第2ヨハネ書第1章
1-1 冒頭の挨拶 1:1 - 1:3
1章1節
口語訳 | 長老のわたしから、真実に愛している選ばれた婦人とその子たちへ。あなたがたを愛しているのは、わたしだけではなく、真理を知っている者はみなそうである。 |
塚本訳 | 長老(ヨハネ)から、(神に)選ばれた貴女[集会]と、その子供(たる信者)たちへ(手紙をおくる)。わたしは真理を以てあなた達を愛している──わたしばかりでなく、真理を知っている者はみなあなた達を愛している。── |
前田訳 | 長老のわたしから、真に愛する選ばれた 婦人とその子らへ。愛するのはわたしだけでなく、真理を知るすべてのものです。 |
新共同 | 長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。 |
NIV | The elder, To the chosen lady and her children, whom I love in the truth--and not I only, but also all who know the truth-- |
註解: 1−3節はこの書簡の前置である。「長老」は使徒ヨハネが自己の老年とその使徒たる身分とを示すために用いし名称。「選ばれたる婦人」は「教会」というに同じ、すなわち全教会の何れにも適用せられ得る称呼である。従って「其の子供ら」は信徒を指す、すなわち本書簡はある教会に宛てられたものでありこれと同時に、その信徒の各人にも宛てられしものである(なお緒言参照)。
辞解
[長老] 使徒ヨハネと解せずしてパピアスのいわゆる「長老ヨハネ」なる別人と解する説あれど有力ではない。
[選ばれたる婦人] この呼称はこれを人名と見て(1)選ばれたるキユリア(B1、A1、E0)、または(2)貴婦人エクレクタと読み、かかる人が実在せりと解する説あり、または(3)「選ばれたる貴婦人」と読む説あれど、全書簡の内容の個人的ならざることおよび13節より見てこれを「教会」の信仰的称呼と解するを可とす(M0、H0、P0)。
われ
註解: ヨハネおよび他の凡ての真のキリスト者はみな各教会を愛していることを示す。
辞解
[眞をもて] 「キリストに在りて」と言うに同じ、ヨハネにおいてはキリストはすなわち真理であってこの間に区別がない。従って「真理を知りたる者」も同様理論的抽象的真理を指さず、イエス・キリストと彼において現わされし真理を指す、一教会に対する他教会の美わしき愛を示す。
1章2節 これは
口語訳 | それは、わたしたちのうちにあり、また永遠に共にあるべき真理によるのである。 |
塚本訳 | わたし達の中にいつも留まっており、また永遠にわたし達と共にあるであろう、この真理のゆえに。 |
前田訳 | それはわれらのうちにとどまり、とこしえにわれらとともにあろう真理によるものです。 |
新共同 | それは、いつもわたしたちの内にある真理によることで、真理は永遠にわたしたちと共にあります。 |
NIV | because of the truth, which lives in us and will be with us forever: |
註解: 私訳「これ我らの衷 に止る真理の故なり、そしてこの真理は永遠に我らと偕 にあらん」。教会相互およびその信徒相互の愛はその衷 に止りて(menô)離れることなき真理のためであって、キリスト我らの衷衷 止り、その真理が我らの心を支配する場合我らの心は相互の愛に燃えざるを得ない。そしてこの真理は我らの衷 に止るのみならず、また我らと偕 に永遠に存在するのであって(マタ28:20)、真理そのものに在し給うキリストが我らと共に在し給う以上真理が我らを離れることはない。
1章3節
口語訳 | 父なる神および父の御子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安とが、真理と愛のうちにあって、わたしたちと共にあるように。 |
塚本訳 | 神なる父から、また父の御子イエス・キリストから、恩恵と憐れみと平安とが、真理と愛とにおいて、私達と共にあらんことを! |
前田訳 | 恵みとあわれみと平和がわれらとともにあるでしょう。それらは父なる神と父のみ子イエス・キリストから真理と愛のうちに来るものです。 |
新共同 | 父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。 |
NIV | Grace, mercy and peace from God the Father and from Jesus Christ, the Father's Son, will be with us in truth and love. |
註解: 書簡文に普通の挨拶様式である(ロマ1:1−7。各1:1。Tテモ1:2。Uテモ1:2。Tコリ1:1−3等)。「恩恵と平安」は神およびキリストより賜るキリスト者への賜物であり、「真実と愛」とは神およびキリストの属性であると同様(Tコリ1:9。ヨハ1:14、ヨハ1:17)またキリスト者の属性でなければならぬ。「真実と愛との中にて」は、その「中に在りて」の意味で、この二者を離れたならばキリスト者はもはやキリスト者ではない。従って、恩恵と平安は彼らと共にいることができない。真実なく愛なくして神の恩恵と平安とを受け得ると思惟するものは神の賜物の窃盗者である。
1章4節 われ
口語訳 | あなたの子供たちのうちで、わたしたちが父から受けた戒めどおりに、真理のうちを歩いている者があるのを見て、わたしは非常に喜んでいる。 |
塚本訳 | わたしはあなたの子供たちの中に、わたし達が父から受けた掟どおりに、真理において歩いている者があるのを見て非常に喜んだ。 |
