ロマ書第8章
分類
3 救拯論
3:21 - 11:36
3-(1) 個人の救い
3:21 - 8:39
3-(1)-(2) 潔められる事
6:1 - 8:17
3-(1)-(2)-(ト) 霊肉の戦
8:1 - 8:11
註解: 「聖書を指輪とすればロマ書はその宝石であり第8章はその宝石の輝く先端である」(シベーネル)
8章1節 この
口語訳 | こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 |
塚本訳 | (こうしてわたし達はみな救われている。)だから今では、キリスト・イエスにある者は絶対に罪を罰されることはない。 |
前田訳 | それゆえ、今や、キリスト・イエスにあるものは何の罰も受けません。 |
新共同 | 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 |
NIV | Therefore, there is now no condemnation for those who are in Christ Jesus, |
註解: 罪の下にある肉は律法を成就する事が出来ず故に肉の人は詛 と死の法の下にある。然るにイエス・キリストの十字架の贖によりて我らは罪に死して神に生くる者となり、肉にいる者なりし我らは今やこの死の体から救われてキリスト・イエスに在る者となった(6-7章の全体はこの事を示す)。「この故に」こうした人の上には「今や」罪に対する詛 は去り、罪に定められる事は絶対にない。彼は罪の肉に対して死人となり人の罪を定むべき律法と絶縁したからである(ロマ7:1-6)、故にキリスト・イエスに在る者は肉の人とは全く異った存在となったのである。
辞解
[この故に] 前章末節との関係より見れば「されど」とあるべきが如くなれど、ロマ7:25前半の感謝によりてパウロの心はロマ6:1-7:24の全体の思想を要約し信仰によりて義とせられし者は無力なる肉たる死の体より救われて(ロマ7:14-25)、律法より解放され(ロマ7:1-6)、罪に死してキリストに生き(ロマ6:1-14)、罪の奴隷より贖われて神の奴隷となりたる者なる事を論定した。夫故に「この故に」云々はロマ6:1以下の全思想に関連すると見るを可とする(異説あり)。
[キリスト・イエスに在る者] 復活のキリスト・イエスとの人格的交通一致の状態を指す。彼によりて義とせられし者の到達する霊的極地、獄中書簡に特にこの思想多く、ヨハネはこれを「キリストとの交わり」なる語を以て表わす。
[罪に定める] katakrima は審判によりて有罪の判決を下すこと。
8章2節 キリスト・イエスに
口語訳 | なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 |
塚本訳 | なぜなら、キリスト・イエスによる命の霊の法則が、死と罪との法則からあなたを自由にしたからである。 |
前田訳 | キリスト・イエスにあるいのちの霊の律法が、あなたを罪と死の律法から解放したからです。 |
新共同 | キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 |
NIV | because through Christ Jesus the law of the Spirit of life set me free from the law of sin and death. |
註解: 肉の人は罪と死の法則の支配の下に在る(ロマ7:23)。これを脱する唯一の途はキリスト・イエスとの霊交に生きる事である。そこには永遠の生命の源なる神の御霊の法則が支配しているからである。
辞解
[キリスト・イエスに在る] 「生命」(Z0)、「御霊」「法」(G1)の何れに関係しているかにつき諸説あり、「生命の御霊の法」の全体に関連するものと解す(C1)。「開放す」に関係させる説(M0、I0、A1)もあれど採らず。
[生命の御霊] 生命なる御霊即ち同格名詞と見る。但しこの御霊は又生命を人に与える事勿論である(I0)。
[法] 法則で支配する力を指す。「罪と死との法」ロマ7:23。「生命の御霊の法」と云いて「死の罪の法」と云わざる所以は御霊そのものが生命であるに反し死は罪の値であるから。
8章3節
口語訳 | 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 |
塚本訳 | 律法が肉に妨げられて無力になったために出来なくなったことを、神は(御子によって)成し遂げてくださった。すなわち(わたし達の)罪の(征服の)ためにその子を罪の肉の形で(この世に)遣わし、その肉(を殺すこと)において罪を罰されたのである。 |
前田訳 | 律法が肉のため弱体になってできなくなったことを、神はなしとげられました。すなわち、(人の)罪のゆえにみ子を罪の肉の形でつかわし、肉において罪を罰せられたのです。 |
新共同 | 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 |
NIV | For what the law was powerless to do in that it was weakened by the sinful nature, God did by sending his own Son in the likeness of sinful man to be a sin offering. And so he condemned sin in sinful man, |
註解: 直訳「そは肉の為に弱きにより律法の為し能わぬ処をば神は己の子を罪の肉に似たる姿にて罪の為に遣し、肉に於いて罪を定め給いたればなり」。罪を罰しこれを処分する事は律法の任務であった。併し乍ら律法にはその力がなかった、これ律法に従うべきはずの肉は反対に罪の下に売られてその奴隷となり、律法に従う力が無かった為である。それ故に神はその御子をこの世に遣し給い、而も罪の肉即ち罪に支配される肉に似たる形にて、罪の為(罪を処分しこれを取除かんが為)に遣わし給い、彼の肉を十字架につける事によりて罪の下にある肉を処分し、罪に対する断罪を完成し給うた。即ち罪に対する処罰はキリストの十字架上の肉の死によりて完成した。これにより罪と死の法より開放されるに至った。
辞解
[罪の為に] 罪を裁き、破壊し、取除く為等凡ての意味を含む。
[罪ある肉] 原語「罪の肉」で罪を犯し易き肉、又は罪の支配の下にある肉等を意味する。
[の形にて] 「の相似形にて」の意味でキリストの肉そのものは罪の下にあらず唯罪以外の点で凡て我らの如く誘われ給うたに過ぎなかった事を示す(ヘブ4:15)。
[肉に於いて] キリストの肉に於いて、従て彼と共に十字架に死する凡ての基督者の肉に於いて(ロマ6:3、4)。
[罪を定め給へり] 罪を罰してその処分を完成した事を意味する。これを罪の支配力を実際に破壊した事(B1、A1、M0)、又はキリストの聖なる生活を以て罪の罪たる事を明かにしてこれに詛 を与えた事(G1)等と解すべきではない。これらは皆この罪の処罰の目的又結果である(次節)。
8章4節 これ
口語訳 | これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。 |
塚本訳 | これはわたし達が(もはや)肉によって歩かず、霊によって歩き、律法の要求することがわたし達において完全に果たされるためである。 |
前田訳 | それは、肉によらず霊によって歩むわれらの間に律法の要求が満たされるためです。 |
新共同 | それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。 |
NIV | in order that the righteous requirements of the law might be fully met in us, who do not live according to the sinful nature but according to the Spirit. |
註解: キリストの肉の死は信仰によりて我らの肉の死を意味する。故に信仰によりてキリストに在り、彼の霊に導かれる者は、既に死せる彼の肉に従わず、我らの中に宿り給う聖霊に従って行動する。かくして肉によりて成就し能わざりし律法の凡ての義しき要求が我らの中に完うせらる。これが神その独子を遣し給いし目的であった。
辞解
[霊] pneuma は人間の心 nous とは異り聖霊を意味する。
[歩む] 道徳的行動を指す。
[律法の義] 律法が我らに要求する義。
8章5節
口語訳 | なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。 |
塚本訳 | なぜ(霊によって歩けばそれができる)か。肉による者[生まれながらの人]は肉のことを追い求めるが、霊による者[キリストを信ずる者]は霊のことを追い求めるからである。 |
前田訳 | それは、肉に従うものは肉のことを、霊に従うものは霊のことを求めるからです。 |
新共同 | 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 |
NIV | Those who live according to the sinful nature have their minds set on what that nature desires; but those who live in accordance with the Spirit have their minds set on what the Spirit desires. |
註解: 本節を序論とし6-8は肉に従う者、9-11は霊に従う者、12-13は結論を述ぶ。基督者の内には霊と肉との戦がある、霊は神の霊が我らに内住せるもので我らを神の御旨に従わしめんとし肉は罪に誘われ易くして我らを罪に従わしめんとする。この肉に従うものは肉の事即ち人間の自然性の喜ぶ事を常に念頭に置きて追求し、霊に従う者即ち新生せる基督者(信仰に生きる人、イエス・キリストに在る者)は神の霊の喜ぶ事を常に念頭に置き追求める(この二者につきてはガラ5:17-24参照)。而して基督者の中にも尚肉は存在するが故にこれを十字架につけ死ねるものとして取扱わなければならない。
辞解
[おもふ] phroneô は念願する事、常に念頭を去らざる事。
8章6節
口語訳 | 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。 |
塚本訳 | 肉を追い求めることは死をもたらすが、霊を追い求めることは命と平安とをもたらすからである。 |
前田訳 | 肉を求めれば死、霊を求めればいのちと平和です。 |
新共同 | 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。 |
NIV | The mind of sinful man is death, but the mind controlled by the Spirit is life and peace; |
註解: 「死」と云い「生命」と云うは共に現在の状態そのものを指すのみならず、やがて来るべき永遠の生死をも含める全体を指す。肉の念はそれ自身「死」の状態であって(ロマ7:23、24)内心の暗黒、分離、無力、絶望の状態がそれである。霊の念は反対にそれ自身生命であって光明、統一、能力、希望に充たされる。平安は内心の分離の反対で霊の念は我らの心の法と一致するが故にそこには唯平安あるのみ、次節はこの平安の反対である。
8章7節
口語訳 | なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。 |
塚本訳 | というのは、肉を追い求めることは神への敵対である。肉は神の律法に服従せず、服従することも出来ないからである。 |
前田訳 | 肉を求めるのは神への敵対です。肉は神の律法に従わず、従えもしませんから。 |
新共同 | なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。 |
NIV | the sinful mind is hostile to God. It does not submit to God's law, nor can it do so. |
註解: 私訳「これ肉の念は神に敵するが故にして」肉の念が死である所以はそれが神に対し敵対的関係に在るからであって肉なるものは罪の下に在る結果として、本質的に神の律法に服 わないのみでなく、従う事が出来ないからである。肉そのものの性質は不変である、故にこの争闘は絶えない。
8章8節 また
口語訳 | また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。 |
塚本訳 | 肉にある者は神をお喜ばせすることは出来ない。 |
前田訳 | 肉にあるものは神をおよろこばせできません。 |
新共同 | 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 |
NIV | Those controlled by the sinful nature cannot please God. |
註解: 「肉に居る者」即ち肉の主義に安住する者は、神に反し自己の欲求にその生活の中心を置く、かかる者はたとい一見如何に善事を為しつつあるが如くに見ゆる場合があっても、それは神を悦ばす事が出来ない。
辞解
[肉に居る者] 肉の主義に安住する者で「肉に従う者」よりも一層強き意味を持っている。「罪のうちに止まる」(ロマ6:1)と「罪を犯す」(ロマ6:15)との差もこれと同一の関係にある。
8章9節
口語訳 | しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。 |
塚本訳 | しかしあなた達は肉にある者ではなく、霊にある者である、(すでにキリストを信じて)神の御霊があなた達の中に住んでおられる以上は。しかし(神の御霊すなわち)キリストの霊を持たないなら、その人はキリストのものではない。 |
前田訳 | しかしあなた方は、神の霊があなた方の中にお住まいである以上、肉にでなく霊にあるものです。キリストの霊を持たねば、その人は彼のものではありません。 |
新共同 | 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 |
NIV | You, however, are controlled not by the sinful nature but by the Spirit, if the Spirit of God lives in you. And if anyone does not have the Spirit of Christ, he does not belong to Christ. |
註解: 前節まで原則的に叙述せるパウロは本節よりこれを読者各人に適用しつつその反省を促すものの如くである。即ち肉にいる者は神の敵であり、死より外に無いけれども若し基督者として神の聖霊が内住し給うならば、かかる人は肉にいる人ではなく霊にいる人である。即ちその生活は霊に従って生きる事となる。真の基督者は肉にいる人であり得ない。
キリストの
註解: キリストの御霊と云うも神の霊と云うも同一事物を指す。即ち聖霊を有てるものにあらざれば基督者とは云う事が出来ない。自ら顧みて御霊を持つや否やを見なければならない。キリストの御霊を有たざれば基督者ではなく、従って肉の念に捉われて平安を失い神に敵し死と詛 とを受ける。
8章10節
口語訳 | もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。 |
塚本訳 | しかしキリスト(の霊)があなた達におられるなら、(あなた達の)体は(アダムの)罪によって死んでいるが、霊は(キリストの)義によって生きている。 |
前田訳 | しかし、キリストがあなた方の中におられるならば、体は罪によって死んでも、霊は義によって生きます。 |
新共同 | キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 |
NIV | But if Christ is in you, your body is dead because of sin, yet your spirit is alive because of righteousness. |
註解: キリストの御霊を有つ者(9節)即ちキリストの内在を受けている者(基督者)はその肉の体はアダムの罪により霊的に既に死せるもの、肉的にもやがて死ぬべきもの(即ちこれを一括して死にたる者と見る)であるけれども、新生の霊、上より来れる聖霊は義なるキリストの霊が彼の中に宿れるものなるが故に、死ぬる事はなく生命そのものである。
辞解
[罪によりて] 自己の罪のみならずアダムの原罪により(ロマ5:12)の意。
[霊] 多くの学者(M0、G1、I0、E0)は人間の霊と解するけれども、神の霊によりて新生せしめられし新生の霊(C1)と見るを可とする。従て「義により」は義とせられしが為(M0、G1)でもなく、又義を条件として(Z0)でもなく、それ自身義なるが故にである。
