黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版第2コリント

第2コリント第9章

分類
5 施済(ほどこし)に就て 8:1 - 9:15
5-4 施済(ほどこし)の計画実行を薦む 9:1 - 9:5

註解: 前章の継続としてパウロはコリント人に向い、其の計画せる施済(ほどこし)の業を是非とも実行すべき事を薦め、且つこれを行うに際しての心掛け及びこれを行える結果について述べている。

9章1節 聖徒(せいと)に[(ほどこ)すこと]( (つか)ふること)に()きては(なんぢ)らに()きおくるに(およ)ばず、[引照]

口語訳聖徒たちに対する援助については、いまさら、あなたがたに書きおくる必要はない。
塚本訳エルサレムの聖徒たちのための援助について言わないのは、あなた達にそれを書くのは余計なことだからである。
前田訳聖徒たちへの奉仕については、お書きするのが余計と思います。
新共同聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。
NIVThere is no need for me to write to you about this service to the saints.
註解: Uコリ8:16−24においてパウロは多くの兄弟を施済(ほどこし)の事につきて、コリントに送らんとしている所以は、ここに改めて聖徒に施済(ほどこし)を為して(つか)える事の必要を教える為ではない。これは余計な事である。真の目的は3節以下にある。
辞解
[施すこと] Uコリ8:3-4の「(つか)うること」と同原語▲すなわちdiakoniaで執事diakonosと同源語。
[書きおくるに及ばず] 原語意は「書き送る事は余計な事である」

9章2節 (われ)なんぢらの志望(こころざし)[ある]を()ればなり。その志望(こころざし)につき(なんぢ)らの(こと)をマケドニヤ(びと)(ほこ)りて、アカヤは(すで)一年(ひととせ)(まへ)準備(そなへ)をなせりと()へり。[引照]

口語訳わたしは、あなたがたの好意を知っており、そのために、あなたがたのことをマケドニヤの人々に誇って、アカヤでは昨年以来、すでに準備をしているのだと言った。そして、あなたがたの熱心は、多くの人を奮起させたのである。
塚本訳なぜなら、わたしはあなた達の熱意を知っているので、アカヤは昨年からその準備ができていると、あなた達のことをマケドニヤ人にいつも自慢している(位な)のだから。そしてあなた達のこの熱誠は多数の者を奮い立たせ(て、この企てに参加させ)た。
前田訳わたしはあなた方の善意を知り、それについてあなた方のことをマケドニア人に誇り、アカイアで去年から用意がなされているといいました。そしてあなた方の熱意は多くの人々を奮い立たせました。
新共同わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。
NIVFor I know your eagerness to help, and I have been boasting about it to the Macedonians, telling them that since last year you in Achaia were ready to give; and your enthusiasm has stirred most of them to action.
註解: 施済(ほどこし)をせんとするの心(志望(こころざし)Uコリ8:12註)がコリントの信者にあって、すでに1年前から準備をしていた事をパウロはすでによく知っていた、のみならずこの事をマケドニヤ人に誇っていた。
辞解
後半部を直訳すれば「その志望(こころざし)につきマケドニヤ人に向い、汝らの事をアカヤはすでに1年前に準備をなせりと誇る」となり、「誇る」と現在動詞を用いたのは、パウロが当時なおマケドニヤにいて現にこれを誇りつつあった事を示し、また「汝らは」と云わずして「アカヤは」と云ったのも、マケドニヤ人に物語れる言葉のままを書いたのであって、この書簡の書かれし時の状態を髣髴せしめている。▲▲「志望(こころざし)」prothumiaは「乗り気になっている事」

かくて(なんぢ)らの熱心(ねっしん)(おほ)くの(ひと)(はげ)ましたり。

註解: パウロは始めにUコリ8:1−5においてマケドニヤ人の例を以てコリント人を励ましているけれども、実は他方すでにコリント人の例によってマケドニヤ人を励ましていたのである。ここに彼の教育家としての才能を見ることができる。まさしくコリント人は施済(ほどこし)の事を始むることにおいて迅速であり、マケドニヤ人はその実行において優っていた

9章3節 されどわれ兄弟(きゃうだい)たちを(つかは)すは、()()ひしごとく(なんぢ)らに準備(そなへ)をなさしめ、(これ)につきて(われ)らの(ほこ)りし(こと)(むな)しくならざらん(ため)なり。[引照]

口語訳わたしが兄弟たちを送ることにしたのは、あなたがたについてわたしたちの誇ったことが、この場合むなしくならないで、わたしが言ったとおり準備していてもらいたいからである。
塚本訳それにも拘らずわたしがいまこの兄弟たちをやるのは、この(醵金の)点で(も)あなた達について自慢したことが無にならず、(今)言ったとおり、あなた達に(すっかり)準備ができているようにするためであり、
前田訳わたしが兄弟たちをつかわしたのは、あなた方についてのわれらの誇りがこの場合むなしくならないためと、わたしがいったとおりにあなた方が準備しておいでのためです。
新共同わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです。
NIVBut I am sending the brothers in order that our boasting about you in this matter should not prove hollow, but that you may be ready, as I said you would be.
註解: 兄弟たちを遣わす目的は、コリント人が施済(ほどこし)の事を早く思い立ちしのみにて、これを完成せずにいる事を恐れたからであった。而してパウロは彼がマケドニヤ人に対して誇りし事が、空しき誇となる事を恐れたのである。パウロはコリント人は決して彼の誇を空しくせしめない事を確信して誇っていたのではあるが、万一にもこの誇りが空しくなる様な事が有っては恥かしい極みであるので、其の要心から兄弟たちを遣わすのである。
辞解
[之につきて] 「この点につきて」であって文法上「空しくなる」を形容していると見る方が優っている。すなわち「我らの誇のこの点につきて空しくならざらん為なり」と訳すべきである。その他の点に関する誇は勿論空しくなる心配は無い

9章4節 もしマケドニヤ(びと)われと(とも)(きた)りて(なんぢ)らの準備(そなへ)なきを()ば、(なんぢ)らは()ふに(およ)ばず、(われ)らも確信(かくしん)せしによりて(おそ)らくは(はぢ)()けん。[引照]

口語訳そうでないと、万一マケドニヤ人がわたしと一緒に行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、かように信じきっていただけに、恥をかくことになろう。
塚本訳たといマケドニヤ人がわたしと一所に行っても、あなた達が準備のできていないのを見られて、その状態において「あなた達が」とは言わないまでもわたし達が恥をかくことがないようにしたいからである。
前田訳さもないと、もしもマケドニア人がわたしといっしょに行って、あなた方に準備がないのを見たら、あなた方はといいたくないが、われらはこの確信の中で恥をかくでしょう。
新共同そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。
NIVFor if any Macedonians come with me and find you unprepared, we--not to say anything about you--would be ashamed of having been so confident.
註解: 万一当時の習慣に従いマケドニヤ人がパウロを送りてコリントに来り、コリントの実状がパウロの誇りし如くで無いのを見るならば、コリント人の恥辱は勿論の事、パウロもまた其の確信(コリント人が必ず其の志望を実現すべしと信じたる確信)のために恥辱を被るであろう。かく云いてパウロはそのコリント人を信ずる事の如何に大なるかを示すと同時に、万一にもこの確信が虚しくなる事あらん事を如何ばかり憂慮せしかを示している

