黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版第2コリント

第2コリント第3章

分類
3 パウロの自己弁明(其の一) 1:12 - 7:16
3-5 使徒職の光栄と神の使者としてのパウロ 3:1 - 6:10
3-5-イ パウロとその推薦状 3:1 - 3:3

註解: コリントの教師の中にはユダヤ的思想を持つものがあってパウロに反対し、パウロのエルサレムの基督者、殊にペテロ、ヤコブ等より紹介状をも持参せざる事、またその伝道の職の何等高き権限なきものなる事等を掲げて、パウロを非難したものがあったのであろう。これに対して先ずパウロは使徒職の光栄と尊貴とを論じている

3章1節 我等(われら)ふたたび(おのれ)(すす)(はじ)めんや、[引照]

口語訳わたしたちは、またもや、自己推薦をし始めているのだろうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた、あるいは、あなたがたからの推薦状が必要なのだろうか。
塚本訳(こう言えば、)わたし達はまたまた「自分を推薦し」始めた(と悪口を言われる)のであろうか。それともどこかの人たちのように、(エルサレム集会から)あなた達あての、あるいはあなた達からの推薦の手紙を、わたし達が必要とするとでもいうのか。
前田訳われらはまたもや自己推薦をはじめるのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなた方への、またはあなた方からの推薦状がわれらに要るのですか。
新共同わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。
NIVAre we beginning to commend ourselves again? Or do we need, like some people, letters of recommendation to you or from you?
註解: Uコリ2:17(あたか)も自己誇張すなわち自家広告のごとくに聴こえる恐れがあるので、パウロはここにその然らざる事を証明している。「再び」とはTコリ(例えばTコリ2:1―12。Tコリ3:10Tコリ4:1−13。Tコリ9:15等)によりかかる誤解を起し、コリントの教会の中にすでにパウロは自家広告に巧であるとの非難をなすものが有ったのであろう。この言を受けてここに「再び」と云ったのである

また(ある)(ひと)のごとく(ひと)推薦(すゐせん)(ふみ)(なんぢ)らに(もたら)し、また(なんぢ)()より()くることを(えう)せんや。

註解: 自己を薦めないのみならず他人より推薦される必要もなく、また汝らより他人に推薦して貰う必要もない。「或人」とは恐らくパウロに反対なるユダヤ人の教師等で(Uコリ2:17)エルサレムの母教会(Z0)から推薦状を受けてコリントに来た人達であろう。パウロにはその必要が無い事を次に述べている

3章2節 (なんぢ)らは(すなは)(われ)らの(ふみ)にして(われ)らの(こころ)(しる)され、(また)すべての(ひと)()られ、かつ()まるるなり。[引照]

口語訳わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。
塚本訳わたし達のための(推薦の)手紙はあなた達であり、わたし達の心に書き込まれており、皆の人に知られまた読まれている。
前田訳われらの推薦状はあなた方自身で、われらの心に書かれており、すべての人に知られ、また朗読されています。
新共同わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。
NIVYou yourselves are our letter, written on our hearts, known and read by everybody.
註解: 如何なる推薦状をも必要としない所以はコリントの信者がそのままパウロらの書いた書であって、紙や革に録される代りにパウロ等の心に録されて何処にも持ち行く事ができ、且つこの書状は凡ての人がこれを知り且つ読んでいる、故にパウロは自己を推薦する必要もなくまた人に推薦される必要もない。何となればコリントの教会がパウロによりて建てられた事、またそれが如何なる有様にあるかは凡ての人がこれを知っているからである

3章3節 (なんぢ)らは(あきら)かに(われ)らの(つとめ)によりて()かれたるキリストの(ふみ)なり。(しか)(すみ)にあらで()ける(かみ)御靈(みたま)にて(しる)され、石碑(せきひ)にあらで(こころ)肉碑(にくひ)(しる)されたるなり。[引照]

口語訳そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。
塚本訳(実際)あなた達はわたし達によって配達されたキリストの手紙であって、インキでなく生ける神の霊で、また、(モーセ律法とは違い)“石の板”にではなく“人の心の板”に書かれていることが、知れ渡っているのである。
前田訳あなた方がわれらの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によらず、生ける神の霊により、石の板にでなく、肉の心の板に書かれていることは明らかです。
新共同あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
NIVYou show that you are a letter from Christ, the result of our ministry, written not with ink but with the Spirit of the living God, not on tablets of stone but on tablets of human hearts.
註解: 而してパウロ等の心に録されし書簡なるコリントの教会は如何なる書なりやを説明せんとして、パウロはここに他の比喩を掲げている、すなわちその書簡の著者はキリストであり、パウロ等はこれを筆写する職を命ぜられ、その材料は墨ではなく活ける神の御霊であり、その用紙はコリントの信者の心の肉碑である、すなわちパウロ等の働きによりて神の御旨が次第にコリント人らの心に入り、そこに御霊を以て記入せられてコリントの教会が出来上ったのであって、この教会の存在それ自身がパウロの働きを証明しており、至る処に適用すべき立派なる書状である。而してこの文字はモーセの十戒の如くに石碑の上に録されたものではなく、活ける心の肉碑の上に記されし活ける神の言である故にそこに生命があり、自由があり、進展がある。かかる美わしき書簡は未だ(かつ)て書かれた事が無い。―パウロが書簡の比喩より石碑と肉碑の比喩に移ったのは、その思想の中に旧約のモーセと新約の使徒たるパウロ等との比較がすでに浮び出でていたからであろう。これが4節以下の叙述となって展開したのである(Tコリ3:9以下参照、畠の比喩より建築物の比喩に転じた場合)。

3-5-ロ 儀文の役者と霊の役者 3:4 - 3:11

3章4節 (われ)らはキリストにより、(かみ)(たい)して()かる確信(かくしん)あり。[引照]

口語訳こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。
塚本訳しかしわたし達がこんな(大きな)自信を持つのは、キリストを通してであり、神にたよってである。(神がキリストを通してわたし達を使徒に任じられたからである。)
前田訳われらがこのような確信を持つのは、キリストにより神に対してです。
新共同わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。
NIVSuch confidence as this is ours through Christ before God.
註解: 2、3節に記されし確信であって、パウロ等が神の使徒としてかかる働きを為したことの確信をキリストによりて、神に対していだいている事をパウロは公言して誇っている。原文には「確信」なる文字が最初にあり、意味を強めている。▲パウロは4−18節に自己とモーセとを比較し、パウロの職はモーセのそれより以上である事を断言している。これはユダヤ人としては冒涜とも思われる驚くべき自信である。

3章5節 されど(おのれ)何事(なにごと)をも(みづか)(さだ)むるに()(ると()うにあ)らず、(さだ)むるに()るは(かみ)によるなり。 [引照]

口語訳もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。
塚本訳これは自分でことを考え出すような能力が自分にあるというのではない。わたし達の能力はみな神から来る。
前田訳われらが自らしたかのように、何ごとかを自ら判断する資格があるのではなく、われらの資格は神からのものです。
新共同もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。
NIVNot that we are competent in ourselves to claim anything for ourselves, but our competence comes from God.
註解: パウロは前節の如き確信を()っていた。しかしながらこれに就て彼は更に詳説して云う「とは云うもののこの使徒職を遂行する場合に何事を計画し遂行するにも、自分の智慧や計画を以てこれを為すだけの力が自分にあると云うのではない。我をしてこの任に耐うるもの(Uコリ2:16)たらしむるは神の力によりて導かれるからである」と。
辞解
[定むる] ロギゾマイlogizomaiは「数うる」意味より転化してよく計量し考察判断するの意となれるもの。
[足る] Uコリ2:16に「任に耐うる」と訳せられしヒカノスhikanosであってパウロは己がこの任に耐うる所以が、神より来るのであって己によるにあらざる事を示しているのである