[生命に在らん] 直訳「生命なり」で新生の霊の特質を明示している。人間の性来 の霊は義でも生命でもない、幸にしてパウロは「霊」をこの人間的の意味に用うる場合は極めて少い。
8章11節
口語訳 | もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。 |
塚本訳 | しかしイエスを死人の中から復活させたお方の御霊があなた達の中に住んでおられるなら、キリスト・イエスを死人の中から復活させたそのお方は、あなた達の中に住んでおられるその御霊によって、あなた達の死ぬべき体をも生かしてくださるであろう。 |
前田訳 | イエスを死人たちから復活させた方の霊があなた方の中にお住まいならば、キリスト・イエスを死人たちから復活させたその方は、あなた方の中に住むその霊によって、あなた方の死ぬべき体をも生かされましょう。 |
新共同 | もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。 |
NIV | And if the Spirit of him who raised Jesus from the dead is living in you, he who raised Christ from the dead will also give life to your mortal bodies through his Spirit, who lives in you. |
註解: イエスを死人の中より甦えらせ給いし者は勿論父なる神である。イエスは神の霊によりて生れ、神の霊を注がれし神の子であり、神はかかるイエスを死人の中より甦えられしめ給う事は当然であった、これと同様に彼と同じ霊を宿している基督者は、この御霊の故に死ぬべき体をも復活せしめられる事は当然である。新生の霊は決して死ぬべきでは無くやがて死に打勝ちて復活の体を与えられ、完全なる生命となるのである。
辞解
9節以下に「神の御霊」「キリストの御霊」「キリスト」「イエスを死人の中より甦えらせ給いし者の御霊」等種々の表顕を与えているけれども帰する処は一つである、唯各々特有の場合に適せる表顕を与えたに過ぎない。
始めに「イエスを」と云い後に「キリスト・イエスを」と云いしは始めに単に復活の事実に重きを置き、後には復活せるイエスの職分に重きを置きたる為である。
[汝らの中に宿り給う御霊によりて] 異本に「御霊の故に」とあり、孰 れも信憑すべき写本によっている。註解は後者に依った。若し改訳本文によるとすれば、この御霊が復活の作用を為す意味となる。
[死ぬべき体] 性質に重きを置き、「死にたる体」(10節)は事実に重きを置く。
8章12節 されば
口語訳 | それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。 |
塚本訳 | (こんなに大きな恩恵をいただいているの)だから、兄弟たちよ、わたし達は義務がある。(もちろん)肉に対して、肉的に生きる義務があるのではない。(神に対して、霊によって生きる義務があるのである。) |
前田訳 | それゆえ、兄弟たちよ、われらには責任があります。しかし肉に対しての、肉によって生きる責任ではありません。 |
新共同 | それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 |
NIV | Therefore, brothers, we have an obligation--but it is not to the sinful nature, to live according to it. |
註解: 私訳「されば兄弟よ我らは(▲負債を負うては居るが)肉に従いて活くべき負債を肉に対して負う者にあらず」、「霊に従いて生くべき負債を霊に対して負うものなり」が省略されている。聖潔の恩恵を受くる事も(3、4節)永生の恩恵に浴する事も(5-12節)、一として肉に負う処が無く凡て皆これを霊に負うている。故に肉は赤の他人、霊は我らの大恩人である、肉の命に従い肉を悦ばすべき義務は少しも無い。
8章13節
口語訳 | なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。 |
塚本訳 | その訳は、もしあなた達が肉によって生きれば、かならず死ぬからである。しかしもし(霊によって生き、)霊をもって体の働き[肉の行い]を殺せば、(永遠に)生きる。 |
前田訳 | あなた方が肉によって生きるなら、死にましょう。霊で体のはたらきを殺すなら生きましょう。 |
新共同 | 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 |
NIV | For if you live according to the sinful nature, you will die; but if by the Spirit you put to death the misdeeds of the body, you will live, |
註解: 聖霊の内住を受けた者はこれに従って生きる負債がある。聖潔の要諦 はここにあるのみならず、生命を得る事も亦この霊に従う生活によるのである。反対に肉に従って活きるものは自ら死を刈取っているのである。ここに至って潔められる事と生くる事とは離るべからざる関係に在る事を知る事が出来る。
辞解
[死なん] 原文「死ぬより外にない」と云う如き意。
[霊によりて] 内住の聖霊によりて。
[體 の] と云いて「肉の」と云わない所以は「體 」は肉の全体の統一的総体であるから。
[行為] praxis パウロは悪しき意味に用いている(コロ3:9)。
要義1 [霊と心と魂] 霊(pneuma、spirit)心( nous、mind)魂(psychê、soul)の三者は聖書に於て大体明瞭なる区別を以て用いられている。パウロの書簡に於ては殊に明かであって「霊」は神より出でし霊又は神の霊が人間に宿れるものを指し、従って人間に固有ならざるものであり、「心」は人間固有の理解力判断力思考力等を指し、内なる人(ロマ7:22)、神の律法をよろこぶ処のもの(ロマ7:22)、また律法の善なるを認むる心(ロマ7:16)である。「魂」は日本訳聖書には又「精神」「霊魂」「生命」「心」等種々に訳されているけれども、本来人間の肉体を生かす方面の力を指す、即ち人間の生活現象の無形的方面の総称である。生れながらの人は心と魂とを有っているけれども霊はこれを有たず、新生の人にして始めて御霊を持つに至る。これ神の賜物である。不幸にして日本訳ではこの三者相互間の区別が必ずしも明瞭に訳されていない事は遺憾である。
要義2 [霊と心と肉] 肉とは神をはなれし人間の肉体的精神的全体即ち自然人の活動原理を指す。故に必ずしも所謂肉慾を指すものにあらざる事は明かである(ガラ5:19)。而してこの「肉」は罪の下に奴隷となっているので「心」の思うままにならず、「心」は神の律法を善なりと認めつつも尚肉の念に従い罪の奴隷とせられているのがアダムの子孫たる性来 の人の姿である。故に心と肉とは互に相争い(ロマ7:25)人は内心の分離に悩まなければならない。
然るに霊によりて新生せるものは心の願が霊の念と一致するが故に自由があり、御霊は罪よりも強きが故に肉の念と戦い身体の行為を殺して生命に活きる事が出来る(8:13)。
附記 [霊と御霊] 日本訳聖書ロマ書8章殊にその1-27節に「御霊」及び「霊」なる文字が多く用いられている(原文22ヶ処)。原文にてはこの二者に文字上の区別なく共に pneuma である。それ故にこれを「御霊」と訳すべきか「霊」と訳すべきかは訳者の解釈による (英語にては Spirit、 spirit として文字の大小により区別す)。従って、場合によりその解釈に不一致なる事もあり得るのであって、大体に於て我らの中に内住し給う神の御霊を指せる時はこれを「霊」と訳し、我らの外にありて働き給う時これを「御霊」と訳せるものの如くである。与は寧ろこの凡てを「御霊」と訳して差し支えないと思う。我らは神の宮なるが故に我らの中に住み給う神の霊を御霊と呼んで差支えがない。尚問題となり得る個々の場合は註解を見よ。
8章14節 すべて
口語訳 | すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。 |
塚本訳 | 神の御霊に導かれている者はことごとく、神の子だからである。 |
前田訳 | 神の霊に導かれるものは皆神の子です。 |
新共同 | 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 |
NIV | because those who are led by the Spirit of God are sons of God. |
註解: 前節迄に御霊に導かれるものが死より開放せられし事を述べ、後進んで、その理由として( gar )前述の如き状態にあるもの即ち御霊に導かる基督者は神の子たる所以を掲げている。神の子であれば決して死ぬる筈がないから。而して神の子とは、神の御霊に導かれるものに外ならず他の外的条件は神の子たるに必然的の條件ではない。故に新生の御霊に導かれる者は単に消極的に罪と死の法より開放されるのみならず、進んで積極的に神の子たる身分を取得せるものである。
8章15節
口語訳 | あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。 |
塚本訳 | なぜなら、あなた達が(神から)戴いた霊は、(あなた達を)もう一度(律法の支配の下に置いて)びくびくさせる奴隷の霊でなく、(神の)子の霊である。(その証拠には、)わたし達は(祈るとき、)その霊によって「アバ(お父様)、お父様」と大声で呼ぶではないか。 |
前田訳 | あなた方はまたもやおそれさせる奴隷の霊を受けたのではなく、子としての霊を受けたのです。この霊によってわれらは、アバ、父上、と呼ぶのです。 |
新共同 | あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 |
NIV | For you did not receive a spirit that makes you a slave again to fear, but you received the Spirit of sonship. And by him we cry, <"Abba,> Father." |
註解: 御霊を受けし者の状態は律法の下にある人の如く恐をいだく事は最早あり得ない。養子即ち神の子とせられしものの霊を受けたのであって、この望が我らの中に働き我らに子たる心を起し、我らをして神をアバ父と呼び奉るに至らしめる。即ち御霊を受けし者の中には神の子たる実感が溢れて来る。
辞解
[再び] かつて律法の下にありしときは恐の中にその日を送った。
[僕たる霊] の「霊」は勿論「聖霊」ではない。「霊」なる文字は便宣上これを用いたのである。
[子とせられたる者の霊] 「猶子 の霊」「養子の霊」で(ガラ4:5)キリスト・イエスのみ聖霊によって生れし神の独子であり、我らは皆養子であり後に神より聖霊を賜わる。故に我らに賜わりし御霊は「猶子 の霊」と云うべきである。
[アバ父] ガラ4:6註参照。
[呼ぶ] 原語「叫ぶ」で心から溢れ出づる貌 。
8章16節
口語訳 | 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。 |
塚本訳 | 御霊自身が、今すでにわたし達が神の子供であることを、わたし達の霊に保証してくださるのである。 |
前田訳 | その霊自身がわれらの霊とともに証するように、われらは神の子どもです。 |
新共同 | この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 |
NIV | The Spirit himself testifies with our spirit that we are God's children. |
註解: 我らのうけし子たる霊がアバ父と叫ぶ事によりて霊の子たる事を証するのみならず、御霊御自身も我らの叫びに答えて我らを「子よ」と呼び給う。この直覚的感応が聖書の言によって裏書せらるる処に基督者と神との関係の確実さがある。
辞解
[「御霊みづから」の「証し」] の何たるやにつき、或は「信仰によりて義とされる事」(L1)その他我らを慰め、又は罪を叱責し又は祈らしむる等の聖霊の働きを指すと解する説あれどこれ等は皆聖霊の証しの内容と見るべきで、寧ろ前記の如くに解すべきである。
[我らの霊] 一般に「我らの精神」「我らの自覚」(M0)と云う如き意味(Tコリ2:11。Uコリ7:1)に解せんとしているけれども我らが神の子たる事を証する心はこの精神にあらずして神より賜わる霊である故この解釈を採らない。
[子] huios を用いずして teknonを用い、子たる地位よりも寧ろ子たる自然の関係に重きを置いている事は神との間の親密なる関係を示さんが為である。これにより前節の「猶子 の霊」なる語もその法律的意義が深められて「生みの親子」なる関係が強められる事となっている。
口語訳 | もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。 |
塚本訳 | (すでに神の)子供であるならば、また相続人である。神の相続人であり、キリストと共同相続人である、(キリストと)一しょに栄光を受けるため、(こうして彼と)一しょに苦しんでいる以上は。 |
前田訳 | 子どもである以上、世継ぎでもあります。キリストと栄光をも共にするように、彼と苦しみを共にする以上、神の世継ぎであり、キリストとともに世継ぎです。 |
新共同 | もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。 |
NIV | Now if we are children, then we are heirs--heirs of God and co-heirs with Christ, if indeed we share in his sufferings in order that we may also share in his glory. |
註解: 救われし者の光輝ある身分とその運命とに関してパウロの思想は次から次へと進展し重畳 する。ロマの法律の定むる処によれば子は当然に父の嗣業を嗣ぐべきものであり、神の国に於ても亦同様である。父なる神はその所有の凡てを子に与えん事を欲し給う。
註解: 基督者は神の子であり従ってその嗣子 である(ガラ3:29。ガラ4:7)。神の栄光、その愛とその義、その永遠の生命、その智慧、その能力、その国凡てはやがて基督者のものとせられるのである。而してキリストは神の独子として既にこの栄光を嗣ぎ給い、我らも亦やがて彼の再臨により栄光の体に化せられてキリストと共同相続者となる。実に大なる光栄である。
辞解
嗣子 、嗣業等は一般社会の法律観念の外イスラエルに取りては約束の地カナンがその嗣業であり、基督者に取りては天国はその嗣業である。而してこれを嗣ぐ者は嗣子 である。
[共に世嗣たり] 原語「共同世嗣たり」
これは[キリストと]ともに
註解: 私訳「もし共に栄光をも受けんが為に共に苦難を受くるならば」で前文の条件である。即ちキリス卜と共に世嗣とならんが為には彼と共に苦しまなければならない、サタンの支配するこの世にありてキリストは苦しみ給うた。若しキリストと共に活きるならば、彼の栄光のみを得てその苦難を免れる事は出来ない。基督者の苦難は栄光への道程である。
要義1 [基督者の栄誉] 神の子と云い神の世嗣と云うは何れも人間に取りては、あまりに過大なる栄誉であり、殆んど誇大なる妄想にあらずやと思われる程である。併しこれらは我らの信仰に対して神が約束し給う報であって、信仰は神に叛ける人類が神との間に義しき関係を恢復する所以の原囚であり、神と人との間に義しき関係が成立せる事は、宇宙間の最大の事実であるとするならば、これに対して「神の子」「神の世嗣」たるの栄誉が与えられる事は寧ろ当然の事と云わなければならない。
要義2 [基督者の苦難と栄光] パウロがキリストと共に世嗣となり共に栄光に与る事を考えているのは単にかかる空想に陶酔してその甘味を享楽しているのではなく、キリストと共にキリストの苦難を受けつつ、同時にその栄光につき考えているのであった。パウロに取りてはキリストを離れて何等の栄光を考える事が出来ず、而してキリストと偕に在る事は即ちキリストと共に苦しむ事であった。故に苦難と栄光とはキリストの場合の如く盾の両面でこれを分離して考える事は出来ない。パウロの場合に於ては華やかなる希望の夢の如くに見ゆる処の事柄も実はキリストと共に受くる苦難の血汐の結晶であった。
要義3 [要求は必ず実現す] 人間には生来 無限の要求があり、この凡ての要求は、この世の何物を以てもこれを充す事が出来ないけれども、信仰により神の子とせられ、その世継とされる事によりてのみ、人類はその無限なる凡ての要求を神の賜物として満す事が出来るのである。これ人間に固有なるあらゆる要求は反面にこれを満すものが必ず存在する事の証拠である。従って無限なる要求は神によるに非ざればこれを満し得ないのは当然である。神なしに人生は結局不幸に終らざるを得ざる所以はここにある。
