黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版第2テモテ書

第2テモテ書第1章

分類
1 挨拶 1:1 - 1:2

1章1節 (かみ)御意(みこころ)により、キリスト・イエスにある生命(いのち)約束(やくそく)(したが)ひて、キリスト・イエスの使徒(しと)[と]な[れ]るパウロ、[引照]

口語訳神の御旨により、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって立てられたキリスト・イエスの使徒パウロから、
塚本訳神の御意によりキリスト・イエスにおける生命の約束を宣ぶるためにキリスト・イエスの使徒たる(われ)パウロ、
前田訳神のお心により、キリスト・イエスにあるいのちの約束のために彼の使徒であるパウロから、
新共同キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、
NIVPaul, an apostle of Christ Jesus by the will of God, according to the promise of life that is in Christ Jesus,

1章2節 [(ふみ)を]()(あい)する()テモテに[(おく)る]。(ねが)はくは(ちち)なる(かみ)および(われ)らの(しゅ)キリスト・イエスより(たま)ふ、恩惠(めぐみ)憐憫(あはれみ)平安(へいあん)(なんぢ)に[()らんことを]。[引照]

口語訳愛する子テモテへ。父なる神とわたしたちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とが、あなたにあるように。
塚本訳(わが)愛子テモテに手紙を遺る。願う、父なる神と、われらの主キリスト・イエスよりの恩恵と憐憫と平安あれ!
前田訳いとし子テモテへ。父なる神とわれらの主キリスト・イエスからの恵みとあわれみと平和がありますように。
新共同愛する子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
NIVTo Timothy, my dear son: Grace, mercy and peace from God the Father and Christ Jesus our Lord.
註解: パウロの他の書簡と同様の冒頭の挨拶であり、発信人と受信人およびそのおのおのに関する形容辞、ならびに祈願を録す。本書に特有なる点は「生命の約束に(したが)ひて」とある一句で、福音は永遠の生命の約束であるが、パウロはこの約束を宣伝えんがために使徒とせられたのであることの意味である。なお「愛する子」はTテモ1:2の「真実の子」と相照応してパウロが如何にテモテを愛していたかを示す。なおパウロがかくその使徒職を特に強調せる所以につきてはTテモ1:1-2註参照。

分類
2 感謝と薦め 1:3 - 1:18
2-1-イ テモテに関する感謝とすすめ 1:3 - 1:14  

1章3節 われ(よる)(ひる)(いのり)(うち)()えず(なんぢ)(おも)ひて、わが先祖(せんぞ)[に(なら)ひ](以来(いらい))(きよ)良心(りゃうしん)をもて(つか)ふる(かみ)感謝(かんしゃ)す。[引照]

口語訳わたしは、日夜、祈の中で、絶えずあなたのことを思い出しては、きよい良心をもって先祖以来つかえている神に感謝している。
塚本訳祈りの中で夜も昼も絶えず君のことを思う時、私は(わが)先祖代々潔い良心を以て事えている神に(いつも)感謝する。
前田訳夜昼祈りの中であなたを絶えずおぼえて、先祖代々清い良心でお仕えする神に感謝します。
新共同わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。
NIVI thank God, whom I serve, as my forefathers did, with a clear conscience, as night and day I constantly remember you in my prayers.
註解: パウロの書簡は多く冒頭の挨拶についで神に対する感謝をもって始めている。感謝の内容は第5節にあり、本節前半との分詞句はこの感謝をささぐる場合のパウロの心の状態、いいわば背景であり、4節の分詞句は3節前半(原文では後半にあり)に従属せる説明句である。すなわちその背景とはパウロがその祈りの中にテモテに対するたえざる思い出を夜昼持っていることである。そしてその感謝をささぐる対象たる神は、パウロの先祖 ─ これはアブラハムやモーセのごとき遠き始祖の意味ではなくむしろ近き祖先を指す ─ 以来代々清き良心をもって(つか)えて来た神であり、キリストの福音を信じてからも、この神を他の神に代えたわけではない。かく言いてパウロはテモテの信仰の起源(5節)に思いを馳せていることを示し、これが益々深き感謝の源であることを意味す。

1章4節 (われ)なんぢの(なみだ)(おぼ)え、わが歡喜(よろこび)滿()ちん(ため)(なんぢ)()んことを(ほっ)す。[引照]

口語訳わたしは、あなたの涙をおぼえており、あなたに会って喜びで満たされたいと、切に願っている。
塚本訳私は(別れた時の)君の涙を思い出しては、(最後の日が来る前に是非一度)君に会って心一杯に喜びたいと思い焦がれている。
前田訳あなたの涙を思い出して、またお会いしたく思います。わたしのよろこびが満たされるためにです。
新共同わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。
NIVRecalling your tears, I long to see you, so that I may be filled with joy.
註解: パウロはおそらくテモテとの離別に際してテモテの流せる涙を記憶しており、これを思う毎にテモテに逢いたいとの熱望が心に起ったのであろう。そしてテモテに逢ってその歓喜を満たさんと欲したのであった。本節は前節の「絶えず汝を思ふこと」の理由を示す心の状態である。すなわち「見んことを欲して絶えず汝を思ひ」となる。

1章5節 (これ)なんぢに()虚僞(いつはり)なき信仰(しんかう)をおもひ(いだ)すに()りてなり。[引照]

口語訳また、あなたがいだいている偽りのない信仰を思い起している。この信仰は、まずあなたの祖母ロイスとあなたの母ユニケとに宿ったものであったが、今あなたにも宿っていると、わたしは確信している。
塚本訳(本当に)私は(君の純な信仰、)最初に君のお祖母さんロイスに、次にお母さんユニケに宿った、そして私の確信するところでは(今)君にも宿っている君の偽らない信仰を思い起こすのだ。
前田訳あなたの中にある偽りない信仰をおぼえています。それはまず御祖母ロイスとお母さまユニケに宿り、今あなたにも宿るとわたしは信じています。
新共同そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。
NIVI have been reminded of your sincere faith, which first lived in your grandmother Lois and in your mother Eunice and, I am persuaded, now lives in you also.
註解: 神に感謝をささぐる内容を示す。すなわちテモテにある虚偽なき修飾なき純真なる信仰を思い起すことがパウロの感謝の根本理由であった。
辞解
[思い出す事] hypomnêsis は anamnêsis と異なり周囲の事情に動かされて思い浮べること。

その信仰(しんかう)(さき)(なんぢ)祖母(そぼ)ロイス(およ)(はは)ユニケに宿(やど)りしごとく、(なんぢ)にも(しか)るを確信(かくしん)す。

註解: テモテのキリストに対する信仰は親譲りであった。代を重ねた信仰には、独自性を欠く欠点はあるけれども根深き落付きを有する長所がある。テモテの場合もそうであった。なおテモテの父はギリシャ人で母は信者なるユダヤ人であった(使16:1、2)。祖母ロイスについては何も知られていないけれども、ユニケの母なるユダヤ婦人ならんと想像する学者もいる(E0)。

1章6節 この(ゆゑ)に、わが按手(あんしゅ)()りて(なんぢ)(うち)()たる(かみ)賜物(たまもの)をますます(さかん)にせんことを(すす)む。[引照]

口語訳こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。
塚本訳そのため君に注意するが、どうか私の按手によって君が戴いている神の恩恵の火を(もう一度)煽るように、
前田訳こういうわけで念を押しますが、神の賜物をまた燃え立たせてください。それはわが按手によってあなたの中にあるものです。
新共同そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。
NIVFor this reason I remind you to fan into flame the gift of God, which is in you through the laying on of my hands.
註解: 「この故に」はかく祖母以来の信仰がテモテに宿るが故にとの意、「パウロ(および他の長老たち。Tテモ4:14)の按手によりて得たる神の賜物」とは、テモテが教会の牧者伝道者として活動するがために受けし賜物であり、次節の能力(ちから)と愛と謹慎(つつしみ)等のごとき霊の賜物 charismata である。かかる賜物がテモテの中に消え去る様のことの無からんためにこれを新に燃え上らしめんことを彼に勧めている。
辞解
[わが按手によりて] Tテモ4:14註参照。

1章7節 そは(かみ)(われ)らに(たま)ひたるは、(おく)する(れい)にあらず、能力(ちから)(あい)謹愼(つつしみ)との(れい)なればなり。[引照]

