ヘブル書第13章
分類
2 薦奨の部 10:19 - 13:17
2-4 一般的訓戒 13:1 - 13:17
註解: 前章をもって本書の主要部分は終了した。ここに著者は本書を終る前にさらに一般的勧告を附加している。勿論著者はこれまでも種々の勧告を与えていたけれども、これはベブル人の読者に特有なるものが多かった。本章においてはむしろ一般に通ずべき性質のものが多い。
口語訳 | 兄弟愛を続けなさい。 |
塚本訳 | (集会では、お互の間に)兄弟愛がいつまでもなくならないように。 |
前田訳 | 兄弟愛が保たれますように。 |
新共同 | 兄弟としていつも愛し合いなさい。 |
NIV | Keep on loving each other as brothers. |
註解: 1−3節は兄弟の愛に関する教訓である。キリスト者同志は兄弟と呼ばれていた。そして信仰の兄弟の愛は信仰の衰退の場合に殊に減少するのが常であって本書の読者の場合のごとき特にこれを強調することが必要であった。そして次の2、3節にその内容ともいうべき二三の場合を特に取出している。
13章2節
口語訳 | 旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。 |
塚本訳 | (また、)旅人の接待を忘れないように。というのは、このことにより(アブラハム、サラなど)ある人々は、(自分でも)知らずに天使を泊め(て、神の恩恵を受け)たからである。 |
前田訳 | 旅びとのもてなしをお忘れなく。このことにより、ある人々はそれと知らずに天使たちをもてなしました。 |
新共同 | 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。 |
NIV | Do not forget to entertain strangers, for by so doing some people have entertained angels without knowing it. |
註解: 旅舎の設備の不完全であった当時代において、旅人の接待は殊に必要なる愛の行為とされていた。然のみならず当時キリスト者は一面世俗の権力より、一面ユダヤ人より迫害されていたのでキリスト者の旅人を宿すことは自己に対しても危険が多かったので、この愛の行為を避けんとする者が多かったのであろう。そしてこの行為をすすめることにつき著者はアブラハムとロトの例を引用し(引照2)、またマタ25:35−40のごとき主の教訓を思い起したのであろう。旅人の接待は神の最もよろこび給う愛の行為であることを知らなければならない。
口語訳 | 獄につながれている人たちを、自分も一緒につながれている心持で思いやりなさい。また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめなさい。 |
塚本訳 | (主のための)囚人を、同囚人として記憶せよ。虐待されている人たち(のこと)を記憶せよ、あなた達自身も(なお)肉体においてあるのだから。 |
前田訳 | 捕われの人々を共に捕われたものとして、苦しめられている人々を自らも肉体にあるものとして、思いやってください。 |
新共同 | 自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。 |
NIV | Remember those in prison as if you were their fellow prisoners, and those who are mistreated as if you yourselves were suffering. |
註解: 当時キリスト者は迫害を受けて多く牢獄に繋がれた。キリスト者はキリストに在りて一体であるが故に、その中の一人が繋がれて苦しむ場合には凡ての肢が自分も繋がれるごとくに苦しむのが当然である。これ一体たる兄弟の愛である(Tコリ12:26)。本書簡の読者の中に迫害を恐れて兄弟愛を実行せず、縲絏 の中にある者を見舞わない者が起って来たのであろう。
また
註解: 「苦しむ者」は「虐待される者」と訳すべきである。すなわち我らも今は肉体に在りてこの世に生存している以上、何時同じ苦痛を受けないとも限らないこと故(M0、Z0、E0、A1、I0、B1)キリスト者として虐待される者を同情すべきである。
辞解
[己も肉體に在れば] 種々に解せられる。(1)「汝も同じ体なれば」すなわち「キリストに在る一体なれば」(C1)、(2)「あたかも汝自身虐待される者のごとくに」(ベザ)等あれど前掲の解が優っている。
13章4節
口語訳 | すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない。神は、不品行な者や姦淫をする者をさばかれる。 |
塚本訳 | 婚姻はすべての点において尊ばれよ。また夫婦の床が汚れないように。神は不品行の者と姦淫する者とを罰されるからである。 |
前田訳 | すべての人に結婚は尊いもの、ふしどは清らかであるべきです。神は不身持ちや姦淫のものを裁きたまいます。 |
新共同 | 結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。 |
NIV | Marriage should be honored by all, and the marriage bed kept pure, for God will judge the adulterer and all the sexually immoral. |
