黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ピリピ書

ピリピ書第4章

分類
3 教訓 2:1 - 4:9
3-4 対異端の注意 3:2 - 4:1
3-4-ロ 十字架の敵 3:17 - 4:1  

註解: この一節は前節末尾に密着する。

4章1節 この(ゆゑ)()(あい)するところ(した)ふところの兄弟(きゃうだい)、われの喜悦(よろこび)われの冠冕(かんむり)[たる(あい)する(もの)]よ、()くのごとく(しゅ)にありて(かた)()て。((あい)する(もの)よ。)[引照]

口語訳だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。
塚本訳だから、愛し慕うわが兄弟達よ、わが歓喜よ冠よ、かく主にあって確り立って居れ、(ああ、わが)愛する者よ!
前田訳それゆえ、わが愛し慕う兄弟よ、わがよろこび、また冠(かんむり)である愛するものよ、このように主にあって立ちなさい。
新共同だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
NIVTherefore, my brothers, you whom I love and long for, my joy and crown, that is how you should stand firm in the Lord, dear friends!
註解: 本節の始めと終りとに「愛する兄弟」「愛する者よ」を繰り返し、また「慕うところの兄弟」とも呼んでいるのを見れば、パウロが如何にピリピの信徒に対し切々たる愛情を持っていたかを知る。また「わが喜悦わが冠冕(かんむり)」と呼ぶを見れば、パウロはピリピの信者の信仰を喜びかつこれに誇っていたことを知ることができる。それ故に彼はかれらに「斯くのごとく主にありて堅く立つ」べきことをすすめている。すなわち十字架の敵たる者に惑わされることなく、天国の民として、キリストにありてその再臨待望の信仰に堅立すべきことを教えているのである。
辞解
[冠冕(かんむり)] stephanos 勝利の栄冠、ピリピの信者の立派な信仰はパウロの勝利の栄冠である。
[斯くのごとく] ピリ3:17の模範のごとくと解する説あれど(M0)むしろピリ3:20、21のごとくパウロらのみならずピリピの信徒をも含めて、一般的にキリスト者の取るべき態度を指すと見るべきであろう。従って「現にピリピの人の取っている態度のごとくに」(B1、C1)と解するに及ばない。▲かかる言葉で呼びかけることのできる会衆を持っている伝道者は幸福である。またかく呼ばれる集会もまた幸福である。

3-5 日常生活の注意 4:2 - 4:9
3-5-イ 争うこと勿れ 4:2 - 4:3  

4章2節 (われ)ユウオデヤに(すす)めスントケに(すす)む、(しゅ)にありて(こころ)(おな)じうせんことを。[引照]

口語訳わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。
塚本訳ユオデヤに勧める、またシンケテに勧める、主に在って思いを同じうするように!
前田訳エウオデアに勧め、スントケに勧めます。主にあって思いをひとつになさい。
新共同わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。
NIVI plead with Euodia and I plead with Syntyche to agree with each other in the Lord.
註解: この二人の婦人が相争って教会の平和を(みだ)していた。パウロはその一人一人に勧めて同じ念をいだくように教えている。しかもそれは「主にありて」で相争うに至ることは主を離れることから起るのである。
辞解
この二婦人の何人たるか、教会の役員であったかどうか、またその争いの何に起因しているか等一切不明である。ピリピの教会には婦人が優勢であった(使16:13以下)。その半面にかかる争いは生じ易い。

4章3節 また眞實(まこと)(われ)(くびき)(とも)にする(もの)よ、なんぢに(もと)む。この二人(ふたり)(をんな)(たす)けよ。[引照]

口語訳ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。
塚本訳然り、(私と共に軛を負ってくれる)真実なる僚友よ、君にも頼む、どうかこの婦人達を助けてやってくれ。この人達はクレメンスや、その他“生命の書に”名の載っている私の働き仲間と一緒になって、私と共に福音のために戦ってくれたのだ。
前田訳そうです。あなたにも願います。忠実な共労者よ、彼女らを助けなさい。この人たちは福音のためにわたしと戦いを共にしました。いのちの書に名を連ねるクレメンスその他のわが同労者もいっしょでした。
新共同なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。
NIVYes, and I ask you, loyal yokefellow, help these women who have contended at my side in the cause of the gospel, along with Clement and the rest of my fellow workers, whose names are in the book of life.
註解: ここにパウロはある一人に呼びかけて、二人の婦人を助けることを求めている。この一人の誰なるかにつきては辞解を見よ。
辞解
[真実に我と共に軛を共にする者よ] gnêsie suzuge は難解にして諸種の解あり。(1)スンズゴスという人名と見る。(2)パウロ自身、(3)パウロの妻、(4)シラス、(5)テモテ、(6)エパフロデト、(7)バルナバ、(8)ルカ、(9)ルデヤ、(10)ピリピにおける有力な監督等種々あれど要するに不明なり。「軛を共にする者」とは夫婦、仲間等の関係に用いる故に、パウロはこの場合ピリピの信徒の中に一人にてもパウロと共にこの事態を憂うる者に呼びかけたものと見ることを得るように思う。
[助く] syllambanô は「捕える」というごとき意味の語で、この二人を同志の中に取り込むごとき心持を示す。

