ロマ書第1章
分類
1 挨拶
1:1 - 1:17
1-(1)-(イ) 発信人と受信人
1:1 - 1:7
註解: 1-7節は一般の書簡文の様式とも云うべき発信人、受信人及び挨拶の三要素より成り、パウロの書簡に常に用いられる。この中発信人の部分、異常に延長して1節より6節までを占めている。これにより彼の使徒職、福音及び使徒たる事の意義と内容とを明示して、パウロが未知のロマ教会に書簡を送る事に就ての理由と態度と資格とを示している。
1章1節 キリスト・イエスの
口語訳 | キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから— |
塚本訳 | キリスト・イエスの奴隷であり、(また)神に召され、その福音のために選ばれた使徒であるパウロから、── |
前田訳 | パウロ、キリスト・イエスの僕、召されて神の福音のため選ばれた使徒から−− |
新共同 | キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、―― |
NIV | Paul, a servant of Christ Jesus, called to be an apostle and set apart for the gospel of God-- |
註解: 原文は初頭に「パウロ」とあり説明これに従う。発信人としての自己を紹介する。彼は第一に自己のキリストに対する関係と使徒たる使命とを記す事によりて、この書簡の高き意義を示し、且つロマの基督者をして彼に対する親しみと尊敬の念とを起さしめている。この偉大なる宣言を読む者はこの書簡を一の普通の書簡として読む事は出来ない。
辞解
[僕] doulosは僕よりも寧ろ奴隷に近く、而も奴隷程残虐に動物的に取扱われる事なく、結局日本の封建時代の「臣」(けらい)なる語が最もこれに近いであろう。主人の所属たる事と絶対服従を本旨とする事がその特色である。パウロは自己をキリスト・イエスの僕「臣」と称する事によりてその絶対的服従の態度を示す。基督者の最も美わしき心の態度である。これと同時に「僕」なる語は特別の使命の為に働かしめられるものを指す(コロ1:7。コロ4:7。ヤコ1:1。Uペテ1:1。ユダ1:1)。
[召されて使徒となり] 直訳「召されたる使徒」パウロはダマスコ途上においてこの召命を受けた(使9:15)。使徒は十二使徒以外はパウロ、バルナバ等の主なる人々にのみ用いられ、主の直接の召命を受けて福音のために派遣せられる人。
[神の福音] パウロの福音の絶対的価値ある所以はそれが神より出づるからである。
[〔選び〕別たれたる] aphôrismenos神はパウロを使徒たらしむべく予定しこれを他の人と区別し給うた(ガラ1:15)。以上の凡てによりパウロの召命とその使徒職は全く自己の価値、功績、努力によるものに非ざるを知る。
註解: 前節を「神の福音」なる語をもって結べるパウロは、更に福音を説明する必要を感じた。
1章2節 この
口語訳 | この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、 |
塚本訳 | この福音は、神がその預言者たちにより、聖書においてかねて約束されたもので、 |
前田訳 | この福音は、神がその預言者たちによって聖書でかねて約束されたもので、 |
新共同 | この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、 |
NIV | the gospel he promised beforehand through his prophets in the Holy Scriptures |
註解: 私訳「この福音は〔神〕その預言者たちによりて聖き書の中に予め約し給えるものにして、御子に関する処のものなり」。前節に於て福音の為に区別せられ召されし事を述べしパウロはこの福音の本質を明らかにする事の必要を感じた。蓋しこれによって自己の使徒職の性質をも示す事が出来るからである(5節)。即ちこの福音は神の子イエス・キリストに関するもの、即ちイエス・キリストがその中心であり又その凡てである。而してパウロはこの福音が新奇な存在ではなく旧約時代の預言者を通して神が既に久しき以前より約束し給えるものであり(ロマ3:21。ルカ24:27)永遠に亙 れる神の経綸の頂点である事を示し、且つこれが聖書の中に約束せられし事をもてその神聖なる事を教え、かかる聖なる福音の為に選ばれる事の意義の大なる事を表わす。
辞解
[福音] euangelion「良き音信」の事、罪の赦 人類の救に関するが故に「良き」であり、宣べ伝えられるものなるが故に「音信」である。
[聖書] 原文冠詞なき故に「聖き書」と訳するを可とす、結局は旧約聖書を指す事となれど、「聖書」と云う本を指すよりもその「聖き」性質に重きを置いている。
[御子に就きて] 改訳の如く「約束す」に関係せしむる説(M0、G1、A1)有力で文法上も自然であるけれども元訳の如くこれを「神の福音」に関せしむる方がパウロの言わんと欲する処に近いと見るべきであろう▲口語訳がこの訳し方によった事は適当と思う(Z0,B1,E0,C1)。
[預言者たち] これを広義に取りモーセ、ダビデ等をも含む意味に取るべきである。
口語訳 | 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、 |
塚本訳 | その御子、すなわち、人間としてはダビデの末から生まれ、 |
前田訳 | そのみ子についてのことです。彼は肉によればダビデの末から生まれ、 |
新共同 | 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、 |
NIV | regarding his Son, who as to his human nature was a descendant of David, |
註解: 「御子に関する」-前節の終り(但し原文には本節の始にあり▲▲口語訳はこの点訂正された)の「御子」を更に敷衍して3、4節にこれが説明を与えている。但しこの両節は多くの訳解を持つ難句である。最も自然の解釈は、イエス・キリストは人間としては預言に応じてダビデ王の子孫として生れ給える普通の人間であったとの意味であって次節に相対応している。
辞解
[肉] sarx人間の生れながらの肉体、精神の総称。
[裔 ] 文字上男系を意味する。パウロがここにイエスを真にヨセフの子と信じてかく録したるものなりや否やにつき多くの説あれど、パウロがキリストをアダムの子孫より峻別 する点、及びパウロの弟子ルカがイエスの処女降誕を記せる点よリ見て、イエスが人間としてダビデの子孫、ヨセフの子と認められていた事実をそのままに記したものと見るを可とす(G1)。
1章4節
口語訳 | 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。 |
塚本訳 | 聖なる霊としては死人の中から復活して力ある神の子と定められた方、わたし達の主イエス・キリストに関するものである。 |
前田訳 | 聖い霊によれば死人たちからの復活によって力ある神の子と定められた方、すなわちわれらの主イエス・キリストです。 |
新共同 | 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。 |
NIV | and who through the Spirit of holiness was declared with power to be the Son of God by his resurrection from the dead: Jesus Christ our Lord. |
註解: 人間として生れ給えるイエスは同時にその聖き霊の方面より見れば、その復活により神の御子である事を神より決定的に告知せられた。これによりパウロはキリストの人としての方面と神としての方面とを明かにした。
辞解
[潔き霊] 「聖なる霊」と訳すべきで、三位の一の聖霊と同一ではない、イエスの中に宿れる罪なき全く聖なる霊を指す、かかる霊は人間の中には無く、唯キリストのみの有である。これがキリストの復活の素である。イエスは肉としては普通の人間と共通のものを持ち給うた。
[定める] horizôは「特に区別する」「宣言する」等の意味でイエスは復活より以前にも神の子に在し給うたけれども復活によりこれが明かに示された。
[死人の復活] 「死人」は複数で「復活」にも冠詞が無い。故に勿諭イエスの復活のみを指したのではなく、唯一般的に「復活と云う事実」を指したのである。
[大能をもて] 「大能をもてる神の子」と読むよりも、「定める」に関連せしむるを可とす。その意味は「力強く」(M0)と云うに同じ。
註解: 2節終(原文3節始)の「イエス・キリストに関する」を受けし反覆である。これによりパウロは福音の中心がイエスにある事を再び強調している。原文の順序は「イエス・キリスト我らの主」であって「イエス」は人間としてのキリスト、「キリスト」は神の約束によりメシヤとして生れ給える救主、即ちイエスの神的方面。「我らの主」はパウロが自己をロマの信徒と同列に置き、共同の対象としての主、神の右に坐し給う復活のキリストを指している。この三つは相合して、完全に救主の全方面を表示する。
1章5節
口語訳 | わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと使徒の務とを受けたのであり、 |
塚本訳 | わたし達はこの方によって恩恵の使徒職を戴き、御名を広めるために、すべての異教人をして従順に、この信仰を受けいれさせようとしている。 |
前田訳 | われらはそのみ名のために信仰の従順がすべての民に及ぶようにと、彼によって恩恵と使徒性を受けました。 |
新共同 | わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。 |
NIV | Through him and for his name's sake, we received grace and apostleship to call people from among all the Gentiles to the obedience that comes from faith. |
註解: 彼らは福音の中心たるこのキリストより豊なる恩恵(救、信仰、及びその他)を受けしのみならず、更にこれに加うるに彼らに取りては非常なる重荷である使徒の職をも受けた。恩恵が大なるに従って責任も大である(この職も恩恵によりて受けるものの一つである。ロマ12:3。ロマ15:15。Tコリ3:10。Tコリ15:10。エペ3:2、エペ3:7以下)。而してその使命は諸国民を「信仰の従順に導かんが為」(直訳)であった。而してこれキリストの御名の栄の為である事勿論である。
辞解
[もろもろの国人] ethnosの普通の用法に従い「凡ての異邦人」と訳すべしとの説が多い、かく訳す場合にはパウロはここに異邦人の使徒としての自己の使命を語らんとしているものと解す。従って「我ら」をば「我」と同意義の文学的表現であると見る説があるけれども(M0、G1、A1)、ethnos はこの場合ユダヤ人をも含む諸国民の意味に用いられしものと見(ロマ16:26。マタ28:19、マタ24:14その他)、而して「我ら」は十二使徒やヤコブ、パウロ等を指すと見るを可とする(Z0、B1)、従って本節は前節までに福音の一般的性質を叙べたのを受けて、使徒職の一般的性質を叙べたものと見るべきである。パウロが特に異邦人の使徒としての自己の特徴を強調しなかったのはロマ教会はユダヤ人と異邦人との混合であるが為と、今一つはロマは他の教会と異り、パウロが特にこれに対して自己の使徒職のみを主張し得ない立場にあったからである。
[信仰に従順ならしめんとて] (M0、C1)は「信仰の従順に導かんとて」と訳する方がよい▲口語訳もこの解による(Z0、G1)。信仰とは即ち従順であり神に対する不従順は不信仰である(ロマ16:26参照)。この語は他に種々に解せられている。
1章6節
口語訳 | あなたがたもまた、彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに属する者となったのである— |
塚本訳 | あなた達もその中にあり、イエス・キリストのものになるようにと(神に)召された者である。── |
前田訳 | あなた方も、民の中にあって、イエス・キリストへと召された人々です−− |
新共同 | この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。―― |
NIV | And you also are among those who are called to belong to Jesus Christ. |
註解: 私訳「汝らもまたその中にありて召されてイエス・キリストに属するものなり」万民を信仰に導くべき使徒職を授けられし事を述べて後この万民の中の一としてロマの基督者を数え、彼らもまた他の諸国の基督者と同じく召されて基督者となりしものなる事を教え、召されし点に於ては使徒たちと何等異らざる事を示して、彼らの確信を促している。
辞解
本節を「イエス・キリストによりて召されたるものなり」と読む説あれどパウロの書簡は常に召命は神より下るものと見る故この場合も特例を作る必要を認めない。本節には尚異なる読み方あれど略す。
1章7節 [われ
口語訳 | ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ。わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 |
塚本訳 | それでわたしは、神に愛される人、(また)召された聖徒であるローマ(集会)のあなた達一同に、この手紙をおくる。わたし達の父なる神と主イエス・キリストから、恩恵と平安、あなた達にあらんことを。 |
