黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版第2コリント

第2コリント第1章

分類
1 挨拶 1:1 - 1:2

1章1節 (かみ)御意(みこころ)によりてイエス・キリストの使徒(しと)となれるパウロ(およ)兄弟(きゃうだい)テモテ、[引照]

口語訳神の御旨によりキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟テモテとから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。
塚本訳神の御心によってキリスト・イエスの使徒であるパウロと、(主にある)兄弟のテモテとから、コリントにある神の集会、および全アカヤ州にいる聖徒一同に、この手紙をおくる。
前田訳神のみ心によるキリスト・イエスの使徒パウロと兄弟テモテとから、コリントにある神の集会(エクレシア)とアカイア全体にあるすべての聖徒へ。
新共同神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。
NIVPaul, an apostle of Christ Jesus by the will of God, and Timothy our brother, To the church of God in Corinth, together with all the saints throughout Achaia:
註解: テモテはコリント前書においてはパウロよりコリントに遣わされし人であった、Tコリ4:17Tコリ16:10。この時再びパウロと共にいるのを見ればこの以前にパウロの許に帰り、今彼と共にマケドニヤを旅行中である事が解る。この二人が発信者であるけれども、勿論パウロがその中心であり、全書簡を通して主格が時に単数となり時に複数となっている

[(ふみ)を]コリントに()(かみ)教會(けうくわい)、ならびにアカヤ全國(ぜんこく)()(すべ)ての聖徒(せいと)に[(おく)る]。

註解: Tコリ1:1註参照。コリント教会を中心としてアカヤ全国(コリントはアカヤ洲の中心都市)に散在する諸教会の聖徒らが皆一団をなし、一の教会を実現していた美わしき当時を想像する事ができる。Tコリ1:2註参照

1章2節 (ねが)はくは(われ)らの(ちち)なる(かみ)および(しゅ)イエス・キリストより(たま)恩惠(めぐみ)平安(へいあん)(なんぢ)らに()らんことを。[引照]

口語訳わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
塚本訳わたし達の父なる神と主イエス・キリストとから、恩恵と平安、あなた達にあらんことを。
前田訳われらの父なる神と主イエス・キリストからの恩恵と平安があなた方にありますように。
新共同わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
NIVGrace and peace to you from God our Father and the Lord Jesus Christ.
註解: Tコリ1:3註参照

分類
2 讃美と感謝 1:3 - 1:11

1章3節 ()むべき(かな)[引照]

口語訳ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。
塚本訳讃美すべきかな、わたし達の主イエス・キリストの神また父、慈悲深い父、あらゆる慰めを賜わる神!
前田訳ほむべきはわれらの主イエス・キリストの父なる神、あわれみの父、すべての慰めの神。
新共同わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。
NIVPraise be to the God and Father of our Lord Jesus Christ, the Father of compassion and the God of all comfort,
註解: 旧約聖書のエレミヤ記及詩篇と共に、この書簡はその記者の情緒を吐露しているのであって、ここにも彼はエペ1:3のごとく讃美を以って本文を始めているけれども、その内容は自己の一身の患難とこれより救われし慰安とに関するものである点において特色がある

われらの(しゅ)イエス・キリストの(ちち)なる(かみ)(すなは)ちもろもろの慈悲(じひ)(ちち)一切(すべて)慰安(なぐさめ)(かみ)

註解: 1、2、3節共に神とキリストとの御名を呼べることに注意せよ、パウロの信仰にこの二つが如何に近き関係を()っているかが知られる。パウロは唯父の御名を呼ぶのみにて足らず、慈悲深き父として、また慰安に充てる神としての彼の御名を呼んだ。パウロに対して愛なき反対者の多きコリントの教会を思いて、彼は一層深く慈悲と慰安の父を心より呼び求めた事であろう

1章4節 われらを(すべ)ての患難(なやみ)のうちに(なぐさ)め、[引照]

口語訳神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。
塚本訳どんな苦難の時にもわたし達を慰めてくださる神、こうしてわたし達自身も神に慰めていただくその慰めをもって、どんな苦難の中にいる人たちをも慰めることが出来るのである。
前田訳神はどんな苦しみの中でもわれらを慰め、われら自身、神に慰められるその慰めによって、どんな苦しみにある人をも慰めうるようになさいます。
新共同神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
NIVwho comforts us in all our troubles, so that we can comfort those in any trouble with the comfort we ourselves have received from God.
註解: パウロは凡ての患難を体験していた、パウロの感謝は神がこの凡ての患難に就いて彼らを慰め給う事であった。患難の体験なき伝道者は不適当なる伝道者である、人は自己の経験せざる種類の患難に就いて他人を慰めることができない。凡ての患難を経験せる者は、凡ての人を凡ての場合に慰めることができる

我等(われら)をして(みづか)(かみ)(なぐさ)めらるる慰安(なぐさめ)をもて、諸般(もろもろ)患難(なやみ)()(もの)(なぐさ)むることを()しめ(たま)ふ。

註解: 患難の中に在りて神の愛が特に豊かに我らに注ぎ我らを慰め(ロマ5:3−5)、この慰めを以て他の人々を慰める事ができる。故にパウロは大胆にキリストの為に苦しむべき事を他人に薦める事ができ(ピリ4:14)、また己の受けし患難も、慰めも皆己の為のみならず全教会のためである事を思って感謝することができた。▲パウロはコリントの信者に(そむ)かれたのであったが、それでも彼らを恨まず、その患難を転じて祝福とする事ができた。

1章5節 そはキリストの苦難(くるしみ)われらに(あふ)るる(ごと)く、(われ)らの慰安(なぐさめ)(また)キリストによりて(あふ)るればなり。[引照]

口語訳それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。
塚本訳というのは、キリストの苦しまれた(苦しみをわたし達は共に苦しむので、その)苦しみがわたし達に満ちあふれるのと同じように、わたし達の慰めもキリストを通じて満ちあふれるからである。
前田訳それは、キリストの悩みがわれらにあふれるように、キリストによってわれらの慰めもあふれるからです。
新共同キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。
NIVFor just as the sufferings of Christ flow over into our lives, so also through Christ our comfort overflows.
註解: キリストはこの世において、愛の労苦と悪魔の試誘(こころみ)と祭司長学者パリサイ人らの迫害とに苦しみ給うた、故に我らキリストに連なる者もこの世において同一の運命に逢わなければならぬ(マタ22:22ヘブ13:13Tペテ4:13)。パウロやテモテは福音のために大なる苦難に遭遇した、是キリストの苦難が彼らに溢れたのである。しかしながらキリストは特にかかる者を憐み、聖霊を注ぎて彼らにその慰を溢れしめ給う。故にパウロが多くの苦難に遭っているのは、彼が真にキリストの使徒たるの証拠であって、反対者等が云うごとく偽の使徒たるの印ではない

1章6節 (われ)(あるひ)患難(なやみ)()くるも(なんぢ)らの慰安(なぐさめ)(すくひ)とのため、(あるひ)慰安(なぐさめ)()くるも(なんぢ)らの慰安(なぐさめ)(ため)にして、その慰安(なぐさめ)(なんぢ)らの(うち)(はたら)きて、(われ)らが()くる(ごと)苦難(くるしみ)(しの)ぶことを()しむるなり。[引照]

口語訳わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。
塚本訳(すなわち)わたし達が苦しめられるにしても、それはあなた達の慰めとなり救いとなるためであり、わたし達が慰めていただくにしても、それはあなた達の慰めとなるためであって、その慰めが働いて、わたし達がうけるのと同じ苦しみをあなた達は耐え忍ぶことが出来るのである。
前田訳われらが悩むなら、それはあなた方の慰めと救いのためです。われらが慰められるなら、それはあなた方の慰めのためです。その慰めはわれらも悩むのと同じ悩みに、あなた方が耐える力となるものです。
新共同わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。
NIVIf we are distressed, it is for your comfort and salvation; if we are comforted, it is for your comfort, which produces in you patient endurance of the same sufferings we suffer.
註解: (しか)のみならずキリストの苦難と慰安がパウロたちの苦難や慰安となると同じくパウロ等の患難と慰安はそのままコリントの信者の中に働くのである。基督者に患難は付き物である。故にこれを忍ぶ事ができなければならぬ、終り迄忍ぶ者は救われる。而して患難を忍び得るに至るには慰安が必要である。この救いと慰安とをコリントの信者に与うる事を得る様にパウロ自ら患難と慰安とを経験しているのである

