黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版第2コリント

第2コリント第5章

分類
3 パウロの自己弁明(其の一) 1:12 - 7:16
3-5 使徒職の光栄と神の使者としてのパウロ 3:1 - 6:10
3-5-ヘ 地上の幕屋と神の建物 5:1 - 5:10

註解: 5:1−10はなお前章の思想の継続であって、肉体は腐朽すべきも復活の希望を持って信仰の歩みを為すべき事に就いて語っている。この事は使徒職にある者において殊に重要であるけれども、また一般の人にも適用されるべき事柄である

5章1節 (われ)らは()る、(われ)らの幕屋(まくや)なる地上(ちじゃう)(いへ)(やぶ)るれば、(かみ)(たま)建造物(たてもの)、すなはち(てん)にある、()にて(つく)らぬ、永遠(とこしへ)(いへ)あることを。[引照]

口語訳わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
塚本訳なぜ(こんな希望に生きることができるの)であろうか。もし地上の家であるわたし達のこのテント、(この肉体)がこわれるならば、天に、神の建てられた建物、(人間の)手で造らない永遠の家をいただいていることを、わたし達は知っているからである。
前田訳われらは知っています、われらの地上の家である幕屋が壊れても、神からの建物、すなわち手で造らぬ永遠の家が天にあることを。
新共同わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。
NIVNow we know that if the earthly tent we live in is destroyed, we have a building from God, an eternal house in heaven, not built by human hands.
註解: 我らの肉体は唯一時の間地上に存在するのみで、やがて滅びてしまう。この意味においては天幕づくりの家の如きものである、「この世は仮りの宿」なる語がこれに適応している。この肉体が死により、または化体(Tコリ15:52Tテサ4:17)によりて壊滅に帰する時、我らは復活体を与えられる。而してこの復活体は人手によらず神より与えられるものであって、天にありて永遠に生くべき体である。仮の宿に過ぎざる幕屋と永続的住居なる建築物とを対比して肉体と復活体との性質の差を示し、「地上」と「天上」、「壊滅」と「永遠」とによりてその場所と時との差を示す。我らもしこの事を明かにする事ができるならば、最早見ゆるものを求めずして見えぬものを求めるであろう。
辞解
原文は「何となれば」garとあり、前節の理由の説明である。
[家あり] 原語「家を()つ」は現在動詞にして、肉体の崩壊と共に直ちに現在復活体を所有する如く記されている。しかし聖書の他の部分において明かなるが如く、復活体はキリストの再臨の時に与えられるのであって現在の所有ではない。茲に現在動詞を用いたのは、時を超越して事柄の本質のみを示したのであって、日本語の「持つのである」に当る

5章2節 我等(われら)はその[幕屋(まくや)]にありて(なげ)き、(てん)より[(たま)ふ]住所(すみか)をこの(うへ)()んことを(せつ)(のぞ)む。[引照]

口語訳そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
塚本訳どうしてであろうか。わたし達はこのテントにいて、天の住いを上に着たくてたまらずに呻いているからである。(この憧れと呻きこそ、永遠の住いのある証拠ではないか。)
前田訳われらはこの身で天からの住まいを着るよう、あこがれてうめいているのです。
新共同わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。
NIVMeanwhile we groan, longing to be clothed with our heavenly dwelling,
註解: 「我」が本体であってこの肉体は幕屋であり、(あたか)も衣服のごとくにこれを着ている。かかる衣服を着ている我らはその不完全と患難のために嘆息(たんそく)呻吟(しんぎん)せざるを得ない。故にできるならば主イエス再び速やかに来たり給いて、この不完全なる肉体の幕屋の上を完全なる天の住所なる霊体を以って掩い、かくして患難を除き給わんことを切望する。その故はキリスト来たり給う時、生き残れる信徒は化せられて朽ちぬ身体を着せられるからである(Tコリ15:52、53。Tテサ4:17)。パウロは切にこの時の来たらん事を望んでいた

5章3節 (これ)()るときは(はだか)にて[ある](見出(みいだ))さるる(こと)なからん。[引照]

口語訳それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
塚本訳ほんとうにもしこれを着たならば、裸(の恥しい姿)であることはないであろう!
前田訳もし着たならば、裸では見られますまい。
新共同それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。
NIVbecause when we are clothed, we will not be found naked.
註解: 天より与えられる住所なる霊体を着ていれば、これを以て神の前に立つ事ができる。すなわち栄光の体(ピリ3:21Tコリ15:40)であって、キリストの栄光の体に(あやか)ったものである。この体を()つならば裸の恥を晒す事が無い(黙3:18黙16:15)。すなわち罪のままの醜き状態ではないキリストを()(ただ)しきものとして神の国に迎えられる

5章4節 我等(われら)この幕屋(まくや)にありて重荷(おもに)()へる(ごと)くに(なげ)く、(これ)を脱がんと((ほっ)する)にあらで、()(うへ)()んことを(ほっ)すればなり。これ()ぬべき[(もの)]((もの))の生命(いのち)()まれん(ため)なり。[引照]

口語訳この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
塚本訳それで、わたし達のこのテントにいる者は、重荷に呻いている。これを脱ぎたい(つまり死にたい)のではなく、(天の住いを)上に着たいからである。これは死ぬべきものが命に飲み込まれるためである。
前田訳われらは幕屋にいるあいだ重荷にうめいています。それを脱ぎたいからではなく、上に着たいからです。それは死すべきものがいのちに呑み込まれるためです。
新共同この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。
NIVFor while we are in this tent, we groan and are burdened, because we do not wish to be unclothed but to be clothed with our heavenly dwelling, so that what is mortal may be swallowed up by life.
註解: 我らこの肉体の幕屋の中に生きている結果、その不完全さとまたこれに臨む多くの迫害、患難の為に重荷を負える如くに苦しみ呻吟(うめ)く、蓋しこの肉体を脱ぎて死んでしまいたいから嘆くのではない、(むし)ろこの肉体が、栄光の体を以って(おお)われん事を欲するからである。死ぬべきものが死滅する前に生命に呑まれる事、すなわち我らが死して裸なる状態に陥る事なしに、その前に主イエス来たり給いて我等を化し永世の体を与え給わん事が我らの願である

5章5節 (われ)らを()(こと)(かな)ふものとなし、その(())(しょう)として御靈(みたま)(たま)ひし(もの)(かみ)なり。[引照]

口語訳わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
塚本訳このことがわたし達に出来るようにされたお方は神であり、このお方がその手付けとして御霊を下さったのである。
前田訳われらをほかならぬこのことへと仕上げてくださったのは神です。神がわれらに霊の保証をお与えでした。
新共同わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。
NIVNow it is God who has made us for this very purpose and has given us the Spirit as a deposit, guaranteeing what is to come.
註解: 私訳「我らをこの事に(かな)うものとなししものは神にして、彼は御霊の保証を我らに賜えり」。「この事」は不死の体を着ること、神は我らの心に働きて我らをして栄光の体に永遠に生くる事を得るに至らしめ給う、我らの努力や修養によれるものにあらず、而して我らに聖霊が与えられているのは、この栄光の体を与えられることの保証である(エペ1:13、14)。この御霊が与えられて、これに相応しい栄光の体を与えられない筈はない

5章6節 この(ゆゑ)(われ)らは(つね)(こころ)(つよ)し、かつ()()るうちは(しゅ)より(はな)()るを()る、[引照]

口語訳だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
塚本訳だから、わたし達はいつも心強くあり、また、この体に同居しているあいだは主から離れて別居していることを知っている、
前田訳それでわれらは、この体に住んでいる間、主から離れ住んでいることを知りながらも、つねに心強いのです。
新共同それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。
NIVTherefore we are always confident and know that as long as we are at home in the body we are away from the Lord.

