第1テサロニケ書第1章
分類
1 挨拶 1:1
口語訳 | パウロとシルワノとテモテから、父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ。恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 |
塚本訳 | パウロとシルワノとテモテから、手紙を父なる神と主イエス・キリストとに在るテサロニケ人の教会に遺る。願わくは恩恵と平安とが君達(と共)にあらんことを。 |
前田訳 | パウロとシルワノとテモテから、父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の集会(エクレシア)へ。恩恵と平安があなた方にありますように。 |
新共同 | パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。 |
NIV | Paul, Silas and Timothy, To the church of the Thessalonians in God the Father and the Lord Jesus Christ: Grace and peace to you. |
註解: この三人はパウロの第二伝道旅行において同時にテサロニケに到り、始めてその地に福音を伝えた(使15:40。使16:1)。そしてシルワノ(またの名はシラス)はパウロと共にピリピおよびテサロニケにおいて迫害された(使16:1以下。使17:15以下)。テモテは後進年少の故に最後に録される。パウロに使徒の称呼を用いないのはパウロを直接知っている親しい教会には、これを用うる必要がないからである。謙遜のためまたは新設教会に対する遠慮のため等ではない(ただしガラ1:1、Tコリ1:1、Uコリ1:1等が例外的であるのは、パウロの使徒職に反対する者が有ったからである)。
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註解: パウロ書簡に通有の形式であるけれども各書簡によりそれぞれ異なる変化を与えているのは、パウロがこれを無意味に用いていない証拠である。本節の場合テサロニケの教会が極めて順調なる発達を遂げ、何ら特別の指示を要せざりしことを示す。
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註解: ロマ1:7註参照。
分類
2 歴史的部分 1:2 - 3:13
2-1 パウロとテサロニケ教会 1:2 - 2:16
2-1-イ パウロの感謝 1:2 - 1:4
1章2節 われら
口語訳 | わたしたちは祈の時にあなたがたを覚え、あなたがた一同のことを、いつも神に感謝し、 |
塚本訳 | 私達は祈りの中で君達のことを口にする度毎に、いつも君達一同のことで神に感謝している。 |
前田訳 | われらは祈りのおりにあなた方を覚え、つねに皆さんのことを神に感謝します。 |
新共同 | わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。 |
NIV | We always thank God for all of you, mentioning you in our prayers. |
註解: パウロ書簡はほとんど凡ての場合冒頭の挨拶についで、神に対する讃美または感謝の語を発するのを常とする。パウロはテサロニケ教会の人々の信仰の状態を思う毎に感謝にたえざるものがあった。その信仰の状態は次に録さるごとくである。なお本節より3:13に至るまでパウロは自己およびシルワノ、テモテとテサロニケの信徒との関係を示さんがために交互にこの両者の状態を録していることに注意すべし。すなわち1:2−4。6−9a。2:13−16。3:6−10はテサロニケの教会に関し、その他はパウロらに関する記事である。
口語訳 | あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している。 |
塚本訳 | 私達は私達の神また父の前に私達の主イエス・キリストによ(って君達が表してい)る、君達の信仰の働きと愛の労苦と希望の忍耐とを、絶えず思い出しているのである。 |
前田訳 | 絶えず父なる神のみ前にあなた方の信仰のわざと愛の労苦と希望の忍耐とを思います。これらはわれらの主イエス・キリストへのわざです。 |
新共同 | あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。 |
NIV | We continually remember before our God and Father your work produced by faith, your labor prompted by love, and your endurance inspired by hope in our Lord Jesus Christ. |
註解: 働かない信仰、単なる言葉や教理のみの信仰は信仰ではない。信仰はキリストに在る生命であり、生命は活動する。テサロニケ人の信仰はかかる信仰であった。
註解: 愛は労苦する。すなわち愛することにより心の中に苦労があるのみならず、他人の労苦を除きその弱きを助けんがために労苦するのが愛の特徴である。
註解: 主イエスの再臨により、彼を信ずるものは聖化しまたは復活して永遠の生命に入り(Tテサ4:16、17。Tコリ15:52)、万物を支配するに至ることの希望を有つのがキリスト者の特徴であり、この希望の故にあらゆる困難に耐え得るのがテサロニケ教会の状態であった。なお以上においてパウロは信、望、愛の三者を併記していることに注意すべし(Tコリ13:13。コロ1:4、5)。
辞解
「主イエス・キリストに対する」を信、愛にも関連せしむる説あれど(L2、W2)不適当なり。
註解: 絶えず憶 いつつ「神に感謝す」(2節)にかかる。以上の信望愛の発露は神の恩恵に外ならざる故、パウロはこれをテサロニケ人の功績に帰せず、神の御前にこれを憶 えて感謝しているのである。
辞解
「絶えず」を前節の「汝らを憶 えて」に関連せしむる説あり(L1、A1)、現行訳を採る(M0、B1、L2)。
1章4節
口語訳 | 神に愛されている兄弟たちよ。わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている。 |
塚本訳 | 神に愛せられる兄弟達よ、君達が(神に)選ばれた者であることを私達は知っている。 |
前田訳 | 神に愛される兄弟たちよ、あなた方が選ばれたことがわかっています。 |
新共同 | 神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。 |
NIV | For we know, brothers loved by God, that he has chosen you, |
註解: テサロニケ教会の信、望、愛の働きの優れたることを思いて感謝するのみならず(3節)、さらに進んで考えるならば、それは神の選びのためであることを知るので一層パウロの感謝の念を強くしたのである。
辞解