1章7節 かくて(なんぢ)らが苦難(くるしみ)(あづか)るごとく、また慰安(なぐさめ)にも(あづか)ることを()れば、(なんぢ)らに(たい)する(われ)らの(のぞみ)(かた)し。[引照]

口語訳だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである。
塚本訳そしてあなた達に関するわたし達の希望は動揺しない。あなた達は苦しみを共にしてくれる者であると同じように、慰めをも共にする者であることを知っているからである。
前田訳われらのあなた方への希望は堅いものです。われらは、あなた方が悩みを共にするように慰めをも共にすることを知っているからです。
新共同あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。
NIVAnd our hope for you is firm, because we know that just as you share in our sufferings, so also you share in our comfort.
註解: コリントの信者がパウロと同じくキリストの苦難を共にし、またこれと同時にキリストによりて受くる慰安をも共にする事ができる以上、この点においてパウロ等と全く同じ立場にあるのであって、この事を知ってコリントの信者に関してパウロは満々たる希望を持つことができた。このコリントの信者の苦難が何か特別の歴史上のでき事であったかどうかは不明である、一般基督者の普通の患難であると見て差支えがない。
要義 [苦難とその慰め]3−7節の間に「慰安」「慰め」等の文字が11回記されている。パウロはアジアにおいて其の使徒たる職のために受けし苦難の中に、神より賜わりし慰安を思いて、益々使徒たるの責任を自覚し、而してコリントの信者とこの苦難と慰安とを共にする事ができる事に大なる望みを持ったのである。これによりてパウロはコリントの信者に対するその愛を表示し、全書簡を貫くパウロの心情の基調を示している。

1章8節 兄弟(きゃうだい)よ、(われ)らがアジヤにて()ひし患難(なやみ)(なんぢ)らの()らざるを(この)まず、[引照]

口語訳兄弟たちよ。わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、
塚本訳だから、兄弟たちよ、アジア(州)でわたし達が遇った苦難については、知らずにいてもらいたくない。わたし達は力に余るほどひどく圧迫されたので、生きることさえ望みがなくなった。
前田訳兄弟方、われらがアジアで会った苦しみについて、ぜひ知っていてください。われらは耐えられないほど度を越えて圧迫され、生きる望みさえ失いました。
新共同兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。
NIVWe do not want you to be uninformed, brothers, about the hardships we suffered in the province of Asia. We were under great pressure, far beyond our ability to endure, so that we despaired even of life.
註解: 原語の意味は「我がアジヤにて遭いし患難につき〔次の事を〕汝らの知らざるを好まず」である。コリントの人々はすでに患難そのものをば知っていた、唯その患難の大きさとその意義(8−11節)とを知らなかった。この患難の何であったかは明らかでは無いけれども、恐らく主としてエペソに於けるデメテリオの騒擾(そうじょう)事件(使19:23−41)に就いて云っているものと見るべきであろう

すなはち(あつ)せらるること(はなは)だしく、(ちから)()へがたくして、()くる(のぞみ)(うしな)ひ、

1章9節 (こころ)のうちに()()するに(いた)れり。[引照]

口語訳心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。
塚本訳ほんとうに、自分ではもはや自分に死の宣告を下していたのだ。これはわたし達が自分にたよるのではなく、死人を(も)生きかえらせる神にたよるためであった。
前田訳じつに、われら自ら死の宣告を受けたと感じました。それはわれら自らにでなく、死人を起こしたもう神に頼るものになるためでした。
新共同わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。
NIVIndeed, in our hearts we felt the sentence of death. But this happened that we might not rely on ourselves but on God, who raises the dead.
註解: 直訳「力以上に過度に圧迫せられ生命に絶望し、自ら心中に死の返答を持てり」。「力以上に過度に圧迫される事」は重過ぎる荷を負いて倒れて起つ(あた)わざる労働者、または荷が多過ぎて沈み行く船の(すがた)を形容し、これをパウロ等の心の状態に当てはめたのである。患難があまりに大きかったが為めに死を覚悟した程であった。
辞解
[死を期する] 原語「死の返答を持つ」すなわち心中に自問自答せる結果死より他になしとの答を得る事

これ(おのれ)(たの)まずして、死人(しにん)(よみが)へらせ(たま)(かみ)(たの)まん(ため)なり。

註解: この苦難を神が与え給える目的はパウロをして神のみを信ぜしめ、神以外の何物にも頼らざらしめんが為であった、而して死に直面せる場合に、何人も死人を甦えらする神より以外に頼むものは無い(ヘブ11:17−20)。しかしながらこの神を頼む事により完全に死に打勝つことができる(Tコリ15:54−57)。

1章10節 (かみ)()かる()より(われ)らを(すく)(たま)へり、また(すく)(たま)はん。[引照]

口語訳神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる。
塚本訳神はこんな恐ろしい死の淵から救いだしてくださった、今後も救ってくださる。今後もなお救われることと、わたし達は神に望みをかけてきた。
前田訳神はこのような死からわれらをお救い出しでした。これからもお救い出しになるでしょう。われらはなおも救い出したもう彼に望みをかけています。
新共同神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。
NIVHe has delivered us from such a deadly peril, and he will deliver us. On him we have set our hope that he will continue to deliver us,
註解: 「斯かる死」は原語「斯く大なる死」の意。パウロは彼の過去の救いを思いて将来の救いを確信している。彼と同じく一度この経験を与えられし者は幸である。霊的の死より救い出されし者もまたこの確信を()つ事ができる

(われ)らは(のち)もなほ(すく)(たま)はんことを(のぞ)みて(かみ)(たの)み、

註解: 直訳「後もなお救い給わん事の望を彼に置き」。神以外のものに望みを置くならば必ず失望に終るであろう。神に望みを置きて我らの救いは確実である、過去の事実がこれを証明している

1章11節 (なんぢ)らも(われ)らの(ため)(いのり)をもて(たす)く。[引照]

口語訳そして、あなたがたもまた祈をもって、ともどもに、わたしたちを助けてくれるであろう。これは多くの人々の願いによりわたしたちに賜わった恵みについて、多くの人が感謝をささげるようになるためである。
塚本訳このことについてはあなた達も、わたし達のために祈りをもって加勢してくれている。こうして多くの人(の祈り)によってわたし達にいただくこの(救の)賜物が、多くの人によってわたし達のために(神に)感謝されることになるのである。(神は一人でも多くの人の感謝をお喜びになる。)
前田訳それは、あなた方も祈りによってわれらのために協力しておいでだからです。そしてそれは、多くの人の祈りによってわれらに与えられた恵みについて、多くの人がわれらゆえに感謝するためです。
新共同あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。
NIVas you help us by your prayers. Then many will give thanks on our behalf for the gracious favor granted us in answer to the prayers of many.
註解: 「助く」は「従属して共に働く」Sunupourgeinの意でコリントの信者はパウロの下にあって祈を以て彼を助け支えている事を意味する。他人の為に祈る事の如何に有効であるかを示している

これ(おほ)くの(ひと)願望(ねがひ)によりて((われ)らに)(たま)はる恩惠(めぐみ)を((われ)らのために)、(おほ)くの(ひと)感謝(かんしゃ)するに(いた)らん(ため)なり。

註解: コリントの信者の加祷(かとう)によりて神より賜われる恩恵によりてパウロ、テモテ等はあらゆる困難を通過しその信仰を強くし福音を伝播した。かくして彼らの受けし困難はコリントの人々の加祷(かとう)によりて、パウロ等のみならずコリントの人々までも共に神に感謝する原因となったのである。ここに神の新しき摂理があり、ここにパウロが苦難と慰安のみならず、祈祷も感謝も皆これをコリントの教会と共にせん事を望んでいるその心情が明かに現れている。是れパウロの愛心の働きに外ならない。
要義 [苦難の意義]苦難は我らをして己を頼まず、神を頼むに至らしめる。而して神は苦難において我らを慰め、我らを苦難より救い給う、(しか)のみならず苦難において我らは多くの兄弟の祈祷によりて助けられ、かくして恩恵も感謝も皆これを兄弟姉妹と共に之を味わう事ができる。若し苦難が無かったならば神を頼む事もなく、神の救いを知らず、兄弟姉妹の愛を味わう事ができないであろう。パウロは其の絶大なる苦難を思いてこれを喜ぶ事ができた所以はここにある(ロマ5:3)。

