ロマ書第9章
分類
3 救拯論
3:21 - 11:36
3-(2) 全人類の救い
9:1 - 11:36
3-(2)-(1) 救は神の予定なり
9:1 - 9:26
3-(2)-(1)-(イ) パウロの愛国心
9:1 - 9:5
註解: 前章の終に救に関し大歓呼の声を挙げしパウロはここに顧みてその同族イスラエルの不信を思い、断腸の思に耐えなかった。神の約束が空に帰せしにあらずや、神の自由の選択は神に不義あるにあらずや、イスラエルは全く捨てられしに非ずや、全人類は果して救わるべきや等の問題がパウロの心に起った。パウロはこれに答えて、いや先にキリストを受納るべきイスラエルが彼を拒みし事は神の約束が虚しきに帰せしにあらず、イスラエルの不信による事、神は自由の選択により恩恵を与え給うとも
咎 むべきにあらざる事、イスラエルの中にも「残れる者」の存在する事、イスラエルはイエスに躓いたけれどもこれ恩恵が異邦人に向わんが為であり、かくしてイスラエルを励まして遂にイスラエルが全く救われるに至る事が神の驚くべき経綸である事を9-11章に於て論じている。この部分の中に預定の問題に関し叉選びの問題について論及しているけれどもパウロの目的はこの種の神学問題を思索せんとしたのではなく神の経綸に対してその驚嘆の声を揚げたのである。
口語訳 | わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。 |
塚本訳 | 私はキリストにある者として本当のことを言う、嘘はつかない。わたしの良心も聖霊によって、(それが本当であることを)保証してくれる。 |
前田訳 | わたしはキリストにあって真実をいい、うそはいいません。わが良心も聖霊によって証します。 |
新共同 | わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、 |
NIV | I speak the truth in Christ--I am not lying, my conscience confirms it in the Holy Spirit-- |
註解: 前章のパウロの歓喜に比して今より言わんとする事があまりに異様に聞えるので、パウロは先づ各方面よりの証しを加えてその言う処の真実なる事を証明している。
辞解
[キリストに在りて] キリストに対する信仰即ち霊の交の状態に於て
9章2節
口語訳 | すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。 |
塚本訳 | (わたしが急にこんなことを言い出したら信じてくれないかも知れないが、)わたしに大きな悲しみと、心に絶えざる痛みとがあるのである。 |
前田訳 | それはわが心に大きな悲しみと絶えぬ痛みがあることです。 |
新共同 | わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。 |
NIV | I have great sorrow and unceasing anguish in my heart. |
註解: パウロの心中には非常なる憂苦が充満していた、かく云うは決して誇張ではなく、パウロの良心も神より与えられし聖霊によりて働き、この事実の偽らざる事を証明する。「キリストに在りて」、「聖霊によりて」はパウロの信仰の働きを示し、「良心」は人間固有の心を指す。この凡てが一致している事はパウロの証言の全く偽らざる事実である事を示す。パウロはユダヤ人の目にはユダヤ人を愛せざる反逆者と見えた。故にかくの如く強き証明を必要とした。
9章3節 もし
口語訳 | 実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。 |
塚本訳 | ほんとうに、兄弟すなわち血を分けた同胞の(救われる)ためならば、このわたしは呪われて、救世主(の救い)から離れ落ちてもよいと、幾たび(神に)願ったことであろう。 |
前田訳 | 肉にある同族の兄弟たちのためならば、わたし自身は呪われてキリストから離れても、と祈りつづけました。 |
新共同 | わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。 |
NIV | For I could wish that I myself were cursed and cut off from Christ for the sake of my brothers, those of my own race, |
註解: 直訳「その故は我は肉による同族なる我が兄弟らの為とならば、我みづから詛 われるものとなりてキリストより離れん事を念願したればなり」これはパウロの仮定ではなくその真実の切願であった。パウロはその故国イスラエルを熱愛し、もしこれを救い得るならば死すとも恨みない心を持っていた。不思議にもこうした愛国者が却てイスラエルに迫害された。
辞解
[肉による同族] 霊のイスラエルと区別する為。
[詛 われて] 原語 anathema(ガラ1:8、辞解參照)。
[「ねがふ所なり」「念願したればなり」] 未完了過去形で、過去に於てこの状態が継続していた事を示す。単に「若しかかる事が出来るならば」左様にありたいと願っただけではなく、自己の救を全く無視して同族の救われん事を願った。救われし愛国者のなやみはここにある。
口語訳 | 彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、 |
塚本訳 | (言うまでもなく、)それはイスラエル人のことである。(彼らは神の)子たる身分(を与えられ、神の)栄光(はその中に住み、)かずかずの契約(は神との間に結ばれ、比類のない)律法、(荘厳な)礼拝、多くの(恩恵の)約束は、(ことごとく)彼らのものである。 |
前田訳 | 彼らはイスラエル人です。(神の)子の資格、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 |
新共同 | 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 |
NIV | the people of Israel. Theirs is the adoption as sons; theirs the divine glory, the covenants, the receiving of the law, the temple worship and the promises. |
註解: この語の中に次の六つの特権が予め包含している。
註解: イスラエルは神の初子と称せられた(出4:22。申14:1。ホセ11:1)但し新約に於ける場合の如き深き関係に至らず、その預表であった。
註解: エホバは屡々 々その栄光をイスラエルに示し(出24:16。出29:43。引照3)給うた。
もろもろの
註解: アブラハムその他の族長たちにエホバは契約を為し給うた。
註解: 直訳「律法の授与と」シナイ山に於ける律法の授与を指す。
註解: レビ記に記載せられし如き神殿の礼拝。
もろもろの
註解: 神はイスラエルに対してその救ならびに種種の祝福を約束し、殊にメシヤを遣す事を約束し給うた。
口語訳 | また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。 |
塚本訳 | (また、アブラハム、イサク、ヤコブなどの偉大な)祖先たちは彼らのものであり、救世主も人間としては彼らから出られたのである。一切のものの上におられる神なる彼は、永遠に賛美すべきである、アーメン。 |
前田訳 | 父祖たちは彼らのもの、肉によればキリストも彼らの出です。彼は万物の上にいます神としてとこしえに讃むべきです。アーメン。 |
新共同 | 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。 |
NIV | Theirs are the patriarchs, and from them is traced the human ancestry of Christ, who is God over all, forever praised! Amen. |
註解: アブラハム、イサク、ヤコブを始めイスラエルの誇たりし多くの祖先も彼らに属している。
註解: 霊によれば神の子たりしキリストも肉によれば彼らの間より生れ給いし事(彼らのものなりとは云わない事に注意せよ)はイスラエルに取りて大なる光栄であった。
[キリストは]
註解: 肉によればイスラエルの中より出で給いしキリストに対するパウロの崇敬はそのままでは満足せず、ここにキリストの神に在し給う事、万物の上に在し給う事につき讃嘆の叫びを挙げた。これによりてイスラエルがこのキリストを信ぜざる罪悪が益々明瞭に示されている。
附言 この半節は古来神学論争の中心として多くの問題と多くの解釈とを提供した部分であって、或はこれを神に適用し「神は万物の上にありて讃むべき哉アーメン」と訳し(M0)又は「キリストは万物の上に在す。神は永遠に讃むべきかなアーメン」と読む説もある(エラスムス)。(▲口語訳及び RSV は此の訳し方に由ったものであるが、此の様な場合の原文の構造はルカ1:68、Uコリ1:3、エペ1:3、Tペテ1:3等が普通であり、本節の場合は之と異なる。)パウロ始め使徒時代には直接キリストを神と呼びし箇所は他に無いけれども、神として取扱う信仰は至る処に豊富であり(ヨハ1:1。ヨハ20:28。Tコリ8:6。コロ1:16、17。ピリ2:6等)、又「万物の上にあり」と云うも必ずしも神の上にある事を意味せず(Tコリ15:27。引照3)又かかるキリストを神に対すると同じ語を持て讃うる事は他に例がなくとも必ずしも差支えない。故にこれを神に対する頌栄と見るよりも、改訳の通りキリストに対する讃美と見るを可とする(B1、Z0、I0、G1)。文法上、及び前後の関係上より見るもこの見方が最も有利なる立場にある。
口語訳 | しかし、神の言が無効になったというわけではない。なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、 |
塚本訳 | (ところがイスラエル人は、この約束の成就であるイエス・キリストを十字架につけて殺してしまった。)しかしこれは、神の(約束の)言葉が反故になったなどというのでは決してない。なぜなら、(祖先)イスラエル[ヤコブ]から出た者が皆、イスラエル人だという訳ではないからである。 |
前田訳 | しかし神のことばが廃ったわけではありません。イスラエルの出が皆イスラエル人ではなく、 |
新共同 | ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、 |
NIV | It is not as though God's word had failed. For not all who are descended from Israel are Israel. |
註解: 「イスラエルの救を神は約束し給いしに関らず、若しそのイスラエルの中から救われない人々が出ると云うならば、神の言即神の約束が失墜した事になるではないか、神がその約束を破棄する如き事は有り得ない」と云うのがユダヤ人の方より起り得べき反対であった。パウロの唱うる如くイエスをキリストと信ぜざるユダヤ人は果して滅ぶるだろうか、又はその反対に神の約束が成就してユダヤ人はキリストを信ぜずとも皆救われるであろうかが問題である。これに対するパウロの答が本節より11章の終に至る文章である。パウロが6-13節に言わんとする処は、たといイスラエルの中に不信仰によりて滅ぶる者ありとも、それは神がその約束を無にし給うたのではないと云う事である。
辞解
[廃 りたるに非ず] 原文翻訳上の問題多き箇所であるが大体の意味は「失墜したなどと云う様な事では無い」との意。
[それ] 「併し乍ら」
