エペソ書第1章
分類
1 挨拶 1:1 - 1:2
註解: 1、2節は書簡の発信人、受信人および挨拶で、普通の書簡の形式をややパウロ的に変更せるもの、ロマ1:1註参照。
口語訳 | 神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。 |
塚本訳 | 神の御意によってキリスト・イエスの使徒となったパウロから、【エペソに】ある聖徒、またイエス・キリストを信ずる人達にこの手紙を遺る。 |
前田訳 | 神のみ心によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソに住みキリスト・イエスにあって聖徒かつ信徒である方々へ。 |
新共同 | 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。 |
NIV | Paul, an apostle of Christ Jesus by the will of God, To the saints in Ephesus, the faithful in Christ Jesus: |
註解: 人間の委任によらず、何らかの組織制度による任命によらず、神よりの直接の任命によりてである(ガラ1:1)。真の権威はこの確信より生れる。なお発信者の資格身分等を附加することは普通の私信には無く、公的性質を有する書簡に主として用いられる。
キリスト・イエスの
註解: 使徒としてキリスト・イエスの福音を伝えることがパウロの職務であった。これまでが発信者。
辞解
[キリスト・イエスの] イエスによりて遣 され、彼より委嘱されし任務を帯びたることを示す。
[使徒] 十二使徒のみならずパウロ、バルナバ等にも用いる。「遣 された者」の意味であるけれども、単なる「使者」の意味ではなく、任務の観念をも含む。ロマ1:1註参照。パウロは他の多くの書簡には発信人の中にその弟子をも加えているけれども本書は回章の性質上パウロ一人の発信人となっている。
[
註解: 発信人に次いで受信人を録す。聖徒たることと忠実にその信仰を守る者たることとは最も中心的要件である。
辞解
[書を贈る] 原文になし、単なる宛名のごときものなる故である。
[エペソに] 古き写本にこれを欠く(緒言参照)。この二字の処に余白を残し、各教会ごとにそれぞれその名称を補充せるものと見れば理解しやすいけれども、もし然らずとすれば文章としては生硬 にして他に例なきものとなる。強いてこれを訳せば(1)「聖徒にしてかつキリストに在る信徒(または忠実)なるもの」(I0)とするかあるいは(2)「有るものたる聖徒、およびキリスト・イエスに在る忠実なる者に」となる。「有るもの」は存在者を意味し出3:14を指す。なお「忠実なる者に」 pistois を「信者たちに」と訳すべしとの説(M0)あり、「キリストに在りて」を「聖徒」にも懸けて読む説もあり、文法上は何れとも決し難い。
[聖徒] 聖別せられし者の意、ヘブル語より転じたる意味。
1章2節
口語訳 | わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 |
塚本訳 | われらの父なる神と主イエス・キリストよりの恩恵と平安君達にあれ! |
前田訳 | われらの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなた方にありますように。 |
新共同 | わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 |
NIV | Grace and peace to you from God our Father and the Lord Jesus Christ. |
註解: 神はその恩恵をもって我らの罪を赦し、我らをその束縛より救い出し、我らに永遠の生命と嗣業と凡ての必要なる賜物とを与え給う、かくして我らの心には良心的平和あり、神の守護を信じて如何なる場合にも心に平安が宿る。この状態をパウロは信徒に対して訴えている。而してこの恩恵と平安とは父なる神と子なる神より来る。
辞解
普通の書簡では単に chairein と録す。ヤコ1:1註参照。
分類
2 讃美と感謝 1:3 - 1:23
2-1 讃美頌栄 1:3 - 1:14
2-1-イ 神の選びと予定に対し 1:3 - 1:6
註解: 3−14節は連綿たる一つの文章を為し、関係代名詞または分詞等をもって次から次へと接続し、そのまま日本語に訳することは困難である。「神の(恩恵の)栄光に誉あらんためなり」なる語が、6、12、14節にあたかも折返しのごとくに繰返されて、全体を一つの讃美歌のごときものたらしめている。恩恵は連続しているけれども、内容は神の讃美3−6、キリストの讃美7−12、聖霊の讃美13−14に区別することができる。