8章18節 われ
口語訳 | わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。 |
塚本訳 | (しかもこの苦しみは恐れることはない。)なぜなら、わたしはこう考える。今の世の苦しみは、わたし達に現われようとしている栄光(──キリストと一しょに神の国の相続人になる最後の日の大いなる光栄──)にくらべれば、言うに足りない。 |
前田訳 | わたしは考えます。今の時の苦しみは、われらに現われようとする栄光に比べると、いうに足りません。 |
新共同 | 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 |
NIV | I consider that our present sufferings are not worth comparing with the glory that will be revealed in us. |
註解: 神の子、神の世嗣たる基督者が現世に於て苦雖を受くべき不可思議なる事実に説き及びたるパウロは(17節)本節以下39節に至る迄に於てその理由を説明する。即ちキリストの再臨による新天新地の復興までは天地万物皆呻吟 の中にある事を示す。19-22は被造物の呻 き、23-25は基督者の呻 き、26-27は御霊の呻 きにつき述ぶ。
辞解
[今の時] キリストの再臨迄の間。
[顕われんとする栄光] キリスト再臨の時に信者の復活、新天新地の復興により顕われる栄光。
[我らの上に] eis hêmas の適訳にあらず、「我らの中に、又我らの為に」と云う如き意味を有す。
8章19節 それ
口語訳 | 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。 |
塚本訳 | (そしてこの栄光は必ず与えられる。)その証拠(の第一)は、創造物が神の子たちの現われるのを、首を長くして待ちこがれていることである。 |
前田訳 | 被造物は熱望して神の子たちが現われるのを待っています。 |
新共同 | 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 |
NIV | The creation waits in eager expectation for the sons of God to be revealed. |
註解: 本節より22節迄は被造物のうめき。原文の語意に近く私訳すれば「そは被造物は鶴首 して神の子等の顕現を待望すればなり」で、あらゆる被造物(辞解参照)は現在の不完全さに耐えず、神の子らの顕現の時即ちキリストの再臨により新天新地の復興される時を鶴首 して待ち望んで居るとの意味である。パウロの自然観とも云うべきもので、最も深く自然の心を洞察せる言である。尚、これに類似せる自然観に就てはイザ11:6以下。イザ65:17。イザ66:1。詩102:27等参照。
辞解
[造られたる者] ktisis は前後の関係より(1)人類、(2)人類以外の被造物、(3)凡ての被造物等種種の意味に用いられ本節の場合には尚「ユダヤ人」「基督者」「異教徒」「新生せる者に残存する肉」「無生物」等種々の意味に解せられているけれども、19-22節の場合は23節以下との対照より考え基督者及未信者を除外せる全被造物と見るべきである。
[切に慕いて] apokaradokia は首を挙げて待望む事を意味す。
[神の子たちの現れん事] 再臨の時キリストに在りて眠れる神の子らは先づ甦りてキリストと共に現われる(コロ3:4)、即ちキリストの再臨による新天新地の復興の時を指す。
8章20節
口語訳 | なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、 |
塚本訳 | なぜであるか。創造物は自分から(今のような)はかない運命に屈服したのでなく、それは屈服させたお方([神]の御心)によるからである。(彼らはアダムの罪の責任を負わされたのである。)しかし(この屈服には)望みがある。 |
前田訳 | 被造物がむなしさに服したのは、自ら進んでではなく、服させた方によってです。 |
新共同 | 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 |
NIV | For the creation was subjected to frustration, not by its own choice, but by the will of the one who subjected it, in hope |
註解: 私訳「蓋し被造物は自ら好んでにあらず、服せしめ給う者の故に、虚無に服せしめられたり」被造物が今日の如く虚しくして破壊と滅亡に向って進みつつある所以は自ら好んで然るに非ず、神が人類の罪を審きし結果、人類の罪に汚されし自然界も自然こうした状態に入れられたのである。
辞解
[虚無] mataios は結果を生ぜざる事、即ち神の栄光となるべきはずの被造物が滅亡の奴隷となっている事。
[服せしめ給いし者] 「神」の外に「アダム」又は「サタン」と解する説あれど採らない。
8章21節 [
口語訳 | かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。 |
塚本訳 | 創造物自身も、滅亡の奴隷になっている(現在の)状態から自由にされて、神の子供たちがうける栄光と自由とにあずかるのだから。 |
前田訳 | そこに望みがあります。被造物自身も滅びの奴隷状態から解放されて、神の子らの栄光の自由を与えられようからです。 |
新共同 | つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 |
NIV | that the creation itself will be liberated from its bondage to decay and brought into the glorious freedom of the children of God. |
註解: 前節「虚無に服せしめられたり」を形容する1節で前節と合せて「造られたるものの虚無に服せしは已が願によるに非ず(▲服せしめ給う者(即ち神)の故にして)、造られたる物も滅亡の僕たる状より解かれて神の子たちの光栄の自由に入るべきが故に希望を以て虚無に服せしめられたる故なり」と読むべきで(B1、G1、A1)、被造物が虚しきに服せしめられし時も尚恢復の希望を失わざりし事を示すものと解す(改訳本文はこの解釈によれるもの)。19節の説明 gar としてはかく解するを可とす。被造物がその不完全さに呻きつつあるとは云え、これは決して絶望的ではない。
辞解
[滅亡の僕] 「腐朽の奴隷」で「光栄の自由」と同様、腐朽、光栄等は奴隷自由の性質内容をなす。本節は又前節「服せしめ給いしもの」を形容する一節として「……の自由に入れらるべき希望をいだきて服せしめ給いしものにより、虚無に服せしめられたるなり」と読む説あり(M0、I0、E0、Z0)。これによれば神は被造物を虚無に服せしめ給うたけれども、彼はやがてこの被造物も再び神の子の栄光に相応わしき自由を獲得するであろうとの希望をいだきつつこれ為し給うた事を示すと解す。近来の通説なれども採らない。雙方とも非難の余地があるけれども、これより以上の読み方は見当らない。
8章22節
口語訳 | 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。 |
塚本訳 | わたし達が知っているように、全創造物は(かの日から)今まで、一しょになって呻き、一しょになって産みの苦しみをしている。(父なる神がこの 呻きに耳を傾けられないことがあろうか。) |
前田訳 | われらは知っています、全被造物が今にいたるまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしていることを。 |
新共同 | 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 |
NIV | We know that the whole creation has been groaning as in the pains of childbirth right up to the present time. |
註解: 自然は一見美わしい、併しその美わしさの中に非常なる不完全さがある。この不完全さを洞察するの明あるものは、その処に自然界の凡てのものが声を合せて呻吟叫喚 しつつあるのを聴く事が出来る。而してかかる悲嘆と苦闘がある所以はやがてそれより救わるべき希望の存する証拠であると考える事が出来、パウロは実際かく信じた。これ本節が前節の「希望」を証明する理由 garたる所以である。
辞解
[われらは知る] パウロは自然界を観察するならば何人もこれを知る事を得るものと信じていた。
[ともに苦しむ] synôdinô は出産の苦痛に用うる語で、やがて生れ出づべき新天新地が苦悶しつつあるこの被造物の胎内にあるが如き言表わし方である。
[今に至るまで] アダムの堕落より自然界の上に詛 が来てより今に至るまで、併しやがてはこの苦悶は解消するであろうとの意あり。
8章23節
口語訳 | それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。 |
塚本訳 | しかし(苦しんでいるのは)創造物だけではない。わたし達自身も、(神の子にされた証拠として)御霊なる初穂を持っているので、このわたし達自身も、自分(のみじめな姿)をかえりみて、呻きながら、(正式に神の)子にされること、すなわちわたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、待っているのである。 |
前田訳 | そればかりでなく、霊の初穂を持つわれら自身も、顧みてうめき、子とされることを、すなわちわれらの体のあがなわれることを待っています。 |
新共同 | 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 |
NIV | Not only so, but we ourselves, who have the firstfruits of the Spirit, groan inwardly as we wait eagerly for our adoption as sons, the redemption of our bodies. |
註解: 本節より25節までは基督者のうめき。基督者の苦悶は心に既に御霊の初の実を有つにも関わらず、その体の不完全なるが為に御霊と肉との闘が終焉 しないからである。故に基督者にすらも決して苦闘なきにあらず、否却て心中耐えがたき悲嘆をいだきてキリストの再臨の時を待望んで居る。その時至れば彼らはその子たる身分が実現し、体は新しき霊の体(Tコリ15:42-49)に復活し、又は化せられて(Tコリ15:52、Tテサ4:17)何等の苦闘なき永遠の栄光に入る事が出来る。
辞解
[御霊の初の実] この世に於て基督者は御霊の全収穫を得る事が出来ない。併しその初の実は他の被造物は所有せず基督者のみの所有する処である。
[子とせられん事] 既に15節に於て子とせられたる者の霊を有つ事を云っているのは内面的霊的意義であり、これが完全に実現するのはキリスト再臨の時である。
[体の贖われん事] この体は滅亡の奴隷であり、復活栄化によりてこの滅亡の状態より贖い出される。
[待つ] apekdechomai で19節の場合と同じく「遠方より差出す人の手より受取る」貌。
口語訳 | わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。 |
塚本訳 | なぜなら、わたし達は(最後の日に救いが完成されるという)望みをもって、救われているからである。目に見ることのできる望みは望みではない。人はいま現に見ているものを、なんでその上望む必要があろうか。 |
前田訳 | われらはこの望みのゆえに救われているからです。見える望みは望みではありません。見えるものを、そのうえ何で望みましょう。 |
新共同 | わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 |
NIV | For in this hope we were saved. But hope that is seen is no hope at all. Who hopes for what he already has? |
註解: 「望によりて」は救われしものの状態を云うので(B1、M0、G1)希望に生きるものとして救われた事を示す、救われるのは信仰による事勿論である。
註解: 眼に見ゆるもの、現に自已の現実所有に帰しているものは「希望」と称する事が出来ない。希望は将来に関するものであって、現実の所有となったものに対しては最早や希望は成立し得ない。基督者の救は内面的意味に於ては既に現在の所有であるけれども、その外部的完成の意味に於いては未来の希望に属する。
8章25節
口語訳 | もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。 |
塚本訳 | しかしわたし達が見ていないものを望むとすれば、忍耐をもって待たねばならない。 |
前田訳 | われらに見えぬものを望む以上、忍耐して待つのです。 |
新共同 | わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 |
NIV | But if we hope for what we do not yet have, we wait for it patiently. |
註解: 基督者はキリスト再臨の時に顕るべき体の贖 を待ち、見ずしてこれを望む者である。この輝く希望に生くるが故に如何なる苦難の下にも、叉如何なる不完全さの下にも忍耐して、この希望の実現すべき日を待つものである。
辞解
[忍耐] hupomonê 重荷の下に耐える事。
要義1 [被造物の嘆き] 『人は天然の美を語る、然れども美は僅にその表面に止まる、一歩その裏面に入れば天然は美に非ずして醜である。調和に非ずして混乱である。平和に非ずして戦争である。夏の野山に百花咲き競うの状は美くしけれども叢中 如何なる殺伐、如何なる敗壊 が演ぜられつつある乎を知るならば、詩人の心は恐怖に戦 慄 えて賛美の歌は絶えるであろう。蛇は蛙を呑まんとし、蛙は虫を食わんとし、虫は相互を殺さんとす、その蛇を狙う鷲がある、その鷲を狙う他の鳥がある、鶯 の声美わしと雖も蛇はその巣に侵入してその卵を呑まんとし、鷹はその雛と親鳥とを窺 いて巣中の団欒を毀 たんとす。伯労 の残酷なる、烏の陰険たる、杜鵙 の狡猾 なる、鳥類の常性を研究して見て、春の森、夏の林の決してエデンの園ではない事が判明 る、水中に於ても同じである、池に数尾のやつめうなぎがいれば他の魚類は腹部に穴を穿 たれ血を吸われて斃 れてその跡を絶つに至る、鰯や飛魚やさんまは鯨や海豚 の餌食となりて失するに対し、鯨や海豚 には叉これを攻撃する逆叉 (=シャチ)ありて彼らのこれを恐れるや甚だし、猫が鼠を弄 ぶの状 、いたちが雛を襲うの目的、無情を極め、残忍を極む、花咲く桜は美しくあれども、その若葉を食う虫は見るさえ恐ろしく松食う虫、稲を枯らす微菌数うるにいとまがない、まことに耳を地につけて聞けば天然の呻吟 の声が聞える、曰く「我は痛む、我は苦しむ人の子よ、早く救われて、汝と共に我を救えよ、我は敗壊 の奴隷たるに堪えず、汝と共に神の子たちの栄なる自由に入らんことを願う」と、天然は人と共に呪われ、彼と共に縛られて共に解放を叫びつつある。』(内村鑑三全集、第6巻623、624頁)
人類社会も亦この呻吟 を発している。有史以来人類の希 うところは人と人、階級と階級、国と国との平和であった、併し乍ら事実は正にその正反対であり、不可抗的の力を以て迫り来る自己保存の慾求の為に遂には互に相食 み相殺戮するに至り、叉然せんとして互にその兵力を養いてこれに備えている、修羅の衢 を現出する戦時は勿論の事平和の時に於てさえもその平和の底に流れる争闘の潮流は不断に呻吟 を発してその苦悶より救われん事を切望しているのである。
自然を見、人生を見てこの呻吟 の声をきくを得ざる者は、未だ物の真相を洞見せざる者である。
要義2 [神の子たちの顕現―パウロの自然観] パウロは創3:17によりアダムの罪の為に土は人類に取りて詛 われたる存在となった事を主張する。自然界の主たるべく生れし人類(創1:28-30)が神に叛きて、神は人類と共に全世界を詛 の下に置き給うた、キリスト来り給いて救の約束は確実にせられ、聖霊を以てその保証を与えられたけれども(エペ1:14)、而もこの救は未だ実現しない。それ故にかくして詛 の下にある自然界の切望は詛 なき新天新地の復興であり、従って神に服 う神の子らの顕現とその支配とである。自然界はここに至りて始めてその目的に到達したのであり、それまでは呻吟 の中に居なければならない。