前田訳 | 神に愛され、召された聖徒、ローマにある皆さんへ。われらの父なる神と主イエス・キリストからの恩恵と平和があなた方にありますように。 |
新共同 | 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 |
NIV | To all in Rome who are loved by God and called to be saints: Grace and peace to you from God our Father and from the Lord Jesus Christ. |
註解: 本節前半は受信人、後半は挨拶を記す。本書簡の受信人は居住地はロマ、神との関係に於てはその信仰の故に神の子として愛せられるもの、この世との関係に於ては神に召されて、神の為に世より聖別せられしものである。而してこの二資格は凡ての基督者に共通なる最も貴重なる資格である。
辞解
[聖徒] hagioiは道徳的に完全無欠となりたるものの意味ではなく世より聖別せられて神に属するものを意味する。
[
註解: 普通の書簡文の結尾chairein(使15:23。使23:26。ヤコ1:1)を基督教的に延長せるものである。「恩恵」は罪の赦しを我らに与うる神の恵みであり、「平安」はこの恩恵によりて罪を赦されし我らの良心に臨む平安である。この二者は基督者の日常生活の基調を為し、神とキリストより来るのであって、その一を欠く事は出来ない。
要義1 [ロマ書冒頭の挨拶に就て] 普通形式以上に出でざるを常とする書簡冒頭の挨拶としてはこの冒頭は実に堂々たる金玉の文字である。この中にパウロが本書簡を認 める場合の意気込みが明かに示されているのみならず、人にして神に在し給うキリストに関する中心的事実につき、叉使徒、基督者の何たるかに就き、叉是らを召し給う召命の如何につき示す事によりて福音の主要問題を大部分この数節の中に圧縮している事はおどろくべき事実である。ロマ書の本体に入る前に我らは既にこの冒頭の挨拶によりて眩惑する程この数節の内容は重大なる真理の羅列である。我らこの数節を根本的に学習する事によりて、福音の大真理を把握することが出来るであろう。又パウロがこの書簡を口授するに当たり如何に慎重なる態度を以て一言一語に重点を置きしかを思い浮べる事が出来るであろう。
要義2 [信仰の従順] 信仰とは神に対する従順の別名であり、不信仰とは不従順の別名である。アダムは不従順の故に罪人となりキリストは従順の故に義人であった(ロマ5:19)。従順は人間が神に対する根本的態度であって、これを失って他に信仰を持つ事は不可能である。
1章8節
口語訳 | まず第一に、わたしは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられていることを、イエス・キリストによって、あなたがた一同のために、わたしの神に感謝する。 |
塚本訳 | まずもってあなた達の信仰が世界中で評判になっていることを、イエス・キリストにより、あなた達一同のために、わたしの神に感謝したい。 |
前田訳 | まず、イエス・キリストによって、あなた方皆さんのためにわが神に感謝したいのは、あなた方の信仰が全世界にいい伝えられていることです。 |
新共同 | まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。 |
NIV | First, I thank my God through Jesus Christ for all of you, because your faith is being reported all over the world. |
註解: パウロがその思いをロマの教会に馳せる場合に第一に彼の心を支配するものは感謝の心であった。ロマの人々がキリストを信ずるに至った事は当時の全世界、殊にその基督者の間に大評判であった。何となればロマはこの世の権力と、あらゆる快楽を集めたる世界の首都であり最も迫害の盛なる場所であつたので、その中に在りてキリストを信ずる事は容易ならざる事であったからである。これ神の特別の恩恵によるにあらざれば能わざる事であるが故に彼ら凡てについて神に感謝せざるを得ない。
辞解
[先づ] 原語「第一に」であるけれども多くの事柄の中で最初にの意味で第二、第三と数え立てる意思は無かつたのであろう(Z0)。
[為に] periは「について」と訳す方が明瞭である。異本に huper 「代りに」とありこれによればロマの信徒に「代り」その信仰が全世界に伝えられし「事を」(hoti)感謝する意味となるけれどもパウロの感謝はこの評判に対すると見るよりもむしろかかる評判を生ずるまでに神がロマの信徒を恵み給いし「故に」(hoti)、彼らに「ついて」感謝したのであろう。
[全世界] 当時の世界の各地到る処との意味で、多分主としてその信徒の間に知られていたのであろう。
[我が神] 「我が神」と云いてパウロはロマの信徒の信仰状態を自分一身の出来事なるかの如く感じていることを示す(Z0)
1章9節 その
口語訳 | わたしは、祈のたびごとに、絶えずあなたがたを覚え、いつかは御旨にかなって道が開かれ、どうにかして、あなたがたの所に行けるようにと願っている。このことについて、わたしのためにあかしをして下さるのは、わたしが霊により、御子の福音を宣べ伝えて仕えている神である。 |
塚本訳 | わたしはこの神を霊をもって、すなわち、その御子の福音を伝えることをもって、礼拝しているのであるが、神がわたしの証人として、 |
前田訳 | 神がわが証人です。わたしはわが霊によって、すなわちみ子の福音によって神に奉仕し、つねに祈りのうちにあなた方を覚えています。 |
新共同 | わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、 |
NIV | God, whom I serve with my whole heart in preaching the gospel of his Son, is my witness how constantly I remember you |
1章10節
口語訳 | (9節に合節) |
塚本訳 | わたしが祈りのたびごとに絶えずあなた達を思い、いつか一度は、神の御心によって都合よくあなた達の所に行けるようにとお願いしていることを、証明してくださるであろう。 |
前田訳 | 神のみ心によって、いつかはあなた方のところへ行くよい道が開かれるようお願いしています。 |
新共同 | 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。 |
NIV | in my prayers at all times; and I pray that now at last by God's will the way may be opened for me to come to you. |
註解: 9節の「祈りのうちに」を10節の「常に」の後に置くを可とす、辞解参照。ロマの信徒に対するパウロの関心は並々ではなかった。絶えず彼らを想い起し、又祈りの中に常に彼らに到るの途を得ん事を祈願していた。併しこれは主観的の事実であって、これをロマ人に告ぐる場合パウロは神を証人とするより外にその証明法がなかった。神を証人としてパウロは自己のこの心の真実なることを断言した。併しながらこれほど確実なる証人はない、従ってこれほど確かな事実は無い。
辞解
[を我がために証し給うなり] 原文「に関する我が証者(あかしびと)なり」で、9節の初頭にあり。
[御子の福音] 福音はキリストより出でキリストに関するものである。キリストの福音にあらざる福音は真の福音ではない。
[霊をもて事うる] 「事うる」latreuôは宗教的礼拝の意味に用いられる語であるけれどもこの場合「我が霊をもて」と記す事によりてパウロの礼拝は全く形式的儀文的礼拝にあらざる事を示す。
[常に祈のうちに] 「汝らを覚え」に連結するよりも「冀 う」「訴願する」に連結すべしとする説が最も多い(M0、G1、Z0、A1、E0)。本節改訳の如くにこれを二つに分離する事は不可能である。
[途を得る] euodoôは「事業に成功する」「良き旅行をする」「幸運に会う」等の意に解せられ、この場合に用いるに適当せる文字。
1章11節 われ
口語訳 | わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである。 |
塚本訳 | わたしはほんとうにあなた達に会いたくてたまらない。あなた達(の信仰)が強められるために、何か霊の賜物を分けあたえたい、 |
前田訳 | 本当にあなた方にお会いしたく思います。あなた方の支えに何か霊の賜物をお分けしたいのです。 |
新共同 | あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。 |
NIV | I long to see you so that I may impart to you some spiritual gift to make you strong-- |
註解: パウロがロマ行きを切望する動機は自己の野心利欲等の為にあらず、又首都を訪問する事の享楽的目的の為にもあらず、彼が使徒として最も豊かに受けている霊の賜物を彼らにも分与し、彼らの信仰がこの賜物によりて堅立し動揺する事無からんが為であった。
辞解
[堅うする] stêrizô不動不変ならしむる事。
[霊の賜物] 霊は聖霊、賜物charismaは恩恵charisによりて神より与えられる種種の知識、知恵、能力、使命等を云う(Tコリ12:8-11。Tコリ12:28-31)。尚原文には ti 「何か」なる形容詞ありて意味を柔らげている。
1章12節
口語訳 | それは、あなたがたの中にいて、あなたがたとわたしとのお互の信仰によって、共に励まし合うためにほかならない。 |
塚本訳 | いや、あなた達のところで、お互の信仰によってあなた達もわたしも、元気づけられたいのである。 |
前田訳 | いや、あなた方の、またわたしの、お互いの信仰によって御地でともに慰められたいのです。 |
新共同 | あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。 |
NIV | that is, that you and I may be mutually encouraged by each other's faith. |
註解: 前節が未知のロマの基督者に対してパウロの使徒的権威を強調し過ぎるが如き嫌いのあらん事を思いパウロ特有の謙遜と敏感さとより本節に於いて更にその調子を和らげ且つ自己を彼らと同列に置き、ロマ人の信仰にも充分の敬意を払っている事を示す。本節は前節「堅うせられん為」を説明せるもので、互いの信仰によりて勧め励まし合い力付け合う事が堅うせられる所以である事を示す。信仰にあるものが相互に励まし合う事、力付け合う事程、信仰を助くるものはない。
辞解
[相共に慰められる事] sumparaklêthênai でこの場合は「慰める」意味(G1)よりも「勧め励まし力付ける」意味と見るべきであろう(A1,C1,Z0,M0)。
1章13節
口語訳 | 兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、あなたがたの所に行こうとしばしば企てたが、今まで妨げられてきた。 |
塚本訳 | 兄弟たちよ、このことを知らずにいてもらいたくない。──ほかの異教人の中でと同様あなた達の中でも、何か(福音の)実を刈り取るため、わたしは幾たびもあなた達の所に行こうと思い立った。ただし今まで妨げられている。 |
前田訳 | 兄弟よ、このことを知らずにはいないでください。ほかの異邦人のところでと同じく、御地でも何か実りを得るために、たびたび御地へ行こうと思い立ちましたが、今まで妨げられています。 |
新共同 | 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。 |
NIV | I do not want you to be unaware, brothers, that I planned many times to come to you (but have been prevented from doing so until now) in order that I might have a harvest among you, just as I have had among the other Gentiles. |
註解: パウロが屡々 ロマに行かん事を企てし事(10節)は11、12節の目的の外に、更にロマの住民の中より多くの信者を獲んとする事であった。彼は牧者、教師の外に尚伝道者の仕事をも兼ねていた。而して他の異邦人(又は国民)の場合に於てはパウロはこの事に於て成功したのにロマに対しては今日まで妨げられて、果しかねていた事をパウロはロマの信徒に知らせずにいる事を欲しなかった。この事実はロマ人とパウロとを内面的に繋ぐ大切な鎖であるから。
辞解
[実を得る] 実を結ばしむるだけでなくこれを自分で収穫する事、パウロは福音宣伝の仕事を農夫の仕事に比較している。
1章14節
口語訳 | わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。 |
塚本訳 | わたしはギリシャ人にも野蛮人にも、教養のある者にも教養のない者にも、(福音を伝える)義務がある。 |
前田訳 | ギリシア人にも異人にも、知識人にも大衆にもわたしは責任があります。 |
新共同 | わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。 |
NIV | I am obligated both to Greeks and non-Greeks, both to the wise and the foolish. |