イスラエルより
註解: アブラハムの子孫である事、イスラエルの民籍に属する事のみを以て救が確実であると考える事は誤である。救われるのは真のイスラエル霊のイスラエル(ガラ6:16)のみである。
9章7節 また
口語訳 | また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえって「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。 |
塚本訳 | またアブラハムの子孫だからとて、それが皆その子供とはかぎらない。(その証拠には、神は女奴隷ハガルとの間のイシマエルを正当の子とみなさず、“正妻サラとの間の約束の子)イサクから生まれる者が、あなたの子孫となるべきである”と(仰せられたと聖書に)ある。 |
前田訳 | アブラハムの末が皆その子どもではありません。「あなたの末として召されるのはイサクの家系です」。 |
新共同 | また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」 |
NIV | Nor because they are his descendants are they all Abraham's children. On the contrary, "It is through Isaac that your offspring will be reckoned." |
註解: 神の約束とこれに対する信仰により老年のアブラハムとサラの間に生れし子イサクは約束の子、ハガルとの間に肉体的原因のみによりて生れし子イシマエルは、同じくアブラハムの裔であるけれども肉の子である、前者は約束によるイスラエル即ち信仰によりて神の子とされる凡ての人を指し、後者は肉によるイスラエル即ち血統上イスラエルの民籍に属する自然人を指す。神の約束は実はこの前者を指したのである。
辞解
[イサクより出づる者云々] 創21:12の引用。原文「イサクに在りて」でイサクに連なるもの、即ちイサクと同一の関係に在るものの意味。約束による子孫を指す。
9章8節
口語訳 | すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。 |
塚本訳 | すなわち、(アブラハムの)血筋を引く子供が、当然に(彼の子孫として約束にあずかる)神の子供ではなく、約束の(言葉によって生まれた)子供(だけ)が、(彼の)子孫と見なされるのである。 |
前田訳 | すなわち肉の子どもが神の子どもではなく、約束の子どもが末と認められます。 |
新共同 | すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。 |
NIV | In other words, it is not the natural children who are God's children, but it is the children of the promise who are regarded as Abraham's offspring. |
註解: パウロは前節アブラハムの子を直ちに神の子と同視した(4節参照)。アブラハムの子即ちイスラエルは神の子である。但し前掲創21:12の如くこれは約束の子に限られて居り、肉の子は神の子の中に数えられない。
9章9節
口語訳 | 約束の言葉はこうである。「来年の今ごろ、わたしはまた来る。そして、サラに男子が与えられるであろう」。 |
塚本訳 | なぜなら、(イサクが生まれるについては、)次のような約束の言葉があるから。(“来年の)今ごろわたしは(また)来る。するとサラに息子ができる。”(こうしてイサクが生まれない前に、神は彼をアブラハムの正当の子孫と見なすことを約束された。) |
前田訳 | 約束のことばは、「この季節にまた来ましょう、そしてサラに息子ができるでしょう」です。 |
新共同 | 約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。 |
NIV | For this was how the promise was stated: "At the appointed time I will return, and Sarah will have a son." |
註解: かかる約束の故にイサクはアブラハムの裔、神の子と認められた。
辞解
引用は創18:10、創18:14の七十人訳よりの自由の引用。
9章10節
口語訳 | そればかりではなく、ひとりの人、すなわち、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリベカの場合も、また同様である。 |
塚本訳 | そればかりではない。(一人の女)リベカが、一人の男すなわちわたし達の祖先イサクによって孕んだ場合も、その一例である。 |
前田訳 | そればかりでなく、リベカもそうで、ひとりの男、すなわちわれらの先祖のイサクによって身ごもりました。 |
新共同 | それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。 |
NIV | Not only that, but Rebekah's children had one and the same father, our father Isaac. |
9章11節 その
口語訳 | まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、 |
塚本訳 | なぜか。(同じ父母から生まれた二子であるのに、弟ヤコブの方が、兄エサウを差し置いて相続人になったのである。すなわち)二人がまだ生まれず、(従って)なんの善いことも悪いこともしない先に、──これは、神の選びの計画は不動であり、 |
前田訳 | ふたりがまだ生まれず、善も悪もしないうちに、神の選びによる予定は変わらず、 |
新共同 | -12その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。 |
NIV | Yet, before the twins were born or had done anything good or bad--in order that God's purpose in election might stand: |
辞解
[▲動かず] menô は「止まる」「存続する」の意。要義3参照。
9章12節
口語訳 | わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。 |
塚本訳 | (人の)行いによらず、召されるお方(の御心)による(ことを示す)ためであったが──“兄は弟に仕える”と神はリベカに言われた。 |
前田訳 | それが(人の)行ないによらずお召しになる方によるようにと、「兄は弟に仕える」とリベカにいわれました。 |
新共同 | |
NIV | not by works but by him who calls--she was told, "The older will serve the younger." |
9章13節 『われヤコブを
口語訳 | 「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである。 |
塚本訳 | (そして預言どおりにヤコブが選ばれた。)“わたしはヤコブを愛したが、エサウを憎んだ”と書いてあるとおりである。 |
前田訳 | 「わたしはヤコブを愛したがエサウを憎んだ」と聖書にあるとおりです。 |
新共同 | 「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。 |
NIV | Just as it is written: "Jacob I loved, but Esau I hated." |
註解:曩 にイサクとイシマエルの異母兄弟の例を以て説明せるパウロは、更に進んでレベカの双生児の例を以て神の約束とその聖召の絶対なる事を示す。蓋しエサウとヤコブの場合に於ては父も母も同一であり、而も同時に胎内に宿り、且つ未だ生れず善も悪も行わざりし以前に、神は「兄は次弟に事うべし」なる約束を与え給うた。創25:23。而してこの神の言が成就して遂にヤコブが長子の権を獲得するに至った事は唯神の召以外に全く理由が無い。それ故に真のイスラエルは、イシマエルの場合の如く肉による誕生によらず、又レベカの二子の場合の如く行為の善悪にもよらず、凡て神の約束とその聖召のみによりて定まる。神がエサウとヤコブの行為を預知し給いしや否やの間題はここでは考えられていない。たとい予知し給うともこれが予定の原因とはされていない。尚創25章-27章等参照。
辞解
[神の選の御旨] 直訳「選による神の予定計画」で選びを内容とする神の経綸の事。
[『兄は次弟に事うべし』] 「兄」、「弟」は「大」、「小」なる文字を用う。原文創25:23の場合は二つの国民をも共に指す故にこの文字は適切であったが、併しこれを兄弟に用うるとも誤ではない。且つ民族をその代表者と同視する場合は旧約聖書に多い。創27:28以下、創27:39以下。創49章のヤコブの祝福。
要義1 [肉のイスラエルと霊のイスラエル] 肉によるアブラハムの子孫は肉によるイスラエル、信仰によるアブラハムの子孫は霊のイスラエルである。前者に属する者にして後者の中に入らざる者あり、前者に属せざる異邦人にして後者に属する者がある。神が肉によるイスラエルを選び別ち給いしは彼らのみを救わん為にあらずして、彼らによって全人類を救わんが為であった。故に若し彼らの中に不信なる者があるならば神はこれを棄て給う。かくして真のイスラエルを形成し給う。
要義2 [肉によるイスラエルの栄光] 以上の如くなるにも関らず、肉によるイスラエルの聖別は全く無意義ではなく、神は彼らにこのような重大なる使命を負わしめ給いしが故に、彼らに多くの栄光を与え給うた。4、5節はその栄光、特権の列挙である。今日もユダヤ人は人種として異常なる能力を有する事、又一民族として不思議なる存在をつづけている事は、その処に神の特別の御手が加えられている証拠である。
要義3 [神の約束は廃る事なし] 若し神の言、神の約束が朝令暮改何等永続的権威が無いものであるならば我らは彼を信ずる事が出来ない。イスラエルがその神に対する信仰は「神の言は廃る事が無い」との信念に基いていた(民23:19)。同様に基督者の信仰も神の新しき約束(新約)に対する信仰である。神の人格に対する信頼は、当然にその御言に対する信頼となる。
9章14節 さらば
口語訳 | では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。 |
塚本訳 | するとどういうことになるのだろうか。神に不公平でもあるのか。もちろん、そんなことはない。 |
前田訳 | それならわれらは何といいましょう。神に不義がありますか。断じて否です。 |
新共同 | では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。 |
NIV | What then shall we say? Is God unjust? Not at all! |
註解: 私訳「神に於て不義あるに非ずや」。何らの理由なしにヤコブを愛しエサウを憎み給う神は義しい神と云う事が出来ぬではないかと云うのがイスラエル人がパウロの前述の議論に対して提出する反対論である。而してパウロは次に聖書によりてこれを反駁 しているのは聖書はユダヤ人の経典として彼らもこれに反対し得ないからである。
9章15節 モーセに
口語訳 | 神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。 |
塚本訳 | その証拠には、神は(かつて)モーセにこう言われている、“わたしは憐れみたい者を憐れみ、慈悲をほどこしたい者に慈悲をほどこす”と。 |