3章6節 (その)(かみ)(われ)らを新約(しんやく)役者(えきしゃ)となるに()らしめ(たま)へり、儀文(ぎぶん)役者(えきしゃ)にあらず、(れい)役者(えきしゃ)なり。[引照]

口語訳神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。
塚本訳神はわたし達に、新しい契約のための世話役、(すなわち古い契約にある律法の)文字のためではなく、(神の)霊のための世話役たる能力をお与えになったのである。文字は殺すが、霊は命を与えるからである。
前田訳神はわれらに新しい契約の奉仕者の資格をお与えでした。それは文字のでなく霊の契約です。文字は殺し、霊は生かすからです。
新共同神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。
NIVHe has made us competent as ministers of a new covenant--not of the letter but of the Spirit; for the letter kills, but the Spirit gives life.
註解: パウロをキリストの使徒として行動するの任務に耐うるものとならしめ給える神は、彼らを新しき契約の役者となるに相応しきものとなし給うた。新しき契約とは旧き契約に対する語であって、旧約にシナイの山において神が二枚の石の板に十戒を書きてモーセに与え給い、この律法を守るものは救われる事を約束し給える事を指し、新約はキリストの血によりて罪を赦され永遠の生命を与えられる事の約束(ロマ10:5以下。ガラ4:24以下。ヘブ12:24)を指している。而して旧き契約の役者はその根拠を神の与え給える律法の文字(儀分)に置き、これに従い律法を成就する事によりて神の約束に与り得る事を説くに反し、新しき契約の役者は神の与え給える聖霊にその基礎を置き、この御霊によりて導かれる場合に人は律法を(まっと)うする事ができる事を教うるのである(ロマ8:4)。故に旧約の役者は文字の奴隷であり、新約の役者は霊の奴隷である。この二者の間に根本的の相違があるのであって、神はパウロ等をしてこの新約の役者、霊の役者たらしめ給うた(かく言いてパウロは旧約と新約との区別を明かにせざりし、ユダヤ的偽教師に対し自己の天職が如何に革命的であり、全く新なる役務であるかを示している)。
辞解
[新約] 新はカイノスkainosであってネオスneos(新鮮の意義)とは異なり、従来存在しなかった初新の契約である事を示している。
[契約] デアセーケーdiathêkêは神と人との相互の約束では無く「遺言」とも訳し得る文字であって、神より人に対する一方的約束である(ヘブ8:7−13)
[▲儀文] grammaは「文字」のこと

そは儀文(ぎぶん)(ころ)し、(れい)(いか)せばなり。

註解: 文字として与えられし律法は、それ自身霊的ではあるけれども(ロマ7:14)、我らに罪に打ち勝つべき霊の力を与える事ができない。故に律法の存在が結局我らをして罪を犯さしむる誘因となり(ロマ7:11)、その結果我らは永遠の死を味わしめられるのである。然るに「キリスト・イエスに在る生命の御霊の法は我らを罪と死との法より解放す」(ロマ8:2)のであって、神の御霊を受けている者は、その御霊により罪に打ち勝ち、何等律法の文字に束縛される事無くして、神の御旨を自由に充分に遂行する事ができ、これによりて永遠の生命が与えられるのである、儀文と霊との間にはかく根本的の相違がある

3章7節 (文字(もじ)にて)(いし)()り[(しる)さ]れたる()の[(のり)の](つとめ)にも光榮(くわうえい)ありて、イスラエルの()()はそのやがて()ゆべきモーセの(かほ)光榮(くわうえい)()つめ()ざりし(ほど)ならんには、[引照]

口語訳もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、
塚本訳文字で石に彫られている(モーセ律法、すなわち)死をつげる役目でさえ栄光があったので、やがては無くなるものながら“モーセの顔の栄光”のゆえに、イスラエル[ヤコブ]の子孫はその顔を見つめることが出来なかったくらいである(という。そうである)なら、
前田訳もし文字で石に彫られた死の奉仕が栄光のうちになされ、イスラエルの子らがモーセの顔をその消え去るべき栄光のゆえに見つめることができなかったのならば、
新共同ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、
NIVNow if the ministry that brought death, which was engraved in letters on stone, came with glory, so that the Israelites could not look steadily at the face of Moses because of its glory, fading though it was,
註解: モーセは旧約の役者、すなわち儀文(文字)を以って二枚の石に彫られし律法の役者、換言すれば死の法(前節註参照)の役者であった。然るに彼が石の板を携えてシナイ山を(くだ)った時、彼の顔は輝きイスラエルの人々はこれを見つめ得なかった(出20:1−20。出34:29−30参照)。これ旧約の役者たるモーセの光栄である。
辞解
[光栄ありて] 原語の意「光栄の中に入れられて」(Z0)。
[消ゆべき光栄] モーセの顔の輝きはその任務を終ると共にやがて消ゆべきものであり(13節)新約の役者の光栄はますます輝くべきものである(18節)。ヘブ8:5−13を参照するならば、この数節のよき註解となるであろう

3章8節 まして(れい)(つとめ)光榮(くわうえい)なからんや。[引照]

口語訳まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。
塚本訳まして(命を与える)霊の役目が、どうして栄光にかがやかないことがあろうか。
前田訳まして霊の奉仕ははるかにすぐれた栄光のうちになされるのではありませんか。
新共同霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。
NIVwill not the ministry of the Spirit be even more glorious?
註解: 死せる文字なる律法にあらず、死せる魂をも活かす貴き霊に(つか)える役者の職は遙に優れる光栄がある筈である。故にパウロらの光栄はこの意味において遙にモーセの光栄に優っている。▲モーセを最大の神の人と信じていたユダヤ人に取ってこのパウロの大なる確信は実に破天荒な事であった。コリントの反パウロ党はパウロのこの偉大さを知らなかった。

3章9節 (そは)(つみ)(さだ)むる(つとめ)もし光榮(くわうえい)あらんには、まして()とする(つとめ)光榮(くわうえい)(あふ)れざらんや。[引照]

口語訳もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。
塚本訳刑罰をさだめる役目でさえ栄光をもつくらいなら、義とする役目が栄光にあふれるばかりであるのは、なおさらだからである。
前田訳もし処罰の奉仕が栄光ならば、まして義の奉仕ははるかに栄光にあふれるものです。
新共同人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。
NIVIf the ministry that condemns men is glorious, how much more glorious is the ministry that brings righteousness!
註解: 9節は「何となれば」を以て始まり前節の理由の説明をなしている、10節も「また何となれば」を以て始まり理由の追加をなしている。日本訳にはこれを略している。すなわち(ふる)き契約は律法を守らしむるにあって、これを完全に守らざる時は罪に定められるのである。然るに新しき契約はキリストの贖罪によりて罪あるものを信仰によりて義とするのである。前者は殺し後者は活かす。この前者の職にさえもモーセに与えられし如き光栄があるものであるならば、()してパウロに与えられし後者の職は光栄に満ち溢れる(ことわり)である

