愛ではない。キリストは神に叛ける人類を愛し、そのために己が生命を捨て給うた。そこに愛の本質がある。仇のために生命をさえ捨てるのであるから(ロマ5:8)その他のものを与えることは問題とするに足らぬこととなる。

4-3-ハ 対人的態度 6:37 - 6:38
(マタ7:1-5)   

註解: 36節の慈悲の基礎の上に凡ての徳は成立する。そして他人が自己に奉仕せんことを求めるより先にまず他人に対し為すべからざることを為さないことが31節の実現である。37、38節はかくして36節までの思想と39節以下の思想との間に橋を架けている。36節をこの部分の緒言と見ることは、本節初頭の「而して」より判断すれば文法上はかえって適当であるが、この「而して」27−36節の全体の精神を身に体して「而して」の意味に取ることもできよう。

6章37節 (ひと)(さば)くな、さらば(なんぢ)らも(さば)かるる(こと)あらじ。[引照]

口語訳人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。
塚本訳(人を)裁くな、そうすれば(神に)裁かれない。(人を)罪に落すな、そうすれば罪に落されない。赦してやれ、きっと(神に)赦される。
前田訳裁くな、そうすれば裁かれまい。陥れるな、そうすれば陥れられまい。ゆるせ、そうすればゆるされよう。
新共同「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
NIV"Do not judge, and you will not be judged. Do not condemn, and you will not be condemned. Forgive, and you will be forgiven.
註解: マタ7:1、2。人を審く心は愛なく慈悲なき心であり、また自己の欠点を反省せずして人の悪のみに注目する心である。天の父のごとき愛をもって人に接する場合自然にこれを審かず、自己の悪を思う時、人の悪を赦す心持となる。「審かる」は(1)他人よりか(2)神よりか、(1)の場合も事実として有り得るのであるが完全はこれを(2)に期待するを適当とす。
辞解
[(さば)く] krinô 各人の行為の善悪を決めること(B1)。この「審くな」の教訓は裁判官が公の資格で審く場合、また個人が公人として社会のために他を審く場合等のことをいったのではないと見るべきである。

(ひと)(つみ)(さだ)むな、さらば、(なんぢ)らも(つみ)(さだ)めらるる(こと)あらじ。

註解: 「罪に定む」 katadikazô は一層強い語で、全人格に対して罪あること、処罰に値することを断言すること。「罪に定めらる」も「審かる」と同じく人よりか神よりかの問題があるが、他人の態度も当方の態度によって影響されることは有り得ることであるが、その完全なる反応は神よりと見るを可とす。すなわちもし人を罪に定めるならば世の終末の審判においては勿論のこと、現世の生活においても神の前に我らは同じ審判を受けるであろう。

(ひと)(ゆる)せ、さらば(なんぢ)らも(ゆる)されん。

註解: 愛憐と慈悲の心をもって他人に対する時、その罪を赦し、これをして負債を感ぜしめないようにする。愛なきものは人を責め、人に要求することのみに専念する。人間も同様であるが、殊に神は同じ態度をもって汝に臨むであろう。而して以上の三者を我らの実行の点から見れば、信仰によって神から罪を赦され、審かれず(ヨハ3:18)罪に定められざる(ロマ8:1)ことを知る。それによって始めて他人を赦し、罪に定めず、審かないようになることができる。

6章38節 (ひと)(あた)へよ、さらば(なんぢ)らも(あた)へられん。[引照]

口語訳与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。
塚本訳与えよ、きっと与えられる。押しつけ、ゆすり込み、こぼれるほど量りを良くして、懐に入れていただけるであろう。(人を)量る量りで、あなた達も量りかえされるからである。」
前田訳与えよ、そうすれば与えられよう。押えつけ、ゆすって、あふれるほどにはかってふところに入れてくれよう。はかる量りであなた方もはかってかえされようから」と。
新共同与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
NIVGive, and it will be given to you. A good measure, pressed down, shaken together and running over, will be poured into your lap. For with the measure you use, it will be measured to you."
註解: 他人を好んで審くことと同様、人に与えることを欲せずかえって与えられることを欲するのが人情の常である。人間は自然の姿においては凡て利己的、自己中心的である。愛の心をもって生きる者、己について求めない者はその反対に神中心、利他本位の生活となる。而して事実として後者は決して乏しくなることは無く、益々与えられる。