註解: 人種、賢愚の差別なくパウロは神の命により福音を宣伝えなければならなかった。彼は伝道の義務を持つ事をあたかも負債を負うているかの如き心持を以て眺めていた。
辞解
[「ギリシヤ人」「夷人」] 異邦人の二種の区別である。ギリシヤ人より見ればユダヤ人は夷人に属していたが、この場合パウロの眼中には異邦人のみが有った(13節)。ロマ人の如くギリシヤ的教養あるものはギリシヤ人に属していた。
1章15節 この
口語訳 | そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。 |
塚本訳 | だからローマのあなた達にも福音を伝えることが、わたしの願いである。 |
前田訳 | それでローマのあなた方にも福音を伝えたいのです。 |
新共同 | それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。 |
NIV | That is why I am so eager to preach the gospel also to you who are at Rome. |
註解: 神より前節の如き義務を負わしめられているパウロの心はロマ伝道の希望に燃えていた。福音の伝道はかくの如く神より逐い立てられる如き心を以ってなされねばならぬ。
辞解
[ロマに在る汝ら] 既に信仰に入りし者のみではなくその他の人々をも含むと見るべきであろう。
[我は頻りに願うなり] の原文は異訳多し。
口語訳 | わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。 |
塚本訳 | わたしは(決して)福音を恥じない。福音は神の力で、これを信ずる者を一人のこらず、すなわち、まずユダヤ人、次に異教人を、救いに入れるからである。 |
前田訳 | わたしは福音を恥じません。これは神の力で、まずユダヤ人、さらにギリシア人をも、すなわち、信ずるものすべてを救うからです。 |
新共同 | わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。 |
NIV | I am not ashamed of the gospel, because it is the power of God for the salvation of everyone who believes: first for the Jew, then for the Gentile. |
註解: ギリシャ文化の普及せる政治の中心地ロマに於てガリラヤの僻地に発生せるキリストの福音を述べる事は容易の事では無い。アテネに於てもコリントに於てもパウロはその事を経験した(使17:32。Tコリ2:3)。その哲学科学文化の前に十字架の福音は愚かなるものの如くに見え多くの人々の嘲笑を免れなかったからである。
この
註解: 福音には美わしき理論、哲学的系統等人の心を喜ばせるものは無い、併しそこに神より出づる力があって罪に死なんとするものを救い、永遠の滅亡より免れしむる事が出来る。かかる力は他の何ものにも見出し得ない故パウロはこの一見愚なる如き福音を毫 も恥づる事が無いと断言する事が出来た。
辞解
[ギリシヤ人] ユダヤ人と対する時は異邦人と云うに同じ、エホバを信ぜざる者の世界は当時ギリシヤ文化の下に在ったのでかく云う。
[始め] (ロマ2:9、10)は救の問題審判の問題については神の目にユダヤ人が第一に在った。
[凡て信ずる者] 信仰が条件であって、これにより例外なしに救を得。
[信ずる] 神の恩恵に信頼しその罪の赦しを信じて疑わない事。
[救] 最後の審判に際して滅亡を免れ永遠の生命に入る事を意味しているけれども(ロマ5:9。Tコリ5:5)、この救は今既に我らの罪の赦として我らの中に始まっている(ロマ7:24。ロマ8:24。エペ2:5、エペ2:8)。
口語訳 | 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。 |
塚本訳 | 信仰から出て信仰に終る、(徹頭徹尾信仰本意の)神の義が、この福音において現わされているからである。“信仰による義人は生きる”と(聖書に)書いてあるとおりである。 |
前田訳 | そこに、信仰から信仰へという神の義が示されています。聖書に、「信仰による義人は生きる」とあるとおりです。 |
新共同 | 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 |
NIV | For in the gospel a righteousness from God is revealed, a righteousness that is by faith from first to last, just as it is written: "The righteous will live by faith." |
註解: 人間に固有する義ではなく、又人間が律法を完成する事によりて得る義でもなく、神の性質としての義及びこれを神より人間に与え給う義即ち神より出づる義が前述の如き福音の中に啓示される。これは全く新しき啓示であった。如何にして神の義が啓示せられたかについてはロマ3:21以下に詳論されている。
辞解
[神の義] 神が義に在し給う事即ち神の性質としての義(C1)を意味するか又は神がキリストの贖罪によりて信ずる者に与え給う義、即ち神より出づる義を意味する(M0、G1、Z0、その他)かについて説が分れているがこの雙方を一つにしたものと見るべきであろう(I0)。ロマ3:26。
[顕れ] apokalyptetai これまで隠れていたものが露わされる事
註解: 前述の神より出づる義は、これを受ける人間の側から見るならば信仰が基となっているのであって、信仰を理由として神はその義を人間に与え給う。「信仰より」(ek)とはこの意味である。而してかくして与えられし義は更に神に対する信仰を人の心に起こさしめこれを深める働きをなす。「信仰に進ましむ」(eis)とはこの意味である。かく神の義の現われは人間の側に於ては信仰に始まり信仰に終わる、徹頭徹尾信仰のみである。
辞解
本節は難解にして種々の意味に解せられている。(1)〔律法の〕信仰より〔福音の〕信仰に至らしむ。(2)〔旧約の〕信仰より[新約の〕信仰に至らしむ。(3)〔低き〕信仰より〔高き〕信仰に至らしむ。(4)〔神の〕信実に対する信仰より(現る)。(5)〔神の〕信実より出でて〔人間の〕信仰に至る等々である。何れも適切ではない。
註解: (▲ヘブル原文は何れにも訳し得る様である。意味に於いても大差が無いと見るべきであろう)ハバ2:4。義人、即ち神との正しき関係にあるもの、神より義人と目せられるものは神に対する信仰によりて生き、これによりて滅亡を免れ永生を獲得する。義と信仰と救とは鼎足 の如く不離の関係にある。パウロは以上の2節に律法の行為につき言及しないけれども、彼の心中に律法の行為によりて義とせられざる人間を信仰によりて義とし給う神の力を讃嘆せる簡素にして意味深き節であって、この2節は言わばロマ書の中心思想を要約したものである。
辞解
本節の引用は七十人訳を変化してヘブル語の原典に近づかしめパウロの言わんとする処の証拠とした
要義 [16、17節に就て] 8節以下に於てパウロはロマ人に対する彼の関心とロマに福音を伝えんとの希望を叙述した後、筆は自然に彼の携え至らんとする福音に及んだ。而してこの福音が神の力であって人間の思想、理論にあらざる事、而してこの力は信ずる凡ての人を救うの力であって、単にこれを教育し、善導するが如きものにあらざる事、叉この福音によって神の義が啓示せられた事、即ち神が人間に与える義は人間に固有せるものにあらずして、隠れたる事物が神の側より露わされしものであった事、而してこの義は人間の行為より来らず信仰より出づるものであつて、神は人の心に信仰を起さしめ、これを彼の義と為し給う事、而してその目的も亦信仰にあり、かくして、徹頭徹尾信仰のみが凡てであり、信仰に始まり信仰に終るのが義人の生活である事を以てこれを結んで居る。かくしてパウロはこの二節によりて全ロマ書の内容を巧に要約せるものである。
分類
2 罪悪論
1:18 - 3:20
2-(1)-(1) 異邦人の罪
1:18 - 1:32
2-(1)-(1)-(イ) 不虔の罪とその罰
1:18 - 1:25
註解: これよりパウロはいよいよ本論に入り極めて順序正しくその議論を展開している。而してこれを大別すれば11章の終り迄は教理問題、12章以下に於て実践問題を論じている。而して8章の終り迄は個人の救の問題を論じ、9-11章に於てユダヤ人と異邦人とが救いに関して如何なる関係にあるか、換言すれば全人類に救が如何にして及ぶかを諭じている。個人の救に関する問題としては5章の終りまでは罪の赦しに就て諭じ、6:1-8:17に於て潔めの問題を論じ、8:18-39に於て栄化の問題に論及している。
1章18節 それ
口語訳 | 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。 |
塚本訳 | なぜ(この福音が必要であった)か。人々が不道徳をもって真理を押えつけているので、神の怒りが彼らのあらゆる不信と不道徳とに対して、天から現わされているからである。 |
前田訳 | 神の怒りは人々のあらゆる不信と不義に対して天から示されています。人々は真理を不義で押えています。 |
新共同 | 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。 |
NIV | The wrath of God is being revealed from heaven against all the godlessness and wickedness of men who suppress the truth by their wickedness, |
註解: 前節と相対応してその理由として記されている(gar)。蓋し前節の如く福音によりて神の義が顕れなければならなかった理由は、神の怒りが既にこの世に顕れているからで、この怒より免れしめん為には福音より外に道が無いからである。神は人々の罪(不虔即ち神に対する不信仰とその不義即ち隣人に対する不道徳)をそのままに放置し給う事は無く必ずその怒をこれに注ぎ給う。
辞解
本節以下が異邦人の罪につき論じているか(M0、G1、A1)又はユダヤ人をも含むか(Z0、E0)につき説分る、前者を取る。
[不義をもて真理を阻む] 神に背く事と同意義であるけれども異邦人の罪を数うる場合故かかる語を用いた。
[「不義」「真理」] 等の語は神を知らざる異邦人にも或程度迄認められていた。
[阻む] Katechô は進み行かんとするものを引き留める姿。不義を恣 にせんが為に人は真理の働きを阻止しなければならない。
[天より顕る] 天は神の御座。怒が如何なる形を以て顕れしやにつき諸説あり、天変地夭 、苦難不幸、最後の審判、良心の呵責、福音そのもの等種々の説があるけれども、この場合現在に於ては24、26、28節等に示される如き神より手放されし状態、未来に於てはロマ2:5-10の如き神の審判を総称して天より顕れる(現在動詞)神の怒と見るべきであろう。「神の怒り」は神の純粋の愛が、反逆者に対してあらわれる心持である。要義1参照。
1章19節 その
口語訳 | なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。 |
塚本訳 | というのは、神について知り得るほどのことは、彼らに明らかなのである。神が現わしてくださったから。 |
前田訳 | そもそも神について知りうることは人々に明らかです。それは、神が彼らに現われたもうたからです。 |
新共同 | なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。 |
NIV | since what may be known about God is plain to them, because God has made it plain to them. |
註解: 私訳「・・神これを顕し給いたれば彼らに顕著なればなり」。神に関する凡てを知ることは勿論出来ないが、神は人の理性又は良心の中に或程度まで御自身を顕し給う。如何なる人種に取りてもこのことは或程度に於て明かにされているのであって、これが神につき知り得べき事柄である。それにも関わらず、かくして示されし真理を阻止する事は赦すべからざる事であって、神の怒がこれに下るのは当然である(前節)。
辞解
[知り得べき事] tognôston は新約聖書に於ては概ね「知られし事柄」の意味に用いられているけれども本来は「知り得べき事柄」の意味である。本節の場合新約聖書の用例に従うべしとする説(A1、B1、M0)と本来の意味によるべしとする説とあり(G1、Z0、C1)後者による。
[顕著なり] phaneron、「顕す」paneroôは前節の「顕る」とやや趣きを異にし、隠れ居りしものの露出ではなく、不明なるものが明瞭にせられることを意味する。
1章20節 それ
口語訳 | 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。 |
塚本訳 | すなわち神の性質は、永遠の能力も神性も、人の目には見えないものであるが、世界創造の時から、理性の目をもって造られた物の中に見ることができるのである。従って(全然)言い訳は立たない。 |
前田訳 | というのは、神の見えぬ諸性質すなわち彼の永遠の力と神性は、世の創造以来、いろいろなみわざのうちに人々に感得されて見えているのです。したがって人々はいいわけできません。 |
新共同 | 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。 |