[選ばれたる事] eklogê で選ばれし事実よりもむしろ神の選びの状態を示すと見るを可とす(M0)。
1章5節 それ
口語訳 | なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである。 |
塚本訳 | 何故なら、私達の福音が君達の中に入ったのは、ただ言だけでなく、また能力と聖霊と大なる確信とによった(のであって、これこそ君達が選ばれている証拠である)からである。──そして私達が君達の間で君達のために如何に行動したかは御承知の通りである。 |
前田訳 | われらの福音がそちらに達したのは、たんにことばによるのでなく、力と聖霊と深い信頼によるからです。われらがそちらであなた方のためにどのようにふるまったかご承知のとおりです。 |
新共同 | わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。 |
NIV | because our gospel came to you not simply with words, but also with power, with the Holy Spirit and with deep conviction. You know how we lived among you for your sake. |
註解: 私訳「そは我らが汝らの中にありて汝らのために如何なる者となりしかは汝らの知るごとくにして、我らの福音は言のみにあらず、能力と聖霊と大なる確信とをもって汝らに至れるが故なり」。テサロニケの信徒が神の選びによれる者たるの証拠として、パウロは彼らが福音を伝えし有様の如何を掲げている。すなわちパウロ、シルワノ、テモテらはその福音を力なき空虚なる言をもってではなく、テサロニケの人々の心を動かす能力をもって伝え、また人間の熱心や熱情をもってではなく聖霊によりて動かされて伝道したのであり、また全心全霊を働かしむる確信をもって為したのであった。これらはみな神が働き給うたのであり、このことがテサロニケの信徒を神が選び給える証拠であった。そしてパウロらがテサロニケの人々に前記のごとき伝道を為さんとして、彼らのために「如何なる者となったか」、すなわちTテサ2:3−12のごとき者となった事実は彼らの知っているとおりであり、これによりてパウロらの伝道の如何を知り得るのである。パウロらはこれをテサロニケの信徒の選びの証拠と考えた。
辞解
「如何なる行為を為ししか」と訳する説もあるけれどもむしろ私訳のごとくに見るを可とす、行為はパウロらの実状の一部である。
1章6節 かくて
口語訳 | そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり、 |
塚本訳 | 且つ君達は大なる患難の中にあっても、聖霊の賜う喜びをもって(私達の伝える)御言を受け容れて、私達と主(キリスト)との模倣者となり、 |
前田訳 | あなた方もわれらと主とに学ぶものとなり、多くの苦しみの中に聖霊のよろこびを持って、みことばをお受けでした。 |
新共同 | そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、 |
NIV | You became imitators of us and of the Lord; in spite of severe suffering, you welcomed the message with the joy given by the Holy Spirit. |
註解: 6−10節はテサロニケの信徒の入信および信仰堅持の状態を陳ぶ、その第一の特徴は彼らが大なる迫害を受けつつも(Tテサ2:14。Tテサ3:3−5)聖霊によりて喜悦 びて御言を受け、福音を信じたことであった。この点において彼らはパウロらの模倣者、否、主イエスの模倣者となった。これらもみなその福音の故に迫害されたのであった。
辞解
[聖霊による喜悦 ] 一般の人にとりては最も不幸と思われる境遇も、聖霊を与えられている者にとりては喜悦 となる。
[我ら及び主に] パウロはまず「我らに」と言いてなお物足らず、さらに「また主に」と言ったので、この場合、テサロニケの教会の迫害とこれに耐えし態度とを賞揚したのであった。
模倣についてはUテサ3:7、Uテサ3:9。Tコリ4:16。Tコリ11:1。ピリ3:17。エペ5:1。ガラ4:12等を見よ。なお本節をも前節に連結して、4節の「選び」の証拠の一つと見る説あり、やや生硬 なり。
1章7節
口語訳 | こうして、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。 |
塚本訳 | 遂にマケドニヤとアカヤとにおける信者全体の模範となったのである。 |
前田訳 | それで、マケドニアとアカイアのすべての信徒の模範におなりでした。 |
新共同 | マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。 |
NIV | And so you became a model to all the believers in Macedonia and Achaia. |
註解: パウロに效 う者はパウロの中に生きるキリストに效 う者であり、また従って他の信者の模範となり、彼らをして效 わしむべき者となる(Uコリ8:1以下)。テサロニケの信徒はかかる状態に在る者であった。
辞解
[模範] typon 「型」。
1章8節 それは
口語訳 | すなわち、主の言葉はあなたがたから出て、ただマケドニヤとアカヤとに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので、これについては何も述べる必要はないほどである。 |
塚本訳 | というのは、主の御言は君達から出て、ただマケドニヤとアカヤとに響いたばかりでなく、神に対する君達の信仰(が篤いと言う評判)は至る所に知れ渡っているので、私達は(今更)何も言う必要はない。 |
前田訳 | あなた方のところから主のことばが響きわたり、マケドニアとアカイアばかりか、至るところあなた方の神への信仰が伝わりました。それで、われらは何もいう必要がありません。 |
新共同 | 主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。 |
NIV | The Lord's message rang out from you not only in Macedonia and Achaia--your faith in God has become known everywhere. Therefore we do not need to say anything about it, |
註解: テサロニケを中心に「主の言」すなわち福音は各地に響き渡った。すなわちマケドニヤ、アカヤのみならず、諸方(原語凡ての場所)に広まった。また同時にテサロニケの信徒の信仰のことも各地に伝わって有名となり、各地の人の信仰を励ますこと多大であった。
辞解
