黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版第1ヨハネ書

第1ヨハネ書第4章
1-11 神の霊とサタンの霊 4:1 - 4:6

4章1節 (あい)する(もの)よ、(すべ)ての(れい)(しん)ずな、その(れい)(かみ)より()づるか(いな)かを(こころ)みよ。(おほ)くの(にせ)預言者(よげんしゃ)()()でたればなり。[引照]

口語訳愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。
塚本訳愛する者たちよ、(今わたしは神の霊と言ったが、)どの霊をも信じないで、(まず)それらの霊が神から出たのかどうかを吟味しなさい。というのは、多くの偽預言者が(キリストの集会をはなれたこの)世に出てきているからである。
前田訳親愛な方々、どの霊でも信じるのでなく、霊が神からか、どうか、お試しなさい。偽預言者が大勢、世に出ています。
新共同愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。
NIVDear friends, do not believe every spirit, but test the spirits to see whether they are from God, because many false prophets have gone out into the world.
註解: 霊の中に神の霊、真理の霊ならざるものがある。悪魔の霊、虚偽の霊これである。それ故に霊的なるものを凡て無分別に信じてはならない。これを試してみる必要がある。すでに今多くの偽預言者すなわち虚偽の霊により支配される者がこの世に出ているから。
辞解
[その霊] 複数を用い、霊が種々の姿において自己を顕わすことを示す。
[試みよ] dokimazô で試験すること。

4章2節 (おほよ)そイエス・キリストの肉體(にくたい)にて(きた)(たま)ひしことを()ひあらはす(れい)(かみ)より()づ、なんぢら(これ)によりて(かみ)御靈(みたま)()るべし。[引照]

口語訳あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、
塚本訳(しかしこれを吟味することは難しくない。)あなた達はこのことで神の霊を知るのである。──どんな霊でも、イエス・キリストは肉体で(この世に)来られた(神の子である)ことを公然認めるものは、神から(出たの)であり、
前田訳神の霊を知る道はこれです−−すべてイエス・キリストが肉体で来られたと告白する霊は神からであり、
新共同イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。
NIVThis is how you can recognize the Spirit of God: Every spirit that acknowledges that Jesus Christ has come in the flesh is from God,

4章3節 (おほよ)そイエスを()(あらは)さぬ(れい)(かみ)より()でしにあらず、[引照]

口語訳イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。
塚本訳どんな霊でも、イエス(が肉体を取られた神の子であること)を公然認めないものは、神から(出たの)ではない。それは反キリストの霊である。それが来ることを、あなた達は(かねがね)聞いていたのであり、今やすでに、それがこの世におるのである。
前田訳すべてイエスを告白せぬ霊は神からでありません。これは反キリストの霊です。彼が来ることはお聞きですが、彼は今すでに世にいます。
新共同イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。
NIVbut every spirit that does not acknowledge Jesus is not from God. This is the spirit of the antichrist, which you have heard is coming and even now is already in the world.
註解: 私訳「汝ら次のことによりて神の霊を知れ、すなわち肉体にて来り給えるイエス・キリストを告白する凡ての霊は神より出で、またイエスを告白せざる霊は神より出でしにあらず」。イエス・キリストを告白するとはイエス・キリストに対する信仰を告白すること、そして「肉体にて来り給えるイエス・キリスト」とは、人間イエスそのものが神の子キリストであることを言表わせるキリスト教の重要なる中心真理である。従って「イエスを言表わさぬ霊」とは以上のごとき意味においてイエスに対する信仰を告白せざる者の意味である。すなわちイエスをキリスト救い主と信ぜざる類は勿論のこと、イエスの肉体は実質なき幽霊のごときものであるとする仮現説、または人間イエスは神の子にあらず、神の猶子(ゆうし)に過ぎずとする説のごときこの類に属す。人間イエスを神の子と信ずることは、宇宙観、神観、人間観、救済観の大革命であり、キリスト教の唯一の宗教たる所以である。要義参照。
辞解
私訳のごとく訳すことにより改訳本文と少しく意味を異にすることとなる。すなわち改訳は「イエス・キリストの肉体にて来り給いしこと」なる事実に対する信仰の告白となり、私訳は「イエス・キリスト」なる人格に対する信仰の告白となる。

これは()キリストの(れい)なり。その(きた)ることは(なんぢ)()けり、この(れい)いま(すで)()にあり。

註解: Tヨハ2:18−19に掲げし非キリストとは、肉体にて来り給えるイエス・キリストを告白せざる人々を指す。ヨハネは彼のすでにこの世に来ていることを示して読者を警戒する。そしてこの霊は何れの時代にも必ず存在しているのであって今日も多くこれを目撃することを得。

4章4節 若子(わくご)よ、(なんぢ)らは(かみ)より()でし(もの)にして(すで)(かれ)らに()てり。(なんぢ)らに居給(ゐたま)(もの)()()(もの)よりも(おほい)なればなり。[引照]

口語訳子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。
塚本訳子供たちよ、あなた達は神から出たので、(すでに)彼ら偽預言者に勝っているのである。というのは、あなた達の中におられるお方(すなわち神)は、(この)世に(権力を持って)いる者(すなわち悪魔)よりも、有力であるからである。
前田訳皆さん、あなた方は神の出で、彼らにお勝ちです。あなた方の中にいますものは、この世にあるものより偉大だからです。
新共同子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。
NIVYou, dear children, are from God and have overcome them, because the one who is in you is greater than the one who is in the world.
註解: ヨハネは前節後半において非キリストの霊がすでに世に来れることを述べて警戒を与えて後、本節においてキリスト者の勝利の原則を教えて彼らを激励する。キリスト者は神より出でし者で神の霊がその中にあり、非キリストは世にあるものでサタンの霊がその中にいる。神はサタンよりも大なるが故に、かつすでにサタンに勝っているためにキリスト者はすでに非キリストに勝っているのである。
辞解
[既に勝てり] サタンとの戦いが終了したのではなく、すでに勝ちてそして後に戦って勝つのである(Tヨハ5:4ヨハ16:33)。この点につきては要義二参照。「世」につきてはTヨハ2:15註および辞解参照。

4章5節 (かれ)らは()より()でし(もの)なり、(これ)によりて()(こと)をかたり、()(また)かれらに()く。[引照]

口語訳彼らは世から出たものである。だから、彼らは世のことを語り、世も彼らの言うことを聞くのである。
塚本訳彼らは(この)世から(出たの)である。だから、その語ることはこの世的であり、世は彼らの言うことを聞くのである。
前田訳彼らはこの世の出です。それゆえ彼らはこの世の見方で語り、この世は彼らに耳傾けます。
新共同偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。
NIVThey are from the world and therefore speak from the viewpoint of the world, and the world listens to them.
註解: 偽預言者、非キリストは神より出でず、世すなわち世の支配者たるサタンより出でしものである。ゆえに彼らの語ることはこの世のこと(生れながらのサタンの下にある人間が考えまた喜ぶごときこと)であり、従って世の人々は彼らの言に喜んで耳を傾ける。ヨハネより分離せる非キリスト偽預言者たちがその当時世に持て囃されていた有様を推測することができる。

4章6節 (われ)らは(かみ)より()でし(もの)なり。(かみ)()(もの)(われ)らに()き、(かみ)より()でぬ(もの)(われ)らに()かず。(これ)によりて眞理(まこと)(れい)迷謬(まよひ)(れい)とを()る。[引照]