(かれ)らはクレメンス()のほか生命(いのち)(ふみ)()(しる)されたる()同勞者(どうらうしゃ)(おな)じく、福音(ふくいん)のために(われ)とともに(つと)めたり。

註解: パウロはここに二人の婦人の福音のための功労を挙示している。すなわち彼らのごとき人々はクレメンスその他のパウロの同労者と同様に福音のために勤めたのであった。それらの人々はみな神の御許にある生命の書に名を録され永遠の生命を確保したものであるから、二人の婦人も同様に生命の書に録されているのであろうというのがパウロの内意であろう。従って彼らが相争うことは有るべからざることで、これを一致せしめ全教会が一つとなることが当然である。
辞解
[クレメンス] おそらくピリピの教師であろう。
[生命の書] 云々はすでに死せる聖徒を指す(B1)か否やは不明である。
[彼ら] 「かかる人々は」の意。
要義1 [教会の不一致]教会の不一致は種々の原因より起り得るのであって、必ずしも凡てが誤っていると言うことはできない。パウロとユダヤ的キリスト者との争いのごときはそれである。しかしながら信徒相互間の高慢、勢力争い、利害の争い、感情的好悪による争い等はキリストにある者の為すべからざる処のものであり、各自深く反省すべき処の事柄である。
要義2 [信徒間の争闘]キリスト者同士の間にも争いが起ることがある。かかる場合双方の考うべきことは第一に両者ともキリストを首とする同一の体なること、第二に両者の一致が当然の姿であること、従って第三に両者の和解に向って努力すべきことである。そして和解の道は、第一に、相手の欠点を指摘するより先に、まず自己の欠点につき反省すべきこと、第二に、自由問題の範囲につきては他を強制せず、蔑視せず、また裁かないことである。

3-5-ロ 歓喜、祈願、感謝の生活 4:4 - 4:7  

註解: 4−7節はキリスト者の生活態度の如何なるべきかを示し、これをこの世の人々の生活とそれとはなしに対照しているのを見る。

4章4節 (なんぢ)(つね)(しゅ)にありて(よろこ)べ、(われ)また()ふ、なんぢら(よろこ)べ。[引照]

口語訳あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
塚本訳いつも主に在って喜べ!もう一度(繰り返して)言う、喜べ!
前田訳主にあって、つねにおよろこびなさい。繰り返します。およろこびなさい。
新共同主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
NIVRejoice in the Lord always. I will say it again: Rejoice!
註解: 歓喜は本書の基調である。そしてこれは「常に」でなければならず、間断があってはならない。また「主にありて」であって、肉にある喜びとは全く異なる種類の喜びでなければならぬ。かく常に喜び得ることはキリスト者の特権である。

4章5節 (すべ)ての(ひと)(なんぢ)らの寛容(くわんよう)()らしめよ、(しゅ)(ちか)し。[引照]

口語訳あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。
塚本訳君達の優しい心を(信仰の友人ばかりでなく、)皆(世間)の人に(も)知らせよ。主(の来臨)は近い。
前田訳あなた方の善意がすべての人に知られますように。主はお近くです。
新共同あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
NIVLet your gentleness be evident to all. The Lord is near.
註解: 寛容は他人が自分に対する悪しき態度や他人より受ける損害等に対してこれを忍耐して柔和なる態度をもって接することである。これはキリストの再臨の近きことを知り、その際に受くべき栄光を思う時、容易にこれを実行することができる。そしてこれを一般の人に示すことがキリスト者の務めである。
辞解
[主は近し] 当時の信徒間の合言葉のごときものとなった。Tコリ16:22のマラン・アタはそのアラム語である。多分世の迫害等の苦痛に遭う時「今一息だ」というごとき心持で「主は近し」と言い合ったのであろう。寛容の徳もこの信仰により可能となる。

