エペソ書第4章
分類
4 実践の部 4:1 - 6:20
4-1 全教会の一致 4:1 - 4:16
註解: 1−3章をもって教理の部を終り、本章より実践道徳の部となる。パウロの他の書簡におけると同様である。ロマ12:1。ただし本章特にその16節までは教会の本質に関する問題のため、教理と実践との間の橋のごとき役目を演じている。
4章1節 されば主に在りて囚人たる我なんぢらに勸む。[引照]
口語訳 | さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、 |
塚本訳 | だから主にある囚人であるこの私(パウロ)が君達に勧める、(神に)召された召しに相応しく歩け。 |
前田訳 | それで、主にあるとりこのわたしはあなた方にお願いします。あなた方が召されたそのお召しにふさわしく歩いてください。 |
新共同 | そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、 |
NIV | As a prisoner for the Lord, then, I urge you to live a life worthy of the calling you have received. |
註解: キリストに在る信仰のために囚人であることをも意とせずむしろこれを誇りとするパウロの信仰に注意すべきである。この信仰よりする勧めは権威ある勧めである。国王が王冠を戴くにもまさりてパウロはその縲絏に誇っていた。
辞解
[されば] oun は論法の大転機であり、1−3章の全体を受けていると見るべきである(B1、I0、E0、L3)。ロマ12:1参照。
汝ら召されたる召に適ひて歩み、
註解: 召されて神の子となり世嗣となった以上その身分に相応しき歩みをしなければならない。
4章2節 事毎に謙遜と柔和と寛容とを用ひ、[引照]
口語訳 | できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、 |
塚本訳 | 全き謙遜と柔和を以て、また寛容を以て。愛をもって互に忍び、 |
前田訳 | 全き謙遜と柔和のうちに、寛容をもって、お互いを愛によって受け入れてください。 |
新共同 | 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、 |
NIV | Be completely humble and gentle; be patient, bearing with one another in love. |
註解: 謙遜は自己の価値に相応しい取扱いを要求せずまたそれ以下に取扱われることを意に介さない態度であり、柔和は他人の弱点や不完全さに対してこれをいたわる態度であり、寛容は自己の受けし被害に対して忿怨復讐の念を起さないことである。この三者は互に相関連せる三つの徳である。なお原文は前二者と「寛容」とが各々独立の前置詞を持ち、従って前二者を「適いて歩む」に懸る副詞句と見、第三を次節「忍び」に懸るとする見方あり。また三つとも「歩む」を修飾するものと見る説(M0)または三つとも「忍び」を修飾すると見る説(B1)等あり。
愛をもて互に忍び、
註解: 人間社会に起る種々の不満も憤激も、愛ある場合これを忍び合うことができる。軽々しく怒るは愛なき証拠である。
辞解
[忍ぶ] anechomai はジッとこらえる姿。「忍ぶ」と次節の「一致を守らんことを勉めて」はみな1節の「召に適ひて歩み」の内容をなす。
4章3節 平和の繋のうちに勉めて御靈の[賜ふ]一致を守れ。[引照]
口語訳 | 平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。 |
塚本訳 | 平和の帯によって(結ばれて)御霊の(与うる)一致を保つよう努力せよ。 |
前田訳 | 平和のきずなによって霊の一致を守るようお努めなさい。 |
新共同 | 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。 |
NIV | Make every effort to keep the unity of the Spirit through the bond of peace. |
註解: 平和の繋とは平和を来たらしむる繋。〔例えば愛(B1)〕を指すのではなく平和そのものを繋としての意味である。御霊は聖霊を指す、信者の間には同一の聖霊が宿ること故、そこに御霊による一致があるはずである。これを守りつづけることに努力することが信者の任務である。平和の精神の欠如する処には御霊の一致も自ら乱されざるを得ない。なおこの一致は形式の一致にあらず規則信条の一致にあらず、霊の一致であることに注意すべし。
4章4節 體は一つ、御靈は一つなり。汝らが召にかかはる一つ望をもて召されたるが如し。[引照]
口語訳 | からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。 |
塚本訳 | (すなわち)一つの体、一つの霊──君達が(神に)召されたその召しもまた同じく一つの希望に至らんためである。 |
前田訳 | ひとつ体でひとつ霊、ちょうどあなた方のお召しがひとつ望みによるのと同じです。 |
新共同 | 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。 |
NIV | There is one body and one Spirit-- just as you were called to one hope when you were called-- |
註解: 4−6節においてさらに進んで原理に遡り一致について他の方面の諸相を陳べる。本節は前節の御霊による教会の一体たる姿を録しているのであって教会はキリストを首とする一つの体であり、その中に宿る御霊は一つであり、その召しに伴う希望もまた一つである。すなわち永遠のメシヤの国である。かかるものが分離し相剋するごときことは有り得ない。何故ならば、本体も動力も方向も同一だからである。
4章5節 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、[引照]
口語訳 | 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。 |
塚本訳 | 一人の主、一つの信仰、一つのバプテスマ、 |
前田訳 | ひとりの主、ひとつ信仰、ひとつ洗礼、 |
新共同 | 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、 |
NIV | one Lord, one faith, one baptism; |
註解: 本節は主イエス・キリストを中心として考えており、この主は一つにして二つなく、従ってこの主に対する信仰もまた一つであり、この信仰に入る表徴たるバプテスマもまた一つである。すなわちキリスト者みな同一の信仰により同一の門を経て(バプテスマ)、同一の主の僕となる。聖餐の一つなることを加えなったことにつき種々の理由が論じられているけれども、主として文章の調子より来たのであろう(M0)。かつこのバプテスマも必ずしも礼典としてのバプテスマを指せるものと解しなければならない理由はない。
4章6節 凡ての者の父なる神は一つなり。神は凡てのものの上に在し、凡てのものを貫き、凡てのものの内に在したまふ。[引照]
口語訳 | すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。 |
塚本訳 | 凡ての人の一人の父また神──神は凡ての者の上に(立ち、)凡ての者を貫き、凡ての者の内にいまし給う。 |
前田訳 | ひとりの神で万物の父、彼はすべての上にすべてを通じて、すべての中にいまします。 |
新共同 | すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。 |
NIV | one God and Father of all, who is over all and through all and in all. |
註解: 本節は神を中心とせる一体観であって、凡ての信者の父は唯一の神にして二つとはなく、この神は彼ら凡ての上に epi ありてこれを看守り、彼ら凡てのものを貫き dia てその働きをなし、彼ら凡てをその宮としてその中に宿り給う。父なる神はかかる意味において唯一である。以上のごとく3−6節には聖霊、子、父の三位の神、教会、主、神の三つの関係、信望愛の三つの綱領が織りなされ、さらにそれらが種々の内容をもって三分せられていることに注意すべし。なお他宗教殊に仏教者または哲学者の中にはキリスト教の神は超越神であって神の内在を認めざるもののごとくに非難する人があるけれども、その然らざることは本節がこれを明示している。
4章7節 我等はキリストの賜物の量に隨ひて、おのおの恩惠を賜はりたり。[引照]
口語訳 | しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。 |
塚本訳 | しかし私達一人一人に与えられた恩恵は(それぞれ異なり、)キリストから賜わる程度に応ずる。 |
前田訳 | われらおのおのに恩恵がキリストの賜物のはかりに従って与えられたのです。 |
新共同 | しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。 |
NIV | But to each one of us grace has been given as Christ apportioned it. |
註解: 教会は3−6節に示すがごとく、万物が一つに帰した処のものであるが、しかしその教会を構成する我ら各人には決して同一量の賜物が与えられているわけではない。賜物の分量は人によりて異なる。そしてその分量に応じて恩恵の種類もまた異なって来るのである。神は人間を決して機械的に平等視し給わない。なおこの点につきてはロマ12:4−6。Tコリ12:4以下の詳論を参照せよ。
辞解
原文には初めに de (されど)あり。
[恩恵] charis はこれが各人に与えられて「恩恵の賜物」 charismata となる。
4章8節 されば云へることあり『かれ高きところに昇りしとき、多くの虜をひきゐ、人々に賜物を賜へり』と。[引照]
口語訳 | そこで、こう言われている、「彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた」。 |
塚本訳 | だから(聖書に)言う──“かれは高きに昇りて捕虜を捕らえ、人々に賜物を与えたまえり。” |
前田訳 | それゆえに聖書はいいます、「彼は高きに上ってとりこをとらえ、人々に贈り物を与えた」と。 |
新共同 | そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。 |
NIV | This is why it says: "When he ascended on high, he led captives in his train and gave gifts to men." |
註解: 「云えることあり」の主格は「神」と見るを可とす。本節は詩68:18の引用であるが、原語は「なんぢ高き處にのぼり虜者をとりこにしてひきい、禮物を人のなかよりも叛逆者のなかよりも受けたまへり」とあり、エホバの勝利とその場合の栄光とを、凱旋将軍の凱旋入城に比して歌ったものである。パウロはこれをキリストの復活、昇天と各人に賜物を賜うこととに応用したのであるが、何故に「禮物(賜物)を人(々)のなかより・・・・・受けたまへり」を反対に「人々に賜物を賜へり」に変更せるやにつきては諸説あり、(1)異本によれるならんと想像する説、(2)パウロの記憶の誤りに帰する説、(3)「受くる」を「受けて与える」の意味に解する説、(4)パウロの使徒たる権威をもって変更を加えしものと解する説、(5)ユダヤの伝統的解釈をそのまま用いて詩の本文とせしものと解する説等々あり。第五説が最も有力である(I0、L2)。すなわちパウロの言わんとする処は凱旋将軍たるエホバが多くの捕虜や分捕品を携えて入城しやがてこれらをその将士に分つがごとくに、キリストは復活昇天し、人々に賜物を分与し給うとの意味である。なお「虜」は、(1)サタンの虜となっている罪人、(2)キリストによりて救われし者、(3)キリストの敵たる御使いたちのごときもの等の解釈あり、(3)が適当ならん。パウロがかくのごとく一見適切ならざる詩の一節をしかも原詩を変更してまで引用せる所以は、復活のキリストが天に在して我らに賜物を賜う姿がこの詩の一節に彷彿たるものがあったからであろう。その一字一句につき対比することはパウロの本意ではあるまい。
4章9節 既に昇りしと云へば、まづ地の低き處まで降りしにあらずや。[引照]
口語訳 | さて「上った」と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。 |
塚本訳 | 「“昇りたまえり”」とあるからには、まず地の低い所にも下り給うたことを意味するものでなくして何であろう。 |