9章5節 この(ゆゑ)兄弟(きゃうだい)たちを(すす)めて、()(なんぢ)らに()かしめ、(さき)(なんぢ)らが約束(やくそく)したる慈惠(めぐみ)を、(をし)むが(ごと)くせずして、(めぐみ)(こころ)よりせん(ため)(あらか)じめ調(ととの)へしむるは、必要(ひつえう)のことと(おも)へり。[引照]

口語訳だから、わたしは兄弟たちを促して、あなたがたの所へ先に行かせ、以前あなたがたが約束していた贈り物の準備をさせておくことが必要だと思った。それをしぶりながらではなく、心をこめて用意していてほしい。
塚本訳だから兄弟たちがあなた達のところに先発して、あなた達のかねて約束している祝福の贈物を前もって整えるようにと、彼らに勧めることが必要だとわたしは考えたのである、それが惜しがりながらの贈物としてではなく、豊かな贈物として用意できているようにして貰いたい。
前田訳それでわたしは兄弟たちに勧めてそちらへ先に行かせ、あなた方がかねて約束した贈りものを用意させるのを必要と考えました。それをしぶしぶでなく、心からの贈りものとして準備してください。
新共同そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。
NIVSo I thought it necessary to urge the brothers to visit you in advance and finish the arrangements for the generous gift you had promised. Then it will be ready as a generous gift, not as one grudgingly given.
註解: (おし)むが如くせずして恵む心よりせんために」は直訳「貪欲としてにあらずして慈恵(祝福)としてこれを準備せんために」で、パウロはもし予め兄弟たちを遣わさずして、突然マケドニヤ人らと共にコリントに至り、始めて其の不用意を発見して急に強いて彼らより取立てる必要が起る様では、彼らの心は之を(おし)む様になるのであって、パウロは之を「貪欲の心を以って施済(ほどこし)を行う」と云い、かくする事を非常に忌み嫌っていた。それ故に彼は予め人を遣わし、其の従前約束せる施済(ほどこし)を「慈恵の心を以て」行い得る様にし、凡てに対して準備を整えておく事が必要であると考えたのである。

5-5 施済(ほどこし)を行う場合の心掛 9:6 - 9:9

9章6節 それ(すくな)()(もの)(すくな)()り、(おほ)()(もの)(おほ)()るべし。[引照]

口語訳わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。
塚本訳わたしの言うのはこのことである。──(まき方の)けちな者はけちな刈り取りをし、(まき方の)豊かな者は豊かな刈り取りをするであろう。
前田訳それはこうです。控え目にまくものは控え目に刈りとり、豊かにまくものは豊かに刈りとります。
新共同つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。
NIVRemember this: Whoever sows sparingly will also reap sparingly, and whoever sows generously will also reap generously.
註解: 「少く」の原語は「惜みつつ」の意であって、俗語の「ケチケチ」するに相当する。「多く」の原語は5節の「慈恵」または「恵む心」と同語であって「祝福」の意味をも有す。「恵の心を以て、大様(おおよう)に」等の意味である。箴言中の類似の節を引用したのである(引照)。種播きの程度如何によりて刈入の程度がこれに対応すると同様に、人に対して施しを為すその態度如何により、神よりの報償を受くる程度が異るのである。故に施済(ほどこし)の事は、これを無益の行為と思うべきではない

9章7節 おのおの(をし)むことなく、()ひてすることなく、その(こころ)(さだ)めし(ごと)くせよ。[引照]

口語訳各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。
塚本訳めいめいが、しぶしぶでなくあるいは強いられてでもなく、心に決めたとおりにせよ。“神は喜んで与える人を”愛されるのだから。
前田訳めいめいがいやいやでなく、強いられもせず、心に決めたとおりになさい。神はよろこんで与える人を愛したもうからです。
新共同各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
NIVEach man should give what he has decided in his heart to give, not reluctantly or under compulsion, for God loves a cheerful giver.
註解: ここに施済(ほどこし)に関する最も貴き三つの注意が示されている。其の一は「心に苦痛を感じながらこれを為さない事」であって、施済(ほどこし)を行いつつ一方内心に其の失う所に対して苦痛を持つようの事が有ってはならない。「(おし)むことなく」と訳せられし原語は「苦痛よりに非ず」と直訳する事ができる。其の二は「強いて為さざる事」であって、周囲の事情や人々の勧誘によりて強いられて、止むを得ずこれを為すは施済(ほどこし)の本旨に反し、第三は「其の心に前以て撰びし如くに」(直訳)これを為す事である。他人の振合を考える必要もなく、他人の批評を恐れる必要もなく、己の心に苦痛なく自由に決定した通りに施済(ほどこし)を為すのが、凡ての慈善の根本である

(かみ)(よろこ)びて(あた)ふる(ひと)(あい)(たま)へばなり。

註解: 以上の如くして与うる事をパウロが薦めた所以は、自分一個の思想では無い、箴言にも記される如く(引照3)神がかかる人を愛し給うが故である「喜びて与うる」にあらざれば其の施済(ほどこし)は虚しい

9章8節 (かみ)(なんぢ)()をして(つね)(すべ)ての(もの)()らざることなく、(すべ)ての()(わざ)(あふ)れしめんために、(すべ)ての恩惠(めぐみ)(あふ)るるばかり(あた)ふることを得給(えたま)ふなり。[引照]

口語訳神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。
塚本訳しかし神はあなた達にすべての恩恵をあふれさせることがお出来になるので、あなた達はすべてのものに、あなた達はすべての時に、すべての点で十分な暮らしをし、(その上)すべての善い行いにあふれるのである。
前田訳神はあなた方をあらゆる恩恵にあふれさせることがおできです。それはあなた方が何につけても、つねに満ち足りていて、あらゆるよいわざにあふれるためです。
新共同神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
NIVAnd God is able to make all grace abound to you, so that in all things at all times, having all that you need, you will abound in every good work.
註解: 神は我らに信仰、智慧、道徳等の霊的恩恵を与うる事を得給う事は勿論であるが、それのみならず物質的の恩恵さえも溢れるばかりに与うる事を得給うのであって、其の目的は我らが自分の身にとっては何等の不足もなくして、専心にあらゆる善行を行う事を得んがためである。もしかかる神を信ずるならば、たとい貧窮のドン底にあっても自分の内心には何等の不足も無くして、専心にあらゆる善行を行う事を得んがためである。もしかかる神を信ずるならば、たとい貧窮のドン底にあっても自分の内心には何等の不足も無く、ひたすらに施済(ほどこし)を為す事ができ、そしてかかる人には神はまた豊かに恩恵を与うる事を得給うのである。「我らに与えられるものは、我らこれを保持せんが為に与えられまた所有するにあらずして、これを以って善を行わんが為である」(B2)自ら足れりとせざるものは人に施済(ほどこ)す事ができず、人に施済(ほどこ)さざるものは神の恩恵を豊かに受くる事ができない。
辞解
原文には「凡て」パントス(pantos)なる文字を四度繰返し、これに「常に」パントーテpantoteを加えて極めて強き語調を以て記されている。パウロは施済(ほどこし)をなす者に対して、神の恩恵溢れる事を確信してこの言を発した事がわかる。「足らざる事なく」は「自足し」の意味であって、他より受けずして自己の()つものを以って足れりとする事