5章7節 ()ゆる(ところ)によらず、信仰(しんかう)によりて(あゆ)めばなり。[引照]

口語訳わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
塚本訳──というのも(いま)わたし達は(主を)見ることによってではなく、信仰によって歩いているからである。──
前田訳われらは見えるものによらず信仰によって歩んでいるのです。
新共同目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
NIVWe live by faith, not by sight.

5章8節 ()(こころ)(つよ)し、(ねが)ふところは(むし)()(はな)れて(しゅ)(とも)()らんことなり。[引照]

口語訳それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
塚本訳それで、わたし達は心強くはあるけれども、むしろこの体を離れて別居し、主の所に同居したいと望んでいる。
前田訳われらは心強くあり、むしろ体を離れ住んで、主のもとに住みたいと思っています。
新共同わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。
NIVWe are confident, I say, and would prefer to be away from the body and at home with the Lord.
註解: この三節は連絡している一文章であって、次の如くに訳す事ができる。「だから我ら常に心勇み、かつ体と同居しているうちは主と別居しているを知って―なぜなら見る処によらず信仰によりて歩んでいるから―心勇み、かつむしろ体と別居して主と同居することを願う」以上の如く我らは天よりの住所なる霊の体を着る事を得るものとせられし以上、我らは如何なる困難の中にありても心勇み、何等失望落胆する事が無い、然のみならず、我らさきにこの幕屋を脱がん事を欲しないと云ったけれども、考えて見れば、我らこの肉の体の中に住んでいる間は(同居)、目のあたり主イエスを見まつっているのではなく(別居)、彼に対する信仰の中に行動しているので、事実主イエスから離れているのである。これを思い、且つ永生の希望を以って心勇んでいるので我らは最早この幕屋の中に恋々としている事を必要としない。寧ろ死してこの幕屋を脱ぎすて身を離れてキリストと共にいる事こそ望ましい処である。これによりてこの世における迫害と罪の苦痛を逃れ、やがてキリスト再臨の日には先ず第一に復活し(Tテサ4:16)栄光の体を与えられる望みが残るからである▲すなわち「どちらかと云えば死んだ方が一層結構である」と云う意味である。その故は主と共にいる事ができるからである。

5章9節 ()れば[()に]()るも[()を](はな)るるも、ただ御心(みこころ)(かな)はんことを(つと)む。[引照]

口語訳そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
塚本訳この故にまた、(この体と)同居していようが、別居していようが、(ただ)主のお気に入ることだけを名誉とするのである。
前田訳それゆえ、この体に住もうと、離れ住もうと、主によろこばれることをわれらの名誉とします。
新共同だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
NIVSo we make it our goal to please him, whether we are at home in the body or away from it.
註解: 以上1−8節に示されし如く身に居るも身を離れるも(身と同居するもこれと別居するも)我らの希望を達せんが為に、唯専心にキリストの御心に(かな)わん事のみを目掛けている。パウロの心は如何なる患難の中にも唯主の御心に(かな)う事より外には無かった、この点においてイエスの御心を心としていた。
辞解
[力む] 「それを栄誉とする」意味、「かかる野心は唯一の正しき野心である」(B1)

5章10節 我等(われら)はみな(かなら)ずキリストの審判(さばき)()(まへ)にあらはれ、(ぜん)にもあれ(あく)にもあれ、各人(おのおの)その()になしたる(こと)(したが)ひて(むくい)()くべければなり。[引照]

口語訳なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
塚本訳なぜなら、わたし達は(最後の日に)一人のこらずキリストの裁判席の前に自分を現し、ひとりびとりがその体によってしたことに従い、善いことにせよ悪いことにせよ報いを受けねばならないからである。
前田訳われらは皆キリストの裁きの座の前に現われねばなりません。それはよきにつけ、あしきにつけ、おのおのがその体によってなしたことに対して報われるためです。
新共同なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
NIVFor we must all appear before the judgment seat of Christ, that each one may receive what is due him for the things done while in the body, whether good or bad.
註解: 我らは栄光の体を受ける事を望んでいる。しかしながらこの身において行った事はキリストの審判の座において皆忘れられてしまうのでは無く、信者と(いえど)も皆その行為の善悪によりてそれぞれの報いを受けなければならない。それ故に我らの努力すべき点は常に主の御意に適う事を行うにある。
要義1 [パウロの死生観]パウロ程その生涯において患難苦痛の数々を味わった人は少ない(Uコリ11:22−33)。しかも彼はこの苦痛を逃れん為に死を欲する如き事は無かった、彼は寧ろこの死の体、苦痛の肉体が不死の栄光体に呑まれ、この生命のまま永遠の生命を()ぐべき霊体に化せられる事を望んでいた。しかしながらこの確実なる希望を握った以上、彼はすこしも死を懼れなかった。否むしろイエスとともにいるが為には却って死をさえ希望していた。彼の死に対する憧憬は、現世の苦痛に耐えかねたからではなく、イエスとともにいる喜びを味わんが為であった。故に彼は完全に死生を超越し、絶大なる患難の中にあって一向に主の御意(みこころ)(かな)う事を努める事ができた。
要義2 [行為に対する報償]基督者の凡ての罪は神の前に赦されている。しかしながら天国においてこれが凡て忘却されているのではない、否却って如何に小なる罪でも神の前に記憶せられているのである。唯これが人を地獄に滅ぼすべきか、天国において神の子とすべきかを定むる材料となるのではない。基督者は皆神の子とせられ、天国の世嗣として神の嗣業を受くべき事はすでに定められし運命である。唯同じく神の子たる者もその「身にある中」に為せる凡ての善行悪行の如何により、(おのおの)がそれに(かな)う賞罰を受くるのである。故にアダムの罪も、ダビデの行為も、ペテロのキリストを否みし事も、パウロの基督者を迫害した事も皆神の前に記憶せられるであろう。而してこれ等は凡て赦され、唯神より適当の罰を課される事を思うべきである。これが為に心の平安を失う必要は無く、また赦されし罪を何時までも恥づる必要が無い。大胆にこれを告白すべきである(使19:18)。ベンゲル著グノモン参照(本サイト提供:グノーモン新約聖書註解(ベンゲル)

3-5-ト 神と和げる別世界 5:11 - 5:21

5章11節 ()(しゅ)(おそ)るべきを()るによりて人々(ひとびと)()(すす)む。われら(すで)(かみ)()られたり、(また)なんぢらの良心(りゃうしん)にも()られたりと(おも)ふ。[引照]

