第1ヨハネ書第2章
1-3 助主とその
2章1節 わが
口語訳 | わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。 |
塚本訳 | わたしの子供たちよ、わたしがこのことを書くのは、あなた達に罪を犯させないためである。万一罪を犯す者があっても、わたし達には父の所に弁護者、すなわち義なるイエス・キリストがある。 |
前田訳 | 皆さん、このことをお書きするのは、あなた方が罪を犯さないためです。しかし、もしだれかが罪を犯すならば、われらには父に対しての助け主、すなわち義なるイエス・キリストがあります。 |
新共同 | わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。 |
NIV | My dear children, I write this to you so that you will not sin. But if anybody does sin, we have one who speaks to the Father in our defense--Jesus Christ, the Righteous One. |
註解: ヨハネが以上のごとくに書ける目的は(書簡全体の目的についてはTヨハ1:3、4を見よ)罪を犯した場合に如何にすべきかとか、または罪を犯すことは当然である故憂慮するには及ばないとかいう意味ではなく(Tヨハ1:5−10はかく解される虞 なしと言えない。C1)、反対に罪を犯すことなからんがためである。これは福音の中心的目的であり、また光の中に歩むことの目的である。
辞解
[若子 よ] teknia は愛称でヨハネと読者とは信仰の点において父子の関係にある(引照1参照)。
[これらの事] 従前に録せる部分を指す(M0、A1、その他)。以後に録す部分(B1)にもあらず、またこの双方でもない。
[罪を犯す] 不定過去法で罪の中に留まる意味ではなく個々の罪をいう。
註解: 万一罪に陥った場合は、我らにはその不義を赦されその罪を負わせられない途がある(詩32:1、2)。それは父の前に我らを執成し給う助け主(弁護人)、すなわち神の前に義にして全く在し給うイエス・キリストを我らのものとしているからである。彼は神の完全な祭司として(ヘブ7:25。ヘブ9:24。ヘブ10:19−25)神の前に立ち我らの罪を執成 し、我らをして再び罪なきものとして神の前に立たしめ光の中を歩ましめ給う。
辞解
[もし罪を犯さば] 個々の罪をいう、現在形動詞の場合(Tヨハ3:6、Tヨハ3:8。Tヨハ5:18)と異なる。罪を犯さないのがキリスト者の本体である。
[我らのために助主あり] 原語「我ら助主を有す」。「我ら」と言いて「彼」と言わなかった所以はヨハネがこの問題については自己をもその中に包含しないことができなかったからであろう。
[助主] paraklêtos は「側に呼ばれる者」の意で代言人、弁護人等を意味する。ヨハ14:16参照。転じて「慰める者」の意味もある。
[義なるイエス・キリスト] 助主は十字架上に血を流し給えるイエスでありまた復活して神の右に在し給うキリストであることが必要である。「義なる」をここに加えし所以は罪人は神の前に立つことができないけれどもキリストのみは完全に義に在し大祭司として神の前に罪人を執成 すことを得給うことの意味である。単に「正義の」「人を義とする処の」「正しき審判を行う処の」「真実の」等の意味ではない。
2章2節
口語訳 | 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。 |
塚本訳 | そして彼こそわたし達の罪のための宥め(の供物)である。しかしただわたし達の罪のためだけでなく、この世全体のためでもある。 |
前田訳 | 彼はわれらの罪のあがないです。われらの罪ばかりでなく全世界の罪のです。 |
新共同 | この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。 |
NIV | He is the atoning sacrifice for our sins, and not only for ours but also for the sins of the whole world. |
註解: イエスが十字架に釘 き給いしは、我らのみならず全世界の罪の宥 の供物すなわち犠牲 となりて神と人との間の疎隔せる関係を宥 るためである。本節は前節の理由の説明と見るべきであるけれどもヨハネは gar 「その故は」を用いること極めて稀で、ここでも kai 「而して」を用いる。
辞解
[宥 の供物] hilasmos でキリストは単に神と人との間を和らがしむるのみならず、彼自身和らがしむる供物に在し給う。祭司にして同時に犠牲である。これによりて人の罪に対する神の怒りは宥 られ、神に対する人の不和は取去られる。▲口語訳で「あがないの供物」と訳してあるが、文語訳(「宥 の供物」)が原語の字義に近い。
[全世界の為] キリストの贖罪の死は全人類の罪のためである。「罪の広さ程宥 は広い」(B1)。カルヴィンはその予定説の立場より「全世界」を「その中に予定せられしもの」に限り、「亡ぶべきもの」と除外しているけれども誤っている(ロマ9:33附記参照)。
2章3節
口語訳 | もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。 |
塚本訳 | したがって、もし彼の掟を守るならば、そのことによって、わたし達は彼を知っていることがわかるのである。 |
前田訳 | われらが彼を知ることは、彼のいましめを守ることでわかります。 |
新共同 | わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。 |
NIV | We know that we have come to know him if we obey his commands. |
註解: 本節よりキリストの誡命を守ることの新たなる問題に入っているけれども前2節の罪を犯さざることと思想は連絡を保っている。キリストを真に知っている者は彼を愛する者である。愛なしに真の知識はない。そしてキリストを愛する者は当然その誡めを守りこれを実行するはずである。彼の誡命 を実行するまでは自分が真に彼を知っていると言うことはできない。単なる思想または単なる聖書の知識はこの実行に導くの力がない。
辞解
3−6節の「彼」は近来は「神」と解する説が通説であるけれども2節よりの思想の連絡によりこれをキリストと解す(A2、B1、L1)。
2章4節 『われ
口語訳 | 「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。 |
塚本訳 | (これに反して)「彼を知っている」と言いながら、しかもその掟を守らない者は、嘘つきで、その人に真理はない。 |
前田訳 | 彼を知るといって彼のいましめを守らないものは、偽りものであって、真理はその人のうちにありません。 |
新共同 | 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。 |
NIV | The man who says, "I know him," but does not do what he commands is a liar, and the truth is not in him. |
註解: 信仰ありと称して行為これに伴わざる者は偽者である。自分はキリスト者であり、キリストを知っていると称していながら彼の誡命 を守らない者は、自己を反省して見るならばそこに自己の心中に彼に対する虚偽があることを発見するであろう。
辞解
[知る] 「知っている」の意、現在完了形。グノシス派の人々は神を知ると称していながら神の誡命 を無視していた(緒言参照)。本節はTヨハ1:6に類似せる構造を有す。
2章5節 その
口語訳 | しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。 |
塚本訳 | しかし御言葉を守る者は、その人において本当に神を愛する愛が完全にされる。そのことによって、わたし達は神(との交わり)の中におることがわかるのである。 |
前田訳 | 彼のことばを守るもの−−実にその人においてこそ神の愛が全うされます。われらが彼のうちにあることは、次のことでわかります。 |
新共同 | しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。 |
NIV | But if anyone obeys his word, God's love is truly made complete in him. This is how we know we are in him: |
註解: 神に対する愛は、キリストの言すなわち誡命 を守ることによって完 うされ、これによってキリストとの交わりが実現する。キリストの言を守らざるは神を愛せざる証拠であり、神に対する愛なきものはキリストとの霊の交わりに入ることができない。
辞解
本節は前節と対立し、第3節の思想を敷衍している。すなわち「彼を知る」(3節)ことは「彼を愛し」「彼に在る」ことである。然らずして真に彼を知ることはできない。
[全うせらる] 神に対する愛は、それが実行となって始めて完 きを得、それまでは不完全であり中途半端である。
[神の愛] この場合神に対する愛のこと(M0、H0)。これを神が人を愛する愛と解する説もある(B1、E0)。これによれば「神が人を愛する愛は人がその言を守ることによりてその目的を達した」という意味となる。
2章6節
口語訳 | 「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。 |
塚本訳 | 神(との交わり)に留っていると言う者は、キリストが歩かれたように、その人も(神に従順に)歩く義務がある。 |
前田訳 | 彼のうちにとどまるというものは、彼が歩まれたように歩まねばなりません。 |
新共同 | 神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。 |
NIV | Whoever claims to live in him must walk as Jesus did. |
註解: 「居る」とは生命の共通なる状態を示す。従ってその生命の発露たる行動もまた同一であるべきである。キリストに「居る」者はキリストのごとくに生活する。
辞解
「彼を知る」(3、4節)、「彼に在る」(5節)、「彼に居る ─ 彼の中に留る」(6節)は同一事実ではあるがその程度において次第に高さを増している。
▲「居る」はmenôでヨハネ特愛の語である。本書簡の中に24回用いられている(中には「とどまる」「ある」等と訳されている場合もあり)。霊交の密なることを意味する。
要義1 [キリストに在る歩み]光に在りて歩むこと(Tヨハ1:5−10)はまた同時にキリストに在りて歩むことである。キリストに在りて歩む者は彼の御言を守る者であり、また彼を愛し彼を真に知る者である。かかる者の歩みはキリストの歩みのごとく高く潔き歩みをなす。もし万一罪に陥る場合、このキリストは助け主「パラクレートス」として父の前に我らを執成 し給う。徹頭徹尾キリストに在るの生活、これすなわち真のキリスト者の生活である。
要義2 [我らのパラクレートス]キリストは我らの生命であり、能力であり、そして助け主である。内より我らを動かし、外より我らを導き、そして神の前に我らを執成 し給う。彼を離れて我らは生命なく、能力なく、我らの罪は神の前に執成 しを受けることができない。イエス・キリストこそまことに我らの福音である。
2章7節
口語訳 | 愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。 |
塚本訳 | 愛する者たちよ、わたしは(何も今までになかった)新しい掟をあなた達に書いているのではない。むしろ(イエスが来られた)始めからあなた達が持っていた古い掟である。古い掟というのは、あなた達が(かつて)聞いた御言葉である。 |
前田訳 | 親愛な方々よ、お書きしているのは新しいいましめではなく、はじめからお持ちの古いおきてです。古いおきてとはお聞きになったことばです。 |
新共同 | 愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。 |
NIV | Dear friends, I am not writing you a new command but an old one, which you have had since the beginning. This old command is the message you have heard. |
註解: 7−11節は1−6節の「誡命 を守る」ことより説き及ぼして、その誡命 とは如何なるものなるかを叙述している。ヨハネが書き贈らんとする誡命 は決して新奇なるものではない(新奇なるものはやがて間もなく滅亡するのが常である)。「汝ら互に相愛すべし」(9−11。Tヨハ3:11、Tヨハ3:23。Uヨハ1:5。ヨハ13:34)なる誡命 は人類殊に神の選民たるイスラエルには始めより律法として与えられていた処であり、従って汝らもキリスト者となってからは勿論のことその前から有っていたところであり(eichete)またキリスト者となってからは我ら使徒たちから聞いたところの(êkousate)言である。
辞解
