黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ロマ書

ロマ書第11章

分類
3 救拯論 3:21 - 11:36
3-(2) 全人類の救い 9:1 - 11:36
3-(2)-(2) イスラエルの不信と救 9:27 - 11:12
3-(2)-(2)-(ホ) イスラエルもやがては救われん 11:1 - 11:12

註解: イスラエルは不信に陥っているけれどもこれはその一部に過ぎない。全く神に棄てられた訳ではない、神は尚その愛を以て彼らを保ち給う。

11章1節 されば(われ)いふ、(かみ)はその(たみ)()(たま)ひしか。(けっ)して(しか)らず。(われ)もイスラエル(ひと)にしてアブラハムの(すゑ)ベニヤミンの(やから)(もの)なり。[引照]

口語訳そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。
塚本訳それで、わたしは考える、”神は御自分の民をお捨てになった”のではあるまいかと。もちろん、そうではない。その証拠には、こう言うわたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫の出、ベニヤミン族の者であるの(に、キリストを信じているの)だから。
前田訳そこでわたしは考えます、神はその民をお捨てなのか、と。断じて否です。わたしもイスラエル人で、アブラハムの末、ベニヤミンの族(やから)です。
新共同では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。
NIVI ask then: Did God reject his people? By no means! I am an Israelite myself, a descendant of Abraham, from the tribe of Benjamin.
註解: 神が全くイスラエルの民を捨て給いしに非ざる証拠は純粋なるイスラエル人パウロが救われし事を以て証明が出来る。
辞解
[我もイスラエル人にして] 云々はイスラエル人たるパウロはその民族的自覚に対しても神がその民を棄てたとは云う事が出来ないとの意味に解する説(M0)あれど不適当である。
[べニヤミンの族] 十二の支族の一。

11章2節 (かみ)はその(あらか)じめ()(たま)ひし(たみ)()(たま)ひしにあらず。[引照]

口語訳神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかった。聖書がエリヤについてなんと言っているか、あなたがたは知らないのか。すなわち、彼はイスラエルを神に訴えてこう言った。
塚本訳“神は”あらかじめ選んだ”御自分の民をお捨てにならなかった”(と書いてある。)それともあなた達は、聖書がエリヤの(ことを記した)所で何と言っているか、知らないのか。エリヤはイスラエル人をこのように神に訴えているではないか。──
前田訳神はあらかじめお認めのご自身の民をお捨てではありません。それとも、あなた方は聖書がエリヤのところで何というか、ご存じないのですか。彼はイスラエルをこう神に訴えています、
新共同神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。
NIVGod did not reject his people, whom he foreknew. Don't you know what the Scripture says in the passage about Elijah--how he appealed to God against Israel:
註解: 神はイスラエルをその民として特に始めよりこれを選び(いと)しみ給うたので、決して今更これを棄て給う様な事はない。棄て給う如くに見ゆる中にも神の深き愛ははたらきつつある。
辞解
[予め知る] につきてはロマ8:29辞解参照。

(なんぢ)らエリヤに()きて聖書(せいしょ)()へることを()らぬか、(かれ)イスラエルを(かみ)(うった)へて()ふ、

11章3節 (しゅ)よ、(かれ)らは(なんぢ)預言者(よげんしゃ)たちを(ころ)し、なんぢの祭壇(さいだん)(こは)ち、(われ)ひとり(のこ)りたるに、(また)わが生命(いのち)をも(もと)めんとするなり』と。[引照]

口語訳「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこぼち、そして、わたしひとりが取り残されたのに、彼らはわたしのいのちをも求めています」。
塚本訳「主よ、“彼らはあなたの預言者たちを殺しました。あなたの祭壇を破壊しました。そしてわたしだけが残っているのに、そのわたしの命をねらっています。”」
前田訳「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、そしてわたしひとりが残され、そのわたしのいのちをねらっています」と。
新共同「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」
NIV"Lord, they have killed your prophets and torn down your altars; I am the only one left, and they are trying to kill me" ?
註解: T列19:10T列19:14、エリヤがイゼベルの前を逃れし事の記事を七十人訳より自由に引用したのである。エリヤに取りても真にエホバを信ずる忠実なる者は唯将に殺されんとする彼一人であり(あたか)もエホバが全イスラエルを棄て給いしが如くに見えた。
辞解
[エリヤに就きて] 原語「エリヤに於て」で「エリヤに就き録せる箇所に於て」の意。
[祭壇] 複数を用いているのはエルサレム以外にも祭壇ありし為。
[我ひとり] 預言者の中我一人の意味ではなく忠実なるイスラエル人は我一人の意味。

11章4節 (しか)るに御答(みこたへ)(なに)()へるか『われバアルに(ひざ)(かが)めぬ(もの)(しち)(せん)(にん)()がために(のこ)()けり』と。[引照]

口語訳しかし、彼に対する御告げはなんであったか、「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」。
塚本訳ところが彼に対する神のお告げはどうであるか。──「“わたしは(異教の神)バアルに膝をかがめなかった男子七千人を”自分のために“残しておいた。”」
前田訳しかし、彼へのお告げは何でしょう、「わたしはバアルに膝をかがめなかった男七千人をわがために残しておいた」と。
新共同しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。
NIVAnd what was God's answer to him? "I have reserved for myself seven thousand who have not bowed the knee to Baal."
註解: エリヤの目には全イスラエルが神に背いていると思われたけれども、神の御告(おつげ)は尚七千人の遺残者を神の為に遺し置き給うたとの事であった。神の御旨は如何なる場合と雖も完全に蹂躙(じゅうりん)される事はない。
辞解
[御答] chrêmatismos 「神託」の意。
[バアル] 本来「主」を意味する語で固有名詞ではない。異邦の神々(主として自然神、農業の神)を呼ぶ場合に用い、これがイスラエルの人々の信仰にも悪影響を与えた。或時代にはエホバの神をもバアルと呼んだ事がある形跡あり(ホセ2:18。その他人名にもあらわる)後に異邦の偶像神とヱホバとを混同する事を恐れてこの名称を排斥した(ホセ2:18)。本節に女性名詞として用いている理由につき種々の説明あれど、七十人訳には男性名詞としても女性名詞としても用いられて一定しない。太陽神にあらず、フェニキヤ又はカナン特有の神でもない。

11章5節 (されば)()くのごとく(いま)もなほ恩惠(めぐみ)(えらび)によりて(のこ)れる(もの)あり。[引照]

口語訳それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。
塚本訳だから、同じように今の世にも、恩恵の選びによる残りの者がある。
前田訳同じように、今の時にも、恩恵の選びによる残りのものがあります。
新共同同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。
NIVSo too, at the present time there is a remnant chosen by grace.
註解: エリヤの時と同様今日パウロの時代にもユダヤ人は神の(えら)び給える使徒や基督者を迫害する事によりてその不信を顕わしているけれどもその中に小数の者は遺残者(remnant) として神の恩恵(めぐみ)により信仰を持っている者がある(ユダヤ人中の基督者はパウロの意味に於ける「(のこ)れる者」である)。前節に「神が(のこ)し給える」事を言える故これを受けて「恩恵(めぐみ)(えらび)による」と云ったのである。

11章6節 もし恩惠(めぐみ)によるとせば、もはや行爲(おこなひ)によるにあらず。(しか)らずば恩惠(めぐみ)はもはや恩惠(めぐみ)たらざるベし。[引照]

口語訳しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。
塚本訳しかし恩恵による以上は、もはや行いのゆえではない。そうでなければ、恩恵がもはや恩恵でなくなるからである。
前田訳恩恵による以上、もはや行ないにはよりません。さもないと、恩恵がもはや恩恵でなくなりますから。
新共同もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。
NIVAnd if by grace, then it is no longer by works; if it were, grace would no longer be grace.
註解: 前節に「恩恵(めぐみ)(えらび)による」と云いし故これを受けてユダヤ人は如何に律法の行為に熱心となりてもこれによりて神の(えらび)に与る事能わざる事を示す。信仰による義を主張するパウロの持論である。恩恵(めぐみ)恩恵(めぐみ)たるが為にはそれが純粋なる事を要す、然らざれば真の恩恵(めぐみ)に非ず。

11章7節 さらば如何(いか)に、イスラエルはその(もと)むる(ところ)()ず、(えら)ばれたる(もの)(これ)()たり、その(ほか)(もの)(にぶ)くせられたり。[引照]

口語訳では、どうなるのか。イスラエルはその追い求めているものを得ないで、ただ選ばれた者が、それを得た。そして、他の者たちはかたくなになった。
塚本訳それでは、どうだろうか。(結局)イスラエル人は(全体として)自分のほしがっているものを得ることはできず、(ただ小数の)選ばれた者がこれを得たのである。ほかの者は(みな)頑なにされてしまった。
前田訳それならどうでしょう。イスラエルは求めるものを得ず、選ばれたものが得ました。そしてほかのものたちは頑にされました。
新共同では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。
NIVWhat then? What Israel sought so earnestly it did not obtain, but the elect did. The others were hardened,
註解: 然らば結局如何なる次第であるかと云うに、上述せる所を要約すれば、イスラエル全体としてはその求むる処の救を得ず唯その中の(えら)ばれしもののみこれを得た。(えら)ばれない者は心が無感覚となり、神の御旨を覚り得ざるに至ったと云う事となる。これ全く知識によらずして求めたからである。
辞解
[鈍くせらる] 固くなり善悪正邪を感ぜざるに至る事即ち無感覚となる事。

11章8節 (かみ)今日(けふ)(いた)るまで、(かれ)らに(ねむ)れる(こころ)()えぬ()(きこ)えぬ(みみ)(あた)(たま)へり』と(しる)されたるが(ごと)し。[引照]

口語訳「神は、彼らに鈍い心と、見えない目と、聞えない耳とを与えて、きょう、この日に及んでいる」と書いてあるとおりである。
塚本訳“神は彼らに”“麻酔の霊を”“与えて、目を見えなくし、耳を聞こえなくされた、今日に至るまで。”と書いてあるとおりである。
前田訳聖書にあるとおり、神は彼らにしびれた心と、見えぬ目と、聞こえぬ耳とを与えて、こんにちに至っています。
新共同「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。
NIVas it is written: "God gave them a spirit of stupor, eyes so that they could not see and ears so that they could not hear, to this very day."
註解: イスラエルの不信仰を示せる申29:3イザ29:10とより取捨してつぎ合せし引用句。前節の状態を旧約聖書を以て証明している。パウロの心には当時のイスラエルの不信は(あたか)もモーセの時に於けるイスラエル、又イザヤの時に於けるイスラエルの如き事を感じたのである。
辞解
[眠れる心] 原語は「麻痺せる霊」で非常なる悲しみ、恐怖、その他の打撃によりて無感覚となり、茫然自失せる如き場合を云う、イスラエルは、如何なる大事件が起っても何も感じない民となった。

11章9節 ダビデも(また)いふ『かれらの食卓(しょくたく)(わな)となれ、(あみ)となれ、蹟物(つまづき)となれ、(むくい)となれ、[引照]

口語訳ダビデもまた言っている、「彼らの食卓は、彼らのわなとなれ、網となれ、つまずきとなれ、報復となれ。
塚本訳またダビデは(彼らに臨む呪いを次のように)言っている。”“彼らの(喜びの)食卓は(たちまち)その罠となり”落し穴となり“邪魔物となり罰となるように。
前田訳ダビデもいいます、「彼らの食卓はそのわな、落し穴、つまずき、報いとなるように。
新共同ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、/自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。
NIVAnd David says: "May their table become a snare and a trap, a stumbling block and a retribution for them.