註解: 色慾に関する貞潔のすすめである。婚姻は極めて重大なることである。これを極めて軽きことと見、自由に結合し、勝手に離婚し、あるいは政略や金銭等の理由より結婚するごとき何れも婚姻を尊重せざるものである。これを凡ての人に対して警戒している。また結婚の前後を論ぜず貞潔は極めて大切なる徳である。これらを破る淫行および姦淫の罪はあるいはこの世の法律に依りては処罰されないことがあるであろうけれども、神は必ずこれを審 き給うが故に懼れなければならない。
辞解
[凡ての人] en pasin はこれを中性に解し「凡てのことにおいて」と解する説があるけれども不可である。「凡ての人」と特に指示せる理由は「禁慾主義者」も「未婚の人も」または「僧侶階級に属し婚姻を汚れと見ている人も」等の意に解する説があるけれどもここではむしろある特種の階級や社会において婚姻に関して殊に放恣 なるものがあるから凡ての人と言ったのであろう。
13章5節
口語訳 | 金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。 |
塚本訳 | 金銭を愛せぬ生活をせよ。(現在)もっているもので満足せよ。神がこう言われたからである、“わたしは決してあなたを見殺しにしない、また決してあなたを見捨てない”と。 |
前田訳 | 生活では金銭欲を避け、持ちもので満足なさい。神ご自身いわれました、「わたしはけっしてあなたを離れず、またあなたを見捨てない」と。 |
新共同 | 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。 |
NIV | Keep your lives free from the love of money and be content with what you have, because God has said, "Never will I leave you; never will I forsake you." |
13章6節
口語訳 | だから、わたしたちは、はばからずに言おう、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」。 |
塚本訳 | だからわたし達は確信して言う(ことができる)。──“主はわたしの助け人、わたしは(何ものも)恐れない。何を人間がわたしにすることができようか。” |
前田訳 | それでわれらはあえていえます、「主はわが助け手、わたしはおそれまい、人間がわたしに何をしえよう」と。 |
新共同 | だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」 |
NIV | So we say with confidence, "The Lord is my helper; I will not be afraid. What can man do to me?" |
註解: 色慾と共に最も普遍なるものは所有慾である。そうして前者の罪は神の審判を恐れざるより起り、後者の罪は神の保護を信ぜざるより起る。神はしばしばその保護を約束し給える以上(創28:15。申31:6、申31:8。ヨシ1:5。T歴28:20等)我らは彼を信頼して我らの衣食につき憂慮する必要はない。彼は世界の凡ての富者よりも富み給う。ゆえにこの世の人が我らの職を奪い財産を没収するも恐れるに足らない。神は必ず必要のものを与え給う、ゆえに現に所有するものをもって足れりとしてその以上の慾望をばこれをサタンの誘いとして退くべきである。
辞解
[金を愛することなく] 直訳「処生上金銭を愛するなかれ」。
『われ更に云々』の引用は旧約聖書中にこれに類似のものなく、また神の言としてではなく神に関する言として掲げられしものがあるのみなので(5節引照3参照)学者は種々頭脳を絞ってこれを解決しようとしているけれども著者はかかることに拘泥せず、旧約聖書の大体の精神をこの文章に綴って掲げたのであろう(C1)。第6節に詩118篇を引用したのは、そのごとき事情を思い浮かべてこれをその当時のキリスト者に適用し得ることを考えたのであろう。美わしき信頼の詩である。
[助主] boêthos は呼び声に応じて助けを与える者。新約聖書にはこの一ヶ所にあるのみでヨハネ伝およびヨハネ書簡の助主 paraklêtos と異なる。
13章7節
口語訳 | 神の言をあなたがたに語った指導者たちのことを、いつも思い起しなさい。彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい。 |
塚本訳 | 神の御言葉を語ってくれたあなた達の指導者たちのことを思え。その生涯の終り(──いかに神の御言葉を証ししながら死んだか)を注意してみて、その信仰をまねよ。 |
前田訳 | あなた方の指導者を思ってください。神のことばをあなた方に語ったのは彼らです。彼らの活動の成果を見てその信仰にならいなさい。 |
新共同 | あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。 |
NIV | Remember your leaders, who spoke the word of God to you. Consider the outcome of their way of life and imitate their faith. |