口語訳このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえには明らかになっている。さらに、あなたがたの良心にも明らかになるようにと望む。
塚本訳このようにわたし達は主の(裁判の)恐ろしさを知っているので、(非難者の言葉を借りれば、)人々を「説得している」のであるが、わたし達(に私心)の(ない)ことは神には知られている(筈である)。しかしあなた達の良心にも知られることを望むのである。
前田訳このように神への恐れを知って、われらは人々を説得しています。神にはわれらのことは明らかです。そしてあなた方の良心にも明らかであるよう、わたしは望んでいます。
新共同主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。
NIVSince, then, we know what it is to fear the Lord, we try to persuade men. What we are is plain to God, and I hope it is also plain to your conscience.
註解: キリストの審判の座に凡ての人が立たなければならない事すなわち主の畏るべき事を知る故に、パウロは人々に向って彼らがパウロ等を誤解する事によりて神の審判を受くるに至ることなき様に説得しているのである。しかしこれは一般の人に対する問題で、神に対しては我らの心は皆明かに顕わされており、また庶幾(こいねがわくば)汝らの良心にも明かにせられている事であろう。
辞解
[知られ] 5:10の「あらわれ」と同文字、「明かに示されている事」
[説き勧む] 「説得する」事。何について説得するかについては多くの異説あり
[思う] エルピゾーはelpizô「望む」と訳される文字、ここには「庶幾(こいねが)う」の意味に用いらる。未来の希望ではなくすでに現在かくある事を庶幾(こいねが)う事

5章12節 我等(われら)(ふたた)(おのれ)(なんぢ)らに(すす)むるにあらず、ただ我等(われら)をもて(ほこり)とする(をり)(なんぢ)らに(あた)へ、(こころ)によらず外貌(うはべ)によりて(ほこ)人々(ひとびと)(こた)ふることを()させんとするなり。[引照]

口語訳わたしたちは、あなたがたに対して、またもや自己推薦をしようとするのではない。ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ、心を誇るのではなくうわべだけを誇る人々に答えうるようにさせたいのである。
塚本訳(前にも言ったが、)わたし達はまたあなた達に「自分を推薦する」のではない。ただわたし達のことを誇る手掛りを与えて、内面でなく外面を誇るあの連中に受け答えできるようにするまでである。
前田訳われらはふたたび自らを推薦するのではありません。むしろわれらのことを誇る機会をあなた方に与えるのです。それは心でなく、うわべで誇る人々にあなた方が対応しうるためです。
新共同わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。
NIVWe are not trying to commend ourselves to you again, but are giving you an opportunity to take pride in us, so that you can answer those who take pride in what is seen rather than in what is in the heart.
註解: コリントの信者はパウロ等を以て誇りとすべき筈であったのに、(Uコリ1:13-14)これをなさず、却って外貌(がいぼう)(ユダヤ人たる事、使徒たちより教を受けし事等)によりて誇る偽教師等が、愛心もなくして誇るのにまかせていた。この有様を見てパウロはこれを歎き、自己の弁明を行う事によりてコリントの信者にパウロに就いて誇るの機会を与えんとしたのである。かくする事によりて彼らは偽使徒らの誇りに答うる事ができるであろう。

5章13節 我等(われら)もし(こころ)(くる)へるならば、(かみ)(ため)なり、(こころ)(たしか)ならば、(なんぢ)らの(ため)なり。[引照]

口語訳もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。
塚本訳なぜなら、もし(非難されているように)わたし達が「気が狂った」のなら、神に対して(熱心だから)である。もし正気なら、あなた達に対して(そのためを考えるから)である。
前田訳もしわれらが狂っているならば、神のためであり、正気ならば、あなた方のためです。
新共同わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。
NIVIf we are out of our mind, it is for the sake of God; if we are in our right mind, it is for you.
註解: パウロの反対者はパウロの極端なる律法無視の信仰や、その熱狂的伝道(使26:24)を見て彼を狂的なりと非難していたのであろう。また中にはこれに反対してパウロは心(たし)かであると云う人々もあったのであろう。パウロのこの非難や批評の当否如何を論ぜず、コリントの信徒はパウロの伝道につき誇る事ができる。何となればもしパウロが心狂える如くであるならば、それは神に対する関係において神の愛に酔うたからであって、神の救いにつきまたパウロの聖職に関するものであり、もしパウロの心健全なるが如くであるならばそれはコリントの信者に伝道して彼らを躓かせない為である。「この第一の点をば15-21節にこれを述べ、第二の点は6:1−10にこれを述べている。」(B1)
辞解
[心狂う] エクステーナイekstênai(ekstasisの状態に入る事)は常軌を逸する事、熱狂する事、心が常態を逸して法悦の状態に陥る事等に用う、ここでは主としてパウロの信仰と伝道に関する意味である。

5章14節 キリストの(あい)われらに(せま)れ(ばな)り。[引照]

口語訳なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
塚本訳なぜというか。キリストの愛がわたし達を駆り立てるからである。わたし達はこう考える、──ただの一人の人(キリスト)がすべての人の身代りに死なれた、従ってすべての人は(キリストと一緒に一度)死んだのである、
前田訳それはキリストの愛がわれらに迫っているからです。われらはひとりの人がすべての人に代わって死んだと考えます。それで、すべての人が死んだのです。
新共同なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。
NIVFor Christ's love compels us, because we are convinced that one died for all, and therefore all died.
註解: 我らを引締めて統御する処のものは我らに対するキリストの愛である。我らの行動は凡てにおいてキリストの愛によりて制御せられている。
辞解
[迫れり] スンエカインsunecheinは「ある範囲の中に制限する」(M0)、「包括する」「強制する」「決定掣肘(せいちゅう)する」(Z0)等種々の意味を()つ語

(われ)(おも)ふに、一人(ひとり)すべての(ひと)(かわ)りて()にたれば、(すべ)ての(ひと)すでに()にたるなり。

註解: 「我ら思うに」直訳「次の事を思いて(我らキリストの愛に統御せらる)」であって次節と共に前文の理由の説明である。すなわちキリストは己を罪人なる全人類と合一し、キリスト一人が万人の身代りとなりて十字架上に死に給うた以上、全人類は、その罪の審判を受けて神の前に死んだものと認められるのである。(唯信者は信仰によりて、キリストと共に十字架に()けられし事を知りて自己の肉の生涯の死を経験し、ガラ2:19コロ2:12コロ3:3ロマ6:4。不信者はこのキリストの愛を知らずして、相変わらず肉の生涯を送る事により更に反逆の罪を犯している)

5章15節 その(すべ)ての(ひと)(かわ)りて()(たま)ひしは、()ける(ひと)最早(もはや)おのれの(ため)()きず、(おのれ)(かわ)()にて(よみが)へり(たま)ひし(もの)のために、()きん(ため)なり。[引照]

口語訳そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
塚本訳そして彼がすべての人の身代りに死なれたのは、(彼と一緒に死んで新しい命にいま)生きている者たちが、もはや自分のために生きず、身代りに死んで復活された方のために生きるようにというのである。
前田訳そして彼がすべての人に代わって死にたもうたのは、生きるものが、自らのためでなく、彼らに代わって死んでよみがえりたもうたもののために生きるためです。
新共同その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
NIVAnd he died for all, that those who live should no longer live for themselves but for him who died for them and was raised again.
註解: (▲贖罪の真理を簡単明瞭に表顕した場合の一つであって、キリストの代贖の死の意義を明かにしている。)キリスト万人に代りて死に給いし事によりて全人類は死んだものである。而してこの死に給えるキリストは不死の神的生命に更生(うまれかわ)り給うた。而して死せる全人類が再びキリストの復活の生命に連なりて新なる生命を得、キリストに在りて活きん事を望み給う。かかる者は己のために活きず己に代りて死にて復活し給いし、キリストのために生きる者である(ガラ2:20ロマ6:4ロマ8:3)パウロはかかる人であった

