黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版エペソ書

エペソ書第5章

分類
4 実践の部 4:1 - 6:20
4-2 キリスト者の諸徳 4:17 - 5:21
4-2-ハ 神の喜び給う供物たれ 5:1 - 5:6  

註解: 教会一体の観念より転じて本章以下には教会の普通道徳を述べる。

5章1節 されば(なんぢ)(あい)される子供(こども)[のごとく、](として)(かみ)(なら)(もの)となれ。[引照]

口語訳こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
塚本訳(これらは要するに愛である。)だから、(既に神の愛子となった君達は)愛子らしく(愛なる)神を真似る者となれ。
前田訳それで、神のいとし子として、神にならうものになってください。
新共同あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。
NIVBe imitators of God, therefore, as dearly loved children
註解: キリストが汝らを赦し給いし故(前節末尾)かくキリストに愛される子供である以上、汝らもまた彼に(なら)うべきである。何という偉大なる教訓であり理想であろうか。イエスを単に自分の罪の掃除人のごとくに取扱い、少しも彼に(なら)おうとしない者は彼を愛さない者である。愛される者はその愛する者を仰ぎ見る。

5章2節 [(また)]((しか)して)キリストの(なんぢ)らを(あい)し、(われ)らのために(おのれ)(かうば)しき(にほひ)献物(ささげもの)とし犧牲(いけにへ)として、(かみ)(ささ)(たま)ひし(ごと)く、(あい)(うち)をあゆめ。[引照]

口語訳また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。
塚本訳そして愛に歩め──キリストが君達を愛し、私達のために自分を“献げ物また犠牲”として献げ、神への“馨しい香りとなり”給うたように。
前田訳そして愛に歩んでください。ちょうどキリストもあなた方を愛して、われらのために自らを神へのよい香りの供え物またいけにえとしておささげになったように。
新共同キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
NIVand live a life of love, just as Christ loved us and gave himself up for us as a fragrant offering and sacrifice to God.
註解: キリストは我らを愛し、我らのために己を神にささげ給うた。すなわち我らを愛する愛の故に全く己をすてて神に己をまかせ(▲+神の御意に従って我らの罪のための(なだめ)供物(そなえもの)となり)給うた。このキリストの態度が神の前に(こうば)しき香のごとくに立ち昇りて神の前に達する処の献物であり犠牲であった。我らもまた彼にならいこの愛をもって歩むべきである。すなわち己を「神の悦びたまふ潔き活ける供物(そなえもの)として献げ」(ロマ12:1)神を愛しつつ、また互に相愛すべきである。
辞解
[(かうば)しき(にほひ)] 肉を焼きて立昇る煙は天に達して(こうば)しき香として神に受納せられる。
[献物(ささげもの)犧牲(いけにへ)] この場合必ずしも罪人の身代りまたは罪の贖代として考えられる必要はない。また献物(ささげもの)は血を流さざるもの、犠牲(いけにえ)は血を流すものと区別することを必要としない。

5章3節 聖徒(せいと)たるに(かな)ふごとく、淫行(いんかう)、もろもろの汚穢(けがれ)、また慳貪(むさぼり)(なんぢ)らの(うち)にて(とな)ふる(こと)だに()な。[引照]

口語訳また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。
塚本訳しかし淫行やあらゆる汚穢また貪欲は、聖徒に似つかわしく、君達の間では口にもするな。
前田訳聖徒にふさわしく、不身持ちやあらゆる汚れや貪欲があなた方の間で口にされませんように。
新共同あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。
NIVBut among you there must not be even a hint of sexual immorality, or of any kind of impurity, or of greed, because these are improper for God's holy people.
註解: 淫行と汚穢(けがれ)慳貪(むさぼり)とは神を知らざる民には普遍的罪悪である。聖徒たるものの間には、かかる罪悪が絶無たるべきであるのは勿論、さらに進んでかかることを口にだにせざることを要する。汚穢(けがれ)を軽々しく口にすることはかかる罪悪に対する良心の働きを鈍くするものである。
辞解
[慳貪(むさぼり)(貪慾)] エペ4:19と同じく淫行に飽くことを知らざる意味に取る説もあり(E0)。本節の場合その必要なし。

5章4節 また()づべき[(ことば)]((こと))・(おろか)なる(はなし)戯言(たはむれごと)[を()ふな]、これ(よろ)しからぬ(こと)なり、(むし)感謝(かんしゃ)せよ。[引照]

口語訳また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。
塚本訳また卑下たことや馬鹿話また冗談を言うな。これは(聖徒に)相応しくない。むしろ(神に)感謝を述べよ。
前田訳恥ずべきことやばか話や悪じゃれもないように。これらは不当です。むしろ感謝しましょう。
新共同卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。
NIVNor should there be obscenity, foolish talk or coarse joking, which are out of place, but rather thanksgiving.
註解: 前節を受けて言語上の注意を()ぶ、日常の言語はその人の心の表顕であると同時に、その表顕はまたその心を形造る結果となる。そのため口にすることさえしてはならないことは()づべき行為に関すること、馬鹿らしき談話、戯談等であって、これらは人みなの歓ぶ処であるがために自然これに(ふけ)りやすく、その結果人心を腐敗させる。これらはキリスト者に相応しからぬことであって、むしろ常に感謝の言を口にすべきである。真実なる心の態度は自然感謝となって表われる。
辞解
[恥づべき言] aischrotês は aischrologia と異なり恥づべき言に限らず、すべて「恥づべきこと」を指す(M0、E0、B1)。すなわち不道徳の行為殊に汚穢(けがれ)の罪を指す。ただしここでは前後の関係上「恥づべき言」を主としていると見るべきであろう(L2)。
[これ(よろ)しからぬ事なり] 戯言(たわむれごと)」のみにかかると見る説あり、その故は、ギリシャの社会においては戯談は一種の徳とすら考えられていたからである。ただし他の二つもこれに類する性質を有する故、すべてにかけて差支えなし、文法上もこの方可なり。

5章5節 (すべ)淫行(いんかう)のもの、(けが)れたるもの、(むさぼ)るもの、(すなは)偶像(ぐうざう)(をが)(もの)どもの、キリストと(かみ)との(くに)世嗣(よつぎ)たることを()ざるは、(なんぢ)らの(かた)()(ところ)な(ればな)り。[引照]

口語訳あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。
塚本訳淫行の物や汚穢を行う物や貪欲な者すなわち偶像礼拝者は皆、キリストと神との王国の相続権を有たないことは、君達が(よく)知って居りまた認めていることではないか!
前田訳次のことを知ってください。すべて不身持ちのもの、汚れたもの、貧欲のもの、すなわち偶像崇拝者はキリストと神の国を継ぎえません。
新共同すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。
NIVFor of this you can be sure: No immoral, impure or greedy person--such a man is an idolater--has any inheritance in the kingdom of Christ and of God.
註解: キリストと神との国の世嗣たる者は、キリストと神との本質に反するもので有り得ない。そして淫行、汚穢(けがれ)は神の聖さに反し、慳貪(むさぼり)は神を離れて財宝に目を注ぐところの偶像礼拝であり、従って神の国とは相容れない。ただしこの三種の罪に一度でも陥った者が救われる可能性がないというのではなく、かかる罪の中におりながらそれを(のが)れんとせず、それを普通のことと思惟する種類の人を指す、当時の世界はこの種の罪については極めて放恣(ほうし)であった。
辞解
[即ち偶像を拝む者] (むさぼ)るもの」のみの説明と解するを可とす。その他の二つをも含むと見ることも不可能ではないがコロ3:5等との関係上、上記のごとくに解す。
[キリストと神の国] 単に「神の国」というよりも意味が強く、また神の国の道徳的色彩を表すに役立つ。

5章6節 (なんぢ)(ひと)(むな)しき(ことば)(あざむ)かるな、(かみ)(いかり)はこれらの(こと)によりて()從順(じゅうじゅん)()らに(およ)ぶなり。[引照]

口語訳あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。
塚本訳君達は誰からも空な言葉で瞞されてはならない。(これらの罪はその人達が言うように決して何でもないことではない。)こんなことをするからこそ、神の怒りがこれら不従順の子らに臨むのである。
前田訳だれもあなた方を空虚なことばで迷わさないように。このようなことから神の怒りが不従順の子らにのぞむのです。
新共同むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。
NIVLet no one deceive you with empty words, for because of such things God's wrath comes on those who are disobedient.
註解: (むな)しき言とは前節のごとき罪を罪にあらざるもののごとくに言い、これを真面目に罪と考うることをもって過度の規帳面として軽蔑するがごとき者を指す、かかる者に欺かれてはならない、不従順の子らすなわち神を信ぜざる者に神の審判が下るのは「これらの事」すなわち前節のごとき罪と、これを罪とも思わざることの故である。
辞解
[(むな)しき言] 種々の解あれど適当なるもの少なし、前述のごとくに解す(E0、I0)。
[不従順の子ら] 異邦人にして神を信ぜざるもの。