分類
3 パウロの自己弁明(其の一) 1:12 - 7:16
3-1 大體の態度に就ての弁明 1:12 - 1:14

1章12節 われら()()りて(こと)(なんぢ)らに(たい)し、(かみ)清淨(きよき)眞實(まこと)とをもて、また(にく)智慧(ちゑ)によらず、(かみ)恩惠(めぐみ)によりて(おこな)ひし(こと)は、(われ)らの良心(りゃうしん)(あかし)する(ところ)にして、(われ)らの(ほこり)(は(これ))なり。[引照]

口語訳さて、わたしたちがこの世で、ことにあなたがたに対し、人間の知恵によってではなく神の恵みによって、神の神聖と真実とによって行動してきたことは、実にわたしたちの誇であって、良心のあかしするところである。
塚本訳ところで(こう言えば、パウロがまた自慢していると言われるかも知れないが、)わたし達の自慢は、と言えば、わたし達がこの世において、とくにあなた達に対して、神の聖潔と純真とで、人間的の知恵によらずに神の恩恵によって振舞ったことを、わたし達の良心が証明してくれることである。
前田訳われらの誇りとはこれです、すなわち、われらの良心が証するとおり、神の聖らかさと純粋さとにより、肉の知恵によらず、神の恩恵によって、この世でふるまい、あなた方に対してはなおさらそうであったことです。
新共同わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。
NIVNow this is our boast: Our conscience testifies that we have conducted ourselves in the world, and especially in our relations with you, in the holiness and sincerity that are from God. We have done so not according to worldly wisdom but according to God's grace.
註解: パウロの伝道に対して或は彼を以て使徒たる資格も価値もなしとなし、或は汚き偽の心よりまたはその狡智(こうち)を利用して利慾のために伝道するもののごとき非難が有ったのであろう。彼はこれに対して種々の方面よりこれを弁明しているのがコリント後書の全体の内容である。而してこの弁明は第8章第9章の施済(ほどこし)の問題が中間に介在してその前後に分れ1:12−7:16は自己の使徒職を中心とする弁明及希望であり、10:1−12:18はその使徒たる価値及び態度に対する弁明である。而して最後に12:19−13:10にこの弁明の理由を述べて本書を結んでいる。ここに1:12−14において彼はその大体の態度について弁明を試みているのであって、彼の良心は彼が神の聖潔hagiotêtiと真実とを己が心として何等の汚穢(けがれ)と虚偽とを心に蔵せずに行動した事、また自己の智慧によりて小賢(こざか)しき計画をする事無く、唯神の恩恵によりて動かされていた事を証する事、而してこれに就いて彼はコリントの信者に向って遠慮なしに誇る事ができる事を述べている。唯基督者も誇って差支無きやに就いては若し「(1)神に反抗し、自らに何等かの価値あるごとく思わないならば(2)また誇りを救いの基礎としないならば(3)また凡ての賜物を誇る事によりその施與(ほどこし)主なる神に榮を帰する事を忘れないならば、我らの善は善としてこれを誇る事ができる。」(C1)而して「誇り」kauchêma「誇る事」kauchêsisの語はコリント後書に最も多く用いられ、喜悦、満足「誇らしさ」等の心持を含める善き意味の誇である、ロマ1:30ロマ11:18Tコリ4章Tコリ5:2Tコリ13:4コロ2:18Uテモ3:2ヤコ3:14Uペテ2:18Tヨハ2:16ユダ1:16は日本改訳に「誇り」と訳せられているけれども原語には他の語を用いている悪しき意味の誇りである

1章13節 (われ)らの()(おく)ることは、(なんぢ)らの()むところ()(ところ)(ほか)ならず。[引照]

口語訳わたしたちが書いていることは、あなたがたが読んで理解できないことではない。それを完全に理解してくれるように、わたしは希望する。
塚本訳なぜなら、(敵対者はわたし達の手紙に裏表があると言うそうであるが、)わたし達が書くものは、あなた達が読みまた理解もするもの、それ以外ではない。しかしわたしが望むのは、あなた達が完全に理解してくれることである、
前田訳われらのお書きすることは、お読みのこと、あるいはご理解のことにほかなりませんが、わたしが望んでいるのは、
新共同-14わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。あなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから、わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。
NIVFor we do not write you anything you cannot read or understand. And I hope that,
註解: 「我らが汝らに贈る書簡も決して誇大の言を(ろう)するに非ず、また遠慮して控え目に言っているのでもない、文字通り正真正味である」と、パウロは主張しUコリ10:10のごとき非難を弁護している

1章14節 (しか)して(われ)(なんぢ)()のうち(ある)(もの)の[(すで)に]()れる(ごと)く、(われ)らの(しゅ)イエスの()(われ)らが(なんぢ)らの(ほこり)、なんぢらが(われ)らの(ほこり)たるを(をはり)まで()らんことを(のぞ)む。[引照]

口語訳すでにある程度わたしたちを理解してくれているとおり、わたしたちの主イエスの日には、あなたがたがわたしたちの誇であるように、わたしたちもあなたがたの誇なのである。
塚本訳あなた達がすでにわたし達を一部分は理解してくれたように。すなわちわたし達の主イエスの(来臨の)日には、あなた達がわたし達の名誉であるのと同じように、わたし達があなた達の名誉であることを、理解してくれることである。
前田訳あなた方が今、部分的にはご理解のように、われらの主イエスの日にあなた方がわれらの誇りであると同じく、われらがあなた方の誇りであることを完全にご理解になることです。
新共同
NIVas you have understood us in part, you will come to understand fully that you can boast of us just as we will boast of you in the day of the Lord Jesus.
註解: 汝らの中のある者が知っている通り「主イエスの日」すなわちキリスト再臨の日には、我が教によりて悔改めし汝らは我パウロの誇であり、我パウロが汝らに伝道せし事が汝らの誇であるであろう。この事を汝らは(すで)(ほぼ)知っているがなお世の「終りまで忘れずにいる事を希望する」と、パウロは云っている。その意味はコリントの教会の中にはパウロを非難して、これを排斥せんとする者が有ったのでその誤を正さんとしたのである。
辞解
[汝らのうち或者] の原語はUコリ2:5幾何(いくばく)か」のごとく「汝ら或程度迄」とも訳する事ができ、「すでに知れるごとく」は「我らを認めしごとく」と訳すべきである。

3-2 パウロの旅程変更に就ての弁明 1:15 - 1:24

1章15節 この確信(かくしん)をもて()(なんぢ)らに(いた)り、(ふたた)(えき)()させ、[引照]

口語訳この確信をもって、わたしたちはもう一度恵みを得させたいので、まずあなたがたの所に行き、
塚本訳(あなた達の理解があるという)この確信のもとに、わたしはこう決めた──まずあなた達の所に行ってあなた達が二度目の恩恵をいだくようにし、
前田訳この確信をもって、わたしはまずそちらに行ってあなた方が二度目の恩恵にあずかるようにし、
新共同このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。
NIVBecause I was confident of this, I planned to visit you first so that you might benefit twice.

