第1テサロニケ書第2章
分類
2 歴史的部分 1:2 - 3:13
2-1 パウロとテサロニケ教会 1:2 - 2:16
2-1-ハ パウロらの伝道態度 2:1 - 2:12
註解: 1:2以下と同様パウロは交互に自己の伝道態度とテサロニケ教会の状態とを記載す、すなわち1−12節はパウロらのテサロニケにおける伝道の態度如何を示し13−16節はテサロニケの信徒が如何に熱心にこれを受けしかを示す。
2章1節
口語訳 | 兄弟たちよ。あなたがた自身が知っているとおり、わたしたちがあなたがたの所にはいって行ったことは、むだではなかった。 |
塚本訳 | まことに、(愛する)兄弟達よ、私達の(この前の)君達訪問が(決して)空(な訪問)でなかったことは、君達自身が知っている。 |
前田訳 | 兄弟たちよ、ご自身ご承知のとおり、われらがあなた方をおとずれたことはむだではありませんでした。 |
新共同 | 兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。 |
NIV | You know, brothers, that our visit to you was not a failure. |
註解: Tコリ1:9の前半に対応して「汝ら自身これを知り居る」ことを陳べて、彼らの記憶を新たにせんとしているのである。「空しからず」は「不結果に終らなかった」というのではなく、「内容なきものにあらず、Tコリ1:5のごとく能力と聖霊と大なる確信に充ちていた」という意味である。
辞解
[空し] kenos。Tコリ15:17辞解参照。
2章2節
口語訳 | それどころか、あなたがたが知っているように、わたしたちは、先にピリピで苦しめられ、はずかしめられたにもかかわらず、わたしたちの神に勇気を与えられて、激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語ったのである。 |
塚本訳 | 否、君達が知っている通り、私達は(君達の所に行く)前にピリピで苦しめられ、虐待されたにも拘らず、私達の神によって勇気を得、苦しい戦いをしながら君達に神の福音を語ったのである。 |
前田訳 | それどころか、ご承知のようにピリピで先に苦しめられ、はずかしめられた後に、われらは神によって勇気を得、熱心に神の福音をあなた方に語りました。 |
新共同 | 無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。 |
NIV | We had previously suffered and been insulted in Philippi, as you know, but with the help of our God we dared to tell you his gospel in spite of strong opposition. |
註解: 前節の「空しからず」の証拠としてピリピにおける迫害とその後テサロニケにまで及び来れる迫害との中にありて苦闘しつつ信仰によりて福音を彼らに語ったことを陳べている。パウロらの伝道は実に生命がけの伝道であり、空虚なる自己宣伝ではなく、いわんや自己の名誉や利慾のためではなかった。
辞解
[前に] 「苦難を受く」と結合せる propaschô の一字。他に用例なし。普通の人間ならばこの苦難のためにその伝道を中止したかも知れなかったのに、パウロは何事もなかったかのごとくテサロニケにおいて伝道を始めた。
[紛争] agôn はむしろ「苦闘」と訳するを可とす。これを「苦悩憂慮」の意味に解すること(L2)はやや適切ではない。
[「我らの神、神の福音」等] 殊更に「神」を指摘しているのは異邦において異教の神とに対する関係上殊に強調したのであろう。
2章3節
口語訳 | いったい、わたしたちの宣教は、迷いや汚れた心から出たものでもなく、だましごとでもない。 |
塚本訳 | 然り、私達は(或る人達が言うように、)迷いからや、不潔(な考え)からや、また奸計によっては福音を説かなかった。 |
前田訳 | われらの勧めは迷いや汚れから出ず、あざむきでもありません。 |
新共同 | わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。 |
NIV | For the appeal we make does not spring from error or impure motives, nor are we trying to trick you. |
註解: パウロらの宣教の態度は、世にありふれた宗教家や、自己宣伝者流のごとく、迷妄より出でずして明確なる確信より出で、虚栄、貪慾、売名等のごとき汚穢 し動機や目的より出でず、神のために真理そのものを伝えているのであり、詭計 のごとき卑しき手段方法によらずして、単純に正直にこれを伝えていたのである。
辞解
[勸 ] paraklêsis は不完全なる者に対しては「勧 」となり、弱き者、悩める者に対しては「慰 」の意味となる。本節の場合前者であって、結局一般に福音の宣伝の意味となる。なおパウロらの伝道を迷妄、汚穢、狡猾等と非難する者があったのに対する反駁 であると解する学者もあるけれども、明瞭にかかる事実が有った形跡がない。むしろ宗教家と称されるものが一般に陥り易き弊害を考え、それとパウロらとを比較したのであろう。
2章4節
口語訳 | かえって、わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである。 |
塚本訳 | 私達は神に(心の中を)験され(た後、選ばれ)て福音を託されたのであるから、そのように──人間の気に入ろうとせず、(ただ)私達の“心を験し給う”神の御意に適うように──語るのである。 |
前田訳 | 福音をゆだねられるよう神によって見定められたとおりに、われらは語っています。人間にでなくわれらの心を見定めたもう神によろこばれるようにです。 |
新共同 | わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。 |
NIV | On the contrary, we speak as men approved by God to be entrusted with the gospel. We are not trying to please men but God, who tests our hearts. |
註解: パウロらの福音宣伝は、神より試験されて伝道者たる資格ありと認められた結果(嘉 せられて)の行動であるために、常に神を仰ぎ瞻 つつ為されたのであり、人の顔を顧みなかった。彼に多くの迫害が及んだのもこのためである。人を喜ばせることは伝道者にとりて大なる誘惑であるが、彼らにとりては神を喜ばせ奉つることが唯一の目的であった。これ神より福音を委ねられたからである。そしてこの神は人の心を試験し、心の中の凡ての状態を鑒 給う神である。
辞解
[嘉 せられ] dokimazô の受動態を用う。試験の結果合格せること、または金銀を吹き分けて純分のみを残すこと等に用う。神の試験を経て福音伝道に適せる者と認められしこと。「心を鑒 る」の鑒 るも同一の語を用う。心を試験することを意味す。
2章5節
口語訳 | わたしたちは、あなたがたが知っているように、決してへつらいの言葉を用いたこともなく、口実を設けて、むさぼったこともない。それは、神があかしして下さる。 |
塚本訳 | 君達が知っている通り、私達はかつて(一度も)お世辞を使ったこともなく、また口実を設けて貪ったこともない──(これについては)神が証人であり給う。 |