口語訳というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。
塚本訳神が私達に与え給うた恩恵は臆病の霊でなく、能力と愛と節制の霊であるから。
前田訳神がわれらに賜わったのは臆病の霊ではなく、力と愛と思慮との霊です。
新共同神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
NIVFor God did not give us a spirit of timidity, but a spirit of power, of love and of self-discipline.
註解: キリスト者には一般に(「我ら」)聖霊が与えられている。そしてこの霊は悪に対しサタンに対して勇敢に戦う霊である故、臆することはこの霊に相応しくない。そして聖霊を与えられている者は(ただ)に大胆にして勇敢であるのみならず、世に勝ちて神の御旨を行う能力と、人を愛し敵をも愛する愛と、己に克ち自己を支配する謹慎(つつしみ)とを有っているのである。ゆえに能力なき者、愛なき者、つつしみなき者は聖霊の賜物に与っている者ではない。パウロはテモテにこの霊の欠乏せんことを憂い、特にこれを注意しているのである。

1章8節 されば(なんぢ)われらの(しゅ)(あかし)[をなす(こと)]と、(しゅ)囚人(めしうど)たる(われ)とを(はぢ)とすな、[引照]

口語訳だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。
塚本訳だから我らの主の証明(をすること)と、その囚人となるこの私とを恥とせず、神の能力によって福音のために(私と)共に苦しめ。
前田訳それで、われらの主への証と、彼の捕われびとであるわたしのこととを恥じることなく、神の力によって福音のための苦しみを共にしてください。
新共同だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。
NIVSo do not be ashamed to testify about our Lord, or ashamed of me his prisoner. But join with me in suffering for the gospel, by the power of God,
註解: 愧恥(きち)は恐怖の伴侶なり、恐怖に打勝てば誤れる愧恥(きち)は逃げ去る」(B1)。キリストの証、すなわち最も恥ずべき刑罰たる十字架につけられしキリストを神の子、救い主と信ずることの証(M0、Z0)、および、人の最も恥とする囚人たるパウロを師とすることは何れも普通に恥じざるを得ないことである。しかし我らは神の霊を受けしものである故、これを恥としてはならない。
辞解
[主の(あかし)] 主の殉教、主の道徳的倫理的教訓(E0)、主の殉教の死に関する証等種々に解しているけれども上述のごとくに解した。

ただ(かみ)能力(ちから)(したが)ひて福音(ふくいん)のために[(われ)と]ともに苦難(くるしみ)(しの)べ。

註解: 福音を恥とせず、大胆にこれを宣伝うる者はパウロのごとくに苦難に遭うことの覚悟を要する。唯神より賜わる力に(したが)ってこれに耐えることができる。パウロは幽囚縲絏(るいせつ)の身として、特に痛切にこのことを感じた。

1章9節 (かみ)(われ)らを(すく)(せい)なる(めし)をもて()(たま)へり。[引照]

口語訳神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、
塚本訳神は私達を救い、また私達を聖ならしめんとして召し給うたのであるが、(もちろんそれは)私達の業によらず、神御自身の計画と恩恵によるのであって、これは(既に)永遠の昔キリスト・イエスにおいて私達に与えられ、
前田訳神がわれらを救って、聖なる招きをもってお招きになったのでして、それはわれらのわざによらず、彼ご自身のおぼし召しと恵みによるものです。この恵みは永遠の昔からキリスト・イエスにあってわれらに賜ったものです。
新共同神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、
NIVwho has saved us and called us to a holy life--not because of anything we have done but because of his own purpose and grace. This grace was given us in Christ Jesus before the beginning of time,
註解: 前節に「神の力」といったのであるが、その神は我らと無関係な神ではなく、我らを救い給える神であり、また我らをその「聖なる召」をもて召して信者となし給える神である。
辞解
「救」が「召」より前にある故、これは一般的にイエスの十字架によりて人類全体の罪を赦し給える救いを指し、「召」はその後各個人の上に及べる召しを指す。

(これ)われらの行爲(おこなひ)()るにあらず、(かみ)(御自身(ごじしん))の御旨(みむね)[にて](と)創世(さうせい)(まへ)にキリスト・イエスをもて(われ)らに(たま)ひし恩惠(めぐみ)()るなり。

註解: 神の救いとその聖召とは、我らの行為が優れているからではなく、神御自身の経綸によることであり、また神の賜える恩恵によることであった。すなわち徹頭徹尾神の働きによることである故、如何なることがあっても滅亡することはない。それ故にこれを恥とすべからざるは当然である。「創世の前に」はむしろ「長き時の前に」の意、すなわち神は永遠の昔より恩恵をもって我らにこの救いを賜うたのであった。「キリスト・イエスをもて」は彼を仲保としての意。

1章10節 この恩惠(めぐみ)(いま)われらの救主(すくひぬし)キリスト・イエスの(あらは)(たま)ふに()りて(あらは)れたり。[引照]

口語訳そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。
塚本訳今私達の救い主キリスト・イエスの顕れ給うたことによって(はじめて)あらわされたものである。すなわち彼は一方にては死を亡ぼし、他方にては福音により朽ちぬ生命を明らかにし給うた。
前田訳それは今やわれらの救い主キリスト・イエスの出現によって現実にされました。彼は死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅とを明らかになさったのです。
新共同今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。
NIVbut it has now been revealed through the appearing of our Savior, Christ Jesus, who has destroyed death and has brought life and immortality to light through the gospel.
註解: 「今」は前節の「永遠の昔」(現行訳「創世の前」)に相対し、「顕れたり」は「賜ひし」に対す、すなわち神の御旨の中に永遠の昔より隠されていた事実が、今に至ってキリスト・イエスがこの世に肉体となりて顕れ、我らの間に宿り給えることによりて具体化したのであった。
辞解
[現れ給ふ] epiphaneia は多くキリストの再臨につきて用いられているけれどもこの場合のみキリスト・イエスの受肉による顕現とその全生涯とを指す。この語と「顕れたり」とは原語相関連す。

(かれ)()をほろぼし、福音(ふくいん)をもて生命(いのち)()ちざる(こと)とを(あきら)かにし(たま)へり。

註解: キリストはその十字架の死と復活とによりて死そのものを滅ぼし、死をして無に帰せしめ、その十字架の救いの福音をもて真の生命の何たるかとその朽ちざること、すなわち永遠なることとを明かにし給うた。人はこの死の問題を解決して始めて恐れなく進むことができる。

1章11節 (われ)はこの福音(ふくいん)のために()てられて宣傳者(せんでんしゃ)使徒(しと)教師(けうし)となれり。[引照]

口語訳わたしは、この福音のために立てられて、その宣教者、使徒、教師になった。
塚本訳(そして)私はこの(福音の)ために宣教者、使徒また教師に任ぜられたのである。
前田訳この福音のためにわたしは宣教者、使徒、教師として立てられたのです。
新共同この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。
NIVAnd of this gospel I was appointed a herald and an apostle and a teacher.
註解: Tテモ2:7参照。8、9節には神の恩恵の一般的影響を録し、ここにはこれが特にパウロに作用したことを示している。これによりパウロに与えられた使命は、宣伝者、使徒、教師である。この三者はパウロの使命を三つの方面から観察したのである。

1章12節 (これ)がために(われ)これらの苦難(くるしみ)()ふ。されど(これ)(はぢ)とせず、[引照]

口語訳そのためにまた、わたしはこのような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである。
塚本訳そのためまたこの(縄目の)苦しみをもしなければならないのであるが、私は(決してこれを)恥としない、誰に信じているかを知り、またその御方は私が委ねられたものを(最後の)かの日まで守り得給うことを確信しているからである。
前田訳こういうわけでわたしはかくも苦しんでいますが、それを恥じません。それは信じてきた方を知り、彼がわたしにゆだねられたものをかの日まで守る力のおありのことを確信するからです。
新共同そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。
NIVThat is why I am suffering as I am. Yet I am not ashamed, because I know whom I have believed, and am convinced that he is able to guard what I have entrusted to him for that day.
註解: パウロはこの一見恥ずべきがごときキリスト・イエスの福音の宣伝者とせられしために、キリストの囚人(8節)たる苦難その他種々の苦難(Uコリ11:24以下)に遭った。しかもこれを恥としなかった(ロマ1:16)。

