黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版マタイ伝

マタイ伝第5章

分類
3 山上の垂訓 5:1 - 7:29

註解: 「山上の垂訓」と称される聖書のこの部分は、イエスの教訓の重なるものを秩序的に配列したのであって、あたかも幾百の宝石をちりばめた王冠のごとくに珠玉の文字をもって光り輝いている。その中になんら思索の臭みがなく、また方便主義、便宜主義の片影だにもない。全編ただ天来の真理が巨鐘のごとくに響き渡っているのをきくのみである。この山上の垂訓は世界のすべての宝玉的文字の中の最大のダイヤモンドであろう。▲5-7章の山上の垂訓は次のごとくに分類される。5:3-12は我らの心の在り方、5:13-48は対人関係としての新しい律法、6:1-18は宗教生活、6:19-34は経済生活、第7章は雑多の問題。

5章1節 イエス群衆(ぐんじゅう)()て、(やま)にのぼり、()(たま)へば、弟子(でし)たち御許(みもと)にきたる。[引照]

口語訳イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
塚本訳イエスはこれらの群衆を見て、(近くの)山に上られた。お坐りになると、弟子たちがそばに来たので、
前田訳群衆がお目にとまったので彼は山に上られた。彼がすわられると弟子たちがみもとに来た。
新共同イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
NIVNow when he saw the crowds, he went up on a mountainside and sat down. His disciples came to him,

5章2節 イエス(くち)をひらき、(をし)へて()ひたまふ、[引照]

口語訳そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
塚本訳口を開き、こう言って教えられた。(群衆も集まってきて聞いた。)──
前田訳そこで口を開いて彼らを教えられた、いわく、
新共同そこで、イエスは口を開き、教えられた。
NIVand he began to teach them, saying:
註解: どこの山であったかについては種々の伝説があるけれども確実にこれを知ることができない。あたかもモーセがシナイ山において神より律法を授けられしごとく、キリストも山において新たなる律法をその弟子らに授けた。この垂訓を与えられた直接の相手方は弟子らであったが群集もまた共にこれを聞くことができた。この山この人々は幸いである。▲▲ルカ6:17には「平かなる所」とあり「平野の垂訓」となっている。種々の場所で説かれた教訓であることは明らかである。
辞解
[口をひらき] 重大なることを言わんとする場合のまじめなる態度を示す。

3-1 幸福者 5:3 - 5:12
(ルカ6:20-26) 

5章3節 幸福(さいはひ)なるかな、(こころ)(まづ)しき(もの)天國(てんこく)はその(ひと)のものなり。[引照]

口語訳「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
塚本訳ああ幸いだ、神に寄りすがる“貧しい人たち、”天の国はその人たちのものとなるのだから。
前田訳「さいわいなのは霊に貧しい人々、
  天国は彼らのものだから。
新共同「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
NIV"Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.
註解: 真に幸福なるものは自己に道徳、知識、学術、智慧等を豊かに持っているとの自信がある人ではなく、却って乞食のごとくに自己に一物の誇るべきなく、すべてを神にまかせ、神より時々刻々にその必要なる心の糧を与えられる人である。かかる人々の受くる(むくい)はこの世における名誉地位権勢ではない。しかしながら「天国はその人のもの」であって、キリスト再臨のとき天国はかかる人によりて占められるのであり、かつ現在においても既にその一部を握っているのである。▲何となれば天国とは「神の支配」を意味し、この支配に服従するところに天国は存在するからである。
辞解
[貧しき] 原語ptôchosは乞食を意味する。

5章4節 幸福(さいはひ)なるかな、(かな)しむ(もの)。その(ひと)(なぐさ)められん。[引照]

口語訳悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
塚本訳ああ幸いだ、“悲しんでいる人たち、”(かの日に)“慰めていただく”のはその人たちだから。
前田訳さいわいなのは悲しむ人々、
  彼らは慰められようから。
新共同悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
NIVBlessed are those who mourn, for they will be comforted.
註解: 悲しみは不幸の印であると思われているけれどもこれ誤りである。この世には生老病死種々の苦痛がありいずれもみな悲しみに種ならざるはない。これに加えるに自己の罪の悲しみがある。これらの悲しみを悲しむ者こそ、真に天国を求め、神を求め、イエスを仰ぎ見る者であり、やがては愛の神よりの慰めを得ることができるのであって真の幸福者である。反対にこれらの悲しみを忘れんがために、一時の快楽を追う者は永遠に慰めを失ってしまうのである。

5章5節 幸福(さいはひ)なるかな、柔和(にうわ)なる(もの)。その(ひと)()()がん。[引照]

口語訳柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
塚本訳ああ幸いだ、“(踏みつけられて)じっと我慢している人たち、”“(約束の)地(なる御国)を相続する”のはその人たちだから。
前田訳さいわいなのはくだかれた人々、
  彼らは地を継ごうから。
新共同柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
NIVBlessed are the meek, for they will inherit the earth.
註解: 現世のいわゆる成功者たらんとするものは柔和であってはならない。彼は他人を排除、圧迫、誹謗するの勇気と大胆さとを持っていなければならない。かくして成功せる人は現世の幸福者と見なされている。されど真の幸福者は柔和なるものである、人には排斥され、圧迫され、誹謗され、「侮られて人にすてられ悲哀の人にして病患を知れる」人である。かかる人こそ神これを救い給いやがてキリストと共に、この全地を支配する栄光の地に置かれる人である。ガラ3:18エペ1:11
辞解
[地を嗣ぐ] 神がその民に嗣業としてこの地を与え給う約束の実現を意味している。キリスト再臨後の状態である。

5章6節 幸福(さいはひ)なるかな、()()(かわ)(もの)。その(ひと)()くことを()ん。[引照]

口語訳義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
塚本訳ああ幸いだ、(神の)義に飢え渇いている人たち、(かの日に)満足させられるのはその人たちだから。
前田訳さいわいなのは義に飢え渇く人々、
  彼らは満ち足らわされようから。
新共同義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
NIVBlessed are those who hunger and thirst for righteousness, for they will be filled.
註解: この不義の世にありてあまりに熱烈に義を求むる者はこの世の失敗者となるであろう。この世の栄誉を得んとすればある程度の不義に安住しなければならない。この世に安住する人はこの世の成功を()ち得るかも知れない、しかしながら彼らは義に飽くことができない。飢えて食を求め渇して水を求むるごとき熱烈さを以て義を求める者は、たとえこの世の与える何物をも()ち得ないにしてもただ一つ義に飽くことができる。そして義に飽くことは自己の義に飽くのではなく、自己になんらの義なきことを発見してキリストを信じることにより、神はキリストの義をすべて我らに与えて我らを飽かしめ給うのである(Tコリ1:30)。

5章7節 幸福(さいはひ)なるかな、憐憫(あはれみ)ある(もの)。その(ひと)憐憫(あはれみ)()ん。[引照]

口語訳あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
塚本訳ああ幸いだ、憐れみ深い人たち、(かの日に)憐れんでいただくのはその人たちだから。
前田訳さいわいなのはあわれみの人々、
  彼らはあわれまれようから。
新共同憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
NIVBlessed are the merciful, for they will be shown mercy.
註解: 不幸なる人々を見て憐れむのみならず、自己を害せんとする者をも愛してこれをあわれみ、キリストのごとくに己に叛く罪人のために自己を十字架に釘けることができる人は幸福である。かかる人はこの世においては苦しみが絶える時がないであろう。この世に一人でも不幸な人がいる間は、かかる人は「愛による労苦」より免れることができないであろう(Tテサ1:2)。しかしながら神の憐れみは最も多くかかる人の上に下るのであって、憐れみ多きがゆえにこの世において受くる苦難と十字架とは、神よりくる憐れみによりて償われて余りあるであろう。(ヤコ2:13)。
辞解
[憐憫] eleos は最も高尚なる種類の憐み即ち神の人に対する憐みに最も多く用いられ、単なる同情以上の心を表している。

5章8節 幸福(さいはひ)なるかな、(こころ)(きよ)(もの)。その(ひと)(かみ)()ん。[引照]

口語訳心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
塚本訳ああ幸いだ、“心の清い人たち、”(御国に入って)神にまみえるのはその人たちだから。
前田訳さいわいなのは心の清い人々、
  彼らは神を見ようから。
新共同心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
NIVBlessed are the pure in heart, for they will see God.
註解: 心kardia-heart即ち心情の純にして邪念なき者は、この世の汚れを見てこれに耐えることができない。彼は阿諛(あゆ)、姦淫、狡計、欺瞞、不義、不正等あらゆる邪曲を行うことができず、これを目撃することすら彼には耐えられない。かかる人は一見社会と歩調を共にすることができず、世にありてただ不快のみにさらされているようであるけれどもそうではない。かかる人こそこの世の汚れに目を背けることにより神にその目を向けることができるのである。そして一点の汚れなき神は最もよく御自信をかかる心に映し給う。

5章9節 幸福(さいはひ)なるかな、平和(へいわ)ならしむる(もの)。その(ひと)(かみ)()(とな)へられん。[引照]

口語訳平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
塚本訳ああ幸いだ、平和を作る人たち、神の子にしていただくのはその人たちだから。
前田訳さいわいなのは平和をつくる人々、
  彼らは神の子と呼ばれようから。
新共同平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
NIVBlessed are the peacemakers, for they will be called sons of God.
註解: この世において平和を来たらせんとせば無抵抗より外にない。自己の権利利益を少しにても主張せんとすれば、必ず他人の主張と衝突してそこに争闘が生ずる。個人的闘争、階級闘争は皆この自己主張の結果である。キリストのみは完全に自己主張をし給わず、ゆえに「平和の君」と称えられ、また「平和ならしむる者」(エペ2:14-15)であった。かかる人は一生涯十字架を負い、ただ自己に対して損失のみを招くであろう、しかしながらかかる人こそキリストと皆に神の子と称えられるべきで人である。何となればかかる心はただ神のみこれを持ち給い、神の心を心とするもののみに与えられる心情であるからである。

5章10節 幸福(さいはひ)なるかな、()のために()められたる(もの)天國(てんこく)はその(ひと)のものなり。[引照]

口語訳義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
塚本訳ああ幸いだ、信仰のために迫害される人たち、天の国はその人たちのものとなるのだから。
前田訳さいわいなのは義のゆえに迫害される人々、
  天国は彼らのものであるから。
新共同義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
NIVBlessed are those who are persecuted because of righteousness, for theirs is the kingdom of heaven.
註解: この世は悪魔の支配下にある。そして悪魔はある程度まで正義を装っていながら、絶対の正義をば最もこれを忌み嫌っている。ゆえに絶対の正義を主張する人は悪魔に従うこの世より迫害せられることは当然の運命である。ゆえにこの迫害を恐れる者はまず悪魔に跪拝(きはい)し、絶対の正義をばこれを放棄しなければならない。世はキリストを十字架に釘けた、彼の義に耐えなかったからである。古来の預言者もかかる運命にあった。されどかかる人は天国を所有している。天国は悪魔の関与し得ざる範囲であって、ただ義しき人のみこれに属するのである。迫害は一時であって天国は永遠である。義のために責められるものの幸福はこの点に存している。

5章11節 ()がために、(ひと)なんぢらを(ののし)り、また()め、(いつは)りて各樣(さまざま)()しきことを()ふときは、(なんぢ)幸福(さいはひ)なり。[引照]

口語訳わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
塚本訳わたしゆえに罵られたり、迫害されたり、あらん限りの根も葉もない悪口を言われたりする時、あなた達は幸いである。
前田訳人々がわたしゆえにあなた方をののしり、迫害し、うそをついてあらゆる悪口をいうとき、あなた方はさいわいである。
新共同わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
NIV"Blessed are you when people insult you, persecute you and falsely say all kinds of evil against you because of me.

5章12節 (よろこ)びよろこべ、(てん)にて(なんぢ)らの(むくい)(おほい)なり。(なんぢ)()より(さき)にありし預言者(よげんしゃ)たちをも、()()めたりき。[引照]

口語訳喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
塚本訳小躍りして喜びなさい、褒美がどっさり天であなた達を待っているのだから。あなた達より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
前田訳よろこび、歓呼しなさい、あなた方の褒美が天にたくさんあるから。このように人々はあなた方より前の預言者たちをも迫害したのである。
新共同喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
NIVRejoice and be glad, because great is your reward in heaven, for in the same way they persecuted the prophets who were before you.
註解: 人は単に義のために迫害されるのみならず、また「我がため」すなわちキリストの御名を呼ぶがために迫害されることは今日我ら自身これを経験することができる。「罵り」「責め」「(いつわ)りて悪口する」ことも今日目前に行われている。キリストを信ずるのゆえをもってかかる運命に合うことは決して快いものではない。然るにキリストは「汝ら幸福なり喜び喜べ」と言い給うのはなぜであろうか。これ我らのこの世においては多くの不幸と不快さを味はなければならないけれども天国において大なる報償が待っているからである。昔の預言者すら同様の迫害を受けたのである。これ信仰に立つものの当然の運命である。
要義1 [七福の解] (1)幸福の観念がここに根本的革命をきたしているのであって、従来幸福と考えられていた事柄がすべて不幸であり、従来不幸と考えられていたことが幸福であることを見るのである。キリスト者は悔改めて新生を経験したものである以上、その観念もまたすべて一変するのが当然である。かくしてキリストを信ずることによりこの世の不幸はその不幸のままに不幸たるの性質を失ってしまったのである。(2)次に注意を要することは、この数節中に未来観すなわち来世に対する約束と憧憬が非常に強いことである。「天国はその人のものなり」「地を嗣がん」「天にて汝の報いは大なり」等はもちろん、その他の約束もすべて未来に対する希望であって、現世におけるあらゆる不幸をして、甘露のごとく甘からしむるものはこの希望によるのである。もしこの来世観を除いてしまうならば、このすべての幸福はたちまちにして不幸と化してしまうであろう。
要義2 [未来の報償について] 聖書にはいたるところ報償について記されてある(マタ6:1以下、ヘブ11:26その他)。報を得んがために信じまたは善き行為をなすことは、卑しい心持であるように思われ、したがって信仰は信仰それ自身の価値のために信ずべくして、これに対しなんらの報いをも要求しない心が最も高尚なる心であると思われている。しかるに聖書は明らかにこの思想に反対している。たとえばモーセは「キリストに因る(そしり)はエジプトの財産にまさる大なる富を思えり、これ報いを望めばなり」(ヘブ11:26)といわれ、またパウロもまた「われ善き戦闘を戦い、走るべき道程を果たし、信仰を守れり、今より後義の冠冕わがために備はれり」(Uテモ4:7、8)といっている。本来一定の行為または一定の事実に対し、これに相当の報いがあることは自然の理法である。しかるに人のこれを卑しむに至ったゆえんは、一定の行為または事柄に対して過度に多くの報いを求むる心を起こしたからに過ぎない(▲または逆に、ある報償を得る目的をもって一定の行為をなす場合もこれと同様である)。正当なる報いは神必ずこれを与え給うのであって、人はまた当然にこれを期待することができる。そして聖書の与えることを約束している報償の最大なるものは神の愛である。否是がすべてであるということができる。「神に愛される事」これに優れる報いはない、そしてこの報いはこれを望んではならない理由は少しもない。これは利己主義ではなく、神に対する人間の当然の関係であるからである。そして聖書に他の報償---例へば永遠の生命、未来の嗣業、義の冕、神の国の栄光、宇宙の支配等---が約束せられている場合においても、これらはみな神とのこの愛の関係の当然の結果であり、罪を除かれて完全に神の愛を享受し、神の栄光を見る者の当然の姿である。ゆえに信仰とこの報償とは一物の両面に過ぎない、報償とは信仰をその未来の形において見たるものをいい、信仰とは報償をその現在の姿においていい表したものを言う。