口語訳しかし、わたしたちは神から出たものである。神を知っている者は、わたしたちの言うことを聞き、神から出ない者は、わたしたちの言うことを聞かない。これによって、わたしたちは、真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである。
塚本訳わたし達は神から(出たの)である。(だから)神を知っている者はわたし達の言うことを聞くが、神から出たのでない(この世の)者は、わたし達の言うことを聞かない。このことで、真理の霊と迷いの霊(との区別)をわたし達は知るのである。
前田訳われらは神の出です。神を知るものはわれらに耳傾けます。神の出でないものはわれらに耳傾けません。これによってわれらにはまことの霊と偽りの霊とがわかります。
新共同わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。
NIVWe are from God, and whoever knows God listens to us; but whoever is not from God does not listen to us. This is how we recognize the Spirit of truth and the spirit of falsehood.
註解: ヨハネその他の使徒たちの宣伝えていた福音に耳を傾け、これを信ずる者は非常に少数であった。唯神より出でし者、すなわちイエスを言表わす霊を与えられし者(Tヨハ3:24Tヨハ4:2)のみこれを受入れた。神の言を受入れる者はいつの代にも少数である。神の子が耳を傾けるごとくに教える者は真理の霊より出でし教師であり、世が耳を傾けるごとくに教える者は迷謬の霊より出でし教師である。
辞解
[我ら] ヨハネが自己と本書簡の読者とを一括して言えるものと見ることを得、またはヨハネと他の教師たちとを指したものと見ることを得。本節の場合後者が適当であろう。
[真理の霊と迷謬の霊] 聴く者の中にある霊の意味に解する学者もあるけれども、ここではむしろ教える者を指すとみるべきであろう。(▲勿論聴く者の中に神の霊がなければ伝道者の教えを聴き入れないのであるから(ヨハ14:17参照)、聴く者の中にある「真理の霊と迷の霊」とをこれによって認めることができるのは当然であるが、本節は語る者を主としたのであろう。)本節を今日に応用する場合につきては要義三参照。
要義1 [肉体にて来り給えるイエス]精神、霊性を尊重し、肉体を卑しむことは人類世界に極めて普遍的なる思想である。この思想は肉体にて来り給える人なるイエスをそのまま神の子キリストと見ることに多くの困難を感ずる結果、古来イエスの神性と人性との関係は神学上の最大の難問となった。イエスに二つの意思ありや単一の意思なりや、二つとすればこの間の関係は如何、イエスの肉体と神の子の霊との関係如何等多くの難問があり多くの異説を生じた。
然るに聖霊は肉体のイエスがそのままに神の子に在し給うことを主張する。この破天荒の思想は従来のあらゆる宗教や哲学に対する革命的主張であり、キリスト教をして独一無二の宗教たらしむる根本の原理である。肉体にて来り給えるイエスをキリストと告白することは次のごとき結果を生ずる。
(一) 人間が神を見んと欲する要求が完全に充たされる。
(二) 物質を(いやし)み精神を重んずる思想が打破される。
(三) 肉体は亡び、霊のみ永遠に生きると唱えるパウロの思想(Tコリ15:50−58。Uコリ5:1−4)を超越して、肉体もろともに永遠の生命そのものであるとの思想となる。
(四) 同時に汎神論のごとく凡ての肉体が永遠の生命そのものなることを承認せず、唯イエスの肉体においてのみ神を見、他の場合においてこれをその理想として掲げている。
(五) 神の思想を物質的なる低級なるものとしたように思われるけれども実は然らず、物質によりて限定されず、物質を離れず、しかも物質を超越する神の実在を知ることができるに至った。
(六) 我らの永遠の生命はこのイエスを持つことである。肉体にて来り給えるイエスはすなわち「生命」の別名である。
要義2 [すでに世に勝てり]4:4に神より出でし者がすでに彼ら非キリストに勝っていることを述べていることは注意を要する。我らはすでに世に勝ち給えるキリストのものとなっている以上、我らもまたすでに世に勝っているのである。このことは我らの世との戦いにおいて重大なる意義があることであって、我らの戦いは例えばそれが剣道、柔道、相撲の仕合のごときであっても、真にその奥義に達しているものは戦わざるに既に勝っていることの自覚を持っているのである。勝って後に勝ち、その時始めて自分の勝利を見出すのは偶然の勝利であって真の勝利ではない。Tヨハ5:4ヨハ16:33等にも皆完了形動詞 nenikêka(▲nikaô[勝つ]の完了形で「勝ってしまっている」こと。)を用いることはこの意味である。キリスト者はこの意味において戦わざるにすでに世に勝っているのである。
要義3 [われらに聴く者]「神より出でし者はわれらに聴く」云々はヨハネがこれを言う時はいかにも当然の事のごとくに思われるけれども、もしこの言を凡ての教師凡ての教派が自らの場合において用いたならば、結局何れが神より出でしものなりやを見分けることができないわけである。カルヴィンはかかる場合の審判者は神の言なる聖書であると言っており、事実これが最良の基準であるけれども、この聖書すら今日多くの解釈の下に多くの主張の基礎を為しているのを見る。カトリック教会は勿論最後の判断者ではない。ここに信仰の正邪の区別の困難があるのであって、結局は神より外に真の判断者はない。すなわち我ら各、神の御前において神に従っていると告白し得るごとき状態に我らを置き、勇敢にそこに立たなければならぬ。もしそこに誤りがあるならば最後の日に我らは滅亡を免れることができない。
かく言う場合一見甚だ不安なるがごとく、我ら他に()るべき権威を要求する。しかし如何なる人間にも、制度にも、文字にもこの権威はない。結局において我らは聖書と聖霊の導きによりキリストの権威に服するの冒険を敢てするより外に途がない。信仰は最大の冒険である。

1-12 全き愛をもって互に相愛すべし 4:7 - 4:21

4章7節 (あい)する(もの)よ、われら(たがひ)(あひ)(あい)すベし。(あい)(かみ)より()づ、[引照]

口語訳愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。
塚本訳愛する者たちよ、互に愛しようではないか。愛は神から(出たの)であり、(どんな人でも)愛する者は神から生まれ、また神を知っている(からである)。
前田訳親愛な方々、互いに愛しましょう。愛は神からのもので、すべて愛するものは神から生まれて神を知ります。
新共同愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
NIVDear friends, let us love one another, for love comes from God. Everyone who loves has been born of God and knows God.
註解: 兄弟愛はキリスト教道徳の根幹である。愛は神の本質であり、神はこの愛を我らに賜う。人間の動物性にその源を発する愛はこれを神より出でたる愛と称することができない。

おほよそ(あい)ある(もの)は、(かみ)より(うま)(かみ)()るなり。

4章8節 (あい)なき(もの)は、(かみ)()らず、(かみ)(あい)なればなり。[引照]

口語訳愛さない者は、神を知らない。神は愛である。
塚本訳愛さない者は、神を知らない。神は愛であるから。
前田訳愛せぬものは神を知りません。神は愛にいますからです。
新共同愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
NIVWhoever does not love does not know God, because God is love.
註解: (▲「愛ある者」、「愛なき者」は原文「愛する者」「愛せざる者」で性質に重点を置かず行動に重点を置いていることに注意すべし。口語訳を見よ。)神を知ることは神学の研究にあらず、神より生れることはバプテスマの水によるにあらず、互に相愛することである。勿論ヨハネは他の場合と同様、ここに原因結果の関係を示しているのではない。すなわちまず愛する場合その結果神を知り神より生れるというのではない。真の意味において愛することは神より生れ神を知ることと同一事であることを意味す。換言すれば愛せざることは神より生れず神を知らざることである。愛なる神との生命の共通である。

4章9節 (かみ)(あい)われらに(あらは)れたり。(かみ)はその()(たま)へる獨子(ひとりご)()(つかは)し、我等(われら)をして(かれ)によりて生命(いのち)()しめ(たま)ふに()る。[引照]

口語訳神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
塚本訳神がその独り子を(この)世に遣わし、独り子によって(死ぬべき)わたし達が生きるようになったそのことで、神の愛が(はじめて)わたし達に現わされたのである。
前田訳神の愛がわれらのうちに現われるのは、神がわれらが生きるようにと、そのひとり子を世におつかわしのことにおいてです。
新共同神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
NIVThis is how God showed his love among us: He sent his one and only Son into the world that we might live through him.
註解: 従来とても神の愛は自然界にも人間界にもこれを見ることができた。しかしながらこれは神の愛のいわば末梢である。神の愛の本体、その真相は従来顕わされずに秘められていた。それがイエス・キリストの顕現によりて我らに「顕された」のである。すなわち滅ぶべき我らを永遠の生命に生きさせるために、神はその独生の御子を世に遣わし彼を十字架に()け給うた。この愛こそは人間の思いに余る愛であり、これによりて始めて人類に神の愛が顕されたのである。
辞解
[顕れたり] 客観的の事実としてあらわれたこと(▲▲直訳「顕されたり」)。
[世に] 広き意味での世でヨハ3:16の場合と同じ。

4章10節 (あい)といふは、(われ)(かみ)(あい)せし((こと))にあらず、(かみ)われらを(あい)し、その()(つかは)して(われ)らの(つみ)のために(なだめ)供物(そなへもの)となし(たま)ひし(これ)なり。[引照]