4-2-ニ 光に歩め 5:7 - 5:14  

5章7節 この(ゆゑ)(かれ)らに(くみ)する(もの)となるな。[引照]

口語訳だから、彼らの仲間になってはいけない。
塚本訳だから(決して)その仲間になるな。
前田訳彼らに与(くみ)しないでください。
新共同だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。
NIVTherefore do not be partners with them.
註解: 「彼ら」すなわち不従順の子らに(くみ)する者(仲間となる者)とは彼らと同じ罪に陥り同じ神の怒りに逢う者を指す。
辞解
[(くみ)する者] エペ3:6の「共に・・・・・(あずか)る者」と同語 summetochoi。

5章8節 (なんぢ)(もと)(やみ)なりしが、(いま)(しゅ)()りて(ひかり)となれり、(ひかり)子供(こども)のごとく(あゆ)め。[引照]

口語訳あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい
塚本訳君達はかつては暗であったが、今は主に在って光である。光の子らしく歩け
前田訳あなた方はかつては闇でしたが、今や主にあって光です。光の子らしく歩んでください。
新共同あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
NIVFor you were once darkness, but now you are light in the Lord. Live as children of light
註解: 信仰に入る前は汝らは暗黒そのものであり神の光は汝らの中に宿らなかった。然るにキリスト・イエスによりて救われ、彼の中に生きる今は汝らは光そのものである。汝らは神の光の中に在り神の光汝らの中に在るが故である。それ故に汝らの歩み、すなわち実践もまた神の子に相応しきものでなければならぬ。なお10節は本節の実現に関する注意なり。
辞解
[「闇」「光」] 神は光なりとの思想から来る。
[闇なりしが] 「闇の中に在りしが」よりも一層強き意義あり。光についてもまた同じ。

5章9節 (ひかり)(むす)()はもろもろの(ぜん)正義(ただしき)誠實(まこと)となり)[引照]

口語訳—光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである—
塚本訳──光の果実はあらゆる善と義と真であるから──
前田訳光はすべての善意と義と真理に実ります。
新共同――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――
NIV(for the fruit of the light consists in all goodness, righteousness and truth)
註解: 3−6節に示されしごとき諸悪と正反対の姿を示す、キリスト者は光である故自然これらの果を結ぶはずである。光の中にいることを恥ずるごとき行為は、キリスト者の中に存在すべきではない。Tヨハ1:5−10註および要義参照。

5章10節 (しゅ)(よろこ)(たま)ふところの如何(いか)なるかを(わきま)()れ。[引照]

口語訳主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。
塚本訳何が主の御意に適うかを(よく)吟味せよ。
前田訳何が主のお気に召すかお考えなさい。
新共同何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。
NIVand find out what pleases the Lord.
註解: (わきま)へ知れ」は「(わきま)へ知りて」で8節の光の「子供のごとく歩め」に連絡する。すなわち光の子供のごとくに歩むとは孝子が親の顔色を窺いてこれに孝養を尽くすがごとくに、主イエスの悦び給うことの何たるかを弁別し、これに従って行動する。主の喜び給うことと然らざることとの区別は聖霊によりて導かれる良心の判断と聖書の教える処とによる。

5章11節 ()(むす)ばぬ(くら)(わざ)(くみ)する(こと)なく、(かへ)つて(これ)()めよ。[引照]

口語訳実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。
塚本訳そして果実を結ばれない暗の業に与せず、むしろ(これを)明るみに出せ。
前田訳闇の不毛のわざに与せず、むしろそれらを明らかになさい。
新共同実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
NIVHave nothing to do with the fruitless deeds of darkness, but rather expose them.
註解: 教会の内外にかかる業を為すものが有った。かかる場合に消極的にこれに関与しないことは勿論であるが、単にそれでは足らず、進んでこれを叱責すべきである。暗黒の業を放置することは真理に対する不忠実なる態度であり、これを行う者に対する愛なき態度である。

5章12節 (かれ)らが(かく)れて(おこな)ふことは(これ)()ふだに()づべき(こと)な(ればな)り。[引照]

口語訳彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
塚本訳何故なら、彼らが隠れて行うことは(これを)口にするさえ恥ずかしいことである。
前田訳彼らが隠れてすることはいうも恥ずかしいものです。
新共同彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。
NIVFor it is shameful even to mention what the disobedient do in secret.
註解: 「隠れて行ふこと」は前節の「暗き業」(直訳暗黒の業)と同一種の行為を指すと解するを可とす。かかる行為は非常に恥ずべきものであってこれを口にするだに恥ずべきものなるが故に、これに(くみ)すべからざるは勿論むしろこれを叱責すべきである。
辞解
「言ふだに恥づべき事」と「責めよ」との命令は矛盾すと考える結果(責めるには口に出さなければならぬ故)、この困難を避けるためにあるいは「暗き業」と「隠れて行ふこと」とを別種の行為と見(M0)、あるいは「責めよ」 elenchete を「露出せよ」の意味に解するか、または言葉によらず立派な行為によりて責めることの意味に取らんとし(I0)、または「言ふだに」を公然と言うことと解する等、種々の手段が試みられているけれども、上述の註のごとくに解した。なお「隠れて」なる語が文法上特に強意的位置にあるとして特別の行為(特に重大なる罪、異教の密儀、家庭的犯罪等)と解せんとする説もあるが適切ではない。

5章13節 (すべ)てかかる(こと)は、()められるとき(ひかり)にて(あらは)さる、(あらは)される[(もの)](もの)はみな(ひかり)とな[る](れば)なり。[引照]

口語訳しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
塚本訳しかし明るみに出され(てその正体を暴露され)るものは皆(神の)光によって照らされる。
前田訳しかし光に照らされたものはすべて明らかになり、
新共同しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。
NIVBut everything exposed by the light becomes visible,
註解: 暗き業を公然と叱責することは必要であって、叱責により暗黒の中より光の中に持ち出され、光によりてその凡ての悪が明らかにされる。そして如何なる悪にても、それが光によりて顕わされる時、悪そのものも聖なる光となりて耀き出づるのである。叱責され神の光に照らされて悔改めたる罪人の姿は、輝ける衣を着たる聖者の姿である。
辞解
[顕される者] 原語は中性複数である故、前節の「暗黒の業」を指す、ただし結局において人間を指すこととなること勿論なり、この一節難解にして諸種の解釈あり、中に「顕すものは光なればなり」(C1)と読む説は最も意味として解し易いけれども、文法上難点あり。その他の解釈も適切なるはない。ゆえに上述せる処による(M0、A1、E0)。

5章14節 この(ゆゑ)()(たま)ふ『(ねむ)れる(もの)よ、()きよ、死人(しにん)(うち)より()(うへ)がれ。さらばキリスト(なんぢ)(てら)(たま)はん』[引照]

口語訳明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。
塚本訳(そして神の光に照らされ罪を浄められる時その人自身が光となる。)然り、(光に)照らされるものは皆光である。故に主は言い給う──眠る者、起きよ、死人の中より立ち上がれ、さすればキリストが汝を照らし給うであろう。
前田訳明らかになったものはすべて光です。それゆえこういわれます、「起きよ、眠るものよ、死人の中から立ち上がれ、さらばキリストがあなたを照らしたまおう」と。
新共同明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
NIVfor it is light that makes everything visible. This is why it is said: "Wake up, O sleeper, rise from the dead, and Christ will shine on you."
註解: 眠れる者は道徳的に覚醒せず罪の中にいる者、すなわち死ねる者(エペ2:1エペ2:5マタ8:22)である。かかる者は叱責される時立ち上がってキリストの光に照らされるであろう。
辞解
[言い給ふ] 誰の言か不明なり、多くの学者はイザ60:1(あるいはイザ9:1イザ52:1)の不精確な引用または預言をその成就の点より見たる(A1)引用であるとしているけれども、原文との差があまりに大きいので、納得し難い。ある学者は当時に行われし讃美歌(おそらく洗礼式の時の讃美歌)より引用したものであろうと想像しているが(I0、L2)この説がおそらく真に近いであろう。日本訳に「言い給ふ」とあるは、「神」または「キリスト」を略したものと解したのであるが上記の説によれば、「されば言えることあり」と訳すべきこととなる。なおその他「記録が現存せざるキリストの御言」「パウロが記憶の錯誤より経外典を正経として引用せるもの(M0)」等種々の解釈が試みられているけれども、確定的なものはない。「この故に」は8節をうけるとなす説あれど(L2)やはり前節を受けると見る方可なり。
要義 [キリスト者の道徳]5:1−14節においてパウロはキリスト者としての基本的道徳を教えている。これを要約すれば愛(1、2節)、清潔(3−5節)、真実(6節)、光明の中を歩むこと(7−14節)である。神なき社会を観察する時、凡てがこの反対であり、愛なく、汚穢に充ち、虚偽が溢れ、暗黒が支配していることを見るのである。もし教会が凡てこれらを克服して新しき生命に歩むことができないならば、神の民たる資格がない。