要義3 [基督教の来世的要素] 基督教の終局的帰結がキリストの再臨による万物の復興(黙21:1以下)と体の復活と、而して神の聖支配の完成とに在る事は聖書を一貫せる主張であって、これが即ち「希望」である。この来世的要素は聖書の中心的真理の一つであり、これを無視して聖書はその統一を失い支離滅裂となる。それ故に来世的要素を迷信視してこれを除かんとする基督教は、必然に基督教とは異る他の教となるを免れない。
8章26節
口語訳 | 御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。 |
塚本訳 | しかし(創造物やわたし達神の子が苦しんでいると)同じように、御霊も、弱いわたし達を助けてくださる。すなわち、(神のみ心にかなうには)どう何を祈るべきかわからないので、御霊自身が、無言の呻きをもって(わたし達の祈りを神に)執り成してくださるのである。 |
前田訳 | 同じように、霊もわれらの弱さを共に助けに来ます。何を祈ったらよいかわかりませんが、霊自身が口でいいえぬうめきをもってとりなされます。 |
新共同 | 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 |
NIV | In the same way, the Spirit helps us in our weakness. We do not know what we ought to pray for, but the Spirit himself intercedes for us with groans that words cannot express. |
註解: 26、27節は御霊のうめき。私訳「同様に御霊も亦共に我らの弱きを支え給う」基督者がその弱きのために心の中に嘆くと同様に御霊も亦これを見て無関心にいる事が出来ず、我らの霊的及び肉的弱さに対して我らと共にその重荷を分担し我らを援助し給う。それ故に23-25節に於ける我らの呻吟 は単に我らのみの呻吟 に終る事なく、御霊も共に呻吟 て、我らをして耐え易からしめ、我らの呻吟 が神に達する途を開き給う。
辞解
[助く] sunantilambanô は「共に、代わりに、取る」なる合成文字で重荷を代わりて分担する意。
註解: 私訳「我ら何を祈るが至当なりやを知らざれども……」弱きが故に我らの心は苦しみ悶え乱れて唯呻吟 くのみである。こうした場合神に対して何を祈るのが至当なりやをすら弁 える事が出来ないのが我らの心の姿である。併し乍らこうした場合、聖霊は我らをこうした状態に放置し給わず、我らを神に執成 して神の前に受納れられるように取計らい給う。但しこの聖霊の執成 しも、同様に「言い難きうめき」言語に絶せる呻吟 の形を以てなされるのであって、聖霊がかかる呻吟 を発する事により神は我らの弱さにも関らず、我らを子として受納れ給う。
辞解
[言ひ難き歎き] をTコリ12:10の異言と解する事は(Z0)適当ではない。「言ひ難き」は「言語に表わし得ざる」か又は「言語に表われざる」かにつき異解あり、雙方を含むと見るを可とす、神をアバ父と呼ぶ子たる者の御霊の呻吟 は言語を成さないけれども、神に通ずる力はある。
[執成 す] huperentunchanô 「(人の)為に(人に)代わりて(神に)逢う」の意。
8章27節 また[
口語訳 | そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。 |
塚本訳 | しかし(人の)心を見抜くお方[神]は、御霊が何を求めているか、すなわち、御霊が神の御心にかなうように聖徒たちのために執り成しておられることを、(もちろん)御存じである。 |
前田訳 | こころごころを見抜く方は霊の思いが何かをご存じです。霊が神に従って聖徒のためにとりなされるからです。 |
新共同 | 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 |
NIV | And he who searches our hearts knows the mind of the Spirit, because the Spirit intercedes for the saints in accordance with God's will. |
註解: 私訳「されど心を探り給う者は御霊の念の何たるかを知り給う。御霊は神に循 いて聖徒の為に執成 し給えばなり」聖霊の執成 は言語に表わし得ざるにも関らず(de)神は御霊の念の何たるかを知りて、その執成 を受け、やがて我らをこの苦悩呻吟 より救い出し給う。その故は聖霊の執成 が神の経綸に叶うものなるが故である。ここに神と聖霊との完全なる一致がある。
辞解
[心を極め給う者] 旧約聖書に於ても屡々 用いられる「神」の称呼、心中を洞察し給う者、表面(うわべ)を見給わぬ者は神である。
[執成 し給えばなり] を「執成 し給うことを知り給う」と訳すべしとの説あれど(Z0、M0、I0)適切でない(G1、A1)。
[神の御意に適いて] 直訳「神に循 いて」で御意に適うよりも一層広き意味を有す。
8章28節
口語訳 | 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。 |
塚本訳 | そればかりではない。(わたし達の救いは次のことからも確かである。)わたし達が知っているように、神を愛する者、すなわち(神の)計画に応じて召された者には、すべてのことが救いに役立つのである。 |
前田訳 | われらは知っています、神を愛するものには神が協力してすべてを善になさることを。彼らは聖旨に従って召されたものだからです。 |
新共同 | 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 |
NIV | And we know that in all things God works for the good of those who love him, who have been called according to his purpose. |
註解: 被造物のうめき即ち物質界人間界の不完全さ、基督者の肉の重荷等による苦悩(18-25節)は一見人生を不幸の中に幽閉するが如くに見えるけれども、基督者に取りてはこれらの凡てが現世に於ても多くの益を与うるのみならず、結局彼らの救とその永遠の栄光を来らしむるの原因となる。
辞解
[神を愛する者] 基督者の称呼の一つと見る事を得、「御旨によりて召されたる者」も同様である。前者は基督者の神に対する心を主とし、後者はかかる基督者も自己の能力によりて神を愛する事が出来るに至ったのではなく、神の預め定め給える計画に従って召された為である事を示す。
[御旨] prothesis は「前以て計画する事」。
[相働きて] 「相共に働きて」で共力する事。異本に「神は凡ての事を相共に働かしめて」とあり、▲口語訳はこの異本に由ったのであろう。
[益となる] 「善の為に」でここで善とは日常生活の幸福利便等よりも(これらを除外する要はないが)更に大なる至上善、即ち神の御旨の完成による永遠の救、天国の栄光を指している事は次の29、30節によりて明らかである。
8章29節 (
口語訳 | 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。 |
塚本訳 | というのは、神は(世の始まる前に)あらかじめお選びになった人たちをば御子(キリスト)と同じ姿にすることを、あらかじめお定めになったからである。──これは(こうして出来た)多くの兄弟たちの中で、彼を長男にするためである。── |
前田訳 | あらかじめご存じのものを、み子と像(かたち)を同じくするよう神は予定されました。これはみ子が多くの兄弟の長子になられるためです。 |
新共同 | 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 |
NIV | For those God foreknew he also predestined to be conformed to the likeness of his Son, that he might be the firstborn among many brothers. |
註解: 前節の理由を示す。即ち如何なる苦悩も皆信ずる者に善を来らしむる所以は、神がその救を実現せんための手段としてこの弱さを用い給うからである。人の救は実に神のみの計画と働き、即ち予知と予定によるのであって、我らの努力や功績によるのではない。而して神は救われる者を御子キリストの像に似せん事を預定し、これを実現し給う(30節)。故に我らが救われるは神がこれを欲してかく計画し(28節)、かく預知し預定し実現し給うからであって、我らの価値の故ではない。
辞解
[預じめ知る] proginôskô は「知る」なる文字の聖書的用法の如く、神が特に注意をその上に注ぎ、その愛を以て顧み給う事を意味する(G1、I0)。出33:17。詩144:3。ホセ13:5。アモ3:2。マタ7:23。ロマ11:2。神に知られる者に信仰(G1)や愛(Z0)がありと見るの必要は無い。
[御子の像] 現在及将来の凡てを含む(Z0)、即ち現世に於てはイエスの如くに歩む者たらしめ、来るべき世に於て復活のキリストの如き栄光の中に入らしめんとする事、これを後者のみに限る(M0)必要はない。
[預じめ定める] proorizô 預定説に就てはロマ9:33附記參照。
これ
註解: 復活のキリストはやがて栄光の体に復活すべき凡ての基督者の長兄である。かくあらしむる事即ちキリストに栄光あらしめ、同時に多くの兄弟をも彼と共に栄光を受けしめんとする事が(17節)神の予知予定の目的である。「嫡子」の概念についてはコロ1:15、コロ1:18。黙1:4-5等参照。
8章30節
口語訳 | そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。 |
塚本訳 | そして(時が来ると)あらかじめお定めになった人たちを召し、お召しになった人たちを義とし、義とした人たちには栄光をお与えになるだろう。 |
前田訳 | これら予定されたものをばお召しにもなり、お召しのものをば義ともなさり、義となさったものをば栄化もなさいました。 |
新共同 | 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。 |
NIV | And those he predestined, he also called; those he called, he also justified; those he justified, he also glorified. |
註解: 原文の語声を損せずに私訳すれば「且預じめ定めたる者をば亦これを召し、召したる者をば亦これを義とし、而して義としたる者をば亦これに栄光を与え給えり」となる。神が如何にして人を救い給うかを録し、神これを為し給うが故に能わざる処なく、叉この救が人の価値如何によらざるが故に、確乎不動である事を示す。
辞解
[召す] 福音の宣伝による、而して召したる者には信仰を与えて(エペ2:8)、これを信仰によりて「義とし」神との間の正しき関係に入らしめ、聖霊を以てこれを潔め「而して遂に」 de この義としたる者には世の終に於て栄光を与え給う。「召し」「義とし」に不定過去動詞を用いているのは当然であるが、未来に与えらるべき栄光についても同様に「栄光を与え給えり」edoxase なる不定過去形を用いたる所以は種々に説明されているけれども、神の永遠の経綸を考えつつありしパウロは凡ての時を超越したのでありて、パウロが屡々 為す如くこの場合も未来の栄光を既に完成せるものとして見たからであろう。エペ2:6の如きもこれと同一の心持である。
要義1 [御霊の呻吟 ] 基督者には他人の与り知らざる歎きがある。心の奥底の見えざる罪、社会の底に流れる打勝ち難き罪の力、自然界を支配する矛盾と混乱、これらが基督者の耐え難き苦痛である。これ基督者の中に聖霊が宿っているからであって、御霊もこれに応じて苦しみ給いこれらの苦痛に関しその言い難き呻吟 をあげて神にせまるのである。これが基督者と神との間の執成 であって神の選び給える者にはこの苦痛も結局彼らに善を来らしむる結果となる所以はここに在る。基督者に特有のうめきは又彼らに特有の結果を持来らしめる事は当然である。
要義2 [基督者には凡ての事善となる] 最高の善は神の御旨の成る事である。それ故に現世に於ける凡ての困難、迫害、不幸は勿論被造物に纏綿 するあらゆる不完全さの呻 きも、結局に於て神の御旨が凡ての上に殊に彼を愛する者の上に行われる原因となる以上、これらも要するに最高の善を来らしむる原因であって、我らを絶望に陥らしむる如き事なく却てこれによリて益々勇気を得しむる事となる。
要義3 [神の独舞台 ] 天地は神の独舞台 であり、神のみその自由の意思を以て働き給う場所である事は天地創造の時以来永久に変りが無い。人類の救も亦同様唯神のみの働に帰すべきであって、これに対して人間は何等の共力をも為す事が出来ない。神は預知し、預定し、召し、義とし、而して栄光を与え給う。神の絶対主権であり神独一の世界である。人間は唯彼に対し絶対の服従より外に取るべき途はない。かくして凡ての栄光は神に帰せられなければならない。
要義4 [預知と預定に就て] ロマ9:33附記参照。
8章31節
口語訳 | それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。 |
塚本訳 | すると、それはどういうことになるのだろうか。──神がわたし達の味方である以上、だれがわたし達に敵対できるか。 |
前田訳 | それではわれらは何といいましょう。神がわれらの側ならば、だれがわれらに敵しましょう。 |
新共同 | では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 |
NIV | What, then, shall we say in response to this? If God is for us, who can be against us? |
註解: 31-34節に於てパウロは対句的語法を以て救の絶対性と確実性とを高調する。而して31-39節は恰も本書前半(1-8章)の結尾の如き形を呈している。本節はその総論の如きもの。神が我らの救の源泉であり又その創始者であり給う以上、我らの救は磐石の如くに確実である、この神との親しき結合がある以上、如何なる反対も恐れるに足らない。
辞解
[此等のこと] 神の救の預定と我らの現在の苦悩。
[何をか言はん] ロマ4:1。ロマ6:1。ロマ7:7の場合の如く反対諭を予想してにあらず。自ら反省して絶対的勝利なる事の確信を得、言語に表わし得ざる感謝と讃美が心に湧き出でた事を示す。
[「味方」「敵」] 原語は前置詞 pros と kata とを以て示す。
8章32節
口語訳 | ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。 |
塚本訳 | 御自分の子をさえなんの惜しげもなく、わたし達みんなのために死に引き渡されたその神が、どうしてそれと共に、すべてのものをも賜わらないことがあろうか。 |
前田訳 | おのがみ子を惜しまずにわれらすべてのために死に渡された方が、どうしてみ子といっしょに万物をわれらに恵まれないでしょうか。 |
新共同 | わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。 |
NIV | He who did not spare his own Son, but gave him up for us all--how will he not also, along with him, graciously give us all things? |
註解: 対句の第二。神の愛は無限であり、その独子をすら惜み給わない。この愛の神がその御子と共に万物を惜みなく与え給う事は当然である。故に貧困の中にある基督者も無限の富者である。
辞解
[御子] の場合は「惜まず」なる語を用い、「万物」の場合は「賜う」 charizomai 「惜みなく与う」なる文字を用いし事に注意せよ、御子と万物とは比較にならない程の価値の上下がある。
[我ら衆 ] この場合パウロは凡ての信者と云う意味に考えていたのであろう。
[之にそえて] 「彼と共に」。
[万物] 普通「救に必要なる凡ての物」と解せられているけれども(M0、G1、B1、I0)かく限る必要なく、基督者がキリストと共に被造物の王となり支配する事の思想を云えるものと解する事を得(ロマ5:17)。
8章33節
口語訳 | だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。 |
塚本訳 | だれが(わたし達)神の選ばれた者を告発することができるか。神が(裁判官として)“罪なしと宣告しておられるのに。” |
前田訳 | だれが神に選ばれたものを訴えましょう。義となさるものは神です。 |
新共同 | だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。 |
NIV | Who will bring any charge against those whom God has chosen? It is God who justifies. |
