黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版第1テモテ書

第1テモテ書第1章

分類
1 挨拶 1:1 - 1:2

1章1節 (われ)らの救主(すくひぬし)なる(かみ)(われ)らの希望(のぞみ)なるキリスト・イエスとの(めい)によりて、キリスト・イエスの使徒(しと)となれるパウロ、[引照]

口語訳わたしたちの救主なる神と、わたしたちの望みであるキリスト・イエスとの任命によるキリスト・イエスの使徒パウロから、
塚本訳われらの救い主なる神とわれらの希望なるキリスト・イエスの命によってキリスト・イエスの使徒たる(われ)パウロより、
前田訳キリスト・イエスの使徒パウロから、われらの救い主にいます神と、われらの希望にいますキリスト・イエスの命によって、
新共同わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、
NIVPaul, an apostle of Christ Jesus by the command of God our Savior and of Christ Jesus our hope,

1章2節 [(ふみ)を]信仰(しんかう)()りて()眞實(まこと)()たるテモテに[(おく)る]。[(ねが)はくは](ちち)なる(かみ)および(われ)らの(しゅ)キリスト・イエスより[(たま)ふ]恩惠(めぐみ)憐憫(あはれみ)平安(へいあん)と、(なんぢ)に[()らんことを]。[引照]

口語訳信仰によるわたしの真実な子テモテへ。父なる神とわたしたちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とが、あなたにあるように。
塚本訳(わが)信仰の本当の子なるテモテに手紙を遣る。願う、父なる神とわれらの主キリスト・イエスよりの恩恵と憐憫と平安あれ!
前田訳信仰によるまことの子テモテへ。父なる神とわれらの主キリスト・イエスの恵みとあわれみと平和がありますように。
新共同信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
NIVTo Timothy my true son in the faith: Grace, mercy and peace from God the Father and Christ Jesus our Lord.
註解: パウロの他の書簡の冒頭の挨拶と同一の形式である。唯用語において著しき特徴あり。辞解を見よ。テモテのごとき永年の弟子に対して特更(ことさら)のごとくにパウロの使徒職を強調せる所以は、ある学者の唱うるごとく本書簡が偽造書簡なるが故にあらず、むしろ教会全体に読まれることを目的としたからである。
辞解
[救主] なる語はパウロの他の書簡中獄中書簡に二回用いられるに過ぎず、牧会書簡に最もしばしば(十回)用いらる。
[我らの希望なるキリスト・イエス] キリストの栄光の望(コロ1:27)とも言われ、キリストが我らを甦らしめ我らをして彼と共に彼の栄光に与らしめ給うが故に、我らにとりてはこのキリスト・イエスこそ「望」そのものである。ピリ3:20、21。Tヨハ3:3
[(めい)] パウロは他の書簡において「御意(みこころ)」なる語を用う。「御意(みこころ)」があらわれて「(めい)」となる故思想上に差別はない。
[真実の子] 「私生子」または「養子」に対す。「子」は特に teknon を用い、霊における生みの子たることを示す。
[憐憫(あはれみ)] が恩恵、平安に加えられているのはテモテ書特有である。

分類
2 テモテに対する諸種の注意 1:3 - 6:21
2-1 教理上の注意 1:3 - 1:20
2-1-イ 異なる教えに迷わさるな 1:3 - 1:7  

1章3節 (われ)マケドニヤに()きしとき(なんぢ)(すす)めし(ごと)く、(なんぢ)[なほ]エペソに(とど)まり、[引照]

口語訳わたしがマケドニヤに向かって出発する際、頼んでおいたように、あなたはエペソにとどまっていて、ある人々に、違った教を説くことをせず、
塚本訳私がマケドニヤに出かける時お前に頼んだように、(引き続き)エペソに留まり、或る人達に確と言いつけて、(福音と)違った教えを説かぬよう、
前田訳わたしがマケドニアに出かけるとき、あなたにエペソにとどまるよう頼みました。それは人々に異説を教えないよう、
新共同マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、
NIVAs I urged you when I went into Macedonia, stay there in Ephesus so that you may command certain men not to teach false doctrines any longer
註解: (▲「往きしとき」は「往きながら」)パウロはエペソに往く途中にマケドニヤを通過した(緒言参照)とき、彼はテモテに勧めて、エペソに留って次のごとき職務に従事せしめんとした。なお使徒行伝に録されしパウロの生涯の中には、かかる事実に適応すべき場合が無い。緒論に述べしごとくパウロがローマの幽囚より釈放せられし後に今一度東方諸国を歴訪せしものと見なければならぬ。
辞解
原文の構造は不完全なる故現行訳のごとく意訳する説多し。

ある人々(ひとびと)(めい)じて、(こと)なる(をしへ)(つた)ふることなく、

註解: 異なる教えとはパウロの福音に反対する教え、この場合は次節以下により律法に関する態度の差異より生ずる異説である。「或る人々」はパウロおよびテモテには知られているけれども、穏やかにことを進めんために特更(ことさら)に名を挙げなかった。私信であるが同時に一般会衆に当てられたものであることの一つの証拠である。

1章4節 昔話(むかしばなし)(きはま)りなき系圖(けいづ)とに(こころ)()する(こと)なからしめよ。[引照]

口語訳作り話やはてしのない系図などに気をとられることもないように、命じなさい。そのようなことは信仰による神の務を果すものではなく、むしろ論議を引き起させるだけのものである。
塚本訳昔話や果てしもない系図(の穿鑿)に気を取られないようにしてもらいたい。これらはただ理窟をこねるだけで、信仰による神の救いの計画の成就には(少しも)役立たない。
前田訳作り話や切りのない系図に凝らないようあなたが勧めるためでした。それらは信仰による神の経綸への奉仕をでなくて、煩悶を生み出すものです。
新共同作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。
NIVnor to devote themselves to myths and endless genealogies. These promote controversies rather than God's work--which is by faith.
註解: 「昔話」 mythos については種々の解釈があるけれども、明確なるものはない。ユダヤ人の間にグノシス的思想の影響の下に神より万物の流出することや、宇宙の歴史を区分する世代 aiônes に関して種々の荒唐無稽なる説が行われた。この種の架空の神秘なる物語を mythos という(▲▲現今では mythos を「神話」と訳する場合多し。)、また「窮まりなき系図」はこの「昔話」の説明と見るを可とす。これにも種々の解釈ありて一定しないけれども旧約聖書に関係ある系図、または神より派生する世代を無限に遡って行くことに興味を持つ処は無意義の穿鑿(せんさく)である。偽教師はこの種のことを熱心に探求することをもって重要のことと考えていたので、パウロはテモテに命じてかかる教師に勧めてこれに心を寄することなからしめんとした。

(これ)()のことは信仰(しんかう)(もとづ)ける(かみ)經綸(けいりん)(たすけ)とならず、(かへ)つて議論(ぎろん)(しゃう)ずるなり。

註解: 経綸 oikonomia はこの場合職(つとめ)と訳するを可とす。すなわち無限の系図を云々する「昔話」に沈溺することは神の福音を伝道し神の教会を牧する職を全うするのには役立たずして、かえって議論の基となるに過ぎない。
辞解
[助とならず] 「……よりもむしろ」と直訳さるべき句。
[経綸] oikonomia は「経綸」の意味と「職」の意味とあり、家令の職を指す(oikonomos は「家司」と訳さる)。