3-2 弟子たるものの地位 5:13 - 5:16
(ルカ14:34、35)(ルカ11:33) 

5章13節 (なんぢ)らは()(しほ)なり、(しほ)もし效力(かうりょく)(うしな)はば、(なに)をもてか(これ)(しほ)すべき。(のち)(よう)なし、(そと)にすてられて(ひと)()まるるのみ。[引照]

口語訳あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
塚本訳(預言者と同じく)あなた達は地の塩である。(世の腐敗を防ぐのが役目である。)しかしもし塩が馬鹿になったら、何で(もう一度)塩気をもどすか。外に捨てられて人に踏まれるほか、もはや何の役にも立たない。
前田訳あなた方は地の塩である。しかし塩がきかなくなったら、何で塩づけしよう。もはや何も役立たず、外に投げ捨てられて人に踏まれるほかはない。
新共同「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
NIV"You are the salt of the earth. But if the salt loses its saltiness, how can it be made salty again? It is no longer good for anything, except to be thrown out and trampled by men.
註解: キリスト者は3-12節に延べしごとく「心の貧しき者、悲しむ者…迫害される者」等、要するに「世の塵芥(ちりあくた)のごとく、万の物の垢のごときもの」である(Tコリ4:13)。しかるにも関わらず彼らは極めて重要な職務を演じているのであって、キリストは「塩」と「光」との二者をもってこの任務、地位を表示し給うた。キリスト者は種々の意味において塩に似ている。第一に塩は人間の生命を維持するに欠くべからざる養分であると同じく、この世にキリスト者なくしてその霊的生命は永く維持せられない。第二に塩は食物に味を与えるのであって、この社会をキリスト教がいかに美化したかは人皆これを知っている。第三に塩は物の腐敗を止むる力を有っているごとく、キリスト者はこの社会や国家の良心となってその腐敗を止めたこと幾何(いくばく)であるかを知らない。第四に塩はそれ自身のみでは何人もこれを食うことができない。このごとくキリスト者は多くの人々に敬遠せられている。(▲第五に塩はそれ自身の形体を他の食物の中に浸み込ませて自己を表さない。しかもその物に味を与える。キリスト者も自己の行動を人に誇示しないけれども世を潔める力がある。)以上の諸性質はみな塩がその味を有っているからであって、もしその味を失いてキリスト者が世の腐敗と歩調を合わせ人々の良心を刺す力がなくなるならば、全然無用のものとなってしまうのみならず、もしキリスト者が人に嫌われることを恐れて世の風潮に妥協するならば、却って人より軽蔑せられ外に棄てられ人に踏まれるにいたるのである。

5章14節 (なんぢ)らは()(ひかり)なり。(やま)(うへ)にある(まち)(かく)るることなし。[引照]

口語訳あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
塚本訳あなた達は世の光である。山の上にある町は隠れていることは出来ない。
前田訳あなた方は世の光である。山の上にある町は隠されえない。
新共同あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
NIV"You are the light of the world. A city on a hill cannot be hidden.

5章15節 また(ひと)燈火(ともしび)をともして(ます)(した)におかず、燈臺(とうだい)(うへ)におく。かくて燈火(ともしび)(いへ)にある(すべ)ての(もの)(てら)すなり。[引照]

口語訳また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
塚本訳また、(せっかく)明りをともして枡をかぶせる者はない。かならず燭台の上に置く。すると、家の中におる人を皆照らすのである。
前田訳人は明りをつけて枡の下にでなく燭台の上に置く。それは家にあるものすべてを照らす。
新共同また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
NIVNeither do people light a lamp and put it under a bowl. Instead they put it on its stand, and it gives light to everyone in the house.
註解: 「神は光にして少しの暗き所なし」(Tヨハ1:5)。神は光である「もろもろの人を照らす真の光ありて世にきたれり」(ヨハ1:9)。キリストは世の光なり(ヨハ8章)。ゆえにキリスト者の性質を示すに最も相応しき語の一つは「光」である。何となれば光は暗黒に相対立していると同じく、キリスト者は神とキリストの光を反射してこの世の暗黒 (ヨハ1:5Tヨハ5:19コロ1:13) に対立しているからである。すでに世の光であるとするならば、光相応の任務を果さなければならない、即ちキリスト者は谷間の町や升の下の燈火のごとくに人より隠れることなく、山の上の町や燈台の上の燈火のごとくに人々の仰ぐところとなりこの世の暗黒を照らさなければならぬ。存在を認められざるキリスト者や、また世の罪悪を照らしてこれを潔めることのできないキリスト者は、光たるの性質をもっていないものである。
辞解
[山の上にある町] パレスチナにはこの種の町が多い、ガリラヤのサフエツトやナザレ等はこれであって、イエスはおそらくこれを指しつつ語り給うたであろう。
[燈臺] ▲▲誤解を避けるには、「燈台」よりも口語訳の「燭台」が適当である。

5章16節 かくのごとく(なんぢ)らの(ひかり)(ひと)(まへ)にかがやかせ。これ(ひと)(なんぢ)らが()行爲(おこなひ)()て、(てん)にいます(なんぢ)らの(ちち)(あが)めん(ため)なり。[引照]

口語訳そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
塚本訳そのようにあなた達も、その光を世の人の前に輝かし、人があなた達の良い行ないを見て、あなた達の天の父上をあがめるようにせよ。
前田訳このようにあなた方の光が人の前に照るようにせよ、人があなた方のよいわざを見て天にいますあなた方の父をたたえるために。
新共同そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
NIVIn the same way, let your light shine before men, that they may see your good deeds and praise your Father in heaven.
註解: キリストの弟子は決してただ山中に隠遁し、または自らの心の中にのみ立て籠もって独自の安心を得ることをもって満足してはならない。光の本領を発揮して人の前にこれを輝かさなければならない。ただしこれは自己の名誉を求めるからではない、人々をしてキリスト者の父にいます神を崇めしめんがためである。主観的満足をもって足れりとしてその信仰を他人に対して隠しているキリスト者は神の光を受けてこれを私用しているものであって、やがては神はその光を彼より奪い給うであろう。キリスト者の目的は自己の安心ではなく神の御名が崇められんことである。

3-3 律法の完成 5:17 - 5:48
3-3-イ 概論 5:17 - 5:20  

5章17節 われ律法(おきて)また預言者(よげんしゃ)(こぼ)つために(きた)れりと(おも)ふな。(こぼ)たんとて(きた)らず、(かへ)つて成就(じゃうじゅ)せん(ため)なり。[引照]

口語訳わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
塚本訳わたしが律法や預言書[聖書]を廃止するために来たと思ってはならない。廃止するどころか、成就するために来たのである。
前田訳律法または預言書をこわすためにわたしが来たと思ってはならない。わたしが来たのはこわすためでなく全うするためである。
新共同「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
NIV"Do not think that I have come to abolish the Law or the Prophets; I have not come to abolish them but to fulfill them.
註解: 「律法また預言者」とは全旧約聖書を指しており、新約聖書ができあがるまでは旧約聖書をかく読んでいた。これを(こぼ)つとは、旧約聖書に示されし律法を守らないこと、これを「成就する」とは、これを「充実せしむる」ことを意味し、律法を完全に守ることはもちろん更にこの欠けたるを補い、生命をこれに吹き入れ完全に律法を実現することである。キリストに対し彼は過激主義、律法破壊主義であるとの非難があったことに対する反対の説明であって、「予は律法破壊者にあらざるはもちろん、律法を単に形式的に守るだけでなく、これをその本来の意義において完全に成就し実現せんがために来たのである」との意味である。

5章18節 (まこと)(なんぢ)らに()ぐ、(てん)()()()かぬうちに、律法(おきて)一點(いってん)一畫(いっかく)(すた)ることなく、ことごとく(まった)うせらるべし。[引照]

口語訳よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
塚本訳アーメン、わたしは言う、天地が消え失せても、(そこに書かれている)すべてのことが実現するまでは、律法(と預言書)から、その一点一画といえども決して消え失せない。
前田訳本当にいう、天と地が過ぎ行くまで、万物が成就するまで一点一画も律法から過ぎ行かない。
新共同はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
NIVI tell you the truth, until heaven and earth disappear, not the smallest letter, not the least stroke of a pen, will by any means disappear from the Law until everything is accomplished.
註解: 律法は神の与え給えるものである、いかなる小なる律法も(すた)れることなく必ず成就せられるべきものである。しかしながらキリストが「(ことごと)く全うせらるべし」といい給いし意味は、律法が死せる文字として形式的に全うされることではなく、活ける神の言葉として内容的、本質的、霊的に全うされることを意味していた。21-48節はこのことを明らかにしている。ユダヤ人は律法の成就の困難を知っていた。しかるにキリストはその人格をもって完全に律法を成就し給うた。キリストの人格の中に律法に反せる一点をも見出すことができない。
辞解
[誠に] 原語は「アーメン」
[汝らに告ぐ] キリストの神の子たる権威を示す、預言者は「エホバ言い給う」といい、使徒は「主言い給う」といい、キリストは「我なんじらに告ぐ」といい給うた。
[一點一畫] 律法が記されてあるヘブル文字の中には、一点からなっている文字もあり、またその畫が相類似していて、これを区別するのに些細の差異をもってすることが必要な文字もある。かかる些細な点に至るまで皆成就すること
[過ぎ往かぬ] ▲口語訳「滅び行く」は意訳。
[癈る] ▲▲「過ぎ往く」と同様。原語はparerchomai。

5章19節 この(ゆゑ)にもし(これ)()のいと(ちひさ)誡命(いましめ)(ひと)つをやぶり、(かつ)その(ごと)(ひと)(をし)ふる(もの)は、天國(てんこく)にて(いと)(ちひさ)(もの)(とな)へられ、(これ)(おこな)ひ、かつ(ひと)(をし)ふる(もの)は、天國(てんこく)にて(おほい)なる(もの)(とな)へられん。[引照]

口語訳それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
塚本訳だから、これらの掟の中で一番小さいものを一つでも破り、またそのように人に教える者は、天の国で一番小さい者となり、反対に、これを行ない、また(そのように人に)教える者は、天の国で一番大きい者となろう。
前田訳これらの掟のいと小さいものひとつでも破り、そのように人を教えるものは、天国でいと小さいものといわれ、それを行ない教えるものは天国で偉大といわれよう。
新共同だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
NIVAnyone who breaks one of the least of these commandments and teaches others to do the same will be called least in the kingdom of heaven, but whoever practices and teaches these commands will be called great in the kingdom of heaven.
註解: ユダヤの律法の文字的遵守にあらず、その精神の完全なる実現を言うのである。この節および前節は一見文字的に律法遵守を教えることを意味している様であるけれども、21節以下および主イエスの生涯を見る場合にこの然らざることを知ることができる。そして聖書を深く探る場合には、この一見律法の文字に違反する行為のごとくに見えることも返って文字的にも律法にかなうことを発見するであろう、キリストもまたかくこれを説明し給うた(マタ12:1-8、9-12)。▲口語訳の「しかし」は必要。

5章20節 (われ)なんぢらに()ぐ、(なんぢ)らの()學者(がくしゃ)・パリサイ(びと)(まさ)らずば、天國(てんこく)()ること(あた)はず。[引照]