4-2-ホ 智かれ 5:15 - 5:21  

5章15節 されば(つつし)みてその(あゆ)むところに(こころ)せよ、(かしこ)からぬ(もの)(ごと)くせず、(かしこ)(もの)(ごと)くし、[引照]

口語訳そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、
塚本訳だから、自分が如何歩いているか、愚か者のようでなく賢い者のように歩いているかを、よく注意せよ。
前田訳いかに歩むべきか、十分お気をつけなさい、愚者のようでなく賢者のように。
新共同愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。
NIVBe very careful, then, how you live--not as unwise but as wise,
註解: 愚かなる者は神を知らず、自己の慾望の奴隷として行動し、(かしこ)き者は神の子たる身分を獲得し自覚して、神の御心に叶うように歩む。キリスト者は如何にしてこの(かしこ)き者のごとく歩むべきかを(つまびらか)に注意しなければならない。怠慢や不注意ではかかる歩みをすることはできない。
辞解
有力なる異本に「愼みて」を「歩む」にかけてあるのもあるが、現行訳の見方が優っている。尚原文は「如何にして(かしこ)からぬ者の如くならず(かしこ)き者の如くに歩むべきかにつき慎みて心せよ」となる。

5章16節 また機會(をり)をうかがへ、そは(とき)()しければなり。[引照]

口語訳今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。
塚本訳機会を(ねらい、充分に)利用せよ。今は時が悪いのであるから。
前田訳時を活用なさい、今は悪い日々ですから。
新共同時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。
NIVmaking the most of every opportunity, because the days are evil.
註解: 機会(おり)をうががへ」は「機会を充分に自分のものとして利用せよ」との意味である。その故は現代は悪しき時代であって、善を行うことは容易ではなく、少しく気を緩める時は直ちに悪に誘われやすき時代である故、充分に慎みて(かしこ)き者のごとく、善を行うべきあらゆる機会あらゆる時間を自分のものとしなければならない。
辞解
[うかがへ] exagorazô 「贖う」または「買取る」の意味の文字であって機会(適当の時期)をサタンより買取る意味(C1)または悪しき人より買取る意味(B1)に解する説あれど、むしろ「全部自分のものとする」方に重点が置かれていると見るべきである(I0、E0、M0)。なお買取るために用うる代金は何であるか等は問題とされていない。
[時] 原語「日」。

5章17節 この(ゆゑ)(おろか)とならず、(しゅ)御意(みこころ)如何(いかん)(さと)れ。[引照]

口語訳だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。
塚本訳この故に分からず屋にならず、主の御意の何であるかを悟れ。
前田訳それで、愚かにならないで、何が主のみ心かをわきまえてください。
新共同だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。
NIVTherefore do not be foolish, but understand what the Lord's will is.
註解: 「この故に」は前二節を受ける。悪しき時代に(かしこ)き歩みをしなければならない故、(おろか)にして主の御意(みこころ)に反くものとなってはならない。反対に主の御意(みこころ)の何であるかを悟り、これに従わなければならぬ。
辞解
[愚] aphrôn は「無智」 asophos と異なり、処世上の思慮判断に乏しきこと。
[悟る] suniêmi は「知る」 ginôskô よりも一層深き悟りを示す。

5章18節 (さけ)()ふな、放蕩(はうたう)はその(うち)にあり、むしろ御靈(みたま)にて滿(みた)され、[引照]

口語訳酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、
塚本訳また“酒に酔うな”──これが放蕩(の始まり)である──むしろ御霊に満たされよ。(これに酔え。)
前田訳酒に酔わないように。悪徳がそこにあります。むしろ霊に満たされ、
新共同酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、
NIVDo not get drunk on wine, which leads to debauchery. Instead, be filled with the Spirit.

5章19節 ()讃美(さんび)(れい)(うた)とをもて(かた)()ひ、また(しゅ)(むか)ひて(こころ)より(かつ)うたひ、かつ讃美(さんび)せよ。[引照]

口語訳詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。
塚本訳聖歌と讃美歌と霊の歌をもって互いに語り、心をもって主に歌いまた奏で、
前田訳互いに詩と讃美と霊の歌で語り、主に対して心からうたい奏でなさい。
新共同詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
NIVSpeak to one another with psalms, hymns and spiritual songs. Sing and make music in your heart to the Lord,
註解: この世の肉的享楽生活を送る者は、酒に酔いて高歌放吟する。キリスト者はかかる状態に陥るべきではなく、これとは正反対に聖霊に満され、相互の間に信仰をうたえる詩と、神とキリストとを()めたたえる讃美と俗歌と正反対なる霊的な歌謡とをもって語り合い、すなわちこれらをもって互いの心情を吐露し、また主キリストに向いても同様に詩をうたい、讃美をささぐべきである。かくして俗人とは正反対なる陶酔と感激と溢れる喜びとに満されることができる。
辞解
[語り合い] 交互に歌いて意思を通ずる意味に取る説が多いけれども、むしろ歌を中心にしてその意味を語り合い、信仰上の教訓とする意味に取るべきであろう。コロ3:16参照。なお酔漢が猥褻なる歌をうたいて喜び合うごとくに、霊的詩歌や讃美を歌いて歓び合うことの意に解することもできる。詩 psalmos は主として旧約の詩篇を指すと見るべきであるけれども他を除外すと解する必要なし、本来はギターのごときものの伴奏によりて歌う詩歌を指す。
[讃美] hymnos はキリスト者の作れる讃美歌で神またはキリストをほめたたえる歌。
[霊の歌] ôdês pneumatikês で ôdês は広く一般の歌謡を指す。これに「霊的」なる形容詞を加えることにより信仰より出づる歌謡たることを知る。

5章20節 (すべ)ての(こと)()きて(つね)(われ)らの(しゅ)イエス・キリストの()によりて(ちち)なる(かみ)感謝(かんしゃ)し、[引照]

口語訳そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、
塚本訳事毎に私達の主イエス・キリストの名において父なる神に常に感謝せよ。
前田訳つねにすべてのことにわれらの主イエス・キリストのみ名によって父なる神に感謝なさい。
新共同そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
NIValways giving thanks to God the Father for everything, in the name of our Lord Jesus Christ.

5章21節 キリストを(おそれ)みて(たがひ)(したが)へ。[引照]

口語訳キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。
塚本訳キリストを畏れて互いに服従し合え。
前田訳キリストへのおそれをもって互いに従いなさい。
新共同キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。
NIVSubmit to one another out of reverence for Christ.
註解: 酒に酔える者の互に罵り合い、または争い合う姿を思い浮かべて、その反対の感謝と従順とを挙げたものと見るべきであろう。すなわち凡てのこと(祝福のみならず苦難をも)常に感謝の心をもって受け、しかもこれをキリストによりて与えられることを信じて、イエス・キリストの名により感謝するのがキリスト者の義務であり、また酔酒家の互いに相争い合いて神を畏れざるに反し、キリスト者はキリストを(かしこ)みて互に従順の態度を()すべきである。かくして讃美感謝従順の美徳がキリスト者の中に満つるに至る。
辞解
21節が前節と文法上連絡していながら、内容において一見非常に突然に現れて来ているために、これを次節以下の主題として取扱わんとする説がある(M0、I0)けれども上註のごとくに解すれば前節との内容の連絡も必ずしも不可能ではなく、そして22節には連想として関連を持つものと見ることとなる。

4-3 社会関係 5:22 - 6:9
4-3-イ 夫婦関係 5:22 - 5:33  

註解: 前節末尾の「互に(したが)へ」よりの連想により夫妻(22−33)、父子(6:1−4)、主従(6:5−9)間の愛と服従の義務を教えている。キリスト者の家庭訓である。

5章22節 (つま)たる(もの)よ、(しゅ)(したが)ふごとく(おのれ)(をっと)(したが)へ。[引照]

口語訳妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。
塚本訳妻達よ、主に対するように自分の夫に服従せよ。
前田訳妻たちは夫に対すること主に対するように。
新共同妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
NIVWives, submit to your husbands as to the Lord.
註解: ▲「(したが)へ」hupotassô を口語訳で「仕えなさい」と訳したのは聖書の意味を正確に伝えていない。hupo-tassô は sub-ordinate 「従う」を意味する。「仕える」は自己の意思の自由行動であり「(したが)う」は夫の意思に対する従順である。

5章23節 キリストは(みづか)(からだ)救主(すくひぬし)にして教會(けうくわい)(かしら)なるごとく、(をっと)(つま)(かしら)なればなり。[引照]

口語訳キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。
塚本訳キリストが教会の頭であり給うように、夫は妻の頭であるから──しかも彼は(同時に)その体(なる教会)の救い主であり給う。(この点においてキリストと夫とはもちろん異なる。)──
前田訳キリストが集まりの頭であり、彼こそその体の救い主であるように、夫は妻の頭です。
新共同キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。
NIVFor the husband is the head of the wife as Christ is the head of the church, his body, of which he is the Savior.