8章34節
口語訳 | だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。 |
塚本訳 | “だれが(わたし達を)罰することができるか。”キリスト・イエスが(わたし達の罪のために)死んで、それだけでなく復活して、いま神の右においでになって、わたし達のために執り成していてくださるのに。 |
前田訳 | だれが罰しましょう。なくなった方、否、むしろ復活された方であるキリスト・イエスが神の右にいまして、われらにとりなしもなさいます。 |
新共同 | だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 |
NIV | Who is he that condemns? Christ Jesus, who died--more than that, who was raised to life--is at the right hand of God and is also interceding for us. |
註解: 対句第三、第四。神が義とし給いキリストが執成 し給う以上何人も我らを訴える事が出来ず、又罪に定むる事が出来ない。否如何に訴え如何に罪に定むるとも全く無効である。我らの救はかくも確実である。
辞解
[訴える] 非難を向ける事。
[死にて甦えり給いし] 原文直訳「死に給いし者、而して甦えらせられ給いし者なるキリスト・イエス」で過去に於て我らの罪の為に死に、然も我らの義の為に甦り、現在も我らの為に執成 し給うキリストを意味す。
[神の右に在す] 宇宙の支配者の地位に立ち給う事、かかるキリストの執成 ある以上、我らを罪に定め得るものは無い。神すらこれを為し給う筈が無い。
附記 33-34節を改訳の如くに見る訳し方(G1,L1,C1)の外に次の如くに訳する事も出来る(A1,A2元訳)。「神の選び給える者を訴うる者は誰ぞ、義とし給う神か(そんな筈は無いとの意を含む)。罪に定むる者は誰ぞ、死して而も甦えり神の右に在して我らの為に執成 給うキリスト・イエスか(そんな筈はない)」35節の問と答とに比較してこの見方が優っていると思われるが、意味の上に大差はない、且つ近頃の通説ではない。尚32節以下の質問応答の連続はこの他にも二三の区分法あり(M0,B1,Z0)。
8章35節
口語訳 | だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。 |
塚本訳 | (このゆえに)だれがキリストの(わたし達を愛する)愛から、わたし達を引き離すことができるか。苦しみか、悩みか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。 |
前田訳 | だれがわれらをキリストの愛から離しましょう、苦難か、なやみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。 |
新共同 | だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。 |
NIV | Who shall separate us from the love of Christ? Shall trouble or hardship or persecution or famine or nakedness or danger or sword? |
註解: 対句の第五。たとい31-34節の如き大なる祝福が我ら基督者に臨むとも、若しキリストの愛より離れるならば、不幸の極である。併し乍らキリストの愛は強くして何物も我らをこの愛より離す程強くはない。我らのキリストに対する愛が強いのではなく、キリストの我らに対する愛が強いのである(Tヨハ4:10)。
辞解
[誰ぞ] と云いて「何ぞ」と云わない所以は、患難、迫害等々の陰に必ず人間的要素が働いているからである(B1)。
[患難] thlipsis 外部の事情より受くる困難。
[苦難] stenochôria は心中の苦悶。その他各種の危険はパウロ自身つぶさにこれを甞 めた(Uコリ11:23-28)。
8章36節
口語訳 | 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。 |
塚本訳 | こう書いてある。──“あなた[神]のためにわたし達は一日中死の危険にさらされている、わたし達は屠られる羊のように考えられた。” |
前田訳 | 聖書にあるように、あなた(神)のためわれらはひねもす死に、ほふられる羊と見られています。 |
新共同 | 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。 |
NIV | As it is written: "For your sake we face death all day long; we are considered as sheep to be slaughtered." |
註解: 迫害の中に苦悶しつつも而もエホバに依頼みて離れざるイスラエルの心を歌える詩44篇中よりその22節を引用せるもの(七十人訳より)基督者の実際も亦この詩に極めて類似していて前節後半の苦難は事実基督者の運命である。
8章37節 されど
口語訳 | しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。 |
塚本訳 | (もちろん、引き離すことのできるものはない。)そればかりか、わたし達を愛して(十字架につけられて)くださった方により、これらすべての(苦難の)中にあって、わたし達は悠々と勝つことができる。 |
前田訳 | しかしこれらすべてのうちにも、われらを愛された方によって、われらはかち得てあまりあります。 |
新共同 | しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 |
NIV | No, in all these things we are more than conquerors through him who loved us. |
註解: 35、36節の如き状態の中に在りて我ら自身の力はあまりに弱い、唯キリストのみ充分にこれに打勝つ力を我らに与え給う。これキリスト我らを愛し給い我らの中にそのカを以て働きかけ給うが故である。
辞解
[愛したまふ者] 不定過去形を用う、その受肉と受難にあらわれしイエス・キリストの愛を云えるもの。
[勝ち得て余あり] キリストの愛に生きる者の受くる力は無限である。
8章38節 われ
口語訳 | わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 |
塚本訳 | なぜなら、わたしは確信している、死でも命でも、天使でも支配(天使)でも、現在起こっていることでも将来起こることでも、権力(天使)でも、 |
前田訳 | わたしは確信します、死もいのちも、天使も司も、現状も未来も諸権力も、 |
新共同 | わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 |
NIV | For I am convinced that neither death nor life, neither angels nor demons, neither the present nor the future, nor any powers, |
8章39節
口語訳 | 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。 |
塚本訳 | 高い所のものでも低い所のものでも、その他どんな創造物でも、わたし達の主キリスト・イエスによる神の愛から、わたし達を引き離すことはできない。 |
前田訳 | 高きも低きも、そのほかいかなる被造物も、われらの主キリスト・イエスにある神の愛からわれらを離せないことを。 |
新共同 | 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 |
NIV | neither height nor depth, nor anything else in all creation, will be able to separate us from the love of God that is in Christ Jesus our Lord. |
註解: 如何なる困難も我らをキリストより離れしむる事を得ざるのみならず、天地万有何物も我らをキリストにある神の愛(キリストの愛となって顕われた神の愛)より離れしむる事が出来ない。神の愛は完全に絶対に我らを捕虜としているのである。これが地上に於て人間の到達し得る最高点である(B1)。
辞解
[死も生命も] 以下の列挙は、全体を併せて万ての被造物を網羅した事と解すべきである。即ち「死も生命も」は人間生活の全体を指し、「御使も権威ある者も」は天使の全体を代表し、「今ある者も後あらん者も」は時間の全体を指し(者は物とすべし)「力ある者も」は宇宙間の勢力を意味し、「高きも深きも」は空間の全体を指す、
[此の他の造られたる者も] (者は物とすべし)は我らの知り得る被造物以外の被造物を指す。
[キリスト・イエスにある神の愛] 35節「キリストの愛」と同一で、キリストの愛として顕われた神の愛を意味する。
要義1 [救の確実性] 救が若し我らの聖書知識、信仰的自覚、教会所属等に基礎を持つに過ぎないものであるならば極めて不確実なものである。然るに救は神にその凡ての基礎があるのであって、神が我らの味方に在し(31節)、我らに御子をすら与え給い(32節)、我らを義とし給い(33節)、イエス・キリストは我らの為に執成し給う(34節)事が我らの救である以上、我らの救は大磐石の上に立ちて如何なる風雨にも徴動だにしない。最早や我らを訴うる者、罪に定むる者、我らに敵する者は全く存在せず、我らをキリストの愛より離れしむる者は全宇宙の中に一も存在しない。これより以上に確実なる救は他に有り得ない。
要義2 [キリスト・イエスの愛に生くる事] 信仰の極致はキリスト・イエスの愛に生くる事である。若し他に如何なる理論的神學があり、神の預知と預定とがあり、神の為し給う救があっても、若し基督者なる者がキリストの愛に生き得ないものであったならば、その生活は無味乾燥である。パウロはロマ書1-8章に於て義とされる事、潔められる事、栄を賜わる事等の救の各方面を論じているけれども、その窮極はキリスト・イエスにある神の愛の中に生きる事より外に無かった。而してこの愛は無限に強大なるが故に如何なるものも如何なる力も我らをこの愛より離れしむる事が出来ない。この愛の捕虜が救われし基督者である。
要義3 [神の愛と神の賜物] 若し罪の赦し、罪の潔め、復活、栄化等の神の賜物のみに目を注ぎ、神の愛を忘却するならば、それは本末顛倒であって真の信仰ではなく一種の御利益的信仰に過ぎない。我らは賜物に目を留めるよりも神の愛に我らの全注意を注ぎその愛によりて動かされなければならない。神の愛、キリストの愛に感激せずして唯その結果なる賜物のみを喜ぶ如き信仰は利己主義の変形に過ぎない。
ロマ書第9章
3-(2) 全人類の救い
9:1 - 11:36
3-(2)-(1) 救は神の予定なり
9:1 - 9:26
3-(2)-(1)-(イ) パウロの愛国心
9:1 - 9:5
註解: 前章の終に救に関し大歓呼の声を挙げしパウロはここに顧みてその同族イスラエルの不信を思い、断腸の思に耐えなかった。神の約束が空に帰せしにあらずや、神の自由の選択は神に不義あるにあらずや、イスラエルは全く捨てられしに非ずや、全人類は果して救わるべきや等の問題がパウロの心に起った。パウロはこれに答えて、いや先にキリストを受納るべきイスラエルが彼を拒みし事は神の約束が虚しきに帰せしにあらず、イスラエルの不信による事、神は自由の選択により恩恵を与え給うとも
咎 むべきにあらざる事、イスラエルの中にも「残れる者」の存在する事、イスラエルはイエスに躓いたけれどもこれ恩恵が異邦人に向わんが為であり、かくしてイスラエルを励まして遂にイスラエルが全く救われるに至る事が神の驚くべき経綸である事を9-11章に於て論じている。この部分の中に預定の問題に関し叉選びの問題について論及しているけれどもパウロの目的はこの種の神学問題を思索せんとしたのではなく神の経綸に対してその驚嘆の声を揚げたのである。
口語訳 | わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。 |
塚本訳 | 私はキリストにある者として本当のことを言う、嘘はつかない。わたしの良心も聖霊によって、(それが本当であることを)保証してくれる。 |
前田訳 | わたしはキリストにあって真実をいい、うそはいいません。わが良心も聖霊によって証します。 |
新共同 | わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、 |
NIV | I speak the truth in Christ--I am not lying, my conscience confirms it in the Holy Spirit-- |
註解: 前章のパウロの歓喜に比して今より言わんとする事があまりに異様に聞えるので、パウロは先づ各方面よりの証しを加えてその言う処の真実なる事を証明している。
辞解
[キリストに在りて] キリストに対する信仰即ち霊の交の状態に於て
9章2節
口語訳 | すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。 |
塚本訳 | (わたしが急にこんなことを言い出したら信じてくれないかも知れないが、)わたしに大きな悲しみと、心に絶えざる痛みとがあるのである。 |
前田訳 | それはわが心に大きな悲しみと絶えぬ痛みがあることです。 |
新共同 | わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。 |
NIV | I have great sorrow and unceasing anguish in my heart. |
註解: パウロの心中には非常なる憂苦が充満していた、かく云うは決して誇張ではなく、パウロの良心も神より与えられし聖霊によりて働き、この事実の偽らざる事を証明する。「キリストに在りて」、「聖霊によりて」はパウロの信仰の働きを示し、「良心」は人間固有の心を指す。この凡てが一致している事はパウロの証言の全く偽らざる事実である事を示す。パウロはユダヤ人の目にはユダヤ人を愛せざる反逆者と見えた。故にかくの如く強き証明を必要とした。
9章3節 もし
口語訳 | 実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。 |
塚本訳 | ほんとうに、兄弟すなわち血を分けた同胞の(救われる)ためならば、このわたしは呪われて、救世主(の救い)から離れ落ちてもよいと、幾たび(神に)願ったことであろう。 |
前田訳 | 肉にある同族の兄弟たちのためならば、わたし自身は呪われてキリストから離れても、と祈りつづけました。 |
新共同 | わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。 |
NIV | For I could wish that I myself were cursed and cut off from Christ for the sake of my brothers, those of my own race, |
註解: 直訳「その故は我は肉による同族なる我が兄弟らの為とならば、我みづから詛 われるものとなりてキリストより離れん事を念願したればなり」これはパウロの仮定ではなくその真実の切願であった。パウロはその故国イスラエルを熱愛し、もしこれを救い得るならば死すとも恨みない心を持っていた。不思議にもこうした愛国者が却てイスラエルに迫害された。
辞解
[肉による同族] 霊のイスラエルと区別する為。
[詛 われて] 原語 anathema(ガラ1:8、辞解參照)。
[「ねがふ所なり」「念願したればなり」] 未完了過去形で、過去に於てこの状態が継続していた事を示す。単に「若しかかる事が出来るならば」左様にありたいと願っただけではなく、自己の救を全く無視して同族の救われん事を願った。救われし愛国者のなやみはここにある。
口語訳 | 彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、 |
塚本訳 | (言うまでもなく、)それはイスラエル人のことである。(彼らは神の)子たる身分(を与えられ、神の)栄光(はその中に住み、)かずかずの契約(は神との間に結ばれ、比類のない)律法、(荘厳な)礼拝、多くの(恩恵の)約束は、(ことごとく)彼らのものである。 |
前田訳 | 彼らはイスラエル人です。(神の)子の資格、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 |
新共同 | 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 |