7、8節は種々の点に難解である。「初より」を多くの学者(A1、B1、C1、H0、M0、E0)はキリスト者となりし始めよりの意に解す、予は少数の古代学者と共に上述のごとくに解した。次節後半との対照上かくあるべしと思うからである。「誡命 」の何たるかにつきてヨハネは明示しない。これは読者に明らかであるからに相違なく、かかる誡命 は、誡命 中の誡命 すなわち「互に相愛すること」に相違ない。この教訓は古今東西の多くの聖賢により凡ての人間に与えられた所でありまた凡ての誡命 の基本、その総合である(ロマ13:8−10)。これをキリスト者のみの専有のごとくに考えるが故に「初より」を「キリスト者となりし始めより」と解するような誤りに陥る。古代教父の解が正しい所以はここにある。殊に「有てる」は未完了過去形、「聞きし」は不定過去形を用いていることに注意すべし。また「誡命 」を6節の「イエスのごとく歩むべし」の誡命 と解する説あり、結果は同じことになるけれども、「初より」を以上のごとくに解する以上この説は不適当である。なおパウロは「律法」と言い、ヨハネは「誡命 」なる文字を用いている。「愛する者よ」は新たなる注意を喚起せんとする時に用いられる(引照1参照)。
2章8節
口語訳 | しかも、新しい戒めを、あなたがたに書きおくるのである。そして、それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。 |
塚本訳 | (しかし他方から言うと、)新しい掟をわたしは(いま)あなた達に書いているのである。これが(新しいということは、)キリストにおいても、あなた達においても(知り得る)まことの事実である。なぜなら、(この愛の掟はキリストによってはじめてこの世に現われ、あなた達は彼を知ることによって、はじめてこれを知ることが出来たからである。その証拠には、キリストによって)暗闇は(徐々に)消え去り、まことの光が(おぼろげながら)すでに輝いている。 |
前田訳 | しかも新しいいましめをお書きしています。それは彼ご自身にあって、またあなた方にあって真理です。闇は去り、まことの光がすでに輝いているからです。 |
新共同 | しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。 |
NIV | Yet I am writing you a new command; its truth is seen in him and you, because the darkness is passing and the true light is already shining. |
註解: ヨハネの書き贈る処は、前述のごとく旧き誡命 ではあるが、さらに言い換えてみれば(palin)それは新しき誡命 であり、その新しいということは(ho)キリストにおいてもキリスト者たる汝らにおいても事実であり、全く新しき誡命 としての意義を顕わしている。この旧き誡命 が今やかく新しきものとなった所以は(hoti)真の光なるキリスト(ヨハ1:9)来り給いて、その完全 き徳光の輝きが現に今照り渡り、「愛」がその完全なる姿において顕わされており、そしてその反対に暗黒の世界、罪の世界は過ぎ去りつつあるからである。かくして旧き誡命 はさらに常に新しき誡命 として生気溌剌として進むのである。
辞解
[然れと・・・・・・また] 原語は palin(再び)なる文字であり、従って前に口にて伝えし処を「再び」筆にする意味(M0)に解する説あれども、上記のごとく対立的意味に解するを可とす。
[主にも汝らにも真なり] 主語 ho は「新しき誡命 の実体」と見るよりも(M0)、旧き誡命 が新しき誡命 であることの事実(H0)と解するを可とす。
[真なり] 実際その通りであること。
[その故は] 前文全体を説明する。
2章9節
口語訳 | 「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。 |
塚本訳 | (暗闇は憎み、光は愛である。だから)光におると言いながら、兄弟を憎む者は、いまも(なお)暗闇におるのである。 |
前田訳 | 光の中にいるといいながら兄弟を憎むものは、今なお闇の中にいます。 |
新共同 | 「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。 |
NIV | Anyone who claims to be in the light but hates his brother is still in the darkness. |
註解: 前節の「暗黒」より連絡を取り、愛の実行が愛の有無の証拠である所以を示す。愛なきもの、すなわちその兄弟を憎むものはたとい我はキリスト者で「光の中にいる」と口で言っていても、実は暗黒の中にいるのである。光と暗黒とは同時に同処に存在し得ざる故(Uコリ6:14)その人は真のキリスト者ではない。
辞解
[兄弟] 多くの学者は(H0、B1、M0)信仰の兄弟すなわちキリスト者同志のことを指すと解しており、かつ使徒時代以来キリスト者同志相互の間を兄弟と呼び合っていた事実はあるけれども、本書簡において兄弟愛を教える場合はイエスの教訓におけるごとくに一般の人または隣人の意味に解すべきである(マタ5:22以下。マタ7:3以下。マタ18:35。ルカ6:41以下。ヤコ4:11、12。A1、E0参照)。
「憎む」 「愛なき所には憎みあり、心は空虚ではない」(B1)
2章10節 その
口語訳 | 兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。 |
塚本訳 | 兄弟を愛する者は光に留まっている。そして彼につまずきはない。 |
前田訳 | 兄弟を愛するものは光の中にとどまり、彼にはつまずきがありません。 |
新共同 | 兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。 |
NIV | Whoever loves his brother lives in the light, and there is nothing in him to make him stumble. |
註解: 兄弟を愛する者は光の中に留まる者である。すなわち愛はキリスト者たることの実証である。かかる者の中に彼を躓かせるもの、彼を罪に墜 し入れるものはない。その眼は明らかであり、その行先は明瞭である。
辞解
[居り] menô で「留る」の意。
[顛躓 ] (1)自ら躓く原因と解すべきか。(2)人を躓かせる原因(マタ13:41。マタ18:7。ロマ14:13)と解すべきかにつき説が分れる。次節との対照上(1)を採る。
[その衷に] (1)彼の場合においては、(2)彼の生活の周囲には、(3)光の中には、(4)彼の中には等種々の解がある。(4)を採る。
2章11節 その
口語訳 | 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。 |
塚本訳 | これに反して、その兄弟を憎む者は暗闇におり、かつ暗闇を歩く。そしてどこへ行くのかわからない。暗闇がその目を見えなくしたからである。 |
前田訳 | 兄弟を憎む者は闇の中にあって闇の中に歩み、どこへ行くか知りません。闇が彼を目しいにしているのです。 |
新共同 | しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。 |
NIV | But whoever hates his brother is in the darkness and walks around in the darkness; he does not know where he is going, because the darkness has blinded him. |
註解: 愛あるものは眼明らかであって躓きなきに反し、兄弟を憎む者は暗黒の中にいる盲目者であり、その行く処を知らざる迷える者である。ここに憎悪の心の醜悪さを最も適切に記載しているのみならず、また光と暗、愛と憎、明と盲とが明瞭なる対立を示している。
辞解
「暗黒にあること」と「暗きうちに歩むこと」とは二つの異なる程度または階級を言うのではなく、同一事実をその状態と活動との二方面より示す。
[眼を矇 ます] 盲目にすること。
要義1 [旧くして新しき誡命 ]旧くして時代と共にその意義を失う誡命 はその時代以外には価値なきものである。新しくして一時その新奇なるの故をもって受入れられても時の経過と共にその新鮮さを失うものもまた無価値なる存在である。真に価値あるものは、それが永遠に旧くあると同時に常に新しきものでなければならない。「互に相愛すべし」との誡命 のごときはそれである。殊にイエス・キリストによりて愛の真の姿が示されてよりこの誡命 はさらに一層新たなるものとなった。
要義2 [愛と憎]愛にもあらず憎にもあらざる無関心の中間状態があることは普通に認められる事実である(W2)。しかしながら愛なき状態は憎の状態であると見るヨハネの見方は愛の本質を示す上において非常に適切である。真の愛の何たるかを知る者は、愛なき状態と憎の状態との間に何ら本質的の差別なきことを知るのである。生命なき処には死あるのみ、生命も死もなき状態は実は存在しない。同様に光のなき処には暗黒が存するのみである。光にもあらず闇にもあらざる状態はない。信仰も愛もそれが純真であるならば如何に小さくともそれ自身絶対の価値があり、罪は如何に小さくとも絶大の罪であることを知る者はヨハネのこの心持を覚ることができる。
2章12節
口語訳 | 子たちよ。あなたがたにこれを書きおくるのは、御名のゆえに、あなたがたの多くの罪がゆるされたからである。 |
塚本訳 | 子供たちよ、わたしが(この手紙を)あなた達に書くのは、キリストの御名のために、あなた達の罪は赦されているからである。 |
前田訳 | お子さん方にお書きするのは、彼のみ名のゆえにあなた方の罪がゆるされているからです。 |
新共同 | 子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/イエスの名によって/あなたがたの罪が赦されているからである。 |
NIV | I write to you, dear children, because your sins have been forgiven on account of his name. |
註解: 「若子よ」 teknia は全信徒に対する愛に充てる呼びかけである、次節の「父」および「若き者」はその内訳である(なお14節附記参照)。ヨハネは前節までにキリスト者の信仰の根本を述べ、さらに12−14節において、進んで彼らに対する薦奨を記している。すなわち本書簡を認 める所以およびかつて他の書簡や福音書を書き贈れる所以(「書き贈る」と「書き贈りたり」については附記参照)はその読者が未信者ではなく、すでに充分に信仰を得ている者であり、従ってこの書簡はその信仰を維持し、これを強め、これを高めんがためであることを読者に知らしめんがためである。ゆえにこの書簡の内容は決して初歩入門者のための乳ではなく、信仰の成人の固き食物であり、信仰の最高峰である。本書の難解なる所以はそこにある。第一にヨハネはこの書簡の読者が主イエスの御名の故にすなわち神の子にして、贖い主なるキリストを信ずるが故に罪を赦されているキリスト者であることを明らかにし、その故にこの書簡を認 めるのであることを述べている。未信者を信仰に導かんがためにあらず、既信者の信仰を高めんとしているのである。
辞解
[主の名によりて] 文法上、使10:43の場合と異なり罪を赦す働きを為す当事者を意味するのではなく罪を赦される理由を意味するのである。従って「主の御名の故に」と解するを可とす。
[主] この場合神ではなくキリストを指す。
[赦されたる] 現在完了形で、過去においてすでに赦され今もその状態にあること。
2章13節
口語訳 | 父たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである。若者たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、悪しき者にうち勝ったからである。 |
塚本訳 | 父たちよ、わたしがあなた達に書くのは、あなた達は世の始めからおられる方を知っているからである。若者たちよ、わたしがあなた達に書くのは、あなた達は悪者[悪魔]に勝っているからである。 |
前田訳 | お父さん方にお書きするのは、はじめからいますものをご存じだからです。若い方にお書きするのは、あなた方が悪者にお勝ちだからです。 |
新共同 | 父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。 |
NIV | I write to you, fathers, because you have known him who is from the beginning. I write to you, young men, because you have overcome the evil one. I write to you, dear children, because you have known the Father. |
註解: 信徒中の老年組が初めより在する者(Tヨハ1:1)なるキリストを知っていること(Tヨハ2:3)、すなわち信仰の中心を握 んで離さないこと egnôkate をヨハネはこの書を認 める理由として掲げている。
辞解
[父たち] 前節の「若子ら」が二分され本節の「父たち」 pateres および「若き者ら」 neaniskoi となる。
註解: 青年信徒の陥る弱点は悪しき者なるサタンの誘惑に敗 けることである。それ故にこれに勝っている信徒はヨハネにとりて至宝であった。かかる人に本書が宛てられるとすれば本書が信仰の最高の奥義を語るものであることは明らかである。
註解: これより以下の三つは「贈りたる」 egrapsa なる不定過去形となる(附記参照)。「子供らよ」 paidia は「若子よ」(12節)と異なる文字を用いているけれども、意味は同じく全信徒を指す。ヨハネは本書簡以前に福音書やその他の書簡(失われたものと解す、かく解する場合「この書を」と訳すことは不適当となる。この文字は12−14節に原文になし)を書き贈ったことがあるのであろうが、その理由もこの度の書簡と同じく彼らの信仰が進んでいる故にさらにこれを全うせんがためであった。「御父を知る」ことは12節と共に信仰の中心である。