5章24節 教會(けうくわい)のキリストに(したが)ふごとく、(つま)(すべ)てのこと(をっと)(したが)へ。[引照]

口語訳そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。
塚本訳しかし教会がキリストに服従するように、妻もまた何事によらず夫に服従せよ。
前田訳集会がキリストに従うように、妻も万事、夫に従うべきです。
新共同また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
NIVNow as the church submits to Christ, so also wives should submit to their husbands in everything.
註解: 妻は己の夫に(したが)うべきであり、しかもそれはキリストに(したが)うごとき心持で(したが)うべきである。夫は妻にとりてはキリストの代表者である。あたかも父が子にとりて然るがごとし、キリストと教会との関係が(かしら)と体との関係であると同様に(エペ1:22、23)、夫と妻との関係も(かしら)と体の関係であって一体であり、かつ体は(かしら)に服従すべきである。そしてそれは夫婦関係の範囲においては「凡てのこと」(24節)においてであって例外はない。
辞解
原文24節の初頭に「されど」とあるために難解となっている。23、24節を次のごとくに訳すことによりてほぼこの語の関係が明らかとなる。「23、キリストは教会の(かしら)なるごとく夫は妻の(かしら)なればなり。キリストは体の救主なり。24、[夫は妻の救主にはあらず]されど(、、、)教会のキリストに従うごとく妻も凡てのこと夫に(したが)え」[]内の意味を補充して読むべし(B1、I0、M0、L2、Z0)。

5章25節 (をっと)たる(もの)よ、キリストの教會(けうくわい)(あい)し、(これ)がために(おのれ)()(たま)ひしごとく、(なんぢ)らも(つま)(あい)せよ。[引照]

口語訳夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
塚本訳夫達よ、妻を愛せよ、キリストが教会を愛し、そのために自分を棄て給うたように。──
前田訳夫たちは妻を愛すること、キリストも集会を愛して自らをそのためにささげられたようになさい。
新共同夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。
NIVHusbands, love your wives, just as Christ loved the church and gave himself up for her
註解: 妻には絶対服従が要求されると共に夫には絶対愛が要求せられる。西洋近代の道徳においては前者が軽視せられ、東洋道徳においては後者が軽視せらる。共にキリスト教道徳の真諦ではない。妻の服従の模範が教会のキリストに対する服従であると同様夫の愛の模範はキリストの己を捨て給いし愛である。
辞解
[捨て] 「付し」で十字架の死を指す。

5章26節 [キリストの(おのれ)()(たま)ひしは、](これ)(みづ)(あらひ)をもて(ことば)によりて教會(けうくわい)(きよ)め、これを(せい)なる(もの)とし[て]、[引照]

口語訳キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
塚本訳キリストは洗礼の水浴びにより、(その際述べられる告白の)言葉をもって、教会を潔めて聖なるものとなし、
前田訳キリストは集会を水の洗いとことばできよめ、
新共同キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、
NIVto make her holy, cleansing her by the washing with water through the word,

5章27節 汚點(しみ)なく(しわ)なく、(すべ)()くのごとき(たぐひ)なく、(きよ)(きず)なき(ものとして)(たふと)教會(けうくわい)を、おのれの(まへ)()てん(ため)なり。[引照]

口語訳また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
塚本訳かくて汚点も皺もかかるものの何も無い、聖なる瑕なき輝かしい教会を自分で自分のために建てようとし給うたのである。――
前田訳しみやしわや、その類のものの何もない栄光の集会を自らに迎え、それを聖く汚れなくなさっています。
新共同しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。
NIVand to present her to himself as a radiant church, without stain or wrinkle or any other blemish, but holy and blameless.
註解: キリストの己を付し給いし目的を掲げて、夫が妻を愛することの意義を悟らしめんとしたのである。すなわちキリスト己を付して十字架につき給いしことによりて贖いは成就し、彼を信ずる者なる教会は水の洗いなる洗礼によりかつ神の言なる福音によりて潔められ、これによりてキリストのものとして聖別せられ、汚點(しみ)も皺もなき潔き花嫁なる尊き教会としてキリストの前に立たしめられるのである。すなわちキリストの己を付し給いしは、その体なる教会の聖別とその聖化完成とのためであった。
辞解
[言をもて] 意義および関係につき難解にして異説多し。「言」を洗礼式の際に用うる式典用語「父と子と・・・・・云々」と解する説多し、不可なり。
[水の洗] 花嫁が婚姻の前の入浴にたとえることを得。
「潔め」は katharizô 、「聖なるものとし」は hagiazô 、前者は清浄にすること、後者は聖別すること。

5章28節 ()くのごとく(をっと)はその(つま)(おのれ)(からだ)のごとく(あい)すべし。(つま)(あい)するは(おのれ)(あい)するなり。[引照]

口語訳それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。
塚本訳これと同様に夫【もまた】自分の妻を自分の体のように愛すべき義務がある。自分の妻を愛する者は自分自身を愛するのである。
前田訳そのように、夫はおのが妻を愛することおのが体をのごとくすべきです。おのが妻を愛するものはおのれを愛するのです。
新共同そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
NIVIn this same way, husbands ought to love their wives as their own bodies. He who loves his wife loves himself.
註解: キリストの教会を愛し給いしは結局己が体たる教会を己が前に立てんがためであった。同様に夫が妻を愛するは己の体を愛することである。夫婦一体の原理より自然にこの結論が生ずる。しかもこれを実行する人は少ない。
辞解
「のごとく」は「として」と訳するを可とす(M0)。

5章29節 (おのれ)()(にく)(もの)(かつ)てあることなし、(みな)これを(そだ)(やしな)ふ、キリストの教會(けうくわい)()けるも(また)かくの(ごと)し。[引照]

口語訳自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。
塚本訳何故なら、未だ曽て自分の「肉」を悪んだ者は無く、何人もこれを養い育てる。同じようにキリストも教会を養い育て給う。
前田訳自らの肉体を憎んだものはかつてなく、だれでもそれを育て養うことは、キリストが集会になさったのと同じです。
新共同わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
NIVAfter all, no one ever hated his own body, but he feeds and cares for it, just as Christ does the church--

5章30節 (われ)らは(かれ)(からだ)(えだ)な(ればな)り、[引照]

口語訳わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。
塚本訳私達は彼の体の肢である。
前田訳われらは彼の体の部分です。
新共同わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
NIVfor we are members of his body.
註解: 自己の身体は誰しもこれに必要なる食物や衣服を供給する。キリストもまたその体なる教会すなわち我らを同様に愛育愛撫し給う。その故は我らは彼の体の一部だからである。
辞解
29節の初頭に「何となれば」なる文字があり、妻を己の体のごとく愛すべき理由を()ぶ。
[育て養ふ] 「養いかつ愛撫する」の意。「愛撫する」 thalpô は本来「暖める」の意味を有する文字、転じて大切にすること、T列1:2。この場合衣服に関連して言えるものならん(B1)。なお異本に「彼の肉より出で、彼の骨より出づればなり」とあり。

5章31節 『この(ゆゑ)(ひと)(ちち)(はは)(はな)れ、その(つま)()ひて二人(ふたり)のもの一體(いったい)となるべし』[引照]

口語訳「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。
塚本訳“この故に人は父と母とを捨ててその妻に結びつき、二人は一体となる”。
前田訳「それゆえ、人は父母を離れて妻と結ばれ、ふたりはひとつ体になる」のです。
新共同「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」
NIV"For this reason a man will leave his father and mother and be united to his wife, and the two will become one flesh."