前田訳 | たいへんよろこびましたのは、お子さん方のうちに、全くわれらが父から受けたいましめのとおりに、真理に歩む人々を見たことです。 |
新共同 | あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。 |
NIV | It has given me great joy to find some of your children walking in the truth, just as the Father commanded us. |
註解: 「汝の子供」は教会の信徒たちであり、ヨハネは何らかの機会にその中のある者が真理に循 いて歩んでいるのを見た。これがヨハネにとりて最大の喜びであったことを彼らに洩らしているのである。他の者が真理に背いているとの意味ではない。奸悪 なる世において真理に循 いて人生の行路を辿ることは決して容易ではない。しかもこれは「我ら」が凡て神より受けし誡命 であり、当然遵守すべきものである。
辞解
本節の語調より見るもこの書簡が家庭に宛てられたものではないと見る方が適当である。
1章5節
口語訳 | 婦人よ。ここにお願いしたいことがある。それは、新しい戒めを書くわけではなく、初めから持っていた戒めなのであるが、わたしたちは、みんな互に愛し合おうではないか。 |
塚本訳 | 貴女よ、それで今、あなたに願う──これは新しい掟をあなたに書くのではない、(イエスが来られた)始めから、わたし達がもっているのであるが──互に愛しようではないか。 |
前田訳 | そこで今おねがいします。お書きするのは新しいいましめでなく、初めからわれらが持っているものですが、互いに愛しましょうということです。 |
新共同 | さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。 |
NIV | And now, dear lady, I am not writing you a new command but one we have had from the beginning. I ask that we love one another. |
註解: 真理に歩むことが緊要であることは勿論であるが、もし愛に欠ける処あるならば禍である。ヨハネはこの点を本書簡の読者に懇願し、そして「我らが」と言いてその相互の愛の中にヨハネたち自身をも包含せしめている。キリスト者同志が相互に愛することの必要は、いかにこれを強調しても強調し過ぎることがない。この誡命 (Tヨハ3:23)は彼らが初めより有てる誡命 であることにつきてはTヨハ2:7−8註参照。
辞解
[願ふ] 「薦める」以上であって切に願う心持を示す。問題の重大性とヨハネの愛心とをあらわす。
1章6節
口語訳 | 父の戒めどおりに歩くことが、すなわち、愛であり、あなたがたが初めから聞いてきたとおりに愛のうちを歩くことが、すなわち、戒めなのである。 |
塚本訳 | わたし達が神の掟に従って歩くこと、それが愛である。あなた達が始めから聞いたように、愛において歩くこと、それが掟である。 |
前田訳 | 愛とはわれらがいましめに従って歩むことです。いましめとは、初めからお聞きのように愛のうちに歩むことです。 |
新共同 | 愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。 |
NIV | And this is love: that we walk in obedience to his commands. As you have heard from the beginning, his command is that you walk in love. |
註解: 父なる神の最も切に望み給うことはその子らが互に相愛することである。そしてこの愛は単に人情的愛ではなく、神の御旨を実行することにおける兄弟相互の一致でなければならない。キリスト者が凡て神の誡命 に心を向けるならば、各々が神の誡命 を守ることは他の兄弟の歓びであり、これによりて兄弟の愛が最も完全に実現するわけである。それ故に「誡命 に循 って歩むことが愛である」。また神は我らが互に相愛することを最も望み給いこれを命じ給うが故に「愛に歩むことがすなわち誡命 である」こととなる。ゆえにこの「誡命 」を「互に相愛すべし」なる誡命 のみに限らずともこの言は真理であるけれどもヨハネは主としてこの根本的の誡命 を眼中に置いていることは前後の関係より明らかである。
1章7節
口語訳 | なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。 |
塚本訳 | というのは、イエス・キリストが肉体で来られたことを告白しない誘惑者が、多く(この)世に出てきたのである。これが誘惑者であり、また(最後の日に現われるかの)反キリストである。 |
前田訳 | 多くのだまし屋が世に出ました。彼らはイエス・キリストが肉体で来られたと告白しません。それはだまし屋で、反キリストです。 |
新共同 | このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。 |
NIV | Many deceivers, who do not acknowledge Jesus Christ as coming in the flesh, have gone out into the world. Any such person is the deceiver and the antichrist. |
