第1コリント第9章
分類
6 偶像に関する諸問題
8:1 - 11:1
6-2 パウロの実例
9:1 - 9:27
6-2-イ 使徒としてのパウロの自由
9:1 - 9:7
註解: 強き信者、知識ある信者の有つ自由は責重な賜物である、併し愛なしに之を用いる事は罪である事を前章に論じた。其の論鋒が益々進んでパウロは
暫 く偶像の問題を離れて、彼自身その自由を如何に使用せしかを例示してコリント信者を戒めているのが本章である。
9章1節
口語訳 | わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。 |
塚本訳 | わたしは(すべての律法から釈放されて)自由ではないか。わたしは(とくに神に選ばれた)使徒ではないか。(このことを疑う者があるようだが、)わたしはわたし達の主、(復活の)イエスにお目にかかったではないか。あなた達は主におけるわたしの作品ではないか。 |
前田訳 | わたしは自由人ではありませんか。わたしは使徒ではありませんか。われらの主イエスを見たではありませんか。あなた方は主にあるわがわざではありませんか。 |
新共同 | わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。 |
NIV | Am I not free? Am I not an apostle? Have I not seen Jesus our Lord? Are you not the result of my work in the Lord? |
註解: パウロは主に在る愛の為めに自己の資格と其の功績とに比して如何程自己の自由を犠牲にしているかを考えんが為に茲に熱情を以て四つの点より先づ自己の立場と権利とをコリント人に示している。
辞解
[自主の者] 「自由の身」であつて奴隷に対立している。但し此の場合は基督者としてユダヤの律法、偶像に献げし肉等によつて何等の束縛をも受けず、それらのもの以上に立つている事。
[使徒] 基督者であるのみならず、更にキリストに遣わされし使徒である。
[主イエスを見しにあらずや] ダマスコ途上に於ける彼の実験であつて、彼は彼の使徒たる事を否定せんとする者に対し(Uコリ12:11-18)此の経験を以て使徒職の証拠とした。
[主に在りて我が業] 以上の証明の外にパウロは其の教会建設の事業を指して自己の使徒たる事の証とした、而も「主にある」業であつて、若し使徒でなかつたならば主はかく彼の業を恵み給わなかつたであろう。
9章2節 われ
口語訳 | わたしは、ほかの人に対しては使徒でないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。 |
塚本訳 | ほかの人たちには使徒でなくても、少なくともあなた達にはそうである。なぜなら、あなた達は主にあってわたしの使徒職を証明する印鑑であるから。 |
前田訳 | たとえ他の人々には使徒でなくても、あなた方にはそうです。あなた方は主にあって、わが使徒性の太鼓判です。 |
新共同 | 他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。 |
NIV | Even though I may not be an apostle to others, surely I am to you! For you are the seal of my apostleship in the Lord. |
9章3節 われを
口語訳 | わたしの批判者たちに対する弁明は、これである。 |
塚本訳 | ──これが、わたしを批判する人たちに対するわたしの答弁である。 |
前田訳 | わたしを裁く人々へのわが弁明は次のようです。 |
新共同 | わたしを批判する人たちには、こう弁明します。 |
NIV | This is my defense to those who sit in judgment on me. |
註解: コリントの信者中に彼の使徒たる事を否定せんとする者あるに対し、パウロはコリント教会がパウロの伝道の結果、主に在りて存在している事実を捉え「少くとも汝らには使徒たるの証拠である」として弁明している。
辞解
[斯 のごとし] 第2節に関連し、第4節は更に第1節の議論の細目に入つている。
口語訳 | わたしたちには、飲み食いをする権利がないのか。 |
塚本訳 | わたし達には(集会の費用で)食べたり飲んだりする権利がないというのか。 |
前田訳 | われらには食べまた飲む権利がないのですか。 |
新共同 | わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。 |
NIV | Don't we have the right to food and drink? |
9章5節
口語訳 | わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。 |
塚本訳 | わたし達には他の使徒たちや、主の御兄弟たちやケパのように、姉妹を妻として連れてまわる権利がないというのか。 |
前田訳 | わたしには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、姉妹である妻を連れ歩く権利がないのですか。 |
新共同 | わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。 |
NIV | Don't we have the right to take a believing wife along with us, as do the other apostles and the Lord's brothers and Cephas ? |
9章6節 ただ
口語訳 | それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。 |
塚本訳 | それとも、わたしとバルナバとだけには、(生活のための)仕事をしない権利はないのか。 |
前田訳 | わたしとバルナバとだけに、働かないでいる権利がないのですか。 |
新共同 | あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。 |
NIV | Or is it only I and Barnabas who must work for a living? |
註解: 使徒である以上、教会の費用を以て生活し、妻を伴い、又自分の得た労働の賃銀を以て生活せず教会をして自己を養わしむる権がある。
辞解
[我ら] パウロ、ソステネ、バルナバ等。
[飲食する権] 教会の費用によりて衣食する事。前章又はロマ14章の飲食の自由について云うのでは無い。
[主の兄弟] マリヤの終生童貞説を唱うる旧教教会の主張に反対の根拠となる。
[姉妹たる妻] 信者としては姉妹に当る。
9章7節
口語訳 | いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。 |
塚本訳 | いったい手弁当で軍務に服する者があるのか。葡萄畑をつくっておいてその実を食べない者があるのか。また、群れを養っておいてその群れの乳を飲まない者があるのか。 |
前田訳 | だれが自分の費用で兵士になりますか。だれがぶどう園を作ってその実を食べないでしょうか。また、だれが羊の群れを飼ってその群れの乳をとらないでしょうか。 |
新共同 | そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。 |
NIV | Who serves as a soldier at his own expense? Who plants a vineyard and does not eat of its grapes? Who tends a flock and does not drink of the milk? |
註解: 軍隊、畑、牧群は屡々 神の民イスラエルの例として用いられるのみならず、是等は何人も目撃している日常の社会現象であつた。パウロは是等を巧に利用して使徒職の権利を説明している。即ち兵卒、農夫、牧者に比すべき使徒は、自己の財によらずして生活するの権がある。
9章8節
口語訳 | わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。 |
塚本訳 | わたしは(ただ)人間的にこれを主張するのであろうか。それとも、律法も同じことを言ってはいないのか。 |
前田訳 | わたしがこういうのは、人間的なのでしょうか。律法も同じことをいうではありませんか。 |
新共同 | わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。 |
NIV | Do I say this merely from a human point of view? Doesn't the Law say the same thing? |
註解: 旧約聖書の律法を引用して更に其の論を支持している。聖書は常に最上の権威である。
9章9節 モーセの
口語訳 | すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。 |
塚本訳 | モーセ律法に“脱穀する牛に口篭をはめてはならない”と書いてあるではないか。これは神が牛のためを考えられるのであろうか。 |
前田訳 | まさしくモーセの律法に、「穀物を砕く牛にくつこをかけるな」と書かれています。神は牛のことをご心配ですか。 |
新共同 | モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。 |
NIV | For it is written in the Law of Moses: "Do not muzzle an ox while it is treading out the grain." Is it about oxen that God is concerned? |
9章10節 また
口語訳 | それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。 |
塚本訳 | それとも、あくまでわたし達のために言われるのか。そうだたしかにわたし達のために、耕す者は(収穫を得る)望みがあって耕し、脱穀する者はそれにあずかる望みがあって脱穀するのでなければならない、と書いてあるのだ。 |
前田訳 | それとも、ひたすらわれらのためにこう仰せですか。たしかにわれらのためにこう書かれているのです。それは、耕すものは望みをもって耕し、穀物を砕くものは分け前への望みをもつべきだからです。 |
新共同 | それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。 |
NIV | Surely he says this for us, doesn't he? Yes, this was written for us, because when the plowman plows and the thresher threshes, they ought to do so in the hope of sharing in the harvest. |