口語訳わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
塚本訳わたしは言う、あなた達の行ないが聖書学者やパリサイ人以上にりっぱでなければ、決して天の国に入ることはできない。
前田訳わたしはいう、あなた方の義が学者とパリサイ人のそれにまさらねば決して天国に入れまい、と。
新共同言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
NIVFor I tell you that unless your righteousness surpasses that of the Pharisees and the teachers of the law, you will certainly not enter the kingdom of heaven.
註解: 学者、パリサイ人らの義は律法を文字通りに遵守せんとする律法的の義であり、キリスト者の義は信仰により神に愛せられ神を愛し人を愛する信仰の義である。ゆえに律法の文字以上に出で、しかも律法を完全に守ることができる。「愛は律法の完成なり」(ロマ13:10)。
要義1 [モーセとキリスト、律法と福音] ユダヤ人は千数百年の間モーセの律法(十戒のみならずその他の律法の数々)によりて訓練されていた。これとキリストの福音との関係は重大なる問題である。この関係はロマ書その他においてなお詳細これを学ばなければならないけれども、要するに(1)すべての人は律法を完全に守り得ざるがために律法は人を呪いこれを殺すものであり (申27:26ロマ7:9-12。Uコリ3:6) 、これに反しキリストの福音は我らの罪を赦して、我らに生命を与えるものであること (ロマ8:2ヨハ3:16) 。(2)律法はこれによりて自己の罪を知らしめ、その結果キリストによる罪の赦の福音の何たるかを覚らしめるための働きをなすに過ぎざること。(3)律法は外部より我らを規律し福音は心を新たにして、内部より新たなる力となりて我らを動かすこと。(4)したがって律法の文字に違反するが如くに見えても、却って律法を完全に成就することができること等である。モーセがシナイ山において「雷と(いなづま)と密雲との中」にエホバに接し、その山の四周(まわり)には境界が設けられ、これに触るものは必ず殺さるべしとの恐るべき宣言の中に、その十戒を与えられたのと、主イエスがガリラヤの春の山の上に、なんらの障壁もなく弟子たちと群集とに囲繞(いにょう)せられて、愛と真理とに満てる生命の福音を与え給うたのとは、よき対照をなしているのであって律法と福音との性質を暗示しているがごとくである。そしてユダヤ人以外の人に取っても神は何らかの形において(孔子、釈迦、モハメットその他により)律法を与え給うたのであってこれらは皆キリストにおいて完成せらるべきものである。
要義2 [キリストと旧約聖書] キリストは(ただ)に旧約聖書の預言の実現であり(マタ1:22註)、また旧約聖書を神の言葉として信じかつこれを用い給いしのみならず(マタ4:4註)、キリストの生涯が旧約全時代の律法、歴史、祭事の実現であった。レビ記の祭事はすべてキリストにおいて実現した(ヘブ9章ヘブ10章)。キリストは「我らの過ぎ越しの子羊」(Tコリ5:7)であった。モーセが野に銅の蛇を挙げたのは、キリストの十字架の型であった(ヨハ3:14)。のみならず彼はその愛をもって旧約のすべての律法を完全に成就し給い、その一点一画も廃ることが無きことを示し給うた、「キリストの律法」(ガラ6:2)すなわちこれである。

3-3-ロ 殺すなかれ 5:21 - 5:26
(ルカ12:57-59)   

5章21節 (いにし)への(ひと)に「(ころ)すなかれ、(ころ)(もの)審判(さばき)にあふべし」と()へることあるを(なんぢ)()きけり。[引照]

口語訳昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
塚本訳(だからわたしの戒めは彼らよりもきびしい。)──あなた達は昔の人が(モーセから、)“(人を)殺してはならない、”殺した者は裁判所で罰せられる、と命じられたことを聞いたであろう。
前田訳あなた方も聞いたように、昔の人々にいわれている、『殺すな、殺すものは裁きにあおう』と。
新共同「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
NIV"You have heard that it was said to the people long ago, `Do not murder, and anyone who murders will be subject to judgment.'
註解: モーセは古の人に告げ、キリストは「我は汝らに告ぐ」といい給う。「殺すなかれ」(出20:13申5:17)は十戒の第5戒であり、これを犯す者は各市に組織せられし七人の法廷(申16:18)によりて審判せられ殺さるべきであった(レビ24:17民35:30

5章22節 されど(われ)(なんぢ)らに()ぐ、すべて兄弟(きゃうだい)(いか)(もの)は、審判(さばき)にあふべし。また兄弟(きゃうだい)(むか)ひて、(おろか)(もの)よといふ(もの)は、衆議(しゅうぎ)にあふべし。また痴者(しれもの)よといふ(もの)は、ゲヘナの()にあふべし。[引照]

口語訳しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
塚本訳しかしわたしはあなた達に言う、兄弟に腹をたてる者は皆、(ただそれだけの理由で、天国の)裁判所で罰せられる。兄弟に馬鹿と言う者は、最高法院で罰せられる。畜生と言う者は、火の地獄で罰せられる。
前田訳しかしわたしはあなた方にいう、すべて兄弟を怒るものは裁きにあおう。兄弟に愚かものというものは最高法院(サンヘドリン)にかけられよう。痴(し)れ者というものは火の地獄(ゲヘナ)に投げ込まれよう。
新共同しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
NIVBut I tell you that anyone who is angry with his brother will be subject to judgment. Again, anyone who says to his brother, `Raca, ' is answerable to the Sanhedrin. But anyone who says, `You fool!' will be in danger of the fire of hell.
註解: 「されど我は汝らに告ぐ」と言いてモーセの律法をキリストがいかなる意義において成就し給うかを示している。すなわち刀を以って人を殺すだけが殺人ではない、世人がほとんど顧みもしないことであるが、人に対し少しにても憤怒、罵詈(ばり)の言を用いるだけでも既に殺人の罪に相当せる罪を犯しているのである。従って審判を免れることができない。
辞解
[愚者よ] 原語ラカはヘブル語の音をそのまま用いているのであって、元来空虚を意味している語である(ヤコ2:20)。日本語の「トボケ!」等に相当しているであろう。意味の強さにおいて「怒」と「痴者」との中間に位する。
[痴者] は真に愚かなる者を意味している「馬鹿!」に相当する。
[審判] 前節に示せる七人の裁判
[衆議] エルサレムに開かれる七十二人の法官の会議で祭司長、長老、パリサイ人らにて組織せられ重罪を裁判するもの、この会議所を衆議所という。
[ゲヘナ] ゲイ・ヒンノムすなわち「ヒノムの谷」の転化で、エルサレムの南の谷で古代モロクにささげられし人の死骸が焼かれて、火が絶えず燃えていた所(エレ7:31、32)、これより転じて地獄の火のごとき意味に用いられている。以上の三種の罪とその罰は次第に重くなっていくことを見る事ができる

5章23節 この(ゆゑ)(なんぢ)もし供物(そなへもの)祭壇(さいだん)にささぐる(とき)、そこにて兄弟(きゃうだい)(うら)まるる(こと)あるを(おも)()さば、[引照]

口語訳だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、
塚本訳だからもし、あなたが祭壇に供え物を捧げるとき、そこで兄弟に恨まれていることを思い出したなら、
前田訳祭壇に供え物をするとき、そこで兄弟があなたをうらんでいることを思い出したら、
新共同だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、
NIV"Therefore, if you are offering your gift at the altar and there remember that your brother has something against you,

5章24節 供物(そなへもの)祭壇(さいだん)のまへに(のこ)しおき、()()きて、その兄弟(きゃうだい)和睦(わぼく)し、(しか)るのち(きた)りて、供物(そなへもの)をささげよ。[引照]

口語訳その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
塚本訳供え物をそこに、祭壇の前に置き、まず行ってその兄弟と仲直りをし、それからかえって来て供え物を捧げよ。
前田訳そこで祭壇の前に供え物を置いて、まず去って兄弟と和し、それから供え物をしに来なさい。
新共同その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
NIVleave your gift there in front of the altar. First go and be reconciled to your brother; then come and offer your gift.
註解: 申16:16、17に従い供え物を祭壇にささぐる時は人の心は最も真面目になり、平生気が付かざりし罪をも思い出すのである。良心に不安を持ちつつ神の祭壇にぬかずくことは何の役にも立たない、我らまず兄弟に対して全く罪なき状態に入らなければならない(Tヨハ3:15)。▲不義を行いながら如何ほど熱心に教会の礼拝に出席してもそれは神に受け容れられない。礼拝出席をすすめる前に、正義の実行を一層強調しなければならない。

5章25節 なんぢを(うった)ふる(もの)とともに(みち)()るうちに、(はや)和解(わかい)せよ。(おそ)らくは、(うった)ふる(もの)なんぢを審判(さばき)(ひと)にわたし、審判(さばき)(ひと)下役(したやく)にわたし、(つい)になんぢは(ひとや)()れられん。[引照]

口語訳あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。
塚本訳また告訴人とは、一しょに(裁判所へ)行く途中で、早く示談にするがよい。そうでないと、告訴人は裁判官に、裁判官は下役にあなたを引き渡して、牢に入れられるにちがいない。
前田訳あなたの告訴人と早く和解しなさい、彼とともになお道行くうちに。さもないと、告訴人はあなたを裁き人に、裁き人は下役に渡し、あなたは牢に投げ込まれよう。
新共同あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。
NIV"Settle matters quickly with your adversary who is taking you to court. Do it while you are still with him on the way, or he may hand you over to the judge, and the judge may hand you over to the officer, and you may be thrown into prison.
註解: 債務者が債権者に引き立てられて裁判所に赴く姿であって、最後の審判を比喩的に示したものと解することができる。この世において我ら人に対して多くの負債(おいめ)を持っている、このすべての罪は最後の審判において訴えられるのであるから、今の間にその負債を払って和解しなければならない、しからざれば必ず獄に入れられるであろう。この罰を代受し給えるイエスの十字架こそまことに尊き償いである。

5章26節 まことに(なんぢ)()ぐ、(いち)(りん)ものこりなく(つくの)はずば、其處(そこ)をいづること(あた)はじ。[引照]

口語訳よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。
塚本訳アーメン、わたしは言う、最後の一コドラント[十円]を返すまでは、決してそこから出ることはできない。
前田訳心からあなたにいう、最後の一コドラントまで払わないかぎり決してそこから出られまい、と。
新共同はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
NIVI tell you the truth, you will not get out until you have paid the last penny.
註解: 神の義は一点の不義をも罰せずにおき給わない、これ神の当然の性質である。
要義1 [我らは殺人犯である] この一段を読んで我らは殺人犯に相当していると気付かない人はないであろう。実際対人関係において我らの心の中には憤怒、軽蔑、嫉妬、負債等あらゆる罪を犯している、この一つ一つが最後に神の前に審判かれる時、我らは永遠の刑罰に処せられるに相当しているのである。律法は厳格である。その一点一画も廃ることがない、我らは罪の最後の一厘までもこれを償わなければならない。
要義2 [キリストの償いの必要] キリストはかかる厳格なる律法を示して我らの良心を覚醒し、我らすべてが永遠の獄に投ぜらるべき者なることを自覚せしめ、そしていかにしてもこれを自ら償うの力なきことを発見して、キリストの十字架の償いに信頼せしめる様に導き給う。彼はその実血を流して我らをすべての罪より償いだし給うた(Tペテ1:19テト2:14)。ゆえに最後の審判においてキリスト我らのためにその義を示し、我らを永遠の審判より免れしめ給う(ロマ8:1)。
要義3 [この教訓を文字的に解すべからざること] キリストのすべての教訓はこれを律法化し、文字化することによりてその精神を失ってしまう。常にこれを霊的に解しなければならぬ。キリスト自身マタ23:17において「痴者よ」といい給うたことを注意しなければならぬ。キリストは言行不一致の人であったのではない、またキリストご自信ゲヘナの火にあうべきではない、彼はこの教訓をその霊的意味において語り給うたのである。愛の心より「痴者よ」という事と、憎の心よりこれを言うことは全く別事である。

3-3-ハ 姦淫するなかれ 5:27 - 5:30  

5章27節 姦淫(かんいん)するなかれ」と()へることあるを(なんぢ)()きけり。[引照]

口語訳『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
塚本訳あなた達は(昔の人がモーセから、)“姦淫をしてはならない”と命じられたことを聞いたであろう。
前田訳あなた方が聞いたように、『姦淫するなかれ』といわれている。
新共同「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
NIV"You have heard that it was said, `Do not commit adultery.'

5章28節 されど(われ)(なんぢ)らに()ぐ、すべて色情(しきじゃう)(いだ)きて(をんな)()るものは、(すで)(こころ)のうち姦淫(かんいん)したるなり。[引照]

口語訳しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
塚本訳しかしわたしはあなた達に言う、情欲をもって人妻を見る者は皆、(見ただけで)すでに心の中でその女を姦淫したのである。
前田訳しかしわたしはあなた方にいう、『すべて欲望をもって女を見るものは彼の心のうちですでに彼女を犯したのである』と。
新共同しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
NIVBut I tell you that anyone who looks at a woman lustfully has already committed adultery with her in his heart.
註解: 実に徹底せる罪悪感である。心の中に罪の影が宿っただけで既に罪を犯したのである。21-26においてはいかなる小なる罪も大罪と同一なることを示し、ここにはいかに内面的な罪も外部に表れし罪と同一となることを示す。この聖言これを他にも応用するならば憎む者は殺人罪を犯し、他人のものを要求するものは窃盗罪を犯したこととなるのである。
辞解
[色情を懐きて] ▲「色情をとげんとて」の意。(pros to + 不定詞)
[姦淫] 主として他人の妻を犯す場合に用いる、
[女] 主として人妻の場合に用いていいるけれども、この場合はこれをその以外の女、および姦淫以外の淫行にも応用することができる。

5章29節 もし(みぎ)()なんぢを(つまづ)かせば、(くじ)(いだ)して()てよ、五體(ごたい)(ひと)(ほろ)びて、全身(ぜんしん)ゲヘナに()()れられぬは(えき)なり。[引照]

口語訳もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
塚本訳それで、もし右の目があなたを罪にいざなうなら、くじり出して捨てよ。体の一部が無くなっても、全身が地獄に投げ込まれない方が得であるから。
前田訳もし右の目があなたを迷わすならば、それを取り出して投げ捨てよ。体の一部を失っても全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよい。
新共同もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。
NIVIf your right eye causes you to sin, gouge it out and throw it away. It is better for you to lose one part of your body than for your whole body to be thrown into hell.

5章30節 もし(みぎ)()なんぢを(つまづ)かせば、()りて()てよ、五體(ごたい)(ひと)(ほろ)びて、全身(ぜんしん)ゲヘナに()かぬは(えき)なり。[引照]

口語訳もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。
塚本訳もしまた右の手があなたを罪にいざなうなら、切り取って捨てよ。手足が一本無くなっても、全身が地獄へ行かない方が得であるから。
前田訳また、もし右の手があなたを迷わすならば、それを切り取って投げ捨てよ。体の一部を失っても全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよい。
新共同もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
NIVAnd if your right hand causes you to sin, cut it off and throw it away. It is better for you to lose one part of your body than for your whole body to go into hell.
註解: 我らの五官はまず我らをして罪を犯さしむる原因となる。我らはかかる危険物を全くその身体より除き去り、もって罪に陥りて全身の滅亡することを免れることが必要である。そして五官は我らをして罪の思いを懐かしむる起因であって、実際上我らの罪は心の中に起こるのである以上、我らはこの心をも抉り出して棄てなければならぬ、ゆえにこの意味において我らの身体中生き残るべき部分はないであろう。我らが死してキリスト我が中に生き御霊を以って我らを導くの必要があるのはこのためである(ガラ2:20ルカ9:24)。この教訓ももちろん文字のままに取るべき教訓ではなく、全身完全に聖潔でなければならないことを教え給えるものである。▲▲すなわち事実目や手を切り取っても役に立たない。イエスは我らが我らの罪に対する嫌悪の心がかくも強くあるべきことを教えたのである。

3-3-ニ 離婚の禁止 5:31 - 5:32
(マコ10:11-12) (ルカ16:8)  

5章31節 また「(つま)をいだす(もの)離縁状(りえんじゃう)(あた)ふべし」と()へることあり。[引照]

口語訳また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。
塚本訳また(昔の人は)、“妻を離縁する者は離縁状を渡せ”と命じられた。
前田訳またいわれている、『妻と離婚するものは雑縁状を渡せ』と。
新共同「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。
NIV"It has been said, `Anyone who divorces his wife must give her a certificate of divorce.'

