ヨハネ伝第7章
分類
3 イエスとユダヤ主義との争闘
5:1 - 11:57
3-2 イエス、ガリラヤに其の栄光を示し給う
6:1 - 7:1
3-2-3-ホ 弟子たちの躓き
6:60 - 7:1
7章1節 この
口語訳 | そののち、イエスはガリラヤを巡回しておられた。ユダヤ人たちが自分を殺そうとしていたので、ユダヤを巡回しようとはされなかった。 |
塚本訳 | そののち、イエスはガリラヤを巡回しておられた。ユダヤ人が殺そうとしていたので、ユダヤは巡回したくなかったのである。 |
前田訳 | こののちイエスはガリラヤをめぐっておられた。ユダヤ人が彼を殺そうとしていたので、彼はユダヤをめぐりたくなかったのである。 |
新共同 | その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。 |
NIV | After this, Jesus went around in Galilee, purposely staying away from Judea because the Jews there were waiting to take his life. |
註解: 「この後」は前章の出来事の後で過越の祭の後のことを意味する。イエスは四月半の過越の祭より次節の仮庵の祭まで六ヶ月間ガリラヤを巡り伝道し奇蹟を行い給うた。ユダヤを巡ることを欲し給わない理由はユダヤ人が彼を殺さんとするに因ることがここに記されている。勿論彼にはこの反対に打勝つ力がなかったのではなく、彼は人としての弱さを完全に有ち給い、また十字架の死が彼の使命であることを知っていたけれども、その時の至るまでは彼は自ら死をえらぶことを欲しなかったのである。マタ14:34−18:35の記事はこの間の出来事である。
口語訳 | 時に、ユダヤ人の仮庵の祭が近づいていた。 |
塚本訳 | しかしユダヤ人の仮庵の祭が近くなると、 |
前田訳 | しかし、ユダヤ人の仮庵の祭が近づくと、 |
新共同 | ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。 |
NIV | But when the Jewish Feast of Tabernacles was near, |
註解: 第七月すなわちチスリの月(十月)十五日より八日間行われる祭で、イスラエル人が四十年間荒野において天幕の中に住みしことを記念せんがために屋上、路傍などに天幕を作ってその中に住み、荒野の生活を記念すべき種々の儀式が行われ、最後に新穀を神にささげて大祝宴を催す。後に至ってその本旨は忘れられて唯いわゆる御祭り騒ぎと化した。この祭にも多くの人々これを祝せんためにエルサレムに集った(レビ23:33−44)。
7章3節
口語訳 | そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った、「あなたがしておられるわざを弟子たちにも見せるために、ここを去りユダヤに行ってはいかがです。 |
塚本訳 | イエスの兄弟たちが言った、「ここから移ってユダヤに行き、(今ここで)している業を(そこの)弟子たちにも見せたらどうです。 |
前田訳 | 彼の兄弟たちがいった、「ここから移ってユダヤヘ行きなさい、あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見うるように。 |
新共同 | イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。 |
NIV | Jesus' brothers said to him, "You ought to leave here and go to Judea, so that your disciples may see the miracles you do. |
註解: (▲口語訳「いかがです」は原語にはない。)兄弟たちは未だ彼を信じなかった(5節)。復活の後に至って始めて信じたものと思われる(使1:14)。兄弟たちは一方にイエスの行い給う奇蹟を見てそのメシヤに在すことを絶対に否定することもできず、他方肉親の関係もあり、また多くの弟子が彼を離れて淋しく各地を伝道し給う姿を見て(ヨハ6:66)、果して真のメシヤなりや否やを疑いてかかる忠告を彼に与えたのであろう。
辞解
[弟子たち] ユダヤに多くの弟子がありイエスの弟子よりバプテスマを受けた。
[兄弟たち] その名はマタ13:55、マコ6:3にあり、なおヨハ19:42附記二参照。
7章4節
口語訳 | 自分を公けにあらわそうと思っている人で、隠れて仕事をするものはありません。あなたがこれらのことをするからには、自分をはっきりと世にあらわしなさい」。 |
塚本訳 | 世に認められようとする者が、隠れた所で事をする法はあるまい。こんな(えらい)ことをしているのだから、(都に行って、)自分を世間に現わしたらどうです。」 |
前田訳 | だれも公になろうとするのに隠れて事をするものはない。これらのわざをなすからには、自らを世に示しなさい」と。 |
新共同 | 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」 |
NIV | No one who wants to become a public figure acts in secret. Since you are doing these things, show yourself to the world." |
註解: 兄弟たちはイエスが自らをメシヤと主張し給うことを知っていた。ゆえにその本質上当然「自ら顕れんことを求め」ている筈であった。然るにガリラヤにおいて少数の人々の間にものその御業を行い給うた。(▲イエスには自分を顕す意思はなく神の為し給うままに任せていた。)兄弟たちはこのことを「誰にても」といいて一般の意味をもって非難したのである。「これらのことは」イエスの為し給う奇蹟を意味し、「世」はユダヤ人の世界であって、従って事実上はその中心の都たるエルサレムを意味する。殊に祭の間は最も適当であることが言外にあらわされている。
口語訳 | こう言ったのは、兄弟たちもイエスを信じていなかったからである。 |
塚本訳 | 兄弟たちも彼を信じなかったからである。(彼らはイエスの国がこの世のものでないことを知らなかった。) |
前田訳 | 兄弟たちも彼を信じなかったのである。 |
新共同 | 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。 |
NIV | For even his own brothers did not believe in him. |
註解: イエスのメシヤに在し給うことを信ずるならば、隠れるも顕われるもみな神の御意であることを思いて人間的智慧をもって差出口をしなかったからであろう。ただしこの「信ぜぬ」は絶対的不信ではなくむしろ半信半疑の状態であったと見るべきである。何となればもし彼がイエスのメシヤに在すことに絶対に反対であったならば、かえってかかる御業を為し給うことを止めたであろう。
7章6節 ここにイエス
口語訳 | そこでイエスは彼らに言われた、「わたしの時はまだきていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている。 |
塚本訳 | イエスは兄弟たちに言われる、「わたしの(世にあらわれる)時はまだ来ていない。あなた達の時はいつでも準備ができている。(いつでもしたいことができるのだから。) |
前田訳 | イエスは彼らにいわれる、「わが時はまだ来ていない。あなた方の時はいつもそなわっている。 |
新共同 | そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。 |
NIV | Therefore Jesus told them, "The right time for me has not yet come; for you any time is right. |
註解: 「わが時」は神が彼に賜う時であって、この場合は彼がこの祭によりて彼を公に世に顕わし給うべき時(Z0)である。ゆえにここでは強いて十字架につき給うべき時(C1)を意味していない(ヨハ2:4)。イエスのごとき重大なる使命を持つ身にとっては何事を為し給うにも、父なる神に示される時があるのであって、その時来るまでは他人の差出口や群衆の扇動に乗って動き給わない。
註解: 特別の使命を神より受けていない兄弟たちにとっては、かかる特別の時はなく、いつでも彼らを世に顕わして差支えない。その故は
7章7節
口語訳 | 世はあなたがたを憎み得ないが、わたしを憎んでいる。わたしが世のおこないの悪いことを、あかししているからである。 |
塚本訳 | この世はあなた達を憎むことはできないが、わたしを憎む。(あなた達はこの世のものだが、)わたしはこの世の(ものではなく、この世の人々の)することを悪いとはっきり言うからだ。 |
前田訳 | 世はあなた方を憎めないが、わたしを憎む。わたしが世について証して、そのわざは悪いというからである。 |
新共同 | 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。 |
NIV | The world cannot hate you, but it hates me because I testify that what it does is evil. |
註解: キリストを信ぜざるその兄弟は世の主義に従って生きている。ゆえにその身を世に顕わすも危険はさらにない。然るに世はその悪行を非難されるのでキリストを憎み(引照1)、彼は殺さんとする。それ故に父の命じ給う時来るまでは自ら進んでかかる危険に己を曝 すべきではない(マタ4:6-7)。▲▲イエスさえ世に憎まれた。我らは世に憎まれるのを恐れてはならない。
7章8節 なんぢら
口語訳 | あなたがたこそ祭に行きなさい。わたしはこの祭には行かない。わたしの時はまだ満ちていないから」。 |
塚本訳 | あなた達は祭りに上ったがよかろう。わたしはこの祭りには上らない。わたしの時はまだ満ちていないのだから。」 |
前田訳 | あなた方こそ祭りに上りなさい。わたしはこの祭りには上らない、わが時がまだ満ちていないから」。 |
新共同 | あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」 |
NIV | You go to the Feast. I am not yet going up to this Feast, because for me the right time has not yet come." |
註解: 「時満つる」は「時到る」よりもさらに強い意味であって、イエスはそれ故に「この祭」にはエルサレムに上り給わないことを断言し給うた。(次の過越にはエルサレムに上って十字架につき給うべきであった。)この後まもなく10節にイエスがこの言を翻し給うたので、これに対する変心または不節操の非難を免れんため、本節を種々に曲解せんとしている。或は「上らず」なる現在動詞の中に「今」なる意味を含むと解し、「後に上る」意味を保留せりとするもの(C2、T0、S1、トールツク、ステール、改訳本文に「今」なる文字を入れたものもこの解釈によったものであろう。原文にはこの文字はない。)或は本節の「上る」はメシヤたることを示すために上ること、十節の「上る」は祭のために上ることを意味すと解するもの(G1)その他種々あり。異本に「我未だ上らず」とあるのもこの理由により後に挿入したものであろう。予はかかる区別をする必要を認めない。
口語訳 | 彼らにこう言って、イエスはガリラヤにとどまっておられた。 |
塚本訳 | こう言ってガリラヤに留まっておられた。 |
前田訳 | こう彼らにいってイエスはガリラヤにとどまっておられた。 |
新共同 | こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。 |
NIV | Having said this, he stayed in Galilee. |
註解: そして兄弟のみまず祭に上った。
7章10節
口語訳 | しかし、兄弟たちが祭に行ったあとで、イエスも人目にたたぬように、ひそかに行かれた。 |
塚本訳 | しかし兄弟たちが祭に上ると、自分もあとから上られた。──だが公然とではなく、いわば微行で。 |
前田訳 | 兄弟たちが祭りに上ったとき、彼も上られた。しかし公にではなく、いわばおしのびであった。 |
新共同 | しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。 |
NIV | However, after his brothers had left for the Feast, he went also, not publicly, but in secret. |
註解: この時イエスはかくのごとくしてエルサレムに上るべき時来れることを示され給うたのであろう。彼は明らかにその計画を変更し給うた。しかしこれは彼の不節操を示すものではなく、かえって彼の常に神の御旨に従いて行動し、人の思いを恐れ給わないことを示すものである。神は人の声のあまりに高き場合には、たとい同じ御意であても往々にしてその御声を出し給わず、人の霊が静まりて後その御声を出し給う。イエスはこの声をきき給うた。潜びやかに上り給うたのもこのためである。
7章11節
口語訳 | ユダヤ人らは祭の時に、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。 |
塚本訳 | 祭りの時に、ユダヤ人(の役人たち)は「あれはどこにいるだろう」と言って、イエスをさがした。(でも見つからなかった。) |
前田訳 | 祭りに際してユダヤ人が「あの人はどこか」といって彼を探していた。 |
新共同 | 祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。 |
NIV | Now at the Feast the Jews were watching for him and asking, "Where is that man?" |
註解: 「ユダヤ人ら」は学者パリサイ人らを首とするイエス反対の人々(ヨハ6:41、ヨハ6:52。ヨハ7:13、ヨハ7:15)本節によりてすでにイエスの行き給わざる先より彼に対する異常なる興奮が感ぜられていたことがわかる。彼らが彼を尋ぬる意味は彼を試みてこれを陥れんがためである。
7章12節 また
口語訳 | 群衆の中に、イエスについていろいろとうわさが立った。ある人々は、「あれはよい人だ」と言い、他の人々は、「いや、あれは群衆を惑わしている」と言った。 |
塚本訳 | イエスについて群衆の中にひそひそ話が盛んであった。「善い人だ」と言う者があり、「いや、民衆をまどわす者だ」と言う者があった。 |
前田訳 | 彼について群衆の中にいろいろなささやきがあった。あるものは「よい人だ」、あるものは「否、群衆を迷わす」といった。 |
新共同 | 群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。 |
NIV | Among the crowds there was widespread whispering about him. Some said, "He is a good man." Others replied, "No, he deceives the people." |
註解: 前節の人々以外の各地から集って来た群集中にもイエスに関する意見が二つに分れていた。けれどもそれは公然なる争いに到らず、唯潜かにその思いを囁き合う程度のものであった。その理由は次節である。
7章13節 されどユダヤ
口語訳 | しかし、ユダヤ人らを恐れて、イエスのことを公然と口にする者はいなかった。 |
塚本訳 | それでもユダヤ人を恐れて、だれ一人おおっぴらに彼のことを話す者はなかった。 |
前田訳 | しかし、ユダヤ人をおそれて、だれも公には彼のことをいわなかった。 |
新共同 | しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。 |
NIV | But no one would say anything publicly about him for fear of the Jews. |
註解: 宗権が政権と結合する場合には信者には信仰言論の自由がない。群衆はイエスに賛成なると反対なるとを問わず、ユダヤ人すなわち前節のパリサイ人学者の一派を懼れていた。▲「公然に」は「大胆に」「憚 る処なく」との意。
7章14節
口語訳 | 祭も半ばになってから、イエスは宮に上って教え始められた。 |
塚本訳 | 祭がすでに半ばになったとき、(すなわち祭の四日目に、)イエスが宮に上って教えておられると、 |
前田訳 | 祭りがすでに半ばのころ、イエスは宮に上って教えはじめられた。 |
新共同 | 祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。 |
NIV | Not until halfway through the Feast did Jesus go up to the temple courts and begin to teach. |
註解: 潜かに来り給えるキリストは神の御旨に従いついに宮にて己を人々に顕わし給うた。彼の行動の自由さを見よ。▲▲「教へ」edidasken は教え続けていたこと。
7章15節 ユダヤ
口語訳 | すると、ユダヤ人たちは驚いて言った、「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」。 |
塚本訳 | ユダヤ人は驚いて言った、「この人は学校に行ったこともないのに、どうして聖書を知っているのだろうか。」 |
前田訳 | ユダヤ人はおどろいていった、「この人は何も学問してないのに、どうして聖書を知っているのか」と。 |
新共同 | ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、 |
NIV | The Jews were amazed and asked, "How did this man get such learning without having studied?" |
註解: イエスは宮において聖書について教え給うた。彼の聖書知識の異常であったことは福音書のいたる処にこれを発見することができる。然るに彼は何ら正則の学歴を有ち給わなかった。これユダヤ人らが驚いた所以である。しかしながら聖書の知識は聖霊によりて与えられるのであって、学問によりて与えられるのではない。
辞解
[書] grammata はむしろ「文字」と訳する方が適当であろう。聖書がユダヤ文学の主要なるもの故意味は結局「聖書」というと異ならないけれども、聖書をば多く graphai なる語を用いて表わす。
7章16節 イエス
口語訳 | そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。 |
塚本訳 | イエスは答えて言われた、「わたしの教えはわたしの教えではない。わたしを遣わされた方の教えである。 |
前田訳 | イエスは彼らに答えられた、「わが教えはわがものでなく、わたしをつかわされた方の教えである。 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。 |
NIV | Jesus answered, "My teaching is not my own. It comes from him who sent me. |
註解: 「自分が今教えている教えは自分に属するものではなく父のものである。」ここにイエスは、彼らに向い、また彼と父との霊的関係を明らかにし給う。父彼に真理を啓示し給う以上彼はラビの学校において学ぶよりも遙かに優れる教師を有ち給うた。
7章17節
口語訳 | 神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。 |
塚本訳 | その方の御心を行おうと決心する者には、わたしの教えが神から出たものか、それともわたしが自分で勝手に話しているかがわかるであろう。 |
前田訳 | 彼のみ心を行なおうとするものは、わが教えについて、神からのものか、わたし自身から語るものかを知ろう。 |
新共同 | この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。 |
NIV | If anyone chooses to do God's will, he will find out whether my teaching comes from God or whether I speak on my own. |