(()(ゆえ)は)(われ)わが依頼(よりたの)(もの)()り、

註解: パウロの依頼むものは神でありキリストである。神に依頼む者は恥しめられることはない。神は我らをこの苦難より救いて永遠の祝福に導き給う。

(かつ)わが(ゆだ)ねたる(もの)を、かの()(いた)るまで(まも)得給(えたま)ふことを確信(かくしん)すればなり。

註解: 「わが委ねたるもの」はおそらくパウロの生命(ルカ23:46Tペテ4:19)を指すのであろう。「かの日」はキリスト再臨の日である。すなわちパウロはその依頼む者が恩恵深き父なる神である故、彼はパウロの生命を永遠に守護し給うことを確信していた。▲「わが委ねたるもの」を14節と同じく「わが委ねられたるもの」と読み、パウロの委ねられた使命、福音を指すと見る方が一層適当であろう。口語訳はこの訳を採りRSVもそれに由っている。
辞解
[委ねたるもの] parathêkê はまた「委ねられたるもの」とも読み得る故他の箇所(14節、Tテモ6:20)と同様パウロに委ねられし役者としての使命(C2、M0)とも解することを得。通説としては現行訳および上記註のごとくに解す(B1、E0、W2)。なお天に蓄えられる報償(Z0)と解する説もあるけれども適当ではない。なおこの語は供託物というごとき語で、人より神の手に供託せられしものまたは神より人に供託せられしものの何れにも用う。
[守る] 守護保全する意味。

1章13節 (なんぢ)キリスト・イエスにある信仰(しんかう)(あい)とをもて(われ)より()きし健全(けんぜん)なる(ことば)模範(もはん)(たも)ち、[引照]

口語訳あなたは、キリスト・イエスに対する信仰と愛とをもって、わたしから聞いた健全な言葉を模範にしなさい。
塚本訳私から聴いたことを健全なる教えの模範とせよ。キリスト・イエスにある信仰と(彼に対する)愛とをもってこれを宣べよ。
前田訳キリスト・イエスにある信仰と愛によってわたしからお聞きの健全なことばを模範として保ってください。
新共同キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。
NIVWhat you heard from me, keep as the pattern of sound teaching, with faith and love in Christ Jesus.
註解: パウロは自己の苦難とその苦難に打勝つ信仰とを述べし後、この信仰と平安とをテモテにも持たしめんとて、この注意を与えている。すなわちキリスト・イエスにある信仰と愛との中に、パウロより教えられし健全なる教訓の言を模範として心に留め置くことである。パウロの与えし教訓の言は霊を健全ならしめる。
辞解
[模範を保ち] また「概要を保持し」(Z0)と訳する説あり、現行訳を可とす。

1章14節 かつ(ゆだ)ねられたる()きものを我等(われら)のうちに宿(やど)りたまふ(せい)(れい)()りて(まも)るべし。[引照]

口語訳そして、あなたにゆだねられている尊いものを、わたしたちの内に宿っている聖霊によって守りなさい。
塚本訳(また君に)委ねられた善いものを、私達の中に宿りたもう聖霊によって守れ。
前田訳ゆだねられたよいものをわれらの中に住む聖霊によって守ってください。
新共同あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。
NIVGuard the good deposit that was entrusted to you--guard it with the help of the Holy Spirit who lives in us.
註解: 本節の「委ねられたるもの」は12節のそれとは反対に神よりテモテに委ねられし使命である。テモテはこれを彼の中に宿り給う聖霊によりて守り、その使命を空しくせぬようにしなければならない。13、14節はテモテに課せられし任務である。
要義1 [伝道者の任務]第一は神の賜物たるその伝道能力を益々発揮し、これを無力の中に死滅せしめざること(6節)、第二は福音を恥とせず、大胆にこれを宣伝うること(8節)、第三に福音のために苦難を忍ぶべきこと(8、12節)、そして第四にその生命を神に委ね、健全なる言を心に保ち、その使命を聖霊によりて守りこれを全うすることである。
要義2 [テモテに対するパウロの愛]3−14節においてパウロは切なる愛をもってテモテを教訓し、伝道者としてその職を全うせしめんと努力していることが明かにうかがわれる。パウロは自らをテモテの模範として提示し、かくしてテモテをして一般キリスト者の模範たらしめんとした。伝道者は自ら信者の模範たるべきである。そして我らはテモテをしてかくあらしめんと努力せるパウロの愛を思わなければならぬ。

2-1-ロ パウロの弟子の向背 1:15 - 1:18  

註解: パウロはここに伝道者として経験する苦痛(15節)と歓喜(16節以下)とを述ぶ。

1章15節 アジヤに()(もの)みな(われ)()てしは(なんぢ)()(ところ)なり、[引照]

口語訳あなたの知っているように、アジヤにいる者たちは、皆わたしから離れて行った。その中には、フゲロとヘルモゲネもいる。
塚本訳アジヤにいる者が皆私に背いたことを君は知っている。その中にフィゲロとヘルモゲネがいる。
前田訳ご承知のとおり、アジアにいる人は皆わたしを去りました。その中にはフゲロとヘルモゲネもいます。
新共同あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました。その中にはフィゲロとヘルモゲネスがいます。
NIVYou know that everyone in the province of Asia has deserted me, including Phygelus and Hermogenes.
註解: 「みな」とは悲嘆の情を示すために用いられし強調的の「みな」であって勿論一人残らずの意味ではない。「棄つ」は顔を背けること、背教者である。▲パウロのごとき最大の伝道者でさえ弟子に棄てられることを思えば、一般伝道者の場合弟子の背叛も免れ得ないことがわかる。

その(うち)にフゲロとヘルモゲネとあり。

註解: この二人につきては何も知られていない。おそらくこの二人だけは、我を棄つるごときことはあるまいと考えられた人たちであろう。

1章16節 (ねが)はくは(しゅ)オネシポロの(いへ)憐憫(あはれみ)(たま)はんことを。[引照]

口語訳どうか、主が、オネシポロの家にあわれみをたれて下さるように。彼はたびたび、わたしを慰めてくれ、またわたしの鎖を恥とも思わないで、
塚本訳主がオネシフォロの家に憐憫を与えたまわんことを! 彼は度々私を元気づけてくれ、また私が鎖に繋がれていることを恥としないばかりか、
前田訳主がオネシポロの家にあわれみを賜わりますように。彼はしばしばわたしを慰め、わが捕われを恥じず、
新共同どうか、主がオネシフォロの家族を憐れんでくださいますように。彼は、わたしをしばしば励まし、わたしが囚人の身であることを恥とも思わず、
NIVMay the Lord show mercy to the household of Onesiphorus, because he often refreshed me and was not ashamed of my chains.
註解: オネシポロについても他に何事も知られていない。「彼の家」とあることおよび18節の内容より見て、彼はすでに(あるいは最近に)死んだのであろう。その遺族の上にパウロは神の憐憫を祈っているのであった。

(かれ)はしばしば(われ)(なぐさ)め、

註解: この「慰め」は anapsychô 「元気づける」意味で、苦難の中にいたパウロはしばしばオネシポロの愛によりて元気づけられた。

(また)わが(くさり)(はぢ)とせず。

1章17節 そのロマに[()]((きた))りし(とき)には(ねんご)ろに(たづ)ね[(きた)り]て、(つい)()ひたり。[引照]

口語訳ローマに着いた時には、熱心にわたしを捜しまわった末、尋ね出してくれたのである。
塚本訳ローマに着き、熱心に私を探して見出したのである。
前田訳ローマに来たときに、わざわざわたしを探して見つけ出しました。
新共同ローマに着くとわたしを熱心に探し、見つけ出してくれたのです。
NIVOn the contrary, when he was in Rome, he searched hard for me until he found me.
註解: 誰しも入獄者との親交を恥ずるものであるが、オネシポロはおそらくパウロの第二ローマ幽囚に際して、パウロの幽閉せられしローマの牢獄を探し廻り、ついに尋ね当ててパウロを発見したのであった。この時のパウロの喜びは如何ばかりであったろう

1章18節 (ねが)はくは(しゅ)かの()にいたり(しゅ)憐憫(あはれみ)(かれ)(たま)はんことを、(かれ)がエペソにて[(われ)に](つか)へしことの如何(いか)ばかりなりしかは、(なんぢ)の((こと)に)()()るところなり。[引照]