5章32節 されど(われ)(なんぢ)らに()ぐ、淫行(いんかう)(ゆゑ)ならで()(つま)をいだす(もの)は、これに姦淫(かんいん)(おこな)はしむるなり。また()されたる(をんな)(めと)るものは、姦淫(かんいん)(おこな)ふなり。[引照]

口語訳しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。
塚本訳しかしわたしはあなた達に言う、不品行以外の理由で妻を離縁する者は皆、その女に姦淫を犯させるのである。離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すのである。
前田訳しかしわたしはあなた方にいう、『すべて不身持のこと以外でその妻と離婚するものは彼女に姦淫をさせるし、離婚された女をめとるものは姦淫を犯す』と。
新共同しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
NIVBut I tell you that anyone who divorces his wife, except for marital unfaithfulness, causes her to become an adulteress, and anyone who marries the divorced woman commits adultery.
註解: 絶対に離婚を禁じた給える理由は、婚姻は神のあわせ給えるものであるからである(マタ19:1以下に詳しい)。ゆえに夫婦の関係と根本的に相容れない淫行の罪を除いては、絶対に夫婦は別離すべきではない、これを破って夫婦別居するに至ってもなお神の前に夫婦関係は継続しているものと認められる。ゆえに妻をいだす者はその妻の再婚によって淫行の罪を行はしめることとなり、又自ら他の女を娶るならば同じく姦淫を行うこととなり、又他人から出されたる女を娶れば又同様に姦淫である。ゆえにかかる場合の取るべき道はTコリ7:11に示され、又例外の場合はTコリ7:15に記されている。
要義 [キリスト教の夫婦関係] キリスト教の夫婦関係は、他のいかなる宗教においても見る事ができない清さを持っている。すなわち絶対的一夫一婦主義と不離婚主義である。この関係はキリスト以前に定められたものであるけれども、キリストに至りて始めて完全に実現するに至った。いずれの宗教を問わず一夫多妻主義を認め、かつ自由に離婚を許しているものが多い。ユダヤ教すらこの例に洩れなかった。しかるにキリスト以後厳格なる一夫一婦主義が行われるようになり、夫婦は神の合わせ給える神聖なる結合であることがますます明らかにされるに至った。かかる大なる変化を来たしたことはこのイエスの御言葉によると同時に、キリストと教会との関係が夫婦の関係に等しいことが明らかにされるに至ったからである(エペ5:22)。

3-3-ホ 誓うなかれ 5:33 - 5:37  

5章33節 また(いにし)への(ひと)に「いつはり(ちか)ふなかれ、なんぢの(ちかひ)(しゅ)(はた)すべし」と()へる(こと)あるを(なんぢ)()けり。[引照]

口語訳また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
塚本訳さらにあなた達は昔の人が(モーセから)、“偽りの誓いをしてはならない、”また“誓ったことは主に対して果たさねばならない”と命じられたことを聞いたであろう。
前田訳また、あなた方が聞いたように、昔の人々にいわれている、『偽り誓うな、あなたの誓いを主に果たせ』と。
新共同「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。
NIV"Again, you have heard that it was said to the people long ago, `Do not break your oath, but keep the oaths you have made to the Lord.'
註解: 「主に果たすべし」は「主に対して果たすべし」との意であって旧約聖書(引照参照)の文字通りの引用ではないが主意は変わらない。▲口語訳「すべて主に対して果せ」の「すべて」は原文にないが、意味の上からは正しい訳語である。

5章34節 されど(われ)(なんぢ)らに()ぐ、一切(すべて)ちかふな、(てん)()して(ちか)ふな、(かみ)御座(みくら)なればなり。[引照]

口語訳しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。
塚本訳しかしわたしはあなた達に言う、いっさい誓ってはならない。神の御名はもちろん、“天”にかけても(誓ってはならない)。(天は)“神の御座である”から。
前田訳しかしわたしはあなた方にいう、いっさい誓うな、天にかけても、神のみ座であるから。
新共同しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。
NIVBut I tell you, Do not swear at all: either by heaven, for it is God's throne;
辞解
[神の御座] イザ66:1よりの引用であって、神の支配の天地にあまねきを示す。ただし天には神の完全なる顕現があり、地にはただ神の足跡をのみ見ることができるに過ぎない。

5章35節 ()()して(ちか)ふな、(かみ)足臺(あしだい)なればなり。エルサレムを()して(ちか)ふな、大君(おほきみ)(みやこ)なればなり。[引照]

口語訳また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。
塚本訳“大地”にかけても。(大地は)“神の足台である”から。エルサレムにかけても。(エルサレムは)“大王(なる神)の都”であるから。
前田訳地にかけても、神の足台であるから。エルサレムにかけても、大君(おおぎみ)の都であるから。
新共同地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。
NIVor by the earth, for it is his footstool; or by Jerusalem, for it is the city of the Great King.
辞解
[神の足臺] 前節「神の御座」の辞解参照。
[大君] メシヤのこと。

5章36節 (おの)(かしら)()して(ちか)ふな、なんぢ頭髮(かみのけ)一筋(ひとすじ)だに(しろ)くし、また(くろ)くし(あた)はねばなり。[引照]

口語訳また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。
塚本訳自分の頭にかけても誓ってはならない。(頭は神のもので、)あなたは髪の毛一本を、白くも黒くも出来ないのであるから。
前田訳あなたの頭にかけても誓うな、髪一本白くも黒くもできないから。
新共同また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
NIVAnd do not swear by your head, for you cannot make even one hair white or black.
註解: 当時ユダヤには神のみならず、種々の被造物を指して誓う習慣があった。これ自己の不誠実をおおわんがための手段に過ぎなかった。のみならずその指す目的物の如何によりて、これを守る必要の有無すら生ずるに至った(マタ23:16-18)。かかる意味の誓いは誓いそれ自身がすでに虚偽を含んでいるのみならず、誓いをなすに至れる心が誠実を失っている。ゆえに「一切誓うな」とイエスは言い給い、かかる心とかかる習俗とを一掃し給うた。「天」も「地」も「頭髪」も皆神の被造物であって、これらを指すことと神を指すこととの間には差異がない。

5章37節 ただ(しか)(しか)り、(いな)(いな)といへ、(これ)()ぐるは(あく)より()づるなり。[引照]

口語訳あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
塚本訳あなた達はただはっきり『はい』とか、『いいえ』とだけ言え。これ以上は悪魔が言わせるのである。
前田訳あなた方のことばは然(しか)り然り、否(いな)否であれ、これら以上のことは悪から出ている。
新共同あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
NIVSimply let your `Yes' be `Yes,' and your `No,' `No'; anything beyond this comes from the evil one.
註解: もし心が常に忠実で神とともにいるならば然り然り、否否のみで充分である。これ以上さらに誓うことは自己の虚偽を隠さんとする不誠実の心の結果に過ぎない。すなわち悪心よりいでてくるのである。
要義 [誓うなかれとはいかなる意味なりや] ここにもまた33-37の御言を律法的に取るべきでないことに注意しなければならなぬ。神御自身も誓い給い (創22:16民14:23詩89:3詩110:4イザ45:23ヘブ6:13) 、キリストもまた誓い給い (マタ26:63) 、パウロもまたしばしば神の証を求めた (ロマ1:10ピリ1:8Tテサ2:5Tテサ2:10Uコリ1:23) 。キリストの求め給うところのものは、形式的に誓うことをしないということではなく、心の中に絶対に虚偽なく神の心のごとき誠実のみの支配する状態に達していることが必要であるというのである。律法はこれを文字的に解する場合にますますその力を失って、一つの形式と化し去り、反対にこれを霊的意義に解してその真意を発揮することができる。キリストは死せる律法に再びその生命を吹き込み給うたのである。またキリストが誓うことを禁じ給える他の理由は、未来の事柄に関しては人間には確実なる知識はない、したがって誓ってこれを断言することができないからである。「頭髪一筋だに白くし黒くすることができない」のに、いかで未来の事柄に対して誓うことができようか。これをしも誓うことは僭越の所為(しょい)であって悪より出づるものである。ゆえに自己の未来の行為および運命につきても神の支配を信じ、ただ誠実なる心のみを以って然りを然りとし否を否とするのが最もキリスト者に相応しい態度である。この心をもって裁判所、軍隊、学校等における宣誓をなすことは罪ではない。

3-3-ヘ 無抵抗 5:38 - 5:42
(ルカ6:29-30)   

5章38節 ()には()を、()には()を」と()へることあるを(なんぢ)()けり。[引照]

口語訳『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
塚本訳あなた達は(昔の人がモーセから、)“目には目、歯には歯”──(人の目をつぶした者は自分の目で、人の歯を折った者は自分の歯で、つぐなわなければならない)と命じられたことを聞いたであろう。
前田訳あなた方が聞いたようにこういわれている、『目には目、歯には歯』と。
新共同「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
NIV"You have heard that it was said, `Eye for eye, and tooth for tooth.'
註解: 引照の箇所は元来有司(ゆうし)が罪人を取り扱う場合の規則であって、私人としての復讐を許した律法ではなかった。しかし私人がその受けし損害を有司(ゆうし)に訴えて、これと同種の報復を要求することを常とし、これが当然であるかのごとくに考えられた。

5章39節 されど(われ)(なんぢ)らに()ぐ、()しき(もの)抵抗(てむか)ふな。(ひと)もし(なんぢ)(みぎ)(ほほ)をうたば、(ひだり)をも()けよ。[引照]

口語訳しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
塚本訳しかしわたしはあなた達に言う、悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打ったら、左をも向けよ。
前田訳しかしわたしはあなた方にいう、悪者にさからうな。あなたの右の頬を打つものには、ほかの頬をも向けよ。
新共同しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
NIVBut I tell you, Do not resist an evil person. If someone strikes you on the right cheek, turn to him the other also.
註解: ロマ12:19-21にこの節の最良の注釈を見出すことができる。他人がいかに悪意を以って我に対し、かつ我に害を与えるとも、ただ善意と愛の心を持って彼に対すべきことを教えている。善意と愛なしに燃ゆる復讐心を抑えつつ、左の頬を向くるとも無意義である。

5章40節 なんぢを(うった)へて下衣(したぎ)()らんとする(もの)には、上衣(うはぎ)をも()らせよ。[引照]

口語訳あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
塚本訳(裁判所に)訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせてやれ。
前田訳あなたを訴えて下着を取ろうとするものには上着をも取らせよ。
新共同あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
NIVAnd if someone wants to sue you and take your tunic, let him have your cloak as well.
註解: 訴訟によりて我らより何物かを要求せんとする場合における我らの態度を教えている。我より奪わんとする相手方に対し我は与えんとしているならば、彼は恥じてその悪しき心を改めるであろう。

5章41節 (ひと)もし(なんぢ)一里(いちり)ゆくことを()ひなば、(とも)二里(にり)ゆけ。[引照]

口語訳もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
塚本訳だれかが無理に一ミリオン[一キロ半]行かせようとするなら、一しょに二ミリオン行ってやれ。
前田訳あなたに一ミリオン行くよう強いるものにはともに二ミリオン行け。
新共同だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
NIVIf someone forces you to go one mile, go with him two miles.
註解: 公共の労役に挑発される場合の態度を教えている。「強いる」は挑発の意味、愛の行為は律法上の義務遂行の場合にも及ぼすべきである。

5章42節 なんぢに()(もの)にあたへ、()らんとする(もの)(こば)むな。[引照]

口語訳求める者には与え、借りようとする者を断るな。
塚本訳求める者には与えよ、借りようとする者を断るな。
前田訳求めるものには与え、借りたく思うものを拒むな。
新共同求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
NIVGive to the one who asks you, and do not turn away from the one who wants to borrow from you.
註解: 思慮なしに貸し与えよというのではないこともちろんであって、たとえば放蕩息子がその遊蕩の資を借らんとするときにこれを拒まないごときことは不可である。ただ請われる場合、借らんと申し込まれる場合に第一に我らの心には惜しいという心が起こるのであって、かかる心を砕くべきことを教えられたものと見るべきである(Uコリ8:13)。
要義 [無抵抗主義の原則] この教訓を必ずしも文字通りに行えとの意味ではない。しかしこの教訓は今日あまりに軽視せられ、到底行うことを得ざるものとして敬遠せられていることは(はなは)だしき誤りである。今日キリスト教文明が失敗に帰しつつあるのもこの教訓を無視または軽視した罰である。もし今日この教訓が遵守さられるならば資本家は労働者に対してその要求する以上のものを与え、労働者は資本家に対してその要求以上の労役を提供するであろう。かくて労働時間の制限も、最低賃金の制定もその必要を失い、今日世界を悩ましつつある階級闘争もその跡を絶つに至るであろう。これをなすにはモーセの律法をキリストの愛をもって完成しなければならない。そして自己に対して害を与うる者ある場合において、自己の受くる害につき考えるひまなきまでに相手方を愛し、彼を正しき道に立ち返らしめんと考えることより外に、このキリスト御言を完全に成就するの道は無い。欧米人の権利義務の思想はこの教訓に反する人間的思想である。

3-3-ト 汝の敵を愛せよ 5:43 - 5:48
(ルカ6:27-28) (ルカ6:32-36)  