11章10節 その()(くら)みて()えずなれ、(つね)にその()(かが)めしめ(たま)へ』[引照]

口語訳彼らの目は、くらんで見えなくなれ、彼らの背は、いつまでも曲っておれ」。
塚本訳その目はくらんで見えなくなり、その背は常に(重荷の下に)かがむように。”
前田訳その目はくらんで見えなくなり、その背はつねにかがむように」と。
新共同彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」
NIVMay their eyes be darkened so they cannot see, and their backs be bent forever."
註解: 詩69:22、23 の引用で七十人訳とも少しく異る。神を信ずる一人の魂が不信仰なるその同族に迫害される心持を歌った詩で、引用の2節はその神の敵の上に神の(のろい)の下らん事を祈った処である。その大意は彼らが得意と歓楽とを以て食卓についているその場に忽然として神の審判の網が下り、彼らはこれに捕えられて逃れる事が出来ず、その宴楽が却て彼らの「(わな)となり」又「(あみ)となり」又「蹟物(つまづき)となり」て遂にこれによりて彼らは当然の「(むくい)を受けし事となり」而して、その捕網(とあみ)の中に捕えられて彼らの「眼はくらみ」その「背は(かが)められ」て如何にその網の中に藻掻(もが)いても彼らは逃れる事能わざる有様を示す。パウロの時代のユダヤ人はその律法の行為とユダヤ人たる事(ロマ9:4)とを誇り楽しんでいた。この宴楽が却て彼らをして神の(のろい)の下に立たしむる所以となるのである。以上2節によりイスラエルが如何に無感覚であるか、又如何に彼らの誇が彼らの(わな)となるの処があるかを示している。
辞解
[網] thêra は猟の獲物を指すと解する学者が多い(M0、G1)がこの場合詩35:8と同様網を意味す(Z0)。
[背を(かが)める] 網の中に捕われて藻掻(もが)く形。
[(むくい)] 彼らが自己の享楽に(ふけ)りキリストを(こば)みし事の「報」は必ず来なければならない。
[(つまづき)] 本来(わな)の中の滑り易き木片でこれが動いて(わな)に捕われる仕掛となっている部分を云う、従って落とし穴の意味にも用う。
[背を(かが)める] 非常な恐怖に俯伏(ふふく)する形又は網の中に捕われて頭を揚げ得ぬ形。

11章11節 されば(われ)いふ、(かれ)らの(つまづ)きしは(たふ)れんが(ため)なりや。(けっ)して(しか)らず、[引照]

口語訳そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。
塚本訳それで、わたしは考える、彼らが躓いたのは、倒れて滅びるためではあるまいかと。もちろん、そうではない。むしろ反対に、(キリストを信じなかった)彼らの過ちによって救いが異教人に来た。(そのことが刺激になって)彼らに“妬みをおこさせ、”(彼らも信仰を求めて、ついに救われ)るためである。
前田訳それでわたしは考えます、彼ら(イスラエル人)がつまずいたのは倒れてしまうためでしょうか、と。断じて否です。彼らの過ちによって救いが異邦人に及び、それによって彼らに妬みをおこさせるためです。
新共同では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。
NIVAgain I ask: Did they stumble so as to fall beyond recovery? Not at all! Rather, because of their transgression, salvation has come to the Gentiles to make Israel envious.
註解: イスラエルがイエスを信ぜずして蹟いた結果、彼ら全体が倒れ(墜落し)て再び立ち上る事が出来ず、永遠の亡に入るには(あら)ざるかとの疑問が起り得るけれどもそれは決して左に(あら)ず。イスラエルの不信仰は4、5節の如く部分的であるのみならず、又神の経綸の中にある一現象であり従って又一時的である。
辞解
[為なりや] 直訳「為ならずや」でその語意はロマ10:18、19の辞解と同一。但し「為」は軽い意味で(I0)倒れてしまう様になるのではないかとの意味に取る方可ならん。「為」を目的と見、神の目的と考える解釈あれど(M0、G1その他)疑わし。

(かへ)つて()落度(おちど)によりて(すくひ)異邦人(いはうじん)(およ)べり、

註解: これはイスラエルに取りても異邦人に取りても、全く思いがけない結果であって、神の経綸の御旨に帰するより外にない。
辞解
[落度] paraptôma は「罪」「咎」「律法違反」等の意味あり、要するに神より離れ落ちし不信の状態を云う。

これイスラエルを(はげ)まさん(ため)なり。

註解: イスラエルに対する神の愛は(あなど)らない、神はイスラエルの不信を利用して異邦人を救い給うのみならず、この異邦人の救を利用して又イスラエルに嫉みの心を起させ再び彼らを救わんと欲し給う。
辞解
[(はげ)ます] parazêloô は刺激を与えて熱心なる心、嫉みの心を起させる事。

11章12節 もし(かれ)らの落度(おちど)()(とみ)となり、その衰微(おとろへ)異邦人(いはうじん)(とみ)となりたらんには、まして(かれ)らの(かず)滿()つるに(おい)てをや。[引照]

口語訳しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。
塚本訳しかしもし、彼らの過ちが、(福音を外に溢れさせて異教人の)世界を富ませ、また彼らの失敗が異教人を富ませることになったとすれば、まして彼らが(一人のこらず信仰に入って神の御心を)満たす時(の幸福と喜びと)は、どんなであろう。
前田訳彼らの過ちが世の富となり、彼らの落度が異邦人の富となるならば、まして彼らの完成のときはどんなでしょう。
新共同彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。
NIVBut if their transgression means riches for the world, and their loss means riches for the Gentiles, how much greater riches will their fullness bring!
註解: パウロはイスラエルが罪に堕ちてさえ異邦人が恵まれる位であれば、ましてイスラエルが信仰を回復してイスラエル全体の数に満つるようになりたる場合を想像して、その時の全人類の被る祝福の絶大なるべき事を暗示している。▲本節及び25節に於て口語訳は plêroma を「全部救われる」と訳しているけれども、此の語は「一杯」 fulness を意味していて、「全部」 totality を意味していない。此の口語訳の訳し方は新約聖書の終末観を確かめる上に重大関係があり注意を要す。
辞解
[世] 神を離れし世界を指し、異邦人は神を離れし人類を指す、見方を異にせる同一物である。
[富] 神とキリストとを所有する者は何人よりも優れる富者である。
[衰微(おとろえ)] hêttêma 数に於て少くなった事、即ちイスラエルの中神を信ずる者、キリストの贖に与る者は極めて少数である。尚「衰微(おとろえ)」を「敗北」の意味に取る学者もある(I0)。又質の意味にも用い、Tコリ6:7の如く「失態」の意味もあり充つべきものが充ちず欠ける事。
[数満つる] plêrô 「満盈(まんえい)」の意味で数にも質にも用いられる。ここでは数について言っていると解すべきである(G1、M0、B1、I0等多数説)。
要義1 [信仰の本流と遺れる者(レムナント)] 信仰の本流は常に小数の遺れる者(レムナント)である。旧約時代に於て、それは祭司やレビ族になくして預言者にあった。キリストの時それはエルサレムの學者、教法師、祭司になくしてガリラヤの漁夫にあった。使徒時代に於てそれはユダヤ人に無くして異邦人にあった。人類の大勢は常に神を離れんとする傾向にある。基督教会もこの点に於て警戒する事を要する。
要義2 [人類の不信と神の経綸] 人類の不信は神に対する罪である。併し神はこの不信を利用して却てその経綸を発展し給う。イスラエルの不信もかかる結果となった。それ故にかかる結果を生ぜし事は不信の効果ではなく神の智慧の結果てある。
要義3 [イスラエルの救] パウロの希望に反して今日もユダヤ人はキリストを信ぜず、キリストの福音に対して反対の態度を取っている。従って祝福は異邦人に豊に及ばない状態にある。これ全人類の不幸である。その原因は異邦人がユダヤ人に対して誇り、ユダヤ人を迫害せし為と、未だ異邦人の数満つるに至らない為である(25節)。

3-(2)-(3) 異邦人の救とイスラエルの救の関係 11:13 - 11:31
3-(2)-(3)-(イ) 異邦人は救われし事を誇るべからず 11:13 - 11:24

11章13節 われ異邦人(いはうじん)なる(なんぢ)()にいふ、(われ)異邦人(いはうじん)使徒(しと)たるによりて(おの)(つとめ)(おも)んず。[引照]

口語訳そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務を光栄とし、
塚本訳しかしわたしはあなた達(ローマ集会の)異教人諸君に言いたいことがある。──わたしは異教人の使徒として、この自分の職務を重く考えて(全力尽して)いる。
前田訳あなた方異邦人にいいます。わたしは異邦人の使徒であるものとして、わが務めを名誉とします。
新共同では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。
NIVI am talking to you Gentiles. Inasmuch as I am the apostle to the Gentiles, I make much of my ministry

11章14節 これ(あるひ)()骨肉(こつにく)(もの)(はげ)まし、その(うち)幾許(いくばく)かを(すく)はん(ため)なり。[引照]

口語訳どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。
塚本訳それは、これによって同胞(イスラエル人)に妬みをおこさせ、そのうちの幾人かでも救うことができはしないかと思うからである。
前田訳それはいかにもしてわが同胞を妬ませ、その何人かでも救おうと願うからです。
新共同何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
NIVin the hope that I may somehow arouse my own people to envy and save some of them.
註解: パウロが異邦人の使徒として熱心に伝道している事は一見イスラエルを顧みざる非愛国的態度の如きも然らず、彼がその使徒職を重んずる所以は却てこれによりイスラエル人の若干を救わんが為である。ここにもパウロの偉大なる愛国心が現われている。
辞解
[異邦人なる汝ら] と云うより見てロマの信徒が大部分異邦人であった事が判明る。
[重んず] doxazô 「(たか)める」でパウロの熱心なる伝道によりてその使徒職に栄光あらしめた。