NIV | For since the creation of the world God's invisible qualities--his eternal power and divine nature--have been clearly seen, being understood from what has been made, so that men are without excuse. |
註解: 私訳「そは神の見るべからざる諸性質即ち永遠の力と神性とは、世の創より被造物によりて、悟了 し洞見 し得べければなり。そは彼らをして言い遁れ得ざらしめんが為めなり」前節の理由を示す、即ち被造物は世の創より神の諸性質(凡て見る事が出来ない )を示して居り、この被造物により人々はその心の働きによりてこれを見極める事が出来る。神がかくしてその能力と神性とを示し給える所以は、人類が神を知らずとの口実を造って遁れんとしても逃れ得ざらんが為であった。
辞解
[見るべからざるもの] ta aorata 神の諸性質と云うに同じ。而してこれを「永遠の力」と「神性」との二つを以て説明している。「神性」は一般的であり「力」はその一部であるけれども天地の創造に於て神は何よりも先づ力として御自身を示し給う故にこれをここに揚げたのである。
[永遠の] この神の力が一時的にあらざる事を示す。「神性」をも形容すと解する説あれども取らない。
[悟り得て明かに見る] 肉の眼を以て見る事が出来ないけれども心を以て理解する事により心眼を以てこれを明かに見る事が出来る。
[彼ら言い遁るる術 なし] 前文の結果と見るべきか(A1)又は目的と見るべきかにつきて(M0、G1、Z0、B1、C1)異説あり、文字の上よりも意味の上よりも目的と見るを可とす。
1章21節
口語訳 | なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。 |
塚本訳 | 彼らは神を知っていながら、神として賛美せず、感謝をささげず、かえってその考えは空虚になり、その愚かな心は(ますます)暗くなったからである。 |
前田訳 | 人々は神を知りながら神として栄化し感謝せず、自分の考えに迷わされてむなしくなり、そのまちがった心は暗くなりました。 |
新共同 | なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。 |
NIV | For although they knew God, they neither glorified him as God nor gave thanks to him, but their thinking became futile and their foolish hearts were darkened. |
註解: 彼らは神を知らざるが如くであるけれども実は神を知っているのである。知りつつしかもその当然なすべき崇敬と感謝とを神にささげない。かくして彼らは神を神とせざるに至り、単に無益の空理空諭を弄 び、その心情は理解力を失って暗黒の中に陥り凡ての光明を失ってしまっている。
辞解
[神を知りつつ] パウロは異邦人もある意味に於て(18節)神を知っていると認めている。
[念] dialogismosは「推理」なき事。
[心] kardia は心情。
[虚しく暗くなれり] 受動態の不定過去形で神の御業と見る。
口語訳 | 彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、 |
塚本訳 | 自分では賢いと言っているが、馬鹿になっている。 |
前田訳 | 自分では賢いといいながら愚かになり、 |
新共同 | 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、 |
NIV | Although they claimed to be wise, they became fools |
註解: 空虚と暗黒の中にいながらこれを悟らず、自ら智 しと称しているのが、当時の諸国民の心持ちである。殊にギリシヤ、ローマ、エジプト等に於てそうであった。而も彼らは益々神を離れて暗愚の中に陥って行くのである。
辞解
[愚となる] môrainô馬鹿になる事。
1章23節
口語訳 | 不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。 |
塚本訳 | その証拠には、朽ちぬ“栄光”の神“の代りに、”朽ちはてる人間や鳥や四足や長虫の“像を”おがんでいる。 |
前田訳 | 朽ちぬ神の栄光と朽ちる人や鳥や獣や虫の像をとりちがえています。 |
新共同 | 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。 |
NIV | and exchanged the glory of the immortal God for images made to look like mortal man and birds and animals and reptiles. |
註解: 偶像崇拝は神に関する知識の退化せるものであって、一神教に向って進む途中の一過程ではない。比較宗教史の研究によりて今日到達せる結論をパウロはこの時既に道破していた。▲18-23節はパウロが人間の宗教心理に対する深い洞察力を有っている事を示す。
辞解
[易 え] allassô は一物を他の物とかえる事。
[人] を偶像視するはギリシヤ、ローマ等の場合であり、
[禽獣匍 う物] はエジプトの宗教を指すと見る事を得。
要義1 [神の怒] 人間の怒は多く私慾の発動であるに反し、神の怒は愛の結果である。怒らざる愛は真の愛ではない。神はその愛する者の彼に対する不信に堪え得ない程深き愛を持ち給い、その創造し給える宇宙の中に一点の不義をも容れ得ない程聖に在し給う。故に不虔と不義に対してはその愛と義の故に烈しき怒が注がれるのである。この神の怒を知りて始めて真の神の愛と義の何たるかを知る事が出来る。
要義2 [異邦人に神の知識ありや] 詩19:1にあるが如き意味に於て被造物が神の力とその神性とを表顕する事は人種国民の差別に関らず一般に認められし事実であった。如何に無智蒙昧 の人種と雖 も、かかる神認識の閃きが無いものはない。唯この真理をしてその進むべき道を進ましめず、自己の慾望を主として神の知識を抑圧窒息せしめたのが、諸国民の偶像崇拝の起源であった。故に如何なる国民と雖 も神に関して全く無智なりし事を理由として、その不虔と不義とを弁解する事が出来ない。
要義3 [神に対する正しき態度] 崇むる事と感謝する事(21節)が栄光の神、恩恵の神に対する当然の態度でなければならない。然るにこの事を為さざる者即ち神を離れし者は、神の栄光を求めずしてこの世的栄光を求め、神の恩恵を拒みて自己の功績に依らんとする。故に栄光を虚しき被造物に帰し、感謝の念は涸渇して高慢の心に自らを亡ぼすに至る。神を離れし最も明瞭なる証拠はその人が虚しき被造物に心を曳かれる事と、心に感謝と喜悦が無い事である。
1章24節 この
口語訳 | ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。 |
塚本訳 | だから神は、彼らが情欲にかられて不品行を行うに任せられた。自分で自分の体を辱しめさせるためである。 |
前田訳 | それゆえ神は彼らが心の欲によって不潔をなすにまかせられました。彼ら自ら体をはずかしめるためです。 |
新共同 | そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。 |
NIV | Therefore God gave them over in the sinful desires of their hearts to sexual impurity for the degrading of their bodies with one another. |
註解: 彼らが自分勝手に神ならざるものを神とした結果、その受けし罰は彼らがその心の欲のままに、穢れに付されてしまった事である。神に対して自由に振舞うものは又自己の放恣 の為に自己を滅ぼすに至るのである。この場合の汚れはエレ19:13。エゼ20:31。ホセ2:10等の如く偶像崇拝に関連して考えるを可とす。偶像崇拝と姦淫とは密接なる関係がある。
辞解
[欲にまかせて] 欲の中に、欲のまま等の意。
[互にその身を辱しむる穢れに付し給えり] 原本により叉「自ら心の中にその身を辱しむる穢れに付し給えり」とも訳す事が出来る。「付す」は神が彼らを引止め給いし御手を放す事。その結果彼らは偶像と姦淫するの汚れに向って突進し自らの心中に自己を汚辱する。
口語訳 | 彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。 |
塚本訳 | 彼らは真の神を偽りの神(偶像)にかえて、造物者の代りに創造物を崇めもしおがみもしたからである。造物者こそ永遠に賛美すべきである、アーメン。 |
前田訳 | 彼らは神の真理を偽りにかえ、創造主(つくりぬし)のかわりに被造物をあがめ、かつ拝みました。創造主こそとこしえに讃むべきです、アーメン。 |
新共同 | 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。 |
NIV | They exchanged the truth of God for a lie, and worshiped and served created things rather than the Creator--who is forever praised. Amen. |
註解: パウロは再び彼らの不信仰の状態を想起してこれを叙述し強き戦慄を感じているものの如くである。日く「彼らは偶像を以て神と交換している」と。
辞解
[神の真実] この場合無形名詞を以て神を表わしているので単に「神」と云うに同じ、同様に「虚偽」と云うは「偶像」と云うに同じ。これを性質の方面より云ったのである。
[易える] metallassô は「交換する」事又は「もじる」事。
註解: 前半に真実と虚偽とを以て神と偶像とを対立せしめ、これに又造物主と被造物との関係に於てこれを対立せしめている。かくして偶像崇拝の甚だしく愚であり又真の神を無視する大なる罪である事を知る事が出来る。
辞解
[拝す] sebazomai は畏敬する事。
[事 う] latreuôは献物を以て神に事うる事
註解: 以上に於いてパウロは異邦人の偶像崇拝の如何なるものなるかを記載しつつ自らその冒涜的態度に耐えないものの如く、ここに突然造物主なる真の神に対して讃美の声を発した。パウロの深き敬虔の態度を思うべきである。
辞解
[アーメン] ヘブル語の動詞アマーン(確かである信実である)よりの変形で、ユダヤ人の会堂に於て聖書朗読、祈祷、議論等の後にアーメンを唱うる事によりて、自分もこれと全く同感なる事を示し、これが基督教会にも伝わって今日全世界に用いられるに至った。ヨハネ伝には主はアーメン、アーメンと重ねて25回用い給うた「誠にまことに」と訳されているのがこれである(ヨハ1:51辞解)。
要義 [神の無慈悲] 神が人を汚れに付し給う事(24節)は一見非常に無慈悲なるかの如くに見える(尚26、28節も同様)。しかし乍らこれ等の諸節は或學者の解する如く、単に神が消極的にこれを黙許し給えりとの意味では無い。積極的に付し給うたのである。而してこれ神の愛の働きに外ならない。神は人間の自由を束縛して迄も彼らを形式的に神の子らしき様態に引留め給わない。彼らをして自由に行くべき処まで行かしめて然る後その御子を賜う程の愛によりて彼らの頑固なる心を打砕き給う。これにより彼らは叉自由に悔改むる事により神の子たる身分を回復する事が出来る。アダムの場合もそうであった。今日我らに取ってもこの点に変わりは無い。これを以て神が罪の原因となり給えりと解する事が出来ない。
1章26節
口語訳 | それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、 |
塚本訳 | このゆえに神は彼らが恥ずべき肉欲におぼれるに任せられた。すなわち、女はその自然の交わりを不自然な交わりにかえ、 |
前田訳 | このゆえに神は彼らを恥ずべき官能におまかせでした。女性はその自然な交わりを不自然な交わりにかえ、 |
新共同 | それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、 |
NIV | Because of this, God gave them over to shameful lusts. Even their women exchanged natural relations for unnatural ones. |
註解: 自己の欲求の奴隷となって神を離れ、被造物の偶像を拝するに至れるものに臨む第一の神罰は、彼らがその性慾の奔放とその濫用との奴隷となってしまう事である。これ神がこれを阻止し給わずしてその欲の赴く処に付し給うからである。この罰もまた24節の場合と同じくその罪の性質に相応している。偶像崇拝と姦淫とは常に相関連している。
辞解
[欲] pathosは24節の「欲」epithumiaより一層劣悪なる感情(G1)
1章27節
口語訳 | 男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。 |
塚本訳 | 同じく男も女との自然の交わりをすてて互に情熱をもやし、男と男とが恥ずべきことを行い、迷いに対する当然の報いをその身に受けている。 |
前田訳 | 同じく男性も女性との自然な交わりを捨てて互いに情を燃やし、男性と男性とが恥ずべきことを行ない、まちがいの当然の報いを身に受けています。 |
新共同 | 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。 |