註解: 私訳「神の言を汝らに語りし汝らの指導者たちを記憶せよ」。1−6節殊に6節のごとき信頼の生活の最善の模範としてここにすでに死せる指導者、先生、先輩達(17、24節)のことを追憶すべきことを薦めている。たしかに当時のキリスト者の中には一生立派なる生涯を送って後殉教せる者多くあり、彼らの指導者たちの中にもそれが多かったのであろう(ローマの読者とすれば勿論のことである ─ 緒言参照)。この行状の終り、すなわちその生涯殊にその死に方を見てその信仰にならうべきである。大切なのは死に方よりも信仰である。
辞解
[神の言] 神の子キリスト、およびこれに関する教え(Tテサ2:13)。
[導きし者ども] hêgoumenoi 「教会の指導者、有力家などに対する普通の用語で、これらの人々には漠然たる権威が与えられていた。公けの身分は未だ決定せず、公への職名は一般的に用いられていなかった」(E0)。
[行状の終] この世における「生活態度の終局」の意味で主として殉教の死を指していると見るべきであろうけれども必ずしもこれに限る必要はない(Z0)、立派なる生涯と平安勝利の死もこれに入れることができる。
13章8節 イエス・キリストは
口語訳 | イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。 |
塚本訳 | イエス・キリストは、きのうも、きょうも、また永遠に、同じである。 |
前田訳 | イエス・キリストはきのうもきょうもとこしえに同じ方です。 |
新共同 | イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。 |
NIV | Jesus Christ is the same yesterday and today and forever. |
註解: 有名なる一節であって、前節を受けてこれを結び、さらに9−15節の大前提をなしている。すなわち先輩なる聖徒、殉教者等を導き護り給いしそのイエスは昨日も今日も、否、何時までも同じイエスに在し給う。ゆえにこのイエスに対する信仰が変化するはずはない。指導的地位に在った先輩の信仰に対して恥づる如き信仰に堕落してはならない。この一節原語は「イエス・キリストは昨日も今日も同一に在し、永遠に至るもまた然り」となっている。
13章9節
口語訳 | さまざまな違った教によって、迷わされてはならない。食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。 |
塚本訳 | あなた達はさまざまな、異様の教義に惑わされてはいけない。(近ごろ食物が救いに役立つように言う人があるが、それは大きな誤りである。)なぜなら、食物によらず、(神の)恩恵によって、心を確かにされることがよろしいからである。食物によって(信仰の道を)歩いた者たちは、(食物ではすこしも)益されなかったではないか。 |
前田訳 | さまざまな異なった教えに迷わされないでください。食物によらず、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物によって歩んだ人々は益を得ませんでした。 |
新共同 | いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。 |
NIV | Do not be carried away by all kinds of strange teachings. It is good for our hearts to be strengthened by grace, not by ceremonial foods, which are of no value to those who eat them. |
註解: 著者は本節より15節まで再び旧約の律法とキリストとを対比しキリストを信じる者は決して再び旧約の形式主義に逆戻りすべきにあらざることを教えている。すなわちイエス・キリストは永遠に変り給うことなき故、従って彼を信じる者もまた不動の確信がなくてはならないことを示しているのである。たしかに当時のユダヤ的キリスト者の中には種々の新奇なる教えが行われており殊にそれが飲食について多く行われた(ヘブ9:10)、あるいはレビに関する規定に従いて(レビ11:34−36)汚れし物を食うべからずと唱え、または禁欲的傾向よりある種の食物を断つべしと唱え(これに対するパウロの反対はコロ2:16−23。Tテモ4:3−5、Tテモ4:8。テト1:15)、また肉食につきて困難なる問題を生じ(ロマ14:1−23)、殊に当時のキリスト者の中には祭壇に捧げられし肉を(Tコリ8:1−23)食すべきや否やの難問も存在した。かくのごとく不思議にも飲食のことに関して多くの難問が生じていた。キリストの永遠不変に在すことに関する確信を有たないものは、かかる些末 の問題についてその信仰の動揺を来していた。ゆえに「これに惑わさるな」と言いて彼らを誡め、かつ飲食に関する一定の信仰を持つことによりて救われるがごとくに考え、これを基として歩みをなす者は救いについて何の益を得ることもないことを教えている。キリスト者の取るべき態度はキリストの十字架によりて我らを救い給える神の「恩恵により」心を強くし堅き信仰を握るより外にない。
辞解