1章5節 命令(めいれい)目的(もくてき)(きよ)(こころ)()良心(りゃうしん)(いつは)りなき信仰(しんかう)とより()づる(あい)にあり。[引照]

口語訳わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。
塚本訳しかし(真の)伝道の目標は清い心と善い良心と偽らない信仰から生まれる愛である。
前田訳宣教の目標は清い心と正しい良心と偽りない信仰からの愛です。
新共同わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。
NIVThe goal of this command is love, which comes from a pure heart and a good conscience and a sincere faith.
註解: 命令は3、4節の命令である。これはある教師たちに与えられるのであるが、その窮極の目的は一般の信徒の愛を増すことである。そしてこの愛は如何にして得られるやというに第一は「清き心」(マタ5:8Uテモ2:22)であって、私心私慾に煩わされざること。第二は「善き良心」(Tテモ3:9Tテモ4:2はその正反対。Uテモ1:3)であって、ここでは神との間の罪の赦しによる良心の平和ではなく、内心に悪念をいだくことなき者の平安なる良心。第三は「偽りなき信仰」で真実なる心をもってする信仰である(Uテモ3:8はその反対)。かかる心よりは真実に対して偽りなき愛(ロマ12:9Uコリ6:6)が生ずる。信者をしてかかる者たらしむることが教師の目的でなければならず、またパウロがテモテをして与えしめんとした命令の目的である。
辞解
[目的] この場合窮極を意味す。

1章6節 ある人々(ひとびと)これらの(こと)より(はづ)れて(むな)しき物語(ものがたり)にうつり、[引照]

口語訳ある人々はこれらのものからそれて空論に走り、
塚本訳或る人達はこれらから外れて(今言うような)無駄話に向かったのであって、
前田訳これらからそれて、ある人々は空論に迷い込み、
新共同ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。
NIVSome have wandered away from these and turned to meaningless talk.
註解: 或る人々すなわち偽教師らは前節のごとき重要なる諸点(A1)より外れてさまよい出で、何の役にも立たざる無益の議論や空論に移って行った。

1章7節 律法(おきて)教師(けうし)たらんと(ほっ)して、(かへ)つて()()(ところ)その確證(かくしょう)する(ところ)(みづか)(さと)らず。[引照]

口語訳律法の教師たることを志していながら、自分の言っていることも主張していることも、わからないでいる。
塚本訳律法の教師を気取ってはいるが、(実は自分で)何を言っているのかも、何を懸命に証明しているのかも知らない。
前田訳律法の教師であることを志しながら、自らいうことを諭証することもわかっていません。
新共同彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています。
NIVThey want to be teachers of the law, but they do not know what they are talking about or what they so confidently affirm.
註解: これらの偽教師らは(いたずら)に律法の教師たらんことを欲しておりながら、彼ら自身何を言っているのか、その言う処を知らず、また何事について確証を与え、断言しているのかを自ら悟らない。無用の言辞(げんじ)(ろう)しているのである。信仰のことはそれが閑人の閑問題となる時、往々にして無益の研究や有害の論議に堕落する。

2-1-ロ 律法の真の効用を知れ 1:8 - 1:11  

註解: ▲8−11節は律法にもそれに相応しい用途があることを示す。そしてこれが「幸福なる神の栄光の福音に(したが)える」用途(11節)であって、律法と福音とは水と油のような関係にあるのではない。

1章8節 律法(おきて)道理(ことわり)(したが)ひて(これ)(もち)ひば()(もの)なるを(われ)らは()る。[引照]

口語訳わたしたちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである。
塚本訳しかし律法はその精神に従ってこれを用うれば善いものであることを私達は知っている──
前田訳われらは、律法を律法らしく用いれば、それがよいものであることを知っています。
新共同しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。
NIVWe know that the law is good if one uses it properly.
註解: ロマ7:12ロマ7:14)律法そのものが悪いものであるというのではない、律法には律法それ自身の用途がある。すなわち「道理に(したが)ひて」むしろ「規則に(したが)いて」「正当に」これを用うれば有益なるものである。如何なる用い方が正当であるかは9、10節に示すごとくである。
辞解
[道理(ことわり)(したが)ひて] nomimôs は「律法」 nomos に懸けて言っているので、競技等にて競技の規則を守ることを指す。律法には律法を用うべき場合があり、これを濫用して「昔話」「果しなき系図」等に移ってはならない。

1章9節 [律法(おきて)(もち)ふる(もの)は、]律法(おきて)(ただ)しき(ひと)(ため)にあらずして、[引照]

口語訳すなわち、律法は正しい人のために定められたのではなく、不法な者と法に服さない者、不信心な者と罪ある者、神聖を汚す者と俗悪な者、父を殺す者と母を殺す者、人を殺す者、
塚本訳すなわち律法は正しい人のためでなく、無法の者と不逞の者、不敬虔な者と罪人、不潔な者と涜す者、父殺しと母殺し、人殺し、
前田訳すなわち、律法は正しい人のためにあるのでなく、不法で手におえぬもの、不信仰で罪あるもの、神をけがす俗悪なもの、父殺し母殺し、人殺し、
新共同すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、
NIVWe also know that law is made not for the righteous but for lawbreakers and rebels, the ungodly and sinful, the unholy and irreligious; for those who kill their fathers or mothers, for murderers,
註解: 9、10節は分詞をもって前節の「用ひば」に連絡する。直訳すれば「律法は正しき人のために設けられしにあらずして不法のもの・・・・・・のために〔設けられし〕を考慮して」正当にこれを用うるならば、有益であるとの意味である。本節の場合「正しき人」「義人」は信仰によりて義とせられし人(M0、W2、A1)の意味であるか、またはマタ9:13の場合のごとく一般的に道徳的に正しき人の意味であるかにつき説が別れているけれども、本節の場合は後者とみるべきであろう(E0)。ただし前者も当然この「正しき人」の中に含まれることは勿論である。
辞解
この一句は前掲直訳のごとくであるが、日本文として適当でないので「すなわち律法は正しき者の為に設けられずして」と私訳するならば幾分原文に近い。

()(はう)のもの、服從(ふくじゅう)せぬもの、

註解: 以下の列挙は(ほぼ)モーセの十誡の順序と内容に(したが)ったもののごとくであるが、勿論厳密にかくする意図をもって録されたものではあるまい。「不法のもの」は律法を無視し、無律法的に行動するもの。「服従せぬもの」Tテサ5:14Uテサ3:6Uテサ3:11の「(みだり)なる」「(みだり)に」と語源を同じくし(その箇所註参照)、凡て秩序、規律、上長に服従せざるもの、反抗的なるものを指す。この二者は律法全般に対する反対の態度を指す。