口語訳 | ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、 |
塚本訳 | 賛美すべきかな、天上におけるあらん限りの霊の祝福をもって私達をキリストにあって祝福し給うわれらの主キリスト・イエスの父なる神! |
前田訳 | ほむべきは神、われらの主イエス・キリストの父。神はキリストにあってわれらに天の霊的な祝福をお与えでした。 |
新共同 | わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。 |
NIV | Praise be to the God and Father of our Lord Jesus Christ, who has blessed us in the heavenly realms with every spiritual blessing in Christ. |
註解: パウロの書簡は冒頭の挨拶の後讃美と感謝とをもって始められる場合が多い。ここでもこの語を冒頭第一に置き、パウロの全心が神の讃美に向けられていることを示す。
註解: 神はキリストによりて凡ての経綸を行い給う意味においてキリストの神であり、キリストとの間に愛の関係に立ち給う意味においてキリストの父である。ゆえに「神、我らの主イエス・キリストの父」と読む説は適当ではない。
かれはキリストに
註解: 我らを祝福し給う者は「イエス・キリストの父なる神」であり、その祝福は「霊的なるもの」すなわちこの世の念と肉の慾とを充たすものではなく、神の霊より出づる新生命に属する処のものであり(B1、Z0)(次節以下14節のごとき、ロマ1:11。ロマ15:29。Tコリ12:1。Tコリ14:1)、而してその祝福を与えられる場所は「天の處」「すなわち地と反対の處で、神を信ずる者の心の中にはすでに天が存在しており、この天は神の在し給う天と一体をなす」(L2)のであり、その手段は「キリストに由りて」または「キリストにおいて」であって、キリストを離れてこの祝福は何人にも与えられない。
辞解
[霊の] 「霊的の」 pneumatikos。
「天の處にて」と訳されし epouranios は必ずしも場所を示さず、「天的なる」として祝福の性質を説明するものと解する説あり(I0)、本節の場合は場所と見る方可なり。本節の「讃むべきかな」と「祝福」と「祝し」は同一の語の異なる品詞。
口語訳 | みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、 |
塚本訳 | 神は御前にて聖く瑕無き者とするため、天地開闢の前から私達をキリストにおいて選び、 |
前田訳 | 神はキリストのみ前に聖かつ無垢であるようにと、われらを彼にあって世のはじめの前にお選びでした。愛のうちに |
新共同 | 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 |
NIV | For he chose us in him before the creation of the world to be holy and blameless in his sight. In love |
註解: 本節は前節の祝福の内容すなわち神の選びにつき説明す。而して神の選びの目的は選ばれし信徒が神の前に潔く瑕 なき犠牲の動物のごとくに献げられんことである。而してこの潔く瑕 なきことは道徳的完全無欠を意味すると見る(B1、C1、C2、A1、I0)よりもキリストに在る信仰によりて神の目に聖にして責むべき所なき意味(Z0、M0)と解すべきであろう。
辞解
[潔く] むしろ「聖く」で、多く聖別の意に用う。
[瑕 なく] また「責むべき所なく」とも訳し得るけれども本節は出12:3、5等における過越の羔羊を予め選ぶ場合を連想せしむるものあり、ゆえに「瑕 なき」にても可なり。
註解: 神がその民を御自身に選び給うことは、天地創造の以前より行われていたことであり、而してこの選びは、永遠に存在し給う御子キリストの中に行われたのであった。すなわち神は時至りてその選び給える者をキリストに来たらしめ、キリストによりて神に到らしめ給う。
辞解
[世の創の前 ] パウロ以前には聖書にしばしば用いられている表現法で、「世の基を置くより前に」の意(マタ13:35。ルカ11:50。ヨハ17:24。ヘブ4:3。Tペテ1:20。黙13:8)。なお次節の「愛をもて」は原文の区画では本節の末尾にあり、「選び」または「瑕 なからしめ」に掛けんとする説あれど不適当なり。