前田訳 | 「上った」というのは、地の最低のところに下りもしたのでなくて何の意味がありましよう。 |
新共同 | 「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。 |
NIV | (What does "he ascended" mean except that he also descended to the lower, earthly regions ? |
註解: 前節の天に昇りしことに関連してキリストが万物を満し給うことを示さんがために(10節)、彼が本来天に在ししが、卑りて地に下り(ピリ2:7)、さらに地の下なる黄泉にまで下りし事実をここに掲げたのである。すなわち前節の詩篇の一節はメシヤ預言であり、従ってイエス・キリストの受肉とその死によりて陰府にまで下り給える事実を指す。
辞解
[地の低き處] 上のごとくに解する場合は「地よりも低き處」と訳すべきである(M0、B1)。ただしこれを「地の低き處」と解して陰府の思想をここに介入せしめず、単にイエスの受肉と地上の生活とを指すと解する説あり(E0、L2、Z0、I0)。
4章10節 降りし者は即ち萬の物に滿たん爲に、もろもろの天の上に昇りし者なり。[引照]
口語訳 | 降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。 |
塚本訳 | (従って地上に)降り給うたその御方こそ、万物を満たさんために、凡ての天の上に“昇り給うた”御方である。 |
前田訳 | 下った方ご自身、万物を成就するためにもろもろの天の上に上った方でもあります。 |
新共同 | この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。 |
NIV | He who descended is the very one who ascended higher than all the heavens, in order to fill the whole universe.) |
註解: イエスの復活昇天を指す。そしてこの昇天の目的は万物を彼の臨在、活動、経綸、賜物をもって充さんがためである。すなわち陰府より天の上に至るまで彼の在さざる処なく、彼の満たさざる処がない。
辞解
[もろもろの天] 直訳「すべての天」で七つの天を指す。それよりも上に上ったというのは在さざる処なきことの形容である。この節はキリストの遍在を述べることが目的ではないけれども、遍在を否定しているものと見る必要がない。キリストは神と共に諸天の上に超然たると同時にまた万物の中に在し給う。この二つの観念を理知的に調和せしむることは不可能である。
4章11節 彼は或人を使徒とし、或人を預言者とし、或人を傳道者とし、或人を牧師・教師として與へ給へり。[引照]
口語訳 | そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。 |
塚本訳 | 彼はまた或る者を使徒、或る者を予言者、或る者を伝道者、或る者を牧師また教師として(教会に)“与え給うた”。 |
前田訳 | 彼がお与えのものとして、使徒、預言者、伝道者、牧者と教師があります。 |
新共同 | そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 |
NIV | It was he who gave some to be apostles, some to be prophets, some to be evangelists, and some to be pastors and teachers, |
註解: 11−16節は一つの長き文章をなす。キリストが教会に満つる方法は恩恵の賜物をその各人に与うることである(7節)。この賜物には多くの種類あり、また階級あり、凡てが同一でもなくまた平等でもない。ここに掲ぐるものはその教会に対する職分の高下の順序による。なおTコリ12:28参照。
辞解
[牧師、教師] 二つの職と見る説と同一人の二種の仕事と見る説とあり、文法上は一人のごとくに見ゆるのはおそらくかかる区別をなす必要がないのであろう。
[使徒] ロマ1:1辞解参照。
[預言者] 神の代りに神の霊に動かされて語る人。
[伝道者] イエスの直接の使徒にあらずして福音を宣伝える人。
4章12節 これ聖徒を全うし[て]職を行はせ、キリストの體を建て、[引照]
口語訳 | それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、 |
塚本訳 | これは(キリストに対する)奉仕の務めを果たし得るよう聖徒達を準備し、かくしてキリストの体(なる教会)が建て上げられんためである。 |
前田訳 | それは聖徒を奉仕のわざへ、キリストの体の建設へと準備させるためです。 |
新共同 | こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、 |
NIV | to prepare God's people for works of service, so that the body of Christ may be built up |
註解: 本節以下は前節の「與へ給へり」の目的を示す。すなわちキリストが使徒、預言者、伝道者、牧者、教師を教会に与え給うたのは彼らをして教会を指導、教育、訓練せしめこれによりて聖徒らを全うし、完備せるものとなし、その結果互に奉仕の行為を為し、キリストの体なる教会を建て上げんがためである。神の賜物を賜える目的は要するに教会の完成のためである。
辞解
本節の三句は pros ・・・ eis ・・・ eis の三つの前置詞をもって始まりその相互関係につき種々の解釈あり。一々記すことは複雑なる故これを略す。上記の解釈は「職」 diakonia を特種の職務(M0、I0)と解せず一般的の「奉仕」と解し(E0、L2)、後の二句を第一句の目的と解した。
[全うし] katartismos は欠けたるを補い、壊れし処を修繕し、旧びたるを新たにして完全具足のものとすること。
[職] diakonia は多く教会の公職の意味に解し、そのために本節の理解を困難ならしめているけれども、ここではかく解せず、これを一般的「奉仕」の意味に解するを可とす。
[キリストの體] 「教会」である(エペ1:23)。
[體を建て] 「體の徳を建て」とも解することができるけれどもエペ1:23。エペ2:22と共に体を建て上げる意味に解し、神の宮の観念をも織込めるものと見るを可とす。
4章13節 我等をしてみな信仰と神の子を知る知識とに一致せしめ、[引照]
口語訳 | わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。 |
塚本訳 | かくて遂に私達は皆信仰と神の子を知る知識とにおいて一致するに至り、(信仰において)大人となり、キリストの豊満(と同一)の程度の(熟成した)年令に達するのである。 |
前田訳 | われらがみな神の子の信仰と知識との一致に達し、全き人、すなわちキリストの完成の年齢に至るためです。 |
新共同 | ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。 |
NIV | until we all reach unity in the faith and in the knowledge of the Son of God and become mature, attaining to the whole measure of the fullness of Christ. |
註解: 本節は前節の聖徒の完備の終局の到達点を指し示す。教会は神の子に対する信仰の一致を必要とする。信仰の一致とは信仰箇条の一致にあらず心を一つにしてキリストに信頼すること、キリストに依り頼まない者のないことを意味す。キリストを知る知識の一致はキリストの本質、使命、および教会に対する関係等につきての理解の一致を指す。この一致を欠く時教会は分裂する。
辞解
[神の子の] 「信仰」と「知識」との双方に懸ると見る方がよろし(▲口語訳を見よ)。
「我ら凡て」なる語が原文初頭にあり、全教会を意味す。
全き人、すなはちキリストの滿ち足れるほどに至らせ、
註解: 「全き人」はまた「成人」とも訳すべき語で、凡ての点において十分に成長発達せるものを指す、14節の幼童と相対す。この成人とはキリストのプレーローマすなわちキリストの中に満つるあらゆる徳性、あらゆる性格の程度にまで到達せる人をいう。教会はここに一人の人間と考えられキリストと同じ程度の性質を有するものとなるべきものなることを示す。これが教会の理想である。この理想に到達する時期につきては我らはこれを予定することができず、また濫りに予定すべきではないが、これに向って進むべきことは我らの日々の祈りでなければならぬ。
辞解
[全き人] 完全なる人の意味にも解し得るけれども、ここでは成人すなわちすべての部分が充分に発育せる人を意味すと見るを可とす。
[満ち足れる] プレーローマ(エペ1:23。エペ3:19註参照)はキリストの中に満つるあらゆる美しきものを指す。
[ほどに] 原文「身長の尺度まで」または「年齢の程度まで」と訳すべき文字でこの二者の何れが適当なりやは決定に困難を覚ゆる点である。ここではおそらく年齢を指すのであろう。
[至らせ] 終局の目標。
4章14節 また我等はもはや幼童ならず、人の欺騙と誘惑の術たる惡巧とより起る樣々の教の風に吹きまはされず、[引照]
口語訳 | こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、 |
塚本訳 | これは最早私達が(信仰において)幼児でなく、奸計をもって(私達を)迷いに誘おうとするペテンによるあらゆる人間の教えの風のまにまに吹きまわされ翻弄されることのないためであり、 |
前田訳 | われらはもはや子どもではなく、人々の賭けごと、惑わしの計略の悪辣さによるあらゆる教えの風にゆられず、振り回されず、 |
新共同 | こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、 |
NIV | Then we will no longer be infants, tossed back and forth by the waves, and blown here and there by every wind of teaching and by the cunning and craftiness of men in their deceitful scheming. |
註解: 11−13節の全体の事実が現在の教会に対して如何なる企図を有するかをしめす。(▲本節は hina = so that をもって始まり14、15節にかかっている。これは11−13節の目的または企図であることの意味である。)そして14節はその消極的方面、15節は積極的方面である。「幼童」は自己に確信なく、霊的発達は不充分であり従って周囲に影響されやすき故、かかる境地を脱して「全き人」すなわち「成人」となることが目的でなければならぬ。またこの世には人間の作り出せる胡麻化しより成る教え、また惑わしを起さしむる計略のための悪巧みより作られし教えがある。かかる教えはあたかも風が波を動かし砂塵を吹きまわすがごとくに人の心を動揺せしめ混迷せしめる。かかることがないようになるのが、神が教会に使徒以下の人々を与えた目的である。
辞解
[幼童ならず] 「ならざらんため」の意。
[誘惑] planê は「惑」と訳す文字で、術は狡猾なる計略を意味す、ゆえに「惑の術」は惑を引起す術策を指す。
[様々の教の風] 「教の凡ての風」。
[教] 単数名詞なれども総称とみるべきである。
[欺騙] サイコロ遊びより来れる語で狡猾さを意味す。
[吹きまわされず] 原語「揺り動かされず、運び廻されず」の二語よりなる。浪と風の形容。
4章15節 ただ愛をもて眞を保ち、育ちて凡てのこと首なるキリストに達せん爲なり。[引照]
口語訳 | 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。 |
塚本訳 | 否、(むしろ信仰の大人として福音の)真理に生き、愛においてあらゆる点に成長して、彼すなわち頭なるキリストに達せんためである。 |
前田訳 | 愛のうちに真実をつくし、すべてに成長して頭なるキリストに達しましょう。 |
新共同 | むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 |
NIV | Instead, speaking the truth in love, we will in all things grow up into him who is the Head, that is, Christ. |