口語訳どうか、主がかの日に、あわれみを彼に賜わるように。—彼がエペソで、どれほどわたしに仕えてくれたかは、だれよりもあなたがよく知っている。
塚本訳(──その褒美に)主がかの日、主の所で彼に憐憫を見出さしめ給わんことを!──また彼がエペソで私にしてくれたことは何でも皆、君が一番よく知っている。
前田訳主のおゆるしによって、かの日に彼が主のもとにあわれみを見つけ出しえますように。彼がエペソでいかに奉仕したかはあなたのほうがよくご存じです。
新共同どうか、主がかの日に、主のもとで彼に憐れみを授けてくださいますように。彼がエフェソでどれほどわたしに仕えてくれたか、あなたがだれよりもよく知っています。
NIVMay the Lord grant that he will find mercy from the Lord on that day! You know very well in how many ways he helped me in Ephesus.
註解: パウロはすでに死せる(と想像される)オネシポロの永遠の祝福を祈り、「かの日」すなわちキリスト再臨の日において主(神)のあわれみが彼に与えられんことを祈っている。そしてパウロはなおこれに付加えてエペソにおけるオネシポロの奉仕的活動の立派であったことを述ぶべきであったけれども、このことはテモテが一層よく知っている故省略した。
辞解
[主] 二つともキリストと解すべきである(W2は第一をキリスト、第二を神と解す)。
[我に] 重要ならざる異本にあれどこれを除くを可とす、すなわちオネシポロはエペソにてパウロに(つか)えた意味ではなく、エペソの教会に対する奉仕を指したのである。「エペソにて」という点より見て本書簡がエペソにいるテモテに宛てられたのではなく、エペソ以外にいたテモテに宛てられたものと想像される。Uテモ4:5Uテモ4:12参照。
要義 [伝道者の歓喜と悲哀]伝道者は時にその弟子に棄てられ、また(そむ)かれて痛切なる悲しみを味わせられ、また時には思わざる愛によって歓喜を味わせられる。パウロはここに15−18節においてこの事実を有りのままに吐露してその実感をテモテに伝えると同時に、またテモテにもかかることの起るべきを暗示して(あらか)じめ戒心すべきことを教えているのである。伝道者たることは実に苦しい仕事である。

第2テモテ書第2章

分類
3 テモテに対する教訓 2:1 - 4:8
3-1-1 伝道者の任務 2:1 - 2:26  
3-1-イ 伝道者の生活問題に注意せよ 2:1 - 2:7  

註解: Uテモ1:13、14において一言テモテに対して命令せる事柄につきさらにこれを如何に活用すべきかを教える。

2章1節 (されば)わが()よ、[引照]

口語訳そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。
塚本訳(いま言う通り)だから、わが子よ、君はキリスト・イエスにある恩恵によって強かれ。
前田訳それで、わが子よ、キリスト・イエスにある恵みによって力強くなってください。
新共同そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。
NIVYou then, my son, be strong in the grace that is in Christ Jesus.
註解: 「されば」はUテモ1:15のごとく信仰を棄てる者もあること故との意、「わが子」パウロのテモテに対する愛情の深さを示す。

(なんぢ)キリスト・イエスにある恩惠(めぐみ)によりて(つよ)かれ。

註解: たとい汝自身は天性において弱い性格であってもそれは問題ではない、キリスト・イエスに依頼み彼より恩恵を受けて強い人間にならなければならぬ。然らざれば信仰の戦に勝つことができない。
辞解
[キリスト・イエスにある恩恵] 救い、恩恵の賜物、教師としての職、新生命等と解する説あれど上記のごとくに解すべきである。

2章2節 (かつ)おほくの證人(しょうにん)(まへ)にて、(われ)より()きし(ところ)のことを(ほか)(もの)(をし)()忠實(ちゅうじつ)なる人々(ひとびと)(ゆだ)ねよ。[引照]

口語訳そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。
塚本訳そして(按手の時)多くの証人達の前で私から聴いたことを、また他人に教え得る信頼すべき人達に委ねよ。
前田訳あなたが多くの証人の前でわたしからお聞きのことは、ほかの人々をも教えるに十分な力のあろう信ずべき人々にゆだねてください。
新共同そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。
NIVAnd the things you have heard me say in the presence of many witnesses entrust to reliable men who will also be qualified to teach others.
註解: この一節は思想がやや横道に入った観がある。1節は密接に3節に連絡する。ただし本節もテモテが当時エペソを離れてアジヤの各地に巡回伝道を行っていたものと解するならば(緒言およびUテモ4:5註参照)、各地においてその地の最も有能な人に対して牧会や伝道のことを委ねるべきことを教えたものと解することができる。すなわち本節の意味は、テモテが多くの証人の前にて(おそらくTテモ4:14Uテモ1:6の任命の場合を指すのであろう)パウロより聴きしことすなわち伝道者としての最も重要なる根本的中心的心得を各地の忠実なる人々に同様に伝えてこれを後の代に、また各方面に広く継承せしめなければならない。そしてこの種の忠実なる人々というのはテモテと同様に教会の牧者、教師としてまた伝道者として他人を教えることに値している者でなければならない。なおこの継承はローマ法王の位のみが使徒より継承せるものであるというごとき排他的意味の継承ではなく、多くの適当なる人々に伝えてこれを継承させるべきものである。
辞解
[教へ得る] 「教えるに適している」の意。

2章3節 (なんぢ)キリスト・イエスのよき兵卒(へいそつ)として(われ)とともに苦難(くるしみ)(しの)べ。[引照]

口語訳キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。
塚本訳キリスト・イエスの善き兵卒として、(皆と)共に苦しめ。
前田訳キリスト・イエスのよい戦士として苦しみを共になさい。
新共同キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。
NIVEndure hardship with us like a good soldier of Christ Jesus.
註解: キリスト・イエスの招集を受けし兵卒は信仰の闘いのあらゆる苦難を忍ばなければならぬ。「苦難を忍ぶ」は「苦しい目に遭う」意味で、広い意味であるが本節の場合パウロは特に伝道者として嘗めなければならぬ生活苦、経済上の困難につき考えていたことは次の三節によりてもこれを知ることができる。

2章4節 兵卒(へいそつ)(つと)むる(もの)生活(なりはひ)のために(まと)はるる(こと)なし、これ(つの)れる(もの)(よろこ)ばせんとすればなり。[引照]

口語訳兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。
塚本訳(いやしくも)兵卒たる者は、司令官に喜ばれるため(ただ戦いのことに全力を尽くし、決して)生活問題に携わ(ってはな)らない。
前田訳従軍するものは指揮者の意に沿うために、日常生活にはかかり合いません。
新共同兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。
NIVNo one serving as a soldier gets involved in civilian affairs--he wants to please his commanding officer.
註解: 兵卒として招集せられし者は専ら戦闘において敵を打破ることに専念すべきであって、自己の生計問題、生活のための商売上のことにつき心を労してはならない。兵卒を募れる者は兵卒の生活を保証する故、専心兵卒の務めを為すことが募れる者を喜ばせる(Tコリ9:7)。同様にキリスト・イエスの兵卒として伝道に従事する者は、自己の生計のことにつき心を労せず専心伝道に従事しなければならない。なおこの教訓とパウロ自身の生活態度(Tコリ9:12以下。Tテサ2:9Uテサ3:8、9)との関係につきては要義参照。
辞解
[生活のために] 原語「生命のための仕事」。

2章5節 ()(きそ)(もの)、もし(のり)(したが)ひて(きそ)はずば冠冕(かんむり)()ず。[引照]

口語訳また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。
塚本訳また試合をする者は、法に適って試合をせねば勝利の冠を得(ることは出来)ない。
前田訳競技するものは正規に競技しなければ栄冠を得ません。
新共同また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。
NIVSimilarly, if anyone competes as an athlete, he does not receive the victor's crown unless he competes according to the rules.
註解: テモテの伝道上に必要なる第二の心得は、オリンピヤにおける競技者のごとく、定められし規則を守って競技しなければならないことである。伝道者には伝道者としての当然の規律があり(当時は勿論成文法にあらず)、パウロはしばしばこれをテモテに教えたのであったが、それに違反する場合は褒美としての栄冠を得ることができない。前後の関係上主として伝道者の生計問題に関して言ったのであろう。伝道者の生計問題の法則は、不正の利を求めず、貧富の如何によりて人を偏り見ず、伝道を利用して貪ることをせず、等のことを指すと見て可なり。
辞解
パウロはしばしばオリンピヤの競技の例を用いて説明した。この方法が当時のギリシャ人に最もよく訴える所があったからであり、また彼の生活が、その神より選ばれしこととその緊張せる熱心と、その勝たんとする努力と、その衆人環視の中に行われる行動態度とにおいて、オリンピヤの選手に酷似していたからであろう。Tコリ9:24−27。

2章6節 (らう)する農夫(のうふ)まづ()分配(ぶんぱい)()べきなり。[引照]