3章10節 [もと]光榮(くわうえい)ありし(もの)(さら)(まさ)れる光榮(くわうえい)(くら)ぶれば、光榮(くわうえい)なき(もの)となれり。[引照]

口語訳そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。
塚本訳それどころか、(かっては古い契約によって)栄光を受けたものも、この点では、(新しい契約の)ぬきんでた栄光のまえに、(全く)“栄光”を受けなくなっている、(と言うことが出来る。)
前田訳かつて栄光を受けたものも、このすぐれた栄光のために、この場合、栄光を受けません。
新共同そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。
NIVFor what was glorious has no glory now in comparison with the surpassing glory.
註解: 私訳「またもと光栄ありし者も、更に勝れる光栄のためにこの点において光栄を失いたればなり」モーセの職はたとえそれが罪を定むる職であってもそれ自身としては光栄ある職であった。然るにパウロの福音の伝道の職は一層光栄ある職であるために、これと対比して見れば(あたか)も月は太陽の前にその光輝を失うがごとくにその光栄を失った。キリストの僕として福音を宣伝うるの光栄は、千余年間イスラエルの理想的人物であったモーセの光栄にも優っていることを人は気が付かなければならない

3章11節 もし()ゆべき(もの)光榮(くわうえい)ありしならんには、まして永存(ながら)ふるものに光榮(くわうえい)なからんや。[引照]

口語訳もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである。
塚本訳やがては無くなるものが栄光にかがやいたくらいなら、いつまでものこるものが栄光にかがやくのは、なおさらだからである。
前田訳過ぎゆくものに栄光があるならば、まして永続するものに、よりすぐれた栄光があるはずです。
新共同なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。
NIVAnd if what was fading away came with glory, how much greater is the glory of that which lasts!
註解: この節も日本訳には、これを省略しているけれども「何となれば」を以って始まり前節の理由の説明になっている。すなわち「消ゆべき物」(者にあらず物なり)なる儀文の役者たる事にさえもモーセの顔にありしごとき光栄がある位ならば、(いわ)んや「永存(ながら)うるもの」すなわち霊の役者たる事に光栄がある事は極めて当然だからである。
辞解
原文にはこの二種の光栄の性質の差を前置詞dia―throughとen―inによりて区別している。すなわち「もし消ゆべきもの光栄を通過せんには()して永存(ながら)うるものは光栄の中におらざらんや」となる。
要義 [律法と福音]ここにパウロは旧約と新約、儀文と霊、生と死、罪と義、石と心、滅亡と永存等種々の語を用いて律法と福音との区別を明かにせんとしているのであって、当時のコリントの信者はこの意味を充分に解するに足るだけの霊的理解力を()っていた事が知られるのである。(けだ)しこの事たる単にパウロの使徒職に関連せる問題であるのみならず福音の根本問題であって、パウロのこの語を理解する事無しに福音を理解する事はできない。ロマ書殊にその第一章ないし第八章は、この真理の詳細なる説明とも見るべきものであって、ここにはこれを詳述する事ができない。唯律法は文字を以って外より我らに与えられし規律であってこれによって我らは如何に行うべきかを示されているけれども、我らの心には悪を行わんとする傾向があって、我らをして善を行わんとする心に反逆を企てしむるのである。故に我らは自己の力を以っては結局律法を完全に成就するの力無く、罪の中に止まっており、その価として死に至るより外に途が無いのである。然るに神はキリストを我らに与え給い、その上に凡ての罪を置きて彼を十字架に()け、彼を信ずる我らの罪を赦し、その証拠として我らに聖霊を賜い、肉の無力を以て成就し得ざりし律法を、聖霊を以って成就する事ができる様に我らを導き給うたのである。ここにおいて我らは福音を信ずる信仰により死より永生に移り、モーセに与えられし旧き約束とは全く異なれる新なる約束を与えられたのである。それ故にモーセに与えられし儀文による神の約束は結局滅亡消失すべき運命を()っているものであって、イエス・キリストは律法の終りとなり(ロマ10:4)律法は福音の真生命が来る迄の後見者に過ぎない(ガラ4:1−5)。パウロはこの地位を明らかにする事によって自己の職の光栄を示さんとしたのである。

3-5-ハ 面帕(かおおおい)を除きたる生涯 3:12 - 3:18

3章12節 (われ)らは()くのごとき希望(のぞみ)()つゆゑに、(さら)(おく)せずして()ひ、[引照]

口語訳こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、
塚本訳わたし達はこんな(自信と)希望(と)を持っているのであるから、正正堂堂と振舞い、(福音の真理を説いて、)
前田訳われらはこのような望みを持つがゆえに、全くあからさまに語ります。
新共同このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、
NIVTherefore, since we have such a hope, we are very bold.
註解: 「斯くのごとき希望」とは前数節に述べられし新約の役者たる栄光と、その栄光の永遠に亡びざる事の希望を意味し、「臆せずして」は「公然に凡てをサラケ出して」との意味であって、パウロはキリストの僕等に約束せられしこの不滅の冠を望んでおり(ルカ22:29以下。Uテモ4:8Tペテ5:4)、モーセ及びイスラエルの人々のごとくに面帕(かおおおい)を以って顔や心が(おお)われず、凡てが明かにせられているので自然その言う処も直截(ちょくせつ)判明であり、律法主義より脱却せざるユダヤ的基督者のごとくに、律法の性質に就いても遠慮勝ちに云う事をしない。しかしこの事がパウロに対し躓く人ができた原因の一つであった

3章13節 (また)モーセの(ごと)くせざるなり。(かれ)()ゆべき(もの)()えゆくをイスラエルの()らに()せぬために、面帕(かほおほい)(かほ)におほいたり。[引照]

口語訳そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。
塚本訳“モーセ”のような(見苦しい)ことはしない。彼はやがては無くなるもの(栄光)の最後をイスラエルの子孫に見て取られまいと、“顔にベールをかけたのである。”
前田訳われらは、モーセのようにはしません。彼は顔に覆いをかけて、イスラエルの子らが過ぎゆくものの終わりを見つめないようにしました。
新共同モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。
NIVWe are not like Moses, who would put a veil over his face to keep the Israelites from gazing at it while the radiance was fading away.
註解: 「消ゆべき者の消えゆく」は「消ゆべき物の終局」と直訳して意味明瞭である。モーセが面帕(かおおおい)をあてた訳はその消え行く栄光を隠す為であった事は聖書(出34:33)に記されていない。モーセのこの行為は、彼が無意識に神より智慧を与えられたものであって、従って面帕(かおおおい)を当てた事はモーセ自身の考え如何は別問題として、事実その消ゆべき栄光の終局をイスラエルの子らに見せない為であった、この事をパウロは新に霊を以って示されたのである。それ故に霊の役者として永存(ながら)うべきパウロ自身は、モーセのごとき態度に出でず凡てを明々白々に臆せずに語っているのである

3章14節 ()れど(かれ)らの(こころ)(にぶ)くなれり。キリストによりて[面帕(かほおほい)の](すた)るべきを(さと)らねば、今日(けふ)(いた)るまで舊約(きうやく)()(とき)その面帕(かほおほい)なほ(のこ)れり。[引照]