註解: キリストの教えが神より出でしもの(ek)であるか、またはキリストの自己流のもの(apo)であるかを知る唯一の方法は、人が神の御意を行わんことを熱望することである。哲学的考察、神学的研究、心理学的比較、歴史的証明、聖書研究、儀式礼典、教会の出席、これらのいかなる方法をもってもこの区別を知ることができない。唯人が真面目に神の御旨と信ずる処を実行せんとして努力するならば、直ちに自己の無力と自己の罪とを知り、ついに神より遣われしイエスの贖罪に与るより外に途なきを知るに至るのである。ゆえにキリストの教の神より出でしことを知らない者は、真面目に徹底的に神の御旨を行わんとせざる者である。神の御意は主として聖書に、その他の聖賢の教えに、また我らの良心に示されている。
7章18節
口語訳 | 自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない。 |
塚本訳 | 自分で勝手に話す者は、自分の名誉を求める。(そしてその言うことが偽りである。)しかし自分を遣わされた方の言葉を語って、その方の名誉を求める者は、真実であり、(すこしも)偽りがない。 |
前田訳 | 自分から語るものはおのが栄光を求める。自分をつかわされた方の栄光を求めるものこそ真であり、そのうちに不義がない。 |
新共同 | 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。 |
NIV | He who speaks on his own does so to gain honor for himself, but he who works for the honor of the one who sent him is a man of truth; there is nothing false about him. |
註解: ユダヤ人らは神の御意を行わんと欲せざるのみならず己の栄光を求めている。もしイエスも己の栄光を求め給うならばユダヤ人らの心に叶うことを言い、また行い給うたであろう。この場合神より出づるものなくみな己より語り給うこととなるのである。イエスは反対に常に神の栄光を求め給うた。ゆえに真であって一点の虚偽なく、正義に叶いて一点の不義もない。義と不義の区別はユダヤ人らが考えるごとき彼らの伝統を守ること(安息日等)によってではなく、神の栄光を求むるや否やによりて定まる。かく言いてイエスは、己の権威を否定しその行為を批判せんとするユダヤ人らに答え給うた。▲「不義」を口語訳に「偽り」と訳してあるが adikia をかく訳すのは問題である。
7章19節 モーセは
口語訳 | モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」。 |
塚本訳 | (いったい)あなた達に律法を与えたのはモーセではないか。しかしあなた達のうちにだれ一人、その律法を守る者がない。(モーセ、モーセと言いながら、)なぜわたしを殺そうとするのか。(モーセは『殺してはならない』と言っているではないか。)」 |
前田訳 | モーセがあなた方に律法を与えたではないか。しかしあなた方はだれも律法を守らない。なぜわたしを殺そうとするか」と。 |
新共同 | モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」 |
NIV | Has not Moses given you the law? Yet not one of you keeps the law. Why are you trying to kill me?" |
註解: 本節より24節まではイエスは逆にユダヤ人らに対して攻勢をとり、極めて巧みなる論理をもって、霊の根本原則を掲示し、形式的に言えば彼らも安息日聖守の律法に違反しても(22節)これを正しと認めていることを摘発し、勿論論法をもって自己の安息日に病人を醫し給いしことを弁護している。すなわち「汝らに律法を与えたものはモーセであって、汝らは彼を尊敬している。それにもかかわらず内面的には勿論のこと単に外面的に見るも22節の場合においては、汝らは明らかにこの律法を破っている(G1、Z0)。汝らがこのごとく律法を破っていながらなぜ我が安息日に人を醫したとて汝らは我を殺さんとするのであるか。」
辞解
[律法を守る者なし] これを律法一般と解し(M0、H0)または「殺す勿れ」の律法と解する人(B1)があるけれども、かく解することによりて前後の関係が不明となる。
7章20節
口語訳 | 群衆は答えた、「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうと思っているものか」。 |
塚本訳 | 群衆が答えた、「あなたは悪鬼につかれている。いったいだれがあなたを殺そうとしているのか。」 |
前田訳 | 群衆は答えた、「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか」と。 |
新共同 | 群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」 |
NIV | "You are demon-possessed," the crowd answered. "Who is trying to kill you?" |
註解: 群衆はユダヤ人の主なるものら(11節註)がイエスを殺さんとする心を有つことを知らなかった。これ堕落せる宗教界の常態であって、信徒はその宗権を握れる者の心を知らない。かえってイエスの気が確かでありや否やを疑った。
7章21節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに答えて言われた、「わたしが一つのわざをしたところ、あなたがたは皆それを見て驚いている。 |
塚本訳 | イエスは答えて言われた、「わたしが(この間安息日に三十八年の足なえを直すという)一つの業をしたので、あなた達は皆驚いている。 |
前田訳 | イエスは答えられた、「ただひとつのわざを(安息日に)したのにあなた方は皆おどろいている。 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。 |
NIV | Jesus said to them, "I did one miracle, and you are all astonished. |
註解: 安息日に病人を醫し彼を立たしめ、床を取りて歩ましめたのがこの一つの業であった(ヨハ5:2−9)。「これがために汝ら群衆は驚き怪しんだのである。これがユダヤ人らの我を殺さんとする理由であった。然るに汝らは22、23節の示すがごとく連続的律法破壊をやっているではないか。我らは決して悪鬼につかれたのではない」との意味が含まっている。
7章22節 モーセは
口語訳 | モーセはあなたがたに割礼を命じたので、(これは、実は、モーセから始まったのではなく、先祖たちから始まったものである)あなたがたは安息日にも人に割礼を施している。 |
塚本訳 | (しかし驚くことはない。)モーセがあなた達のために割礼の制度を設けたので──これは(実は)モーセから始まったのではなく、(大昔の)先祖(の時代)からであるが──あなた達は安息日にも人に割礼をほどこしている。 |
前田訳 | モーセはあなた方に割礼(の律法)を与え−−それはモーセからでなく、父祖からであるが−−あなた方は安息日に人に割礼をしている。 |
新共同 | しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。 |
NIV | Yet, because Moses gave you circumcision (though actually it did not come from Moses, but from the patriarchs), you circumcise a child on the Sabbath. |
註解: モーセの律法とはいえど実はモーセほどの偉人ではなかった処の他の先祖アブラハムより起り、十誡よりも重大ならざる割礼であったのに、これをモーセより伝わった安息日すなわち神の与え給える十誡よりも重きものと見ていることの事実を、イエスはここに掲げて後節の議論の前提たらしめている。蓋し子供が生れて八日目がすなわち安息日であってもユダヤ人らは彼に割礼を施したからである。
辞解
[この故に] 原文には本節の初頭にあり、難解の句で種々の解釈を生じた。大体の教訓の根本はこれら解釈の相違に影響されるほどではない故これを略す。
7章23節 モーセの
口語訳 | もし、モーセの律法が破られないように、安息日であっても割礼を受けるのなら、安息日に人の全身を丈夫にしてやったからといって、どうして、そんなにおこるのか。 |
塚本訳 | (割礼についての)モーセの律法を破るまいとして、人は安息日にも割礼を受ける以上、わたしが安息日に人の全身を直したからとて、なにも腹を立てることはないではないか。(ことに割礼は、ただ体の一部分を健康にするだけであるのに!) |
前田訳 | モーセの律法を破らないために人が安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をいやしたからとてなぜ怒るのか。 |
新共同 | モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。 |
NIV | Now if a child can be circumcised on the Sabbath so that the law of Moses may not be broken, why are you angry with me for healing the whole man on the Sabbath? |
註解: 実のところモーセから起ったのでなく、唯モーセの律法として伝わっている割礼が廃 らないために重大なる安息日を破ることが正当とされる位であるならば、神より直接にイエスに命ぜられ、身体の一部の潔めにあらずして全身を潔め醫すこと(M0)を為さんがために安息日を破ってもそれは正当である。モーセの律法以上に重んずべき神の御意が廃 らないためにこれが必要である。これは形式的に安息日を破っており実質的にこれを聖守しているのである。
7章24節
口語訳 | うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」。 |
塚本訳 | うわべで裁くな、(律法の精神を見て、)正しい裁きをせよ。」 |
前田訳 | 見かけで裁かず、正しい裁きをせよ」と。 |
新共同 | うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」 |
NIV | Stop judging by mere appearances, and make a right judgment." |
註解: 形式的に見れば律法違反に見えても、かえってこれが律法を行い律法を全うする所以である場合がある。この点より人の行為を審 くのが真の審きである。宗教が形式になってしまう時この正しき審き為すことができないようになってしまう。(注意)21−24節の論法はなおこれを要約すれば「我は唯一つの驚くべき行為を安息日に行って問題となったが、汝らは常習的に安息日を破っている。すなわちモーセより出でしにあらずして単に父祖の伝説に過ぎず、また身体の一部を潔むるに過ぎざる割礼をすらこれをモーセの律法と信じ、これを守るがために安息日を破っている。然らば我モーセ以上の父の御意を行うがために割礼以上の全身の治癒を安息日に行ったとて、如何でこれを非難し我を殺すことができようか」というのである。▲イエスは善行を宗教行事よりも重視し、善行のためには生命を賭して伝統に反抗し給うた。信仰は形式化することによって死滅する。
要義1 [神の教えと人の教え]「人もし御意を行はんと欲せば、此の教の神よりか、我が己より語るかを知らん」(17節)。この世に多くの宗教あり哲学あり教訓があるけれども、この中キリスト・イエスの福音のみが真の意味において神より出でしものであり、その他はみな人より出でしものである(人より出でし場合にも神の影響指導を受くる場合があり得ることは勿論である)。而してこのことを知るの方法は比較宗教学を研究して各宗教の長所短所を知ることでもない、神学や哲学によりて各宗教の内容を悟ることでもない、その他凡ての方法は無効である。唯一つ真面目に神の御意と考え、真理と信ずる処を実行しようと努力することがキリスト教の真に神より出づる教えであることを知るの手段となる。この努力なしには人は自己の無力を知ることができない。自己の中に神性ありとか、または修養努力によりて安心立命の境地に達することを得るごとくに考うる者は、みなこの努力を充分に為さざるより起る空しき誇りである。もし人が誠の心をもって正義と信じ神の御旨と信ずる処を実行せんとするならば、当然の結果として自己の罪の深さと自らこれより脱出する力無きことを覚るに至るのである。ここに至ってキリストの十字架の贖いのみが唯一の救いの道であって、その他の凡ての教えが人より出て人の案出せる思想に過ぎないことを知るに至るのである。
要義2 [外貌による審きと正しき審き]形式主義、伝統主義に囚われている者は、その伝統や形式の意義をば考えずに唯その形骸を重んじ、これを破る者を大なる罪を犯せる者と考える。無数の実例が我が国にも存在している。イエスはこれを無下に非難し給わずして、彼ら自身形式をもって形式を破る場合を示し、その精神を尊重してこれを自己の場合に当てはめ、勿論々法をもってその行為を弁護し給うた。我らも彼らにその形式の意義を示し、場合によりてはその形式を破ることによりて一層完全にその形式の意義目的を達する場合があることを明らかにし、かくして彼らに正しき審きを要求すると共に自ら正しき行いを為さなければならない。この場合のイエスの弁駁 は極めて謙遜な弁駁 であることに注意せよ。
7章25節 ここにエルサレムの
口語訳 | さて、エルサレムのある人たちが言った、「この人は人々が殺そうと思っている者ではないか。 |
塚本訳 | するとエルサレムの人の中に、こう言った人々があった、「これはあの人たちが殺そうとしている人ではないか。 |
前田訳 | すると、エルサレムのある人たちはいった、「これは人々が殺そうとしている人ではないか。 |
新共同 | さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。 |
NIV | At that point some of the people of Jerusalem began to ask, "Isn't this the man they are trying to kill? |
註解: エルサレムの住人は他地方より来れる群衆に比して事情に詳しかった。ユダヤ人の主なる人々がイエスを殺さんとしていることをも知っていた。それ故にかく言ったのである。
7章26節
口語訳 | 見よ、彼は公然と語っているのに、人々はこれに対して何も言わない。役人たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知っているのではなかろうか。 |
塚本訳 | あんなにおおっぴらに話しているのに、なんとも言う人がない。もしかしたら(最高法院の)役人たちは、この人が救世主だと本当にわかったのではなかろうか。 |
前田訳 | それなのに、あのように公に話していても人々は何ともいわない。司たちはこの人がキリストと本当にわかったのではないか。 |
新共同 | あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。 |
NIV | Here he is, speaking publicly, and they are not saying a word to him. Have the authorities really concluded that he is the Christ ? |
註解: エルサレムにおいてはイエスが公然と語るならば、彼は直ちに殺されるならんと予期していたことがこれによりて知られる。ゆえにこのことがなかったので、或は司たちが彼をキリストと承認したのではないか疑った。(司たちは勿論このことを承認しなかった。)
7章27節 されど
口語訳 | わたしたちはこの人がどこからきたのか知っている。しかし、キリストが現れる時には、どこから来るのか知っている者は、ひとりもいない」。 |
塚本訳 | でも(そんなわけがない。)わたし達はこの人がどこから来たか知っている。救世主が来る時には、だれもどこから来るか知らないはずだから。」 |
前田訳 | しかしわれらはこの人がどこの出だか知っている。キリストが来るときは、彼がどこから来るか知るものはない」と。 |
新共同 | しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」 |
NIV | But we know where this man is from; when the Christ comes, no one will know where he is from." |
註解: 前節の疑問は本節によりて当然解決せられていると彼らは考えた。すなわち彼らはイエスの住み居りし場所のみならず、その父母親戚の誰であるかも知っていた。メシヤが来る時はメシヤとして公然に顕われるまではどこかに隠れていて、他人は勿論本人すらも自己のメシヤなることを知らない。またその力も持たないというのが当時一般に信ぜられている処であった(S2)。浅薄なる神学知識、聖書によらざる人の言伝えは今日も同じくキリストを見失う原因をなしている。「何處より」とは場所の意味ではないと解する人もある(M0、G1)。
7章28節 ここにイエス
口語訳 | イエスは宮の内で教えながら、叫んで言われた、「あなたがたは、わたしを知っており、また、わたしがどこからきたかも知っている。しかし、わたしは自分からきたのではない。わたしをつかわされたかたは真実であるが、あなたがたは、そのかたを知らない。 |
塚本訳 | すると宮で教えていたイエスは、こう言って叫ばれた、「なるほどあなた達はわたしを知っている。どこから来たかも知っている。だが、わたしは自分で勝手に来たのではない。わたしを遣わされた真実な方がある。あなた達はその方を知らないが、 |
前田訳 | すると、宮で教えておられたイエスは叫んでいわれた、「あなた方はわたしを知り、わたしがどこの出かも知っている。しかし、わたしは自分から来たのではない。わたしをつかわされた真の方がいますが、あなた方は彼を知らない。 |
新共同 | すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。 |
NIV | Then Jesus, still teaching in the temple courts, cried out, "Yes, you know me, and you know where I am from. I am not here on my own, but he who sent me is true. You do not know him, |
註解: 前節までのエルサレム人の言に対する直接の答としてではなく、別に宮においてユダヤ人らの前に一般的にこの問題をイエスは説明し給うた。「呼ばる」は大声叱呼することで問題の重要なることを示す。イエスは自己の生地人格および血統に関する肉による知識を彼らが持っていることを承認し給う。これ事実であって何ら否認するの理由も必要もなかったからである。
されど
註解: 「されど霊的意味においては我が出所はこの肉と我とは無関係である。我の父母親戚にあらざる「真のもの」すなわち「神」が我を遣わしたのであって、我が出所はこの神であり、我こそ真のメシヤである」との宣言をイエスは大声をもって叫び給うた。実に大胆なる宣言である。キリスト者もその肉より見ての美醜善悪如何にかかわらず、霊的には神につける新たなる存在であることを主張することができる。世人はこのことを知らない。
7章29節
口語訳 | わたしは、そのかたを知っている。わたしはそのかたのもとからきた者で、そのかたがわたしをつかわされたのである」。 |
塚本訳 | わたしは知っている。わたしはその方のところから来、その方から遣わされたのだから。」 |
前田訳 | わたしは彼を知る。わたしは彼のところから来、彼がわたしをつかわされたから」と。 |
新共同 | わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」 |
NIV | but I know him because I am from him and he sent me." |
註解: 而してイエスのこの霊的出所は肉の眼には見ることを得ざる結果「汝ら」ユダヤ人は彼を知らずとの断言をなし給うた。これ一神教を誇っているユダヤ人に対する痛撃であると同時に大胆なる挑戦であり、またイエスは死を賭してこの証を為し給いしことは勿論である。我らもまたこの大胆なる信仰の証をしなければならなぬ。而して後イエスはあたかも27節の主張に対立するかのごとくに、自ら真の神を知り、その神が彼の出所であり、その神より彼の使命を受け給えることを明らかにし給うた。すなわちユダヤ人がイエスの何處よりかを知ると言ったのはかえってその全く無智なることを示しているに過ぎないことをこれによりて明らかにし給うたのである。