5章43節 「なんぢの(となり)(あい)し、なんぢの(あた)(にく)むべし」と()へることあるを(なんぢ)()きけり。[引照]

口語訳『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
塚本訳あなた達は(昔の人がモーセから、)“隣の人を愛し、”敵を憎まねばならない、と命じられたことを聞いたであろう。
前田訳あなた方が聞いたようにこういわれている、『隣びとを愛し、敵を憎め』と。
新共同「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
NIV"You have heard that it was said, `Love your neighbor and hate your enemy.'
註解: この引用句は旧約聖書中に発見することができない。ただ申7:2-3、申23:7申25:19等のごとくイスラエル人以外の者、すなわち隣人にあらざる者を憎むことを教えし排他的語句がないではなかった。イエスはこれを指し給うたのであろう。

5章44節 されど(われ)(なんぢ)らに()ぐ、(なんぢ)らの(あた)(あい)し、(なんぢ)らを()むる(もの)のために(いの)れ。[引照]

口語訳しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
塚本訳しかしわたしはあなた達に言う、敵を愛せよ。自分を迫害する者のために祈れ。
前田訳しかしわたしはあなた方にいう、『敵を愛し、迫害者のために祈れ』と。
新共同しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
NIVBut I tell you: Love your enemies and pray for those who persecute you,
註解: 愛敵の心は神の心であり、キリスト教の中心である(Tヨハ4:7-10)。したがってまたこの山上の垂訓もこの愛敵の戒めにおいて、その頂点に達していると見ることができる。一点の自我も私欲もなくただ愛のみ、仇すらも仇と思い得ずしてこれを愛する熱愛の生活、これキリストの弟子たるものの生活でなければならない(ロマ5:6-8)。そしてこの愛は生来の人の中にはない愛であって、これを()つためには我ら更生しなければならない。

5章45節 これ(てん)にいます(なんぢ)らの(ちち)()とならん(ため)なり。[引照]

口語訳こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
塚本訳あなた達が天の父上の子であることを示すためである。父上は悪人の上にも善人の上にも日をのぼらせ、正しい人にも正しくない人にも、雨をお降らしになるのだから。
前田訳かくてこそ天にいますあなた方の父の子らになれよう。父は悪人にも善人にも日をのぼらせ、義者にも不義者にも雨を降らせたもう。
新共同あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
NIVthat you may be sons of your Father in heaven. He causes his sun to rise on the evil and the good, and sends rain on the righteous and the unrighteous.
註解: 父は敵をも愛する愛に在し給うこの父の子たるものは、またこの愛がなければならない。そしてキリストを受け彼を信ずる者には神は神の子となるの力を与え給うのであって、その結果この愛を以って愛することを得るに至るのである。

(てん)(ちち)は、その()()しき(もの)のうへにも()(もの)のうへにも(のぼ)らせ、(あめ)(ただ)しき(もの)にも(ただ)しからぬ(もの)にも()らせ(たま)ふなり。

註解: 日と雨は生物の発育に一日も欠くべからざる神の恵みである。天の父はかかる大なる恩恵の施與(ほどこし)者に在しかつこれを万人に公平に施與(ほどこし)し給う。子の性質の良否により親の愛に変わりがないと同一である。

5章46節 なんぢら(おのれ)(あい)する(もの)(あい)すとも(なに)(むくい)をか()べき、取税人(しゅぜいにん)(しか)するにあらずや。[引照]

口語訳あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
塚本訳自分を愛する者を愛したからとて、なんの褒美があろう。(人でなしと言われるあの)税金取りでも同じことをするではないか。
前田訳自分を愛するものを愛したとて何の褒美を得よう。取税人さえもそれくらいはするではないか。
新共同自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
NIVIf you love those who love you, what reward will you get? Are not even the tax collectors doing that?

5章47節 兄弟(きゃうだい)にのみ挨拶(あいさつ)すとも(なに)(まさ)ることかある、異邦人(いはうじん)(しか)するにあらずや。[引照]

口語訳兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
塚本訳また兄弟にだけ親しくしたからとて、なんの特別なことをしたのだろう。異教人でも同じことをするではないか。
前田訳あなた方の兄弟にだけあいさつしたとて、何の格別のことをしたのか。異教徒さえもそれくらいはするではないか。
新共同自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
NIVAnd if you greet only your brothers, what are you doing more than others? Do not even pagans do that?
註解: 己を愛する者を愛し己を憎む者を憎み、兄弟に挨拶し、他人を冷遇するは肉につける人の普通の心情である。そして多くの人はこれを以ってその責務を果せるがごとくに考えているけれども、これだけのことならば最悪なる取税人も、神の律法を知らざる異邦人もこれを為すのであって、天の父の子たるものはこれに勝れるものでなければならない。
辞解
[取税人] ローマ政府より任命せられて、請負により租税を集むる役人であって多くはユダヤ人がこれに当たっていた。同胞を搾取してロマの政府と自己の懐とを富ましめていた彼らは、ユダヤ人よりは人非人のごとくに見られていた。聖書の中にしばしば取税人を「罪人」または「遊女」と同一に取り扱っているのもこのためである。
[異邦人] ユダヤ人以外の諸国人の総称であって、ユダヤ人は自国民を以て神の選民となし、異邦人をば神を知らざる民として(いやし)んでいた。キリストはこのユダヤ人の普通の観念をここに利用し給うたに過ぎない。

5章48節 さらば(なんぢ)らの(てん)(ちち)(まった)きが(ごと)く、(なんぢ)らも(まった)かれ。[引照]

口語訳それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
塚本訳だからあなた達は、天の父上が完全であられるように“完全になれ。”
前田訳それゆえ、あなた方は天にいます父が全くいますように全くあれ。
新共同だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
NIVBe perfect, therefore, as your heavenly Father is perfect.
註解: 天の父と同じく完全になることが人間の終局の目的である。これすなわち愛の完成であり、また律法の成就である。キリストは「我を見し者は父を見しなり」と言った(ヨハ14:9)、彼は天の全きがごとく完全であった。我らもキリストに在り、彼に(なら)いて現世において天の父の完全に近づき、来るべき世において遂に天の父のごとくに全くなることができる。
辞解
[全き] 天の父のごとくに量的に全知全能遍在であることを意味しない、質においてすなわち愛において完全なることを意味する。
要義1 [愛の二種類] 新約聖書の原語によれば「愛」「愛する」を二種に区別し、各々異なった文字を用いている。一つはphilia、phileôであり他はagapê、agapaô である。前者は主として人間が自然に持っている本能的愛好を意味し、男女、親子、朋友の愛等がこれであり (マタ10:37ヨハ5:20ヨハ11:3ヨハ11:36等) 、聖書にはこの言葉を用いる場合は(わず)かである。後者は主としてキリスト教の愛、慈悲、仁、道徳的愛、神の愛とも称すべきものであって、ギリシャの当時代の文献にはほとんど用いられていない文字であった。すなわち敵をも愛する愛、その独り子をも賜うほどの愛である。聖霊がこの二語を別々に用いるに至ったのは極めて意義深きことであって、これにより我ら聖なる愛と自然愛との区別を明らかにすることができる。ただ遺憾なことは英、仏、独、日、支、その他いかなる国語の訳本もこの二者の区別をもっていないのである。▲以上の外ギリシャの文献に多く現れるeraô、erôsは、本来は精神的な愛にも用いられたけれども、次第に肉欲的の愛に用いられるようになったので、新約聖書では用いられず、旧約聖書のギリシャ語(LXX)では Tサム19:1エス2:17箴4:6箴7:18 その他二ヶ所に用いられているだけである。
要義2 [律法はいかにして完成されるや] 学者パリサイの人等の最も切に要求していたことは、律法を完全に守ることであった。しかるに人間の弱さは彼らにも附着しているのであって、彼らは非常に熱心に律法を研究し、これを微細の点にいたるまで遵守せんと欲したけれども、しかもなお彼らはこれを完全に守り得なかった。「汝らの義、学者パリサイ人に勝らずば、天国に入ること能わず」とはこの意味である。しからばキリストはいかなる方法を以って律法を全うしようとしたのであるか。彼はパリサイ人よりも更に一点一画までもこれを(おろそ)かにせずして律法を守ろうとしたのであるか。決してそうではなかった。彼は敵を愛するの愛を以って律法を全うし、また我らをしてこの道以外に真に律法を全うすべき方法は全く存在しない(ロマ13:8-10)ことを知らしめた。そして幸いなるかな我ら神の愛を信じることにより更正して、この愛を持つことができる様になるのである。しからざれば我らは律法によりて束縛せられて死の苦痛をなめるか、またはパリサイ人のごとくに形式的律法遵守を主とする偽善者になり終わるであろう。

マタイ伝第6章
3-4 眼中に人なし 6:1 - 6:18

註解: 第六章はこれを二つの部分に区別することができる。第一は1-18節であって人の行為は人に対してなさるべきではなく神に対してなさるべきであること。第二は19-34節であって我ら財宝に寄り頼むべきではなく神に寄り頼むべきであることを教えている。いずれも人間生活をその根本より一変して全く神に帰せしむる語である。

6章1節 (なんぢ)()られんために(おの)()(ひと)(まへ)にて(おこな)はぬやうに(こころ)せよ。(しか)らずば、(てん)にいます(なんぢ)らの(ちち)より(むくい)()じ。[引照]

口語訳自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
塚本訳(しかし戒めだけでなく、行ないにおいても聖書学者、パリサイ人以上でなければならない。すなわち)見せびらかすために、人の見ている前で善行をしないように気をつけよ。そうでないと、あなた達の天の父上の所で褒美をいただくことはできない。
前田訳心せよ、あなた方は義を行なうとき、人々に見られるために彼らの目の前でするな。さもないと、天にいますあなた方の父のもとで報いを得られまい。
新共同「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
NIV"Be careful not to do your `acts of righteousness' before men, to be seen by them. If you do, you will have no reward from your Father in heaven.
註解: 前半の結論である。我らの行動の動機は人に見られんためにあらずして、神に見られんためであり、内容は己の義にあらずして神の義であり、その行動の場所は人の前にあらずして、隠れたるに見給う神の前であるべきである。然るに世の人々の行動の動機、内容、場所は皆誤れる反対の方向を取っているのであって、かかる人は眼中にただ人のみを置き、人の賞賛を欲し、その反対を恐れる心を以って行動しているのである。天の父はかかる行動の動機とその内容とを知り給うがゆえに、かかる行動を報償し給うはずがない。報償についてはマタ5:12要義2参照。

3-4-イ 施しの場合 6:2 - 6:4  

6章2節 さらば施濟(ほどこし)をなすとき、僞善者(ぎぜんしゃ)(ひと)(あが)められんとて會堂(くわいだう)(ちまた)にて()すごとく、(おの)(まへ)にラッパを(なら)すな。[引照]

口語訳だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
塚本訳だからあなたが施しをする時には、偽善者のように、自分の前にラッパを吹きならして(吹聴して)はならない。彼らは人に褒められようとして、礼拝堂や町の中でそうするのである。アーメン、わたしは言う、彼らは(褒められたとき、)すでに褒美をもらっている。
前田訳施しをするとき、偽善者が人々にほめられるために会堂や道でするように自分の前でラッパを吹くな。本当にいう、彼らはその報いを得ている。
新共同だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
NIV"So when you give to the needy, do not announce it with trumpets, as the hypocrites do in the synagogues and on the streets, to be honored by men. I tell you the truth, they have received their reward in full.
註解: 施済(ほどこし)は他人、祈祷(5節以下)は神、断食(16節以下)は自己に対する行為であって、この三者をもって人間の行為の各方面を代表せしめている。施済(ほどこし)は善行である。しかしながらこれに危険が伴っているのであって、善行であるだけそれだけ人に知られんことを欲する誘惑に陥り易い。当時ユダヤ人の中に本文のごとき人目を引く方法をもってする慈善行為が行われた。イエスの禁じ給えるものは必ずしもこの方法ではなく、この方法を用いるに至った心を禁じ給うたのである。

(まこと)(なんぢ)らに()ぐ、(かれ)らは(すで)にその(むくい)()たり。

註解: 人の賞賛を博し得てその目的は達せられた。これ以上神の国において神より報いを得ることができない。
辞解
[得たり] ▲当時の取引において「領収済み」の意味に用いられていた。

6章3節 (なんぢ)施濟(ほどこし)をなすとき、(みぎ)()のなすことを(ひだり)()()らすな。[引照]

口語訳あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
塚本訳あなたは施しをするときに、右の手のすることを左に悟られてはならない。
前田訳あなたが施しをするとき、右手のすることを左手に知らすな、
新共同施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
NIVBut when you give to the needy, do not let your left hand know what your right hand is doing,

6章4節 (これ)はその施濟(ほどこし)(かく)れん(ため)なり。さらば(かく)れたるに()たまふ(なんぢ)(ちち)(むく)(たま)はん。[引照]