2章14節
口語訳 | 子供たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが父を知ったからである。父たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである。若者たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが強い者であり、神の言があなたがたに宿り、そして、あなたがたが悪しき者にうち勝ったからである。 |
塚本訳 | 小さい人たちよ、私があなた達に書いたのは、あなた達は父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなた達に書いたのは、あなた達は始めからおられる方を知っているからである。若者たちよ、わたしがあなた達に書いたのは、あなた達は強くあり、神の御言葉があなた達に留っており、悪者に勝っているからである。 |
前田訳 | お子さん方にお書きしたのは、父(なる神)をご存じだからです。お父さん方にお書きしたのは、はじめからいますものをご存じだからです。若い方にお書きしたのは、あなた方が強く、神のことばがあなた方のうちにとどまり、あなた方が悪者にお勝ちだからです。 |
新共同 | 子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが強く、/神の言葉があなたがたの内にいつもあり、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。 |
NIV | I write to you, fathers, because you have known him who is from the beginning. I write to you, young men, because you are strong, and the word of God lives in you, and you have overcome the evil one. |
註解: 「子供」は「父たち」と「若き者ども」とに分れる。前節後半は神、本節はキリストについていう。
註解: 13節の「若き者」に対する言と同一であるけれども一層これを敷衍し、その「強き」ことと「神の言が衷 に留り」て彼らを離れざることとを加え、暗にこれらが因となりてサタンに打ち勝てることを述べて青年たちの優れた信仰を賞揚している。かくヨハネに賞揚せられたならば、如何なる信者も自ら奮励せざるを得ざるに至るであろう。
附記 [12−14節について]12−14節は二つに分れ、初めに「書き贈る」 graphô なる現在動詞三回、次に「書き贈れり」 egrapsa なる不定過去動詞が三回用いられ、前者には「若子ら」 teknia 「父たち」 pateres 「若き者ら」 neaniskoi の三種の読者あり、後者には「子供ら」 paidia 「父たち」「若き者ら」の三種がある。
動詞の時法の別につきて現在と不定過去の二種を用いし理由は或は(1)同一事の反復なりとし、または(2)書簡文体の無意味の修飾なりとし、または(3)この書簡の初めの部分を不定過去、後の部分を現在をもって表わすと解し(M0)、または(4)単に強き奨励を意味すとなし(B1)、または(5)現在形はヨハネの立場より言い、過去形は読者より見て言えるものと解し、または(6)過去形は第四福音書を指すとなし(H0)、または(7)これをヨハネが以前に書き贈りし、そして今は失われし書簡なりと解す。予は(6)(7)双方を含むものと解す。また読者の三階級つきての区分は、これを三つの別々の種類と解する(A2)よりも「若子」と「子供」とは一般のキリスト者と見、「父たち」と「若き者たち」をその中の内訳と見るを可とす(C1、M0、H0、A1その他)。
2章15節 なんぢら
口語訳 | 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。 |
塚本訳 | あなた達は(神を知らぬ罪の)世をも、世にあるものをも、愛してはならない。もし世を愛する者があったら、その人には父(なる神)を愛する愛はない。 |
前田訳 | 世も世にあるものもお愛しなく。世を愛するものには父の愛がありません。 |
新共同 | 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。 |
NIV | Do not love the world or anything in the world. If anyone loves the world, the love of the Father is not in him. |
註解: この場合、世とは神の敵すなわちサタンの支配下にあると考えられる世界である。世にある物とは神を離れし世界の人間ならびに諸事物すなわち次節に列挙されるごとき諸々の慾や誇りである。神を愛することとかかる世を愛することとは全く両立し得ない。愛は集注的である。神と財とに兼仕えること能わず、御父と世とを兼愛することができない。
辞解
[世にある物] 複数形を用う。
[愛す] agapaô を用う、世を愛する愛は聖愛ではないのにこの文字を用いるのは神に対する愛の地位に代る意味であろう。
[世] (1)単にこの世界またはその中の人間を意味する場合があり(ヨハ3:16)、また(2)単にこの世の亡ぶべき事物を意味する場合があるけれども、聖書においては主としてこれを神を離れし姿において観察するようになった結果、人間その他の被造物の神を離れしままの姿を意味す。
2章16節 おほよそ
口語訳 | すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。 |
塚本訳 | というのは、世にあるものはすべて、(すなわち)肉の欲も、目(から入ってくるさまざま)の欲も、また財産の自慢も、父のものでなく、世のものだからである。 |
前田訳 | すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、財産の誇りは父からでなく、世からのものです。 |
新共同 | なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。 |
NIV | For everything in the world--the cravings of sinful man, the lust of his eyes and the boasting of what he has and does--comes not from the Father but from the world. |
註解: ここにヨハネは御父すなわち神と世とを対立せしめ、世より出づるものすなわちその源を世に発して「世」の中にあるすべてのものは神に源を発するものと正反対であることを示している。「世」とは前節のごとく神を離れし世界である。そして「肉の慾」「眼の慾」および「所有の誇」の三者をもってほぼ「世にあるもの」を代表せしめることができる。すなわち「肉の慾」は人間の内部の欲求に駆られて神に従わざる慾望を追求すること。「眼の慾」は外に見える事物に心を動かし、これに対して慾念を燃やすこと、かくして内外の刺激によりて心が神に叛ける世界において慾望の奴隷となる。そしてこれらの慾望を満足しつつ生活しているものは、その生活に対して誇る心を起す、求むべからざるものを求め、誇るべからざるものを誇るのが世より出でし生活の実状である。
辞解
[おおよそ世にあるもの] 前節の「世にあるもの」は複数形であって、個別的に言い、本節の「世にあるもの」は単数で全体を統括している。「肉の慾」以下は、その内訳であるか例示であるかにつき諸説あれど、ヨハネは直観をもってこれを例示することによりその凡てを網羅することができたのであろう。また「慾」は心の中の主観的の事実であり、「世にあるもの」は客観的の事物であってこの二者相一致しないように思われるけれども、ヨハネの見たる「世にあるもの」とは、倫理観を離れたる単なる被造物そのものではなく、これらが神を離れし人間の慾求の対象となり、この慾求とその目的物とを一括して観察して言ったのである。「肉の慾」「眼の慾」等にも種々の異なった解釈があるけれども一々列挙しない(M0参照)。
[所有] bios は「生命」を意味するけれども、また生活の必要品等を指すこともある。
[より出づ] ek は起源を示す。
2章17節
口語訳 | 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。 |
塚本訳 | (この)世と、その欲とは消え去る。ただ神の御心を行う者が、永遠に生きながらえるのである。 |
前田訳 | 世は過ぎゆきます。欲もそうです。しかし神のみ心を行なうものはとこしえに残ります。 |
新共同 | 世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。 |
NIV | The world and its desires pass away, but the man who does the will of God lives forever. |
註解: キリストの再臨により神に叛ける世とその慾とは滅亡に帰せしめられ、反対に神を信じその御意 を行うものすなわち真のキリスト者は永遠の生命に甦り永遠に神と共に生きる。この天地の滅亡と復興とを眼中に置きて言えるもの(M0)。この希望を確実に握る者は世の慾に囚われることがない。
辞解
[過ぎ行く] Tコリ7:31。ヘブ12:27。ヤコ1:10。Tペテ1:24。
要義 [神と世の対立]神の造り給える被造物(人間をも含めて)は本来神のものであり、神に従っていた。然るに人類の始祖アダムの反逆によりて人類は神を離れて詛われるものとなり、地もこれと共に詛われるに至った。かくして人類も神の他の被造物と共にサタンの僕となったのである。ヨハネはこれを世またはこの世と称して神および神の国と厳然たる対立においてこれを観察しているのである。ゆえに「世」が進歩発展して神の国になるにあらず。「世」は神の審判の下に滅ぼされて過ぎ行き、神の国は永遠に保つのである。今日の世界を観察する場合も我らはこれをこの対立において見ることを要する。
口語訳 | 子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る。 |
塚本訳 | 小さい人たちよ、(いまや)最後の時である。反キリストが現われるとかつてあなた達が聞いたように、今や沢山の反キリストが出ている。このことから、(いまが)最後の時であることをわたし達は知るのである。 |
前田訳 | 皆さん、今は終わりの時です。反キリストが来るとお聞きのように、今や多くの反キリストが現われました。それでわれらに終わりの時とわかるのです。 |
新共同 | 子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。 |
NIV | Dear children, this is the last hour; and as you have heard that the antichrist is coming, even now many antichrists have come. This is how we know it is the last hour. |
註解: 今は末の時であることは当時の使徒たち信徒たちの共通の信仰であった(引照1参照)。しかしこれは当時の信徒が誤算をしたのではない。「神の国の永遠ということを思うならば、如何に長き時日でも我らには一瞬間のごとくに見えるであろう」(C1)。
辞解
[末の時] キリストの初臨より再臨に至るまでの期間を指すことがあり、またキリストの再臨直前の期間を言う、本節の場合この後者である。
註解: 非キリスト(▲口語訳は「反キリスト」と訳す)が多く生じたことが澆季 の世、終末の時であることの証拠である。キリスト再び来り給う前に「非キリスト来るならん」ということは当時のキリスト者が使徒たちから聞いて知っているところであった。今やその時が来たのである。
辞解
[非キリスト来るならん] 世の終りにキリスト来る前に非キリストが来ることはユダヤ教以来の思想であり(ダニ7:25。ダニ8:25)キリストもほぼこれに類することを語り給い(マタ24:5、マタ24:24)パウロもユダヤ思想を継承して新約的思想を加味せるがごとき態度をもって「不法の人」「滅亡の子」のあらわるべきことを預言し(Uテサ2:3)、黙示録においても(黙12章−13章)キリストに敵するものとしてサタンの姿が描かれている。これらとヨハネのいわゆる非キリストとは同一物であって、何れもサタンをその主とする一つの精神の具体化せるものである。従って時には「多く」の非キリストとなりて顕われることあり、時には一人の人格において顕われることがある(Uテサ2:3)。ただしTヨハ2:22、Tヨハ4:3。Uヨハ1:7に非キリストが単数形にて用いられているのは、全種属を表示する意味であろう(B1、H0)。なお「非キリスト」Antichristos とは「キリストに対立するキリスト」の意でキリスト者に似ていながらこれと正反対なるものを指す。
2章19節
口語訳 | 彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。 |
塚本訳 | 彼らはわたし達の中から出ていった。しかし(もともと)わたし達のものではなかった。もしもわたし達のものであったら、(いつまでも)わたし達と一しょにいるはずだからである。ただすべてがわたし達のものではないことが知られるため(、彼らは出ていったの)である。 |