7章30節 ここに[
口語訳 | そこで人々はイエスを捕えようと計ったが、だれひとり手をかける者はなかった。イエスの時が、まだきていなかったからである。 |
塚本訳 | そこで(最高法院の)人々はイエスを捕えようとしたが、手をかける者はなかった。彼の時がまだ来ていなかったからである。 |
前田訳 | 人々はイエスを捕えようとしたが、だれも彼に手をかけなかった。彼の時がまだ来ていなかったからである。 |
新共同 | 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。 |
NIV | At this they tried to seize him, but no one laid a hand on him, because his time had not yet come. |
註解: 「人々」はユダヤ人の主なるものを意味する(31、32節を見よ)。彼らは前節のイエスの言をもって冒涜と解した(ヨハ5:18)。ゆえに彼を捕えんと求めたけれども、彼がユダヤ人に捕えらるべき時(M0、Z0、H0)がまだ来ないので、換言すれば彼が捕えられ給うのは未だ父の御旨でなかったので誰も彼に手を掛けなかった。我らも主を証するとき如何なる迫害が来るとも恐れるを要しない。父の御旨のみが成るからである。
辞解
[彼の時] 彼の死期と解する説があるけれども(G1)取らない。
[手出しする] 「彼の上に手を掛ける」(直訳)。
[謀る] zêteô 「熱求する」。
7章31節 かくて
口語訳 | しかし、群衆の中の多くの者が、イエスを信じて言った、「キリストがきても、この人が行ったよりも多くのしるしを行うだろうか」。 |
塚本訳 | しかし群衆のうちにイエスを信じたものが大ぜいあって、言った、「救世主が来ても、この人がしたより多くの徴[奇蹟]をすることはできまいと思うが、どうだろう。」 |
前田訳 | 群衆の中の多くがイエスを信じていった、「キリストが来てもこの人がしたよりも多くの徴をしようか」と。 |
新共同 | しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。 |
NIV | Still, many in the crowd put their faith in him. They said, "When the Christ comes, will he do more miraculous signs than this man?" |
註解: 反対に群衆の中にはイエスをメシヤと信ずるものがあった(12節参照)。彼らには何ら宗派的偏見がないためにかえってイエスの本質を直感した。イエスの為し給える徴が彼らにとっては充分の証拠であったからである(ヨハ6:30参照)。
7章32節 イエスにつきて
口語訳 | 群衆がイエスについてこのようなうわさをしているのを、パリサイ人たちは耳にした。そこで、祭司長たちやパリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、下役どもをつかわした。 |
塚本訳 | イエスについて、群衆がこんなひそひそ話をしているのがパリサイ人の耳に入ったので、大祭司連とパリサイ人とはイエスを捕えようとして、下役らをやった。 |
前田訳 | 群衆が彼について、こううわさするのをパリサイ人が耳にした。祭司長とパリサイ人は使いたちをやってイエスを捕えようとした。 |
新共同 | ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。 |
NIV | The Pharisees heard the crowd whispering such things about him. Then the chief priests and the Pharisees sent temple guards to arrest him. |
註解: ここには単に「ユダヤ人ら」と言わずしてその内容を祭司長パリサイ人らとして掲げている。これは衆議所の別名と見ることができる。彼らの憂うる処は彼らが神の真理と思う処のものがイエスによりて乱されんことではなく、群衆がイエスに従って彼らを離れんことであった。職業宗教家の憂うる処は常にこれである。次節より見るに彼らは下役を遣わして直ちに彼を捕えしめたのではなく、彼らをしてイエスを捕うべき口実をまず発見せしめ、然る後にこれを捕えしめんとしたものであろう。
7章33節 イエス
口語訳 | イエスは言われた、「今しばらくの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く。 |
塚本訳 | するとイエスは言われた、「わたしはもうしばらくの間あなた達と一しょにいて、それから、わたしを遣わされた方の所に行く。 |
前田訳 | そこでイエスはいわれた、「いましばらくわたしはあなた方とともにいて、それからわたしをつかわされた方のところへ行く。 |
新共同 | そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。 |
NIV | Jesus said, "I am with you for only a short time, and then I go to the one who sent me. |
辞解
[我を遣し給ひし者の御許] イエスが言い給うたのではなくヨハネが附加したのであると唱うる学者がある(M0)。その故は、もしイエスがかく言い給うたならば下役どももこれを理解したであろうというのである。しかしながらこれまでイエスの説教を聞きしや否やも不明であり、かつ多くの場合霊的問題に無関心なる彼らは、これをかく解し得なかったと見る方がむしろ事実に近いであろう。
7章34節
口語訳 | あなたがたはわたしを捜すであろうが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所に、あなたがたは来ることができない」。 |
塚本訳 | (その時)あなた達はわたしをさがすが、見つからない。わたしがおる所に、あなた達は来ることが出来ない(からだ)。」 |
前田訳 | あなた方はわたしをたずねても見いだすまい。わたしのいるところへあなた方は来られない」と。 |
新共同 | あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」 |
NIV | You will look for me, but you will not find me; and where I am, you cannot come." |
註解: 衆議所の下役どもが来たのでイエスは主として彼らに向ってこの二節の言を語り給うた。その他に群衆も聴いていたこと勿論である。而してイエスはここに極めて表徴的の語をもってその死と復活昇天とを語り給うた。この語はイエスの言の霊的意義を解せざる衆議所の下役どもにとっては、イエスは間もなく何處にか身を隠しこれを探しても見出し能わず、従ってもはやユダヤ人らを扇動する懼れなく、これを捕縛する必要なきもののごとくに聴えたことであろう。また群衆中のイエスを理解する者にとっては、尋ね求めても彼に遭うことができずとの宣言は、大なる淋しさを与え、彼らをして速やかにイエスを信ずる必要を感じせしめたことであろう。
7章35節 ここにユダヤ
口語訳 | そこでユダヤ人たちは互に言った、「わたしたちが見つけることができないというのは、どこへ行こうとしているのだろう。ギリシヤ人の中に離散している人たちのところにでも行って、ギリシヤ人を教えようというのだろうか。 |
塚本訳 | するとユダヤ人が互いに言った、「この人は私たちに見つからないように、いったいどこに行くつもりだろう。まさか異教人の中に離散しているユダヤ人のところに行って、異教人に教えるつもりではあるまい。 |
前田訳 | そこでユダヤ人が互いにいった、「この人はどこへ行くつもりか、われらは彼を見いだすまいとは。ギリシア人の中にいる散在の(ユダヤ)人のところへ行ってギリシア人を教えるつもりか。 |
新共同 | すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。 |
NIV | The Jews said to one another, "Where does this man intend to go that we cannot find him? Will he go where our people live scattered among the Greeks, and teach the Greeks? |
註解: この「ユダヤ人」は前掲の下役(32節)どもである。彼らはイエスの御言の意味を充分に解せず本文のごとくに推量した。すなわちイエスは外国に行きユダヤ人にしてこれらの異邦に散り居る人々に道を伝え、彼らを足場として異邦人にその道を伝えるつもりであろうかと推察したのである。この下役らの言は一つの預言となり、その後イエスの弟子において実現したことをヨハネは目撃しつつこの語を回想して深き感慨に打たれつつこれを録したことであろう。
辞解
[ギリシャ人のうちに散りをる者] diaspora tôn Hellênôn はユダヤ人にして異邦に散布している人々(ヤコ1:1、Tペテ1:1)。
7章36節 その
口語訳 | また、『わたしを捜すが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所には来ることができないだろう』と言ったその言葉は、どういう意味だろう」。 |
塚本訳 | 『あなた達はわたしをさがすが、見つからない。わたしがおる所に、あなたたちは来ることが出来ない』と言ったあの言葉は、いったいどういう意味だろう。」 |
前田訳 | 『あなた方はわたしをたずねても見いだすまい。わたしのいるところにあなた方は来られない』と彼がいったことばは何の意味であろう」と。 |
新共同 | 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」 |
NIV | What did he mean when he said, `You will look for me, but you will not find me,' and `Where I am, you cannot come'?" |
註解: 彼らはついにイエスの語の真相を捉え得ずして帰った。いわゆる煙に巻かれたともいうべき心地であったろう。
要義 [イエスに対する人々の種類]ここにイエスに対する各種の人物が代表せられていることを見出すことができる。最もイエスを憎みてこれを殺さんとするものはその当時の宗権の保持者、既成宗教の擁護者なるパリサイ人、祭司ら(本文にユダヤ人らとあり)である。彼らは自己の霊的盲目に加うるにその利益特権の擁護を目的としていたがためにイエスの真理の光にたえることができなかった(ヨハ3:20)。その次に来るものはエルサレムの人々であった。彼らはパリサイ人らに接する機会が多いために幾分宗教的知識を有っていた。このことがかえって彼らを禍して彼らをしてイエスを信ぜざらしめた。これに次ぐものは群衆であって彼らは平信徒であり、かつパリサイ人らのごとき宗教的特権階級によりて禍されざる純真なる人々であった。それ故にイエスをキリストと信ずるものは最も多く彼らの中より出たのである。次は下役であった。彼らは宗教問題に全く無関心なるもののごとく、イエスの御言を全く理解しなかった。彼らは唯その刻々の思想に従って機械的に行動するに過ぎない。以上の四種は今日の宗教界にもこれを発見することができる。イエスが如何なる階級に最もよく知られるかは注意すべき事実である。
7章37節
口語訳 | 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。 |
塚本訳 | 祭の最後の大際の日に、イエスは立って叫ばれた、「渇く者はわたしの所に来て飲みなさい。 |
前田訳 | 祭りの最終最大の日に、イエスは立って叫ばれた、「渇くものはわたしのところに来て飲め。 |
新共同 | 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 |
NIV | On the last and greatest day of the Feast, Jesus stood and said in a loud voice, "If anyone is thirsty, let him come to me and drink. |
註解: 「祭の終の大なる日」とは七日間仮庵の祭を終りて第八日に人々は仮庵なるその天幕より各々家に帰り、最後の日として盛んなる祝祭を行う(レビ23:35、36、39)。ゆえにこれをも祭の一部として八日間の祭といわれていた。これを大なる日と呼ぶ所以は、おそらくイスラエルが荒野の旅を終えてカナンに入る日を記念する意味からであろう(L2)。「立ちて呼ばる」と特に記しし所以はイエスが特にこの祭の大なる日に相応しき態度を取り、大声にて絶叫したまえることを示している。
『
註解: 仮庵の祭の七日間はイスラエルの荒野の生活を記念するがためで、祭司は毎日黄金の水差しを携えてシロアムの池に至り、楽器と歌謡(イザ12:3を歌う)の中にその水を汲みて再び宮に帰り、これを祭壇の西に注いだ。群衆これに従い喚呼をもってこれを祝した。これイスラエルが荒野において岩より水を得てその渇きを醫ししことを記念せんがためであった(Tコリ10:4。出17:6以下。民20:10以下。詩78:15)。この岩はすなわちキリストであり(Tコリ10:4)この水はすなわち霊なる飲物であった(同上)。イエスはこの真理を示すに最も適当なるこの機会を捉え「汝らが過る一週間の間祝えるこの祭は我の型であり、我によりて実現したのである。ゆえに我に来ることと我より飲むこととが必要である」と叫び給うたのである。人間は凡てみな霊の渇きに死なんとしているのであって、何處にこの渇きを醫すべきかを知らない。この世の与うる水はこの渇きを根本的に醫すことができない。キリストなる岩に来り、その下より流れ出づる泉を飲むことによりて始めてこれを醫すことができる(ヨハ4:13、14)。
7章38節
口語訳 | わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。 |
塚本訳 | わたしを信ずる者は、聖書が言っているように、『そのお腹から、清水が川となって流れ出るであろう。』」 |
前田訳 | わたしを信ずるものは、聖書がいうように、そのうちから清水が川と流れ出よう」と。 |
新共同 | わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 |
NIV | Whoever believes in me, as the Scripture has said, streams of living water will flow from within him." |
註解: キリストに来りて飲むことは彼を「信ずる」ことである。彼を信ずるものは啻 に自己の渇きを永遠に醫すのみならず、キリストなる水源に連なることによりて己の腹より活ける水(その何を示すかは次節を見よ)が川となって尽くることなく流れ出て、他の多くの人々の渇きを醫すことができるであろう。知識や修養や感情をもってはかかる豊富さ、自由さ、純潔さを持つことができない。而して信仰とはキリストとの人格的一致合一を意味する。ゆえに彼が泉なる水源であり、信ずる者はその腹中にこの水源を宿すことができる(ヨハ4:14)。「聖書に云へるごとく」は聖書の一箇所を引用したのではなく、旧約聖書中に散在する多くの箇所の大意を指したのである (例えばイザ12:3、イザ44:3、イザ55:1、イザ58:11。エゼ47:9。ゼカ13:1。ゼカ14:8。その他) ただしこの本文の意味そのままの文字は見出すことができない。
7章39節 これは
口語訳 | これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。 |
塚本訳 | これは、彼を信ずる者が受けるべき御霊のことを言われたのである。イエスは(その時)まだ栄光を受けておられなかったため、御霊がまだ下っていなかったからである。(「であろう」と言われたのはそのためである。) |
前田訳 | これはイエスを信ずるものが受けるべき霊のことをいわれたのである。イエスがまだ栄光を受けておられなかったため、霊が与えられていなかったからである。 |
新共同 | イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。 |
NIV | By this he meant the Spirit, whom those who believed in him were later to receive. Up to that time the Spirit had not been given, since Jesus had not yet been glorified. |
註解: 使2:1以下に聖霊降臨の記事が掲げられている。イエスがこの地上に歩み給う間は彼自身聖霊に充たされ、聖霊の働きを為し給うた。イエスが来り給う前にもまた来り給いて後も聖霊が外より人の心の中に働きかけ、または特別の場合に御霊が宿り給うた事実は沢山にあった(詩51:10−12。創41:38。民27:18。Tサム16:13、Tサム16:18等。またUペテ1:21。使28:25。ヘブ3:7)。しかしながら聖霊が信ずる者の凡ての衷 に内住し給い彼らの助け主となり、またキリストの地上の代理者として働き給うことは(14−16章)ペンテコステの時以後のことであった(使2:1以下)。キリストが昇天し給いし後に至っては彼の体なる教会の中に彼が宿ることが必要であるがために、御霊として地上に降り常住し給うに至ったのである。
辞解
[降る] 原本になし、「在す」(または異本に「賜る」)とあり、聖霊降臨して常に信ずる者の中に在すことを言う。ペンテコステの後は聖霊が一々降るのではない。
7章40節
口語訳 | 群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、 |
塚本訳 | すると群衆のうちにこの言葉を聞いて、「確かにこの人は(世の終りに来る)あの預言者だ」と言う者があり、 |
前田訳 | このことばを聞いて、群衆の中のあるものは「まことにこの人は預言者である」といい、 |
新共同 | この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、 |
NIV | On hearing his words, some of the people said, "Surely this man is the Prophet." |
註解: 40−43節はイエスの説教が群衆に与えし種々の印象を記している。その一は彼をもって旧約聖書の預言せる(申18:15)預言者であると解した。
辞解
[かの預言者] ヨハ1:21参照。ここでは次節のキリストと対立せしめ、キリストの先駆者たるべき預言者と解す。
口語訳 | ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。 |
塚本訳 | 「この人は救世主だ」と言う者もあり、また(反対して、)こう言う者もあった、「ガリラヤから救世主が出るとでも言うのか。 |
前田訳 | あるものは「この人はキリストである」といい、あるものは「キリストがガリラヤから来るものか。 |
新共同 | 「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。 |
NIV | Others said, "He is the Christ." Still others asked, "How can the Christ come from Galilee? |
註解: これが第二種の人で彼を預言者以上のメシヤと認めた。
註解: ▲口語訳参照。
7章42節
口語訳 | キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。 |
塚本訳 | 『救世主は〃ダビデの末〃から、ダビデの住んでいた村〃ベツレヘムから出る〃』と聖書が言っているではないか。」 |
前田訳 | 聖書に、『キリストが来るのはダビデの末から、ダビデのいた村ベツレヘムから』とあるではないか」といった。 |
新共同 | メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」 |
NIV | Does not the Scripture say that the Christ will come from David's family and from Bethlehem, the town where David lived?" |