註解: 愛と真はキリスト者の生活の基調であり、従って教会の根底である。かつ教会はこの性質を基礎として凡ての点において生育発達しなければならぬ。発育せざる生物は死ぬると同じく、発育せざる教会は死滅する。そして発育の目標はキリストである。まさしくキリストは教会の首であり、教会はその体である故、首に相応しからざる体であってはならないからである。
辞解
[眞を保ち] alêtheuô は一般に「真を言う」と訳すべき語であるが、ここでは真実に生きることを意味している(E0)。
4章16節 彼を本とし全身は凡ての節々の助にて整ひ、かつ聯り、肢體おのおの量に應じて働くにより、その體成長し、自ら愛によりて建てられるなり。[引照]
口語訳 | また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。 |
塚本訳 | そして体全体は(この頭なる)彼を本源として凡ての支えの靭帯によりつなぎ合わされ、結び合わされ、斯くて(体の)それぞれの部分が相応の活動をすることによって(教会なるこの)体が成長し、愛によって(遂に)自分を建てあげるのである。 |
前田訳 | 体全部が彼によるものです。それはすべての支えの節々によって組まれ結ばれ、おのおの部分はその力に応じて体の成長のためにつくし、愛のうちに自らの建設がなされます。 |
新共同 | キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。 |
NIV | From him the whole body, joined and held together by every supporting ligament, grows and builds itself up in love, as each part does its work. |
註解: 教会全体の整備、結合、発育、成長、建設はみなキリストより来る。すなわちキリストは全体の基をなしており、そしてその教会の全体を構成する構成分子は個々別々の存在ではなく、節々の接ぎ目をそなえられてこれを通して供給(epichrêgia)を受くることにより整然たる結合となり(sunarmologeô)、また確固たる一体をなし(sumbibazô)、かつ肢体たる各人の与えられし賜物の量に応じたる活動によりて教会たる体は成長し、愛の中に自己を建設して立派なる神の宮となり、キリストの体となることができる。かくして教会の各員たる肢体はみなそれぞれの使命と活動と、その一致せる結合とによりて教会を発育せしめ、キリストの体を立派なる姿に仕立て上げるのである。
辞解
[凡ての節々の助にて] 「供給の接ぎ目により」のごとき意味で問題多き一句。学者によりては haphê は「節々」の意味なく唯「接触」「固着」「感覚」等を意味するに過ぎずとし、また「助」と訳されし epichorêgia を「供給」と訳し、従ってこの句を「供給に役立つ凡ての接触により」とし、栄養の供給の意味に訳さんとし(M0、I0、B1)、また他の学者(E0、L2、Z0)はこれに「節々」「接ぎ目」の意味ありとして現行訳のごとくに訳す。上掲の註はこれによる。
[応じて働くにより] 「応じたる働きにより」と訳すべし。
[愛によりて] 「愛の範囲において」の意味で「愛の中に」と訳すべし。
要義1 [超越神と内在神]神は万物の上に超越してこれを支配し給う。このことは神の内在をのみ重視する東洋人にとりて不可解でもありまた幼稚にも思われる場合が多い。しかしながら聖書はこの超越神と共に内在神をも知っているのであって、神は「凡てのものを貫き、凡てのものの内に在し給う」(エペ4:6)、「神は我らの中に生き、動き、また在るなり」(使17:28)等のごとく超越しつつしかも内在し、我らの上に支配しつつしかも我らの内に働き給う。かかる神にして始めて真の神ということができる。我らの外に在すのみにして我らの内に在さざる神は真の神にあらず、我らの内にのみ在して外に在さざる神もまた真の神ではない。
要義2 [教会の完成]教会はキリストの充ち給う所である。そしてこれは恩恵の分与(12節)、聖徒の精進(13節)と一致(14節a)となり、また幼児の域を脱却し発育してキリストに至り、不動の信仰に立ち(14b、15節)、各部分は整頓し結合して堅き一体となり(16a)、成長し建設される(16b)に至る。これがすなわち活ける教会の完成せられし姿である。それ故に連結なく生成なき教会は真の教会ではない。
要義3 [教会の一体たること]教会は本来一つでなければならない。「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」「御霊は一つ、望みは一つ」、そして「神は一つ」だからである。かかる教会が多くに分立することは有り得べからざる事実である。そして神、キリスト、聖霊の三位の神も、これに対する信仰も望みもみな見えざる事実であり、バプテスマすら霊のバプテスマはこれを目にて見得ない以上、教会もまた本来見えざるものである。これを強いて人間の目に見ゆる限界を持つものたらしめんとした処に教会の誤謬があり、これが教会分立の原因であった。この分立せる教会を、同じく人間の立つる規約により人の目に見ゆる一つの教会たらしめんとしてもそれは不可能でありまた無意味である。教会の肢たる各人が一つの主に立帰るより外に一つの教会を実現する途はない。
4-2 キリスト者の諸徳 4:17 - 5:214-2-イ 新人の潔き生活 4:17 - 4:24
4章17節 されば我これを言ひ、主に在りて證す、なんぢら今よりのち、異邦人のその心の虚無に任せて歩むが如く歩むな。[引照]
口語訳 | そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。 |
塚本訳 | (かく君達はキリストの体を建てねばならないの)だから、(今)私は主にあってこのことを言いまた厳命する──君達は最早、異教人が空っぽの考えで歩いているように歩いてはならない。 |
前田訳 | このことをわたしはいい、主にあってお願いします。あなた方はもはや異邦人が空虚な心で歩むように歩まないでください。 |
新共同 | そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、 |
NIV | So I tell you this, and insist on it in the Lord, that you must no longer live as the Gentiles do, in the futility of their thinking. |
註解: 1−3節の実践道徳に続いてここにさらに消極的方面として、異邦人の歩みと同じ歩みを為すべからざることを教えている。たしかに異邦人は虚しき心に歩んでいるのであって、神を知らざるその心は18、19節に示すがごとく智的にも実践的にも凡て無意味にして何らの実をも結ばざる程度のものである。
辞解
[言ひ、證す] 「勧め」るの意味をも含むもののごとし。
[主に在りて] 「信仰をもって」に同じ、パウロの自分一己の意見にあらず。
[虚無] mataiotês 結果を招来せざるごときこと。
4章18節 彼らは念暗くなりて、其の内なる無知により、心の頑固によりて神の生命に遠ざかり、[引照]
口語訳 | 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、 |
塚本訳 | 彼らは理解力が曇っており、彼らの中に在る無知の故に、またその頑迷な心の故に、神の(賜わる永遠の)生命に縁無き者となっている。 |
前田訳 | 彼らの思いは暗く、神による生活から離れています。それは彼らのうちにある無知のため、彼らの心が頑なためです。 |
新共同 | 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。 |
NIV | They are darkened in their understanding and separated from the life of God because of the ignorance that is in them due to the hardening of their hearts. |
註解: 異邦人の心の虚無さを叙す。念の暗くなりたること、すなわちその悟性、感受性が暗黒の中にありて迷妄に陥り、心中は真理を悟らざる無知が支配し、心情は無感覚にして頑迷固陋であり、その生命は神の生命に遠ざかり、自己の私慾によりて生くるに至る。以上の四つの状態が互に如何様に関連しているかは原文の文法上の問題として種々の解あり、念暗くなり、神の生命に遠ざかっていることが心の虚無き姿であり、無知と頑陋とはその原因と見るべきであろう。すなわち私訳すれば「その内なる無知の故に、心の頑陋の故に、念は暗くせられ、神の生命に遠ざかれり」となる。
辞解
原文は第一、第四、第二、第三句の順序をなす。現行訳のごとくに訳する以外に、第三句(現行訳にては第二句)を第一句の原因、第四句(現行訳第三句)を第二句(現行訳第四句)の原因として訳することもできる(B1)。その他第四句を第三句に従属せしむるか、または対立せしむるかにより、または第一句と第二句との関係を如何に見るか等により種々に訳し得る一節である。
[神の生命] 多くの学者により「神より出で信者の中に新生せる生命」と解せられているけれども、ここではむしろ「我らとの霊の親交の対象となるべき神の生命そのもの」と解すべきであろう(Z0、L2)。その他、「神々しき生命」「ロゴス」等の解あり。
前節の「心」 nous と本節の「念」 dianoia 「心」 kardia などそれぞれその意味に若干の差別あり、nous は人間の生命の一要素たる精神を指し、dianoia は思考およびそれによる理解、決断等を指し、kardia は心情を指す。
4章19節 恥を知らず、放縱に凡ての汚穢を行はんとて己を好色に付せり。[引照]
口語訳 | 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。 |
塚本訳 | 鈍になっているので放埒に身を委ね、貪欲をもってあらん限りの不潔を行っている。 |
前田訳 | 彼らは無気力になって放縦に身をゆだね、欲望のままあらゆる不潔な行ないをしています。 |
新共同 | そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。 |
NIV | Having lost all sensitivity, they have given themselves over to sensuality so as to indulge in every kind of impurity, with a continual lust for more. |
註解: 異邦人は前節のごとき心の状態に陥ったために「恥を知らず」無感覚となりて良心の咎を感ぜざる者となり、飽くことを知らずに凡ての道徳的汚穢を行わんがために好色の行為に自己を付し、自己を好色の捕囚としてしまった。良心の麻痺せる最初の徴候はその性的放縦に表われる。
辞解
[恥を知らず] 本来肉体的に苦痛を感じなくなること、すなわち麻痺せることを意味し、その結果良心の麻痺無感覚をも意味す。
[放縱に] 「貪慾をもって」でそのままの意味に解するよりも「飽くことを知らずに」の意(C1、E0)に解するを可とす。「放縦に」は適訳にあらず。
[凡ての汚穢] 必ずしも性的汚穢に限らない。そしてこれらは好色にその最初の萌芽を見ることができる。
[己を付せり] ロマ1:24に神が彼らを好色に付せりとあるのと矛盾するごときも然らず、同一事実の見方による。
4章20節 されど汝らはかくの如く[ならん爲に]キリストを學べるにあらず。[引照]
口語訳 | しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。 |
塚本訳 | しかし君達は、そんな風(のことをするため)にキリストの教えを学んだのではない。 |
前田訳 | しかしあなた方はそのようにキリストを学んだのではありません。 |
新共同 | しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。 |
NIV | You, however, did not come to know Christ that way. |
註解: キリストを学べる者はキリストに倣うが故に、異邦人とは全然その歩みを異にする。
4章21節 汝らは彼に聞き、彼に在りてイエスにある眞理に循ひて教へられしならん。[引照]
口語訳 | あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。 |
塚本訳 | 君達は彼に聴き、彼に在ってイエスにあるような真理に依り教えられたのだ! |
前田訳 | あなた方が彼について聞き、彼にあって教えられたのはイエスにある真理のとおりでした。 |
新共同 | キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。 |
NIV | Surely you heard of him and were taught in him in accordance with the truth that is in Jesus. |