口語訳わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
塚本訳わたし達が神を愛したことではなく、彼がわたし達を愛し、その子をわたし達の罪のための宥め(の供物)として遣わされたそのことに、愛があるのである。
前田訳愛とはわれらが神を愛したことではなく、彼がわれらを愛して、み子をわれらの罪のあがないとしておつかわしのことです。
新共同わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
NIVThis is love: not that we loved God, but that he loved us and sent his Son as an atoning sacrifice for our sins.
註解: ここに愛の本質をさらに説明する。我らも神を愛していなかったわけではなく、実際愛していた。しかしこれは愛と称するに足らざる愛である。真の愛は唯神において在るのであって、彼に敵していた我らをも愛して我らの罪のための(なだめ)の供物とするために(Tヨハ2:2辞解参照)その最愛の独り子を遣わして彼をして十字架上の贖罪の死を遂げさせ給うたことである。この最大の悲劇によりて人類は神と和らぐことを得るに至ったのである。神の愛の深さは到底人間の心をもっては測り難い。
辞解
[我ら神を愛せし] 現在完了形でかつて愛し今も愛していること(異本あり)。
[神われらを愛し、遣し] 不定過去形で歴史上の事実を指す。
[宥の供物] Tヨハ2:2辞解参照。

4章11節 (あい)する(もの)よ、()くのごとく(かみ)われらを(あい)(たま)ひたれば、(われ)らも(また)たがひに(あひ)(あい)すベし。[引照]

口語訳愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
塚本訳愛する者たちよ、神はこのようにわたし達を愛されたのだから、わたし達も互に愛する義務がある。
前田訳親愛な方々、かくも神がわれらをお愛しならば、われらも互いに愛すべきです。
新共同愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
NIVDear friends, since God so loved us, we also ought to love one another.
註解: Tヨハ3:11Tヨハ3:23にも互に相愛すべきことを教えており、本章においても7111221等の諸節にこれを繰返しているのを見ても、ヨハネが如何にこの点を重視したかがわかる。そして兄弟相互の愛の基礎は我らの人情や、利害や、義務心や、道徳心等によらず、神が我らを愛し給い、そして神の子たる我らの互に相愛することを欲し給うが故である。

4章12節 (いま)(かみ)()(もの)あらず、我等(われら)もし(たがひ)(あひ)(あい)せば、(かみ)われらに(いま)し、その(あい)(また)われらに(まった)うせらる。[引照]

口語訳神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。
塚本訳神を見た者は、いまだかつて一人もない。(ただ)わたし達が互に愛するならば、(その時)神はわたし達に留っておられ、(わたし達も神に留っており、)神の愛はわたし達の間で完全になるのである。
前田訳神を見たものはかつてひとりもありませんが、われらが互いに愛するならば、神はわれらのうちにいまし、彼の愛がわれらのうちに全うされます。
新共同いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
NIVNo one has ever seen God; but if we love one another, God lives in us and his love is made complete in us.
註解: 前節を繰返し一読すべし。普通の論法よりすれば「かくのごとく神我らを愛し給いたれば我らもまた神を愛すべし」というべきであるのにかえって「互に相愛すべし」と言いし理由が本節おいて説明されている。すなわち何人も神を見し者はない。ゆえに見えざる神を直接に愛する道はない。唯我らもし互に相愛せば、神が我らの中に住み給い、我らが神に対する愛もこれによりて全くなったのである。互に相愛することなくして神に対する愛は全うされていない。
辞解
[見る] 「神を見る」の「見る」 theaomai についてはTヨハ1:1辞解。
[その愛] 神に対する我らの愛と解すべきである。
本節初句は前節との連絡がなく、甚だ突然に現われているようであるけれども上記のごとくに解する。後節との連絡は明らかである。なお20、21節に本節の具体的記述がある。

4章13節 (かみ)御靈(みたま)(たま)ひしに()りて、(われ)(かみ)()(かみ)われらに居給(ゐたま)ふことを()る。[引照]

口語訳神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。
塚本訳わたし達が神に留っており、彼もわたし達に留っておられることは、彼がその霊をわたし達に分けてくださったそのことで、わかるのである。
前田訳われらが彼のうちにとどまり、彼がわれらのうちにいますことがわれらにわかるのは、彼の霊をわれらにお与えだからです。
新共同神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。
NIVWe know that we live in him and he in us, because he has given us of his Spirit.
註解: ヨハネは本節以下に愛による神との霊交を他の方面より観察を下している。すなわち神が我らに御霊を賜いしことが、神と我らとの間の相互の霊的内住関係が存することの証拠であり、またこの御霊によりてこの関係を知ることができる(Tヨハ3:24とほぼ同一なり)。
辞解
[御霊を賜ひし] 「御霊を頒け与えし」。

4章14節 (また)われら(ちち)のその()(つかは)して()救主(すくひぬし)となし(たま)ひしを()て、その(あかし)をなすなり。[引照]

口語訳わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。
塚本訳わたし達は(このことを)見たので証しをする。──父がその子を世の救い主として遣わされたことを。
前田訳われらは、父がみ子を世の救い主としておつかわしのことを見て証します。
新共同わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
NIVAnd we have seen and testify that the Father has sent his Son to be the Savior of the world.

4章15節 (おほよ)そイエスを(かみ)()()ひあらはす(もの)は、(かみ)かれに()り、かれ(かみ)()る。[引照]

口語訳もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。
塚本訳イエスが神の子であることを告白すれば、その人に神は留っておられ、その人も神に留っている。
前田訳イエスが神の子にいますと告白するならば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにとどまります。
新共同イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。
NIVIf anyone acknowledges that Jesus is the Son of God, God lives in him and he in God.
註解: 14節には9節と同一の事柄を繰返して神の愛を示し、これを受けて15節にイエスを神の子救い主と信ずる者が神の内住を受け神との霊交を保つことを示す。すなわち13節において御霊を与えられること、14、15節において神の子を信ずることが共に神との霊交の基礎たりまたその証拠たることを示す(B1)。

4章16節 (われ)らに(たい)する(かみ)(あい)(われ)(すで)()り、かつ(しん)ず。(かみ)(あい)なり、(あい)()(もの)(かみ)()り、(かみ)(また)かれに居給(ゐたま)ふ。[引照]

口語訳わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。
塚本訳わたし達は神がわたし達に対して持たれる愛を、知りまた信じているのである。神は愛である。愛に留っている者は神に留っており、神も彼に留っておられる。
前田訳そしてわれらは神がわれらのうちにお持ちの愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにあるものは神のうちにあり、神はその人のうちにいまします。
新共同わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
NIVAnd so we know and rely on the love God has for us. God is love. Whoever lives in love lives in God, and God in him.
註解: 互に相愛する場合(12節)、御霊を与えられし場合(13節)、神の子を信ずる場合(14、15節)の外に「神の愛に居る」者すなわち神の大愛の中にその全身を投げかける者も同様に神との霊交に生きる者である。キリスト者は9節に述べられしごとき神の愛を福音によって知りかつ信じている者であるが単に知りかつ信じているのみにてはヨハネの思想の極致を言表わすに足りない。それ故にこの神の愛にいることをヨハネはここに薦めているのである。
辞解
[知りかつ信ず] ヨハ6:69の「信じかつ知る」と異なる。後者はイエスの神の子に在し給うことを指し、信ぜずしてこれを知ることができない。前者は神は愛なりとの事実であって福音によってこれを知って彼を信じるに至る。この二者を混同することは(C1)は誤りである。

4章17節 かく(われ)らの(あい)完全(まったき)をえて、審判(さばき)()(おそれ)なからしむ。我等(われら)この()にありて(しゅ)(ごと)くなるに()る。[引照]

