黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版第1ヨハネ書

第1ヨハネ書第3章
1-9 主に在る者は罪を犯さず 3:1 - 3:12

3章1節 ()よ、(ちち)(われ)らに(たま)ひし(あい)如何(いか)(おほい)なるかを。(われ)(かみ)()(とな)へらる。(すで)(かみ)()たり、[引照]

口語訳わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。
塚本訳見よ、父はなんとすばらしい愛を賜わったことか、わたし達は神の子(たるべき特権を与えられたの)であり、否、事実上すでに神の子である!この世は神を知らないために、わたし達(が神の子であること)を(も)知らないのである。
前田訳あなた方はどんな愛を父(なる神)がわれらにお与えかをご存じです。われらは神の子らと呼ばれました。そして事実そうなのです。このために世はわれらを認めません。世は彼を認めなかったのです。
新共同御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。
NIVHow great is the love the Father has lavished on us, that we should be called children of God! And that is what we are! The reason the world does not know us is that it did not know him.
註解: 私訳「・・・・・・我ら神の子と称えられんとは。(▲または口語訳のようにも訳すことができる。)而して我ら神の子たり」。ヨハネはこれよりキリスト者が義を行い己を潔むべきことを教えんとして、まず神の我らに賜いし愛の如何に大なるかを読者に示した。すなわち神が我らを愛して我らを神の子と称えられるに至らしめ給うたことである。名は実の賓であって、我らは事実神の子である。元来神の敵であり神に背ける罪人なる我らが神の子と呼ばれることは唯みな神の愛のみより来るのであって、その愛の長さ深さ高さ広さは無限である(エペ3:18)。
辞解
[如何に大なる] potapos で本来「如何なる性質の」を意味するけれども、驚嘆の際等に用いてその大きさ等をも示す場合あり。

()(われ)らを()らぬは、(ちち)()らぬによりてなり。

註解: 私訳「このゆえに世は我らを知らず、父を知らざるが故なり」(ヨハ5:18参照)。我ら神の子にしてこの世の子にあらざる故、世は我らの本質を理解しない。その故は世は父を知らず、従って父がその絶大の愛をもって罪人なる我らを子とし給うことを理解し得ないからである。それ故に神の子たちは絶大の光栄を保持しておりながら、この世においては塵埃(ほこり)のごとくに無視され賤しめられる。

3章2節 (あい)する(もの)よ、我等(われら)いま(かみ)()たり、(のち)いかん、(いま)(あらは)れず、(しゅ)(あらは)れたまふ(とき)われら(これ)()んことを()る。(われ)らその(まこと)(さま)()るべければなり。[引照]

口語訳愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。
塚本訳愛する者たちよ、わたし達は今神の子であるが、(最後の日に)どうなるか、それはまだ現われていない。(キリストが)自分を現わされるときには、わたし達は彼に似ているであろうことを知っている。その時わたし達は彼をありのまま(の姿)で見るからである。(それはわたし達が彼に似ている証拠、また見ることによって、いよいよ似た者になるであろう。)
前田訳親愛な方々、今やわれらは神の子らです。われらが何になるかは、いまだ見えません。しかしわれらは彼(キリスト)がお見えのあかつきには、彼に似ることを知っています。ありのままに彼を見ようからです。
新共同愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
NIVDear friends, now we are children of God, and what we will be has not yet been made known. But we know that when he appears, we shall be like him, for we shall see him as he is.
註解: 現在の我らの状態は神の子としては余りに貧弱である。神の子たる身分に相応しくない。しかも後に復活して永遠の生命に入る時の状態如何は未だ我らに顕わされない。これは未来において実現するのであって、今は唯我らの信仰の中に保たれる希望に過ぎない。我らの今日から知っていることは主イエス・キリストの再臨の時至れば我らは彼に似たものになるであろうということだけである。彼に似たものとなるであろうという訳は彼をその有りのままの姿において見奉るからである(Uコリ3:18Tコリ13:12)。完全なる信頼をもって主の栄光を仰ぐ者は自らその姿に化する。ヨハネは我らの聖化をも単なる神の御業とせず我らの信仰をもこれに加えていることは注意すべきである。
辞解
[主の現れたまふ時] 「後いかん、未だ顕れず」を受けて「その現はれる時」と訳すべしと主張する学者あり(M0、A1 、H0)、かく解することも文法上および意味の上に差支えがない。
[見るべければなり] 主の真の(さま)を見ることがなぜに主に似るに至る理由であるかは理解し難いので、これを逆に「我らは本来罪人であって神(または主)の栄光の御姿を拝し得ないものであるが(出33:23)彼に似た者となればその御姿を見ることができるであろう」と解する(G1)見方があるけれどもやや文法的に無理がある故、これによらず上記のごとくした。

3章3節 (すべ)(しゅ)による()希望(のぞみ)(いだ)(もの)は、その(きよ)きがごとく(おのれ)(きよ)くす。[引照]

口語訳彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。
塚本訳神にこんな希望を持っている者は皆、キリストが清くあるように、自分を清める。
前田訳だれでも彼についてその希望をもつものは、彼が清くいますように自らを清めています。
新共同御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
NIVEveryone who has this hope in him purifies himself, just as he is pure.
註解: キリストに在るこの希望、すなわちキリスト再び来給う時に主のごとき姿に化し、栄光の主を目のあたりに見ることを得る希望をいだく者は、現在においてすでに自己の身分を自覚して、今より主の潔きがごとく潔からんことを(つと)める。我ら潔からずとも神は我らを潔き者として取扱うと唱えて己を潔くせんとせざる者は神の恩恵を肉の慾のために空費せんとする異端である。己を潔くするには自己の力によらず己の中に留まり給うキリストの力による(A2)。
辞解
「清き」「潔くす」と異なる文字を用いているけれども原語は同一文字 hagnos hagnizô である。

3章4節 すべて(つみ)をおこなふ(もの)()(はう)(おこな)ふなり、(つみ)(すなは)()(はう)なり。[引照]

口語訳すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。
塚本訳罪を犯す者は皆、不法をも働く(者である)。そして罪は不法である。
前田訳だれでも罪を犯すものは不法をも犯します。罪は不法です。
新共同罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。
NIVEveryone who sins breaks the law; in fact, sin is lawlessness.
註解: 前節「己を潔くす」の反対は罪を行うことである。「罪を行ふ」ことは「義をおこなふこと」(Tヨハ2:29Tヨハ3:7Tヨハ3:10)の反対で神の御意に反する行為を為すことであり、従って律法違反すなわち不法を行うことである。罪と不法とは同一である。
辞解
[罪をおこなふ] poieô を用う(ロマ7:15辞解「為さず」)。単に「罪を犯す」というよりも根本的なる罪の中に在る状態を指す。
[不法] anomia は律法違反の意味に主として用いられる。すなわち神の御意を無視し、これに違反する生活。

3章5節 (なんぢ)らは()る、(しゅ)(あらは)(たま)ひしは(つみ)(のぞ)かん(ため)なるを。(しゅ)には(つみ)あることなし。[引照]

口語訳あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。
塚本訳あなた達はキリストが(地上に)自分を現わされたのは、(人の)罪を取りのぞくためであることを知っている。その方の中には罪がないからである。
前田訳ご存じのように彼(キリスト)がお見えになったのは罪を除くためであり、彼のうちには罪がありません。
新共同あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。
NIVBut you know that he appeared so that he might take away our sins. And in him is no sin.
註解: 4節に罪の性質を叙述し、6節に主にある者の罪を犯さざることを述べんとして本節に前の前掲たるキリストにつきて述べる。すなわちキリスト降生の目的は我らより罪を取り去り給わんがためであり、たしかにキリスト御自身には全く罪がなかった。ゆえにキリストに在る者は当然キリストによって罪を取り除かれ、キリストのごとくに生きて罪を犯さないはずである。「罪を犯すことを()めない者はキリストより来る恵沢(けいたく)(むな)しくすることとなる。その故はキリストは罪の支配力を破壊せんがために来り給うたからである」(C1)。
辞解
[罪を除く] airô は「負う」および「除く」の二義あり、前者はキリストの十字架上の贖罪の死を意味し、後者は御霊が我らの中に働きて我らの罪を除去する働きを意味す。これに相当するヘブル語ナーサーもこの二つの意味がある故この二者を兼ねるものと解することができるけれども本節の場合は「除く」の意味が主となっている。ヨハ1:29辞解参照。

3章6節 おほよそ(しゅ)()(もの)(つみ)(をか)さず、おほよそ(つみ)(をか)(もの)(いま)(しゅ)()ず、(しゅ)()らぬなり。[引照]