前田訳 | モーセにいわれています、「わたしはあわれみたいものをあわれみ、いつくしみたいものをいつくしむ」と。 |
新共同 | 神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。 |
NIV | For he says to Moses, "I will have mercy on whom I have mercy, and I will have compassion on whom I have compassion." |
註解: 神が憐憫 と慈悲とを施し給う事は人間の価値や功績に対してこれを為すのではなく神の絶対の自由意思を以てその欲するままにこれを行い給う。恰 も出33:19に神がモーセに言い給いしが如くである。一方神の愛とその全智全能とを信じ、他方人間の罪の深さを知る者に取りては、この神の自由の恩恵に漏れる事あるもこれに対して異議を挿 む事が出来ない。唯神の為し給う事は皆義しとしてその前に平伏すだけである。
辞解
[憐む] eleeô は他人の苦痛に対する憐憫の情で、それが行為に表われるものを云い、
[慈悲を施す] oikteirô は内的の同情心が心を支配している事。
9章16節 されば
口語訳 | ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。 |
塚本訳 | 従って(憐れみも慈悲も、)それは(人間の)願望にも努力にもよらず、ただ神の憐れみによるのである。 |
前田訳 | それゆえ、それは人の意欲や努力によらず、神のあわれみによります、 |
新共同 | 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。 |
NIV | It does not, therefore, depend on man's desire or effort, but on God's mercy. |
註解: 神の憐憫 は人間の意思による要求や、行為に対する報賞として与えられるものではなく、唯神の自由の決定による。人間の方よりは如何なる理由の下にもこれを要求する権利はなく、神の方にはこれを与えなければならない義務はない。唯神の自由の恩恵による。
辞解
[欲する] 意思、
[走る] 行為を意味す。
9章17節 パロにつきて
口語訳 | 聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。 |
塚本訳 | (反対に、憐れみを奪われる場合も同じである。)現に聖書は、パロ[エジプト王]にこう(神が仰せられたと)言っているではないか、”わたしがあなたを(王として)立てたのは、(あなたの心を頑固にして私の命令にそむかせ、)あなたによってわたしの力を示すため、また、わたしの名が全世界に知れわたるため、ただそのためであった”と。 |
前田訳 | 聖書はパロにこういいます、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわが力を示すため、またわが名が全地に伝わるためにほかならない」と。 |
新共同 | 聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。 |
NIV | For the Scripture says to Pharaoh: "I raised you up for this very purpose, that I might display my power in you and that my name might be proclaimed in all the earth." |
註解: エジプト王パロを起してモーセに反対せしめ、イスラエルの上にその圧迫を増加えしめしは、実は神の為し給える事であり、パロは知らずして神の手先となり神の目的の為に働いたのであった。而して神の目的はパロの反抗と圧迫とを逆用して神の力を示し神の名の全世界に伝えられん事であり、而してこの計画はイスラエルのエジプト脱出の歴史によりて実現した。
辞解
[聖書に言ひ給ふ] 直訳「聖書は言う」この引用は出9:16の七十人訳をパウロは稍 変更して本節の意味に適当なる文字を用いしもの(「起し」)。
9章18節 されば
口語訳 | だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。 |
塚本訳 | 従って神は思うままに、ある人を憐れみ、ある人を、”頑固にされる”(ことは明らかである。) |
前田訳 | したがって神は思うままにあわれみ、思うままに頑になさいます。 |
新共同 | このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。 |
NIV | Therefore God has mercy on whom he wants to have mercy, and he hardens whom he wants to harden. |
註解: 神は凡ての事をその御旨のままに、その欲する如くに自由に行い給う、神の絶対主権はこれである。神が人の心を頑固にし給う如き事は有り得ざる事の如くに思われる為、この語を種種に解してその語勢を弱めんとする説あれど、パウロはここでは少しの割引もなき神の絶対の自由を主張したものと見なければならない。但し神がこの自由を不当に勝手気儘 に用い給わない事は、神の至善至聖至愛の性格より当然に生ずる結果である。故に我らは喜んで神にこの自由を帰し奉る事が出来る。
要義1 [神の選び] 神がある者を救に選び給えりとは同時に他にこの選に洩れて救われないものが有る事の結果となり随 ってこれを不公平として憤る者がある。併し乍ら若し(1)人間は凡てその罪の為に滅ぶる事が当然である事を思い、(2)叉選びに洩れし者はこれによりて死後に於ても励まされて、やがて叉救に入れられる機会となるべき事を思うならば、神の自由の選に対して敢て不平不満を持ち得ない筈 である。自己の罪に心砕かれし者、人間の如何なるものなるかを知れる者は神の自由の選びに対して何等の異議を挿 まない。義しきヨブに困難を与うるのも、義しからざるパロを頑固にするのも凡てエホバの御旨でありこれに対しヨブと共に「我知る汝は一切の事を為すを得給う」(ヨブ42:2)と云うべきである。
要義2 [神はその自由を濫用し給わない] 憐む事も頑固にする事も、選ぶも選ばざるも神の絶対自由なりと云う時は如何にも神は暴君の如くにその私意を恣 にし人間は一日として安らかにしている事が出来ないかの如くにも考えられるけれども然らず、恰 も日本の天皇が臣民の上に生殺与奪の権を有ち給うとも日本臣民は安んじて陛下の赤子たり得る(▲少なくとも1945年の敗戦迄は日本人は天皇をかく信頼していた事を脳中に置いて此の註解を理解されたし)と同じく、神はその至上権を必ず神の経綸に循 い、我らの善の為に用い給う事を信ずる事が出来る故、たとい神がその絶対の自由により、その欲するがままに或は憐み或は頑固にする事ありとも人はこれに対して少しも憂慮すべきではない。
要義3 [神の絶対権は至上善なり] 神は至聖至愛に在し且つ全智全能に在し給う。それ故にかかる神がその完き愛を用い完全なる知識を以て凡ての事を行い給う事は何よりも優れる善事である。人間は自己の願望を達せられる事を欲し、自己の努力の結果の顕われん事を要求するけれども、それにも優りてよき事は、神の御意のままが成就する事である。故に神がその憐まんとする者を憐み、頑固にせんとする者を頭固にし給う事は、最も善き事である。
9章19節 さらば
口語訳 | そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。 |
塚本訳 | するとあなたはわたしに(抗議して)言うにちがいない、それでは、なぜ神はなおも人を咎められるのか。(御自身が人の心を頑固にされるのなら、)だれも神の意志に逆らうことはできない訳ではないかと。 |
前田訳 | そこであなたはいうでしょう、「なぜ神はなおも人をおとがめですか、だれがみ心にさからえますか」と。 |
新共同 | ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。 |
NIV | One of you will say to me: "Then why does God still blame us? For who resists his will?" |
註解: 神はその欲するままに人を頑固にし給う以上、たとい我ら頑固となりても、我らには全く咎 なく責任がない、神の決意に反対する者は無い筈だから。これが人の心に自然に起って来る反対論である。
辞解
[御定 ] 意志の明かな決定。
[悖 る者あらん] を「悖 る事を得る者あらん」と解するの(G1)必要はない。悖 る者なきは悖 り得ざるが故なる事は当然であるから。
9章20節 ああ
口語訳 | ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。 |
塚本訳 | ああ人よ、いったい君は何者なれば、神に口答えをするのか。“作られたものが作った者に向かって、「なぜ“わたしをこんなものに造ったか」と言えるだろうか。” |
前田訳 | ああ人よ、神にいいさからうとはいったいあなたは何ものですか。造られたものが造ったものに、「なぜこのようにわたしを造ったか」といえましょうか。 |
新共同 | 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。 |
NIV | But who are you, O man, to talk back to God? "Shall what is formed say to him who formed it, `Why did you make me like this?'" |
註解: 神がその欲するままに人の心を頑固にし給いて而もこれを非難し給う事は不合理なりとの反対論(前節)に対するパウロの答弁である。即ち神が如何様に人間を用い給うとも人間は神に対して異議を申立てる事が出来ない。恰 も造られしもの(例えば家屋、陶器等)が造りたる者(例えば大工や陶工等)に対して異議を言うべきに非ざると同様である。神は凡てを已が栄光の為に用い給う。故に如何なる賤しき器として(例えばパロの如くに神の御計画に反する者として)用いられるも反対すべき理由はない。
辞解
[造られしもの(plasma)、造りたる者(plasantos)] 共に「形造る」意味で無より有を創造する意味ではない。従って本節の場合にも人間を善人又は悪人に創造れる意味ではなく、神が人間を如何なる使途に用い給うかについて諭じているのである。人間が既に己の罪により審かるべきものである以上は如何なる使途に当てられるも異議あるべき筈 はない。
9章21節
口語訳 | 陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。 |
塚本訳 | それとも、“陶器師には、”同じ“粘土”の塊で、一つは尊い用途の、一つは卑しい用途の器を造る権利がないのだろうか。 |
前田訳 | それとも、陶器師は、同じ粘土の塊からひとつを名誉への器、ひとつを不名誉への器にこしらえる権限を持ちませんか。 |
新共同 | 焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。 |
NIV | Does not the potter have the right to make out of the same lump of clay some pottery for noble purposes and some for common use? |