前田訳 | 彼らはわれらから出てゆきましたが、われらの仲間ではありませんでした。もし仲間であったら、われらのところにとどまったでしょう。彼らが去ったのは皆が皆、われらの仲間ではないことが明らかになるためです。 |
新共同 | 彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。 |
NIV | They went out from us, but they did not really belong to us. For if they had belonged to us, they would have remained with us; but their going showed that none of them belonged to us. |
註解: 「我らのもの」も「我らより出でしもの」とも訳することができ、ここに「より出でし」 ek が二つの意味に用いられている。第一は我らの仲間を離れて行ったこと、第二は我らに属するものにあらざることまたは我らにその源を発するにあらざることを意味す(16節)。すなわち非キリストが起ったのはヨハネを中心とする真の信徒団に属せしある人々が分離してキリストに背くにいたった結果であった。しかし彼らは本当の意味においてその教会に属したのではない。
辞解
[出でゆく、我等のもの] 共に ek なる前置詞(またはこれとの合成動詞)を用いているけれども前者は単に場所の関係を示し、後者は原因または所属を示す。
註解: ここに二つの重要なる真理を掲げている。その一は本当の信者同志であるならば分離することなきこと、その二は分離せる者が起りし所以は真の信仰と然らざるものとの区別が明らかにせられんためであったことである。ゆえに信徒らの分離は悲しむべきことであるけれどもこれによりて神の御旨があらわれる場合が多いことを思わねばならぬ(要義参照)。
辞解
[皆我らの屬 ならぬこと] 我らの教会もみな悉 くは真の信者だとはいえないとの意。
2章20節
口語訳 | しかし、あなたがたは聖なる者に油を注がれているので、あなたがたすべてが、そのことを知っている。 |
塚本訳 | そしてあなた達は聖者(キリスト)から油を注がれ(て聖者となっ)たのであるから、皆、(何が真理で、何が嘘であるかを)知っている。 |
前田訳 | あなた方も聖なる方からの油をお受けです。それで皆さんは知識をお持ちです。 |
新共同 | しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。 |
NIV | But you have an anointing from the Holy One, and all of you know the truth. |
註解: 真のキリスト者と非キリストとの区別は聖霊の油の有無による。聖なる者すなわちキリストより聖霊を注がれし者は凡てのことを知っており、従って過誤に陥ることがない。非キリスト的過誤に陥る者は聖霊を受けていない証拠である。
辞解
[聖なる者] キリストを指す(27、28節。Tヨハ3:3。マコ1:24。ヨハ6:69。使3:14。その他B1、H0、A1)。聖霊は神より来ると見るべき場合あり(ヨハ14:16。ヨハ15:26。Tコリ6:19)、従ってこの「聖なるもの」を神と解する説あれど(E0)、ここではキリストよりと見るを適当とす。
[油を注がれたれば] 直訳「油 chrisma を持つ、されば」で、油は旧約時代より国王、祭司、預言者等を任命する場合にその上に注がれその栄誉、職分、使命、権威等を表示する習慣が行われた。油は聖霊を意味し(Tサム10:1、Tサム16:13。詩45:7。イザ61:1)、「油注がれしもの」はキリスト christos で「非キリスト」はantichristos と対応する。
[凡ての事を知る] グノシス派が真の知識なきにかかわらず、自ら知ると称して他を無知と為すことに対する反駁 である。「凡て」はキリストについて知るべき凡てのこと。
2章21節
口語訳 | わたしが書きおくったのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、それを知っているからであり、また、すべての偽りは真理から出るものでないことを、知っているからである。 |
塚本訳 | わたしが(このことを)あなた達に書いたのは、あなた達が真理を知らないからではない、むしろそれを知っているからである。そして(また)、あらゆる嘘は真理から(出るの)ではないからである。 |
前田訳 | お書きしたのは、あなた方が真理をご存じでないからではなくて、ご存じだからです。そしてあらゆる偽りが真理から離れているからです。 |
新共同 | わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。 |
NIV | I do not write to you because you do not know the truth, but because you do know it and because no lie comes from the truth. |
註解: 前節のごとく「凡ての事を知る」ならば本節にヨハネが非キリストに関して書き贈る必要なきがごとくであるけれども、ヨハネがこれを書き贈る所以は、その読者に新しき知識を与えるためではなく、すでに知悉 していることをなお一層明らかにせんがためであることをここに明示しているのである。12−14節も同様である。
辞解
[この書を汝らに贈るは] 「我汝らに書き贈れり(または贈る)」で何を書いたかは他の場合と同じく明示されていない。この場合はこの書簡全体を指すと見るよりもこの部分を指すと見るべきであろう(次節との関係を見よ)。
最後の部分を「かつ凡ての虚偽は真理より出でぬに因る」と訳する説あり(A1)。少数学者の説であるけれども文法上この方が自然でありかつ意味も適切である。すなわち非キリストに関して書き贈る所以は読者が真理を知るが故であり、また非キリストのごとき虚偽は読者の知っている真理より出づるはずなき故である。
2章22節
口語訳 | 偽り者とは、だれであるか。イエスのキリストであることを否定する者ではないか。父と御子とを否定する者は、反キリストである。 |
塚本訳 | (それならば)だれが嘘つきか。イエスは救世主ではないと否認する者(、すなわち彼を単なる人間と見る者でなくして、だれであろう)。こんな者こそ反キリストであって、父と(その)子とを否認する者である。 |
前田訳 | イエスがキリストであることを否定する人が偽りものでなくて、だれが偽りものでしょう。その人は反キリストで、父と子とを否定しています。 |
新共同 | 偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。 |
NIV | Who is the liar? It is the man who denies that Jesus is the Christ. Such a man is the antichrist--he denies the Father and the Son. |
註解: 「偽者」に定冠詞あり「非キリスト」を指す、非キリストとはイエスとキリストとの同一なることを否定するものである。ヨハネ書の中心思想はイエスなる肉体を有てる人間がそのまま神の子キリストであり太初 より有りしところのものであるというのであって、この点を否定しまたは歪曲するものは非キリストである。すなわち(1)イエスをメシヤと信ぜざるユダヤ人は勿論のこと、その他(2)イエスを神と称しつつその永遠性を否定するもの、または(3)イエスなる人間の中に一時の間神が宿り給えりとするもの、または(4)人間イエスは実は神であり人間のごとく見えるのは一つの幻影であるとするもの、または(5)イエスをキリスト神の子と信ずと称しつつ事実上はあたかも然らざるごとくに取扱い人間は自己の功によりて救わると考えるごときものはみな非キリストであり今日も多く存する。
註解: 私訳「これ非キリストにして御父と御子とを否む者なり」(A1、M0)。「これ」は「偽者」を受く、「御父と御子を否む者」は「非キリスト」の同格的説明句である。すなわちイエスのキリストなることを否む偽者は前に言える非キリストであり、結局において御父と御子との双方を否む者であるというのである。その理由は次節にこれを説明する。
2章23節
口語訳 | 御子を否定する者は父を持たず、御子を告白する者は、また父をも持つのである。 |
塚本訳 | 子を否認する者は皆、父をも持たず、子を公然告白する者は父をも持っている(からである)。 |
前田訳 | 子を否定するものは父をも持ちません。子を告白するものは父をも持ちます。 |
新共同 | 御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。 |
NIV | No one who denies the Son has the Father; whoever acknowledges the Son has the Father also. |
註解: 「御子を否む」「御子を言ひあらはす」の「御子を」は共に「イエスが神の御子キリストに在し給うことを」という意味である。「御父を有つ」は父との間の完全なる霊の交わりにおいて存在すること。肉体を有ち給うイエスをそのまま神の御子キリストと信ずる時に我らは始めて真に神を知り、神が父に在し給うことがわかる。この信仰に入るまでの神は我らに遠き神であり、思想上の神である。ゆえに御子を否むことは御父をも共に否むこととなる。
辞解
[言ひあらはす] 告白するで、単に口舌上の告白ではなく心と行いをもって告白することでなければならない。
2章24節
口語訳 | 初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなたがたのうちにとどまっておれば、あなたがたも御子と父とのうちに、とどまることになる。 |
塚本訳 | あなた達は始めから聞いたことを(いつまでも)留めておかねばならない。もし始めから聞いたことがあなた達に留まっているならば、あなた達は(永遠に)子と父とに留っているであろう。 |
前田訳 | はじめからお聞きのことがあなた方のうちにとどまりますように。はじめからお聞きのことがあなた方のうちにとどまるならば、あなた方も子と父とのうちにおとどまりです。 |
新共同 | 初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。 |
NIV | See that what you have heard from the beginning remains in you. If it does, you also will remain in the Son and in the Father. |
註解: 「初めより聞きし所」はイエス・キリストに関する言で、上述せるごとき中心点である。これが心の中に留まっているならば、その人はすなわち御子と御父との間に霊の交わりを有ち、その中に永遠に留まっているのである。神の言は我らの衷 に働いて、我らをしてキリストの交わりに入らしめ、従って神との霊の交わりに入らしめるのである。
辞解
[居る] ヨハネ特愛の文字 menô で三回ここに用いている。永く留まって離れないこと。キリスト者とキリストおよび神との関係を表顕するに最も適当なる文字。
2章25節 (
口語訳 | これが、彼自らわたしたちに約束された約束であって、すなわち、永遠のいのちである。 |
塚本訳 | そして彼(キリスト)がわたし達に約束された約束のものこそ、この永遠の命である。 |
前田訳 | 彼ご自身がわれらにお伝えの約束、すなわち永遠のいのちはこれです。 |
新共同 | これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。 |
NIV | And this is what he promised us--even eternal life. |
註解: 「居る」「留る」等の思想は自ら未来に向って我らの心を動かす。それ故にヨハネはキリスト(彼)が我らに約束し給いし約束の何たるかを示して我らの心に希望を与える。この約束は永遠の生命が与えられることである。そしてTヨハ5:11、12の示すごとく、この永遠の生命は御子彼自身であり、永遠の生命をもつことは御子をもつことである。ゆえにキリストの約束は彼自身を与え給うことである。
2章26節
口語訳 | わたしは、あなたがたを惑わす者たちについて、これらのことを書きおくった。 |
塚本訳 | わたしはあなた達を迷わす者たちについて、これらのことを書いたのである。 |
前田訳 | 以上あなた方を迷わすものどもについてお書きしました。 |
新共同 | 以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。 |
NIV | I am writing these things to you about those who are trying to lead you astray. |
註解: これらのことは18節以下の非キリストのことで、彼らは事実信徒を惑わしてその信仰を乱さんとしている徒輩であった。ヨハネの静かなる文章も実は彼らに対する実戦であった。
辞解
[つきて] 非キリストといい偽者というはみな彼らのことである。
2章27節 なんぢらの
口語訳 | あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。 |
塚本訳 | しかしあなた達は、キリストから戴いた油(すなわち聖霊)が留っているのだから、だれからも教えてもらう必要はない。彼の油が万事についてあなた達に教えるように、またそれはまことであって、嘘ではない。そしてその油があなた達に教えたとおり、(つねに)キリストに留っておれ。 |