口語訳すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である。
塚本訳(罪なき)彼に留っている者はだれも、罪を犯さない。罪を犯す者はだれも、彼を見たことがなく、知ってもいないのである。
前田訳だれでも彼のうちにとどまるものは罪を犯しません。だれでも罪を犯すものは彼を見も知りもしないのです。
新共同御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。
NIVNo one who lives in him keeps on sinning. No one who continues to sin has either seen him or known him.
註解: 「主に居る者」「主の中に留る者」は単に主を信じ主を知る等の語が表示するよりも一層深く主との霊交に生きること、「罪を犯さず」とは単に「罪の中に固執せず」(L1)とか「罪をして自己を支配せしめず」とかまたは「慣習的に罪を犯さず」というごとき意味ではなく、それよりも徹底的に事実「罪を犯さない」ということである。すなわち「主に居る」ということと「罪を犯す」ということとは全く相容れない事柄である。従って罪を犯す者はみなその霊眼をもって主を見しことなく、その霊の心をもって主を知りしことなき者、すなわち全く信仰を有たないものである。ゆえにキリスト者が罪を犯すことは全く有り得べからざることが起ったので、ゆえに非常なる悲嘆驚駭を与え彼を悔改めに至らしめるのである。キリスト者も罪を犯す場合があることはヨハネも断言している処であり(Tヨハ1:8−10。Tヨハ2:1、2。Tヨハ3:3)、本節と矛盾するがごとくに見える。この点につきては要義三参照。
辞解
[見る、知る] 共に霊的の意味である(B1)。

3章7節 若子(わくご)よ、(ひと)(まどは)さるな、()をおこなふ(もの)義人(ぎじん)なり、(すなは)(しゅ)()なるがごとし。[引照]

口語訳子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。
塚本訳子供たちよ、あなた達はだれにも迷わされてはいけない。義を行う者は、神が義であるように、義である。
前田訳皆さん、だれにもだまされないでください。彼が義にいますように、義を行なうものは義です。
新共同子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。
NIVDear children, do not let anyone lead you astray. He who does what is right is righteous, just as he is righteous.
註解: 罪を犯す者の反対は義を行う者である(Tヨハ2:29)。義を行う者にあらざれば義と称することができない。主イエスはかかる義人に在し給うた。義を行うことなくして義人たり得ると考えまたは教える者は人を惑わす者である。かかる者に惑わされてはならない。行為を無視して義とせられんとする者は誤れる信仰である。ただしこの場合義を行うことは前節「主に居る者」たることが前提であることは勿論である。
辞解
[義人なり] 「義なり」と訳して後の場合と一致せしむるを要す。義を行う活動は義なる性質の結果である。

3章8節 (つみ)(おこな)ふものは惡魔(あくま)より()づ、惡魔(あくま)(はじめ)より(つみ)(をか)せばなり。[引照]

口語訳罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。
塚本訳しかし罪を犯す者は悪魔の子である。というのは、悪魔は始めから罪を犯したからである。神の子が自分を現わされたのはそのため、(すなわち)悪魔の業をこわすためであったのである。
前田訳罪を犯すものは悪魔の出です。はじめから悪魔は罪を犯しています。それゆえ神の子が悪魔のわざをこわすためにお見えなのです。
新共同罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。
NIVHe who does what is sinful is of the devil, because the devil has been sinning from the beginning. The reason the Son of God appeared was to destroy the devil's work.
註解: 前節とは正反対の場合、義を行う者は主にある義人であり、罪を行う者は主を離れし不義者であり悪魔より生れた者である。悪魔は本来罪を犯すのがその性質であり、これが悪魔の子らに影響する。
辞解
[初より] Tヨハ1:1の「初より」と同語なる故あたかも悪魔が永遠の昔より存在するがごとくに見え、異端マニ教の教理に類するように見えるけれども、ヨハネの意味は「本来」というごとき意味ならん。他にこの「初より」を「世界の始め」「天地創造の始め」「人類歴史の始め」「悪魔が悪魔となりし始め」「悪魔の最初の行為」等と解せんとする学者があるけれどもヨハネの心持はおそらく単に本来、元来というがごときものと解すべきであろう。

(かみ)()(あらは)(たま)ひしは、惡魔(あくま)(わざ)(こぼ)たん(ため)なり。

註解: 悪魔の業はその僕どもをして罪を犯させるに在る。キリスト現れ給いしは人々を罪より潔め悪魔の働く余地なからしめ、その働きを(こぼ)たんためであった。キリストと悪魔とは徹底的に正反対の立場に立っている。
辞解
[(こぼ)つ] luô はUペテ3:10−12のごとく「崩す」の意味あり(ヨハ2:19)。

3章9節 (すべ)(かみ)より(うま)るる(もの)(つみ)(おこな)はず、(かみ)(たね)、その(うち)(とどま)るに()る。(かれ)(かみ)より(うま)るる(ゆゑ)(つみ)(をか)すこと(あた)はず。[引照]

口語訳すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。
塚本訳すべて神(の力)によって生まれた者は罪を犯さない。神の(霊の)種がその人に留っているからである。彼は神(の力)によって生まれた(者である)から、罪を犯すことが出来ない。
前田訳だれでも神から生まれた人は罪を犯しません。神の種がその中にやどるからです。その人は神から生まれたがゆえに罪を犯しえないのです。
新共同神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
NIVNo one who is born of God will continue to sin, because God's seed remains in him; he cannot go on sinning, because he has been born of God.
註解: 「生るる」は「生れし」と訳すべし。前節の正反対の事実で前節とよき対象をなす。神より生れし者は神の種すなわち神の性質の基本たるものがその中に留まる故に罪を行わない。また神より生れている故この新しき人は神に背ける不法の行為を為すことができない(道徳的不可能)。
辞解
[神の種] 「神の言」(Tペテ1:23ヤコ1:18b)または聖霊(M0)と解する節あり、予はむしろこれを新たなる神性の意に解した。結局においてこれらの間に大差はない。
[罪を犯すこと能はず] 罪を犯す能力を失うのではなくその意思を失うのである。

3章10節 (これ)()りて(かみ)()惡魔(あくま)()とは(あきら)かなり。[引照]

口語訳神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。
塚本訳神の子と悪魔の子と(の区別)は、この点において明らかである。──(義を行う者、すなわち兄弟を愛する者は神から出た者であり、)すべて義を行わない者、また兄弟を愛しない者は、神から(出た者)ではない。
前田訳ここで神の子らか悪魔の子らかがわかります。だれでも義を行なわぬもの、兄弟を愛せぬものは神の出ではありません。
新共同神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。
NIVThis is how we know who the children of God are and who the children of the devil are: Anyone who does not do what is right is not a child of God; nor is anyone who does not love his brother.
註解: 前数節を受く、すなわち神の子と悪魔の子の差別はその口舌による信仰告白によらず、その頭脳による信仰の理論にあらず、その制度組織による教会所属如何によらず、義を行うか罪を行うかによる。

おほよそ()(おこな)はぬ(もの)および(おの)兄弟(きゃうだい)(あい)せぬ(もの)(かみ)より()づるにあらず。

註解: これよりヨハネの論鋒は義を行うことよりついに愛を行うことに移って行く(ロマ13:8−10。ガラ5:14コロ3:14)。ヨハネは兄弟を愛せぬ者は義を行わぬ者と同様神より出た者ではないことを述べ、以上において論ぜし凡てのことが兄弟を愛せぬ者に適用されることを示す。ここに「義」と「愛」との関係につきヨハネは触れていないけれども、愛は義の一部に非ず、その別名にもあらず、さらばとて義と相反するものにもあらず、神の御旨すなわち神の御言に照らしてこれに叶うものを義を称し、神の性質に叶うものを愛と称すと見て大差なきことと思う。すなわち真の愛は義であり、神の義は愛である。神においてのみ愛と義とは完全に一致する。要義四を見よ。
辞解
[兄弟] 信仰の兄弟と解する人があるけれどもむしろ一般の人間と解するを可とす(Tヨハ2:9、10、11。Tヨハ4:20、21。マタ5:22等のごとく)。

3章11節 われら(たがひ)(あひ)(あい)すべきは(なんぢ)らが(はじめ)より()きし音信(おとづれ)なり。[引照]

口語訳わたしたちは互に愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである。
塚本訳なぜなら、わたし達は互に愛さねばならぬこと、これがあなた達が(イエスが来られた)始めから聞いたおとずれだからである。
前田訳あなた方がはじめからお聞きのおとずれは、ほかならぬ互いに愛しあうことです。
新共同なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
NIVThis is the message you heard from the beginning: We should love one another.
註解: 本節は hoti ─ because をもって軽く前節と連絡す。汝らは福音を聴きし始めより互に相愛すべきことを聞いた。これが汝らの聞いている音信である。「音信」 angelia なる文字を用いし所以はこれが福音の本質に叶うからである(B1)。
辞解
[初より] ここでは福音を聞きし始めよりの意ならん。
[互に] キリスト者同志に限る必要はないが、キリスト者同志には最も強く適用される。

3章12節 カインに(なら)ふな、(かれ)()しき(もの)より()でて(おの)兄弟(きゃうだい)(ころ)せり。(なに)(ゆゑ)ころしたるか、(おの)行爲(おこなひ)()しく、その兄弟(きゃうだい)行爲(おこなひ)(ただ)しかりしに()る。[引照]