NIV | the people of Israel. Theirs is the adoption as sons; theirs the divine glory, the covenants, the receiving of the law, the temple worship and the promises. |
註解: この語の中に次の六つの特権が予め包含している。
註解: イスラエルは神の初子と称せられた(出4:22。申14:1。ホセ11:1)但し新約に於ける場合の如き深き関係に至らず、その預表であった。
註解: エホバは屡々 その栄光をイスラエルに示し(出24:16。出29:43。引照3)給うた。
もろもろの
註解: アブラハムその他の族長たちにエホバは契約を為し給うた。
註解: 直訳「律法の授与と」シナイ山に於ける律法の授与を指す。
註解: レビ記に記載せられし如き神殿の礼拝。
もろもろの
註解: 神はイスラエルに対してその救ならびに種種の祝福を約束し、殊にメシヤを遣す事を約束し給うた。
口語訳 | また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。 |
塚本訳 | (また、アブラハム、イサク、ヤコブなどの偉大な)祖先たちは彼らのものであり、救世主も人間としては彼らから出られたのである。一切のものの上におられる神なる彼は、永遠に賛美すべきである、アーメン。 |
前田訳 | 父祖たちは彼らのもの、肉によればキリストも彼らの出です。彼は万物の上にいます神としてとこしえに讃むべきです。アーメン。 |
新共同 | 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。 |
NIV | Theirs are the patriarchs, and from them is traced the human ancestry of Christ, who is God over all, forever praised! Amen. |
註解: アブラハム、イサク、ヤコブを始めイスラエルの誇たりし多くの祖先も彼らに属している。
註解: 霊によれば神の子たりしキリストも肉によれば彼らの間より生れ給いし事(彼らのものなりとは云わない事に注意せよ)はイスラエルに取りて大なる光栄であった。
[キリストは]
註解: 肉によればイスラエルの中より出で給いしキリストに対するパウロの崇敬はそのままでは満足せず、ここにキリストの神に在し給う事、万物の上に在し給う事につき讃嘆の叫びを挙げた。これによりてイスラエルがこのキリストを信ぜざる罪悪が益々明瞭に示されている。
附言 この半節は古来神学論争の中心として多くの問題と多くの解釈とを提供した部分であって、或はこれを神に適用し「神は万物の上にありて讃むべき哉アーメン」と訳し(M0)又は「キリストは万物の上に在す。神は永遠に讃むべきかなアーメン」と読む説もある(エラスムス)。(▲口語訳及び RSV は此の訳し方に由ったものであるが、此の様な場合の原文の構造はルカ1:68、Uコリ1:3、エペ1:3、Tペテ1:3等が普通であり、本節の場合は之と異なる。)パウロ始め使徒時代には直接キリストを神と呼びし箇所は他に無いけれども、神として取扱う信仰は至る処に豊富であり(ヨハ1:1。ヨハ20:28。Tコリ8:6。コロ1:16、17。ピリ2:6等)、又「万物の上にあり」と云うも必ずしも神の上にある事を意味せず(Tコリ15:27。引照3)又かかるキリストを神に対すると同じ語を持て讃うる事は他に例がなくとも必ずしも差支えない。故にこれを神に対する頌栄と見るよりも、改訳の通りキリストに対する讃美と見るを可とする(B1、Z0、I0、G1)。文法上、及び前後の関係上より見るもこの見方が最も有利なる立場にある。
口語訳 | しかし、神の言が無効になったというわけではない。なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、 |
塚本訳 | (ところがイスラエル人は、この約束の成就であるイエス・キリストを十字架につけて殺してしまった。)しかしこれは、神の(約束の)言葉が反故になったなどというのでは決してない。なぜなら、(祖先)イスラエル[ヤコブ]から出た者が皆、イスラエル人だという訳ではないからである。 |
前田訳 | しかし神のことばが廃ったわけではありません。イスラエルの出が皆イスラエル人ではなく、 |
新共同 | ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、 |
NIV | It is not as though God's word had failed. For not all who are descended from Israel are Israel. |
註解: 「イスラエルの救を神は約束し給いしに関らず、若しそのイスラエルの中から救われない人々が出ると云うならば、神の言即神の約束が失墜した事になるではないか、神がその約束を破棄する如き事は有り得ない」と云うのがユダヤ人の方より起り得べき反対であった。パウロの唱うる如くイエスをキリストと信ぜざるユダヤ人は果して滅ぶるだろうか、又はその反対に神の約束が成就してユダヤ人はキリストを信ぜずとも皆救われるであろうかが問題である。これに対するパウロの答が本節より11章の終に至る文章である。パウロが6-13節に言わんとする処は、たといイスラエルの中に不信仰によりて滅ぶる者ありとも、それは神がその約束を無にし給うたのではないと云う事である。
辞解
[廃 りたるに非ず] 原文翻訳上の問題多き箇所であるが大体の意味は「失墜したなどと云う様な事では無い」との意。
[それ] 「併し乍ら」
イスラエルより
註解: アブラハムの子孫である事、イスラエルの民籍に属する事のみを以て救が確実であると考える事は誤である。救われるのは真のイスラエル霊のイスラエル(ガラ6:16)のみである。
9章7節 また
口語訳 | また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえって「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。 |
塚本訳 | またアブラハムの子孫だからとて、それが皆その子供とはかぎらない。(その証拠には、神は女奴隷ハガルとの間のイシマエルを正当の子とみなさず、“正妻サラとの間の約束の子)イサクから生まれる者が、あなたの子孫となるべきである”と(仰せられたと聖書に)ある。 |
前田訳 | アブラハムの末が皆その子どもではありません。「あなたの末として召されるのはイサクの家系です」。 |
新共同 | また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」 |
NIV | Nor because they are his descendants are they all Abraham's children. On the contrary, "It is through Isaac that your offspring will be reckoned." |
註解: 神の約束とこれに対する信仰により老年のアブラハムとサラの間に生れし子イサクは約束の子、ハガルとの間に肉体的原因のみによりて生れし子イシマエルは、同じくアブラハムの裔であるけれども肉の子である、前者は約束によるイスラエル即ち信仰によりて神の子とされる凡ての人を指し、後者は肉によるイスラエル即ち血統上イスラエルの民籍に属する自然人を指す。神の約束は実はこの前者を指したのである。
辞解
[イサクより出づる者云々] 創21:12の引用。原文「イサクに在りて」でイサクに連なるもの、即ちイサクと同一の関係に在るものの意味。約束による子孫を指す。
9章8節
口語訳 | すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。 |
塚本訳 | すなわち、(アブラハムの)血筋を引く子供が、当然に(彼の子孫として約束にあずかる)神の子供ではなく、約束の(言葉によって生まれた)子供(だけ)が、(彼の)子孫と見なされるのである。 |
前田訳 | すなわち肉の子どもが神の子どもではなく、約束の子どもが末と認められます。 |
新共同 | すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。 |
NIV | In other words, it is not the natural children who are God's children, but it is the children of the promise who are regarded as Abraham's offspring. |
註解: パウロは前節アブラハムの子を直ちに神の子と同視した(4節参照)。アブラハムの子即ちイスラエルは神の子である。但し前掲創21:12の如くこれは約束の子に限られて居り、肉の子は神の子の中に数えられない。
9章9節
口語訳 | 約束の言葉はこうである。「来年の今ごろ、わたしはまた来る。そして、サラに男子が与えられるであろう」。 |
塚本訳 | なぜなら、(イサクが生まれるについては、)次のような約束の言葉があるから。(“来年の)今ごろわたしは(また)来る。するとサラに息子ができる。”(こうしてイサクが生まれない前に、神は彼をアブラハムの正当の子孫と見なすことを約束された。) |
前田訳 | 約束のことばは、「この季節にまた来ましょう、そしてサラに息子ができるでしょう」です。 |
新共同 | 約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。 |
NIV | For this was how the promise was stated: "At the appointed time I will return, and Sarah will have a son." |
註解: かかる約束の故にイサクはアブラハムの裔、神の子と認められた。
辞解
引用は創18:10、創18:14の七十人訳よりの自由の引用。
9章10節
口語訳 | そればかりではなく、ひとりの人、すなわち、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリベカの場合も、また同様である。 |
塚本訳 | そればかりではない。(一人の女)リベカが、一人の男すなわちわたし達の祖先イサクによって孕んだ場合も、その一例である。 |
前田訳 | そればかりでなく、リベカもそうで、ひとりの男、すなわちわれらの先祖のイサクによって身ごもりました。 |
新共同 | それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。 |
NIV | Not only that, but Rebekah's children had one and the same father, our father Isaac. |
9章11節 その
口語訳 | まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、 |
塚本訳 | なぜか。(同じ父母から生まれた二子であるのに、弟ヤコブの方が、兄エサウを差し置いて相続人になったのである。すなわち)二人がまだ生まれず、(従って)なんの善いことも悪いこともしない先に、──これは、神の選びの計画は不動であり、 |
前田訳 | ふたりがまだ生まれず、善も悪もしないうちに、神の選びによる予定は変わらず、 |
新共同 | -12その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。 |
NIV | Yet, before the twins were born or had done anything good or bad--in order that God's purpose in election might stand: |
辞解
[▲動かず] menô は「止まる」「存続する」の意。要義3参照。
9章12節
口語訳 | わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。 |
塚本訳 | (人の)行いによらず、召されるお方(の御心)による(ことを示す)ためであったが──“兄は弟に仕える”と神はリベカに言われた。 |
前田訳 | それが(人の)行ないによらずお召しになる方によるようにと、「兄は弟に仕える」とリベカにいわれました。 |
新共同 | |
NIV | not by works but by him who calls--she was told, "The older will serve the younger." |
9章13節 『われヤコブを
口語訳 | 「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである。 |
塚本訳 | (そして預言どおりにヤコブが選ばれた。)“わたしはヤコブを愛したが、エサウを憎んだ”と書いてあるとおりである。 |
前田訳 | 「わたしはヤコブを愛したがエサウを憎んだ」と聖書にあるとおりです。 |
新共同 | 「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。 |
NIV | Just as it is written: "Jacob I loved, but Esau I hated." |
註解:曩 にイサクとイシマエルの異母兄弟の例を以て説明せるパウロは、更に進んでレベカの双生児の例を以て神の約束とその聖召の絶対なる事を示す。蓋しエサウとヤコブの場合に於ては父も母も同一であり、而も同時に胎内に宿り、且つ未だ生れず善も悪も行わざりし以前に、神は「兄は次弟に事うべし」なる約束を与え給うた。創25:23。而してこの神の言が成就して遂にヤコブが長子の権を獲得するに至った事は唯神の召以外に全く理由が無い。それ故に真のイスラエルは、イシマエルの場合の如く肉による誕生によらず、又レベカの二子の場合の如く行為の善悪にもよらず、凡て神の約束とその聖召のみによりて定まる。神がエサウとヤコブの行為を預知し給いしや否やの間題はここでは考えられていない。たとい予知し給うともこれが予定の原因とはされていない。尚創25章-27章等参照。
辞解
[神の選の御旨] 直訳「選による神の予定計画」で選びを内容とする神の経綸の事。
[『兄は次弟に事うべし』] 「兄」、「弟」は「大」、「小」なる文字を用う。原文創25:23の場合は二つの国民をも共に指す故にこの文字は適切であったが、併しこれを兄弟に用うるとも誤ではない。且つ民族をその代表者と同視する場合は旧約聖書に多い。創27:28以下、創27:39以下。創49章のヤコブの祝福。
要義1 [肉のイスラエルと霊のイスラエル] 肉によるアブラハムの子孫は肉によるイスラエル、信仰によるアブラハムの子孫は霊のイスラエルである。前者に属する者にして後者の中に入らざる者あり、前者に属せざる異邦人にして後者に属する者がある。神が肉によるイスラエルを選び別ち給いしは彼らのみを救わん為にあらずして、彼らによって全人類を救わんが為であった。故に若し彼らの中に不信なる者があるならば神はこれを棄て給う。かくして真のイスラエルを形成し給う。
要義2 [肉によるイスラエルの栄光] 以上の如くなるにも関らず、肉によるイスラエルの聖別は全く無意義ではなく、神は彼らにこのような重大なる使命を負わしめ給いしが故に、彼らに多くの栄光を与え給うた。4、5節はその栄光、特権の列挙である。今日もユダヤ人は人種として異常なる能力を有する事、又一民族として不思議なる存在をつづけている事は、その処に神の特別の御手が加えられている証拠である。
要義3 [神の約束は廃る事なし] 若し神の言、神の約束が朝令暮改何等永続的権威が無いものであるならば我らは彼を信ずる事が出来ない。イスラエルがその神に対する信仰は「神の言は廃る事が無い」との信念に基いていた(民23:19)。同様に基督者の信仰も神の新しき約束(新約)に対する信仰である。神の人格に対する信頼は、当然にその御言に対する信頼となる。
9章14節 さらば
口語訳 | では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。 |
塚本訳 | するとどういうことになるのだろうか。神に不公平でもあるのか。もちろん、そんなことはない。 |
前田訳 | それならわれらは何といいましょう。神に不義がありますか。断じて否です。 |
新共同 | では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。 |
NIV | What then shall we say? Is God unjust? Not at all! |
註解: 私訳「神に於て不義あるに非ずや」。何らの理由なしにヤコブを愛しエサウを憎み給う神は義しい神と云う事が出来ぬではないかと云うのがイスラエル人がパウロの前述の議論に対して提出する反対論である。而してパウロは次に聖書によりてこれを反駁 しているのは聖書はユダヤ人の経典として彼らもこれに反対し得ないからである。