5章16節 されば(いま)より(のち)われ(にく)によりて(ひと)()るまじ、[引照]

口語訳それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。
塚本訳だからこのわたし達は、今からのちだれをも人間的に知ろうとはしない。たとい(以前は)キリストをも人間的に知っていたにせよ、今はもはや(そのように)知りはしない。
前田訳それゆえわれらは今後だれをも肉にあって知りますまい。かつてキリストを肉にあって知っていたにせよ、今はもはや知りません。
新共同それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。
NIVSo from now on we regard no one from a worldly point of view. Though we once regarded Christ in this way, we do so no longer.
註解: キリスト凡ての人に代りて肉において死に給いし以上、今後は人をその肉の方面から観察する事をやめよう、すなわち人の身分、財産、知識、学問は勿論その人の罪、弱点等の古き人の状態をも無視し、これ等は皆キリストと共に死して無きものであると考えよう、かく云いてパウロは暗にパウロをその肉的関係において審判く者を非難している

(かつ)(にく)によりてキリストを()りしが、(いま)より(のち)()くの(ごと)くに()ることをせじ。

註解: 私訳「かつて肉によりてキリストを知りしが今は最早斯く彼を知るにあらず」。かつてパウロの回心せざりし頃はキリストを普通の人間と考え、彼をその肉の方面より見ていた、故に彼をユダヤ教の敵と考え有限なる一人間として取扱いその弟子を迫害したのである。然るにキリスト我ら凡ての為に死に給い、また我らのために甦り給いし事を知れる今は最早肉によりて彼を知る事をせず、霊によりて彼を知り、彼は全く新しき人として我らの前に立ち給う

5章17節 (それ(ゆえ)に)(ひと)もしキリストに()らば(あらた)(つく)られたる(もの)なり、(ふる)きは(すで)()()り、()よ、(あたら)しくなりたり。[引照]

口語訳だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
塚本訳だから、キリストと結びついている者は、新しい創造物である。古いものは消え失せて、いまここに、新しくなってしまっている!
前田訳それゆえ、キリストにあるものは新しい創造です。古いものは過ぎ去り、今や新しいものができたのです。
新共同だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
NIVTherefore, if anyone is in Christ, he is a new creation; the old has gone, the new has come!
註解: キリストを肉によりて知らず、霊によりて彼を知り彼との霊交の中に生くる人は全く新たなる生命を()っているのあって、新に神に創造せられし人である(引照及び、テト3:5ヤコ1:18)故にその生活の目的も、その態度も、その思想もその観察点もこれ迄の自己中心にして肉的であったのが、一変してキリスト中心で霊的となり古きは失せて全く新しくなってしまっている。パウロ自身は殊にこの事を身を以って証明し、古きを全く除く事ができない反対者の非難を一蹴している▲基督者は神により新に創造された人間である。旧き人間の進歩、発達、改良されたものではなく、新しい生命がその中に創造されたのである。パウロはこの事実に対して驚きの目を見張っているのである。

5章18節 これらの(こと)はみな(かみ)より()づ、(かみ)はキリストによりて(われ)らを(おのれ)(やわら)がしめ、[引照]

口語訳しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。
塚本訳しかしこれらすべてのことは神から(の恩恵)である。神はキリストによってわたし達(人類)を御自分と和睦させ、わたし達(使徒)にこの和睦の(福音を伝える)役目をお与えになった。
前田訳すべては神からで、神はキリストによってわれらを自らと和解させ、われに和解のつとめをお与えです。
新共同これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。
NIVAll this is from God, who reconciled us to himself through Christ and gave us the ministry of reconciliation:
註解: 凡てが新しくなったのは神の力、神の賜物であり神より出でしものであるエペ2:8−10。この神は、罪のために神に背き神に敵対していた我らをキリストの贖いによりて己と平和の状態に入らしめ、我らと神との間にキリストを立て給いて我らの罪をキリストの上に罰し給いし事によりて、我ら神の前に平和の心を以って立つ事ができる様になし給うた。これ全く新なる福音である。
辞解
[和らぎ] 罪のために不和、分離の状態に陥った神人の関係を、キリストの死による神の愛の為に、人の罪を赦して平和の状態に入る事を云う。ロマ3:25−28

かつ(やわら)がしむる(つとめ)(われ)らに(さづ)(たま)へり。

註解: この福音を宣伝うる事によりて、神に反ける古き人を新しき人として神と和らがしむる使徒の職を我らに授け給うた。故にその言う処もまた自ら全く新であって人の目には心狂えるものの如くに見ゆるのである

5章19節 (すなは)(かみ)はキリストに()りて()(おのれ)(やわら)がしめ、その(つみ)(これ)()はせず、かつ(やわら)がしむる(ことば)(われ)らに(ゆだ)(たま)へり。[引照]

口語訳すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。
塚本訳すなわち神はキリスト(の死)において、この世を御自分と和睦させて、(世の)人々の過ちを彼らの勘定につけず、わたし達に和睦を告げる御言葉を賜わったのである。
前田訳キリストにあって世を自らと和解させた方は神です。神は人間たちの過ちを彼らに負わせず、和解のことばをわれらにおゆだねです。
新共同つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。
NIVthat God was reconciling the world to himself in Christ, not counting men's sins against them. And he has committed to us the message of reconciliation.
註解: キリストすでに世の罪を負いて十字架に()き給える以上、神はキリストの贖の故にただに我らのみならず、凡ての人との間の離反の関係を除き、凡ての罪を赦して世と神との間に平和を来し給うた(エペ2:14−17)。而して世の罪をばこれを世の罪として数えず、これをキリストに負わしめ給い、而してこのキリストによる神と人との平和の大事実をばそのまま隠し置き給わずに、その言を我らに委ねて我らをしてこれを宣伝えしめ給うた。職と言とを我らに与うる事によりて、資格と実力とを具備せしめ給うたのである

5章20節 されば我等(われら)はキリストの使者(つかひ)たり、(あたか)(かみ)我等(われら)によりて(なんぢ)らを(すす)(たま)ふがごとし。[引照]

口語訳神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。
塚本訳だから、キリストの(この御業の)ためにわたし達は使者として働いている、神(御自身)がわたし達(の口)をもってお勧めになるのである。キリストの名によって願う、神と和睦せよ。
前田訳それで、キリストのためわれらは使者をつとめています。神がわれらによってお勧めのとおりにしているのです。キリストのためお願いしますが、神と和解してください。
新共同ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。
NIVWe are therefore Christ's ambassadors, as though God were making his appeal through us. We implore you on Christ's behalf: Be reconciled to God.
註解: 「我らは和らがしむる言を委ねられしキリストの代理大使の如きものである。これ(あたか)も神がキリストの代りに我らによりて汝らを勧め給う如きものである」(Uコリ5:11参照)。その勧めの内容は次に述ぶる願である。
辞解
[キリストの使者] 原語「キリストに代る大使」