口語訳カインのようになってはいけない。彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのである。なぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである。
塚本訳カインのようであってはならない。彼は悪者[悪魔]から出て、弟(のアベル)を殺害したのである。何ゆえに弟を殺害したか。彼の行いは悪く、弟の行いは正しかったからである。
前田訳それはカインが悪の出で兄弟を殺したのとはちがいます。何ゆえ殺したのですか。彼のわざが悪く、兄弟のわざが正しかったからです。
新共同カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。
NIVDo not be like Cain, who belonged to the evil one and murdered his brother. And why did he murder him? Because his own actions were evil and his brother's were righteous.
註解: アダムの子カインはその兄弟アベルを殺した(創4:8)。これは全くキリスト者同志の相愛の関係と正反対であって、彼は神より出でず「悪しき者」すなわちサタンより出で、義を行わず悪を行っていた。愛なき処に憎あり、彼はその兄弟を憎んでこれを殺したのである。我らはかかる者に(なら)ってはならぬ。我らは愛なきカインにおいて悪魔より生れしものの姿を見、互に相愛するキリスト者において神より生れしものの姿を見る(16節)。
辞解
[殺す] 特に sphazô 「(ほふ)る」を用いし所以はその行為の惨虐性を示さんがためである。
要義1 [神を見るの結果]3:2「主の現れ給う時われらこれに()んことを知る、そは我らそのさながらの(さま)を見るベければなり」(私訳)は、主の再臨の時彼をその有りのままの御姿において拝することが、我らが彼に()るに至る原因または理由であるとの意味であるが、この真意はやや難解であるために種々の無理な解釈を生んでいる。しかしながらUコリ3:18にも録されるごとく、真の信仰と愛と崇敬と驚異とをもって神またはキリストの栄光を仰ぎ見る場合は仰ぎ見る者の姿も自然に神またはキリストの栄光に似るに至ることは考え得ることである。かくしてキリスト再臨の時我らが栄光の体に化されることは我らの仰ぎ見る信仰の上に神の為し給う御業であると考えることができる。
要義2 [自己を潔めること]「凡て主による此の希望を懐く者は、その潔きがごとく己を潔くす」(3:3)なる一節に関し種々の問題がある。(第一)恩恵主義を誤れる意味に強調する者は、「我ら自己の努力によらず、神の恩恵によりて義とせられ、キリストの聖(きよき)が我らの聖となるが故に我ら既に神の前に潔き者である。ゆえに今さら己を潔くせんと努力するの必要がない」という、かかる者は本節により自己の誤りを見出さなければならない。(第二)ここに「己を潔くす」とは自力によりて潔くする意味でないことはヨハネが本書簡をすでに凡てを知っている信者に宛てていることより見て明らかである。すなわち信仰によりキリストの御霊の助けによりて自己を潔めるのである。この聖霊の力を受けるには我らに不断の祈りと戦いとが必要である。(第三)我らは一瞬間に全く潔められなければならないと称うる一派のキリスト者に対して本節はその誤謬を証する。その故は「潔くす」なる動詞は現在形であって永続的または反復動作を表わしているからである。
要義3 [信者は全く罪を犯さないか]6節および9節によればキリスト者は全く罪を犯さず、罪を犯す者はキリスト者でないということになる。しかしながらこれ明らかにヨハネ自身の思想(Tヨハ1:8−10。Tヨハ2:1、2。Tヨハ3:3)と相反しているのみならず、真面目なるキリスト者の実際の経験に反する。それ故にこの二節に対し種々の方法をもって矛盾なきものと為さんとの試みが行なわれている。例えば、
(一)キリスト者の霊は罪を犯さず、罪を犯すのはその肉であると解す(しかしながら、これは結局キリスト者も罪を犯すこととなる)。
(二)「主に居る程度だけそれだけ罪を犯さない」(A2)と解す。(これでは6節後半の意味不明となる)。
(三)死に至る罪を犯さない意味と解す(しかしここにかかる思想を挿入することは無理である)。
(四)罪の中に継続的に留まっていない意味と解す(L1。ロマ6:1、2。この解釈は最も事実には当っているけれども、ヨハネの心持をそのまま示していない)。
(五)ロマ7:20の意味と解す((一)の場合と同一)。
(六)グノシス派に対する論戦なる故極端に表顕せるものと見る(しからばTヨハ1:8−10はかえって論戦の妨害となる)。
(七)この二節の示すごとくキリスト者は全く罪を犯さないと主張する解釈(これは凡ての人間の実際に反する)。
以上のごとき諸種の解あれど(R.Lawによる)、いずれも満足ではない。要するにヨハネはキリストにある新たなる霊の生命の本質をそのまま表顕したものと見るべきである。罪を犯すことはキリスト者にとってその本質上有り得べからざることが起ったのである。かかることを念頭に置かずしてヨハネは大胆率直にキリスト者は罪を犯さず、また犯すこと能わずと断言したのである。
要義4 [義と愛]3:10の前半より後半に移り行くに従いヨハネの思想は「義」より「愛」に移行し、この間に何の差別なきがごとくに感じさせる。義と愛との関係は聖書殊に新約聖書において重要なる問題であるが、ヨハネはそこに何らの問題も存ぜざるがごとくにこの二者を取扱っているのをみる。然らばこの二者の関係如何。第一に愛は義の一部ではない。何となれば愛は律法の完成だからであるから(ロマ13:10)。第二に愛は義の別名でもない、この二語を取換える時意味を為さない場合が多いからである。第三に勿論愛と義は相反するものではない、キリストの十字架上の贖罪によりて神の愛と義とが相合致した。要するに義とは神の御旨、神の御言(律法)を基準としてこれに叶うものをいい、愛とは己を虚うせる心の姿をいう。人間の場合において義は愛なき義に陥りやすく、愛は義を無視しやすい、唯神においてのみその義は完全にその愛に一致する。何となれば神は愛に在し給い、その愛の言はそのまま最後の律法なるが故である。
要義5 [文字の末に拘泥することを避くべし]神の言なる聖書を尊重するあまりに、その一字一句を全体より切り離して、これを教理の論拠とするごとき態度を取るキリスト者は少なくない。これは聖書の言を軽んずる者と同じく多くの過誤に陥る。例えばTヨハ2:19より分離派を凡て非キリストと解するごとき、またTヨハ3:6より完全なる聖潔をキリスト者に要求するがごとき、またTヨハ3:8の「初めより」より悪魔の性質に関する異説を立つるがごとき何れもこの態度の誤りより生じたる過誤である。我らは一字一句のみに聖書の真理を求むることなく全体の精神に照合してこの一字一句の意味を汲取るべきである。聖書に矛盾が多い。これ生命の書の特質である。これに勝手に自己の意見を加えてこの矛盾を除かんとするは不可である。一字一句にのみ拘泥する時ついにこれらの誤解と牽強付会(けんきょうふかい)とに陥らざるを得ない。

1-10 兄弟愛の本質 3:13 - 3:24

3章13節 兄弟(きゃうだい)よ、()(なんぢ)らを(にく)むとも(あや)しむな。[引照]

口語訳兄弟たちよ。世があなたがたを憎んでも、驚くには及ばない。
塚本訳世があなた達を憎むことを、兄弟たちよ、驚くに及ばない。
前田訳兄弟よ、世があなた方を憎んでもお驚きなく。
新共同だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。
NIVDo not be surprised, my brothers, if the world hates you.
註解: カインがアベルを憎みてこれを殺せることに関連して、悪しき世が義を行うキリスト者を憎むことの当然であることを示す。ヨハ15:18、19参照。

3章14節 われら兄弟(きゃうだい)(あい)するによりて、()より生命(いのち)(うつ)りしを()る、(あい)せぬ(もの)()のうちに()る。[引照]

口語訳わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている。
塚本訳わたし達は(神の子を信ずると同時に、もといた悪魔の支配する)死(と憎みとの世界)から、命(と愛との世界)に移っていることを知っている。なぜなら、わたし達は兄弟を愛するからである。愛しない者は(今もなお)死に留っている。
前田訳われらは死からいのちへ移されたことを知っています。それは兄弟を愛するからです。愛せぬものは死の中にとどまります。
新共同わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。
NIVWe know that we have passed from death to life, because we love our brothers. Anyone who does not love remains in death.
註解: ヨハネにとりてここに生といい死というは、もとより肉体の生命の生死ではない。また単に永遠の生命と永遠の死のみを言うのでもない。この永遠の生と死が現在においてすでに自己の中に存在しこれを経験し得ることを述べているのである。人は皆愛する場合には生命の中におり、愛せぬ場合すなわち憎む時は死の中にいることを経験することができる。生と死は状態であり愛と憎はその働きである。

3章15節 おほよそ兄弟(きゃうだい)(にく)(もの)(すなは)(ひと)(ころ)(もの)なり、(おほよ)(ひと)(ころ)(もの)の、その(うち)永遠(とこしへ)生命(いのち)なきを(なんぢ)らは()る。[引照]

口語訳あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。
塚本訳兄弟を憎む者は皆、人殺しである。そして、すべて人殺しには、永遠の命が留っていないことを、あなた達は知っている。
前田訳兄弟を憎むものはだれでも人殺しです、ご存じのように、どの人殺しのうちにも永遠のいのちはとどまっていません。
新共同兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。
NIVAnyone who hates his brother is a murderer, and you know that no murderer has eternal life in him.
註解: 愛せざることは結局憎むことであり、憎むことは結局人を殺すことである。事実剣を取って殺さずとも心の中にすでに殺人罪を犯している。そして人を殺す者の中に愛の生命なる永遠の生命が有るはずがない。殺人犯は死刑に処される普通の事実から見てもこの道理は明らかである。いわんや永遠の生命をや。そしてこれは一面にその人の主観的事実としても同様のことを言うことができる。
辞解
[人を殺す者] 実際の殺人者をいう。
[知る] 霊的直覚によりまた霊の常識による。
[永遠の生命] 前節の生命に同じ。
[生命なきを] 「生命留らざるを」と直訳すべき文字であるが「留る」は堅く内在する意味ではあるが、必ずしも以前より持っている意味ではない。