5章32節 この奧義(おくぎ)(おほい)なり、わが()(ところ)はキリストと教會(けうくわい)とを()せるなり。[引照]

口語訳この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。
塚本訳この奥義は大きい。私はキリストを指し、また教会【を指して】言っている。
前田訳この奥義は偉大です。わたしはキリストと集会についていうのです。
新共同この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。
NIVThis is a profound mystery--but I am talking about Christ and the church.
註解: 創2:24にアダムとエバの創造の際に語られし言葉であるが、パウロはこれをキリストと教会との関係の型として解し、この奥義の偉大さに感嘆の声を発しているのである。キリストと教会との一体関係の奥義が夫婦の関係において実現することは、夫婦関係の非常に深き意味があることを示すのみならず、同時にまたキリストと教会との関係の深さをも示す。

5章33節 (なんぢ)()おのおの(おのれ)のごとく()(つま)(あい)せよ、(つま)(また)その(をっと)(うやま)ふべし。[引照]

口語訳いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。
塚本訳何れにせよ、君達も一人一人自分の妻を自分自身のように愛せよ。そして妻は夫を畏れよ。
前田訳しかしあなた方も、各人がおのが妻をおのれのように愛しなさい。妻は夫を敬うよう心すべきです。
新共同いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
NIVHowever, each one of you also must love his wife as he loves himself, and the wife must respect her husband.
註解: 何はともあれ、汝ら夫婦は相互の間に愛と畏れを持つべきである。かく言いてパウロはキリストと教会との関係と夫婦の関係との間にほとんど区別を失えるもののごとくこの両者の間をさまよい、ついに最後に問題の本筋に立帰って夫婦の関係を教えている。彼は夫婦の関係を教えんとして、その根源たるキリストと教会との関係に遡り、さらにこの後者より夫婦の関係を導き出し、これを教えているのである。
辞解
本節初頭に plên (されど)なる文字あり。この場合上記註のごとき意味ならん。
要義 [天国における家族関係]聖書は神を父と呼び、信者を子とし、信徒相互を兄弟と呼び、キリストと教会との関係を夫婦に譬えている。普通はこれをもって人間の家族関係の用語を天国の家族関係に借用し、天国の住民相互の関係の如何を理解し易からしめるに過ぎないと考えられているけれども(換言すれば他に天国の住民相互または神およびキリストとの関係を表顕する方法なき故かく人間的関係に譬えるのに過ぎないと考えられているけれども)然らず。むしろ天国における神と人、キリストと教会、信徒相互の関係が、神の経綸の中に世の創めの前より成立せる本質的基本的関係であって、人間の社会関係、家族関係は、この天国の関係を理解せしめんがために神がかくのごとくに創造し給えるものと見るべきであろう。

エペソ書第6章
4-3-ロ 親子関係 6:1 - 6:4  

6章1節 ()たる(もの)よ、なんぢら(しゅ)にありて兩親(ふたおや)(したが)へ、これ(ただ)しき(こと)なり。[引照]

口語訳子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。
塚本訳子達よ、【主に在って】両親に従順なれ。これは当然のことであるから。
前田訳子たちは、主にあって両親に従いなさい。それは正しいことです。
新共同子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。
NIVChildren, obey your parents in the Lord, for this is right.
註解: 孝道は十誡の第二の石版に録される対人関係の中の最首位を占める徳である。親に従順なることはそれ自身正しき道であって、親の態度や意見の如何によらない。そしてこの従順はキリスト・イエスが父に対して取り給える態度であった故、「主に在る」者はまた当然イエスの従順に(なら)うべきである。「主に在りて」である故主イエスの欲せざる従順は為すべきではない。すなわち両親が子に対して神に(そむ)くべきこと、君に(そむ)くべきこと、不義を行うべきことを命ずる場合のごとし。
辞解
妻は夫に(したが)う hupotassô べきであり、子は親に(したが)う hupakouô べきである。前者は秩序の概念を含み、後者は聴従の観念を含む。
[(したが)へ] hupakouô で「聴き従う」の意味である。

6章2節 『なんぢの(ちち)(はは)(うやま)へ(これ約束(やくそく)(くは)へたる誡命(いましめ)(はじめ)なり)[引照]

口語訳「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、
塚本訳「“汝の父と母を敬え”──これは(次のような褒美の)約束のある第一の戒律である──
前田訳「なんじの父と母を敬え」−−これこそ第一のいましめで、次の約束つきです。
新共同「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。
NIV"Honor your father and mother"--which is the first commandment with a promise--

6章3節 さらばなんぢ幸福(さいはひ)()、また()(うへ)(いのち)(なが)からん』[引照]

口語訳「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。
塚本訳“さらば汝は幸福にして地上に長命ならん”」(と聖書にある。)
前田訳「そうすればあなたがしあわせになり、地上で長く生きるでしょう」。
新共同「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。
NIV"that it may go well with you and that you may enjoy long life on the earth."
註解: モーセの十誡の一節(出20:12申5:16)を引用し、これに註を加えて前節の誡命に対しさらに基礎づけをなす。子は両親に(したが)うのみならずこれを敬うべきである。尊敬なき従順は奴僕の心である。殊に父母を敬うことはその他の誡命よりも一層重要であって、その証拠としてこれには特に幸福と長寿との約束が加えられているのである。そしてかかる約束付きの誡命は諸律法中これが最初である。
辞解
十誡第二誡にも約束様のものが附加されている(出20:5、6。申5:9、10)ので「誡命の首」というは当らないと考えている人は、これを「重要なる誡命」と訳し、または対人的誡命(第二の石板に録されしもの)の中の最初であると解する。パウロはおそらく第二誡に附加せられしものは約束と称する性質のものにあらずと見たのであるか、または全誡命に関係あるものと見たのであろう。

6章4節 (ちち)たる(もの)よ、(なんぢ)らの子供(こども)(いか)らすな、ただ(しゅ)薫陶(くんたう)訓戒(くんかい)とをもて(そだ)てよ。[引照]

口語訳父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。
塚本訳父達よ、君達も子を憤らせるな。むしろ“主の躾”と”訓戒”とによって育てよ。
前田訳父たちは、子たちを怒らせず、主の訓育といましめでお育てなさい。
新共同父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
NIVFathers, do not exasperate your children; instead, bring them up in the training and instruction of the Lord.
註解: 子の孝順の道のみならず、父の子に対する道をも教えられている点が東洋道徳との差異である。父の注意すべき点は、その権威を濫用して、過度に苛酷、厳格であったり、また性急無思慮であったり、または子供心に同情を持たずして濫りに叱責する等により子供を怒らすることである。すなわち自己の性格または慾求に支配されることである。子供の教育には勿論薫陶と訓戒とが必要であるが、それは子供らにその行為の悪しきことを知らしむることが必要であり、かつ自己の利害や気分に支配せられず、「主の」代表者としての父たる資格をもって為すことが必要である。これが「主の薫陶であり訓戒である」。
辞解
「薫陶」 paideia 「訓戒」 nouthesia とは差別なしとするものあり、また前者は総称、後者はその中の一種とする説あれど(M0)、字義上は前者は主として心身を発達せしむる手段方法としての訓育鍛錬であり、後者は不完全なる点を矯正する手段方法としての言葉または鞭撻による訓戒である。修養の養と修の関係のごとし。原文に「父たるものよ、汝らも」とあり、「も」に注意すべし。▲日本および中国における孝道は、全体主義的社会状態の要請によりて歪められた点があり、同様に自由主義国における親子の関係は自由主義そのものの内蔵する特質に由って善悪ともに影響されている。

4-3-ハ 主従関係 6:5 - 6:9  

6章5節 (しもべ)たる(もの)よ、キリストに(したが)ふごとく(おそ)れをののき、眞心(まごころ)をもて(にく)につける主人(あるじ)(したが)へ。[引照]

口語訳僕たる者よ。キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心をこめて、肉による主人に従いなさい。
塚本訳奴隷達よ、キリストに対するように、畏れと戦きをもって真情からこの世の主人に従順なれ。
前田訳僕たちは、肉にある主人におそれとおののきをもって心をひとつにして従うこと、キリストに対するごとくになさい。
新共同奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。
NIVSlaves, obey your earthly masters with respect and fear, and with sincerity of heart, just as you would obey Christ.
註解: (しもべ)の場合も子の場合と同じく主人に対する従順が必要である(パウロは奴隷制度の存在する社会をそのままに取扱っていることに注意すべし)。そしてそれは「畏れおののき」つつ、すなわちその義務を充分に果さんとする責任感より生ずる心持をもって(Uコリ7:15ピリ2:12)なされなければならず、また純真なる心をもってしなければならぬ。
辞解
[肉につける主人] 1、4節等にキリストを「主」と呼んでいるため、これと区別するためにかく言えるものである(B1、M0)。ただしTテモ6:1、2。テト2:9Tペテ2:18におけるごとく despotês なる文字を用いなかった訳は、キリストとの近似を殊に表顕しようとしたものであろう。
[眞心をもて] haplotês は単純無雑にして二心なく表裏なきこと。

6章6節 (ひと)(よろこ)ばする(もの)(ごと)く、ただ()(まへ)(こと)のみを(つと)めず、キリストの(しもべ)のごとく(こころ)より(かみ)御旨(みむね)をおこなひ、[引照]

口語訳人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、
塚本訳ご機嫌取りのように、(主人の)目の前だけでなく、キリストの奴隷らしく心から神の御意を行え。
前田訳人によろこばれるよううわべの勤めをせず、キリストの僕として心から神のみ心を行ない、
新共同人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、
NIVObey them not only to win their favor when their eye is on you, but like slaves of Christ, doing the will of God from your heart.
註解: 人を喜ばせんとすることは、神の御旨に従うことの反対であり、目の前のことのみを勤めること、すなわち主人の目に(つか)えることは心より神の御旨を行うことの反対である。(しもべ)は神を喜ばせ、神の御旨を行う心持をもって主人に(つか)えなければならない。
辞解
「人を喜ばする者」anthrôpareskoi、「ただ目の前の事のみを勤むること」 ophthalmodoulia 等は特別の用語であり、一般に多くは用いられていない。