4章6節 何事(なにごと)をも(おも)(わづら)ふな、[引照]

口語訳何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
塚本訳何事についても心配せず、君達の求めは感謝を添えた祈りと願いとにより、大小となく神に知らせよ。
前田訳何ごとも心配せず、万事感謝をもって祈りと願いをしつつ、あなた方の求めを神にお知らせなさい。
新共同どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
NIVDo not be anxious about anything, but in everything, by prayer and petition, with thanksgiving, present your requests to God.
註解: 思い煩いは心が神から離れて自己に、または物に向った時に起ってくる心である(マタ6:25マタ6:34)。

ただ(こと)ごとに(いのり)をなし、(ねがひ)をなし、感謝(かんしゃ)して(なんぢ)らの(もとめ)(かみ)()げよ。

註解: 万事につき神に対する関係においてこれを処置することがキリスト者の日常の態度でなければならぬ。すなわち「祈り」となって神に対して一般的の願望を吐露し「願い」として特別の事件につきその処置を求め、そして凡ての神の愛護指導に関して感謝し、そして我らの生活上信仰上の種々の求むることどもを神に向って告げることが我らの生活でなければならない。かくする者にとりては思い煩いはあるはずがない。▲神を知らない者にはこの平安は有り得ない。

4章7節 さらば(すべ)(ひと)(おもひ)にすぐる(かみ)平安(へいあん)は、(なんぢ)らの(こころ)(おもひ)とをキリスト・イエスによりて(まも)らん。[引照]

口語訳そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
塚本訳そうすれば全く思いもよらぬ神の平安が君達の心と考えをキリスト・イエスにおいて守るであろう。
前田訳そうすれば、すべての人知をこえる神の平和が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。
新共同そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
NIVAnd the peace of God, which transcends all understanding, will guard your hearts and your minds in Christ Jesus.
註解: 神に対する祈りによりて神との霊の交わりに生きる者には、神の与え給う平安は、あらゆる思い煩いを克服し、彼らの心(思想や感情)と彼らの思い(判断や企図)とをキリスト・イエスにありてあらゆる外敵の侵入より防衛する。そしてこの「神の平安」は到底人間の心をもって把握し尽くし得ない広さ高さ深さを有つ処のものである。
辞解
[人の思にすぐる] 「人間の思いをもって企て得ない」の意味に取る学者多し(M0、L3)。ただし上註のごとくに解す(L1、C1)。
[神の平安] 神との間の平和の意味にあらず。
[守る] 敵の攻撃より防禦すること。
要義 [キリスト者の日常生活]「常に喜べ、絶えず祈れ、凡てのことに感謝せよ」(Tテサ5:16-18)はキリスト者の日常生活の基調である。かくして世の人の日常生活を支配する不平、不満、ならびに祈ることを得ざる淋しさは、キリスト者にとりては別世界の事件である。しかもこれキリスト者の修養努力の結果にあらず、キリスト者の全生涯が神の恩恵の下にあるからである。

3-5-ハ 一般道徳を尊重せよ 4:8 - 4:9  

4章8節 (をはり)()はん、兄弟(きゃうだい)よ、[引照]

口語訳最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。
塚本訳最後に、兄弟達よ、(凡て)真なること、気高いこと、正しいこと、潔いこと、人の喜ぶこと、褒めることは何でも、徳という徳、誉れという誉れ、これら(凡て)を(常に)心に留め(、これを行おうと努め)よ。
前田訳終わりに、兄弟よ、すべて真実のこと、気高いこと、正しいこと、純粋なこと、愛すべきこと、ほまれ高いこと、また徳といわれ、称賛に値するものがあれば、これらを心におとめなさい。
新共同終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
NIVFinally, brothers, whatever is true, whatever is noble, whatever is right, whatever is pure, whatever is lovely, whatever is admirable--if anything is excellent or praiseworthy--think about such things.
註解: ピリ3:1註参照。なお8、9節はキリスト者が一般社会の道徳習慣に対して如何に考え、如何なる態度を取るべきかにつきて教えている。

(おほよ)(まこと)なること、

註解: 人間の真実さ。

(おほよ)(たふと)ぶべきこと、

註解: 道徳的善の故に尊ばれること。

(おほよ)(ただ)しきこと、

註解: 法律的道徳的不正不義の反対。

(おほよ)(いさぎ)よきこと、

註解: 純潔、清浄なること。

(おほよ)(あい)すべきこと、

註解: 人の一般に愛好することがら。

(おほよ)令聞(よききこえ)あること、

註解: 評判よきこと、または人々によく聞ゆること(L3、L1)の意味に解する学者あり。

如何(いか)なる(とく)