敬虔(けいけん)ならぬもの、(つみ)あるもの、

註解: 神に対する畏敬の念なく、神に逆らいているものを指す。すなわち十誡の第一ないし第二に反する者。

(きよ)からぬもの、(みだり)なるもの、

註解: 「潔き」 hosios は神のためにささげられし潔さ、「(みだり)なる」は聖きものを涜す場合に用いる語、十誡の第四誡違反と見ることができる。ただしこれに準じて他の場合に応用することは勿論差支えがない。
辞解
[(みだり)なる] ヘブ12:16以外テモテ前後書に四回用いられるのみ、なおこの語の動詞形は安息日を「犯し」(マタ12:5)宮を「涜す」(使24:6)場合に用いらる。

(ちち)()つもの、(はは)()つもの、

註解: 十誡の第五誡違反である。なおこの原語は本来父を殺すもの母を殺すものと訳すべき語であるが、現行訳のごとく弱められし意味で父母を虐待し不孝を行う者にも用いらる。この場合何れに訳すべきかは説の分かれる処であるがパウロは次の諸例においても、最も極端なる例を掲げていることより見れば「父殺し母殺し」と訳しても可なるがごとくに思わる。ただしそれよりも軽い程度の不孝の罪は差支えないという意味にあらざること勿論である。

(ひと)(ころ)(もの)

註解: 第六誡違反である。

1章10節 淫行(いんかう)のもの、男色(なんしょく)(おこな)ふもの、[引照]

口語訳不品行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認むべきである。
塚本訳淫行の者、男色家、誘拐者、嘘つき、偽誓者のため、この他(凡て)健全な教えに反するもののためにあることを知って(用う)るならば!
前田訳不身持ち、男色者、誘かい者、うそつき、背信者のため、その他健全な教えにそむくもののためにあることを知っています。
新共同みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。
NIVfor adulterers and perverts, for slave traders and liars and perjurers--and for whatever else is contrary to the sound doctrine
註解: 第七誡違反およびこれに類する性的乱行。

(ひと)誘拐(かどはか)すもの、

註解: 暴力、詐欺、誘惑等によりて男女を奴隷とすることより来れる語、第八誡〔盗む勿れ〕の応用とも見ることができる。

(いつは)るもの、いつはり(ちか)(もの)(ため)

註解: 第九誡違反。

そのほか健全(けんぜん)なる(をしへ)(さから)(すべ)ての(こと)のために(まう)けられたるを()るべし。

註解: これは第十誡の適用と見ることができないけれども、十誡の最後「汝貪る勿れ」はある意味において十誡の要約ともまたは補遺(ほい)とも見得るごとく、この一句は全体の補遺(ほい)とも見ることができ、またかく見るべきであろう。
辞解
[健全なる] 牧会書簡特有の語、パウロの他の書簡にはなし。本来あるべき状態に在ること、不純や誤謬が混合ぜざること。

1章11節 これは(われ)(ゆだ)(たま)ひし幸福(さいはひ)なる(かみ)榮光(えいくわう)福音(ふくいん)(したが)へるなり。[引照]

口語訳これは、祝福に満ちた神の栄光の福音が示すところであって、わたしはこの福音をゆだねられているのである。
塚本訳そしてこのことは私(パウロ)が託された至幸なる神の栄光の福音によれば正に然りである。
前田訳これはさいわいにいます神の栄光の福音によるもので、わたしはそれをゆだねられています。
新共同今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。
NIVthat conforms to the glorious gospel of the blessed God, which he entrusted to me.
註解: 「我に委ね給ひし」は「我が委ねられし」と私訳す。本節は8節以下の全体に関連す。「幸福なる神」は天的祝福の源であり、また祝福そのものに在し給う神であり、その栄光すなわちその恩恵と正義とによりて救われることを教える福音がパウロに委ねられし福音である。この福音に(したが)えば律法の使命は正に上述の如きものである。
要義1 [好奇的宗教道楽を戒む]信仰の問題は、我等が神と人とに対して如何に生くべきかの真剣な問題であるけれども、往々にして好奇的問題の無用の穿鑿(せんさく)に堕することがあるのは、今日も昔も同様である。今日は所謂学問的興味のために信仰とは関係少なき問題に没頭することをもって信仰の要素なりと考うるごときすなわちこれであって、初代教会において昔話や系図に没頭するとその類を同うする。
要義2 [律法の誤用]律法は1:4−11に録されるごとく、これに違反する者に働きかくべき神の御言であるが、これを誤用して神の前に義とされるがための条件と考え、またはこれを好奇的穿鑿(せんさく)の対象となし、かくして律法をしてその本来の目的を達することを得ざらしめ、かえってこれを福音の敵たらしめ、または福音の純真さを妨害するものとならしむるのである。パウロはこれをモーセの律法につきて言っているのであるが、今日もこれと同様に聖言を誤用するに至ることは決して稀ではない。注意を要する所以である。

2-1-ハ パウロの救われし所以を見よ 1:12 - 1:17  

註解: 前節にパウロは福音を委ねられしことを述ぶると同時に、ここに立到れる凡ての過去の経歴が走馬灯のごとくに彼の目前にあらわれた。それ故に12−17節にパウロはこれを回顧して神に感謝をささげている。

1章12節 (われ)能力(ちから)(たま)(われ)らの(しゅ)キリスト・イエスに感謝(かんしゃ)す。[引照]

口語訳わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。
塚本訳私は(この尊いつとめを果たすに足る者とするため)私を強くし給うたわれらの主キリスト・イエスに感謝する。彼は私(如き者)を忠実なりとしてこの職に任じ給うたのである──
前田訳わたしに力をお与えのわれらの主キリスト・イエスに感謝しています。彼はわたしを忠実とおぼしめしてこの務めにおつけでした。
新共同わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
NIVI thank Christ Jesus our Lord, who has given me strength, that he considered me faithful, appointing me to his service.
註解: 次節の後半も本節に属している。「能力を賜ひし」はその回心の際のみならず、使徒の職に任じられし後にも彼はこの能力によりて働くことができた。パウロはその使徒職と共に、これに相応しき能力を主イエスより賜ったことを常に心に銘じていた。

1章13節 われ(さき)には(けが)(もの)迫害(はくがい)する(もの)暴行(ばうかう)(もの)なりしに、[引照]

口語訳わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。
塚本訳かつては(神を)冒涜する者、迫害する者、また暴逆を行う者であったこの私を! しかしそれは信仰の無い時に知らずにしたことであったため、憐れみを蒙り、
前田訳わたしは前には神をけがす迫害者で傲慢でした。しかしわたしが無知で不信のうちに行なったのであわれみを受けたのです。
新共同以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。
NIVEven though I was once a blasphemer and a persecutor and a violent man, I was shown mercy because I acted in ignorance and unbelief.
註解: 使8:1以下のキリスト教徒迫害の事実、ステパノの殺害、使9:1等パウロの一生涯を通じて彼に苦痛を与えし記憶はその迫害の事実であった。

(われ)忠實(ちゅうじつ)なる(もの)として、この(つとめ)(にん)(たま)ひたればなり。

註解: 前節の中に入れる方が正しい。前節註参照。
辞解
[者として] 「者と認めて」。

われ(しん)ぜぬ(とき)()らずして(おこな)ひし(ゆゑ)憐憫(あはれみ)(かうむ)れり。

註解: 不信仰は必ず無知を伴う。パウロの迫害はこの不信仰における無知の行動であった。ロマ5:20におけるごとく、無知の故に行う罪は神これをあわれみ給う(ルカ23:34)。