6章7節 (ひと)(つか)ふる(ごと)くせず、(しゅ)(つか)ふるごとく(こころよ)くつかへよ。[引照]

口語訳人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。
塚本訳人でなく主に対するように喜びをもって事えよ。
前田訳善意で仕えること人々にでなく主に対するごとくなさい。
新共同人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。
NIVServe wholeheartedly, as if you were serving the Lord, not men,
註解: 人は外貌を見、主は心を見る。ゆえに(しもべ)は心中より忠実に主人に(つか)えるべきで外見だけ忠実なるがごとくに装うべきではなく、「快く」親切を旨として主人に(つか)えなければならない。
辞解
前節の「心より」を本節「快く」と共に「つかへよ」を形容すると解する説あり(B1、I0)、この方意味の上には適当なり。
[快く] 「好意をもって」で不平や偽善等の心をいだくべきにあらざること。

6章8節 そは奴隷(どれい)にもあれ、自主(じしゅ)にもあれ、各自(おのおの)おこなふ()(わざ)によりて(しゅ)より()(むくい)()くることを(なんぢ)()ればなり。[引照]

口語訳あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。
塚本訳奴隷にせよ自由人にせよ、誰でも善いことをすれば(きっと)主からその報いを受けることを君達は知っているのだから。
前田訳ご存じのように、だれでも、僕でも自由人でも、よいことをすれば、それは主に報われましょう。
新共同あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。
NIVbecause you know that the Lord will reward everyone for whatever good he does, whether he is slave or free.
註解: キリスト再臨の時、凡ての人は、奴隷たると自主の人たるとを論ぜずその為せる善行に対して報いを受ける。ゆえにこの世において人間よりの報いは受けられずとも、隠れたる善行を為しつづけなければならぬ。奴隷は主人より報いを受けんことを期待せずに主人に(つか)えよ。たとい主人がこれに対して報いずともキリストは必ずこれに報い給う。

6章9節 主人(あるじ)たる(もの)よ、(なんぢ)らも(しもべ)(たい)()(おこな)ひて威嚇(おびやかし)()めよ、そは(かれ)らと(なんぢ)らとの(しゅ)(てん)(いま)して、(かたよ)()たまふことなきを(なんぢ)()ればなり。[引照]

口語訳主人たる者よ。僕たちに対して、同様にしなさい。おどすことを、してはならない。あなたがたが知っているとおり、彼らとあなたがたとの主は天にいますのであり、かつ人をかたより見ることをなさらないのである。
塚本訳主人達よ、君達も同じことを彼らにせよ。威迫をやめよ。彼らにも君達にも同じ(一人の)主が天に在し給うて、彼には(少しも)依怙が無いことを君達は知っているのだから。
前田訳主人たちは、同じことを僕たちになさい。おどしをやめなさい。ご存じのとおり、彼らにもあなた方にも同じ主が天にいまし、彼にはえこひいきがありません。
新共同主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。
NIVAnd masters, treat your slaves in the same way. Do not threaten them, since you know that he who is both their Master and yours is in heaven, and there is no favoritism with him.
註解: キリスト者たる主人は僕に対し、()く「善意をもって」(7節)行い、僕を愛し、威嚇を止めなければならぬ。神は主人の神であると共に僕の神であり、両者を公平に取扱い給う、そうして各自その為す処に従い公平なる報いを受けるからである。神を知らざる主人はその権威を濫用して僕を威嚇する。彼はやがて神よりかかる報いを受けるであろう。
辞解
[斯く行ふ] 種々の説あれど7節の「快く」に懸けるのが一般的である(B1、M0、E0)。
[偏り視給ふ] prosôpolêmpsia につきてはロマ2:11辞解参照。
要義1 [奴隷制度に対するパウロの態度]パウロはTコリ7:21以下を見るも、またエペ6:5以下を見るも奴隷たる身分の存在に対し、これを賞揚せずまた反対せず、有るがままの状態を肯定していた。かかる社会制度が存在するに至れる事情の中には、征服者と被征服者の関係、富者と貧者の関係等忌むべき事情が存していたことは勿論であるが、すでにかかる社会状態が永続している以上パウロはその秩序をそのまま受けて、その中に、それ以上の信仰の生命を植付けんとした(ピレモン書を見よ)。かくして奴隷と自主との関係をそのままにしつつ主にある平等なる者としての信仰に立つことを得しめたのである。すなわち社会の秩序をそのままにしてその精神に改革を来さしめるのであった。凡て社会の秩序を外から改革せんとする態度はパウロの取らざる処であった。ゆえにパウロの平等は神の前における人間としての平等であって、社会における上下の秩序の否定ではない(ロマ13:1)。ただし米国の奴隷売買のごとく、キリスト者たる白人が利慾のために新たにかかる行為を為すことの罪たることは勿論である。▲人間社会は如何なる形体を取る場合でも、それが完全ではあり得ない。聖書はまず人の心を神に従わせることを主とするだけで、社会組織とその中の諸悪に対して如何なる態度を取るべきかは具体的に指示を与えていない。これは各人の信仰から自然に判断さるべき事柄である。
要義2 [従順の美徳]夫婦、父子、主従間の関係において最も重要なる徳として服従、従順の徳を挙げていることに注意すべし。服従と従順を自由の反対のごとくに考え、キリスト者の自由と矛盾するごとくに思う者があるけれども、それはキリスト者の自由の何たるかを知らないからである。キリストの一生は父なる神に対する従順の生涯であった。アダムの罪は神に対する不従順であった。神の創造し給える秩序(神と人、君と臣、父と子、夫と妻、主人と僕のごとき)の根本原理は凡てこの従順である。ゆえに従順は凡ての社会的秩序の基礎であり、神の喜び給う処の徳である。これは神の絶対的命令であって決して便宜規定ではない。

4-4 霊の戦い 6:10 - 6:21

6章10節 (をはり)()はん、(なんぢ)(しゅ)にありて()大能(たいのう)勢威(いきほひ)()りて(つよ)かれ。[引照]

口語訳最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
塚本訳最後に(言う、)主にあって、またその逞しい威力によって強くなれ。
前田訳終わりに、主にあって、彼の強さの力によって強くおなりなさい。
新共同最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
NIVFinally, be strong in the Lord and in his mighty power.
註解: 家庭関係の義務(5:22−6:9)よりさらに進んで10−20節は一般に社会に対する戦闘の教会の態度を教えている。戦闘の教会の第一の要件は強くあることであり、次にこの強さをもって敵に勝つことである。如何にして強くせられるのであるか。それはキリストの大能の勢威(いきおい)による。キリストを信じ彼の中にいるものは、彼の大能の勢威(いきおい)を自己のものとすることができる。
辞解
[強かれ] 受動態と解し、「強くせられよ」と訳する方が適当である(E0、I0)。

6章11節 惡魔(あくま)(てだて)(むか)ひて()()んために、(かみ)武具(ぶぐ)をもて(よろ)ふべし。[引照]

口語訳悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
塚本訳悪魔の奸策に対抗し得るよう、神の武具を著けよ。
前田訳悪魔の策略に立ち向かえるよう神の武具をおつけなさい。
新共同悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
NIVPut on the full armor of God so that you can take your stand against the devil's schemes.
註解: 悪魔 diabolos は次節に掲げられる諸悪霊の総帥である。「(てだて)」 methodeia は狡猾なる手段方法、「向ひて立つ」は敵に対して陣地を固守すること。「武具」はここでは panoplia を用い、凡ての武器が揃って完備せることをいう。武器の種類は凡て完備しなければならない。一つを欠くことは全体の敗戦の基となることがある。「神の」は「この世の」または「人の」に対立し「神的の」の意、悪魔の力は非常に強く、人間の力や人間の武具ではこれに勝ち得ない。ゆえにキリストの大能の勢威(いきおい)によりて強くせられ、その上に神の全武具をもって武装することが必要である。然らざれば敵の狡計に対し陣地を保持することができない。
辞解
「神の」を「神より出づる」とする説多し。かく解しても差支えなし。

6章12節 (われ)らは血肉(けつにく)(たたか)ふにあらず、政治(まつりごと)權威(けんゐ)、この()暗黒(くらき)(つかさ)どるもの、(てん)(ところ)にある(あく)(れい)(たたか)ふなり。[引照]