1章16節 かくて(なんぢ)らを()てマケドニアに()き、マケドニアより(さら)(また)なんぢらに(いた)り、(しか)して(なんぢ)らに(おく)られてユダヤに()かんことを(さだ)めたり。[引照]

口語訳それからそちらを通ってマケドニヤにおもむき、そして再びマケドニヤからあなたがたの所に帰り、あなたがたの見送りを受けてユダヤに行く計画を立てたのである。
塚本訳そしてあなた達のところを通ってマケドニヤ(州)に行き、マケドニヤ(州)からあなた達の所にもどり、あなた達にユダヤまで送り出してもらおうと決めたのである。
前田訳あなた方のところを経てマケドニアに行き、ふたたびマケドニアからそちらへ行って、あなた方に送り出されてユダヤに向かうつもりでした。
新共同そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした。
NIVI planned to visit you on my way to Macedonia and to come back to you from Macedonia, and then to have you send me on my way to Judea.
註解: ▽パウロは緒言において述べた通り、コリント前書の結果コリントの信徒の反パウロ熱が爆発した事を聞いて、急に第2回コリント訪問をしたのであった。この訪問は失敗に終ったけれども、その際パウロは16節の予定計画を変更して、Tコリ16:5のごとき計画を彼らに告げたものと思われる。その為コリントの教会ではパウロを食言家として非難したのであろう。△  ▽―△間全部改訂。
辞解
[再び] 彼の第1回のコリント訪問によりて、彼はコリント教会に益を与えた、第2回の訪問(Uコリ13:1、2)においては唯憂を以て行ったので(Uコリ2:1)益を与える事ができなかった、今度は第3回の訪問であるけれども益を与うる点において「再び」である。第1回訪問は使18:1以下、第3回訪問は使20:2、3に記されているけれども第2回訪問は記されていない、この節及Uコリ13:1、2等より推定し得るに過ぎない。
[益] 原語「恩恵」、パウロを通して神の恵が信者に伝えられた。
[この確信] 11−14に記されし確信

1章17節 かく(さだ)めたるは()きたる(こと)ならんや。わが(さだ)むるところ(にく)によりて(さだ)め、(しか)(しか)り、(いな)々と()ふが(ごと)きこと()らんや。[引照]

口語訳この計画を立てたのは、軽率なことであったであろうか。それとも、自分の計画を肉の思いによって計画したため、わたしの「しかり、しかり」が同時に「否、否」であったのだろうか。
塚本訳ところでこう決めたのは、一体(いつものように)わたしの気紛れでもあったのだろうか。あるいは、わたしが決めるのは人間的の考えで決めるので、わたしにははっきり「はい」と言うことが同時にはっきり「いいえ」と言うことでもあったのだろうか。
前田訳ところで、このように決めたのは軽率でしたか。それとも、わたしが決めるのは人間的な考えで決めるので、わたしには「然り、然り」と「否、否」と両方があるというのですか。
新共同このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。
NIVWhen I planned this, did I do it lightly? Or do I make my plans in a worldly manner so that in the same breath I say, "Yes, yes" and "No, no"?
註解: 「かかる旅程を定めたのは決して軽薄な心持で無責任に定めたのではない。わが決定は肉的の動機でする様な事が無いから、従って然諾(ぜんだく)を重んじ、決して然りと否とを同時に含んで二枚舌を使う様な事は無い」すなわちパウロがある事を決定する場合には、決して軽薄な心を以てする事なく誠実なる心を以てするのである。故に二枚舌を使う様な信用のできない考え方はしないとの意味。
辞解
[然り然り否々] は他の解釈によれば、パウロは頑固であって一旦云い出した事は無理にも押し通す意味と解する説もある

1章18節 ((かへつ)て)(かみ)眞實(まこと)にて(いま)せば、(われ)らが(なんぢ)らに(たい)する(ことば)も、(しか)りまた(いな)()ふが(ごと)きにあらず。[引照]

口語訳神の真実にかけて言うが、あなたがたに対するわたしの言葉は、「しかり」と同時に「否」というようなものではない。
塚本訳神の誠実にかけていう、わたし達のあなた達への言葉は、「はい」が同時に「いいえ」ではない。(わたし達の言葉に嘘はない。)
前田訳神は真実にいまします。あなた方へのわれらのことばは「然り」と「否」とではありません。
新共同神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。
NIVBut as surely as God is faithful, our message to you is not "Yes" and "No."
註解: 我らの信ずる神は真実なる神に在す以上、その神に動かされて行動する我らが汝らに語る言葉もまた真実であって動揺する事は有る筈が無い。
辞解
[神は真実にて在せば] 「神は真実なる(かな)」と感嘆の意に解する説あり
[汝らに対する言] 「汝らに対して述べし説教」の意味に取る説が多い。予はこの通説を取らず、矢張り旅行計画の変更に関連して、一般にパウロ等が、コリントの人々に語れる言と解す

1章19節 (われ)(すなは)ちパウロ、シルワノ、テモテが(なんぢ)らの(うち)に((のべ))(つた)へたる(かみ)()キリスト・イエスは、(しか)りまた(いな)()ふが(ごと)(もの)にあらず、(しか)りと()ふことは(かれ)によりて()りたるなり。[引照]

口語訳なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」となると同時に「否」となったのではない。そうではなく、「しかり」がイエスにおいて実現されたのである。
塚本訳なぜというか。わたし達によって──わたしとシルワノとテモテとによって──あなた達に説かれた神の子キリスト・イエスは、「はい」が同時に「いいえ」でもあるというものではなかった。いや、彼においては「はい」だけがある。
前田訳われらによって、すなわちわたしとシルワノとテモテとによってそちらにのべ伝えられた神の子キリスト・イエスは、「然り」と「否」とではなく、「然り」が彼によって成ったのです。
新共同わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。
NIVFor the Son of God, Jesus Christ, who was preached among you by me and Silas and Timothy, was not "Yes" and "No," but in him it has always been "Yes."
註解: 直訳「……イエスは然りまた否となり給わず然りは彼において成就せり」神が真実に在すのみならず、パウロの同労者がコリント人に宣伝えた神の子イエス・キリストもまた同様に真実であって、その言い給う事が虚偽であったり動揺したりするごときものではない、彼が約束し給う事(然り)は必ず彼において実現するのである。かかるキリストに支配せられてこのキリストを宣伝へている我々が、軽薄にも約束をたがえると云う事は決して有る筈が無い。
辞解
[シルワノ、テモテ] パウロの同労者、ルカ、使徒行伝にはシルワノを「シラス」と呼ぶ

1章20節 (かみ)約束(やくそく)(おほ)くありとも、(しか)りと()ふことは(かれ)によりて()りたれば、(かれ)によりてアァメンあり、(われ)(かみ)榮光(えいくわう)()するに(いた)る。[引照]

口語訳なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。
塚本訳(聖書にある)あらゆる神の約束は彼において(実現して)「はい」となったからである。このゆえにまた、わたし達が神に栄光を帰するために彼を通じてアーメンが言われるのである。
前田訳神のすべての約束が彼において「然り」になったのです。それゆえ彼によって神にその栄光のため、われらが「アーメン」といいうるのです。
新共同神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。
NIVFor no matter how many promises God has made, they are "Yes" in Christ. And so through him the "Amen" is spoken by us to the glory of God.
註解: 私訳「神の約束は多くありとも彼において然りにして、従ってまた彼によりてアアメンなり〔是れ〕我らによりて神に栄光あらん為〔なり〕」。神の真実とキリストの真実とを述べしパウロは、更に進んで神の約束が如何に多くとも(原語には「如何なる約束にても」の意味もあり)皆キリストにおいて実現する故、我らより見れば全ての神の約束はキリストによりてアアメンと云う事ができる。神は約束し給いキリストはこれに対し「然り」と(のたま)い、信者はこれによりてアアメンと云う、ここに全宇宙に充実せる誠実の響を聴く事ができよう。この有様こそ神に栄光を帰し奉る所以であって、是はパウロ等の伝道によりてできた事である、故に「我らによりて」と彼は公言している(S1)

1章21節 (なんぢ)らと(とも)(われ)らをキリストに(()りて)(かた)くし、(かつ)われらに(あぶら)(そそ)(たま)ひし(もの)(かみ)なり。[引照]

口語訳あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、神である。
塚本訳そしてあなた達と一緒にわたし達をキリストにしっかり立たせ、また油を注いで(聖別して)くださったお方はこの神であり、
前田訳われらをあなた方とともにキリストへと立たせ、またわれらに油を注ぎたもうたのは神です。
新共同わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。
NIVNow it is God who makes both us and you stand firm in Christ. He anointed us,
註解: そしてこの真実なる神とキリストとは汝ら及び我らと無関係では無く、神が我らとキリストとの間に霊の交を与えて、我らをこれによりてキリストの中に居らしめ(ヨハ15:4)われらにもキリスト((あぶら)注がれし者の意)と共に聖霊の(あぶら)を注ぎ給うた。ここに神、御子、聖霊の三位の神が我らと共に在して我らを堅くし給う。それ故に我らは動揺する様な事はない