9章9節 (しる)して『(かれ)()らして(まづ)しき(もの)(あた)へたり。その正義(ただしき)永遠(とこしへ)(のこ)らん』とある(ごと)し。[引照]

口語訳「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」と書いてあるとおりである。
塚本訳“彼は散らして貧乏人に与えた、彼の善行は永遠に無くならない。”と(聖書に)書いてあるとおりである。
前田訳聖書にあります。「彼は散らして、貧しい人々に与えた。彼の義はとこしえに残る」と。
新共同「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。
NIVAs it is written: "He has scattered abroad his gifts to the poor; his righteousness endures forever."
註解: 6節以来パウロの心には種播きの観念が浮び出ている。この引照においても「散らす」は何等の顧慮なしに種を四方に散する事を意味しており、豊かに貧しき者に施して其の報いを求めない者を指す、而してかかる愛より出でし施済(ほどこし)は正義の行為であって、永遠に神の御前に記憶せられるであろう(Tコリ13:8

5-6 施済(ほどこし)を行うの効果 9:10 - 9:15

9章10節 ()(ひと)(たね)(しょく)するパンとを(あた)ふる(もの)は、[引照]

口語訳種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。
塚本訳それで、“種まく人に種を”授け、“食べるためのパンを”授けられるお方はあなた達にもまくべき種をふやし、“あなた達の善行の実を”成長させられる。
前田訳種まく人に種と食べるパンを備えたもう方は、あなた方にも種を備えてふやし、あなた方の義の実を成長させたもうでしょう。
新共同種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。
NIVNow he who supplies seed to the sower and bread for food will also supply and increase your store of seed and will enlarge the harvest of your righteousness.
註解: 本節以下15節迄は施済(ほどこし)の効果につきて記されている。其の一は自己の受くる果(10節)其の二は、施済(ほどこし)の行為が人々の神に対する関係(11−13節)其の三は施済(ほどこし)を受ける人々と、これを与える人々との関係に影響する(14節)。先ず播く人に就いて考えるに、神は彼に播くべき種のみならず、其の果を与えまたその労働しつつある間に、食うべきパンをも其の種子の果の中より供給し給う。故に自ら足るのみならず人に施す事ができる。

(なんぢ)らにも(たね)をあたへ、(かつ)これを(ふや)し、また(なんぢ)らの()()()(たま)ふべし。

註解: この神はまたコリントの人々にも更に施すべき種を供給するのみならずこれを増殖し、また彼らの義の果(引照2)すなわち其の霊的幸福、進歩、並びに物質的恩恵(▲更に正しき行為も義の果の中に加え得るであろう。)をも増し給うであろう。この事を信ずる者は施済(ほどこし)をなすにつき何等の憂慮を()たないのみならず、喜びを以って之を為す事ができる

9章11節 [(なんぢ)らは]一切(すべて)()みて(をし)みなく(ほどこ)すことを()、かくて(われ)ら[の(こと)]により、人々(ひとびと)(かみ)感謝(かんしゃ)するに(いた)るなり。[引照]

口語訳こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。
塚本訳(このように、)あなた達はどんなのもにも豊かであるので、どんなことにも物惜しみをしない心となるのである。この心がわたし達(の手)を通じて(それを受ける人に)神への感謝を起こさせるのである。
前田訳何につけてもあなた方は富んで、すべて惜しまず施すようになり、それがわれらを通じて神への感謝をおこさせます。
新共同あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。
NIVYou will be made rich in every way so that you can be generous on every occasion, and through us your generosity will result in thanksgiving to God.
註解: 神が斯くの如く施済(ほどこし)を行う者を恵み給うが故に、汝らは凡てにおいて裕福であって不足を感ぜず、(おし)みなく施す事ができる。パウロはこの事を確信していた。施済(ほどこし)の行為が人々の神に対する信仰の上に如何に影響を与えるかに就きて述べられているのであって、第一に我らのこの行為により「神に対する感謝の念を生ずる」(直訳)に至ることをパウロは示している。神に対する感謝の念を人々の心に起すことができるならば、施済(ほどこし)の目的の大部分が達せられたと同様である

9章12節 ()施濟(ほどこし)(つとめ)は、ただに聖徒(せいと)窮乏(ともしき)(おぎな)ふのみならず、()(あふ)れて(かみ)(たい)する感謝(かんしゃ)(おほ)からしむ。[引照]

口語訳なぜなら、この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。
塚本訳というのは、この援助は、ただ聖徒たちの乏しさを補うばかりではなく、また神に対する多くの感謝の祈りであふれるばかりになるからである。
前田訳この施しの奉仕は、ただ聖徒の困窮を補うだけでなく、神への感謝であふれさせるからです。
新共同なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。
NIVThis service that you perform is not only supplying the needs of God's people but is also overflowing in many expressions of thanks to God.
註解: 前節後半の敷衍である。寄附を為す事により施済(ほどこし)の務を行う事は二つの益がある、其の一は聖徒の窮乏を救う実際上の利益であって、この事だけでも充分に施済(ほどこし)を行うの価値があるが、これは単に消極的方面に過ぎない。更に進んで、「神に対する多くの感謝を以って満ち溢れる」(直訳)に至るのである。施済(ほどこし)を受けし者は其の欠乏が補充されるのみならず、施済(ほどこし)の恩恵が溢れて神に対する感謝となってくる事を意味する。
辞解
本節に「施済(ほどこし)」と訳せられし語の原語は「祭り」とも訳し得る文字であって、宗教的礼拝、儀式、祭事等所謂「御務め」に相当するライトウルギヤleitourgiaなる文字を用いている。寄附募集の行為をパウロは一種の神聖なる祭事の如くに考えていた事がわかる(Z0)

9章13節 (すなは)(かれ)らは()(つとめ)證據(しょうこ)として、(なんぢ)らがキリストの福音(ふくいん)(たい)する言明(いひあらはし)(したが)ふことと、(かれ)らにも(すべ)ての(ひと)にも(をし)みなく(ほどこ)すこととに()きて、(かみ)榮光(えいくわう)()し、[引照]