前田訳 | ご承知のように、われらはへつらいのことばも欲望への口実も用いませんでした。神が証人です。 |
新共同 | あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。 |
NIV | You know we never used flattery, nor did we put on a mask to cover up greed--God is our witness. |
註解: 人を喜ばせるには諂諛 の言が必要であり、人気を得んとして往々この弊に陥るものであるが、パウロらは決してかかることをせず、
註解: 仮面を被りて慳貪 を為すようなることをしない。真理を述ぶるごとき顔をしながら慳貪 を為すごとき下劣の行為はパウロらの為し能わざる処であった。生活のために伝道する者は往々にしてこの弊に陥る。
辞解
[事によせて] 「仮装をして」の意。
(
註解: 直訳「神は証人なり」。心の中の事実は人間の目には見えない故、パウロは神を証人として呼び出している。
2章6節 キリストの
口語訳 | また、わたしたちは、キリストの使徒として重んじられることができたのであるが、あなたがたからにもせよ、ほかの人々からにもせよ、人間からの栄誉を求めることはしなかった。 |
塚本訳 | また私達は君達からも、他の人からも、人間の名誉を求めなかった。 |
前田訳 | あなた方からも他の人からも、人間からの栄光を求めませんでした。 |
新共同 | また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。 |
NIV | We were not looking for praise from men, not from you or anyone else. As apostles of Christ we could have been a burden to you, |
註解: パウロらはキリストの使徒(広義に用いてシルワノ、テモテを含む)である以上はそれに相応せる尊敬を受くる権利があった。またかくせられんとすれば、多くの人はパウロらに栄光を帰したことであろう。然るに彼らは人よりの誉れ(栄光 doxa)を求めなかった。従ってパウロらの使徒としての価値を認識する霊的能力なきものはこれを軽蔑した。それにもかかわらずかかる態度を取ったのはパウロらの動機の純粋さを示す。
2章7節
口語訳 | むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。 |
塚本訳 | キリストの使徒として重んぜられ得るに拘らず! 否、私達は君達の間で、あたかも母がその子を慈しみ育てるように、優しかった。 |
前田訳 | しかもキリストの使徒として重きをなしえたのです。実際われらはあなた方の間で柔和なこと、母がおのが子を養うようでした。 |
新共同 | わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、 |
NIV | but we were gentle among you, like a mother caring for her little children. |
註解: 適切なる形容である。牝鶏がその雛を翼の下に集めてこれを育て、養い、保護愛撫するがごとき態度をもって(B1)パウロらはテサロニケの信徒を育成した。
辞解
[優しき] êpios は親が子に、君が民に対するごとき場合の優しさを指す。
[育てやしなふ] thalpô は本来「暖める」から来た文字で上記のごとき意味をも含む。「父」よりも「母」をもって譬えることがこの場合適当であるが、「父」をもって譬えている場合もある(11節、Tコリ4:15。ピレ1:10)。
2章8節 かく
口語訳 | このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。 |
塚本訳 | 私達はこんなに君達を恋い慕っていたので、ただ神の福音ばかりでなく、自分の生命までも与りたいと思った──君達は私達の愛人になったのだから! |
前田訳 | かくもおなつかしいので、われらは神の福音だけでなく、自分のいのちをも差しあげたくなりました。それほどお慕わしくおなりでした。 |
新共同 | わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。 |
NIV | We loved you so much that we were delighted to share with you not only the gospel of God but our lives as well, because you had become so dear to us. |
註解: テサロニケの信徒に対するパウロらの熱愛と、その結果、彼らの生命をすらテサロニケの信徒のためにささげることを喜びとしていたこととを示す。伝道はかかる愛をもって為さなければならぬ。肉の親子にも優れる聖なる愛情が生ずるのが、信仰の世界の事実でなければならぬ。
辞解
[與ふ] metadidômi は分け与える意味、自己の所有する生命をも他人と分有すること。
[願へり] eudokeô は「悦びとせり」との意。
2章9節
口語訳 | 兄弟たちよ。あなたがたはわたしたちの労苦と努力とを記憶していることであろう。すなわち、あなたがたのだれにも負担をかけまいと思って、日夜はたらきながら、あなたがたに神の福音を宣べ伝えた。 |
塚本訳 | 兄弟達よ、私達の労苦と骨折りを(まだ)憶えているであろう。私達は君達の誰にも厄介をかけまいとして夜も昼も働きながら、君達に神の福音を伝えたのであった。 |
前田訳 | 兄弟たちよ、われらの労苦と励みをお忘れなく。どなたにも負担にならないよう、夜昼働いてあなた方に神の福音を説きました。 |
新共同 | 兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。 |
NIV | Surely you remember, brothers, our toil and hardship; we worked night and day in order not to be a burden to anyone while we preached the gospel of God to you. |
註解: 前節をさらに具体的に説明す(gar)。パウロの犠牲的精神とテサロニケの信徒に対する熱愛とは、労働をもって衣食していた彼らに(Tテサ4:11、12)、パウロらの生活費をも献げしむるに忍びず、夜昼労働し天幕を造りつつ(使18:3)自分らの生活を支えた。この労苦をテサロニケの信徒らは記憶しているはずである。
辞解
[記憶す] 「記憶せよ」(L2)「記憶するや」(W2)等とも読む説があるけれども現行訳のごとくにて宜し。
[累 はす] epibareô は重荷を負わすること、この場合生活費の負担をかけることを指す。
2章10節 また
口語訳 | あなたがたもあかしし、神もあかしして下さるように、わたしたちはあなたがた信者の前で、信心深く、正しく、責められるところがないように、生活をしたのである。 |
塚本訳 | 君達信者に(向かって)私達が如何に敬虔に、正しく、また非難の打ち処なく振舞ったが、 |
前田訳 | あなた方、否、神も証人です。われらは敬虔に、正しく、とがなくあなた方信徒に対してふるまいました。 |
新共同 | あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。 |