前田訳 | あなた方については、お受けの油がとどまっていますから、だれもあなた方をお教えする必要がなく、彼の油がすべてについてあなた方を教えます。それはまことで偽りがありません。彼がお教えのように彼のうちにとどまってください。 |
新共同 | しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。 |
NIV | As for you, the anointing you received from him remains in you, and you do not need anyone to teach you. But as his anointing teaches you about all things and as that anointing is real, not counterfeit--just as it has taught you, remain in him. |
註解: キリスト者は真に聖霊に充たされ聖霊に導かれるならば、凡ての真理を悟り得るはずであって、グノシス説を唱え自ら知識ありとする偽教師は勿論のこと如何なる人間といえども彼らを教える必要がない(ヨハ16:13)。
辞解
[注がれたる] 「受けたる」。
註解: (▲「居るなり」 menete は命令形ともなる(口語訳、RSV)。ただし次節を命令形に取る必要ある故重複となり適当でない。)原文は二様に訳し得る可能性あり、(1)「されどかれの油万事につきて汝らに教えるごとく、そは真正にして虚偽なくまたその教えしごとく汝らは主に居るなり」、(2)「されどかれの油万事につきて汝らに教えるごとく ─ そしてそは真正にして虚偽なし ─ またその教えしごとく汝らは主に在るなり」。日本改訳はこの何れとも一致しないけれども何れかというと(1)に近い。予は(1)を採る(M0、C1、L1)。(2)による学者もある(A1、E0、H0)。聖霊は凡てのことを教え、そして聖霊に教えられし者のみな経験するごとくそれには誤りもなくまた虚偽がない。そして汝らは聖霊の教えしごとくキリストの中に留まっているのであれば、もはや何人よりも教えられる必要がない。いわんや偽教師らにおいておや。「居るなり」は異本に「居るならん」とあり、この方不可なり。「この油」は異本「かれの油」とありこの方可なり。
辞解
[真にして虚偽なし] 主語は「油」であって「油の教える教え」(M0)ではない。
2章28節 されば
口語訳 | そこで、子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、彼が現れる時に、確信を持ち、その来臨に際して、みまえに恥じいることがないためである。 |
塚本訳 | さあ、子供たちよ、キリストに留っておれ。彼が自分を現わされるときに、(わたし達が喜びの)信頼を持ち、その来臨に際し彼に恥じないためである。 |
前田訳 | 今こそ、皆さん、彼のうちにおとどまりなさい。それは彼がお見えのときわれらが確信を持ち、来臨に際して彼から恥を受けないためです。 |
新共同 | さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。 |
NIV | And now, dear children, continue in him, so that when he appears we may be confident and unashamed before him at his coming. |
註解: 非キリストの多く現われている今の時に、何よりも重要なことは主の中に留まることである。主との交わりの状態を持続してこれより離れないものは主の再臨の時には確信と歓喜とをもって大胆に主を迎えることができ、恥じて彼の前を離れるようなことはない。12−14節においてこの書簡の読者は罪を赦され、キリストを知り、悪しき者に勝っている状態にあるけれども、永続的に主の中に留まる状態に達していない故これをヨハネはここに命じているのである。
辞解
[主の現れ給ふとき] 再臨の時をいう(コロ3:4)。「来り給ふとき」 parousia もこれに同じ。
[恥づること] 原語では「恥じて彼の面前を避くる」ごとき意味あり。
2章29節 なんぢら
口語訳 | 彼の義なるかたであることがわかれば、義を行う者はみな彼から生れたものであることを、知るであろう。 |
塚本訳 | もしあなた達がキリストの義であることを知っているならば、義を行う者は皆、神から生まれたのであることを知れ。 |
前田訳 | 彼が義にいますことをご存じならば、だれでも義を行なうものは彼から生まれたこともおわかりのはずです。 |
新共同 | あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。 |
NIV | If you know that he is righteous, you know that everyone who does what is right has been born of him. |
註解: 「主に居る」「主の中に留る」ということは義なる主と同じ生命に生きることであり、従ってかかる人は自ら義を行うようになる(Tヨハ3:7、Tヨハ3:10)。「主に居れ」と言いしヨハネは主にある者と義を行う者とが同一であることをここに示しているのである。
辞解
本節が一見前節との連絡が不明であり、かえって次章と内容を同じくする結果本節を次章の内容に加える分類の見方が多い(A1、M0、H0)。しかしながら緒言に示せるごとく、本書は明瞭に分類し難く、思想の連絡がリレー式なるより見れば、本節は2:18−28と3:1以下との連絡となっているものと見るべきである。
[主を正しと知らば] 「主」は原文になき故、主語が神なりやキリストなりやにつき論争あり、本節を前節と関連せしむる場合はこれをキリストと解すべく、次節に関連せしむる場合は神と見るべきがごとくであってやや不正確であるが予は第一説によった。聖書に「神より生れる」とあるけれども(Tヨハ3:1、Tヨハ3:9。Tヨハ4:7。Tヨハ5:1、Tヨハ5:4、Tヨハ5:18等)「キリストより生れる」なる思想がないことはその解釈の欠点であるけれども、本書簡においては神とキリストとが著しく接近している故(Tヨハ5:20)かかる特別の場合があり得ると解することができる。
要義1 [真のキリスト者と然らざるもの]「彼らは我等より出てゆきたれど、固 より我等のものに非らざりき。我らの属 ならば、我らと共に留りしならん。」(2:19)。ヨハネはこの一節によって、ヨハネおよびその教団と共に留まる者は真のキリスト者であり、それより分離する者は非キリストであることを断言している。これを形式的に解する場合は既成教会より分離する分離派 Separatists、独立派 Independents らはみな非キリストであることとなり、ルーテルもカルヴィンもウェスレーもバンヤンもみな非キリストであることとなる。しかしこれを内容的に解する場合には、聖霊のある処、キリストの中に留まる処に真の教会があり、これより分離する者が非キリストであることとなる。凡てのキリスト者は真に謙遜なる心をもって自分がキリストの中に留まっているか、またキリストが自分の衷 に在し給うかを顧みなければならない(Uコリ13:6)。
要義2 [分離は時に必要なり]分離争闘は常に望ましくはない。しかしながら時には義しきものと然らざるものとの区別のために分離が必要な場合がある(19節後半。Tコリ11:19)。相反するものが共に居ることは虚偽である。キリストにある者と然らざる者とは一体であり得ない。かかる場合には苟合 的平和よりも明瞭なる分離がかえって神のものとサタンのものとの区別を示すに効果がある。
要義3 [御子を否む者は御父をも有たず]神の存在を信じるけれどもキリストが神の子に在すことはこれを信じることはできないという人がある。かかる人の神に対する信仰は一つの観念であって生命ではない、キリストを神の子と信ずる者が真に神を父と信じ神との交わりに入ることができる。何となればキリストに顕われし神の愛を見るまでは人は愛の何たるかを知らず、従って真の父を知らないからである。
要義4 [イエスのキリストなるを拒む者]註の中に示せるごとくこの中には種々の場合を考えることができる。イエスはキリストなりとは肉体を有ち給うイエスが永遠の太初 より在し給いし神の子であると信ずる信仰である。これを理知的に説明するには種々の困難があり、そのために古来「キリスト論」は激しい論争の歴史を有っている。元来肉体を有ちて来り給えるナザレのイエスが永遠の神の子に在し給うことの信仰は不合理そのものであってこれを合理的ならしめんとする試みは必ず失敗する。従って多くの学説は理性の判断よりすれば何れも不完全である。しかしながらこのヨハネ書の態度のごとく、この不合理を超越してイエスをキリストと信ずる信仰の態度こそ信仰の根本であって、この信仰を枢軸として人生は一転し宇宙も一転する、この新しき人生観世界観の下において始めて不合理が合理化されるに至るのである。
第1ヨハネ書第3章
1-9 主に在る者は罪を犯さず
3:1 - 3:12
3章1節
口語訳 | わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。 |
塚本訳 | 見よ、父はなんとすばらしい愛を賜わったことか、わたし達は神の子(たるべき特権を与えられたの)であり、否、事実上すでに神の子である!この世は神を知らないために、わたし達(が神の子であること)を(も)知らないのである。 |
前田訳 | あなた方はどんな愛を父(なる神)がわれらにお与えかをご存じです。われらは神の子らと呼ばれました。そして事実そうなのです。このために世はわれらを認めません。世は彼を認めなかったのです。 |
新共同 | 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。 |
NIV | How great is the love the Father has lavished on us, that we should be called children of God! And that is what we are! The reason the world does not know us is that it did not know him. |
註解: 私訳「・・・・・・我ら神の子と称えられんとは。(▲または口語訳のようにも訳すことができる。)而して我ら神の子たり」。ヨハネはこれよりキリスト者が義を行い己を潔むべきことを教えんとして、まず神の我らに賜いし愛の如何に大なるかを読者に示した。すなわち神が我らを愛して我らを神の子と称えられるに至らしめ給うたことである。名は実の賓であって、我らは事実神の子である。元来神の敵であり神に背ける罪人なる我らが神の子と呼ばれることは唯みな神の愛のみより来るのであって、その愛の長さ深さ高さ広さは無限である(エペ3:18)。
辞解
[如何に大なる] potapos で本来「如何なる性質の」を意味するけれども、驚嘆の際等に用いてその大きさ等をも示す場合あり。
註解: 私訳「このゆえに世は我らを知らず、父を知らざるが故なり」(ヨハ5:18参照)。我ら神の子にしてこの世の子にあらざる故、世は我らの本質を理解しない。その故は世は父を知らず、従って父がその絶大の愛をもって罪人なる我らを子とし給うことを理解し得ないからである。それ故に神の子たちは絶大の光栄を保持しておりながら、この世においては塵埃 のごとくに無視され賤しめられる。
3章2節
口語訳 | 愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。 |
塚本訳 | 愛する者たちよ、わたし達は今神の子であるが、(最後の日に)どうなるか、それはまだ現われていない。(キリストが)自分を現わされるときには、わたし達は彼に似ているであろうことを知っている。その時わたし達は彼をありのまま(の姿)で見るからである。(それはわたし達が彼に似ている証拠、また見ることによって、いよいよ似た者になるであろう。) |
前田訳 | 親愛な方々、今やわれらは神の子らです。われらが何になるかは、いまだ見えません。しかしわれらは彼(キリスト)がお見えのあかつきには、彼に似ることを知っています。ありのままに彼を見ようからです。 |
新共同 | 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。 |
NIV | Dear friends, now we are children of God, and what we will be has not yet been made known. But we know that when he appears, we shall be like him, for we shall see him as he is. |
註解: 現在の我らの状態は神の子としては余りに貧弱である。神の子たる身分に相応しくない。しかも後に復活して永遠の生命に入る時の状態如何は未だ我らに顕わされない。これは未来において実現するのであって、今は唯我らの信仰の中に保たれる希望に過ぎない。我らの今日から知っていることは主イエス・キリストの再臨の時至れば我らは彼に似たものになるであろうということだけである。彼に似たものとなるであろうという訳は彼をその有りのままの姿において見奉るからである(Uコリ3:18。Tコリ13:12)。完全なる信頼をもって主の栄光を仰ぐ者は自らその姿に化する。ヨハネは我らの聖化をも単なる神の御業とせず我らの信仰をもこれに加えていることは注意すべきである。
辞解
[主の現れたまふ時] 「後いかん、未だ顕れず」を受けて「その現はれる時」と訳すべしと主張する学者あり(M0、A1 、H0)、かく解することも文法上および意味の上に差支えがない。