(ひと)

註解: 原文に主語を欠き、複数動詞を用いている故、これを(1)一般に人は、(2)天の使いたちは、(3)ある人々は、(4)神は(L1。ルカ12:20参照)等の解あり。前節と同じく人と神との双方を含む普遍的表顕と見るを可とす。

(はかり)をよくし、()()れ、(ゆす)()れ、(あふ)るるまでにして、(なんぢ)らの懷中(ふところ)()れん。

註解: 人に与えようとする心、己の益を求めず他人の益を考える心は、一見不利益を受けるかのごとくに思われるけれども、実はかえって多くの益を受ける。これは一つの逆説の真理である。この真理は実行によって知ることができる。

(なんぢ)()おのが(はか)(はかり)にて(はか)らるべし』

註解: マタ7:2b。他人を審くこと、罪に定めること、赦さないこと等は、何れも自己の優越を信じ、他人の価値を(ひく)く見積り、他人の罪を審くのであるが、他人はまた同様の欠点、弱点、罪過を我らの中に発見することができ、結局同じ(はかり)で相互に量り合うこととなり意味をなさない。完全に利己的自己中心主義と自己に対する誇りを克服することによって始めて我らの態度は完全なものとなる。
要義 [理想社会]社会を組織する人間が凡て27−38節の教訓を勇敢に守るならば、社会は直ちに理想的社会と化してしまうであろう。然るに事実その中に少数でも利己的人間が存する場合、この教訓を実行する者が必ず損害を受ける立場に立つ結果となり、従ってこれを完全に実行する上には必ず犠牲が伴うものである。しかしかかる犠牲を払うことは決して無意味ではなく、より善き社会はかかる犠牲の上に建てられ、而してついにはその犠牲を補って余りある大なる祝福が与えられるであろう。信仰をもってこの凡ての犠牲を忍び、神の報いを望むことが凡てのキリスト者に要求されるのはこのためである。この犠牲が理想の社会を造る唯一の手段であり、而してたといそれによって理想社会が実現しない場合でも、神の国において豊かなる報いを失わないであろう。

4-3-ニ 対自己的態度 6:39 - 6:45
(マタ7:1-20)   

註解: 前節までの教訓を受けて、まず「己自身を知ること」の必要を反省せしめんとしたのが本節以下、45節に至るイエスの御言である。勿論これは弟子たちに対して反省せしめんとの教訓(B1)であるが、それよりも、むしろ主として群衆中にある悪しき教師に向けられしものと見るべきであろう。己を知らないことが「(さば)くこと」「赦さぬこと」等の原因となる。意味において前段とも関連す。

6章39節 また(たとへ)にて()ひたまふ[引照]

口語訳イエスはまた一つの譬を語られた、「盲人は盲人の手引ができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。
塚本訳なお譬を一つ話された、「盲人に盲人の手引が出来るか。二人とも穴に落ち込まないだろうか。
前田訳なおひとつの譬えをいわれた、「目しいが目しいを導けようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。
新共同イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。
NIVHe also told them this parable: "Can a blind man lead a blind man? Will they not both fall into a pit?
註解: マタ13:13と同一の理由と見てこれを理解することができる。

盲人(めしひ)盲人(めしひ)手引(てびき)するを()んや。二人(ふたり)とも(あな)()ちざらんや。

註解: マタ15:14。人を手引せんとする者は自分が目明きでなければならぬ。マタイ伝においてはパリサイ人に対する非難としてこの語が語られている。ルカはこれを一般化したのである。

6章40節 弟子(でし)はその()(まさ)らず、(おほよ)(まった)うせられたる(もの)は、その()(ごと)くならん。[引照]