NIV | You are witnesses, and so is God, of how holy, righteous and blameless we were among you who believed. |
註解: 単に労働の労苦を嘗めただけではなく、また正義と聖潔とがパウロらの生涯であった。このことはテサロニケの信徒も神も共に証人となり得るほど確かな事実であった。
辞解
[潔く] hosiôs は「聖く」で神に対する聖さを指す、この場合神の御意にかなう行為のこと、「聖く」は神に対し、「正しく」は人に対し、「責むべき所なく」は自己に対するものと解する説あれど(B1)不可なり。凡てテサロニケの信徒に関するものと見るべきである。
2章11節
口語訳 | そして、あなたがたも知っているとおり、父がその子に対してするように、あなたがたのひとりびとりに対して、 |
塚本訳 | 如何に君達一人一人を、ちょうど父が子に対するように──このことは君達が(よく)知っているが── |
前田訳 | ご承知のように、あなた方めいめいに、父のおのが子に対するようにしました。 |
新共同 | あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に |
NIV | For you know that we dealt with each of you as a father deals with his own children, |
2章12節 (
口語訳 | 御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである。 |
塚本訳 | あるいは勧め、あるいは励まし、あるいは厳命して君達をその御国と栄光とに召し給うた神の子らしく歩かせるようにしたかについては、君達(自身)がその証人であり、また神が証人であり給う。 |
前田訳 | あなた方が神にふさわしく歩むよう教え、励まし、いましめたのです。神はあなた方を彼の国と栄光へとお招きです。 |
新共同 | 呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。 |
NIV | encouraging, comforting and urging you to live lives worthy of God, who calls you into his kingdom and glory. |
註解: 単に一般的道徳に関することのみならず(前節)、殊に信仰生活に関する伝道については、パウロらは非常なる深き愛をもってテサロニケの信徒の一人一人に対して熱心にすすめ、彼らをして「御国と栄光とに彼らを招き給う神に相応しく」歩ましめんとした。かくしてテサロニケの信徒をして神の国と神の栄光とに与るものたらしめんとしたのであった。パウロの伝道の理想は絶大であった。
辞解
[神の心に適ひて] 「神に相応しく」で、神の召しを受けしものは、召し給う神に値している者とならなければならぬ。
要義 [伝道の要諦]テサロニケにおいてパウロらの取りし伝道の態度は、伝道に従事する者の模範とすべき多くの点を含んでいる。第一は、伝道の相手方を熱愛すべきことである(7、8、11節)、愛なき伝道は結局空虚である。第二は、如何なる迫害にも耐えて福音を伝えることである(2節)。信仰に迫害は附き物である。第三は、福音に対する正しき信仰の必要である(3節)。迷妄を伴う場合たといキリストの名において伝道するも、それは禍である。第四は、動機の純潔にして行動の正しきことである(3、5、6、10節)。不純なる動機、不正なる手段をもっては如何に成功するも、その伝道は結局失敗である。第五は、人を喜ばせんとせず神を喜ばせんとすることである(4、6節)。伝道者に対する大なる誘惑は人を喜ばせんとすることである。第六は、独立自活の道を取ることである(9節)。生活の源泉を他人に握られていることは伝道の自由の大なる妨害である。第七は、伝道の熱心である(12節)。寸時もを空しくせずして伝道するにあらざれば、真の伝道はできない。かく考え来たれば、パウロらがテサロニケにおいて為せる伝道の態度はまことに凡ての伝道者の模範であるということができる。
2章13節 かくてなほ
口語訳 | これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として—事実そのとおりであるが—受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。 |
塚本訳 | この故にまた私達が絶えず神に感謝しているのは、君達が私達から神の言を聞いた時、(これを)人間の言とせず、事実通り神の言として受け、それが(今)君達(テサロニケの)信者の間に(強く)働いていることである。 |
前田訳 | それゆえわれらも絶えず神に感謝しています。われらが神のことばとしてお伝えしたものを人間のことばとしてでなく、真に神のことばであるとしてお受けとりでした。これはあなた方信徒の間に力となっています。 |
新共同 | このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。 |
NIV | And we also thank God continually because, when you received the word of God, which you heard from us, you accepted it not as the word of men, but as it actually is, the word of God, which is at work in you who believe. |
註解: 私訳「かつ、我らもまた絶えず神に感謝することは、汝ら我らより聞ける神の言を受けしとき人間の言〔として〕にあらずして汝ら信ずる者のうちに働く神の言─真に神の言なるが─〔として〕受入れしことなり」。パウロはTテサ1:2の感謝の上にさらに次のことにつきて感謝をささげている。すなわちテサロニケの信者がパウロらの伝えし福音を人間の言と考えず、そのまま神の言と信じたことである。事実それは神の言である故、かく受入れるのが当然ではあるが、これは一般に困難であるのをテサロニケの信徒はかく信じたのであった。この神の言は信ずる者の心の中に働いてこれを育て、力付け、完成せしめる。
辞解
[かくてなほ] kai dia touto は前節末尾(現行訳前節前半)を受けるとするもの(M0)或は「歩むべき事」を受けるとなし、或は1−12節の全体(Z0)を受けると解する等種々の説があるけれどもヨハ6:16。ヨハ7:22その他ヨハネ伝にしばしば用いられる意味に解し、後に来る hoti 以下を受けるものと解すべきであろう。すなわちテサロニケの信徒の福音を受入れしことに対する感謝である。従って私訳のごとくすべきである。「我らもまた」は、他の人々、汝らのみならずの意。私訳に示すごとく「受く」 paralambanô と「受け入る」 dechomai との二つの動詞が用いられているが(現行訳には不明瞭)前者は客観的の事実を指し、後者は主観的の心持を含む。「我らより聞ける神の言」は直訳すれば「神より出づる我らの説教の言」というがごとし。二つの思想の合流である。「人間の言として」の「として」が原文になし、これによりかえってテサロニケの信徒の主観をそのままに表明している。「神の言」も同様なり。
2章14節
口語訳 | 兄弟たちよ。あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となった。すなわち、彼らがユダヤ人たちから苦しめられたと同じように、あなたがたもまた同国人から苦しめられた。 |