口語訳わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。
塚本訳(そして最後の)裁きの日にわたし達が(喜びの)確信を持っていることによって、わたし達の側の愛は完全にされるのである。というのは、彼(イエス)が(神に、神も彼に留って)おられるため、(彼の愛が完全であるように、)わたし達(の愛)もこの世で同じくあり得るからである。恐れは愛にはない。
前田訳われらにとって愛が全うされるとは、裁きの日に確信を持つことです。われらにそれができるのは彼が愛にいますようにわれらもこの世で愛であるがゆえです。愛にはおそれがありません。
新共同こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
NIVIn this way, love is made complete among us so that we will have confidence on the day of judgment, because in this world we are like him.
註解: 私訳「我らこの世にありて主のごとくなるに因り、愛は我らにおいて完全を得て審判の日に懼なきを得」、愛におる者は主におり(16節)、かつ主は永遠に愛に在し、今も愛に在し給うが故に、我らもこの世に在りて愛の中にいることによって主のごとくなるのである(16節)。この事実によって、我らにおいて神と人とに対する愛が全きを得(その到達すべき点に到達し)神との間に何らの背反なく人に対して罪を犯さず(Tヨハ3:6)、従って審判の日に何らの懼れも有り得ない状態、すなわち絶対に安心の心境に到達しているのである。
辞解
本節を改訳本文のごとくに訳す時はやや無理がある。すなわち「斯く」は何を受けるかにつき不明であり、全体の意味も不確実となる。「我らの愛」は「愛我らにおいて」と訳すべきである。この「愛」を神の我らに対する愛と解する説あれど(C1、L1)不可なり。「我らの神および人に対する愛」と解す。「此の世にありて主の如くなる事」は前後の関係上主の愛のごとくなることをいうものと解する。なお(1)主の義(A1)、(2)主の神との霊交、(3)主の試誘(こころみ)、(4)主の神の子たること等と解する説あれど不適当なり。本節の他の訳し方につきてはA1を見よ。

4章18節 (あい)には(おそれ)なし、(まった)(あい)(おそれ)(のぞ)く、(おそれ)には苦難(くるしみ)あればなり。(おそ)るる(もの)は、(あい)いまだ(まった)からず。[引照]

口語訳愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。
塚本訳完全な愛は(平安で、すべての)恐れを追い払う。というのは、恐れは(つねに最後の裁きの日)の刑罰と関係があるのであって、恐れる者は(まだその)愛において完全になっていないのである。
前田訳全き愛はおそれを除きます。おそれは罰につながります。おそれるものは愛について不完全です。
新共同愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
NIVThere is no fear in love. But perfect love drives out fear, because fear has to do with punishment. The one who fears is not made perfect in love.
註解: 神に対しまた人に対して全き愛をもって生きる者は、前節に示すごとく審判の日に対する恐怖をその心から駆逐してしまう。この恐怖は現在においては良心の呵責としての苦痛を伴い、愛の生活の如何にも歓喜に充つるのとは正反対である。心にこの懼れを感ずる者はその愛が未だ全からざることを示すものと見て差支えない。
辞解
[愛] 神が我らを愛する愛と解し(B1、C1)神の愛によって義とされしことを信じる者は懼れなきことの意味に解する説があるけれども適当ではない。殊に後半にとって適合しない。前後の関係上この場合も「愛」は信者自身の愛と見るを可とす。神に対する愛と相互に対する愛との双方を含むと解すべきであるけれどもその中後者が主となっている。
[懼れる] ここでは心の中の不安恐怖を指す、神に対する畏敬の念を意味しない。
[除く] 原語「外に投げ棄てる」。
[苦難] kolasis は懲戒的意義を有する苦痛について用いる。

4章19節 (われ)らの(あい)するは、(かみ)まづ(われ)らを(あい)(たま)ふによる。[引照]

口語訳わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。
塚本訳わたし達は(神を)愛しよう。彼が先にわたし達を愛されたのだから。
前田訳われらが愛するのは、彼がまずわれらを愛したもうからです。
新共同わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
NIVWe love because he first loved us.
註解: 17、18節に叙べし「全き愛」は本来我らより出でしものではなく、9、10節に示せるごとき神の愛によって我らの心が砕かれ、新たにされるためである。神の愛我らの心に注がれて我らも愛するに至るが故にこの愛は力強くその源は深遠である、「我らの愛する」は兄弟愛のみにあらず神に対する愛をも含むこと前節に同じ(M0)。
辞解
本節を「神先ず我らを愛し給いたれば我ら愛すべし」と読むこともできるけれども不可(A1、B1、C1、E0、M0、H0)。

4章20節 (ひと)もし『われ(かみ)(あい)す』と()ひて、その兄弟(きゃうだい)(にく)まば、これ(にせ)(もの)なり。(すで)()るところの兄弟(きゃうだい)(あい)せぬ(もの)は、(いま)()(かみ)(あい)すること(あた)はず。[引照]

口語訳「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。
塚本訳もし「神を愛する」と言いながら、兄弟を憎む者があったら、(その人は)嘘つきである。見た兄弟を愛さない者は、見たことのない神を愛することは出来ないから。
前田訳神を愛するといって兄弟を憎むものは偽りものです。見えるおのが兄弟を愛せぬものは見えぬ神を愛せません。
新共同「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
NIVIf anyone says, "I love God," yet hates his brother, he is a liar. For anyone who does not love his brother, whom he has seen, cannot love God, whom he has not seen.
註解: 口に「われ神を愛す」と言う者の真偽はその信仰の兄弟に対する態度によりて決定する。現実目前にいる兄弟を愛さない者はたとえ神を愛していると主張してもそれは虚偽である。愛の行為は我らの内なる心の外部に対するあらわれである。そして「見ぬ者は日々に(うと)し」の俚諺(ことわざ)のごとく我らの心は眼前に見えるものに対して動き易く、見えざるものに対しては冷淡になりやすい。それ故に愛し易き兄弟をすら愛せずして、愛し難き神を愛することはできない。かかる意味において兄弟愛は神に対する愛の証拠である。

4章21節 (かみ)(あい)する(もの)(また)その兄弟(きゃうだい)をも(あい)すべし。我等(われら)この誡命(いましめ)(かみ)より()けたり。[引照]

口語訳神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。
塚本訳神を愛する者は兄弟をも愛すべきであるというこの掟を、わたし達は神から受けたのである。
前田訳彼からお受けしたいましめとは、神を愛するものは兄弟をも愛せよ、です。
新共同神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
NIVAnd he has given us this command: Whoever loves God must also love his brother.
註解: 見える兄弟を愛することの如何に必要であるかは、我らが旧約聖書に神を愛し兄弟を愛すべきことが神より命令されていることよりこれを知ることができる。ゆえにこの命令を発し給える神を愛するならば必ずこの命令を実行するはずである。
要義1 [神の愛の顕現]4:9。21。神の愛はキリストによってこの世に現われた。それ以外の事実によっては真の神の愛を知ることができない。人間の力をもってする悟りと神の黙示を信ずる信仰の差別はここにある。人は悟りによって神の愛を知ることができない。唯神の黙示によってのみ真の愛の何たるかを知ることができる。
要義2 [真の愛]キリスト教は「愛」なる語の濫用に陥る危険がある。神がその最も愛しみ給う独り子を我らのために与え賜いしこと、しかも彼を十字架に釘付けてまでも我らの罪を贖わんとし給うこと、それが「愛」の名に相応しき愛である。真に愛し易からざる敵を愛し得るに至って我らは始めて愛を云々することができる。然らざれば「愛」について語る資格がない。
要義3 [神我にあり我神にある]12−16節に我ら神にあり神我らにあり給う生活につき述べられているのを見る。この神に在る生活は神秘的恍惚境に在る経験ではなく、極めて具体的、実際的の状態である。すなわち(第一)に互に相愛すること(12節)、(第二)にイエスを神の子と言い表すこと(15節)、(第三)に愛にあることである(16節)。そしてこの霊的交通の事実は神より与えられし聖霊によってこれを知ることができる(13節)。これらの一つを欠くものはキリスト者ではない。これらはキリスト者たる者のイエスに在る生命の自然の表顕である。それ故にこの三つの条件を具備して然る後神我らの中に来り給うというのではなく、これらは凡て神と共にあり神との交わりに生きる者の生涯そのものである。原因結果の関係ではなく体と用、本質と活動との関係である。
要義4 [愛と懼]ソクラテースはその信ずる正義の上に立ちて死をも懼れなかった。いわんや真の愛は正義の総計であってその完成である以上(ロマ13:10)これに懼れのあるべきはずはない。而して愛の心は平安と歓喜とに充たされており、何物をも懼れない充実さがある。ゆえに愛ある者は懼れがその心に入る余地がない。

第1ヨハネ書第5章
1-13 イエスをキリストと信ずるもの 5:1 - 5:12

5章1節 (おほよ)そイエスをキリストと(しん)ずる(もの)は、(かみ)より(うま)れたるなり。おほよそ(これ)()(たま)ひし(かみ)(あい)する(もの)は、(かみ)より(うま)れたる(もの)をも(あい)す。[引照]