口語訳弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう。
塚本訳(良い先生をえらべ。)弟子は先生以上になれない。りっぱに一人前になっても、(たかだか)先生のようになるだけである。
前田訳弟子は師にまさらない。しかしだれでも修業をつめば師のようになる。
新共同弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
NIVA student is not above his teacher, but everyone who is fully trained will be like his teacher.
註解: 従って盲人の弟子は盲人以上であり得ない。これに反しイエスの弟子はイエスの高さに達する可能性がある。イエスは群衆中の師をもって任ずる者に対し、まず自己の姿を反省し、果して他人を導く資格ありや否やを考慮せしめんとし給う。
辞解
[全うせられたる者] 指導者の訓練の全部を完備した者。

註解: 41、42節(マタ7:3−5)は師たるべき資格なくして師をもって任ずる者の誤りを指摘する。マタイ伝では「審く勿れ」に関連せしめている。

6章41節 (なに)ゆゑ兄弟(きゃうだい)()にある(ちり)()て、(おの)()にある梁木(うつばり)(みと)めぬか。[引照]

口語訳なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
塚本訳なぜあなたは、兄弟の目にある塵が見えながら、自分の目に梁があるのに気付かないのか。
前田訳なぜ兄弟の目にあるちりが見えて自分の目にある梁に気づかないのか。
新共同あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
NIV"Why do you look at the speck of sawdust in your brother's eye and pay no attention to the plank in your own eye?
註解: 人は自己の欠点に気付かずに、他人の欠点を見出すにおいて堪能である。俚諺(ことわざ)「猿の尻笑い」のごとし、自己反省の不足、不当の優越感、己自身を知らないことの結果である。

6章42節 おのが()にある梁木(うつばり)()ずして、(いか)兄弟(きゃうだい)(むか)ひて「兄弟(きゃうだい)よ、(なんぢ)()にある(ちり)()(のぞ)かせよ」といふを()んや。僞善者(ぎぜんしゃ)よ、()(おの)()より梁木(うつばり)()(のぞ)け。さらば(あきら)かに()えて、兄弟(きゃうだい)()にある(ちり)()りのぞき()ん。[引照]

口語訳自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。
塚本訳自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟にむかって、『兄弟、あなたの目にある塵を取らせてくれ』と言うことが出来ようか。偽善者!まず自分の目の梁を取ってのけよ。その上で、兄弟の目にある塵を(取ってやれるなら、)取ってやったらよかろう。
前田訳おのが目にある梁が見えずに、どうして兄弟に向かって、『兄弟、あなたの目にあるちりを取らせなさい』といえるのか。偽善者よ、まずおのが目から梁をのけよ。そうすればはっきり見えて、兄弟の目にあるちりを取りえよう。
新共同自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
NIVHow can you say to your brother, `Brother, let me take the speck out of your eye,' when you yourself fail to see the plank in your own eye? You hypocrite, first take the plank out of your eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother's eye.
註解: イスラエルの指導者は盲目でありながらその民を指導していた。しかも自らその盲目に気付かなかった。彼らがイエスの価値を認識し得ず、反対にイエスが彼らを「偽善者よ」と言い得たのはそのためであった。彼らはまず自己の何たるかを知らなければ人の師となる資格がない。

註解: 43−45節は彼らの目に梁木(うつばり)があることの証拠はその言行(殊にその言に)よって知られることを示す。言葉は心の発露だからである。

6章43節 ()しき()(むす)()()はなく、また()()(むす)()しき()はなし。[引照]

口語訳悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。
塚本訳わるい実を結ぶ良い木はなく、また良い実を結ぶ悪い木もない。
前田訳悪い実を結ぶよい木はなく、また、よい実を結ぶ悪い木もない。
新共同「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。
NIV"No good tree bears bad fruit, nor does a bad tree bear good fruit.

6章44節 ()はおのおの()()によりて()らる。(いばら)より無花果(いちぢく)()らず、野荊(のばら)より葡萄(ぶだう)(をさ)めざるなり。[引照]

口語訳木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。
塚本訳木(の良し悪し)はいずれもその実で知られるのである。茨から無花果をとらず、茨の薮から葡萄をつまない。
前田訳どの木もその実でわかる。茨からいちじくは取れず、野草からぶどうは摘めない。
新共同木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。
NIVEach tree is recognized by its own fruit. People do not pick figs from thornbushes, or grapes from briers.