塚本訳 | 兄弟達よ、(本当に)君達はユダヤにおけるキリスト・イエスにある神の教会の模倣者となった。というのは、君達も彼らが(同胞)ユダヤ人から受けたと同じ苦しみを同国人から受けたからである── |
前田訳 | 兄弟たちよ、あなた方はユダヤにおけるキリスト・イエスにある神の諸集会にならうものにおなりでした。それは、彼らがユダヤ人から苦しめられたと同じことを、あなた方も同胞からされたからです。 |
新共同 | 兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。 |
NIV | For you, brothers, became imitators of God's churches in Judea, which are in Christ Jesus: You suffered from your own countrymen the same things those churches suffered from the Jews, |
註解: パウロらはテサロニケの教会が同市の異邦人に迫害されるを見てユダヤ殊にエルサレムにおける母教会の状態を思い浮べざるを得なかった。すなわち同国人、同族に誤解され、迫害される点において彼らの間に共通のものがあった。このことを告ぐることによりて、キリスト者が受くる迫害は一般的であって、テサロニケに限られざることを示し、これに由りて彼らを慰むると同時に、次に15、16節にユダヤ人の上に下るべき神の怒りを告ぐることによりてテサロニケの信徒を迫害する者の上に降るべき神の怒りを間接に預言しているとも見ることができる。
辞解
[效 う者] この場合故意に真似た意味ではなく、「似寄りの運命に陥れる者」のごとき意味である。なお本節は前節の理由をなしており(gar)、神の言の働きが迫害によりて証明されることを示す。
[同様に] 「同じことを」で現行訳にこれを欠く。
2章15節 ユダヤ
口語訳 | ユダヤ人たちは主イエスと預言者たちとを殺し、わたしたちを迫害し、神を喜ばせず、すべての人に逆らい、 |
塚本訳 | 主イエスをも豫言者をも殺し、また私達(イエスの福音を伝える者)をも迫害した同胞! 神の御意に適わず、凡ての人に敵意をもち、 |
前田訳 | ユダヤ人は主イエスをも預言者をも殺し、われらを迫害し、神をよろこばせず、すべての人にさからい、 |
新共同 | ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、 |
NIV | who killed the Lord Jesus and the prophets and also drove us out. They displease God and are hostile to all men |
2章16節
口語訳 | わたしたちが異邦人に救の言を語るのを妨げて、絶えず自分の罪を満たしている。そこで、神の怒りは最も激しく彼らに臨むに至ったのである。 |
塚本訳 | 私達が異教人の救いのために伝道することを妨げて、いつも自分の“罪の枡目を充たしている”(あの同胞ユダヤ)人達! しかし(神の)御怒りは(今や)遂に彼らに臨んでいる! |
前田訳 | われらが異教徒にその救いを語るのを妨げて、つねに自らの罪を満たしています。彼らにいつまでも怒りがのぞんでいます。 |
新共同 | 異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。 |
NIV | in their effort to keep us from speaking to the Gentiles so that they may be saved. In this way they always heap up their sins to the limit. The wrath of God has come upon them at last. |
註解: 15節末尾および16節私訳「我らをも迫害し、神を悦ばせず、我らが異邦人に救いを得させんとて語るを拒みて万民に逆らい、かくして常に己が罪を充さんとするなり」。パウロの心中に福音を迫害するユダヤ人に対する義憤が燃え上って来た。そしてユダヤ人に対しその四つの罪を数え上げているのである。(この四つは原文ではみな15節の中に入っている)すなわち(1)イエスおよび預言者を殺せること、(2)パウロらを迫害せること、(3)神を悦ばせざること(ユダヤ人はキリスト者を迫害することをもって神に仕うる所以と考えた。ヨハ16:2)。(4)万民に逆うことである。万民に逆うことの意味は16節の「福音を異邦人に語ることを妨害すること」である。たしかにイエスの福音は万民を救うためのものである故、これを妨害することは万民に逆う所以である。かくのごとくユダヤ人は昔より今日に至るまで常に罪の上に罪を重ね、ついには彼らに定められしその桝目を充たすに至るのである。そして後神の審判は彼らの上に天より下るのである。
註解: パウロはその憤慨の情に燃ゆると共に、神もまたその怒りの情を極端まで到達せしめてい給うことを確信した。神の怒りが何時、如何なる形において顕わるであろうかはここに論及していない。唯神の御心の中においてもはや忍び得ざる程度にまで到達したのであると考えた。
辞解
本節をエルサレム陥落後の挿入と考え、これを理由として本書のパウロの作たることを否定する学者があるけれども不当である。パウロは、忍ぶべからざるユダヤ人の罪の上に神の怒りはすでに臨んでおり、具体的にもそれがやがて顕れるであろうことを直感したのであった。そして約20年後にそれはエルサレムの破壊となり、ユダヤ人の亡国となって表われたのである。
要義1 [神の言としての人の言]テサロニケの信徒はパウロらの言を神の言として受けたとのことであるが(13節)、これは一見人間を神として拝するかのごとくに見えるけれども、実はパウロらが全く神に用いられ、神に動かされ、神の御意を語っていることを知りかつ信じた結果、パウロらの言をそのまま神の言として受けたのであった。これは神を信ずる者の心の中に起る神の人への絶対信頼の心境であって、かくしてのみ真に人の言が神の言なりや否やを知ることができるのである。
要義2 [ユダヤ人の罪]ユダヤ人が神の選民でありながら、預言者を殺し、イエスを十字架につけ、使徒たちを迫害し、十字架の福音を妨害することは、まことに甚だしき矛盾であるといわなければならない。しかしながらそこに神を信ずることの如何に困難であるかが明らかにせられ、これによりて人類の罪が明らかにせられたのである。神の義と愛とを示すがためにはユダヤ人の罪と反逆とが必要であった。ユダヤ人は全人類に代って人類の罪を証明したのである。
要義3 [ユダヤの教会の迫害の例を掲ぐる必要]パウロは何故にユダヤ教会の迫害のことをテサロニケ人に示せるやにつき諸説あれど、最も適切なる解釈は、(1)単に信仰には迫害が附き物なることを示すのみならず、(2)多くの場合同国人より非国民として取扱われること多きこと、(3)そしてこれはテサロニケ人より見て他国人たるユダヤ人の宗教なるが故ではなく、キリスト教に付随する性質であること、その証拠としてユダヤ人自身のキリスト者さえもユダヤ人より迫害せられることを見れば、これを知ることができるとの意味である。
2章17節
口語訳 | 兄弟たちよ。わたしたちは、しばらくの間、あなたがたから引き離されていたので—心においてではなく、からだだけではあるが—なおさら、あなたがたの顔を見たいと切にこいねがった。 |
塚本訳 | 兄弟達よ、私達は少しの間、君達から離れていたので──(もちろん)形の上(だけ)のことで、心ではそうではなかったが──それだけ一層熱心に君達に会いたいと思い焦がれた。 |