1章14節 (しか)して(われ)らの(しゅ)恩惠(めぐみ)は、キリスト・イエスに()れる信仰(しんかう)および(あい)とともに(あふ)るるばかり彌増(いやま)せり。[引照]

口語訳その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。
塚本訳われらの主の恩恵が、信仰とキリスト・イエスにある愛と共に(私に)溢れ漲ったのである。
前田訳われらの主の恵みがキリスト・イエスにあるまことと愛とともにいや増してきました。
新共同そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。
NIVThe grace of our Lord was poured out on me abundantly, along with the faith and love that are in Christ Jesus.
註解: 前節の「憐憫を蒙れり」は一見辛うじてパウロの罪が赦されし程度のごとくに見えるけれども然らず、キリストの恩恵はパウロに対して益々溢れるに至り、そしてこの恩恵に対する応答としてパウロのキリスト・イエスにある信仰と愛もまた同様に充ち溢れ、前の不信と無知と迫害との中にありしパウロとは正反対なる存在となってしまった。神の恩恵による驚くべき変化である。
辞解
[溢れるばかり彌増(いやま)せり] huperpleonazô は「増す」「彌増(いやま)す」等と訳される pleonazô にさらに huper(それ以上に)を加えて意を強めた語で唯一回用いられているに過ぎない。huper を加えて意味を強めることはパウロのしばしば用うる手段である。

1章15節 『キリスト・イエス罪人(つみびと)(すく)はん(ため)()(きた)(たま)へり』とは、(しん)ずべく(ただ)しく()くべき(ことば)なり、[引照]

口語訳「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。
塚本訳(まことに)「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来給うた」という言は信ずべく、また無条件に承認さるべきである。そしてこの私がその罪人の第一人者である。
前田訳「キリスト・イエスが罪びとを救うためにこの世に来られた」とは信ずべきことば、万人が受けとめうることばです。その罪びとの中でこのわたしこそ第一です。
新共同「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。
NIVHere is a trustworthy saying that deserves full acceptance: Christ Jesus came into the world to save sinners--of whom I am the worst.
註解: (▲これは福音の要約である。)キリスト・イエス云々は当時のキリスト者の間においては、信仰告白の要約のごとくに用いられていたのであろう。ヨハ3:16ヨハ16:28ルカ19:10等と共に簡にして要を得し表顕である。そしてこの語は真にして、何らの躊躇を要せず、狐疑逡巡(こぎしゅんじゅん)せずにそのまま全部信受すべきものである。これに対して昔話や(はて)しなき系図を研究して五里霧中に迷い入るごときことは為すべきではない。
辞解
[信ずべく正しく受くべき] 「真にして全き受納に値している」と直訳すべきで真にして偽りなく全心全霊をもってこれを受納れ納得すべきものであるとの意。Tテモ4:9と共に新約聖書中の特有の語法であるが、当時の社会においては多く用いられていたとのこと。

()罪人(つみびと)(なか)にて(われ)(かしら)なり。

註解: Tコリ15:9エペ3:8等と共に、罪人としての意識がここに豊かに発露している。これは単にそのキリスト教徒を迫害したという過去の回顧の結果ではなく、直接に神に対する罪悪意識である。絶対的なものである。ゆえに「(かしら)なり」であって「(かしら)なりき」ではない。キリスト者は何時までも救われたる罪人である。

1章16節 (しか)るに()憐憫(あはれみ)(かうむ)りしは、キリスト・イエス(われ)(かしら)寛容(くわんよう)をことごとく(あらは)し、この(のち)、かれを(しん)じて永遠(とこしへ)生命(いのち)()けんとする(もの)模範(もはん)となし(たま)はん(ため)なり。[引照]

口語訳しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。
塚本訳しかし(罪人の第一人者たる)この私が(特に)憐れみを蒙ったのは、イエス・キリストが(まず救いの)第一人者として私にあらん限りの寛容を示し、(私をして今後)彼を信じて永遠の生命に入ろうとする者の典型たらしめんために外ならなかった。
前田訳しかしわたしは神のあわれみを受けました。それはイエス・キリストがまず第一にこのわたしに全き寛容をお示しになって、彼を信じて永遠のいのちを受ける来たるべき人間たちの典型となさるためでした。
新共同しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
NIVBut for that very reason I was shown mercy so that in me, the worst of sinners, Christ Jesus might display his unlimited patience as an example for those who would believe on him and receive eternal life.
註解: パウロは罪人の(かしら)でありながら、しかも憐憫を受けて罪をことごとく赦され使徒の職に任ぜられた。かかる思いがけないことがおこったのは偶然ではなく、罪人の(かしら) なるパウロでさえも、かくキリストの全寛容(むしろ忍耐の意味を多く含む)を受け得ることを示し、罪人の(かしら) なるパウロすら信じて永生を受け得るならば、将来何人たりとも信じて永生に到り得ない者はないことの模範、見本とならしめんとの神の御旨であった。かくパウロは自己の回心の経験の全然神の御意が成就したのであることを信じ、その意義をかくのごとくに解していたのであった。パウロはその受けし憐憫について自己の価値によるものとは全然考えていなかった。そこにパウロの信仰の真の姿がある。
辞解
[我を(かしら) に] また「第一に我に」とも訳すことができるが、やはり現行訳の方が適当であろう。あるいはこの二つの意味を兼ねていると主張する説もある(A1、E0)。

1章17節 (ねが)はくは(ばん)(せい)(わう)、すなはち()ちず()えざる唯一(ゆゐいつ)(かみ)に、世々(よよ)(かぎ)りなく尊貴(たふとき)榮光(えいくわう)とあらん(こと)を、アァメン。[引照]