口語訳すなわち、この援助を行った結果として、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であることや、彼らにも、すべての人にも、惜しみなく施しをしていることがわかってきて、彼らは神に栄光を帰し、
塚本訳この援助が成功することによって、彼ら(聖徒たち)は、あなた達が、従順にキリストの福音への信仰の告白をしたことと、彼らひいてはすべての(信ずる)者に対し、物惜しみをしない交りのしるし(の醵金)をもって協力したこととの故に、神を賛美するであろう。
前田訳この奉仕の成果によって、彼らは神に栄光を帰するでしょう。それはあなた方がキリストの福音への告白に従順であり、彼らに、そしてすべての人に、惜しみなく協力したことによるものです。
新共同この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。
NIVBecause of the service by which you have proved yourselves, men will praise God for the obedience that accompanies your confession of the gospel of Christ, and for your generosity in sharing with them and with everyone else.
註解: 施済(ほどこし)の行為のこれを受くる者に及ぼす結果は深遠である。単にその欠乏を充たすだけではなく感謝が溢れ、更に進んで神に栄光を帰し(本節)、また施済(ほどこし)を行う兄弟姉妹を祈りの中に慕うに至るのである(14節)。すなわちこの施済(ほどこし)の奉仕が証拠となりて、コリントの基督者がキリストの福音に対する告白(言明(いいあらわし))が空なる口頭の告白にあらずして、心よりこれに服従していることがわかり、エルサレムの母教会の人々は異邦人が、かかる立派なる信仰に入りしことに就いて神に栄光を帰し、またコリントの聖徒らがエルサレム母教会は勿論、その他の人々にも「(おし)みなき心を以て交わり」その貧困をも共にすることを知りて、かかる事は神の恩恵によるにあらざれば、到底出来得ざること(8-10節)を思いて栄光を神に帰し、神をあがめるに至るであろう。
辞解
[言明(いひあらはし)] 「告白」を意味する、基督者は凡てその信仰を告白する
[(おし)みなく施すこと] 原語は「共に(おし)みなく施す事」を意味する。

9章14節 かつ(かみ)(なんぢ)らに(たま)ひし(すぐ)れたる恩惠(めぐみ)により、(なんぢ)らを(した)ひて(なんぢ)()のために(いの)らん。[引照]

口語訳そして、あなたがたに賜わったきわめて豊かな神の恵みのゆえに、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのである。
塚本訳そして、あなた達に示された神の著しい恩恵のゆえに、彼らはあなた達のために祈り、あなた達を慕うであろう。
前田訳そして彼らはあなた方のために祈り、神があなた方にお与えの、あり余る恩恵のゆえに、あなた方を慕うでしょう。
新共同更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。
NIVAnd in their prayers for you their hearts will go out to you, because of the surpassing grace God has given you.
註解: コリントの信徒が(おし) みなく施すに至れる事は神の豊かなる恩恵によるのであって、エルサレムの母教会は自分等と同様の恩恵を受けているこれ等の遠方の兄弟のために祈りつつ、彼らを恋い慕う愛心をもつに至るのである。基督者相互の関係としてこれ程美わしいものは無く、而してこれが皆施済(ほどこし)を行うことから生ずるのである。
辞解
本節と前節との連絡は原文の解釈上困難なる箇所であって、異なれる訳を主張する学者もあるけれども重要ならざれば略す

9章15節 ()(つく)しがたき(かみ)賜物(たまもの)につきて((かみ)に)感謝(かんしゃ)す。[引照]

口語訳言いつくせない賜物のゆえに、神に感謝する。
塚本訳言い尽しがたい神の賜物の故に、神に感謝せねばならない。
前田訳口にはいえぬ賜物のゆえに、神に感謝します。
新共同言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。
NIVThanks be to God for his indescribable gift!
註解: ロマ9:5ロマ11:36末尾。Tコリ15:57Tテモ1:17等と同じくパウロの心感謝に溢れて、(ほとばし)り出でし叫びである。パウロはコリントの信徒がその約束に従い充分に施済(ほどこし)の事を実行するならん事を確信し、その予想の下に、前述せる如き多くの美わしき結果(8-14節)を思い、これ等が(ことごと)く神の賜物なる事を感じ、その到底言い尽くし難き豊かなる賜物なる事を思いて、感謝の念が湧き出たのである。感謝を以って施済(ほどこし)をなし、感謝を以って施済(ほどこし)を薦め得る事は最も恵まれし信仰の状態である。
要義1 [慈善事業の要諦]施済(ほどこし)、寄附金等を行う場合(献金も同様である)、普通はその金額の多きを誇り、これを以て成功と考えられる場合が多い。しかし信仰的にこれを考うるならば決してかかる判断を以って満足する事ができない。9:7は最もよく施済(ほどこし)、献金、寄附金等を為す場合の標準と理想とを示すのであって、もしこれらが内心の苦痛を感じつつなされるならば、たとひ其の額は如何に多くとも神の喜び給うものと云う事ができない、また同様に周囲の事情や他人との振合を顧慮し、または何万円献金等の名目に束縛せられ、強いられるままに止むを得ずこれを為せる場合も、また決して真の施済(ほどこし)でもまた献金でも無い。自ら進みて(Uコリ8:3、4)これを為す事を要する。故に結局その心に自ら最も望ましき金額と思考するものを献ぐる事が、最も神の御旨にかなえる事柄である。それ故に同じ慈善事業の外貌を()っていても、その内容の如何により神の聖前における価値に大なる差異がある事を忘れてはならない。而して自己の心に決定する金額の程度は信仰の程度如何によりて、自ら異なる事勿論である。
要義2 [慈善を行うの力]自己の生活さえも困難であるのに、如何で慈善を行う事が出来ようかとは普通に考えられる処である。しかしながら神を信ずる者はたとえ自己が貧窮の極みにいてもなおこれを行う事ができる、何となれば神はかかる者に溢れるばかりに恩恵を与えて(8節)、その善き業を行う事を得しめ給うからである。己の事をのみ思う者をば神これを顧み給わず、人に対して散らす者には、神は義の果を増し加え給う(10節)。これ信仰の奇跡である。
要義3 [慈善を行うの効果]以上の如き真の意味において行われし施済(ほどこし)は、その結果自己に取りて多くの果を受け、また人々は必ず神に感謝し神に榮を帰し、兄弟の愛の結合を強からしむるに至るものである。若し慈善が強いてなされ、苦しみて為される場合においてはかかる結果を得る事ができない。凡てがその終局において信仰が中心問題である。

第2コリント第10章

分類
6 パウロの自己辯明(其の二) 10:1 - 12:18
6-1 パウロの権威に対する誇り 10:1 - 10:18
6-1-イ 肉に従って歩まず 10:1 - 10:6

註解: 次の三章は最後の段落をなし、パウロが自己の価値につきて為せるの弁護である。3-7章はパウロの職務に関するもの、10-12章は彼の個人的価値に関するものである。

10章1節 (なんぢ)らに(たい)面前(まのあたり)にては(へりく)だり、(はな)れゐては(いさ)ましき(われ)パウロ、[引照]