口語訳すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。
塚本訳どんな人でも、イエスが救世主であると信ずる者は、神(の力)によって生まれたのであり、またどんな人でも、自分を生んでくださったお方を愛する者は、彼(の力)によって生まれた者(、すなわち同じ父から生まれた者)を愛する。
前田訳だれでもイエスはキリストであると信じるものは神からの生まれです。だれでも産みの親を愛するものは彼から生まれたものを愛します。
新共同イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。
NIVEveryone who believes that Jesus is the Christ is born of God, and everyone who loves the father loves his child as well.
註解: キリスト者は神の子であり、従って相互は神の家族である。そこに親子の間の愛と兄弟の間の愛がなければならぬ。イエスをキリスト神の子と信ずることは神によりて新たに生れし人すなわち神の子にのみ可能である(ヨハ1:13ヨハ3:3)。子たる以上は当然その生みの親たる神を愛するはずであり、またこの神を愛する以上は当然その同じ神より生れたる他のキリスト者をも愛するはずである。すなわちキリスト者の相互の愛はその新生命の当然の発露であり、そしてこの新生命はイエスをキリストと信ずる信仰にその実体を見出す。ただしここでヨハネは我らの愛を信徒同志に限るべきことを教えたのではない。

5章2節 我等(われら)もし(かみ)(あい)して、その誡命(いましめ)(おこな)はば、(これ)によりて(かみ)子供(こども)(あい)することを()る。[引照]

口語訳神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。
塚本訳神を愛し、その掟を行う時、そのことによって、わたし達は神の子(なる兄弟)たちを愛していることがわかるのである。
前田訳われらが神を愛してそのいましめを行なうときに、神の子らを愛することがわかります。
新共同このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
NIVThis is how we know that we love the children of God: by loving God and carrying out his commands.
註解: 神を愛してその誡めを守ることは兄弟愛のある証拠である。信仰の兄弟互に相愛する以上はその共通の父なる神を愛し、その誡命を守るはずであるから。なおTヨハ3:17Tヨハ4:12Tヨハ4:20、21等には兄弟愛があることが神を愛することの証拠であるように録されているので本節とちょうど正反対になるのでこれを種々に解せんとしているけれども、しかしこの両者は矛盾ではなく一つの生命の顕われであり、この双方ともそのままに真理である。一は互に他の証拠となる。

5章3節 (かみ)誡命(いましめ)(まも)るは(すなは)(かみ)(あい)するなり、[引照]

口語訳神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。
塚本訳神の掟を守ること、それが神を愛することだからである。そしてその掟は、むずかしいものではない。
前田訳神への愛とはわれらが彼のいましめを守ることです。そしてそのいましめは重荷ではありません。
新共同神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。
NIVThis is love for God: to obey his commands. And his commands are not burdensome,
註解: 前節前半(原語で後半)の説明「神を愛してその誡命(いましめ)を守る」といえばこの二者別々のことのように見えるけれども実は同一のことであって、この二者を区別することができない。ゆえに神を愛すといえばそれは誡命(いましめ)を守るということとなる。この二者を別々のことのように考えてはならない。

(しか)してその誡命(いましめ)(かた)からず。

註解: 神の誡命(いましめ)を守るといえばいかにも困難なことのように思うであろうけれども、それは決して負い難き重荷ではない。必要なる力は神によりて与えられる。要義二参照。
辞解
[難からず] 「bareiai」ならず、この語は負い切れない重荷につきて用う。ガラ6:5辞解「荷」の項参照。

5章4節 おほよそ(かみ)より(うま)るる(もの)()()つ、()()[つ](ちし)勝利(しょうり)(われ)らの信仰(しんかう)なり。[引照]

口語訳なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
塚本訳というのは、すべて神(の力)によって生まれたものは、(掟に反抗する)この世(の悪の力)に勝っているからでる。そしてこの世に勝った勝利、それはわたし達の信仰。
前田訳だれでも神から生まれたものは世に勝つからです。そして、世に勝つ勝利とはわれらの信仰です。
新共同神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
NIVfor everyone born of God overcomes the world. This is the victory that has overcome the world, even our faith.
註解: 「神より生れる者」は5:1よりイエスをキリストと信ずる者であることがわかる。そしてこのことは次節において確められている。かかる者はいかに世の力が強くともこれに勝つことができる。何となれば「汝らに居給う者は世に居る者より大」(Tヨハ4:4)でありイエスはサタンに勝ち給うたからである。我らがすでに世に勝っているのは、この信仰によるのである。神の子を信じていながら世に勝っていない者はあるはずがない。
辞解
[者] ヨハ3:6と同じく中性で一般的の「もの」を指す、ただし主として人間を意味すること勿論である。
[世に勝つ勝利] 不定過去分詞を用いている故、「勝ちし」と訳するを可とす(A1、M0)。現在の意味に解し得ないことはないけれども本節の語勢より見て不適当である。なお要義参照。「世」はサタンを支配者とし神の民に敵する全精神と全存在を指す。

5章5節 ()()つものは(たれ)ぞ、イエスを(かみ)()(しん)ずる(もの)にあらずや。[引照]

口語訳世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。
塚本訳では、だれがこの世に勝つのであるか、イエスは神の子であると信ずる者でなくして。
前田訳イエスが神の子であると信ずるものでなくて、だれが世への勝利者でしょう。
新共同だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
NIVWho is it that overcomes the world? Only he who believes that Jesus is the Son of God.
註解: すでに世に勝ちし者はまた日々に世と戦ってこれに勝ちつづける(現在分詞)。そしてかくのごとき勝利を()ち得る者はイエスを神の子と信ずる者(Tヨハ2:22Tヨハ3:23Tヨハ5:1)、全心全霊をもって神の子イエスに依り頼む者である。「信ずる者はみな、そして信ずる者のみ、世に勝つ」(B1)。これイエスに在ることによってこの世の凡ての物に優る宝を得ているからである(ピリ3:8以下)。

5章6節 これ(みづ)()とに()りて(きた)(たま)ひし(もの)(すなは)ちイエス・キリストなり。(ただ)(みづ)のみならず、(みづ)()とをもて(きた)(たま)ひしなり。[引照]

口語訳このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。
塚本訳彼こそ水と血とを経て来られた方、イエス・キリストである。ただ水をもってばかりでなく、水をもってまた血をもって(、こられたのである)。(彼が受けられた洗礼の水と、十字架の上に流された血が、彼を神の子と証しするのである。)また御霊(弁護者)が(まことの)証しをする者である。御霊は真理であるからである。
前田訳水と血とによっておいでの方は、彼イエス・キリストです。水だけでなく、水と血とです。霊が証をします。霊がまことだからです。
新共同この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。
NIVThis is the one who came by water and blood--Jesus Christ. He did not come by water only, but by water and blood. And it is the Spirit who testifies, because the Spirit is the truth.
註解: 次に6−12節においてヨハネはイエスは神の子キリストであることの証明を必要とした。このイエスはバプテスマのヨハネより「水」にてバプテスマを受けし際その神の子たることを示し(ヨハ1:31、33、34)、十字架上に贖罪の「血」を流して真に神の子たることをあらわし給える者である。すなわちその生涯とその死とが凡てイエスの神の子キリストに在し給うことを証拠立てている。「(ただ)に水のみならず」と注意せる所以は仮現説(Docetism)のごとくイエスはバプテスマによりて一時キリストを宿し、その死の前にキリストはイエスを離れ給うたと解せんとする説に対する駁撃(ばくげき)である。すなわちイエスは徹頭徹尾神の子に在し、その証拠たるべき著しき事件は水のバプテスマと十字架の死であるとの意味である。
辞解
[水と血] 難解なために種々多様の解釈あり、その中主なるものは(1)十字架上にイエスの流し給える血と水(ヨハ19:34)、(2)キリストの定め給える洗礼と聖餐式、(3)ヨハネのバプテスマと十字架の血、(4)イエスの肉体の構成要素等およびこれらを併合せるもの等種々あり。上掲註のごとくに見ることが最も適当である(A1、M0)。

5章7節 (あかし)する(もの)御靈(みたま)なり。御靈(みたま)眞理(まこと)なればなり。[引照]