註解: この徳 aretê はギリシャ古典において専ら用いられる文字で、道徳を意味しているのであるが、パウロはできるだけこれを用いることを避けているもののごとく、ここに唯一回用いているだけである。ここでも一般的に道徳として認められている事柄を指す。

いかなる(ほまれ)にても、(なんぢ)()これを(おも)へ。

註解: 「誉」は一般の人々に認められることである。以上に列挙せられし八つの事柄は信仰より出づる徳ではなく、一般に認められる社会道徳である。パウロはこれらをも「(おも)ふ」べきこと、これに対して敬意を持つべきことをすすめている。これはキリスト者の謙遜の当然の姿である。キリスト者は高き道徳を保持して、これに誇るの結果、往々にして一般の人々が道徳として尊敬している事柄につき、一般の人以下の態度に出づることがあることは、悲しむべきことであり、充分に注意しなければならない事柄である。▲▲いわゆる旧来の陋習(ろうしゅう)(=悪い習慣:広辞苑)はこれを破らなければならないが、旧来の習慣の中に宿っている善い精神はこれを尊重して行くべきである。外国の習慣の盲目的模倣も日本旧来の習慣の無批判的固執も共に神の意味の自由さの障害である。

4章9節 なんぢら(われ)(まな)びしところ、()けしところ、()きしところ、()(ところ)(みな)おこなへ、[引照]

口語訳あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。
塚本訳君達が学びまた伝えられ、私に聞きまた見たことは、(すべて)これを行え。そうすれば平和の神が君達と共にいまし給うであろう。
前田訳あなた方がわたしから学び、受け、聞き、見たこと、それらを実践なさい。
新共同わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
NIVWhatever you have learned or received or heard from me, or seen in me--put it into practice. And the God of peace will be with you.
註解: 我が説教によりて学び、我より伝えられし処を受け、我が生活や行動につきて見聞した処、それらをみな実行すべし。前節は「(おも)へ」であってこれは生活上の参考であり、生活の原動力ではない。生活の原動力は信仰であり、パウロの生活や教訓はその模範である(ピリ3:17)。

さらば平和(へいわ)(かみ)なんぢらと(とも)(いま)さん。

註解: 神は我らの正しき生活態度の中にのみ宿り給う。そして神の賜う平和はかかる者の中にのみ存する。凡てにおいて正しからんと欲しない者には神が宿り給わない。
要義 [一般道徳とキリスト者]信仰によりて義とせられ律法の行為によらずとの教理は、往々にして律法違反を敢えてして恥じざるに至る傾向を有している。いわんや異教の社会の風俗、習慣、徳義等を軽視または無視する傾向は、キリスト者の中に往々見受ける処である。しかしながら異教国においても、神は適当の方法をもって必要なる徳義と風習とを教え給うた。その中にはそれらの国民にとりて棄てることができないもの、また棄てる必要のなきものが多く存在する。それ故にキリスト者なるが故にこれらを軽蔑しまたは無視すべきではない。これらに対して相当の敬意を払うべきことは、当然のことと言わなければならない。外国宣教師が日本の国体とその道徳習慣に対して尊敬を持たなかったことが、日本におけるキリスト教の発展の上に及ぼした障害は量り知ることができないものがある。

分類
4 ピリピの信徒のパウロへの援助 4:10 - 4:20

4章10節 (なんぢ)らが(われ)(おも)(こころ)(いま)また(きざ)したるを、われ(しゅ)にありて(いた)(よろこ)ぶ。[引照]