註解: 難解の一節にして種々の訳解あり、私訳「汝らは彼〔のこと〕を聞き彼に在りて〔次のごとく〕教えられしならん。すなわちイエスの場合において事実たるがごとくに汝ら・・・・・を脱ぎ」。「イエスにある真理に循ひて」は種々に訳されているけれども現行訳のごとくに訳すことは困難である。これを上述私訳のごとく「イエスの場合において事実(真理)たるがごとくに」と訳し、中間の挿入句と解し、22−24節がイエスにおいては事実たりしことを示すものと見るべきであろう。
辞解
[彼に聞き] 「彼を学び」というがごとし。
[彼に在りて] 「彼を信じて」というに同じ。
[真理] alêtheia はまた「事実」の意味あり(マコ5:33)、かく訳することが果して正しきや否やにつき学者の説を引用して説明することができないけれども、かく訳することは不可能ではない。
4章22節 即ち汝ら誘惑の慾のために亡ぶべき前の動作に屬ける舊き人を脱ぎすて、[引照]
口語訳 | すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、 |
塚本訳 | 然り、君達は情欲に欺かれて破滅すべき、以前の生活に属する旧い人間を脱ぎ棄て、 |
前田訳 | あなた方は前の行状による古い人をお捨てなさい。それは欲望に惑わされて滅びるものです。 |
新共同 | だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、 |
NIV | You were taught, with regard to your former way of life, to put off your old self, which is being corrupted by its deceitful desires; |
4章23節 心の靈を新にし、[引照]
口語訳 | 心の深みまで新たにされて、 |
塚本訳 | 君達の霊も心も(すっかり)新しくされ、 |
前田訳 | あなた方の心も霊も新たにされて、 |
新共同 | 心の底から新たにされて、 |
NIV | to be made new in the attitude of your minds; |
4章24節 眞理より出づる義と聖とにて、神に象り造られたる新しき人を著るべきことなり。[引照]
口語訳 | 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。 |
塚本訳 | 真理の義と聖とにより神に肖って創造られた新しい人間を着るべき(ことを教えられたの)である。 |
前田訳 | 新しい人をお着なさい。それこそ真の義と聖のうちに神にかたどって造られたものです。 |
新共同 | 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。 |
NIV | and to put on the new self, created to be like God in true righteousness and holiness. |
註解: 22節と24節は互に対照を為す。「舊き人」と「新しき人」、「脱ぐ」と「着る」、「誘惑」と「真理」、「亡ぶ」と「造らる」等のごとし、そしてこの22−24節の全文は前節の「教へられしならん」に懸っている(L2、E0)。「脱ぐ」と「着る」とは人間の心と徳性との更新を意味す。旧き人が改良、進歩、発達して新しき人となるにあらず、アダム以来の旧き人を脱ぎ棄てて、新に創造せられし新たなる人を着ることが更生の本体である。この旧き人はアダムの罪により「亡ぶべき人」否むしろ「亡びつつある」人であって(現在分詞)、新しき人は永遠に生くべき生命である。そして旧き人の亡ぶる所以は、惑える慾のためであり、新しき人の永遠に生くる所以は神に象りて造られしが故である。また旧き人を脱ぎ去ることは、その「前の動作に関して」であり、新しき人の造られるは「真実の義と聖とを有する者に」造られるのである。そしてこの大なる変化を来たらせるがためには心の霊において徐々に新たにせられなければならぬ。これらのことを汝らは教えられたはずである。
辞解
上記のごとき解釈を取る場合、この三節は次のごとくに私訳するを要す。「すなわち汝ら前の振舞いにつきて、惑わす慾のために亡びる(または亡ぼされる)旧き人を脱ぎ捨て、心の霊において新たにせられ、神に象りて真実なる義と聖とに造られたる新しき人を着るべきことなり」。「誘惑の慾」「真理の義と聖」において第二格「の」は「より出づる」「に属する」等と訳することもできるけれども、上記の解および私訳はこれを性質を示す形容詞的第二格として取扱った(B1、C1、L2)。現行訳も誤訳ではない。なお「脱ぐ」「着る」は不定過去形にして裁然たる一時的動作を意味し、「新たにせられ」は未完了過去形にして継続的動作を示す。
[心の霊] この霊は聖霊にあらず、心の最高の働きをなす性能を指す。
要義 [新しき人と旧き人]教会一体の姿を実現せんがためには、これに適える新しき人となることが第一の必要である。すなわち神を知らざる旧き人はキリストの体たる教会を構成することができない。これに反し新しき人は神によりて新たに創造せられたものであり、かかる者のみが神の教会の要素となることができる。それ故に暗黒と汚穢とを脱ぎ捨てて義と聖とを着ることが、教会に要求される根本的事項である。
4-2-ロ 隣人に対する諸徳 4:25 - 4:32
4章25節 されば虚僞をすてて各自その隣に實をかたれ、我ら互に肢なればなり。[引照]
口語訳 | こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。 |
塚本訳 | だから虚偽をやめ、“各々その隣人と真実を語れ”、私達は互いに(一つの体の)肢であるから。 |
前田訳 | それゆえ偽りを捨てておのおの隣人に真実を語りなさい。われらは互いに体の部分です。 |
新共同 | だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。 |
NIV | Therefore each of you must put off falsehood and speak truthfully to his neighbor, for we are all members of one body. |
註解: 「されば」すなわち真実の義と聖とにより新たに造られし者が教会の各員である以上、この真実とは正反対なる虚偽をその心に蔵していてはならない。キリスト者の第一の要件は真実であり正直である。互に一つの体の肢たる者の間に虚偽は有り得ず、有ってはならない。
辞解
「虚偽」を第一に掲げし所以は前節の真理(または真実)を受けたのも一理由であるが、さらに重大なる理由は教会一致の最も根本的なる要素は真実に存するからである。なお本節以下の各種の教訓はエペソ書の読者層において事実的に存在せる弊風を指摘せるものであるか、また一般的のものかは不明である。
4章26節 汝ら怒るとも罪を犯すな、憤恚を日の入るまで續くな。[引照]
口語訳 | 怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。 |
塚本訳 | “怒っても罪を犯すな”。憤ったまま陽を入らせるな。 |
前田訳 | 怒っても罪を犯さないように。太陽が、あなた方が怒っている間に没することのないように。 |
新共同 | 怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。 |
NIV | "In your anger do not sin" : Do not let the sun go down while you are still angry, |
4章27節 惡魔に機會を得さすな。[引照]
口語訳 | また、悪魔に機会を与えてはいけない。 |
塚本訳 | また悪魔に(付け込む)隙を与えるな。 |
前田訳 | 悪魔に隙を与えないように。 |
新共同 | 悪魔にすきを与えてはなりません。 |
NIV | and do not give the devil a foothold. |
註解: 怒りは一般に共同生活の中に起りやすき魔物である。パウロは怒ることそのことを罪と見ず、従ってこれを禁止しなかった。唯怒りにより罪に陥ることを戒めたのである。神の怒り給うことを怒ることは正しい。しかしながら自己の感情に支配せられ、または自己の利害を基礎とせる怒りは罪である。また怒りは往々にして罪を引起すに至るものである。「憤恚」憤怒を引起す心情を指す。この心を永続せしむる時は心の平静を失い、その結果不快であるのみならず往々にして罪に陥る故、速やかにこれを制御して和解の途を取らなければならぬ。またかかる心情には悪魔が乗ずる隙が多く生ずるもの故、かかる機会を造らぬようにしなければならない。怒りや憤恚そのものは罪にあらざる場合があり得るけれども(羔羊の怒り、黙6:16)罪に陥る機会多く悪魔に乗ぜられやすい、警戒しなければならない。
辞解
[怒るとも罪を犯すな] 原文「怒れそして罪を犯すな」で「怒れ」はこの場合「怒るならば」「怒るとも」「怒っても宜しいが」等に解される。最後の解釈が適当であろう(ヴィーナー)。詩4:4の七十人訳による。
[憤恚を日の入るまで續くな] 直訳「太陽をして憤恚の上に没せしむる勿れ」で日没から翌日が始まる故、憤恚をば(速やかに)その日の中に始末をつけよ、との意味である。
[機会を得さすな] 直訳「場所を与うな」。
4章28節 盜する者は今よりのち盜すな、むしろ貧しき者に分け與へ得るために手づから働きて善き業をなせ。[引照]
口語訳 | 盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。 |
塚本訳 | 盗みをしている者は最早盗むな。むしろ困る人に分けて与れるよう(うんと)働いて、自分の手で正しく稼げ。 |
前田訳 | 盗びとは盗みをやめ、むしろ精を出して手ずからよいものをかち得て、乏しい人に分け与えるものを持つようになさい。 |
新共同 | 盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。 |
NIV | He who has been stealing must steal no longer, but must work, doing something useful with his own hands, that he may have something to share with those in need. |
註解: 共同生活の陥りやすき欠点は他人の損害を顧みずして自己を益せんとすることである。この時代には盗みをすることがさほどの悪事とは思われなかったので盗むことが教会の中にも存在していたとのことである。が、果して然りや否や、疑わしい。しかしかかる程度まで至らずとも、自己の利益を図って他人の損害を顧みないような事実は今日もなお多く存している。これを「盗む」ということは差支えない。要義2参照。パウロは盗みを禁ずると共に、反対にその手をもって善を行い、正しき労苦を嘗め(窃盗は往々にして怠惰の結果である。B1)、そしてその収得を自己のために用いず、貧しき者に分け与うることをすすめている。この根本的変革もまた旧き人を脱ぎて新しき人を着ることによりて可能である。
4章29節 惡しき言を一切なんぢらの口より出すな、ただ時に隨ひて人の徳を建つべき善き言を出して、聽く者に益を得させよ。[引照]
口語訳 | 悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。 |
塚本訳 | 悪い言葉を一つも君達の口から出すな。もし徳を建てる必要があり、何かそれに善い言葉があるなら、それを言って聴く者を恩恵に与らせよ。 |
前田訳 | 悪いことばは全く口に出さず、徳の建設に必要な場合、よいことばを用いて、聞くものに役立つようになさい。 |
新共同 | 悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。 |
NIV | Do not let any unwholesome talk come out of your mouths, but only what is helpful for building others up according to their needs, that it may benefit those who listen. |
註解: 教会生活における重大な注意は言語を慎むことである。悪しき言、他人の心を腐敗せしむる言は口より出してはならない。反対に必要に応じて徳を建つべき善き言、すなわち他人に益を与える言を出して、聴く者の益となるように考えること、すなわち消極的にも積極的にも言語を慎むことが必要である。
辞解
[悪しき] sapros は古くなって腐敗していること。
[時に隨ひ] 「必要に応じ」と訳す方が原文に近い。
[益を得さす] 「恩恵を与える」で建徳の言葉は常にこの結果を生じる。
4章30節 神の聖靈を憂ひしむな、汝らは贖罪の日のために聖靈にて印せられたるなり。[引照]