口語訳それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
塚本訳これは施しを隠しておくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう。
前田訳あなたの施しが隠れたところにあるように。さらば隠れたところに見たもうあなたの父は報いたまおう。
新共同あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
NIVso that your giving may be in secret. Then your Father, who sees what is done in secret, will reward you.
註解: 絶対に秘密に施済(ほどこし)をなし、自身すらこれを心に留めないまでに至らなければならぬ。隠れし施済(ほどこし)が真の施済(ほどこし)であり、顕されし施済(ほどこし)は自己誇示に過ぎない。慈善は人に知られることによりてその価値を失う。ただ隠れたるに見たまう神のみこれを知り給い、これに報償を与え給うごとき施済(ほどこし)が真の施済(ほどこし)である。人の誉れを欲する我らの肉の心はこの教訓に反して働き易い(ヨハ12:43)。
要義1 [慈善事業とキリスト教] キリスト教と慈善事業とは密接の関係があることは、慈善事業がキリスト教国において最も多く発達したのをみても知る事ができ、また日本のごとき非キリスト教国においてすら慈善事業の大部分がキリスト教関係の個人、または団体によって行われているのを見てもこれを証明することができる。けだしキリスト教は愛の宗教であって、他人のかん難不幸を見てこれを黙視するに忍びず、ついに慈善的行為となって現れてくるのである。しかしながらここに一つの危険が潜伏しているのであって、もし慈善が単に一つの事業と化し去り、その中に愛の源泉が湧き出でない場合においては、慈善的行為は一つの偽善と化し去るのであって、神はこれを嫌い給うのである。ゆえに慈善はいわゆる事業であってはならない、また人の眼に麗しく見えんがためになされるものであってはならない。ただ愛の心より流れ出で、神の御前において秘かになされるものでなければならぬ。かかる行為であるならば一個人の小慈善たると、大なる慈善事業たるとにおいてその価値は少しも異ならない。眼に見ゆる大なる慈善事業をのみ重んずるはキリストの精神に反している。
要義2 [偽善について] 偽善なる文字の言語hypokritêsは元々俳優を意味しており、悲しからざるに嘆き、喜ばしからざるに喜ぶ者の意である。偽善に種々の程度がある。陰に悪を行いつ、陽に善人なるがごとくに装うものは最も幼稚にしておこし易き偽善であり、次に心に悪をいだきつつ表面善行をなすものは、世の標準をもって見れば善人であっても、神の目より見れば一つの偽善であり、さらに偽善の最も恐るべきもの、すなわちキリスト者すら陥り易きものは自己の正義の観念以上に正義を行うことである。これ道徳的に見れば最も立派な善行であるけれども、神の眼にはすべてが明らかであって、神は我らが我らの価値そのままを示さんことを要求し給う、幼児のごとくならずば天国に入ることを得ないのはこのゆえである。多くの人は知らずしてこの偽善の罪を犯している。

3-4-ロ 祈祷の場合 6:5 - 6:8  

6章5節 なんぢら(いの)るとき、僞善者(ぎぜんしゃ)(ごと)くあらざれ。(かれ)らは(ひと)(あらは)さんとて、會堂(くわいだう)大路(おほじ)(つの)()ちて(いの)ることを(この)む。(まこと)(なんぢ)らに()ぐ、かれらは(すで)にその(むくい)()たり。[引照]

口語訳また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
塚本訳また祈る時には、偽善者のようにしてはならない。彼らは人に見せようとして、礼拝堂や大通りの角に立って祈ることを好むのである。アーメン、わたしは言う、彼らは(褒められた時、)すでに褒美をもらっている。
前田訳また、祈るとき、偽善者のごとくであるな。彼らは会堂や町角に立って祈りたがるが、それは人々に見せるためである。本当にいう、彼らはその報いを得ている。
新共同「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
NIV"And when you pray, do not be like the hypocrites, for they love to pray standing in the synagogues and on the street corners to be seen by men. I tell you the truth, they have received their reward in full.
註解: 祈りは神に対してなさるべきものである、然るにこれを人に顕さんとし、または人を感動せしめんとしてなす場合においては、彼は偽善者である。何となれば心は人に向かいつつ言葉のみ神に向けられているからである。今日のキリスト教会にもかかる祈りが多い。神に達せざる祈りほど無効のものはない、いかに声を大きくしても、いかに衆人仰視の中に祈ってもその祈りは神に達しない。

6章6節 なんぢは(いの)るとき、(おの)部屋(へや)にいり、()()ぢて(かく)れたるに(いま)(なんぢ)(ちち)(いの)れ。さらば(かく)れたるに()(たま)ふなんぢの(ちち)(むく)(たま)はん。[引照]

口語訳あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
塚本訳あなたが祈る時には、“奥座敷に入り、部屋をしめきった上で、”隠れた所においでになるあなたの父上に“祈れ。”そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう。
前田訳あなたが祈るときは部屋に入って戸を閉じ、隠れたところにいますあなたの父に祈れ。さらば隠れたところに見たもうあなたの父は報いたまおう。
新共同だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
NIVBut when you pray, go into your room, close the door and pray to your Father, who is unseen. Then your Father, who sees what is done in secret, will reward you.
註解: ただ全身全霊を神のみに向け、自己の周囲にあるすべてのものを忘れるがことくに祈るべきである。かかる祈りは神に達する。この節も形式的に解せらるべきでない。公衆の前にまたは公衆と共に祈ることが禁じられたのではない。▲口語訳「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」のごとき訳しかたもあり、その他(1)隠れたる処にあることを見たもう汝の父は・・・、(2)隠れたる処にいる汝を見給う父は・・・(3)父は隠れたるところに汝に報い給わん・・・、等の諸訳あり。文語訳を採る。

6章7節 また(いの)るとき、異邦人(いはうじん)(ごと)くいたづらに(ことば)反復(くりかへ)すな。(かれ)らは(ことば)(おほ)きによりて()かれんと(おも)ふなり。[引照]

口語訳また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
塚本訳また祈るとき、異教人のようにベラベラしゃべるな。彼らは口数が多ければ、聞いてもらえるものと思っている。
前田訳祈るとき異邦人のようにしゃべるな。彼らは多言によって聞かれると思っている。
新共同また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
NIVAnd when you pray, do not keep on babbling like pagans, for they think they will be heard because of their many words.
註解: 南無阿弥陀仏の百万遍や、旧教において主の祈りを繰り返して珠数をもって数えるがごとき、また新教において心にもなき言葉を形式的に繰り返して祈るごときである。キリストはゲッセマネにおいて三度繰り返して祈り給うた、しかしながらこれは一回毎に肺腑より(ほとばし)り出でたる熱祷(ねっとう)であった。これを単なる反復 battalogein と言うことができない。祈りの聞かれるは言葉多きによらずその真剣の程度いかんによる。

6章8節 さらば(かれ)らに(なら)ふな、(なんぢ)らの(ちち)(もと)めぬ(まへ)に、なんぢらの必要(ひつえう)なる(もの)()りたまふ。[引照]

口語訳だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
塚本訳彼らの真似をしてはならない。神はあなた達の父上である。求める前から、あなた達に必要なものをよく御承知である。
前田訳彼らにならうな。あなた方の父なる神は、求めぬ先に要るものを知りたもうから。
新共同彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
NIVDo not be like them, for your Father knows what you need before you ask him.
註解: 祈りは父にその知らざることを知らすにもあらずまた言葉を反復して願事(ねきごと)の印象を深らしむるのでもない。神はすべてこれらを知悉(しりつく)し給う。ただ自己の切なる思いを神の御前にそのままに展開するに過ぎない。ゆえに彼らに倣って言葉を反復して言うことは無用である。
辞解
[汝らの父は] ▲▲口語訳「あなたがたの父なる神は」の「神」は異本による。

3-4-ハ 主の祈り 6:9 - 6:15
(マコ2:25、26) (ルカ2:2-4)  

註解: ここにマタイは祈りについて記すの(ついで)を以って「主の祈り」をここに挿入している。ルカ伝においてはイエスは或所における祈りの帰途にこの祈りを教え給えるものとして記されているけれども、マタイ伝はその性質上同種類の事柄を一箇所に集めた結果ここに収録したのであろう。

6章9節 この(ゆゑ)(なんぢ)らは()(いの)れ。[引照]

口語訳だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
塚本訳だからあなた達は、このように祈りなさい。──、わたしたちの天のお父様、お名前がきよまりますように。
前田訳それゆえあなた方は次のように祈りなさい。
  天にいますわれらの父上、
  あなたのみ名が聖められますように。
新共同だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
NIV"This, then, is how you should pray: "`Our Father in heaven, hallowed be your name,
註解: この言葉を文字通り繰り返せというのではない、かかる内容を以ってこのごとくに簡潔に祈るべしというのである。この祈りは六つの部分よりなり、始めの三部は神に関し後ろの三部は人に関するものである。

(てん)にいます(われ)らの(ちち)よ、

註解: この呼びかけにより我らの心は先ず父なる神の心に結びつくのである。この霊交なくして祈りはあり得ない。「我らの」父であって「我が父」ではない「我が父」なる言葉はただキリストのみ用い給うことができる。神が単に一つの霊力にあらずして、活ける人格に在りし給うこと、および彼を信ずる者が兄弟姉妹たることは「我らの父」なる言葉によりて示され、また汎神論者の唱えるがごとく万物皆神にあらずして、神は万物の上に高く(いま)し給う創造主なることは「天に(いま)す」なる言葉を以って表されている。神を父と呼び奉ることはキリスト以後において、その真意義を以ってすることができるようになった。

(ねが)はくは御名(みな)(あが)められん(こと)を。

註解: また「御名の聖められんことを」とも訳することができる。「御名」は神御自身というに同じく、神を神として聖め崇め、神にささぐべきすべての崇敬と礼拝とを捧げ、そして同時に神以外の何物をも神として崇めないこと、また神の御名が我らの内に聖められること、すなわち我らの罪によりて神の御名が汚されざることが御名を崇むるゆえんである。

6章10節 御國(みくに)(きた)らんことを。[引照]

口語訳御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
塚本訳お国が来ますように。お心が行われますように、天と同じに、地の上でも。
前田訳あなたのみ国が来ますように。
  あなたのみ心が行なわれますように、
  天のように地にもまた。
新共同御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
NIVyour kingdom come, your will be done on earth as it is in heaven.
註解: 「御国」はまた「汝の御支配」と訳すべき文字であって、現在この人類の世界は悪魔の支配の下にあり(悪魔についてマタ4:11、要義1参照)、自己は罪の下に支配せられ、社会も国家も悪の勢力の下にあり、その圧迫の下に呻吟(しんぎん)し、切に神の子等の顕れんことを待っている(ロマ8:19)。すなわち神の国、メシヤの国が顕れんことは、悩める人類の切なる祈りでなければならない(ピリ3:20)。

御意(みこころ)(てん)のごとく()にも(おこな)はれん(こと)を。

註解: 地上に神の御心が行われんことが我らの切なる願いでなければならない。しかるに我らは常に自己の欲求のごとくに成らんことを願う心が切である。かかる心をもってこの祈りを祈るならば虚偽である。神の御意はあるいは我らの欲求に反する場合が多いであろう。かかる場合にもなお御意の成らんことを祈るのがこの祈りの主意である (マタ26:39マタ26:42) 。以上の三つの祈りはいずれも神に関するものであるけれどもその中第一は神の御栄え、第二は悪魔の征服、第三は人の肉の征服に関する点で各々特異の点を持っている。次の三つの祈りにもまたこれと同様の区別がある。

6章11節 (われ)らの日用(にちよう)(かて)今日(けふ)もあたへ(たま)へ。[引照]

口語訳わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
塚本訳その日の食べ物をきょうも、わたしたちに戴かせてください。
前田訳われらのその日の糧(かて)をきょうもお与えください。
新共同わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
NIVGive us today our daily bread.
註解: 第四の祈りであって以下は人間に関することがらである。人間の物質的生活の必要についてはその最小限度を祈り求むることを許されているのであって、その一日に必要なるもの(衣食住)を今日も神に乞い神より受けて生活するのが信者の生活である。富者といえどもこれと異ならない。ゆえに生活の最小限度であり、また明日以後のことをすべて神に(まか)せし絶対信頼の生活である。自らはあるいは生活のために思い煩いつつ、あるいは自己の財産に頼りつつかかる祈りをなすことは虚偽である。
辞解
[日用の] 原語は意義不明の言葉であって「必用の」「翌日の」等と訳する学者もある。

6章12節 (われ)らに負債(おひめ)ある(もの)(われ)らの(ゆる)したる(ごと)く、(われ)らの負債(おひめ)をも(ゆる)(たま)へ。[引照]

口語訳わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
塚本訳罪を赦してください、わたしたちも罪を犯した人を赦しましたから。
前田訳われらの罪をおゆるしください。われらも罪を犯した
   人をゆるしましたから。
新共同わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
NIVForgive us our debts, as we also have forgiven our debtors.
註解: 負債(おいめ)は罪と同義に用いられる(ルカ11:4)。神に罪の赦しを乞う場合にまず自己の罪の悔い改めが必要である、すなわち他人の罪を赦さざりし頑なる心を改め、砕けたる心を以ってすべての人の罪を赦して後に神に赦しを乞わなければならぬ。砕けたる悔い改めの心は自己の罪を意識せる心である、自己の罪を意識せる者は自己に対する他人の罪を責める心を失う、この心を以って神の赦しを乞うことがこの祈りの中心である。人間にとって最大の必要は自己の罪が神より赦されることである。
辞解
[負債] ▲口語訳には「をいめ」を「ふさい」と読ませているが、通俗に「ふさい」は借金を意味するゆえ、この場合には適当でない。本節の場合すべての果すべき義務を果さないことを意味している。
[如く] 程度や模範を示したものではなく、むしろ自己の心の状態を告白したものと見るべきで「(ゆる)したのであるから」というがごとき意味であろう。ゆえにエペ4:32と矛盾しない。

6章13節 (われ)らを嘗試(こころみ)()はせず、(あく)より(すく)()したまへ」[引照]

口語訳わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
塚本訳わたしたちを試みにあわせないで、悪から守ってください。
前田訳われらを試みにあわせず、悪者からお守りください。
新共同わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
NIVAnd lead us not into temptation, but deliver us from the evil one. '
註解: キリスト者の生活における最大の敵は悪魔である。キリストを除いて彼に勝ち得る者はない、彼は巧みに我らを試みるのである。ゆえに潔き一生涯を送らんがためには切に悪魔の嘗試(こころみ)に逢わせられざらんことを祈るより外はない。「われは悪魔を恐れず」というものは悪魔の力を知らざる蛮勇(ばんゆう)である。以上三つの祈りは人に関する祈りであるけれどもその中第一は人の肉の必要、第二は神の赦し、第三は悪魔との闘いである。神と人と悪魔この三者の闘いが主の祈りの経緯となっていることを見ることができる。
辞解
[悪] この場合「悪しき者」(男性)と訳するを可とする、すなわち悪魔の意味である「より救い出す」は「その中より外に救い出す」意味すなわちekではなく、「それより遠ざけて安全ならしむる」意味すなわちapoである。

6章14節 (なんぢ)()もし(ひと)過失(あやまち)(ゆる)さば、(なんぢ)らの(てん)(ちち)(なんぢ)らを(ゆる)(たま)はん。[引照]

口語訳もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
塚本訳(祈る前に、まず人の罪を許さねばならない。)あなた達が人の過ちを赦してやれば、天の父上もあなた達を赦してくださるが、
前田訳もし人々の罪をゆるすならば、天の父はあなた方をもゆるされよう。
新共同もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
NIVFor if you forgive men when they sin against you, your heavenly Father will also forgive you.