口語訳さて、「あなたがたの間にいて面と向かってはおとなしいが、離れていると、気が強くなる」このパウロが、キリストの優しさ、寛大さをもって、あなたがたに勧める。
塚本訳さて、このわたしパウロが、キリストの温和と寛容とを指してあなた達に忠告する。「あなた達の所で面と向かっては意気地がないけれども、離れているとあなた達に対して勇敢だ」(と批評されるわたしだ)が、
前田訳わたしパウロが自らキリストの柔和と親切とによってお勧めします。わたしはあなた方のところで面と向かってはへりくだり、離れているとあなた方に対して強気です。
新共同さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。
NIVBy the meekness and gentleness of Christ, I appeal to you--I, Paul, who am "timid" when face to face with you, but "bold" when away!
註解: パウロが前の書簡によりて激しくコリント人を責めしが為に、彼らの中に入り来たれる偽教師等は「パウロは目のあたり逢えば至て意気地が無い癖に、離れるとさもエラそうに威張り散らす人間である」と云う非難を与えていた。パウロはこの種の反対者の語を、そのまま利用して自己を弁護し、たとい外見において卑しくとも彼の真価は充分に有る事、またたとい場合によりては激越なる語を発するも、これ止むを得ざるに出づる事を述べんとしているのである。
辞解
[我パウロ] 原語「パウロ我自身」極めて強く自己を表示する場合にこの語を用う。

(みづか)らキリストの柔和(にうわ)寛容(くわんよう)とをもて(なんぢ)らに(すす)む。

註解: パウロの常に取っていた態度は、決して濫りに激越なる語を発するのでは無く、キリストの如く柔和(引照4、Tコリ4:21ピリ4:5)で且つ寛容であった。「勧む」は今後述べんとする事柄の全体に対している

10章2節 (われ)らを(にく)(したが)ひて(あゆ)むごとく(おも)(もの)あれば、()かる(もの)(たい)しては雄々(をを)しくせんと(おも)へど、(ねが)(ところ)()(なんぢ)らに()ふとき()(いさ)ましくせざらん(こと)なり。[引照]

口語訳わたしたちを肉に従って歩いているかのように思っている人々に対しては、わたしは勇敢に行動するつもりであるが、あなたがたの所では、どうか、そのような思いきったことをしないですむようでありたい。
塚本訳お願いだ、(今度)一所にいるとき、わたし達を人間的に歩くと考えているある人たちに対しては(今度こそ十分の)自身をもって勇敢に行動しようと考えているが、どうか、こんな自身をもって勇気を振う必要のないようにしてもらいたい。
前田訳わたしはそちらにいっても、この確信で強気にならないようにとありたいものです。確信とは、われらが肉に従って歩んでいると考える人々に対して勇気を振いうるとわたしが考えていることです。
新共同わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。
NIVI beg you that when I come I may not have to be as bold as I expect to be toward some people who think that we live by the standards of this world.
註解: 直訳「されど我願う、汝等に逢う時我らを肉に従いて歩むごとく思う者に対して雄々しくせんとする確信によりて、勇ましく為ざらん事を」パウロに反対する偽教師等はパウロが或は卑下(へりくだ)り、或は怒る如きは、彼の肉の傾向に支配せられ、人を恐れる心より発していると非難した。かかる者に対してはパウロは大胆なる態度を取る事を決心しているけれども、汝らに面会する際にはその必要無きに至っている事を願う。
辞解
[願う] 「神に」か又は「コリント人に」かに就いて説が分かれているけれども、この際には唯「かくならん事を切望する」との一般的意味に取るべきであろう

10章3節 (われ)らは(にく)にありて(あゆ)めども、(にく)(したが)ひて(たたか)はず。[引照]

口語訳わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。
塚本訳いかにも、わたし達は人間として歩いてはいるが、人間的には(歩いていない、)戦っていない。
前田訳われらは肉にあって歩んでいても、肉に従って戦ってはいません。
新共同わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。
NIVFor though we live in the world, we do not wage war as the world does.
註解: コリントに於けるパウロ反対者の非難は誤っている。「何となれば」(直訳)パウロ等はこの世の生活に於いては、肉の弱さに付き(まと)われているけれども、彼らが福音の為に戦う場合には、この肉に従いその願いに応じその好悪に支配される様な事は無いからである。我らはキリストに在りて更生せる後もその前と同じく「肉にありて」(肉の中にen)歩み、我らの感覚も思想も能力も皆弱き肉によりて局限せられている。故に我らは肉の中にありて歎く(Uコリ5:2ロマ8:23)。されど我らは「肉に従いて歩まず」(ロマ8:4)また「肉に従って活きない」(ロマ8:12、13)霊に従って歩みまた活く。それ故に福音の使徒として戦う場合勿論キリストの霊を以って戦うのである。我らを肉に従って歩むと思う者は誤っている

10章4節 それ(われ)らの戰爭(いくさ)武器(ぶき)(にく)(ぞく)するにあらず、(かみ)(まへ)には城砦(とりで)(やぶ)るほどの能力(ちから)あり、[引照]

口語訳わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、
塚本訳なぜなら、わたし達の戦いの武器は人間的のものではなく、(霊の武器であり、)神のために(あくまで)強力であって、(福音の邪魔をするすべての)砦を打ち破るからである。わたし達は(すべての)詭弁と、
前田訳われらの戦いの武器は肉のものでなく、神によって強く、砦を打ち破りえます。われらは種々な考えと、
新共同わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、
NIVThe weapons we fight with are not the weapons of the world. On the contrary, they have divine power to demolish strongholds.
註解: パウロが福音の戦いの為に用うる武器は「神の武具」(エペ6:11エペ6:13)「義の武器」(Uコリ6:7を見よ(Tコリ9:7Tテモ1:18))であり、「誠、正義、平和の福音、信仰、救、御霊、神の言」(エペ6:14−17)である。これは「肉に属せず」霊に属しており、従って肉の如く弱からずして「神によりて」力強く如何なる敵の城砦をも破る事ができる。
辞解
[神の前に] その他「非常に」「神のために」「神によりて」等と訳することができる。何れも誤りではない。この註においては最後の意味を取る

我等(われら)はもろもろの論説(ろんせつ)(やぶ)り、

註解: 人間の肉の知識によりて造り出せる論説は、強きが如くに見えて弱く、霊の武器に抗する事ができない。而してかかる人造の論説はキリストに反する場合が多い

10章5節 (かみ)示教(しめし)(さから)ひて()てたる(すべ)ての(やぐら)(こは)ち、[引照]

口語訳神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、
塚本訳神を知る知識に逆らい立つすべての(高慢の)櫓とを打ち破り、すべての(悪魔の)たくらみを捕虜にして、従順にキリストを受けいれさせようとしているのである。
前田訳神の知識に逆らって立つすべての高ぶりとを打ち破り、あらゆる計画をとりこにしてキリストへの従順に導きます。
新共同神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、
NIVWe demolish arguments and every pretension that sets itself up against the knowledge of God, and we take captive every thought to make it obedient to Christ.
註解: 「神の示教(しめし)」は「神の知識」と訳すべきであって、神に関する知識すなわち福音に反対して建てたる(やぐら)は高慢なる自己高挙に陥っているのであって、これらは皆霊の武具を以て(こぼ)たれるのである。ここに「(やぐら)」は原語「高き物」を意味し、城壁、砲塁、(やぐら)等を包み、福音に反するあらゆる思想、強き反対運動等凡て福音の進路を妨害するものを総称すると解する事ができる