口語訳労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。
塚本訳苦労する農夫がまず収穫(の分け前)に与るのは当然である。(褒美を得ようとする者は、そのことに全力を尽くさねばならぬ。)
前田訳働く農夫がまっ先に実りの分け前にあずかるべきです。
新共同労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。
NIVThe hardworking farmer should be the first to receive a share of the crops.
註解: 伝道者テモテの守るべき第三の点は、彼が労働することである(▲この「労働」は勿論伝道することを指す)。労働せざる農夫が収穫を得ることができず、反対に労働にいそしむ農夫が、他の何人よりも先にその収穫に与ることを得ると同様に、労働する伝道者は、まずその実に与ることが至当である。あたかも地主や穀物の購買者が働く農夫よりその収穫を搾取すべきでないと同様に、伝道者の働きにより霊の糧を与えられている者は、その肉の果実の初穂を第一に伝道者に帰すべきである。パウロはここにテモテに働くべきことと、そうして働く場合その生活をそれによりて支えられることの当然であることを教えている。なお要義参照。

2章7節 (なんぢ)わが()(ところ)をおもへ、(しゅ)なんぢに(すべ)ての(こと)()きて(さとり)(たま)はん。[引照]

口語訳わたしの言うことを、よく考えてみなさい。主は、それを十分に理解する力をあなたに賜わるであろう。
塚本訳私が言うことをよく考えよ、主は何事についても(必ず)君に悟りを与え給うであろうから。
前田訳わたしのいうことをお考えなさい。主はあなたに何につけても理解力をお与えでしょう。
新共同わたしの言うことをよく考えてみなさい。主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。
NIVReflect on what I am saying, for the Lord will give you insight into all this.
註解: 以上の数節にパウロの言える所(W2)はよくこれを考える必要があり、これを真の生命の活動の中に生かさなければならない。この三つの注意は要するに一つの心の働きである故これを形式的に規律せんとしても不可能である。これらのことにつき主イエスより悟を賜わる必要がある。
要義 [伝道者の生計問題とパウロの自給伝道]パウロは自らその職業たる天幕製造業に従事しつつ自活の伝道をなし、大いにこれに誇り(Tコリ9:15)また他の人々にもかく行うべきことをすすめている(Uテサ3:9)にも関らず、本書においてテモテには反対に伝道者として生活のための仕事に従事すべからざること、労働の果実に第一に与るべきことを教えているのは、一見矛盾せる思想のごとくに見え、学者によりてはこれをもって本書のパウロの著にあらざることの一つの証拠とも見ているのである。しかしながらパウロの場合の天幕製造は(すこし)も生活のために(まと)われ、煩わされていた様子はなく、パウロの主の兵卒としての戦闘の作業の一部として完全にその中に融合されたものであって、パウロはこれを「生活のための仕事に(まと)われている」とは考えなかった。そして他方テモテの場合においては、テモテの弱い性格より来る欠点として、生活上の困難に心を労するようになり易く、また他面教会または信者より生活の資を得ることにより、自己の自由がこれによりて束縛される場合も有り得ることであり、またこれを当然の権利と考えずして教会の人々の面を恐れるごときことがありがちであり、従って種々苦肉の策を(ろう)して生計を保たんとするごとき誘惑が彼に臨むことも無くはなかったのであろう。パウロはこれを知り、かかる教訓を与えたのであった。パウロ自身の生活態度との間に何らの矛盾がないのみならず、パウロは何人をも形式的にこれを規定し、または外面的に自己に(なら)わしめんとせず、心の根本的態度を示したのである。

3-1-ロ 主の真実に信頼せよ 2:8 - 2:13  

2章8節 わが福音(ふくいん)()へる(ごと)く、ダビデの(すゑ)にして死人(しにん)(うち)より(よみが)へり(たま)へるイエス・キリストを(おぼ)えよ。[引照]

口語訳ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。
塚本訳ダビデの子孫から出、死人の中から甦りい給うイエス・キリストを忘れるな──これが私の福音である。
前田訳イエス・キリストをつねに思ってください。彼はダビデの末の出で、死人の中からよみがえられました。これがわが福音です。
新共同イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。
NIVRemember Jesus Christ, raised from the dead, descended from David. This is my gospel,
註解: テモテが強くなりその任務を完遂することを得んがためには、イエス・キリストを憶えることが必要である。すなわち人間としてはダビデの(すえ)より生れし約束せられしメシヤであり、死人の中より甦らせられしことによりてその不死と勝利とを示し給えるキリストである。このキリスト・イエスを憶ゆることはキリスト者の力の秘訣であり、彼を忘れることはキリスト者の無力の基である。
辞解
[我が福音に云へる如く] 直訳「我が福音に(したが)えば」でパウロの伝えし福音において主張している通りの意。ガラ1:11Tコリ15:1
[甦り給へる] 「甦えらせられ給える」。

2章9節 (われ)はこの福音(ふくいん)のために苦難(くるしみ)()けて惡人(あくにん)のごとく(つな)がるるに(いた)れり、されど(かみ)(ことば)(つな)がれたるにあらず。[引照]

口語訳この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。
塚本訳私はこの(福音の)ため罪人として縛られるまでに苦しみを受けているが、神の言は縛られてはいない。
前田訳このためにわたしは悪者のようにつながれるまでに苦しんでいます。しかし神のことばはつながれていません。
新共同この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。
NIVfor which I am suffering even to the point of being chained like a criminal. But God's word is not chained.
註解: パウロの現在の縲絏(なわめ)は第一回のローマにおける幽囚より一層厳重であり、あたかもネロの時代の国事犯のごとくに取扱われたらしく思われることは本節の用語がこれを示している(ラムゼー)。それにもかかわらず神の言すなわちイエス・キリストの福音は、それ自身の力と価値とによりてその進むべき道を進むものであって、何ものもこれを妨げることができない。福音を宣伝うる者を束縛することによりて福音を束縛し得るごとくに考えることは大なる誤りである。否かえって福音のために役立つことは多くの史上の事実の証明する処である。ピリ1:12−14。

2章10節 この(ゆゑ)(われ)えらばれたる(もの)のために(すべ)ての(こと)(しの)ぶ。これ(かれ)()を[して](も(また))永遠(とこしへ)光榮(くわうえい)(とも)にキリスト・イエスによる(すくひ)()しめんとてなり。[引照]

口語訳それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである。それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受けるためである。
塚本訳この故に私は選ばれた人達のために凡てを忍耐する、彼らにもキリスト・イエスにおける救いと、永遠の栄光とを得させるためである。
前田訳それゆえわたしは選ばれた人々のためにすべてを忍びます。それは彼らもキリスト・イエスにある救いを永遠の栄光とともに受けるためです。
新共同だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。
NIVTherefore I endure everything for the sake of the elect, that they too may obtain the salvation that is in Christ Jesus, with eternal glory.
註解: パウロの受難は福音の妨害とならずかえってその進歩を助ける故に、これによりて多くの選ばれたる者は、イエス・キリストによる救いに至らしめられ、ついには彼と共に永遠の光栄に与ることを得るに至るのである故、これを思えばパウロにとりてその苦難は何でもない。パウロは喜んでこれを忍んでいるのである。
辞解
[この故に] 前節を受けて後を説明する。
[永遠の光栄] 「救」の完成を意味す。
[選ばれたる者] キリスト者のこと。
[彼らをも亦] パウロのみならずの意。

2章11節 ここに(しん)ずべき(ことば)あり[引照]

口語訳次の言葉は確実である。「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。
塚本訳これは信ずべき言である──そは、もし(キリストと)共に死んだなら私達もまた(彼と)共に生きるであろう。
前田訳信ずべきはこのことばです。−−「われらは彼とともに死ねば、共に生きよう。
新共同次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。
NIVHere is a trustworthy saying: If we died with him, we will also live with him;
註解: 直訳「此の言は真実なり」。

我等(われら)もし(かれ)(とも)()にたる(もの)ならば、(かれ)(とも)()くべし。

註解: 11−13節は当時行われし讃美歌の一部ならんと想像せられているが確言はできない。四つの対句より成り二句ずつ二連をなす、第一連は積極的信仰、第二連はその反対の内容をなす、キリストと共に死ぬことは、霊的の意味であるが、かくして死にたる者はキリスト者と共に永遠に生くる者であり(ロマ6:4コロ2:12)肉体の死を経てもなおキリストと共に永遠に生くるの希望を失わない。ゆえにこれを殉教の死(W2)と解することは無理であるが、これをもその中に包含すと解すべきである。