註解: 申25:4の此の聖句は神が牛の飼主に如何に牛を取扱うべきかを教え給うたのであつて、一見牛のために慮 り給えるが如くに見えるけれども、牛は単に型に過ぎずして我ら即ち使徒、教師等のために録されているのである(一般の人のためではない)。即ち使徒、教師等によりて福音の財を与えられるものは、その果を使徒、教師等に献ぐべき事は当然であることを教え給うたのである。勿論神は牛を顧み給わないと云うのでは無い、神は造物主として一匹の牛をも疎 かにし給わない。唯此の律法の目的は使徒等の当然の権利を示さんが為めであつたのである。▲申25:4をパウロは此の様に理解したのであった。
それ
註解: 耕す者、穀物をこなす者と同様に、使徒、教師等も、彼らの働きの結果として之に伴う当然の報酬を受ける事を望むが至当である。
9章11節 もし
口語訳 | もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。 |
塚本訳 | わたし達が霊的なものをあなた達にまいた以上、あなた達から物質的なものを刈り取ったところで、大したことではないか。 |
前田訳 | われらがあなた方に霊のものをまいた以上、あなた方から肉のものを刈り取っても大ごとではないでしょう。 |
新共同 | わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。 |
NIV | If we have sown spiritual seed among you, is it too much if we reap a material harvest from you? |
註解: パウロ、シルバノ、テモテ等はコリントに霊の種を蒔いたのであるから、播かれた霊の物に比して劣つている肉の物を信者から刈り取ることは大事(過分の意味)では無い、当然の事である。故に之を反対の方面より見ればコリントの信者は之をパウロ等に献ぐるが当然である。
9章12節 もし
口語訳 | もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。 |
塚本訳 | (なんの関係もない)ほかの人たちがあなた達を支配する権利にあずかっている以上、(生みの親である)わたし達はなおさらではないのか。しかしわたし達はこの権利を用いず、救世主の福音に少しの妨げも与えることのないようにと、すべてのことを我慢している。 |
前田訳 | もし他の人たちがあなた方に対するこの権利にあずかるならば、われらはなおさらではありませんか。しかるにわれらはこの権利を用いず、かえってすべてを忍んでいます。それはキリストの福音に少しも妨げを与えないためです。 |
新共同 | 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。 |
NIV | If others have this right of support from you, shouldn't we have it all the more? But we did not use this right. On the contrary, we put up with anything rather than hinder the gospel of Christ. |
註解: パウロの後にコリントに来た教師は此の権を用いた、他の人と云うは必ずしもUコリ11:20等の如き偽教師をのみ指したのではない。
註解: 茲にパウロが自己の使命を如何に重じていたか、そして如何にもして弱き信者を躓かせない様にしようかと苦心したかが顕われている。彼らは是がためには其の当然の権利をすら放棄し、種々の困難(Uコリ11:23以下)の上に更に自ら労働して生活するの苦労をも忍んでいた。是れ当時のギリシヤの哲学者、雄弁家の如くに自己の衣食や貪欲のために、福音を伝えているのであると誤解せられて、之が福音伝播の妨げとなる事を憂えたのである。
9章13節 なんぢら
口語訳 | あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。 |
塚本訳 | お宮で聖なる務めを行なう者はお宮のものを食べ、祭壇に奉仕する者は祭壇のものの分け前をいただくことを、あなた達は知らないのか。 |
前田訳 | ご存じありませんか、宮仕えするものは宮のものを食べ、祭壇に仕えるものは祭壇のものの分け前にあずかることを。 |
新共同 | あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。 |
NIV | Don't you know that those who work in the temple get their food from the temple, and those who serve at the altar share in what is offered on the altar? |
註解: 旧約の律法によりレビ及び其の一族は宮のものによりて生活し、祭司は祭壇にささげられしものを以て生活した。
辞解
[▲聖なる事] 「宮の事」で口語訳の「宮仕えをする者」は適当な意訳である。
9章14節
口語訳 | それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。 |
塚本訳 | そのように主も、福音を伝える者は福音で生活するようにと定められたのである。 |
前田訳 | そのように、主も福音をのべ伝えるものは福音によって生活すべきことをお命じでした。 |
新共同 | 同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。 |
NIV | In the same way, the Lord has commanded that those who preach the gospel should receive their living from the gospel. |
註解: パウロは茲に更に主イエスの御言を引用して、その権のいよいよ確実なるものである事を保証している(マタ10:10。ルカ10:7等をパウロは使徒より言ひ伝えられて知つていた)。之によつて見ればキリストがその教会の中に福音宣伝を専門の職務とする人の存する事を認め、かかる人に対して信者は之を養う義務ある事を定め給うたのである。かかる人は福音のために活きている故に福音によりて其の生活を支えるのが当然である。「然るに今日多くの人々は福音によりて生活しながら福音の為に生活しないのは悲しむべきである」(G1)
9章15節 されど
口語訳 | しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。 |
塚本訳 | しかしこのわたしは、それら(の特権)を何一つ用いたことがない。わたしがこのことを書いたのは、自分がそうしてもらいたいからではない。なぜなら、むしろわたしは死んだ方がよっぽど仕合わせだ、もし‥‥(いや)この、わたしの誇り、(びた一文厄介をかけずに福音を伝えるというこの誇り)を、だれも無にしてくれるな! |
前田訳 | しかしわたしはそれらの権利のひとつも用いませんでした。わたしがお書きするのはそうしてもらいたいからではありません。わたしはそれよりも死んた方がましです。だれもわが誇りを無にしないでください。 |
新共同 | しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。 |
NIV | But I have not used any of these rights. And I am not writing this in the hope that you will do such things for me. I would rather die than have anyone deprive me of this boast. |
註解: 茲にパウロは「我ら」より「我」に転じて彼の一個の確信と態度とを示している。彼は以上に述べし如き伝道者としての権利を全く放棄した、此の点に於て自己の知識のために弱き信者の躓くをも顧みずその自由を放棄しなかつたコリント信者は恥づべきである。又かく書き送る目的は心の中にコリント信者より生活を支えられん事を希望するからではない。否、寧ろパウロは此の誇を自己の生命を以て守らんとした。何となれば値なしに福音を宜伝えていると云う誇のみが彼に取つて生命よりも尊き報であつたからである。パウロは此の自己犠牲を如何に満足に思つていたかはUコリ11:7-12。Uテサ3:8、9等より之を窺い知る事が出来る。斯の如く我らの犠牲、権利放棄も苦しい義務ではなく最も喜ばしき奉仕でなければならない
9章16節 われ
口語訳 | わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。 |
塚本訳 | なぜなら、たとい福音を伝えたところで、わたしの誇りにはならない。なぜなら、(神に)強要されているのだから。なぜなら、もし福音を伝えないならわたしは禍だからである。 |
前田訳 | なぜならば、たとえわたしが福音をのべ伝えても、それは誇りではありません。それはわたしに迫る必要です。福音をのべ伝えねばわたしはわざわいです。 |
新共同 | もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。 |
NIV | Yet when I preach the gospel, I cannot boast, for I am compelled to preach. Woe to me if I do not preach the gospel! |
註解: パウロが福音を宣伝えているのは己の希望によるのでもなく、己の撰択によるのでもなく、又勿論己の道楽でもなかつた。ダマスコの途上、彼は主イエスに捕えられ、強てキリストの使徒とせられたのである(使9:1-9)。故に恰 も戦争の際に捕虜は止むを得ずに強て敵国の労役に服せしめられる如き意味に於てパウロは福音の宣伝者となつているのである、夫故にもし此の神の命に従わずして彼が福音を宣伝えないならば、禍なる哉神の審判は彼の上に下るであろう(使9:5)。
9章17節
口語訳 | 進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務なのである。 |
塚本訳 | なぜなら、わたしが自分から進んでこれをしているというのなら褒美もいただこうが、否応なしであってみれば、この職を(神に)託されているに過ぎないからである。 |
前田訳 | もしそれを進んでするなら報いがあります。しかし進んででなくても、わたしは務めをゆだねられています。 |
新共同 | 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。 |
NIV | If I preach voluntarily, I have a reward; if not voluntarily, I am simply discharging the trust committed to me. |
註解: パウロは恰 も此の時代の家司(Tコリ4:2)の如く奴隷として其の職を遂行する義務があつた。之を喜んで行えば之に対して天国の報償があるけれども、たとい之を為す事を欲せずとも家司は其の務を行う義務があつた。
辞解
[務を委ねられたり] 原語「家司に任ぜられたり」