註解: イザ29:16。イザ45:9、10。エレ18:6等に現れている思想でユダヤ人は皆これを真理として受容れていた。即ち神が人間の上に絶対の権を有ち給う事は陶工が粘土の上に権を有つと同じである。同じ粘土を如何なる用途に向けようとも、それは陶工の自由であり、同じ人間を如何なる運命に向けようとも、それは神の権に属する自由である(ここにも神が人間を勝手に善き者と悪しき者とに造ると云う如き意味なき事に注意せよ)。
9章22節 もし
口語訳 | もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、 |
塚本訳 | それで、もし神が、(御自分の)怒りを示し御自分の力(の恐ろしさ)を知らせようとお思いになるので、(今日まで)いとも気長に、“滅びのために”つくられた”怒りの器[滅びる人]を辛抱された”とすれば、 |
前田訳 | もし神が怒りを示し、力を知らせようとお思いで、滅びのためにつくられた怒りの器を多くの寛容をもって忍ばれたとすると、 |
新共同 | 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、 |
NIV | What if God, choosing to show his wrath and make his power known, bore with great patience the objects of his wrath--prepared for destruction? |
註解: 「滅亡 に備 れる」を口語訳は「滅びる事になっている」と訳し、RSV は made for destruction と訳してあるが、之は原文の注意深さを無視した訳であり、其の結果所謂二重予定説 double predestination 又は宿命説 fatalism を主張する根拠となるが如くに解される嫌いがある。次節辞解及びロマ9:33附記参照。
9章23節 また
口語訳 | かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。 |
塚本訳 | またそれは、栄光のためにあらかじめ用意された憐れみの器[救われる人]に、御自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうだ。(かれこれ言うことはないではないか。) |
前田訳 | そしてそれは、栄光のためあらかじめそなえられたあわれみの器に、自らの豊かな栄光をお知らせになるためであったとすると、どうでしょう。 |
新共同 | それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。 |
NIV | What if he did this to make the riches of his glory known to the objects of his mercy, whom he prepared in advance for glory-- |
註解: 答えとして「汝らこれに対して何らの反対も為し得ざるに非ずや」と云う如き意味の語が当然として省略されている。パウロは前節の抽象論を具体的事実に応用し、一方にその罪の為に当然に亡ぶべき(滅亡に入るの条件が備れる)者即ち神の怒を受くべき器たる人々(パウロの眼中に異邦人と不信なるイスラエルとが在った)に対して、その怒と権力とを示すべき審判を行う事を忍びて、大なる寛容の心を示し給うたとすれば、それは神の自由であり、これに対して異議あるべき筈 が無い、又他方に神の予定と選びにより光栄を与うべく定め給いし憐憫 の器に対して神の栄光の豊かなる事を示さんとし給うとすれば、これも亦神の自由であって何人もこれに対して異議を挿むべきではない。
辞解
この二節は文章の構造不完全にして異訳多し、但し改訳本文の如く訳する事が最も適当なり。
[滅亡 に備 れる] 直訳「滅亡 には申し分なき」又は「滅亡 に備 え整いし」等の意味で神が滅亡 に備 え給いしとは云って居ない。 katartizô 「完備せしむる」なる文字の受動形を用いている。反対に[光栄のために預じめ備 え給いし] は proêtoimazô 「預め準備する」なる文字で、明かに「神」がその準備を為し給いし事を示している。この二者異る用語と時法と態とを用いている処にパウロの信仰の自然の発露があるのであって、パウロの心にはカルヴインの如く神がある人を滅亡 に預定し、滅亡に備 え給うたと云う如き思想が無い事を示している。尚マタ25:34とマタ25:41。使13:46と使13:48とを比較せよ。
9章24節 この
口語訳 | 神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。 |
塚本訳 | 神はこの憐れみの器としてわたし達をも召されたのである。ただユダヤ人の中からだけでなく、異教人の中からも。 |
前田訳 | 神はあわれみの器として、われらをもお召しでした。ユダヤ人からだけでなく、異邦人からもです。 |
新共同 | 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。 |
NIV | even us, whom he also called, not only from the Jews but also from the Gentiles? |
註解: 神は世の創の先 より教会をキリストの中に選び給い、ユダヤ人と異邦人との差別を超越してこれを憐憫 の器たらしめ給うた。かくの如く神はその絶対的自由をその憐憫 の故に、又その選びの故に用いて、或は忍び或は憐憫 給う事を知るならば、神の予定とその自由に対して我らは6節、14節、19節の如き非難を発する事は不可能である。且つこのパウロの思想は既に旧約聖書にも録されているのであって、決してパウロ一人の私見ではない。25-29はこの事を示す。
9章25節 ホゼヤの
口語訳 | それは、ホセアの書でも言われているとおりである、「わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。 |
塚本訳 | (異教人の中から憐れみの器が選ばれることは、不思議ではない。)神がホセア書でも言っておられるとおりである。“わたしはわたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されぬ者を愛される者と呼ぶであろう。” |
前田訳 | 「ホセア書」でもいわれています、「わが民でないものをわが民と呼び、愛されぬものを愛されるものと呼ぼう。 |
新共同 | ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。 |
NIV | As he says in Hosea: "I will call them `my people' who are not my people; and I will call her `my loved one' who is not my loved one," |
9章26節 「なんぢら
口語訳 | あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう」。 |
塚本訳 | “「あなた達は私の民でない」と言われたその場所で、彼らは生ける神の子と呼ばれるであろう。” |
前田訳 | あなた方はわが民でない、といわれたその場所で、彼らは生ける神の子と呼ばれよう」と。 |
新共同 | 『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」 |
NIV | and, "It will happen that in the very place where it was said to them, `You are not my people,' they will be called `sons of the living God.'" |
註解: 異邦人の中よりも召される者があるのは、恰 もホゼヤの預言(ホセ2:25及ホセ2:1)にある通り元来我が民ならざりし者(ロアンミ。ホセ1:9)即ち異邦人が我が民(アンミ。ホセ2:3)と呼ばれ元来愛せられざる者(ロルハマ)なる異邦人が愛せられる者(ルハマ)と呼ばれ、又異邦の土地即ち神の民の土地にあらざる処にて異邦人が神の子と呼ばれる事である。この預言は本来ホゼヤに対しイスラエルの十支族の不信とその回復とを示した預言であって直接に異邦人を指したのではないが、その偶像崇拝と不信の点は異邦人と異る事無き故これに応用する事が出来る。パウロはこれを異邦人信者の型と見る。
辞解
[ロルハマ、ロアンミ] ホゼヤの二子に名付けられた名称であった。
[言いし処にて] 原書はパレスチナを意味し、ここでは異邦を意味する。
9章27節 イザヤもイスラエルに
口語訳 | また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、「たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう。 |
塚本訳 | (預言者)イザヤもイスラエル人について叫んでいる。“たとえイスラエル[ヤコブ]の子孫の数は海の砂のように(多数)であろうとも、(信ずる少数の)残りの者(だけ)が救われる。 |
前田訳 | イザヤもイスラエルについて叫びます、「たとえイスラエルの子らの数が海の砂のようでも、残りのものだけが救われよう。 |
新共同 | また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。 |
NIV | Isaiah cries out concerning Israel: "Though the number of the Israelites be like the sand by the sea, only the remnant will be saved. |
9章28節
口語訳 | 主は、御言をきびしくまたすみやかに、地上になしとげられるであろう」。 |
塚本訳 | なぜなら主は(間もなく約束の)御言葉を完了し打ち切って、(裁きと救いとを)地上に実現されるからである。” |
前田訳 | 主はみことばをなしとげ、切りをつけて地に実現されようから」と。 |
新共同 | 主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」 |
NIV | For the Lord will carry out his sentence on earth with speed and finality." |
註解: (▲私訳「主は徹底的に且つ迅速に御言を地上に成し給うであろう」)前2節は異邦人のある者が救われる事に関し、この2節はイスラエルのある者が救より除かれる事に関する旧約聖書(イザ10:22、23)よりの引用である。イザヤは屡々 「残りの者」について預言し、滔々 たるイスラエルの不信の中に少数の信仰の遺残者を神は保存し給う事を告げた。この預言は神より示されしものである故に、イスラエルの中に救に漏れるものありともこれを怪しむに足りない。28節は主は完全に且つ速かにその御言(令旨 )を地上に実行し給う事を意味しイザヤが掲げし警世の叫びである。
辞解
[残の者] hupoleimma=the remnant 28節は七十人訳を幾分変更省略せる引用で、七十人訳は原典の誤訳である。
9章29節 また『
口語訳 | さらに、イザヤは預言した、「もし、万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになったであろう」。 |
塚本訳 | さらにイザヤは前もってこう言われている。“もし万軍の主がわたし達に(まことのイスラエルの)子孫を残されなかったなら、わたし達はソドムのようになりゴモラと同じになっ(て滅び)たにちがいない。” |