3章16節 (しゅ)(われ)らの(ため)生命(いのち)()てたまへり、(これ)によりて(あい)といふことを()りたり、我等(われら)もまた兄弟(きゃうだい)のために生命(いのち)()つべきなり。[引照]

口語訳主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。
塚本訳(神の子である)キリストがわたし達のために命を捨てられた(その)ことで、わたし達は(はじめて)愛を知った。だからわたし達も兄弟のために命をすてねばならない。
前田訳ほかでもなく、われらに愛がわかるのは彼(キリスト)がわれらのためにいのちをお捨てだからです。それで、われらも兄弟のためにいのちを捨てるべきです。
新共同イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
NIVThis is how we know what love is: Jesus Christ laid down his life for us. And we ought to lay down our lives for our brothers.
註解: 前節人を憎み人を殺す者の正反対は人を愛し人を生かさんがために己が身を殺す者である。主イエスは富にかかる生涯を送り給い、我らはこれによりて始めて愛の何たるかを知った。それまでの愛は愛と称するに足らざるものである。兄弟を愛することが我らの務めである以上は、我らもまた主イエスに(なら)いて兄弟のために生命を捨つべきである。これでこそ真に愛ということができる(ヨハ10:11ヨハ15:13ロマ5:7、8)。
辞解
[生命を捨つ] tithenai は贖罪の死の意味に用いられる文字であるけれども、本節の場合は代償関係をあまりに強く見るべきではない。愛の問題が主であるから。本節後半も同様である。

3章17節 ()財寶(たから)をもちて兄弟(きゃうだい)窮乏(ともしき)()(かへ)つて憐憫(あはれみ)(こころ)()づる(もの)は、いかで(かみ)(あい)その(うち)にあらんや。[引照]

口語訳世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。
塚本訳(手近な例であるが、)この世の財産を持っていて、その兄弟の必要を見ながら、しかも彼に対して憐れみの心を閉じる者があれば、どうして神の愛がその人に留っていることができよう。
前田訳おのが生計が立つのに、兄弟が困っているのを見て心をとざすものは、どうして神の愛がその人のうちにとどまるでしょう。
新共同世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。
NIVIf anyone has material possessions and sees his brother in need but has no pity on him, how can the love of God be in him?
註解: 前節は愛の最高の場合であり本節は普通の場合である。この程度のことは何人もこれを実行しなければならない。愛ある者は兄弟の窮乏を見て必ずその心を動かす、もしその憐憫の心を閉じ兄弟の窮乏を見ぬふりをするならば、これその人の心の中には神を愛する愛なき証拠である。
辞解
[神の愛] 「神を愛する愛」(A1、M0、E0、B1、C1、H0)と解するのが適説であるが、ここでは「神的の愛」の意味に解すべきである。

3章18節 若子(わくご)よ、われら(ことば)(した)とをもて(あひ)(あい)することなく、行爲(おこなひ)眞實(まこと)とを(もっ)てすべし。[引照]

口語訳子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。
塚本訳子供たちよ、わたし達は言葉や舌でなく、業と真理とをもって愛しようではないか。
前田訳皆さん、ことばや話でなく、わざとまことで愛しましょう。
新共同子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
NIVDear children, let us not love with words or tongue but with actions and in truth.
註解: 言と舌のみで実行これに伴わざる愛は虚偽である、愛は真実でないわけがない(ロマ12:9)。すなわち行為を伴うものでなければならない。キリスト教会の中にては口舌の愛の多きに苦しみつつあり。

3章19節 (これ)()りて(われ)眞理(まこと)より()でしを()り、(かつ)われらの(こころ)われらを()むとも(かみ)(まへ)(こころ)(やす)んずべし。[引照]

口語訳それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。
塚本訳それによって、わたし達は自分が真理(の子、すなわち神)から(出た者)であることがわかるであろう。すると神の前に自分の心を安んずることができる。
前田訳これによってわれらが真理からの生まれであることを知り、彼の前に心を安んじえます。
新共同これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、
NIVThis then is how we know that we belong to the truth, and how we set our hearts at rest in his presence

3章20節 (かみ)(われ)らの(こころ)よりも(おほい)にして一切(すべて)のことを()(たま)へばなり。[引照]

口語訳なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。
塚本訳たとえわたし達の心が自分自身を責めても、神はわたし達の心よりもえらいのであって、すべてを知っておられるからである。
前田訳たとえわれらの心が責めても、神はわれらの心より偉大で、すべてをご存じだからです。
新共同心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。
NIVwhenever our hearts condemn us. For God is greater than our hearts, and he knows everything.
註解: この二節は構文上の難関ありて種々に訳し得る可能性あることと、内容の難解なることとより多数の解釈を生ず。日本改訳の意味はおそらく、「行為と真実とをもって愛するものは真理にその源を有するものであり、たとい自己の良心が自己を責むることあるも、ロマ5:20のごとく神はそれよりも以上に我らの状態の憐れむべきを知り給い、我らの心よりも大なる心をもって我らを取扱い給う故に我らの心は神の前に安んずべきである」の意味に訳したのであろう(B1、L1の解釈)。予は(1)19、20節を21、22節と反対の立場を言えるものと解し、(2)「安んず」peithô をその普通の意義なる「確信す」「説服す」の意味に取り、その未来形を文法上の倫理的未来と解して次のごとくに私訳す、「これによりて我ら真理より出でしを知るべし。そして我らの心我らを責むる場合は我らは、神が我らの心よりも一層大に在し、かつ一切のことを知り給うことを神の御前に確認すべきなり」。すなわち我らの愛が行為を伴わず真実を欠くごとき場合は、我らの心(良心の意味に用いられている)は我らを責める。しかしながら神は一層強く我らを責め給う故に我らは神を恐れて良心の責めなきようにならなければならぬとの意味(Tコリ4:4)(この解はC1の解釈に似てやや異なる)、(または「・・・・・・かつ我らの心神の前に安んずべし、何となればもし我らの心我らを責めば(そは)神は我らの心よりも大にしてかつ一切のことを知り給うが故(なれば)なり」(A1)と解す。その他多くの訳し方につきてはA1、M0等参照。
辞解
本節にかく多くの翻訳と解釈を許す所以は(1)「安んず」 peithô は本来「説服する」の意味であるけれどもその結果として「確信し」または「確認する」の意味にも用いられ、またさらにこの確信の結果として心を「安ずる」の意味にも用いられるからである。本節の場合第三の意味に解する学者が多いけれども予は第二の意味に解した。(2)文章中に二つの hoti なる接続詞ありこの中第一は関係代名詞 ho,ti とも読み得ることと、この接続詞は英語の that および because の二つの意味があること、および(3)神が我らの心よりも大なることを神の審判の方面より見ると恩恵の方面より見るとの二様の見方があるからである。
[真理より出づ] 真理が我らの生命の源であること。この場合具体的にキリスト、神の言等と限定して解する必要がないがこれを排斥するわけではない。

3章21節 (あい)する(もの)よ、(われ)らが(こころ)みづから()むる(ところ)なくば、(かみ)(むか)ひて(おそれ)なし。[引照]

口語訳愛する者たちよ。もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。
塚本訳愛する者たちよ、もし心が自分を責めないなら、わたし達は神に対して確信を持つ。
前田訳親愛な方々、もし心が責めなければ、われらは神に対して確信があり、
新共同愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、
NIVDear friends, if our hearts do not condemn us, we have confidence before God
註解: 前節の場合とは反対に心に責められる所なき場合は如何に神が凡てを知り給うといえども神に向って少しも懼れる処がない。心が誠であり、誠の愛を行為に表わしていることは信仰の極致であって、そこには神との完全なる平和がある(ロマ5:1)。前節を私解のごとくに解せざる場合は本節と前節との間の対立関係が不明瞭となり、「愛する者よ」と呼びかけし意味が不可解となる。

3章22節 (かつ)すべて(もと)むる(ところ)(かみ)より()くべし。(これ)その誡命(いましめ)(まも)りて御心(みこころ)にかなふ(ところ)(おこな)へばなり。[引照]

口語訳そして、願い求めるものは、なんでもいただけるのである。それは、わたしたちが神の戒めを守り、みこころにかなうことを、行っているからである。
塚本訳そして(なんでも)願うものを、彼から戴く。なぜなら、彼の掟を守り、御前にお気に召すことをするからである。
前田訳彼に求めるものをお受けできます。それはわれらが彼のいましめを守り、彼のおよろこびのことをみ前で行なうからです。
新共同神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。
NIVand receive from him anything we ask, because we obey his commands and do what pleases him.
註解: 神の誡命(いましめ)を守り御心にかなう所を行うということは、最も従順なる子供の態度である。信仰とはかくのごとき状態をいうのであって(マタ18:3、4)、かかる態度をもって神に対して祈り求むる時神はその凡てを与え給う、何となれば神の御心に反することを求めるはずがないからである。本節は祈りの聴かれる理由をその人の行為に帰しているので、これが信仰のみによりて義とするの教理と矛盾せんことを懼れ、原文の自然の意味を解釈によりて曲げてその教理を弁護せんとする人が多いけれども(B1、C1)ヨハネはパウロのごとき意味において信仰と行為とを区別せず、信仰をも行為をもこれを新しき生命そのものの姿として描写している。ゆえに本節の行為はパウロのいわゆる律法の行為にあらず、幼児のごとき信仰を有する者のその信仰より出づる行為である。
辞解
誡命(いましめ)を守る事」と「御心にかなふ所を行ふ事」とは同一(M0)ではない。後者は前者より一層広き範囲を指す。