9章18節
口語訳 | それでは、その報酬はなんであるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。 |
塚本訳 | では、わたしの褒美とはいったい何であるか。それは、わたしが福音を伝えるとき、無報酬で福音を提供し、福音にあってもつわたしの権利を利用しないことである。 |
前田訳 | それならば、わが報いとは何ですか。それは福音を伝えるとき福音を無料で与え、福音についてのわが権利を用いないことです。 |
新共同 | では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。 |
NIV | What then is my reward? Just this: that in preaching the gospel I may offer it free of charge, and so not make use of my rights in preaching it. |
註解: パウロは福音の宣伝によりて何等報を受くるの望は有たない。彼は強いられて之を行つているからである。併し乍ら自分にも既にうけつつある報はある。それは神より与えられし当然の権を愛の故に放棄し、人々をして費 なしに福音に接せしむる事である。是が己の自由の意思より行つている唯一の奉仕であり、自分の心に満足を覚ゆる唯一の原因(報)である。かかる大切なる誇を如何で放棄する事が出来ようか。
要義 [パウロは此の権利放棄を功績と考えしや]パウロは茲に彼の自己放棄を以て恰 も一の功績なるが如くに誇っている様に見える、しかしながら彼は之を神の前に義とせられんが為めの功績として誇る心は更に無かった(ロマ4:2)。恰 もキリストが其の神の子に在し給ふ尊き資格を、愛のために放棄し給うたと同様にパウロも亦其の特権を愛のために放棄して之を用い尽さず、一人にても多く福音に入れんと労する処に彼の内心の満足があり、之が神の喜び給うことであるとの誇を有っていた(Uコリ1:13-14。ピリ2:16)のである。
9章19節 われ
口語訳 | わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。 |
塚本訳 | それで、わたしはすべての人から(全く)自由であるが、(同時に、)自分をすべての人の奴隷にした。(キリストのために出来るだけ)多数の人を得るためである。 |
前田訳 | わたしはすべての人から自由ですが、自らをすべての人の奴隷にしました。多くの人をかちうるためにです。 |
新共同 | わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。 |
NIV | Though I am free and belong to no man, I make myself a slave to everyone, to win as many as possible. |
註解: 前節のパウロの有てる権を用い尽さぬ事の実例である。即ちかく行わない場合よりも更に多くの人をキリストと神の国に入れんが為めに(得んために)彼は凡ての人の束縛の下に己を置き其の自由をすてた。
9章20節
口語訳 | ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。 |
塚本訳 | ユダヤ人たちにはユダヤ人のようになった。ユダヤ人たちを得るためである。わたし自身は(モーセ)律法の下にいないのではあるが、律法の下にいる者たちには、律法の下にいる者のようになった。律法の下にいる者たちを得るためである。 |
前田訳 | そしてユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人をかちうるためです。律法の下にいる人々には、自らは律法の下にいませんが、律法の下にいる人のようになりました。律法の下にいる人々をかちうるためです。 |
新共同 | ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。 |
NIV | To the Jews I became like a Jew, to win the Jews. To those under the law I became like one under the law (though I myself am not under the law), so as to win those under the law. |
註解: 「ユダヤ人」と「律法の下にある者」とは共にユダヤ人を意味しているけれども、パウロは前者を以て風俗習慣の方面を指し後者を以て律法の方面を指したのであろう。パウロはある意味に於て世界人であつたにも関わらずユダヤ人にはユダヤ人となり其の風俗習慣を守つていて、又彼は福音によりて律法より解き放たれていて、律法の行によりて義とせられんと望む者には激烈に反対していながら(ガラ5:2-4)自らは或はテモテに割礼を施し(使16:3)、ケンクレアに於て誓願の為めに剃髪し(使18:18)、又ヤコブらのすすめに従いエルサレムにて誓願ある四人の者にユダヤの律法の要求する潔めと剃髪の式を行いパウロに対するユダヤ人の誤解を解かんとした(使21:17-29)。是れ迫害を恐れるからでは無くユダヤ人を一人にても多く得んためである。
9章21節
口語訳 | 律法のない人には—わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが—律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。 |
塚本訳 | わたしは神の律法を知らないのではなく、むしろキリストの律法に縛られているのではあるが、律法を知らない者たちには律法を知らない者のようになった。律法を知らない者たちを得るためである。 |
前田訳 | 律法のない人々には、わたしは神の律法がないのではなく、キリストの律法の中にいるのですが、律法のない人のようになりました。律法のない人々をかちうるためです。 |
新共同 | また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。 |
NIV | To those not having the law I became like one not having the law (though I am not free from God's law but am under Christ's law), so as to win those not having the law. |
註解: 「律法なき者」は「異邦人」であつて彼らに対してはユダヤ人の律法を守る必要なき事を教え、又彼らを汚れし者とせずして自由に彼らと交わり、彼らの一人の如くになつた、勿論外部より強制する律法には束縛せられぬ者なれど心の中にキリストの律法(即ち霊の新しき律法(ロマ7:6。ロマ8:2)である、尚ヨハ13:34を見よ)が宿つていて、之に従つている点に於て異邦人と異り又ユダヤ人より非難される筈が無いとパウロは断つている。
辞解
[律法なき者] アノモス Anomos は神より律法を与えられない者との意であるけれども、時には不道徳、放蕩の生活を送つているものを称する。故に不道徳を認容する主義をアノミズムと称した。唯茲にパウロがアノモスの如くなれりと云つたのは不道徳になつたと云う意味でないこと勿論である。
9章22節
口語訳 | 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。 |
塚本訳 | (信仰の)弱い者たちには弱くなった。弱い者たちを得るためである。わたしはこれらみんなのために、どんなものにでもなった。せめて幾人かだけでも救うためである。 |
前田訳 | 弱い人々には弱くなりました。弱い人々をかちうるためです。わたしはすべての人に、すべてのものになりました。いかにもして何人かを救うためです。 |
新共同 | 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。 |
NIV | To the weak I became weak, to win the weak. I have become all things to all men so that by all possible means I might save some. |
註解: 「弱き者」は弱き基督者を意味している。パウロが前章に於てコリント人に教えんとする問題はかかる弱き者に就てであつた。以上によりユダヤ人、異邦人、基督者の三種を以て人類の凡てを表わし、最後に「凡ての人」と云いて此の全体を要約し19節に立帰つている。
9章23節 われ
口語訳 | 福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。 |
塚本訳 | わたしは福音のためには、どんなことでもする。福音(の恩恵)を共有する者になるためである。 |
前田訳 | わたしはすべてのことを福音のゆえにします。わたしも福音にあずかるものになるためです。 |
新共同 | 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。 |
NIV | I do all this for the sake of the gospel, that I may share in its blessings. |
註解: パウロは福音の約束に凡ての信徒と共に与るがため唯福音を信ずるのみにても足らず、又福音を宣伝うるのみにても足らず、福音のためにあらゆる犠牲を忍ぶ事が必要であると考えた。然らざれば其の工 の神の褒賞を受けざらん事を恐れたのである。
要義 [パウロの犠性的行動]パウロの如き激越なる性格を有ち、ペテロの前にすら自己の主張を曲げなかった人が(ガラ2:5)ユダヤ人、異邦人、弱き基督者に各々それに相応せる態度を取った事は、非常なる智慧と愛心の結果であった。而してかかる態度を取る上に於てもパウロには自ら動かす事の出来ない原則があった、即ち(1)目的は一人にても多く福音に導きて之を救わんがため、又キリストの代りて死に給いし弱き信者を躓かせない為であり(2)動機は愛であってキリストの愛を以て凡ての人類を愛する心より来り(3)手段は自己の自由や権利を放棄して凡ての事を為す事であった。「ユダヤ人にはユダヤ人の如く異邦人には異邦人の如くになる」事は往々にして無節操なる妥協的精神の如くに解せられ、又かかる場合に利用せられるけれども、此の両者の間には極端の差異がある。後者の場合に於ては(1)目的は自己の利益又は安全を得んがためであり(2)動機は自我の愛であり(3)手段に於てのみ前者に類似しているに過ぎない。パウロは深き信仰の立場に基礎をおきキリストを礎石としていた結果、如何なる場合に自己の権利自由を放棄し如何なる場合に之を主張すべきかを明かに区別する事を知っていた、是信仰より来る真の知識であり知るべき事を知った人の態度である。此の自由と奴隷、厳格なる節操と臨機応変の行動、剛と柔、高き信仰と卑 き謙遜の巧なる調和を我らはパウロの偉大なる信仰に見る事が出来るのであって、我らも亦かかる生涯を送りたきものであると思う。
9章24節 なんぢら
口語訳 | あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。 |