前田訳 | また、イザヤは預言しました、「もし万軍の主がわれらに末を残されなかったら、われらはソドムやゴモラと同じになったろう」と。 |
新共同 | それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、/わたしたちはソドムのようになり、/ゴモラのようにされたであろう。」 |
NIV | It is just as Isaiah said previously: "Unless the Lord Almighty had left us descendants, we would have become like Sodom, we would have been like Gomorrah." |
註解: 私訳「また昔、イザヤの云いし如く万軍の主……」。パウロはイザヤの言(イザ1:9)を自己の言として述べている。即ち神の特別の恩恵によりて「裔」即ち「残の者」を残されなかったならばイスラエルの運命は死海沿岸の罪悪の都ソドム、ゴモラの如くであろう。故にイスラエルの或者が救に漏れる事は決して怪しむべきではなく神の審判の当然の発露である。
辞解
[裔] 子孫即ち後継者でこの場合は「残の者」と同じ意味であるけれども、更に又子孫を残す意味に於て一層意味深き文字である。
9章30節
口語訳 | では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。 |
塚本訳 | すると、どういうことになるのだろうか。義を追い求めなかった異教人が(かえって)義を勝ち取った。すなわち(行いによらない)信仰による義である。 |
前田訳 | それなら何といいましょう。義を求めなかった異邦人が義、すなわち信仰による義を得ました。 |
新共同 | では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。 |
NIV | What then shall we say? That the Gentiles, who did not pursue righteousness, have obtained it, a righteousness that is by faith; |
註解: 6-29節の全体の思想及び議論を事実を以て要約すれば、次の如きもの(30-33節)となる。即ち異邦人は神の前に義とせられんとの熱望を以て義を追求しなかったけれども、福音を与えられ信仰に入る事によりて神の前に義とされるに至った。これは実に大なる事件である。
9章31節 イスラエルは
口語訳 | しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。 |
塚本訳 | 反対に、イスラエル人は義を約束する律法を(熱心に)追い求めたが、(ついに)律法に(よって義に)達することができなかったのであるが。 |
前田訳 | 反対に、イスラエルは義の律法を求めつつも律法に達しませんでした。 |
新共同 | しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。 |
NIV | but Israel, who pursued a law of righteousness, has not attained it. |
註解: イスラエルは神の前に義たり得る律法を成就せんとて努力したけれども、その律法に成功し得なかった。
9章32節
口語訳 | なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。 |
塚本訳 | なぜか。イスラエル人は信仰によってでなく行いによって(義とされ得るか)のように考え(て、追い求め)たからである。彼らは”躓きの石に“躓いた。 |
前田訳 | なぜですか。信仰によらず、行ないによって得られるごとくにしたからです。つまずきの石につまずいたのです。 |
新共同 | なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。 |
NIV | Why not? Because they pursued it not by faith but as if it were by works. They stumbled over the "stumbling stone." |
註解: イスラエルは求める心は熱心であったけれども、信仰によらなかった為に「躓く石」なるキリスト(イザ8:14。Tペテ2:8)に躓いた。行為によりて義を求める者は、自己の義を追求する。故に義なるキリストを主と仰ぎ彼を信ずる事が出来ない。
辞解
本節を「かれらは信仰によらず行為によりしが為に躓の石にきたる故なり」と読む節もある(G1)。
[躓く石] 次節を見よ
9章33節
口語訳 | 「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」と書いてあるとおりである。 |
塚本訳 | (聖書に)書いてあるとおりである。“見よ、”“躓きの石と邪魔の岩とを”“シオンに”置く、“これを信ずる者は恥をかかないであろう。” |
前田訳 | 聖書にあるとおりです、「見よ、シオンにつまずきの石とさまたげの岩を置く。これを信ずるものははずかしめられまい」と。 |
新共同 | 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。 |
NIV | As it is written: "See, I lay in Zion a stone that causes men to stumble and a rock that makes them fall, and the one who trusts in him will never be put to shame." |
註解: (▲「つまづく石さまたぐる岩」は「倒れの石、躓きの岩」と訳す方がよい様に思う。)イザ28:16及びイザ8:14 を混合して引用したるもの。本来はエホバを指して躓く石、さまたぐる岩と云ったのであるが、この当時及びその以後ともメシヤを指して石又は岩と称する場合多く(詩118:22以下。マタ21:42。マコ12:10。ルカ20:17。使4:11。エペ2:20。Tペテ2:4-6)、パウロは旧約のこの聖句をそのままキリストに応用している。イエスが人間であり、又安息日を無視し、祭司の族より生れず、律法を超越し、罪人遊女と交り、遂に十字架に釘けられ給うた等の事よりイスラエルは彼に蹟いた、けれども蹟く者は遂に倒れなければならない。唯彼に依頼む者のみ恥を被る事なく救を確保する事を得るに至る。
附記 [預定説に就て] ロマ9:6-29はエペ2:3-5。ロマ8:29その他多くの箇所と共に所謂預定説の根拠となる重要なる箇所である。預定説はこれを全く否定し去る時は聖書の多くの箇所に差支を生じ、叉これをあまりに過度に理論化する時は多くの忌むべき結論を生ずる。従って古来この説に関し多くの神学的叉は実際的間題を惹起した。詳細の議論はこれを教理史及び教理學に譲り、ここでは唯重要なる諸点を掲げる。以下の如くに解するならば、聖書の字句の解釈上にも、信仰の体験上にも叉人類史、教会史の事実上にも最も適応し得る事と思う。
(一)人類はアダムの罪により死と滅亡とに定められた。而してこの罪とその結果とはアダムの凡ての子孫に及ぶ、故に人類は神の預定によりて滅亡に定められたのではない(カルヴインの反対)。
(二)アダムは堕落以前は神を信ずる自由の意思を有っていたけれども、その堕落以後は彼及び彼の子孫は詛 われてその自由を失い、自己の意思を以て神を信ずる事が出来なくなった。即ち神を信ずるや否やの点については(対神関係に於ては)人は自由意思を失った(ルーテル)。
(三)我らに残存する自由の意思は自己の行為を選択するの自由に過ぎず、神を信ずる事は聖霊の助によるのであって自由の意思によりては不可能である(人は罪の奴隷である)。故に人間の有する自由意思は人を永遠の滅亡より救い出す事が出来ない。
(四)然のみならず人間の行為や努力即ちその功績も亦人をその滅亡より救うに足りない。要するに人間自身の中には救わるべき能力も価値も絶無である。
(五)それ故に若しこの滅ぶべき人類の中に救われる者がありとすれば、それは自己の価値やその自由意志によるのではなく神の預定とその選びによるのであって、神の自由の恩恵による。
(六)但しロマ9:6-29の問題はカルヴインの考うる如く神が「ある人々を救に預定し他の人々を滅亡に預定し給うた」事を論ぜんとしたのではなく、神が人を如何様に用い給うとも自由であり(兄エサウをヤコブに事えしむる事、モーセを憐 の器としパロを頑固ならしむる事、或器を貴きに用うる器とし他を賤しきに用うる器とする事、滅亡に定まれる者の滅亡を延期してこれを他を救う為に利用する事等凡て神が人を如何に用い給うかの問題である)、これに対して人類の側より異議を申立てる事が出来ない事が議論の中心点である。
(七)人間には多少の善悪があるとしても神の前には皆滅ぶべき罪人である。故にかかる者を神が如何様に利用し給うともそれは大問題ではない、必要により(ロマ9:17)パロを頑固にし給うとも、それはパロを滅亡に定めた事ではなく、当然亡ぶべき彼をある目的に利用し給うたに過ぎない。
(八)20節の「造り」が創造の意味ではなく製造の意味である事22節の「備れる」と23節の「備え給いし」とは別の文字を別の動態(Voice)に於て用いし事、17節、22、23節等が皆神の経綸が根本の動機である事等より見て、9:6-29の議論の主要点が神の経綸による人間の取扱方の変化と、神がかくこれを為し給う自由と及び人はこれに対して抗議し得ない事にあり、これより推論して神が自由に人を滅亡に定め、人はこれを如何とも為し難しと論ずるは推論の行き過ぎである、10章の信仰のすすめがこれを裏書する。
(九)神は人の功績や信仰を預知し給う。併しかくして預知せられし人間の功績や信仰が神の預定の原因ではない(その参考になる事はあるであろうが)。而して真の意味の行為、功績、信仰は凡て神の預定の選びの結果である。預知の意味につきてはロマ8:29辞解参照。
(十)神の自由の選びに漏れて滅亡に至る故に人はその不信仰に対して責任なきやと云うに、然らず、不信仰はアダム以来の人間の罪であって、神に定められて不信仰に陥ったのではない。故に神に対して責任がある。同様に選ばれて救われし者は自己の功績によるにあらざるが故に凡てが感謝と奉仕でなければならない。
尚ロマ9:18節以下の要義1、2、3をもここに併せて読むべし。
ロマ書第10章
3-(2)-(2)-(ロ) 信仰の義によることを要す
10:1 - 10:10
口語訳 | 兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。 |
塚本訳 | 兄弟たちよ、彼ら[イスラエル人]が救われること、これがわたしの切なる望み、また彼らのための神への願いである。 |
前田訳 | 兄弟たちよ、わが心からの望みと彼らのための神への願いは彼らの救いです。 |
新共同 | 兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。 |
NIV | Brothers, my heart's desire and prayer to God for the Israelites is that they may be saved. |
註解: 前章に於てイスラエルの不信とその審判とを述べつつもパウロの心は彼らに対する愛に充ちていた。
わが
註解: パウロは彼を迫害し、彼の福音を拒む者の為に祈った。「若し彼らが全く滅ぶべきものならばパウロはかかる祈を為さなかったであろう」(B1)。神がある人を滅亡に予定せりと云う如き考はパウロには全く無かった。
10章2節 われ
口語訳 | わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。 |