口語訳実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
塚本訳しかし(そのために、)彼らの考えは頑なにされてしまった。なぜなら、今日までも古い契約の朗読の時、同じベールが残っているからである。ベールは取り除かれないままである。古い契約は(ただ)キリストにおいて無くなるものだからである。
前田訳しかし彼らの考えはにぶくされました。こんにちまで、旧い契約の朗読にあたって、この同じ覆いが残っていて、除かれていません。それはキリストによってはじめて過ぎゆくものです。
新共同しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。
NIVBut their minds were made dull, for to this day the same veil remains when the old covenant is read. It has not been removed, because only in Christ is it taken away.
註解: 私訳「されど彼らの思頑固(かたくな)にせられたり。キリストによりて(旧約の)廃るべき事を示されねば今日に至るまで旧約を読む時同じ面帕(かおおおい)なお存れり(M0、Z0、A1)」原文に「廃るべき」ものの何たるかが記されていないので、本文のごとくに読む事が不可能では無いけれども、多くの有力なる学者の説に従い私訳のごとくに読む方が適当であると思う。而して本節の意味は、モーセがその廃るべき光栄を隠すが為に面帕(かおおおい)を以って顔を(おお)うたのであるのに、イスラエルの人々の心は頑固となりてこれを覚らず、旧約すなわちモーセに与えられし律法はキリストによりて成就せられ、その時より旧約は廃るべきものである事(ロマ10:4コロ2:14)を覚らず、その結果今日に至るまで旧約を読む時、モーセの顔を(おお)える同じ面帕(かおおおい)が旧約の上に懸けられ、この旧約の終局がキリストである事を見出し兼ねている状態である。若し彼らの心が頑固(かたくな)にせられなかったならば、彼らはすでにその面帕(かおおおい)を取り除き、旧約が凡てキリストを指しキリストにおいて成就せる事を見出す事ができたであろう。
辞解
[廃る] 2-13節に「消ゆる」と訳せられし語と同一の語である、「廃る」と訳する方が優っている様に思う。
[悟らねば] 私訳「示されねば」は原語「面帕(かおおおい)を取り去られないので」の意味であって、面帕(かおおおい)に懸けて巧に言い表している。本節はなお次のごとくにも読む事ができる。「キリストによりて面帕(かおおおい)は廃るべきものなる故に、今日に至るまで同じ面帕(かおおおい)は取除かれずして旧約を読む時なお存したり」(B1)▲口語訳はこのB1の読み方による。RSVも同様なり。

3章15節 (されぞ)今日(けふ)(いた)るまでモーセの(ふみ)()むとき、面帕(かほおほい)(かれ)らの(こころ)のうへに()かれたり。[引照]

口語訳今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。
塚本訳いやむしろきょうまでモーセ(律法)が朗読される度毎に、ベールは彼らの心にかかって(いるので、そのほんとうの意味が隠されて)いる。
前田訳こんにちまで、モーセが朗読されるとき、いつも覆いが彼らの心にかかっています。
新共同このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。
NIVEven to this day when Moses is read, a veil covers their hearts.
註解: モーセの顔を(おお)い、旧約の上を(おお)える面帕(かおおおい)はまた世の人の心の上を(おお)うた(ここにはユダヤ人の心の上を(おお)えるものとして示されている)。すなわちこの面帕(かおおおい)は完全に凡てを(おお)い隠して、キリストに立帰る事を妨げ、旧約の中に示されしキリストを(おお)い隠している。故にモーセの書を読みても彼らはこれを覚る事ができない  

3章16節 ()れど(しゅ)()する(とき)、その面帕(かほおほい)()(のぞ)かるべし。[引照]

口語訳しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
塚本訳“しかし彼らの心が主に帰るならば、その時ベールは取り除かれる。”
前田訳しかし主に帰るとき、いつも覆いは除かれる。
新共同しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
NIVBut whenever anyone turns to the Lord, the veil is taken away.
註解: 「されど彼らの心が主キリストに立帰る時、主の御霊の力により(あたか)出34:34のごとくその面帕(かおおおい)は取り除かれ、その心眼は開け従来見るを得ざりし霊の世界を見、旧約がキリストによりて廃るべきものである事を悟り、この旧約の中心がキリストであってキリストにより旧約の全体が、完全に成就せられし事を認むる事ができる

3章17節 (しゅ)(すなは)御靈(みたま)なり、(しゅ)御靈(みたま)のある(ところ)には自由(じいう)あり。[引照]

口語訳主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
塚本訳(ここで)主(と)は御霊(のこと)である。主の御霊のあるところには自由が(あるから、ベールが取り除かれるので)ある。
前田訳主は霊にいまします。主の霊のあるところ、そこに自由があります。
新共同ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
NIVNow the Lord is the Spirit, and where the Spirit of the Lord is, there is freedom.
註解: 我ら主に帰する時主イエス・キリストは御霊として我らの中に住み給う(ヨハ14:16−20)。これに反し律法は文字であって御霊ではない、従って我らを束縛し、且つその消ゆべきものなる事を面帕(かおおおい)を以って(おお)い隠している。故に我らはこの束縛と不明とによりて不自由となっている。然るに主は御霊なるが故に、我らを外より束縛せずして内より我らに生命と力を与え(ヨハ8:32ヨハ8:36ロマ8:9、10)、我らより面帕(かおおおい)を除きて凡ての事を明らかならしめ(ヨハ14:26)、我らに完全なる自由を与えるのである(ガラ5:1)。律法に従う者と主に従う者との間には斯くのごとき根本的の相違がある

3章18節 我等(われら)はみな面帕(かほおほい)なくして、(かがみ)(うつ)るごとく(しゅ)榮光(えいくわう)()[引照]

口語訳わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
塚本訳そしてわたし達(主キリストを信ずる者)は皆、覆いを取られた顔で(直接)“主の栄光”を鏡にうつして拝見し、栄光から栄光に進み(つつ、ついに)主と同じ(栄光の)姿に造りかえられる。御霊である主がなさるのであるから当然である。
前田訳われらはみな覆いのない顔で主の栄光を反映し、栄光から栄光へと、霊にいます主によって、彼と同じ像(すがた)に変えられてゆきます。
新共同わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
NIVAnd we, who with unveiled faces all reflect the Lord's glory, are being transformed into his likeness with ever-increasing glory, which comes from the Lord, who is the Spirit.
註解: 「我らはキリストを信ずる事によりて面帕(かおおおい)は取り去られ、未だ直接に主の光栄を拝する迄には至らずとしても(これは主の再臨の時にあり)、鏡に映る如き状態において、面帕(かおおおい)なしに主の栄光を見る事を得る様になっており