NIV | In the same way the men also abandoned natural relations with women and were inflamed with lust for one another. Men committed indecent acts with other men, and received in themselves the due penalty for their perversion. |
註解: 女性同志又は男性同志に行われる不自然なる性的罪過に就て云っているのであって、かかる人倫自然の道に反する恥づべき行為は皆神に逆ける者の受くる罰である。而して彼らはかかる道徳的迷誤の報を已に受け、その心身は悲しむべき状態に陥る事を免れ得ない。
辞解
[「女」「男」] 原語は「雌」「雄」「牝」「牡」等に相当する文字を用いて居り、「女性」「男性」を意味する。
[迷] 神を離れし迷の意味に解する説もあれど(G1)適当でない。
[報] ある特定の一現象を指したのではなく一般的に当然と思われる報の数々を意味したのであろう。
[己が身] 原語「已に」叉は「己自身に」。
1章28節 また
口語訳 | そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。 |
塚本訳 | こうして彼らは神を知ることを役に立たぬものと考えたので、神の方でも、彼らの心が役に立たなくなるに任せられた。その結果彼らは(人として)なすべからざることをするようになったのである。 |
前田訳 | 彼らは神を知ることを無価値としましたので、神も彼らを無価値な精神におまかせでした。それで、彼らはしてならぬことをしました。 |
新共同 | 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。 |
NIV | Furthermore, since they did not think it worthwhile to retain the knowledge of God, he gave them over to a depraved mind, to do what ought not to be done. |
註解: 直訳「また彼らは神を知識の中に存 むる事を是とせざる故神は彼らを為すまじき事をなす是ならざる心に付し給えり」人若し神を真に知りこの知識の中に神を持っているならば、換言すれば神の真の知識を持っているならば彼の行為も亦この知識に叶うものとなるであろう。然るに彼らは神を知りつつも(19節)神を離れ、加うるに神の知識を有つ事を不必要の事、宜しからざる事と考えた(是としない)。その結果反対に神は彼らを宜しからざる心、唾棄 せらるべき邪悪なる心(是ならざる心)に付し給うた。この心が凡ての為すまじき事を為す事の原囚となる事は、次の29-31節に明かである。
辞解
[心に存 むる] 「知識の中に持つ」と直訳する事が出来る。この知識epignôsisは単なる知識gnôsis よりも一層深き理解を指す。
[善しとする] dokimazô 試験の結果合格し、良しと認められる事。
[邪曲 なる] adokimos は試験の結果不合格で良しと認められざる事。即ち悪しくして放棄せらるべき部分。この二語相対応して神の罰が人の罪に相対応している事を示す事24、26節に同じ。
1章29節
口語訳 | すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、 |
塚本訳 | 彼らはあらゆる不道徳・悪意・欲張り・悪念に満ちた者、妬み・人殺し・喧嘩・悪巧み・よこしまで一ぱいな者、陰口をきく者、 |
前田訳 | 彼らはあらゆる不義、悪意、むさぼり、悪念に満ちたもの、妬み、人殺し、争い、悪巧み、邪念でいっぱいのもの、陰口をいうもの、 |
新共同 | あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、 |
NIV | They have become filled with every kind of wickedness, evil, greed and depravity. They are full of envy, murder, strife, deceit and malice. They are gossips, |
註解: 本節以下の多数の邪悪の列挙は精確に組織区分がある訳では無いけれども、思想の連絡より見て大体これを四つの部分に分つ事が出来る(M0、G1)。而して「もろもろの不義」はその総称と見る事が出来る。これに亜 げる三者はその第一類で、神を知らざる者の根本的罪悪を指摘している。
辞解
[不義] adikia正義を無視し蹂躙する事。
[悪] ponêria は悪意を以て他人に害を与える事を喜ぶ心。
[樫貧 ] 第十戒に反する心。
[悪意] kakia は邪悪邪念、当然持つべき善意を有たざる事。
また
註解: 他人に対して害を与えんとする心の顕れでこの五種は第二類を為す。神を離れし者は他人を害することに興味を有す。
辞解
[嫉妬 ] phonos他人のものを濫に羨望嫉視 する心、これが動機となりて殺意又は「殺戮」となりてその目的を達す、他の三者はその手段なり。
[悪念] kakoêtheia意地悪き傾向姦計 につき用う。
1章30節
口語訳 | そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、 |
塚本訳 | 悪口を言う者、神の敵、無法者、高ぶる者、法螺吹き、悪事の発明家、親不孝者、 |
前田訳 | 悪口をいうもの、神を憎むもの、傲慢なもの、高ぶるもの、ほら吹き、策動家、親不孝、 |
新共同 | 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、 |
NIV | slanderers, God-haters, insolent, arrogant and boastful; they invent ways of doing evil; they disobey their parents; |
註解: 之が第三類に属すと見るべき六種類で、謙遜を失い、高ぶりたる心より生ずる諸悪を列挙せるもの。
辞解
[讒言 するもの] psithuristêsは陰口を叩く者、陰に讒侮 するもの。
[謗 る者] katalalos相手に反対して誹謗の言を弄 する者、
[神に憎まれるもの] 前後の文句との対照から云えば「神を憎むもの」(G1、B1、元訳)と解すべきが如くに見えるけれども、文法上は一般に「神に憎まれるもの」を意味している(M0)。この困難を避けんが為にこの六種を二つづつ組合せ、その一を他の形容詞として解せんとする説(Z0)があるけれども巧みなる結合ではない。
[侮る者] hubristêsは倨傲 にして他人を侮蔑し叉は非礼を行う者。
[高ぶる者] huperêphanos は已を他人よりも高しとし、且つその如く振舞う者。
[誇る者] alazônは内容は空虚なるにも関わらず大言壮語し、又は大袈裟に振舞う者。
口語訳 | 無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。 |
塚本訳 | 無知・不誠実・無情・無慈悲の者である。 |
前田訳 | 無知、不誠実、無情、無慈悲のものです。 |
新共同 | 無知、不誠実、無情、無慈悲です。 |
NIV | they are senseless, faithless, heartless, ruthless. |
註解: 人間の自然の性質又は感情を失い又はこれを蹂躙するものの総称で第四類を成している。
辞解
[悪事を企つるもの] epheuretas kakônは他人に害を与えんことを常住捜し求めているもの、人間の社会性に反す。
[無知] asunetos は理智的ならず、前後の弁別なく事を行うもの。
1章32節 かかる
口語訳 | 彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている。 |
塚本訳 | この人たちは、こんなことをする者が死なねばならぬ神の定めをよく知っていながら、自分でそれをするばかりでなく、人がするのをも喜ぶのである。 |
前田訳 | 彼らは、このようなことをするものは死に当たるとの神の定めを知りながら、自分でそれをするばかりか、人がするのにも同意しています。 |
新共同 | 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。 |
NIV | Although they know God's righteous decree that those who do such things deserve death, they not only continue to do these very things but also approve of those who practice them. |
註解: 「死罪に当るべき」は「死に値する事の」と訳するを可とする。本節は28節以下の諸悪の帰結であって、神は異邦人にも良心を与え、又は多くの聖賢の教訓等によりて上述の如き諸悪を故意に行うものは、永遠の死に相当している事を彼らに示し給い、彼らはよくこれを知っていた。無神論者と称する者さえもこれを否定し得ない。然るに彼らは知りつつ故意にこれを行っている事に於て一層深き罪の状態を示し、更にこれを行う他の人々をも可しとして、彼らに賛意を表し、彼らと共に喜ぶに至っては悪の最高調に達したる状態である。神の罰が彼らに臨んでいる事の証拠である。
辞解
[行ふ] prassô ロマ7:15辞解參照。
[死罪] 原語「死」、法律的刑罰ではなく、永遠の死を意味す。
要義1 [神の罰は我らの罪に相応す] 18-32節に於てパウロは異邦人の罪をその諸々の相に於て描出し、而してこの各々の罪に対しこれに相応する罰ある事を示している事に注意すべし。即ち神の栄光を拝せずして汚れし被造物を拝する者は(21、22節)その罰として自ら偶像崇拝に伴う汚れの奴隷となり、造物主を差措きて被造物を拝する如き順序の転倒を敢てする者は(25節)その結果男女の本性を逆用する如き性的罪過とその報を己が身に受け、また神の知識を心に留むる事に反対してこれを良しとせざる者は(28節)自己の良からざる心の奴隷となりてあらゆる罪過にその身を陥れて死に至る。かくの如く神に対する我らの態度はそのまま我ら自身に報い来るのであって、神に対する反逆は取りも直さず我ら自身に対する反逆であり、自ら自己を滅ぼすに至るのと同様である。故に神に対して反逆の態度を継続しつつ自分だけ道徳的に向上せんとしてもそれは不可能事である(ダンテの神曲に於ても亦罪と罰とを相対応するものとして巧に描いている)。
要義2 [二千年前の罪と今日の罪] 1:18-31に列挙せられしもろもろの罪の中今日の吾等に於て見出し得ない罪は一つも無い。少くとも心の中の姿に於ては今日の我らがその処に鏡に映されているが如くに思われる。これを以て見ても人類はその罪性に於てアダム以来些かの変化も無い事を知るであろう。人類は次第に進歩するが如くに思いて虚しき望みを懐く者は聖書の証しの前にその誤を正さなければならない。
要義3 [是らの罪は社会組織の結果にあらず] パウロがここに列挙せる如き罪の凡ては、あらゆる人間のあらゆる状態に於てその心中に蔵せられる罪であって、社会組織如何によりて変化はない。あらゆる国体、政体、経済組織を通じて凡ての人の中にこれらの罪の姿を見出す事が出来る。
ロマ書第2章
2-(1)-(2) ユダヤ人の罪
2:1 - 3:8
2-(1)-(2)-(イ) ユダヤ人に対する神の審き
2:1 - 2:5
註解: 異邦人の罪を数え上げたパウロは、ここに転じて2:1-3:8にユダヤ人の罪を数え上げている。
2章1節 されば
口語訳 | だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。 |
塚本訳 | だから、ああ人[ユダヤ人]よ、あなたは(人を)裁いているが、あなたがだれであろうと、言い訳は立たない。あなたは人を裁いて、実は自分の罪を定めている。裁きながら、同じことをしているからである。 |
前田訳 | それゆえ、すべて裁く人よ、いいわけはできません。他人を裁くというその点で、あなたは自らを裁いています、裁くあなたが同じことをしていますから。 |
新共同 | だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。 |
NIV | You, therefore, have no excuse, you who pass judgment on someone else, for at whatever point you judge the other, you are condemning yourself, because you who pass judgment do the same things. |
註解: パウロがロマ1:18以下に於いて異邦人の罪を指摘するのを聞いていたユダヤ人は、心の中に彼らは実に罪人である、我らは彼らの如くならざるを謝すと云って誇っていた事であろう。その時突然パウロはその鋒先を彼らの面前に突付けた。曰く異邦人を罪人として審く汝凡てのユダヤ人よ、汝らも異邦人と同様(ロマ1:20)弁解の辞 が無いであろう、その故は他人を審く事その事が汝自身を罪に定むる結果となるからである。かく云いてパウロは万人が罪の下にある事を明かにせんとしているのである。
辞解
[審く] krinô
[罪する] 「罪に定むる」とも訳せられる(ロマ8:1) Katakrinô
註解: ユダヤ人の中にも異邦人の如き罪が有った、しかも彼らは自己の優越感に陶酔してこの事実を無視していた。今日の基督教国が異教国を審くのもこれと同じ態度である。
2章2節 かかる