[飲食] 前掲諸種の場合の何れを指すかは学者間に困難なる問題として論議せられている、A1、M0、Z0等参照。(前掲の外にこれを聖晩餐の意味に取る説などもある、I0。)しかしながら強いてこの中の一つを選ぶ必要は全くない、著書の脳裡にこの種々の場合が浮んでいたものと解しても差支えないであろう。そして飲食に関するかかる面倒なる問題を全く度外して、キリスト者にはかかる旧約的思想の人々の味わい得ざる飲食があること、およびかかる人々とは全く別の世界に住むことを次節以下において明らかにしている。(強いてその一つを選ぶとすれば、次節との関係上ユダヤ教の祭壇に献げし犠牲の肉に関する種々の教えについて言えるものと解するのが最も当を得ているであろう。)
13章10節
口語訳 | わたしたちには一つの祭壇がある。幕屋で仕えている者たちは、その祭壇の食物をたべる権利はない。 |
塚本訳 | (なるほど旧約と同じように、新約の)わたし達にも一つの祭壇がある。(すなわち聖晩餐の食卓であるが、新約の)幕屋に奉仕する者は、そこから(いただいて)食べる権利を持たない。 |
前田訳 | われらにも祭壇がありますが、幕屋で礼拝するものはその食物を食べる権利がありません。 |
新共同 | わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。 |
NIV | We have an altar from which those who minister at the tabernacle have no right to eat. |
註解: 「幕屋に事ふる者」はイスラエルの祭司を指す。彼らは平常は祭壇にささげし肉を食うの権を持っていた(Tコリ10:18引照を見よ)。これと同じく我らキリスト者には我らの祭壇なるキリストの十字架があり、そこにキリストは犠牲となりて献げられ給い、我らは新約の祭司としてこの肉を食い血を飲むの権利がある(ヨハ6:53)。そして旧約の祭司は年一回の大贖罪日にその犠牲の肉を食うことができないと同様(レビ16:27)この十字架にささげられし肉を食うことの権がない。ここに新約の祭司たるキリスト者と旧約の祭司との間に大差が存する所以であって、キリスト者は何時までも旧約的飲食のことに心を労してはならない。
辞解
[祭壇] あるいは(1)特別に何も指すものがないと解し、または(2)キリスト自身、(3)主の晩餐の卓、(4)天の処、(5)十字架(B1、ブレーク、A1、M0、Z0)等種々に解せらる。
[幕屋に事 ふる者] これもあるいは(1)キリスト者と解し、あるいは(2)ユダヤの祭司と解するけれども後者が適当である。
13章11節
口語訳 | なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしまうからである。 |
塚本訳 | なぜなら、(旧約によれば贖罪の日、)大祭司によって、(民の)“罪のための”(犠牲の)獣の“血は聖所に持って入られ(る”けれども)、その体は“宿営の外で焼きすてられる”からである。 |
前田訳 | なぜなら、大祭司によって罪の清めのために獣の血が聖所の中に運ばれますが、その体は陣営の外で焼かれます。 |
新共同 | なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。 |
NIV | The high priest carries the blood of animals into the Most Holy Place as a sin offering, but the bodies are burned outside the camp. |
13章12節 この
口語訳 | だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。 |
塚本訳 | だからイエスも(これと同様に、しかし獣の血でなく)自分の血をもって、民をきよめるために、(エルサレムの)門の外で(十字架の)苦しみをうけられたのである。(すなわち贖罪と同じように、血は天の聖所の中に持って入られたけれども、その肉体は門の外のゴルゴダで滅び失せたのである。だから新約の祭壇では、食べる肉は無い。聖晩餐のパンがキリストの肉である訳はないではないか。) |
前田訳 | それゆえイエスも、自らの血で民を聖めるために、門の外でお苦しみでした。 |
新共同 | それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。 |
NIV | And so Jesus also suffered outside the city gate to make the people holy through his own blood. |
註解: ユダヤの大祭司は年に一度大なる贖罪の日に犠牲の動物の血を携えて人民の罪を贖う(レビ16:27)。この犠牲はキリストの犠牲の型であり(ヘブ2:17。ヘブ4:14−5:10。ヘブ8:1−10:18)キリストは唯一度己の宝血を携えて天の至聖所に入り給うた。そして犠牲の動物の体は他の場合(すなわち普通の祭事、レビ4:3−21。レビ6:16)におけるがごとく祭司の有に帰せずして汚れしものとして陣営の外で焼かれた。これと同じくキリストの体も祭司をもって代表される旧約の律法の下にあるユダヤ人には与えられずして、陣営と同視すべきエルサレムの町の門外において十字架の苦難を受け給うた。ゆえにキリストの体を食わんと欲する者は旧約の律法、儀式、祭事、飲食のことより離れて門の外に出なければならない。動物の体が陣営の外にて焼かれしことはこれを汚れしものとして陣営の中に留むべきでないとしたのであった。同様にイエスは罪人として町の外に棄てられ給うけれども、これがかえって家の隅の首石 となり救いの源となり給うたことは奇しきことである(レビ24:14。民15:35以下。申17:5)。