1章22節 (かみ)はまた(われ)らに(いん)し、保證(ほしょう)として御靈(みたま)(われ)らの(こころ)(たま)へり。[引照]

口語訳神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。
塚本訳このお方がまた、わたし達に(御自分のものという)証印をおし、その手付けとして御霊をわたし達の心の中にくださったのである。
前田訳神はまたわれらに印を押し、われらの心に霊の保証をお与えでした。
新共同神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。
NIVset his seal of ownership on us, and put his Spirit in our hearts as a deposit, guaranteeing what is to come.
註解: 神は我らに聖霊を以て印し(エペ1:13エペ4:30)、その約束を必ず与え給う事を示し(換言すれば基督者は聖霊を与えられる事により神の教の確実である事を知り)、また聖霊はその約束の保証(手付金)として我らの心に与えられ、これを得る事により未来の約束を確かに握っているのである(ロマ8:10以下)。すなわち我らの信ずる三位の神は真実夫自身であると云う事を得べく、彼を信ずる我らもまた軽薄なる言動を為す事ができないのは当然である。
要義 [基督者の誠実]誠実の美徳であり真摯の貴き事は凡ての宗教、道徳において認められている真理である。
しかしながら基督者に取って誠実は特別の意義を()っているのであって、単に誠実を愛する人間自然の良心を基礎としているのでもなく、また誠実が結局最も有利なりとの実利主義(「正直は最良の政策なり」のごとき)から割り出したものでもない。基督者の一挙一動、一言一行(いやしく)もせず、(ことごと)く誠実を以てこれを為さざるべからざる所以は、彼らの神が誠実そのものに在し給うからである。神及びキリストにおいては一点の虚偽も無い。而して神はキリストに注ぎ給いし聖霊の油を以て我らに注ぎ給い、我らに対する約束の保証を聖霊を以て印し給える以上は、我らもまた神とキリストの本質と同じく誠実(真実)そのものとならなければならない。(第18節の「神は真実にて在せば」の「真実」は「信仰」と同語である事を味わわなければならぬ)「然りを然りとし、否を否とする」(ヤコ5:12私訳)事は基督者の誠実の本質である。故にこの誠実は常に神に在りて行う心に外ならないのであって、パウロがその予定を変更したのも、この形式的不誠実は却って本質的に神にある誠実の結果であった事を知る事ができる 基督者は斯の如くにして一挙一動皆神にありてこれを行わなければならぬ、これ真の誠実である。

1章23節 (われ)わが靈魂(たましひ)()けて(かみ)(あかし)(もと)む、[引照]

口語訳わたしは自分の魂をかけ、神を証人に呼び求めて言うが、わたしがコリントに行かないでいるのは、あなたがたに対して寛大でありたいためである。
塚本訳しかしわたし個人としては、自分の命をかけ、神を証人に立てる、──わたしはあなた達をひどい目にあわせたくなかったので、もうコリントには行かなかったのである。(行けば、敵対者たちを厳重に処分しなければならないではないか。)
前田訳わたしは魂にかけて神を証人にお呼びしますが、わたしがまだコリントへ行かなかったのは、あなた方への心づかいのためです。
新共同神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。
NIVI call God as my witness that it was in order to spare you that I did not return to Corinth.
註解: パウロの誓の言であって、自己の霊魂の存否を賭しても(生命にかけてと同意)この事を断言する事の意味

()がコリントに()くことの(おそ)きは、(なんぢ)らを(ゆる)うせん(ため)なり。

註解: 私訳「我汝らを宥恕(ゆうじょ)せんとて未だコリントに往かざりしなり」。もし始めの旅程通りにコリントに行ったならば、パウロは彼らを審判かなければならなかった、是れパウロに取って大なる悲しみであった。それ故にこの罰を彼らに課せずに済ませようとて(わざ)とパウロはコリント往きを遅延したのである。パウロは単に是だけのことを説明せんとて、是迄17−22節に長々しき前置を置いたのである

1章24節 されど(われ)らは(なんぢ)らの信仰(しんかう)(つかさ)どる(もの)にあらず、(なんぢ)らの喜悦(よろこび)(たす)くる(もの)なり、(なんぢ)らは信仰(しんかう)によりて()てばなり。[引照]

口語訳わたしたちは、あなたがたの信仰を支配する者ではなく、あなたがたの喜びのために共に働いている者にすぎない。あなたがたは、信仰に堅く立っているからである。
塚本訳これはわたし達が、(なにも敵対者の非難しているように、)あなた達の信仰を支配しようというのではなく、わたし達はただあなた達の喜びのために共に働く者である。あなた達は信仰に立ってしっかりしているのだから。
前田訳われらはあなた方の信仰を牛耳るのでなく、あなた方のよろこびの協力者です。あなた方は信仰に堅くお立ちだからです。
新共同わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。
NIVNot that we lord it over your faith, but we work with you for your joy, because it is by faith you stand firm.
註解: 私訳「我ら汝らの信仰を支配すと云うにあらず、汝らの喜悦の同労者なり、汝らは信仰によりて立てばなり」ここにパウロは前節の「宥恕(ゆうじょ)」「(ゆる)うする事」につきコリントの信者がパウロの専制であると誤解せん事を恐れてこの節を附加している、すなわちパウロはコリントの信徒の信仰を審判支配しその上に君臨すると云う意味ではない。彼らと共同に歓喜の世界を作り出そうと云うのである(若しパウロが往きて彼らをその罪につき審判いたならば歓喜の反対に悲嘆がその教会に充満するであろう。パウロはその訪問を遅延して彼らが、その間に悔改め双方とも歓喜を以て相会する事ができるようにせんとしたのである。Uコリ12:19−21。Uコリ13:10)。信仰によりて立っている点に就いてはパウロも彼らも同一であったからである。

第2コリント第2章
3-3 罪人を赦す事に就て 2:1 - 2:11

2章1節 われ(ふたた)(うれひ)をもて(なんぢ)らに(いた)らじと(みづか)(さだ)めたり。[引照]

口語訳そこでわたしは、あなたがたの所に再び悲しみをもって行くことはすまいと、決心したのである。
塚本訳で、わたしは自分でこう決心したのだ、二度と悲しい訪問はするまいと。
前田訳そこでわたしは決心しました、二度と悲しみの中にそちらへ行くまい、と。
新共同そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。
NIVSo I made up my mind that I would not make another painful visit to you.
註解: 前章23節以下の弁解の継続である。第2回目にコリントに来た時も憂を以て来たのであった(この訪問は聖書に直接記載されず)。此度こそ憂を以って到らじと決心したのである

2章2節 (われ)もし(なんぢ)らを(うれ)ひしめば、()(うれ)ひしむる(もの)のほかに(たれ)(われ)(よろこ)ばせんや。[引照]

口語訳もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませているその人以外に、だれがわたしを喜ばせてくれるのか。
塚本訳なぜなら、もしわたしがあなた達を悲しませたら、わたしから悲しませられるその人(達)をおいて、一体だれがわたしを楽しませてくれる人達であるか。
前田訳もしわたしがあなた方を悲しませているならば、わたしに悲しまされている人のほか、だれがわたしをよろこばせますか。
新共同もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。
NIVFor if I grieve you, who is left to make me glad but you whom I have grieved?
註解: 我が愛は汝らに集注している、その汝らの罪を審く事によって汝らを憂いしむるならば、我が憂いしむる汝らが悔改めて我を喜ばせないならば、外に我を喜ばせる人とては一人も無い、それ故に旅程を変更せずに行ったならば、我は態々(わざわざ)憂うるが為に行く様なものであって、到底忍びない事である

2章3節 われ(さき)()(こと)()(おく)りしは、()(いた)らんとき、(われ)(よろこ)ばすべき((はず)の)もの、(かへ)つて(われ)(うれ)ひしむる(こと)のなからん(ため)にして、[引照]