前田訳 | 兄弟たちよ、しばらく顔では離されていましたが、心では然らずです。それだけますますお顔を見たいひたすらな気持に満たされました。 |
新共同 | 兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。 |
NIV | But, brothers, when we were torn away from you for a short time (in person, not in thought), out of our intense longing we made every effort to see you. |
註解: 私訳「兄弟よ、われら心にはあらで顔にて暫時なんぢらと離別し居りし時、切に願いていよいよ汝の顔を見んことを勉めたり」。パウロらの心はテサロニケの兄弟たちと離別したことはなかったけれども、使17:5−10の事情により、無理にテサロニケを去らなければならなかった。その後間もなく切なる欲求が心に起り、非常に熱心にテサロニケに往こうと努力した。
辞解
[暫く] 直訳「一時間の期間の間」で「短時間」の意。
[離れ居る] orphanizomai は本来「孤児とされる」ことであるが転じて子を奪われし親につきても用いられ、その他同様の感情に適用せられる。すなわち離別、空虚、寂寞等の感情を含む。
[愈々 ] 比較級副詞、時間の短いのに比較して「一層」の意と解する説あれど(M0、A1)、かかる比較と見るよりも漠然と「非常に」、「普通程度以上に」と解すべきであろう(Z0参照)。
[切に] 直訳「多くの欲求をもって」。
2章18節 (
口語訳 | だから、わたしたちは、あなたがたの所に行こうとした。ことに、このパウロは、一再ならず行こうとしたのである。それだのに、わたしたちはサタンに妨げられた。 |
塚本訳 | というのは、私達は君達の所に行こうと思ったけれども──そして私このパウロは、一度ならず二度までも──(しかし)サタン(の奴)に邪魔され(て行けなかっ)たのである。 |
前田訳 | それでわれらは伺いたく思ったのです。とくにわたくしパウロは一再ならずそう思いましたが、サタンがわれらを妨げました。 |
新共同 | だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。 |
NIV | For we wanted to come to you--certainly I, Paul, did, again and again--but Satan stopped us. |
註解: 本節初頭に「この故に我ら」を加うべし。パウロの書簡において「我ら」は多くの場合「我」の意味に用いられているけれども(L2、すなわち「作者の複数」)ここでは特に「我」と区別している。テモテはすでにテサロニケを訪問したので、これはパウロのみの計画に関するが故である。サタンの妨害が如何なる事実を指すかは確定できないけれども(M0)、使17:13、14のごときもその一つの場合であったと見るべきである(B1)。そしてパウロはこれらの事情の背後にサタンの手を見たのである。信者の敵は常にサタンである。
2章19節 (そは)
口語訳 | 実際、わたしたちの主イエスの来臨にあたって、わたしたちの望みと喜びと誇の冠となるべき者は、あなたがたを外にして、だれがあるだろうか。 |
塚本訳 | 何故(こんなにも君達に対して熱心であるか)と言うのか。(兄弟達よ、)私達の主イエスの来臨の時、その御前で私達の希望(であり)、喜び(であり)、誇りの冠(である者)は(一体)誰であるか。(他の人達と共に)君達もそうではないのか。 |
前田訳 | われらの主イエスの来臨を前にして、あなた方のほかにだれがわれらの望み、よろこびまた誇りの冠でしょうか。 |
新共同 | わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。 |
NIV | For what is our hope, our joy, or the crown in which we will glory in the presence of our Lord Jesus when he comes? Is it not you? |
2章20節
口語訳 | あなたがたこそ、実にわたしたちのほまれであり、喜びである。 |
塚本訳 | 然り、(誠に)君達こそ私達の光栄、また喜びである! |
前田訳 | あなた方こそわれらの栄光またよろこびです。 |
新共同 | 実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。 |
NIV | Indeed, you are our glory and joy. |
註解: 19節は18節の熱望の理由を示す。すなわちパウロがかくも熱心にテサロニケ訪問を希望する理由は、彼らの信仰が神の前に誇り得る所のものであり、それだけパウロらにとりても貴重なものであるためである。すなわち彼らテサロニケの信徒は現在においてもそうであるが殊に主イエスの再臨の時、換言すれば主イエスが凡ての人々に審判を行い給う時においては、彼らは最も確実にキリストの救いに与ることの希望をパウロらは有っており、またその信仰的生涯が神の前に喜ばれることがパウロらの喜悦となるべく、また彼らが主の御前に栄光を与えられることがパウロらの伝道の成功の栄誉の冠としてパウロらの頭上に輝くであろうとの意味である。パウロはかくもテサロニケの信徒につき誇っていた。「汝らならずや」は精確に訳すれば、「汝らもまた然るにあらずや」で他の教会と共にテサロニケ教会もその中に確かに加えられるものたることをパウロらは確信したのであった。それ故にパウロは最後にテサロニケの信徒を「我らの栄光、我らの喜悦」として称えている。
辞解
19節前半は原文においては後半に附加せられしごとき形を取っている。パウロがこの一句を加えたのは、希望、喜悦、誇の冠冕 たる事実が一時的現在的の事柄ではなく永遠的意義を有することを示さんがためである。
要義 [パウロのテサロニケの信徒に対する熱愛]愛は弱きもの、悩めるもの、不完全なるもの対して強く働きかけるものであるが、一面美わしきもの、潔きもの、完 きものに対しても強く働きかける。而してこの美しさ、潔さ、完全さが、肉に属せず霊に属するものである場合、この愛は神の愛の高さにまで高められる。パウロが17−20節に、女々しきまでの恋慕の情を示しているのは、この種の愛の発露であった。神が教会を選び給うたのも、「教会を潔め、これを聖なる者として、汚点なく、皺なく、凡てかくのごとき類なく、潔き瑕なき尊き教会をおのれの前に建てん為」であった(エペ5:26、27)。我らの自然に具有する美を愛する心は、かくして完全なる心に聖化されるのである。パウロのテサロニケの信徒に対する愛はこれであった。而してテサロニケの信徒の霊的の美しさはその迫害の中に一層発揮されたのであった。
第1テサロニケ書第3章
2-2-ロ テモテの派遣について 3:1 - 3:5
口語訳 | そこで、わたしたちはこれ以上耐えられなくなって、わたしたちだけがアテネに留まることに定め、 |
塚本訳 | それ故もはや我慢が出来ず、私達だけアテネに残ることに決心し、 |
前田訳 | それで、もはや堪えられなくて、われらだけアテナイにとどまることに決め、 |
新共同 | そこで、もはや我慢できず、わたしたちだけがアテネに残ることにし、 |
NIV | So when we could stand it no longer, we thought it best to be left by ourselves in Athens. |