口語訳 | わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。 |
塚本訳 | 御意の思いのままにイエス・キリストによりその子たるべく愛をもって予め定めたもうたのであった。 |
前田訳 | 彼はわれらがイエス・キリストによって神の子になるようご予定でした。それは彼のみ心にかなったことで、 |
新共同 | イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。 |
NIV | he predestined us to be adopted as his sons through Jesus Christ, in accordance with his pleasure and will-- |
註解: 直訳「彼の意思の善しとする処に従い」。我らが選びに定められることは我らの価値または功績によるにあらず、唯神の御意がこれを善しとし給うが故のみ、「我らはこれ以上に我らの救いまたはその他の神の御業の理由を求めてはならぬ」(B1)。
イエス・キリストに
註解: イエス・キリストは初めより神の子に在し給う、我らは彼を離れては神の子となることはできない。
註解: 本節の冒頭(原文前節の末尾)にあり、最も強調せられている句で、次の予め定め給えることは神の愛をもって為されることたるを示す。
註解: 直訳「己にまで養子と預定し給い」で、我らは始めより神の子にあらず、あたかも子ならざるものを養子として子の身分を与えるごとく私らの神の子たるはこの与えられた身分による。この「預定」と前節の「選び」とは、同一事実の二面と見るべく前後の関係ありと見る必要なし(ロマ8:29とロマ8:33とを比較すべし)。予知は時間的にこれに先行し、召命はその後に来る(ロマ8:29、30)。
辞解
[子となさんこと] huiothesia 養子とすることで、ローマ法にのみ存しユダヤにはその規定なし。パウロは他にもこの思想をもって神とキリスト者との関係を示す(ロマ8:15、ロマ8:23。ロマ9:4。ガラ4:5)。
[定め] proorizô は「予め定め」と訳すべきで(エペ1:11。使4:28。ロマ8:29、30。Tコリ2:7を見よ)、予定説の根本を為す。予定については本註解ロマ9:33に続く附記を見よ。予定は自己の罪人たることを知る者が自己の救いの究極の理由を神の側において見出すことであって、救いの確実さを知る上の最も重要なる教理である。
1章6節
口語訳 | これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。 |
塚本訳 | これはその愛し給う者において私達に賜うた恩恵の栄光が讃美されんためで、 |
前田訳 | 彼のいとし子によって恵まれた恵みの栄光をわれらが讃美するためです。 |
新共同 | 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。 |
NIV | to the praise of his glorious grace, which he has freely given us in the One he loves. |
註解: 「愛しみ給う者」は、すなわちイエス・キリストで、キリストは神の愛子に在し給う。凡ての恩恵は彼を通じて我らに与えられる。3−5節の神の恩恵の御業とこの神の恩恵の御業より輝き出づる栄光は(12、14節には神の栄光とあり)凡ての聖徒の讃 めたたえる処となるべきものである。かくして神の国は神の恩恵の栄光と全聖徒の讃美の大合奏となる。
辞解
[我らに賜ひたる] 原語「我らを恵み給える」であるが、また「我らを愛らしからしめ給える」と訳す説もあり、カトリック教会もこの解をとる。
この「栄光の誉のために」(直訳)は三度繰返されていることに注意すべし。
要義1 [天国の光景]パウロにとりては信仰の世界は凡て天の国であった。そこでは唯神のみ働き給い、彼独りにて予定し、独りにて選び、独りにて祝み給う。そうして、彼はこの凡てをイエス・キリストによりて為し給うが故に、神独りの御業はすなわちキリストの御業となる(「キリストに由りて」を四回繰返していることに注意すべし)。かくしてキリストに在るものは、彼の義と聖と智慧と贖い(Tコリ1:30)とを着て神の前に立ち、神の前に聖く瑕 なきものとなり、神の御業の栄光を声を合わせて讃美するのである。何処にかかる美しき光景があろうか。パウロはローマの獄中においてこの光景を脳裏に浮べ、この世におけるあらゆる不幸を超越して、全心をもって誉を神に帰したのであった。