6章45節 ()(ひと)(こころ)()(くら)より()きものを()し、()しき(ひと)()しき(くら)より()しき(もの)(いだ)す。それ(こころ)滿()つるより、(くち)(もの)()ふなり。[引照]

口語訳善人は良い心の倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。
塚本訳(同じように、)善人は心の善い倉から善い物を取り出し、悪人は(心の)悪い倉から悪い物を取り出す。心にあふれて口に出るのだから。
前田訳よい人は心のよい倉からよいものを持ち出し、悪い人は悪い倉から悪いものを持ち出す。心あふれて口が語るのだから。
新共同善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
NIVThe good man brings good things out of the good stored up in his heart, and the evil man brings evil things out of the evil stored up in his heart. For out of the overflow of his heart his mouth speaks.
註解: イエスの道徳訓は、外部より道徳的形式を押し付けることは決してなかった。これをイエスは偽善として最も嫌い給うた。まず心の姿を正しく善きものにすることが根本であり、これさえできれば言行はその結果として自然に正しくなるというのがイエスの教訓の主旨であった。而して心を正しくすることは、結局において霊的新生より外に途が無いことを、弟子たちは実験的に知らしめられたのであった。善き果(行為)を得るには善き樹でなければならず、悪しき果(行為)を結ぶ者は悪しき樹であることを示す。マタ7:16−20およびマタ12:33−35節に同様の記事あり、前後の関係はルカと異なる。
辞解
[結ぶ] poieô は「為す」「行う」という意味に用いられる語。
[倉] thêsauros はまた「蓄積物」、「貯え」の意味もあり、必ずしも建物の倉庫と見なければならぬことはない。
要義1 [汝自身を知れ]デルフォイの神殿の入口に掲げられた有名なるこの格言を連想せしめるのが、この39−45節である。しかしながら自己を知ることそれ自身が必ずしもそう単純ではない。自己を計る尺度の如何によって自己に対する判断が異なって来る。盲人に比して眼病の人間も目明きと考えられ、パリサイ人らは罪人、取税人、遊女と比較して自己を義人と考えた。我らが自己の真の姿を知るにはイエスを我らの尺度としなければならぬ。彼を師とする者は幸福なるかな、これよって始めて真の自己を知ることができる。
要義2 [樹とその果]善き樹は善き果を結ぶ。唯、我らは如何にして善き樹となることができるか。この点につきイエスは我らに示し給わない。本来罪の中に生れた我らの天性は、これを善いものにしようとしてもなかなか変化しない(エレ13:23)。従ってイエスは我らに不可能を要求し給うこととなるのである。しかし、人間に不可能な事でも神において可能である(マタ19:26)。神はイエスの十字架の贖いによりて我らを新たに生れしめ、善き生命をもって我らに充たし給う。これにより自ら善き果を豊かに結ぶことができる。

4-3-ホ 実行の必要 6:46 - 6:49
(マタ7:12-27)   

註解: 46−49節は教えを聞きてこれを実行することの必要を教えている。マタ7:21マタ7:24−27。愛の心、自己を知ること、自己を義しく善きものとすることと同じく、実行することは、自己そのものの改造であり、生命そのものの建設である。

6章46節 なんぢら(われ)を「(しゅ)(しゅ)よ」と()びつつ、(なに)()()ふことを(おこな)はぬか。[引照]

口語訳わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
塚本訳(わたしを)『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
前田訳なぜわたしを主よ主よと呼びながら、わたしのいうことを行なわぬのか。
新共同「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
NIV"Why do you call me, `Lord, Lord,' and do not do what I say?
註解: 群衆の中にはイエスに病を醫されんために、彼を「主よ、主よ」と呼びつつ彼に従った者も多かった。彼らもイエスの教えを聞いて感激したのであろうが、これを行おうとする誠意が無かった。宗教を単に頭脳の問題とする人や、または自己の利益に利用しようとする者はみなこの態度を取る。

6章47節 (おほよ)(われ)にきたり()(ことば)()きて(おこな)(もの)は、如何(いか)なる(ひと)()たるかを(しめ)さん。[引照]

口語訳わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。
塚本訳わたしの所に来て話を聞き、それを行う者が皆、だれに似ているか、おしえてあげよう。
前田訳わたしのところに来てわがことばを聞いてそれを行なうものがだれに似るか、教えよう。
新共同わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。
NIVI will show you what he is like who comes to me and hears my words and puts them into practice.