口語訳このような事を書いたのは、わたしが行く時、わたしを喜ばせてくれるはずの人々から、悲しい思いをさせられたくないためである。わたし自身の喜びはあなたがた全体の喜びであることを、あなたがたすべてについて確信しているからである。
塚本訳この故にこそわたしは(あの手紙を)書いたのであり、それは行ったとき、わたしを喜ばせてくれるべき人たちから悲しみを受けたくないためであった。わたしの喜びがあなた達みんなの喜びであると、あなた達みんなについてわたしは信頼しているのである。
前田訳わたしがお書きしたのはこのことであって、それはそちらへ行って、わたしをよろこばせるはずの人から悲しみを受けないためでした。わたしは皆さんについて、わたしのよろこびは皆さんのものと確信しているからです。
新共同あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。
NIVI wrote as I did so that when I came I should not be distressed by those who ought to make me rejoice. I had confidence in all of you, that you would all share my joy.
註解: パウロがTコリ5:1以下にコリントの信徒を憂いしめなければならぬ事を書き送ったのは、パウロがコリントを訪問してその兄弟姉妹と喜を共にせんとする場合に、彼を喜ばすべき筈の人々が却って彼を憂いしむる事が無い様にとの用意からであった。(注意)学者によりパウロが第2回にコリントを訪問せる後、中間書簡(コリントと前後書の中間にある故かく名付く)をコリントに送り本節、2節及び9節の書簡はそれであると主張する人もある。かく推定することは絶対的必要ではない

(なんぢ)らは(みな)わが喜悦(よろこび)喜悦(よろこび)とするを(しん)ずるに()りてなり。

註解: 直訳「我が喜悦は汝ら凡ての喜悦なる事を汝ら凡てにつき信ずるによりてなり」コリントの信徒が悔改めてその汚穢を離れる事が、パウロの欲する喜悦であった。そしてパウロは是がまたコリント人らの喜びである事を信ずるが故に、前の書を書き送ったのである。

2章4節 われ(おほい)なる患難(なやみ)(こころ)悲哀(かなしみ)とにより、(おほ)くの(なみだ)をもて(なんぢ)らに()(おく)れり。[引照]

口語訳わたしは大きな患難と心の憂いの中から、多くの涙をもってあなたがたに書きおくった。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、あなたがたに対してあふれるばかりにいだいているわたしの愛を、知ってもらうためであった。
塚本訳わたしは非常な苦悩と心の痛みとから、多くの涙のうちにあれを書いたのであって、あなた達が悲しませられるためではなく、わたしがあなた達に対して特に持っている愛を知ってもらいたかったためである。
前田訳大きな苦しみと心の痛みとから、多くの涙の中に手紙をお書きしました。それはあなた方を悲しませるためではなく、わたしがあなた方に対してあふれるばかり抱いている愛を知ってもらうためでした。
新共同わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。
NIVFor I wrote you out of great distress and anguish of heart and with many tears, not to grieve you but to let you know the depth of my love for you.
註解: ▽この「涙の書簡」をパウロが書いたのは(緒言参照)、彼の第2回コリント訪問が非常な不結果となり、コリントの信者との間の溝が増々深まり、心の悩みが大きくなったので、この涙の書簡となったのであった。中間書簡説を否定する人は、Tコリ5:1以下がそれであると解す△ ▽―△間全部改訂。

これ(なんぢ)らを(うれ)ひしめんとにあらず、()(なんぢ)らに(たい)する(あい)(あふ)るるばかりなるを()らしめん(ため)なり。

註解: パウロはコリントの信者に対して前の書を送ったけれども、是唯彼らを愛する心が溢れての結果であった。単に彼等の信仰を支配して彼らに君臨せんが為でも無く(Uコリ1:24)、また単に彼らを憂いしめて快を(むさぼ)らんが為でも無い。パウロはこの事をコリントの信者が知る事を切望していた。而して愛なき非難叱責は常に無効に帰し、却て害を与うるに過ぎさるに反し、愛故の叱責は必ず歓喜の結果を来すであろう。
要義 [パウロの弁解の態度]Uコリ1:15−2:4においてパウロは自己に対する誤解を弁明している。我らは彼の弁解の態度に学ばなければならない。彼の弁解の動機は(すこし)も自己の利益や安全の為ではなく、全く彼がキリストの使徒としての職を遂行する上の障害を除去せんが為に外ならなかった。日本人は自己弁解を好まない。若し弁解が自己の利益名声の擁護のみを意味するならば、勿論弁解を好まざる日本人の態度は正しい。しかし自己弁解が神の福音の障害を除去する為であるならば、その弁解をなさざる者は不忠である。而してパウロの自己弁護の理由は、普通の弁護のごとくに消極的、防禦的では無く、積極的、攻撃的であり、堂々たる信仰の告白とも云うべきものである点において、最も偉大なる自己弁解であって、全文字の中に溢れるものは彼の信仰と彼の愛であり、この信仰と愛の告白がそのまま彼の自己弁解となったのである。我らもまたかかる態度に出づる事を得る様にならなければならない。

2章5節 もし(うれ)ひしむる(ひと)あらば、(われ)(うれ)ひしむるにあらず、幾許(いくばく)(なんぢ)(すべて)(うれ)ひしむるなり。(幾許(いくばく)かと()へるは、われ(はげ)しく()むるを(この)まぬ(ゆゑ)なり)[引照]

口語訳しかし、もしだれかが人を悲しませたとすれば、それはわたしを悲しませたのではなく、控え目に言うが、ある程度、あなたがた一同を悲しませたのである。
塚本訳で、もし誰かが人を悲しませていたとすれば、わたしを悲しませていたのではなく、言い過ぎないように言えば多少、あなた達全体を悲しませていたのである。
前田訳もしだれかが悲しませたのなら、わたしを悲しませたのではなくて、いい過ぎないようにすれば、幾分か皆さんを悲しませたのです。
新共同悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。
NIVIf anyone has caused grief, he has not so much grieved me as he has grieved all of you, to some extent--not to put it too severely.
註解: 直訳「もし憂いしむる人あらば我をにはあらで汝ら凡てを幾分か(彼を責め過ぎぬようにかく言う)憂いしむるなり」。パウロは「もし」「人あらば」等不定の用語によりて責められる者に対するやさしき思慮を示し、而して「たといかかる人ありとも我はその為に悩まされた事は無く、唯強いて云えば汝ら凡てが幾らか憂いしめられたのである。ここに「幾許(いくばく)か」と云ったのは、この語を用いなかったならば罪を犯せる人を責め過ぎる事となるからである」。
辞解
この一節は種々の意味に訳し得る可能性があり、従って其の解釈も区々(まちまち)である。中に最も多くの学者の採用する読み方は「もし憂いしむる人あらば唯いささか我を憂えしめしに過ぎず、かく云うは汝ら凡てを責め過ぐる事無からん為なり」であって、カルビンのごときもこの意味に取っている

2章6節 かかる(ひと)多數(たすう)(もの)より()けたる懲罰(こらしめ)()れり。[引照]

口語訳その人にとっては、多数の者から受けたあの処罰でもう十分なのだから、
塚本訳当人にはあなた達の多数の者からうけたあの制裁で十分である。
前田訳そのような人には、多数の人からのあの制裁で十分です。
新共同その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。
NIVThe punishment inflicted on him by the majority is sufficient for him.
註解: Tコリ5:2以下に従い罪を犯したものは教会より罰せられた。しかしながらそれは彼を悔改めしめんが為であって彼を(みだ)りに苦しめんが為ではない、故に多くの人より懲罰を受けた以上最早充分である、故にパウロは彼らにその手をゆるめん事を勧告している。愛はよく責むべき時を知りまた赦すべき時を知る

2章7節 されば(なんぢ)(むし)(かれ)(ゆる)し、かつ(なぐさ)めよ、(おそ)らくは()(ひと)(はなは)だしき(うれひ)(しづ)まん。[引照]