要義2 [予定の祝福]我らの救いが神によって予定せられているということはまことに大なる祝福である。すなわち神の賜う祝福の内容が我らにとって祝福たるのみならず予定そのことが祝福である。その故は、我らの救いが我ら自身の価値と何らの関係もないからである。もし我らの救いが我らの価値によって定まるものならばそれほど不確実不安定なものはない。然るに神が我らを予め救いに定め給うが故に、その救いは全く不動不変である。我らは唯かかる神を讃めこれをたたえるより外にない。▲救いの確信を得るまでは、予定の教理はその人には意味を為さない。何人も自分が救いに予定されているかどうかを予め知ることはできない。これを思い煩うは無駄である。唯求めよ。
要義3 [キリスト・イエスに在るもの]獄中書簡において殊に著しき事実は「キリスト・イエスに在りて」 en Christôi Iesou なる語(またはこれと同義の語)が非常に多いことである。1:3−13の中においてすら十一回を数うることを得(なおこの他 dia を用いし場合二回あり)。これ取りも直さずこの当時におけるパウロの心境を示すものであって、彼は幽囚の中にありては、伝道旅行の際のごとき華々しき活動を為すことを得ず、唯静かにキリスト・イエスを想い、「彼に在ること」の幸福を深く味わっていた。単に我らのために十字架に懸り給いしイエスとしてのみではなく、現に天に在して我らのために執成し給うイエスとの霊の交わりこそ、パウロの信仰の主要の事実であった。ここにおいてパウロの信仰の傾向がヨハネのそれと著しく接近して来ているのを見る。
1章7節
口語訳 | わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。 |
塚本訳 | 私達はこの愛され給う者において、神の豊かなる恩恵により、その血による贖いすなわち咎の赦免を戴いたのであり、 |
前田訳 | み子にあってわれらにはその血によるあがないと罪のゆるしがあり、それは彼の恵みの豊かさによるものです。 |
新共同 | わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。 |
NIV | In him we have redemption through his blood, the forgiveness of sins, in accordance with the riches of God's grace |
註解: 罪の下に奴隷となっている者が(ロマ6:17)、その罪より解き放たれるためには、罪なきイエスが十字架に死にて血を流し給うことが必要であった。このイエスの功績すなわち贖罪の死によりて、我らの頑固なる心も打砕かれ、イエスと共に死に共に甦えらせられ(ロマ6:3−11)、「彼にある」ものとなる。而してこれによりて我らは贖罪すなわち罪の赦しを得るのである。これこそ彼の恩恵が無限に豊富であることの現れである。
辞解
[贖罪] apolutrôsis は本来代償を払って奴隷を買戻すことをいうのであるけれども、多くの場合贖う者の愛心と贖われし者の自由なる歓喜とを中心とせる状態を指す。それ故に一々の場合、代価は何をもって支払いしや、何者に支払いしや等のことを穿鑿 することは、かえってパウロの心より遠きものたらしむる結果となる。本節の場合においても同様で、キリストの血は代価として払われたものであるとの思想が表顕されていると見る必要はない。ただし罪を赦され、神の子とせられしことは価をもって贖われ(購入せられ)しものと見る思想につきてはTコリ6:20。Tコリ7:23。ガラ3:13。ガラ4:5を見よ。「罪」はこの場合 paraptôma で律法違反の状態を指す。(▲口語訳には「罪過」と訳してあるのは正しい。「罪」 hamartia は神に対する反逆を意味し、「罪過」または「咎」 paraptôma は律法違反を意味す。)「富」はパウロの特愛の語(エペ1:18。エペ2:7。エペ3:8、エペ3:16)。
1章8節
口語訳 | 神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、 |
塚本訳 | 且つ神はこの恩恵を私達に溢れさせて凡ての知恵と悟りとを与え、 |
前田訳 | 恵みはあらゆる知恵と分別となってわれらにあふれました。 |
新共同 | 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、 |
NIV | that he lavished on us with all wisdom and understanding. |