口語訳世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。
塚本訳万代の王、朽ちぬ見得ざる唯一の神に、栄誉と栄光代々限りなくあらんことを! アーメン。
前田訳世々の王、不朽で目に見えぬただひとりの神に、誉れと栄光がとこしえにありますように。アーメン。
新共同永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
NIVNow to the King eternal, immortal, invisible, the only God, be honor and glory for ever and ever. Amen.
註解: パウロは神の恩恵の偉大につき考うる毎に、自然に頌栄がその口より流れ出づるのを禁じ得なかった(ロマ11:36引照3を見よ)。
辞解
[(ばん)(せい)(わう)] 神を「王」と呼べる場合はTテモ6:15マタ5:35黙14:3のみである。ヘブル人の用語を用いたものであろう。ここに列挙せる神の三つの属性は、永遠ならぬもの、目に見ゆるもの、唯一ならざるものの神にあらざることを示す。かかるものはパウロにかくも大なる憐憫を与えることができない。
[尊貴(たふとき)] 人間よりささげらるべき尊敬。
[栄光] 神の義と愛。
要義1 [パウロに対する憐憫と我ら]パウロのごとき反逆者、迫害者すら主イエスの憐憫を受くることは凡ての罪人に対して大なる希望を与える処の事柄である。何となれば如何なる人といえども神の憐憫を受け得ざる者が無いことを知ることができるからである。
要義2 [罪人の(かしら)]パウロが自己を罪人の(かしら)と感じたことは、単なる卑下や謙遜ではなく、勿論口舌のみの偽善的卑下でもない。また自己のキリスト教徒迫害を後悔しているからでもない。人はその全心全霊を神の聖前に展開して神の審判の前に立つ時、何人も自己の罪の深さの絶対的であり比較を超越していることを知るのであり、この絶対的に罪人であることをパウロは罪人の(かしら)と呼んだのであった。何人も自己をかく呼び得る時、その時こそ神の審判の前に自己を置いたことの証拠である。人は神の恩恵によってこのことを示されるのであって、学問や人生の経験はこれを我らに教えない。ある学者は言う「パウロがそのキリストの教会を迫害せることを追憶して他の使徒たちと比較することを敢えてし得なかった事実を我らは理解することができる。しかしパウロが自己をイスカリオテのユダよりも悪しき罪人と考えたということは我らは考えることができない。この点がある他の人が、パウロの名において、しかもパウロの心からではなしに、表面的感じをもって、罪と回心との対照を、派手な色彩をもって描いているのであることが暴露されている」(W2)といい、本書のパウロの作にあらざることの一証としているごときは驚くべき無理解と言わなければならなぬ。学問のみでは聖書を理解し得ざる一例である。
要義3 [パウロの謙遜と高慢]パウロは時に非常に謙遜に見え(Tテモ1:15Tコリ15:9エペ3:8)時にはその反対に非常に高慢に見える(Uコリ11:5Uコリ12:11ガラ2:6)。これは矛盾ではなく双方ともパウロの本心より出でた実際の感情であった。そして前者はパウロが自己を神との関係において考えた場合であり、後者は自己を他の人間と比較した場合であった。多くのキリスト者は謙遜を形式的に解し、人の前に濫りに卑下しつつ、この態度をもって神の前に誇るの材料としているのを見る。これは大なる誤りである。

2-1-ニ 信仰のよき戦いを闘え 1:18 - 1:20  

1章18節 わが()テモテよ、(なんぢ)()したる(すべ)ての預言(よげん)(したが)ひて、(われ)この命令(めいれい)(なんぢ)(ゆだ)ぬ。これ(なんぢ)がその預言(よげん)により、信仰(しんかう)()良心(りゃうしん)とを(たも)ちて、()戰鬪(たたかひ)(たたか)はん(ため)なり。[引照]

口語訳わたしの子テモテよ。以前あなたに対してなされた数々の預言の言葉に従って、この命令を与える。あなたは、これらの言葉に励まされて、信仰と正しい良心とを保ちながら、りっぱに戦いぬきなさい。
塚本訳わが子テモテよ、曩に(伝道を委ねられる時)お前に向けて為された(度々の)予言に従い、(今)この命令をお前に与える。あの予言(を思い起こし、それ)によって(力づけられ、)
前田訳わが子テモテ、この任務をあなたに与えます。それは前にあなたになされたいろいろな預言に従ってのことです。それによってよい戦いを戦ってください。
新共同わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、
NIVTimothy, my son, I give you this instruction in keeping with the prophecies once made about you, so that by following them you may fight the good fight,
註解: この命令すなわち3節殊に5節の命令と見るべきである。パウロはこの命令をテモテに授けた。それはテモテが(さき)Tテモ4:14により長老たちの按手を受けし際、長老たちはテモテにつき種々の教訓、注意等を与えたのであったが、これが彼に先立てる預言であり、パウロはこれに(したが)ってこの命令を授けたのであった。テモテがその時の預言に示されし通りの人間であり、使命を持っていたと信じたからである。そしてこの命令の目的は、信仰と善き良心とを持ち、これを他のものと換えることなくして、その預言の通りに善き戦争を戦わんためであった。
辞解
[汝を指したる] 「汝に先だち行きたる」でこれがテモテの道案内者の役をするのであった。
[預言] テモテが按手を受ける際長老たちが預言した預言であろう。すなわち彼に諸種の注意、教訓、指導を与えたのであった。Tテモ4:14。これを預言と称する所以は聖霊に導かれて語ったからである。
[この命令] 何を指すかにつき諸説あり。上記註のごとく解す。
[(ゆだ)ぬ] paratithêmi は前に置くこと、[授く]とでも訳すべきであろう。
[その預言により] 「それらにおいて」でその預言に(したが)いての意、これは「善き戦争を戦ふ」にかかる。戦闘は戦争と訳するを可とす。

1章19節 (ある)(ひと)よき良心(りゃうしん)()てて信仰(しんかう)破船(はせん)をなせり。[引照]

口語訳ある人々は、正しい良心を捨てたため、信仰の破船に会った。
塚本訳(強い)信仰と善い良心を持って善き戦いを戦ってもらいたいためである。この良心を斥けて信仰に難破した者がある。
前田訳信仰と正しい良心をもってください。あるものはそれを捨てたため信仰について難破をしました。
新共同信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。
NIVholding on to faith and a good conscience. Some have rejected these and so have shipwrecked their faith.
註解: 人間の良き良心は信仰の戦争の武器であり信仰の船の航海に必要なるものである。これを棄てる時、もはや戦争は敗北であり、船は破船するより外にない。善き良心を棄つる者は、悪を行って恥じざるに至り、また空虚なる無意義なることに専念し、信仰は自然に破滅に帰する。

1章20節 その(うち)にヒメナオとアレキサンデルとあり、[引照]

口語訳その中に、ヒメナオとアレキサンデルとがいる。わたしは、神を汚さないことを学ばせるため、このふたりをサタンの手に渡したのである。
塚本訳その中にはヒメネオとアレキサンデルがいるが、これを懲らしめて涜を言うことを止めさせるため、私は彼らをサタンに引き渡した。
前田訳その中にはヒメナオとアレクサンデルがいます。わたしは彼らをサタンに渡しましたが、それは彼らが神を汚さないことを教わるためです。
新共同その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。
NIVAmong them are Hymenaeus and Alexander, whom I have handed over to Satan to be taught not to blaspheme.
註解: ヒメナヨについてはUテモ2:17にやや詳しく録さる。これと同一人と見るべきであろう。アレキサンデルはUテモ4:14の金細工人と同一人と見る説(A1、I0、W2)と不明と見る説とあり(M0、E0)、ただし使19:33のアレキサンデルとは別人ならんと見る説が通説であるが同人と想像することはあながち不可能ではない(使19:33註参照)。

(かれ)らに(けが)すまじきことを(まな)ばせんとて、(われ)これをサタンに(わた)せり。

註解: サタンに付すとは破門することを意味す。勿論中世カトリック教会のごとくに政治的権力行使がこれに伴っているわけではなく、唯パウロ自身または教会全体の意思によりて破門が行われた。主観的にはキリストを(かしら)として一体たることの関係が断絶せることを意味す。すなわち神の支配より離してサタンの支配に付してしまうことであり、客観的には信者としての交わりを断つことである。なおTコリ5:5にはサタンに付す場合その肉が亡ぼされることが録されている。これはサタンの力によりて肉に種々の不幸がおこると考えたのであった。本節の場合も同様の意味を有ったのであろう。そして破門の目的は彼をして神を涜すべきにあらざることを学ばしむるに在るのであって、決して私怨を晴らすためでもなく、また彼を亡ぼさんがためでもない。真の破門は愛の行為である。なおTコリ5:5要義参照。