辞解
[陣営] parembolê 荒野におけるイスラエルの天幕生活の全体をいう、神の幕屋を中心にしてその周囲を取巻いていた。
[門の外] エルサレムの門外で(マタ27:32。マコ15:20。ヨハ19:17)エルサレムは荒野におけるイスラエルの陣営の代表である。
13章13節 されば
口語訳 | したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。 |
塚本訳 | それならばわたし達も彼(と同様)の罵りを忍んで、(肉のこの)“宿営の外”に出て彼のところにゆこう。 |
前田訳 | それで、われらも彼の恥を負って陣営の外で彼のところへ行きましょう。 |
新共同 | だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。 |
NIV | Let us, then, go to him outside the camp, bearing the disgrace he bore. |
註解: イスラエルの陣営においてその陣営より放逐されることは神の民たるの資格を失うことであって大なる恥辱であった。そしてキリストはこの恥辱を受けて門の外に苦しみ給いたれば彼の弟子たるユダヤ人らもまたイエスと共にユダヤ教の範囲より脱出しなければならない。これによりてその同胞なるユダヤ人より多くの非難攻撃を受けるであろうけれどもこれキリストの弟子の負うべき当然の運命であたかもクレネのシモンのごとくキリストの十字架を負う所以である。
13章14節 われら
口語訳 | この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。 |
塚本訳 | わたし達にはここにいつまでもなくならない都はなく、ただ来るべき(天の)都をさがし求めているからである。 |
前田訳 | われらはこの地上に永遠の都を持たず、来たるべき都をば求めているのです。 |
新共同 | わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。 |
NIV | For here we do not have an enduring city, but we are looking for the city that is to come. |
註解: 「来たらんとする者」は「来たらんとする都」と訳すべきである。キリスト者はこの地上に永遠の都を持たない旅人また寄寓者である(ヘブ11:13)。たといそれがエルサレムであっても永遠ではない(おそらくこの書簡が認 められて後間もなくエルサレムは陥ったのであろう)。キリスト者の切に希求するものは来たらんとする天の都(黙21:2。ヘブ11:10)である。
辞解
[求む] epizêteô 切に求むること。
13章15節
口語訳 | だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。 |
塚本訳 | だからわたし達は、イエスによって“讃美の犠牲を”絶えず“神に捧げようではないか。(すなわち)これは御名をたたえる“唇の実”である。 |
前田訳 | 彼によってわれらはたたえのいけにえを絶えず神にささげましょう。それは、彼のみ名をたたえるくちびるの実です。 |
新共同 | だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。 |
NIV | Through Jesus, therefore, let us continually offer to God a sacrifice of praise--the fruit of lips that confess his name. |
註解: キリスト者はユダヤ教の圍 の外にでなければならぬ。しかしキリスト者にはまた彼ら特有の供物がある。本節および次節はそれである。その供物の第一は神を讃美することであって、この供物は霊的であり(旧約の犠牲の動物と対照すべし)、大祭司イエス・キリストによりて神に献げられ(旧約の大祭司による供物と対照すべし)、しかも時々献げられるにあらずして「常に」「不断に」献げられる供物である。そして讃美の供物は罪を消さんがための血の供物ではなく、すでに罪を赦されし者の感謝の心が口唇を通して溢れ出でて神の御名を頌 むるに至る口唇の果である。要するにキリスト者は旧約的犠牲を全廃し、罪の恐れを除きて心に溢れる感謝をキリストを通して神に献ぐべきであって、これにまされる供物はない。
辞解
[讃美の供物] 詩50:14、23。
[御名を頌 むる] 詩54:6。
[口唇 の果] ホセ14:3の七十人訳によれるものでヘブル原典とは意味を異にしている。
13章16節 かつ
口語訳 | そして、善を行うことと施しをすることとを、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる。 |
塚本訳 | しかし(同様に、)慈善と同情とを忘れるな。こんな犠牲こそ神のお気に召すからである。 |
前田訳 | 善い行ないと施しをお忘れなく。神はこのようないけにえをおよろこびです。 |
新共同 | 善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。 |
NIV | And do not forget to do good and to share with others, for with such sacrifices God is pleased. |