註解: 第三の人はイエスのキリストたることの議論に反対した。而してその理由は聖書の預言に応わないからであるというのである。然るにこの反対論は実はイエスのキリストに在すことの証明であって、彼らはイエスの降誕の事実を知らずしてかかる反対をなしたに過ぎない。ヨハネはこれに対して何らの反対をも掲げずに記すことによって読者がマタ2:1。ルカ2:5よりかかる反対の空しきを理解することを予想しているもののごとくである。なおダビデ、ベツレヘムについては引照(2、3)参照。「聖書に」はミカ5:1。イザ11:1。エレ23:5等を言う。
7章43節
口語訳 | こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。 |
塚本訳 | そこで群衆の間に、イエスのことで意見が分かれた。 |
前田訳 | そこで彼ゆえに群衆の中に分裂がおこった。 |
新共同 | こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。 |
NIV | Thus the people were divided because of Jesus. |
註解: 真の平和と一致は神にある平和と聖霊による一致のみである。
7章44節 その
口語訳 | 彼らのうちのある人々は、イエスを捕えようと思ったが、だれひとり手をかける者はなかった。 |
塚本訳 | なかには彼を捕えようと思う者もあったが、手をかける者はなかった。 |
前田訳 | 彼らのうちのあるものは彼を捕えようと思った。しかしだれも彼に手をかけなかった。 |
新共同 | その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。 |
NIV | Some wanted to seize him, but no one laid a hand on him. |
註解: 時未だ到らざれば神彼らの手を抑え給うたのであって、結局において凡てに神の御心のみが成るのである。
要義 [活ける水なる聖霊]聖霊我らに宿り給う時、我らの心は歓喜に満たされ溢れてその恩恵を他人に及ぼすことができ、力は豊かに内に働きて悪魔に打勝つことができ、永遠の生命が内に宿ってこの世の慾を超越することができる。しかしながらこの聖霊はキリストより独立して我らのものとなり、我らの自由になり給うのではない。我らこの聖霊に満たされんがためには常に「キリストに連なりて飲み」「キリストを信じ」なければならぬ。キリストと霊の交わりにおいてのみ聖霊は我らに与えられ、あたかも川のごとく活ける水となりて溢れ出でるのである。
7章45節
口語訳 | さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたので、彼らはその下役どもに言った、「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」。 |
塚本訳 | やがて下役らが(手ぶらで)かえって来ると、大祭司連とパリサイ人とが言った、「なぜあれを引いてこなかったか。」 |
前田訳 | 使いたちが帰って来たので祭司長とパリサイ人はいった、「なぜあれを引っぱって来なかったか」と。 |
新共同 | さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。 |
NIV | Finally the temple guards went back to the chief priests and Pharisees, who asked them, "Why didn't you bring him in?" |
註解: 衆議所に集合してその下役の復命を待っていた祭司長、パリサイ人らは下役が充分に彼を捕縛する理由を見出したはずであると考えてかかる質問を発した。彼らは凡ての人が彼ら自身のごとく宗派的心情を有つもののごとくに考えていた。今の時代においてもこの種の人が少なくない。
7章46節
口語訳 | 下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。 |
塚本訳 | 下役らが答えた、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」 |
前田訳 | 使いたちは答えた、「あの人が話すように話した人はいまだかつてありません」と。 |
新共同 | 下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。 |
NIV | "No one ever spoke the way this man does," the guards declared. |
註解: 普通の事柄では容易に上役の命を拒まなかった下役らが、上役の意向をしりつつ勇敢にかかる答を与えたのは、彼らがイエスの高き人格とその天来の響きを発する言に威圧されたのであろう。宗派的偏見なきものはかえって真理をそのままに直観することができる。
7章47節 パリサイ
口語訳 | パリサイ人たちが彼らに答えた、「あなたがたまでが、だまされているのではないか。 |
塚本訳 | パリサイ人が答えた、「君たちまでが迷わされたのではあるまいね。 |
前田訳 | パリサイ人は答えた、「おまえたちまで迷わされたのか。 |
新共同 | すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。 |
NIV | "You mean he has deceived you also?" the Pharisees retorted. |
7章48節
口語訳 | 役人たちやパリサイ人たちの中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。 |
塚本訳 | (最高法院の)役人かパリサイ人のうちに、あれを信じた者がひとりでもあるというのか。 |
前田訳 | 司やパリサイ人のうち彼を信じたものがひとりでもあるか。 |
新共同 | 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。 |
NIV | "Has any of the rulers or of the Pharisees believed in him? |
7章49節
口語訳 | 律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」。 |
塚本訳 | (信じたのは民衆だけだ。)律法(聖書)を知らないあんな民衆は、呪われたがいい!」 |
前田訳 | 律法を知らぬあんな群衆は呪われている」と。 |
新共同 | だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」 |
NIV | No! But this mob that knows nothing of the law--there is a curse on them." |
註解: パリサイ人らはまず第一に下役に対する不満を吐露した。「群衆が惑わされるのみならず正統的教権を擁護すべき職に在る汝らまでも惑わされたのであるか。まさかそうではあるまい。迷わされるのは無智のもののみであるから」と言いて彼ら自身迷妄の中にいることには心付かざるもののごとくである。而してイエスを信ずる者は惑わされしものであることの証として「司たち」や「パリサイ人」らの中一人もこれを信ずる者なきことを掲げている。(彼らはニコデモについて知らなかった。)彼らは彼らの階級のみが真理の独占者であるかのごとき迷誤に陥っているのを見ることができる。而してかかる誇りを有つ理由は「律法を知っている」からであって、この誇りがやがて「律法を知らぬ群衆に対する侮蔑」となってあらわれたのである。然るに何ぞ知らん「この世の司にはこれを知る者がない」(Tコリ2:8)またこの世の智慧は神の前に愚である(Tコリ1:19−25)。
辞解
[司たち] ルカ23:35註参照。
[詛はれたる者] 神の怒りを受くべき者。かかる語を発したのはパリサイ人らの鬱憤が爆発せるものであった。
[律法を知らぬ群衆] 「地の民」とも言い凡てにおいてパリサイ人らに比し一段劣れる人々として取扱われていた(S2)。
7章50節
口語訳 | 彼らの中のひとりで、以前にイエスに会いにきたことのあるニコデモが、彼らに言った、 |
塚本訳 | そのうちの一人で、前に(夜ひそかに)イエスの所に来たニコデモが、彼らに言う、 |
前田訳 | 彼らのひとりで、前にイエスのところに来たニコデモが彼らにいう、 |
新共同 | 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。 |
NIV | Nicodemus, who had gone to Jesus earlier and who was one of their own number, asked, |
註解: パリサイ人らの予期しなかった反対論が彼らの中の一人から起ったことは、彼らにとっていかに大なる驚駭であったろうか。またニコデモとしては孤立無援の立場においてこの証を為したことはいかに勇気を要したことであろうか。
7章51節 『われらの
口語訳 | 「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」。 |
塚本訳 | 「われわれの律法は、まずその人に(言い分を)聞き、そのしたことを知った上でなければ、罰しないことになっているではないか。」 |
前田訳 | 「まず彼の言い分を聞いて、彼が何をしたかを知らねば、われらの律法では裁けないではないか」と。 |
新共同 | 「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」 |
NIV | "Does our law condemn anyone without first hearing him to find out what he is doing?" |
註解: ニコデモは直接イエスに対する敬意を告白するだけの勇気がなく、間接にパリサイ人らの激昂を抑えて彼らをその律法違反をもって責め、人民の律法を知らざるを責むる資格なきを示している。引照参照。ここにもニコデモの性格がさながらに表わされている。
7章52節 かれら
口語訳 | 彼らは答えて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」。 |
塚本訳 | 彼らは答えて言った、「あなたまでがガリラヤから出たわけではあるまいに。(聖書をよく)調べてみなさい。ガリラヤからは預言者があらわれないことがわかろう。」 |
前田訳 | 彼らは答えた、「あなたまでがガリラヤの出か。しらべてみよ、ガリラヤから預言者は現われないことがわかろう」と。 |
新共同 | 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」 |
NIV | They replied, "Are you from Galilee, too? Look into it, and you will find that a prophet does not come out of Galilee." |
註解: 彼らはニコデモの出所を知らないはずはない。彼らは激怒のあまりイエスに与 せんとする彼にガリラヤ人の汚名をもって呼びつつ彼を非難せんとした。「預言者はガリラヤより起る事なし」なる断言も彼らの誤りであって、彼らは激情にかられて歴史を無視か或は忘却したのである。何となればU列14:25によれば、少なくともヨナはガリラヤの産であったからである。彼らの誇りはその聖書知識のみならずその故郷ユダヤに関する誇りとなってあらわれた。
要義 [キリストを拒む者]キリストを拒む者は必ずしも地位学問のある者とは限らない。ニコデモのごときはその例である。また必ずしも無学、卑賤のものとも限らない。群衆中の彼を否める者のごときそれである。イエスを理解せず彼を拒むものは正統派をもって任ずる者、その保持する宗権を擁護せんとするもの、その伝統を維持せんとするもの、自己の知識学問に誇る者などである。
口語訳 | 〔そして、人々はおのおの家に帰って行った。 |
塚本訳 | 人々はそれぞれ家にかえったが、 |
前田訳 | 人々はめいめい家に帰った。 |
新共同 | 〔人々はおのおの家へ帰って行った。 |
NIV | Then each went to his own home. |
註解: パリサイ人、祭司、司、下役、群衆みなその家に帰り、危険が迫って来たにもかかわらずイエスは無事にこの一日を過ごし給うた。
附記 7:53−8:11は新約聖書の全体を通して最も例外的の部分であって、今日残存せる多くの重要な写本にはこの部分を欠如しているのもかかわらず、これを含む写本もまた少なくない。またある写本にはこの部分に特別の符号を附しているなど特別に取扱っているのもある。のみならず二、三世紀の頃にすでにこの物語が存在していたことの確証があり、四世紀の写本にもこれが含まれているのも有るなどの点より見れば、すでに二、三世紀の頃においてこの物語が何らかの形において存していたことは確実である。唯これが本来ヨハネ伝の一部でなかったことは、その文体がむしろ共観福音書に似ていてヨハネの文体には似ていないこと、およびこの部分が載せられている場所が写本により、或はヨハネ伝の末尾に、或はルカ伝21章にこれを挿入していることよりこれを知ることができ、またこの部分に限り諸 の写本の間に非常に多くの文言の不一致がある事より之を知ることが出来る。多くの写本に此の部分が欠けて居る事は、本来ありしものが取除かれたのであるか、または本来なかったものが附加せられたのであるか、また何故にこの部分に挿入されたか、また果して真正なるヨハネ文書なりや、または果して事実であるか、または逸話であったか等の問題については種々の想像説があるけれども確定的のものはない。唯古き時代よりこの美わしき物語を捨て難く考えて聖経のいずれかにこれを保存せんとせることは、そこに聖霊の奇しき導きが有ったものと考えることができる。英語改訳聖書は全文を除いているけれども、日本語改訳聖書に〔 〕を附して保存したことは幸いである。▲RSVは全文を欄外に移し、口語訳はこれを〔 〕に入れている。
ヨハネ伝第8章
註解: この物語8:1−11につきては前章末尾の附記を参照すべし。
口語訳 | イエスはオリブ山に行かれた。 |
塚本訳 | イエスはオリブ山に行かれた。 |
前田訳 | しかしイエスはオリブ山へ行かれた。 |
新共同 | イエスはオリーブ山へ行かれた。 |
NIV | But Jesus went to the Mount of Olives. |
8章2節
口語訳 | 朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 |
塚本訳 | 次の朝早く、また宮に行かれると、人々が皆あつまってきたので、座って教えておられた。 |
前田訳 | あくる朝また宮へ行かれると、民が皆彼のところに来、彼はすわって彼らを教えられた。 |
新共同 | 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 |
NIV | At dawn he appeared again in the temple courts, where all the people gathered around him, and he sat down to teach them. |
註解: ルカ21:37、38と同文書で、これが写本によりこの物語がルカ伝21章末尾に挿入せられし所以であろう。エルサレムの宮の広場に朝日が射している朝のすがすがしき光景を思い浮かべることができる。
8章3節 ここに
口語訳 | すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 |
塚本訳 | すると聖書学者とパリサイ人とが、姦淫の現行犯を押えられた女をつれてきた。みんなの真中に立たせて、 |
前田訳 | そこへ学者とパリサイ人が不義の現行犯で捕えられた女を連れて来て、真ん中に立たせた。彼らはいう、 |
新共同 | そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 |
NIV | The teachers of the law and the Pharisees brought in a woman caught in adultery. They made her stand before the group |
註解: 学者・パリサイ人らはユダヤの宗教界の主脳たるべき人物、衆議所の議員であった。姦淫のときそのまま捕えられし女を彼らはまさに衆議所において裁かんとしているのである。その前に彼らはこれをイエスに連れ来りてイエスを陥れるの材料たらしめんとしたのである。彼らの心の冷酷と汚穢とその罪深きを見よ。高慢、悪意、無慈悲がその心に充満している。イエスが口を極めて彼らを非難し給えることはまことに故あることである(マタ23章参照)。
8章4節 『
口語訳 | 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 |
塚本訳 | イエスに言う、「先生、この女は姦淫の現場を押えられたのです。 |
前田訳 | 「先生、この女は不義の現場で捕えられました。 |
新共同 | イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 |
NIV | and said to Jesus, "Teacher, this woman was caught in the act of adultery. |
8章5節 モーセは
口語訳 | モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 |
塚本訳 | モーセは律法で、このような女を石で打ち殺すように命じていますが、あなたはなんと言われますか。」 |
前田訳 | モーセの律法ではこのような女は石打ちするよう命じられていますが、あなたは何といわれますか」と。 |
新共同 | こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 |
NIV | In the Law Moses commanded us to stone such women. Now what do you say?" |
註解: イエスに向ってかかる質問をなせる所以は、イエスが彼らとは反対の判断をするであろうと予想したからであろう。その故はイエスの態度もその教訓も大体においてパリサイ人らのそれとは全く相反せるものであり、律法の形式を超越し(安息日に関する場合のごとく)愛を特に重視し、罪を赦すことを好み給うこと(マコ2:5、マコ2:15。ルカ19:10)を彼らが感じたからである。而してイエスが彼らの判断と異なる判断を与えた場合にこれを律法違反をもって訴えんとしたのである(B1、H0、T0)。
辞解
[石にて撃つ] 申22:23、24によれば石にて打ち殺さるべき場合は許嫁 の女の場合であり、レビ20:10。申22:22の場合は有夫の女の姦淫の場合で、この際には必ず絞殺の刑に処した。ゆえに本節の場合は許嫁の女の場合である(S2)。
8章6節 かく
口語訳 | 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 |
塚本訳 | こう言ったのは、イエスを試して、訴え出る口実を見つけるためであった。イエスは身をかがめて、黙って指で地の上に何か書いておられた。 |
前田訳 | 彼らがこういったのは、イエスを試みて、訴える口実を得るためであった。しかしイエスはかがんで指で地にものを書かれた。 |
新共同 | イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 |
NIV | They were using this question as a trap, in order to have a basis for accusing him. But Jesus bent down and started to write on the ground with his finger. |
註解: 彼らはイスラエルよりかかる罪悪を除かんとする正義観からでもなく、またこの女を赦して彼女を救わんとするの愛からでもない。唯イエスを訴えんとする悪意のみよりかかる行為に出たのである。
イエス
註解: イエスはこの場合にも彼らの言葉を眼中に置かずその心を見給うことは他の場合(ヨハ3:3。ヨハ4:16。マタ19:16等)におけると同様であった。イエスは彼らの悪意に対して答うる必要を認め給わなかった。この心持を態度をもって示し給うたのである。地にいかなる文字を書き給えるかにつきては古来好奇心より種々の推察があるけれども無益のことである。