第1テモテ書第2章
2-2 社会一般に対する態度 2:1 - 2:15
2-2-イ 王ならびに一般に対する態度 2:1 - 2:7  

2章1節 さればわれ第一(だいいち)(すす)む、[引照]

口語訳そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。
塚本訳だから何よりも先に勧める、凡ての人のために祈願、祈祷、代願、感謝を(神に)捧げよ、
前田訳そこで何よりもまず勧めます。願い、祈り、とりなし、感謝を、すべての人のために、
新共同そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。
NIVI urge, then, first of all, that requests, prayers, intercession and thanksgiving be made for everyone--
註解: パウロは本節よりテモテの牧する教会が全体として何を為すべきかを示している。すなわち教会が幾分団体的存在として固定し始めたと見ることができる。ただしこれをもって本書の成立の時代が第二世紀であるとするには充分な理由とはならない。教会がそれほど固定したものとするには理由が不充分である。

(すべ)ての(ひと)のため、(わう)たち(およ)(すべ)(けん)()つものの(ため)に、おのおの(ねがひ)祈祷(いのり)・とりなし・感謝(かんしゃ)せよ。

註解: キリスト者は往々にして教会のためにのみ特に祈っており教会以外の人を忘れることがあり、また神のことのみを思う結果、政治行政上の主権者主脳者等の恩を忘れる者もあった。殊にキリスト者が迫害に遭うごとき場合は往々彼らを無視しあるいは邪魔視することがあった。しかしパウロはキリスト者が凡ての人を愛し、殊に国家や社会を支配する責任を有する人々のためには、それらの人々の霊肉の幸福を祈り、また執成(とりな)しの祈りをなし、またそれらの人々の上に下る神の恩恵につきて感謝すべきである。
辞解
[王たち] ローマの王のみを指したのではなく一般に王たちとの意味である。ロマ13:1テト3:1Tペテ2:13、14。ただし各人は自己の上に立つ王のために祈るべしとの意味であること勿論である。
[願い、祈祷、とりなし、感謝] みな祈祷の種類である。

2章2節 (これ)われら敬虔(けいけん)謹嚴(きんげん)とを(つく)して、(やす)らかに(しづか)一生(いっしゃう)(すご)さん(ため)なり。[引照]

口語訳それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。
塚本訳特に王達及び凡ての高官達のために。これは私達が一生を穏やかに静かに、全き敬虔と謹厳とをもって過ごす(ことの出来る)ためである。
前田訳王たちとすべて高い地位の人のためになさい。それはわれらが静かでおだやかな人生を全き敬虔と品位の中にすごすようにです。
新共同王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。
NIVfor kings and all those in authority, that we may live peaceful and quiet lives in all godliness and holiness.
註解: 凡ての人および在上者のために祈ることによりて、それらの人々との間に心の平和ができ、それらの人々を敵視せざるに至る。すなわちあらゆる敬虔と謹厳とをもって生活することにより、静粛に、平静に(他より混乱されることなしに)一生を過すことができるようになる。
辞解
[「敬虔」「謹厳」] 「敬虔」「謹厳」等は牧会書簡特愛の語、謹厳 semnotês は威厳に充てる態度を意味す。
[「安らかに」「静かに」] 「安らかに」êremos は幽寂(ゆうじゃく)なる処に独静にいる意味であり、「静かに」 hêsykios は他より撹乱されることなき平静を意味す。前者は内的平静、後者は外的平静。

2章3節 ()くするは美事(よきこと)にして、(われ)らの救主(すくひぬし)なる(かみ)御意(みこころ)(かな)ふことなり。[引照]

口語訳これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。
塚本訳(かく凡ての人のために祈ること、)これは私達の救い主なる神の御前に善いこと、また御意に適うことである。
前田訳これはわれらの救い主にいます神のみ前によいことでみ旨にかないます。
新共同これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。
NIVThis is good, and pleases God our Savior,
註解: 「斯くするは」は第1節を主として指しているけれども、第2節の結果をも含むものと見て差支えがない。第1節のごとくに行うことは決して単なる儀礼でもなく、また社会生活上の妥協でもなく、それ自身善事であり、かつ神の前に嘉納される処である。ゆえにこれを行わなければならぬ。
辞解
[神の] 直訳「神の前に」。「美事(よきこと)にして」にも「神の前に」を懸けようとする説あれど(M0)その必要なし。

2章4節 (かみ)(すべ)ての(ひと)(すく)はれて、眞理(まこと)(さと)るに(いた)らんことを(ほっ)(たま)ふ。[引照]

口語訳神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
塚本訳神は凡ての人が救われ、真理の知識に達せんことを欲し給うのである。
前田訳神はすべての人が救われて真理を知るにいたることをお望みです。
新共同神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
NIVwho wants all men to be saved and to come to a knowledge of the truth.
註解: 神は万人の救われること、そして神の真理を悟るに至らんことを欲し給う。それ故に凡ての人のために祈ること(1節)、殊にその救いにつきて祈ることは、神の御意にかなうことである。

2章5節 それ(かみ)唯一(ゆゐいつ)なり、また(かみ)(ひと)との(あいだ)中保(なかだち)唯一(ゆゐいつ)にして、(ひと)なるキリスト・イエス(これ)なり。[引照]

口語訳神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。
塚本訳(しかし何故凡ての人が救われるか。)それは(天上天下、)神はただ一柱であり、神と人との(間の)仲介者もただ一人、(すなわち)人なるキリスト・イエス、
前田訳神はひとりにいまし、神と人との仲立ちもひとり、すなわち人にいますキリスト・イエスです。
新共同神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
NIVFor there is one God and one mediator between God and men, the man Christ Jesus,
註解: 4節の理由を掲げると共にキリストの福音の唯一性を示す、万人救済の根拠は神が唯一であるからである。多くの神々ありと考うる者は、他の人々の救いは他の神々に委せることとなる。また神と人との間の仲保(ガラ3:19、20。ヘブ8:6ヘブ9:15)も唯一である。すなわち人間なるキリスト・イエスである。キリスト・イエスは神より見れば人間は神に対し彼のごとき者たるべきであり、人間より見れば神は人間に対して彼のごときものたらんことを理想とする。すなわち人となり給える神であり、神に等しき人である。それ故に彼のみ神と人との仲保となることができる。仲保の必要は、神は人間に対してあまりに聖であり、人は神に対してあまりに罪深いからである。神は唯一にして仲保も唯一なるが故に、キリスト・イエスに由らずして何人も神に至ることができない。

2章6節 (かれ)(おのれ)(あた)へて(すべ)ての(ひと)贖價(あがなひ)となり(たま)へり、[引照]