11章15節 もし(かれ)らの()てらるること()平和(へいわ)となりたらんには、()()()れらるるは、死人(しにん)(うち)より()くると(ひと)しからずや。[引照]

口語訳もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、死人の中から生き返ることではないか。
塚本訳なぜなら(前に言ったように、)もしイスラエル人の捨てられたことが(異教人へ福音の来る結果になり、)世界(と神と)の和睦(をもたらす機縁)になったとすれば、彼らが(悔改めて神に)受け入れられることは、それこそ死人の中からの命(への復活、すなわち神の国来臨の徴)でなくてなんであろう。
前田訳もし彼らの捨てられることがこの世の和解になるならば、彼らが受け入れられることは死人からいのちへでなくて何でしょう。
新共同もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
NIVFor if their rejection is the reconciliation of the world, what will their acceptance be but life from the dead?
註解: 神の敵たりし異邦人が福音を信じて神と(やわら)ぐに至る事(ロマ5:10Uコリ5:18、19。コロ1:20)は勿論大事件であるが、神の目に死んでしまったイスラエルが生き返る事は一層大なる事件である、イスラエルが信仰を得て受け納れられる事ありとするならば、それは取りも直さず死人の中より生れ出でし生命に外ならない。神の前には一層大なる喜びである。
辞解
[死人の中より活くると等しからずや] 直訳「死人の中より出でたる生命に非ずして何ぞや」となる。この「死人の中より出でたる生命」の意義につき種種の解あり、(1)最後の日の復活(M0)。(2)イスラエルの回心によりて起される異邦人の世界に於ける大なる霊的革命(G1)その他等種種の意味に用いられている。

11章16節 もし初穗(はつほ)(こな)(きよ)くば、パンの團塊(かたまり)(きよ)く、()()(きよ)くば、()(えだ)(きよ)からん。[引照]

口語訳もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、その枝もきよい。
塚本訳(こんな希望をもつことに不思議はない。神に供えた)初穂のパンが聖ければ、(残りの)捏粉も聖く、根が聖ければ、枝も聖い(ではないか。初穂であり根であるアブラハムその他の先祖が聖いのだから、その子孫のイスラエル人が聖いのは当然である。)
前田訳もし初穂のパンが聖ければ粉も聖く、根が聖ければ枝も聖いのです。
新共同麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。
NIVIf the part of the dough offered as firstfruits is holy, then the whole batch is holy; if the root is holy, so are the branches.
註解: 初穂の粉(辞解を見よ)及根に譬えられたのはユダヤ人の祖先であり、パンの團塊(かたまり)及枝に譬えられたのはユダヤ人の全体である。前者が神によりて聖め分たれた人々故従ってユダヤ人全体は神に聖別せられし民である事は当然である。
辞解
[初穂の粉] 原語 aparchê は「最初のもの」を意味し「御初」と云うに同じ、民15:17-21にパンを()ねる場合パン粉の團塊(かたまり)の中より最初に一塊をとりこれを焼きてはん祭としてエホバに奉納した。この御初が聖められて全團塊(かたまり)が聖きものと考えられた。これを穀物の初穂と解する事はこの場合に不適当である。
根と枝との関係は自ら明かである。

11章17節 ()しオリブの幾許(いくばく)(えだ)きり(おと)されて()のオリブなる(なんぢ)、その(うち)()がれ、(とも)にその()液汁(うるほひ)ある()(あづか)らば、[引照]

口語訳しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、
塚本訳しかし、(イスラエル人という栽培されたオリブの木の)いくらかの枝が切り取られ、それに野生のオリブの木から出た(異教人の)あなたが接木されて、オリブの脂肪豊かな根(の恩恵)を共有するものとなったのであるから、
前田訳しかしもし枝のいくつかが折り取られ、野生のオリブであるあなたがそれにつぎ木されて油の豊かな根をともにするならば、
新共同しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、
NIVIf some of the branches have been broken off, and you, though a wild olive shoot, have been grafted in among the others and now share in the nourishing sap from the olive root,

11章18節 かの(えだ)(むか)ひて(ほこ)るな、[引照]

口語訳あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。
塚本訳あなたはその(切り取られた)枝に対して自慢することはない。自慢したところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのである。
前田訳あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ってもあなたが根を支えるのでなく、根があなたを支えているのです。
新共同折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
NIVdo not boast over those branches. If you do, consider this: You do not support the root, but the root supports you.
註解: 17-24節に於てパウロはオリブの樹の譬を以てユダヤ人と異邦人基督者との関係を叙述している。不信のユダヤ人はきり落されしオリブの枝、信仰に入りし異邦人は野のオリブで真のオリブに接がれしものである、かくして異邦人は信仰あるユダヤ人の間に()して彼らと共に同じ根より同じ液汁を吸上げているのである、この共同の根は信仰によるアブラハムその他の父祖である。かく異邦人はユダヤ人の根より養分を採ることゆえ、彼に(むか)って誇ってはならない。
辞解
接木は普通の場合台木が野生木で接樹は培養木であるが、パウロはかかる些事(さじ)拘泥(こうでい)せず大体の比較を行った。尚野生の枝を接木して台木を若返らしむる方法もあるとの事。

たとひ(ほこ)るとも(なんぢ)()(ささ)へず、()(かへ)つて(なんぢ)(ささ)ふるなり。

註解: 異邦人の救はユダヤ人の父祖の信仰の流である。故にユダヤ人に対して誇ってはならない。基督教国はユダヤ人を迫害して、その恩恵を忘れている。
辞解
[たとい誇るとも] 「若し誇らば〔誇れ〕」

11章19節 (されば)なんぢ(あるひ)()はん『(えだ)()られしは()()がれん(ため)なり』と。[引照]

口語訳すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。
塚本訳するとあなたは言うだろう、「でも、枝が切り取られたのは、このわたしが接木されるためだ」と。
前田訳するとあなたはいうでしょう、枝が折り取られたのはわたしがつがれるためです、と。
新共同すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。
NIVYou will say then, "Branches were broken off so that I could be grafted in."
註解: 16-18節の理由よりは誇る事が出来ないので(されば)汝或は次の如くに言いてその優越を主張するかも知れない。曰く、イスラエルの枝の折られたのは異邦人が接がれん為で、神はそれだけ異邦人を重視し給う事になる訳である。

11章20節 ()(しか)り、(かれ)らは()(しん)によりて()られ、(なんぢ)信仰(しんかう)によりて()てるなり、(たか)ぶりたる(おもひ)をもたず、(かへ)つて(おそ)れよ。[引照]

口語訳まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。
塚本訳いかにもそのとおり。彼らは不信仰のゆえに切り取られ、あなたは信仰のゆえに(接木されて)りっぱに立っているのである。(だから)高ぶった考えをもってはならない、(神を)恐れよ。
前田訳よろしい。彼らは不信仰によって折り取られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶって考えず、おそれなさい。
新共同そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。
NIVGranted. But they were broken off because of unbelief, and you stand by faith. Do not be arrogant, but be afraid.
註解: パウロは一応この主張を容認している。併し神が異邦人を救い、イスラエルを棄て給いしは理由があるのであって、それはイスラエルの不信と異邦人の信仰である。而して信仰は何等自己の功績にあらず、神の賜物なるが故に(エペ2:8)高ぶるべきではない(Tコリ4:7)。信仰は(へりくだ)りたる心に非ざれば与えられない。又信仰を与えられし者は懼れ(おのの)いてその救いを全うしなければならぬ(ピリ2:12)。

11章21節 もし(かみ)(もと)()(えだ)(をし)(たま)はざりしならば、(なんぢ)をも(をし)(たま)はじ。[引照]

口語訳もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。
塚本訳本来の枝ですら容赦されなかった神である、(接木の)あなたに容赦されるはずがない。
前田訳神は本来の枝さえ容赦されなかったなら、あなたをも容赦されますまい。
新共同神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。
NIVFor if God did not spare the natural branches, he will not spare you either.
註解: 直訳「そはもし……給わざるべければなり」異邦人にして救われし者の高ぶらずして懼れなければならない理由は、接がれし枝は原木の技よりも一層神に棄てられる危険があるからである。

11章22節 (されば)(かみ)仁慈(なさけ)と、その嚴肅(きびしき)とを()よ。嚴肅(きびしき)(たふ)れし(もの)にあり、仁慈(なさけ)はその仁慈(なさけ)(とどま)(なんぢ)にあり、[引照]

口語訳神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。
塚本訳神の慈愛と厳しさとを見よ。(不信仰のゆえに)倒れた者には厳しさ、あなたには神の慈愛!(もちろん、)もしあなたがその慈愛を信じ続けているならば、である。そうでなければ、あなたも切り落される。
前田訳神のいつくしみときびしさをごらんなさい。倒れたものにはきびしさ、あなたには神のいつくしみがあります、もしあなたがいつくしみにとどまるならば。さもないと、あなたも切り落とされましょう。
新共同だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。
NIVConsider therefore the kindness and sternness of God: sternness to those who fell, but kindness to you, provided that you continue in his kindness. Otherwise, you also will be cut off.
註解: 神には仁慈(なさけ)厳粛(きびしき)との二つの性質があり、各々その場合に従って働く、不信の故に倒れし(落ちし)イスラエルには厳粛(きびしき)なる審判が臨み、信仰によりて仁慈(なさけ)に止りその中に在りて動かない異邦人には仁慈(なさけ)が臨んだ。
辞解
[仁慈(なさけ)] chrêstotês は親切なる行為、

()しその仁慈(なさけ)(とどま)らずば、(なんぢ)()()らるベし。

註解: 信仰はこれに永住する事を要する。一度信仰に入りたる者は永遠に亡ぶる事なしと云う事は出来ない。

11章23節 (かれ)らも()()(しん)(とどま)らずば、()がるることあらん、(かみ)(ふたた)(かれ)らを()得給(えたま)ふなり。[引照]

口語訳しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。
塚本訳また彼ら(切り落された者)も不信仰を続けていないならば、(もとのオリブの木に)接木される。神はもう一度彼らを接木する力をお持ちになっている。
前田訳彼らも、不信仰にとどまらないならば、つがれましょう。神にはふたたび彼らをつぐ力がおありです。
新共同彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。
NIVAnd if they do not persist in unbelief, they will be grafted in, for God is able to graft them in again.
註解: 切り去られし枝なる不信のイスラエルも悔改めて神に立ち帰るならば、神は再びこれを接ぐ事を得給う、ここにイスラエルの希望がある。

11章24節 なんぢ生來(せいらい)()のオリブより()()られ、その生來(せいらい)(もと)りて()きオリブに()がれたらんには、まして(もと)()のままなる(えだ)(おの)がオリブに()がれざらんや。[引照]