口語訳あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきである。そうしないと、その人はますます深い悲しみに沈むかも知れない。
塚本訳だから(今度は)むしろ反対に、あなた達がゆるして慰めなければならない。当人があまり大きな悲しみに圧倒されてしまうようなことがあってはいけない。
前田訳それで、逆にあなた方はそのような人をむしろゆるし、慰めて、その人が度を過ごした悲しみに落ち込まないようになさい。
新共同むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。
NIVNow instead, you ought to forgive and comfort him, so that he will not be overwhelmed by excessive sorrow.
註解: 罪を意識し、神と人の前に卑下(へりくだ)り、罪を告白してその赦しを乞う人の心ほど苦痛なものは無い。かかる者は唯(ゆる)しと慰めとを渇望しているのであって、その時になってもなおこれに懲罰を与える時はサタンの乗ずる処となり、教会の愛は冷却し、罪人は(はなは)だしき(うれ)いに沈んで却ってサタンの捕らうる処となるであろう。マタ18:22エペ4:32
辞解
[恐らく云々] 直訳「あまりに(はなは)だしき悩みが彼を呑むことなからんが為に」

2章8節 この(ゆゑ)(われ)なんぢらの(あい)(かれ)(あらは)さんことを(すす)む。[引照]

口語訳そこでわたしは、彼に対して愛を示すように、あなたがたに勧める。
塚本訳だからあなた達に勧める、愛を彼にしめす議決をしてもらいたい。
前田訳それゆえお勧めしますが、その人への愛を決意なさい。
新共同そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。
NIVI urge you, therefore, to reaffirm your love for him.
註解: 「汝らの審判と懲罰は充分であるから是からは彼に向って汝らの愛を公示すべきである、何よりも大切なるはこの愛を示す事である」。
辞解
[顕す] kuroôは公けに効力ある宣告をなすごとき場合に用いられる。この場合においては教会全体としてかかる人に愛を公に顕わすべしとの事である

2章9節 [(さき)に]()(おく)りしは、(すべ)ての(こと)につきて(なんぢ)らが從順(じゅうじゅん)なりや(いな)やをも(こころ)()らん(ため)なり。[引照]

口語訳わたしが書きおくったのも、あなたがたがすべての事について従順であるかどうかを、ためすためにほかならなかった。
塚本訳わたしがあれを書いたのは、(当人を罰する目的ではなく、)あなた達が何事についても従順であるかどうか、この点で試験ずみであることを知るためにほかならなかったのである。
前田訳わたしがお書きしたのは、あなた方をためして、何につけても従順であるかどうかを知るためでした。
新共同わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。
NIVThe reason I wrote you was to see if you would stand the test and be obedient in everything.
註解: 「Tコリを記しし理由は多くあったけれども、汝らに対し刑罰を課するのが目的ではなく、汝らの従順を試し見ようとしたのであった。然るに汝らは我が言に従順であった事が証拠立てられた」事をパウロは言外に含めている

2章10節 なんぢら何事(なにごと)にても(ひと)(ゆる)さば、(われ)(また)これを(ゆる)さん、われ(ゆる)したる(こと)あらば、(なんぢ)らの(ため)にキリストの(めん)(ぜん)(ゆる)したるなり。[引照]

口語訳もしあなたがたが、何かのことについて人をゆるすなら、わたしもまたゆるそう。そして、もしわたしが何かのことでゆるしたとすれば、それは、あなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである。
塚本訳しかし、(いまは、)あなた達が何かについてゆるす人を、わたしもゆるそう。いや、わたしがもし何かについてゆるしたとすれば、わたしがゆるしたことは、あなた達のため、キリスト(を証人としてそ)の目の前でしたことなのである。
前田訳それで、もしあなた方がだれかに何かをゆるすならば、わたしもそうします。そして、もしわたしが何かをゆるしたのならば、わたしのゆるしたことは、あなた方のためにキリストのみ前でしたのです。
新共同あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。
NIVIf you forgive anyone, I also forgive him. And what I have forgiven--if there was anything to forgive--I have forgiven in the sight of Christ for your sake,
註解: 「なんじらと我とは一つ念となって働くべきであって、汝が何事にても人を(ゆる)すならば我も(ゆる)したものであり、また我が前に人を(ゆる)した事があればそれは、汝も我と共にその人を(ゆる)さんが為である、而も唯自分勝手に(ゆる)したのではなくキリストの御顔の前に(ゆる)し、キリストの御前において再び和解したのである」。故にかくして(ゆる)されたるものは再び聖徒の交わりに入る事ができる。かく云いてパウロは▽コリントの教会内にある、互に非難し合い、(ゆる)し合わない態度を戒め、パウロがすでに(ゆる)したのだから、彼らも(ゆる)すべき事を教えた△。▽ ―△間全部改訂。 
辞解
[(ゆる)す] カリゾマイcharizomaiは「惜しみなく与う」との意味より転化せる意味であって神が人の罪を「赦す」アフイエーミaphiêmiとは別語

2章11節 これサタンに(あざむ)かれざらん(ため)なり、我等(われら)はその詭謀(はかりごと)()らざるにあらず。[引照]

口語訳そうするのは、サタンに欺かれることのないためである。わたしたちは、彼の策略を知らないわけではない。
塚本訳こうするのは、わたし達が悪魔の策略に乗せられないためであって、(不和に乗ずる)そのたくらみをよく知っているからである。
前田訳それはわれらが悪魔に欺かれないためです。われらはそのたくらみを知らないのではありません。
新共同わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。
NIVin order that Satan might not outwit us. For we are not unaware of his schemes.
註解: サタンは一人にても多くこれを己の配下に属せしめんとして機を伺う、故に真に悔改めしものをもなお赦さずに置き、愛を以てこれに対しない場合には、サタンはその機を伺って彼を虜にするのである。またサタンは基督者の義を愛する心を利用して彼らの愛の心を働かない様にし、人を審判く事に熱心にして人を(ゆる)すことを忘れるに至らしむる場合もある。これ何れもサタンの詭謀(はかりごと)であって、これに陥るならば一人の兄弟を失うに至る事もあり得る故に注意しなければならぬ。
辞解
[(あざむ)く] 原語は機会を利用して得をする事。
要義 [罪人の赦しに就いて]信徒の中に罪に陥れるものがある場合に、それにつきてあまりに寛大に過ぎて、これに無頓着である事は神の御心に叶わない。コリントの信徒は(さき)にかかる状態に在った。これ基督者として取るべき態度では無い(Tコリ5:6−8。Tコリ6:15−20)。しかしながら人の罪を審判く目的は、彼が再び悔改めて立帰らんが為である。故に心より悔改めしものに対して、なお懲罰を与えて彼をして全く意気沮喪(そそう)せしむる事は、愛なき行為であって基督者の取るべき態度ではない。而して如何に審判き如何に(ゆる)すべきかは、要するにキリストの面前においてキリストの御心に叶う様に行わるべきであって、そこには義と愛とが接吻し、我らをして場合に応じて適当なる処置を為す事を得しめる、然らざれば必ずサタンの乗ずる処となるのである。

3-4 マケドニヤに於けるパウロの体験 2:12 - 2:17

2章12節 (われ)キリストの福音(ふくいん)(ため)にトロアスに(いた)り、(しゅ)われに(もん)(ひら)(たま)ひたれど、[引照]

口語訳さて、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、わたしのために主の門が開かれたにもかかわらず、
塚本訳なお(このことも知らずにいてもらいたくない。)──わたしは救世主の福音を伝えるためにトロアス(の港)に行ったとき、主のために(有望な)門がわたしに開けたのに、
前田訳キリストの福音のためトロアスに行ったとき、主にあって門がわたしに開かれましたが、
新共同わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、
NIVNow when I went to Troas to preach the gospel of Christ and found that the Lord had opened a door for me,
註解: 直訳「主にありて我が為に戸は開かれたれど」。パウロは前節迄に自己の心の歴史を語り、本節より事実上の経歴を語って居る。即ち彼はエペソを去って北方トロアスに行った、其の地に於て福音を宣伝えんが為である。然るに戸はパウロの為に開かれて其の所に迎えられた。而も普通の意味において迎えられたのでは無く「主にありて」信者、伝道者として迎えられ、基督の福音を伝うる機会が与えられた