2章12節 もし()(しの)ばば、(かれ)(とも)(わう)となるべし。[引照]

口語訳もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。
塚本訳もし忍耐するなら私達もまた共に王となるであろう。もし(彼を)否むなら彼もまた私達を否み給うであろう。
前田訳彼とともに忍べば、共に王になろう。彼を否めば、彼もわれらを否もう。
新共同耐え忍ぶなら、/キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる。
NIVif we endure, we will also reign with him. If we disown him, he will also disown us;
註解: 苦難の生涯はパウロの幽囚のごとく他より束縛せられ蹂躙(じゅうりん)される不自由の生涯であるが、これを耐え忍んで行けばやがては来るべき世において神の御旨に(したが)い万物を支配する地位に立たしめられる。ロマ8:17ルカ22:28−30.
辞解
[王となるべし] 「支配すべし」とも訳することを得。

()(かれ)(いな)まば、(かれ)(われ)らを(いな)(たま)はん。

註解: マタ10:33の主の御言より出づ。この福音書の世に行われる前にこの主の御言はキリスト者の間に行われていたのであろう。この世において信仰の迫害が起る時、またはイエスに対する信仰を告白することが不利を来す場合、彼を否むようになるものである。ペテロですらそうであった(マタ26:34および引照参照)、かかる者をば主もまた最後の審判の時これを否み、救いより除き給う、ゆえに大胆にイエスを告白しなければならない。

2章13節 (われ)らは眞實(しんじつ)ならずとも、(かれ)()えず眞實(しんじつ)にましませり、[引照]

口語訳たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。
塚本訳たとい私達は不真実でも彼は(いつも)真実であり給う、自分を否み給うことが出来ないのだから!
前田訳われらがまことならずとも、彼はつねにまことにいます、彼は自らを否みえないから」。
新共同わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」
NIVif we are faithless, he will remain faithful, for he cannot disown himself.
註解: ロマ3:4。人間の真実は動揺する。しかしながら神は絶対に真実に在し、不真実なる人間に対する約束をも必ずこれを実行し給う。この神の真実に接して人は真実ならざらんとするも(あた)わない。

(かれ)(おのれ)(いな)(たま)ふこと(あた)はざればなり』

註解: 主には不可能はない、唯己を否み彼の真実を不真実となすことは道徳的に絶対に不可能である。何という美しい不可能であろうか。そしてかかる主を信じ、彼と共に死し共に生くる者は彼に在る恩恵によりて強くせられ、如何なる苦難をも耐え忍ぶことができる。
要義 [イエスに対する信仰による忍耐]イエスを信ずることが凡ての基礎である。そしてこの信仰に立つ場合、我らは往々にして苦難に遭遇することを免れることができないけれども、神の真実を信じて忍耐することによりて我らは凡ての苦難に打勝つことができる。これが信仰の生涯の秘訣である。

3-1-ハ 善き労働人たれ。論争を避けよ。 2:14 - 2:26  

2章14節 (なんぢ)かれらに[引照]

口語訳あなたは、これらのことを彼らに思い出させて、なんの益もなく、聞いている人々を破滅におとしいれるだけである言葉の争いをしないように、神のみまえでおごそかに命じなさい。
塚本訳(皆に)これらのことを思い出させ、(また)論争しないように神の御前で確と言いきかせよ──論争は何の役にも立たず、(ただ)聞く者を堕落させる(だけである。)
前田訳このことを人々に思い出させ、ことばの争いをしないよう神の前で厳命なさい。それは何の益もなく、聞くものを破滅させます。
新共同これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい。そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。
NIVKeep reminding them of these things. Warn them before God against quarreling about words; it is of no value, and only ruins those who listen.
註解: テト3:1と同じく教会の人々を意味すると見る(M0、B1)よりも2節の後継者(W2)と解するを可とす。

(これ)()のことを(おも)()さしめ、

註解: 「此等のこと」は11−13節の内容を指すと見るよりも1節以下の全体の思想と解するを可とす(M0、E0)。人を教うる者は特にその信仰の態度につき注意を要する。

かつ言爭(いさかひ)する(こと)なきやう(かみ)(まへ)にて(おごそ)かに(めい)ぜよ、

註解: 言争(いさかい)」につきてはTテモ6:4を見よ。偽教師の特徴は無益の言争(いさかい)、言論戦に耽っていることであった。その内容はおそらくテト3:9の内容に類するものであろう。信仰がその本来の目的を離れるに至れば、無益、些末(さまつ)の事柄につき熱心に論争するに至る。パウロはテモテをして、その信徒にかかる偽教師の悪風に染まざらんことを厳命せしめた。「神の前にて」はテモテの心と弟子たちの心が共に神の前に在る状態においてこれを為すこと。

言爭(いさかひ)(えき)なくして()(もの)滅亡(ほろび)(いた)らしむ。

註解: 言争(いさかい)はこれを為す者に何らの益なく、これを聞く者を滅亡に至らせる。かかることに興味を持つことは、真理の言に対して真の興味を持たない結果となる。ゆえに一見無害のごとくに見えておりながら、その実非常に害を与えるものである。
辞解
[滅亡] 「破滅」「破壊」の意味で、家屋やその土台につきて用いられる語。▲今日のキリスト教の諸教派間における神学的、制度的、形式的、実践的論争はこの種類に属す。

2章15節 なんぢ眞理(まこと)(ことば)(ただ)しく(をし)へ、[引照]

口語訳あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。
塚本訳自分を、神の御前に試練を経た者、真理の言を正しく示す、恥ずる所のない労働人とするよう努力せよ。
前田訳努めて、神に認められたもの、恥じのない働き人、真理のことばを正しく示す者におなりなさい。
新共同あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。
NIVDo your best to present yourself to God as one approved, a workman who does not need to be ashamed and who correctly handles the word of truth.
註解: 言争(いさかい)すなわち「言の戦争」に反対の態度は「真理の言を正しく教えること」である。真理の言は「聖書」と解することができる。正しく教えるとは、その真理の言の本来の意味においてこれを教えることである。言争(いさかい)とは根本的に異なる態度である。
辞解
[正しく教へ] arthotomeô は種々の意味に解せられているけれども「正しく取扱う」意味に取るを可とす。なお「正しく分つ」「正しく切断する」等の意味に取る学者もある。

()づる(ところ)なき勞動人(はたらきびと)となりて、(かみ)(まへ)錬達(れんたつ)せる(もの)とならんことを(はげ)め。

註解: 労働人は自己の職務を完全に遂行する時、たといこれを検査する者ありとも彼はその前に恥ずることがない。また完全に充分にその務めを果し、信仰の生活を送る者は「神の前に練達せる者」すなわち試験に合格せる者、神の良しと見給う者である。パウロはテモテに、かかる者として神の前に立ち得る者たらんことを努力すべきことを教えている。

2章16節 また(みだり)なる(むな)しき物語(ものがたり)()けよ。[引照]

口語訳俗悪なむだ話を避けなさい。それによって人々は、ますます不信心に落ちていき、
塚本訳俗な無駄話に遠ざかれ。(そうでないと)いよいよ不敬虔に進み行くからであって、
前田訳俗なむだ話をお避けなさい。そのため人々はますます不敬虔になり、
新共同俗悪な無駄話を避けなさい。そのような話をする者はますます不信心になっていき、
NIVAvoid godless chatter, because those who indulge in it will become more and more ungodly.
註解: これらもみな偽教師の取る態度である。Tテモ6:20註参照。「妄りなる」は神聖ならざること。「虚しき物語」は「空なる音」の意、要するに卑俗なる空語である。そこに神聖なる何ものもなく、内容を有する真理の言に比すべき何ものもない、かかるものを遠ざけなければならぬ。

かかる(もの)はますます()敬虔(けいけん)(すす)み、

註解: 卑俗なる空談に耽ることは信仰の態度と正反対である故、その結果益々不信仰の方に向って進むこととなる。信仰的ならざる行動はそれ自身として悪しきのみならずさらに信仰そのものをも破壊するに至る故恐れ慎まなければならぬ。かかるものをもって信仰なりとしてこれを教うる偽教師の危険なる所以はここにある。

2章17節 その(ことば)脱疽(だっそ)のごとく(くさ)れひろがるべし、[引照]