口語訳なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。
塚本訳本来野性のオリブの木から切り落されたあなたが、本性に反して、栽培されたオリブの木に接木されるくらいであるから、ましてこれらの本来の枝が、自分のオリブの木に接木されない訳がないではないか。
前田訳あなたは本来野生のオリブから切り取られ、本性に反して栽培されたオリブにつがれたのなら、ましてこれら本来の枝は自分のオリブにつがれましょう。
新共同もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。
NIVAfter all, if you were cut out of an olive tree that is wild by nature, and contrary to nature were grafted into a cultivated olive tree, how much more readily will these, the natural branches, be grafted into their own olive tree!
註解: (▲口語訳の「良き」「もっとたやすく」は意訳の敷衍。)かく言いてパウロは異邦人基督者にその(みだり)に誇るべからざる事を示すと同時に、不信のユダヤ人に対しても絶望すべからざる事を教えている。
辞解
[原樹(もとき)のままなる] 、「生来のままなる」。 
要義1 [ユダヤ教と基督教との関係] パウロは他の使徒たちと異り基督教を全くユダヤ教と絶縁せるものとして教えし事を主張する學者があるけれども11:17より見てその然らざる事を知る事が出来る。パウロによれば基督教はユダヤ教の形式と律法とよりは絶縁しているけれども、その信仰は父祖の信仰の上に築かれし共通の建物であり、同一の根より養分を吸取る枝であって、他の使徒との間に相違が無かった。神との関係に於てユダヤ人は飽くまで本流である。
要義2 [信仰に止る事の必要] 神との関係は活ける生命の関係であって、従って常に活動し決して固定せる不動の関係ではない。神の愛とその救は不動の事実であるが、これに対する人間の心は常に動揺する。故に常に自己の弱きを知りて常に神の仁慈(なさけ)の中に止まらなければならない。一度信仰に入りたるものは決してその信仰を失う事なしとする説、叉神の(えらび)は永遠不動なるが故に一度救われし者は最早や安心なりとする説は生命の語を機械的に解するの誤に陥っている(パウロは一面に神の(えらび)の御旨の不変なる事を述ぶると共に(ロマ9:11)人の信仰の可動を唱えてこの矛盾を調和せんとしない。この雙方とも事実なるが故である)
要義3 [誇る勿れ] 基督者がユダヤ人に対して誇ったのは非常なる誤であった。その過誤は今日までに至っている、同様に新教々会はカトリックに誇ってはならない。旧き信仰団体の不信仰のために新に目覚めて信仰に入りたる者は凡てその本家先輩に対して誇ってはならない。

3-(2)-(3)-(ロ) イスラエルの救と異邦人の救とは相互関係あり 11:25 - 11:31

11章25節 兄弟(きゃうだい)よ、われ(なんぢ)らが自己(みづから)(さと)しとする(こと)なからん(ため)に、この奧義(おくぎ)()らざるを(ほっ)せず、(すなは)幾許(いくばく)のイスラエルの(にぶ)くなれるは、異邦人(いはうじん)()(きた)りて(かず)滿()つるに(およ)(とき)までなり。[引照]

口語訳兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、
塚本訳兄弟たちよ、この秘密を知らずにいてもらいたくない、あなた達(異教人諸君)が、自分は賢い(からこの特権を得た)などとうぬぼれることのないために。一部のイスラエル人が頑なになって(キリストを信ぜずに)いるのは、異教人が(信仰に)入って定数に満ちるまでであり、
前田訳兄弟たちよ、この奥義を知らずにいないでください。それはあなた方が自分を賢いと思いあがらないためです。奥義とは、一部のイスラエルが頑になったのは異邦人の完成が訪れるときまでで、
新共同兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、
NIVI do not want you to be ignorant of this mystery, brothers, so that you may not be conceited: Israel has experienced a hardening in part until the full number of the Gentiles has come in.
註解: パウロはここにイスラエルが不信に陥れる事の意義を明かにせんとしているのであって、イスラエルの一部が不信に陥ったのは異邦人の間に福音が伝えられて充分に多数の異邦人が信仰の入り来る時までの事であって、決して永遠に然るのではない。その時に至って全イスラエルは救われるに至るであろう。これが神の経綸でありパウロに示されし奥義である。この事を知らずして(みだり)なる解釈をして自己を聡しと思ってはならない。
辞解
[奥義] mystêrion「神秘」を意味し人間の知識を以て知る事が出来ず、神の黙示によりて示されし真理を指す。故に場合によりキリスト教の真理の全体を指す事もあり(ロマ16:25Tコリ2:1エペ1:9コロ2:2)又その一方面を指す事もあり(エペ3:2コロ1:26以下。Tコリ15:51)。
[幾許(いくばく)の] 原語「部分的に」即ちイスラエル人の一部にの意。
[鈍くなれる] 7節辞解参照。
[数満つる ] plêrôma (1)全異邦人(M0、G1、I0、E0)、(2)あらゆる種類の国民(A1)、(3)異邦人の大部分(B1)等種々に解せらる。全イスラエルが救われし後にも救わるべき異邦人が残っているのを見れば(11、121531節)(3)の如くに解する事が適当である。即ちこの「数」は神の御旨の中にある数である。
▲口語訳「全部救われる」については辞解及び12節脚注参照。

11章26節 かくしてイスラエルは(ことご)とく(すく)はれん。(しる)して『(すく)(もの)シオンより()(きた)りて、ヤコブより不虔(ふけん)()(のぞ)かん、[引照]

口語訳こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。
塚本訳こうして(イスラエル人は異教人が妬ましくなり、悔改めて信仰に入り、)イスラエル人全部が救われる、ということである。(聖書に)書いてあるとおりである。“シオンから救済者が来て、ヤコブ(の子孫)から不信心を遠ざけるであろう。
前田訳こうして全イスラエルが救われよう、ということです。聖書に、「救い手がシオンから出、ヤコブから不信を遠ざけよう。
新共同こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、/ヤコブから不信心を遠ざける。
NIVAnd so all Israel will be saved, as it is written: "The deliverer will come from Zion; he will turn godlessness away from Jacob.

11章27節 われその(つみ)(のぞ)くときに(かれ)らに()つる()契約(けいやく)(これ)なり』とあるが(ごと)し。[引照]

口語訳そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。
塚本訳──これが彼らと立てる私の契約である、”“彼らの罪をわたしが取り除くその時に。”
前田訳これこそ彼らとのわが契約、彼らの罪をわたしが除くそのときに」とあるとおりです。
新共同これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、/彼らと結ぶわたしの契約である。」
NIVAnd this is my covenant with them when I take away their sins."
註解: パウロは全イスラエルの救われる事を信じて疑わなかった。現在の不信は唯その処に達する迄の段階に過ぎないと云うのがパウロの信念であった。引用聖句はイザ59:20、21及びイザ27:9(七十人訳)で先づヤコブ即ち全イスラエルよりその不虔(ふけん)と罪とを除きて然る後に彼らに祝福を与えん事を約束し給える箇所である。故に全イスラエルの救わるべき時は必ず来るに相違ない。
辞解
[イスラエルは(ことご)とく] 即ち全イスラエルで霊のイスラエルの意味ではなく、国民としてのイスラエルを意味する。
[救う者] メシヤ。
[シオンより] シオンはエルサレムの神殿のある山、イスラエルの信仰の中心をなす、「神より」と云うに同じ。

11章28節 福音(ふくいん)につきて()へば、(なんぢ)()のために(かれ)らは(てき)とせられ、(えらび)につきて()へば、先祖(せんぞ)たちの(ため)(かれ)らは(あい)せらるるなり。[引照]

口語訳福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。
塚本訳(思えば不思議な神の計画である。)彼らは、福音の点から言えば、あなた達(の救い)のために(福音をしりぞけて神の)敵になっており、(神の)選びの点から言えば、先祖たち(に対する契約)のお蔭で(今もなお神に)愛される者である。
前田訳福音によれば、彼らはあなた方ゆえに(神の)敵となり、選びによれば父祖たちのゆえに(神に)愛されるものです。
新共同福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
NIVAs far as the gospel is concerned, they are enemies on your account; but as far as election is concerned, they are loved on account of the patriarchs,
註解: 本節以下にパウロは全人類に対する神の救の経綸を要約する。先ずイスラエルは神に敵とせられ同時に愛せられると云う二つの関係に立っている。彼らは選民たると同時に福音を拒んで居るからである。
辞解
[福音につきて云えば] 福音を受けざりし故
[(えらび)につきて云えば] 彼らは選民なる故である。尚「選び」を「(えらび)によりて(のこ)れるもの」の意味に解する説(M0)あれどこの場合不適当である。
[汝らのために] 汝らの救われん為、
[先祖たちの為] アブラハム、イサク、ヤコブ等を神は愛し給いこれ等に約束を与え給いし故、
[敵] 神を敵とする事(B1)にあらず神に敵とされる事(M0、G1、I0)

11章29節 [それ](そは)(かみ)賜物(たまもの)(めし)とは(かは)ることな[し](ければなり)。[引照]

口語訳神の賜物と召しとは、変えられることがない。
塚本訳神の賜物も招待も、(一旦与えられた以上は永遠に)取り消されないからである。
前田訳神の賜物も招きも取り消されないからです。
新共同神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
NIVfor God's gifts and his call are irrevocable.
註解: 前節後半の理由の説明、一且召し給い一且賜物を与え給える後に神がこれを後悔して引込め給う事は絶対にないから。
辞解
[賜物] 召命に相応しき種々の能力を賜う。
[変ることなし] ametamelêtos は「後悔して取消す事はない」との事。

11章30節 (なんぢ)(まへ)には(かみ)(したが)はざりしが、(いま)(かれ)らの不順(ふじゅん)によりて(あはれ)まれたる(ごと)く、[引照]

口語訳あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、
塚本訳すなわち、かつては神に不従順であったあなた達が、今はこの人たちの不従順によって(神に)憐れみを施されたと同じに、
前田訳かつてはあなた方が神に不従順であって、今はこれらの人の不従順によってあわれまれたように、
新共同あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。
NIVJust as you who were at one time disobedient to God have now received mercy as a result of their disobedience,

11章31節 (かれ)らも(なんぢ)らの()くる憐憫(あはれみ)によりて(あはれ)まれん(ため)に、(いま)(したが)はざるなり。[引照]