塚本訳 | (だからあなた達も、競技場の闘士のように自制しなければならない。)競技場で走る者は皆走るけれども、たった一人が賞をもらうことを、あなた達は知らないのか。あなた達も、それを勝ち取るように走らなければならない。 |
前田訳 | ご存じありませんか、競技場で走る人々は、皆が走っても、賞を受けるのはひとりであることを。あなた方も賞を受けるよう走ってください。 |
新共同 | あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。 |
NIV | Do you not know that in a race all the runners run, but only one gets the prize? Run in such a way as to get the prize. |
註解: 当時オリムピツクと同様の競技が二年毎にコリント市郊外に行われ、幅飛、円盤投、競走、拳闘、相撲の競技があり、全ギリシヤを熱狂せしめた。パウロも恐らく之を目撃したのであろう。巧に之を例として福音の競争に於ける勝利をすすめている。唯一人より外に褒美を得ないので彼らは非常に熱心に走る。我らも此の熱心に劣らざる熱心を以て走らなければならぬ。
辞解
[一人] とあるも勿論多くの信者の中に一人だけが救われると云うのでは無く、その熱心を例示したのである。
9章25節 すべて
口語訳 | しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。 |
塚本訳 | しかし競技する者は皆、何事にも自制する。ただ、あの人たちは朽ちはてる冠をもらうためであるが、わたし達は朽ちぬ冠のためである。 |
前田訳 | 競技をするものは皆すべてに自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにですが、われらは朽ちぬ冠のためにです。 |
新共同 | 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。 |
NIV | Everyone who competes in the games goes into strict training. They do it to get a crown that will not last; but we do it to get a crown that will last forever. |
註解: 競技の十ヶ月前より選手は特別に克己 して競走に有害なるべき凡ての事を遠ざけた、我らも未来の朽ちぬ栄冠を得んが為めに現在の自由と権利とを自制して用いない事が必要である。此の点に於て此の世の競技者に劣つてはならない。
9章26節
口語訳 | そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。 |
塚本訳 | わたしはそれゆえに、目標があいまいでないように走る。空を打たないように拳闘をする。 |
前田訳 | それゆえ、わたしはあてどないような走りかたをしません。空を打つような拳闘をしません。 |
新共同 | だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。 |
NIV | Therefore I do not run like a man running aimlessly; I do not fight like a man beating the air. |
9章27節 わが
口語訳 | すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。 |
塚本訳 | いや、自分の体を打ちたたいて征服する。人には(福音を)説きながら、自分では失格するようなことのないためである。 |
前田訳 | むしろわたしは体を打ちたたいて従わせます。それは他の人々にのべ伝えながら自ら不適格にならないためです。 |
新共同 | むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。 |
NIV | No, I beat my body and make it my slave so that after I have preached to others, I myself will not be disqualified for the prize. |
註解: 目標なき競走、空を打つ拳闘、何れも拙 い仕方であつて到底勝つ見込がない。我らはたしかな目標を持ち、敵即ち自己の身体を打ちて之を奴隷の如くに自由に引き廻さなければならない、然らざれば自分が却て神の試験に合格せず褒賞に与る事が出来ない様な事になるであろう。
辞解
[目標なき] 不確実、不明瞭等の意を有つ語で茲では「フラフラで走る」形である。
[体を打つ] 茲に「肉を打つ」と云わなかつた理由は、肉は之を殺すべきもの体は之を聖霊の力に従わしむべきものであるから。
[打擲 き] ヒュポーピァゾー hupopiazo は打撃によりて斑点を生ぜしむる事。
[服従せしむ] ドウラゴーゴー doulagogo は奴隷となして引き廻す事、競技の敗者は勝者に従つて引廻された。
[棄てらる] アドキモス adokimos はドキモス(試験を通過する事、是とされる事、Uコリ13:5註。Tコリ11:19。Uコリ10:18。Uコリ13:7。等)の反対で試されて合格せず賞品に与る事が出来ない事を意味する。茲では信仰によりて救われる事の問題では無く、救われしものの報賞の問題(Tコリ3:14。Tコリ9:23)である。
要義 [基督者の努力修養に就て]基督者は信仰によりて義とせられ、律法の行為によらないとの思想を唯自己の安佚 にのみ利用せんとし、基督者には修養努力の必要が無いと思う人があるが、是ほど大きい誤は無い。勿論我らの救われるのは(天国に入れられるのは)修養努力によるのでは無く、唯信仰によるのである。併し乍ら救われし者の此の世に於ける工(わざ)は皆価値が異っているのであって、神の国に於て確実に褒賞に与る事が出来る処のものは、努力修養なしに之を為す事が出来ない。而して其の努力修養は定めなき途にさまよっている未信者の修養、空を打つが如き黙想家の努力等とは其の趣を異にし、神を目標として真直に馳せ、自己の身体を打ちて之を鍛錬し服従せしむるに在る。故に基督者は肉の欲する処を為す事を得ないのみならず(ガラ5:17)、自己の智識や自由や権利をも之を其のままに用うる事が出来ない。故に自己の身体を完全に御霊に服従せしむる修養努力が必要であって、茲に神の愛が注がれる事により勝利の栄冠を得べき行為を為す事を得るに至るのである。競技に於ける選手の例は此の意味に於てよく基督者の地上の歩みを示すものであって、パウロも其の晩年に自己の一生の努力を顧みて、此の事をテモテに書き送っている(Uテモ4:6-8)。
第1コリント第10章
6-3 イスラエルの歴史の実例
10:1 - 10:13
6-3-イ バプテスマと聖餐
10:1 - 10:4
註解: 前章に於てパウロは自己の例によつてコリントの信徒を戒め、次に本章1-11に於てイスラエルの歴史を例として彼らを戒めている。即ちイスラエルは神の選民であつた点に於て基督教会に類似しているけれども、彼らのあるものは此の神の恩恵に浴しつつも之を濫用して罪を犯したが為めに荒野に亡ぼされた、コリント人の信者も之を見て警戒しなければならぬ。
10章1節
口語訳 | 兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、 |
塚本訳 | それで、兄弟たち、このことを知らずにいてもらいたくない。すなわち、わたし達の先祖は皆(シナイの荒野で)雲の下におり、皆紅海を通り、 |
前田訳 | 兄弟方、このことを知らずにはいないでください。われらの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、 |
新共同 | 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、 |
NIV | For I do not want you to be ignorant of the fact, brothers, that our forefathers were all under the cloud and that they all passed through the sea. |
10章2節 みな
口語訳 | みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。 |
塚本訳 | 皆雲の中で、また海の中で、洗礼を受けてモーセのものになった。 |
前田訳 | みな雲の中と海の中とでモーセへと洗礼されました。 |
新共同 | 皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、 |
NIV | They were all baptized into Moses in the cloud and in the sea. |
註解: 茲にパウロはイスラエルの出エジプトの事実が、基督信徒が世より救い出された事と同一の意義を有つ事をコリントの信徒が知らん事を欲した。即ちユダヤ人はエジプトを出づる際にみな(みなを五度繰返せるに注意せよ)残らず雲(も同じく水である)を以て示されし神の臨在の恩恵を受け(1節引照2)、紅海の水を通過し(1節引照3)、此の雲と水とによりてバプテスマを受けて、彼らの救主にして仲保なりしモーセに服属した。そして此の世を代表しているエジプトを棄てて約束のカナンの地へと旅立した。此の事は恰 も基督者が神の恩恵の導きによりて水にてバプテスマを受けてキリストに連り、此の世と其の欲とに死して(ガラ5:24)天国へ旅立をしているのと同様である。
口語訳 | また、みな同じ霊の食物を食べ、 |
塚本訳 | 皆同じ天与の食べ物(マナ)を食べ、 |
前田訳 | みな同じ霊の食べ物を食べ、 |
新共同 | 皆、同じ霊的な食物を食べ、 |
NIV | They all ate the same spiritual food |
口語訳 | みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。 |
塚本訳 | また皆同じ天与の飲み物を飲んだ。すなわち、ついて来た天与の岩から(出る水を)飲んだのである。そしてこの岩こそ救世主であった。 |
前田訳 | みな同じ霊の飲み物を飲みました。彼らについて来た霊の岩から(の水を)飲んだのです。その岩はキリストでした。 |
新共同 | 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。 |
NIV | and drank the same spiritual drink; for they drank from the spiritual rock that accompanied them, and that rock was Christ. |
註解: 前二節に於てバプテスマに就て述べ、此二節に於て聖餐に就て述べている。即ちイスラエルが荒野にて天よりのマナにて養われ、岩より流れ出づる水にて渇を免れたのは、生命のパンなるキリストの肉とキリストの血とを以てする聖餐(ヨハ6:48、ヨハ6:53)と同一である事を示している。茲にパウロが「霊なる」食物「霊なる」飲物と云えるは、一は是等が奇蹟的に天より与えられし意味に於て霊的であり、一は是等がキリストの型である意味において霊的であるからである。