(すべ)ての(おもひ)(とりこ)にしてキリストに(したが)はしむ。

註解: 3節以下パウロは戦争の例を以って一貫し、凡ての反対の議論、思想、妨害を打ち破りて凡ての心の念を捕虜にしてキリストに服従せしめ、これで完全なる勝利を得たのである。パウロの生存の目的は肉に従い、自己の肉の念の好むままに虚栄の生涯を送ることではなく、福音を信ぜずこれに敵する者の念を捕虜とし、自己の心中この悪念を殺してキリストに従わしめんが為に、霊の武器を以て戦う事である

10章6節 (かつ)なんぢらの從順(じゅうじゅん)(まった)くならん(とき)、すべての()從順(じゅうじゅん)(ばっ)せんと覺悟(かくご)せり。[引照]

口語訳そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。
塚本訳そしてあなた達の(集会の)従順が完全になりさえすれば、すべての不従順(な者ども)を(それぞれ厳重に)処罰する用意がある。
前田訳そして、あなた方の従順が全うされるとき、すべての不従順を罰する用意があります。
新共同また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。
NIVAnd we will be ready to punish every act of disobedience, once your obedience is complete.
註解: コリントの信徒が大体キリストに対する従順を示すようになった後でも、なお他に不従順なる者が残っているならば(ユダヤ主義の偽教師は恐らくかかる者であろう)パウロはこれを罰せんと心を定めている。故にかかることに立至る必要なき様に願い(10:2)、柔和と寛容とを以て汝らに勧めるのである(10:1)。
要義 [伝道者に対する誤解]伝道者は誤解され易い。殊に衆人の目が彼に注がれているが為、また他の教師伝道者等の嫉妬のために種々の誤解や悪評にさらされ易い。パウロもその一人であった。彼は肉に従って歩む者と誤解せられた。今日と(いえど)もこの点において同様である。パウロの反対者の手紙にも相当もっともらしき点は有ったであろう。また或は今日も往々為されるが如くに「基督教は愛の教なるが故に基督者は怒るべからず」とか、または「基督者はかくあるべし」との一定の基準を定めてこれに照らして人を審く時、多くの人にこの種の非難を為し得る点はあるであろう。併しながら果たして肉に従って歩んでいるかいないかはその人の内心の問題であって、真なるものは永遠に滅びず偽なるものはやがて亡ぶる事によって、その真偽を知る事ができるのみである。唯伝道者は常にパウロの如くに、霊に従って戦いつつあることを主張し得る者でなければならない。この確信なき者はその敵を破る事ができない。

6-1-ロ 権威を乱用せず 10:7 - 10:11

10章7節 (なんぢ)らは外貌(うはべ)のみを()る、[引照]

口語訳あなたがたは、うわべの事だけを見ている。もしある人が、キリストに属する者だと自任しているなら、その人はもう一度よく反省すべきである。その人がキリストに属する者であるように、わたしたちもそうである。
塚本訳(とにかく)目の前の事(実、あなた達の集会がだれによって生まれたか)を見てもらいたい。もし自分をキリストのものだと信じている人があるのなら、その人は自分がキリストのものであるのと同じように、他方において、わたし達もそうであることをよく考えてもらいたい。
前田訳あなた方はうわべだけをごらんです。もしだれかが自分はキリストのものであると確信しているならば、その人は自分がキリストのものであるように、われらもそうであることを、もう一度自ら考えるべきです。
新共同あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。
NIVYou are looking only on the surface of things. If anyone is confident that he belongs to Christ, he should consider again that we belong to Christ just as much as he.
註解: 10:110等の非難は皆コリント人が、パウロの外貌(うわべ)のみを見た事から起っている。然のみならずパウロは自己の使徒たる権威に誇っていたので(10:8)、これに対してかかる誇りは基督者らしからずとして非難するものもあったのであろう。皆皮相の観察より為せる判断である。パウロはこれに就きその理由をのべている。
辞解
[見る] 「見るか」と訳する学者もある。何れも反面に叱責の意を含んでいる

()(ひと)みづからキリストに(ぞく)する(もの)(しん)ぜば、(おの)がキリストに(ぞく)する(ごと)く、(われ)らも(また)キリストに(ぞく)する(もの)なることを(さら)(かんが)ふべし。

註解: 「コリントの偽教師等は自ら「キリストのもの」なる事を誇っているけれども、彼らは翻って我らも彼らと同様キリストのものである事を思うべきである」。パウロの反対者は(あたか)も自分等のみが真の基督者なるが如き態度であった。従ってパウロを以って濫りに誇るものとして非難したのである。しかしパウロには充分に誇るべき理由はあった

10章8節 假令(たとひ)われ(なんぢ)らを(やぶ)(ため)ならずして()つる(ため)に、(しゅ)(われ)らに(たま)ひたる權威(けんゐ)につきて(ほこ)ること(やや)()ぐとも(はぢ)とはならじ。[引照]

口語訳たとい、あなたがたを倒すためではなく高めるために主からわたしたちに賜わった権威について、わたしがやや誇りすぎたとしても、恥にはなるまい。
塚本訳なぜなら、(わたし達もキリストに召されて使徒の全権を授かったのだから、)わたし達の授かっているこの全権──これは主があなた達(の信仰)を造りあげるためにお授けになったもので、(ある人たちが言うように)それを破壊するためではないのだが──この全権についてたといわたしがもっと自慢したとしても、恥をかくことはあるまい。
前田訳主があなた方の破壊でなくて建設のためにお与えのわれらの権威について多少誇りすぎても、わたしの恥にはなりますまい。
新共同あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。
NIVFor even if I boast somewhat freely about the authority the Lord gave us for building you up rather than pulling you down, I will not be ashamed of it.
註解: 偽教師はコリントの教会を破るためにその能力を用いておりながら、なおこれを誇っているとするならば、パウロが教会の徳を建てる為にキリストの賜える権威を誇り過ぎたとしても恥ではない、当然である。これを誇るが故に我を基督者らしく無いと云うべきではない

10章9節 われ(ふみ)をもて(なんぢ)らを(おど)すと(おも)はざれ。[引照]