3章23節 その誡命(いましめ)はこれなり、(すなは)(われ)(かみ)()イエス・キリストの()(しん)じ、その(めい)(たま)ひしごとく(たがひ)(あひ)(あい)すべきことなり。[引照]

口語訳その戒めというのは、神の子イエス・キリストの御名を信じ、わたしたちに命じられたように、互に愛し合うべきことである。
塚本訳そして彼のおきてというのはこれである。──その(独り)子イエス・キリストの御名を信じ、彼がわたし達に命じられたように、互に愛することである。
前田訳彼のいましめとはみ子イエス・キリストのみ名を信じ、彼がいましめをお与えのように、互いに愛することです。
新共同その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。
NIVAnd this is his command: to believe in the name of his Son, Jesus Christ, and to love one another as he commanded us.
註解: 前節の「誡命(いましめ)を守り」を受けその内容を説明する。すなわち神の誡命(いましめ)は信仰と愛とである。キリストに対しては信仰、相互に対しては愛、この誡命(いましめ)はキリスト者の生活の全部を網羅する。

3章24節 (かみ)誡命(いましめ)(まも)(もの)(かみ)()り、(かみ)もまた(かれ)居給(ゐたま)ふ。(われ)らその(たま)ふところの御靈(みたま)()りて()(われ)らに居給(ゐたま)ふことを()るなり。[引照]

口語訳神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである。
塚本訳神の掟を守る者は神に留り、神も彼に留っておられる。そしてわたし達はそのことで、(すなわち)神がわたし達に分けてくださった霊によって、神がわたし達に留っておられることがわかるのである。
前田訳彼のいましめを守るものは彼の中にとどまり、彼はその人の中におとどまりです。これによって彼がわれらの中におとどまりと知ります。それはわれらにお与えの霊のおかげです。
新共同神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。
NIVThose who obey his commands live in him, and he in them. And this is how we know that he lives in us: We know it by the Spirit he gave us.
註解: 前節の誡命(いましめ)を守る者は神との完全なる霊交の状態において生きている者である。ゆえにこの誡命(いましめ)を守ることはパウロのいわゆる律法の行為を行うこととは異なる。そして神との霊交はこの誡命(いましめ)を守ることの原因でもなく、またその結果でもない。霊交は体すなわち本体で誡命(いましめ)を守ることはその用すなわち活動である。そして神が我らの中にい給うことは神の与え給いし聖霊によりてこれを知ることができるのであって、聖霊を受けている者は、我らの中に神が在し給うことを知り、この神の働きによりて我らは神の誡命(いましめ)を守るのである。かくして凡てにおいて凡てが神の御働きであることがわかる。
辞解
[御霊(聖霊)] 本書においてここに始めて録される。これが次章との思想の連絡となる。
[その賜ふところの] 「その賜いしところの」と訳すべきである。
要義1 [愛の生活]13−24節においてヨハネは愛の生活の一面を描写し、後にTヨハ4:7以下において他の方面に言及する。ここにヨハネの主として言わんとした処は愛の実行と愛の誠実さとである。そしてこの愛の生活を行う者と神との関係は、神に対する平和と、神との交わりと、幼児のごとく神に祈り神に聴かれる生活である。まさしくこの愛はキリストの愛のごとき愛であり、敵をも愛しそのために生命を捨てるところの愛である。かくして生命を捨てる者は真の生命に移っている者である。我らはここにその愛の生活の何たるかが最も明白に示されていることを見る。
要義2 [キリスト者は良心の責なしに在り得るや]21節によればヨハネはキリスト者は「心みづから責むる所」なき者であることを断言しているがごとくに見える。これはキリスト者は常に18節のごとき愛を持っているという意味にあらず、自己の罪と愛なきことに心付ける場合(19、20節のごとく)直ちにキリストに来りてその罪の赦しと執成しとを受け得るが故に心自ら責める所なく神に対して平和を得ることができるのである。

第1ヨハネ書第4章
1-11 神の霊とサタンの霊 4:1 - 4:6

4章1節 (あい)する(もの)よ、(すべ)ての(れい)(しん)ずな、その(れい)(かみ)より()づるか(いな)かを(こころ)みよ。(おほ)くの(にせ)預言者(よげんしゃ)()()でたればなり。[引照]

口語訳愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。
塚本訳愛する者たちよ、(今わたしは神の霊と言ったが、)どの霊をも信じないで、(まず)それらの霊が神から出たのかどうかを吟味しなさい。というのは、多くの偽預言者が(キリストの集会をはなれたこの)世に出てきているからである。
前田訳親愛な方々、どの霊でも信じるのでなく、霊が神からか、どうか、お試しなさい。偽預言者が大勢、世に出ています。
新共同愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。
NIVDear friends, do not believe every spirit, but test the spirits to see whether they are from God, because many false prophets have gone out into the world.
註解: 霊の中に神の霊、真理の霊ならざるものがある。悪魔の霊、虚偽の霊これである。それ故に霊的なるものを凡て無分別に信じてはならない。これを試してみる必要がある。すでに今多くの偽預言者すなわち虚偽の霊により支配される者がこの世に出ているから。
辞解
[その霊] 複数を用い、霊が種々の姿において自己を顕わすことを示す。
[試みよ] dokimazô で試験すること。

4章2節 (おほよ)そイエス・キリストの肉體(にくたい)にて(きた)(たま)ひしことを()ひあらはす(れい)(かみ)より()づ、なんぢら(これ)によりて(かみ)御靈(みたま)()るべし。[引照]

口語訳あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、
塚本訳(しかしこれを吟味することは難しくない。)あなた達はこのことで神の霊を知るのである。──どんな霊でも、イエス・キリストは肉体で(この世に)来られた(神の子である)ことを公然認めるものは、神から(出たの)であり、
前田訳神の霊を知る道はこれです−−すべてイエス・キリストが肉体で来られたと告白する霊は神からであり、
新共同イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。
NIVThis is how you can recognize the Spirit of God: Every spirit that acknowledges that Jesus Christ has come in the flesh is from God,

4章3節 (おほよ)そイエスを()(あらは)さぬ(れい)(かみ)より()でしにあらず、[引照]

口語訳イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。
塚本訳どんな霊でも、イエス(が肉体を取られた神の子であること)を公然認めないものは、神から(出たの)ではない。それは反キリストの霊である。それが来ることを、あなた達は(かねがね)聞いていたのであり、今やすでに、それがこの世におるのである。
前田訳すべてイエスを告白せぬ霊は神からでありません。これは反キリストの霊です。彼が来ることはお聞きですが、彼は今すでに世にいます。
新共同イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。
NIVbut every spirit that does not acknowledge Jesus is not from God. This is the spirit of the antichrist, which you have heard is coming and even now is already in the world.
註解: 私訳「汝ら次のことによりて神の霊を知れ、すなわち肉体にて来り給えるイエス・キリストを告白する凡ての霊は神より出で、またイエスを告白せざる霊は神より出でしにあらず」。イエス・キリストを告白するとはイエス・キリストに対する信仰を告白すること、そして「肉体にて来り給えるイエス・キリスト」とは、人間イエスそのものが神の子キリストであることを言表わせるキリスト教の重要なる中心真理である。従って「イエスを言表わさぬ霊」とは以上のごとき意味においてイエスに対する信仰を告白せざる者の意味である。すなわちイエスをキリスト救い主と信ぜざる類は勿論のこと、イエスの肉体は実質なき幽霊のごときものであるとする仮現説、または人間イエスは神の子にあらず、神の猶子(ゆうし)に過ぎずとする説のごときこの類に属す。人間イエスを神の子と信ずることは、宇宙観、神観、人間観、救済観の大革命であり、キリスト教の唯一の宗教たる所以である。要義参照。
辞解
私訳のごとく訳すことにより改訳本文と少しく意味を異にすることとなる。すなわち改訳は「イエス・キリストの肉体にて来り給いしこと」なる事実に対する信仰の告白となり、私訳は「イエス・キリスト」なる人格に対する信仰の告白となる。

これは()キリストの(れい)なり。その(きた)ることは(なんぢ)()けり、この(れい)いま(すで)()にあり。

註解: Tヨハ2:18−19に掲げし非キリストとは、肉体にて来り給えるイエス・キリストを告白せざる人々を指す。ヨハネは彼のすでにこの世に来ていることを示して読者を警戒する。そしてこの霊は何れの時代にも必ず存在しているのであって今日も多くこれを目撃することを得。

4章4節 若子(わくご)よ、(なんぢ)らは(かみ)より()でし(もの)にして(すで)(かれ)らに()てり。(なんぢ)らに居給(ゐたま)(もの)()()(もの)よりも(おほい)なればなり。[引照]