6章15節 もし(ひと)(ゆる)さずば、(なんぢ)らの(ちち)(なんぢ)らの過失(あやまち)(ゆる)(たま)はじ。[引照]

口語訳もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
塚本訳人を赦さないならば、父上もあなた達の過ちを赦してくださらないであろう。
前田訳もし人々をゆるさねば、あなた方の父も罪をゆるされまい。
新共同しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
NIVBut if you do not forgive men their sins, your Father will not forgive your sins.
註解: 人の過失を赦し得ざるは自己の罪を悔い改めざる証拠である(マタ18:23-35)。12節註参照
要義 [主の祈りについて] 人間のすべての要求を最も簡潔に網羅せる意味において「主の祈り」は祈祷の最良の模範である。とくにまづ神に関する祈りがあり、しかもこれがその半ばを占め、生活に関する祈りが人に関する祈りの一つを占めるに過ぎざることのごときは、人間の自然の要求に反し、高き信仰の結果としてのみ顕れ得べき祈りである。しかしながらルーテルが言えるごとく、不幸にして主の祈りは最大の迫害を受けた殉教者であった。今日もまたそうである。多くの人はこの祈りの内容を心に抱くことなしにこの祈りを口にし、また無意味にこの祈りを繰り返している。キリストはこれを見てこの祈りを弟子等に教えしことを悔い給うであろう。そしてこの祈りは実に雄大なる祈りであって、現世と来世とを包含するものであるけれども、これを我らに祈るべく教え給える神は必ずこの祈りを聴き給うであろう。そしてキリストの日至ればベンゲルのいえるごとく、神の子等は天において「()むべきかな神の御名、御国は来たれり、御意は成れり、我らの罪は赦されたり、嘗試(こころみ)は終われり、そして我らは悪より救われたり、国と権と栄えとは永遠より永遠に汝のものなり。アーメン」なる頌栄の声を合わせて唱えるに至るであろう。
附記 [頌栄について] 主の祈りの後に異本に「国と権と栄とは永遠に汝のものなればなり。アーメン」なる頌栄が付加せられているのがある(元日本訳聖書はこれを採用した)。これは後世の追加であって、この主の祈りが教会に於て広く用いられるに至り、形式上この頌栄が付加されるに至ってここに挿入せられたものであろう。それにも関わらず、この頌栄は主の祈りが心より唱えし者の口に自然に湧き出づるところのものであって、我らは主の祈りを祈りて後、神が必ずこの祈りを聴き給うことを信じる時、必ずこの頌栄が心に溢れ出づることを禁ずることができない。ゆえに将来ともこの頌栄は消滅することがないであろう。

3-4-ニ 断食の場合 6:16 - 6:18  

6章16節 なんぢら斷食(だんじき)するとき、僞善者(ぎぜんしゃ)のごとく、(かな)しき面容(おももち)をすな。(かれ)らは斷食(だんじき)することを(ひと)(あらは)さんとて、その(かほ)(いろ)(そこな)ふなり。(まこと)(なんぢ)らに()ぐ、(かれ)らは(すで)にその(むくい)()たり。[引照]

口語訳また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
塚本訳また断食をしている時には、偽善者のように陰気な顔つきをしてはならない。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、(顔を洗わず、髭をそらず、わざと)顔を見苦しくするのである。アーメン、わたしは言う、彼らは(褒められた時、)すでに褒美をもらっている。
前田訳断食するとき、偽善者のように暗い顔をするな。彼らは顔を見ぐるしくして、断食しているのが人々に目立つようにする。本当にいう、彼らはその報いを得ている。
新共同「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
NIV"When you fast, do not look somber as the hypocrites do, for they disfigure their faces to show men they are fasting. I tell you the truth, they have received their reward in full.
註解: 断食(マタ9:14註)を以って自己の修養に関するすべての方面を代表せしめていると考えることができる。人に顕さんとするとき既にその行為の価値を失う。

6章17節 なんぢは斷食(だんじき)するとき、(かしら)(あぶら)をぬり、(かほ)をあらへ。[引照]

口語訳あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
塚本訳あなたが断食をするときは、頭に油をぬり、顔を洗いなさい。
前田訳あなたが断食するときは、頭に油をつけ、顔を洗い、
新共同あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
NIVBut when you fast, put oil on your head and wash your face,

6章18節 これ斷食(だんじき)することの(ひと)(あらは)れずして、(かく)れたるに(いま)(なんぢ)(ちち)にあらはれん(ため)なり。さらば(かく)れたるに()たまふ(なんぢ)(ちち)(むく)(たま)はん。[引照]

口語訳それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。
塚本訳これは断食をしていることを人に見せず、隠れた所においでになるあなたの父上に、見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう。
前田訳断食しているのが人々に目立たず、隠れたところにいますあなたの神に見られるようにせよ。そうすれば隠れたところに見たもうあなたの父が報いたまおう。
新共同それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
NIVso that it will not be obvious to men that you are fasting, but only to your Father, who is unseen; and your Father, who sees what is done in secret, will reward you.
註解: 頭に油をぬることはユダヤ人が祝祭の日にこれを行う習慣であった。これを文字通りに行うことがイエスの意味ではない、人に顕わさんがための形式的断食には徹底的に反対の心持をもって断食すべきことを教え給いしものである。▲以上の三つの信仰生活の行為はみな神に対してなさるべきである。人を相手にせず天を相手とするのが信仰生活の本質である。
要義 [眼中に人なし] 神に対する絶対的誠実は眼中にただ神のみを仰ぎて、人を眼中に置かない。もちろん人を軽蔑、または無視する意味ではない、反対に神が人を愛し給う意味においては人を重んじることもちろんである。しかしながら人の毀誉褒貶(きよほうへん)を意に介する意味においては全く人を眼中に置かないのであって、ただ神に対する忠実の心より神と人と自己とに対して行動するのである。そして人を眼中に置くものにして始めて人の眼を暗まさんとして偽善に陥るのと反対に神の前に忠実なるものは絶対に偽善に陥ることができない。キリストの要求し給うものはかかる人であった。もしすべての人がこの誠実を持つことができるならば、この虚偽に充てる世界が神の国と化すのであろう。この聖言に照らしてこの世界を見るとき、そこにはただ偽善のみが支配していることを知るであろう。

3-5 眼中に財宝なし 6:19 - 6:34
3-5-イ 財宝を地に積むな 6:19 - 6:24
(ルカ12:33、34)   

註解: 人は一方他人の毀誉褒貶(きよほうへん)により動かされると同時に、他方財産に寄り頼みて神に寄り頼むことをしない。前者は人を偽善に導き後者は人をして憂慮に陥らしむる。偽善と憂慮がこの世の二大疾患である以上、キリストが、この二方面を戒められしことはこの病の根源に触れたものと言わなければならない。

6章19節 なんぢら(おの)がために財寶(たから)()()むな、ここは(むし)(さび)とが(そこな)ひ、盜人(ぬすびと)うがちて(ぬす)むなり。[引照]

口語訳あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
塚本訳(このように、何事も天の父上相手でなければならない。たとえば)あなたたちは衣魚や虫が食い、また泥坊が忍び込んで盗むこの地上に宝を積まず、
前田訳あなた方のために宝を地につむな。そこではしみや虫が損ない、盗人が入り込んで取る。
新共同「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
NIV"Do not store up for yourselves treasures on earth, where moth and rust destroy, and where thieves break in and steal.
註解: 神のためを思わず人のためを顧みず天を忘れて、ただ己がために地上に財宝を積むほど愚かなことはない。動物(蛆)も自然(錆)も人間(盗人)も、みな地上の財宝を破滅に帰せしむることができる。またすべての財宝はこの何れかの原因によって破壊されるに定まっている。

6章20節 なんぢら(おの)がために財寶(たから)(てん)()め、かしこは(むし)(さび)とが(そこな)はず、盜人(ぬすびと)うがちて(ぬす)まぬなり。[引照]

口語訳むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
塚本訳衣魚も虫も食わない、また泥坊が忍び込むことも盗むこともない天に、宝を積んでおきなさい。(そうでないと、心が天に向かないであろう。)
前田訳あなた方のために宝を天につめ。そこではしみも虫も損なわず、盗人が入り込んで取らない。
新共同富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
NIVBut store up for yourselves treasures in heaven, where moth and rust do not destroy, and where thieves do not break in and steal.
註解: 天に財宝を積むとは天の所において価値あるものを持つことである。そして天において価値あるものは神の嘉納し給うものより他にない、すなわち善行を行うことである(Tテモ6:18、19)。神はこれを嘉納し給い、この嘉納の御心が最も貴き財宝として己がために天に貯えられるであろう。この財宝を毀損し得るものはない。

6章21節 なんぢの財寶(たから)のある(ところ)には、なんぢの(こころ)もあるべし。[引照]

口語訳あなたの宝のある所には、心もあるからである。
塚本訳宝のある所に、あなたの心もあるのだから。
前田訳あなたの宝のあるそのところにあなたの心もある。
新共同あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
NIVFor where your treasure is, there your heart will be also.
註解: 地に財宝を積む者は地に愛着し、天に財宝を貯える者の心は天の父の御心に注がれる。

6章22節 ()燈火(ともしび)()なり。この(ゆゑ)(なんぢ)()ただしくば、全身(ぜんしん)あかるからん。[引照]

口語訳目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。
塚本訳目は体の明りである。だからあなたの目が澄んでおれば、体全体が明るいが、
前田訳体の光は目である。あなたの目が澄んでいれば全身が明るい。
新共同「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、
NIV"The eye is the lamp of the body. If your eyes are good, your whole body will be full of light.
註解: ▲口語訳「澄んでいれば」は、原語haplousの意味を尽くしていない。「純ならば」の方が適当であろう。
辞解
[目ただしくば] 原語haplousは善き意味における単純無雑を意味し、ここでは目に曇りなき事と、24節の一人の主人のみに仕える心、すなわち目が一人の主に向かって迷わないこととの双方に懸けている。人を迷わしむるものは目それ自身があしき場合と、目それ自身健全であっても多くのものに目を奪われて迷う場合と二つあり、この双方とも無き単純清浄なる状態が、このhaplousである。

6章23節 されど(なんぢ)()あしくば、全身(ぜんしん)くらからん。[引照]

口語訳しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。
塚本訳目が悪いと、体全体が暗い。だから(天に宝を積まないため、)もしあなたの内の光(である目、すなわち心)が暗かったら、その暗さはどんなであろう。
前田訳あなたの目が暗ければ全身が暗い。あなたの内の光が暗ければ、その暗さはどれほどであろう。
新共同濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
NIVBut if your eyes are bad, your whole body will be full of darkness. If then the light within you is darkness, how great is that darkness!
註解: 燈火が暗夜に人を導くの用をなすと同じく人体にては、手にも足にもあらず目が人を導くの用をなしている。ゆえに目の善き人はその全身白日のごとく、目あしき人は全身暗夜の様である。
辞解
[あしくば] ▲pofierosは邪悪の意。

もし(なんぢ)(うち)(ひかり)(やみ)ならば、その(やみ)いかばかりぞや。

註解: 心の目、心の燈火が明るくなければならない。神と財宝とに兼(つか)えんとするものは目ただしくある事ができず、全身を暗闇の中に置くのである。

6章24節 (ひと)二人(ふたり)(しゅ)()(つか)ふること(あた)はず、(あるひ)はこれを(にく)(かれ)(あい)し、(あるひ)はこれに(した)しみ(かれ)(かろ)しむべければなり。(なんぢ)(かみ)(とみ)とに()(つか)ふること(あた)はず。[引照]

口語訳だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
塚本訳(わたし達の心は天か地かに引かれる。)だれも(同時に)二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることは出来ない。
前田訳だれもふたりの主には仕ええない。ひとりを憎んで他を愛するか、ひとりに頼って他を軽んずるかである。あなた方は神とマモンと両方には仕ええない。
新共同「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
NIV"No one can serve two masters. Either he will hate the one and love the other, or he will be devoted to the one and despise the other. You cannot serve both God and Money.
註解: 忠臣は二君に仕えず、しかるに神と富とに兼(つか)えんとするキリスト者のいかに多きかを見よ、かれらは暗黒の中に迷わざるを得ないのは当然のことである。
要義1 [キリスト者と財宝] キリスト者は二つの意味において財宝を超越しなければならない。その一つは財宝それ自身の性質より、その二は我らのこれに対する関係よりこの必要が起こってくるのである。すなわち第一は財宝はその性質のいかんを問わず必ず破滅すべき性質を持っており、形あるものは必ず滅するの法則に支配せられているものなることを思うとき(Tヨハ2:17)、我らかかる一時的なるものに心を奪われてはならない。また第二に我らの目的は、神に仕え、神を崇め奉ることである。もし我らの心が他のものに奪われるならば、我らは神を拝せず偶像を拝することとなる(コロ3:5)。そして財宝は我らの心を奪う力が最も強いのであって、イエスが特に財宝を地に積むなと教え給い、我らの目を単純に神に向けよと勧め給うゆえんはここにあるのである。
要義2 [財宝の蓄財について] 「財宝を地に積むな」との教訓は我らに一銭の貯蓄をも許さない意味であろうか、銀行に預金し公債株券土地家屋を所有することは一つの罪悪であろうか。この聖句を解せんとする者はこの点をまじめに考えなければならぬ。(1)ある人はこれを単に我らにあまりに地上の蓄財に熱心になることを戒めたものと解し、普通の蓄財、不慮の費用に対する準備等は差し支えないとの実際的意味に妥協せしめてこれを解釈している。しからざればこの言はあまりに窮屈に過ぎると思うからである。しかしながらかかる不徹底の態度をもってしては人は信仰の単純さを持つことができない。信仰は妥協を許さない。この聖句には確かに更に徹底せる力があるはずである。(2)それゆえにカトリック教会においては社会を僧俗の二階級に分かち、俗界はこの聖句を遵守し難きゆえにこれを厳格に遵奉することを(のが)し、ただ僧侶階級のみに無所有主義清貧主義を実行せしめ、かくして彼らをもって一層天国に近きものと思わしめていた。しかしながら人間にかかる二種の標準を置くことは主は認め給わなかった。罪は同じく何人にも罪であり、正義は同じく何人にも正義である。(3)ゆえにこの聖句は文字通りに遵奉すべきものでである。ただこれには「己がために」なる条件があるのであって、神がその創造し給える財宝を我らに托し給うとき、我らこれを最も適当に活用増殖貯蓄することは我らの任務である。これは「神のために」貯えるのであって、神がやがてその御旨のままに、これを用い給うのを待つのである。かかる意味において地上に財産を蓄える人と「己がために」これをなす人との間には、外見上明瞭なる差別を認め難い。けれども、神の目には常にこれは明瞭になっているのである。ゆえにこの教訓をもって財産を浪費しつくすべしとの意味に解してはならない。すべての財産は神のものである。そして我らは、神の守護の下にある以上己のために、自己の生活の憂慮よりこれを地上に貯えるの必要はない。しかしながら神に托せられし財宝を増殖し貯蓄してこれを濫費しないのは我らの義務である(マタ25:14-30)。ただ注意すべきことはこれをもって己の不信仰を(おお)う理由としてはならないことである。