口語訳あかしをするものが、三つある。
塚本訳なぜ(水と血とのほかに、御霊の証しがいる)か。(モーセ律法により)証しをする者は三人で、
前田訳証するものに三者あります。
新共同証しするのは三者で、
NIVFor there are three that testify:
註解: (原書は多くこの部分を6節の中に入れている)「水」と「血」すなわちイエスの全生涯が彼の神の子に在し給うことを証するのみならず、さらに「御霊」が直接我らにイエスの神の子に在し給うことを証する。父より賜わる御霊によるにあらずばイエスをキリストと言い表わすことができない(Tヨハ4:2マタ16:17Tコリ12:3)。その故は御霊は真理そのものである故我らの中に真理そのものに在し給うイエスを証することができるからである。この御霊は永続的に我らのために証をする(ヨハ15:26ヨハ16:13、14)。

5章8節 (あかし)する(もの)()つ、御靈(みたま)(みづ)()となり。この()()ひて(ひと)つとなる。[引照]

口語訳御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。
塚本訳御霊と水と血である。そしてこれら三つが一つにな(り、イエスが神の子キリストであることを証しす)るのである。
前田訳霊と水と血とです。そして三者はひとつになります。
新共同“霊”と水と血です。この三者は一致しています。
NIVthe Spirit, the water and the blood; and the three are in agreement.
註解: 御霊は内より、水と血とは外より一つの事すなわちイエスのキリストなることを証しすることにおいて相一致する。イエスの生涯を見また御霊が我らの心に証する証を聞くことによりこの事実は疑い得ざることとなる。なお附記参照。
辞解
[証する者は三つ] 原本では7節をなす。
[合ひて一つとなる] 一つのことに一致する意味。一つのことはイエスのキリストなること。

5章9節 我等(われら)もし(ひと)(あかし)()けんには、(かみ)(あかし)(さら)(おほい)なり。[引照]

口語訳わたしたちは人間のあかしを受けいれるが、しかし、神のあかしはさらにまさっている。神のあかしというのは、すなわち、御子について立てられたあかしである。
塚本訳もし人の証しを(真実なものとして)受けいれるならば、(御霊と水と血とによる)神の証しは、もっと有力である。なぜなら、これは神の証しであり、彼が御子について証しをされたのだからである。
前田訳われらは人の証を受けますが、神の証のほうが偉大です。神の証とはみ子についておあかしのものです。
新共同わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。
NIVWe accept man's testimony, but God's testimony is greater because it is the testimony of God, which he has given about his Son.
註解: この「人の証」も「神の証」も単に一般的に言えるなり。普通一般の社会生活において我らは人の証を受けて信ずるくらいであるから、ましてこれよりもさらに大なる神の証の一層信ずべきことは勿論である。そして前節の御霊と水と血との三者はみなこれを神の証と称することができる。

(かみ)(あかし)はその()につきて(あかし)(たま)ひし(これ)なり。

註解: 神の証はその子に関する証であって、イエスが神の子に在し給うことは、神御自身の証明を持っている厳然たる事実である(その内容は11節に詳記される)。ヨハネはここにイエスのキリストなることは人間的証明ではなく神の直接の証明であり、従ってこれを拒む者は神を拒む者なることを強調せんとしているのを見る。

5章10節 (かみ)()(しん)ずる(もの)はその(うち)にこの(あかし)をもち、(かみ)(しん)ぜぬ(もの)(かみ)(にせ)(もの)とす。これ(かみ)その()につきて(あかし)せし(あかし)(しん)ぜぬが(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。
塚本訳(そしてこの神の証しによって)神の子を信ずる者は、(ただ外の証しばかりでなく、)自分の中に(その)証しを持つのである。(これに反して)神を信じない者は、神を嘘つきにしたのである。神が御子について証しされた証しを信じなかったからである。
前田訳神の子を信ずるものは自らのうちにこの証を持ちます。しかし神を信ぜぬものは神を偽りものにします。神がみ子についておあかしのことを信じないからです。
新共同神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。
NIVAnyone who believes in the Son of God has this testimony in his heart. Anyone who does not believe God has made him out to be a liar, because he has not believed the testimony God has given about his Son.
註解: イエスのキリストなることは神の御霊の証によりて保証せられていることである故、イエスを信ずる者は、その心の(うち)に明らかにこの神の証をもつ。これに反しイエスをキリストと信じない者は神を信じない者であって、極言すれば神をもって虚偽者とするの冒涜を敢えてしているのである。これ神がその御子につきて為し給う証を信じないからである。

5章11節 その(あかし)はこれなり、(かみ)永遠(とこしへ)生命(いのち)(われ)らに(たま)へり、この生命(いのち)はその()にあり。[引照]

口語訳そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。
塚本訳そして(神の)証しというのはこれである。──(わたし達が御子を信じたとき、)神が永遠の命を与えられたこと、この命は御子がもっておられるということである。
前田訳証というのは神がわれらに永遠のいのちをお与えのことです。このいのちはみ子のうちにあります。
新共同その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。
NIVAnd this is the testimony: God has given us eternal life, and this life is in his Son.
註解: 主観(我らの(うち)に与えられたる永遠の生命)と、客観(キリストとして顕われし永遠の生命)とがヨハネに在りては二つにして一つであった。イエスに対する信仰はイエスを我がものとする。すなわち神の賜物としてキリストを自分の(うち)に受ける。そしてキリストは永遠の生命なる故(Tヨハ1:2Tヨハ5:20)、我らにこの永遠の生命が与えられたこととなる。この事実はこれを信ずる者にとって疑うことができない確かなる事柄であって、これすなわち神の証であると言わなければならぬ。

5章12節 御子(みこ)をもつ(もの)生命(いのち)をもち、(かみ)()をもたぬ(もの)生命(いのち)をもたず。[引照]

口語訳御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。
塚本訳(だから、)御子を持つ者は(永遠の)命を持ち、神の御子を持たない者は命を持たない。
前田訳み子を持つものはいのちを持ちます。神の子を持たぬものはいのちを持ちません。
新共同御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
NIVHe who has the Son has life; he who does not have the Son of God does not have life.
註解: 神の子イエス・キリストがすなわち永遠の生命である故、彼をもつと否とによりて生命の有無が決定する。要するにイエスをキリストと信ずること(Tヨハ5:1)と永遠の生命を有つこととは同一事の異なれる表顕である。キリストなしに永遠の生命はない。単に主観的なる神秘主義的なる永遠の生命はヨハネの考えと異なる。
辞解
「御子」と「神の子」とに言い分けたことは別段の理由なきものと思われる。後者は一層不信者を恐れさせるため(B1)と見る説もあるけれども同意し難い。
要義1 [イエスをキリストと信ずること]これがすなわちヨハネの信仰の本体である。かかる者は(1)神より生れし神の子であり(1節a)、(2)従って神の子たちを愛する者であり(1節b)、(3)また神の誡命を守り(2、3節)、(4)世に勝ち(4、5節)、(5)神によりて証され(6−10節)、(6)永遠の生命をもつ(11、12節)。そしてこの数ヶ条の示す事柄はことごとくみな信仰的生命の状態またはその活動であって、もしこの中の一つを欠くものがあるならばそれは真の信仰ではない。またこれらは互に因となり果となって動いているのであって、決して個々独立の存在ではない。
要義2 [世に勝ちし勝利]信仰の戦いも他の戦いの場合と同じく、戦って後始めて勝つのは勝利の上乗なるものではない。戦う前にすでに勝っているのが真の勝利である。キリスト者はキリストに在りてすでに世に勝っている者である。従って日毎の戦いにおいても必ず勝つことができる。「世に勝ちし勝利は我らの信仰なり」(Tヨハ5:4)はかかる心持を最も適切に表顕したものである。
要義3 [誡命は難からず]Tヨハ5:3に「而してその誡命(いましめ)(かた)からず」とあるは果して事実なりや。ロマ7:14以下のパウロの苦闘を見、その他我ら自身、肉の力が如何に強く我らに働きて、我らをして誡命(いましめ)を守ることの至難なるかを思わしむるかを考える時この言は事実にあらざるかのごとくに見える。しかしながらヨハネはキリストにありて世に勝つ処の活躍する生命そのものを描写しているのであって、Tヨハ3:9の場合と同じく、すべての肉の力に打勝ちて余りある信仰の姿をここに記載しているのである。カルヴィンのごとくこの一節を弱めて解釈することはヨハネの本旨に反する。
附記 5:7、8について]異本(元訳参照)に「(7)天に於いて証する者は三つ、父と言と聖霊となり、此の三つは一つなり、(8)又地に於いて証する三つ、御霊と水と血となり此の三つ合ひて一つとなる」とあり、またこの二節を前後せるラテン文の写本あり、カルビンは前者により、ベンゲルは極力後者を主張しているけれども、この部分は後世の加入が混じっていることは確かであって十六世紀より以前のギリシャ語写本には全くこれを欠き古代教父もこれを引用せず、ラテン訳にも古き写本にはこれを欠く故、これを除く方が適当である。これらの文言が加わることにより一見全体が理解し易くなるごとくに見えるけれども、実は然らず、現行改訳本文のままにてヨハネの言わんとする処が最もよく表わされているのである。