口語訳彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。
塚本訳この人たちも今はあなた達の受ける憐れみに対して不従順になっているが、これは今(すぐにも)憐れみを施されるためである。
前田訳これらの人も今はあなた方のためのあわれみに不従順ですが、それは彼らも、今あわれまれるためです。
新共同それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。
NIVso they too have now become disobedient in order that they too may now receive mercy as a result of God's mercy to you.
註解: 彼ら即ちイスラエルの不信仰(不順)も異邦人の信仰(憐憫(あわれみ)によりて救われて信仰に入りし事)も、神が全人類を救わんが為の階段であって、神の愛は人間の不信仰をも信仰をも皆その経綸の為に用いずに置き給わない。故にイスラエルが不信仰であっても決して絶望的ではなく、異邦人の信仰によりて激励せられてやがて信仰を得るに至るであろう。
辞解
[▲憐憫(あわれみ)によりて憐まれん] 口語訳の如く、此の前に「今」がある原本が多い。「後に」とある少数の原本もあるが改訂と思われる。意味の上から「今」は無い方が良い。本来無かったのがアレキサンドリヤ系統の写本に入って来たのであろう(Z0)。

3-(2)-(4) 全人類の救と神の知識 11:32 - 11:36

11章32節 (かみ)(すべ)ての(ひと)(あはれ)まんために、(すべ)ての(ひと)不順(ふじゅん)(うち)取籠(とりこ)(たま)ひたり。[引照]

口語訳すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。
塚本訳つまり神はすべての人を不従順の中に閉じこめられたが、これはすべての人に憐れみを施すためであった。
前田訳神はすべての人を不従順へとお閉じ込めでしたが、それはすべての人をおあわれみになるためでした。
新共同神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
NIVFor God has bound all men over to disobedience so that he may have mercy on them all.
註解: 救は神の憐みにより、決して人の功績によらない。故に不順(不信仰)の何たるかを知れるものにして始めて神の憐みによる救の何たるかを知る。これが為に神は異邦人のみならず、神の律法を遵守する事を誇っているユダヤ人をも不信の中に閉籠め給うた。これ全人類を神が憐まんが為である。神は全人類をあわれみの中に取人れ給うまでは満足し給わない。尚「万人救済説」については要義を見よ。
辞解
[凡ての人] (1)凡ての選ばれし者(オルスハウゼン)、(2)凡ての不信のユダヤ人(Z0)、(3)凡ての種族、即ちユダヤ人も異邦人も(I0)、(4)全人類(M0、G1、B1)、第4節を採る。但し凡ての人が信仰に入るや否やは別問題なり。
[取籠め] (かこい)の中に入りて錠を卸す事、又は転じて「渡す」「付す」「委付す」の意味にも用いらる。

11章33節 ああ(かみ)智慧(ちゑ)知識(ちしき)との(とみ)(ふか)いかな、その審判(さばき)(はか)(がた)く、その(みち)(たづ)(がた)し。[引照]

口語訳ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。
塚本訳ああ、神の富と知恵と知識との深さよ!なんとその裁きの探りがたく、(なんと)その(お歩きになる)道の不可解なことよ!
前田訳ああ、神の富と知恵と知識の深さよ、なんとその裁きのきわめがたく、その道のはかりがたいことでしょう。
新共同ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
NIVOh, the depth of the riches of the wisdom and knowledge of God! How unsearchable his judgments, and his paths beyond tracing out!
註解: パウロに取りて最も悲しき事実であったイスラエルの不信も結局に於て神が万人を救わんとし給う経綸の一階段に過ぎない事を見てパウロの心は驚異と讃美とに充されざるを得ず、ここに大なる叫びとなってあらわれた。9章以下の思索の頂点としてパウロはここに達したのである。
辞解
前半を「ああ神の富と智慧と知識は深いかな」と読む説多し(M0、B1、I0、C2、Z0)、改訳の如く読む説(G1、C1、L1)よりもこの方可なり。(▲日本語の口語訳及び文語訳は共に tou を含まない少数写本に由ったものであろう。RSV は之に由らない。)「智慧」と「知識」は本節後半、及び34節「富」は35節に対す、
[富] 一般に神の栄光(ロマ9:23エペ1:18エペ3:16)・恩恵(エペ1:7エペ2:7)等に豊なる事。
[智慧] sophia は神がその経綸を行い給う計画手段方法の巧さに関し、
[知識] これに関係するあらゆる事実に対する認識に関する。
[審判] と「途」は神の智慧に関する事で
[測り難し] 底まで測量する事が出来ない事。
[尋ね難く] 終局まで途をたどり得ざる事。

11章34節 『たれか(しゅ)(こころ)()りし、(たれ)かその議士(はかりびと)となりし。[引照]

口語訳「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。
塚本訳“だれが主の御心を知ったか。だれがその顧問になったのであるか。
前田訳だれが主のみ心を知りましたか。だれが彼の相談役になりましたか。
新共同「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。
NIV"Who has known the mind of the Lord? Or who has been his counselor?"
註解: 前半は神の知識に関する事で如何なる人間も神の心を知る事が出来ず、神の知識を量る事が出来ない。神は唯独りその大なる知識に従い凡ての事を行い給う、イスラエルの救も亦その一つの例である。後半は神の智慧に関する事で、神は事を行い給う時何人にも相談する必要の無き事を示す、イザ40:13(七十人訳)の引用である。
辞解
[議士(はかりびと)] sumboulos 一処に考慮してくれる人、相談役。

11章35節 たれか()(しゅ)(あた)へて()(むくい)()けんや』、[引照]

口語訳また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。
塚本訳だれがまず主に差し上げてそのお返しをいただくことができるか。”
前田訳だれがまず主に差しあげて、そのお返しを受けえましょう。
新共同だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」
NIV"Who has ever given to God, that God should repay him?"
註解: ヨブ41:3のヘブル原典よりの引用。神の富の満盈(まんえい)を示す、何人も先づ彼に与えて彼より謝礼を受くる事が出来ない。神には不足は無い。
辞解
[報を受く] 対價を受くる事。

11章36節 これ(すべ)ての(もの)(かみ)より()で、(かみ)によりて()り、(かみ)()すればなり、[引照]

口語訳万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。
塚本訳すべては、彼から出て、彼によって保たれ、彼に帰する。栄光は永遠に彼のものである、アーメン。
前田訳すべては彼から出、彼にたより、彼に帰します。栄光がとこしえに彼にありますように。アーメン。
新共同すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
NIVFor from him and through him and to him are all things. To him be the glory forever! Amen.
註解: 神は創造者に在し給うが故に万物の起源は神にあり、神は万物を支配し給うが故に万物は神によりて進展し、神は万物を自己の栄光の為に働かしめ給うが故に万物は神に帰す、富と知恵と知識との深さを持ち給う神は実に万物の主に在し給う。不可解なるが如き人類の歴史も神はその御手の中に適当に導き給う。人間は唯神の御名を讃美し奉るより外に無い。
辞解
[より出で] ek 、
[によりて成り] dia 、
[に帰す] eis なる前置詞によりて簡明に記されている(コロ1:16)。
[神の中より出で神を通過し神の中に入る] 神の絶対の支配の下にある事。

榮光(えいくわう)とこしへに(かみ)にあれ。アァメン。

註解: 恩恵と真理に充ち給う神、智慧と知識と富とに溢れ給う神、これらこそ神の栄光であって永遠に彼を離れる事はない。アーメン、パウロは第8章の終に於て(あたか)も富嶽の頂上に達せる如き歓声を揚げ、ここに又9-11章に於て世界人類の歴史を視て、神の驚くべき経綸を知り心よりそのおどろきと讃美の声を発したのである。
要義1 [万人救済説に就て] 世の終に於て神は古今東西の全人類を必ず救い給うと云う事は聖書よりこれを断言する事が出来ない。唯聖書に明かなる事は神は一人の亡ぶるをも望み給わず(Tテモ2:4)、悔改に至らん事を望みて永く耐忍し給う(Uペテ3:9)事である。故に神はキリスト以前に死せる凡ての人、福音を聴かざる凡ての人、聴きてもこれを信ぜざりし凡ての人にも尚その救の御手を伸べ給いつつあるにはあらざるかと想像される(但しこれは我らとは関係なき奥義故神はこれを我らに啓示し給わない)。但し如何なる場合に於ても信仰なしに、即ち神に対する従順無しに神の救に与る事を得ず、又神は人の自由意思を強制的に圧迫し給わない故、万人が必ず救われると云う事は断言する事が出来ない。但し神は万能に在し給うが故に遂には何らかの途によりて凡ての人をその憐みの中に取入れ給うと云う事は決して考え得ない事ではない。唯我らは(みだ)りにこれを断定し得ないだけである。
要義2 [イスラエルの救] パウロは全イスラエルが救われる事を確信しているのであるが(26節)、このイスラヱルの救は旧約聖書の預言の中に示される如き意味の救、即ちイスラエルの地上に於ける国の建設、パレスチナの回復等を意味するやと云うに、パウロは決してかく考えなかった。新約時代に至りては旧約時代の約束は凡てキリストによりて霊的に完成するに至ったのであって、旧約時代の預言をそのまま文字的に成就すべしとは考えず、又かく考うる事はキリストの御業を空しくする事であった。故に全イスラエルの救とはパウロに取りては当然全イスラエルがキリストを信ずるに至る事を意味するものと見なければならない。
附記 [パウロの旧約聖書引用法] 主として七十人訳より引用し(84箇所の引用の中約70は七十人訳と(ほぼ)近接し、12は可なり異り、2箇所のみヘブル原典に一致している――カウチ)、且つ記憶よりの引用であるらしく逐語的に一致しているものは極めて少い。而して当時のラビの行いし如く時には異れる箇所を結合して引用した場合も有る。而して引用の中には旧約聖書の原節の有する意味をそのまま活用せる場合が多い事勿論であるが、中にはロマ10:6-8、ロマ10:18等の如く単に旧約聖書の文字のみを用いてパウロ自身の思想を発表せる場合もある、但し時には原節の有せざる意味を持たしめている場合、即ち原節が証明せんとせざりし思想を証明する為に引用されし場合も多い。歴史的研究の発達せる今日、及び論理的証明力の明瞭となりし今日パウロの時代と同様の引用法を以て旧約聖書より引用してある信條又は思想を証明する事は為すべきではない。併し乍らパウロの引用法が今日より見て正しくないからとてパウロの根本思想が正しくないと云う事は出来ない。その証拠に今日の人々に取りてはこれらの引用無しにも充分に信奉し得る思想であるより見てもこれを知る事が出来る。この種の証明法は当時のユダヤ人に取って有効であった。故にパウロがこれを用いた事は賢明な態度であった。

ロマ書第12章

分類
4 実行論 12:1 - 15:13
4-(1)-(1) 信仰より行為への通路 12:1 - 12:2

註解: 信仰救済諭は第11章にて終を告げ、本章よりは一転して信仰の適用、即ち実際生活の原理を叙述する。パウロの書簡の中この形式によるものが多い。

12章1節 されば兄弟(きゃうだい)よ、われ(かみ)のもろもろの慈悲(じひ)によりて(なんぢ)らに(すす)む、[引照]