榮光(えいくわう)より榮光(えいくわう)にすすみ、(しゅ)たる御靈(みたま)によりて(しゅ)(おな)(かたち)(くわ)するなり。

註解: 主の栄光を仰ぐとき自然に自己もこれに化せられ、キリストに在る栄光が自分に反射してその栄光ますます加わり、キリスト(すなわち御霊として我らの中に働き給うキリスト)によりて、我らの心は次第にキリストと同じ像に化せられて行くのである(Tヨハ3:2)。而してその終局は復活の時における栄化であるTコリ15:52
辞解
[化する] は動物の「変態」と同文字。
要義1 [パウロの勇気の源はこの希望にあり]パウロは当時一新宗教の宣伝者に過ぎなかった。ユダヤ人らは千余年来モーセをその信仰の祖として旧き約束を信じ来たった。このユダヤ人の宝典たる旧約の律法とパウロの宣伝える福音とは、その歴史より云うも、その信者の数より云うも、またその社会的勢力より云うも到底比較にならない程度のものであった。然るにパウロは自己をモーセに比し、新約の役者たる基督者の未来の栄光と現在の地位とを論じ、キリストにありて彼らの栄光は永遠に滅びざるのみならず、彼ら自身もまた栄光より栄光に進みて、遂には主の再臨の時主と同じ像に化する事を信じ、これを望む事によりて、その光栄は旧約の役者たるモーセに優れるものなる事を大胆に論じている事は、ユダヤ人より見るならば驚くべき暴言であった事であろう。しかしながらキリストに立帰れる心を()つものにとっては、この事は極めて明瞭なる事実であって一点の疑問を挿む余地なきものであった。而してこれは単にモーセの律法による旧約のみに関する事実ではなく、凡ての道徳凡ての律法は皆(ほぼ)同様の意味においてキリストにおいて終を告ぐべきものであって、キリストにある栄光のみ永遠に廃る事なきものである。
要義2 [聖書は霊的に読まるべきものである]ユダヤ人は旧約聖書を文字として読んでおり、その文字に束縛されていた。これ彼らの心に面帕(かおおおい)がかかっていて、また旧約聖書の上にも同じ面帕(かおおおい)がかかっていたからである。故に若し基督者が聖書に対して同様に文字的にこれを解釈せんとするならば、聖書を殺してしまうものである。聖書は霊を以ってこれを読む事によりて始めてその真の意義を知る事ができる。

第2コリント第4章
3-5-ニ 福音の役者としてのパウロの態度 4:1 - 4:6

4章1節 この(ゆゑ)(われ)憐憫(あはれみ)(かうむ)りて()(つとめ)()けたれば、[引照]

口語訳このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、
塚本訳わたし達は(神の)憐れみをうけて、この(モーセにまさる)役目を託されているのであるから、(どんな場合にも)気を落さない。
前田訳それゆえ、われらは(神に)あわれまれてこの務めを持つので、心を落とさず、
新共同こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。
NIVTherefore, since through God's mercy we have this ministry, we do not lose heart.
註解: 「この故にすなわちUコリ3:12以下殊にその17、18に示すが如く福音の役者として、光栄と自由とを得ている故に、我らは神の憐憫(あわれみ)によりてこの職を受けた以上次の如くに振舞うのは当然である」。パウロはその光栄ある職に(あずか)る原因を神の憐憫(あわれみ)に帰する事により、自己に誇るべきものの絶無なる事と、他人の批評に左右せられない事と、神の恩恵に対する感謝の念を以って、己を忘れて真面目にその職に従う事とを示して居る

落膽(きおち)せず、

註解: 若しパウロの職が、かかる光栄と自由とに充ち、神の憐憫(あわれみ)によりて与えられしものでないならば、彼はその(こうむ)りし迫害と反対との為に落胆してしまったであろう

4章2節 ()づべき(かく)れたる(こと)をすて、惡巧(わるだくみ)(あゆ)まず、(かみ)(ことば)をみださず、眞理(まこと)(あらは)して(かみ)(まへ)(おのれ)(すべ)ての(ひと)良心(りゃうしん)(すす)むるなり。[引照]

口語訳恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。
塚本訳いや、(一切の)恥かしい隠し事を絶った、計略を用いて歩かず、神の言葉をごまかしもせず、ただ(福音の)真理を明らかにすることによって、神の前ですべての人間の良心に自分を推薦しているのである。
前田訳恥ずべき隠しごとを捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理の明らかさによって、神のみ前に自らをすべての人の良心に対して推薦しています。
新共同かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。
NIVRather, we have renounced secret and shameful ways; we do not use deception, nor do we distort the word of God. On the contrary, by setting forth the truth plainly we commend ourselves to every man's conscience in the sight of God.
註解: パウロはここに「隠」と「顕」とを対立せしめ、面帕(かおおおい)を棄て兼ねているユダヤ的偽教師とパウロ等の如き面帕(かおおおい)なき真の福音の使徒とを比較している。而して面帕(かおおおい)を取り除き兼ねている人々の特徴は、自然恥ずべき隠れたる事を行う事であって、悪巧を用い、策略を(ろう)し、陰謀を企てて自己の勢力を拡張せんとし、また神の言に不純物を混じてこれを混濁せしめ、律法と福音との区別を乱す事である。パウロ等は凡てこれらの恥ずべき隠れたる事を遠ざけ、臆する事無く恐れる事なくキリストの福音の真理を表白し、公然に神の前において(其処では虚偽隠蔽は役に立たず、事の真偽は皆暴露される)凡ての人の良心に向って自己を薦めている。隠れたる処において神の言を乱し、悪巧を以って自己を薦めているのとは全く正反対の態度である。神の前において恥ずべき事の悪事である事は勿論、凡ての人の良心に照らして恥ずべき事もまたこれを避けなければならぬ。基督者が往々常人の良心に照らしても恥ずべき事を為す事は非常なる悪事である。
辞解
[悪巧] 誠実の反対
[みださず] Uコリ2:17の「曲げず」と(ほぼ)同意義で混合物を入れない事

4章3節 もし(われ)らの福音(ふくいん)おほはれ()らば、(ほろ)ぶる(もの)(おほ)はれをるなり。[引照]

口語訳もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。
塚本訳しかしそれでもなおわたし達の説く福音が(ベールで)覆われている(からわからないのだと言う)なら、それは滅びゆく者にとって(だけ)覆われているのである。
前田訳それでもなおわれらの福音がおおわれているならば、それは滅びるものたちにおおわれているのです。
新共同わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。
NIVAnd even if our gospel is veiled, it is veiled to those who are perishing.
註解: 福音の真理をパウロ等は前節の如くに公けに表白しているにも関わらず、なおこれを信じ得ないものがあるのは、彼の述べる真理の偽なることを証明するものではないかとの疑問を起こす者も有ったであろう。パウロは之に対しかかる人があるならばそれは救いに与ることができない人、すなわち真理に対して盲目なる人に向って覆い隠されているのであると答えている。パウロはその福音の絶対的真理であることを確信していたからである。
辞解
[われらの福音] 偽教師等の述べる処にあらざるパウロらの宣べるイエス・キリストの福音
[おおわれ] 面帕(かおおおい)を以て覆われ」との意味で、パウロはなおUコリ2:12以下の論法を継続している。
[亡ぶる者] Tコリ1:18

4章4節 (即我(すなわ)(かれ)らに()いて)この()(かみ)(これ)()()信者(しんじゃ)(こころ)(くら)まして、(かみ)(かたち)なるキリストの榮光(えいくわう)福音(ふくいん)(ひかり)(明)を(てら)さざらしめたり。[引照]