塚本訳 | 彼らは神に対して(ほんとうに)熱心だからである。そのことを彼らのために証明する。ただ、(残念なことに、その熱心が正しい)認識を欠いている。 |
前田訳 | わたしは彼らのために証しますが、彼らは神に対して熱心です。しかし認識がありません。 |
新共同 | わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。 |
NIV | For I can testify about them that they are zealous for God, but their zeal is not based on knowledge. |
註解: 彼らが形式と儀式と律法とに熱心であり、殊に先祖の言伝 の細 き規則を遵守する事に浮身 をやつし(広辞苑:身のやせるほど物事に熱中する)ているのは、実は神に対する熱心からである事は疑う事が出来ない。
辞解
[神のために熟心なること] 直訳「神の熱心を持つこと」で神に対する熱心を意味す。
されど
註解: イスラエルに与えられし律法は彼らを信仰に至らしめん為の守役 であった(ガラ3:24)。然るに彼らはこれを悟らず、徒 に律法の形骸を死守する事に熱心であった。
辞解
[知識] epignôsis は単なる「知識」gnôsis にあらず、事物の真相に触れる洞察力を意味す。
10章3節 それは
口語訳 | なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。 |
塚本訳 | すなわち、彼らは(キリストを信ずることによって義とされる)神の義(の道が開けているの)がわからず、(自分の力で律法を守って)自分の義を立てようとしたため、神の義に服従しなかったのである。 |
前田訳 | すなわち、神の義を知らず、おのが義を立てようとして、神の義に従いませんでした。 |
新共同 | なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。 |
NIV | Since they did not know the righteousness that comes from God and sought to establish their own, they did not submit to God's righteousness. |
註解: 神はその独子を十字架に釘 けることにより愛を以て我らの罪を赦し、信ずる者を義とし給う、これが神の義である(ロマ3:21-26)。ユダヤ人はこの福音を知らなかった。「己の義」は律法を実行する事により自己の力を以てかち得る義である。この己の義を建てんとする者は已に誇らんとする、従って神の義を信じこれに従わない、これは自己の義を空しくする事であるから。
辞解
[服 う] 信ずると同じ意義に用いらる(ロマ1:5。ロマ6:17)。
10章4節 キリストは
口語訳 | キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。 |
塚本訳 | (では律法を守ることが、なぜいけないか。律法はキリストによって目的を達し、もうなくなってしまったからである。)すなわち、キリストは(御自分を)信ずる者が一人のこらず義とされるために、律法の終りとなられたのである。 |
前田訳 | キリストは信ずるものすべてが義とされるため、律法の終わりとなられました。 |
新共同 | キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。 |
NIV | Christ is the end of the law so that there may be righteousness for everyone who believes. |
註解: 直訳「そは律法の終はキリストにして信ずる凡ての者を義に至らしむればなり」律法はその期限も能力も有限である。即ち期限としてはイスラエルが成年期に達するまでの事であり、能力としては人々を義として生命に至らせる事が出来なかった(ガラ3:19。ロマ8:3)。故にこの律法には終が無ければならない。それはキリスであった。キリストによりて律法は完全に成就せられしが故に律法は終となったのである。即ちキリストの贖により、信ずる者は(5-10節)凡て(11-21節)義とせられて生命に至る事が出来る。これを知らずに律法に熱心なるは愚な事である。
辞解
[終] telos は又「目的」「成就」等と訳する學者もあるけれども「終」が最も適当である。但し「成就」の意味を含む事は註に言えるが如し(B1)。
10章5節 モーセは、
口語訳 | モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。 |
塚本訳 | その証拠には、モーセは律法による義について(こう)書いている、“これを行う人(だけ)がそれによって生きる”と。(しかしだれ一人律法を完全に行うことは出来ない。) |
前田訳 | モーセが律法による義について書いています、「それを行なう人がそれによって生きる」と。 |
新共同 | モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。 |
NIV | Moses describes in this way the righteousness that is by the law: "The man who does these things will live by them." |
註解: レビ18:5。律法による義はこれを「行ふ」ことが絶対の要件である。即ちその外部に対する表顕がその要素を為している。従ってその弊害としてパリサイ主義の如き知識によらざる熱心によりて「生きん」とするに至った。併しこれは不可能である。何となれば何人も完全に律法を「行ひ」得ないからである。
辞解
異本に『モーセは律法による義につきて「これを行う者はこれによりて生くべし」と録したり』とあり、次節との関係その他よりこの方が優れる様に思う。
10章6節 されど
口語訳 | しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。 |
塚本訳 | ところが信仰による義はこう言う(と書いてある、)「“あなたは心の中で言ってはならない、”『“だれが天に上ってくれるか”』と。すなわち、キリストを(天から)つれ下ってくるために。 |
前田訳 | しかし信仰による義はこういいます、「心の中で、だれが天に上るか、というな。これはキリストを引きおろすこと。 |
新共同 | しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。 |
NIV | But the righteousness that is by faith says: "Do not say in your heart, `Who will ascend into heaven?' " (that is, to bring Christ down) |
10章7節 これキリストを
口語訳 | また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。 |
塚本訳 | あるいは、『”だれが地の底に下ってくれるか”』と。すなわち、キリストを死人の中からつれ上るために」と。 |
前田訳 | また、だれが地の底に下るか、ともいうな。これはキリストを死人から連れのぼること」と。 |
新共同 | また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。 |
NIV | "or `Who will descend into the deep?' " (that is, to bring Christ up from the dead). |
註解: 信仰による義は神がキリストをこの世に降しこれを十字架につけ、死人の中より甦えらしめ給いし事を信ずる事によりて与えられる義に他ならない。神既にキリストを降し給いたれば我ら自己の力を以て天に昇り、彼を引下さんとしない、又神既に彼を底なき所より引上げ給いたれば我ら自ら陰府 に降るに及ばない。救は凡て神によりて完全に成就せられ、我らは唯これを信ずるを以て足るのである。
辞解
パウロはここに申30:11-14 を応用しその処にモーセが律法の性質を説明してそれが決して理解し難きものにあらず、又彼らより遠きものにもあらざる事を説明せる形式に傚 い、(用語すらも一部を応用して)信仰による義の性質を説明し、その律法と異る点を強調したのである。故に申30:11-14 と6-8節との関係は型とその対型、預言とその実現、又は自己の思想をモーセの言を以て覆 えるもの等と見るよりも、上述の如く類似の語法を以て全く別の思想を述べたものと見るべきである。尚意味の取り方も上記は欧米の学者の所説と全く異るけれども、予は研究と思索の結果かく解する事とした。6-8節は或は(1)既に天に上り、既に甦り給えるキリストに対する不信仰を戒めしものと解し(M0)、或は(2)こうした質問を発するはキリストの成就せる事を無効ならしむるもの故唯これを信ずべしとなし(G1)、或は(3)自ら天に上り又は陰府 に下るの労苦を取るの必要なく、信仰の極めて容易なるものなる事を示すものと解し(I0)、或は(4)キリストを天より引下し又は陰府 より引上ぐる事能わざる如く人は救を天上より又は地下より持来し能わずと解し(B1)、或は(5)イエスを信ぜずして尚来るべきメシヤを期待するユダヤ人らは、既に黙示せられし事実を無視する不信仰の徒 である事を示すものと解す(Z0)る等尚多くの解釈がある。
[底なき所] 申30:13には「海の彼方」を用う、「底なき所」は聖書に屡々 「天」と相対して用いられる(ヨブ11:8。詩139:8。アモ9:2)
10章8節 さらば
口語訳 | では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。 |
塚本訳 | しかしこれはいったい何を言っているのか。(キリストはすでに天から下り、また死人の中から復活されたので、もうそんな努力の必要はない、これも聖書にあるように、)“言葉はあなたに近い。あなたの口に、あなたの心にある”(というのである。)すなわちこの言葉こそ、わたし達が説いている信仰の言葉[福音]である。 |
前田訳 | これは何をいうのでしょう。「ことばはあなたに近い。あなたの口に、あなたの心にある」という、これこそわれらの説く信仰のことばです。 |
新共同 | では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。 |
NIV | But what does it say? "The word is near you; it is in your mouth and in your heart," that is, the word of faith we are proclaiming: |
註解: 信仰による義は前2節の如くにして神これを与え給うが故に申30:14の律法の場合と同じく、信仰の言――パウロ等によりて宣伝されている福音――は外部より我らを規律すべきではなく、我らに近く我らの身の内に在りて我らを内より支配し動かすべきものである。この事を知らずして律法に熱心なるは彼らの知識なきが為である。申30:14の場合は律法が自己に遠く離れていない事を教えパウロはここに信仰は心の内部にその本拠がある事を云わんとしているのである。故に律法の場合の例を以て返って律法との対立を教えている事となる。
辞解
[御言] 本節後半の説明により単に「言」と訳すべきである。
[信仰の言] 信仰による義を示す福音の言。
10章9節
口語訳 | すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 |