9章15節 モーセに
口語訳 | 神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。 |
塚本訳 | その証拠には、神は(かつて)モーセにこう言われている、“わたしは憐れみたい者を憐れみ、慈悲をほどこしたい者に慈悲をほどこす”と。 |
前田訳 | モーセにいわれています、「わたしはあわれみたいものをあわれみ、いつくしみたいものをいつくしむ」と。 |
新共同 | 神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。 |
NIV | For he says to Moses, "I will have mercy on whom I have mercy, and I will have compassion on whom I have compassion." |
註解: 神が憐憫 と慈悲とを施し給う事は人間の価値や功績に対してこれを為すのではなく神の絶対の自由意思を以てその欲するままにこれを行い給う。恰 も出33:19に神がモーセに言い給いしが如くである。一方神の愛とその全智全能とを信じ、他方人間の罪の深さを知る者に取りては、この神の自由の恩恵に漏れる事あるもこれに対して異議を挿 む事が出来ない。唯神の為し給う事は皆義しとしてその前に平伏すだけである。
辞解
[憐む] eleeô は他人の苦痛に対する憐憫の情で、それが行為に表われるものを云い、
[慈悲を施す] oikteirô は内的の同情心が心を支配している事。
9章16節 されば
口語訳 | ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。 |
塚本訳 | 従って(憐れみも慈悲も、)それは(人間の)願望にも努力にもよらず、ただ神の憐れみによるのである。 |
前田訳 | それゆえ、それは人の意欲や努力によらず、神のあわれみによります、 |
新共同 | 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。 |
NIV | It does not, therefore, depend on man's desire or effort, but on God's mercy. |
註解: 神の憐憫 は人間の意思による要求や、行為に対する報賞として与えられるものではなく、唯神の自由の決定による。人間の方よりは如何なる理由の下にもこれを要求する権利はなく、神の方にはこれを与えなければならない義務はない。唯神の自由の恩恵による。
辞解
[欲する] 意思、
[走る] 行為を意味す。
9章17節 パロにつきて
口語訳 | 聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。 |
塚本訳 | (反対に、憐れみを奪われる場合も同じである。)現に聖書は、パロ[エジプト王]にこう(神が仰せられたと)言っているではないか、”わたしがあなたを(王として)立てたのは、(あなたの心を頑固にして私の命令にそむかせ、)あなたによってわたしの力を示すため、また、わたしの名が全世界に知れわたるため、ただそのためであった”と。 |
前田訳 | 聖書はパロにこういいます、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわが力を示すため、またわが名が全地に伝わるためにほかならない」と。 |
新共同 | 聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。 |
NIV | For the Scripture says to Pharaoh: "I raised you up for this very purpose, that I might display my power in you and that my name might be proclaimed in all the earth." |
註解: エジプト王パロを起してモーセに反対せしめ、イスラエルの上にその圧迫を増加えしめしは、実は神の為し給える事であり、パロは知らずして神の手先となり神の目的の為に働いたのであった。而して神の目的はパロの反抗と圧迫とを逆用して神の力を示し神の名の全世界に伝えられん事であり、而してこの計画はイスラエルのエジプト脱出の歴史によりて実現した。
辞解
[聖書に言ひ給ふ] 直訳「聖書は言う」この引用は出9:16の七十人訳をパウロは稍 変更して本節の意味に適当なる文字を用いしもの(「起し」)。
9章18節 されば
口語訳 | だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。 |
塚本訳 | 従って神は思うままに、ある人を憐れみ、ある人を、”頑固にされる”(ことは明らかである。) |
前田訳 | したがって神は思うままにあわれみ、思うままに頑になさいます。 |
新共同 | このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。 |
NIV | Therefore God has mercy on whom he wants to have mercy, and he hardens whom he wants to harden. |
註解: 神は凡ての事をその御旨のままに、その欲する如くに自由に行い給う、神の絶対主権はこれである。神が人の心を頑固にし給う如き事は有り得ざる事の如くに思われる為、この語を種種に解してその語勢を弱めんとする説あれど、パウロはここでは少しの割引もなき神の絶対の自由を主張したものと見なければならない。但し神がこの自由を不当に勝手気儘 に用い給わない事は、神の至善至聖至愛の性格より当然に生ずる結果である。故に我らは喜んで神にこの自由を帰し奉る事が出来る。
要義1 [神の選び] 神がある者を救に選び給えりとは同時に他にこの選に洩れて救われないものが有る事の結果となり随 ってこれを不公平として憤る者がある。併し乍ら若し(1)人間は凡てその罪の為に滅ぶる事が当然である事を思い、(2)叉選びに洩れし者はこれによりて死後に於ても励まされて、やがて叉救に入れられる機会となるべき事を思うならば、神の自由の選に対して敢て不平不満を持ち得ない筈 である。自己の罪に心砕かれし者、人間の如何なるものなるかを知れる者は神の自由の選びに対して何等の異議を挿 まない。義しきヨブに困難を与うるのも、義しからざるパロを頑固にするのも凡てエホバの御旨でありこれに対しヨブと共に「我知る汝は一切の事を為すを得給う」(ヨブ42:2)と云うべきである。
要義2 [神はその自由を濫用し給わない] 憐む事も頑固にする事も、選ぶも選ばざるも神の絶対自由なりと云う時は如何にも神は暴君の如くにその私意を恣 にし人間は一日として安らかにしている事が出来ないかの如くにも考えられるけれども然らず、恰 も日本の天皇が臣民の上に生殺与奪の権を有ち給うとも日本臣民は安んじて陛下の赤子たり得る(▲少なくとも1945年の敗戦迄は日本人は天皇をかく信頼していた事を脳中に置いて此の註解を理解されたし)と同じく、神はその至上権を必ず神の経綸に循 い、我らの善の為に用い給う事を信ずる事が出来る故、たとい神がその絶対の自由により、その欲するがままに或は憐み或は頑固にする事ありとも人はこれに対して少しも憂慮すべきではない。
要義3 [神の絶対権は至上善なり] 神は至聖至愛に在し且つ全智全能に在し給う。それ故にかかる神がその完き愛を用い完全なる知識を以て凡ての事を行い給う事は何よりも優れる善事である。人間は自己の願望を達せられる事を欲し、自己の努力の結果の顕われん事を要求するけれども、それにも優りてよき事は、神の御意のままが成就する事である。故に神がその憐まんとする者を憐み、頑固にせんとする者を頭固にし給う事は、最も善き事である。
9章19節 さらば
口語訳 | そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。 |
塚本訳 | するとあなたはわたしに(抗議して)言うにちがいない、それでは、なぜ神はなおも人を咎められるのか。(御自身が人の心を頑固にされるのなら、)だれも神の意志に逆らうことはできない訳ではないかと。 |
前田訳 | そこであなたはいうでしょう、「なぜ神はなおも人をおとがめですか、だれがみ心にさからえますか」と。 |
新共同 | ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。 |
NIV | One of you will say to me: "Then why does God still blame us? For who resists his will?" |
註解: 神はその欲するままに人を頑固にし給う以上、たとい我ら頑固となりても、我らには全く咎 なく責任がない、神の決意に反対する者は無い筈だから。これが人の心に自然に起って来る反対論である。
辞解
[御定 ] 意志の明かな決定。
[悖 る者あらん] を「悖 る事を得る者あらん」と解するの(G1)必要はない。悖 る者なきは悖 り得ざるが故なる事は当然であるから。
9章20節 ああ
口語訳 | ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。 |
塚本訳 | ああ人よ、いったい君は何者なれば、神に口答えをするのか。“作られたものが作った者に向かって、「なぜ“わたしをこんなものに造ったか」と言えるだろうか。” |
前田訳 | ああ人よ、神にいいさからうとはいったいあなたは何ものですか。造られたものが造ったものに、「なぜこのようにわたしを造ったか」といえましょうか。 |
新共同 | 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。 |
NIV | But who are you, O man, to talk back to God? "Shall what is formed say to him who formed it, `Why did you make me like this?'" |
註解: 神がその欲するままに人の心を頑固にし給いて而もこれを非難し給う事は不合理なりとの反対論(前節)に対するパウロの答弁である。即ち神が如何様に人間を用い給うとも人間は神に対して異議を申立てる事が出来ない。恰 も造られしもの(例えば家屋、陶器等)が造りたる者(例えば大工や陶工等)に対して異議を言うべきに非ざると同様である。神は凡てを已が栄光の為に用い給う。故に如何なる賤しき器として(例えばパロの如くに神の御計画に反する者として)用いられるも反対すべき理由はない。
辞解
[造られしもの(plasma)、造りたる者(plasantos)] 共に「形造る」意味で無より有を創造する意味ではない。従って本節の場合にも人間を善人又は悪人に創造れる意味ではなく、神が人間を如何なる使途に用い給うかについて諭じているのである。人間が既に己の罪により審かるべきものである以上は如何なる使途に当てられるも異議あるべき筈 はない。
9章21節
口語訳 | 陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。 |
塚本訳 | それとも、“陶器師には、”同じ“粘土”の塊で、一つは尊い用途の、一つは卑しい用途の器を造る権利がないのだろうか。 |
前田訳 | それとも、陶器師は、同じ粘土の塊からひとつを名誉への器、ひとつを不名誉への器にこしらえる権限を持ちませんか。 |
新共同 | 焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。 |
NIV | Does not the potter have the right to make out of the same lump of clay some pottery for noble purposes and some for common use? |
註解: イザ29:16。イザ45:9、10。エレ18:6等に現れている思想でユダヤ人は皆これを真理として受容れていた。即ち神が人間の上に絶対の権を有ち給う事は陶工が粘土の上に権を有つと同じである。同じ粘土を如何なる用途に向けようとも、それは陶工の自由であり、同じ人間を如何なる運命に向けようとも、それは神の権に属する自由である(ここにも神が人間を勝手に善き者と悪しき者とに造ると云う如き意味なき事に注意せよ)。
9章22節 もし
口語訳 | もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、 |
塚本訳 | それで、もし神が、(御自分の)怒りを示し御自分の力(の恐ろしさ)を知らせようとお思いになるので、(今日まで)いとも気長に、“滅びのために”つくられた”怒りの器[滅びる人]を辛抱された”とすれば、 |
前田訳 | もし神が怒りを示し、力を知らせようとお思いで、滅びのためにつくられた怒りの器を多くの寛容をもって忍ばれたとすると、 |
新共同 | 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、 |
NIV | What if God, choosing to show his wrath and make his power known, bore with great patience the objects of his wrath--prepared for destruction? |
註解: 「滅亡 に備 れる」を口語訳は「滅びる事になっている」と訳し、RSV は made for destruction と訳してあるが、之は原文の注意深さを無視した訳であり、其の結果所謂二重予定説 double predestination 又は宿命説 fatalism を主張する根拠となるが如くに解される嫌いがある。次節辞解及びロマ9:33附記参照。
9章23節 また
口語訳 | かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。 |
塚本訳 | またそれは、栄光のためにあらかじめ用意された憐れみの器[救われる人]に、御自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうだ。(かれこれ言うことはないではないか。) |
前田訳 | そしてそれは、栄光のためあらかじめそなえられたあわれみの器に、自らの豊かな栄光をお知らせになるためであったとすると、どうでしょう。 |
新共同 | それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。 |
NIV | What if he did this to make the riches of his glory known to the objects of his mercy, whom he prepared in advance for glory-- |
註解: 答えとして「汝らこれに対して何らの反対も為し得ざるに非ずや」と云う如き意味の語が当然として省略されている。パウロは前節の抽象論を具体的事実に応用し、一方にその罪の為に当然に亡ぶべき(滅亡に入るの条件が備れる)者即ち神の怒を受くべき器たる人々(パウロの眼中に異邦人と不信なるイスラエルとが在った)に対して、その怒と権力とを示すべき審判を行う事を忍びて、大なる寛容の心を示し給うたとすれば、それは神の自由であり、これに対して異議あるべき筈 が無い、又他方に神の予定と選びにより光栄を与うべく定め給いし憐憫 の器に対して神の栄光の豊かなる事を示さんとし給うとすれば、これも亦神の自由であって何人もこれに対して異議を挿むべきではない。
辞解
この二節は文章の構造不完全にして異訳多し、但し改訳本文の如く訳する事が最も適当なり。
[滅亡 に備 れる] 直訳「滅亡 には申し分なき」又は「滅亡 に備 え整いし」等の意味で神が滅亡 に備 え給いしとは云って居ない。 katartizô 「完備せしむる」なる文字の受動形を用いている。反対に[光栄のために預じめ備 え給いし] は proêtoimazô 「預め準備する」なる文字で、明かに「神」がその準備を為し給いし事を示している。この二者異る用語と時法と態とを用いている処にパウロの信仰の自然の発露があるのであって、パウロの心にはカルヴインの如く神がある人を滅亡 に預定し、滅亡に備 え給うたと云う如き思想が無い事を示している。尚マタ25:34とマタ25:41。使13:46と使13:48とを比較せよ。
9章24節 この
口語訳 | 神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。 |
塚本訳 | 神はこの憐れみの器としてわたし達をも召されたのである。ただユダヤ人の中からだけでなく、異教人の中からも。 |
前田訳 | 神はあわれみの器として、われらをもお召しでした。ユダヤ人からだけでなく、異邦人からもです。 |
新共同 | 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。 |