口語訳彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。
塚本訳彼らの場合、この不信者たちの考えをこの世の神(である悪魔)が盲にして、神の影像である救世主の栄光をつげる福音の光を見ることができないようにしたのである。
前田訳彼らにあっては、この世の神が不信者の考えをくらまして、神の像(すがた)にいますキリストの栄光についての福音の輝きを見えなくしています。
新共同この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。
NIVThe god of this age has blinded the minds of unbelievers, so that they cannot see the light of the gospel of the glory of Christ, who is the image of God.
註解: 前節の理由の説明である。すなわち明白に示されしキリストの福音の真理を信じ得ない人があるのは、悪魔がその心を肉の慾、魂の誇等を以って覆いてこれを盲目ならしめ(マタ6:23)悪魔の最も忌み嫌う神を彼らより蔽い隠し、神と同一の姿に在すキリストの栄光に充てる福音の光明を遮ってしまったからである。他にいかなる知識をもっていても、この唯一の光を認めないものは真の盲目である。
辞解
[この世の神] キリスト再臨までの時代の支配者すなわちサタン(エペ2:2エペ6:12コロ1:13)、再臨後はキリスト支配し給う。黙20:11
[神の像なるキリスト] ヨハ14:9
[光] フオーテイスモスphôtismos「光線」の意味で悟りを表している

4章5節 (そは)(われ)らは(おのれ)(こと)()べず、ただキリスト・イエスの(しゅ)たる(こと)と、(われ)らがイエスのために(なんぢ)らの(しもべ)たる(こと)とを()ぶ(ればなり)。[引照]

口語訳しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。
塚本訳なぜならわたし達が説いているのは自分のことでなく、ただキリスト・イエスは主であること、自分たちはイエスの(奴隷、いや彼の)ためにあなた達の奴隷であるということである。
前田訳われらは自らをでなく、主キリスト・イエスをのべ伝えています。われら自らはイエスゆえにあなた方の僕なのです。
新共同わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。
NIVFor we do not preach ourselves, but Jesus Christ as Lord, and ourselves as your servants for Jesus' sake.
註解: 「若しサタンが彼らの心を暗ますのでなかったならば、彼らは我らの福音を受納れるであろう、何となれば我らは己を薦め、己の主たる事を宣べるにあらずイエス・キリストを主と仰ぐべき事を宣伝へ、己はイエスのために汝らの僕となっていることを宣べるからである」。福音の伝道とはかかるものであって、決して自己を誇る事ではない、故にこれを受納れ得ない筈はない

4章6節 (ひかり)(くらき)より()()でよと(のたま)ひし(かみ)は、イエス・キリストの(かほ)にある(かみ)榮光(えいくわう)()知識(ちしき)(かがや)かしめんために、(われ)らの(こころ)(てら)(たま)へるなり。[引照]

口語訳「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
塚本訳というのは、(世界創造の時、)「光、暗闇から輝き出でよ」と言われたその神は、キリストの顔に現れている神の栄光を知る知識が明らかになるため、わたし達の心の中に光を輝かせてくださったからである。
前田訳「光が闇から輝き出よ」といいたもうた神は、われらの心の中に輝いて、キリストのみ顔にある神の栄光の知識をきらめかせたまいました。
新共同「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
NIVFor God, who said, "Let light shine out of darkness," made his light shine in our hearts to give us the light of the knowledge of the glory of God in the face of Christ.
註解: 原文には「何となれば」とあり5節の理由の説明である。すなわちパウロ等が福音の役者となっている理由は唯神の御働きであって、(かつ)て天地創造の際に「光あれと云い給いければ光ありし」と同じく、神は暗黒の中に在った我らの心を照して、キリストの顔にある神の栄光を知るの知識を与え給い、モーセの如くに面帕(かおおおい)をあてて神に見ゆるにあらずして、キリストによりて直接に神を見る事ができる様にせられ、この知識をばこれを更に他の人々に輝かすべき任務を我らに授け給うた。故に己の事について宣べるにあらず、唯この知識を輝かす為に却って汝らの僕となっているのである。
要義 [使徒としてのパウロの態度]前章において使徒職の性質とその栄光とを述べしパウロは、ここにその職に対する自己の態度を鮮明にしている。而してパウロの態度はこれを要約すれば(1)使徒職は全然万能の神の憐憫(あわれみ)により、神の独自の働きによりて彼に与えられたものであって(Uコリ4:1、6)人間の推薦や紹介によれるものにあらざる事(2)福音は光であって、この光によりキリストの栄光、換言すればキリストの顔にある神の栄光を知るものなる事(Uコリ4:4、6)。(3)従って光の性質に叶う様に、使徒等は公然を重んじて隠密をさけ、その行動においても伝道においても、神の前に万人の良心に自己を呈出して恥じざる事である。故に面帕(かおおおい)を存して光を受け得ざるもの隠密悪巧(わるだくみ)を行うものは福音の使徒ではない。偽の教師等はこの後者の態度を取っておった。我らもかかる態度に出ない様に注意すべきである。

3-5-ホ 使徒職の光栄と之に伴ふ苦難 4:7 - 4:18

4章7節 我等(われら)この(たから)(つち)(うつは)()てり、[引照]

口語訳しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
塚本訳しかしこの宝が、(貧弱な)土の器の中にある。それはその素晴らしい力が神のものであって、わたし達(土の器)から出るのではないことがわかるためである。
前田訳われらはこの宝を土の器に持っています。それはあふれる力が神のもので、われらからでないためです。
新共同ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
NIVBut we have this treasure in jars of clay to show that this all-surpassing power is from God and not from us.
註解: (▲7−18節はパウロ反対の人々がパウロに多くの苦難が臨んで来るのは彼が真の使徒ではない証拠であるとして彼を非難したのに対して、パウロは苦難の意義と使徒としての苦難の重要さを示したのであった。)「この宝」は福音の使徒たる職を意味し「土の器」はパウロ等の肉を意味する。一方に福音の使徒たる職の光栄が、モーセの光栄にも優る事を知りながら、他方これを授けられし使徒自身の肉の弱さと醜さとを見る時、この光栄ある職を盛る器としては全く不適当であり、これにつきて誇る事は如何にも狂か愚かの如くに人には見える事をパウロは知っていた。しかしパウロはこれを恥とせず、容器の卑しきを見て内容そのものを(いやし)むは誤っているのみならず、却って其処に深き神の御旨があることを確信していた

これ(すぐ)れて(おほい)なる能力(ちから)我等(われら)より()でずして、(かみ)[より()づることの](のものなること)(あらは)れんためなり。

註解: これ福音の偉大なる力が、その使徒たる人より出づるが如くに思われる事を避けんが為である。すなわちこの力は神より出づるのであって神のみ崇められ給わんが為に、かかる卑しき土の器にこの至宝が盛られたのである。故に自らを高しとしその宝の貴さを顕さない使徒は真の使徒ではない。偽の使徒はパウロの肉の弱さを嘲けり、自己の肉に誇る事によりてパウロの使徒たる事を否定していたのであろう(Uコリ11:18−23。Uコリ11:30Uコリ12:5−10)。

4章8節 われら四方(しはう)より患難(なやみ)()くれども(きう)せず、[引照]

口語訳わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
塚本訳わたし達はあらゆることで悩まされる、しかし行き詰まらない。当惑する、しかし絶望しない。
前田訳われらはあらゆることに苦しめられながら押しつぶされず、途方に暮れながら行きづまらず、
新共同わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
NIVWe are hard pressed on every side, but not crushed; perplexed, but not in despair;
註解: パウロは自己の肉の弱さ醜さは、却て神の光栄を揚ぐる所以である事をその経験を以って証明している。すなわちパウロの弱き肉はあらゆる時、所、事件において患難に圧迫せられておりながら、窮地に陥って進退窮まる事が無いのは土の器の如き自己に、その力があるからでは無く神の力に支えられるからである。
辞解
[四方より] 直訳「凡てにおいて」
[窮せず] 袋小路に入って出道を失う様な事は無いとの意を示す語