口語訳ただ、わたしは、手紙であなたがたをおどしているのだと、思われたくはない。
塚本訳しかし、(わたしはそうしない。)手紙であなた達をおどそうとしているように見え(て信仰を破壊するようなことはし)たくないのである。
前田訳わたしは手紙であなた方をおどしているように思われたくありません。
新共同わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。
NIVI do not want to seem to be trying to frighten you with my letters.
註解: 私訳「かく言うはわれ(ふみ)をもて単に汝らを嚇すものの如くに思われざらんためなり」すなわちパウロがその(ふみ)の中にその権威につき誇り過ぎるとも、これは空なる威嚇にあらず当然の誇りである。(異訳)この一節には有力なる異訳あり(クリソストム等)、すなわちこの節を11節に連絡し「(ふみ)を以って威嚇すると思ってはならない、実際の行為も(ふみ)と同じである事を示すであろう」との意に解す、ラゲ訳参照。
辞解
[(ふみ)] この(ふみ)のみならず、前にパウロが送りし凡ての書簡をも含む

10章10節 (かれ)らは()ふ『その(ふみ)(おも)くかつ(つよ)し、その()ふときの容貌(かたち)(よわ)く、(ことば)(いや)し』と。[引照]

口語訳人は言う、「彼の手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない」。
塚本訳というのは「手紙はいかにも重みがあって力があるけれども、御本人がお出ましになると貧弱で、話はなっていない」と(人は悪口を)言うのである。
前田訳彼らはいいます、「その手紙は重みがあって力強いが、体の様子は弱く、ことばは取るに足らない」と。
新共同わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。
NIVFor some say, "His letters are weighty and forceful, but in person he is unimpressive and his speaking amounts to nothing."
註解: これがコリントにおける偽教師等のパウロに対する非難であって、パウロは容貌魁偉(ようぼうかいい)ではなかったらしい。またその弁舌も至って拙であったらしい。然るにその書簡が力に溢れ激越な語調であったので、反対者らはたといパウロが来ても何も恐れるに及ばないと豪語していた。
辞解
[その逢う時の容貌(かたち)] 原語を直訳すれば「肉体的臨在」となる。
[(いや)し] 「軽蔑に値している」事

10章11節 ()くのごとき(ひと)(おも)ふべし。(われ)らが(はな)れをる(とき)おくる(ふみ)(ことば)のごとく、()ふときの行爲(おこなひ)(また)(しか)るを。[引照]

口語訳そういう人は心得ているがよい。わたしたちは、離れていて書きおくる手紙の言葉どおりに、一緒にいる時でも同じようにふるまうのである。
塚本訳そんな人は考えてもらいたいのだが、わたし達は離れているときの手紙での言葉と、一所にいるときにすることが、全く同じなのである。
前田訳そのような人はこのことを考えなさい、われらは、離れていて手紙でいうことばのとおりに、そこにいてわざをするものであることを。
新共同そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。
NIVSuch people should realize that what we are in our letters when we are absent, we will be in our actions when we are present.
註解: 10:2bに云う如くパウロはその使徒の権威を以って、彼らを審判かなければならない様な場合に立至らざらん事を望んでいるけれども、若し必要であれば止むを得ず書簡にある如き強き態度を以って、行動する事を心得るべしとして警戒している。

6-1-ハ 範囲を越えて誇らず 10:12 - 10:18

10章12節 (われ)らは(おのれ)()むる(ひと)()へて(なら)び、また(くら)ぶる(こと)をせず、[引照]

口語訳わたしたちは、自己推薦をするような人々と自分を同列においたり比較したりはしない。彼らは仲間同志で互にはかり合ったり、互に比べ合ったりしているが、知恵のないしわざである。
塚本訳それで、わたし達は自分で推薦しているある(えらい)方々と、自分を並べたり比べたりするほど勇敢ではない。が、あの方々御自身は、悟りが(良いのか)悪いのか、自分を自分(の尺度)で測り、自分の標準に自分を比べて(自慢して)いる。
前田訳われらは、自己推薦をする人々とあえて自らを同じにしたり比べたりはしません。彼らは自らの問で自らをはかり、自らを比べて、浅はかなことをしています。
新共同わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。
NIVWe do not dare to classify or compare ourselves with some who commend themselves. When they measure themselves by themselves and compare themselves with themselves, they are not wise.
註解: パウロはここに、彼に反対する偽教師等が「己を誉めて」独りで誇っている事に対して「我らは敢てかかる者の中に数えられ(「並び」の字義)またかかる者と対等の地位に立たんとはしない。我らは我らの誇るべき範囲内において誇り、主の誉め給う事を誉めるのである(10:13−18)」と云っている。かくしてパウロは謙遜なる態度を以って自己の誇りを局限しつつ、却って偽教師等との区別を明かにしている。光来る時暗黒は自ら明かにされると同じである

(かれ)らは(おのれ)によりて(おのれ)(はか)り、(おのれ)をもて(おのれ)(くら)ぶれば()なき(もの)なり。

註解: 彼ら偽教師らの誇りは愚である、何となれば他の大使徒等と己とを比較した上にその誇るべき点を誇るのではなく、また正しい尺度と標準とを以って計らずに自ら勝手に誇り、また自らの尺度と標準とを以って比較計量しているからである。若しペテロやパウロ等を尺度として彼らを計量したならば、彼らは誇るべき点なきを発見するであろう

10章13節 (われ)らは範圍(はんゐ)()えて(ほこ)らず、[引照]

口語訳しかし、わたしたちは限度をこえて誇るようなことはしない。むしろ、神が割り当てて下さった地域の限度内で誇るにすぎない。わたしはその限度にしたがって、あなたがたの所まで行ったのである。
塚本訳しかしわたし達は、(あの方々のように)限度を越えて自慢しようとするのではない。ただ神が割り当ててくださった(わたし達の伝道の職)分──これは実際あなた達の所まで及んだのであるが──この(職)分の限度に応じて自慢するだけである。
前田訳われらは度をこえて誇りはしません。神がはかってわれらに割り当てられた範囲の度にしたがって、あなた方のところまで行ったのです。
新共同わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。
NIVWe, however, will not boast beyond proper limits, but will confine our boasting to the field God has assigned to us, a field that reaches even to you.
註解: たとい我らも誇るとしても、誇り得べき程度を越えて無制限に誇ることをしない

(かみ)(われ)らに(わか)(たま)ひたる範圍(はんゐ)にしたがひて(ほこ)らん。その範圍(はんゐ)(なんぢ)らに(およ)べり。

註解: 直訳「神の我らに分与し給える尺度なる準縄(はかりなわ)の度に従いて誇らん」。神は使徒らに各々基準を定め給いて、その活動の範囲を定め給うた。準縄(はかりなわ)をもて土地の範囲を決定するが如く、パウロ等もその(はか)られし範囲について誇っていたのである。そしてこの範囲はコリントに及んでいた。故にコリントの教会については誇ることができる(10:12−14

10章14節 (なんぢ)らに(およ)ばぬ(もの)のごとく範圍(はんゐ)()えて()(のば)すに(あら)ず、キリストの福音(ふくいん)(つた)へて(なんぢ)らにまで(いた)れるなり。[引照]