[見るべければなり] 主の真の状 を見ることがなぜに主に似るに至る理由であるかは理解し難いので、これを逆に「我らは本来罪人であって神(または主)の栄光の御姿を拝し得ないものであるが(出33:23)彼に似た者となればその御姿を見ることができるであろう」と解する(G1)見方があるけれどもやや文法的に無理がある故、これによらず上記のごとくした。
3章3節
口語訳 | 彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。 |
塚本訳 | 神にこんな希望を持っている者は皆、キリストが清くあるように、自分を清める。 |
前田訳 | だれでも彼についてその希望をもつものは、彼が清くいますように自らを清めています。 |
新共同 | 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。 |
NIV | Everyone who has this hope in him purifies himself, just as he is pure. |
註解: キリストに在るこの希望、すなわちキリスト再び来給う時に主のごとき姿に化し、栄光の主を目のあたりに見ることを得る希望をいだく者は、現在においてすでに自己の身分を自覚して、今より主の潔きがごとく潔からんことを力 める。我ら潔からずとも神は我らを潔き者として取扱うと唱えて己を潔くせんとせざる者は神の恩恵を肉の慾のために空費せんとする異端である。己を潔くするには自己の力によらず己の中に留まり給うキリストの力による(A2)。
辞解
「清き」「潔くす」と異なる文字を用いているけれども原語は同一文字 hagnos hagnizô である。
3章4節 すべて
口語訳 | すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。 |
塚本訳 | 罪を犯す者は皆、不法をも働く(者である)。そして罪は不法である。 |
前田訳 | だれでも罪を犯すものは不法をも犯します。罪は不法です。 |
新共同 | 罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。 |
NIV | Everyone who sins breaks the law; in fact, sin is lawlessness. |
註解: 前節「己を潔くす」の反対は罪を行うことである。「罪を行ふ」ことは「義をおこなふこと」(Tヨハ2:29、Tヨハ3:7、Tヨハ3:10)の反対で神の御意に反する行為を為すことであり、従って律法違反すなわち不法を行うことである。罪と不法とは同一である。
辞解
[罪をおこなふ] poieô を用う(ロマ7:15辞解「為さず」)。単に「罪を犯す」というよりも根本的なる罪の中に在る状態を指す。
[不法] anomia は律法違反の意味に主として用いられる。すなわち神の御意を無視し、これに違反する生活。
3章5節
口語訳 | あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。 |
塚本訳 | あなた達はキリストが(地上に)自分を現わされたのは、(人の)罪を取りのぞくためであることを知っている。その方の中には罪がないからである。 |
前田訳 | ご存じのように彼(キリスト)がお見えになったのは罪を除くためであり、彼のうちには罪がありません。 |
新共同 | あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。 |
NIV | But you know that he appeared so that he might take away our sins. And in him is no sin. |
註解: 4節に罪の性質を叙述し、6節に主にある者の罪を犯さざることを述べんとして本節に前の前掲たるキリストにつきて述べる。すなわちキリスト降生の目的は我らより罪を取り去り給わんがためであり、たしかにキリスト御自身には全く罪がなかった。ゆえにキリストに在る者は当然キリストによって罪を取り除かれ、キリストのごとくに生きて罪を犯さないはずである。「罪を犯すことを罷 めない者はキリストより来る恵沢 を虚 しくすることとなる。その故はキリストは罪の支配力を破壊せんがために来り給うたからである」(C1)。
辞解
[罪を除く] airô は「負う」および「除く」の二義あり、前者はキリストの十字架上の贖罪の死を意味し、後者は御霊が我らの中に働きて我らの罪を除去する働きを意味す。これに相当するヘブル語ナーサーもこの二つの意味がある故この二者を兼ねるものと解することができるけれども本節の場合は「除く」の意味が主となっている。ヨハ1:29辞解参照。
3章6節 おほよそ
口語訳 | すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である。 |
塚本訳 | (罪なき)彼に留っている者はだれも、罪を犯さない。罪を犯す者はだれも、彼を見たことがなく、知ってもいないのである。 |
前田訳 | だれでも彼のうちにとどまるものは罪を犯しません。だれでも罪を犯すものは彼を見も知りもしないのです。 |
新共同 | 御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。 |
NIV | No one who lives in him keeps on sinning. No one who continues to sin has either seen him or known him. |
註解: 「主に居る者」「主の中に留る者」は単に主を信じ主を知る等の語が表示するよりも一層深く主との霊交に生きること、「罪を犯さず」とは単に「罪の中に固執せず」(L1)とか「罪をして自己を支配せしめず」とかまたは「慣習的に罪を犯さず」というごとき意味ではなく、それよりも徹底的に事実「罪を犯さない」ということである。すなわち「主に居る」ということと「罪を犯す」ということとは全く相容れない事柄である。従って罪を犯す者はみなその霊眼をもって主を見しことなく、その霊の心をもって主を知りしことなき者、すなわち全く信仰を有たないものである。ゆえにキリスト者が罪を犯すことは全く有り得べからざることが起ったので、ゆえに非常なる悲嘆驚駭を与え彼を悔改めに至らしめるのである。キリスト者も罪を犯す場合があることはヨハネも断言している処であり(Tヨハ1:8−10。Tヨハ2:1、2。Tヨハ3:3)、本節と矛盾するがごとくに見える。この点につきては要義三参照。
辞解
[見る、知る] 共に霊的の意味である(B1)。
3章7節
口語訳 | 子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。 |
塚本訳 | 子供たちよ、あなた達はだれにも迷わされてはいけない。義を行う者は、神が義であるように、義である。 |
前田訳 | 皆さん、だれにもだまされないでください。彼が義にいますように、義を行なうものは義です。 |
新共同 | 子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。 |
NIV | Dear children, do not let anyone lead you astray. He who does what is right is righteous, just as he is righteous. |
註解: 罪を犯す者の反対は義を行う者である(Tヨハ2:29)。義を行う者にあらざれば義と称することができない。主イエスはかかる義人に在し給うた。義を行うことなくして義人たり得ると考えまたは教える者は人を惑わす者である。かかる者に惑わされてはならない。行為を無視して義とせられんとする者は誤れる信仰である。ただしこの場合義を行うことは前節「主に居る者」たることが前提であることは勿論である。
辞解
[義人なり] 「義なり」と訳して後の場合と一致せしむるを要す。義を行う活動は義なる性質の結果である。
3章8節
口語訳 | 罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。 |
塚本訳 | しかし罪を犯す者は悪魔の子である。というのは、悪魔は始めから罪を犯したからである。神の子が自分を現わされたのはそのため、(すなわち)悪魔の業をこわすためであったのである。 |
前田訳 | 罪を犯すものは悪魔の出です。はじめから悪魔は罪を犯しています。それゆえ神の子が悪魔のわざをこわすためにお見えなのです。 |
新共同 | 罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。 |
NIV | He who does what is sinful is of the devil, because the devil has been sinning from the beginning. The reason the Son of God appeared was to destroy the devil's work. |
註解: 前節とは正反対の場合、義を行う者は主にある義人であり、罪を行う者は主を離れし不義者であり悪魔より生れた者である。悪魔は本来罪を犯すのがその性質であり、これが悪魔の子らに影響する。
辞解
[初より] Tヨハ1:1の「初より」と同語なる故あたかも悪魔が永遠の昔より存在するがごとくに見え、異端マニ教の教理に類するように見えるけれども、ヨハネの意味は「本来」というごとき意味ならん。他にこの「初より」を「世界の始め」「天地創造の始め」「人類歴史の始め」「悪魔が悪魔となりし始め」「悪魔の最初の行為」等と解せんとする学者があるけれどもヨハネの心持はおそらく単に本来、元来というがごときものと解すべきであろう。
註解: 悪魔の業はその僕どもをして罪を犯させるに在る。キリスト現れ給いしは人々を罪より潔め悪魔の働く余地なからしめ、その働きを毀 たんためであった。キリストと悪魔とは徹底的に正反対の立場に立っている。
辞解
[毀 つ] luô はUペテ3:10−12のごとく「崩す」の意味あり(ヨハ2:19)。
3章9節
口語訳 | すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。 |
塚本訳 | すべて神(の力)によって生まれた者は罪を犯さない。神の(霊の)種がその人に留っているからである。彼は神(の力)によって生まれた(者である)から、罪を犯すことが出来ない。 |
前田訳 | だれでも神から生まれた人は罪を犯しません。神の種がその中にやどるからです。その人は神から生まれたがゆえに罪を犯しえないのです。 |
新共同 | 神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。 |
NIV | No one who is born of God will continue to sin, because God's seed remains in him; he cannot go on sinning, because he has been born of God. |
註解: 「生るる」は「生れし」と訳すべし。前節の正反対の事実で前節とよき対象をなす。神より生れし者は神の種すなわち神の性質の基本たるものがその中に留まる故に罪を行わない。また神より生れている故この新しき人は神に背ける不法の行為を為すことができない(道徳的不可能)。
辞解
[神の種] 「神の言」(Tペテ1:23。ヤコ1:18b)または聖霊(M0)と解する節あり、予はむしろこれを新たなる神性の意に解した。結局においてこれらの間に大差はない。
[罪を犯すこと能はず] 罪を犯す能力を失うのではなくその意思を失うのである。
3章10節
口語訳 | 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。 |
塚本訳 | 神の子と悪魔の子と(の区別)は、この点において明らかである。──(義を行う者、すなわち兄弟を愛する者は神から出た者であり、)すべて義を行わない者、また兄弟を愛しない者は、神から(出た者)ではない。 |
前田訳 | ここで神の子らか悪魔の子らかがわかります。だれでも義を行なわぬもの、兄弟を愛せぬものは神の出ではありません。 |
新共同 | 神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。 |
NIV | This is how we know who the children of God are and who the children of the devil are: Anyone who does not do what is right is not a child of God; nor is anyone who does not love his brother. |
註解: 前数節を受く、すなわち神の子と悪魔の子の差別はその口舌による信仰告白によらず、その頭脳による信仰の理論にあらず、その制度組織による教会所属如何によらず、義を行うか罪を行うかによる。
おほよそ
註解: これよりヨハネの論鋒は義を行うことよりついに愛を行うことに移って行く(ロマ13:8−10。ガラ5:14。コロ3:14)。ヨハネは兄弟を愛せぬ者は義を行わぬ者と同様神より出た者ではないことを述べ、以上において論ぜし凡てのことが兄弟を愛せぬ者に適用されることを示す。ここに「義」と「愛」との関係につきヨハネは触れていないけれども、愛は義の一部に非ず、その別名にもあらず、さらばとて義と相反するものにもあらず、神の御旨すなわち神の御言に照らしてこれに叶うものを義を称し、神の性質に叶うものを愛と称すと見て大差なきことと思う。すなわち真の愛は義であり、神の義は愛である。神においてのみ愛と義とは完全に一致する。要義四を見よ。