口語訳 | 神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。 |
塚本訳 | 神の聖霊を悲しませるな。君達は贖いの日(に永遠)の(救いに入る)ためこの御霊をもって封印されたのである。 |
前田訳 | 神の聖霊を悲しませないでください。それによってあなた方はあがないの日のために印をつけられているのです。 |
新共同 | 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。 |
NIV | And do not grieve the Holy Spirit of God, with whom you were sealed for the day of redemption. |
註解: 前節と思想の連絡あり、すなわち悪しき言を出すことは我らの中に宿り給う神の聖霊を憂いさせることである。何となれば、神の聖霊はまた教会をもその宮となしてその中に宿り、我らの内に宿り給う聖霊と共に、悪しき言の持つ悪しき影響につき深く憂い給うが故である。たしかに汝らは世の終り、すなわちキリスト再臨の日、換言すれば贖いの日に、完全に救われ神の子とせられんために、今日すでにこの聖霊にて印せられているからである。もしこの聖霊を憂いさせるならば、彼は汝らを離れ去り、従ってまた教会をも離れ給うであろう。
辞解
[印せらる] エペ1:13註参照。
[贖罪の日] キリスト再臨の日。
4章31節 凡ての苦・憤恚・怒・喧噪・誹謗、および凡ての惡意を汝等より棄てよ。[引照]
口語訳 | すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。 |
塚本訳 | 凡ての苦いこと、憤怒、怒り、喧噪、誹謗、並びに凡ての悪意を君達から除け。 |
前田訳 | あらゆる無情、憤り、怒り、騒ぎ、呪いをすべての悪とともにあなた方から捨ててください。 |
新共同 | 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。 |
NIV | Get rid of all bitterness, rage and anger, brawling and slander, along with every form of malice. |
4章32節 互に仁慈と憐憫とあれ、キリストに在りて神の汝らを赦し給ひしごとく、汝らも互に赦せ。[引照]
口語訳 | 互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。 |
塚本訳 | 互いに親切で、憐憫深く、神がキリストにおいて君達を赦し給うたように互いに赦し合え。 |
前田訳 | 互いにやさしく、あわれみ深く、神もキリストにあっておゆるしのように互いにゆるし合ってください。 |
新共同 | 互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。 |
NIV | Be kind and compassionate to one another, forgiving each other, just as in Christ God forgave you. |
註解: 教会の一致を乱すものは31節の諸々の心情や態度であり、反対に教会をして平和幸福の一体にするものは32節の態度心情である。前者は凡て他に対して反撥的に働いて教会を分離させ、後者は凡て他を抱擁して一体となるに至らせる。
辞解
[苦] pikria は他人に苦痛を与える態度。
[憤恚] thumos は激情の爆発するもの。
[怒] orgê はその感情の永続するもの。
[喧噪] 敵意に満てる激情の表顕。
[誹謗] blasphêmia は悪意をもって相手を非難すること。
[悪意] kakia は人を害せんとする心。
[および凡ての悪意] 「を凡ての悪意と共に」と訳すべし。悪意は凡てのこれらの諸悪の源泉なり。そして「仁慈」「憐憫
」「赦し」は凡て上述の諸点の反対であって、この両者は完全なる対立をなす。
要義1 [一致の秘訣]4:25−32は教会一致の秘訣を教えているのであるが、この教訓は如何なる団体の場合にも妥当する。すなわち虚言虚偽をさけ、憤怒を慎み、私利を図らずして他人を益せんとし、悪口を避け、悪意をいだかず、かえって愛と憐憫とをもって互に赦すことである。すなわち真実と愛憐とを基礎とし、感情においても意思においても他人を害せんと企てず、かえってこれを益せんとする処に団体の一致の秘訣が存する。殊に教会の場合においては全体が一つの体であり各々その肢である故、互に相害し相排撃することは要するに自己を損う所以である。教会の内にかかる事実が存すべきではない。
要義2 [キリスト者と盗むこと]28節に「今より後盗むな」とあることはキリスト者にはほとんど適用がないように思われるけれども、厳密なる意味においては、多くの盗みが行われる可能性がある。俸給を受けながらそれに相当する仕事をしないこと、代価に價せざる物品を売ること、代価以下に物品を買うこと等である。その他他人と共同の仕事を為すに際してあるいは惰けたり、または安易なる部分を自分で引受けるごときは他人の努力を盗むことであり、また自らは無為にして他人の労苦の上に衣食する者は他人の労苦を盗む者である。
要義3 [他人を赦すことについて]マタ6:12、マタ6:14、15には神より罪の赦しを得んがためにはまず自ら人の罪を免すことが必要である旨が記され、エペ4:32においては神の赦しが相互の赦免の模範として掲げられている。この両者は一見矛盾するがごときも然らず、マタ6:12等の場合は自己が他人の罪を赦すことが神の赦しを受くる条件ではなく、自らの罪を完全に意識せる際における他人の罪に対する態度を指示したものと見ることができ、エペ4:32の場合は、自己の罪を完全に意識せる者がさらに十字架による罪の赦しを信じたる後における心の状態を指示したものである。何れの場合においてもまず自己の罪を知れるものにして始めて他人の罪を赦すことができる。
エペソ書第5章
4-2-ハ 神の喜び給う供物たれ 5:1 - 5:6
註解: 教会一体の観念より転じて本章以下には教会の普通道徳を述べる。
5章1節 されば汝ら愛される子供[のごとく、](として)神に效ふ者となれ。[引照]
口語訳 | こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。 |
塚本訳 | (これらは要するに愛である。)だから、(既に神の愛子となった君達は)愛子らしく(愛なる)神を真似る者となれ。 |
前田訳 | それで、神のいとし子として、神にならうものになってください。 |
新共同 | あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。 |
NIV | Be imitators of God, therefore, as dearly loved children |
註解: キリストが汝らを赦し給いし故(前節末尾)かくキリストに愛される子供である以上、汝らもまた彼に傚うべきである。何という偉大なる教訓であり理想であろうか。イエスを単に自分の罪の掃除人のごとくに取扱い、少しも彼に傚おうとしない者は彼を愛さない者である。愛される者はその愛する者を仰ぎ見る。
5章2節 [又](而して)キリストの汝らを愛し、我らのために己を馨しき香の献物とし犧牲として、神に献げ給ひし如く、愛の中をあゆめ。[引照]
口語訳 | また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。 |
塚本訳 | そして愛に歩め──キリストが君達を愛し、私達のために自分を“献げ物また犠牲”として献げ、神への“馨しい香りとなり”給うたように。 |
前田訳 | そして愛に歩んでください。ちょうどキリストもあなた方を愛して、われらのために自らを神へのよい香りの供え物またいけにえとしておささげになったように。 |
新共同 | キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。 |
NIV | and live a life of love, just as Christ loved us and gave himself up for us as a fragrant offering and sacrifice to God. |
註解: キリストは我らを愛し、我らのために己を神にささげ給うた。すなわち我らを愛する愛の故に全く己をすてて神に己をまかせ(▲+神の御意に従って我らの罪のための宥の供物となり)給うた。このキリストの態度が神の前に馨しき香のごとくに立ち昇りて神の前に達する処の献物であり犠牲であった。我らもまた彼にならいこの愛をもって歩むべきである。すなわち己を「神の悦びたまふ潔き活ける供物として献げ」(ロマ12:1)神を愛しつつ、また互に相愛すべきである。
辞解
[馨しき香] 肉を焼きて立昇る煙は天に達して馨しき香として神に受納せられる。
[献物、犧牲] この場合必ずしも罪人の身代りまたは罪の贖代として考えられる必要はない。また献物は血を流さざるもの、犠牲は血を流すものと区別することを必要としない。
5章3節 聖徒たるに適ふごとく、淫行、もろもろの汚穢、また慳貪を汝らの間にて稱ふる事だに爲な。[引照]
口語訳 | また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。 |
塚本訳 | しかし淫行やあらゆる汚穢また貪欲は、聖徒に似つかわしく、君達の間では口にもするな。 |
前田訳 | 聖徒にふさわしく、不身持ちやあらゆる汚れや貪欲があなた方の間で口にされませんように。 |
新共同 | あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。 |
NIV | But among you there must not be even a hint of sexual immorality, or of any kind of impurity, or of greed, because these are improper for God's holy people. |
註解: 淫行と汚穢と慳貪とは神を知らざる民には普遍的罪悪である。聖徒たるものの間には、かかる罪悪が絶無たるべきであるのは勿論、さらに進んでかかることを口にだにせざることを要する。汚穢を軽々しく口にすることはかかる罪悪に対する良心の働きを鈍くするものである。
辞解
[慳貪(貪慾)] エペ4:19と同じく淫行に飽くことを知らざる意味に取る説もあり(E0)。本節の場合その必要なし。
5章4節 また恥づべき[言](事)・愚なる話・戯言[を言ふな]、これ宜しからぬ事なり、寧ろ感謝せよ。[引照]
口語訳 | また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。 |
塚本訳 | また卑下たことや馬鹿話また冗談を言うな。これは(聖徒に)相応しくない。むしろ(神に)感謝を述べよ。 |
前田訳 | 恥ずべきことやばか話や悪じゃれもないように。これらは不当です。むしろ感謝しましょう。 |
新共同 | 卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。 |
NIV | Nor should there be obscenity, foolish talk or coarse joking, which are out of place, but rather thanksgiving. |
註解: 前節を受けて言語上の注意を陳ぶ、日常の言語はその人の心の表顕であると同時に、その表顕はまたその心を形造る結果となる。そのため口にすることさえしてはならないことは羞づべき行為に関すること、馬鹿らしき談話、戯談等であって、これらは人みなの歓ぶ処であるがために自然これに耽りやすく、その結果人心を腐敗させる。これらはキリスト者に相応しからぬことであって、むしろ常に感謝の言を口にすべきである。真実なる心の態度は自然感謝となって表われる。
辞解
[恥づべき言] aischrotês は aischrologia と異なり恥づべき言に限らず、すべて「恥づべきこと」を指す(M0、E0、B1)。すなわち不道徳の行為殊に汚穢の罪を指す。ただしここでは前後の関係上「恥づべき言」を主としていると見るべきであろう(L2)。
[これ宜しからぬ事なり] 「戯言」のみにかかると見る説あり、その故は、ギリシャの社会においては戯談は一種の徳とすら考えられていたからである。ただし他の二つもこれに類する性質を有する故、すべてにかけて差支えなし、文法上もこの方可なり。
5章5節 凡て淫行のもの、汚れたるもの、貪るもの、即ち偶像を拜む者どもの、キリストと神との國の世嗣たることを得ざるは、汝らの確く知る所な(ればな)り。[引照]
口語訳 | あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。 |