文章の構造が不完全なる点に注意すべし、おそらくパウロがしばしば為すごとく、文章の終りに至りてさらに新たなる主語を附加したのであろう(A1)。唯、この文章を二分し「そは主の言、汝らより響き出でしが故にして、神に対する汝らの信仰は啻 にマケドニヤおよびアカヤのみならず凡ての処に弘まりたり」と読むことによりて構文上の困難を避け得るけれども(M0)、意味の上には力を失う。
されば
註解: その理由は次節を見よ。
1章9節 (そは)
口語訳 | わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、 |
塚本訳 | というのは、私達がどんな風にして君達の所で受け入れられたか、また君達が如何にして偶像から離れて(真の)神に立ち帰り、活ける真の神に仕えているか、 |
前田訳 | 彼ら自身がわれらについていっています。ことはわれらがどのようにそちらをおとずれ、あなた方がいかにして偶像から神に帰り、生きるまことの神に仕え、 |
新共同 | 彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、 |
NIV | for they themselves report what kind of reception you gave us. They tell how you turned to God from idols to serve the living and true God, |
註解: 「人々」はマケドニヤ、アカヤ、その他の凡ての処の人々を指す。彼らはパウロらの伝道の状態を一般に言いふらしている。
辞解
[汝らの中に入りし状] 直訳は「如何なる接近を汝らに対して持ちしか」となる。「如何に歓んで迎えられしか」との意味に解するを可とす。パウロらの伝道状態よりもテサロニケの信徒の福音を受くる状態に重きを置く方が適当である。
また
註解: 直訳「偶像より神に転向し」。異邦人との信仰の差異を示す。彼らが信ずるに至った神は、手にて造れる死物なる虚しき偶像ではなく活ける神、真正の神である。
1章10節
口語訳 | そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。 |
塚本訳 | そして如何に天から下り給うその御子を待ち望んでいるかを、人々が自分で言い弘めているからである。そしてこの御子こそ神が死人の中から甦らせ給うたお方、すなわち私達を来らんとする御怒りから救い出し給うイエスである。 |
前田訳 | み子を天からお待ちするようになったかについてです。神はみ子を死人の中からお起こしでした。われらを来たるべき怒りからお救いになるイエスをです。 |
新共同 | 更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。 |
NIV | and to wait for his Son from heaven, whom he raised from the dead--Jesus, who rescues us from the coming wrath. |
註解: キリスト者とユダヤ教の信仰との差別を示す。すなわちテサロニケの信徒の信仰の重要なる特徴は神の御子イエスが天より降り給うこと、すなわちイエス・キリストの再臨を待望むことである。神の御子たる証拠はこのイエスを神が死人の中より甦らせ給えることであり、そしてこの神の御子イエスの働きは、来らんとする神の怒り、すなわち最後の審判において我らの上に降るべき神の怒りより我らを救い給うことである。
辞解
[救い出す] 現在分詞でこの救いは現在においてすでに事実となっていることを示す。
[待ち望む] anamenô は新約聖書に唯一回用いられている語。
要義1 [信、望、愛とその働き]信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐は凡てのキリスト者の持つべき信仰態度である。この働き、労苦、忍耐の有無如何によって、そのキリスト者の信仰生活の完全さ不完全さを知ることができる。信仰を口にしつつ、信仰的に行動することができざるもの、愛々と称しつつ他人のために労苦せざるもの、望みを持つと唱えつつ患難に際して忍耐し得ざるものは真のキリスト者ではない。
要義2 [福音伝道の要諦]言のみで福音が伝えられるように考えるのは大なる誤謬である。勿論言が無ければ福音を説くこともこれを聞くこともできないけれども、言のみでは空虚である。伝道に必要なるは第一に能力である。この能力は言の能力のみではなく、生活態度そのものに能力があることであり、第二は聖霊であって、聖霊の導きなしには如何に人智を搾り出しても真の伝道を為すことができない。第三は確信であって、自ら信じないことを人をして信ぜしむることができない。この三要素の一つを欠いても伝道者としての資格がない、いわんやこれらのすべてを欠く場合は、その伝道は全く無力である(5節)。
要義3 [模範的信者]6−10節にあるテサロニケ教会の有様は、まことに模範的キリスト者の姿であるということができる。すなわち彼らの信仰は彼らをして大なる患難の中にも聖霊による喜悦を全うせしめ、また彼らの信仰は諸方に響き渡りてキリスト者の間は勿論、その以外にもその好評を伝播し、これに伴いて主の言なる福音もまた四方に広まり、そして彼らの信仰が如何に異邦人の信仰と異なり、またユダヤ人の信仰と異なるかにつきて人々の口によって伝えられるに至っていることは、その信仰の中心点が非常に明確に把握せられ、表顕せられていたことを示す。要するにこれらの諸点は今日といえどもそのままに模範的キリスト者の要素をなしていることを見るのである。
第1テサロニケ書第2章
2-1-ハ パウロらの伝道態度 2:1 - 2:12
註解: 1:2以下と同様パウロは交互に自己の伝道態度とテサロニケ教会の状態とを記載す、すなわち1−12節はパウロらのテサロニケにおける伝道の態度如何を示し13−16節はテサロニケの信徒が如何に熱心にこれを受けしかを示す。
2章1節
口語訳 | 兄弟たちよ。あなたがた自身が知っているとおり、わたしたちがあなたがたの所にはいって行ったことは、むだではなかった。 |
塚本訳 | まことに、(愛する)兄弟達よ、私達の(この前の)君達訪問が(決して)空(な訪問)でなかったことは、君達自身が知っている。 |
前田訳 | 兄弟たちよ、ご自身ご承知のとおり、われらがあなた方をおとずれたことはむだではありませんでした。 |
新共同 | 兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。 |
NIV | You know, brothers, that our visit to you was not a failure. |
註解: Tコリ1:9の前半に対応して「汝ら自身これを知り居る」ことを陳べて、彼らの記憶を新たにせんとしているのである。「空しからず」は「不結果に終らなかった」というのではなく、「内容なきものにあらず、Tコリ1:5のごとく能力とせ聖霊と大なる確信に充ちていた」という意味である。
辞解
[空し] kenos。Tコリ15:17辞解参照。
2章2節