6章48節 (すなは)(いへ)()つるに、()(ふか)()(いは)(うへ)(もとゐ)()ゑたる(ひと)のごとし。洪水(こうずゐ)いでて(ながれ)その(いへ)()けども(うご)かすこと(あた)はず、これ(かた)()てられたる(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。
塚本訳それは、(地を)深く掘り下げ、岩の上に土台をすえて家を建てた人に似ている。洪水が出て、大水がその家にぶつかったが、丈夫に建ててあったので、びくともしなかった。
前田訳それは深く地を掘って岩の上に土台を置いて家を建てる人に似る。洪水が出て、流れがその家に当たってもよく建っているからゆれない。
新共同それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。
NIVHe is like a man building a house, who dug down deep and laid the foundation on rock. When a flood came, the torrent struck that house but could not shake it, because it was well built.
註解: イエスの言を聴いてこれを実行することにより、その言がその人の生命と化してその人を動かすに至る。およそイエスの教訓を実行するには、その言が我らの生命とならなければならぬ。ルカは動詞の用法に注意し(Z0)「来り」「聴き」「行い」「建てる」等をみな現在形動詞を用い、継続的生命活動として表顕することによって次節と区別している。次節註参照。イエスが特に行為を重視し給うことはパウロの信仰のみによる義と矛盾するように見えるけれども、実際は信仰によらざればかかる行為は行い得ず、またこれを行わんとして真面目に努力する者は、信仰に到達せざれば()まない故、結局同一の結果となる。

6章49節 されど()きて(おこな)はぬ(もの)は、(もとゐ)なくして(いへ)(つち)(うへ)()てたる(ひと)のごとし。(ながれ)その(いへ)()けば、(ただ)ちに(くづ)れて、その破壞(やぶれ)はなはだし』[引照]

口語訳しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。
塚本訳しかし(これと反対に、わたしの話を)聞くだけで行わない者は、土の上に土台なしで家を建てた人に似ている。大水がぶつかると、たちまち崩れてしまって、その家のくずれ方はひどかった。」
前田訳聞いて行なわぬものは、土の上に土台なしで家を建てた人に似る。流れが当たるとすぐ倒れ、その家の倒れ方はひどい」と。
新共同しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
NIVBut the one who hears my words and does not put them into practice is like a man who built a house on the ground without a foundation. The moment the torrent struck that house, it collapsed and its destruction was complete."
註解: 前節とは反対に「聴く」「行う」「建つ」はみな不定過去形を用い、一瞬にして過ぎ去る状態を表わしている。すなわち根底なき瞬間的の行為をすら一度も行わぬものを示す。イエスの教えを聴くのみで行わないものは結局その言が彼の中に留まらない。行うことは生命に伴う処の絶対的要件である。
要義 [イエスとパウロ]46−49節にイエスが特に行為を重視することは、何人にも異議なきはずであるが、パウロの神学すなわち信仰のみによって義とせられ、律法の行為によるに非ざること(ロマ3:28エペ2:8、9)を強調する人々は、このイエスの教訓を無視し、行為を軽視する傾向があり、反対に行為を重視する人はパウロの信仰のみによって義とされることの主張を軽視し、あるいは理解しない。かくしてイエスかパウロかというごとき対立観を生じているのであるが、実はこの二者には何らの矛盾もない。その故はイエスが「行へ」と言い給う時、彼はこれに従わんとする我らを必然的に「信仰」に()いやりつつあり、パウロが「信仰」と言う時、そこから自然に「行為」が生れて来るからである。