口語訳 | わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。 |
塚本訳 | わたし達が知っているように、(いま言った)こんなことをする者を、神は真理によってお裁きになる。 |
前田訳 | われらは知っています、真理に従って神の裁きはそのようなことをする人々に及ぶことを。 |
新共同 | 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。 |
NIV | Now we know that God's judgment against those who do such things is based on truth. |
註解: 人の審判と異なり神の審判は真理に合うが故に、罪を行うものは全てこれを免れる事が出来ない。
辞解
[審判] krima は判決の内容を意味し、審判する行為 krisis と異なる。
[我ら] パウロ初め誰でも一般にと云う如き意味。
2章3節 かかる
口語訳 | ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。 |
塚本訳 | ああ人よ、あなたはこんなことをする者たちを裁きながら、自分で同じことをしているが、それで自分(だけ)は神の裁きを免れると思っているのか。 |
前田訳 | お考えなさい、このようなことをする人々を裁き、自ら同じことをする人よ、あなたは神の裁きをのがれるでしょうか。 |
新共同 | このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。 |
NIV | So when you, a mere man, pass judgment on them and yet do the same things, do you think you will escape God's judgment? |
註解: ユダヤ人はその割礼の故に、又はその律法的行為の故に、神の審判を免れるものと自信し安心して異邦人を審いていた。しかも彼ら自らもかかる行為に陥っていたのである。彼ら争 で神の審判を免れる事が出来ようか。前節が真理であるならば本節の結論はこれを免れんとして免れる事が出来ない。
2章4節 (
口語訳 | それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。 |
塚本訳 | それとも、神の豊かな慈愛と忍耐と寛容とを誤解し、憐れみ深いこのお方があなたを悔改めさせようとしておられることが、わからないのか。 |
前田訳 | それとも、彼の善意と寛容と忍耐との豊かさをあなどって、神のあわれみがあなたを悔い改めに導くのがわかりませんか。 |
新共同 | あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。 |
NIV | Or do you show contempt for the riches of his kindness, tolerance and patience, not realizing that God's kindness leads you toward repentance? |
註解: 前節に於いては神の審判を遁れ得るかの如くに考えて、毫 もこれを畏れざる心に対して警戒を与え、本節に於いては又神がその審判を差し控え給う寛忍の態度は一日も早く彼らを悔改めしめんが為なるにも関わらずこれに対して感謝せず、恐惶 せず、悔改むる事もなしに却てこれを軽蔑する者に対する叱責を与えている。若し何時迄も悔改めないならば神は遂にその大なる怒を注ぎ出し給うであろう。
辞解
[仁慈 ] chrêstotês は神がユダヤ人に賜える種々の恩恵、その愛護等を指し、
[忍耐] anochê は抑制の意味で、当然注がるべき神の怒と審判とを抑えて直ぐにはこれを下さざる事(Z0,T0)。
[寛容] makrothumia は当然罪せらるべき多くの罪を一々攻め立てない事。ユダヤ人の歴史を見れば神がかくの如くに彼らを扱い給える事は著しき事柄であった。単にこれをキリストの十字架以後のユダヤ人の罪のみに限る(G1)必要はない。
2章5節 なんぢ
口語訳 | あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。 |
塚本訳 | こうしてあなたは頑固な悔改めない心によって、神の正しい裁きの現われる怒りの日に望む(神の)怒りを、自分のために貯蓄している。 |
前田訳 | 頑固な、悔い改めない心によって、あなたは神の正しい裁きの現われる怒りの日のお怒りを自らに貯えています。 |
新共同 | あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。 |
NIV | But because of your stubbornness and your unrepentant heart, you are storing up wrath against yourself for the day of God's wrath, when his righteous judgment will be revealed. |
註解: 頑固にして悔改めざる心を以て神の仁慈 、忍耐、寛容の豊かなる富を軽蔑する結果、彼らは如何なる富を蓄積しているのであるか、彼らの貯蓄する財宝は実は神の怒である。この怒は最後の審判の日に彼の上に注がれるであろう。故に汝ユダヤ人と雖 もこれを免れる事が出来ない。
辞解
[頑固] 神の仁慈 、忍耐、寛容に対して無感覚である事。
[悔改めぬ心] 神の仁慈 の目的を蹂躙する事で、前節の悔改に対応する。
[神の怒を積む] 積むは財宝を蓄える事を意味し、彼らは神の怒を貯蓄している恐るべき状態にいる。
[正しき審判の顕わるる日] 最後の審判の日、その審判は6-16節に示される如くユダヤ人たると然らざると又基督者たると然らざるとを論ぜず、その行によりて公平に正当に審かれる。
[怒の日] その日神の怒は凡ての不虔不義に向って顕れる。ロマ1:18には神の怒が異邦人に対し既に顕れていることを述べ、本節にユダヤ人には未来に於て顕れることを示す。勿論最後の審判に於ても異邦人が審判かれる事、現在に於いても神の怒りがユダヤ人に及ぶことを否定したのではない。唯それが異邦人に対しては現在既に著しく顕われし事、ユダヤ人に対しては将来その自負心に反して著しく顕れるであろう事を示しているに過ぎない。
要義 [審判は基督教の要素なり] 近来最後の審判なる思想を軽蔑する傾向が非常に多い。その理由はその非科學的なる事、神は愛にして審判と云う如き事は有るべからざる事、単に人を威嚇して恐怖せしむる手段に過ぎざる事等を掲げ、而してイエスは最後の審判につき語り給うたけれどもこれは単にその当時の思想を借り来れるに過ぎずとしている。併し乍ら神に対する背反は即ち罪であり神の本質上かかるものの存在は放置せらるべきではない。義なる神はこの世界中に存するあらゆる不義を焼尽くし給うまでは決して罷 む事が出来ない。最後の審判はこの神の本質と罪の性質との結合せる必然の結果である。
口語訳 | 神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。 |
塚本訳 | 神は“ひとりびとりの行いに応じて報いられる”(と聖書は言う。) |
前田訳 | 神は各人にそのわざによって報われましょう。 |
新共同 | 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。 |
NIV | God "will give to each person according to what he has done." |
註解: 人間が行える凡ての行為はそれがユダヤ人たると基督者たると異邦人たるとを問わず、神よりそれに相当する報を受けなければならない。この事は事理の当然であり宇宙の根本法則であって旧約は勿論(箴24:12。詩62:12。134:11<編者:当該箇所なし>)新約聖書に於ても屡々 繰返されている処である(マタ16:27及その引照参照)。行為に対する報と信仰によって義とせられる事との関係に就てはUコリ5:10要義2参照。
辞解
[所作 ] erga行為。
2章7節
口語訳 | すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、 |
塚本訳 | すなわち、忍耐して善を行うことによって栄光と栄誉と不滅とを求める者には、神は永遠の命をおあたえになるが、 |
前田訳 | 忍耐をもってよいわざをし、栄光と誉れと不滅を求める人には永遠のいのちを、 |
新共同 | すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、 |
NIV | To those who by persistence in doing good seek glory, honor and immortality, he will give eternal life. |
註解: 多くの誘惑と試練の中に忍耐を以て善行を継続して行く事は至難であるが、かくして天国に於ける光栄と神より与えられる尊貴と永遠に朽つる事なき嗣業とを求むるものは永遠の生命を与えられる。パウロはここには如何なる人がこれに値しているかの点に触れる事なく唯これを当然の真理として叙述している。
辞解
[光栄 尊貴 朽ちざるもの] これら凡てはこの世には存在しない。皆神の国に属する処のものである。
2章8節
口語訳 | 他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。 |
塚本訳 | 自分本意で、真理に従わず偽りに従う者には、怒りと憤りとが待っている。 |
前田訳 | 私欲にかられ、真理に従わず、不義に従うものには怒りといきどおりをお与えになります。 |
新共同 | 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。 |
NIV | But for those who are self-seeking and who reject the truth and follow evil, there will be wrath and anger. |
註解: 前節と反対の状態にある人は自己の為に神の怒と憤恚 とを招かざるを得ない。神の当然の報は善悪何れの場合でもこれを遁 れる事が出来ない。
辞解
[徒党] eritheia は本来傭兵 又は賃銀による雇用労働者を意味し、自己に関し利已心のみを働かせる事を含む、従ってその結果、自派擁護に汲々たる徒党心を意味する。パウロは雇人の如きユダヤ人のラビを想起した事であろう(G1)。かかる人は「真理」に従う事が出来ないで自然「不義」に従う。然しながら神は必ず彼らの上に「怒」 orgê (心のみならず行為動作をも含む)と「憤恚 」 thumos (心の中が忿怒に燃ゆる事)をもて臨み給うであろう。
[7、8節の「を以て報い」] 原語によれば次の9、10節の如く「とあり」と訳するを可とす。
2章9節 すべて
口語訳 | 悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、 |
塚本訳 | (つまり、)苦しみと悩みとは悪を働くすべての人、まずユダヤ人、次に異教人に、 |
前田訳 | 苦しみとなやみはすべて悪をするもの、ユダヤ人をはじめギリシア人に、 |
新共同 | すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、 |
NIV | There will be trouble and distress for every human being who does evil: first for the Jew, then for the Gentile; |
2章10節
口語訳 | 善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。 |
塚本訳 | また栄光と尊敬と平安とは善を行うすべての人、まずユダヤ人、次に異教人に、のぞむであろう。 |
前田訳 | 栄光と誉れと平和はすべて善を行なうもの、ユダヤ人をはじめギリシア人に及びます。 |
新共同 | すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。 |
NIV | but glory, honor and peace for everyone who does good: first for the Jew, then for the Gentile. |
註解: 7、8節の順序を逆にして6節に示されしと同一の真理を述べ、且つこの真理の適用が万人共通であって神の選民たるユダヤ人と雖 も、この応報を免れる事が出来ない事を示す。
辞解
[「悪をおこなふ」katergazesthaiと「善をおこなふ」ergazesthai] とは「おこなふ」の原語を異にす。前者は「遂行する」の意、後者は「為す」の意でここに適切に使い分けられている。
[ユダヤ人を始め] は応報が時問的にユダヤ人に先に与えられる意味(C1、G1,M0)ではなく、又程度に於てユダヤ人に強い(G1)と云うのでもない。ここでは「ユダヤ人は勿論」と云う如き意味(Z0)に取るを可とす。
[患雖] 外より来るもの
[苦難] stenochôria は内心の状態
「患難」の反対は神より賜わる「光栄」と「尊貴」(栄誉)、「苦難」の反対は「平安」。この二節は勿論現世のみの事を言えるにあらず、永遠の相に於ける事実を云う。
口語訳 | なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。 |
塚本訳 | 神にはえこ贔屓がないからである。 |
前田訳 | 神には偏見がないからです。 |
新共同 | 神は人を分け隔てなさいません。 |