口語訳 | それどころか、あなたがたが知っているように、わたしたちは、先にピリピで苦しめられ、はずかしめられたにもかかわらず、わたしたちの神に勇気を与えられて、激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語ったのである。 |
塚本訳 | 否、君達が知っている通り、私達は(君達の所に行く)前にピリピで苦しめられ、虐待されたにも拘らず、私達の神によって勇気を得、苦しい戦いをしながら君達に神の福音を語ったのである。 |
前田訳 | それどころか、ご承知のようにピリピで先に苦しめられ、はずかしめられた後に、われらは神によって勇気を得、熱心に神の福音をあなた方に語りました。 |
新共同 | 無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。 |
NIV | We had previously suffered and been insulted in Philippi, as you know, but with the help of our God we dared to tell you his gospel in spite of strong opposition. |
註解: 前節の「空しからず」の証拠としてピリピにおける迫害とその後テサロニケにまで及び来れる迫害との中にありて苦闘しつつ信仰によりて福音を彼らに語ったことを陳べている。パウロらの伝道は実に生命がけの伝道であり、空虚なる自己宣伝ではなく、いわんや自己の名誉や利慾のためではなかった。
辞解
[前に] 「苦難を受く」と結合せる propaschê の一字。他に用例なし。普通の人間ならばこの苦難のためにその伝道を中止したかも知れなかったのに、パウロは何事もなかったかのごとくテサロニケにおいて伝道を始めた。
[紛争] agên はむしろ「苦闘」と訳するを可とす。これを「苦悩憂慮」の意味に解すること(L2)はやや適切ではない。
[「我らの神、神の福音」等] 殊更に「神」を指摘しているのは異邦において異教の神とに対する関係上殊に強調したのであろう。
2章3節
口語訳 | いったい、わたしたちの宣教は、迷いや汚れた心から出たものでもなく、だましごとでもない。 |
塚本訳 | 然り、私達は(或る人達が言うように、)迷いからや、不潔(な考え)からや、また奸計によっては福音を説かなかった。 |
前田訳 | われらの勧めは迷いや汚れから出ず、あざむきでもありません。 |
新共同 | わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。 |
NIV | For the appeal we make does not spring from error or impure motives, nor are we trying to trick you. |
註解: パウロらの宣教の態度は、世にありふれた宗教家や、自己宣伝者流のごとく、迷妄より出でずして明確なる確信より出で、虚栄、貪慾、売名等のごとき汚穢 し動機や目的より出でず、神のために真理そのものを伝えているのであり、詭計 のごとき卑しき手段方法によらずして、単純に正直にこれを伝えていたのである。
辞解
[勸 ] paraklêsis は不完全なる者に対しては「勧 」となり、弱き者、悩める者に対しては「慰 」の意味となる。本節の場合前者であって、結局一般に福音の宣伝の意味となる。なおパウロらの伝道を迷妄、汚穢、狡猾等と非難する者があったのに対する反駁 であると解する学者もあるけれども、明瞭にかかる事実が有った形跡がない。むしろ宗教家と称されるものが一般に陥り易き弊害を考え、それとパウロらとを比較したのであろう。
2章4節
口語訳 | かえって、わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである。 |
塚本訳 | 私達は神に(心の中を)験され(た後、選ばれ)て福音を託されたのであるから、そのように──人間の気に入ろうとせず、(ただ)私達の“心を験し給う”神の御意に適うように──語るのである。 |
前田訳 | 福音をゆだねられるよう神によって見定められたとおりに、われらは語っています。人間にでなくわれらの心を見定めたもう神によろこばれるようにです。 |
新共同 | わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。 |
NIV | On the contrary, we speak as men approved by God to be entrusted with the gospel. We are not trying to please men but God, who tests our hearts. |
註解: パウロらの福音宣伝は、神より試験されて伝道者たる資格ありと認められた結果(嘉 せられて)の行動であるために、常に神を仰ぎ瞻 つつ為されたのであり、人の顔を顧みなかった。彼に多くの迫害が及んだのもこのためである。人を喜ばせることは伝道者にとりて大なる誘惑であるが、彼らにとりては神を喜ばせ奉つることが唯一の目的であった。これ神より福音を委ねられたからである。そしてこの神は人の心を試験し、心の中の凡ての状態を鑒 給う神である。
辞解
[嘉 せられ] dokimazê の受動態を用う。試験の結果合格せること、または金銀を吹き分けて純分のみを残すこと等に用う。神の試験を経て福音伝道に適せる者と認められしこと。「心を鑒 る」の鑒 るも同一の語を用う。心を試験することを意味す。
2章5節
口語訳 | わたしたちは、あなたがたが知っているように、決してへつらいの言葉を用いたこともなく、口実を設けて、むさぼったこともない。それは、神があかしして下さる。 |
塚本訳 | 君達が知っている通り、私達はかつて(一度も)お世辞を使ったこともなく、また口実を設けて貪ったこともない──(これについては)神が証人であり給う。 |
前田訳 | ご承知のように、われらはへつらいのことばも欲望への口実も用いませんでした。神が証人です。 |
新共同 | あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。 |
NIV | You know we never used flattery, nor did we put on a mask to cover up greed--God is our witness. |
註解: 人を喜ばせるには諂諛 の言が必要であり、人気を得んとして往々この弊に陥るものであるが、パウロらは決してかかることをせず、
註解: 仮面を被りて慳貪 を為すようなることをしない。真理を述ぶるごとき顔をしながら慳貪 を為すごとき下劣の行為はパウロらの為し能わざる処であった。生活のために伝道する者は往々にしてこの弊に陥る。
辞解
[事によせて] 「仮装をして」の意。
(
註解: 直訳「神は証人なり」。心の中の事実は人間の目には見えない故、パウロは神を証人として呼び出している。
2章6節 キリストの
口語訳 | また、わたしたちは、キリストの使徒として重んじられることができたのであるが、あなたがたからにもせよ、ほかの人々からにもせよ、人間からの栄誉を求めることはしなかった。 |