()(かた)つくれども希望(のぞみ)(うしな)はず、

註解: 神に依り頼む者には絶望は無い、アブラハムは望むべくもあらぬ時になお望んでいた、ロマ4:18。我らの肉は容易に絶望の状態に陥るけれども、神を信じてその場合にも絶望しないその姿こそ福音の力のよき証拠である

4章9節 ()めらるれども()てられず、[引照]

口語訳迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
塚本訳迫害される、しかし(神に)見捨てられない。打ち倒される、しかし死にはしない。
前田訳迫害されながら見捨てられず、倒されながら滅びません。
新共同虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
NIVpersecuted, but not abandoned; struck down, but not destroyed.
註解: 如何に迫害せられても窮地に置き去りにされる如きことなく、必ず立ち上がってその道に進んでいく

(たふ)さるれども(ほろ)びず、

註解: この語は一層激しき程度の迫害を意味し、蹴倒(けたお)踏倒(ふみたお)して我らを亡ぼさんとしても、神これを支え給うが故に亡びない

4章10節 (つね)にイエスの()(われ)らの()()ふ。これイエスの生命(いのち)(われ)らの()にあらはれん(ため)なり。[引照]

口語訳いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
塚本訳わたし達はいつもイエスの死の苦しみを体に受けて持ち回っている。それはわたし達の体にイエスの命も現れるためである。
前田訳たえずわれらはイエスの死を体に帯びていますが、それはイエスのいのちがわれらの体に現われるためです。
新共同わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
NIVWe always carry around in our body the death of Jesus, so that the life of Jesus may also be revealed in our body.
註解: パウロその他の使徒弟子等の受けるあらゆる迫害と困難は、取りもなおさずイエスの死をその身体に帯びているのである。この世においてイエスが殺され給いし如く弟子たちも苦難を味わなければならない。ヨハ15:20コロ1:24。しかしイエスは死より甦り今もなお生きて神の右にい給うのであって、パウロ等がその迫害の中に支えられる力そのものはイエスの復活の生命の発露であって、これにより彼らはイエスの生命をその土塊(つちくれ)の如き身に顕わしているのである。ここにパウロは信仰によりて、キリストとの一致の生涯を送っていた事を見る事ができる。
辞解
[イエスの死] 原語においてこの場合「死」は死ぬる動作を意味している。
[「日々に死す」る事] すなわち十字架を負うの生涯を指す、ロマ8:36引照参照。イエスの贖罪の死を指すのでは無い。日々己を犠牲にして他を愛するの行為である。
[負う] 到る処に持ち廻るの意、パウロ等はその伝道の行く先々にイエスの死を持ち廻った

4章11節 それ(われ)()ける(もの)(つね)にイエスのため()(わた)さるるは、イエスの生命(いのち)(われ)らの()ぬべき肉體(にくたい)にあらはれん(ため)なり。[引照]

口語訳わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
塚本訳言い換えれば、わたし達が生きながらイエスの故に絶えず死の手にゆだねられているのは、イエスの(復活の)命もわたし達の死ぬべき肉体に(すでにこの世で)現れるためである。
前田訳それは、われら生きているものが、イエスのゆえにつねに死に渡されるのは、イエスのいのちもわれらの死すべき肉体に現われるためだからです。
新共同わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
NIVFor we who are alive are always being given over to death for Jesus' sake, so that his life may be revealed in our mortal body.
註解: 貴いものはイエスの生命であって、我らの肉体は死ぬべき取るに足らぬものである。而してこの土塊(つちくれ)に等しき肉体がイエスの為に迫害せられ死の苦痛に付される事は、敵人の考うる如く我らの真の使徒にあらざる証拠ではなく、却てこれによりてイエスの今もなお活きて働き給う事を、我らの死ぬべき肉体によりて顕わしているのである

4章12節 さらば()我等(われら)のうちに(はたら)き、生命(いのち)(なんぢ)()のうちに(はたら)くなり。[引照]

口語訳こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。
塚本訳従って死はわたし達に働くけれども、(そのことによってわたし達に溢れる)命があなた達に働くことになるのである。
前田訳かくて死がわれらのうちに、いのちがあなた方のうちに働くのです。
新共同こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。
NIVSo then, death is at work in us, but life is at work in you.
註解: 使徒等が常に迫害を受けて死の苦難を()めている結果として、復活のキリストの生命が使徒等の肉体に顕われ、これがコリントの人々に作用してやがてコリントの人々がキリストの生命に与り得るに至るのである。パウロ等はコリントの信徒に対する愛より凡ての苦難を己に引受ける事によって、彼等に生命を与えんとしているのであって、これが使徒職の任務であり、また証拠である

4章13節 (しる)して『われ(しん)ずるによりて(かた)れり』とあるごとく、我等(われら)にも(おな)信仰(しんかう)(れい)あり、(しん)ずるに()りて(かた)るなり。[引照]

口語訳「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。
塚本訳しかしわたし達は聖書に“わたしは信じた、それゆえに語った”と書いてあるのと同じ信仰の霊を持っているので、わたし達も信じており、それゆえにまた(福音を)語っているのである。
前田訳聖書に、「わたしは信じ、それゆえに語った」とあり、われらも同じ信仰の霊をもっていますので、われらも信じ、それゆえに語っているのです。
新共同「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。
NIVIt is written: "I believed; therefore I have spoken." With that same spirit of faith we also believe and therefore speak,
註解: 私訳「蓋し我らにも同じ信仰の霊あれば、『われ信ぜし故に語れるなり』と録されし処に従い、我らもまた信ずるが故に語るなり」。以上の如く大胆に断言する所以は信仰を()っているからである。すなわちダビデの持てると同じ信仰の霊を我らも有っている故、ダビデが詩116:10(七十人訳)に言える言に依り、我らもまた我らの信ずるがままを大胆に言うのである

4章14節 これ(しゅ)イエスを(よみが)へらせ(たま)ひし(もの)我等(われら)をもイエスと(とも)(よみが)へらせ、(なんぢ)らと(とも)()たしめ(たま)ふことを(われ)()ればなり。[引照]

口語訳それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。
塚本訳というのは、主イエスを生きかえらせたお方は、イエスと一体としてわたし達をも生きかえらせ、あなた達と一所にその(御座の)前に立たせてくださることを知っているからである。
前田訳われらは知っています、主イエスをよみがえらせた方がわれらをイエスとともによみがえらせ、あなた方とともにみ前に立たせたもうことを。
新共同主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。
NIVbecause we know that the one who raised the Lord Jesus from the dead will also raise us with Jesus and present us with you in his presence.
註解: 「信仰の内容は主イエスを甦えらせ給いし神が終の日に(キリスト再臨の時に)我らをもイエスと共に甦らせ、汝らすなわち愛するコリントの信者と共にキリストの臺前(だいぜん)に立たしめ給うと云う事である」すなわちパウロは体の復活を明かに信じていたが為に、甦ってキリスト及びコリントの信者たちと永遠に活くる事を望みつつ、現在日々にイエスのために死に付される事を少しも恐れず、反って凱歌を揚げる事ができたのである

4章15節 (すべ)ての(こと)(なんぢ)らの(えき)なり。[引照]