我等(われら)キリストに(かわ)りて(ねが)ふ、なんぢら(かみ)(やわら)げ。

註解: キリストの完成し給える和らぎの御業を信仰によりて己のものとなし、これによりて神と和らがん事をパウロは使徒的謙遜と責任感とを以って、コリントの信徒に嘆願している。蓋し神がその愛を以って切に望み給う事柄は、人々が神と和らぐ事に外ならぬ、この神の切望を虚しくするものは人々の不信である、この不信を神は深く悲しみ給う、神と人との平和、これが神に取っても人に取っても最大の問題であり最も根本的の事柄である。これがキリストをこの世に送り給える御目的であった。神と和らがずして人類の企つる凡ての文化、科学、道徳、宗教は無意味である

5章21節 [(かみ)は](つみ)()(たま)はざりし(もの)(われ)らの(かわり)(つみ)となし(たま)へり、これ(われ)らが(かれ)()りて(かみ)()となるを()んためなり。[引照]

口語訳神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。
塚本訳神は罪を知らなかった方をわたし達の身代りに(十字架につけて)罪に定められた。わたし達がこの方において神の義(をいただく者)となるためである。
前田訳神は罪を知らない方をわれらのために罪になさいました。それはわれらが彼にあって神の義となるためです。
新共同罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
NIVGod made him who had no sin to be sin for us, so that in him we might become the righteousness of God.
註解: キリストの中には全く罪が無かったがために、自己の経験としては全く罪を知り給わなかった。これキリストの神の子に在し給う証拠の一つであり、且つ万人に代りて罪の贖を成就するに必要な条件であった。このイエスを神は我ら罪人の代りに「罪となし」、罪そのものとして取扱い十字架上に彼を罰し給うた。その目的は我ら罪人が信仰によりて「キリストに在る」時(ロマ8:1)、神は我らの凡ての罪を赦し給いて、我らに神の義を賜い(ロマ3:22)、かくして神との間の隔ての中垣が取り去られ、神との間に平和が成就せんが為であった(エペ2:14、15)。すなわち前節において神と和がん事をコリントの信徒に願った理由は、神がイエス・キリストを我らに賜い、彼を十字架上に()けたまいし目的が其処にあったからである。斯くの如く21節は20節の説明として挿入せられしものであって、この簡単なる一節の中にロマ3-4章の中心真理が包まれている故、その註解を参照する事が必要である。
要義 [新生命とその住むべき世界]パウロは見ゆる者を顧みずして見えざるものを顧み、幕屋なる地上の家すなわちその体は不死に呑まれん事を望み、また死して主と共に在らん事を望んでいた。それ故に彼の住んでいる世界は最早この世における肉の世界ではなく、キリストの十字架により、神と人との間の平和が恢復せられし霊の国であった。彼は凡ての人々をこの国より眺め、凡ての人をその立場より判断した。故に肉につける凡ての誇りはこの国においては無価値であり、肉につける凡ての恥はこの国において榮の中に呑まれていた。故に彼は肉によりてキリストをも人をも知るの必要なき事を力説し、凡ての人をこの神との和らぎの世界に引入れんとしたのである。これが凡ての実際問題の困難に打勝つ唯一の途であり、またこれによりてパウロを非難せる偽使徒らの凡ての誇りを一蹴する事ができた。

第2コリント第6章
3-5-チ キリストの使徒の心掛 6:1 - 6:10

6章1節 (われ)らは[(かみ)と]ともに(はたら)(もの)なれば、(かみ)恩惠(めぐみ)(なんぢ)らが(いたづ)らに()けざらんことを(さら)(すす)む。[引照]

口語訳わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。
塚本訳それで、(この和睦の福音のために)わたし達は(神と)御一緒に働いているのであるから、なおこのことを勧める、あなた達は神のこの恩恵を受け取って(実を結ばせ)、むだにしないようにせよ。
前田訳(神の)協力者として、神の恩恵をむだに受けないようお勧めします。
新共同わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。
NIVAs God's fellow workers we urge you not to receive God's grace in vain.
註解: Uコリ5:20に神と和らぐことを先ずコリント人らにすすめ、ここに「更に」かくして神と和らぐに至れるは神の恩恵によるため、この恩恵を空費しないことを勧めている。若しこの恩恵をコリント人らが(いたずら)に受けないならば、その結果は彼らの信仰状態に表われてくるであろう。そしてこのように勧める理由は、パウロ等が「神と共に働く」ためであって神はその恩恵を与え給う以上、我らも彼の同労者として汝らにこの恩恵を(いたずら)に受けない事をすすめなければならないとの意味である。但し「神とともに働く者」と訳せられし原語には「神と」なる文字がない、従って或は「キリストと」(M0)或は「汝らと」(B1、Z0)を補充することができる。最後の説が最も適当であると思われる。その理由はUコリ3:1以下にパウロはその使徒の職について述べつつあり、神との同労者なる観念よりも神の役者(Uコリ3:6Uコリ4:1Uコリ5:18、19。Uコリ6:4)なる観念が支配していて、且つUコリ6:3-10節においてパウロはこの恩恵が自己の上に働きて如何なる果を結んだかを述べ、その同労者たるコリント人らも、パウロの如くならんことを勧めているものと見るべきがためである

6章2節 (かみ)いひ(たま)ふ『われ(めぐみ)(とき)(なんぢ)()き、(すくひ)()(なんぢ)(たす)けたり』と。[引照]

口語訳神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。
塚本訳“恵みの時にわたしはあなたの願いを聞きとどけ、救いの日にわたしはあなたを助けた。”と神は仰せられるではないか。見よ、今や“大いなる恵みの時”、見よ今や“救いの日”!
前田訳神はいわれます、「わたしはよい時にあなたの願いをかなえ、救いの日にあなたを助けた」と。じつに今こそ恵みの時、今こそ救いの日です。
新共同なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
NIVFor he says, "In the time of my favor I heard you, and in the day of salvation I helped you." I tell you, now is the time of God's favor, now is the day of salvation.
註解: この聖句(引照1)によりて示される如く、キリストの十字架の贖罪が完成して神との和らぎが成就してより、キリストの再臨(それは間もなく来るべきものとパウロは信じた)迄の間は、神が我らの祈りをききて我らを助け給う時期であって、恵の時、救いの日である。この時期が終れば我ら主の審判の座に立たなければならない。
辞解
[恵の時] 原語は「神の御旨にかないて受納れられる時」を意味する

()よ、(いま)(めぐみ)のとき、()よ、(いま)(すくひ)()なり)

註解: 今こそこの大切な時期であるから早く神の恩恵を(いたずら)にせざる決心が必要である。この機会を逸して、悔いない様にしなければならぬ(マタ25:11−13)。
辞解
[恵の時] 前節の「恵」とは異なれる文字を用い一層意味を強めている

6章3節 我等(われら)この(つとめ)(そし)られぬ(ため)何事(なにごと)にも((けっ)して)(ひと)(つまづ)かせず。[引照]