塚本訳 | また私達は君達からも、他の人からも、人間の名誉を求めなかった。 |
前田訳 | あなた方からも他の人からも、人間からの栄光を求めませんでした。 |
新共同 | また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。 |
NIV | We were not looking for praise from men, not from you or anyone else. As apostles of Christ we could have been a burden to you, |
註解: パウロらはキリストの使徒(広義に用いてシルワノ、テモテを含む)である以上はそれに相応せる尊敬を受くる権利があった。またかくせられんとすれば、多くの人はパウロらに栄光を帰したことであろう。然るに彼らは人よりの誉れ(栄光 doxa)を求めなかった。従ってパウロらの使徒としての価値を認識する霊的能力なきものはこれを軽蔑した。それにもかかわらずかかる態度を取ったのはパウロらの動機の純粋さを示す。
2章7節
口語訳 | むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。 |
塚本訳 | キリストの使徒として重んぜられ得るに拘らず! 否、私達は君達の間で、あたかも母がその子を慈しみ育てるように、優しかった。 |
前田訳 | しかもキリストの使徒として重きをなしえたのです。実際われらはあなた方の間で柔和なこと、母がおのが子を養うようでした。 |
新共同 | わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、 |
NIV | but we were gentle among you, like a mother caring for her little children. |
註解: 適切なる形容である。牝鶏がその雛を翼の下に集めてこれを育て、養い、保護愛撫するがごとき態度をもって(B1)パウロらはテサロニケの信徒を育成した。
辞解
[優しき] êpios は親が子に、君が民に対するごとき場合の優しさを指す。
[育てやしなふ] thalpê は本来「暖める」から来た文字で上記のごとき意味をも含む。「父」よりも「母」をもって譬えることがこの場合適当であるが、「父」をもって譬えている場合もある(11節、Tコリ4:15。ピレ1:10)。
2章8節 かく
口語訳 | このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。 |
塚本訳 | 私達はこんなに君達を恋い慕っていたので、ただ神の福音ばかりでなく、自分の生命までも与りたいと思った──君達は私達の愛人になったのだから! |
前田訳 | かくもおなつかしいので、われらは神の福音だけでなく、自分のいのちをも差しあげたくなりました。それほどお慕わしくおなりでした。 |
新共同 | わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。 |
NIV | We loved you so much that we were delighted to share with you not only the gospel of God but our lives as well, because you had become so dear to us. |
註解: テサロニケの信徒に対するパウロらの熱愛と、その結果、彼らの生命をすらテサロニケの信徒のためにささげることを喜びとしていたこととを示す。伝道はかかる愛をもって為さなければならぬ。肉の親子にも優れる聖なる愛情が生ずるのが、信仰の世界の事実でなければならぬ。
辞解
[與ふ] metadidêmi は分け与える意味、自己の所有する生命をも他人と分有すること。
[願へり] eudokeê は「悦びとせり」との意。
2章9節
口語訳 | 兄弟たちよ。あなたがたはわたしたちの労苦と努力とを記憶していることであろう。すなわち、あなたがたのだれにも負担をかけまいと思って、日夜はたらきながら、あなたがたに神の福音を宣べ伝えた。 |
塚本訳 | 兄弟達よ、私達の労苦と骨折りを(まだ)憶えているであろう。私達は君達の誰にも厄介をかけまいとして夜も昼も働きながら、君達に神の福音を伝えたのであった。 |
前田訳 | 兄弟たちよ、われらの労苦と励みをお忘れなく。どなたにも負担にならないよう、夜昼働いてあなた方に神の福音を説きました。 |
新共同 | 兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。 |
NIV | Surely you remember, brothers, our toil and hardship; we worked night and day in order not to be a burden to anyone while we preached the gospel of God to you. |
註解: 前節をさらに具体的に説明す(gar)。パウロの犠牲的精神とテサロニケの信徒に対する熱愛とは、労働をもって衣食していた彼らに(Tテサ4:11、12)、パウロらの生活費をも献げしむるに忍びず、夜昼労働し天幕を造りつつ(使18:3)自分らの生活を支えた。この労苦をテサロニケの信徒らは記憶しているはずである。
辞解
[記憶す] 「記憶せよ」(L2)「記憶するや」(W2)等とも読む説があるけれども現行訳のごとくにて宜し。
[累 はす] epibareê は重荷を負わすること、この場合生活費の負担をかけることを指す。
2章10節 また
口語訳 | あなたがたもあかしし、神もあかしして下さるように、わたしたちはあなたがた信者の前で、信心深く、正しく、責められるところがないように、生活をしたのである。 |
塚本訳 | 君達信者に(向かって)私達が如何に敬虔に、正しく、また非難の打ち処なく振舞ったが、 |
前田訳 | あなた方、否、神も証人です。われらは敬虔に、正しく、とがなくあなた方信徒に対してふるまいました。 |
新共同 | あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。 |
NIV | You are witnesses, and so is God, of how holy, righteous and blameless we were among you who believed. |
註解: 単に労働の労苦を嘗めただけではなく、また正義と聖潔とがパウロらの生涯であった。このことはテサロニケの信徒も神も共に証人となり得るほど確かな事実であった。
辞解
[潔く] hosiês は「聖く」で神に対する聖さを指す、この場合神の御意にかなう行為のこと、「聖く」は神に対し、「正しく」は人に対し、「責むべき所なく」は自己に対するものと解する説あれど(B1)不可なり。凡てテサロニケの信徒に関するものと見るべきである。
2章11節