口語訳子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。
塚本訳子供たちよ、あなた達は神から出たので、(すでに)彼ら偽預言者に勝っているのである。というのは、あなた達の中におられるお方(すなわち神)は、(この)世に(権力を持って)いる者(すなわち悪魔)よりも、有力であるからである。
前田訳皆さん、あなた方は神の出で、彼らにお勝ちです。あなた方の中にいますものは、この世にあるものより偉大だからです。
新共同子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。
NIVYou, dear children, are from God and have overcome them, because the one who is in you is greater than the one who is in the world.
註解: ヨハネは前節後半において非キリストの霊がすでに世に来れることを述べて警戒を与えて後、本節においてキリスト者の勝利の原則を教えて彼らを激励する。キリスト者は神より出でし者で神の霊がその中にあり、非キリストは世にあるものでサタンの霊がその中にいる。神はサタンよりも大なるが故に、かつすでにサタンに勝っているためにキリスト者はすでに非キリストに勝っているのである。
辞解
[既に勝てり] サタンとの戦いが終了したのではなく、すでに勝ちてそして後に戦って勝つのである(Tヨハ5:4ヨハ16:33)。この点につきては要義二参照。「世」につきてはTヨハ2:15註および辞解参照。

4章5節 (かれ)らは()より()でし(もの)なり、(これ)によりて()(こと)をかたり、()(また)かれらに()く。[引照]

口語訳彼らは世から出たものである。だから、彼らは世のことを語り、世も彼らの言うことを聞くのである。
塚本訳彼らは(この)世から(出たの)である。だから、その語ることはこの世的であり、世は彼らの言うことを聞くのである。
前田訳彼らはこの世の出です。それゆえ彼らはこの世の見方で語り、この世は彼らに耳傾けます。
新共同偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。
NIVThey are from the world and therefore speak from the viewpoint of the world, and the world listens to them.
註解: 偽預言者、非キリストは神より出でず、世すなわち世の支配者たるサタンより出でしものである。ゆえに彼らの語ることはこの世のこと(生れながらのサタンの下にある人間が考えまた喜ぶごときこと)であり、従って世の人々は彼らの言に喜んで耳を傾ける。ヨハネより分離せる非キリスト偽預言者たちがその当時世に持て囃されていた有様を推測することができる。

4章6節 (われ)らは(かみ)より()でし(もの)なり。(かみ)()(もの)(われ)らに()き、(かみ)より()でぬ(もの)(われ)らに()かず。(これ)によりて眞理(まこと)(れい)迷謬(まよひ)(れい)とを()る。[引照]

口語訳しかし、わたしたちは神から出たものである。神を知っている者は、わたしたちの言うことを聞き、神から出ない者は、わたしたちの言うことを聞かない。これによって、わたしたちは、真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである。
塚本訳わたし達は神から(出たの)である。(だから)神を知っている者はわたし達の言うことを聞くが、神から出たのでない(この世の)者は、わたし達の言うことを聞かない。このことで、真理の霊と迷いの霊(との区別)をわたし達は知るのである。
前田訳われらは神の出です。神を知るものはわれらに耳傾けます。神の出でないものはわれらに耳傾けません。これによってわれらにはまことの霊と偽りの霊とがわかります。
新共同わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。
NIVWe are from God, and whoever knows God listens to us; but whoever is not from God does not listen to us. This is how we recognize the Spirit of truth and the spirit of falsehood.
註解: ヨハネその他の使徒たちの宣伝えていた福音に耳を傾け、これを信ずる者は非常に少数であった。唯神より出でし者、すなわちイエスを言表わす霊を与えられし者(Tヨハ3:24Tヨハ4:2)のみこれを受入れた。神の言を受入れる者はいつの代にも少数である。神の子が耳を傾けるごとくに教える者は真理の霊より出でし教師であり、世が耳を傾けるごとくに教える者は迷謬の霊より出でし教師である。
辞解
[我ら] ヨハネが自己と本書簡の読者とを一括して言えるものと見ることを得、またはヨハネと他の教師たちとを指したものと見ることを得。本節の場合後者が適当であろう。
[真理の霊と迷謬の霊] 聴く者の中にある霊の意味に解する学者もあるけれども、ここではむしろ教える者を指すとみるべきであろう。(▲勿論聴く者の中に神の霊がなければ伝道者の教えを聴き入れないのであるから(ヨハ14:17参照)、聴く者の中にある「真理の霊と迷の霊」とをこれによって認めることができるのは当然であるが、本節は語る者を主としたのであろう。)本節を今日に応用する場合につきては要義三参照。
要義1 [肉体にて来り給えるイエス]精神、霊性を尊重し、肉体を卑しむことは人類世界に極めて普遍的なる思想である。この思想は肉体にて来り給える人なるイエスをそのまま神の子キリストと見ることに多くの困難を感ずる結果、古来イエスの神性と人性との関係は神学上の最大の難問となった。イエスに二つの意思ありや単一の意思なりや、二つとすればこの間の関係は如何、イエスの肉体と神の子の霊との関係如何等多くの難問があり多くの異説を生じた。
然るに聖霊は肉体のイエスがそのままに神の子に在し給うことを主張する。この破天荒の思想は従来のあらゆる宗教や哲学に対する革命的主張であり、キリスト教をして独一無二の宗教たらしむる根本の原理である。肉体にて来り給えるイエスをキリストと告白することは次のごとき結果を生ずる。
(一) 人間が神を見んと欲する要求が完全に充たされる。
(二) 物質を(いやし)み精神を重んずる思想が打破される。
(三) 肉体は亡び、霊のみ永遠に生きると唱えるパウロの思想(Tコリ15:50−58。Uコリ5:1−4)を超越して、肉体もろともに永遠の生命そのものであるとの思想となる。
(四) 同時に汎神論のごとく凡ての肉体が永遠の生命そのものなることを承認せず、唯イエスの肉体においてのみ神を見、他の場合においてこれをその理想として掲げている。
(五) 神の思想を物質的なる低級なるものとしたように思われるけれども実は然らず、物質によりて限定されず、物質を離れず、しかも物質を超越する神の実在を知ることができるに至った。
(六) 我らの永遠の生命はこのイエスを持つことである。肉体にて来り給えるイエスはすなわち「生命」の別名である。
要義2 [すでに世に勝てり]4:4に神より出でし者がすでに彼ら非キリストに勝っていることを述べていることは注意を要する。我らはすでに世に勝ち給えるキリストのものとなっている以上、我らもまたすでに世に勝っているのである。このことは我らの世との戦いにおいて重大なる意義があることであって、我らの戦いは例えばそれが剣道、柔道、相撲の仕合のごときであっても、真にその奥義に達しているものは戦わざるに既に勝っていることの自覚を持っているのである。勝って後に勝ち、その時始めて自分の勝利を見出すのは偶然の勝利であって真の勝利ではない。Tヨハ5:4ヨハ16:33等にも皆完了形動詞 nenikêka(▲nikaô[勝つ]の完了形で「勝ってしまっている」こと。)を用いることはこの意味である。キリスト者はこの意味において戦わざるにすでに世に勝っているのである。
要義3 [われらに聴く者]「神より出でし者はわれらに聴く」云々はヨハネがこれを言う時はいかにも当然の事のごとくに思われるけれども、もしこの言を凡ての教師凡ての教派が自らの場合において用いたならば、結局何れが神より出でしものなりやを見分けることができないわけである。カルヴィンはかかる場合の審判者は神の言なる聖書であると言っており、事実これが最良の基準であるけれども、この聖書すら今日多くの解釈の下に多くの主張の基礎を為しているのを見る。カトリック教会は勿論最後の判断者ではない。ここに信仰の正邪の区別の困難があるのであって、結局は神より外に真の判断者はない。すなわち我ら各、神の御前において神に従っていると告白し得るごとき状態に我らを置き、勇敢にそこに立たなければならぬ。もしそこに誤りがあるならば最後の日に我らは滅亡を免れることができない。
かく言う場合一見甚だ不安なるがごとく、我ら他に()るべき権威を要求する。しかし如何なる人間にも、制度にも、文字にもこの権威はない。結局において我らは聖書と聖霊の導きによりキリストの権威に服するの冒険を敢てするより外に途がない。信仰は最大の冒険である。

1-12 全き愛をもって互に相愛すべし 4:7 - 4:21

4章7節 (あい)する(もの)よ、われら(たがひ)(あひ)(あい)すベし。(あい)(かみ)より()づ、[引照]

口語訳愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。
塚本訳愛する者たちよ、互に愛しようではないか。愛は神から(出たの)であり、(どんな人でも)愛する者は神から生まれ、また神を知っている(からである)。
前田訳親愛な方々、互いに愛しましょう。愛は神からのもので、すべて愛するものは神から生まれて神を知ります。
新共同愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
NIVDear friends, let us love one another, for love comes from God. Everyone who loves has been born of God and knows God.
註解: 兄弟愛はキリスト教道徳の根幹である。愛は神の本質であり、神はこの愛を我らに賜う。人間の動物性にその源を発する愛はこれを神より出でたる愛と称することができない。

おほよそ(あい)ある(もの)は、(かみ)より(うま)(かみ)()るなり。

4章8節 (あい)なき(もの)は、(かみ)()らず、(かみ)(あい)なればなり。[引照]