註解: テサロニケの信徒を訪れたい熱望(Tテサ2:17、18)がしばしば妨げられたので、耐え切れない心持になった。
註解: この「我等」はパウロ一人を指すと見る説多し(A1、L2 、M0)、その故は使徒行伝によればパウロがベレヤにシラスとテモテを残してアテネに行ってから(使17:14)、彼らがコリントにあるパウロの許に帰り来る(使18:5)までは、彼らがアテネに来たことは記されていないので(使17:16)、この事実と「我等」との調和は困難であるためである。或は使17:15のパウロの命令に従い、その後二人ともアテネに来り、さらにアテネよりテモテをテサロニケに遣わしたものかもしれない。そしてその後パウロはコリントに行き、シラスは使18:5までアテネに残留し(使18:1参照)、テサロニケより帰り来れるテモテと合流してコリントに来りパウロに合したものと考えることができる。かく解すればこの「我等」はパウロとシラスを指す。
3章2節 キリストの
口語訳 | わたしたちの兄弟で、キリストの福音における神の同労者テモテをつかわした。それは、あなたがたの信仰を強め、 |
塚本訳 | 私達兄弟で、キリストの福音における神の共働者であるテモテを(君達の所に)遺った。これは(彼によって)君達をその信仰において強め、また励まし、 |
前田訳 | われらの兄弟でキリストの福音のための神の共労者テモテをつかわしました。それはあなた方を強め信仰を励まして、 |
新共同 | わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、 |
NIV | We sent Timothy, who is our brother and God's fellow worker in spreading the gospel of Christ, to strengthen and encourage you in your faith, |
註解: ここにパウロはその遣わせるテモテにつきその貴き資格を掲げている。これをもって単にパウロの習癖と見るべきではなく、テサロニケの信徒をしてテモテのことを思い起さしめ、彼が重大なる資格をもって来たことを記憶せしむるがためである。パウロが他人を紹介する場合にしばしばその特質をこれと共に掲げるのは、その場合に応じて特種の目的を有するものと考えるべきである。
辞解
[役者] diakonos は異本「同労者」synergos とあり、またこの双方を掲げるものあり、重要なる写本は「同労者」を用う。もしこれが正しとすればテモテは非常に光栄ある資格をもって称えられたこととなる。
これは
3章3節 (
口語訳 | このような患難の中にあって、動揺する者がひとりもないように励ますためであった。あなたがたの知っているとおり、わたしたちは患難に会うように定められているのである。 |
塚本訳 | (斯くして)この(大なる)患難の際に(君達の中の)誰一人も揺すぶられることの無いためである。──私達(キリストを信ずる者)が斯く運命づけられていることは、君達自身が(よく)承知しているはずだ。 |
前田訳 | だれもこの苦しみの中で動揺しないためでした。ご承知のとおり、われらはこのことへと定められています。 |
新共同 | このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。 |
NIV | so that no one would be unsettled by these trials. You know quite well that we were destined for them. |
註解: テモテを遣わせることの目的を録す、すなわち彼らの遭えるこれらの迫害に際しても堅く動かざる信仰を持続せしめ、信仰につき奨励薫陶せんがためであって、これを換言すればこれらの大なる患難に遭遇するも、その信仰やその心に動揺する者のなからんためであり、テサロニケの教会の確立のためである。
辞解
[動かす] sainô は犬が尾を振ることに用いられ、阿諂 の態度を指すと解する説があり、かく解する場合、患難に対して追従の態度に出でて信仰を失うことを意味す。ただしこの語はまた単に「動揺する」意味にも用いられる故本節の場合単純にかく解するを可とす。
註解: 直訳「我らこのことに定められたるは汝自ら知る所なり」。「我ら」はキリスト者一般を指す、キリスト者は信仰生活を送らんとする場合必ず迫害に遭う(Uテモ3:12。マタ5:10)。このことはテサロニケの信徒の知っている処である。
3章4節
口語訳 | そして、あなたがたの所にいたとき、わたしたちがやがて患難に会うことをあらかじめ言っておいたが、あなたがたの知っているように、今そのとおりになったのである。 |
塚本訳 | 何故なら、私達が患難に遭わねばならぬことは、君達と一緒にいた時分に予め話して置いたことでもあり、それが(果たして)その通りになって、君達が(今自分で経験してそれを)知ったまでであるから。── |
前田訳 | そちらにおりましたとき、われらが苦しもうことを前もって申しましたが、そうなったこともご承知のとおりです。 |
新共同 | あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました。 |
NIV | In fact, when we were with you, we kept telling you that we would be persecuted. And it turned out that way, as you well know. |
註解: キリスト者は患難に遭わなければならぬことは既にパウロがテサロニケにいた時からこれを告げていたのであった。何となればこれは偶然のことではなく、必然的運命だからである(要義参照)。然るにその後幾何 もなくして今日はもはやその言が実現し、そして汝らはそのことを知っている。すなわち当然来るべきものが来たのである。
口語訳 | そこで、わたしはこれ以上耐えられなくなって、もしや「試みる者」があなたがたを試み、そのためにわたしたちの労苦がむだになりはしないかと気づかって、あなたがたの信仰を知るために、彼をつかわしたのである。 |
塚本訳 | この故に私は最早我慢が出来ず、あるいは「試惑者」(なるサタン)が君達を試惑みて、(今日までの)私達の骨折りが(全く)無駄になるようなことがあってはと、君達の信仰(のことが心配になり、様子)を知るため君達の所に使い(としてテモテ)を遺ったのである。 |
前田訳 | それでわたくしも堪えられなくて彼をつかわしました。それは、誘惑者があなた方を試みなかったか、われらの労苦がむだにならないかが心配で、あなた方の信仰を知るためでした。 |
新共同 | そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。 |
NIV | For this reason, when I could stand it no longer, I sent to find out about your faith. I was afraid that in some way the tempter might have tempted you and our efforts might have been useless. |
註解: 第1節を再記している。従ってこれまでは括弧の中に在るごとき関係となる。現行訳に省かれてる「も亦」は、忍ぶ能わざる者がパウロのみあらざることを示す。