口語訳わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
塚本訳私達の戦いは(この世の)血肉に対するものでなく、「権威」に対するもの、「権力」に対するもの、この暗の世界の主権者(なる悪魔)に対するもの、天上における悪霊(の軍勢)に対するものであるからである。
前田訳われらの戦いは血肉に対してではなく、諸支配、諸権威、この闇の世の諸勢力、天にある悪の諸霊に対してです。
新共同わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
NIVFor our struggle is not against flesh and blood, but against the rulers, against the authorities, against the powers of this dark world and against the spiritual forces of evil in the heavenly realms.
註解: 何故に神の全武具をもって武装することが必要であるかというに、この戦いは血と肉に過ぎざる弱き人間相手ではなく、人間よりもはるかに有力である悪魔の大軍に対し、神に近き天にある悪の霊に対するものだからである。悪魔はその部下たる政治、権威、悪の霊のごとき軍勢を使役し、凡ての(てだて)をもって神の民を撃たんとするのであって、我らはこれに対して敢然戦いを挑まなければならない。人間は救われなければならず、悪の霊は討たれなければならない。
辞解
[血肉] 「肉慾」の意味ではなく人間という意味である。マタ16:17辞解参照。
[戦ふ] palê は主として拳闘の意味に用いられる語であるけれども闘いの意味もあり(I0)。血肉と相対応せしむるために特にこの語を撰んだのであろう。
[政治、権威] 天使の名称。エペ1:21辞解参照。
[この世の暗黒を(つかさ)どるもの] 「この暗黒の世界的支配者」で悪魔の世界的支配を指す。ゆえにまた「此の世の神」(Uコリ4:4)「此の世の君」(ヨハ12:31辞解参照)「悪しきもの」(Tヨハ5:18)等と呼ばる。
[天にある] 悪魔の存在の場所およびその性格を示す。
[霊] pneumatika は霊的存在物の意、この四種の各々に「に対して pros 」が用いられ意を強めている。なおこの四種は悪魔の内訳と見るよりもその別名または種々相(しゅじゅそう)と見るべきであろう。

6章13節 この(ゆゑ)(かみ)武具(ぶぐ)()れ、(なんぢ)()しき()()ひて(あた)()ちむかひ、(すべ)ての(こと)成就(じゃうじゅ)して()()んためなり。[引照]

口語訳それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
塚本訳この故に神の武具を執れ。(悪魔が勢力を擅にする)悪い日において彼に抵抗し、凡てを征服してその立場を守り得るためである。
前田訳それゆえ神の武具をおとりなさい、悪い日に抵抗しえて、すべてをなし終えて、なお立ちうるように。
新共同だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
NIVTherefore put on the full armor of God, so that when the day of evil comes, you may be able to stand your ground, and after you have done everything, to stand.
註解: 天の処にある悪の諸霊と戦うためには普通の武器では役に立たない。神の全武具を執らなければならぬ。かく武装をするのは迫害、苦難、試誘(こころみ)等の悪しき日の来らんとき周章狼狽することなく、またこれに討ち負かされることなくこれに対抗し、しかも凡ての準備が完了して毅然として立ち得んがためである。
辞解
「悪しき日」をキリスト再臨前の最大の苦難の日(マタ24:21Uテサ2:3)と解し(M0、L2)、「凡ての事を成就して立つ」を戦争とこれに関係あるあらゆることを為し終えて最後に敗北も逃亡もせずに陣地を保持して堂々と立っている意味に解する説あり(M0)、またはこれに近似の説を為す学者もあるけれども(E0、I0)むしろ「武装を(まっと)うして如何なる敵にても来れとの態度にて立っていること」と解するを可とす(B1、L2)、次節の立つを見よ。従って「悪しき日」は再臨の前の苦難の日、すなわち「主の日」ではなく、現世生活そのものを指す。「時悪しければなり」エペ5:16

6章14節 (なんぢ)()つに(まこと)(おび)として(こし)(むす)び、[引照]

口語訳すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、
塚本訳だから“腰に真理の帯をしめ、義の鎧を著け、
前田訳竪く立って、真理で腰に帯し、正義の胸当てをつけ、
新共同立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
NIVStand firm then, with the belt of truth buckled around your waist, with the breastplate of righteousness in place,
註解: 我が国の(まわし)というがごとく帯(下腹部および腰部を()め活動しやすくする帯)は全武装の基礎となる。同様に(まこと)なしにはあらゆる徳もみな虚構となる。
辞解
[(まこと)] alêtheia は「真理」とも解すことができる(M0)けれども、この場合むしろ虚偽に対する真実の意味と見るを可とす。

正義(ただしき)胸當(むねあて)として(むね)()て、

註解: 正義を正面に向けて主張し、不義の思いの心の中に入るを防ぐことができる。正義の胸当を打破り得るものは何もない。

6章15節 平和(へいわ)福音(ふくいん)(そなへ)(くつ)として(あし)穿()け。[引照]

口語訳平和の福音の備えを足にはき、
塚本訳平和の福音の用意を”(靴として)“足に”穿いて立て。
前田訳平和の福音にそなえて足に靴し、
新共同平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
NIVand with your feet fitted with the readiness that comes from the gospel of peace.
註解: 兵士が靴を穿()いて縦横に馳駆(ちく)するがごとく、キリスト者は平和の福音の備えを携えて四方に伝道する(ロマ10:15)。平和は神との間および人と人との間の平和をいう。キリスト者はこの平和を宣伝えることによって勝利を獲る。

6章16節 この(ほか)なほ信仰(しんかう)(たて)()れ、(これ)をもて()しき(もの)(すべ)ての火矢(ひや)()すことを()ん。[引照]

口語訳その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
塚本訳その上になお信仰の盾を執れ。これで悪者の(投ぐる)凡ての火箭を消すことが出来よう。
前田訳これらすべてにおいて信仰の盾をおとりなさい。それによって悪者の火の矢をみな消せましょう。
新共同なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
NIVIn addition to all this, take up the shield of faith, with which you can extinguish all the flaming arrows of the evil one.
註解: サタンの攻撃を防ぐ最良の武器は信仰の大楯である。神とキリストとに対する信仰のある処サタンの火矢も(たちま)ちにして消されてしまう。
辞解
[楯] thureos 木製の大楯で革をもって掩うが故に火矢は消されてしまう。
[悪しき者] 悪魔。

6章17節 また(すくひ)(かぶと)および御靈(みたま)(つるぎ)、すなはち(かみ)(ことば)()れ。[引照]

口語訳また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
塚本訳また“救いの兜”と、“神の言”なる“御霊の剣”を取れ。
前田訳救いのかぶとをとり、霊の剣、すなわち神のことばをおとりなさい。
新共同また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
NIVTake the helmet of salvation and the sword of the Spirit, which is the word of God.
註解: キリストによる救いはこれを(かぶと)のごとく頭上に掲げて敵に示すべきであり、またこれによりて最も大切なる頭部を保護し、我らに永生を得しむるの用をなす。御霊の剣、換言すれば神の言(ヘブ4:12)は両刃の剣よりもするどく敵を刺し殺すことができる。この二つの武器を神より受けなければならない。
辞解
[御霊の剣] 「御霊が与うる剣」(M0、E0、I0)と解するよりも御霊が剣として働き給う場合を言えるものと解し、「すなわち神の言」はこの「御霊の剣」の説明と見るべきである。「御霊」または「剣」の説明ではない。
[執れ] 原語「受けよ」でキリストよりこれを受けること。

6章18節 (つね)にさまざまの(いのり)(ねがひ)とをなし、御靈(みたま)によりて(いの)り、また()(さま)して(すべ)ての聖徒(せいと)のためにも(ねが)ひて()まざれ。[引照]

口語訳絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。
塚本訳(最後に祈りで武装せよ。すなわち)あらゆる祈りと願いをもって常に御霊において祈れ。そしてそのため(いつも)目を覚まし、あらん限りの根気をもって聖徒達一同のために祈って居れ。
前田訳全き祈りと願いにより、つねに霊によって祈りなさい。そのために目を覚まして、全き忍耐とすべての聖徒のための祈りをなさい。
新共同どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
NIVAnd pray in the Spirit on all occasions with all kinds of prayers and requests. With this in mind, be alert and always keep on praying for all the saints.
註解: 私訳「さまざまの祈りと願いとによりて常に御霊によりて祈れ、しかも凡ての聖徒のために()まざる願いをもって目を覚ましおれ」。神の武装を完備せる兵士にとりて最も重要なるは「祈り」である。しかも自分のためのみならず「凡ての聖徒のため」の祈りであり、また「パウロのため」の祈りである。そしてその祈りは「御霊によりて」祈ることが必要である。形式的または表面口頭の祈りは祈りではない。また「常に」(直訳 ─ 凡ての時機に)祈るべきである。しかもこれは「目を覚ましつつ」為さるべきものであり、「凡ての聖徒のために執拗なる祈りを為す」べきである。自己のためのみに祈るのは真正の祈りではない。
辞解
[願ひて()まざれ] 原語「固執と願いとをもって」で「願いに固執して」というに同じ。

6章19節 (また)わが(くち)(ひら)くとき(ことば)(たま)はり、(はばか)らずして福音(ふくいん)奧義(おくぎ)(しめ)し、[引照]