NIV | For God does not show favoritism. |
註解: 前節の理由は神はユダヤ人とかギリシャ人とか云う如き外面(うわべ)の事によりて判断せず人の心の内部、その実際の如何によりて判断し給うからである。この事は旧約聖書によりて充分に高調せられている点で(レビ19:15。申10:17。ヨブ13:8。ヨブ34:19。U歴19:7等)ユダヤ人はこれに対して反対し得ない。
辞解
[偏り見る] ガラ2:6と同じく人の外面によりて不公平に取り扱わない事。名義上の基督者たると否とも同様に神の前では問題ではない。▲基督者となる場合の形式如何やその所属教会の如何等は神の審判の前には意味をなさない。彼を救うものはその信仰のみである。神は人の上辺を見ない。
2章12節
口語訳 | そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。 |
塚本訳 | すなわち、律法なしに罪を犯した者[異教人]はみな、律法なしに滅び、律法の下に罪を犯した者[ユダヤ人]はみな、律法によって罰される。 |
前田訳 | 律法なしに罪を犯したものは、みな律法なしに滅び、律法の下に罪を犯したものは、みな律法によって裁かれましょう。 |
新共同 | 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。 |
NIV | All who sin apart from the law will also perish apart from the law, and all who sin under the law will be judged by the law. |
2章13節 (そは)
口語訳 | なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。 |
塚本訳 | なぜなら、律法を聞く者が神の目に義であるのでなく、律法を行う者が義とされるからである。 |
前田訳 | それは、律法を聞くものが神の前に義人ではなく、律法を行なうものが義とされるからです。 |
新共同 | 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。 |
NIV | For it is not those who hear the law who are righteous in God's sight, but it is those who obey the law who will be declared righteous. |
註解: 最後の審判の日至れば、律法の下にあるユダヤ人も、律法なき異邦人も差別なく皆その犯したる罪のために或は滅ぼされ(異邦人の場合)或は律法に照して審判かれる(ユダヤ人の場合)。蓋し各人の行為によりて報いられる事は根本原則であって、ユダヤ人と雖 もこの点に何等の特典もない。彼らが毎安息日に律法が読まれるのを聞いているにしても、それだけで彼ら神に対して義しいと云う事が出来ない。唯律法を行う者のみ神によりて義とせられるからである。この点は一見信仰によりて義とせられる事と矛盾するが如きも然らず、実はこれが却て福音に到るの道であると同時に又福音によりてのみ完全に実現し得る処である。
2章14節 (そは)
口語訳 | すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。 |
塚本訳 | すなわち、律法を持たない異教人が、その天性によって律法の命ずるところと同じことを行えば、律法を持たなくても、彼ら(の心)が彼らにとっては律法なのである。 |
前田訳 | すなわち、律法を持たぬ異邦人が自然に律法のことを行なえば、律法はなくても、彼らにとって自らが律法です。 |
新共同 | たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。 |
NIV | (Indeed, when Gentiles, who do not have the law, do by nature things required by the law, they are a law for themselves, even though they do not have the law, |
註解: 前節の如く、云うならば、律法を聞かざる異邦人はこれを行い得る筈なきゆえ、その結果当然義とせられ得ざる不公平の結果となりはせずやと云うに、然らず、その理由は異邦人と雖 も生れ乍らにして良心を持っていて、ユダヤ人の如く、外部から与えられた律法は無いけれども、その代りに彼ら自身の良心が自分に取って律法となりこれを行っているからである。従って彼らも律法を聞きし事なしと云う事が出来ず、従ってこれを行う義務ある事ユダヤ人と異る処がない。
辞解
本節は12節a又は13節bのみに連絡せしめんとの説あれど13節全体に連絡せしむる説を可とす(G1)
[本性のまま] physei は人間の罪性を指せるにあらず、自然のまま即ち「外部より律法を加えられずとも」との意。
[自ら己が律法たればなり] 直訳「彼らは彼ら自身に取って律法なればなり」。
[律法に載せたる所] 直訳「律法の事ども」。
2章15節
口語訳 | 彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。 |
塚本訳 | それは取りも直さず、律法の命ずる行いが彼らの心に書きつけられていることを彼らが示すのであり、彼らの良心も(同じく)これを証明し、また彼らの考えが互に咎めあるいは弁明することも、これを証明してくれる。 |
前田訳 | 彼らは律法の行ないがその心に書かれていることを示しており、彼らの良心もそれを証し、彼らの考えも互いに訴え、または弁明もしてそれを示しています。 |
新共同 | こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。 |
NIV | since they show that the requirements of the law are written on their hearts, their consciences also bearing witness, and their thoughts now accusing, now even defending them.) |
註解: 私訳「かかる人々は、その心に録されし律法の業を顕わし、その良心も共に証をなし又相互の間にその念 或は非議し或は弁明す」異邦人の良心が自らに取って律法となっている証拠は三つある。その一は彼らがその自然の行為によりて、彼らの心に自然に録されている律法の働きを神と人の前に表明する事、その二はこの自然の行為に対して彼らの良心も共に証しを為してそれに賛否の意を表する事、その三は彼ら相互の間にその行動につきその思想を以て、或はこれを非難し、或はこれに対して弁明する事、これ等は皆彼らが外より与えられし律法を有たずして、しかも自らがこの律法となっている証拠である。ここにパウロは人間の自然の状態を何等の偏見なしに叙述して、ユダヤ人との間の差異なき事を示す。
辞解
[律法 の命ずる所] 原語「律法 の働き」、又は「律法 の業」、律法 の生む結果の総称。
[録 さる] 石の板に録 されし十戒に因 める語、エレ31:33以下 エゼ36:26以下等の状態の型。
[その念 たがひに] 「たがひの間にその念 云々」と読むべきである。本節に就いては心の中に二つの反対なる理念が互に非難し合う事と解する説(B2、Z0、A1等)と、異邦人同志互にその理念を以て非難弁明し合う事と解する説(I0、M0)とがある、改訳は前者によれるものの如くに見え、この註解と私訳は後者による。
2章16節
口語訳 | そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。 |
塚本訳 | そしてこれらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスをもって人の隠れたことを裁かれる(最後の)日に、すべて明らかになるであろう。 |
前田訳 | これらは、わが福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをお裁きの日に明らかになるでしょう。 |
新共同 | そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。 |
NIV | This will take place on the day when God will judge men's secrets through Jesus Christ, as my gospel declares. |
註解: 6節より前節までに述べし思想は今日は完全に実現せず、従ってユダヤ人も異邦人も同様に滅ぼされ(12節)又は同様に報いられ(6-11節)又同様に義とせられる事(13-15節)は今日一般に殊にユダヤ人には信じられないであろうが、これらの事は最後の審判の時、即ち人間の律法的行為や割礼、無割礼と云う如き外面的の問題ではなく、人間の心の中に隠れている事が凡てキリストに依りて神に審かれる日が来た時には皆明かにせられる事であろう(26、29節参照)。パウロが「我が福音」と云うのはかかる福音であって信仰によって異邦人もユダヤ人も何等の差別なしに救われる事を教える福音である。
辞解
この一節は極めて難解で殊に前文との連絡が不明である。従て(1)5節、(2)10節(A1)、(3)12節、(4)13節即ち14、15節を括弧に入れて見る(I0、M0、G1、改訳)、(5)15節の「顕す」(B1)、(6)15節の末尾(Z0、T0)、(7)1-16節の主なる動詞(E0)等に連絡せしめんとする説あれど、予はE0を更に敷衍して6節以下の全思想に関連せるもの、即ち一見これと予盾する如きパウロの福音との関係を示したるものと解す(詳細はZ0、G1、M0等參照)。▲文脈及び意味の上より(6)のZ0、T0の節の由る事が最も適当ならん。本註解著者の現在の意見としては、斯く改訂する方に傾いている。
[わが福音] 他の使徒らの伝うる福音を排斥する意味ではなく、彼が直接にキリストより啓示せられし福音で、而も異邦人の救については異邦人の使徒として彼に独特の啓示があった事の自信を以てかく云つたのであろう(引照參照)。
[隠れたる事] 従って「律法をおこなう者」と云うもその心から行うものにあらずば真におこなう者では無い事となる。故に結局信仰によらざれば義とせられざるの結果に立至るのである。
要義1 [神は外面を見給わず] ユダヤ人たると異邦人たると教会員たると然らざると、基督教徒たると異教徒たると、有神論者たると無神論者たると、カトリックたるとプロテスタントたるとの如き人間の目に映じ得る部分は神の前に何等の意味を為さない。最後の審判の日至らば神は凡てこれらの表皮を剥ぎ去り深く各人の心の中に隠れたる処を明かにし、これによりて各人を審き給うであろう。
要義2 [行為によって義とせらる]神は「行為に循 いて報い」(6節)善を行う者には「永遠の生命をもて報い」(7節)又「律法をおこなう者のみ義とされる」(13節)事をこれに示す事によリパウロは信仰のみによりて義とされるの原則と相反する事をここに述べているかの如くに見えるけれども然らず、律法を行わば永遠に生くべき事は神の定め給える法則であり(申5:33)宇宙の根本原則である。併し乍ら隠れたる処を見給う神の前に義とされる行為は外部の行為即ち律法の行為ではなく、愛によりて働く信仰より生れ出づる行為(ガラ5:6)でなければならない。律法の行為によりて義とせられ得ざる所以がここにある。パウロが2:1-16に論じ来れる点は信仰のみによりて義とされるの真理と矛盾するものにあらず、却てここに至らしむる大前提である。
口語訳 | もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、 |
塚本訳 | しかしもしあなたが自分はユダヤ人だと言い、律法を頼りにし、神との(特別の)関係を誇るならば、 |
前田訳 | しかし、もしあなたがユダヤ人を名のり、律法に頼り、神を誇り、 |
新共同 | ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、 |
NIV | Now you, if you call yourself a Jew; if you rely on the law and brag about your relationship to God; |
註解: その名の意味する如く頌 められる者たる事を誇り
註解: 律法を持てる事を以て救いの確証であるとして安心し、
註解: ユダヤ人のみが特に神を有っているものとして誇り、
口語訳 | 御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、 |
塚本訳 | またあなたが律法によって教えられて(神の)御心を知り、何が大切であるかが分り、 |
前田訳 | 律法から教えられてみ心を知り、何が大切かをわきまえ、 |
新共同 | その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。 |
NIV | if you know his will and approve of what is superior because you are instructed by the law; |
註解: 神は特にユダヤ人に御意を示し給うたと信じ
註解: 彼らは幼児より律法を学び、これによりて他の国民よりも善悪の差別を弁別する事を知ると思っていた。
辞解
[善悪] diapheronta 差別の意。
2章19節 また
口語訳 | |
塚本訳 | - 20節 かつ律法の中に具体化した知識と真理とを持っているので、「盲人の手引」、「暗やみに迷う者の光り」、「無知な人の教育者」、「児童の教師」をもってみずから任じているならば、── |