辞解
[兄弟] 信仰の兄弟と解する人があるけれどもむしろ一般の人間と解するを可とす(Tヨハ2:9、10、11。Tヨハ4:20、21。マタ5:22等のごとく)。
3章11節 われら
口語訳 | わたしたちは互に愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである。 |
塚本訳 | なぜなら、わたし達は互に愛さねばならぬこと、これがあなた達が(イエスが来られた)始めから聞いたおとずれだからである。 |
前田訳 | あなた方がはじめからお聞きのおとずれは、ほかならぬ互いに愛しあうことです。 |
新共同 | なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。 |
NIV | This is the message you heard from the beginning: We should love one another. |
註解: 本節は hoti ─ because をもって軽く前節と連絡す。汝らは福音を聴きし始めより互に相愛すべきことを聞いた。これが汝らの聞いている音信である。「音信」 angelia なる文字を用いし所以はこれが福音の本質に叶うからである(B1)。
辞解
[初より] ここでは福音を聞きし始めよりの意ならん。
[互に] キリスト者同志に限る必要はないが、キリスト者同志には最も強く適用される。
3章12節 カインに
口語訳 | カインのようになってはいけない。彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのである。なぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである。 |
塚本訳 | カインのようであってはならない。彼は悪者[悪魔]から出て、弟(のアベル)を殺害したのである。何ゆえに弟を殺害したか。彼の行いは悪く、弟の行いは正しかったからである。 |
前田訳 | それはカインが悪の出で兄弟を殺したのとはちがいます。何ゆえ殺したのですか。彼のわざが悪く、兄弟のわざが正しかったからです。 |
新共同 | カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。 |
NIV | Do not be like Cain, who belonged to the evil one and murdered his brother. And why did he murder him? Because his own actions were evil and his brother's were righteous. |
註解: アダムの子カインはその兄弟アベルを殺した(創4:8)。これは全くキリスト者同志の相愛の関係と正反対であって、彼は神より出でず「悪しき者」すなわちサタンより出で、義を行わず悪を行っていた。愛なき処に憎あり、彼はその兄弟を憎んでこれを殺したのである。我らはかかる者に倣 ってはならぬ。我らは愛なきカインにおいて悪魔より生れしものの姿を見、互に相愛するキリスト者において神より生れしものの姿を見る(16節)。
辞解
[殺す] 特に sphazô 「屠 る」を用いし所以はその行為の惨虐性を示さんがためである。
要義1 [神を見るの結果]3:2「主の現れ給う時われらこれに肖 んことを知る、そは我らそのさながらの状 を見るベければなり」(私訳)は、主の再臨の時彼をその有りのままの御姿において拝することが、我らが彼に肖 るに至る原因または理由であるとの意味であるが、この真意はやや難解であるために種々の無理な解釈を生んでいる。しかしながらUコリ3:18にも録されるごとく、真の信仰と愛と崇敬と驚異とをもって神またはキリストの栄光を仰ぎ見る場合は仰ぎ見る者の姿も自然に神またはキリストの栄光に似るに至ることは考え得ることである。かくしてキリスト再臨の時我らが栄光の体に化されることは我らの仰ぎ見る信仰の上に神の為し給う御業であると考えることができる。
要義2 [自己を潔めること]「凡て主による此の希望を懐く者は、その潔きがごとく己を潔くす」(3:3)なる一節に関し種々の問題がある。(第一)恩恵主義を誤れる意味に強調する者は、「我ら自己の努力によらず、神の恩恵によりて義とせられ、キリストの聖(きよき)が我らの聖となるが故に我ら既に神の前に潔き者である。ゆえに今さら己を潔くせんと努力するの必要がない」という、かかる者は本節により自己の誤りを見出さなければならない。(第二)ここに「己を潔くす」とは自力によりて潔くする意味でないことはヨハネが本書簡をすでに凡てを知っている信者に宛てていることより見て明らかである。すなわち信仰によりキリストの御霊の助けによりて自己を潔めるのである。この聖霊の力を受けるには我らに不断の祈りと戦いとが必要である。(第三)我らは一瞬間に全く潔められなければならないと称うる一派のキリスト者に対して本節はその誤謬を証する。その故は「潔くす」なる動詞は現在形であって永続的または反復動作を表わしているからである。
要義3 [信者は全く罪を犯さないか]6節および9節によればキリスト者は全く罪を犯さず、罪を犯す者はキリスト者でないということになる。しかしながらこれ明らかにヨハネ自身の思想(Tヨハ1:8−10。Tヨハ2:1、2。Tヨハ3:3)と相反しているのみならず、真面目なるキリスト者の実際の経験に反する。それ故にこの二節に対し種々の方法をもって矛盾なきものと為さんとの試みが行なわれている。例えば、
(一)キリスト者の霊は罪を犯さず、罪を犯すのはその肉であると解す(しかしながら、これは結局キリスト者も罪を犯すこととなる)。
(二)「主に居る程度だけそれだけ罪を犯さない」(A2)と解す。(これでは6節後半の意味不明となる)。
(三)死に至る罪を犯さない意味と解す(しかしここにかかる思想を挿入することは無理である)。
(四)罪の中に継続的に留まっていない意味と解す(L1。ロマ6:1、2。この解釈は最も事実には当っているけれども、ヨハネの心持をそのまま示していない)。
(五)ロマ7:20の意味と解す((一)の場合と同一)。
(六)グノシス派に対する論戦なる故極端に表顕せるものと見る(しからばTヨハ1:8−10はかえって論戦の妨害となる)。
(七)この二節の示すごとくキリスト者は全く罪を犯さないと主張する解釈(これは凡ての人間の実際に反する)。
以上のごとき諸種の解あれど(R.Lawによる)、いずれも満足ではない。要するにヨハネはキリストにある新たなる霊の生命の本質をそのまま表顕したものと見るべきである。罪を犯すことはキリスト者にとってその本質上有り得べからざることが起ったのである。かかることを念頭に置かずしてヨハネは大胆率直にキリスト者は罪を犯さず、また犯すこと能わずと断言したのである。
要義4 [義と愛]3:10の前半より後半に移り行くに従いヨハネの思想は「義」より「愛」に移行し、この間に何の差別なきがごとくに感じさせる。義と愛との関係は聖書殊に新約聖書において重要なる問題であるが、ヨハネはそこに何らの問題も存ぜざるがごとくにこの二者を取扱っているのをみる。然らばこの二者の関係如何。第一に愛は義の一部ではない。何となれば愛は律法の完成だからであるから(ロマ13:10)。第二に愛は義の別名でもない、この二語を取換える時意味を為さない場合が多いからである。第三に勿論愛と義は相反するものではない、キリストの十字架上の贖罪によりて神の愛と義とが相合致した。要するに義とは神の御旨、神の御言(律法)を基準としてこれに叶うものをいい、愛とは己を虚うせる心の姿をいう。人間の場合において義は愛なき義に陥りやすく、愛は義を無視しやすい、唯神においてのみその義は完全にその愛に一致する。何となれば神は愛に在し給い、その愛の言はそのまま最後の律法なるが故である。
要義5 [文字の末に拘泥することを避くべし]神の言なる聖書を尊重するあまりに、その一字一句を全体より切り離して、これを教理の論拠とするごとき態度を取るキリスト者は少なくない。これは聖書の言を軽んずる者と同じく多くの過誤に陥る。例えばTヨハ2:19より分離派を凡て非キリストと解するごとき、またTヨハ3:6より完全なる聖潔をキリスト者に要求するがごとき、またTヨハ3:8の「初めより」より悪魔の性質に関する異説を立つるがごとき何れもこの態度の誤りより生じたる過誤である。我らは一字一句のみに聖書の真理を求むることなく全体の精神に照合してこの一字一句の意味を汲取るべきである。聖書に矛盾が多い。これ生命の書の特質である。これに勝手に自己の意見を加えてこの矛盾を除かんとするは不可である。一字一句にのみ拘泥する時ついにこれらの誤解と牽強付会 とに陥らざるを得ない。
口語訳 | 兄弟たちよ。世があなたがたを憎んでも、驚くには及ばない。 |
塚本訳 | 世があなた達を憎むことを、兄弟たちよ、驚くに及ばない。 |
前田訳 | 兄弟よ、世があなた方を憎んでもお驚きなく。 |
新共同 | だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。 |
NIV | Do not be surprised, my brothers, if the world hates you. |
註解: カインがアベルを憎みてこれを殺せることに関連して、悪しき世が義を行うキリスト者を憎むことの当然であることを示す。ヨハ15:18、19参照。
3章14節 われら
口語訳 | わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている。 |
塚本訳 | わたし達は(神の子を信ずると同時に、もといた悪魔の支配する)死(と憎みとの世界)から、命(と愛との世界)に移っていることを知っている。なぜなら、わたし達は兄弟を愛するからである。愛しない者は(今もなお)死に留っている。 |
前田訳 | われらは死からいのちへ移されたことを知っています。それは兄弟を愛するからです。愛せぬものは死の中にとどまります。 |
新共同 | わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。 |
NIV | We know that we have passed from death to life, because we love our brothers. Anyone who does not love remains in death. |
註解: ヨハネにとりてここに生といい死というは、もとより肉体の生命の生死ではない。また単に永遠の生命と永遠の死のみを言うのでもない。この永遠の生と死が現在においてすでに自己の中に存在しこれを経験し得ることを述べているのである。人は皆愛する場合には生命の中におり、愛せぬ場合すなわち憎む時は死の中にいることを経験することができる。生と死は状態であり愛と憎はその働きである。
3章15節 おほよそ
口語訳 | あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。 |
塚本訳 | 兄弟を憎む者は皆、人殺しである。そして、すべて人殺しには、永遠の命が留っていないことを、あなた達は知っている。 |
前田訳 | 兄弟を憎むものはだれでも人殺しです、ご存じのように、どの人殺しのうちにも永遠のいのちはとどまっていません。 |
新共同 | 兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。 |
NIV | Anyone who hates his brother is a murderer, and you know that no murderer has eternal life in him. |
註解: 愛せざることは結局憎むことであり、憎むことは結局人を殺すことである。事実剣を取って殺さずとも心の中にすでに殺人罪を犯している。そして人を殺す者の中に愛の生命なる永遠の生命が有るはずがない。殺人犯は死刑に処される普通の事実から見てもこの道理は明らかである。いわんや永遠の生命をや。そしてこれは一面にその人の主観的事実としても同様のことを言うことができる。
辞解
[人を殺す者] 実際の殺人者をいう。
[知る] 霊的直覚によりまた霊の常識による。
[永遠の生命] 前節の生命に同じ。
[生命なきを] 「生命留らざるを」と直訳すべき文字であるが「留る」は堅く内在する意味ではあるが、必ずしも以前より持っている意味ではない。
3章16節
口語訳 | 主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。 |
塚本訳 | (神の子である)キリストがわたし達のために命を捨てられた(その)ことで、わたし達は(はじめて)愛を知った。だからわたし達も兄弟のために命をすてねばならない。 |
前田訳 | ほかでもなく、われらに愛がわかるのは彼(キリスト)がわれらのためにいのちをお捨てだからです。それで、われらも兄弟のためにいのちを捨てるべきです。 |
新共同 | イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。 |
NIV | This is how we know what love is: Jesus Christ laid down his life for us. And we ought to lay down our lives for our brothers. |
註解: 前節人を憎み人を殺す者の正反対は人を愛し人を生かさんがために己が身を殺す者である。主イエスは富にかかる生涯を送り給い、我らはこれによりて始めて愛の何たるかを知った。それまでの愛は愛と称するに足らざるものである。兄弟を愛することが我らの務めである以上は、我らもまた主イエスに倣 いて兄弟のために生命を捨つべきである。これでこそ真に愛ということができる(ヨハ10:11。ヨハ15:13。ロマ5:7、8)。