口語訳この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、
塚本訳わたし達は(神に託された)この役目が嘲けられないように、何事にも何一つ躓きを与えていない。
前田訳このつとめがそしられないために、われらは何につけてもだれにも反発させないようにし、
新共同わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、
NIVWe put no stumbling block in anyone's path, so that our ministry will not be discredited.
註解: コリントに在る偽信徒の中にパウロを(そし)るものがあったけれども、パウロは「何事にも」「決して」人を躓かせない様に努力しているのであって、この事は次の諸節に明かである。パウロは神の憐みによりて受けしその職をこれ程までも重んじ、従ってその同労者(1節)とも云うべきコリント人にも、彼の如くならん事を勧めているのである

6章4節 (かへ)つて(すべ)ての(こと)において(かみ)役者(えきしゃ)のごとく(おのれ)をあらはす、[引照]

口語訳かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、
塚本訳そればかりではなく、あらゆることによって、神に仕える世話役として自分を推薦している、すなわち、(あるいは)大いなる忍耐によって、──たとえば苦難により、艱難により、苦悩により、
前田訳何につけても神の奉仕者として自らを推薦しています。ひじょうな忍耐により、苦しみ、困窮、挫折、
新共同あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、
NIVRather, as servants of God we commend ourselves in every way: in great endurance; in troubles, hardships and distresses;
註解: 基督者はパウロの様に全てにおいてこの態度を取り、誰が見ても神に仕える者として恥かしくない様に振舞わなければならぬ。パウロは次の数節に「凡てに於いて」の内容と「神の役者」らしき態度とを説明している

(すなは)患難(なやみ)にも、窮乏(ともしき)にも、苦難(くるしみ)にも、

6章5節 ()たるるにも、(ひとや)()るにも、騷擾(さわぎ)にも、勞動(はたらき)にも、(ねむ)らぬにも、斷食(だんじき)にも、(おほい)なる忍耐(にんたい)(もち)ひ、[引照]

口語訳むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、
塚本訳打たれることにより、牢に入れられることにより、暴動をおこされることにより、労働により、徹夜により、飢餓によって──であり、
前田訳鞭打ち、入獄、暴動、労務、徹夜、飢えにより、
新共同鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、
NIVin beatings, imprisonments and riots; in hard work, sleepless nights and hunger;
註解: 忍耐は神の役者に相応わしく且つ必要である、ここに忍耐を必要とする九つの場合が挙げられ、三つずつ三種類にこれを区別する事ができる(B1)第一種の患難(4節引照2、使9:16)窮乏、苦難は一般的の場合、第二種の打擲(ちょうちゃく)(引照1。Uコリ11:23−25)、牢獄(引照1、使24:23使28:16)騒擾(引照2、使13:50使14:19使16:19)は迫害に関する場合、第三種の労働、不眠(使20:31)。断食(引照3及び4)は自己の意思により自ら苦痛を受ける場合である、この何れの場合においてもパウロは「大なる忍耐」を用いていた

6章6節 また廉潔(いさぎよき)[引照]

口語訳真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、
塚本訳(あるいは)純潔により、知識により、寛容により、親切により、聖霊により、偽らぬ愛により、
前田訳純潔、知識、寛容、親切により、聖霊と偽らぬ愛により、
新共同純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、
NIVin purity, understanding, patience and kindness; in the Holy Spirit and in sincere love;
註解: 金銭上のみならず一般に純潔なる事

知識(ちしき)

註解: 福音の奥義に通じ神の御旨に通暁(つうぎょう)していた

寛容(くわんよう)

註解: 反対者等に対して迫害を与えなかった

仁慈(なさけ)

註解: 寛容のみならず進んで親切を尽した、以上の二つとも愛の結果である(Tコリ13:4

(せい)(れい)

註解: 以下は神より出でし諸性質を揚げている。すなわち神の役者たる事を表わすには聖霊を豊かに持つ事が必要である

虚僞(いつはり)なき(あい)と、

註解: 原語「偽善ならざる愛」虚偽の愛は人の嫌忌するところとなる

6章7節 (まこと)(ことば)[引照]

口語訳真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、
塚本訳真理の言葉により、神の力によってであり、(あるいは)右と左とに持つ義の武器をもって、
前田訳真理のことば、神の力によって、右手左手の義の武器をもって、
新共同真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、
NIVin truthful speech and in the power of God; with weapons of righteousness in the right hand and in the left;
註解: 真の教理を教えた。以上は神の役者としては勿論信者一般においても守るべき諸性質である。これより進んでパウロはその使徒としての諸性質を揚げている

(かみ)能力(ちから)

註解: 神の能力は福音を伝えるパウロ等の中に働いて外に発露していた。
辞解
以上忍耐以下に列挙された九種についてパウロはenなる前置詞を用いてその状態を示し、以下の五種についてはdiaなる前置詞を用いて、その自己を表顕すべき武器を示す

左右(さいう)()ちたる()武器(ぶき)とにより、

註解: 右には攻撃左には防禦の武器を取り、神の義、キリストの義によりて悪魔の(たくみ)(こぼ)ち、律法による義を破る

6章8節 また光榮(くわうえい)恥辱(はづかしめ)と(により)[引照]

口語訳ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、
塚本訳名誉と恥辱とをもって、悪評と好評とをもってである。(あるいはまた)嘘つきと言われながら、真実な者として、
前田訳名誉と恥辱を受け、悪評と好評を受けながら、そうしています。われらは、偽るもののようで真実であり、
新共同栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、
NIVthrough glory and dishonor, bad report and good report; genuine, yet regarded as impostors;
註解: パウロ等は基督者としての光栄を()ち、且つその上に使徒としての光栄を()っていた、しかし同時に使徒は「御名のために辱められる」ものであって(使5:41)、かかる恥辱は、同時に神の役者として己を表示する役に立つのである

惡名(あしききこえ)美名(よききこえ)とによりて[(あらは)す]。

註解: 悪名はパウロ等を知らざるものまたはこれを害せんとするものより起り、美名は彼等を理解し尊敬する者より発する。しかしこの何れも、神の役者たる事を表わすの原因となる、何となれば神に背ける者より美名を受くる事は却て神を(けが)す所以であるからである

(われ)らは(ひと)(まどは)(もの)(ごと)くなれども(まこと)

註解: イエスを神の子と唱え、律法の不要を説く等一見人民を惑わすものの如くに見える(イエスすら惑わす者と目せられ給うた、ルカ23:2ルカ23:14)しかし最も真であって一点の虚偽もない。基督者は今もなお斯くの如くである

6章9節 (ひと)()られぬ(もの)(ごと)くなれども(ひと)()られ、[引照]

口語訳人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、
塚本訳(世間では)無名人でありながら、(神の前では)有名人として、“死にかけてい”ながら、いまここに“わたし達は生きている!”“そしてまた(神に)こらしめられるが、殺されない者”として、
前田訳名もないようで知られており、死にかけたようで、このとおり生きており、こらしめられているようで殺されず、
新共同人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、
NIVknown, yet regarded as unknown; dying, and yet we live on; beaten, and yet not killed;
註解: 基督者は所謂(いわゆる)知名の士ではないけれども、思いがけなきところに知己(ちき)を持ち、また人からは誤解され易いけれど、また往々にして心の奥底より理解してくれる人がある

()なんとする(もの)(ごと)くなれども、()よ、()ける(もの)