口語訳さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである。
塚本訳君達が私のことを思ってくれる心にとうとうもう一度花を咲かせ、(私に贈り物をして)くれたことを私は主に在って非常に喜んだ──君達は(もちろん前から)いつも思っていてくれたのだが、(実行する好い)機会がなかったのだ。
前田訳主にあってわたしにたいへんうれしいことには、わたしのことを思う心があなた方に、今また芽ばえてきました。もっとも、あなた方はそれを心がけてくれましたが、機会(おり)がなかったのです。
新共同さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。
NIVI rejoice greatly in the Lord that at last you have renewed your concern for me. Indeed, you have been concerned, but you had no opportunity to show it.
註解: ピリピの信徒は以前にしばしばパウロを金銭的に援助した(ピリ2:25ピリ2:30Uコリ11:9)。しかしその後しばらく絶えていたのが、今また使い、または旅行者に託してパウロに援助を送った。これがパウロを思う心の再起を意味し、甚だしくパウロを喜ばせた。ただしこの喜びは以下に言うごとくパウロの私慾や私情の問題ではなく、「主にある」喜びであり、ピリピの信徒の信仰的心情に対する喜びであった。
辞解
[(きざ)す] 新芽が発生すること、これより転化して、繁盛することの意味にも用い、本節の場合「汝ら今また栄えて我が事を思うに至りたることを・・・・・・喜ぶ」と解する説あり(M0)。不適当なり、現行訳を可とす。

(なんぢ)らは(もと)より(われ)(おも)ひゐたるなれど、(をり)()ざりしなり。

註解: 上記のごとく一時はパウロを忘却せるがごとくであったけれども、実は「その間にも」eph’ho 彼を思っていたが、ただ彼に援助を送る機会がなかったのであるとパウロは説明して、本節前半により半面ピリピの信徒を非難するがごとくに見えるものを打消し、ピリピの信徒の立場をパウロ自ら弁解しているのである。
辞解
[思ひゐたり] 未完了過去形を用い継続的動作を示す。その前に関係代名詞句 eph’hô あり、先行詞の何たるかにつきて議論あり、前半の全部を受くるものと解す、すなわち「新たに(きざ)すまでの間にも」というごとき意ならん。ピリ3:12ロマ5:12辞解参照。

4章11節 われ窮乏(ともしき)によりて(これ)()ふにあらず、[引照]

口語訳わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
塚本訳これは(何も)貧乏をしているから言うのではない。私自身はどんな境遇にでも満足する稽古をしたのだから。
前田訳わたしが乏しいからこういうのではありません。わたしは置かれた境遇で満ち足りることを学びました。
新共同物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
NIVI am not saying this because I am in need, for I have learned to be content whatever the circumstances.
註解: パウロがピリピの信徒の贈物を非常に喜んだということ(10節)は、パウロが窮乏の中にあったためであると解されることは、パウロに取っても甚だ心外なことであった。かかる誤解のなからんためにことさらにこれをここに弁解しているのである。

(われ)如何(いか)なる(さま)()るとも、()ることを(まな)びたればなり。

註解: 最も富める者は、その持てる僅かの物にて足ることを学べる人であり、最も貧しき者はその持てる多くの物にてなお不足を感ずる人である。足ることを知るは最大の幸福である。パウロはその経験と、神より受くる恩恵とによりこれを知っていたので、貧困の中にありても他人よりの援助を期待せず、またこれを懇請せず、また使徒の権威をもってこれを強請しなかった(Tコリ9:15)。

4章12節 (われ)卑賤(いやしき)にをる(みち)()り、(とみ)にをる(みち)()る。[引照]

口語訳わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
塚本訳貧乏の道も知って居れば、有福の道も知っている。食い飽きることにも飢えることにも、有り余ることにも事欠くことにも、一切合切に通じている。
前田訳わたしは貧しくあることを知り、富むことを知っています。ありとあらゆることに秘義を受けています−−飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも。
新共同貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。
NIVI know what it is to be in need, and I know what it is to have plenty. I have learned the secret of being content in any and every situation, whether well fed or hungry, whether living in plenty or in want.
註解: 直訳「我は自ら(ひく)くすることを知りまた富むことを知る。」如何なる境遇といえども差支えなしにこれに処することができる。「貧賤も移すこと能わず、富貴も淫すること能わず」(孟子)。境遇の如何を超越して常に不変である。

また()くことにも、()うることにも、()むことにも、(とぼ)しき(こと)にも、一切(すべて)秘訣(ひけつ)()たり。

註解: 如何なる幸福も如何なる不幸も、換言すれば万事万端においてパウロはこれに対処する秘決を握っていた。不幸の中に毅然たる人にしてかえって幸福の中に堕落し、幸福の中に正しく生くる人にしてかえって不幸の中に失脚する場合が多い。
辞解
[一切の] 原語「凡てにおいてまた各々において」で万事万端というがごとし。

4章13節 (われ)(つよ)くし(たま)(もの)によりて、(すべ)ての(こと)をなし()るなり。[引照]