塚本訳 | 淫行の物や汚穢を行う物や貪欲な者すなわち偶像礼拝者は皆、キリストと神との王国の相続権を有たないことは、君達が(よく)知って居りまた認めていることではないか! |
前田訳 | 次のことを知ってください。すべて不身持ちのもの、汚れたもの、貧欲のもの、すなわち偶像崇拝者はキリストと神の国を継ぎえません。 |
新共同 | すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。 |
NIV | For of this you can be sure: No immoral, impure or greedy person--such a man is an idolater--has any inheritance in the kingdom of Christ and of God. |
註解: キリストと神との国の世嗣たる者は、キリストと神との本質に反するもので有り得ない。そして淫行、汚穢は神の聖さに反し、慳貪は神を離れて財宝に目を注ぐところの偶像礼拝であり、従って神の国とは相容れない。ただしこの三種の罪に一度でも陥った者が救われる可能性がないというのではなく、かかる罪の中におりながらそれを脱れんとせず、それを普通のことと思惟する種類の人を指す、当時の世界はこの種の罪については極めて放恣であった。
辞解
[即ち偶像を拝む者] 「貪るもの」のみの説明と解するを可とす。その他の二つをも含むと見ることも不可能ではないがコロ3:5等との関係上、上記のごとくに解す。
[キリストと神の国] 単に「神の国」というよりも意味が強く、また神の国の道徳的色彩を表すに役立つ。
5章6節 汝ら人の虚しき言に欺かるな、神の怒はこれらの事によりて不從順の子らに及ぶなり。[引照]
口語訳 | あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。 |
塚本訳 | 君達は誰からも空な言葉で瞞されてはならない。(これらの罪はその人達が言うように決して何でもないことではない。)こんなことをするからこそ、神の怒りがこれら不従順の子らに臨むのである。 |
前田訳 | だれもあなた方を空虚なことばで迷わさないように。このようなことから神の怒りが不従順の子らにのぞむのです。 |
新共同 | むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。 |
NIV | Let no one deceive you with empty words, for because of such things God's wrath comes on those who are disobedient. |
註解: 虚しき言とは前節のごとき罪を罪にあらざるもののごとくに言い、これを真面目に罪と考うることをもって過度の規帳面として軽蔑するがごとき者を指す、かかる者に欺かれてはならない、不従順の子らすなわち神を信ぜざる者に神の審判が下るのは「これらの事」すなわち前節のごとき罪と、これを罪とも思わざることの故である。
辞解
[虚しき言] 種々の解あれど適当なるもの少なし、前述のごとくに解す(E0、I0)。
[不従順の子ら] 異邦人にして神を信ぜざるもの。
4-2-ニ 光に歩め 5:7 - 5:14
5章7節 この故に彼らに與する者となるな。[引照]
口語訳 | だから、彼らの仲間になってはいけない。 |
塚本訳 | だから(決して)その仲間になるな。 |
前田訳 | 彼らに与(くみ)しないでください。 |
新共同 | だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。 |
NIV | Therefore do not be partners with them. |
註解: 「彼ら」すなわち不従順の子らに與する者(仲間となる者)とは彼らと同じ罪に陥り同じ神の怒りに逢う者を指す。
辞解
[與する者] エペ3:6の「共に・・・・・與る者」と同語 summetochoi。
5章8節 汝ら舊は闇なりしが、今は主に在りて光となれり、光の子供のごとく歩め。[引照]
口語訳 | あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい |
塚本訳 | 君達はかつては暗であったが、今は主に在って光である。光の子らしく歩け |
前田訳 | あなた方はかつては闇でしたが、今や主にあって光です。光の子らしく歩んでください。 |
新共同 | あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 |
NIV | For you were once darkness, but now you are light in the Lord. Live as children of light |
註解: 信仰に入る前は汝らは暗黒そのものであり神の光は汝らの中に宿らなかった。然るにキリスト・イエスによりて救われ、彼の中に生きる今は汝らは光そのものである。汝らは神の光の中に在り神の光汝らの中に在るが故である。それ故に汝らの歩み、すなわち実践もまた神の子に相応しきものでなければならぬ。なお10節は本節の実現に関する注意なり。
辞解
[「闇」「光」] 神は光なりとの思想から来る。
[闇なりしが] 「闇の中に在りしが」よりも一層強き意義あり。光についてもまた同じ。
5章9節 (光の結ぶ實はもろもろの善と正義と誠實となり)[引照]
口語訳 | —光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである— |
塚本訳 | ──光の果実はあらゆる善と義と真であるから── |
前田訳 | 光はすべての善意と義と真理に実ります。 |
新共同 | ――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。―― |
NIV | (for the fruit of the light consists in all goodness, righteousness and truth) |
註解: 3−6節に示されしごとき諸悪と正反対の姿を示す、キリスト者は光である故自然これらの果を結ぶはずである。光の中にいることを恥ずるごとき行為は、キリスト者の中に存在すべきではない。Tヨハ1:5−10註および要義参照。
5章10節 主の喜び給ふところの如何なるかを辨へ知れ。[引照]
口語訳 | 主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。 |
塚本訳 | 何が主の御意に適うかを(よく)吟味せよ。 |
前田訳 | 何が主のお気に召すかお考えなさい。 |
新共同 | 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。 |
NIV | and find out what pleases the Lord. |
註解: 「辨へ知れ」は「辨へ知りて」で8節の光の「子供のごとく歩め」に連絡する。すなわち光の子供のごとくに歩むとは孝子が親の顔色を窺いてこれに孝養を尽くすがごとくに、主イエスの悦び給うことの何たるかを弁別し、これに従って行動する。主の喜び給うことと然らざることとの区別は聖霊によりて導かれる良心の判断と聖書の教える処とによる。
5章11節 實を結ばぬ暗き業に與する事なく、反つて之を責めよ。[引照]
口語訳 | 実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。 |
塚本訳 | そして果実を結ばれない暗の業に与せず、むしろ(これを)明るみに出せ。 |
前田訳 | 闇の不毛のわざに与せず、むしろそれらを明らかになさい。 |
新共同 | 実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。 |
NIV | Have nothing to do with the fruitless deeds of darkness, but rather expose them. |
註解: 教会の内外にかかる業を為すものが有った。かかる場合に消極的にこれに関与しないことは勿論であるが、単にそれでは足らず、進んでこれを叱責すべきである。暗黒の業を放置することは真理に対する不忠実なる態度であり、これを行う者に対する愛なき態度である。
5章12節 彼らが隱れて行ふことは之を言ふだに恥づべき事な(ればな)り。[引照]
口語訳 | 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。 |
塚本訳 | 何故なら、彼らが隠れて行うことは(これを)口にするさえ恥ずかしいことである。 |
前田訳 | 彼らが隠れてすることはいうも恥ずかしいものです。 |
新共同 | 彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。 |
NIV | For it is shameful even to mention what the disobedient do in secret. |
註解: 「隠れて行ふこと」は前節の「暗き業」(直訳暗黒の業)と同一種の行為を指すと解するを可とす。かかる行為は非常に恥ずべきものであってこれを口にするだに恥ずべきものなるが故に、これに與すべからざるは勿論むしろこれを叱責すべきである。
辞解
「言ふだに恥づべき事」と「責めよ」との命令は矛盾すと考える結果(責めるには口に出さなければならぬ故)、この困難を避けるためにあるいは「暗き業」と「隠れて行ふこと」とを別種の行為と見(M0)、あるいは「責めよ」 elenchete を「露出せよ」の意味に解するか、または言葉によらず立派な行為によりて責めることの意味に取らんとし(I0)、または「言ふだに」を公然と言うことと解する等、種々の手段が試みられているけれども、上述の註のごとくに解した。なお「隠れて」なる語が文法上特に強意的位置にあるとして特別の行為(特に重大なる罪、異教の密儀、家庭的犯罪等)と解せんとする説もあるが適切ではない。
5章13節 凡てかかる事は、責められるとき光にて顯さる、顯される[者](もの)はみな光とな[る](れば)なり。[引照]
口語訳 | しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。 |
塚本訳 | しかし明るみに出され(てその正体を暴露され)るものは皆(神の)光によって照らされる。 |
前田訳 | しかし光に照らされたものはすべて明らかになり、 |
新共同 | しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。 |
NIV | But everything exposed by the light becomes visible, |
註解: 暗き業を公然と叱責することは必要であって、叱責により暗黒の中より光の中に持ち出され、光によりてその凡ての悪が明らかにされる。そして如何なる悪にても、それが光によりて顕わされる時、悪そのものも聖なる光となりて耀き出づるのである。叱責され神の光に照らされて悔改めたる罪人の姿は、輝ける衣を着たる聖者の姿である。
辞解
[顕される者] 原語は中性複数である故、前節の「暗黒の業」を指す、ただし結局において人間を指すこととなること勿論なり、この一節難解にして諸種の解釈あり、中に「顕すものは光なればなり」(C1)と読む説は最も意味として解し易いけれども、文法上難点あり。その他の解釈も適切なるはない。ゆえに上述せる処による(M0、A1、E0)。
5章14節 この故に言ひ給ふ『眠れる者よ、起きよ、死人の中より立ち上がれ。さらばキリスト汝を照し給はん』[引照]
口語訳 | 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。 |
塚本訳 | (そして神の光に照らされ罪を浄められる時その人自身が光となる。)然り、(光に)照らされるものは皆光である。故に主は言い給う──眠る者、起きよ、死人の中より立ち上がれ、さすればキリストが汝を照らし給うであろう。 |
前田訳 | 明らかになったものはすべて光です。それゆえこういわれます、「起きよ、眠るものよ、死人の中から立ち上がれ、さらばキリストがあなたを照らしたまおう」と。 |
新共同 | 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」 |
NIV | for it is light that makes everything visible. This is why it is said: "Wake up, O sleeper, rise from the dead, and Christ will shine on you." |
註解: 眠れる者は道徳的に覚醒せず罪の中にいる者、すなわち死ねる者(エペ2:1、エペ2:5。マタ8:22)である。かかる者は叱責される時立ち上がってキリストの光に照らされるであろう。
辞解