口語訳愛さない者は、神を知らない。神は愛である。
塚本訳愛さない者は、神を知らない。神は愛であるから。
前田訳愛せぬものは神を知りません。神は愛にいますからです。
新共同愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
NIVWhoever does not love does not know God, because God is love.
註解: (▲「愛ある者」、「愛なき者」は原文「愛する者」「愛せざる者」で性質に重点を置かず行動に重点を置いていることに注意すべし。口語訳を見よ。)神を知ることは神学の研究にあらず、神より生れることはバプテスマの水によるにあらず、互に相愛することである。勿論ヨハネは他の場合と同様、ここに原因結果の関係を示しているのではない。すなわちまず愛する場合その結果神を知り神より生れるというのではない。真の意味において愛することは神より生れ神を知ることと同一事であることを意味す。換言すれば愛せざることは神より生れず神を知らざることである。愛なる神との生命の共通である。

4章9節 (かみ)(あい)われらに(あらは)れたり。(かみ)はその()(たま)へる獨子(ひとりご)()(つかは)し、我等(われら)をして(かれ)によりて生命(いのち)()しめ(たま)ふに()る。[引照]

口語訳神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
塚本訳神がその独り子を(この)世に遣わし、独り子によって(死ぬべき)わたし達が生きるようになったそのことで、神の愛が(はじめて)わたし達に現わされたのである。
前田訳神の愛がわれらのうちに現われるのは、神がわれらが生きるようにと、そのひとり子を世におつかわしのことにおいてです。
新共同神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
NIVThis is how God showed his love among us: He sent his one and only Son into the world that we might live through him.
註解: 従来とても神の愛は自然界にも人間界にもこれを見ることができた。しかしながらこれは神の愛のいわば末梢である。神の愛の本体、その真相は従来顕わされずに秘められていた。それがイエス・キリストの顕現によりて我らに「顕された」のである。すなわち滅ぶべき我らを永遠の生命に生きさせるために、神はその独生の御子を世に遣わし彼を十字架に()け給うた。この愛こそは人間の思いに余る愛であり、これによりて始めて人類に神の愛が顕されたのである。
辞解
[顕れたり] 客観的の事実としてあらわれたこと(▲▲直訳「顕されたり」)。
[世に] 広き意味での世でヨハ3:16の場合と同じ。

4章10節 (あい)といふは、(われ)(かみ)(あい)せし((こと))にあらず、(かみ)われらを(あい)し、その()(つかは)して(われ)らの(つみ)のために(なだめ)供物(そなへもの)となし(たま)ひし(これ)なり。[引照]

口語訳わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
塚本訳わたし達が神を愛したことではなく、彼がわたし達を愛し、その子をわたし達の罪のための宥め(の供物)として遣わされたそのことに、愛があるのである。
前田訳愛とはわれらが神を愛したことではなく、彼がわれらを愛して、み子をわれらの罪のあがないとしておつかわしのことです。
新共同わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
NIVThis is love: not that we loved God, but that he loved us and sent his Son as an atoning sacrifice for our sins.
註解: ここに愛の本質をさらに説明する。我らも神を愛していなかったわけではなく、実際愛していた。しかしこれは愛と称するに足らざる愛である。真の愛は唯神において在るのであって、彼に敵していた我らをも愛して我らの罪のための(なだめ)の供物とするために(Tヨハ2:2辞解参照)その最愛の独り子を遣わして彼をして十字架上の贖罪の死を遂げさせ給うたことである。この最大の悲劇によりて人類は神と和らぐことを得るに至ったのである。神の愛の深さは到底人間の心をもっては測り難い。
辞解
[我ら神を愛せし] 現在完了形でかつて愛し今も愛していること(異本あり)。
[神われらを愛し、遣し] 不定過去形で歴史上の事実を指す。
[宥の供物] Tヨハ2:2辞解参照。

4章11節 (あい)する(もの)よ、()くのごとく(かみ)われらを(あい)(たま)ひたれば、(われ)らも(また)たがひに(あひ)(あい)すベし。[引照]

口語訳愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
塚本訳愛する者たちよ、神はこのようにわたし達を愛されたのだから、わたし達も互に愛する義務がある。
前田訳親愛な方々、かくも神がわれらをお愛しならば、われらも互いに愛すべきです。
新共同愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
NIVDear friends, since God so loved us, we also ought to love one another.
註解: Tヨハ3:11Tヨハ3:23にも互に相愛すべきことを教えており、本章においても7111221等の諸節にこれを繰返しているのを見ても、ヨハネが如何にこの点を重視したかがわかる。そして兄弟相互の愛の基礎は我らの人情や、利害や、義務心や、道徳心等によらず、神が我らを愛し給い、そして神の子たる我らの互に相愛することを欲し給うが故である。

4章12節 (いま)(かみ)()(もの)あらず、我等(われら)もし(たがひ)(あひ)(あい)せば、(かみ)われらに(いま)し、その(あい)(また)われらに(まった)うせらる。[引照]

口語訳神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。
塚本訳神を見た者は、いまだかつて一人もない。(ただ)わたし達が互に愛するならば、(その時)神はわたし達に留っておられ、(わたし達も神に留っており、)神の愛はわたし達の間で完全になるのである。
前田訳神を見たものはかつてひとりもありませんが、われらが互いに愛するならば、神はわれらのうちにいまし、彼の愛がわれらのうちに全うされます。
新共同いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
NIVNo one has ever seen God; but if we love one another, God lives in us and his love is made complete in us.
註解: 前節を繰返し一読すべし。普通の論法よりすれば「かくのごとく神我らを愛し給いたれば我らもまた神を愛すべし」というべきであるのにかえって「互に相愛すべし」と言いし理由が本節おいて説明されている。すなわち何人も神を見し者はない。ゆえに見えざる神を直接に愛する道はない。唯我らもし互に相愛せば、神が我らの中に住み給い、我らが神に対する愛もこれによりて全くなったのである。互に相愛することなくして神に対する愛は全うされていない。
辞解
[見る] 「神を見る」の「見る」 theaomai についてはTヨハ1:1辞解。
[その愛] 神に対する我らの愛と解すべきである。
本節初句は前節との連絡がなく、甚だ突然に現われているようであるけれども上記のごとくに解する。後節との連絡は明らかである。なお20、21節に本節の具体的記述がある。

4章13節 (かみ)御靈(みたま)(たま)ひしに()りて、(われ)(かみ)()(かみ)われらに居給(ゐたま)ふことを()る。[引照]

口語訳神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。
塚本訳わたし達が神に留っており、彼もわたし達に留っておられることは、彼がその霊をわたし達に分けてくださったそのことで、わかるのである。
前田訳われらが彼のうちにとどまり、彼がわれらのうちにいますことがわれらにわかるのは、彼の霊をわれらにお与えだからです。
新共同神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。
NIVWe know that we live in him and he in us, because he has given us of his Spirit.
註解: ヨハネは本節以下に愛による神との霊交を他の方面より観察を下している。すなわち神が我らに御霊を賜いしことが、神と我らとの間の相互の霊的内住関係が存することの証拠であり、またこの御霊によりてこの関係を知ることができる(Tヨハ3:24とほぼ同一なり)。
辞解
[御霊を賜ひし] 「御霊を頒け与えし」。

4章14節 (また)われら(ちち)のその()(つかは)して()救主(すくひぬし)となし(たま)ひしを()て、その(あかし)をなすなり。[引照]

口語訳わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。
塚本訳わたし達は(このことを)見たので証しをする。──父がその子を世の救い主として遣わされたことを。
前田訳われらは、父がみ子を世の救い主としておつかわしのことを見て証します。
新共同わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
NIVAnd we have seen and testify that the Father has sent his Son to be the Savior of the world.

4章15節 (おほよ)そイエスを(かみ)()()ひあらはす(もの)は、(かみ)かれに()り、かれ(かみ)()る。[引照]

口語訳もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。
塚本訳イエスが神の子であることを告白すれば、その人に神は留っておられ、その人も神に留っている。
前田訳イエスが神の子にいますと告白するならば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにとどまります。
新共同イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。
NIVIf anyone acknowledges that Jesus is the Son of God, God lives in him and he in God.
註解: 14節には9節と同一の事柄を繰返して神の愛を示し、これを受けて15節にイエスを神の子救い主と信ずる者が神の内住を受け神との霊交を保つことを示す。すなわち13節において御霊を与えられること、14、15節において神の子を信ずることが共に神との霊交の基礎たりまたその証拠たることを示す(B1)。

4章16節 (われ)らに(たい)する(かみ)(あい)(われ)(すで)()り、かつ(しん)ず。(かみ)(あい)なり、(あい)()(もの)(かみ)()り、(かみ)(また)かれに居給(ゐたま)ふ。[引照]

口語訳わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。
塚本訳わたし達は神がわたし達に対して持たれる愛を、知りまた信じているのである。神は愛である。愛に留っている者は神に留っており、神も彼に留っておられる。
前田訳そしてわれらは神がわれらのうちにお持ちの愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにあるものは神のうちにあり、神はその人のうちにいまします。
新共同わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
NIVAnd so we know and rely on the love God has for us. God is love. Whoever lives in love lives in God, and God in him.
註解: 互に相愛する場合(12節)、御霊を与えられし場合(13節)、神の子を信ずる場合(14、15節)の外に「神の愛に居る」者すなわち神の大愛の中にその全身を投げかける者も同様に神との霊交に生きる者である。キリスト者は9節に述べられしごとき神の愛を福音によって知りかつ信じている者であるが単に知りかつ信じているのみにてはヨハネの思想の極致を言表わすに足りない。それ故にこの神の愛にいることをヨハネはここに薦めているのである。
辞解
[知りかつ信ず] ヨハ6:69の「信じかつ知る」と異なる。後者はイエスの神の子に在し給うことを指し、信ぜずしてこれを知ることができない。前者は神は愛なりとの事実であって福音によってこれを知って彼を信じるに至る。この二者を混同することは(C1)は誤りである。