口語訳わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。
塚本訳私を力づけ給うお方の御蔭で何でも出来る。
前田訳わたしを力づけてくださる方によって何でもできます。
新共同わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
NIVI can do everything through him who gives me strength.
註解: 前2節の結論である。すなわちパウロがかく如何なる境遇にも耐え、これに超越し、これを克服し得る所以は己が力量によるにあらず、我が(うち)に働きて我を強くし給う者すなわちキリストによりて力を得て、これを為し得るに至るのである。信仰は凡ての境遇に処する道を教え、凡ての境遇に打勝つことを得しめる。

4章14節 されど(なんぢ)らが()患難(なやみ)(あづか)りしは()(こと)なり。[引照]

口語訳しかし、あなたがたは、よくもわたしと患難を共にしてくれた。
塚本訳それにしても君達は善くこそ私と苦難を共にしてくれた。
前田訳しかしあなた方がわたしと苦しみを共にしてくれたのはいいことでした。
新共同それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。
NIVYet it was good of you to share in my troubles.
註解: 11−13節のごとくであるとすればピリピの信徒の寄附は不必要であり、彼らの行為は無用の干渉であると言わんがばかりに聞ゆるために、パウロは「されど」と言いて彼らの行為の意義を新たに考える態度を取っている。そしてパウロは「善き事なり」(直訳「善く行えり」)と言って賞揚している。
辞解
[(あづか)る] synkoinôneô は「共に交わる」なる文字、患難を共にすること。

4章15節 ピリピ(ひと)よ、(なんぢ)らも()る、わが(なんぢ)らに福音(ふくいん)(つた)ふる(はじめ)[引照]

口語訳ピリピの人たちよ。あなたがたも知っているとおり、わたしが福音を宣伝し始めたころ、マケドニヤから出かけて行った時、物のやりとりをしてわたしの働きに参加した教会は、あなたがたのほかには全く無かった。
塚本訳ピリピの人達よ、君達自身も知っているように、福音伝道の初め私がマケドニヤ(の君達の所)を出て来る時、ただ君達を除いては一つの教会も私と(遣り取りして)貸借勘定(の親しい関係)に入ってくれなかった。
前田訳ピリピの方々よ、あなた方もご承知のように、福音を説きはじめたころ、マケドニアから出かけたときに、どの集まりも物のやりとりでわたしと協力してくれませんでしたが、あなた方だけはしてくれました。
新共同フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
NIVMoreover, as you Philippians know, in the early days of your acquaintance with the gospel, when I set out from Macedonia, not one church shared with me in the matter of giving and receiving, except you only;
註解: これは第二伝道旅行の頃のことを指す(使16:12)。

マケドニヤを(はな)()るとき、授受(やりとり)して()(こと)(あづか)りしは、(なんぢ)()のみにして、(ほか)教會(けうくわい)には()かりき。

註解: マケドニヤの伝道を終えてアカヤに赴かんとしていた時(使17:14)(M0、L2)、ピリピの信徒はパウロに対して金銭を贈ったが他の教会はこれを為さなかった。これをパウロは特に徳としていた。
辞解
[離れ去るとき] 「離れてから後」のこととし、Uコリ11:8、9の寄付を指すと解する説あり(L3)。
[授受して我が事に与りしは] 直訳「授受の事(勘定)において我に交わりしは」である。授受はパウロに金銭を与えパウロより霊の賜物を受けたことを指す説あれどかく詳細に解するに及ばず、密接なる金銭上の関係があることを指す。「授受の勘定」なる語は商業用語。

4章16節 (なんぢ)らは()がテサロニケに()りし(とき)に、一度(ひとたび)ならず二度(ふたたび)までも()窮乏(ともしき)(もの)(おく)れり。[引照]

口語訳またテサロニケでも、一再ならず、物を送ってわたしの欠乏を補ってくれた。
塚本訳また私がテサロニケにいた時も、(本当に)君達は一度ならず二度まで乏しい私に物を贈ってくれたのである。
前田訳テサロニケでも、一度ならず二度まで、わたしの欠乏のために物を送ってくれました。
新共同また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
NIVfor even when I was in Thessalonica, you sent me aid again and again when I was in need.
註解: パウロはテサロニケにおいては生活苦に陥り、自ら労働して生活を維持していた(Tテサ2:5Uテサ3:8)。かかる場合重ね重ねの贈物は如何ばかりパウロを力付けたことであろう。

4章17節 これ贈物(おくりもの)(もと)むるにあらず、[引照]