口語訳兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
塚本訳(このように、神は偉大な計画によって人類を一人のこらず救おうとしておられるのであって、救いは確かである。)だから、兄弟たちよ、わたしは神のこの慈悲を指してあなた達に勧める。あなた達の体を(感謝のしるしとして神に)捧げよ。この生きた聖なる犠牲こそ、神のお気に入るものであり、(霊なる神を拝むにふさわしい、)あなた達の霊的な礼拝である。(あなた達の礼拝は動物を供えるような不合理なものでなく、全心全霊をささげる合理的な礼拝でなければならならない)
前田訳それゆえ、兄弟たちよ、神の慈悲にたよってあなた方に勧めます。あなた方の体を、生き生きとした、聖らかな、そして神のお気に召すいけにえとしておささげなさい。それがあなた方の霊的な礼拝です。
新共同こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
NIVTherefore, I urge you, brothers, in view of God's mercy, to offer your bodies as living sacrifices, holy and pleasing to God--this is your spiritual act of worship.
辞解
[されば] oun は1-11章に於ける救済即ち義とされる事潔められる事、栄化される事及この救が神の(あわれみ)によりて全人類に及ぶを叙べ終りたる故、汝らはかかる大なる救に預りたる以上はとの意。理論より実行に移る回転軸をなす語。エペ4:1ガラ5:1、2。コロ3:1Tテサ4:1Uテサ3:6參照。パウロはこれより言わんとする処を彼らに命ぜずして勤めているのは実行に於て自己を彼らと同じ地位に置くからである。
[もろもろの慈悲によりて] 神の(あわれみ)によりてこの大なる救に(あずか)り、その感謝に(あふ)れての意。

(おの)()(かみ)(よろこ)びたまふ(きよ)()ける供物(そなへもの)として(ささ)げよ、これ(れい)(まつり)なり。

註解: 我らの霊は既に信仰によりて新生し神のものとなりたれば(されば)その新生の霊の宿る処たるこの身体をも神のものとして、神に対する供物として捧ぐべきである。而してこの供物即犠牲(いけにえ)は旧約の犠牲の如き死ねる物たるべからず、生きて働くものたる事を要し、又潔くして聖別せられ従ってあらゆる汚穢(けがれ)より遠ざかれるものたるを要し、又神の御意に叶うものでなければならない、これ救われし霊に課せられし任務であり為すべき当然の神への奉仕(礼拝)である。
辞解
[身] sôma 「身体」を意昧する、霊は既に神に捧げられている故(ロマ6:16)体をささげる事が必要となって来る。
[これ霊の祭なり] 誤訳ではないが、(むし)ろ「これ道理に叶える礼拝なり」と訳すべきで(M0、G1、I0、B1、C1)旧約時代はそれに相当せる礼拝の方法が有ったけれども、新約時代に至ってはかくして已が身をささげる事がその救の性質に相応せる礼拝である。形式的礼拝、動物の犠牲等は新約の必要物ではない。
[潔] からざるものは異教のささげものであり、「生命なき」ものは旧約の犠牲である、これらは何れも「神の悦び給う」処ではない。

12章2節 (また)この()(なら)ふな、[引照]

口語訳あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
塚本訳また、この世に調子を合わせてはならない。むしろ反対に、何が神の御心であるか、何が善であり、お気に入るものであり、また完全であるかを見分け得るために、(御霊によって)心を一新されて自分を造りかえていただけ。(そうすれば来るべき世への準備ができる。)
前田訳また、この世の型にはまらず、新しい精神で自らを変容し、何が神のみ心か、善か、お気に召すか、完全か、を見わけうるようになさい。
新共同あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
NIVDo not conform any longer to the pattern of this world, but be transformed by the renewing of your mind. Then you will be able to test and approve what God's will is--his good, pleasing and perfect will.
註解: この世より選び出されて神に己をささげし基督者はこの世と同じ流行を逐い、同じ形態のものを求める者、即ち神に背き已の利を求め肉の慾求を追う生活を送るものとなってはならない。Tヨハ2:15-17。
辞解
[世] aiôn で人類歴史の全時間は幾つかのアイオーン「世代」に分たれていると見られている。各世代が夫々特有の意義あり、その結果「世」と云う語が道徳的意義を有するに至っている。従て kosmos 「世」と異る。
[(なら)ふ] suschêmatizô で schêma=scheme 流行、習慣、形態(外部的)を sun 共にする事。尚本節末尾の「心を更へて」と対比せよ。

(かみ)御意(みこころ)(ぜん)にして(よろこ)ぶべく、かつ(まった)きことを(わきま)()らんために、(こころ)()へて(あらた)にせよ。

註解: 私訳「善にして悦ぶべく且つ全き神の御意を弁別せんために心を新にして化体せよ」基督者に必要な事は化体する事、即ち生活の外部的形態のみならず、その内部から一変する事である。これには心即ち理解、判断、思考等を凡て従来とは全く異ったものに一変しなければならぬ。かくして始めて神の御旨を弁別する事が出来る。この世に(なら)う者は神の御意を知る事が出来ない。基督者はその霊が新なるものとなりしと共にその心もその生活態度も全く一変しなければならない。
辞解
[善にして云々] 「神の御意」の形容詞と見るを可とす(G1、I0)。▲口語訳 RSV は之らを独立の語と解した。
[(わきま)へ知る] 「弁別する」 dokimazô は試験して見分ける事。
[心] nous は霊 pneuma と異り人間本来の理解力思考力判断力等を意味し、この心が霊の力によりて「新たにされる」。
[()へて] 私訳「化体せよ」metamorphoomai 本質の表顕としての形体が変化する事の意味で、動物の変態metamorphosis にもこの語を使用している。尚マタ17:2Uコリ3:18の場合を見よ、又本節前半の「(なら)ふ」との微妙なる差異に注意すべし。
要義1 [信仰より行為への通路] 己が身を供物として神にささげる事(12:1)と心を新にして化体する事(12:2)とは、信仰そのものでもなく行為そのものでもない。(あたか)も信仰より行為に通ずる通路の如きものである。この二つのものなしには信仰は行為となって動き出す事が出来ない。この二者は新に生れし者の神に対する奉仕、神に事うるの途であり、又神の子とせられし者の取るべき当然の態度である。 
要義2 [合理的礼拝] 基督者は皆祭司である。祭司がその一生を神殿の礼拝にささげ、その毎日の生活も礼拝を以て送ると同じく基督者の生涯も亦礼拝の生涯でなければならない。但し基督者の礼拝は特定の場所に於て、一定の形式により一定の祭司によりて為される形式的礼拝ではない。神の霊によりて新生せる者に相応しき如くに、その身体を(ことごと)くささげて行う礼拝でなければならない。故にその礼拝の場所は家庭、台所、工場、學校、事務所、役所であり、その祈は彼らの焼く香である。凡ての日、凡ての時が礼拝の時であり、凡ての活動が礼拝の動作である。神はかかる態度を以て神に事うるものを悦び給う。
要義3 [潔き活ける供物] 「潔き」は聖別せられしものとして、キリストの血によって凡ての(けがれ)が洗い去られしものを意味する。人若し潔からずば神に見ゆる事を得ず、神にささぐべきこの身体は、凡ての(けがれ)より洗われし者である事を要する。信仰は罪のまま彼に倚り頼む事である。献身は潔められし者の神への己身(こしん)委譲である。故に凡ての基督者は献身しなければならない。否献身したものである。
要義4 [この世に(なら)うな] この世の流行を逐い、その習慣に束縛せらるる事は、基督者の取るべき態度ではない。基督者はその霊が新にせられし如くその心も亦新なる心とならなければならない。時代思潮と共に流動し時代の習性に(したがい)て移るは基督者の心ではない。基督者は全く新なる標準に従い新なる姿を持たなければならぬ。故にこの世が自然主義的となれば教会も自然主義を唱え、マルクス主義が流行すればマルクス主義に近寄り、世の軍国主義と共に軍国主義となる事の如きは基督者の態度と云う事が出来ない。
要義5 [新なる心と新なる姿] 基督者の心はその新なる霊の影響の下に、全く新なるものとならなければならない。従って基督者の判断も理解も皆新となり、一般の人々と異れる立場より為され異れる結論に達する。それ故に基督者はある意味に於て変り者である。思想も判断も凡てこの世の人々と同一であるならば、それは基督者ではない事の証拠である。而してかかる新なる心を以て生くる者は、自然その姿も亦新なるものとなる。基督者は必ず異色ある存在となる。

4-(1)-(2) 愛と謙遜 12:3 - 12:21
4-(1)-(2)-(イ) 謙遜 ─ 体と肢 12:3 - 12:8

12章3節 われ(あた)へられし恩惠(めぐみ)によりて(なんぢ)()おのおのに()ぐ、[引照]

口語訳わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。
塚本訳それでわたしは、(神から)賜わった恩恵、(この使徒の権威)によって、あなた達のひとりびとりに忠告する。思うべき限りをこえて思いあがらぬように、神がめいめいに分けあたえられた信仰の量を思って、謙遜な思いをもつように。
前田訳わたしは与えられた恩恵によって、あなた方ひとりひとりにいいます。思うべきことをこえて思いあがらぬように。神が分かたれた信仰の量に従って節度ある思いをするように。
新共同わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
NIVFor by the grace given me I say to every one of you: Do not think of yourself more highly than you ought, but rather think of yourself with sober judgment, in accordance with the measure of faith God has given you.
辞解
第1節の「勧む」よりも一層強く「告ぐ」と云いて殆んど命令の如き意味をあらわしている。
[与えられし恩恵] 使徒職を意味し、これよりパウロは教会の状態は如何にあるべきかにつき述べている。而して信者同志の生活に於て第一に必要な事は謙遜であって各々その分に従うべき事である。

(おも)ふべき(ところ)()えて自己(みづから)(たか)しとすな。(かみ)のおのおのに(わか)(たま)ひし信仰(しんかう)(はかり)にしたがひ(つつし)みて(おも)ふベし。

註解: 人は各神よりある分量(その結果種類性質も自然に異って来るのであるが)の信仰を分配されている、その分に応じて自已の価値、職掌、立場等を判断すべきである。信仰の弊は自らを高く評価し過ぐる点にある。
辞解
原文には修辞法を用い、「思う」phronein 「自己を高しとする」huper-phornein、「慎む」sô-phroneinの三語を以て巧に表顕されている。
[慎む] sôphroneô は均整の取れた考え方又は心持を意味し、自己に与えられし信仰の量以上にも以下にもあらざる思い方を言う。人は自然自己を高めんとする傾向を有する故この語は又已を制御する意味にも用いられる。「慎む」はこの意味の訳語であろう。