註解: 「肉体にて来り給いしイエス・キリストを告白するもの」(私訳)および「非キリスト」の意義につきてはTヨハ2:18−24。Tヨハ4:1−3註参照。原文によれば本節は前節神の誡命 に循 い互に相愛すべきことの理由として録されているけれどもその文法的関係は密接ではない。これは5、6節の懇請 は本節のごとき危険なる異端的教師または信徒が起って人を惑わすことに対する最良の防禦陣地であることを示しているに過ぎない。世に勝つ勝利の秘訣は、人間イエスを神の子と信ずる信仰である。世に勝つことを得ないものは愛に歩むことができない。当時の信徒が愛に歩み誡命 を守るがためにはこの非キリストと戦うことが最も必要であった。
1章8節 なんぢら
口語訳 | よく注意して、わたしたちの働いて得た成果を失うことがなく、豊かな報いを受けられるようにしなさい。 |
塚本訳 | 自分に気をつけて、わたし達が働いて得たものを失わず、神から満ち溢れる報いを受けるようにせよ。 |
前田訳 | われらがなしとげたことを無にせず、豊かな報いをお受けのようご注意ください。 |
新共同 | 気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。 |
NIV | Watch out that you do not lose what you have worked for, but that you may be rewarded fully. |
註解: もし非キリストのために惑わされ、その結果ヨハネらが伝道によりて植付けし信仰を破滅に帰してしまうならば、彼らはその約束せられし未来の報い(神の国における永遠の生命とその栄光)を失うに至る故彼らの惑わしには充分注意しなければならない。
辞解
[働きし] ここでは伝道の働きにつきて言っており、「所」はその結果を指す。
1章9節
口語訳 | すべてキリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者は、神を持っていないのである。その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。 |
塚本訳 | 誰でもキリストの教えに留まらず、それを越える者は、(キリストだけでなく)神をももたない。(しかし)キリストの教えに留まっている者は、父をも御子をももっている。 |
前田訳 | すべて行きすぎてキリストの教えにとどまらないものは、神を持ちません。教えにとどまるものは父をも子をも持ちます。 |
新共同 | だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。 |
NIV | Anyone who runs ahead and does not continue in the teaching of Christ does not have God; whoever continues in the teaching has both the Father and the Son. |
註解: 当時の異端者の中グノシス派のごときは自らの信ずる処をもってキリストの教え給いし処よりも以上であると主張していた。かかる者はキリストの教えを「越えゆく者」すなわち「行き過ぎ」であって神を持たない。これに反しキリストの教え給いし教えにいる者、すなわちその中に留まる者はキリストを有ち従って父をも有つの結果となる。小賢 しくキリストの教えを否定し、自らそれ以上の信仰を有つごとく主張する者はキリストを有たず、従って父をも有たない。
辞解
[キリストの教] キリストの教え給いし教えであってここではキリストを神の子として教える教え(B1)ではない。キリストは自ら神の子たることを証し給うた(マタ26:64。マタ16:17等)。
[神を有つ] 「父をも子をも有つ」(私訳)につきてはTヨハ2:23、24。
[越えゆく] 「先に進みて教師、教導者となる」意味に解する説あれど(A1)、前後の関係上不可。「越えゆく」は異端者の心持を表顕したのであって、彼らはキリストの教え以上に出ており、それよりも進んでいると信じていた。真理は絶対的なるが故にそれ以上に進むことができない。
1章10節
口語訳 | この教を持たずにあなたがたのところに来る者があれば、その人を家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない。 |
塚本訳 | あなた達の所に来る者で、この(キリストの)教えを持たない者があるなら、それを家に迎えるな。挨拶もするな。 |
前田訳 | この教えを持たずにあなた方のところに来るものは家に迎えず、あいさつもなさるな。 |
新共同 | この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。 |
NIV | If anyone comes to you and does not bring this teaching, do not take him into your house or welcome him. |
1章11節
口語訳 | そのような人にあいさつする者は、その悪い行いにあずかることになるからである。 |
塚本訳 | 挨拶をする者はその悪い行いに、与するのであるから。 |
前田訳 | その人にあいさつするものは、その悪いわざに与するのです。 |
新共同 | そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです。 |
NIV | Anyone who welcomes him shares in his wicked work. |