口語訳彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない。
塚本訳凡ての人のために身代金として自分を与え給うた彼(だけ)であるからである。そして(今や定められた)その時が来てこのことが(神によって)証明され、
前田訳彼は自らを万人のためにあがないとしてお与えでした。それは定められた時での証です。
新共同この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。
NIVwho gave himself as a ransom for all men--the testimony given in its proper time.
註解: 私訳「彼は凡ての人のための贖價(あがない)として己を与え給えり」。イエスはその全生涯を与え、ついに十字架上にその生命をも付し給うた。これは凡ての人を愛したからである。この生涯とこの死との代価により、罪の下に囚われていた凡ての人類は罪の束縛より贖い出されて神のものとなったのである。唯これを信ぜざる者のみがその不信によりて神に敵しているのである。
辞解
[己を(あた)へて] 「己を(わた)す」と同じ意味であるが、「(わた)す」 paradidômi は死に(わた)すことの狭き意味に用い「(あた)ふ」 didômi は広き意味に用う。また「己を(あた)ふ」は「己が生命を(あた)ふ」マタ20:28マコ10:45よりも広き意味なり。
[凡ての人のため] 万人救済説の根拠となる。初めよりある人を滅亡に予定したと唱うる予定説は成立たない。また凡ての人のために祈る理由および必要はここにある。
[贖價(あがなひ)] antilutron は「贖價(あがない)」と訳されし lutron よりも対価の観念が強い。

(とき)(いた)りて(あかし)せらる。

註解: 私訳「これ己が時における証なり」「己が時」は神の定め給える時であって、キリストのために備えられていた時を指す。「証」は神の愛と人類の救いに関する証である。

2章7節 (われ)これが(ため)()てられて宣傳者(せんでんしゃ)となり、使徒(しと)となり((われ)(まこと)()ひて虚僞(いつはり)()はず)また信仰(しんかう)(まこと)とをもて異邦人(いはうじん)(をし)ふる教師(けうし)となれり。[引照]

口語訳そのために、わたしは立てられて宣教者、使徒となり(わたしは真実を言っている、偽ってはいない)、また異邦人に信仰と真理とを教える教師となったのである。
塚本訳私はそのための宣教者また使徒、異教人の信仰と真理の教師とされたのである──私は本当のことを言うので、虚言をつかない!
前田訳このためにわたしは宣教者また使徒として立てられたのです。わたしは真実を語るのでして、偽ってはいません。わたしは信仰と真理のための異邦人の教師です。
新共同わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。
NIVAnd for this purpose I was appointed a herald and an apostle--I am telling the truth, I am not lying--and a teacher of the true faith to the Gentiles.
註解: パウロは神の救いの唯一性を述べて後、その救いの福音とパウロ自身との関係を陳ぶ、すなわちパウロはその福音の宣伝者、使徒、しかも異邦人の教師として立てられたのである。パウロが使徒たることを記して後「我は真を言いて偽らず」と特に付加えている所以は、反対者はパウロの使徒たることを承認しない者があるからである。なおテモテのごとき、言わば子飼いの弟子に対してわざわざかくも堂々と使徒職を主張することは必要なきこと故、これも本書のパウロの作にあらざる理由として主張されているけれども、この書簡は教会全体の前に読まるべきものであり、これによりて会衆の前にテモテの権威を大ならしめんとするパウロの親心であった(なお万人救済説についてはロマ11:36の要義1参照)。
要義 [主権者に対する忠順と祈願]1節の教訓は主権者を神の立て給えるものと見ることの当然の結果である。主権者を人民の立てたるものとなし、人民が自由にこれを左右し得るもののごとくに考えるのは聖書の立場ではない。その他権力を持つ者に対しても同様であって、服従と従順はキリスト者が神に対する態度の一部である。民主主義的思想の影響の下にこの考えが薄弱となりつつある事実は、聖書の教うる処に一致しない。

2-2-ロ 男女の生活態度 2:8 - 2:15  

2章8節 これ(ゆゑ)にわれ(のぞ)む、(をとこ)(いか)らず(あらそ)はず、(いづ)れの(ところ)にても(きよ)()をあげて(いの)らんことを。[引照]

口語訳男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。
塚本訳だから男子達は、何処ででも、怒らず争わず、潔い手をあげて祈ってもらいたい。
前田訳男性はどこでも怒りや争いを避けて聖らかな手をあげて祈ってください。
新共同だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。
NIVI want men everywhere to lift up holy hands in prayer, without anger or disputing.
註解: 「この故に」は第1節の思想に立帰っている。本節は男子につき、9−15節は女子につき教会生活の要諦を示している。すなわち男子は「何れの處にても」、教会にても家庭または野天の下の集会においても潔き手をあげて祈るべきである。そして「怒り」と「争い」とはこの祈りを妨げる心の状態であり、かつ男子の陥り易き罪である故これを慎まなければならない。
辞解
[われ望む] 「われ欲す」とも訳されパウロの使徒的権威をもってする要求である。
[祈る] この場合公の会合における祈りを指す。
[争はず] また「疑わず」とも訳することができるけれども、本節の場合「争わず」又は「争論せず」が適当である。
[手をあげ] ユダヤ人より初代キリスト者に伝わった祈りの態度で手の掌を天に向けて上げ、天より受けんとするごとき態度を取る。なお誓い(創14:22)、祝福(レビ9:22)、祈り(詩28:2詩44:20等)の場合に手をあぐるを常とした。
[潔き手] 罪を犯さぬ手、また内心が神にささげられない場合、その手は潔き手となり得ない。

2章9節 また(をんな)(はぢ)()り、(つつし)みて(よろ)しきに合う(ころも)にて(おのれ)(かざ)り、()みたる頭髮(かみのけ)(きん)眞珠(しんじゅ)(あたひ)(たか)(ころも)とを[(かざり)と]せず、[引照]

口語訳また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。
塚本訳同じく婦人達も身嗜みよく、貞淑と慎みをもって身を飾り、編んだ頭髪や金や真珠や高価な着物でなく、
前田訳女性も身なりをつつしみ、廉恥と良識で身なりをし、編んだ髪や金や真珠や高価な衣服を身につけないでください。
新共同同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。
NIVI also want women to dress modestly, with decency and propriety, not with braided hair or gold or pearls or expensive clothes,
註解: 女子の陥り易き弊害、殊に集会等においては、派手な装飾、髪飾り、衣服等をもって人目を引くことを好むことであり、しかも厚顔無恥にして、自己の感情や慾求を制し得ないものが多い。それ故にパウロは集会における女子に対して本節のごとき注意を第一に与えている。
辞解
[恥を知り] aidôs は主として他に対して自己の状態を恥ずかしく思う心。
[宜しきに合う] 俗にキチンとしたというごとき心持。
[衣] katastolê 衣装というごとき意味の語、Tペテ3:3にも類似の描写あり。

2章10節 ()(わざ)をもて[(かざり)とせん]ことを。これ(かみ)(うやま)はんと公言(こうげん)する(をんな)(かな)へる(こと)なり。[引照]

口語訳むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。
塚本訳神信心を告白する婦人に似つかわしい立派な業をもって身を飾ってもらいたい。
前田訳よいわざで装うことが信仰を告白する女性にふさわしいのです。
新共同むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。
NIVbut with good deeds, appropriate for women who profess to worship God.
註解: 私訳「敬神をもって任ずる女に相応しきごとく、善き業をもて〔飾りとせん〕ことを」。信仰を有する女子に最も相応しき装飾はその善行である。
辞解
[飾とせんことを] 原文に無き故前節より補充す。ただし他に種々の訳し方あれど現行訳を可とす。