辞解
[同じく] 原語は「飲物」「食物」の形容詞であつて「同じ」と訳すべきである。
これ
註解: 荒野に於けるマナと水は聖餐の場合と同じく、キリストが事実其処に在し給うた。凡ての被造物よりも前に在し給うキリスト(ヨハ8:58。コロ1:15)は彼らに荒野に従い行き、彼らに水を与え給うた。即ち基督者が活ける水の源なるキリストに来りて霊の渇を医すと同一である(ヨハ7:38)。故にイスラエルの受けしマナ、水、岩は夫等自身神の霊の奇蹟的賜物であつたのみならず、又キリストにありて聖餐に与る教会を表示していて、パウロは此の節を認 めつつある間に、其の心はエジプトを出でしイスラエルと此の世を離れて旅立せる基督者との間に渾然たる一致を感じたのであろう。
10章5節
口語訳 | しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。 |
塚本訳 | しかし、彼らの大部分の者は神の御心にかなわなかった。その証拠に、(カナンに入ることが出来ず、)“彼らは荒野でうち倒された”。 |
前田訳 | しかし彼らの多くは神のお気に召しませんでした。彼らの体は荒野で粉々にされたのです。 |
新共同 | しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。 |
NIV | Nevertheless, God was not pleased with most of them; their bodies were scattered over the desert. |
註解: イスラエルは「みな」此の救いに与ったにも関わらずその「多くは」亡ぼされ(民14:16、民14:29)て、唯カルブとヨシユアのみ約束の地に入ることが出来た(民14:30)。
10章6節
口語訳 | これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。 |
塚本訳 | しかしこれらのことは(ただ先祖たちを懲らしめられたというのではない。後の時代の)わたし達に対する実例になったのであり、悪いことに対し、あの人たちが“欲をおこした”ように、わたし達も“欲をおこす者”にならないためである。 |
前田訳 | このことはわれらの型になりました。それは、彼らがむさぼったようにわれらが悪をむさぼるものにならないためです。 |
新共同 | これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。 |
NIV | Now these things occurred as examples to keep us from setting our hearts on evil things as they did. |
註解: 洗礼、聖餐に於て示される如くイスラエルと基督教会とかくも相類似しているとすれば、其の審判に於ても相類似している筈であつて、イスラエルが多く亡ぼされたのは我らに対する戒である。而して彼らの亡ぼされたのは次の四種の罪を犯したからであつた。
辞解
[貪る] 「心の熱求する処」を意味している。直訳「是等のことは彼らの熱求する如く、我ら悪の熱求者とならざらん為に我らの型となれり」。
10章7節
口語訳 | だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。 |
塚本訳 | また、“民は坐って飲み食いし、立ち上がって戯れた”と(聖書に)書いてあるように、あなた達は彼らのうちのある者のように、偶像礼拝者になるな。 |
前田訳 | あなた方は彼らのあるもののように偶像礼拝者にならないでください。聖書に、「民はすわって食べまた飲み、立って踊った」とあります。 |
新共同 | 彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。 |
NIV | Do not be idolaters, as some of them were; as it is written: "The people sat down to eat and drink and got up to indulge in pagan revelry." |
註解: 罪の第一は出32:1-6に記されし金の犢 の物語、即ち偶像崇拝と之に伴う宴楽舞踏を指している。アロンすら此罪に陥つたのであるから、基督教会もイスラエルと同じくかかる罪に陥らないとは限らない。14節以下は此の罪に対する教訓である。
10章8節
口語訳 | また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。 |
塚本訳 | また彼らのある者が不品行をして、一日に二万三千人も倒れたが、わたし達はそんな不品行をしないようにしよう。 |
前田訳 | また、彼らのあるものがしたように不品行をしますまい。彼らはそのため一日のうちに二万三千人倒れました。 |
新共同 | 彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。 |
NIV | We should not commit sexual immorality, as some of them did--and in one day twenty-three thousand of them died. |
註解: 罪の第二は民25:1-9の記事に関連しているのである。信仰の途には誘惑が多い、イスラエルも之がため淫行の罪を犯し、その為めに彼らは偶像崇拝にすら陥り神の罰を受けて亡ぼされた。此の二罪は互に相関連しているのであつて、偶像崇拝と共に姦淫の罪に陥りつつあつたコリントの信徒に対しパウロは又此の方面を再び戒むる事が必要であつた。
辞解
[我ら] 前節に「汝ら」とあり(日本訳には略す)此の節に「我ら」とあるは姦淫の罪は一般的警戒を要するからである。
[姦淫] 「淫行」と訳する方が良い。
[二万三千人] 民25:9に二万四千人とあり、此の差異を説明するのに種々の苦心が払われて居り数種の解釈があるけれども、モーセの場合もパウロの場合も大体の数を示したものと見るべきであろう。直訳「又彼らの中の或者が淫行を行いて一日に二万三千人死にしが如く我ら姦行を行うべからず」次の9・10節も同様の構造である。意味に差はない。
10章9節 また
口語訳 | また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。 |
塚本訳 | また彼らのある者が主(の力)を試して蛇に殺されたが、わたし達はそんな主を試すことをしないようにしよう。 |
前田訳 | また、彼らのあるものがしたように主を試みますまい。彼らはそのため蛇に滅ぼされました。 |
新共同 | また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。 |
NIV | We should not test the Lord, as some of them did--and were killed by snakes. |
註解: 凡てに於て神の導きに従うべき筈のイスラエルはカナンに行く途で困難に陥り神とモーセとに叛 き呟 いた。而も神果して彼等の呟 をききて彼らを助け給うや否やを試んとしたのである、夫故に彼らは蛇のために殺された。是が第三の罪であつた(民21:4-9)。コリントの信者の間にも、其の信仰の生涯に入りてより周囲の迫害のために、信仰の道に立つ事の困難を感じ偶像の宮で食しなどして而も尚神之を罰し給うや否やを試みている者があつた、かかる者は審判を受けることが当然である。
10章10節
口語訳 | また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。 |
塚本訳 | また彼らのある者が不平を言って、滅ぼす者[刑罰の天使]に殺されたが、あなた達はそのような不平を言うな。 |
前田訳 | また、彼らのあるものがつぶやいたようにつぶやかないでください。彼らは殺しの使いに滅ぼされました。 |
新共同 | 彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。 |
NIV | And do not grumble, as some of them did--and were killed by the destroying angel. |
註解: 第四にコラ、ダタン、アビラム等がモーセとアロンに向つて其の専制に対して呟 き「亡す者」即ち天の使に殺された事があつた(民16:1-35)。コリントの教会に於ても亦パウロ其の他の人々の指揮に満足せず之に反抗して呟 く者があつた。パウロは之を戒 めたのである。
10章11節
口語訳 | これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。 |
塚本訳 | すなわちこれらのことは(後の時代の)あの人たちに実例として起こったのであって、わたし達への警告のために書いてあるのであり、そのわたし達は(いま)世の終りにぶつかっているのである。 |
前田訳 | これらが彼らにおこったのは型としてです。しかしそれが書かれたのはわれらの戒めのためです。われらに世の終わりが臨んでいるのです。 |
新共同 | これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。 |
NIV | These things happened to them as examples and were written down as warnings for us, on whom the fulfillment of the ages has come. |
註解: 以上数節の要約である。旧約時代の是らの出来事は型として起ったのであつて、世の末期即ち霊的メシヤの国が終りて将に栄光の国が、実現せんとしつつある時に遭遇せる我らの訓戒矯正のために録されたのである。旧約の歴史は凡て此の型としての意味を持っている。
辞解
[鑑] 「型」(タイプ)のこと。私訳「これらのことは型として彼らに起こり、代々の終末に遭える我らのために録されたり」
10章12節 さらば
口語訳 | だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。 |
塚本訳 | だから、りっぱに立っていると信じている者は、倒れないように気をつけよ。 |
前田訳 | それゆえ、立っていると思うものは倒れないよう気をつけなさい。 |
新共同 | だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。 |
NIV | So, if you think you are standing firm, be careful that you don't fall! |
註解: 知識に誇つていたコリントの信者に対する警戒である。立てりと「思う」とは立てる事に「誇る」心持を意味している、かかる誇りを持ったならばイスラエルと同じく倒れて罪に陥る危険がある。
10章13節
口語訳 | あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 |