3-5-ロ 思い煩うな 6:25 - 6:34
(ルカ12:22-31)   

6章25節 この(ゆゑ)(われ)なんぢらに()ぐ、(なに)(くら)ひ、(なに)()まんと生命(いのち)のことを(おも)(わづら)ひ、(なに)()んと(からだ)のことを(おも)(わづら)ふな。生命(いのち)(かて)にまさり、(からだ)(ころも)(まさ)るならずや。[引照]

口語訳それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
塚本訳だから、わたしは言う、何を食べようかと命のことを心配したり、また何を着ようかと体のことを心配したりするな。命は食べ物以上、体は着物以上(の賜物)ではないか。(命と体とを下さった天の父上が、それ以下のものを下さらないわけはない。)
前田訳それゆえあなた方にいう。何を食べようかといのちのことを、何を着ようかと体のことを心配するな。いのちは食べ物に、体は着物にまさるではないか。
新共同「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
NIV"Therefore I tell you, do not worry about your life, what you will eat or drink; or about your body, what you will wear. Is not life more important than food, and the body more important than clothes?
註解: 財宝を地上に積まんとする者はその衣食に不安を感ずるからである。しかし衣食のことを考える前に生命、身体のいかなるものなるかを考え見よ、これらは衣食より遥かに勝っている貴重のものでは無いか。そしてこの生命と身体は神の直接の御支配の下にあり、神これを養いこれを飾り給う、ゆえに衣食の不安は全く無用の思い煩いである。このことを主は26-30節に例をもって示し給う。
辞解
この一節の訳は元訳が勝っている。

6章26節 (そら)(とり)()よ、()かず、()らず、(くら)(をさ)めず、(しか)るに(なんぢ)らの(てん)(ちち)は、これを(やしな)ひたまふ。(なんぢ)らは(これ)よりも(はるか)(すぐ)るる(もの)ならずや。[引照]

口語訳空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
塚本訳空の鳥を見てごらん。まかず、刈らず、倉にしまいこむこともしないのに、天の父上はそれを養ってくださるのである。あなた達は鳥よりも、はるかに大切ではないのだろうか。
前田訳空の鳥を見よ。まかず、刈らず、倉にしまわないが、しかも天にいますあなた方の父が養いたもう。あなた方は彼らよりはるかにまさるではないか。
新共同空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
NIVLook at the birds of the air; they do not sow or reap or store away in barns, and yet your heavenly Father feeds them. Are you not much more valuable than they?
註解: まず生命のことを考えて見るならば、空の鳥をすら養いてその生命を維持し給う天の父は、その像(かたち)に似せて造り給える人間を養い給わない理由はない。例えば関東大震災において幾百万の人は全財産を失ったけれども幾何(いくばく)の人が餓死せしかを見よ。天の父は彼らを養い給うた。全心をもって神に信頼する者をば神必ずこれを養い給う。

6章27節 (なんぢ)らの(うち)たれか(おも)(わづら)ひて()(たけ)一尺(いっしゃく)(くは)()んや。[引照]

口語訳あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
塚本訳(だいいち、)あなた達のうちのだれが、心配して寿命を一寸でも延ばすことが出来るのか。
前田訳心配によってあなた方のだれが寿命をちょっとでも延ばせるか。
新共同あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
NIVWho of you by worrying can add a single hour to his life ?
註解: ここでは生命について論じている場合であるから「身の長」の原語ヘリキヤhelikiaを「生命」と訳する方が勝っている事と思う、すなわち我らの生命は完全に神の御手にあり、我らは絶対にこれに対して無力であって、いかに思い煩ってもこれを伸縮することができない。

6章28節 (また)なにゆゑ(ころも)のことを(おも)(わづら)ふや。()百合(ゆり)如何(いか)にして(そだ)つかを(おも)へ、(らう)せず、(つむ)がざるなり。[引照]

口語訳また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
塚本訳また、なぜ着物のことを心配するのか、野の花の育つのを、よく見てごらん、苦労をせず、紡ぐこともしない。
前田訳また、着物について何を心配するのか。野の花がどう育つか、つぶさに見よ。苦労せず、紡ぎもしない。
新共同なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
NIV"And why do you worry about clothes? See how the lilies of the field grow. They do not labor or spin.

6章29節 されど(われ)なんぢらに()ぐ、榮華(えいぐわ)(きは)めたるソロモンだに、その服裝(よそほひ)この(はな)(ひと)つにも()かざりき。[引照]

口語訳しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
塚本訳しかし、わたしは言う、栄華を極めたソロモン(王)でさえも、この花の一つほどに着飾ってはいなかった。
前田訳しかしわたしはあなた方にいう、繁栄の極みでのソロモンさえそのひとつほどに着飾れなかった。
新共同しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
NIVYet I tell you that not even Solomon in all his splendor was dressed like one of these.
註解: 26、27節に生命の例を揚げ、28-30節に身体の例として野の百合を揚げている。神は労せず(男)紡がさる(女)野の百合を天の露地の水をもって育て、これをソロモン王にもまさる美はしきをもって飾り給う。

6章30節 今日(けふ)ありて明日(あす)()()()れらるる()(くさ)をも、(かみ)はかく(よそほ)(たま)へば、まして(なんぢ)らをや、ああ信仰(しんかう)うすき(もの)よ。[引照]

口語訳きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
塚本訳きょうは花咲き、あすは炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこんなに装ってくださるからには、ましてあなた達はなおさらのことではないか。信仰の小さい人たちよ!
前田訳きょう盛り、あす炉に投げ込まれる野の草をも神はこれほど装いたもう。ましてあなた方を、ではないか、信仰の小さい人たちよ。
新共同今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
NIVIf that is how God clothes the grass of the field, which is here today and tomorrow is thrown into the fire, will he not much more clothe you, O you of little faith?
註解: 誰がこの結論を否定し得るものがあろうか。これほど明瞭なる大真理はない。それにもかかはらず事実すべての人が衣食のために思い煩うはなぜであるか、信仰薄きがゆえである。イエスはこの不信仰に対して心より嘆息し給うた。

6章31節 さらば(なに)(くら)ひ、(なに)()み、(なに)()んとて(おも)(わづら)ふな。[引照]

口語訳だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
塚本訳だから、『何を食べよう』とか、『何を飲もう』とか、『何を着よう』とか言って、心配するな。
前田訳それゆえ、何を食べよう、何を飲もう、何を着ようとかといって心配するな。
新共同だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
NIVSo do not worry, saying, `What shall we eat?' or `What shall we drink?' or `What shall we wear?'
註解: 空の鳥と野の百合の例を示して25節を証明しここに再び同一の教訓を繰り返してその意を強めている。

6章32節 (これ)みな異邦人(いはうじん)(せつ)(もと)むる(ところ)なり。(なんぢ)らの(てん)(ちち)は、(すべ)てこれらの(もの)(なんぢ)らに必要(ひつえう)なるを()(たま)ふなり。[引照]

口語訳これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
塚本訳それは皆異教人のほしがるもの。あなた達の天の父上は、それが皆あなた達に必要なことをよく御承知である。
前田訳これらすべては異邦人も求めている。天にいますあなた方の父はこれらすべてが要(い)ることを知りたもう。
新共同それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
NIVFor the pagans run after all these things, and your heavenly Father knows that you need them.
註解: 神を知らざる異邦人は切にこれらを求む。これ神が彼らを養い給うことを知らないからである。しかしながらキリストの弟子にはその必要がない、天の父が我らの必要を知悉(しりつく)し給うからである。ゆえに「我らの日用の糧を今日も与え給え」と祈りつつ全く思い煩いはないのが天に父を持つキリスト者の当然の態度である。

6章33節 まづ(かみ)(くに)(かみ)()とを(もと)めよ、さらば(すべ)てこれらの(もの)(なんぢ)らに(くは)へらるべし。[引照]

口語訳まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
塚本訳あなた達は何よりも、御国と、神に義とされることとを求めよ。そうすれば(食べ物や着物など)こんなものは皆、(求めずとも)つけたして与えられるであろう。
前田訳まず彼の国と義を求めよ。そうすればこれらすべてがあなた方につけたされよう。
新共同何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
NIVBut seek first his kingdom and his righteousness, and all these things will be given to you as well.
註解: ます第一に求むべきものは、この世より悪の勢力を駆逐して、神御自身の支配し給う国の実現せん事(マタ6:10)と、「己の義」(マタ6:1)にあらずして「神の義」、すなわち神の見て以って正しとし給う事の実現せん事である。すなわち全力を尽くして神の御旨に叶う正義の国を実現せんため不義と戦う事である。かく全心を以って神を慕うものを神は飢寒(きかん)に死なしむるはずはない。ゆえに我らの全精力は本来この要求に向けられるべきものであった。しかるにこの反対に衣食の思い煩いに人はその全精力を傾注している。ゆえにその求むるものを得ず、いわんや神の国と神の義とは彼らに与えられない。▲「神の国の」の「国」basileia はむしろ「支配」と訳すべきである。basileusは「王」、basileuô は「支配する」、basileiaは「支配する事」である。ドイツ語のHerr、Herrschen、Herrschaftもこれに相当する。人が神に全く服従する場合、そこに「神の支配」があり「神の国」がある。「国」を政治的の国と混同してはならない。

6章34節 この(ゆゑ)明日(あす)のことを(おも)(わづら)ふな、明日(あす)明日(あす)みづから(おも)(わづら)はん。一日(いちにち)苦勞(くらう)一日(いちにち)にて()れり。[引照]

口語訳だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
塚本訳だから、あしたのことを心配するな。あしたはあしたが自分で心配する。一日の苦労はその日の分で沢山である。
前田訳あすのため心配するな。あすのことはあす自体が心配しよう。一日にとってはその日の苦労で十分である。
新共同だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
NIVTherefore do not worry about tomorrow, for tomorrow will worry about itself. Each day has enough trouble of its own.
註解: 神にすべてをまかせ奉れる生涯は少しの憂慮もない。その日その日に神の与えたもうものを与えたもうままに受け、明日の事は明日自ら思い煩うにまかせて(「明日」なるものを人間に擬した言い方)自分はこれと無関係に生きるのが彼らである。ゆえに今日苦労来たれば喜んでこれを受け、明日また再び苦労を与えらるればまた喜んでこれを受け(ロマ5:3)、更に翌日を思い煩わない。一日の労苦はその日に取って充分過ぎるのであって明日の苦労までもその日に取り越さない、これが生活の本領である。
辞解
[労苦] 原語カキヤkakia「悪」を意味しこの場合は「いやなこと」という意味に用いられている。
要義1 [憂慮なき生活] 思い煩い無き生活とはいかなるものであろうか。神にすべてを任せ奉れる生活は多くの世の人の想像するごとく、自らは抽手無為(現代用語になし。文脈から「努力せず」「何もせず」と言う意味に取れる:編者)に過しつつ、神来たりて彼らを養い、彼らに着せ給うのを待つごとき生活では無い、またここに空の鳥と野の百合を以って示されしごとき「播かず刈らず倉に収めず、労せず紡がざる」怠惰者の生活でも無い。神に任せし生活は自己の衣食のみを任せて他は自己の勝手に生活するというのでは無く、全生活を神に任せ切った事である。ゆえにその与えられし本能も才能もすべて神の御旨のままにこれを用い、播くべき時に播き刈るべき時に刈り倉に収むべき時に収めるのが、神にすべてを任せし者の生活である。ただ彼らはこれを神の御旨によりて行い、自己の衣食に対する思い煩いのゆえにこれを為すのでは無い。この点において彼らの生活が世の人の生活と根本的に異なっているのである。神に任せて思い煩はざる生活を以って、無為徒食の居候の生活と思うのは大なる誤りである。
要義2 [絶対信頼の生活] 信頼し得べからざるものに信頼する人は愚人であると同じく、信頼すべきものまた信頼し得べきものに信頼しないのもまた愚人でなければならない。もし神の万能全知にありし給う事が一つの観念に過ぎずして、事実でないならば、神は信頼し得ないはずである。これに反しもしこれが一つの事実であるならば、神ほど信頼し奉るに相応しき御方は無い。そして実際神は全知全能に在りし給うがゆえに、彼、我らを養い給うとききて我らこれに絶対の信任を(ささ)げ奉る事ができる。もしこの世に安全の保障というものがあるならば、これほど安全確実なる保障は他に無いであろう。しかるに人はこの神に絶対信頼をささげて思い煩はないだけの信仰を持ち得ないのは、実に驚くべき不信仰である。キリスト者と称する者の中にすらこの信仰が無いのは悲しい事である。
要義3 [ああ信仰うすき者よ] 主イエスが弟子らの薄信を責め「ああ信仰うすき者よ」といい給いし事四度であった。その各々が弱き信仰より来る特種の結果を示している。第一の結果は「思い煩い」(マタ6:30)であり、第二の結果は「恐怖」(マタ8:26)であり、第三の結果は「疑惑」(マタ14:31)であり、第四の結果は「議論」(マタ16:8)であった。不信仰は必ずこれらの中の一つまたはその以上の結果を来たらしむるものである。