[言い給ふ] 誰の言か不明なり、多くの学者はイザ60:1(あるいはイザ9:1。イザ52:1)の不精確な引用または預言をその成就の点より見たる(A1)引用であるとしているけれども、原文との差があまりに大きいので、納得し難い。ある学者は当時に行われし讃美歌(おそらく洗礼式の時の讃美歌)より引用したものであろうと想像しているが(I0、L2)この説がおそらく真に近いであろう。日本訳に「言い給ふ」とあるは、「神」または「キリスト」を略したものと解したのであるが上記の説によれば、「されば言えることあり」と訳すべきこととなる。なおその他「記録が現存せざるキリストの御言」「パウロが記憶の錯誤より経外典を正経として引用せるもの(M0)」等種々の解釈が試みられているけれども、確定的なものはない。「この故に」は8節をうけるとなす説あれど(L2)やはり前節を受けると見る方可なり。
要義 [キリスト者の道徳]5:1−14節においてパウロはキリスト者としての基本的道徳を教えている。これを要約すれば愛(1、2節)、清潔(3−5節)、真実(6節)、光明の中を歩むこと(7−14節)である。神なき社会を観察する時、凡てがこの反対であり、愛なく、汚穢に充ち、虚偽が溢れ、暗黒が支配していることを見るのである。もし教会が凡てこれらを克服して新しき生命に歩むことができないならば、神の民たる資格がない。
4-2-ホ 智かれ 5:15 - 5:21
5章15節 されば愼みてその歩むところに心せよ、智からぬ者の如くせず、智き者の如くし、[引照]
口語訳 | そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、 |
塚本訳 | だから、自分が如何歩いているか、愚か者のようでなく賢い者のように歩いているかを、よく注意せよ。 |
前田訳 | いかに歩むべきか、十分お気をつけなさい、愚者のようでなく賢者のように。 |
新共同 | 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。 |
NIV | Be very careful, then, how you live--not as unwise but as wise, |
註解: 愚かなる者は神を知らず、自己の慾望の奴隷として行動し、智き者は神の子たる身分を獲得し自覚して、神の御心に叶うように歩む。キリスト者は如何にしてこの智き者のごとく歩むべきかを詳に注意しなければならない。怠慢や不注意ではかかる歩みをすることはできない。
辞解
有力なる異本に「愼みて」を「歩む」にかけてあるのもあるが、現行訳の見方が優っている。尚原文は「如何にして智からぬ者の如くならず智き者の如くに歩むべきかにつき慎みて心せよ」となる。
5章16節 また機會をうかがへ、そは時惡しければなり。[引照]
口語訳 | 今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。 |
塚本訳 | 機会を(ねらい、充分に)利用せよ。今は時が悪いのであるから。 |
前田訳 | 時を活用なさい、今は悪い日々ですから。 |
新共同 | 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。 |
NIV | making the most of every opportunity, because the days are evil. |
註解: 「機会をうががへ」は「機会を充分に自分のものとして利用せよ」との意味である。その故は現代は悪しき時代であって、善を行うことは容易ではなく、少しく気を緩める時は直ちに悪に誘われやすき時代である故、充分に慎みて智き者のごとく、善を行うべきあらゆる機会あらゆる時間を自分のものとしなければならない。
辞解
[うかがへ] exagorazô 「贖う」または「買取る」の意味の文字であって機会(適当の時期)をサタンより買取る意味(C1)または悪しき人より買取る意味(B1)に解する説あれど、むしろ「全部自分のものとする」方に重点が置かれていると見るべきである(I0、E0、M0)。なお買取るために用うる代金は何であるか等は問題とされていない。
[時] 原語「日」。
5章17節 この故に愚とならず、主の御意の如何を悟れ。[引照]
口語訳 | だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。 |
塚本訳 | この故に分からず屋にならず、主の御意の何であるかを悟れ。 |
前田訳 | それで、愚かにならないで、何が主のみ心かをわきまえてください。 |
新共同 | だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。 |
NIV | Therefore do not be foolish, but understand what the Lord's will is. |
註解: 「この故に」は前二節を受ける。悪しき時代に智き歩みをしなければならない故、愚にして主の御意に反くものとなってはならない。反対に主の御意の何であるかを悟り、これに従わなければならぬ。
辞解
[愚] aphrôn は「無智」 asophos と異なり、処世上の思慮判断に乏しきこと。
[悟る] suniêmi は「知る」 ginôskô よりも一層深き悟りを示す。
5章18節 酒に醉ふな、放蕩はその中にあり、むしろ御靈にて滿され、[引照]
口語訳 | 酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、 |
塚本訳 | また“酒に酔うな”──これが放蕩(の始まり)である──むしろ御霊に満たされよ。(これに酔え。) |
前田訳 | 酒に酔わないように。悪徳がそこにあります。むしろ霊に満たされ、 |
新共同 | 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、 |
NIV | Do not get drunk on wine, which leads to debauchery. Instead, be filled with the Spirit. |
5章19節 詩と讃美と靈の歌とをもて語り合ひ、また主に向ひて心より且うたひ、かつ讃美せよ。[引照]
口語訳 | 詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。 |
塚本訳 | 聖歌と讃美歌と霊の歌をもって互いに語り、心をもって主に歌いまた奏で、 |
前田訳 | 互いに詩と讃美と霊の歌で語り、主に対して心からうたい奏でなさい。 |
新共同 | 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。 |
NIV | Speak to one another with psalms, hymns and spiritual songs. Sing and make music in your heart to the Lord, |
註解: この世の肉的享楽生活を送る者は、酒に酔いて高歌放吟する。キリスト者はかかる状態に陥るべきではなく、これとは正反対に聖霊に満され、相互の間に信仰をうたえる詩と、神とキリストとを頌めたたえる讃美と俗歌と正反対なる霊的な歌謡とをもって語り合い、すなわちこれらをもって互いの心情を吐露し、また主キリストに向いても同様に詩をうたい、讃美をささぐべきである。かくして俗人とは正反対なる陶酔と感激と溢れる喜びとに満されることができる。
辞解
[語り合い] 交互に歌いて意思を通ずる意味に取る説が多いけれども、むしろ歌を中心にしてその意味を語り合い、信仰上の教訓とする意味に取るべきであろう。コロ3:16参照。なお酔漢が猥褻なる歌をうたいて喜び合うごとくに、霊的詩歌や讃美を歌いて歓び合うことの意に解することもできる。詩 psalmos は主として旧約の詩篇を指すと見るべきであるけれども他を除外すと解する必要なし、本来はギターのごときものの伴奏によりて歌う詩歌を指す。
[讃美] hymnos はキリスト者の作れる讃美歌で神またはキリストをほめたたえる歌。
[霊の歌] ôdês pneumatikês で ôdês は広く一般の歌謡を指す。これに「霊的」なる形容詞を加えることにより信仰より出づる歌謡たることを知る。
5章20節 凡ての事に就きて常に我らの主イエス・キリストの名によりて父なる神に感謝し、[引照]
口語訳 | そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、 |
塚本訳 | 事毎に私達の主イエス・キリストの名において父なる神に常に感謝せよ。 |
前田訳 | つねにすべてのことにわれらの主イエス・キリストのみ名によって父なる神に感謝なさい。 |
新共同 | そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。 |
NIV | always giving thanks to God the Father for everything, in the name of our Lord Jesus Christ. |
5章21節 キリストを畏みて互に服へ。[引照]
口語訳 | キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。 |
塚本訳 | キリストを畏れて互いに服従し合え。 |
前田訳 | キリストへのおそれをもって互いに従いなさい。 |
新共同 | キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。 |
NIV | Submit to one another out of reverence for Christ. |
註解: 酒に酔える者の互に罵り合い、または争い合う姿を思い浮かべて、その反対の感謝と従順とを挙げたものと見るべきであろう。すなわち凡てのこと(祝福のみならず苦難をも)常に感謝の心をもって受け、しかもこれをキリストによりて与えられることを信じて、イエス・キリストの名により感謝するのがキリスト者の義務であり、また酔酒家の互いに相争い合いて神を畏れざるに反し、キリスト者はキリストを畏みて互に従順の態度を持すべきである。かくして讃美感謝従順の美徳がキリスト者の中に満つるに至る。
辞解
21節が前節と文法上連絡していながら、内容において一見非常に突然に現れて来ているために、これを次節以下の主題として取扱わんとする説がある(M0、I0)けれども上註のごとくに解すれば前節との内容の連絡も必ずしも不可能ではなく、そして22節には連想として関連を持つものと見ることとなる。
4-3 社会関係 5:22 - 6:94-3-イ 夫婦関係 5:22 - 5:33
註解: 前節末尾の「互に服へ」よりの連想により夫妻(22−33)、父子(6:1−4)、主従(6:5−9)間の愛と服従の義務を教えている。キリスト者の家庭訓である。
5章22節 妻たる者よ、主に服ふごとく己の夫に服へ。[引照]
口語訳 | 妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。 |
塚本訳 | 妻達よ、主に対するように自分の夫に服従せよ。 |
前田訳 | 妻たちは夫に対すること主に対するように。 |
新共同 | 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。 |
NIV | Wives, submit to your husbands as to the Lord. |
註解: ▲「服へ」hupotassô を口語訳で「仕えなさい」と訳したのは聖書の意味を正確に伝えていない。hupo-tassô は sub-ordinate 「従う」を意味する。「仕える」は自己の意思の自由行動であり「服う」は夫の意思に対する従順である。
5章23節 キリストは自ら體の救主にして教會の首なるごとく、夫は妻の首なればなり。[引照]
口語訳 | キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。 |
塚本訳 | キリストが教会の頭であり給うように、夫は妻の頭であるから──しかも彼は(同時に)その体(なる教会)の救い主であり給う。(この点においてキリストと夫とはもちろん異なる。)── |
前田訳 | キリストが集まりの頭であり、彼こそその体の救い主であるように、夫は妻の頭です。 |
新共同 | キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。 |
NIV | For the husband is the head of the wife as Christ is the head of the church, his body, of which he is the Savior. |
5章24節 教會のキリストに服ふごとく、妻も凡てのこと夫に服へ。[引照]
口語訳 | そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。 |