口語訳わたしは、贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである。
塚本訳これは贈り物が欲しいからではない。君達の貸の勘定を殖やす信仰の果実が欲しいのである。
前田訳わたしは贈り物を欲しがるのではなく、あなた方の益を増す果実を求めています。
新共同贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。
NIVNot that I am looking for a gift, but I am looking for what may be credited to your account.
註解: 前節においてピリピの信徒の行為を褒めたのは、或はかくしてまた贈物に与らんとする野心でもあるように思われるやも知れないが、決してかかる意味ではないことをパウロは弁解している。11節参照。

(ただ)なんぢらの(えき)となる()(しげ)からんことを(もと)むるなり。

註解: 直訳「唯汝らの勘定を豊富ならしむる実を求む」で15節の思想を継続し商業上の思想を応用している。すなわちピリピ人は贈物を為すことによりて損をすることはなくかえってこれによりてその貸借対照表の益の方を豊富ならしむる実が彼らに与えられるのである。慈善は人のためならず、それはかえってこれを行う者を益する。

4章18節 (われ)には(すべ)ての(もの)そなはりて(あまり)あり、[引照]

口語訳わたしは、すべての物を受けてあり余るほどである。エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である。
塚本訳とにかく(今)私は凡てを受け取ったので有り余っている。エパフロデトから君達の贈り物を貰ったので満ち溢れているのだ──(本当に君達の贈り物は)“馨しい香り”、神の喜び受け給う献げ物である。
前田訳わたしはすべてを受けてあり余っています。エパフロデトからあなた方がお送りのものをお受けして満ち足りています。それはかぐわしい香り、神のよろこんでお受けになるいけにえです。
新共同わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。
NIVI have received full payment and even more; I am amply supplied, now that I have received from Epaphroditus the gifts you sent. They are a fragrant offering, an acceptable sacrifice, pleasing to God.
註解: 「そなはりて」 apechô は商業用語で「領収済」の意味に用いられる語である。もう充分に受けたので余っている位であるとのこと。

(すで)にエパフロデトより(なんぢ)らの贈物(おくりもの)()けたれば、()()れり。

註解: 「飽き足れり」はむしろ「満ち足りている」と訳するを可とす、本節前半の詳説である。すなわちすでにエパフロデトより受けし汝らの贈物にて充分であったのに今また贈物を受けてもはや万事領収済の上に余分が出来たというごとき意。

これは(かうば)しき(にほひ)にして(かみ)()(たま)ふところ、(よろこ)びたまふ(ところ)供物(そなへもの)なり。

註解: 「汝らの贈物」の説明句である。この贈物は単に贈られるパウロを喜ばすだけではなく、最も喜び給うは神である。祭壇においてささげられる犠牲の燔祭の(けむり)は、神に対して「馨しき香」であると同じく、この贈物もまた馨しき香として神の御許に達する(エペ5:2Uコリ2:15)。そしてこれはまた旧約の犠牲の供物と同じく神の喜びて()け給う供物である。それ故にパウロに対して為されし愛の贈物は、そのまま神への供物である。

4章19節 かくてわが(かみ)(おのれ)(とみ)(したが)ひ、キリスト・イエスによりて(なんぢ)らの(すべ)ての窮乏(ともしき)榮光(えいくわう)のうちに(おぎな)(たま)はん。[引照]

口語訳わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。
塚本訳そして私の神はその(満ち足る)富により、君達の乏しいものを何でもキリスト・イエスをもって輝かしく満たし給うであろう。
前田訳わが神はキリスト・イエスにある栄光による富の中からあなた方のすべての必要をお満たしでしょう。
新共同わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
NIVAnd my God will meet all your needs according to his glorious riches in Christ Jesus.
註解: パウロに対して贈物を為したことは一見彼らの損失となるごとくに見える。それはパウロが物質的にこれに報いることができないからである。しかしながらこの贈物は実は神に対して為された供物である故、神は彼らの欠乏を自ら充たし給うのである。(▲Uコリ8:1、2参照。マケドニヤ地方(ピリピはその中にあり)の信徒は極度の貧困の中よりパウロの募金に応じたのであった。)それは「己の富に(したが)ひ」て為さするのであり、無限の富を有ち給う神は豊かに報いることを得給う。またこれは必ずしもこの世における物的報償を意味しない。かえってキリスト・イエスにありて栄光の中に与えられる永遠の神の国の報償である。マタ5:3以下。ヨハ4:14エペ1:18ロマ8:21
辞解
「我が神」と言える所以は我は汝らに報いることを得ざれど、「我に代りて我が神は」というごとき意。
[補い] plêroô は「満す」。