口語訳 | そして、あなたがたも知っているとおり、父がその子に対してするように、あなたがたのひとりびとりに対して、 |
塚本訳 | 如何に君達一人一人を、ちょうど父が子に対するように──このことは君達が(よく)知っているが── |
前田訳 | ご承知のように、あなた方めいめいに、父のおのが子に対するようにしました。 |
新共同 | あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に |
NIV | For you know that we dealt with each of you as a father deals with his own children, |
2章12節 (
口語訳 | 御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである。 |
塚本訳 | あるいは勧め、あるいは励まし、あるいは厳命して君達をその御国と栄光とに召し給うた神の子らしく歩かせるようにしたかについては、君達(自身)がその証人であり、また神が証人であり給う。 |
前田訳 | あなた方が神にふさわしく歩むよう教え、励まし、いましめたのです。神はあなた方を彼の国と栄光へとお招きです。 |
新共同 | 呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。 |
NIV | encouraging, comforting and urging you to live lives worthy of God, who calls you into his kingdom and glory. |
註解: 単に一般的道徳に関することのみならず(前節)、殊に信仰生活に関する伝道については、パウロらは非常なる深き愛をもってテサロニケの信徒の一人一人に対して熱心にすすめ、彼らをして「御国と栄光とに彼らを招き給う神に相応しく」歩ましめんとした。かくしてテサロニケの信徒をして神の国と神の栄光とに与るものたらしめんとしたのであった。パウロの伝道の理想は絶大であった。
辞解
[神の心に適ひて] 「神に相応しく」で、神の召しを受けしものは、召し給う神に値している者とならなければならぬ。
要義 [伝道の要諦]テサロニケにおいてパウロらの取りし伝道の態度は、伝道に従事する者の模範とすべき多くの点を含んでいる。第一は、伝道の相手方を熱愛すべきことである(7、8、11節)、愛なき伝道は結局空虚である。第二は、如何なる迫害にも耐えて福音を伝えることである(2節)。信仰に迫害は附き物である。第三は、福音に対する正しき信仰の必要である(3節)。迷妄を伴う場合たといキリストの名において伝道するも、それは禍である。第四は、動機の純潔にして行動の正しきことである(3、5、6、10節)。不純なる動機、不正なる手段をもっては如何に成功するも、その伝道は結局失敗である。第五は、人を喜ばせんとせず神を喜ばせんとすることである(4、6節)。伝道者に対する大なる誘惑は人を喜ばせんとすることである。第六は、独立自活の道を取ることである(9節)。生活の源泉を他人に握られていることは伝道の自由の大なる妨害である。第七は、伝道の熱心である(12節)。寸時をも空しくせずして伝道するにあらざれば、真の伝道はできない。かく考え来たれば、パウロらがテサロニケにおいて為せる伝道の態度はまことに凡ての伝道者の模範であるということができる。
2章13節 かくてなほ
口語訳 | これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として—事実そのとおりであるが—受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。 |
塚本訳 | この故にまた私達が絶えず神に感謝しているのは、君達が私達から神の言を聞いた時、(これを)人間の言とせず、事実通り神の言として受け、それが(今)君達(テサロニケの)信者の間に(強く)働いていることである。 |
前田訳 | それゆえわれらも絶えず神に感謝しています。われらが神のことばとしてお伝えしたものを人間のことばとしてでなく、真に神のことばであるとしてお受けとりでした。これはあなた方信徒の間に力となっています。 |
新共同 | このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。 |
NIV | And we also thank God continually because, when you received the word of God, which you heard from us, you accepted it not as the word of men, but as it actually is, the word of God, which is at work in you who believe. |
註解: 私訳「かつ、我らもまた絶えず神に感謝することは、汝ら我らより聞ける神の言を受けしとき人間の言〔として〕にあらずして汝ら信ずる者のうちに働く神の言─真に神の言なるが─〔として〕受入れしことなり」。パウロはTテサ1:2の感謝の上にさらに次のことにつきて感謝をささげている。すなわちテサロニケの信者がパウロらの伝えし福音を人間の言と考えず、そのまま神の言と信じたことである。事実それは神の言である故、かく受入れるのが当然ではあるが、これは一般に困難であるのをテサロニケの信徒はかく信じたのであった。この神の言は信ずる者の心の中に働いてこれを育て、力付け、完成せしめる。
辞解
[かくてなほ] kai dia touto は前節末尾(現行訳前節前半)を受けるとするもの(M0)或は「歩むべき事」を受けるとなし、或は1−12節の全体(Z0)を受けると解する等種々の説があるけれどもヨハ6:16。ヨハ7:22その他ヨハネ伝にしばしば用いられる意味に解し、後に来る hoti 以下を受けるものと解すべきであろう。すなわちテサロニケの信徒の福音を受入れしことに対する感謝である。従って私訳のごとくすべきである。「我らもまた」は、他の人々、汝らのみならずの意。私訳に示すごとく「受く」 paralambanê と「受け入る」 dechomai との二つの動詞が用いられているが(現行訳には不明瞭)前者は客観的の事実を指し、後者は主観的の心持を含む。「我らより聞ける神の言」は直訳すれば「神より出づる我らの説教の言」というがごとし。二つの思想の合流である。「人間の言として」の「として」が原文になし、これによりかえってテサロニケの信徒の主観をそのままに表明している。「神の言」も同様なり。
2章14節
口語訳 | 兄弟たちよ。あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となった。すなわち、彼らがユダヤ人たちから苦しめられたと同じように、あなたがたもまた同国人から苦しめられた。 |
塚本訳 | 兄弟達よ、(本当に)君達はユダヤにおけるキリスト・イエスにある神の教会の模倣者となった。というのは、君達も彼らが(同胞)ユダヤ人から受けたと同じ苦しみを同国人から受けたからである── |