8章7節 かれら
口語訳 | 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 |
塚本訳 | しかし彼らがしつこく尋ねていると、身を起こして言われた、「あなた達の中で罪(をおかしたこと)のない者が、まずこの女に石を投げつけよ。」 |
前田訳 | 彼らがしつこくたずねていると、身を起こしていわれた、「あなた方の中で罪のないものがまず彼女に石を投げよ」と。 |
新共同 | しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 |
NIV | When they kept on questioning him, he straightened up and said to them, "If any one of you is without sin, let him be the first to throw a stone at her." |
口語訳 | そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。 |
塚本訳 | そしてまた身をかがめて、地の上に何か書いておられた。 |
前田訳 | そしてふたたびかがんで地にものを書いておられた。 |
新共同 | そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 |
NIV | Again he stooped down and wrote on the ground. |
註解: イエスの眼にはこの女の罪にもまさりて彼らの罪が甚だ深きことを感じ給うた。この御心をもって発し給えるこの一言は深く彼らの肺腑 を貫き彼らの良心を射通したことであろう。イエスの御言に接して我らの心の罪は凡て明らかにせられ、彼の前に凡ての口塞がるのである。このイエスの答の巧みであったことは実に驚くべきであって、一方彼らの期待に反して「石を擲 て」と答えてモーセの律法を是認し給いながら、一方「罪なき者」なる正当なる条件を附加して何人も石を擲つことを得ざらしめ、この女を赦してこれを救い給うた。イエスを陥れんとした彼らはかくして自らイエスによって裁かれたのである。
8章9節
口語訳 | これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 |
塚本訳 | これを聞くと、彼らは皆(良心に責められ、)老人を始めとして、ひとりびとり出ていって、(最後に)ただイエスと、真中に立ったままの女とが残った。 |
前田訳 | 彼らはそれを聞いて、老人をはじめとして、ひとりまたひとりと去って行き、イエスだけが残った。真ん中の女はそのままであった。 |
新共同 | これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 |
NIV | At this, those who heard began to go away one at a time, the older ones first, until only Jesus was left, with the woman still standing there. |
註解: 彼らの中顧みて罪を感ぜざるものは一人もなかった。この意味において老人も青年も一人も例外がない。イエスの前に立ちて我は罪なしと言い得る者は一人もない。たといこの罪の意味を或学者(M0)のごとく狭義に取り淫行の罪と解するとも、なお彼らの中にはこの審判を免れるものはないであろう。いわんやこれを凡ての罪と解するならばなおさらである。
註解: 罪人とイエスとの対座こそ罪の問題を解決することができる唯一の態度である。キリストの前にその凡ての罪を告白してその赦しを受くる瞬間こそ、罪人にとって最大の幸福の瞬間である。
8章10節 イエス
口語訳 | そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 |
塚本訳 | イエスは身を起こして女に言われた、「女の人、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罰しなかったのか。」 |
前田訳 | イエスは身を起こして彼女にいわれた、「女の方、あの人たちはどこへ行ったか。だれもあなたを罰しなかったか」と。 |
新共同 | イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 |
NIV | Jesus straightened up and asked her, "Woman, where are they? Has no one condemned you?" |
註解: かくやさしき言は罪を犯せる女がこれまで他の人々の口より聞くことができなかった。他の人々は口を極めて女の罪を非難した。これがために女の心は反抗心に固くなっていたのであろう。イエスはこれに対しやさしき一言をもってその凍れる心を溶かし給うた。▲「女のほかに誰も居らぬを見て」はある写本に欠けており口語訳はこれに由ったらしい。
8章11節
口語訳 | 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕 |
塚本訳 | 「主よ、だれも」と女がこたえた。イエスが言われた、「わたしも罰しない。おかえり。今からはもう罪を犯さないように。」 |
前田訳 | 彼女はいった、「だれもでございます、主よ」と。イエスはいわれた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。これからはまちがいはしないように」と。〕 |
新共同 | 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕 |
NIV | "No one, sir," she said. "Then neither do I condemn you," Jesus declared. "Go now and leave your life of sin." >---------- |
註解: 罪の赦しの福音の要約ともいうべき御言である。罪を悔改めてキリストの御前に平伏す者は、今日も主の口からこの御言を聞くことができる。而してイエスのみは真に罪なきものであって、彼女に石を擲 つの資格を有ち給うた。このイエスがその権を用い給わずして彼女を赦し、従来の罪咎を一掃して新たなる生涯に入り再び罪を犯さざらしめ給いしことは驚くべきことであった。しかもこれ凡てキリストに来る罪人に対するキリストの態度であって、ここに罪の赦しの福音と新生せるものの新たなる歩みが始まるのである。
辞解
[罪せじ] ロマ8:1と同じ。「審判 かじ」より重き意味。
要義 [審判 く心と赦す心]罪深きものほど人を赦すの心に乏しく、反対に義しき者がかえって他人の罪を赦すことが多いことは、この世の事柄においても往々目撃する事実である。而してこの事実が最も著しき姿において顕われたのがパリサイ人とイエスとの対照である。前者は自ら罪人であるにもかかわらず他の罪人を裁きてこれを罪せんとし、後者は自ら心に一の罪も持ち給わずしてかえって他人の罪を赦し給う。この差別の起る所以は前者の正義は誤れる形式的の正義であって、しかもその心に愛なく、後者は愛をもって人の罪を赦す神の義(ロマ3:21)を行い給うが故である。形式的正義は人を善に立帰らしむることができず、濫りに人を裁きて自らも裁きに遭うより他になく、真の正義は自ら人の罪を負いてその罪を赦すことができる。この二者の間に根本的差別がある。
8章12節 かくてイエスまた
口語訳 | イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。 |
塚本訳 | (同じ大祭の日に、)イエスはまた人々に語られた、「わたしが世の光である。わたしに従う者は、決して暗やみを歩かない。そればかりか、命への光を持つことができる。」 |
前田訳 | またイエスは人々に語られた、「わたしは世の光である。わたしに従うものは絶えて闇の中を歩まず、いのちの光を持とう」と。 |
新共同 | イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 |
NIV | When Jesus spoke again to the people, he said, "I am the light of the world. Whoever follows me will never walk in darkness, but will have the light of life." |
註解:曩 にイエスは御自身を生命の水に譬え給い(ヨハ7:37)今「また」ここに祭の中に大なる燈火が神殿の前庭に照らされて全市に耀き渡れることに因みて御自身を「世の光」に譬え給う。前者はキリストが我らの内に住み給う働きを示し、後者は我らの外にありて我らを導き給う働きを示す。光は暗黒の反対であって、我らの罪悪に対する神の正義、我らの無智盲目に対する神の叡智、聡明、我らの虚偽に対する神の真実を表徴するに最も適当しており、神(Tヨハ1:5)およびキリスト(ヨハ1:4)の性質を代表するものとして聖書中にしばしば用いられている。キリストは単に一個人またはイスラエルのみの光に在すのみならず全世界の光に在し、彼に従って歩む者は彼の光に照らされ、彼の道を歩むことを得る結果、罪の暗黒の中に生活することがない。彼らは滅亡を免れて生命に至るの光を握っている(ヨハ1:9。Tヨハ1:5−7)。また自らも「世の光」となりてキリストの光を反射することができる(マタ5:14)。
8章13節 パリサイ
口語訳 | するとパリサイ人たちがイエスに言った、「あなたは、自分のことをあかししている。あなたのあかしは真実ではない」。 |
塚本訳 | パリサイ人が言った、「あなたは自分で自分のことを証明しているから、あなたの証明は信用できない。」 |
前田訳 | パリサイ人が彼にいった、「あなたは自分について証する。あなたの証は真でない」と。 |
新共同 | それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」 |
NIV | The Pharisees challenged him, "Here you are, appearing as your own witness; your testimony is not valid." |
註解: 申17:6、申19:15の準用であって(17節を見よ)、前節のイエスの宣言そのものを否定せずに証言の形式が不備であることをもってこれを無効ならしめんとしている。且つヨハ5:31のイエスの御言を曲解してこれを利用している(B1)。我らもイエスを真に理解するがためには霊的直覚を必要とするのであって、霊と真とをもってイエスを見てのみ彼の神の子メシヤに在し、世の光に在すことを知ることができる。
8章14節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに答えて言われた、「たとい、わたしが自分のことをあかししても、わたしのあかしは真実である。それは、わたしがどこからきたのか、また、どこへ行くのかを知っているからである。しかし、あなたがたは、わたしがどこからきて、どこへ行くのかを知らない。 |
塚本訳 | イエスは答えて言われた、「たとえ自分で自分のことを証明しても、わたしの証明は信用すべきである。わたしは自分がどこから来たか、どこに行くかを知っているのだから。(わたしは父上のところから来たので、父上がなんでも教えてくださるのである。)しかしあなたたちはわたしがどこから来て、どこに行くか知らない。 |
前田訳 | イエスは彼らに答えられた、「わたしが自分について証しようとも、わが証は真である。わたしはどこから来てどこへ行くかを知るゆえに。あなた方はわたしがどこから来てどこへ行くかを知らない。 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。 |
NIV | Jesus answered, "Even if I testify on my own behalf, my testimony is valid, for I know where I came from and where I am going. But you have no idea where I come from or where I am going. |
註解: イエスはここに彼の独自性を主張し給い、彼は他の何人とも比較し得べからざる神の独り子に在し給うことをもって、その自証の信ずべきことの理由となし給う。原文によれば「知る故」なる一語が最も強く言い表わされているのであって、イエスが神より遣わされて来り給い(何處より)、またやがて神の御許に往き給うこと(何處へ)を明瞭に直接に知る者は唯イエスのみであり、我らはこれを信じて始めてその然るを知るのみである。ゆえに「汝らは・・・・知らず」と断言してこの語中にその不信とその傲慢とを責め給う。イエスはさらに進んでこの「何處より」について18節以下に、「何處へ」について21節以下に説明し給う。キリストの信仰の中心は、このイエスの自証に対して大胆に信頼を献ぐるにある。
口語訳 | あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。 |
塚本訳 | あなた達は人間的に(目に見えるもので)裁くが、わたしはだれも裁かない。 |
前田訳 | あなた方は肉によって裁くが、わたしはだれも裁かない。 |
新共同 | あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。 |
NIV | You judge by human standards; I pass judgment on no one. |
註解: 「なんぢの証は真ならず」と言えるなんぢらの審 きこそ(13節)かえって真ではなく誤っている。その故は汝らは霊の導きによらずして肉の思いをもって我を審き、我の霊的存在としての意義を見誤ったからである(C1)。
辞解
[肉によりて] 二つの意味に取り得る。一は上述のごきき解、他は「キリストの外貌によりて審く」との意味(G1、M0、B1、Z0)でヨハ7:24と同義と解す。いずれも正しき解釈である。
8章16節 されど
口語訳 | しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである。 |
塚本訳 | しかしたとえ裁いても、わたしの裁きは真実である。わたしはひとりではなく、わたしと、わたしを遣わされた方と(二人)であるから。 |
前田訳 | もしわたしが裁くとしても、わが裁きは真である、わたしはひとりではなく、わたしとわたしをつかわされた方とはともにいるから。 |
新共同 | しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。 |
NIV | But if I do judge, my decisions are right, because I am not alone. I stand with the Father, who sent me. |
註解: 「汝らは本来審 くべき資格なき者なるに我を審き、しかもその審きは誤っている。その反対に我は本来審くべき権威を委ねられた者であるのに(ヨハ5:22)誰をも審かない。これ我が来れるは世を救わんがためである故である(ヨハ3:17)。されどもし必要ありて審く場合には(26節)その審判は真である。その故は父なる神との霊の一致契合において審くが故である。」イエスは「証」の問題について論じつつ「審判」の問題に移り次節よりまた「証」の問題に移り給うた。自己に関する審きは証であり、他人に関する証は審判であってこの二者同一である。
辞解
[誰をも審かず] 「もし審かば」と矛盾するごとくに見ゆるため、多くの学者はその解釈に苦しみ、「肉によって」、「今」、「一人にて」、「個人的に」等を「審かず」の条件として「誰をも」に附加せんとしているけれどもこれは根拠がない。唯原則と例外とを示すものと見れば理解に難くない。
8章17節 また
口語訳 | あなたがたの律法には、ふたりによる証言は真実だと、書いてある。 |
塚本訳 | あなた達の律法にも、『二人の証言は信用すべきである』と書いてあるではないか。 |
前田訳 | あなた方の律法に、『ふたりの証は真』とある。 |
新共同 | あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。 |
NIV | In your own Law it is written that the testimony of two men is valid. |
8章18節
口語訳 | わたし自身のことをあかしするのは、わたしであるし、わたしをつかわされた父も、わたしのことをあかしして下さるのである」。 |
塚本訳 | わたしがわたし自身の証明者である。その上、わたしを遣わされた父上がわたしのことを証明してくださる。」 |
前田訳 | わたしは自分の証人であり、わたしをつかわされた父もわたしについて証される」と。 |
新共同 | わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」 |
NIV | I am one who testifies for myself; my other witness is the Father, who sent me." |
註解: キリストの証は一人のみでもすでに完全に真理である。彼は律法以上だからである(14節)。しかし仮に「汝らの律法」申19:15、(17節引照)、をイエスに適用して見ても同様にイエスの証は真理である。その故はキリストのみならず父なる神もキリストにつきて証し給う故に二人の証となるからである。すなわちヨハ5:36、37(註参照)の証のみならず、霊の眼をもって見る者にとっては父が常にキリストと偕に在し、キリストにつき証し給うことを見ることができる。キリストの凡ての言語行為にはみな父の証印が押されている。
8章19節 ここに
口語訳 | すると、彼らはイエスに言った、「あなたの父はどこにいるのか」。イエスは答えられた、「あなたがたは、わたしをもわたしの父をも知っていない。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたであろう」。 |
塚本訳 | パリサイ人が言った、「あなたの父はどこにいるのか。」イエスは答えられた、「あなた達にはわたしをも、わたしの父上もわかっていない。もしもわたしがわかれば、わたしの父上もわかるはずである。」 |
前田訳 | 彼らはいった、「あなたの父はどこにいるのか」と。イエスは答えられた、「あなた方はわたしをもわが父をも知らない。もしわたしを知っていたなら、わが父をも知っていたろう」と。 |
新共同 | 彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」 |
NIV | Then they asked him, "Where is your father?" "You do not know me or my Father," Jesus replied. "If you knew me, you would know my Father also." |
註解: パリサイ人らはイエスが神を父と呼び給うこと(ヨハ5:17)をすでに聞き知っていた。それ故に「汝らの父は何處にあるか」との質問は、彼を証人としてここに引出すべしとの要求を含み、これによってイエスをして返答に窮せしめんとしたのである。これに対するイエスの答は「汝ら我と偕にここに在す父を知らずにいるのは我を知らないからである」との意であって霊の眼をもってキリストを見、彼を知ることがすなわち父なる神を知り彼を見る唯一の手段である。ゆえに肉によってキリストを審 く彼らは決して父を知ることができないことを彼らに教えて彼らを沈黙せしめ給うたのである。
8章20節 イエス
口語訳 | イエスが宮の内で教えていた時、これらの言葉をさいせん箱のそばで語られたのであるが、イエスの時がまだきていなかったので、だれも捕える者がなかった。 |
塚本訳 | これらの言葉を、イエスは宮で教えられるとき、宝物部屋のわきで話された。しかし捕える者はなかった。彼の時がまだ来ていなかったからである。 |
前田訳 | イエスは宮で教えられたとき、これらのことを宝庫のところで話された。しかしだれも彼を捕えなかった。彼の時が来ていなかったからである。 |
新共同 | イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。 |
NIV | He spoke these words while teaching in the temple area near the place where the offerings were put. Yet no one seized him, because his time had not yet come. |