口語訳彼らの言葉は、がんのように腐れひろがるであろう。その中にはヒメナオとピレトとがいる。
塚本訳彼らの教えは癌のように拡がるであろう。彼らの中にヒメネオとフィレトがいる。
前田訳彼らのことばは腫れもののように、ただれ広がるでしょう。その中にヒメナオとピレトとがいます。
新共同その言葉は悪いはれ物のように広がります。その中には、ヒメナイとフィレトがいます。
NIVTheir teaching will spread like gangrene. Among them are Hymenaeus and Philetus,
註解: 真理の言は容易に広まらないけれども不敬虔なる者の言は脱疽のごとくに肉を腐敗せしめ、その腐敗は急速に拡張する。偽教師の悪しき態度と虚しき言は、(たちま)ちにして全教会を死滅の運命に陥れる。
辞解
[脱疽] gangraina は癌の一種で、全身を腐らす病。
▲「妄りなる虚しき物語」の内容は時代と共に変遷するのが普通である。偽教師らは時代の嗜好に迎合して新奇なる説を立てて人々を誘惑する。唯物論とキリストの福音とが一致し得るかのごとくに唱える伝道者もこの種に属するといえる。

ヒメナオとピレトとは()くのごとき(もの)(うち)にあり。

註解: 偽教師中の主要なる者を例挙する。ヒメナヨはTテモ1:20のヒメナヨと同一人ならん、ピレトにつきては他に何事も知られていない。

2章18節 (かれ)らは眞理(まこと)より(はづ)れ、復活(よみがへり)ははや()ぎたりと()ひて、(ある)人々(ひとびと)信仰(しんかう)(くつが)へすなり。[引照]

口語訳彼らは真理からはずれ、復活はすでに済んでしまったと言い、そして、ある人々の信仰をくつがえしている。
塚本訳彼らは復活は既にあったと言って(自分たちが)真理から外れ(たばかりでなく、)また幾多の人の信仰を滅茶々々にしている。
前田訳彼らは真理からそれ、復活はすでにおこったといい、人々の信仰をくつがえしています。
新共同彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています。
NIVwho have wandered away from the truth. They say that the resurrection has already taken place, and they destroy the faith of some.
註解: この種の人々は自ら真理をすててさ迷い出でているのみならず、ある人々の信仰を破壊してしまう。すなわち彼らは我らがやがて栄光の体に甦るべきことを否定し、かかることは今後起ることなしと唱え、復活は抽象的霊的に我らの心中に起る無形の事実であるとし、これを凡て霊的経験として解せんとする思想であったものと考えられる。如何なる主張を有せる主義であったかは詳しく知ることができないが、すでにコリントにおいても復活を否定する者もありしほど故(Tコリ15:12)、エペソにおいてもかかる者ありと考うることは容易であり、かつ、かかる思想はグノシス派にあらずとも、何れの時代にも、復活の事実を信ずるに困難を覚ゆる人の陥り易き傾向である。しかしながらこの思想は煎じ詰めればキリストの復活をも否定することとなり、その結果キリストの神の子たることをも否定することとなり、これによりて人々の信仰を覆すこととなる。
辞解
[覆す] 家屋またはその基礎につき用うる語。

2章19節 されど(かみ)の[()(たま)へる](かた)(もとゐ)()てり、[引照]

口語訳しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。「主は自分の者たちを知る」。また「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ」。
塚本訳しかし神の(据え給うた教会の)固い土台石は(しっかり)立っていて、(それに)こんな銘がある──「“主(なる神)は己のものを知り給う”」、また「“主の御名を呼ぶ”者は皆不義を離れよ」と。
前田訳しかし神の土台はゆるぎなく立ち、次の証印があります−−「主はおのがものたちを知りたもう」、また、「すべて主のみ名を呼ぶものは不義から離れよ」と。
新共同しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。
NIVNevertheless, God's solid foundation stands firm, sealed with this inscription: "The Lord knows those who are his," and, "Everyone who confesses the name of the Lord must turn away from wickedness."
註解: 信徒のある者は偽教師らによりてその信仰を覆えされることがあっても神の据え給える堅固なる基礎は昔より今に至るまで堅く立ちて動揺することはない。この基礎石は次に掲げられる二つの銘である。
辞解
この土台石は(1)神の約束、(2)神の不動の真実、(3)キリスト教そのもの、(4)復活の教理、(5)恩恵による選び、(6)教会、等種々に解せられているけれども、この場合は次の二句を指すと見るを可とす。

(これ)(いん)あり、(しる)して()

註解: 直訳「次のごとき印あり」で「堅き基礎」に懸る。

(しゅ)おのれの(もの)()(たま)ふ』

註解: 印はその書類に記されし事実の不動の確実さを示す、ここではこの印は神の建物すなわち教会の礎石の上に彫刻せられているものとして考えられている。そしてその文言の一は民16:5にもある聖句で、神はおのれのものすなわち真正の神の子を知ってい給うことであり、人間の目には時には信仰の真贋が不明であり、時には偽教師らに欺かれることがあっても、神はその選び給える者を間違いなく知り給うのであって、この事実は信ずる者にとりて無上の安心を与える処の事柄である。

また『(すべ)(しゅ)()(とな)ふる(もの)不義(ふぎ)(はな)るべし』と。

註解: 第二の文言は主の名を称うる者すなわち主イエス・キリストを信ずる凡ての者は不義より遠ざかるべきであるということであって、従って不義者なる偽教師らよりも遠ざからなければならぬことを示している。イザ52:11民16:26等の思想に等し。第一の刻印は神の側よりの働きかけであり、第二の刻印は人の側よりの応答である。この二つの印は、神の据え給える礎石の上に刻印せられて動くことはない。
辞解
[離るべし] 命令形。

2章20節 (おほい)なる(いへ)(うち)には(きん)(ぎん)(うつは)あるのみならず、()また(つち)(うつは)もあり、(たふと)きに(もち)ふるものあり、また(いや)しきに(もち)ふるものあり。[引照]

口語訳大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。
塚本訳しかし(教会にこんな人達が現れるのは少しも不思議ではない。見よ、)大きな家には金や銀の器ばかりでなく、木や土の器もあって、或る物は尊く、或る物は卑しく用いられる(ではないか)。
前田訳大きな家には金や銀の器だけでなく木や土の器もあり、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用いられます。
新共同さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。
NIVIn a large house there are articles not only of gold and silver, but also of wood and clay; some are for noble purposes and some for ignoble.
註解: 大なる家にはかかる事実が存することは周知のことである。この場合「大なる家」は神の教会を指す。すなわち教会内には金銀のごとき高き才能を有する者あり、また木や土のごとき才能において劣れる者もあり、また偽教師のごとく不用有害にして棄つべき者がある。本節の場合は諸種の器具の必要如何を論じているのではなく賎しきに用いられることを恥ずべく避くべきことと考えているのである。この思想を中心として考察するにあらざれば次節の意味は不可解である。すなわち教会内には正しき教師と偽教師とがあることを眼中に置きて考うべし。
辞解
普通「貴きに用うる」は金銀で、「賎しきに用うる」は木土であると解せられ、原文もかく解するのが自然であり、また事実も大体これに一致するけれども、本節においてパウロの言わんとする処は次節の内容より見れば上述註解のごときものであろう(Z0)。本節は思想の中心がやや不明である。なおロマ9:21以下とは異なれる思想を表顕せるものと考うべきである。

2章21節 (ひと)もし(いや)しきものを(はな)れて自己(みづから)(いさぎ)よくせば(たふと)きに(もち)ひらるる(うつは)となり、(きよ)められて(しゅ)(よう)(かな)ひ、(すべ)ての()(わざ)(そな)へらるべし。[引照]

口語訳もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。
塚本訳だからもし或る人がこれら(の卑しいこと)から(離れて)自分を潔めるならば、尊い(目的の)器となり、清められ、主人に役立ち、あらゆる善い仕事に適するであろう。
前田訳卑しいことから自らを清めるものは、尊いことのための器になり、聖化されて主人に役だち、すべてのよいわざに適するようになります。
新共同だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。
NIVIf a man cleanses himself from the latter, he will be an instrument for noble purposes, made holy, useful to the Master and prepared to do any good work.
註解: 直訳「されば人もしこれらより離れて自己を潔めなば、聖められ、主のために役立ち、凡ての善き業に備えられて、貴きに用いられる器とならん」。「これら」は前節「賎しき事柄」を受けていると見るべきであるが、前後の関係上偽教師のごときものを指すと解すべきである。かかる者どもより自己を潔めることにより、その器の用途は一変して貴きに用いられるに至る。それは自己を潔めることによりて聖別せられ、主の御用に立ち、善き業を為す準備が整えるものとされるからである。14節以下のパウロの勧めは、みなこの点を中心としておりテモテをして神の善き労働人たらしめんとし、またテモテより承継(うけつ)ぐべき人々をもかかる者たらしめんとするにあった。
辞解
「潔め」 ekkathairô と「聖め」 hagiazô (現行訳「浄め」)は意味を異にし、前者は不潔物を自己より取り除くことであり、後者は自己を神の御用のために聖別することである。