註解: 異端的教理を奉じこれを宣伝える伝道者に対しては、キリスト者は普通の人に対するごとき隣人接待の態度に出てはならない(ロマ12:13。ヘブ13:2)。またこれに親密と一致とを示す「安かれ」の挨拶を交してはいけない。かかる態度に出ることは一見愛なき行為であるがごとくに思われるけれども、実はこれにより最も重要な信仰の敵(キリストの来り給えることを空しきに帰せしむる重大な結果を生ぜしむるごとき教えの宣伝者)と自己との間に一致が存するがごとくに解せられることを防ぎ、これによりて教会の信仰を乱さざらんがために必要であるゆえにヨハネはこれを命じたのである。これは信仰に関する公の問題であって、一私人の隣人愛の問題ではない。
辞解
[この教を有たずして汝らに来らば] 「人もし汝らに来り、しかもこの教えを携えずば」で伝道者を指して言う意味。原文の文法上かかる事実が実際起るべきことを予想していたことを示す。
[家に入るな] 隣人愛の実行上必要とされていた旅人接待の義務の大なる例外である。
[安かれと言ふな] 友人として交際すべからずとの意。
[與 する] 交わりを持つことで共通の行為を為す者と認められること。
要義1 [神の誡命 とキリスト者の愛]第6節によれば「神の誡命 に循 いて歩むは即ち愛」であり、また「愛に歩むは即ち誡命 なり」とあり。誡命 を守ることと愛に歩むこととの同一事たることを示す。もしこの「誡命 」を「汝ら互いに相愛すべし」なる誡命 のみを指すと解するならば(Tヨハ3:23)、勿論誡命 を守ることと互に相愛することとは同意異語(tautology)であるに過ぎない。しかしながらこの場合ヨハネは必ずしもかかる制限を与えていない故、この誡命 は誡命 の全体と解することも可能である。従ってこの「誡命 に循 って歩む」ことは相互愛のみに限らずこれと無関係なるがごとき他の多くの誡命 をも守ることと解することができる。しかしながら無関係なるがごとき多くの誡命 も実際は無関係ではない。何となれば神を中心とせざる相互愛は人間愛であって真の愛ではない。そして神を中心としてこれを仰ぐ凡ての者は、神の御旨に遵 いその誡命 を守ることを最上の喜びとなすが故に、これによりてのみ相互愛が完成せられるのである。かくして神の誡命 を守ることと相互愛とは全面的に根本的に一致する。今日は唯愛を高調して神の誡命 を軽視する傾向が多いのは、大なる誤りで、これでは結局において真の相互愛を持つことすらできない。
要義2 [異端者に対する態度]信仰及び教理に関する公の問題についてはあくまでこれと争い、これとの間の差別を峻厳 に守り、これを明らかにしなければならぬ。しかしながらもしかかる異端者が疾病、貧困等のために苦悩の中にある時は、我らは心からこれを助けるべきである。自己の信仰の態度を明瞭にすることはキリストに対する忠誠である。隣人をその苦難より救うことはその信仰の承認を意味せず愛の要求である。
1章12節
口語訳 | あなたがたに書きおくることはたくさんあるが、紙と墨とで書くことはすまい。むしろ、あなたがたのところに行き、直接はなし合って、共に喜びに満ちあふれたいものである。 |
塚本訳 | あなた達に沢山書くべきことを、紙とインキですることを欲しない。それよりもあなた達の所に行って、口と口で語り、わたし達の喜びを溢れさせたいと望んでいる。 |
前田訳 | 多くのことをお書きしたいのですが、それを紙と墨でせず、そちらへうかがって口から口へお話ししたく思います。それでこそわれらのよろこびが満ちるのです。 |
新共同 | あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。 |
NIV | I have much to write to you, but I do not want to use paper and ink. Instead, I hope to visit you and talk with you face to face, so that our joy may be complete. |
註解: ヨハネには近き将来においてこの教会を訪うことの見込みがあったことであろう、またその深き愛情は書簡をもってその胸中の凡てを表顕することができないと感じたのであろう。ヨハネの熱烈なる愛をここに見ることができる。
辞解
[紙] chartês パピルスのこと。
[墨] melan は一種のインク(Vヨハ1:13。Uコリ3:3)。
[顔をあはせて] 直訳「口と口と相対して」でヘブル語の話法。
1章13節
口語訳 | 選ばれたあなたの姉妹の子供たちが、あなたによろしく。 |
塚本訳 | 神に選ばれたあなたの姉妹[集会]の子供たちから、あなたによろしく。 |
前田訳 | あなたの選ばれた姉妹の子らがよろしく申しています。 |
新共同 | あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たちが、あなたによろしくと言っています。 |
NIV | The children of your chosen sister send their greetings. |
註解: ヨハネのいた場所(エペソならん、緒言参照)の教会の信徒より挨拶を送るとの意味。
辞解
[汝の姉妹] この書簡の受信者が教会なりとすれば、その姉妹教会を意味し、従って「子供」はその会員信徒を指す。
[なんぢ] 一婦人と解する場合には「その姉妹」は同じく一婦人であり、その婦人は死亡または不在でその子供のみヨハネと共におり、その叔(伯)母に挨拶を送るとの意味となり、ヨハネよりは何らの挨拶もなきこととなる。これらの点より第1節の姉妹も教会を指すと解する時、意味明瞭となる。