12章4節 (ひと)(ひと)(からだ)におほくの(えだ)あれども、(すべ)ての(えだ)その運用(はたらき)(おな)じうせぬ(ごと)く、[引照]

口語訳なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、
塚本訳なぜなら、わたし達には一つの体に多くの器官があるが、すべての器官が同じ働きをしないと同様に、
前田訳われらのひとつ体には多くの肢があり、すべての肢が同じはたらきをするのではないように、
新共同というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、
NIVJust as each of us has one body with many members, and these members do not all have the same function,

12章5節 (われ)らも(おほ)くあれど、キリストに()りて(ひと)(からだ)にして、各人(おのおの)たがひに(えだ)たるなり。[引照]

口語訳わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。
塚本訳わたし達(信者)も大勢が(全体としては)キリストにおいて一つの体であり、一つ一つとしては互が互の器官であ(って、互に補い合うからであ)る。
前田訳大勢のわれらはキリストにあってひとつ体であり、おのおのが互いの肢です。
新共同わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
NIVso in Christ we who are many form one body, and each member belongs to all the others.
註解: 「従って各人互にその使命を異にす」を附加えて読むべし。キリストは首、教会はその体である(エペ5:30コロ1:18)。身体の各部目、耳、手、足等各その運用を異にするけれど互に助け合いて一つ身体を完成する如く、教会の各人も信仰によりてキリストに連りて一つ体となり各人はその肢となる。この関係はTコリ12章に詳述されている。

12章6節 われらが()てる賜物(たまもの)はおのおの(あた)へられし恩惠(めぐみ)によりて(こと)なる(ゆゑ)に、[引照]

口語訳このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、
塚本訳(すなわち)わたし達は与えられた恩恵(の分量と種類と)に応じて、(ひとりびとりが)ちがった賜物を持っているのだから、(たとえば、)預言(の力)を持っているなら、信仰の量に応じて預言せよ。
前田訳われらは与えられた恩恵に従って違った賜物を持っていますから、預言の賜物を持つならば信仰に応じてなさい。
新共同わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、
NIVWe have different gifts, according to the grace given us. If a man's gift is prophesying, let him use it in proportion to his faith.
註解: キリストの体の肢たる各人は各々神より恩恵 charis を異る程度に与えられ、これに伴いて賜物 charismata(恩恵の具体的事実)も異っている故、各々その賜物に従ってその分を果さなければならない。

(あるひ)預言(よげん)あらば信仰(しんかう)(はかり)にしたがひて[預言(よげん)をなし、]

註解: 預言の賜物を有てる者はその与えられし信仰に比例して預言すべしと云うのであって、使徒に()いで重要なものは預言の賜物を与えられし者である、預言とは必ずしも未来の事を預言するのみの意味ではなく、聖霊によりて神の御旨を示されこの真理を発表する事である。信仰に比例するとは黙示は本来その人の信仰の程度に(したが)って与えられるものである故、与えられざる預言を虚偽の心を以て預言する如き事なく、又怯懦(きょうだ)にして与えられし預言をも発表せざる如き事の無き事を云う。神に示されしそのままを発表する事が預言者の責務である(Tコリ14:1Tテサ5:20)。
辞解
[量にしたがひて] analogia は数學上の用語で「比例」を意味す。

12章7節 (あるひ)(つとめ)あらば(つとめ)をなし、[引照]

口語訳奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、
塚本訳(貧しい人の救済その他の)職務を持っているなら、その職務に、教師なら教育に、
前田訳奉仕するなら奉仕に、教師ならば教育に、
新共同奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、
NIVIf it is serving, let him serve; if it is teaching, let him teach;
註解: 「務」は「執事の職」と云うに同じく(Tテサ2:8使7:1-6の場合の如く貧者、病者等の救済に専ら従事する人々を云う。かかる賜物を与えられしものはこの為に尽さなければならぬ。
辞解
[務] diakonia、
[執事] diakonos

(あるひ)(をしへ)をなす(もの)(をしへ)をなし、

註解: 聖書に就て人を救うる賜物を与えられし人がある、かかる人はその方面に力を尽すべきである。主として知識的方面の賜物を受けている人はこの務に当るべきである。

12章8節 (あるひ)(すすめ)をなす(もの)(すすめ)をなし、[引照]

口語訳勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。
塚本訳伝道なら伝道に、精を出せ。施す者は純粋に、世話をする者は熱心に、慈善を行う者は喜んで、しなければいけない。
前田訳勧誘者なら勧誘に、応分の処置をなさい。施すものは純粋に、援助者は熱心に、慈善家はよろこんでなさい。
新共同勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
NIVif it is encouraging, let him encourage; if it is contributing to the needs of others, let him give generously; if it is leadership, let him govern diligently; if it is showing mercy, let him do it cheerfully.
註解: 信仰の弱き者を勧め励まし力付ける事の賜物を与えられし者はこれを為す事に努力する事がその務である。情性の豊なる賜物を受けている人に適する仕事である。

(ほどこ)(もの)はをしみなく(ほどこ)し、

註解: 自己の財産に余裕ありて他に施す事を霊の賜物として与えられし者は、何等為にする処なく単純な心を以て施を行うべきである。
辞解
[をしみなく] haplotês は「単純」を意味する語で、施しを行い乍ら自己の利益、名誉を求めたり、又は惜む心や高ぶる心等を起さない事。

(をさ)むる(もの)(こころ)(つく)して(をさ)め、

註解: 人の上に立ちて事を処理する賜物を持てる者の心得べき事は熱心にこれを遂行し、怠惰不精に陥らない事である。
辞解
[治むる者] を監督、執事等の職名と同一視する見方は不適当である。
[心を尽して] 熱心に又は迅速にの意味で怠惰の反対の意。

憐憫(あはれみ)をなす(もの)(よろこ)びて憐憫(あはれみ)をなすべし。

註解: 病める者、悩める者、罪に陥れる者等を憐憫む事をその天職とする人は「喜びて」愉快なる心持と態度とを以てこれを行わなければならぬ。これは困難な仕事の一である。
要義 [霊の賜物と職制] 多くの註解家は12:6-8に掲げられし七つの中始めの三つは職名であり、後の四つは然らずと解している。勿論後代に至りてかかる状態を生じた事は事実であるけれども、パウロがここに列挙せる場合はかかる区別が無く、凡ては霊の賜物の差別と見たのである。賜物の差別は自然その任務の差別を生じた。併し乍ら職掌を主として賜物を第二義とする如き制度的の考は当時には存在しなかったと見る事が至当であろう。

4-(1)-(2)-(ロ) 隣人愛の実行 12:9 - 12:13

註解: 9-21節は特別の賜物に就てではなく、基督者として一般に心得なければならない事柄を録している。

12章9節 (あい)には虚僞(いつはり)あらざれ、[引照]

口語訳愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、
塚本訳愛に偽りがないように。悪を忌みきらい、善にはしっかりくっついておれ。
前田訳愛に偽りなく。悪をいとい、善に親しく。
新共同愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、
NIVLove must be sincere. Hate what is evil; cling to what is good.
註解: 偽善的の愛は愛ではない。愛の陥り易き最大の危険はそれが偽善的となる事である。10節の兄弟愛に対しここでは一般の愛につきて云う。
辞解
[虚偽あらざれ] 原語「非偽善的なれ」

(あく)はにくみ、(ぜん)はしたしみ、

註解: 真の愛はかかる形に於てあらわれる。
辞解
[にくみ] apostugêo 甚だしく忌み嫌う事。
[したしみ] kollaomai 密接して離れない事。

12章10節 兄弟(きゃうだい)(あい)をもて(たがひ)(いつく)しみ、[引照]

口語訳兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。
塚本訳親身の兄弟のように互に愛し合い、尊敬し合って互に(人を自分より)えらく思え。
前田訳兄弟愛をもって互いに愛しあい、尊敬をもって互いをまさるとなさい。
新共同兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
NIVBe devoted to one another in brotherly love. Honor one another above yourselves.
註解: 基督者同志の愛は兄弟愛で家族の関係の如き親密さを持つべきである。
辞解
[をもて] を「に就て云えば」と訳するを可とす。以下13節迄の凡ての項目皆同じ。
[愛しみ] philostorgos は親子、兄弟間の如き自然の愛情を云う。

禮儀(れいぎ)をもて(あひ)(ゆず)り、

註解: 人に対する尊敬に就ては常に他人に劣らずに多くの尊敬を払う事。即ち他人に先立ちてこれに尊敬を払う事。
辞解
種々の訳が可能である。(1)「尊敬に関しては互に相譲らず」即ち第一に他を尊敬する事(2)「尊敬に関しては指導者の地位につき」、(3)「他を尊敬する事につきては互に相劣らず」、何れも大同小異である。改訳は(3)による。

註解: 本節は主として基替者の愛を以てする活動につきて述ぶ。

12章11節 (つと)めて(おこた)らず、[引照]

口語訳熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、
塚本訳熱心で倦まず、(神の)霊に燃え、主に仕えよ。
前田訳勤勉で倦まず、霊に燃え、主に仕え、
新共同怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
NIVNever be lacking in zeal, but keep your spiritual fervor, serving the Lord.
註解: 熱心に(つい)て云えば怠惰に流れない事が大切であり、これは愛より自然流れ出づる結果である。

(こころ)(あつ)くし、

註解: 霊に(つい)て云えばそれは熱し切っている事が要であり、

(しゅ)につかへ、

註解: (異本「時を利用し」とありこれを採る学者も多い)かくして各人はその教会に対する責務を全うする事が出来る。

註解: 本節は希望に関して述ぶ。

12章12節 (のぞ)みて(よろこ)び、[引照]

口語訳望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。
塚本訳希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈れ。
前田訳希望のうちによろこび、苦難に耐え、たゆまず祈り、
新共同希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
NIVBe joyful in hope, patient in affliction, faithful in prayer.
註解: 現在の状態が如何に苦痛であっても基督者は希望を持つが故に歓喜をいだく事が出来る。

患難(なやみ)にたへ、

註解: 迫害等より来る患難に際しては忍耐して行く事が基督者の態度である。

(いのり)(つね)にし、

註解: 聖徒の霊的生命の呼吸である。

註解: 本節は隣人愛の実効的方面を示す。

12章13節 聖徒(せいと)缺乏(とぼしき)(にぎは)し、[引照]