註解: エルサレムの神殿の婦人の苑に十三の賽銭箱がある。そこは多くの人々が賽銭を投入れんがために集まる場所である(引照2)。その場所をイエスは特に選び給い、「これらの事」(12−19節)を語り給うた。ヨハネはこの福音書を記しつつその当時の光景がありありと目に浮び出でたことであろう。
辞解
[これらの事] 原語「これらの言葉」。
註解: ヨハ7:30と同じくイエスは前節において己を父と等しくし給うたので、ユダヤ人はこれをもって大なる冒涜と考えたことを暗示している。唯彼が捕えられ給うことを父は未だ許し給わないので誰も手出しを為さなかった。
要義 [イエスの自証]一般に自家広告は価値なきものとせられている所以は、自己を宣伝して名誉利益を獲得せんとの野心か、または自己の罪を隠し、その醜を掩わんとする慾心が包蔵されているからである。もしかかる私慾が全くない場合があるならば、その自証もこれを信ずることができるであろう。ゆえに自己につきて語りし言の価値の有無は、その語る者の私心の有無によりて定まるのである。この意味においてイエスの自証は完全に信ずべきものである。何となれば彼の中には一片の私心がなく、常に父の御旨に服従し給うたからである。イエスはこの完全なる信頼と服従とによって、父の己につきて証し給うことを知ることができ、我らもまたこのイエスを仰ぎ見る時そこに父が彼の傍らに立ち給うのを見ることができる。
8章21節 かくてまた
口語訳 | さて、また彼らに言われた、「わたしは去って行く。あなたがたはわたしを捜し求めるであろう。そして自分の罪のうちに死ぬであろう。わたしの行く所には、あなたがたは来ることができない」。 |
塚本訳 | するとまた(くりかえして)彼らに言われた、「わたしはわたしを遣わされた方の所に行く。(その時)あなた達はわたしをさがすが、(もはや会うことができず、)自分の罪のうちに死ぬであろう。わたしの行く所に、あなた達は来ることが出来ない(からだ)。」 |
前田訳 | またイエスは彼らにいわれた、「わたしは去り行き、あなた方はわたしをたずねよう。そして罪のうちにあなた方は死のう。わたしの去り行くところへあなた方は来られない」と。 |
新共同 | そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」 |
NIV | Once more Jesus said to them, "I am going away, and you will look for me, and you will die in your sin. Where I go, you cannot come." |
註解: ヨハ7:33、34にその死と昇天とを暗示し給えるイエスは、ここに一層明瞭にこれを告げ、かつユダヤ人の不信仰に対して、恐るべき神の刑罰を予告し給うた。「われ往く」は当 に近付きつつあったその死と昇天とを示す。「なんぢら我を尋ねん」イエスの死後に尋ね求ても、汝らは見出さないであろう(ヨハ7:34)。而してその不信の罪のままに死滅するの運命に陥るであろう。我が往く処には不信なるユダヤ人は永遠に来ることができない(弟子たちすらも今暫くは往くことができない。ヨハ13:33、ヨハ13:36。ヨハ14:3を見よ)。
辞解
[罪] 単数、ただし24節の「罪」は複数。
8章22節 ユダヤ
口語訳 | そこでユダヤ人たちは言った、「わたしの行く所に、あなたがたは来ることができないと、言ったのは、あるいは自殺でもしようとするつもりか」。 |
塚本訳 | ユダヤ人たちが言った、「『わたしの行く所に、あなた達は来ることはできない』と言うが、まさか自殺するつもりではあるまい。」 |
前田訳 | ユダヤ人はいった、「彼は自殺するのか、『わたしの去り行くところへあなた方は来られない』というのは」と。 |
新共同 | ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、 |
NIV | This made the Jews ask, "Will he kill himself? Is that why he says, `Where I go, you cannot come'?" |
註解: ユダヤ人は「罪のうちに死なん」とのことをば聞かざるもののごとくに耳を掩うた。従って「わが往く処に云々」なる御言の意義を解することが出来ず、これに対して彼を嘲弄し「もし汝自殺して地獄へ行くのであるならば、御伴 は御免を蒙ろう」というごとき語気をもって嘲弄している。ヨハ7:35よりも一層激しき言葉である。サタンは往々にして人間の心を唆 かしイエスに対してかかる嘲弄の言を発せしめる。
8章23節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに言われた、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。 |
塚本訳 | 彼らに言われた、「あなた達は下から出た者であるが、わたしは上から出た者である。あなた達は(罪の)この世から出た者であるが、わたしはこの世から出た者ではない。 |
前田訳 | 彼らにいわれた、「あなた方は下からの出、わたしは上からの出である。あなた方はこの世の出、わたしはこの世の出ではない。 |
新共同 | イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。 |
NIV | But he continued, "You are from below; I am from above. You are of this world; I am not of this world. |
註解: イエスは彼らの嘲弄を無視して、さらに根本的に彼らの本質を明示し彼らの不理解の当然なるを論じ給う。すなわちイエスと彼らとの間にはその出所、故郷を異にしているのであって、イエスの出所は永遠の天であり、その故郷は神の支配する義の国である。然るに彼らの出所はやがて朽つべき地であって、その故郷はサタンの支配する罪のこの世である。このことはユダヤ人のみならず凡ての人類に適用し得る事柄であって、「下、世、などの語の中にイエスは人間が自然に所有する凡てのものを包含せしめている」(C1)のである。Tコリ15:46、47もこれと同一の意味である。
8章24節
口語訳 | だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」。 |
塚本訳 | だから『あなた達は自分の罪のうちに死ぬであろう』と言ったのだ。あなた達は、わたしがそれ(救世主)であることを信じなければ、自分の罪のうちに死ぬからである。」 |
前田訳 | 『あなた方は罪のうちに死のう』といった。わたしをそれ(キリスト)であると信じなければ、あなた方は罪のうちに死のう」。 |
新共同 | だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」 |
NIV | I told you that you would die in your sins; if you do not believe that I am [the one I claim to be], you will indeed die in your sins." |
註解: 21節に「己が罪のうちに死なん」と言い給える理由は人間が(ユダヤ人も同様)みな罪の子、アダムの子であって地より出でてこの世に属するからである。これを免れるの道はイエスを「それと」信ずること、すなわちメシヤと信ずることより外にない(ヨハ1:12。ヨハ3:15、16。ヨハ6:40)。ここにヨハネはパウロの中心問題たりし「信仰によりて義とされる」ことの真理を、異なりたる形式をもって言い表わしている。イエスを神の子と信ずるものは上より生れ(ヨハ1:13。ヨハ3:3)もはやこの世のものではない(ヨハ17:14)。かかる者のみ審判を免れ永遠の生命に甦り、然らざるものはみな罪のうちに死ななければならない(ヨハ3:18。ヨハ5:24)。
辞解
[我はそれなり] ego eimi = I am でその何たるかを省略している。当然のことであるとして略し給うた。エホバも同様の言い表わしをなし給う。申32:39。イザ41:4。イザ48:12。ここにもイエスの神に在すことの自覚が窺われる(G1)。
口語訳 | そこで彼らはイエスに言った、「あなたは、いったい、どういうかたですか」。イエスは彼らに言われた、「わたしがどういう者であるかは、初めからあなたがたに言っているではないか。 |
塚本訳 | すると彼らが言った、「あなたはだれですか。」イエスが言われた、「いったいいまさらあなた達に何を言おうか、 |
前田訳 | 彼らはいった、「あなたはだれか」と。イエスは彼らにいわれた、「それははじめからあなた方にいっていること。 |
新共同 | 彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。 |
NIV | "Who are you?" they asked. "Just what I have been claiming all along," Jesus replied. |
註解: イエスは「我はそれなり」と言い給いてメシヤなることを明示し給わなかったので、ユダヤ人はイエスを陥れる材料にせんとてイエスの口よりこれを言わしめんとしてこの質問を発した。
イエス
註解: 原文は聖書中最も難解の節の一つである。幾十種の解釈の中でこの改訳本文のごとくに解するか、または「汝らと語ることは全く無駄である」すなわち何という訳が解らないともがらであろうかと慨嘆せられし意味にとるかが(古代ギリシャの師父の解はみなこれに一致している、Z0)最も適当であろう。予はむしろ後説に加担する。要するにイエスはユダヤ人が陥れんとせる陥穽 に陥らずむしろ彼らの無理解を責め給うた。
8章26節 われ
口語訳 | あなたがたについて、わたしの言うべきこと、さばくべきことが、たくさんある。しかし、わたしをつかわされたかたは真実なかたである。わたしは、そのかたから聞いたままを世にむかって語るのである」。 |
塚本訳 | あなた達について言うべきこと、裁くべきことが沢山あるにはあるが。(言ってもなんの役にも立つまい。)それでもわたしを遣わされた方は真実であるから、わたしもその方から聞いたことを、この世に語らないわけにゆかない。(あなた達がわかってもわからなくても。)」 |
前田訳 | あなた方について語ること裁くことは多い。しかしわたしをつかわされた方は真であり、わたしも彼から聞いたことをこの世に語る」と。 |
新共同 | あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」 |
NIV | "I have much to say in judgment of you. But he who sent me is reliable, and what I have heard from him I tell the world." |
註解: イエスはユダヤ人の不信に対して心よりの憤りを発し給い、「我の何たるかを語るよりもむしろ汝らにつき語るべきこと、審くべきことがいくらでもある。しかし汝らの不信と無理解の故にこれを差控える。唯曩 に汝らに告げしことどもはみな真なる神より聴けることを汝らに述べたに過ぎない。ゆえに汝らはこれを神の言として信ずべきである」とイエスは彼らに宣言し給う。
8章27節 これは
口語訳 | 彼らは、イエスが父について話しておられたことを悟らなかった。 |
塚本訳 | しかし彼らには、これが(神なる)父上のことをいっておられることがわからなかった。 |
前田訳 | しかし彼らには、父のことをいわれたことがわからなかった。 |
新共同 | 彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。 |
NIV | They did not understand that he was telling them about his Father. |
註解: 「我が父」と言わずして「我を遣し給ひし者」とと宣いし結果彼らは父なる神を指し給えることを解すること能わず他に何人かを指すものならんかと誤解した。
8章28節 ここにイエス
口語訳 | そこでイエスは言われた、「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。 |
塚本訳 | そこでイエスが言われた、「あなた達は人の子(わたし)を十字架に挙げた時にはじめて、わたしがそれであること、また、わたしが自分では何もせず、ただ父上に教えられたままを語っていたことを知るだろう。 |
前田訳 | イエスはいわれた、「あなた方が人の子を挙げたときこそ、あなた方はわたしがそれであると知り、わたしが自分からは何もなさず、父がお教えのままを話したことを知ろう。 |
新共同 | そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。 |
NIV | So Jesus said, "When you have lifted up the Son of Man, then you will know that I am [the one I claim to be] and that I do nothing on my own but speak just what the Father has taught me. |
註解: 「汝ら今は知らないけれども汝らが我を十字架に釘けてからは、汝ら我のメシヤなるを知るであろう」。「挙げる」は十字架の死を示すけれども、この場合は同時にその後の復活、昇天、聖霊降臨の出来事をも眼中に置きて語り給えるものと解すべきである(ヨハ3:14。ヨハ12:32、33。使2:33)。
註解: 信ずる者に聖霊が与えられる時、イエスの行為も言語もみな父の御意に従い給えること、すなわちキリストは一人ではなく常に父と倶 に二人にて在すことがわかる。
8章29節
口語訳 | わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」。 |
塚本訳 | わたしを遣わされた方は(いつも)一しょにいてくださって、わたしを独りぼっちにされたことはない。わたしはいつもその方のお気に召すことをするからだ。」 |
前田訳 | わたしをつかわされた方はわたしとともにおられる。彼はわたしをひとりにはされなかった。わたしはつねに彼のみ心にかなうことをするから」と。 |
新共同 | わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」 |
NIV | The one who sent me is with me; he has not left me alone, for I always do what pleases him." |
註解: これがイエスの内的実感であり同時にまた外的事実であった。イエスと父なる神は完全なる霊的一致共存の状態におり給うたのであって、イエスは完全に父の御意に服従し給い、父なる神は一瞬も彼を離れ給わない(神が彼を離れ給える唯一の瞬間は十字架上にエリ、エリの叫びを発し給える時であった)。信者もこのイエスの模範に倣い常に神の御意に適うことを行わなければならぬ。かくする場合において神彼らと共に在し、彼らは困難の中にも迫害の中にも、不如意の時にも常に神の保護の下にいることができる。
8章30節
口語訳 | これらのことを語られたところ、多くの人々がイエスを信じた。 |
塚本訳 | こう話されると、多くの人がイエスを信じた。 |
前田訳 | このことを彼が話されると、多くの人が彼を信じた。 |
新共同 | これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。 |
NIV | Even as he spoke, many put their faith in him. |
註解: ただしこの信仰は次節以下のごとき試験に敗られるごとき信仰であった。それ故にこの信仰は単にキリストを受入れし程度のものであった。唯不信仰なりし多数の中にもなお彼を信ずる者が少なからずあったことはイエスにとって大なる慰安であった。信ずる者の中には衆議所の議員も有ったのである(ヨハ12:42)。
要義1 [新たなる生命として上より出でしイエス]我らはこのイエスの姿を拝しなければならない。父との完全なる霊的一致、父に対する完全なる服従、父の御意の完全なる実行、これ天より出で給いしイエスの御姿であった。彼の中に罪の一点も存在しなかった、何となれば罪は神に対する従順の放棄であるからである。それ故に神は切にキリストを愛し給いて決して彼を独りおき給わなかった。完全なる神の愛とこれに対する完全なる従順がすなわち天国の民の姿である。我らもまたこのキリストのごときものとならなければならない。我らもし新たに上より生れるならばかくのごとき者となることができる。
要義2 [信仰によって義とされること]パウロは人の義とされるは律法の行為によらず信仰によることを極力主張した。その意味はヨハネがここに「キリストのそれなるを信ぜざる者は罪の中に死なん」と言いしと全く同義である。パウロとヨハネの一致はここにも明らかにされていることに注意しなければならない。
8章31節 ここにイエス
口語訳 | イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。 |
塚本訳 | すると信じたユダヤ人に言われた、「もしわたしの言葉に留まっておれば、あなた達は本当にわたしの弟子である。 |
前田訳 | そこでイエスは彼を信じたユダヤ人にいわれた、「わがことばにとどまっていれば、あなた方は真にわが弟子である。 |
新共同 | イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 |
NIV | To the Jews who had believed him, Jesus said, "If you hold to my teaching, you are really my disciples. |
註解: イエスはヨハ3:10。ヨハ4:14、15の場合のごとく、彼に来る者にさらに一層深き真理を示すことによりて一は彼らを試み、一は彼らを導き給う。かくして信仰の皮相なるものはこれに躓き、信仰の深きものはこれにより一層深きに導かれる。
『
註解: イエスは曩 に21節、24節に彼を信ぜざる者は罪のうちに死ぬべきことを告げ給い、ここにさらに進んでその信仰の本質につきて示し給うた。信仰は単にイエスの人格の偉大さに感じて彼をメシヤなりと信ずることではない。「彼の言に居ること」すなわち彼の口より出でし凡ての言を信じこれに固着し、造次顛沛 もそれから離れないことである。(彼の言を信ずるとは彼の教訓のみならず、その凡ての約束を信ずることであって、彼語り給うが故にその言はすなわち神の言であり真理であると信ずることである。)「居る」menô はヨハネ文書において最も重要なる意義を持つ文字の一であって、滞在、内住、不可離の状態等を意味し、父と子、キリストと信者との関係を示す語として多く用いられている(ヨハ15:4−11に十一回繰返しあり)。ここにもまたイエスはこの語によって信仰は智的承認にあらずして霊的交通であり、一時的感激にあらずしてその持続であることを教え給うたのである。而してかくのごとき信仰を有つ者のみ真にイエスの弟子であるということができるのである。
口語訳 | また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。 |
塚本訳 | 真理を知り、その真理があなた達を自由にするであろう。」 |
前田訳 | あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にしよう」と。 |
新共同 | あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 |
NIV | Then you will know the truth, and the truth will set you free." |
註解: 真理は抽象的理論にあらずしてキリスト彼自身である(ヨハ14:6)。我らはキリストを真理なりと知りて後に彼の言に居るのではなく、彼の言に居ることによりて彼の真理そのものに在すことを知るのである。彼を真理と知りて我らの目は真に神によりて開かれたのである(マタ16:17)。それまで発見せりと信ぜられるあらゆる真理は、人間の思想の所産に過ぎず、この人格として実現せる真理の前にその光を失う。