塚本訳 | 人間の力に余る試みが、あなた達をおそったことはないのである。神は誠実であられる。あなた達が耐えられない程に試みられることを、お許しにならない。試みに添えて、(かならず)逃げ道をもつくっておいてくださるので、それに耐え得るのである。 |
前田訳 | あなた方の出会った試みで、世間ありきたりでなかったものはありません。神は真実にいまします。神はあなた方が耐えうる以上に試みられることをお許しにならず、試みとともに、耐えうるよう逃げ道をお作りでしょう。 |
新共同 | あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。 |
NIV | No temptation has seized you except what is common to man. And God is faithful; he will not let you be tempted beyond what you can bear. But when you are tempted, he will also provide a way out so that you can stand up under it. |
註解: コリントには偶像、肉欲、患難、徒党等の罪に引入れんとする試誘 試煉が多かつた、併し是らは皆人の耐え得る程度のものである。神は其の選び給うものを顧みざる如き不誠実な方では無い、故に試みはたとい一見耐え難い様に見えても、必ず遁 るべき道が与えられるのである。コリントの信者を襲う是等多くの試みも之と同じく、例えば偶像崇拝の盛なる都市に於て是らに加わらない事は中々困難であろうけれども、是とて耐え忍び難い試みでは無い。神は必ず之と共に遁 るべき道を与え給う。故に自ら立てりと思い、己の知識に従て行動する事によりて此の誘惑に陥らぬ様にしなければならない。
辞解
[試煉] パイラスモス peirasmos は此の場合「試み」と訳するを可とする、蓋しパイラスモスに二種あり、一は困難を与えて其の信仰を試煉せんとするもの、他は快楽を提供し又は困難より逃れしめんとして、彼を試誘 せんとするものであつて、共にパイラスモスと称せられ、前者は神より出で(創22:1。申13:3)後者は神の許容の範囲内に於て悪魔より出づるのである(マタ4:1-11。ヤコ1:13)時には此の二者を兼ぬるものがある(ヨブ1:6-12)。何れにしても皆「試み」であつて、本節の場合はイスラエルの四つの例が示せる如く、試煉をも試誘 をも含むものと見るべきであろう。
[人の常] 原語アンスローピノス anthropinos は種々の意味に解せられている。(1)「人より出でしもの」即ち悪魔的ならざる試み、(2)「人の耐え得る程度の」試み(3)「人の常」なる試み等。
[耐え忍ぶこと能わぬほどの] 原語には「耐え忍ぶこと」なる主要動詞を略す、試煉ならば耐え忍び、試誘 ならば之を拒むこと「能わぬほどの」試みを意味す。
要義1 [戒心すべき基督者の地位]基督者はエジプトを出でしイスラエルと同じく洗礼を受けて救に入り、聖餐に与って霊の食物を受けている者であるけれども彼らの行路は困難でありその途には種々の試みが横わっている。而して是は弱き信者には勿論のこと強き者に取っては一層警戒を要するのであって、若し彼ら此の誘いに陥ってしまうならば彼らは約束の地カナンに入る事が出来ず、途中で亡ぼされてしまうのである。我等は皆懼れ戦 きて己が救を全うしなけれぱならないのは是が為である。
要義2 [型(タイプ)に就て]旧約聖書の歴史的事実は之を二方面より観察すべきものであって、一は之を歴史的事実と見て其の中より教訓を取る事が出来、他は之をやがて実現せらるべき象 Antitupon=antitipe の型 Tupos=type と見る事が出来る。パウロは勿論ペテロも(Tペテ3:21)、ヨハネも(ヨハ3:14)旧約を此第二の意味に於て観察する場合が多かった。蓋し神の御業はキリストと其の教会に集中せられているのであって、神はイスラエルの歴史の種々の姿に於て此キリストを中心とせる諸事実を示し給えるものである。かく解する事によって旧約聖書の多くの事実が活ける福音と変化するに至るのである。左に二三の例を挙ぐれば、第一の人アダムは第二の人キリストの型(創1:28、ロマ5:14以下、Tコリ15:20以下、Tコリ15:45以下)、エバはアダムの妻としてキリストの花嫁なる教会の型(エペ4:16、エペ5:30)。カインとアベルは性来 の人と信仰の人との型(ヘブ11:4、ヘブ11:17-19)。エジプトはサタンが人を束縛しつつある此の世の型(黙11:8)。マナは真の糧なるキリストの型。泉は聖霊の型(ヨハ4:14)。其他ノアの洪水は審判の型、その方舟はキリストの型。出埃及記全体は基督の十字架より基督者の救と信仰の旅路の型。レビ記の祭祀、幕屋等もキリストの犠牲の死と之に対する礼拝及救の家なる教会の型と見られているが如き其の著しき例である。若し自然界の山川草木等の森羅万象すら霊界の消息の一端を示すものであるならば、神の選民の歴史は神の救の途の型である事に別に不思議は無い、近来此の解釈法を軽視する傾向があるのは浅薄なる歴史観より来るのである。唯此の種の解釈をあまりに用い過ぎる事は戒むべき事である。
10章14節 さらば
口語訳 | それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。 |
塚本訳 | それゆえに、わたしの愛する者たちよ(主題にもどろう)、偶像礼拝から逃げよ。 |
前田訳 | それゆえ、親愛な方々、偶像礼拝をお逃げなさい。 |
新共同 | わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。 |
NIV | Therefore, my dear friends, flee from idolatry. |
註解: [さらば」即ちイスラエルすら其の罪のために亡ぼされたのであるから、汝らも亦偶像崇拝を避けなければならぬ。
辞解
[避けよ] Tコリ6:18と異り apo アポなる前置詞を用い「遙に遠ざかれ」との意味を示している。
10章15節 われ
口語訳 | 賢明なあなたがたに訴える。わたしの言うことを、自ら判断してみるがよい。 |
塚本訳 | 賢い者とみて(あなた達に)語る、わたしの言うことをあなた達自身で判断してもらいたい。 |
前田訳 | あなた方を分別ある人として申します。ご自身でわたしのいうことを判断してください。 |
新共同 | わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。 |
NIV | I speak to sensible people; judge for yourselves what I say. |
註解: パウロはコリント人の判断に委ね、自己の意見を彼らに強制せんとしない。而してコリント人は己の智慧に誇つていたから、パウロは彼らの自称の智慧を利用して彼らをして判断せしめんとしているのである。
10章16節
口語訳 | わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。 |
塚本訳 | (主の晩餐の時、)わたし達が(神を)讃美する讃美の杯(にあずかること)は、救世主の血の交わりに入ることではないか。わたし達が裂くパン(にあずかること)は、救世主の体の交わりに入ることではないか。 |
前田訳 | われらが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか。われらが裂くパンは、キリストの体との交わりではありませんか。 |
新共同 | わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。 |
NIV | Is not the cup of thanksgiving for which we give thanks a participation in the blood of Christ? And is not the bread that we break a participation in the body of Christ? |
註解: パウロは先づ偶像の宮に於ける祝宴に与 る事の偶像崇拝なる事を説明せんとして、聖餐を其の例に取つている。即ち聖餐に於ける酒杯とパンは、単なる葡萄酒又はパンではなく、之によりて我らがキリストの贖罪の血及び其の復活し現在し給う体との交りに入り、我らの罪はキリストの血即ち十字架の死によりて赦されキリストの死と復活の身体に連結し、彼我らの中に宿り給い、我らも亦彼の中にいる事を意味している。偶像にささげし食物に与 るのも之と同意義であつて涜神的行為となるのは当然である。
辞解
[祝う] 此の場合は此の酒杯を祝福して特別の意味を有つものとして用うることを意味している。(C1)
[与 る] koinônia 即ち「交り」(Tヨハ1:3)であつて一体となる事を意味す。
10章17節 パンは
口語訳 | パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。 |
塚本訳 | というのは、パンがただ一つだから、わたし達は大勢であるが、ただ一つの体になるのである。わたし達全体がそのただ一つのパンに共にあずかるからである。 |
前田訳 | われらは大勢ですがひとつのパン、ひとつの体です。それは、われらは皆ひとつのパンにあずかるからです。 |
新共同 | パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。 |
NIV | Because there is one loaf, we, who are many, are one body, for we all partake of the one loaf. |
註解: 聖餐に於ては凡ての信者が一ツのパンを割いていた。是れ彼らがキリストの体に与 ると同時に又信者一同が一体たることを示すものである。而して此の体は教会である。
10章18節
口語訳 | 肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは、祭壇にあずかるのではないか。 |
塚本訳 | (霊のイスラエルであるキリストの集会ではこのとおり。今度は)肉のイスラエル(であるユダヤ人の掟)を考えてみよ。(祭壇に供えた)犠牲を食べる者は、祭壇に関係する仲間(だけ)ではないか。 |
前田訳 | 肉によるイスラエルをごらんなさい。いけにえを食べるものは祭壇を共にするではありませんか。 |
新共同 | 肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。 |
NIV | Consider the people of Israel: Do not those who eat the sacrifices participate in the altar? |
註解: パウロは基督教会の例に次ぐに第二にイスラエルの例を以てし、犠牲を献ぐる事はその献げられる目的物との間に一体の関係を生ずる事を証明している。「肉による」イスラエルは霊のイスラエル(ロマ2:28、29。ガラ3:7、ガラ3:29。ガラ6:16)なる教会と区別する意味にてユダヤ人を意味し、彼らが祭壇に供えし犠牲を食するはその祭壇と一体の関係に入り、イスラエル人たるの関係に入るのである。茲に「祭壇」と云いて「エホバ」と云わない理由は之が「エホバに与 る」又は「エホバの交りに入る」と云う程内面的関係では無く、イスラエルの民籍は祭壇を中心とせる外面的関係であつたからである。