2章11節 (をんな)(すべ)てのこと從順(じゅうじゅん)にして(しづか)に[(みち)を](まな)ぶべし。[引照]

口語訳女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。
塚本訳婦人は(教会ではただ)静かに聴き、絶対の服従をもって(道を)学ばねばならぬ。
前田訳女性は静かにして全き従順のうちに学ぶべきです。
新共同婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。
NIVA woman should learn in quietness and full submission.
註解: 従順、静粛、真理を学ぶことの熱心がキリスト者婦人の典型的な態度である。
辞解
[凡てのこと従順にして] 「凡ての従順において」と直訳さるべき句で、「従順を尽くして」の意。
[学ぶ] 御言を学ぶ、真理を学ぶ等の場合に用う(Uテモ3:7)。この場合(おっと)より学ぶ意味(Tコリ14:35)を含むことは勿論であるが、静かに教師より学ぶこともこの中に含まる。

2章12節 われ(をんな)(をし)ふることと(をとこ)(うへ)(けん)()ることとを(ゆる)さず、ただ(しづか)にすべし。[引照]

口語訳女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。
塚本訳(教会で)婦人が教えたり、男子の上に立ったりすることは許さない。ただ静かにして居れ。
前田訳わたしは女性が教えたり男性を押えたりすることを許しません。むしろ静かにすべきです。
新共同婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。
NIVI do not permit a woman to teach or to have authority over a man; she must be silent.
註解: 集会において女子は教師の地位に立ちまたは男子の上に立ちて権を握ることをパウロは許さなかった。これは男尊女卑にあらず、男女の造られし本性の差異、およびこれに伴うその使命の差異より来る。静かにすることは自然の結果から生じて来るのであって、日本における理想の婦人に近い点に注意すべし。▲欧米キリスト教国においてこの教えが守られず婦人が大臣、社長、議員、技師、監督等の職につき男子の上に権を取っていることは、事実である。これは教育制度の発達や社会組織の変遷の結果、聖書の教えに従い得なくなったためであった。これが果して最上の状態であるかどうかは問題である。

2章13節 それアダムは(まへ)(つく)られ、エバは(のち)(つく)られたり。[引照]

口語訳なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。
塚本訳(このことは天地創造の由来からでも、エデンの話を見ても明らかである。)何故なら、アダムがまず造られ、次いでエバが造られたのであり、
前田訳アダムがまず第一に造られ、それからエバです。
新共同なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。
NIVFor Adam was formed first, then Eve.
註解: Tコリ11:2以下参照。創2:18創2:21−24の記事は男子が女子の光栄であり、女子は男子のために造られたことを示す。これが女子は男子の上に権を取るべきでなく男子に服従すべきものであることの理由である。換言すれば女子の本来の使命が従順にあったことの意味である。

2章14節 アダムは(まどは)されず、(をんな)(まどは)されて(つみ)(おちい)りたるなり。[引照]

口語訳またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。
塚本訳またアダムは惑わされず、女なる(エバ)が(蛇に)惑わされて罪に落ちたからである。
前田訳また、アダムが迷わされたのではなく、女性が迷わされてまちがいをしたのです。
新共同しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。
NIVAnd Adam was not the one deceived; it was the woman who was deceived and became a sinner.
註解: ゆえに女は男を教うる権利なく静かに道を学ぶべきものである。「女子は一度教えて万事を破滅に帰せしめた」(C2)。なおパウロのこの場合の見方によれば、アダムが罪に陥ったのは聖書の記事によれば惑わされたのではなく(創3:17)、エバの言に聴従したのであると見ているのである。ゆえに「惑わされず」と断言している。それ故にある学者の為すごとくここに「始めに」を補する必要がない。またロマ5:12以下にアダムが罪を犯したことを記しているのであるが、これは一見本節と矛盾するがごときもこれはアダムとエバを区別せず、アダムとを全人類の代表と見たのであった。

2章15節 ()れど(をんな)もし(つつし)みて信仰(しんかう)(あい)(きよき)とに()らば、()()むことに()りて(すく)はるべし。[引照]

口語訳しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。
塚本訳しかしもし婦人が慎みをもって信仰と愛と聖潔とを保っているならば、子を産むこと(、これを育てて母の務めを果たすこと)によって救われるであろう。(婦人は教会でなく家の中で働くべきである。)
前田訳しかし女性は良識をもって信仰と愛と聖潔のうちにとどまれば、子を生むことで救われましょう。
新共同しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。
NIVBut women will be saved through childbearing--if they continue in faith, love and holiness with propriety.
註解: 前節までの記事によれば女子はキリスト者として何らの活動も為し得ず、果して女子は救われるや否やを疑わしむるものがあるのであるが、パウロはそれに対して肯定的解決を与え、そして女子の為すべきことは社会的に教会的に活動することではなく、むしろ子を生むことすなわち家庭の母としての責務を全うするに在ることを教えている。ただし勿論子を生むことが条件の全部ではなく「慎みて信仰と愛と潔とに居る」ことを要することは当然である。また子無き女子が救われないというのでもない。女子として普通一般の場合を指しているのである。
辞解
[子を生むことに因りて] 救いの条件としてはあまりに奇抜に聞ゆるが故に(1)「子を生む場合にその危険より救われん」、(2)「子をよく育てることによりて救われん」、(3)「マリヤがその子イエスを生める事実の功徳によりて救われん」その他種々の解あり、何れも適当ではない。
要義1 [パウロの婦人観]11−15節より見れば、パウロは婦人の地位を(ひく)く見ており、教会においては全く男子に対する隷属的地位にあるもののごとくであって、欧米キリスト教国の実情とは異なるものがあり、かえって我が国古来の婦徳に近きものあるを思わしめる。そしてこれは実は婦人を(ひく)く見たり、また奴隷視しているのではなくかえって婦人の本性を重視しこれに最も相応しい処の態度を教えたのであって、神はかかるものたらしめんとて婦女子を造り給うたのである。そしてこれが東洋においては往々男子の横暴を来す結果となっているけれども、これは男子の方の愛と義とによりて矯正せらるべきであって、女子の方よりの反抗または自己主張によりて男子に対抗すべきではない。欧米模倣を事とするキリスト者が我が国の婦徳を棄てて、聖書に違反せる欧米諸国の婦人の態度を真似んとするは、甚だしき軽薄である。
要義2 [アダムとエバ]13、14節におけるアダムとエバの例は、今日の我らにとりて甚だ納得し難き論法のごとくに思われる。その故は単なる創造の前後、殊に歴史性に乏しきアダム、エバの創造の前後をもって今日の男女の関係を律することは甚だ無理であり、またアダムも同じく惑わされて罪を犯したからである。ただかかる場合パウロはユダヤ人の信仰や思想を中心として、当時の聖書解釈法をそのまま採用したのであって、その手段方法は今日の我らに納得し難いけれども、その言わんと欲する処はこれによりて明瞭であり、説明法の不完全さをもって真理そのものの価値を軽視してはならない。