註解: 神に対する感謝の心は溢れて隣人に対する愛となる、そして隣人に対して仁慈 と施済 とを行うことは、すなわち神に対する供物をすることである。これがキリスト者の行うべき第二の供物であり、神はかかる供物を喜び給う。
辞解
[施濟 ] koinônia 自分の所有を他人と共に分ち用いること(Uコリ9:13。ロマ15:26)。
13章17節
口語訳 | あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。 |
塚本訳 | 指導者に従い、(その権威に)服せよ。彼らは(神に)責任を問われる者として、あなた達の魂のために(絶えず)心配しているからである。(こんな注意をするのは、)彼らが呻きながらでなく、喜んでその(仕)事をするためである。そうでなければ、(いかに熱心でも、)そのことが、(すこしも)あなた達の為にならないからである。 |
前田訳 | あなた方の指導者に従い服しなさい。彼らは神への弁明者としてあなた方の魂を見守っています。彼らが嘆かずに、よろこびをもってこのことをするようになさい。さもないと、あなた方に益しません。 |
新共同 | 指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません。 |
NIV | Obey your leaders and submit to their authority. They keep watch over you as men who must give an account. Obey them so that their work will be a joy, not a burden, for that would be of no advantage to you. |
註解: 私訳「汝らの指導者たちは〔汝らにつきキリストに〕陳述すべき者として汝らの霊魂のために目を覚し居る故に、彼らに順 い服せよ、これ彼ら喜びてこれを為し歎きつつこれを為すことなからんためなり。かかることは汝らに益なきなり」。7節において死せる指導者らに対する態度を教え、ここに17−19節において現在の指導者らに対する道を教えている。長者を敬うことがキリスト教道徳の重要なる部分であることがわかる。そして現在の指導者たちに対する第一の注意は彼らに「順 ひ之に服すべきことである」。「服する」 hupeikô は命令に「従う」よりも一層強き服従であって、自己の不満をも抑えて従うことを意味する(M0)。そしてかくのごとくに服従せざるべからざる理由は指導者たちの任務の重大さ(キリスト再臨の時[▲(+)は勿論毎日の祈りの中に]信徒らにつきてキリストの前に陳述すること)とその苦労(彼らの霊魂の状態を知悉 するために、夜の目も寝ずに怠らず注意を払っていること)とである。そして彼らに対し従順を薦める必要がある所以は、指導者らをして喜びて「愉快に」この重大なる任務を遂行せしめんがためであってもし不従順の態度を示したならば彼らの心は「歎かず」にいられない。而して彼らを歎かすることは結局信徒には何の益をも与えないからである。「従順を特に強調する必要があった所以は当時の状態として指導者たちは国法上または教会法上の権力を持たなかったからである」(Z0)。
辞解
[己が事を神に陳ぶべき者なれば] 原語は三字で「陳述すべき者として」の意(マタ12:36。ルカ16:2。使19:40等)、陳述すべき相手方は再臨のキリスト(A1、E0、Z0等)。
[目を覚す] イスラエルの守望者(まもりて)のごとく(エレ6:17。エゼ3:17以下。エゼ33:7以下)目を覚して見張りをしていること。
分類
3 祈祷および挨拶 13:18 - 13:25
13章18節
口語訳 | わたしたちのために、祈ってほしい。わたしたちは明らかな良心を持っていると信じており、何事についても、正しく行動しようと願っている。 |
塚本訳 | わたし達のために祈りをつづけてくれ。わたし達は正しい良心を持ち、すべての点において正しく行動しようと念願していることを、(かたく)信じているからである。 |
前田訳 | われらのために祈ってください。われらは正しい良心を持つと信じ、何につけても正しくふるまいたく思っています。 |
新共同 | わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。 |
NIV | Pray for us. We are sure that we have a clear conscience and desire to live honorably in every way. |
13章19節 われ
口語訳 | わたしがあなたがたの所に早く帰れるため、祈ってくれるように、特にお願いする。 |
塚本訳 | しかし一層(強く)祈るようにあなた達に願う、わたしがすこしでも早くあなた達に戻してもらえるようにと! |
前田訳 | わたしがあなた方のところへなるべく早く戻されるよう、とくにお祈りのほどお願いします。 |
新共同 | 特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください。 |
NIV | I particularly urge you to pray so that I may be restored to you soon. |