塚本訳 | つまり、あなたは“口で”イエスを主と告白して、“心で”神がイエスを死人の中から復活させられたことを信ずれば、救われる。 |
前田訳 | 口で主イエスを告白し、心で神が彼を死人たちから復活させられたと信ずるなら、あなたは救われます。 |
新共同 | 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。 |
NIV | That if you confess with your mouth, "Jesus is Lord," and believe in your heart that God raised him from the dead, you will be saved. |
註解: イエスの主たる事とその復活とは6、7節によりて示される如く信仰の対象であり、心と口とは前節に示される如くこの信仰の所在とその告白である。この二者は本体とその活動で互に離れる事が出莱ない。
辞解
本節は「何となれば若し汝口にてイエスを…………を信ぜば救わるべければなり」とありて信仰による救の単純なる事を示して前節の理由を為している。尚「口」即ち信仰の表白を「心」即ち信仰そのものよりも前に置けるは申30:14と対応せしめんが為で次節にこれが自然の順序となる。
10章10節 それ
口語訳 | なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。 |
塚本訳 | 心で信じて義とされ、口で告白して救われるからである。──(こうわたし達は説いているのである。) |
前田訳 | 心で信じて義に至り、口で告白して救いに至るのです。 |
新共同 | 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。 |
NIV | For it is with your heart that you believe and are justified, and it is with your mouth that you confess and are saved. |
註解: 内面の信仰は必ず外面の告白を伴い、これによりて救は完成する。告白なき信仰は死せる信仰であり(マタ10:32。Uコリ4:13)信仰なき告白は虚偽の告白である(マタ7:21)。
10章11節
口語訳 | 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 |
塚本訳 | (なぜ信仰だけで救われるか。)“これ[キリスト]を信ずる者は”すべて、(最後の裁きの日に)“恥をかかないであろう”と聖書が言っているからである。 |
前田訳 | 聖書はいいます、「すべて神を信ずるものははずかしめられまい」と。 |
新共同 | 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。 |
NIV | As the Scripture says, "Anyone who trusts in him will never be put to shame." |
註解: (▲ロマ5:5と同じく、期待がはづれて恥をかく様な事は無い事。)原文「聖書に・・・・・言えばなり」とあり、前節の理由を示す(イザ28:16)。又原文には(七十人訳にも)「凡て」なる文字なし。パウロがこれを挿入せる所以はこれによりて原文の意味を強くし且つ次の諸節の説明の根拠とせんが為である。信仰のみによりて人は辱しめを免れる。即ち神はその人の罪を審き給わない。この点は旧約の預書者も既に認めていた点である。
口語訳 | ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 |
塚本訳 | (「すべて」と言う以上、)ユダヤ人も異教人も、その間になんの差別もないのである。なぜなら、同じ一人の方がすべての人の主であって、御自分を呼ぶすべての人に、あり余る恩恵をお与えになるからである。 |
前田訳 | ユダヤ人も異邦人も区別なしです。同じ主が万民の主で、彼を呼ぶものすべてを豊かに恵みたまいます。 |
新共同 | ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。 |
NIV | For there is no difference between Jew and Gentile--the same Lord is Lord of all and richly blesses all who call on him, |
註解: ユダヤ人に取りては革命的宣言であった。この両者の区画はその律法にあった故キリストこの障壁を撤廃し給いしが故に、この両者は信仰によりて神の恩恵を受けその救に与る意味に於て全く差別なきものとなったのである。
註解: 同一の主キリストはユダヤ人の主たるのみならず異邦人の主である。ユダヤ人の独占を許さず。又ユダヤ人のみを偏り見給う事はない。何人たるを問わず主の御名を呼び、その執成 (M0)と恩恵と救助(Z0)とを求むる者に対し、主はその無尽蔵の富(ヨハ1:16)よりその恩恵を豊かに与う事を得給う。何人もこれを汲み尽す事が出来ない(B1)。
辞解
[万民] 原語「万人」。
[呼び求む] epikaleô 呼びかける事。
[主] 旧約聖書に於てこの語をエホバに対して用う。神たる事を示す。
10章13節 『すべて
口語訳 | なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。 |
塚本訳 | ほんとうに(預言者ヨエルが言うように、)“主[キリスト]の名を呼ぶ者はすべて救われる。” |
前田訳 | 「主を呼ぶものはすべて救われる」からです。 |
新共同 | 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。 |
NIV | for, "Everyone who calls on the name of the Lord will be saved." |
註解: ヨエ3:5、パウロは聖書を引用してユダヤ人の偏見を打破せんと力 めている。但し「主」は旧約聖書に於ては「エホバ」を意味するけれども、パウロはこれを転じてキリストに就て応用している。キリストが神の子に在し給う以上これは当然である。旧約時代に於ても神の恩恵に対する信仰があった事はかかる聖句に示されている。
10章14節
口語訳 | しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。 |
塚本訳 | ところで、(呼ぶだけで救われると言うが、)信じたことのない者を、どうして呼ぶことができようか。聞いたことのない者を、どうして信ずることができようか。説く者がなくて、どうして聞くことができようか。 |
前田訳 | さて、信じたことのないものを、どうして呼びえましょう。聞いたことのないものを、どうして信じえましょう。伝えるものがなくて、どうして聞きえましょう。 |
新共同 | ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 |
NIV | How, then, can they call on the one they have not believed in? And how can they believe in the one of whom they have not heard? And how can they hear without someone preaching to them? |
口語訳 | つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。 |
塚本訳 | (神に)遣わされなければ、どうして説くことができようか。(しかし説く者はある。それはわたし達である。)“善いこと[福音]を伝える人たちの足の、なんと美しいことよ!”と書いてあるとおりである。 |
前田訳 | つかわされないで、どうして伝ええましょう。聖書に、「よいことを伝える人の足の美しさよ」とあるとおりです。 |
新共同 | 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。 |
NIV | And how can they preach unless they are sent? As it is written, "How beautiful are the feet of those who bring good news!" |
註解: 併し主の名を呼び求むるには信ずる事、信ずるには福音を聴く事、聴くにはこれを宜伝うる事、宣伝うるには使徒として派遣される事を必要とする。この五段階は信仰を以て主を呼ぶ者に必要なる順序であり、而してパウロその他の使徒の伝道もこの呼び求むる者を造らんが為の働きである。故に13節に引用せる聖句を実現せんが為の活動であって、ユダヤ人の反対を受くべき筈は無い。聖書にも次の如くに録されている事を思うべきである。
『ああ
註解: この聖句(イザ52:7)はイスラエルの捕囚よりの帰還と神政の回復を告ぐる預言であって、メシヤ王国に関連する聖句故パウロはこれをキリストに応用し、使徒職の美わしさをたたえた。パウロその他の使徒は決してユダヤ人を非難し又は攪乱せん為に働いているのではなく、却て彼らを救わんが為にこの聖句の如くに美しき働きを為しているのである。
辞解
[告ぐる] の原語は「福音を宣伝うる」。
要義1 [知識によらざる信仰の熱心は無益にして危険なり] 知識によらざる信仰の熱心は、自己満足と自己陶酔とに陥り、且つ高慢がこれに伴い、この熱心によりて救わるるが如くに誤信するに至る。これ寧ろ律法主義、パリサイ主義の一変形で、純福音の正反対である。人は自己の絶対に無力なる事の知識を得て神の為し給う救を静かに信受する事が必要である。この知識即ちこの真理の深き理解無き場合の熱心は無益有害である。
要義2 [熱心の必要] 知識即ち深き理解を欠ける熱心は無益であるけれども、真理を求むる熱心は救に必要である。熱心なしに、少しの緊張味もなしに、信仰を求めんとする事は無意味である。神は求めざる者に信仰を強て押付け給わない。但し我らは自已の熱心によりて信仰を獲得し得ると考えてはならない。熱心は唯我らをして自己の無力を徹底的に明かならしめ信仰より外に救わるべき道なき事を知らしむるに過ぎない。これが熱心の到達し得る帰結である。但しこの帰結は非常に重要なる点であって、これなくしては人は信仰のみによりて義とされる事の真理を知る事が出来ない。自己の全く無なる事を知り神の前に打ち砕かれし魂の上に神は御手を加えこれに信仰の霊を与え給う。人は熱心を以て信仰を掴む事が出来ない。併し熱心なしに人は信仰を与えられる事が出来ない。
要義3 [信仰と告白] 口にイエスを主と言いあらわす事は、単にこれを口先のみの問題と解すべきではなく、人間の全活動を以て主の支配を証明する事を要するとの意味である。即ち信仰は内面的に心の中に信ずるだけで人の前にこれを示し得ないものであるならば、それは真の信仰ではない、唯「主よ主よ」と言う者のみ天国に入らないと共に「人の前に」イエスを「否む者」は又父の前にて否まれなければならぬ(マタ7:21。マタ10:32、33)。
併し乍ら信仰なき告白は虚為である。説教に於て又は祈りに於て、心に無き事を告白する如き態度は大なる偽善である。かかる信仰告白は真の告白ではない。
要義4 [単純なる信仰] イエスの主たる事とその復活とを信じ且つ告白する事は極めて簡単であって、律法遵守の如き複雑困難なる事は無い。何人にも可能であり従って一般的である。併し乍らこれと同時に贋 の信仰と告白とが生じ易い事の危険がある。それ故に信仰は単に単純であるのみではいけない。その処に真実さが充ちている事を必要とする。信仰そのものが真実を離れて存在し得ない以上、これは当然の事である。