註解: パウロ等に対する激しき迫害を見て、人は彼がまさに死なんとしつつあるものの如くに思ったけれども、驚くべき事には彼らはなお生きていた。Uコリ4:7−12。Uコリ11:23−25はこの節のよき註釈である

(こら)さるる(もの)(ごと)くなれども(ころ)されず、

註解: 詩118:18。パウロが敵のために種々の困難に逢ったのは(Uコリ11:26)神より懲しめを受けているが如くであるけれども、殺される迄に至らないのは、神の保護の下にある事を証明している

6章10節 (うれ)ふる(もの)(ごと)くなれども(つね)(よろこ)び、[引照]

口語訳悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。
塚本訳悲しんでいるが、しかしいつでも喜んでいる者として、貧乏であるが、しかし多くの人を金持にする者として、何一つ持たないで、何もかも持っている者としてである。
前田訳悲しんでいるようでつねによろこんでおり、貧しいようで多くの人を富ませ、何も持たぬようですべてを持っています。
新共同悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
NIVsorrowful, yet always rejoicing; poor, yet making many rich; having nothing, and yet possessing everything.
註解: パウロ等は種々の憂慮を()っていた(Uコリ11:27―29)。それにも関わらず常に喜んでいた。患難をも喜び(ロマ5:3)、聖霊の喜びを()ち(ロマ14:17)牢獄の中にあっても常に喜悦に溢れていた(ピリ緒論を見よ)

(まづ)しき(もの)(ごと)くなれども(おほ)くの(ひと)()ませ、

註解: 物質的に貧しくとも霊の富を多くの人に(わか)つことができた

(なに)()たぬ(もの)(ごと)くなれども(すべ)ての(もの)()てり。

註解: 無一物ではあるけれども、神はキリストと共に万物を基督者に賜うの約束を与え賜える以上、すでに凡ての物を所有したと変わる事が無い。パウロはこの心持を言表しているのである。

分類
4 コリント人に対するパウロ 6:11 - 7:16
4-1 愛と聖別とを薦む 6:11 - 7:1

6章11節 コリント(ひと)よ、(われ)らの(くち)(なんぢ)らに(むか)ひて(ひら)け、(われ)らの(こころ)(ひろ)くなれり。[引照]

口語訳コリントの人々よ。あなたがたに向かってわたしたちの口は開かれており、わたしたちの心は広くなっている。
塚本訳コリント人たちよ、(気持ちはすっかり直った。)わたし達の口はあなた達に向かって開いている。心は広くなっている。
前田訳コリントの方々、あなた方に向かってわれらの口は開き、われらの心は広くなっています。
新共同コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。
NIVWe have spoken freely to you, Corinthians, and opened wide our hearts to you.
註解: 本節は2:14以下の諸節の結尾である(Z0)。パウロが以上の如く自己の職務の尊さとこれを果すに就いての彼の心掛けと、コリント人に対する勧めを述ぶる際に、彼はその口を凡て開いて何等の隠し立てをせず凡ての事を皆彼らに語り、また彼の心はコリント人に対する愛によりて広く開け、彼らとの霊の交りが密であった。この心を以ってパウロはこれまでこの書簡を(したた)めてきた。而して次にコリント人がパウロを愛すべき事(12、13節)及びこの世の汚穢(けがれ)に交わるべからざる事(6:14−7:1)をすすめている

6章12節 (なんぢ)らの(せま)くせらるるは(われ)らに()るにあらず、(かへ)つて(おの)(こころ)()るなり。[引照]

口語訳あなたがたは、わたしたちに心をせばめられていたのではなく、自分で心をせばめていたのだ。
塚本訳わたし達の(心の)中であなた達はすこしも狭苦しい扱いを受けてはいない。あなた達が狭苦しい扱いを受けているのは、自分の心の中でのことだ。
前田訳あなた方はわれらによって束縛されたのでなく、自らの心によって束縛されたのです。
新共同わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。
NIVWe are not withholding our affection from you, but you are withholding yours from us.
註解: コリントの信者の中には或はパウロが彼等を愛する事が足らないとか、またはパウロが、彼らの自由を束縛するが如くに思っている人があったのであろう、また偽教師の言に動かされてパウロに対する愛心が冷却した人もあったのであろう、これはパウロの責任ではなく、パウロを誤解し、パウロを理解しなかったコリント信者の心に()るのである

6章13節 (なんぢ)らも(こころ)(ひろ)くして(われ)(むくい)をせよ。((われ)わが()(たい)する(ごと)()ふなり)[引照]

口語訳わたしは子供たちに対するように言うが、どうかあなたがたの方でも心を広くして、わたしに応じてほしい。
塚本訳だからお返しに──(自分の)子供に物言うように言うが──あなた達も広くなりなさい!
前田訳わが子へのようにいいますが、あなた方の方でも心を広くして、われらへの相応の報いをなさい。
新共同子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。
NIVAs a fair exchange--I speak as to my children--open wide your hearts also.
註解: パウロは、親が子に対して孝を要求すると同じくコリント人に対して愛を以って、その心を開かん事を要求している。パウロの愛に対してコリント人らが愛を以って報いなかった事は大なる悲劇であった。これがパウロの熱情溢れる書簡となってあらわれし原因であった

6章14節 ()信者(しんじゃ)(くびき)(おな)じうすな、[釣合(つりあ)はぬなり、][引照]

口語訳不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
塚本訳不信者と一緒に不似合いな軛を負うようになってはいけない。なぜというか。義と不法とはなんの共同関係があろう。また光は暗闇に対しなんの共通性があろう。
前田訳不信者とちぐはぐな軛(くびき)を共になさるな。正義と不法とに何の係わりがありますか。光と闇とに何の交わりがありますか。
新共同あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。
NIVDo not be yoked together with unbelievers. For what do righteousness and wickedness have in common? Or what fellowship can light have with darkness?
註解: 異教徒は勿論の事、また真の信仰を()たない名義上の基督者と、同じ束縛を受け同じ義務を負う如き事業や地位や身分に自己を置いてはならない。パウロは申22:10「汝牛と驢馬とを(あわ)せて耕すことを為すべからず」を念頭に浮べ、一つのくびきを二匹の異種の動物に負わしめし場合の不便を以って、信者不信者の共同事業の不便を示したのである。蓋し信者と不信者とはその行かんとする目的地を異にし、その活動の動機を異にしているからである。コリントの市は俗化の力が強かったので、殊に信者をこの点において警戒するの必要があった。
辞解
[釣合わぬなり] 原語になし

()不義(ふぎ)(なに)干與(あづかり)かあらん、

註解: 以下五つの質問を以ってパウロは基督者と不信者との間の差異を明かにし、この二者が共同一致し得ざる所以を明かにしている。第一に基督者は(ただ)しき者である、神との(ただ)しき関係に立ち義を行って行く者である。不信者は神との間に(ただ)しき関係を()たず、罪にある生活を当然の事と考えている。故に義と不義とは相反するところの両極端であって一致する事ができない。
辞解
[干與(あづかり)] 同僚となる事を意味す