4章20節 (ねが)はくは榮光(えいくわう)世々(よよ)(かぎ)りなく、(われ)らの(ちち)なる(かみ)にあれ、アァメン。[引照]

口語訳わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。
塚本訳願う、私たちの父なる神に栄光世々限りなくあらんことを、アメーン!
前田訳われらの神また父に栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
新共同わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
NIVTo our God and Father be glory for ever and ever. Amen.
註解: パウロはピリピの信徒の立派なる行為を思い、凡てを神の栄光に帰してこれを讃美している。ロマ11:36引照3を見よ。

分類
5 結尾の挨拶 4:21 - 4:23

4章21節 (なんぢ)らキリスト・イエスに()りて聖徒(せいと)おのおのに安否(あんぴ)()へ、[引照]

口語訳キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、よろしく。わたしと一緒にいる兄弟たちから、あなたがたによろしく。
塚本訳キリスト・イエスにあって聖徒の一人一人によろしく伝えてくれ。私と一緒にいる兄弟達から君達によろしく。
前田訳キリスト・イエスにあるすべての聖徒によろしく。わたしと共にある兄弟たちからよろしくいっています。
新共同キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。
NIVGreet all the saints in Christ Jesus. The brothers who are with me send greetings.
註解: (▲「安否を問へ」は原語 aspazesthe で「挨拶せよ」の意。口語訳「よろしく」)信徒相互間に愛の挨拶を交すべきこと。

(われ)(とも)にある兄弟(きゃうだい)たち(なんぢ)らに安否(あんぴ)()ふ。

註解: ローマに在りてパウロの周囲にある兄弟たちを指す。

4章22節 (すべ)ての聖徒(せいと)(こと)にカイザルの(いへ)のもの、(なんぢ)らに安否(あんぴ)()ふ。[引照]

口語訳すべての聖徒たちから、特にカイザルの家の者たちから、よろしく。
塚本訳凡ての聖徒達、ことにカイザルの宮廷の者達から君達によろしく。
前田訳すべての聖徒、ことにカイサルの家の人たちからよろしくいっています。
新共同すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。
NIVAll the saints send you greetings, especially those who belong to Caesar's household.
註解: 「カイザルの家のもの」は王、王侯、宮内官より奴隷に至るまで、何れもかく呼ぶことができるので、この場合如何なる人を指しているかは不明である。ロマ16章にある人名の多くが「カイザルの家のもの」の中に在りし事実は明らかにせられているけれども同名異人なりや否やを知り難し、唯当時ローマの宮廷にキリスト信徒がかなり多かりしことを知ることができる。

4章23節 (ねが)はくは(しゅ)イエス・キリストの恩惠(めぐみ)、なんぢらの(れい)(とも)()らんことを。[引照]

口語訳主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。
塚本訳主イエス・キリストの恩恵、君達の霊とともにあらんことを。
前田訳主イエス・キリストの恵みがあなた方の霊とともにありますように。
新共同主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。
NIVThe grace of the Lord Jesus Christ be with your spirit. Amen.
註解: ロマ16:20引照3を見よ。パウロの書簡に常用の祈りである。
要義1 [知足の生涯]キリストに在る者は、その所有物の多少によりて影響せられない。それ故に殊更にティオゲネスのごとくに無所有を求めず、またソロモンのごとく多過ぎず少な過ぎざることをも求めない。如何なる境遇に在りても同一の心境をもって生活し得るのである。何となれば彼はキリストに在ることをもって足るが故に、その他の如何なる境遇も彼を左右し得ないからである。「一箪(いったん)の食、一瓢(いっっぴょう)の飲」をもって楽んでいた顔回(がんかい)ならずとも、キリスト者はみなかくあり得るのであり、英雄ならずともキリスト者は、富貴も淫すること能わず貧賤も移すこと能わざる処の者である。これキリストが彼を強くし給うが故である。
要義2 [伝道者に対する金銭的援助]パウロは使徒たる権威をもって信徒より金銭を強制的に徴収しなかった(Tコリ9:12)けれども、自由なる献金は喜んでこれを受けた。かかる献金をパウロが非常に喜んだ訳は、これがかえってこれを与える者に多くの祝福を与え、多くの実を結ばしめ、神がこれを喜びてこれに報賞を与え給うが故である。伝道者は神の使いである。この使いを厚く遇する者を神が報い給うことは当然である。マタ25:31−46の一層高度なる場合である。