口語訳すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
塚本訳何もかもあなた達のためにするのである。これは恩恵が増すにつれていよいよ多くの(信ずる)人たちが感謝にあふれ、神の栄光が揚がるためである。
前田訳すべてはあなた方のためです。それは、恩恵があふれ、ますます多くの人によって感謝を増して、神の栄光を現わすからです。
新共同すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。
NIVAll this is for your benefit, so that the grace that is reaching more and more people may cause thanksgiving to overflow to the glory of God.
註解: パウロ等が為す凡ての活動も、その受くる凡ての苦難も皆コリントの信者の益となる事であった。これを知らずにパウロ等を軽蔑し、その使徒職につき疑いを(はさ)む如きは非常なる過誤である

これ(おほ)くの(ひと)によりて御惠(みめぐみ)()(くは)はり、感謝(かんしゃ)いや(まさ)りて(かみ)榮光(えいくわう)(あらは)れん(ため)なり。

註解: パウロ等が苦難の生涯を送る事が、コリント人の益となる事は意味深き事であって、すなわち神の御恵を受ける人々がパウロ等の伝道によりて益々増加し、これによりて神の御恵が増し加わり、これに伴って感謝の心もまた益々加わりて、多くの人が共に御恵を受け感謝を共にする事によりて神の栄光が顕われんが為である。
要義 [伝道者の苦難]基督者には苦難は当然であると共に(ヨハ15:19、20。マタ5:11)、また必要である(ヘブ12:5-13)。しかしながら福音の伝道者のためにはそれが一層必要であって、肉体の苦難と死との中にありて益々キリストの生命の光を輝かし、多くの人々にイエスの生命を分ち与うる事ができるのである。而して己の受ける困難とその味わう死が結局益々多くの人々の上に、神の御恵が下り益々多くの人が感謝し得るに至り、神の栄光の顕われる原因となるを思う時、肉の弱さ、醜さ、その苦難、迫害等凡てこの世の目より見て神の使者に相応しからぬものが、却って伝道者に欠くべからざるものであって、これによって却って神の栄光を揚ぐる事ができる事を知るであろう。

4章16節 この(ゆゑ)(われ)らは落膽(きおち)せず、[引照]

口語訳だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
塚本訳このゆえに、わたし達は気を落さない。いや、わたし達の(生れながらの)外の人はどんなにこわれていっても、(キリストによって生れた)内の人は一日一日と新しくされてゆく。
前田訳それゆえわれらは気を落としません。たとえわれらの外の人は滅びても、われらの内の人は日々新しくされています。
新共同だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
NIVTherefore we do not lose heart. Though outwardly we are wasting away, yet inwardly we are being renewed day by day.
註解: Uコリ4:1にはたとい使徒職が偽の教師その他の目に卑しきものに見えても、神の憐憫(あわれみ)によりてこの職を受けしが故にパウロは落胆しない事を述べ、ここには前節まで論じ来たれる如く如何に多くの苦難を受くるとも復活の希望を握り、且つこの苦難が神の栄光となる事を思って落胆しない事を繰返している。

(われ)らが(そと)なる(ひと)(やぶ)るれども、(うち)なる(ひと)日々(ひび)(あらた)なり。

註解: 私訳「たとい我らの外なる人は腐朽すとも、内なる人は日々に新にされるなり」「外なる人」は肉体であって迫害、老衰、死によりて腐朽すべき運命にあり、殊にパウロ等は常にこの運命を身に受けていた。「内なる人」はキリストの霊によりて新生せる人であって、肉体の弱さと反比例して日々に新なる力を得て益々その新鮮さを増して来るのである。若しキリストの霊によりて新生せしめられないならば、この内なる人は外なる人と共に腐朽するの運命にある

4章17節 それ[(われ)らが()くる](しばら)くの(かろ)患難(なやみ)は、(きは)めて(おほい)なる永遠(とこしへ)(おも)光榮(くわうえい)()しむるなり。[引照]

口語訳なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
塚本訳なぜなら、現在の軽い苦難は、この上もなく素晴らしい、永遠に豊富な(神の)栄光をわたし達にもたらす(保証だ)からである。
前田訳それは、現在の軽い苦しみは、はかり知れない重さの永遠の栄光をわれらにそなえるからです。
新共同わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
NIVFor our light and momentary troubles are achieving for us an eternal glory that far outweighs them all.
註解: 私訳「そは暫時の軽き患難は永遠の重き光栄を溢れるばかり我らに得しむればなり」この世に生存する年限は短い、その間に如何に大なる患難が我らに臨もうとも、それは束の間に過ぎず且つ未来の栄光に比して鴻毛(こうもう)の如くに軽い、この僅かの患難がやがて永遠に亡びざる生命の重大なる光栄を、極めて豊かに我らに与うる原因をなしているのである、この希望を握る場合においては内なる人は日々に新にせられるのである。
辞解
[極めて大なる] 「光栄」を形容する事もでき、また「得しむる」を形容する事もできる、いずれにしても意味に大なる変化はない、この一節殊に「極めて大なる」の原語は日本語に訳しにくい熟語であって、程度の非常に大なる事を示す

4章18節 (われ)らの(かへり)みる(ところ)()ゆるものにあらで()えぬものなればなり。()ゆるものは暫時(しばらく)にして、()えぬものは永遠(とこしへ)(いた)るなり。[引照]

口語訳わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
塚本訳このわたし達は見えるものに目を向けているのではなく、見えないものに目を向けているのである。見えるものは一時的、見えないものが永遠だからである。
前田訳われらが目ざすのは見えるものでなく、見えぬものです。見えるものはしばし、見えぬものは永遠だからです。
新共同わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
NIVSo we fix our eyes not on what is seen, but on what is unseen. For what is seen is temporary, but what is unseen is eternal.
註解: 私訳「蓋し我ら見ゆるものを顧みずして見えざるものを顧みる。そは見ゆるものは一時的にして見えぬものは永遠なればなり」。見ゆるものは栄誉、幸福、名声、健康、安佚(あんいつ)等凡てこの世に属するものを指し、見えぬものは未だ実現せざる未来永遠の光栄を指す(有形物と無形物、または見得べきものと見得べからざるものの区別ではない。何となればキリストの再臨の後は今見えぬものをも見るに至るからである)。パウロの如き苦難の生涯は前者を失った生涯であるけれども彼はこれを意としない、そはかかるものは一時的のものであるからである。反対にパウロ等の顧みるものは永遠の光栄の希望である。この希望を()つ故に凡ての現在の患難を無視する事ができたのである。ロマ8:18参照。
要義 [苦難と希望]苦難をして耐え易からしむるものは、苦難が我らをして益々明かに永遠の世界を望むに至らしむる事である。キリストの再臨により我らは復活して栄光の世界に入り、キリストと共にまた他の聖徒と共に宇宙を支配する事の絶大永遠なる希望は、これを確実に握るに従ってますます現在の一時的苦難の軽き事を知る事ができる様になるのであって、これただに使徒たちのみの問題ではなく、凡ての基督者の問題である。この永遠の希望を懐いて現在の苦難に耐うるものはその腐朽せんとする外なる人、土の器よりキリストの光が輝き出るのである。反対にこの希望なしに苦難を耐えんとしてもそれは不可能事である。基督者が多くの苦難に耐うることを得る所以は彼らの忍耐力によるのでは無く、またあきらめによるのでもなく彼らがより大なる希望を握っているからである。