(ひかり)(くらき)(なに)交際(まじはり)かあらん。

註解: 光は(やみ)の反対である。基督者は光であって、(やみ)と妥協して行く事ができない。(やみ)の中に居る者はまた光を(にく)んでこれを避ける(ヨハ3:20)故にこの二者の間に交際(まじわり)一致が有り得ない。
辞解
[交際(まじはり)] Tコリ10:16註及びTヨハ1:3Tヨハ1:6、7を見よ

6章15節 キリストとベリアルと(なに)調和(てうわ)かあらん、[引照]

口語訳キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
塚本訳キリストがベリアルに対してなんの調和があろう、また信者は不信者となんの共同があろう。
前田訳キリストとベリアルとに何の調和がありますか。また、信者と不信者とが何を共有しますか。
新共同キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。
NIVWhat harmony is there between Christ and Belial ? What does a believer have in common with an unbeliever?
註解: キリストとサタンとは共同に事を為す事ができない、キリストはサタンの業を(こぼ)たんが為に来給い(Tヨハ3:8)、サタンはまた常にキリスト及び基督者を誘惑して神より離れしめんとする(マタ4:1以下。エペ4:27エペ6:11)。キリストは生命の主に在し(Tヨハ5:12)サタンは死の権を()つもの(ヘブ2:14)である。この二者に調和はあり得ない。
辞解
[ベリアル] 邪悪の意味であったのが転じてサタンの別名の如くに用いられるに至った(申13:14士19:22士20:13Tサム1:16その他)。日本訳には「ベリアルの子等」を「(よこしま)なる子等」と訳している。
[調和] 同意する事

信者(しんじゃ)()信者(しんじゃ)(なに)關係(かかはり)かあらん。

註解: ここに「関係(かかわり)」と訳せられし語は「分け前」の意味であって、一物を互に分ち合う事を意味する。すなわち親密なる関係、共同関係等の意である。信者は「天の嗣業(しぎょう)の分け前に与るもの」(コロ1:12)であり、不信者は「悪魔とその使たちの為に備えられたる永久の火」(マタ25:41)に与るべきである故に同一物の分け前に与る事ができない

6章16節 (かみ)(みや)偶像(ぐうざう)(なに)一致(いっち)かあらん、(われ)らは()ける(かみ)(みや)なり、[引照]

口語訳神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。
塚本訳神の宮が偶像となんの一致があろう。わたし達はたしかに生ける神の宮である。神がこう仰せられた。──“わたしは彼らの間に住みまた歩むであろう、わたしは彼らの神になり、彼らはわたしの民になる”
前田訳神の宮と偶像と何の一致がありますか。われらは生ける神の宮です。神が言いたもうとおりです−−「『わたしは彼らの間に住み、また歩もう。そして彼らの神となり、彼らはわが民となろう。
新共同神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。
NIVWhat agreement is there between the temple of God and idols? For we are the temple of the living God. As God has said: "I will live with them and walk among them, and I will be their God, and they will be my people."
註解: 神の宮に偶像を安置する事が出来ないと同様に、活ける神(死せる偶像にあらず)の宮たる我ら基督者の心の中に偶像を共に鎮座せしむる事が出来ない。
辞解
[一致] 原語は「共に坐する」事

(すなは)(かみ)()(たま)ひしが(ごと)し。(いは)く『われ(かれ)らの(うち)()み、また(あゆ)まん。(われ)かれらの(かみ)となり、(かれ)()わが(たみ)とならん』と。

註解: レビ26:11、12の七十人訳、或はエレ31:33の引用であって、神の霊が基督者全体を宮としてその心に内住し給い神と人との霊交が極めて密接となり、神が聖霊として我らの中に生きまた動き給う事を意味する、信者の状態は斯くの如きものでなければならない

6章17節 この(ゆゑ)に『(しゅ)いひ(たま)ふ、「(なんぢ)()かれらの(うち)より()で、(これ)(はな)れ、(けが)れたる(もの)()るなかれ」と。[引照]

口語訳だから、「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
塚本訳それゆえに、“あなた達は彼らの中から出よそして離れよ、”と主は仰せられる、そして“清くないものに触れるな”と。“そうすればわたしはあなた達を受け入れる、”
前田訳それゆえ彼らの中から出よ、彼らを離れよ』と主はいいたもう。『汚れたものにさわるな。そうすればわたしはあなた方を受け入れ、
新共同だから、あの者どもの中から出て行き、/遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
NIV"Therefore come out from them and be separate, says the Lord. Touch no unclean thing, and I will receive you."
註解: イザ52:11を自由に変化したる引用ならん、基督者はこの世より選び出されし者である(ヨハ15:19)。故に(あたか)もイスラエルが異邦人を穢れしものと見てこれと交る事を好まなかったと同じく、基督者は不信者と行動を共にする事によりて神の宮を穢してはならない。故に彼らの中より出で、彼らを離れなければならぬ。但しこれは霊的の意味であって隠遁生活を送るべしとの意味では無い。Tコリ5:10を見よ

「さらば(われ)なんぢらを()け、

6章18節 われ(なんぢ)らの(ちち)となり、(なんぢ)()わが息子(むすこ)むすめとならん」と、全能(ぜんのう)(しゅ)いひ(たま)ふ』とあるなり。[引照]

口語訳そしてわたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。
塚本訳“わたしは”あなた達の“父になり、”あなた達は“わたし達の息子”娘“に”なる、“と全能者である主が仰せられる。”
前田訳あなた方の父となり、あなた方はわが息子、娘となろう』と、全能の主がのたもう」と。
新共同父となり、/あなたがたはわたしの息子、娘となる。』/全能の主はこう仰せられる。」
NIV"I will be a Father to you, and you will be my sons and daughters, says the Lord Almighty."
註解: 16節よりも一層密なる関係を示している。すなわち不信者の中より出て来たりし信者は神の受くるところとなり、神との間に父子の親密なる関係が成立つのである。若し信者が不信者とくびきを同じうしてその中に交わり、その穢れに染むならば、神との間にこの父子の密なる関係が成立つ事ができない。かくして神の恩恵を(いたずら)に受ける事となるのである(1節)。なお7:1は本節の継続であって6:14以下の結尾である。
辞解
本節はUサム7:14を少しく変化せる引用である。
要義 [基督者と不信者との関係]基督者はこの世より選び出されしものであり、世を離れたものである。しかしながら彼らはなお旅人の如くにこの世に寄寓しているのである(ヘブ11:13)。故にこの世の中に歩みつつもその歩みの原則は天につけるものでなければならない。また世の人と全く交わらない事はできない(Tコリ5:10)。しかし交わっても彼らと同じ(くびき)の下に束縛せられてはならない。斯くの如く基督者はこの世より見るならば一種特別の存在であって、多くの点において彼らには不可解である(8−10節の如きその例である)。故に彼らに理解せられんとして却って彼らと(くびき)を共にするの過ちに陥り易いのである。基督者の不信者に対する態度は、彼らと(くびき)を共にせずして、彼等の為に十字架を負い給えるキリストと(くびき)を共にする事(マタ11:29、30)である。
而してパウロの生涯(4−10節)を見るも、またパウロがコリントの信者に要求せる事柄より見るも(14−18節)、基督者の生活と世の人の生活との間に非常なる差異の存する事を見る事ができ、この差異が消滅するならば基督者は神の恩恵を空しく受けた事となるのである。