註解: 「我ら」というも単に著者自身を指すに過ぎざることは次節により明らかである(M0、Z0、E0、I0等、A1は反対)。著者は己のためにも祈らんことを読者に依頼した。前後の関係より見て彼も指導者の一人であることは明らかである。そして何れの処にも有り得るごとく彼についてもかれこれの非難は有ったのであろう。しかし彼自身はその良心に顧み、その意思を検してそこに何ら疚 しきところがないと信じた。従って彼は指導者としてその弟子たちに祈りを要求し得ることを信じた。また彼の切なる願いは再び読者なるその信徒の許に帰ることであった。これがためには殊に信徒の切なる祈りを求めた。彼の愛心の発露である。何故に彼がその信徒の許に再び帰り得なかったかの理由は不明である。唯彼が縲絏 の中に在ったのではないことは23節よりこれを知ることができる。
13章20節
口語訳 | 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神が、 |
塚本訳 | “羊の”大“牧者”であるわたし達の主イエスを、“永遠の約束の血によって”死人の中から“つれ上られた”平和の神が、 |
前田訳 | 永遠の契約の血によって羊の大牧者、われらの主イエスを死人の中からお起こしになった平和の神が |
新共同 | 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、 |
NIV | May the God of peace, who through the blood of the eternal covenant brought back from the dead our Lord Jesus, that great Shepherd of the sheep, |
註解: パウロやペテロのごとくこの著者もまさにその書簡を終らんとして神に対する切なる祈願を吐露することを禁じ得なかったのであろう(Tテサ5:23。Uテサ3:16。Tペテ5:10)。まず初めに神の御名を呼ぶに「平和の神」をもってする所以は教会において最も必要なるものは平和であり、神がまず人に対して平和の心を持ち給い(人の罪を消すことによりて)、これによりて人が神に対して平和を持ち(ロマ5:1)その結果信者相互間にも平和が支配するに至ることが最も美わしき状態であるからである。そしてこの平和の源は神の御心にあるが故に彼を「平和の神」と呼び奉ったのである(引照5)。この神の働きとしてイエスの復活と昇天(A1)とを記せる所以はこれによりて神の力を認め、かつイエスの羊の大牧者として永遠の存在を確保し給うことを明らかにせんがためである。(このことは次節の祈願に重大なる関係がある)そして永遠に変ることなき人類救済の神の契約、すなわち新約がイエスの十字架の血(ヘブ10:29)によりて成就し、かつ血判のごとくに保証せられ、これによりて彼は羊の大牧者となり給うたのである。
13章21節 その
口語訳 | イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり、あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う。栄光が、世々限りなく神にあるように、アァメン。 |
塚本訳 | あらゆる善いことをあなた達に備えて御心を行わせ、かつ、御前にお気に入ることをイエス・キリストによってあなた達の中に行われんことを。栄光、永遠より永遠にこの神にあらんことを、アーメン。 |
前田訳 | あなた方をすべてのよいことにおいて全うしてみ心を行ないうるようにし、イエス・キリストによってわれらの間にみ心にかなうことを行なわせたまいますように。栄光が世々とこしえに彼にありますように。アーメン。 |
新共同 | 御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。 |
NIV | equip you with everything good for doing his will, and may he work in us what is pleasing to him, through Jesus Christ, to whom be glory for ever and ever. Amen. |
註解: 祈願の第一は前節のごとき能力と平和の神が我らの心の衷 に働きて、我らの悦ぶことではなく「御前に喜ばしきこと」(直訳)を為し、我らの心をまず神の御旨に叶うものと為し給わんことである。そしてこのことはイエス・キリストを通して為され我ら心よりイエスを主と仰ぐことによりてかくせられる。
註解: 祈願の第二は本節前半の神の働きの結果として来ることであって、信徒の心の中に凡ての善事を為すべき準備が完成することである。信徒の切願はこれに外ならない。そしてかくのごとくに準備整うの必要は自らの義に誇らんがためではなく神の「御意を行わん為」である。
辞解
[全うする] katartizô ヘブ11:3辞解参照。
註解: 使徒の書簡にしばしば見出される頌栄であって(ロマ11:36を見よ)神に対するもっとも美わしき献げ物である、「かれ」は神を指すか(A1、B1、Iデリッチ)、キリストを指すか(Z0、E0、M0)につきて二説あり。文法上は後者のごとくに見えるけれども全体の心持からは前者と解すべきであろう。
要義 [21、22節の祈りについて]この祈りは簡単なる語の中にキリスト者の信仰の重要なる点が凡て網羅されていることは驚くべきことである。我らはこの祈りの中に神の万能、神の愛、キリストの十字架とその復活、聖霊の働きと我らの信仰生活、そして最後に神に対する讃美を見出すことができる。そしてこれらが神学的に機械的に羅列せられたのではなく一つの活生命として神と信者との生命の一致の中に顕われ出でし自然の叫びである点に深き意義がある。この祈りを深く味わい、心よりこれを祈り得る者は福 である。