前田訳 | 兄弟たちよ、あなた方はユダヤにおけるキリスト・イエスにある神の諸集会にならうものにおなりでした。それは、彼らがユダヤ人から苦しめられたと同じことを、あなた方も同胞からされたからです。 |
新共同 | 兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。 |
NIV | For you, brothers, became imitators of God's churches in Judea, which are in Christ Jesus: You suffered from your own countrymen the same things those churches suffered from the Jews, |
註解: パウロらはテサロニケの教会が同市の異邦人に迫害されるを見てユダヤ殊にエルサレムにおける母教会の状態を思い浮べざるを得なかった。すなわち同国人、同族に誤解され、迫害される点において彼らの間に共通のものがあった。このことを告ぐることによりて、キリスト者が受くる迫害は一般的であって、テサロニケに限られざることを示し、これに由りて彼らを慰むると同時に、次に15、16節にユダヤ人の上に下るべき神の怒りを告ぐることによりてテサロニケの信徒を迫害する者の上に降るべき神の怒りを間接に預言しているとも見ることができる。
辞解
[效 う者] この場合故意に真似た意味ではなく、「似寄りの運命に陥れる者」のごとき意味である。なお本節は前節の理由をなしており(gar)、神の言の働きが迫害によりて証明されることを示す。
[同様に] 「同じことを」で現行訳にこれを欠く。
2章15節 ユダヤ
口語訳 | ユダヤ人たちは主イエスと預言者たちとを殺し、わたしたちを迫害し、神を喜ばせず、すべての人に逆らい、 |
塚本訳 | 主イエスをも豫言者をも殺し、また私達(イエスの福音を伝える者)をも迫害した同胞! 神の御意に適わず、凡ての人に敵意をもち、 |
前田訳 | ユダヤ人は主イエスをも預言者をも殺し、われらを迫害し、神をよろこばせず、すべての人にさからい、 |
新共同 | ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、 |
NIV | who killed the Lord Jesus and the prophets and also drove us out. They displease God and are hostile to all men |
2章16節
口語訳 | わたしたちが異邦人に救の言を語るのを妨げて、絶えず自分の罪を満たしている。そこで、神の怒りは最も激しく彼らに臨むに至ったのである。 |
塚本訳 | 私達が異教人の救いのために伝道することを妨げて、いつも自分の“罪の枡目を充たしている”(あの同胞ユダヤ)人達! しかし(神の)御怒りは(今や)遂に彼らに臨んでいる! |
前田訳 | われらが異教徒にその救いを語るのを妨げて、つねに自らの罪を満たしています。彼らにいつまでも怒りがのぞんでいます。 |
新共同 | 異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。 |
NIV | in their effort to keep us from speaking to the Gentiles so that they may be saved. In this way they always heap up their sins to the limit. The wrath of God has come upon them at last. |
註解: 15節末尾および16節私訳「我らをも迫害し、神を悦ばせず、我らが異邦人に救いを得させんとて語るを拒みて万民に逆らい、かくして常に己が罪を充さんとするなり」。パウロの心中に福音を迫害するユダヤ人に対する義憤が燃え上って来た。そしてユダヤ人に対しその四つの罪を数え上げているのである。(この四つは原文ではみな15節の中に入っている)すなわち(1)イエスおよび預言者を殺したこと、(2)パウロらを迫害すること、(3)神を悦ばせざること(ユダヤ人はキリスト者を迫害することをもって神に仕える所以と考えた。ヨハ16:2)。(4)万民に逆うことである。万民に逆うことの意味は16節の「福音を異邦人に語ることを妨害すること」である。たしかにイエスの福音は万民を救うためのものである故、これを妨害することは万民に逆う所以である。かくのごとくユダヤ人は昔より今日に至るまで常に罪の上に罪を重ね、ついには彼らに定められしその桝目を充たすに至るのである。そして後神の審判は彼らの上に天より下るのである。
註解: パウロはその憤慨の情に燃ゆると共に、神もまたその怒りの情を極端まで到達せしめてい給うことを確信した。神の怒りが何時、如何なる形において顕わるであろうかはここに論及していない。唯神の御心の中においてもはや忍び得ざる程度にまで到達したのであると考えた。
辞解
本節をエルサレム陥落後の挿入と考え、これを理由として本書のパウロの作たることを否定する学者があるけれども不当である。パウロは、忍ぶべからざるユダヤ人の罪の上に神の怒りはすでに臨んでおり、具体的にもそれがやがて顕れるであろうことを直感したのであった。そして約20年後にそれはエルサレムの破壊となり、ユダヤ人の亡国となって表われたのである。
要義1 [神の言としての人の言]テサロニケの信徒はパウロらの言を神の言として受けたとのことであるが(13節)、これは一見人間を神として拝するかのごとくに見えるけれども、実はパウロらが全く神に用いられ、神に動かされ、神の御意を語っていることを知りかつ信じた結果、パウロらの言をそのまま神の言として受けたのであった。これは神を信ずる者の心の中に起る神の人への絶対信頼の心境であって、かくしてのみ真に人の言が神の言なりや否やを知ることができるのである。
要義2 [ユダヤ人の罪]ユダヤ人が神の選民でありながら、預言者を殺し、イエスを十字架につけ、使徒たちを迫害し、十字架の福音を妨害することは、まことに甚だしき矛盾であるといわなければならない。しかしながらそこに神を信ずることの如何に困難であるかが明らかにせられ、これによりて人類の罪が明らかにせられたのである。神の義と愛とを示すがためにはユダヤ人の罪と反逆とが必要であった。ユダヤ人は全人類に代って人類の罪を証明したのである。
要義3 [ユダヤの教会の迫害の例を掲ぐる必要]パウロは何故にユダヤ教会の迫害のことをテサロニケ人に示せるやにつき諸説あれど、最も適切なる解釈は、(1)単に信仰には迫害が附き物なることを示すのみならず、(2)多くの場合同国人より非国民として取扱われること多きこと、(3)そしてこれはテサロニケ人より見て他国人たるユダヤ人の宗教なるが故ではなく、キリスト教に付随する性質であること、その証拠としてユダヤ人自身のキリスト者さえもユダヤ人より迫害されることを見れば、これを知ることができるとの意味である。
2章17節
口語訳 | 兄弟たちよ。わたしたちは、しばらくの間、あなたがたから引き離されていたので—心においてではなく、からだだけではあるが—なおさら、あなたがたの顔を見たいと切にこいねがった。 |