2章13節 ()兄弟(きゃうだい)テトスに()はぬによりて(こころ)平安(へいあん)をえず、彼處(かしこ)(もの)(わかれ)()げてマケドニヤに()けり。[引照]

口語訳兄弟テトスに会えなかったので、わたしは気が気でなく、人々に別れて、マケドニヤに出かけて行った。
塚本訳(あなた達の所に使いに行った)兄弟のテトスに会えないので、心の休まることがなく、(その地の)人々に別れを告げてマケドニヤに出てきたのであった。
前田訳兄弟テトスに会えなかったので霊に安らぎがなく、人々に別れを告げてマケドニアへ出かけました。
新共同兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。
NIVI still had no peace of mind, because I did not find my brother Titus there. So I said good-by to them and went on to Macedonia.
註解: パウロは先にテトスをエペソよりコリントに遣わし、前の書簡の結果を伺はしめ己はトロアスに行った、さわい其処に福音の伝道者として迎えられたけれども来るべき筈のテトスが来ないので、コリント教会の有様が分らず、非常に気に懸って心に安きを得なかった。彼のコリント教会に対する愛心の深さを察する事ができる。それ故彼はできるだけ速に報告を得んとて其処を去ってマケドニヤに行った。(Uコリ7:5

2章14節 感謝(かんしゃ)すべきかな、(かみ)何時(いつ)にてもキリストにより、(われ)らを(とら)へて凱旋(がいせん)し、何處(いづこ)にても我等(われら)によりてキリストを()知識(ちしき)(かをり)をあらはし(たま)ふ。[引照]

口語訳しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。
塚本訳しかし神に感謝せねばならない。神はいつでもわたし達をキリストによる凱旋行列に(虜として)引き回し、至る所でわたし達を通して御自分を知らせる知識の薫りをお広めになる。
前田訳しかし神に感謝します。神はつねにわれらをキリストにあって勝利の列に加え、いたるところでわれらを通じて彼の知識の香りをひろめたまいます。
新共同神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
NIVBut thanks be to God, who always leads us in triumphal procession in Christ and through us spreads everywhere the fragrance of the knowledge of him.
註解: ここにパウロは神を凱旋将軍にたとえ、パウロらを以て奴隷としてその後に従う敗軍の将卒に比し、而してロマの将軍凱旋の時その路傍に香を焼きて芳香を放たしむる光景に喩えて、この節を記しているのである。すなわち神はキリストによりてパウロ等に打ち勝ち給い、彼らを奴隷として後に従えこれを敵味方に示して、彼らの弱さと神の強さとを常にあらわし、また凱旋の際に香わしき馨が道路に満つるが如くに、キリストに従うパウロ等の信仰と態度とによりて、キリストの力と愛とを示し、キリストを知るの知識の如何に香わしきものなるかを至る処に顕わし給う事をパウロは感謝しているのである。要するにエペソにおいてもトロアスにおいても、またマケドニヤにおいてもパウロは彼ら自身の弱さを見せつけられながら、神はこの弱きパウロ等を率いて凱旋し給い、到る処にキリストの福音の香を散布し給うたのであって、パウロは未だテトスに逢わなかった時でも、その悲しみの中にも神に感謝を捧げることができたのである。
辞解
[我らを執えて凱旋し] 原語は「我らを凱旋す」の形を取っており、従って種々の解釈がある。すなわち(1)「我らをして凱旋せしめ」(2)「我らによりて凱旋し」(3)「凱旋の時に我らを凱旋将軍として顕わし」(4)「凱旋の際に我らを引廻し」などであるけれども予は前記の解(M0 Z0)を採った。日本改訳は恐らくこの意味に訳したのであろう。
[何時にても,何処にても] 即ちパウロの一般的体験をここに云っているのであって、Uコリ7:5以下のコリント教会の報告をきいての感謝ではない(Z0)。

2章15節 (すく)はるる(もの)にも(ほろ)ぶる(もの)にも、(われ)らは(かみ)(たい)してキリストの(かうば)しき(かをり)なり。[引照]

口語訳わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。
塚本訳というのは、わたし達は救われる者の間でも、滅びゆく者の間でも、神にささげられるためのキリストのよい薫である。
前田訳われらは、救われるものに対しても、滅びるものに対しても、神のためキリストのよい香りです。
新共同救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
NIVFor we are to God the aroma of Christ among those who are being saved and those who are perishing.
註解: パウロ等の働きは不信仰によりて亡ぶる者にも働き、また信仰によりて救わる者の中にも働きを及ぼすのであって、神にたいしてはそれが皆キリストの香しき馨となって立ち昇るのである。我らはキリストの霊に浸され、これと同化する事によりて我らからキリストの香が発散する。この馨が神に達して神はキリストが我らによりて顕し給う凱旋を喜び給うのである。14節は人に対する香、15節は神に対する香である

2章16節 この(ひと)には()よりいづる(かをり)となりて()(いた)らしめ、かの(ひと)には生命(いのち)より()づる(かをり)となりて生命(いのち)(いた)らしむ。[引照]

口語訳後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。
塚本訳ある者には、死から死へみちびく薫であるが、ある者には、命から命へみちびく薫である。(ああ、)一体だれにこんなことが勤まろう。
前田訳あるものには死から死への香り、あるものにはいのちからいのちへの香りです。このようなことにだれがふさわしいでしょうか。
新共同滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。
NIVTo the one we are the smell of death; to the other, the fragrance of life. And who is equal to such a task?
註解: 「この人」すなわち亡ぶる者に取っては、この世の快楽、欲望に対して死せるパウロ等より発散するキリストの香は、死人より発する悪臭のごとくに思われ、然もこれによりて彼らは滅亡すべき不信仰の状態に在る事が明かにせられ、反対に「かの人」すなわち救われる者に取っては、キリストにありて新に生まれしパウロ等より発散するキリストの香は生命の香わしき馨として彼らに作用し、彼らをして生命に至らしむるのである。すなわち福音は或は人をしてキリストに反対せしめ或は彼に帰依せしむる、故にキリストの馨によりて死すべきものと、生命に至るものとが明かに区別せられるのである。(Tコリ1:23ヨハ9:39

(たれ)()(にん)()へんや。

註解: この重大にして困難なる任務を遂行し得る者は誰であるか、誰も有る筈が無い。けれども神はパウロを捉えて彼を奴隷として使役し給う。彼は全く神に服従する事によりてこの任に耐え得るものとされたのである(引照3)。この服従が次節の行動となり、神の奴隷に相応しき行為となってあらわれて来るのである

2章17節 (われ)らは(おほ)くの(ひと)のごとく(かみ)(ことば)()げず、眞實(まこと)により(かみ)による(もの)のごとく、(かみ)(まへ)にキリストに()りて(かた)るなり。[引照]

口語訳しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。
塚本訳──わたし達はあの多くの人たちのように、神の言葉を売り物にするようなことをしない。いやそればかりか、純心な心からする者として、いや、神につかわされた者として、神の前に(責任をもち、)キリストにあって、語っているのである。
前田訳われらは多くの人のように神のことばを売りものにせず、真心から、神によって、神のみ前でキリストにあって語っています。
新共同わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。
NIVUnlike so many, we do not peddle the word of God for profit. On the contrary, in Christ we speak before God with sincerity, like men sent from God.
註解: 「多くの人」はパウロに反対の教師たち(M0)であって、彼らは神の言に自己の思想を混じてこれを述べ、かくして人の歓心を求めて自己の利益を謀っているのである。パウロはかかる人は到底福音の宣伝者たる任に耐える人ではない事をコリントの信者に示さんとしている。而してパウロ等はこれに反し、その語る処第一に「真実の心」よりし、心に不純の動機を包蔵せず、第二に「神より出づるもののごとき」態度を取り何ら神の言を曲げ、薄めなどせず、第三に神の前に語り、人の歓心を求めず、第四に「キリストに在り」その全生命を彼に託して語るのである。
辞解
[曲げず] 原語は葡萄酒商が葡萄酒に混合物を加えて、これを売却して利益を得るごとき狡猾(こうかつ)なる行為を指す。