10章16節 されど、みな
口語訳 | しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。 |
塚本訳 | ところが、だれもが(このように伝えられた)福音を、従順に受け入れたわけではない。イザヤも(こう)言っているから。“主よ、だれがわたし達に聞いたことを信じましたか”と。(実際イスラエル人は信じなかったのである。) |
前田訳 | しかし皆が福音に従ったのではありません。イザヤはいいます、「主よ、だれがわれらに聞いたことを信じましたか」と。 |
新共同 | しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。 |
NIV | But not all the Israelites accepted the good news. For Isaiah says, "Lord, who has believed our message?" |
註解: 万民が主を呼び求めんが為に福音は宣伝えられたけれども、これに従わずこれを信じなかったものが多いではないか。併しこれは怪しむに足りない、イザ53:1に預言せられしが如くである。故に福音が宣伝えられたからとて必ずしも万人残らず信仰に入り得ると云う事は出来ない。
10章17節
口語訳 | したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。 |
塚本訳 | [だから、(いま言ったように、)信仰は(福音を)聞くことから、聞くことはキリストの(伝道の)命令から生まれる。] |
前田訳 | 信仰は聞くことから、聞くことはキリストのことばからです。 |
新共同 | 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 |
NIV | Consequently, faith comes from hearing the message, and the message is heard through the word of Christ. |
註解: 14節の繰返し。「キリストの言」(異本「神の言」)はキリストの福音と云うに同じ(I0、G1)。即ち信仰の前提として必要なるものは福音とこれを聞く事である。これらは凡て欠くる処が無かった。
辞解
[キリストの言] をその「命令」と解し使徒たちに伝道を命じ給える故と解する説(M0)あれど適当ではない。
口語訳 | しかしわたしは言う、彼らには聞えなかったのであろうか。否、むしろ「その声は全地にひびきわたり、その言葉は世界のはてにまで及んだ」。 |
塚本訳 | しかし、わたしは考える、彼らは(福音を)聞かなかったのではあるまいかと。そんなことはない。“その声は全地に、その言葉は世界の果てにまで出ていった。”(と書いてある。) |
前田訳 | しかしわたしはいいます、彼らは聞かなかったのでしょうか、と。そうではなくて、「その声は全地に、そのことばは世界の果てにまで及んだ」のです。 |
新共同 | それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。 |
NIV | But I ask: Did they not hear? Of course they did: "Their voice has gone out into all the earth, their words to the ends of the world." |
註解: 彼らイスラエルが信じないのは、福音が宣伝えられたのにかかわらずそれを聞かなかったのであるか、まさか左様ではあるまい。
辞解
[聞こえざりしか] 適訳ではない。「彼らはまさか聞かざりしにはあらじ、如何」と云う如き意。
註解: パウロは彼及び他の使徒たちの伝道により福音が全世界(当時の概念による)に伝っている事を詩19:4の言を以て叙述している。故にイスラエルは福音を聞かざりしとの口実を以てその不信の弁解とする事は出来ない。
辞解
引用の詩篇の語は天地の自然が無言の中に大なる声を以て神の栄光を讃美している事を歌っていて福音の宣伝とは関係が無い。唯福音の宣伝も声は小なるが如くにして、実は高く全世界に饗き渡る有様がこれに類似しているので、パウロは彼の思想を詩篇の詞を以って表したのである。
10章19節
口語訳 | なお、わたしは言う、イスラエルは知らなかったのであろうか。まずモーセは言っている、「わたしはあなたがたに、国民でない者に対してねたみを起させ、無知な国民に対して、怒りをいだかせるであろう」。 |
塚本訳 | しかし、わたしは(なお)考える、イスラエル人は(聞くには聞いたが、むずかしくて)わからなかったのではあるまいかと。(そんなことはない。)第一にモーセは言っている。(“神は言われる、)「わたしはわたしの民でない者(を救うこと)によって”あなた達に“妬みをおこさせ、愚かな民によって”あなた達を“怒らせる」(と。)”(愚かな異教の民さえ信じたのである。) |
前田訳 | なお、わたしはいいます、イスラエルは知らなかったのでしょうか、と。まずモーセがいいます、「わたしは民でないものによってあなた方を妬ませ、愚かな民によってあなた方を怒らせる」と。 |
新共同 | それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、/「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。 |
NIV | Again I ask: Did Israel not understand? First, Moses says, "I will make you envious by those who are not a nation; I will make you angry by a nation that has no understanding." |
註解: 前節同様「イスラエルはよも知らざりしにはあらじ、如何」の意。イスラエルも救に漏れる事がある事又異邦人が救に与る事がある事を彼らも知っている筈である。
辞解
[知る] の目的は(1)「その声が全地に聴えし事」(M0)。(2)「福音の宣伝が全世界に及ぶ事」(G1)。(3)「キリストの言」(I0)等種種に解せらる。
註解: (▲「もて」は口語訳の「対して」が正しい。)申32:21の引用でイスラエルが神を神とせずして偶像を拝するが故に神はその罰として神の「民ならぬもの」を恵み、「愚なる」神を知らざる民に神を知らしむる事によりてイスラエルに嫉 の心、怒の情を起さん事を預言し給うた。これが今日実現しているに過ぎない。
辞解
[民ならぬ者] 神の民以外の者の意、異邦人に同じ。
[愚かなる民] 偶像崇拝の民、神を知らざる民で同じく異邦人を指す。
[先づ] を「先づ知らざりしか」と読む説あり(Z0)
10章20節 またイザヤ
口語訳 | イザヤも大胆に言っている、「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、わたしを尋ねない者に、自分を現した」。 |
塚本訳 | (次に)イザヤも勇敢に言っている。“(神は言われる、)「わたしをさがさなかった者にわたしは姿を見せ、わたしを尋ねなかった者に現われた」(と。)” |
前田訳 | イザヤもあえていいます、「わたしを求めなかったものに姿を見せ、わたしをたずねなかったものに現われた」と。 |
新共同 | イザヤも大胆に、/「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。 |
NIV | And Isaiah boldly says, "I was found by those who did not seek me; I revealed myself to those who did not ask for me." |
註解: イザ65:1。ヱホバは彼に背き彼を顧みざるその民イスラエルを愛する熱情を吐露せんとして反対に本来彼を求めず、尋 ねざる異邦人が思いがけなくもヱホバを見出し彼を知るに至った事を示して、その心の淋しさを訴え給うた。この聖句を見てもイスラエルの背反と異邦人の救とは明かである。
辞解
本節イザ65:1の七十人訳により(前後転倒)たるものである。イザ65:1は異邦人に関する言にあらず、イスラエルの中のある者に関する言であると解する学者が多い(M0、I0、E0)、批評学の定説に近い、併しパウロと同じくこれを異邦人に関するものと見る学者も無くはない(G1、A1、Z0)。パウロは次節より見るも明かにこれを異邦人に関する語と見たので、これは恐らくその当時の一般の解釈によったものであろう(Z0)。
10章21節
口語訳 | そして、イスラエルについては、「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」と言っている。 |
塚本訳 | 彼はまたイスラエル人について言っている、”(神は言われる、)「一日中、この不従順な反抗ばかりしている民に、わたしは手を伸べていた」(と。)”(だから彼らが信じないのは、頑なで自分の義を立てようとしたからであって、弁解の言葉はない。) |
前田訳 | 彼はまたイスラエルについていいます、「ひねもすわたしは手をのべた、不従順で反抗的な民に」と。 |
新共同 | しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。 |
NIV | But concerning Israel he says, "All day long I have held out my hands to a disobedient and obstinate people." |
註解: イスラエルの不信とこれに対するヱホバの愛とを示す。この聖句(イザ65:2)を見てもイスラエルがヱホバに叛いている事を知らずとは云う事が出来ない。
辞解
本節引用は前節引用の次の句でこの方はイスラエルに関する事に何人も異議は無い。本節も亦神がある者の亡ぶる事を欲して亡びに予定せりとの説を破壊する。
要義1 [ユダヤ人とギリシャ人との区別なし] この思想はパウロによりて屡々 強調される処であって(ロマ3:29-30。ロマ15:9。ガラ3:28。Tコリ12:13。エペ2:13-18。コロ3:11)宗教上の特選の民と自任していた当時のユダヤ人に取りては、危険なる破壊思想であった。併し神の大愛を信ずる者に取りてはかかる区別は存在する筈が無い事は明かである。唯神は凡ての人をその信仰によりて見分け給う。従って外形上の基督者、非基督者の区別も神の前には存在せざるに等し。
要義2 [イスラエルの選びの意義] 聖書に神がイスラエルを選び、特にこれを愛撫し給う事が録されているのは「同一の主は万民の主にましまして、凡て呼び求むる者に対して豊なり」との聖語に相反するが如くに見えるけれども然らず、神がイスラエルを選び給いしはえこひいきによるにあらず、神がイスラエルに大なる使命を授け給わんが為である。故に選ばれしイスラエルはこの重荷を負い、この使命に耐うる者となるべき訓練の下に立たなければならぬ。而して神が特にイスラエルを愛し給うは、この重任と烈しき訓練とを思い給うからである。選ばれる事は光栄であると共に苦痛である。
要義3 [福音宣伝の幸福] (ロマ10:15)福音を宜べ伝うる事は神を父と呼ぶべき人々を招く事である。神がキリストによりて人類の罪を赦し給い神の御心が既に和らぎ給える事を告ぐる使の叫びである。かかる光栄ある働きは他に有り得ない。これに遣される者は幸である。
要義4 [神の恩恵は公平なり] 神は不従順にして言いさからう民にも終日御手を伸べ給う(ロマ10:21)。故に極端なる預定論者の唱うる如く、救に預定せる者に対してのみ神は特別の好意を示し給い、その他の者には普通の好意を示し給うに過ぎずとする説(カルヴィン)は誤である(B1)。