10章19節 さらば
口語訳 | すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。 |
塚本訳 | では、いったい何をわたしは言っているのか。(晩餐や犠牲の場合と同じように、)偶像に供えた肉が何か(本当の供え物)で(でも)あるというのか。あるいは、偶像が何か(本当の神)で(でも)あるというのか。 |
前田訳 | さて何をいいましょう。偶像への供え物が何でしょう。偶像が何でしょう。 |
新共同 | わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。 |
NIV | Do I mean then that a sacrifice offered to an idol is anything, or that an idol is anything? |
註解: 茲にパウロは始めて偶像の問題に立入り、読者が心中に「パウロは曩 にTコリ8:4-6に於て偶像はなきものなりと言いし事と矛盾する如き事を言う」と感じたるならんと忖度して、先づ此の疑問を呈出し、其の答として「偶像の供物は普通の肉であり偶像は普通の木石である」との返答を含ましめている。
辞解
[あるものと言うか] 寧ろ「何等か特別のものであると言うか」との意味であつて、有無よりも其の存在の価値について言つている。事実偶像は沢山に存していた。
10章20節
口語訳 | そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。 |
塚本訳 | そうではない。(聖書にあるように、異教の)人々が犠牲を捧げるのは、“悪鬼にであり神でないものに捧げている”、というのである。あなた達には悪鬼の仲間になってもらいたくない。 |
前田訳 | 人々が供えるものは悪霊にで、神に供えるのではありません。わたしはあなた方が悪霊どもと交わるものになるのを欲しません。 |
新共同 | いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。 |
NIV | No, but the sacrifices of pagans are offered to demons, not to God, and I do not want you to be participants with demons. |
註解: 偶像は何物でも無い、併し乍らサタン即ち悪鬼は厳然として存在している。吼ゆる獅子の如く常に人の霊を呑み滅ぼさんとし如何にもして、人をして真の神以外のものを拝せしめんと狙つている。故に異邦人がかれらの神に供うるは木石にて造れる偶像に供うるが如くに見えるけれども、実は然らずして其の背後にある悪鬼に供えているのである。故に悪鬼に供えしものを食し、其の祭典の祝宴に加わる事は悪鬼との交りに入る事である。パウロが其の愛する兄弟等(Tコリ10:14)が悪鬼との交りに入る事を欲しないのは当然である。
辞解
[交る] 前数節に「与 る」と訳せられし語と同一である。茲にも「悪鬼に与 る」と訳するか又は凡てを「交る」と訳すべきであろう。
[悪鬼] 原語ダイモニオン daimonion はギリシヤ語にて「神」又は「天使的存在」を指す、新約聖書にては神以外の霊力を指し従つて「悪鬼」と訳せられている。原語には「悪」の意味なく「鬼神」と訳して最も原意に近いであろう。(申32:17には「鬼」と訳している[新共同訳では悪霊])。
10章21節 なんぢら
口語訳 | 主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。 |
塚本訳 | あなた達は主の(晩餐の)杯と悪鬼の杯とを飲むということは出来ない。“主の(晩餐の)食卓”にも悪鬼の食卓にもあずかるということは出来ない。 |
前田訳 | あなた方は主の杯と悪霊の杯とを同時には飲めません。主の食卓と悪霊の食卓とに同時にあずかりえません。 |
新共同 | 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。 |
NIV | You cannot drink the cup of the Lord and the cup of demons too; you cannot have a part in both the Lord's table and the table of demons. |
註解: パウロは茲に基督教の聖餐とギリシヤの神殿に行われる神酒及び偶像に供えし肉とを対比し、若し主の酒杯と食卓に与 る事がキリストとの交りに入り彼と一体となる事であるならば、同様にギリシヤの神々の酒杯と食卓に与 る事は其の行為の真の内容である悪魔との交りに入り彼と一体となる事であつて、人は真面目に此の双方を兼ね行う事が出来ない筈である。(もし不真面目に之を行うとするならば、その行為それ自身が罪となること当然である)。故に人は二人の主に事うる事能わず、二人の妻又は夫を有つ事は姦淫であると同じく此の行為も亦姦淫的行為である(エレ3:6-10。エゼ23章)。
10章22節 われら
口語訳 | それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。 |
塚本訳 | それとも、“わたし達は(悪鬼にも仕えて)、主を怒らせようとする”のか。わたし達は主よりも力があるとでもいうのか。 |
前田訳 | それともわれらは主の妬みをおこそうとするのですか。われらは彼より強いのですか。 |
新共同 | それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。 |
NIV | Are we trying to arouse the Lord's jealousy? Are we stronger than he? |
註解: 神は嫉 む神である(申5:9)。同様に若し我らが悪鬼に事えるならば、キリストは嫉 を起して我らを罰し給う事恰 も神がイスラエルを罰し給える如くであろう。嫉妬は、敵に対する怒よりも更に強い感情である。而も主は我らより強く在せば我ら之を避ける力が無い。コリントの信者の中強き者は巳に此の行為を為していた事が分る。
要義1 [偶像崇拝の儀式に参加する事]パウロはTコリ8:10及びTコリ10:20-22の理由より偶像崇拝を避くべき事をコリントの信徒にすすめた。我らも亦日本に於て同様の立場より此の問題を判断するこ事が出来る。殊に多く問題となり得るものは日本の神社であって、神社が英雄又は祖先の記念碑であり、之に対し英雄として又は祖先、恩人等として敬意を表する場合に於て我ら悪鬼に事えているのでは無いけれども、護符 、神楽 、加持 祈祷に類する行為を為す場合には、既に英雄又は祖先の霊にあらざる鬼神に事うる事となるのである。故にかかる儀式に加わる事は偶像崇拝であるから之を避けなければならない。
要義2 [神の嫉妬に就て]申5:9に「我エホバ汝の神は嫉 む神なれば」とあり、嫉妬の心の恥づべきものなる事を考うる我らに取って、神に此の性質を帰せしむる事はエホバは人間の弱点をも具有する神の如くに思わしめられるのである。併し乍ら嫉妬と羨望とは異り、己の愛するものにて又己も当然愛せらるべきものが己を愛せずして他を愛する場合に起る感情が嫉妬であって、正当にして潔い心である、此の心は愛が深きに従って益々強くなる事は当然である。羨望は己に属せざるものを己のものとせんとする際に起る感情であって不当の心である、此の二つを混同してはならない。
10章23節
口語訳 | すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。 |
塚本訳 | (前にも言ったが、)「万事は自由である」、しかし万事が有益ではない。「万事は自由である」、しかし万事が(人を)高めるのではない。 |
前田訳 | すべてが許されていますが、すべてが役立つわけではありません。すべてが許されていますが、すべてが建設するのではありません。 |
新共同 | 「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。 |
NIV | "Everything is permissible"--but not everything is beneficial. "Everything is permissible"--but not everything is constructive. |
註解: 偶像崇拝の問題を論じ終つてパウロは更に偶像に供えし肉に就て具体的の注意を与えている。彼は先づTコリ6:12に一度掲げし句を繰返してコリントの信徒が常に自己の行動を弁護するに用いし此の句が無條件に適用せらるべきでは無く、有害な場合、徳を建てない場合(Tコリ8:1註)には之を用いてはならない事を注意している。
10章24節 [
口語訳 | だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。 |
塚本訳 | だれも自分自身のことを求めず、他の人のことを求めよ。 |
前田訳 | だれも自らの益をでなく、他人の益を求めなさい。 |
新共同 | だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。 |
NIV | Nobody should seek his own good, but the good of others. |
註解: 一切のもの可 からざるはないけれども、人の益を求むる場合に之が徳を建て人の霊性の進歩に貢献するのである。此の一節は一般的道徳律であつて、之を実際問題に応用すれば次の数節となる。
10章25節 すべて
口語訳 | すべて市場で売られている物は、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。 |
塚本訳 | (それで、)肉市場で売っているものはなんでも、良心のために何も詮議をせずに食べなさい。 |
前田訳 | 市場で売られるものは、何も良心の問題とせずにお食べなさい。 |
新共同 | 市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。 |
NIV | Eat anything sold in the meat market without raising questions of conscience, |
10章26節 そは
口語訳 | 地とそれに満ちている物とは、主のものだからである。 |
塚本訳 | “地とそれに満ちているものとは主のもので、(すべて聖で)ある”からである。 |
前田訳 | 「地とそれに満ちるものとは主のもの」だからです。 |
新共同 | 「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。 |
NIV | for, "The earth is the Lord's, and everything in it." |