辞解
[生命を捨つ] tithenai は贖罪の死の意味に用いられる文字であるけれども、本節の場合は代償関係をあまりに強く見るべきではない。愛の問題が主であるから。本節後半も同様である。
3章17節
口語訳 | 世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。 |
塚本訳 | (手近な例であるが、)この世の財産を持っていて、その兄弟の必要を見ながら、しかも彼に対して憐れみの心を閉じる者があれば、どうして神の愛がその人に留っていることができよう。 |
前田訳 | おのが生計が立つのに、兄弟が困っているのを見て心をとざすものは、どうして神の愛がその人のうちにとどまるでしょう。 |
新共同 | 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。 |
NIV | If anyone has material possessions and sees his brother in need but has no pity on him, how can the love of God be in him? |
註解: 前節は愛の最高の場合であり本節は普通の場合である。この程度のことは何人もこれを実行しなければならない。愛ある者は兄弟の窮乏を見て必ずその心を動かす、もしその憐憫の心を閉じ兄弟の窮乏を見ぬふりをするならば、これその人の心の中には神を愛する愛なき証拠である。
辞解
[神の愛] 「神を愛する愛」(A1、M0、E0、B1、C1、H0)と解するのが適説であるが、ここでは「神的の愛」の意味に解すべきである。
3章18節
口語訳 | 子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。 |
塚本訳 | 子供たちよ、わたし達は言葉や舌でなく、業と真理とをもって愛しようではないか。 |
前田訳 | 皆さん、ことばや話でなく、わざとまことで愛しましょう。 |
新共同 | 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。 |
NIV | Dear children, let us not love with words or tongue but with actions and in truth. |
註解: 言と舌のみで実行これに伴わざる愛は虚偽である、愛は真実でないわけがない(ロマ12:9)。すなわち行為を伴うものでなければならない。キリスト教会の中にては口舌の愛の多きに苦しみつつあり。
3章19節
口語訳 | それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。 |
塚本訳 | それによって、わたし達は自分が真理(の子、すなわち神)から(出た者)であることがわかるであろう。すると神の前に自分の心を安んずることができる。 |
前田訳 | これによってわれらが真理からの生まれであることを知り、彼の前に心を安んじえます。 |
新共同 | これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、 |
NIV | This then is how we know that we belong to the truth, and how we set our hearts at rest in his presence |
3章20節
口語訳 | なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。 |
塚本訳 | たとえわたし達の心が自分自身を責めても、神はわたし達の心よりもえらいのであって、すべてを知っておられるからである。 |
前田訳 | たとえわれらの心が責めても、神はわれらの心より偉大で、すべてをご存じだからです。 |
新共同 | 心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。 |
NIV | whenever our hearts condemn us. For God is greater than our hearts, and he knows everything. |
註解: この二節は構文上の難関ありて種々に訳し得る可能性あることと、内容の難解なることとより多数の解釈を生ず。日本改訳の意味はおそらく、「行為と真実とをもって愛するものは真理にその源を有するものであり、たとい自己の良心が自己を責むることあるも、ロマ5:20のごとく神はそれよりも以上に我らの状態の憐れむべきを知り給い、我らの心よりも大なる心をもって我らを取扱い給う故に我らの心は神の前に安んずべきである」の意味に訳したのであろう(B1、L1の解釈)。予は(1)19、20節を21、22節と反対の立場を言えるものと解し、(2)「安んず」peithô をその普通の意義なる「確信す」「説服す」の意味に取り、その未来形を文法上の倫理的未来と解して次のごとくに私訳す、「これによりて我ら真理より出でしを知るべし。そして我らの心我らを責むる場合は我らは、神が我らの心よりも一層大に在し、かつ一切のことを知り給うことを神の御前に確認すべきなり」。すなわち我らの愛が行為を伴わず真実を欠くごとき場合は、我らの心(良心の意味に用いられている)は我らを責める。しかしながら神は一層強く我らを責め給う故に我らは神を恐れて良心の責めなきようにならなければならぬとの意味(Tコリ4:4)(この解はC1の解釈に似てやや異なる)、(または「・・・・・・かつ我らの心神の前に安んずべし、何となればもし我らの心我らを責めば(そは)神は我らの心よりも大にしてかつ一切のことを知り給うが故(なれば)なり」(A1)と解す。その他多くの訳し方につきてはA1、M0等参照。
辞解
本節にかく多くの翻訳と解釈を許す所以は(1)「安んず」 peithô は本来「説服する」の意味であるけれどもその結果として「確信し」または「確認する」の意味にも用いられ、またさらにこの確信の結果として心を「安ずる」の意味にも用いられるからである。本節の場合第三の意味に解する学者が多いけれども予は第二の意味に解した。(2)文章中に二つの hoti なる接続詞ありこの中第一は関係代名詞 ho,ti とも読み得ることと、この接続詞は英語の that および because の二つの意味があること、および(3)神が我らの心よりも大なることを神の審判の方面より見ると恩恵の方面より見るとの二様の見方があるからである。
[真理より出づ] 真理が我らの生命の源であること。この場合具体的にキリスト、神の言等と限定して解する必要がないがこれを排斥するわけではない。
3章21節
口語訳 | 愛する者たちよ。もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。 |
塚本訳 | 愛する者たちよ、もし心が自分を責めないなら、わたし達は神に対して確信を持つ。 |
前田訳 | 親愛な方々、もし心が責めなければ、われらは神に対して確信があり、 |
新共同 | 愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、 |
NIV | Dear friends, if our hearts do not condemn us, we have confidence before God |
註解: 前節の場合とは反対に心に責められる所なき場合は如何に神が凡てを知り給うといえども神に向って少しも懼れる処がない。心が誠であり、誠の愛を行為に表わしていることは信仰の極致であって、そこには神との完全なる平和がある(ロマ5:1)。前節を私解のごとくに解せざる場合は本節と前節との間の対立関係が不明瞭となり、「愛する者よ」と呼びかけし意味が不可解となる。
3章22節
口語訳 | そして、願い求めるものは、なんでもいただけるのである。それは、わたしたちが神の戒めを守り、みこころにかなうことを、行っているからである。 |
塚本訳 | そして(なんでも)願うものを、彼から戴く。なぜなら、彼の掟を守り、御前にお気に召すことをするからである。 |
前田訳 | 彼に求めるものをお受けできます。それはわれらが彼のいましめを守り、彼のおよろこびのことをみ前で行なうからです。 |
新共同 | 神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。 |
NIV | and receive from him anything we ask, because we obey his commands and do what pleases him. |
註解: 神の誡命 を守り御心にかなう所を行うということは、最も従順なる子供の態度である。信仰とはかくのごとき状態をいうのであって(マタ18:3、4)、かかる態度をもって神に対して祈り求むる時神はその凡てを与え給う、何となれば神の御心に反することを求めるはずがないからである。本節は祈りの聴かれる理由をその人の行為に帰しているので、これが信仰のみによりて義とするの教理と矛盾せんことを懼れ、原文の自然の意味を解釈によりて曲げてその教理を弁護せんとする人が多いけれども(B1、C1)ヨハネはパウロのごとき意味において信仰と行為とを区別せず、信仰をも行為をもこれを新しき生命そのものの姿として描写している。ゆえに本節の行為はパウロのいわゆる律法の行為にあらず、幼児のごとき信仰を有する者のその信仰より出づる行為である。
辞解
「誡命 を守る事」と「御心にかなふ所を行ふ事」とは同一(M0)ではない。後者は前者より一層広き範囲を指す。
3章23節 その
口語訳 | その戒めというのは、神の子イエス・キリストの御名を信じ、わたしたちに命じられたように、互に愛し合うべきことである。 |
塚本訳 | そして彼のおきてというのはこれである。──その(独り)子イエス・キリストの御名を信じ、彼がわたし達に命じられたように、互に愛することである。 |
前田訳 | 彼のいましめとはみ子イエス・キリストのみ名を信じ、彼がいましめをお与えのように、互いに愛することです。 |
新共同 | その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。 |
NIV | And this is his command: to believe in the name of his Son, Jesus Christ, and to love one another as he commanded us. |
註解: 前節の「誡命 を守り」を受けその内容を説明する。すなわち神の誡命 は信仰と愛とである。キリストに対しては信仰、相互に対しては愛、この誡命 はキリスト者の生活の全部を網羅する。
3章24節
口語訳 | 神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである。 |
塚本訳 | 神の掟を守る者は神に留り、神も彼に留っておられる。そしてわたし達はそのことで、(すなわち)神がわたし達に分けてくださった霊によって、神がわたし達に留っておられることがわかるのである。 |
前田訳 | 彼のいましめを守るものは彼の中にとどまり、彼はその人の中におとどまりです。これによって彼がわれらの中におとどまりと知ります。それはわれらにお与えの霊のおかげです。 |
新共同 | 神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。 |
NIV | Those who obey his commands live in him, and he in them. And this is how we know that he lives in us: We know it by the Spirit he gave us. |
註解: 前節の誡命 を守る者は神との完全なる霊交の状態において生きている者である。ゆえにこの誡命 を守ることはパウロのいわゆる律法の行為を行うこととは異なる。そして神との霊交はこの誡命 を守ることの原因でもなく、またその結果でもない。霊交は体すなわち本体で誡命 を守ることはその用すなわち活動である。そして神が我らの中にい給うことは神の与え給いし聖霊によりてこれを知ることができるのであって、聖霊を受けている者は、我らの中に神が在し給うことを知り、この神の働きによりて我らは神の誡命 を守るのである。かくして凡てにおいて凡てが神の御働きであることがわかる。
辞解
[御霊(聖霊)] 本書においてここに始めて録される。これが次章との思想の連絡となる。
[その賜ふところの] 「その賜いしところの」と訳すべきである。
要義1 [愛の生活]13−24節においてヨハネは愛の生活の一面を描写し、後にTヨハ4:7以下において他の方面に言及する。ここにヨハネの主として言わんとした処は愛の実行と愛の誠実さとである。そしてこの愛の生活を行う者と神との関係は、神に対する平和と、神との交わりと、幼児のごとく神に祈り神に聴かれる生活である。まさしくこの愛はキリストの愛のごとき愛であり、敵をも愛しそのために生命を捨てるところの愛である。かくして生命を捨てる者は真の生命に移っている者である。我らはここにその愛の生活の何たるかが最も明白に示されていることを見る。
要義2 [キリスト者は良心の責なしに在り得るや]21節によればヨハネはキリスト者は「心みづから責むる所」なき者であることを断言しているがごとくに見える。これはキリスト者は常に18節のごとき愛を持っているという意味にあらず、自己の罪と愛なきことに心付ける場合(19、20節のごとく)直ちにキリストに来りてその罪の赦しと執成しとを受け得るが故に心自ら責める所なく神に対して平和を得ることができるのである。