2章22節 (なんぢ)わかき(とき)(よく)()け、[引照]

口語訳そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。
塚本訳だから若い時の情欲を避け、潔い心で主を呼び求むる者と共に義、信仰、愛、平和を追い求めよ。
前田訳若さの欲望を逃れて、清い心で主を呼ぶものとともに、義とまことと愛と平和をお求めなさい。
新共同若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
NIVFlee the evil desires of youth, and pursue righteousness, faith, love and peace, along with those who call on the Lord out of a pure heart.
註解: パウロはさらにテモテに対し、偽教師たちまたはテモテらに逆う人々に如何なる態度にて対すべきかを22−26節に教えている。それ故に「若き時の慾」はこの場合肉慾、名誉慾等と解するよりも、むしろ逆う処の者や偽教師らに対して闘争心を燃すことと解すべきであろう。当時テモテはすでに壮年に達していた。

(しゅ)(きよ)(こころ)にて()(もと)むる(もの)とともに、()信仰(しんかう)(あい)平和(へいわ)とを()(もと)めよ。

註解: 主を清き心にて呼び求むる者は真のキリスト者である。偽教師も主の御名を呼んでいるけれどもそれは清き心からではない、また「若き時の慾」は清き心とは相反する。而してこのようなキリスト者たちと共にキリスト者としての道徳たる正義、真実(この場合信仰と解するよりも真実と解すべきであろう)、愛、平和を追い求むべきである、そこに真の教会がある。無益の争論を闘わすことはこの四つの条件に違反する。
辞解
[主を清き心にて呼び求むる者と共に] 単に「平和」にのみ関連していると解する説多し(A1、B1、M0、E0、Z0)、ただし現行訳および上記註のごとくに解するを可とす(W2)。

2章23節 (おろか)なる無學(むがく)議論(ぎろん)()てよ、これより分爭(ぶんさう)(おこ)るを()ればなり。[引照]

口語訳愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。
塚本訳愚かな訳の解らぬ議論をはねつけよ。それが(ただ)争いを生むことを君は知っている(はずだ)。
前田訳 愚かで無知な議論をお避けなさい。ご承知のとおり、それは争いを生むだけです。
新共同愚かで無知な議論を避けなさい。あなたも知っているとおり、そのような議論は争いのもとになります。
NIVDon't have anything to do with foolish and stupid arguments, because you know they produce quarrels.
註解: テモテは議論好きであったのであろう。その弊として愚なる無学の議論に引き込まれ、ついに分争を起すに至ったこともあったのであろう、パウロはこれを警戒している。

2章24節 (しゅ)(しもべ)(あらそ)ふべからず、(すべ)ての(ひと)(やさ)しく()(をし)(しの)ぶことをなし、[引照]

口語訳主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、
塚本訳しかし主の僕は争わず、誰に対しても優しくあらねばならぬ。教え上手で、辛抱強く、
前田訳主の僕は争ってはなりません。だれにも親切で、よく教え、雅量があり、
新共同主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、
NIVAnd the Lord's servant must not quarrel; instead, he must be kind to everyone, able to teach, not resentful.

2章25節 (さから)(もの)をば柔和(にうわ)をもて(いまし)むべし、[引照]

口語訳反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、
塚本訳反抗する者の誤りを柔和に正してやれ。あるいは神が彼らに真理の知識への悔い改めを与え給うて(本心に立ち返らせ)、
前田訳逆らうものをやさしく導くべきです。おそらく神は彼らに悔い改めを与えて真理の知識に導き、
新共同反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。
NIVThose who oppose him he must gently instruct, in the hope that God will grant them repentance leading them to a knowledge of the truth,
註解: (▲些細の意見の相違を理由として相争い相敵視し、異端呼ばわりするごときは慎むべきである。信仰の純潔とは自己の意見を固執することではなく、イエスに対する純なる愛を貫くことである。)偽教師ならびにこれに誘惑されてテモテらに逆う者に対する態度を教えている。かかる場合これと論争し、叱責し、非難し、または激怒しなどすることは正義、真実、愛、平和の主旨に反する故、かかる者に対しては勿論のこと、その他の凡ての人に対しても争わず、優しき態度をもってこれに接し、()く熱心にこれを教え、たとい彼らが嘲弄や非礼を加えてもこれを忍び、逆う者に対しては殊に柔和なる心をもって接しつつこれを戒むべきである。
辞解
「主の僕」は本節の場合キリストの福音を伝うべき任務を帯ぶる人、「優しく」は態度、「柔和」は心を意味する原語。

(かみ)あるひは(かれ)らに悔改(くいあらた)[むる(こころ)]を(たま)ひて眞理(まこと)(さと)らせ[(たま)はん]。

註解: 偽教師や正しき教えに逆う者に対して上述のごとき態度を取る所以は神が何時かは彼らを悔改めしめ真理を悟らしめ給うことあらんがためであり、またこれを祈願するからである。ここにキリスト者の真の愛がある。

2章26節 (かれ)一度(ひとたび)惡魔(あくま)(とら)はれたれど、()めてその(わな)をのがれ、(かみ)御心(みこころ)(おこな)ふに(いた)らん。[引照]

口語訳一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。
塚本訳悪魔の罠から逃れしめ給うかも知れない──彼らは(いま)悪魔に虜にされて、その意のままになっているのである。
前田訳悪魔に捕えられてその意のままになっていた彼らを、そのわなから解放して正気にかえらせてくださるでしょう。
新共同こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。
NIVand that they will come to their senses and escape from the trap of the devil, who has taken them captive to do his will.
註解: 直訳「また、彼らをして彼より捕えられ、その者の意思に(したが)い(または(したが)える)悪魔の(わな)より覚醒せしめ給わん」となり難解の一節である。(1)「彼」 autos と「その者」 ekeinos を共に神と解する説(W2)、(2)「彼」を悪魔と見「その者」を神と見る説(現行訳、E0、Z0)、(3)「彼」を主の僕と見「その者」を神と解する説(B1、RV)、(4)両者を共に悪魔と解する説(A1、M0、AV、ヴルガタ)。この中の最後の解が最も自然でありかつ適当である。これにより意訳すれば「また彼らを捕えその意思に随わしめし悪魔の(わな)より覚醒せしめ給わん」となる。これを前節後半と連続して読むべし、すなわち24節前半の態度を取る所以は彼らをして悔改めしむるためと悪魔の(わな)より救い出されて覚醒せしむるためである。かかることのあらんことを祈願しつつこの態度を取るべしとのことである。なお「悪魔の(わな)より覚醒す」とは悪魔の(わな)より救い出されて覚醒することの略である。
要義1 [信仰と議論]信仰は神の霊と人の霊との接触であり、議論は人間の理性の活動である。而して信仰による霊的知識は人間の性来(うまれつき)の理性による知識をもっては知り得ざる範囲の事実なるが故に(Tコリ2:14)、たとい如何に深遠なる哲学的議論といえども、信仰の世界の事実を論議することができない。それ故に信仰は議論を要せずして厳然たる事実として我らの心に宿るけれども、反対に議論は我らの心に信仰を生み出すことができない。信仰によりて神の智慧を与えられしものは、人間の知識や智慧をもってする論争は凡て愚にして無知であることを知るのである。これ「神の愚は人よりも智い」からである(Tコリ1:25)。
要義2 [逆う者に対する態度]福音の真理に対して逆う者はキリスト者以外は勿論、キリスト者の中にも存する。かかる人々より議論の鋒先を向けられる場合、我らは往々にして論争的となり、その結果反目分争を生ずるに至るものである。それ故に主の僕は争ってはならない。正義を守り、真実をもって望み、愛をもって包み、平和をもって対する時、百の議論にもまさりて相手を悔改めしむることができる。その故はこれこそ神の御意である故、神がその力をもって彼らを動かし給うからである。優しく教え、柔和をもて戒め、凡ての反対を忍ぶ時、我らは議論をもって為し得ざることを成し遂げることができる。