1-14 他人のために祈れ 5:13 - 5:17

5章13節 われ(かみ)()()(しん)ずる(なんぢ)らに(これ)()のことを()(おく)るは、(なんぢ)らに[(みづか)ら]永遠(とこしへ)生命(いのち)()つことを()らしめん(ため)なり。[引照]

口語訳これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。
塚本訳このことをあなた達に書いたのは、あなた達は(イエスを)神の子として信じているので、すでに永遠の命があることを知らせるためである。
前田訳このことをお書きしたのは、あなた方が永遠のいのちをお持ちのことを確認なさるためです。あなた方は神の子のみ名をお信じですから。
新共同神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。
NIVI write these things to you who believe in the name of the Son of God so that you may know that you have eternal life.
註解: ヨハネがこの書簡を(したた)めし目的は、その受信人がみな主の御名を信ずる信仰の所有者であるので、彼らに永遠の生命を有たしめんためではなく、すでにこれを有つことを知らしめんためであった。キリスト者は往々にして自己の中に神が賜いし賜物のいかに大きいかを忘れている。
辞解
異本には「また神の子の名を信ぜしめんためなり」との添加があるけれどもその必要がない。

5章14節 (われ)らが(かみ)(むか)ひて確信(かくしん)する(ところ)(これ)なり、(すなは)御意(みこころ)にかなふ(こと)(もと)めば、(かなら)()(たま)ふ。[引照]

口語訳わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。
塚本訳そして、もし神の御心に従って何かを求めるならば、神は(かならず願いを)聞いてくださること、それが神に対して持っているわたし達の確信である。
前田訳われらが神に対して持つ確信とは、み心に従って求めれば、神はわれらにお聞きになることです。
新共同何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。
NIVThis is the confidence we have in approaching God: that if we ask anything according to his will, he hears us.
註解: 14、15節は16、17節を引き出す前提で、祈祷の効果を前もって示している。神の子を信ずることにより永遠の生命を有つ者はまた他人のためにもこの生命が与えられんことを祈るのが当然である(16節)。そしてこのことは神の御旨に叶うことである故(死に至る罪は然らず)神は必ずこの祈りを聴き給うことの確信を持つことができる。
辞解
[確信] parrhêsia Tヨハ3:21Tヨハ4:17の「懼なし」と同語、大胆さを意味す。キリスト者にはこの大胆なる心をもって神に近付くことを必要とする。

5章15節 かく(もと)むるところ、何事(なにごと)にても()(たま)ふと()れば、(もと)めし(ねがひ)()たる(こと)をも()るなり。[引照]

口語訳そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。
塚本訳かくしてわたし達は、神はかならずわたし達の求める願いを聞いてくださることを知っているならば、求めた(すべての)求めを(すでに)得ていることを知っているのである。
前田訳われらの求めをお聞きになることがわかれば、彼に求めたものを得ていることがわかります。
新共同わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。
NIVAnd if we know that he hears us--whatever we ask--we know that we have what we asked of him.
註解: キリスト者と神との関係はかかる絶対的親密さを有し、その間に少しの間隙(かんげき)も、疑惑も、不安もない。祈りによりて求むることは、もしそれが神の御旨にかなうことである以上、未だ得ざる前よりすでにこれを獲得した心持でいることができるのが、真の信頼の姿である。偉大なる信仰である。
辞解
[求めし願] 直訳「彼に求めし願い事」。
[得たる] 直訳「持つ」で現在所有していること。

5章16節 (ひと)もし()兄弟(きゃうだい)()(いた)らぬ(つみ)(をか)すを()ば、(かみ)(もと)むべし。さらば(かれ)に、()(いた)らぬ(つみ)(をか)人々(ひとびと)生命(いのち)(あた)(たま)はん。[引照]

口語訳もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。
塚本訳もしだれかが、死に至らない罪を犯す兄弟を見たら、(神に祈り)求むべきである。そうすれば(その人は)彼に命を与える。(ただし、これは)死に至らない罪を犯す者のことである。死に至る罪がある。わたしはそんな(罪を犯す)者のために願えと言うのではない。
前田訳もし兄弟が死に至らぬ罪を犯すのを見れば、神にお祈りなさい。神はいのちをお与えでしょう。これは死に至らぬ罪を犯す人々についてです。しかし死に至る罪があります。これについては祈れとは申しません。
新共同死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。
NIVIf anyone sees his brother commit a sin that does not lead to death, he should pray and God will give him life. I refer to those whose sin does not lead to death. There is a sin that leads to death. I am not saying that he should pray about that.
註解: キリスト者が故意にキリストに叛かないかぎり、その罪は彼を死に至らしめない。彼のためにキリスト助け主あり、彼を神の前に執成(とりな)し彼にその生命を与えてこれを確保し給う。罪はもしこれを悔改めることによりて神との交わりを回復しないならば当然に人々を死に至らしめる。しかしながらキリストに叛かないかぎり如何なる罪といえども回復が可能である(附記参照)。
辞解
[兄弟] 信仰の兄弟。
[求む] aiteô は次の「請ふ」 erôtaô と異なる。前者は(ひく)き者が高き者に対し切に嘆願する場合、後者は対等の者が請求するがごとき場合に用う。
[与え給はん] 主語なき故これを「神与え給わん」と解する説と「神に求むる人これを与えん」と解する読み方とがある(M0、H0、G1)。前者が優る。▲「罪を犯す人々」と複数にしてあるのは、「彼は勿論、彼以外に死に至らぬ罪を犯す人々があれば、その人々にも・・・・・・」。

()(いた)(つみ)あり、(われ)これに()きて()ふベしと()はず。

註解: 「死に至る罪」につきては附記参照。かかる罪は人の肉の弱さによるにあらず、サタンと同じく神に対する積極的反逆の立場にある故、かかる者は故意に悔改めを拒否しており、従って彼らは死の中にいる。かかる者に対して生命を与えられんことを請うことは全く無効であり間違っている。ヨハネはこの場合神に請うことを禁じたのではなく、請うことを命じないことを明らかにしたのである。神の御意に叶わないこと故(14節)これを神に請うべきではない。
辞解
「請ふ」を用いし所以は死に至る罪に対しては到底その赦しを熱心に「求むること」などは思いもよらないことであり、これを単純に「請ふ」ことすら不似合であることを示す。

5章17節 (すべ)ての不義(ふぎ)(つみ)なり、されど()(いた)らぬ(つみ)あり。[引照]

口語訳不義はすべて、罪である。しかし、死に至ることのない罪もある。
塚本訳どんな不義でも罪である。しかし、死に至らない罪がある。
前田訳すべて不義は罪ですが、死に至らぬ罪もあります。
新共同不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。
NIVAll wrongdoing is sin, and there is sin that does not lead to death.
註解: 「罪の払う値は死なり」(ロマ6:23)とある以上凡ての不義すなわち罪は死であるはずであるが、ヨハネはいかに律法に反せる不義であっても、これを悔改むることによりて死を免れることができることをここに教えているのである。
附記 [死に至る罪]この語によりてヨハネが何を意味しているかにつきて多くの説がある。
一. 旧約聖書をラビが解釈する場合これを「死に至る罪」と「死に至らぬ罪」とに区別した。前者はレビ18:6−29。レビ20:9−21。民15:30、31等の死罪または国外追放の罪に相当するものである。これを引用して「死に至る罪」を死刑の宣告または教会よりの破門の宣告を受くべき罪と解す。
二. ヤコ5:14、15。Tコリ11:30の場合のごとく疾病または死をもって神より罰せられるごとき罪と解す。
三. バプテスマを受けし後の姦淫の罪。
等種々に解せられているけれども本文前後の関係より考えるにこの罪は(a)肉体的の死を意味せず霊的死を意味し、これによって霊的の永遠の生命と対立せしめていること故、一、二の解は当らない。(b)読者が直ちに理解し得た罪と解すべきである故文章の前後の関係より推定し得べきものなることを要し、従って三の解は当らない。(c)キリストを有つことは生命をもつことである故(12節)死に至る罪は生命を持たず、従ってキリストを拒む罪である。(d)ただし16節に「死に至らぬ罪を犯すを見ば」とあり、他の人々にも見えるごとくに行為に表われた罪であることを必要とする。
以上の諸点より考えるならば、キリストが神の子であることを聖霊によりて示されていながら、キリストに反対し、福音を否定し、またはキリストに敵する者(Tヨハ2:18−20)のごときは死に至る罪に陥っている者である。マタ12:31以下の聖霊に逆らう罪もこれと同一の罪であり、ヘブ6:4−5のごときもこれに近い。死に至る罪とはかくのごとく、充分の知識を具有していながら公然とキリストに背く罪である(A1参照)。