4章17節 かく(われ)らの(あい)完全(まったき)をえて、審判(さばき)()(おそれ)なからしむ。我等(われら)この()にありて(しゅ)(ごと)くなるに()る。[引照]

口語訳わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。
塚本訳(そして最後の)裁きの日にわたし達が(喜びの)確信を持っていることによって、わたし達の側の愛は完全にされるのである。というのは、彼(イエス)が(神に、神も彼に留って)おられるため、(彼の愛が完全であるように、)わたし達(の愛)もこの世で同じくあり得るからである。恐れは愛にはない。
前田訳われらにとって愛が全うされるとは、裁きの日に確信を持つことです。われらにそれができるのは彼が愛にいますようにわれらもこの世で愛であるがゆえです。愛にはおそれがありません。
新共同こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
NIVIn this way, love is made complete among us so that we will have confidence on the day of judgment, because in this world we are like him.
註解: 私訳「我らこの世にありて主のごとくなるに因り、愛は我らにおいて完全を得て審判の日に懼なきを得」、愛におる者は主におり(16節)、かつ主は永遠に愛に在し、今も愛に在し給うが故に、我らもこの世に在りて愛の中にいることによって主のごとくなるのである(16節)。この事実によって、我らにおいて神と人とに対する愛が全きを得(その到達すべき点に到達し)神との間に何らの背反なく人に対して罪を犯さず(Tヨハ3:6)、従って審判の日に何らの懼れも有り得ない状態、すなわち絶対に安心の心境に到達しているのである。
辞解
本節を改訳本文のごとくに訳す時はやや無理がある。すなわち「斯く」は何を受けるかにつき不明であり、全体の意味も不確実となる。「我らの愛」は「愛我らにおいて」と訳すべきである。この「愛」を神の我らに対する愛と解する説あれど(C1、L1)不可なり。「我らの神および人に対する愛」と解す。「此の世にありて主の如くなる事」は前後の関係上主の愛のごとくなることをいうものと解する。なお(1)主の義(A1)、(2)主の神との霊交、(3)主の試誘(こころみ)、(4)主の神の子たること等と解する説あれど不適当なり。本節の他の訳し方につきてはA1を見よ。

4章18節 (あい)には(おそれ)なし、(まった)(あい)(おそれ)(のぞ)く、(おそれ)には苦難(くるしみ)あればなり。(おそ)るる(もの)は、(あい)いまだ(まった)からず。[引照]

口語訳愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。
塚本訳完全な愛は(平安で、すべての)恐れを追い払う。というのは、恐れは(つねに最後の裁きの日)の刑罰と関係があるのであって、恐れる者は(まだその)愛において完全になっていないのである。
前田訳全き愛はおそれを除きます。おそれは罰につながります。おそれるものは愛について不完全です。
新共同愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
NIVThere is no fear in love. But perfect love drives out fear, because fear has to do with punishment. The one who fears is not made perfect in love.
註解: 神に対しまた人に対して全き愛をもって生きる者は、前節に示すごとく審判の日に対する恐怖をその心から駆逐してしまう。この恐怖は現在においては良心の呵責としての苦痛を伴い、愛の生活の如何にも歓喜に充つるのとは正反対である。心にこの懼れを感ずる者はその愛が未だ全からざることを示すものと見て差支えない。
辞解
[愛] 神が我らを愛する愛と解し(B1、C1)神の愛によって義とされしことを信じる者は懼れなきことの意味に解する説があるけれども適当ではない。殊に後半にとって適合しない。前後の関係上この場合も「愛」は信者自身の愛と見るを可とす。神に対する愛と相互に対する愛との双方を含むと解すべきであるけれどもその中後者が主となっている。
[懼れる] ここでは心の中の不安恐怖を指す、神に対する畏敬の念を意味しない。
[除く] 原語「外に投げ棄てる」。
[苦難] kolasis は懲戒的意義を有する苦痛について用いる。

4章19節 (われ)らの(あい)するは、(かみ)まづ(われ)らを(あい)(たま)ふによる。[引照]

口語訳わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。
塚本訳わたし達は(神を)愛しよう。彼が先にわたし達を愛されたのだから。
前田訳われらが愛するのは、彼がまずわれらを愛したもうからです。
新共同わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
NIVWe love because he first loved us.
註解: 17、18節に叙べし「全き愛」は本来我らより出でしものではなく、9、10節に示せるごとき神の愛によって我らの心が砕かれ、新たにされるためである。神の愛我らの心に注がれて我らも愛するに至るが故にこの愛は力強くその源は深遠である、「我らの愛する」は兄弟愛のみにあらず神に対する愛をも含むこと前節に同じ(M0)。
辞解
本節を「神先ず我らを愛し給いたれば我ら愛すべし」と読むこともできるけれども不可(A1、B1、C1、E0、M0、H0)。

4章20節 (ひと)もし『われ(かみ)(あい)す』と()ひて、その兄弟(きゃうだい)(にく)まば、これ(にせ)(もの)なり。(すで)()るところの兄弟(きゃうだい)(あい)せぬ(もの)は、(いま)()(かみ)(あい)すること(あた)はず。[引照]

口語訳「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。
塚本訳もし「神を愛する」と言いながら、兄弟を憎む者があったら、(その人は)嘘つきである。見た兄弟を愛さない者は、見たことのない神を愛することは出来ないから。
前田訳神を愛するといって兄弟を憎むものは偽りものです。見えるおのが兄弟を愛せぬものは見えぬ神を愛せません。
新共同「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
NIVIf anyone says, "I love God," yet hates his brother, he is a liar. For anyone who does not love his brother, whom he has seen, cannot love God, whom he has not seen.
註解: 口に「われ神を愛す」と言う者の真偽はその信仰の兄弟に対する態度によりて決定する。現実目前にいる兄弟を愛さない者はたとえ神を愛していると主張してもそれは虚偽である。愛の行為は我らの内なる心の外部に対するあらわれである。そして「見ぬ者は日々に(うと)し」の俚諺(ことわざ)のごとく我らの心は眼前に見えるものに対して動き易く、見えざるものに対しては冷淡になりやすい。それ故に愛し易き兄弟をすら愛せずして、愛し難き神を愛することはできない。かかる意味において兄弟愛は神に対する愛の証拠である。

4章21節 (かみ)(あい)する(もの)(また)その兄弟(きゃうだい)をも(あい)すべし。我等(われら)この誡命(いましめ)(かみ)より()けたり。[引照]

口語訳神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。
塚本訳神を愛する者は兄弟をも愛すべきであるというこの掟を、わたし達は神から受けたのである。
前田訳彼からお受けしたいましめとは、神を愛するものは兄弟をも愛せよ、です。
新共同神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
NIVAnd he has given us this command: Whoever loves God must also love his brother.
註解: 見える兄弟を愛することの如何に必要であるかは、我らが旧約聖書に神を愛し兄弟を愛すべきことが神より命令されていることよりこれを知ることができる。ゆえにこの命令を発し給える神を愛するならば必ずこの命令を実行するはずである。
要義1 [神の愛の顕現]4:9。21。神の愛はキリストによってこの世に現われた。それ以外の事実によっては真の神の愛を知ることができない。人間の力をもってする悟りと神の黙示を信ずる信仰の差別はここにある。人は悟りによって神の愛を知ることができない。唯神の黙示によってのみ真の愛の何たるかを知ることができる。
要義2 [真の愛]キリスト教は「愛」なる語の濫用に陥る危険がある。神がその最も愛しみ給う独り子を我らのために与え賜いしこと、しかも彼を十字架に釘付けてまでも我らの罪を贖わんとし給うこと、それが「愛」の名に相応しき愛である。真に愛し易からざる敵を愛し得るに至って我らは始めて愛を云々することができる。然らざれば「愛」について語る資格がない。
要義3 [神我にあり我神にある]12−16節に我ら神にあり神我らにあり給う生活につき述べられているのを見る。この神に在る生活は神秘的恍惚境に在る経験ではなく、極めて具体的、実際的の状態である。すなわち(第一)に互に相愛すること(12節)、(第二)にイエスを神の子と言い表すこと(15節)、(第三)に愛にあることである(16節)。そしてこの霊的交通の事実は神より与えられし聖霊によってこれを知ることができる(13節)。これらの一つを欠くものはキリスト者ではない。これらはキリスト者たる者のイエスに在る生命の自然の表顕である。それ故にこの三つの条件を具備して然る後神我らの中に来り給うというのではなく、これらは凡て神と共にあり神との交わりに生きる者の生涯そのものである。原因結果の関係ではなく体と用、本質と活動との関係である。
要義4 [愛と懼]ソクラテースはその信ずる正義の上に立ちて死をも懼れなかった。いわんや真の愛は正義の総計であってその完成である以上(ロマ13:10)これに懼れのあるべきはずはない。而して愛の心は平安と歓喜とに充たされており、何物をも懼れない充実さがある。ゆえに愛ある者は懼れがその心に入る余地がない。