NIV | even us, whom he also called, not only from the Jews but also from the Gentiles? |
註解: 神は世の創の先 より教会をキリストの中に選び給い、ユダヤ人と異邦人との差別を超越してこれを憐憫 の器たらしめ給うた。かくの如く神はその絶対的自由をその憐憫 の故に、又その選びの故に用いて、或は忍び或は憐憫 給う事を知るならば、神の予定とその自由に対して我らは6節、14節、19節の如き非難を発する事は不可能である。且つこのパウロの思想は既に旧約聖書にも録されているのであって、決してパウロ一人の私見ではない。25-29はこの事を示す。
9章25節 ホゼヤの
口語訳 | それは、ホセアの書でも言われているとおりである、「わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。 |
塚本訳 | (異教人の中から憐れみの器が選ばれることは、不思議ではない。)神がホセア書でも言っておられるとおりである。“わたしはわたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されぬ者を愛される者と呼ぶであろう。” |
前田訳 | 「ホセア書」でもいわれています、「わが民でないものをわが民と呼び、愛されぬものを愛されるものと呼ぼう。 |
新共同 | ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。 |
NIV | As he says in Hosea: "I will call them `my people' who are not my people; and I will call her `my loved one' who is not my loved one," |
9章26節 「なんぢら
口語訳 | あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう」。 |
塚本訳 | “「あなた達は私の民でない」と言われたその場所で、彼らは生ける神の子と呼ばれるであろう。” |
前田訳 | あなた方はわが民でない、といわれたその場所で、彼らは生ける神の子と呼ばれよう」と。 |
新共同 | 『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」 |
NIV | and, "It will happen that in the very place where it was said to them, `You are not my people,' they will be called `sons of the living God.'" |
註解: 異邦人の中よりも召される者があるのは、恰 もホゼヤの預言(ホセ2:25及ホセ2:1)にある通り元来我が民ならざりし者(ロアンミ。ホセ1:9)即ち異邦人が我が民(アンミ。ホセ2:3)と呼ばれ元来愛せられざる者(ロルハマ)なる異邦人が愛せられる者(ルハマ)と呼ばれ、又異邦の土地即ち神の民の土地にあらざる処にて異邦人が神の子と呼ばれる事である。この預言は本来ホゼヤに対しイスラエルの十支族の不信とその回復とを示した預言であって直接に異邦人を指したのではないが、その偶像崇拝と不信の点は異邦人と異る事無き故これに応用する事が出来る。パウロはこれを異邦人信者の型と見る。
辞解
[ロルハマ、ロアンミ] ホゼヤの二子に名付けられた名称であった。
[言いし処にて] 原書はパレスチナを意味し、ここでは異邦を意味する。
9章27節 イザヤもイスラエルに
口語訳 | また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、「たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう。 |
塚本訳 | (預言者)イザヤもイスラエル人について叫んでいる。“たとえイスラエル[ヤコブ]の子孫の数は海の砂のように(多数)であろうとも、(信ずる少数の)残りの者(だけ)が救われる。 |
前田訳 | イザヤもイスラエルについて叫びます、「たとえイスラエルの子らの数が海の砂のようでも、残りのものだけが救われよう。 |
新共同 | また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。 |
NIV | Isaiah cries out concerning Israel: "Though the number of the Israelites be like the sand by the sea, only the remnant will be saved. |
9章28節
口語訳 | 主は、御言をきびしくまたすみやかに、地上になしとげられるであろう」。 |
塚本訳 | なぜなら主は(間もなく約束の)御言葉を完了し打ち切って、(裁きと救いとを)地上に実現されるからである。” |
前田訳 | 主はみことばをなしとげ、切りをつけて地に実現されようから」と。 |
新共同 | 主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」 |
NIV | For the Lord will carry out his sentence on earth with speed and finality." |
註解: (▲私訳「主は徹底的に且つ迅速に御言を地上に成し給うであろう」)前2節は異邦人のある者が救われる事に関し、この2節はイスラエルのある者が救より除かれる事に関する旧約聖書(イザ10:22、23)よりの引用である。イザヤは屡々 「残りの者」について預言し、滔々 たるイスラエルの不信の中に少数の信仰の遺残者を神は保存し給う事を告げた。この預言は神より示されしものである故に、イスラエルの中に救に漏れるものありともこれを怪しむに足りない。28節は主は完全に且つ速かにその御言(令旨 )を地上に実行し給う事を意味しイザヤが掲げし警世の叫びである。
辞解
[残の者] hupoleimma=the remnant 28節は七十人訳を幾分変更省略せる引用で、七十人訳は原典の誤訳である。
9章29節 また『
口語訳 | さらに、イザヤは預言した、「もし、万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになったであろう」。 |
塚本訳 | さらにイザヤは前もってこう言われている。“もし万軍の主がわたし達に(まことのイスラエルの)子孫を残されなかったなら、わたし達はソドムのようになりゴモラと同じになっ(て滅び)たにちがいない。” |
前田訳 | また、イザヤは預言しました、「もし万軍の主がわれらに末を残されなかったら、われらはソドムやゴモラと同じになったろう」と。 |
新共同 | それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、/わたしたちはソドムのようになり、/ゴモラのようにされたであろう。」 |
NIV | It is just as Isaiah said previously: "Unless the Lord Almighty had left us descendants, we would have become like Sodom, we would have been like Gomorrah." |
註解: 私訳「また昔、イザヤの云いし如く万軍の主……」。パウロはイザヤの言(イザ1:9)を自己の言として述べている。即ち神の特別の恩恵によりて「裔」即ち「残の者」を残されなかったならばイスラエルの運命は死海沿岸の罪悪の都ソドム、ゴモラの如くであろう。故にイスラエルの或者が救に漏れる事は決して怪しむべきではなく神の審判の当然の発露である。
辞解
[裔] 子孫即ち後継者でこの場合は「残の者」と同じ意味であるけれども、更に又子孫を残す意味に於て一層意味深き文字である。
9章30節
口語訳 | では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。 |
塚本訳 | すると、どういうことになるのだろうか。義を追い求めなかった異教人が(かえって)義を勝ち取った。すなわち(行いによらない)信仰による義である。 |
前田訳 | それなら何といいましょう。義を求めなかった異邦人が義、すなわち信仰による義を得ました。 |
新共同 | では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。 |
NIV | What then shall we say? That the Gentiles, who did not pursue righteousness, have obtained it, a righteousness that is by faith; |
註解: 6-29節の全体の思想及び議論を事実を以て要約すれば、次の如きもの(30-33節)となる。即ち異邦人は神の前に義とせられんとの熱望を以て義を追求しなかったけれども、福音を与えられ信仰に入る事によりて神の前に義とされるに至った。これは実に大なる事件である。
9章31節 イスラエルは
口語訳 | しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。 |
塚本訳 | 反対に、イスラエル人は義を約束する律法を(熱心に)追い求めたが、(ついに)律法に(よって義に)達することができなかったのであるが。 |
前田訳 | 反対に、イスラエルは義の律法を求めつつも律法に達しませんでした。 |
新共同 | しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。 |
NIV | but Israel, who pursued a law of righteousness, has not attained it. |
註解: イスラエルは神の前に義たり得る律法を成就せんとて努力したけれども、その律法に成功し得なかった。
9章32節
口語訳 | なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。 |
塚本訳 | なぜか。イスラエル人は信仰によってでなく行いによって(義とされ得るか)のように考え(て、追い求め)たからである。彼らは”躓きの石に“躓いた。 |
前田訳 | なぜですか。信仰によらず、行ないによって得られるごとくにしたからです。つまずきの石につまずいたのです。 |
新共同 | なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。 |
NIV | Why not? Because they pursued it not by faith but as if it were by works. They stumbled over the "stumbling stone." |
註解: イスラエルは求める心は熱心であったけれども、信仰によらなかった為に「躓く石」なるキリスト(イザ8:14。Tペテ2:8)に躓いた。行為によりて義を求める者は、自己の義を追求する。故に義なるキリストを主と仰ぎ彼を信ずる事が出来ない。
辞解
本節を「かれらは信仰によらず行為によりしが為に躓の石にきたる故なり」と読む節もある(G1)。
[躓く石] 次節を見よ
9章33節
口語訳 | 「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」と書いてあるとおりである。 |
塚本訳 | (聖書に)書いてあるとおりである。“見よ、”“躓きの石と邪魔の岩とを”“シオンに”置く、“これを信ずる者は恥をかかないであろう。” |
前田訳 | 聖書にあるとおりです、「見よ、シオンにつまずきの石とさまたげの岩を置く。これを信ずるものははずかしめられまい」と。 |
新共同 | 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。 |
NIV | As it is written: "See, I lay in Zion a stone that causes men to stumble and a rock that makes them fall, and the one who trusts in him will never be put to shame." |
註解: (▲「つまづく石さまたぐる岩」は「倒れの石、躓きの岩」と訳す方がよい様に思う。)イザ28:16及びイザ8:14 を混合して引用したるもの。本来はエホバを指して躓く石、さまたぐる岩と云ったのであるが、この当時及びその以後ともメシヤを指して石又は岩と称する場合多く(詩118:22以下。マタ21:42。マコ12:10。ルカ20:17。使4:11。エペ2:20。Tペテ2:4-6)、パウロは旧約のこの聖句をそのままキリストに応用している。イエスが人間であり、又安息日を無視し、祭司の族より生れず、律法を超越し、罪人遊女と交り、遂に十字架に釘けられ給うた等の事よりイスラエルは彼に蹟いた、けれども蹟く者は遂に倒れなければならない。唯彼に依頼む者のみ恥を被る事なく救を確保する事を得るに至る。
附記 [預定説に就て] ロマ9:6-29はエペ2:3-5。ロマ8:29その他多くの箇所と共に所謂預定説の根拠となる重要なる箇所である。預定説はこれを全く否定し去る時は聖書の多くの箇所に差支を生じ、叉これをあまりに過度に理論化する時は多くの忌むべき結論を生ずる。従って古来この説に関し多くの神学的叉は実際的間題を惹起した。詳細の議論はこれを教理史及び教理學に譲り、ここでは唯重要なる諸点を掲げる。以下の如くに解するならば、聖書の字句の解釈上にも、信仰の体験上にも叉人類史、教会史の事実上にも最も適応し得る事と思う。
(一)人類はアダムの罪により死と滅亡とに定められた。而してこの罪とその結果とはアダムの凡ての子孫に及ぶ、故に人類は神の預定によりて滅亡に定められたのではない(カルヴインの反対)。
(二)アダムは堕落以前は神を信ずる自由の意思を有っていたけれども、その堕落以後は彼及び彼の子孫は詛 われてその自由を失い、自己の意思を以て神を信ずる事が出来なくなった。即ち神を信ずるや否やの点については(対神関係に於ては)人は自由意思を失った(ルーテル)。
(三)我らに残存する自由の意思は自己の行為を選択するの自由に過ぎず、神を信ずる事は聖霊の助によるのであって自由の意思によりては不可能である(人は罪の奴隷である)。故に人間の有する自由意思は人を永遠の滅亡より救い出す事が出来ない。
(四)然のみならず人間の行為や努力即ちその功績も亦人をその滅亡より救うに足りない。要するに人間自身の中には救わるべき能力も価値も絶無である。
(五)それ故に若しこの滅ぶべき人類の中に救われる者がありとすれば、それは自己の価値やその自由意志によるのではなく神の預定とその選びによるのであって、神の自由の恩恵による。
(六)但しロマ9:6-29の問題はカルヴインの考うる如く神が「ある人々を救に預定し他の人々を滅亡に預定し給うた」事を論ぜんとしたのではなく、神が人を如何様に用い給うとも自由であり(兄エサウをヤコブに事えしむる事、モーセを憐 の器としパロを頑固ならしむる事、或器を貴きに用うる器とし他を賤しきに用うる器とする事、滅亡に定まれる者の滅亡を延期してこれを他を救う為に利用する事等凡て神が人を如何に用い給うかの問題である)、これに対して人類の側より異議を申立てる事が出来ない事が議論の中心点である。
(七)人間には多少の善悪があるとしても神の前には皆滅ぶべき罪人である。故にかかる者を神が如何様に利用し給うともそれは大問題ではない、必要により(ロマ9:17)パロを頑固にし給うとも、それはパロを滅亡に定めた事ではなく、当然亡ぶべき彼をある目的に利用し給うたに過ぎない。
(八)20節の「造り」が創造の意味ではなく製造の意味である事22節の「備れる」と23節の「備え給いし」とは別の文字を別の動態(Voice)に於て用いし事、17節、22、23節等が皆神の経綸が根本の動機である事等より見て、9:6-29の議論の主要点が神の経綸による人間の取扱方の変化と、神がかくこれを為し給う自由と及び人はこれに対して抗議し得ない事にあり、これより推論して神が自由に人を滅亡に定め、人はこれを如何とも為し難しと論ずるは推論の行き過ぎである、10章の信仰のすすめがこれを裏書する。
(九)神は人の功績や信仰を預知し給う。併しかくして預知せられし人間の功績や信仰が神の預定の原因ではない(その参考になる事はあるであろうが)。而して真の意味の行為、功績、信仰は凡て神の預定の選びの結果である。預知の意味につきてはロマ8:29辞解参照。
(十)神の自由の選びに漏れて滅亡に至る故に人はその不信仰に対して責任なきやと云うに、然らず、不信仰はアダム以来の人間の罪であって、神に定められて不信仰に陥ったのではない。故に神に対して責任がある。同様に選ばれて救われし者は自己の功績によるにあらざるが故に凡てが感謝と奉仕でなければならない。
尚ロマ9:18節以下の要義1、2、3をもここに併せて読むべし。