註解: 第一には偶像に供えし肉を買いて自宅にて食する場合、かかる場合には己の良心のために果して此の肉は如何なる肉であらうかと問う必要はない(「良心が咎めると悪いから態 と問はないで」と解する人があるけれども適当でない、又良心を「他人の良心」と解するのも当らない)。何れでも少しも差支が無い、何となれば天地万物は主の物で偶像に属する物は無いからである。此の詩(引照)の引用によりパウロはコリントの弱き信者を強めんとしている。
10章27節 もし
口語訳 | もしあなたがたが、不信者のだれかに招かれて、そこに行こうと思う場合、自分の前に出される物はなんでも、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。 |
塚本訳 | あなた達がある不信者に招待されて、行こうと思うなら、出されるものはなんでも、良心のために何も詮議をせずに食べなさい。 |
前田訳 | もし信者でない人に招かれて、あなたが行きたいと思えば、出されるものをみな良心の問題とせずにお食べなさい。 |
新共同 | あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。 |
NIV | If some unbeliever invites you to a meal and you want to go, eat whatever is put before you without raising questions of conscience. |
註解: 第二には不信者の家庭に招かれし場合である。パウロは此の招きに応ずる事を禁じはしなかつた、人間の社会的関係を破壊する事は重大なる事柄であるからである。そして原則としては26節と同じく何等良心の問題たらしめずに凡ての物を食すべきである。但し是には次の例外に注意しなければならぬ。
10章28節
口語訳 | しかし、だれかがあなたがたに、これはささげ物の肉だと言ったなら、それを知らせてくれた人のために、また良心のために、食べないがよい。 |
塚本訳 | ただもし「これは供えた肉です」と言う人があったら、知らせたその人と良心とのために、食べるな。 |
前田訳 | もしだれかが、「これは供え物の肉です」というならば、それを知らせた人と良心とのために食べないでください。 |
新共同 | しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。 |
NIV | But if anyone says to you, "This has been offered in sacrifice," then do not eat it, both for the sake of the man who told you and for conscience' sake -- |
註解: 即ち客の中の一人、而も弱き信仰の基督者がTコリ8:7にある如き信仰を持ち「是は偶像に献げし肉であるから気を付けなさい」と注意を与える如き場合には、其人のため、其の人の良心のために之を食つてはならない。何となればそれにも関わらずに之を食するか又は彼と議論する如き場合には、彼の弱い信仰を躓かせる恐があるからである。
辞解
[人] 「誰かが」にして従て主人にあらず客の一人である。但し異教徒ではない(異教徒がかく告ぐるならば却て之を食して偶像が無いものである事を示すべきである)。故に29、30節より見て信仰の弱い基督者と見るべきである。
10章29節
口語訳 | 良心と言ったのは、自分の良心ではなく、他人の良心のことである。なぜなら、わたしの自由が、どうして他人の良心によって左右されることがあろうか。 |
塚本訳 | 良心と言うのは、あなた自身のでなく、(信仰の弱い)他の人の良心のことである。いったいなんでわたしの自由が、ほかの人の良心のことで裁かれることがあろう、 |
前田訳 | 良心とわたしがいうのは、あなた自身のでなく、その人のです。なぜわが自由が他の人の良心によって裁かれるのでしょうか。 |
新共同 | わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。 |
NIV | the other man's conscience, I mean, not yours. For why should my freedom be judged by another's conscience? |
註解: 即ち弱き信者の良心に対する遠慮より之を食せず、他人の益を思いて自己の行為を制限したに過ぎないのであつて他人の良心によりて自己の良心が審かれたのではない。自分の良心は相変らず之を食う事の自由を認めているのである。自己の良心の独立は絶対である。故に同一の問題につき基督者の中に異れる解釈を有ち、而も各 が独立に其の良心に従う自由を有つ事をパウロは認めている。(カトリツク教徒の如く法王をして人の良心と自由を束縛せしめない)。
10章30節 もし
口語訳 | もしわたしが感謝して食べる場合、その感謝する物について、どうして人のそしりを受けるわけがあろうか。 |
塚本訳 | もしわたしが感謝を捧げてそれにあずかるなら、わたしが感謝するもののゆえにどうして非難されることがあろう。 |
前田訳 | もしわたしが感謝をもって食卓にあずかるならば、感謝するものについて、どうしてそしられるのですか。 |
新共同 | わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。 |
NIV | If I take part in the meal with thankfulness, why am I denounced because of something I thank God for? |
註解: 前節の続きで食事の際感謝して食事する以上、其の飲物は神の恩恵により己に与えられしものである、之を他人がその良心によつて譏 つても、そのために心を傷むべきでは無い。
10章31節 さらば
口語訳 | だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。 |
塚本訳 | とにかく、あなた達は食べるにも、飲むにも、何かほかのことをするにも、何事も神に栄光を帰するためにせよ。 |
前田訳 | あなた方は、食べるにせよ、飲むにせよ、何をするにせよ、すべて神の栄光のためになさい。 |
新共同 | だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。 |
NIV | So whether you eat or drink or whatever you do, do it all for the glory of God. |
註解: これかかる問題を解決する積極的原則であつて、他人の良心のためを思う場合にも又自己の自由を放棄する場合にも凡て自己の利害、主義主張の如何よりも神の栄光を顕わし、神の御名が異教徒の中に崇められ、神の愛と義の何たるかが明かにされる様にしなければならない。
10章32節 ユダヤ
口語訳 | ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。 |
塚本訳 | ユダヤ人にも異教人にも神の集会にも、つまずきになるな。 |
前田訳 | ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の集会(エクレシア)にも、つまずきにならないでください。 |
新共同 | ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。 |
NIV | Do not cause anyone to stumble, whether Jews, Greeks or the church of God-- |
註解: これ前節の積極的原則に対する消極的原則である。即ち単に弱い基督者のみならず、不信者にもユダヤ人にも(要するに人類全体に)躓きを置かない事が大切であつて、パウロがTコリ9:19-23に掲げし態度も正にれであつた。
10章33節
口語訳 | わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。 |
塚本訳 | わたしも、何事においても何人をも喜ばせて、わたし自身の利益を求めず、多くの人が救われるようにとその人達の利益を求めているではないか。 |
前田訳 | わたしもすべての人に万事気に入ろうとし、自分のでなくて多くの人々の益を求めて、彼らが救われるようにしています。 |
新共同 | わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。 |
NIV | even as I try to please everybody in every way. For I am not seeking my own good but the good of many, so that they may be saved. |
註解: 我らの力 むべきは己の知識をそのままに実施する事でもなく、又我らの自由を恣 に用うる事でもなく、凡ての人を救わんが為めに、其の心を害せず、其の益を求めなければならない。基督者が其の不注意の為に不信者より嫌悪される如き態度調子をなす事はパウロの此の態度に違反せる過ちである。注意しなければならない(第11章1節は此の節と連絡しているのであつて寧ろ第10章に属すべきものである)。
要義 [偶像問題に対するパウロの態度の要約]第8、9、10の三章に於てパウロの論ぜし偶像問題は、問題として現在の日本に於ける状態と多くの類似を有っているので参考となり得る事は勿論であるけれども、それよりも遙かに重要なる事は、パウロが此の問題の解決に際して驚くべき信仰と智慧と活眼とを具備していて、而して此の凡てを統 ぶるに大なる愛を以てした点である。此の意味に於てパウロの解決法は永遠に変らない根本原則である。而して其の根本原則は略 次の数点に集中している。
(1)智識は人を誇らしめ愛は徳を建つる事
(2)偶像はなきものなれど悪鬼は実在し、偶像に供うる物は実は悪鬼に供えられるものなる事
(3)自己の良心は他人の良心により審かれざる事
(4)凡てに於て神の栄光を顕すべき事
(5)凡ての人に躓物とならぬ様にする事
(6)凡ての人の救われん事を求むる事
パウロが以上の根本原則のみを示して何等千変一律の具体的律法を与えなかった事は、彼の信仰より出づる知慧である。又彼が同じ基督者の中にも同一事実につきて種々の解釈があり得る事を認め、而して其の各々に自由を認め各々神より受納れられる事を断言せる事は、彼の信仰がパリサイ的偽善にあらざる事を示している。而して此の自由を愛の為めに放棄する事をすすめし点に彼の至高の動機を見る事が出来る。然のみならず彼は事実に対して盲目では無く、コリント信者が偶像は無きものなりと云うに対して、悪鬼の存在を示し偶像崇拝を避けしめし如き如何に彼の眼光の鋭かったかが解る。斯く一方鬼神の存在に対して敏感であったのみならず他方人間の風俗習慣、感情思想にも充分の理解を有ち、己と信仰を共にせざる異数徒にも、又己と意見を同じくせざる弱き信者にも躓物とならざらん事を薦めし点を見ても、一方パウロが大胆にサタンに向って戦う勇者であると共に、他方彼は極めて柔和にして同情深く常識に富める人間であった事を知る事が出来る。今日の我らも是等の原則に従って行うならば、最も正しく種々の問題、殊に偶像に対する問題を解決する事が出来るであろう。