口語訳貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。
塚本訳力を合わせて聖徒の欠乏をおぎない、旅人の接待に努めよ。
前田訳協力して聖徒の欠乏を補い、旅人の接待につとめなさい。
新共同聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
NIVShare with God's people who are in need. Practice hospitality.
註解: 信徒同志は互に相補い合うのが当然である。故にその中に欠乏する者あらば、その苦痛を共にする事が当然である。
辞解
[(にぎは)し] koinôneô は苦楽を共通にする意味で、多く持てるものが持たぬ者に与うる事もその一種である。ガラ6:6

旅人(たびびと)(ねんご)ろに(もてな)せ、

註解: 当時の社会に於て最も重要視せられし隣人愛の実行法であった(ヘブ13:2Tテモ3:2Tテモ5:10テト1:8Tペテ4:9)。殊に基督者に於ては全世界の聖徒が一家族なりとの観念が殊にこの行為を重視した。
辞解
直訳すれば「旅人接待を追い求めよ」となり熱心に積極的にその実行に努力する事。

4-(1)-(2)-(ハ) 敵を愛せよ 12:14 - 12:21

12章14節 (なんぢ)らを()むる(もの)(しゅく)し、これを(しゅく)して(のろ)ふな。[引照]

口語訳あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。
塚本訳(あなた達を)迫害する者に(神の)祝福を求め、祝福して呪うな。
前田訳あなたの迫害者を祝福し、祝福して呪いなさるな。
新共同あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
NIVBless those who persecute you; bless and do not curse.
註解: 基督者は彼らを迫害する敵をも愛しその祝福を祈るべきである、これイエス御自身の教え給いし愛の極到である(マタ5:44)。併し乍ら偽りなき愛(9節)を以て之を実行する事は難事中の難事である。自己もその敵と同じ罪人たる事及び如何なる敵も神の子としての自分を害し得ない事を確信して、始めてこの愛を持つ事が出来る。パウロはイエスのこの御言を間接に聴きてこれを暗記していたのであろう。

12章15節 (よろこ)(もの)(とも)によろこび、()(もの)(とも)になけ。[引照]

口語訳喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
塚本訳喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け。
前田訳よろこぶものとともによろこび、泣くものとともに泣きなさい。
新共同喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
NIVRejoice with those who rejoice; mourn with those who mourn.
註解: 愛と同情の極致である。基督者同志の間には他人の事柄を自分の如くに考える。これ即ち交り kinônia である。泣く者と共に泣く事よりも喜ぶ者と共に喜ぶ事が一層困難である。

12章16節 (あひ)(たがひ)(こころ)(おな)じうし、[引照]

口語訳互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。
塚本訳互に思いを同じくせよ。高くなろうと思わず、低い方に従え。”自分で賢いなどとうぬぼれてはならない。”
前田訳互いに思いを同じくなさい。高きを思わず、低きにつきなさい。「みずから賢いと思うな」です。
新共同互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。
NIVLive in harmony with one another. Do not be proud, but be willing to associate with people of low position. Do not be conceited.
註解: 私訳「相互に対し同じ念を持ち」相愛するものは、他を思う事己を思うが如くである為、結局に於て同様の念を以て相対している事となる。これにまさりて美わしき関係は無い。
辞解
ロマ15:5(やや)文法上の差異あり。

(たか)ぶりたる(おもひ)をなさず、(かへ)つて(ひく)きに()け。

註解: 私訳「高きを思わず却って(ひく)きにつけ」自己を高めんとする野心を放棄して、賤しき者、弱き者、なやめる者にその心が引き寄せられる如き状態が最も健全なる信仰の美しき姿である。
辞解
[(ひく)きにつけ] 「高き」は中性なれど「(ひく)き」は男性なりと解せんとする説あれど(G1)、「高き」と同じく中性と見るを可とす(M0、I0)。
[つけ] sunapagomenoi は「共に彼方に導き行かれて」の如き意味で(ひく)き者に対して同情にたえず、自然その方に心が引き行かれる如き形を云う、基督者の愛の姿である。

なんぢら(おのれ)(さと)しとすな。

註解: 自らを聡しとして高ぶる事が種々の不和の原因であり、又(ひく)きにつき得ざる理由である。已の信念に忠実であって而も他人の唱うる事の中に真理を見出さんとする謙遜が必要である。

12章17節 (何人(なにびと)にも)(あく)をもて(あく)(むく)いず、[引照]

口語訳だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。
塚本訳だれにも悪をもあって悪に報いず、どんな”人の前でも善をするように心がけよ。”
前田訳だれにも悪をもって悪に報いず、すべての人の前でよいことを心がけなさい。
新共同だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。
NIVDo not repay anyone evil for evil. Be careful to do what is right in the eyes of everybody.
註解: マタ5:38-48の如きイエスの教訓がパウロに伝わりパウロの心は「悪を以て悪に報いよ」と云うギリシヤの格言やマタ5:34の如きパリサイ主義を克服した。

(すべ)ての(ひと)のまへに()からんことを(はか)り、

註解: たとい自分に対して悪を為せる人に対してもその人の為を図る事、善を以て悪に報ゆる事、これ愛の極致である。

12章18節 (なんぢ)らの()()るかぎり(つと)めて(すべ)ての(ひと)(あひ)(やわら)げ。[引照]

口語訳あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。
塚本訳出来るなら、(少なくとも)あなた達の方では、どんな人とも仲良くせよ。
前田訳できれば、せめてあなた方は、すべての人と平和を保ちなさい。
新共同できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
NIVIf it is possible, as far as it depends on you, live at peace with everyone.
註解: 直訳「若し得べくば汝らの為し得る範囲に於て凡ての人と和げ」相手方が絶対に平和を望まない時にはこれを如何ともする事が出来ないが、出来得べき場合ならば力の及ぶ限り神の御栄の損われない限り平和を求むべきである。平和を求むる者は幸福なり。

12章19節 (あい)する(もの)よ、(みづか)復讐(ふくしゅう)すな、ただ[(かみ)の](いかり)(まか)せまつれ。[引照]

口語訳愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
塚本訳愛する者たちよ、自分で仕返しをするな、(裁きの日の神の)怒りにまかせよ。こう書いてあるではないか、「主は言われる、“仕返しはわたしのもの、”わたしが“報いをする”と。」
前田訳愛するものよ、自分で仕返ししなさるな。(神の)怒りにまかせなさい。聖書にあります、「主はいわれる、仕返しはわがもの、わたしが報いる」と。
新共同愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
NIVDo not take revenge, my friends, but leave room for God's wrath, for it is written: "It is mine to avenge; I will repay," says the Lord.
註解: 凡ての不正不義の上に神の怒が必ず下る。故に基督者は自ら復讐すべきではなく、敵をも愛してその救われる事を祈るべきである。
辞解
[神の怒に任せまつれ] 直訳「怒に所を与えよ」でこの怒は次節との関係より解釈上神の怒と見る事が至当である。尚他に自分の怒、敵の怒等と解する説あれど採らず。また「怒に所を与える」事はこの神の怒の下るべき場所を自分の怒を以て塞いではならない事を示す。

(しる)して『(しゅ)いひ(たま)ふ、復讐(ふくしゅう)するは(われ)にあり、(われ)これに(むく)いん』とあり。

註解: 申32:35よりの引用でヘブル原典とも七十人訳とも少しづつの差異あり。ヘブ10:30の引用と同一形である。当時この格言はこの形で人口に膾炙(かいしゃ)(=広く知れわたること:広辞苑)していた形跡がある。主自ら復讐し給う以上は不正が遂に勝利を得る事は絶対にない。この信仰を持つならば己を害する者をも愛する事が出来る。

12章20節 『もし(なんぢ)(あた)()ゑなば(これ)(くら)はせ、(かわ)かば(これ)()ませよ、なんぢ(かく)するは(あつ)()(かれ)(かしら)()むなり』[引照]

口語訳むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。
塚本訳むしろ、“あなたの敵が飢えているなら、食べさせてやれ。渇いているなら、飲ませてやれ。こうするのはその頭に炭火を積むことであるから、(いつかは恥じて悔改める。)”
前田訳むしろ、敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませなさい。こうするのはその頭(こうべ)に炭火をつむことです。
新共同「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
NIVOn the contrary: "If your enemy is hungry, feed him; if he is thirsty, give him something to drink. In doing this, you will heap burning coals on his head."
註解: 箴25:21、22よりの引用。仇はこれを責むれば責むる程自己の非を覆いこれを是として主張せん事を努力し、反対にこれを愛しこれを助くる時は却てその心和らぎ自責の念に耐え得ざるに至るものである。かくして彼を悔改に導かんとするの目的を達する事を得。
辞解
[熱き火] 直訳「火の炭」、後悔の念が強い事を形容せるもの。これを神の審判と見る説あれど取らない。

12章21節 (あく)()たるることなく、(ぜん)をもて(あく)()て。[引照]

口語訳悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。
塚本訳悪に勝たれるな、善によって悪に勝て。
前田訳悪に負けず、善によって悪に勝ちなさい。
新共同悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
NIVDo not be overcome by evil, but overcome evil with good.
註解: 他人が自己に対して為す悪のために自己の心が正しき態度を失う時は悪に勝たれたのである。反対に自己の善を以て悪を行える者の心を悔改めしむる事が出来るならば、善を以て悪を征服したのである。
要義1 [敵を愛する事] 自分に害を与え又は与えんとする敵を愛する事は至難である。かかる敵に対し我らの心は自ら(のろい)の心となって働く。併し乍ら若し我ら(一)自分も根本に於て彼らと同じ罪人であり同じ罪の心を持つものである事を知り、(二)又我らはキリストにある時既に永生を獲得し、万物の世嗣であることを知るならば、敵をあわれむと同時に敵に打勝って余りある事が出来る。(のろい)は敵を憎み敵に害を受くる事を恐れるより来る心持である故、以上の二点を明かにする事により、換言すれば信仰より出づる愛によりてこれに打勝つ事が出来る。
要義2 [神の復讐] 神自ら報をなし給うが故に我ら敵を愛す可しとする事は、神が我らに代って敵を審判く事を痛快に考えると云う様な心持ではない。唯悪が善に勝つ如き外観を呈する時、我らは唯神がこれを報い給うことを信ずる信仰のみによりて悪に勝たれずに進む事が出来る。若しこの信仰が無いならば自己も同一の悪をその敵に対して行うに非ずば満足する事が出来ない。基督者が復讐を行うべからざる所以は正義の神が巌として存在し給うが故である。
要義3 [愛と謙遜] 謙遜より出でざる愛は宗教的高慢に陥る危険が非常に多い。敵に対する愛の如きは一層そうである。真の愛は神に対して絶対的謙遜の心より出なければならない。即ち自已に敵する悪人すら神の前に於ては自分と同じ罪人である事の自覚を持ち、始めて真の愛を以てその敵を愛する事が出来る。然らざる愛は一種の霊的高慢である。