塚本訳 | 兄弟達よ、私達は少しの間、君達から離れていたので──(もちろん)形の上(だけ)のことで、心ではそうではなかったが──それだけ一層熱心に君達に会いたいと思い焦がれた。 |
前田訳 | 兄弟たちよ、しばらく顔では離されていましたが、心では然らずです。それだけますますお顔を見たいひたすらな気持に満たされました。 |
新共同 | 兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。 |
NIV | But, brothers, when we were torn away from you for a short time (in person, not in thought), out of our intense longing we made every effort to see you. |
註解: 私訳「兄弟よ、われら心にはあらで顔にて暫時なんぢらと離別し居りし時、切に願いていよいよ汝の顔を見んことを勉めたり」。パウロらの心はテサロニケの兄弟たちと離別したことはなかったけれども、使17:5−10の事情により、無理にテサロニケを去らなければならなかった。その後間もなく切なる欲求が心に起り、非常に熱心にテサロニケに往こうと努力した。
辞解
[暫く] 直訳「一時間の期間の間」で「短時間」の意。
[離れ居る] orphanizomai は本来「孤児とされる」ことであるが転じて子を奪われし親につきても用いられ、その他同様の感情に適用される。すなわち離別、空虚、寂寞等の感情を含む。
[愈々 ] 比較級副詞、時間の短いのに比較して「一層」の意と解する説あれど(M0、A1)、かかる比較と見るよりも漠然と「非常に」、「普通程度以上に」と解すべきであろう(Z0参照)。
[切に] 直訳「多くの欲求をもって」。
2章18節 (
口語訳 | だから、わたしたちは、あなたがたの所に行こうとした。ことに、このパウロは、一再ならず行こうとしたのである。それだのに、わたしたちはサタンに妨げられた。 |
塚本訳 | というのは、私達は君達の所に行こうと思ったけれども──そして私このパウロは、一度ならず二度までも──(しかし)サタン(の奴)に邪魔され(て行けなかっ)たのである。 |
前田訳 | それでわれらは伺いたく思ったのです。とくにわたくしパウロは一再ならずそう思いましたが、サタンがわれらを妨げました。 |
新共同 | だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。 |
NIV | For we wanted to come to you--certainly I, Paul, did, again and again--but Satan stopped us. |
註解: 本節初頭に「この故に我ら」を加うべし。パウロの書簡において「我ら」は多くの場合「我」の意味に用いられているけれども(L2、すなわち「作者の複数」)ここでは特に「我」と区別している。テモテはすでにテサロニケを訪問したので、これはパウロのみの計画に関するが故である。サタンの妨害が如何なる事実を指すかは確定できないけれども(M0)、使17:13、14のごときもその一つの場合であったと見るべきである(B1)。そしてパウロはこれらの事情の背後にサタンの手を見たのである。信者の敵は常にサタンである。
2章19節 (そは)
口語訳 | 実際、わたしたちの主イエスの来臨にあたって、わたしたちの望みと喜びと誇の冠となるべき者は、あなたがたを外にして、だれがあるだろうか。 |
塚本訳 | 何故(こんなにも君達に対して熱心であるか)と言うのか。(兄弟達よ、)私達の主イエスの来臨の時、その御前で私達の希望(であり)、喜び(であり)、誇りの冠(である者)は(一体)誰であるか。(他の人達と共に)君達もそうではないのか。 |
前田訳 | われらの主イエスの来臨を前にして、あなた方のほかにだれがわれらの望み、よろこびまた誇りの冠でしょうか。 |
新共同 | わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。 |
NIV | For what is our hope, our joy, or the crown in which we will glory in the presence of our Lord Jesus when he comes? Is it not you? |
2章20節
口語訳 | あなたがたこそ、実にわたしたちのほまれであり、喜びである。 |
塚本訳 | 然り、(誠に)君達こそ私達の光栄、また喜びである! |
前田訳 | あなた方こそわれらの栄光またよろこびです。 |
新共同 | 実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。 |
NIV | Indeed, you are our glory and joy. |
註解: 19節は18節の熱望の理由を示す。すなわちパウロがかくも熱心にテサロニケ訪問を希望する理由は、彼らの信仰が神の前に誇り得る所のものであり、それだけパウロらにとりても貴重なものであるためである。すなわち彼らテサロニケの信徒は現在においてもそうであるが殊に主イエスの再臨の時、換言すれば主イエスが凡ての人々に審判を行い給う時においては、彼らは最も確実にキリストの救いに与ることの希望をパウロらは有っており、またその信仰的生涯が神の前に喜ばれることがパウロらの喜悦となるべく、また彼らが主の御前に栄光を与えられることがパウロらの伝道の成功の栄誉の冠としてパウロらの頭上に輝くであろうとの意味である。パウロはかくもテサロニケの信徒につき誇っていた。「汝らならずや」は精確に訳すれば、「汝らもまた然るにあらずや」で他の教会と共にテサロニケ教会もその中に確かに加えられるものたることをパウロらは確信したのであった。それ故にパウロは最後にテサロニケの信徒を「我らの栄光、我らの喜悦」として称えている。
辞解
19節前半は原文においては後半に附加せられしごとき形を取っている。パウロがこの一句を加えたのは、希望、喜悦、誇の冠冕 たる事実が一時的現在的の事柄ではなく永遠的意義を有することを示さんがためである。
要義 [パウロのテサロニケの信徒に対する熱愛]愛は弱きもの、悩めるもの、不完全なるもの対して強く働きかけるものであるが、一面美わしきもの、潔きもの、完 きものに対しても強く働きかける。而してこの美しさ、潔さ、完全さが、肉に属せず霊に属するものである場合、この愛は神の愛の高さにまで高められる。パウロが17−20節に、女々しきまでの恋慕の情を示しているのは、この種の愛の発露であった。神が教会を選び給うたのも、「教会を潔め、これを聖なる者として、汚点なく、皺なく、凡てかくのごとき類なく、潔き瑕なき尊き教会をおのれの前に建てん為」であった(エペ5:26、27)。我らの自然に具有する美を愛する心は、かくして完全なる心に聖化されるのである。パウロのテサロニケの信徒に対する愛はこれであった。而してテサロニケの信徒の霊的の美しさはその迫害の中に一層発揮されたのであった。