註解: イエスを真理そのものと知るに至る時、イエスは我らを罪の束縛より解放して彼に従わしめるのであって、イエス・キリストの恩恵により罪より義とせられし我らは罪の僕であった旧き状態より脱し「罪より解放されて」義の僕、キリストの僕となりて罪に対して自由となるのである。キリストの僕となって始めて真に霊の自由を味わうことができ、然らざれば我らは唯肉の自由を求めてかえって肉の奴隷となっているに過ぎない。而して我らにこの自由を与えるのは真理そのものなるキリストにほかならない。メシヤはローマの政治的束縛よりユダヤ人を救出するものと考えし彼らにとって、このイエスの御言は不可解であり、かつ失望の原因であったろう。なおロマ6:12−7:6参照。
8章33節 かれら
口語訳 | そこで、彼らはイエスに言った、「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」。 |
塚本訳 | しかし彼らは(その意味がわからずに)答えた、「わたし達はアブラハムの子孫で(自由人で)ある。いまだかつてだれの奴隷にもなったことはない。どうして『あなた達は自由になる』と言われるのか。」 |
前田訳 | 彼らは答えた、「われらはアブラハムの末です。いまだかつてだれの奴隷になったこともありません。なぜ『あなた方は自由になろう』といわれますか」と。 |
新共同 | すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 |
NIV | They answered him, "We are Abraham's descendants and have never been slaves of anyone. How can you say that we shall be set free?" |
註解: 彼らの政治上の自由はローマの政権により束縛せられていたけれども、アブラハムの子孫として行うべき宗教生活や日常市民としての生活は自由であり、これについて誇っていた。彼らはその形式的自由に甘んじて霊が罪の奴隷となっていることに心付かなかったのである。ゆえにイエスに躓いた。イエスのこの語に躓いたものは31節の「信じたるユダヤ人」であることに注意せよ。イエスの言の一部のみを信じて他に躓くものは今日でもなお多い。彼らはこのユダヤ人のごときものである。
8章34節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。 |
塚本訳 | イエスは答えられた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、罪を犯す者は皆罪の奴隷である。 |
前田訳 | イエスは答えられた、「本当にいう、罪を犯すものは皆罪の奴隷である。 |
新共同 | イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 |
NIV | Jesus replied, "I tell you the truth, everyone who sins is a slave to sin. |
註解: 神の言に居らず、これに叛きて罪を犯す者は罪なる力に左右せられてこれを脱することができない状態にあり、非常に苦痛なる不自由な生活を送らなければならない。あたかも奴隷が自由の意思によらず他人の意思によりて動かされるがごとき有様である。その最も著しき表顕は神の子イエス・キリストに反逆を企つることにある(37節)。異本に「罪の」を欠き単に「奴隷なり」とあり、次節との連絡上はこの方が適当であって、「神の家の奴隷」の意味と解して「神の家の子」と対立せしめている。
8章35節
口語訳 | そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。 |
塚本訳 | 奴隷はいつまでも家におるわけにゆかない。(いつでも追い出される。しかし)子はいつまでも家におる。 |
前田訳 | 奴隷はいつまでも家にとどまらない。子はいつまでもとどまる。 |
新共同 | 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 |
NIV | Now a slave has no permanent place in the family, but a son belongs to it forever. |
註解: 神の家には奴隷も多く働いているけれども、これらはやがてその主家を去らしめられる運命を有っており、子はその反対に永遠にその家に留まるべきものである。神の子なるキリストを信ぜずして罪の中に居る者は神の家の奴隷であり、神との永遠の交わりに生くることができない。やがては神を離れて永遠の滅亡に帰すべく、子は反対に永遠に神との交わりに生くることができることを示す(ガラ4:21−31)。
8章36節 この
口語訳 | だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。 |
塚本訳 | だから、もし子(たるわたし)が(罪から)自由にしてやれば、あなた達は本当に自由になるのである。(そしていつまでも父上のところにおることができる。) |
前田訳 | もし子が自由にすれば、あなた方は本当に自由になろう。 |
新共同 | だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。 |
NIV | So if the Son sets you free, you will be free indeed. |
註解: 私訳「この故に子もし汝らを解き放たば、汝らは実に自主とならん」ロマ8:2、ガラ5:1等はこの節とその意義を同じくするのであって、父より凡ての権を与えられし子なるキリストが彼らを贖い、彼らを奴隷たる状態より解き放つならば、彼らは始めて自主のものとなり神の子とされるであろう。人は生れながらにして神の子ではない、奴隷である。神の子となるがためには、独り子イエス・キリストの十字架の贖いによりて罪の束縛から解き放たれなければならない。
8章37節
口語訳 | わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っている。それだのに、あなたがたはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていないからである。 |
塚本訳 | あなた達がアブラハムの子孫であることをわたしは知っている。ところがあなた達は(わたしを信ずるには信じたが、)わたしを殺そうとしている。(それは当然だ。)わたしの言葉が、あなた達の(心の)中で根を張らないのだから。 |
前田訳 | あなた方がアブラハムの末であることをわたしは知っている。しかしあなた方はわたしを殺そうとする、わがことばがあなた方に入り込まないから。 |
新共同 | あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。 |
NIV | I know you are Abraham's descendants. Yet you are ready to kill me, because you have no room for my word. |
註解: 彼らは肉的にアブラハムの裔であることをイエスは否定し給わない。唯霊的意義において然らざることを事実をもって証明し給う。その事実はユダヤ人ら(31節のユダヤ人らをもこの中に連帯的に包括し給う)が彼が殺さんと謀ることであって、これ彼らが御言に居ない結果(31節)イエスの御言がその心中において地歩を占めずに死滅してしまうからである。我らも我らのキリスト者たる名称如何によらず、我らの事実によって審 かれる、恐れなければならない。
辞解
[留る] chôreô は種々の意味があるけれども、この場合は前後の文字より判断して「進歩する」「発育する」等の意味に解するか(M0、G1、Z0)または「地歩を占める」意味に解すべきであろう(Thayer、希英辞典RV欄外註)、余は後者による。
8章38節
口語訳 | わたしはわたしの父のもとで見たことを語っているが、あなたがたは自分の父から聞いたことを行っている」。 |
塚本訳 | わたしは父上のところで見たことを語り、あなた達も同じく(自分の)父から聞いたことをする。」 |
前田訳 | わたしは父のもとで見たことを語り、あなた方はあなた方の父から聞いたことをする」と。 |
新共同 | わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」 |
NIV | I am telling you what I have seen in the Father's presence, and you do what you have heard from your father. " |
註解: イエスの御言と彼らの行為とはその源泉、出所を異にしていた。異なれるものを父として有ち、異なれる生命の源を有ったからである。キリストの父は神、彼らの父は悪魔であった。我らもこのいずれに属するのかを顧みなければならぬ。
辞解
[「見る」「聞く」] 神は光なれば「見る」ことができ、悪魔は暗きにささやくものなれば聞くのみである(B1)。
8章39節 かれら
口語訳 | 彼らはイエスに答えて言った、「わたしたちの父はアブラハムである」。イエスは彼らに言われた、「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。 |
塚本訳 | 彼らが答えて言った、「われわれの父はアブラハムだ。」イエスが言われる、「もしアブラハムの子供なら、アブラハムの(子供らしく、アブラハムと同じ)行いをするはずだ。 |
前田訳 | 彼らは答えた、「われらの父はアブラハムです」と。イエスは彼らにいわれる、「アブラハムの子ならば、アブラハムのわざをなせ。 |
新共同 | 彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。 |
NIV | "Abraham is our father," they answered. "If you were Abraham's children," said Jesus, "then you would do the things Abraham did. |
註解: 彼らは肉の系統を見、イエスは心の源を見給う。我らの為す業はみな我らの心の源より出でる。我らの行いを見て我らの心の父を知ることができる。ユダヤ人におけるも同様であって、真理そのものに在し給うキリストを拒むものは、真理の父より出でているはずはない。▲口語訳に「するがよい」と訳してあるのは poieite を命令形として読んだので文法上はかく訳し得るけれども直説法も同形ゆえ、いずれともなり得るのであって直説法として訳する学者が多い。
8章40節
口語訳 | ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった。 |
塚本訳 | ところがあなた達は、今わたしを殺そうとしている。神から聞いた真理を語っているこの人間を!アブラハムはそんなことはしなかった。 |
前田訳 | しかるにあなた方はわたしを殺そうとする、父から聞いた真理をあなた方に話した人を。アブラハムはそんなことはしなかった。 |
新共同 | ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。 |
NIV | As it is, you are determined to kill me, a man who has told you the truth that I heard from God. Abraham did not do such things. |
註解: アブラハムは神の言を信じ(創12:4。創15:6。創17:23)神の命を守り(創22:1以下)神の使を受けた(創18:1以下)。然るにユダヤ人らはイエスに対して全く反対の行動を取っている。キリスト者の名のみありてキリストの御旨を行わざる者はこのごとき者である。
口語訳 | あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っているのである」。彼らは言った、「わたしたちは、不品行の結果うまれた者ではない。わたしたちにはひとりの父がある。それは神である」。 |
塚本訳 | あなた達は自分の父の行いをしている。」彼らが言った、「われわれ(ユダヤ人)は、(異教人のように)不品行(偶像礼拝)によって生まれたのではない。われわれの父はただ一人、神である。」 |
前田訳 | あなた方は自分の父のわざをしている」と。彼らはいった、「われらは不身持ちから生まれたのではありません。われらにはひとりの父、神があります」と。 |
新共同 | あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、 |
NIV | You are doing the things your own father does." "We are not illegitimate children," they protested. "The only Father we have is God himself." |
註解: 神の子に対して最も激しき迫害を為すものは悪魔とその子らである。
辞解
[為すなり] 異本に「為せ」とあれど不適当である。
かれら
註解: 彼らはイエスの意味が霊的であることをさとって「もし汝がアブラハムの子を称される我らを、アブラハムの子に非ずというならば、汝は我らが淫行によりて生れしもの、すなわち唯一の神より離れし不信の民(イザ57:3。エゼ16:15以下、エゼ20:30。ホセ2:6等)であるということを主張することとなる。しかしながら我らは未だかつて唯一の神より離れしためしはない。我らは神の初子である(出4:22。ホセ11:1。申1:31。申8:5。マラ2:10)。すならち霊的意味においても我らは完全に神の子である」と主張している。彼らは信仰の何たるかを解せず、イスラエルなる神政制度の下に属することそのことをもって、神の子の資格を充分に保証せられていると誤解した。
8章42節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに言われた、「神があなたがたの父であるならば、あなたがたはわたしを愛するはずである。わたしは神から出た者、また神からきている者であるからだ。わたしは自分からきたのではなく、神からつかわされたのである。 |
塚本訳 | イエスは言われた、「もしも神があなた達の父であったら、あなた達はわたしを愛するはずである、わたしは神から出て、(ここに)来ているのだから。わたしは自分で勝手に来たのではない、神がわたしを遣わされたのである。 |
前田訳 | イエスはいわれた、「もし神があなた方の父なら、あなた方はわたしを愛したろう。わたしは神から出てここに来ている。わたしは自分で来たのではない。神がわたしをつかわされた。 |
新共同 | イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。 |
NIV | Jesus said to them, "If God were your Father, you would love me, for I came from God and now am here. I have not come on my own; but he sent me. |
註解: イエスは39、40節の論法と同様にユダヤ人の行為を証拠としてその悪魔の子たることを証し、同時に己の父との霊交を基礎として神の子に在し給うことを証し給う。ユダヤ人は肉の系統および宗教制度上より彼らの神の子たることを主張し、イエスはその霊的生命とその使命そのものより彼が神の子に在すことを証明し給う。
8章43節
口語訳 | どうしてあなたがたは、わたしの話すことがわからないのか。あなたがたが、わたしの言葉を悟ることができないからである。 |
塚本訳 | なぜわたしの言葉が通じないのだろうか。(神から委ねられた)わたしの福音を聞く耳がないからだ。 |
前田訳 | なぜあなた方はわたしの話がわからないのか。わたしのことばを聞きえないからである。 |
新共同 | わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。 |
NIV | Why is my language not clear to you? Because you are unable to hear what I say. |
註解: この自問自答は感情の激せることを示す。「きくこと能はず」とは聴きて解すること能わざる意味で、その理由は47節を見よ。イエスは彼らが悪魔より出づることを述ぶる前に霊のことに対する彼らの無能力、盲目を指摘し、彼らをして自ら顧みるの機会を与え給う。
辞解
[語ること] 「語」 lalia で「言」 logos と異なり、後者は教理の内容を包含し、前者はただ言語を意味する(M0)。
8章44節
口語訳 | あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。 |
塚本訳 | (そのはずである。)あなた達は悪魔なる父の子で、父と同じ欲望を遂げようと思っているのだ。(人殺しをし、嘘をつくのは、そのためである。)悪魔は始めから人殺しである。(また嘘つきで、)真理に立ってない。彼の中には真理がないからである。だから彼は嘘をつく度ごとに、その本性を表しているのである。嘘つきで、嘘の父だからだ。 |
前田訳 | あなた方は悪魔の父の出で、自分の父の欲を満たそうとしている。彼ははじめから人殺しである。彼は真理に立っていない。彼のうちに真理がないからである。偽りをいうとき、彼は本音をはいている。彼はうそつき、またうそつきの父であるから。 |
新共同 | あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。 |
NIV | You belong to your father, the devil, and you want to carry out your father's desire. He was a murderer from the beginning, not holding to the truth, for there is no truth in him. When he lies, he speaks his native language, for he is a liar and the father of lies. |
註解: ここにイエスは始めて明白に彼らの父すならち彼らの魂の源泉を指示し、彼らは自ら神の子と称しているけれども実は悪魔の子であり、従って悪魔の意慾に従いて行っていることを指摘し給うた。彼らの驚きはいかに大きくあったろうか。また彼らはその誇りを傷つけられていかに憤怒の念に燃えたことであろうか。
註解: その性質が根本的に悪である。悪魔の第一の特徴は人を救わんとせず人を殺さんとすることを示す。すなわちキリストと正反対の性格である。
また
註解: 悪魔の第二の特徴が最もよく言表わされている。すなわち悪魔の性質の中に真がない、虚偽のみであるがために、彼自身真理の上に巍然 として立つことができない。かえって真理を嫌ってこれを避けんとする。すなわち我らの霊魂に対す最も恐るべき大敵は虚偽であることがわかる。我らの心に虚偽が孕まれる時、それだけ悪魔に城を明渡したのである。
註解: 悪魔はその本質が虚偽であり、また虚偽者の父である。従って虚偽を語ることがその本質に叶っていることである。キリストの父の本質は真で、従ってキリストは真を語り給う。この両者の間に根本的の相違がある。イエスはかくして世界を神のものと悪魔のものとに二分し給う。そこに中間の存在はない。
辞解
[虚偽の父] また「虚偽者の父」とも訳すことができる。この場合はユダヤ人が悪魔の子なることを言わんとしていること故、この解釈の方が優っている(G1、M0)。
8章45節
口語訳 | しかし、わたしが真理を語っているので、あなたがたはわたしを信じようとしない。 |
塚本訳 | ところがわたしは真理を言うので、あなた達はわたし(の言うこと)を信じない。 |
前田訳 | わたしが真理を語るがゆえにあなた方はわたしを信じない。 |
新共同 | しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。 |
NIV | Yet because I tell the truth, you do not believe me! |
註解: 虚偽にとって最も忌むべきものは真である。従って、イエスが真理を告ぐる時彼らはこれに堪えることができない。これ彼らの本能だからである。凡て真に対して心を閉づる者は悪魔の子である。
8章46節
口語訳 | あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責めうるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがたは、わたしを信じないのか。 |
塚本訳 | あなた達のうち、だれがわたしに罪があることを立証できるか。真理を言っているのに、なぜわたし(の言うこと)を信じないか。 |