註解: 「試むる者」はサタンである。この場合の試みは試誘 よりも試煉と解すべきである。凡ての試煉や試誘 の背後には「試むる者」(定冠詞を有す)なるサタンが糸を操っている。そしてこの試煉に屈しまたは試誘 に負ける時、迫害を冒してなされるパウロらの伝道の労苦も空に帰してしまうこととなる。かくならざらんがために彼らの信仰状態を知り、これに適当な助けを与えさせんとてテモテを遣わしたのであった。
辞解
[恐れ] 原文になし。意訳である。むしろ「空しくならざらんため」と訳すべし。▲パウロの関心は信者の数の多少ではなく、その信仰生活の状態如何であったことは注意しなければならない。
3章6節
口語訳 | ところが今テモテが、あなたがたの所からわたしたちのもとに帰ってきて、あなたがたの信仰と愛とについて知らせ、また、あなたがたがいつもわたしたちのことを覚え、わたしたちがあなたがたに会いたく思っていると同じように、わたしたちにしきりに会いたがっているという吉報をもたらした。 |
塚本訳 | 然るに今テモテが君達の所から帰って来て、君達の信仰と愛とについて喜ばしい報告を齎し、また君達がいつも私達について善い思い出を有って居り、丁度私達が会いたいと思っているように、君達(の方で)も私達に会いたいと思い焦がれていると告げたので、 |
前田訳 | 今テモテがそちらから帰って、あなた方の信仰と愛の朗報をもたらし、われらのことをつねによくお思いで、われらがお会いしたいのと同じく、あなた方もわれらに会いたいと思っている、と伝えました。 |
新共同 | ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。 |
NIV | But Timothy has just now come to us from you and has brought good news about your faith and love. He has told us that you always have pleasant memories of us and that you long to see us, just as we also long to see you. |
註解: この書簡はテモテがコリントに帰り来れる後間もなく認 められしものであろう。彼はテサロニケの信徒の信仰と愛とに充ちている信仰状態を告げた(Tテサ1:2、3)。これはパウロらにとりて真に喜ばしき音信であった。
辞解
「今」を7節の「慰安を得たり」に関連せしめんとする説(M0)は不可。
[喜ばしき音信を聞かせ] euangelizomai は「福音を宣伝ふ」と同一の語。
註解: 本節前半がテサロニケの信徒の信仰状態、後半はパウロらに対する愛着を陳ぶ、すなわち彼らはパウロらにつきて常に善き思い出をいだき、また切に彼らに逢うことを熱望していた。この点においてパウロの心持に劣らぬものがあった。彼らの関係はまことに美わしいものである。
辞解
[懇 ろに念ひ] 「善き憶出を有ち」。
[告げ] 前半の「喜ばしき音信を聞かす」を再度訳出せるもの。
3章7節 (
口語訳 | 兄弟たちよ。それによって、わたしたちはあらゆる苦難と患難との中にありながら、あなたがたの信仰によって慰められた。 |
塚本訳 | (愛する)兄弟達よ、それ故、私達は君達の故に、あらゆる苦難と患難において君達の信仰によって慰められた。 |
前田訳 | それで、兄弟よ、われらはあらゆる困窮と苦難のうちにあなた方の信仰によって励まされました。 |
新共同 | それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。 |
NIV | Therefore, brothers, in all our distress and persecution we were encouraged about you because of your faith. |
3章8節
口語訳 | なぜなら、あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、わたしたちはいま生きることになるからである。 |
塚本訳 | (君達は私達の生命である。)君達が主に在って確く立っていれば、(私達は生きている。然り、)私達は今生きているのだ! |
前田訳 | じつに、われらが今生きているのは、あなた方が主にあって竪くお立ちなればこそです。 |
新共同 | あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。 |
NIV | For now we really live, since you are standing firm in the Lord. |
註解: 8節私訳「そは汝ら主にありて堅く立たば我ら生くるが故なり」。テサロニケの信徒の信仰状態およびパウロらに対する愛情をききて、これによりてパウロらは多くの苦難と患難を受けつつも、その中にありて慰安を得て、自己の苦難を忘れることができた。パウロらにとりてはテサロニケの信徒が堅き信仰を有っていることが彼らを元気づけ、生き心地有らしむる所以であって、然らざる場合パウロは死よりも苦しい立場に立つのであった。如何にパウロが彼らを愛し、その信仰につき心を労していたかを見ることができる。
辞解
[苦難と患難] 如何なる事実を指すやは不明であるが、使18:5−10等もその中に含まれるものと思わる。
[堅く立たば] 事実に基く仮定。勧めの心持を含む。
[生く] 「永遠の生命を受く」というごとき意味ではなく、また単に「幸福なり」というのでもない。「力に充ち、新鮮なる生命に充ること」を意味す。
3章9節
口語訳 | ほんとうに、わたしたちの神のみまえで、あなたがたのことで喜ぶ大きな喜びのために、どんな感謝を神にささげたらよいだろうか。 |
塚本訳 | まことに私達は君達に就き、君達の故に私達の神の前に喜んでいる一切の大なる喜びに対して、(一体)如何なる感謝(の祈り)を神に捧ぐることが出来ようか。 |
前田訳 | あなた方のことゆえに神のみ前によろこぶわれらの一切のよろこびについて、どんな感謝を神にささげえましょうか。 |
新共同 | わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。 |
NIV | How can we thank God enough for you in return for all the joy we have in the presence of our God because of you? |
3章10節
口語訳 | わたしたちは、あなたがたの顔を見、あなたがたの信仰の足りないところを補いたいと、日夜しきりに願っているのである。 |
塚本訳 | 私達は(もし許されれば再び)君達の顔を見、且つは君達の信仰の欠けた所を完全にしたいと、夜も昼も熱心に(神に)懇願しているのである。 |
前田訳 | われらは直接お会いしてあなた方の信仰の欠けたところを補いたいと夜昼心をこめて祈っています。 |
新共同 | 顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。 |
NIV | Night and day we pray most earnestly that we may see you again and supply what is lacking in your faith. |
註解: 10節末尾の「願ふ」は「願いつつ」で10節は文脈上9節に従属しているがその関係は論理的結合ではなく、一方に祈願を為しつつあるが、他方感謝に言葉なきことを示している。パウロはテサロニケの信徒の信仰を非常に喜んでいた。しかしこれは結局神の恩恵の賜物であるので神に感謝を献ぐべきものであるとパウロは考えた。しかもその喜びの大なるがために如何なる感謝をもって神に報ゆべきかを知らなかった。