1-15 真のキリスト者 5:18 - 5:21

5章18節 (すべ)(かみ)より(うま)れたる(もの)(つみ)(をか)さぬことを(われ)らは()る。[引照]

口語訳すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。
塚本訳わたし達は知っている、(前に言ったように、)すべて神(の力)によって生まれた者は罪を犯さないことを、否、神(の力)によってお生まれになった方(キリスト)がその人を守られるので、悪者[悪魔]はその人にさわらないことを。
前田訳われらは、神から生まれたものはだれも罪を犯さぬことを知っています。神からお生まれの方がその人を守り、悪ものはその人にさわれません。
新共同わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。
NIVWe know that anyone born of God does not continue to sin; the one who was born of God keeps him safe, and the evil one cannot harm him.
註解: 形式的には16、17節を受けて次節に連絡する一節であるが内容としては新たなる最終段落の始めである。この断言は一見前二節と矛盾するがごときもTヨハ3:6−10の場合と同じく外観の矛盾を問題とせず新生命の本質を断定的に描写したのである。従って罪はキリスト者の本質に対して、全く有り得べからざるものであることが解る。これを「死に至る罪を犯さぬこと」(C1)とか、または「罪を犯す状態に留在していないこと」等と解するはヨハネの真意の歪曲である。

(かみ)より(うま)(たま)ひし(もの)、これを(まも)りたまふ(ゆゑ)に、()しきもの()るる(こと)をせざるなり。

註解: 「神より生れ給いし者」はキリスト(H0、S1)、「悪しき者」はサタンである。キリストの守護の下にある者にはサタンはその手を触れることができない。またこれを「神より生れしものは〔その新生命が〕彼を守る故に」と訳する説(A1)あれどやや無理なり。また異本に「神より生れしものは自らを守る故に」とあり、この方は意味が明瞭である。これを採用するもの多し(B1、C1、M0)、原本批評上問題となる点である。
辞解
[悪しきもの] サタンを示す。
[觸れる事をせず] 人はサタンに触れられただけでも恐るべき害を受ける。

5章19節 (われ)らは(かみ)より()で、全世界(ぜんせかい)()しき(もの)(ぞく)するを(われ)らは()る。[引照]

口語訳また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。
塚本訳(また)わたし達は知っている、わたし達は神から(出た者)であって、全世界は悪者の支配の下にあることを。
前田訳われらは神の出であることを知っていますが、この世はすべて悪ものの手のうちにあります。
新共同わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。
NIVWe know that we are children of God, and that the whole world is under the control of the evil one.
註解: 前節の「悪しきもの」を受けて我らと世の対立を明らかにす。世とはサタンの支配の下にある凡てのものの称呼であり従ってキリストに属する者以外の凡ての人々およびその主義を指す、我らと全世界とはかくして完全なる対立の立場にある。
辞解
[悪しき者に屬す] 原語「悪しき者の中に横たわる」で、サタンの完全なる支配の中に安住するごとき姿を示す。「触れられる」ことをも厭うキリスト者の立場(18節)との差異を見よ。

5章20節 また(かみ)()すでに(きた)りて(われ)らに(まこと)(もの)()知識(ちしき)(たま)ひしを(われ)らは()る。[引照]

口語訳さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。
塚本訳しかしわたし達は知っている、神の子が来て、(唯一の)まことの者(なる神)を知る知識力をわたし達に与えられたことを。そしてわたし達はこのまことの者の中に、(然り、)御子イエス・キリストの中に、あるのである。この方はまことの神であり、また永遠の命である。
前田訳われらには神の子が来られて、まことの彼を知る分別をお与えのことがわかっています。われらはまことの方、すなわちみ子イエス・キリストのうちにあります。彼こそまことの神で永遠のいのちです。
新共同わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。
NIVWe know also that the Son of God has come and has given us understanding, so that we may know him who is true. And we are in him who is true--even in his Son Jesus Christ. He is the true God and eternal life.
註解: 真の者は神であり神を認識する能力はキリストによりて与えられた。人間にとって神を知ることが唯一最上の緊要事である。そして人はキリストを知ることによりて真の神の何たるかを知ることができた。
辞解
[知識] dianoia で「知る能力」の意味、「知能」と訳せば幾分原意に近い。

(しか)して(われ)らは(まこと)(もの)()り、その()イエス・キリストに()るなり、

註解: この訳語はやや不明である、原文は「我らは真の者すなわち、御子イエス・キリストに居るなり」とも訳し得るけれども(R、V)、むしろ「我らは御子イエス・キリストに在りて真の者に居る」と訳すべきである。その意味は前述せるごとくイエス・キリストの来り給えることによって神を知る力を得しのみならず、このイエス・キリストを信じ、彼との交わりに生きることによりて神の中にいることができることを示す。すなわち神との霊交はキリストに在る者に属する。
辞解
「眞の者」という所以は次に来る偶像との対比を明らかにせんためである。「眞」(▲原語 alêthinos)は「真正」の意味、「真実」の意味ではない。

(かれ)(まこと)(かみ)にして永遠(とこしへ)生命(いのち)なり。

註解: イエス・キリストは真の神なるが故に彼におる者は真の神におり、彼イエスは永遠の生命なるが故に彼を有つ者は生命をもつ。
辞解
この「彼」 houtos は「神」なりや「キリスト」なりやにつき古来両説が対立する。古代教父時代、宗教改革時代にはこれをキリストと解することが有力であったが(L1、C1、B1)今日は反対にこれを神と解する学者が増加している(M0、A1、H0、E0)。双方ともそれぞれその理由を主張することができるけれども、予は(1)「彼」が最も近くにある文字「イエス・キリスト」を受けていることは、絶対的ではないまでも(Tヨハ2:21Uヨハ1:7等を見よ)最も自然であること。(2)「永遠の生命」は本書においてはキリスト彼自身につき用いられること(Tヨハ1:2)。(3)「眞の者」にいることを述べて後に「その神は眞の神なり」というは次節との関係により説明することは不能にあらざるもあまり適切にあらず。(4)神を永遠の生命と呼ぶ場合はあまり多からざること等よりたといキリスト・イエスを直接に神と呼ぶ例は他にないとしても、この場合これをキリストと解するを可と信ず。かくして本書の首尾が極めてよく一致するを見る。

5章21節 若子(わくご)よ、(みづか)(まも)りて偶像(ぐうざう)(とほ)ざかれ。[引照]

口語訳子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。
塚本訳子供たちよ、(このまことの神をもつあなた達は、)偶像から身を守りなさい。
前田訳皆さん、ご自身を偶像から遠ざけてください。
新共同子たちよ、偶像を避けなさい。
NIVDear children, keep yourselves from idols.
註解: 最後にヨハネは簡単にして強い警戒を与えて本書を終っている。ここに偶像とは勿論手に造れる像のみに限る意味ではなく、イエス・キリスト以外のものをイエス・キリストに代えて拝する行為ならびに心持がある場合これらを凡て偶像の中に数えているものと見るべきである。本書簡全体の精神はキリストとの交際に入ること故、ここにその正反対の態度を示してこれを警戒したのである。
要義 [神の子の姿]18−21節にヨハネは本書簡の結尾のごとき形において簡単に神の子たるキリスト者の姿を叙述していることを注意しなければならない。すなわちキリスト者は(1)神の子であり、(2)罪を犯さず(18節a)、(3)サタンより保護せられ(18節b)、(4)神を知るの知能を与えられ(20節a)、(5)キリストにおいて神に居り(20節b)、(6)永遠の生命にして真の神たるキリストを有ち(20節c)、(7)偶像に遠ざかっている者である(21節)、ゆえにこの最後の数節はほとんど全書簡の要約とも見得るものである。