前田訳 | あなた方のうちだれがわたしの罪を確認できるか。わたしが真理を語るなら、なぜあなた方はわたしを信じないのか。 |
新共同 | あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。 |
NIV | Can any of you prove me guilty of sin? If I am telling the truth, why don't you believe me? |
註解: イエスは完全に虚偽なく聖潔なる生涯を送り給うことの自覚があった。この自覚をもってユダヤ人に挑んだのであるけれども、彼らの中一人だにこれに反対し得る者がなかった。ここにイエスの真が証明せられ、彼の完全なる勝利を見ることができる。
われ
8章47節
口語訳 | 神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからである」。 |
塚本訳 | 神から出た者は(わたしが話す)神の言葉に聞き従う。あなた達は神から出たのでないから、(わたしの言葉に)従わないのである。」 |
前田訳 | 神からのものは神のことばを聞く。あなた方が聞かないのは、神からのものでないからである」と。 |
新共同 | 神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」 |
NIV | He who belongs to God hears what God says. The reason you do not hear is that you do not belong to God." |
註解: 神によりて新たに生れしものは真の霊を与えられ、この御霊によりて神のことを弁 え知ることができる(Tコリ2:14)。ゆえにキリストの真が証明せられしにもかかわらず、ユダヤ人がキリストの言を受入れないのは、彼らが神より出でし者でないことの証拠である。今日もこれと同様であって、神より出でしものにあらざればキリストの福音を信ずることができない。
辞解
[汝らの聴かぬは・・・] 本節後半を直訳すれば「これによりて汝らは聴かず、そは神より出でぬ故なり」となる。ヨハ10:17辞解参照。
8章48節 ユダヤ
口語訳 | ユダヤ人たちはイエスに答えて言った、「あなたはサマリヤ人で、悪霊に取りつかれていると、わたしたちが言うのは、当然ではないか」。 |
塚本訳 | ユダヤ人は答えて言った、「『君はサマリヤ人だ、悪鬼につかれている』とわれわれが言うのは、ほんとうではないか。」 |
前田訳 | ユダヤ人は答えていった、「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、とわれらがいうのはもっともではないか」と。 |
新共同 | ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、 |
NIV | The Jews answered him, "Aren't we right in saying that you are a Samaritan and demon-possessed?" |
註解: 「云へるは」は「云ふは」の誤りである。「汝はサマリヤ人なり」は嘲弄の語で、「汝は異端者なり」などと言うに同じ、ユダヤ人らはイエスが彼らに向けし非難をそのままイエスに向け、イエスこそサマリヤ人でアブラハムの子孫にあらず、悪鬼に憑かれた者にして神の子にあらずと唱え、かく言うは極めて適切にあらずやと主張している。
辞解
[サマリヤ人] ヨハ4:9註解参照。
8章49節 イエス
口語訳 | イエスは答えられた、「わたしは、悪霊に取りつかれているのではなくて、わたしの父を重んじているのだが、あなたがたはわたしを軽んじている。 |
塚本訳 | イエスが答えられた、「悪鬼につかれてはいない。その証拠に、わたしは父上を敬っている。それであるのにあなた達は、(『悪鬼につかれている』と言って)わたしを侮辱する。 |
前田訳 | イエスは答えられた、「わたしは悪霊につかれてはいない。わたしはわが父を敬うが、あなた方はわたしを敬わない。 |
新共同 | イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。 |
NIV | "I am not possessed by a demon," said Jesus, "but I honor my Father and you dishonor me. |
註解: イエスは第一の点に反駁する必要を認め給わず、唯第二の点のみを反駁し給うた。これによりて第一の点は自然に解決するからである。かつユダヤ人が彼を軽視していることは、間接に父なる神を軽視することである。すなわち彼らこそかえってサマリヤ人である。
8章50節
口語訳 | わたしは自分の栄光を求めてはいない。それを求めるかたが別にある。そのかたは、またさばくかたである。 |
塚本訳 | しかしわたしは自分の名誉を求めない。(だからそんなことはなんでもない。ただわたしのために)これを求め、(わたしを侮辱する者をかならず)裁く方である。 |
前田訳 | わたしはわが誉れを求めない。しかしそれを求め、かつ裁く方がある。 |
新共同 | わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。 |
NIV | I am not seeking glory for myself; but there is one who seeks it, and he is the judge. |
註解: ユダヤ人は前節のごとくイエスを軽んじているけれども、イエスは己の栄光を受くることを求め給わなかった。何となれば神はイエスの栄光のために配慮してこれを与え給い、かつ神はユダヤ人の不信を審き給うからである。
8章51節
口語訳 | よくよく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」。 |
塚本訳 | アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしの言葉を守る者は(わたしに名誉を帰する者で、決して裁かれない。だから)永遠に死なない。」 |
前田訳 | 本当にいう、わがことばを守るものは永遠に死を見まい」と。 |
新共同 | はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」 |
NIV | I tell you the truth, if anyone keeps my word, he will never see death." |
註解: 前節において神の審判につきて語り給える後イエスは語を和らげて、審判に至らざる方法を教え、ユダヤ人らの中の救わるべき部分に対するその愛を示し給う。而してこの方法はキリストの御言を守ること(31節)である。而して御言を守ることはキリストに従うことであり、また彼を信ずることである(ヨハ3:36参照)。
8章52節 ユダヤ
口語訳 | ユダヤ人たちが言った、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今わかった。アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。それだのに、あなたは、わたしの言葉を守る者はいつまでも死を味わうことがないであろうと、言われる。 |
塚本訳 | ユダヤ人が言った、「今こそ悪鬼につかれていることが(はっきり)わかった。アブラハムも死に、預言者たちも死んだのに、君は『わたしの言葉を守る者は永遠に死なない』と言う。 |
前田訳 | ユダヤ人がいった、「今こそ悪霊につかれていることがわかる。アブラハムも預言者も死んだのに、あなたは、『わがことばを守るものは永遠に死を味わうまい』という。 |
新共同 | ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。 |
NIV | At this the Jews exclaimed, "Now we know that you are demon-possessed! Abraham died and so did the prophets, yet you say that if anyone keeps your word, he will never taste death. |
註解: 「48節においては幾分の疑いを持ちつつこれを言ったのであった。今はこれを断言して憚らない」との意。
アブラハムも
8章53節
口語訳 | あなたは、わたしたちの父アブラハムより偉いのだろうか。彼も死に、預言者たちも死んだではないか。あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」。 |
塚本訳 | 君はまさか、われわれの父アブラハムよりもえらいというのではあるまい。アブラハムは死んだではないか。また預言者たちも死んだのに、いったい君は、自分を何だと思っているのか。」 |
前田訳 | あなたは、われらの父アブラハムより偉いのか。彼は死んだではないか。また、預言者も死んだのに、あなたは自分をなんと思っているのか」と。 |
新共同 | わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」 |
NIV | Are you greater than our father Abraham? He died, and so did the prophets. Who do you think you are?" |
註解: ユダヤ人らは死を肉体の死と考え、またアブラハム、預言者らを伝統的に価値付けていた。ゆえにイエスが語り給える永遠の生命につきて解することができず、またイエスの霊的価値が遙かにアブラハムらの上にあることを覚らなかった。霊的事実に対して盲目なるものが宗教上の権力を握っていることほど大なる禍はない。かくして彼らは最後に「汝はおのれを誰とするか」との問いに対する答をイエスの口より得てこれをもって彼を訴うるの口実とせんとしていることが見られる(25節)。
8章54節 イエス
口語訳 | イエスは答えられた、「わたしがもし自分に栄光を帰するなら、わたしの栄光は、むなしいものである。わたしに栄光を与えるかたは、わたしの父であって、あなたがたが自分の神だと言っているのは、そのかたのことである。 |
塚本訳 | イエスが答えられた、「もしわたしが自分に栄光を帰するなら、そんな栄光はなんにもならない。わたしに栄光を下さるのはわたしの父上で、あなた達が『われわれの神だ』と言っている方である。 |
前田訳 | イエスは答えられた、「わたしが自ら栄化するなら、わが栄光はむなしい。わが父こそわたしを栄化したもう。あなた方がわれらの神といっているその方である。 |
新共同 | イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。 |
NIV | Jesus replied, "If I glorify myself, my glory means nothing. My Father, whom you claim as your God, is the one who glorifies me. |
註解: 前節末尾の質問はユダヤ人らの心中に「イエスは己に栄光を帰しているゆえ赦すべからざる冒涜者である」との下心を含んでいることをイエスは看破し給いてこの答を為し給うた。すなわち「我に栄を帰するは自分ではなく汝らの父と自称するその神である。ゆえにもし汝ら我を信じないならば汝ら自身に矛盾しているのである」との意である。父がいかにしてイエスに栄光を帰し給うかについてはヨハ1:14、ヨハ2:11、およびヨハ7:39引照を見よ。
8章55節
口語訳 | あなたがたはその神を知っていないが、わたしは知っている。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。しかし、わたしはそのかたを知り、その御言を守っている。 |
塚本訳 | あなた達はその方を知らない。わたしは知っている。もしわたしが『知らない』と言えば、あなた達と同じく嘘つきになろう。わたしはその方を知っており、またその言葉を守っている(からだ)。 |
前田訳 | あなた方は彼を知らない。しかしわたしは知っている。もしわたしが彼を知らないというなら、あなた方に似てうそつきになろう。しかしわたしは彼を知り、彼のことばを守っている。 |
新共同 | あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。 |
NIV | Though you do not know him, I know him. If I said I did not, I would be a liar like you, but I do know him and keep his word. |
註解: ユダヤ人らは自ら神を知りかつその言を守っていると誤信しつつ実は神を知らず。その言を守らない。神を知ることがユダヤ人らの考うる処といかに異なっていたかを見よ。イエスはこれを純粋に霊的の事物として取扱い給うた。唯一神に対する信仰を告白していたユダヤ人を「神を知らず」と断定し給えるその洞見は驚くべきである。而してイエスはこの点において彼らの正反対である。ゆえにイエスが父を知ると言い給うともそれは偽りではなく真実である。知らずと言わばかえって偽善者となり給う。ゆえにイエスの自証は自己に栄を帰するためではなく唯事実を語り給うたに過ぎない。
8章56節
口語訳 | あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。 |
塚本訳 | あなた達の父アブラハムは、生きてわたしの日、(わたしが来て神の契約を成就するその日)を見ることを、楽しみにしていた。そして(実際)それを見て、喜んだ。」 |
前田訳 | あなた方の父アブラハムはわが日を見るのを楽しみにしていた。そしてそれを見てよろこんだ」と。 |
新共同 | あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」 |
NIV | Your father Abraham rejoiced at the thought of seeing my day; he saw it and was glad." |
註解: 「我が日」はキリストの地上に顕われ給う日であって、アブラハムは「汝の裔によりて天下の民皆福祉を得べし」(創22:18)との約束を信じてその裔 なるキリストの顕われ給う日を見んことを楽しみにして期待し、今またアブラハムはパラダイスにおいて(M0、G1、L1、T0)キリストの地上に来り給えることを見て喜んでいる。かく言いてイエスはユダヤ人の始祖アブラハムの全希望、全歓喜はみな己に懸かっていることを示して、彼らよりその虚しき誇りを奪い取り、また彼らがアブラハムのごとくにこれを喜ばないことを責め給うた。
辞解
[楽しみ] agalliasthai は「待望んで非常に楽しみにする」こと。
[且これを見て] 過去動詞を用いている。イエスは死後の世界の存在を知り、かつその状態をも認識し給うものと見なければならない。ルカ16:22以下。
8章57節 ユダヤ
口語訳 | そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。 |
塚本訳 | するとユダヤ人がイエスに言った、「君はまだ五十にもならないのに、アブラハムに会ったのか。」 |
前田訳 | ユダヤ人は彼にいった、「あなたはまだ五十歳にもならないのにアブラハムを見たのか」と。 |
新共同 | ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、 |
NIV | "You are not yet fifty years old," the Jews said to him, "and you have seen Abraham!" |
註解: ユダヤ人は再びイエスの言を不可能事として嘲弄的の質問を発している。「千余年前のアブラハムを五十にも足らぬ汝が如何で見ることができようか。」「五十歳」はイエスが実際より年老いて見え給うたのではあるまい。五十は人間の完成期であるとされていたことから(民4:3、民4:39、民8:24以下)「未だ老人の部にも入らないのに」との意味である。
8章58節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。 |
塚本訳 | イエスは言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、アブラハムが生まれる前から、わたしはいたのだ。」 |
前田訳 | イエスはいわれた、「本当にいう、アブラハムが生まれる前からわたしはいる」と。 |
新共同 | イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」 |
NIV | "I tell you the truth," Jesus answered, "before Abraham was born, I am!" |
註解: ヨハ1:1、ヨハ17:5参照。ここにイエスは明らかにその絶対永遠の神としての存在を自認し給うた。イエスは「あり給う」のであって創造 られ給うたのではない。かかる存在は唯神より外に有り得ないのであって、イエスはこれによって己を神と等しくし給うた。ユダヤ人の怒るのは必然である。
8章59節 ここに
口語訳 | そこで彼らは石をとって、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。 |
塚本訳 | すると彼らは、(自分を神と同じにすると言って、)石を取ってイエスに投げつけようとしたが、イエスは身を隠して、宮から出てゆかれた。 |
前田訳 | すると彼らは石を取って投げようとしたが、イエスは隠れて宮を出て行かれた。 |
新共同 | すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。 |
NIV | At this, they picked up stones to stone him, but Jesus hid himself, slipping away from the temple grounds. |
註解: イエスの神の子たる自証に対し、ユダヤ人はこれを信ずるか、または信ぜずして彼を涜神者となし、これをレビ24:16により石にて打殺すかの二つより外に進むべき途がなかった。彼らは不幸にしてこの後者を選んだのである。「隠れて」は群衆の中に紛れ込み給えることを意味する。かくして宮を出で仮庵の祭におけるその説教を終え給うた。パリサイ人、祭司らはイエスの居給わざる宮を守ることによりて愚なる迷妄に陥っているのであって、「キリストを逐出し、かくして教会を汚していながら彼らは愚にも教会の虚偽の外形に誇っているのである」(C1)。
要義1 [奴隷と自主]ヨハ8:36。我らの真の自由は神より離れることによってこれを得ることができると考えるのは誤りである。神より解放されるや否や我らは罪の奴隷となり、律法や制度の奴隷となり、伝統の奴隷となるのである。その反対に我ら神に従い、キリストの僕となる時、我らはこれらの凡ての束縛より解放されてキリストに在る自由を味わうことができる。これキリストの御霊が我らに与えられ、これによりて自由に神の御旨を行うことができるからである。真の自由は唯キリストに在る場合のみこれを味わうことができ、一旦キリストを離れる否や我らは直ちに肉に従い悪魔に従い、彼らの束縛の下に呻吟 せざるを得ざるに至るのである。
要義2 [ヨハネの自由とパウロの自由]自由が信仰(すなわち常にキリストの言に居ること─32節)によって得られることはパウロが常に熱心に繰返している思想である。ロマ書6−8章、ガラテヤ書全体はこのことを最も明白に論じているのである。この点においてもまたヨハネの信仰とパウロの信仰とが全く一致していることを見るのであって、ヨハネは唯これを異なれる様式の下に言い顕わしたに過ぎない。彼らの一致は用語や理論の一致ではなく、体験の一致であった。
要義3 [イエスとユダヤ人との対照]ヨハネは最も鮮やかにこの対照を記載している。イエスの住み給う世界は真実と真理の神の国、霊の世界、愛の家であった。霊による真のイスラエル、霊によるアブラハムの子孫であった。これに対しユダヤ人の住む世界は虚偽の支配する悪魔の国、形式と伝統と、これを宿す肉とが支配し、霊のことに対する無理解の漲 っているこの世界、憎悪と殺意とに充てる罪の家であった。肉によるイスラエル、肉によるアブラハムの子孫が彼らの主張であった。この二者の間にいかにしても相容るべからざる間隙がある。イエスの宗教は絶対にこれらを超越せる霊界の宗教であった。パウロもヨハネもペテロもみなこのイエスの宗教を祖述したのである。