辞解
[献ぐ] 「報ゆ」または「償う」意味の語を用う。
[神の前によろこぶ] そのよろこびのこの世的、肉的のものにあらざることを意味す。
註解: 11−13節で、パウロのテサロニケの信徒に関し祈祷を神にささげている。人間の熱愛と熱望は結局神に向けられ神に到達しなければならない。
3章11節
口語訳 | どうか、わたしたちの父なる神ご自身と、わたしたちの主イエスとが、あなたがたのところへ行く道を、わたしたちに開いて下さるように。 |
塚本訳 | 願わくは私達の父なる神彼自らと私達の主イエスが、私達のために道を備えて君達に到らしめ給わんことを。 |
前田訳 | われらの父なる神ご自身と主イエスがそちらへの道をお整えなさいますように。 |
新共同 | どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。 |
NIV | Now may our God and Father himself and our Lord Jesus clear the way for us to come to you. |
註解: パウロらの熱望だけでは足らず、またこれがためにパウロらが種々画策するだけでは足りない。結局において神の御旨が成るのであり、神の御手が加えられることが必要である。パウロはこのことを父なる神に祈っているのである。
辞解
[みづから] すなわち「彼自身」で、パウロら自身と対照して神の働きを強調していると見るべきである。これを単なる修飾と見ることは(L2)不適当である。
[導き] 道を直くすること、三人称単数の形を用いているのはユダヤ人の祈祷のギリシャ訳の形式にパウロが慣れていたためであろう(L2)。そしてこれは結局において父と子との一人格たることの感じを表明したこととなる(A1、B1)。
3章12節
口語訳 | どうか、主が、あなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを、わたしたちがあなたがたを愛する愛と同じように、増し加えて豊かにして下さるように。 |
塚本訳 | 願わくは君達相互の間においても、凡ての人に対しても、主が君達の愛を増し且つ豊かにして、君達に対する私達の愛の如くなし給わんことを。 |
前田訳 | 主があなた方の互いの愛とすべての人への愛を増してあふれさせてくださいますように。われらのあなた方への愛もまたそのように。 |
新共同 | どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。 |
NIV | May the Lord make your love increase and overflow for each other and for everyone else, just as ours does for you. |
註解: 前節において自分のことを祈ったパウロは本節以下においてはテサロニケの信徒のために祈る。その第一は彼らキリスト者同志は勿論のこと一般の人、殊に彼らに敵する者に対しても愛を増しかつ豊かにせんことであった。キリスト者にとりて何よりも大切なことは愛の増さんことである。これは如何に祈っても祈り過ぎることがない。そしてパウロは「我らが汝に対するごとく」と言いて、その愛の深さを彼らに示し、彼らもパウロらのごとくならんことを祈っている。
辞解
[我らが汝らを愛するごとく] 原文「我らが汝らに対するごとく」で、これに如何なる語句を補充すべきかにつきては種々の説あり、現行訳がパウロの心持を顕している。
3章13節 かくして
口語訳 | そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。 |
塚本訳 | かくて君達は心を強められ、私達の主イエスがその凡ての聖徒達と共に(再び)来臨り給う時、私達の父なる神の前に於てその聖潔に就て責められることなからんことを。 |
前田訳 | 主があなた方の心を堅くし、われらの主イエスが彼のすべての聖徒とご来臨のとき、父なる神のみ前に聖くとがなく立ちえますように。 |
新共同 | そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。 |
NIV | May he strengthen your hearts so that you will be blameless and holy in the presence of our God and Father when our Lord Jesus comes with all his holy ones. |
註解: 前節の愛を豊かにすることの目的。信仰を堅く保ちて主の再臨の時に、その審判の座の前に立ちて神の前に潔くして責むべき所なきものとならんためである。かくなることによりて、テサロニケ人の救いは完成せらるのである。
辞解
[凡ての聖徒と偕に] ここでの「聖徒」 hagioi は旧約聖書では天使につきて用いられている場合があり(ゼカ14:5)また当時の経外典によりばエホバの来臨の際天使と共に来ること、または天使および聖者と共に来ること等種々の思想があるので、この「聖徒」 hagioi が天使を意味するか、またはすでに眠れる聖徒を意味するかは不明である。「主がその御使いと共に来り給う」ということは当時の慣用の表顕形式であったことと(Uテサ1:7。マタ16:27。マタ25:31。マコ8:38。ルカ9:26)、およびすでに眠れる信者はキリスト再臨の時、これと共に来ることの思想が当時に存していたのを見れば(Tテサ4:16)、本節の場合この両者を併せているものと解すべきであろう(A1、B1)。パウロは単に同時において固定せる形式をそのまま用いたとしても、全然その意味を無視したはずがなく、上記のごとき心持であったと想像することができる。
要義1 [テサロニケの信徒に対するパウロの愛]この愛のまことに切なるものであることは、3:1−10によりてこれを窺い知ることができる。而してこの愛は、パウロがイエス・キリストの使徒としてテサロニケ人にイエスの福音を宣伝えし結果、彼らをイエスのものとすることができ、かくして彼らはパウロが獲得した伝道の果実であるがために、結局においてイエス・キリストの愛がそれらの人々に注がれたのであり、このイエス・キリストの愛をもってパウロもまた彼らを愛しているのであった。従ってパウロの熱愛はキリストにありて彼らに注がれており、その結果切に彼らに逢わんとする熱望となり、さらにそれが神の前にまたキリストの前に彼らを完全なるものとして立たしめんとの熱心なる祈りとして彼らのためにささげられているのである。我らはここに肉による自然の愛以上に強くしてしかも聖化せられし愛の貌を見ることができる。
要義2 [凡ては神より出づ]パウロはテサロニケの信徒のためにあらゆる労苦を厭わず、或はテモテを遣わし、或は自ら書簡を認 める等のことをなし、殊に彼らが迫害の下に立てる場合、或は慰め或は励ましてこれを力付け、彼らがパウロらを愛しこれを見んことを切望することをききて歓喜に溢れている等の事実を見る場合、パウロは凡て人間的にテサロニケの信徒に対しているようであるけれども、然らず、パウロの心中にはこれらの凡てのことにつきて唯神にのみ感謝をささげ、神にのみ祈りつつあったのであり、また唯神を喜ばせ奉らんことをのみ考えていたのであった。凡ての善は恩恵として神より出づるものである。それ故に我らは神に感謝し神に栄光を帰しなければならぬ。而して我らはこの神に仕え、神の御心を行うものである故、全力を尽くしてこれに当らなければならぬ。己はその使命に全力を尽くしつつ、凡ての感謝を神にささげ、凡ての栄光を神に帰するのが、真のキリスト者の態度である。