口語訳また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。
塚本訳また私のためにも、私が(大きく)口を開いて御言を語り、大胆に福音の奥義を示し得るよう
前田訳わたしのためにも祈ってください、わたしが口を開くとき、ことばが与えられ、福音の奥義を公然と知らせうるようにと。
新共同また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
NIVPray also for me, that whenever I open my mouth, words may be given me so that I will fearlessly make known the mystery of the gospel,

6章20節 ((これ)により)(かた)るべき(ところ)(はばか)らず(かた)()るように、()がためにも(いの)れ、(われ)はこの福音(ふくいん)のために使者(つかひ)となりて(くさり)(つな)がれたり。[引照]

口語訳わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
塚本訳──この奥義のために私は(神の)使者として鎖に繋がれているのであるが──かく繋がれていながらも、語らねばならぬことを大胆に語り得るよう祈っていてもらいたい。
前田訳わたしはそのための使節で、捕われの身です。わたしが語るべきとおりに、公然といえるよう祈ってください。
新共同わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。
NIVfor which I am an ambassador in chains. Pray that I may declare it fearlessly, as I should.
註解: 「又わがためにも祈れ」は19節の初頭にあり。パウロは殊に聖徒の祈りの援兵の必要を痛感した。これは福音の宣伝のために言うべき言が与えられる事と、福音 ─ しかもそのためにかれは異邦人の使徒たりかつ囚人となっているのであるが ─ の奥義につき、(はばか)らず語ること、また福音の奥義に立ちて、語るべきを語る大胆さが与えられることであった。パウロは牢獄の中にありてもなお正しき福音の伝道と大胆率直なる証しを為すこと以外には何の余念もなかった。
辞解
[使者となりて鎖に繋がれたり] 「縄目付きの使節たり」と訳すべきで、自らを福音の大使をもって任ずる処にパウロの抱負があり、「縄目付きの」を附加せる処に彼の綽々(しゃくしゃく)たる余裕がある。
要義1 [戦闘の教会とその武具]地上における教会は「戦闘の教会」であり、天上における来るべき教会は「勝利の教会」である。戦闘の教会は武具をもって鎧わなければならぬ。そしてこれはカトリック教会や初期の新教教会がなせるごとく地上の政治的、物的武具ではない。誠、正義、福音、信仰、救い、神の言等凡て信仰的無形の武具である。そしてこの武具をもってサタンとその軍勢とに打勝つとき、ここに勝利の教会を見、栄光の冠をいただける聖徒を見ることができる。そして凡てのこれらの武器を有効に働かせる原動力は「祈り」である。この祈りによりえ与えられる力によりて、これらの武器は有力なる作用を呈するに至るのである。
要義2 [他人のための祈りの力]他人のために祈ることは、その人に見えざる作用を及ぼすものである。これ神がこの祈りを聴きてその力をもって他の人を助け給うが故である。パウロは幽囚の中にありて自己の弱さを殊に痛感していたために、信徒に向って自分のために祈ることを求めた。パウロはかかる祈りの力を知っていたのである。殊に伝道者には特有の困難と誘惑とがある故、聖徒たちの加祷は一層必要である。

分類
5 結尾の挨拶 6:21 - 6:24
5-1-イ テキコの派遣 6:21 - 6:22  

6章21節 (あい)する兄弟(きゃうだい)(しゅ)()りて忠實(ちゅうじつ)なる役者(えきしゃ)テキコ、()情況(ありさま)わが()(ところ)のことを、(つぶさ)(なんぢ)らに()らせん。[引照]

口語訳わたしがどういう様子か、何をしているかを、あなたがたに知ってもらうために、主にあって忠実に仕えている愛する兄弟テキコが、いっさいの事を報告するであろう。
塚本訳私自身のこと、私の様子が君達にもわかるように、愛する兄弟であり、主に在る忠実な世話人であるテキコが、万事を君達に知らせるであろう。
前田訳あなた方にもわたしの用事や行動を知ってもらうために、主にあって愛する兄弟また忠実な奉仕者であるテキコがすべてをお知らせするでしょう。
新共同わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。
NIVTychicus, the dear brother and faithful servant in the Lord, will tell you everything, so that you also may know how I am and what I am doing.
註解: (▲口語訳は優っている。)私訳「汝らもまたわが情況、わが為す所のことを知り得るように、愛する兄弟、主にありて忠実なる役者テキコ凡てのことを汝らに知らせん」。パウロはテキコを使いとしてこの書簡を持参させた。そして彼をしてパウロの起居を彼らに告げさせたのであった。パウロの多くの弟子たちは各地に在りてパウロの幽囚の身の上を心配しているのでパウロはおそらく種々の手段をもってその起居を知らせるように努力したのであろうが、彼は本書簡の読者にも「(また)」これを知らせることを望み、書簡のみにては尽くしがたき故、テキコを遣したのであった。
辞解
[テキコ] アジア人で(使20:4)、「忠実なる役者」であった。テキコはパウロの第三伝道旅行の末期(使20:4)ローマ幽囚の当時およびその後パウロの最後の伝道の際にも彼と共にいたことが記されている(テト3:12Uテモ4:12)。多くの学者はパウロの個人的従僕としてこれを解しているけれども、パウロに(つか)えることにより結局教会に対する奉仕をしたのである。ただし今日のごとき役員としての法的基礎を有する執事と混同すべからず。
[もまた(私訳)] あるいは「コロサイ人のみならず汝らもまた」(M0)と解し、あるいは「汝らの起居を我に知らせたので汝らもまた」と解するけれどもそれよりも上述のごとくに見るを可とす。

6章22節 われ(かれ)(つかは)すは、()(こと)(なんぢ)らに()らせて、(なんぢ)らの(こころ)(なぐさ)めしめん(ため)なり。[引照]

口語訳彼をあなたがたのもとに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるようになるためなのである。
塚本訳(今この手紙を持たせて)彼を君達の所に遺るのはこのためで、私達のことを知らせて(少しでも)君達の心を慰めさせるために外ならない。
前田訳彼をあなた方につかわすのはほかでもなく、あなた方がわれらのことを知り、彼があなた方の心を励ますためです。
新共同彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです。
NIVI am sending him to you for this very purpose, that you may know how we are, and that he may encourage you.
註解: テキコを遣す目的を説明す。「我らが事」(我が事は誤訳)はパウロおよびその周囲の人々の動静で、幽囚の中にあるパウロおよびこれを世話している弟子たちの動静は、これを聞く者の心を動かさずにはいない。そしてこれは「汝ら」を慰めんがためであって、パウロの幽囚に気落ちすることなく、幽囚の中に歓喜と希望に燃えているパウロの姿によりてかえって慰められんがためである。

5-1-ロ 頌栄、祝祷 6:23 - 6:24  

6章23節 (ねが)はくは(ちち)なる(かみ)および(しゅ)イエス・キリストより(たま)平安(へいあん)と、信仰(しんかう)(ともな)へる(あい)と、兄弟(きゃうだい)たちに()らんことを。[引照]

口語訳父なる神とわたしたちの主イエス・キリストから平安ならびに信仰に伴う愛が、兄弟たちにあるように。
塚本訳願う、父なる神及び主イエス・キリストよりの信仰と共に平和と愛とが、兄弟達にあらんことを。
前田訳平和と愛が信仰とともに父なる神と主イエス・キリストから兄弟たちに与えられますように。
新共同平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。
NIVPeace to the brothers, and love with faith from God the Father and the Lord Jesus Christ.

6章24節 (ねが)はくは()ちぬ(あい)をもて(われ)らの(しゅ)イエス・キリストを(あい)する(すべ)ての(もの)御惠(みめぐみ)あらんことを。[引照]

口語訳変らない真実をもって、わたしたちの主イエス・キリストを愛するすべての人々に、恵みがあるように。
塚本訳われらの朽ちぬ栄光の主イエス・キリストを愛する凡ての者に恩恵あれ!
前田訳恩恵が、変わらぬ栄光にあるわれらの主イエス・キリストを愛するすべての人々にありますように。
新共同恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。
NIVGrace to all who love our Lord Jesus Christ with an undying love.
註解: 結尾の祝福の祈祷であるが、他の書簡と異なる点は「兄弟たち」「凡ての者」として第三人称として宛てられていることである。これは回章の性質を有する本書簡の性質上至当である。而して祈祷の内容は、平安と愛と恵みとである。而してこの三者はみな神およびキリストより賜うところの賜物であり、この賜物を豊かに受くるにあらざれば、キリスト者の生命は枯死してしまう。なおこの「平安」は神に対する良心の平安であるのみならず、人と人との間にある平安であり、「愛」は単なる感情的愛ではなく「信仰に伴える」愛である。「御恵(みめぐみ)」は救われし者に対する神の不断の恩恵である。
辞解
「兄弟たち」「凡ての者」を異なる種類の信者と見る必要なし。
[朽ちぬ愛をもて] 原文「不朽をもて」で種々に解されるけれども「愛する」に懸かると見るべきであろう。