口語訳わたしたちは、あなたがたの所まで行けない者であるかのように、むりに手を延ばしているのではない。事実、わたしたちが最初にキリストの福音を携えて、あなたがたの所までも行ったのである。
塚本訳なぜなら、わたし達は(伝道が)あなた達に及んでいないのに、限度を越えて自分(の勢力)を広げるようなことはしない。実際あなた達の所まで行って、キリストの福音を説いたのだから。
前田訳われらは、そちらに行かなかったもののように度をこえて手をのばしたのではありません。実際われらはキリストの福音をもって、最初にそちらまで行ったものです。
新共同わたしたちは、あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を超えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。
NIVWe are not going too far in our boasting, as would be the case if we had not come to you, for we did get as far as you with the gospel of Christ.
註解: パウロ等はその活動の範囲がコリントまで到達しないのに、その範囲を越えて身を延ばし、(あたか)もコリントに到達せるものの如くして誇っているのではない。事実キリストの福音の使徒としてこれを宣伝えて汝らに到達したのである。この語の反面には偽の教師等が為しつつある態度を諷刺している▲パウロはコリントにおける福音伝道の業績については充分に誇っていた。然るに偽教師らが、自分は充分に伝道もせずにパウロの伝道地に手を伸ばし、パウロの労を自分の労であるかの如くに誇った。そして彼らはパウロを非難して彼の価値を信徒の目に(ひく)くしようとした。

10章15節 (われ)らは(おの)範圍(はんゐ)()えて(ほか)(ひと)(らう)(ほこ)らず、[引照]

口語訳わたしたちは限度をこえて、他人の働きを誇るようなことはしない。ただ、あなたがたの信仰が成長するにつれて、わたしたちの働きの範囲があなたがたの中でますます大きくなることを望んでいる。
塚本訳わたし達は他人の仕事(の実)を(自分の手柄顔に)限度を越えて自慢するのではない。むしろこんな希望を持っている、(すなわち、)あなた達の信仰があなた達の中で成長し(て、もはやわたし達の必要がなくなっ)た暁には、(神に割り当てられた)わたし達の(職)分に応じて、最大限度にまで発展したいのである。
前田訳われらは他の人の労苦をもって度をこえて誇りはしません。われらは、あなた方の信仰が成長し、われらの範囲に従ってあなた方によってますます発展する希望をもっています。
新共同わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、
NIVNeither do we go beyond our limits by boasting of work done by others. Our hope is that, as your faith continues to grow, our area of activity among you will greatly expand,
註解: 偽の教師らは己の範囲を越えて、パウロのコリントにおける労に就いて、これを自己のものであるかの如くに誇っていた。パウロはかかることをしないと断定している。パウロには武士的廉潔(れんけつ)があった

(ただ)なんぢらの信仰(しんかう)彌増(いやま)すにより、(われ)らの範圍(はんゐ)(したが)ひて(なんぢ)らのうちに(さら)(おほい)ならんことを(のぞ)む。

註解: パウロの希望はコリントの信徒の信仰がますます発達して、パウロ等の真価を認むるに至り、その結果パウロ等が益々大なるものとして崇められ、パウロ等の働きの範囲内においてその価値が益々認められるに至ることである。これコリントの信徒の信仰の維持の為、また福音が更に進展するが為に必要であった。現在においてはコリントの信徒の信仰の弱きがために、偽教師等の煽動によりパウロの価値が充分に認められていない。
辞解
[更に] 豊かにの意

10章16節 これ(ほか)(ひと)範圍(はんゐ)(すで)(そなは)りたるものを(ほこ)らず、(なんぢ)らを()えて(そと)(ところ)福音(ふくいん)宣傳(のべつた)へん(ため)なり。[引照]

口語訳こうして、わたしたちはほかの人の地域ですでになされていることを誇ることはせずに、あなたがたを越えたさきざきにまで、福音を宣べ伝えたい。
塚本訳あなた達のはるかかなたの地方に福音を伝えたいのである。他人の(職)分を種に、出来上がっているものを自慢したくないのである。
前田訳それは、他の人の範囲で準備されたものを誇らないで、あなた方のところのかなたまで福音を伝えるためです。
新共同あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。
NIVso that we can preach the gospel in the regions beyond you. For we do not want to boast about work already done in another man's territory.
註解: コリントの信徒のうちに一層大ならん事を望むの理由は、パウロがコリントの方面にその働きを終えて更に一歩踏み出し、コリントを越えてローマ、スペイン等に福音を伝えんが為である。但しかく云うも偽教師等の為すが如くに、他人の縄張りに闖入(ちんにゅう)して他人がすでに成し遂げている処の事を誇る為では無い(パウロの皮肉を見よ)、前人未開の地に踏込まんが為である(その勇気を見よ)

10章17節 (ほこ)(もの)(しゅ)によりて(ほこ)るべし。[引照]

口語訳誇る者は主を誇るべきである。
塚本訳“誇る者は(ただ)主にあって誇れ”(と聖書にある。)
前田訳「誇るものは主にあって誇れ」。
新共同「誇る者は主を誇れ。」
NIVBut, "Let him who boasts boast in the Lord."
註解: エレミヤ記よりの引用であって(引照)神より賜わりしものにつき誇り、または神の悦び給うものにつき誇る事を「主によりて誇る」と云っているのであって、神の与え給わざる賜物、神の分与し給わざる範囲につき自己の尺度を以って誇る事は、主によりて誇るのと相反する

10章18節 そは(これ)とせらるるは(おのれ)()むる(もの)にあらず、(しゅ)()(たま)(もの)なればなり。[引照]

口語訳自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。
塚本訳本物(の使徒)は自分で推薦する者ではなく、主が推薦される者だからである。
前田訳自己推薦をする人でなく、主が推薦なさる人こそ本物です。
新共同自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。
NIVFor it is not the one who commends himself who is approved, but the one whom the Lord commends.
註解: 主の是とし給う者は己を誉むる偽教師の類の者ではない。主に誉められるパウロの如き者である。故に如何に誇るも主によらざる誇りは虚しい。若しコリントの信徒がかかる虚しき誇りに欺かれないならば、パウロに対する不信の念を起こさないであろう。
要義 [愛による誇り]パウロがその使徒としての職務、価値、態度をコリント人に誇る事は、自己を誇って得意になる事を意味しない。パウロの誇りはコリント信徒と自己との関係につき、また彼の職務、価値、態度につき満足、喜悦の情、すなわち「誇らしさ」を示しているに過ぎない。これを不相応に自己誇張を為す意味の「誇り」と混合すべきではない(Uコリ1:12註解参照)。彼はコリントの信者に対する切なる愛より彼のこの誇りを傷つける偽教師の言動を黙許する事ができず、(あたか)も親愛深き親子の間に他人入り来たりてその親子の間を割かんとする場合の如く、パウロはその誇りを傷つけられし事に対して強き悲しみを感じ、ここにその弁護を為さざるを得ざるに至ったのである。この誇りは愛による誇りであって、凡ての伝道者は、その神の分け与え給いし範囲に対してこの誇りを持つべきである。(Tコリ13:4にある「愛は誇らず」は原語を異にし、異なれる性質の誇りを意味している)。