13章22節
口語訳 | 兄弟たちよ。どうかわたしの勧めの言葉を受けいれてほしい。わたしは、ただ手みじかに書いたのだから。 |
塚本訳 | 兄弟たちよ、あなた達に勧める。わたしの励ましの言葉を(快く)聞いてほしい。わたしは手短かに書き送ったのだから。 |
前田訳 | 兄弟たちよ、勧めのことばをお受けのようお願いします。結局、手短にお書きしたのですから。 |
新共同 | 兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、わたしは手短に書いたのですから。 |
NIV | Brothers, I urge you to bear with my word of exhortation, for I have written you only a short letter. |
註解: 最後にこの書簡の結尾としてこの書簡に記されし著者の薦めの言を受納るべきことを勧めている。そしてその理由としては勧告そのものの真理なるは勿論のこと、これに加うるに簡単にこの手紙を認 めたことであって、著者の記さんとする大真理は如何に長くこれを記すも尽きることはないけれども読者が迷うことのないように簡単に要点のみを記したこと故これを受納れ得ることであろう。
辞解
[請ふ] parakalô は「薦む」。
「我なんぢらに」以下は kai gar = also because をもって始まり、「そは汝らに簡単に書き送りたればなおさらのことなり」との意を示す。
13章23節 なんじら
口語訳 | わたしたちの兄弟テモテがゆるされたことを、お知らせする。もし彼が早く来れば、彼と一緒にわたしはあなたがたに会えるだろう。 |
塚本訳 | わたし達の兄弟テモテが釈放されたことを知ってもらいたい。もし彼が早く来れば、彼と一しょにあなた達を訪ねよう。 |
前田訳 | われらの兄弟テモテが釈放されたことをお知らせします。もし彼が早く来れば、わたしは彼とともにあなた方にお会いしましょう。 |
新共同 | わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。 |
NIV | I want you to know that our brother Timothy has been released. If he arrives soon, I will come with him to see you. |
註解: このテモテはパウロの弟子のテモテ(使16:1)と同一人ならん。彼が牢獄に捕われしことは聖書中にも他の文献にも見えず、唯何処かにて何時かかかること有りしことを想像し得るのみである。著者は彼と共に読者の許に至らんとの切望を言表わしている。(注意)「なんぢら知れ」は「汝ら知る」と訳することができる。またZ0、C2等の説によれば「我らの兄弟テモテは旅立せり、彼帰り来るや否や(ean tachion)我かれと偕に汝らを見ん」と訳する説あり文法上正しくまた前後の関係上穏やかに見える。
13章24節
口語訳 | あなたがたの指導者一同と聖徒たち一同に、よろしく伝えてほしい。イタリヤからきた人々から、あなたがたによろしく。 |
塚本訳 | あなた達の指導者一同、また聖徒一同によろしく。イタリヤの人々からあなた達によろしく。 |
前田訳 | あなた方の指導者の皆さんと聖徒の皆さんによろしく。イタリアからの人々があなた方によろしく申しています。 |
新共同 | あなたがたのすべての指導者たち、またすべての聖なる者たちによろしく。イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています。 |
NIV | Greet all your leaders and all God's people. Those from Italy send you their greetings. |
註解: この書簡は公けの団体に宛てたものであって、個人的書簡ではない。ゆえに凡ての指導者および凡ての聖徒に安否を問え(挨拶せよ)との依頼は受くる特別の人があったのではなく、まずこの書簡を受けてこれを公開の席において読み聞かせる場合これによりて全員がその挨拶を受け得るのである。「イタリヤの人々」とはイタリヤより来りて(M0、I0、A1、E0)この書簡の認 められる時著者と共に在った人である。従ってこの書簡がイタリーに宛てられたものであることを推定することができる。ただし「イタリヤの人々」の原語は「イタリヤに居る人々」(Z0、C2)の意味にも解し得るのであって、かく解する場合にはこの書簡はイタリーにおいて認 められたこととなる。要するにこの語よりこの書簡の認 められし場所を断定的に決定することはできない。(緒言参照)
13章25節
口語訳 | 恵みが、あなたがた一同にあるように。 |
塚本訳 | 恩恵、あなた達一同と共にあらんことを。 |
前田訳 | 恩恵があなた方皆さんとともにありますように。 |
新共同 | 恵みがあなたがた一同と共にあるように。 |
NIV | Grace be with you all. |
註解: Tテモ6:21。Uテモ4:22。コロ4:18。テト3:15等のごとく最後に結尾としてキリストの恩恵を読者の上に祈りつつ筆を擱 いている。