前田訳 | 自ら任じて目しいの案内、闇の中のものの光、 |
新共同 | - 20節 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。 |
NIV | if you are convinced that you are a guide for the blind, a light for those who are in the dark, |
註解: 即ち律法を有つ事だけで知識と真理を有つ事と自任して、
2章20節
口語訳 | さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら、 |
塚本訳 | |
前田訳 | 無知なものの導き手、幼子の教師として、律法の中に形をとった知識と真理を持つとするならば、 |
新共同 | |
NIV | an instructor of the foolish, a teacher of infants, because you have in the law the embodiment of knowledge and truth-- |
註解: ユダヤ人は他の国民に対してかかる誇りを持っていた。
辞解
以上のごとくなるゆえ、原文は17節よりここまでを「もし汝ら……と信ずるならば」とあり。
2章21節
口語訳 | なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。 |
塚本訳 | それで、人を教えながら、あなたは自分を教えないのか。盗んではならないと説きながら、盗むのか。 |
前田訳 | 人を教えて自らを教えないのですか。盗むなと説いて盗むのですか。 |
新共同 | それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。 |
NIV | you, then, who teach others, do you not teach yourself? You who preach against stealing, do you steal? |
2章22節
口語訳 | 姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。 |
塚本訳 | 姦淫をしてはならないと言いながら、姦淫をするのか。偶像を忌みきらいながら、宮荒しをするのか。 |
前田訳 | 姦淫するなといって姦淫するのですか。偶像を忌みきらって宮荒しをするのですか。 |
新共同 | 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。 |
NIV | You who say that people should not commit adultery, do you commit adultery? You who abhor idols, do you rob temples? |
口語訳 | 律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。 |
塚本訳 | (要するに、)あなたは律法を誇りながら、律法を破って神を辱しめている。 |
前田訳 | あなたは律法を誇りながら、律法を破って神をはずかしめています。 |
新共同 | あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。 |
NIV | You who brag about the law, do you dishonor God by breaking the law? |
註解: 17-20節に於けるユダヤ人の誇りにも関わらず、彼らの実際の生活は全くその反対なる事を指摘してパウロはここに激しき義憤の念を爆発せしめている。即ち彼らは全く十戒の違反者であり、神を汚す者である事を絶叫し、偽善、窃盗、姦淫、聖物盗取、涜神等の罪を以て彼らを責めている。当時のユダヤ人の実生活が如何に堕落していたかを知ると共に、パウロは彼らを単にその外見を以て判断せず、深く彼らの心に入り、マタ5:22、マタ5:28の如き標準を以て彼らを見たのである、従ってこの非難は決して言い過ぎではない。
辞解
[偶像を悪み] の「悪み」は甚しく忌み嫌う事。
[宮の物を奪う] 「宮」を偶像の宮と解する場合は使19:37やヨセフス古事記四の八の十にある如き聖物盗取を意味しユダヤ人は偶像をば忌み嫌いつつその宮の物を利用し又はこれを売買して利を得る事を指し、又「宮」をエルサレムの宮とすれば或は納金を誤魔化し犠牲の不完全なるものをささぐる等の事を意味し(G2、M0、Z0)又は「神の稜威を汚す事」(B1、C1)を意味すと解す。最後の解を採る。即ちユダヤ人は神に帰すべき栄を彼に帰せず、自已に奪取る事によりて聖物盗取を行い、神を偶像扱いにしている事となる。
2章24節
口語訳 | 聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。 |
塚本訳 | “神の御名はあなた達のために異教人の中で冒涜される”と書いてあるとおりである。 |
前田訳 | 「神のみ名はあなた方によって異邦人の間でけがされる」と聖書にあるとおりです。 |
新共同 | 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。 |
NIV | As it is written: "God's name is blasphemed among the Gentiles because of you." |
註解: イザ52:5、七十人訳、神の名を掲ぐべき彼らが却てこれを涜すとは由々しき大事である。
2章25節 なんぢ
口語訳 | もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。 |
塚本訳 | なぜか。律法をまもれば、割礼も役に立つが、律法を犯せば、あなたの割礼は割礼がないと同じである。 |
前田訳 | 律法を守れば割礼は役立ちますが、律法を破ればあなたの割礼は無割礼になります。 |
新共同 | あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。 |
NIV | Circumcision has value if you observe the law, but if you break the law, you have become as though you had not been circumcised. |
註解: ユダヤ人は割礼さえ受けていれば審かれる事なく、割礼そのものが彼らの特権の保護であると信じていた。然るにパウロは律法を遵守して始めて割礼は益あり、レビ18:5。申27:26。ガラ5:3。律法破壊者となるならば割礼は無効なる事を論じている。ユダヤ人の迷える誇に対する覚醒の巨弾である。
辞解
[無割礼] ユダヤ人が卑しめていたユダヤ人以外の人々を指す。
2章26節
口語訳 | だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。 |
塚本訳 | 反対に、割礼のない者が律法の要求することを守れば、割礼はなくても、割礼があると同様にみなされるではないか。 |
前田訳 | 無割礼のものが律法の条項を守れば、無割礼は割礼と認められませんか。 |
新共同 | だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。 |
NIV | If those who are not circumcised keep the law's requirements, will they not be regarded as though they were circumcised? |
註解: 前節の正反対の方面を示す。故にこの二節より結論すれば、律法の遵守が重要であって割礼は有るも無きも全く同一である事となり、ユダヤ人の誇は全く粉砕された。
辞解
[せらるるにあらずや] 未来形で最後の審判の時を指す。
[義] dikaiôma は個々の「義しき事柄」の事。
2章27節
口語訳 | かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。 |
塚本訳 | 従って、肉に割礼のない者が律法を全うすれば、彼の方があなたを──(律法の)文字に通じ、割礼を受けていながら律法を犯すあなたを──裁くであろう。 |
前田訳 | したがって、肉において無割礼のものが律法を全うすれば、彼のほうがあなたを裁くでしょう、あなたは律法の文字と割礼がありながら律法を破っていますから。 |
新共同 | そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。 |
NIV | The one who is not circumcised physically and yet obeys the law will condemn you who, even though you have the written code and circumcision, are a lawbreaker. |
註解: 14節の場合の如く(M0)解すべきで、基督者となりたる者を指すと見る説(G1)は不可。
註解: 儀文即ち律法の文字を与えられこれによりて神の御旨を教育せられ、割礼なる外的標示を以てその特権を保護せられている汝であり乍ら、律法を破る場合には律法を全うする異邦人が却て神に嘉納せられ世の終に於て(B1、G1、I0)汝を審き、非議するの立場に立つであろう。かかる事はユダヤ人の思いもよらざる事で、その誇を傷つける事大であったろう。尚マタ3:9。マタ8:11。マタ12:41、マタ12:43 。ルカ10:33等のイエスの教と対照せよ。
2章28節 それ
口語訳 | というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。 |
塚本訳 | なぜなら、みかけだけのユダヤ人はユダヤ人ではなく、みかけだけの肉的な割礼は割礼ではない。 |
前田訳 | それは、うわべのユダヤ人はユダヤ人でなく、肉によるうわべの割礼も割礼ではないからです。 |
新共同 | 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。 |
NIV | A man is not a Jew if he is only one outwardly, nor is circumcision merely outward and physical. |
2章29節
口語訳 | かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。 |
塚本訳 | 隠れた(心の中の)ユダヤ人こそ(まことのユダヤ人、)また(律法の)文字によらない、霊的な心の割礼こそ(まことの割礼であり、こんなユダヤ人が、)人間からでなく、神からの栄誉をうけるのである。 |
前田訳 | 隠れたところにあるユダヤ人こそ、また、文字によらず霊による心の割礼こそ、人からでなく神からの誉れを受けるのです。 |
新共同 | 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。 |
NIV | No, a man is a Jew if he is one inwardly; and circumcision is circumcision of the heart, by the Spirit, not by the written code. Such a man's praise is not from men, but from God. |
註解: 神は人の外面を見ずその心を見給う(Tサム16:7)。神の目に真のユダヤ人は心に律法を持ちてこれを行い心に割礼を受けてその汚を去りたる者である。かく云いてパウロはユダヤ人と異邦人との外面的区枠を完全に撤廃してしまった。ユダヤ人としては非常なる英断である。而してかかる真のユダヤ人こそ神よりの誉に与るものである。血統によるユダヤ人の誇は人よりの誉に過ぎない。▲パウロがユダヤ人に迫害されたのは、此の恩恵が大きい原因であった。此の点は特に注意しなければならない事実である。
辞解
[表面の] 「あらわなる」との意。
[隱 なる] 心の中に於ける状態。
[儀文] 「文字」で律法に命ぜられて行う割礼。
要義1 [ユダヤ人の誇と基督者の誇] 17-29節に於てパウロはユダヤ人がその血統、律法、神意識、割礼等に有する誇りの全く無意味なる事、而して神は唯その心の中を見、律法を行うや否やのみを以て審き給い、異邦人とユダヤ人とが全く同一の立場に置かるる事を強調している。今日の基督者につきてもパウロは同一の事を言うであろう。即ち基督者の教会所属、その信仰告白、その聖書、その洗礼、晩餐等の表面の事は最後の審判に於て何等の力もなく、彼らは他の未信者、異教徒と同一の立場に立たしめられ、その心の中の状態如何によりて審かるるであろう。神は実に公平に在し給う、而してキリスト御在世中にも既にこの態度を示し給うた事に注意しなければならぬ(27節註参照)。
要義2 [パウロの非宗派的態度] 宗教家は自己の宗派に属する者のみを義とし、一人にても多く自己の宗派に引入れんとするのが普通一般である。然るにパウロに於てはイエスと同じくかかる宗派根性、宗教家根性は絶無であった。義か不義か、愛か憎か唯人々の心の中の隠れたる処に於てのみ神は審き給う事を信じ、この隠れたる処が神の御心に叶う事がその根本の問題であった。故にイヱスと同じくパウロに於ても、その所属宗派、儀式礼典等を救の要件なるが如くに数うる事を為さなかった。この精神はパウロの書簡の全体を貫いて居り、その後の基督教会の態度とは著しく異っている点である。