塚本訳 | しかし教会がキリストに服従するように、妻もまた何事によらず夫に服従せよ。 |
前田訳 | 集会がキリストに従うように、妻も万事、夫に従うべきです。 |
新共同 | また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。 |
NIV | Now as the church submits to Christ, so also wives should submit to their husbands in everything. |
註解: 妻は己の夫に服うべきであり、しかもそれはキリストに服うごとき心持で服うべきである。夫は妻にとりてはキリストの代表者である。あたかも父が子にとりて然るがごとし、キリストと教会との関係が首と体との関係であると同様に(エペ1:22、23)、夫と妻との関係も首と体の関係であって一体であり、かつ体は首に服従すべきである。そしてそれは夫婦関係の範囲においては「凡てのこと」(24節)においてであって例外はない。
辞解
原文24節の初頭に「されど」とあるために難解となっている。23、24節を次のごとくに訳すことによりてほぼこの語の関係が明らかとなる。「23、キリストは教会の首なるごとく夫は妻の首なればなり。キリストは体の救主なり。24、[夫は妻の救主にはあらず]されど教会のキリストに従うごとく妻も凡てのこと夫に服え」[]内の意味を補充して読むべし(B1、I0、M0、L2、Z0)。
5章25節 夫たる者よ、キリストの教會を愛し、之がために己を捨て給ひしごとく、汝らも妻を愛せよ。[引照]
口語訳 | 夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。 |
塚本訳 | 夫達よ、妻を愛せよ、キリストが教会を愛し、そのために自分を棄て給うたように。── |
前田訳 | 夫たちは妻を愛すること、キリストも集会を愛して自らをそのためにささげられたようになさい。 |
新共同 | 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。 |
NIV | Husbands, love your wives, just as Christ loved the church and gave himself up for her |
註解: 妻には絶対服従が要求されると共に夫には絶対愛が要求せられる。西洋近代の道徳においては前者が軽視せられ、東洋道徳においては後者が軽視せらる。共にキリスト教道徳の真諦ではない。妻の服従の模範が教会のキリストに対する服従であると同様夫の愛の模範はキリストの己を捨て給いし愛である。
辞解
[捨て] 「付し」で十字架の死を指す。
5章26節 [キリストの己を捨て給ひしは、](これ)水の洗をもて言によりて教會を潔め、これを聖なる者とし[て]、[引照]
口語訳 | キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、 |
塚本訳 | キリストは洗礼の水浴びにより、(その際述べられる告白の)言葉をもって、教会を潔めて聖なるものとなし、 |
前田訳 | キリストは集会を水の洗いとことばできよめ、 |
新共同 | キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、 |
NIV | to make her holy, cleansing her by the washing with water through the word, |
5章27節 汚點なく皺なく、凡て斯くのごとき類なく、潔き瑕なき(ものとして)尊き教會を、おのれの前に建てん爲なり。[引照]
口語訳 | また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。 |
塚本訳 | かくて汚点も皺もかかるものの何も無い、聖なる瑕なき輝かしい教会を自分で自分のために建てようとし給うたのである。―― |
前田訳 | しみやしわや、その類のものの何もない栄光の集会を自らに迎え、それを聖く汚れなくなさっています。 |
新共同 | しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。 |
NIV | and to present her to himself as a radiant church, without stain or wrinkle or any other blemish, but holy and blameless. |
註解: キリストの己を付し給いし目的を掲げて、夫が妻を愛することの意義を悟らしめんとしたのである。すなわちキリスト己を付して十字架につき給いしことによりて贖いは成就し、彼を信ずる者なる教会は水の洗いなる洗礼によりかつ神の言なる福音によりて潔められ、これによりてキリストのものとして聖別せられ、汚點も皺もなき潔き花嫁なる尊き教会としてキリストの前に立たしめられるのである。すなわちキリストの己を付し給いしは、その体なる教会の聖別とその聖化完成とのためであった。
辞解
[言をもて] 意義および関係につき難解にして異説多し。「言」を洗礼式の際に用うる式典用語「父と子と・・・・・云々」と解する説多し、不可なり。
[水の洗] 花嫁が婚姻の前の入浴にたとえることを得。
「潔め」は katharizô 、「聖なるものとし」は hagiazô 、前者は清浄にすること、後者は聖別すること。
5章28節 斯くのごとく夫はその妻を己の體のごとく愛すべし。妻を愛するは己を愛するなり。[引照]
口語訳 | それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。 |
塚本訳 | これと同様に夫【もまた】自分の妻を自分の体のように愛すべき義務がある。自分の妻を愛する者は自分自身を愛するのである。 |
前田訳 | そのように、夫はおのが妻を愛することおのが体をのごとくすべきです。おのが妻を愛するものはおのれを愛するのです。 |
新共同 | そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。 |
NIV | In this same way, husbands ought to love their wives as their own bodies. He who loves his wife loves himself. |
註解: キリストの教会を愛し給いしは結局己が体たる教会を己が前に立てんがためであった。同様に夫が妻を愛するは己の体を愛することである。夫婦一体の原理より自然にこの結論が生ずる。しかもこれを実行する人は少ない。
辞解
「のごとく」は「として」と訳するを可とす(M0)。
5章29節 己の身を憎む者は曾てあることなし、皆これを育て養ふ、キリストの教會に於けるも亦かくの如し。[引照]
口語訳 | 自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。 |
塚本訳 | 何故なら、未だ曽て自分の「肉」を悪んだ者は無く、何人もこれを養い育てる。同じようにキリストも教会を養い育て給う。 |
前田訳 | 自らの肉体を憎んだものはかつてなく、だれでもそれを育て養うことは、キリストが集会になさったのと同じです。 |
新共同 | わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 |
NIV | After all, no one ever hated his own body, but he feeds and cares for it, just as Christ does the church-- |
5章30節 我らは彼の體の肢な(ればな)り、[引照]
口語訳 | わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。 |
塚本訳 | 私達は彼の体の肢である。 |
前田訳 | われらは彼の体の部分です。 |
新共同 | わたしたちは、キリストの体の一部なのです。 |
NIV | for we are members of his body. |
註解: 自己の身体は誰しもこれに必要なる食物や衣服を供給する。キリストもまたその体なる教会すなわち我らを同様に愛育愛撫し給う。その故は我らは彼の体の一部だからである。
辞解
29節の初頭に「何となれば」なる文字があり、妻を己の体のごとく愛すべき理由を陳ぶ。
[育て養ふ] 「養いかつ愛撫する」の意。「愛撫する」 thalpô は本来「暖める」の意味を有する文字、転じて大切にすること、T列1:2。この場合衣服に関連して言えるものならん(B1)。なお異本に「彼の肉より出で、彼の骨より出づればなり」とあり。
5章31節 『この故に人は父母を離れ、その妻に合ひて二人のもの一體となるべし』[引照]
口語訳 | 「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。 |
塚本訳 | “この故に人は父と母とを捨ててその妻に結びつき、二人は一体となる”。 |
前田訳 | 「それゆえ、人は父母を離れて妻と結ばれ、ふたりはひとつ体になる」のです。 |
新共同 | 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」 |
NIV | "For this reason a man will leave his father and mother and be united to his wife, and the two will become one flesh." |
5章32節 この奧義は大なり、わが言ふ所はキリストと教會とを指せるなり。[引照]
口語訳 | この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。 |
塚本訳 | この奥義は大きい。私はキリストを指し、また教会【を指して】言っている。 |
前田訳 | この奥義は偉大です。わたしはキリストと集会についていうのです。 |
新共同 | この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。 |
NIV | This is a profound mystery--but I am talking about Christ and the church. |
註解: 創2:24にアダムとエバの創造の際に語られし言葉であるが、パウロはこれをキリストと教会との関係の型として解し、この奥義の偉大さに感嘆の声を発しているのである。キリストと教会との一体関係の奥義が夫婦の関係において実現することは、夫婦関係の非常に深き意味があることを示すのみならず、同時にまたキリストと教会との関係の深さをも示す。
5章33節 汝等おのおの己のごとく其の妻を愛せよ、妻も亦その夫を敬ふべし。[引照]
口語訳 | いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。 |
塚本訳 | 何れにせよ、君達も一人一人自分の妻を自分自身のように愛せよ。そして妻は夫を畏れよ。 |
前田訳 | しかしあなた方も、各人がおのが妻をおのれのように愛しなさい。妻は夫を敬うよう心すべきです。 |
新共同 | いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。 |
NIV | However, each one of you also must love his wife as he loves himself, and the wife must respect her husband. |
註解: 何はともあれ、汝ら夫婦は相互の間に愛と畏れを持つべきである。かく言いてパウロはキリストと教会との関係と夫婦の関係との間にほとんど区別を失えるもののごとくこの両者の間をさまよい、ついに最後に問題の本筋に立帰って夫婦の関係を教えている。彼は夫婦の関係を教えんとして、その根源たるキリストと教会との関係に遡り、さらにこの後者より夫婦の関係を導き出し、これを教えているのである。
辞解
本節初頭に plên (されど)なる文字あり。この場合上記註のごとき意味ならん。
要義 [天国における家族関係]聖書は神を父と呼び、信者を子とし、信徒相互を兄弟と呼び、キリストと教会との関係を夫婦に譬えている。普通はこれをもって人間の家族関係の用語を天国の家族関係に借用し、天国の住民相互の関係の如何を理解し易からしめるに過ぎないと考えられているけれども(換言すれば他に天国の住民相互または神およびキリストとの関係を表顕する方法なき故かく人間的関係に譬えるのに過ぎないと考えられているけれども)然らず。むしろ天国における神と人、キリストと教会、信徒相互の関係が、神の経綸の中に世の創めの前より成立せる本質的基本的関係であって、人間の社会関係、家族関係は、この天国の関係を理解せしめんがために神がかくのごとくに創造し給えるものと見るべきであろう。