註解: 前節の「恩恵の富に随 ひ」の説明である。すなわち神はその恩恵を我らに充たし給うた。如何なるものをもってか。すなわち「諸般 の知慧 と聰明 とにおいて」である。これによりて神の奥義を知ることを得るようにせられるのである。
辞解
知慧 sophia と聰明 phronêsis との区別は種々に説明せられているけれども、前者は物の本質に関する知識および理念であり、後者はその応用に関する聰明さである。なお本節には今日大部分の学者により現行訳のごとくに解すべきものとされているけれども、あるいはC3やヒエロニムス等の古き学者のごとく、本節を二分し、前半を前節に、後半を後節に関係せしめ、次のごとくに訳することは棄て難きように思う。すなわち7節「我らは彼にありて神の我らに充し給う。恩恵の富に随い・・・・・罪の赦しを得たり。9節、神は諸般の智慧と聰明とをもって御意の奥義を・・・・・」この場合「諸般の智慧と聰明とをもって」は人間に与えられる恩恵の内容と見ることができるけれども、それよりも神の智慧および聰明と見るを可とす。ヘブ1:1、2のごとき思想となる。なお文法的にもかく見る方が3−14節全体の統一が取れるようになる。
1章9節
口語訳 | 御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。 |
塚本訳 | 御意の奥義を知らせ給うたのである。これは神の御思いのままに成ったことで、時期満つるに及んで実行すべく予め自ら計画し給うた摂理であり、 |
前田訳 | それは彼のよろこびたもう聖意(みこころ)の奥義をわれらに示しました。それは彼にあらかじめあったもので、 |
新共同 | 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。 |
NIV | And he made known to us the mystery of his will according to his good pleasure, which he purposed in Christ, |
註解: 「御意のままに」は5節と同じく善しと見給うままに、または「御意に召すままに」の意、奥義 mystêrion は「神秘」または「秘密」の意味に用いられる語であるけれども、パウロの場合においては神の御意の中にありて隠されていたものをいう、種々の内容をもつ語であり、ここでは次節に録されるキリストによる全世界の帰一を指す(ロマ11:25辞解参照)。エペ3:3以下の奥義はまた異なる内容を有す。なおエペ5:32。エペ6:19参照。現行訳次節の末尾「これ自ら定め給ひし所なり」は原文本節の末尾にあり。現行訳は連絡不明なり。▲▲すなわち「自らの中に定め給いし御意のままに」とすべし。
1章10節
口語訳 | それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。 |
塚本訳 | 天のもの地のもの一切をキリストにおいて一つに纒め給うことであった。私達はまたキリストにおいて、 |
前田訳 | 時が満ちるに及んでの経綸のためでした。すなわち、天上のものも地上のものも万物がキリストにあってひとつになるためでした。 |
新共同 | こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。 |
NIV | to be put into effect when the times will have reached their fulfillment--to bring all things in heaven and on earth together under one head, even Christ. |
註解: 原文の連絡も難解であり従って訳文も難渋である。本節は前節の「神の御意を善しとし給う所」の説明で、神はその奥義を我らに知らしむべき時期をキリストの中に定め、キリストが神の経綸を実現し給う時をそれと定め給うた。すなわち種々の時代(kairoi)を経過してついに神の定め給える時満つるに至れば天地万物みな再びキリストに帰し、キリストに従うものとなる時がそれである。すなわちキリストがこの世に来給いしことによりてこの経綸が実現し(コロ1:16、17)、神の善しとし給う時が来たので、神はこの奥義をパウロ始め彼を信ずる凡ての者に示し給うた。
辞解
[時満ちて] 神の御旨の中に定められている時が満ちること。ガラ4:4も略 同義。
[経綸] oikonomia 家を支配することより転じて神が全宇宙を支配し給うこと。
[天にあるもの云々] 特に天使、悪霊等と限定する必要なく、天地万有というごとき意味。
[一つに帰す] anakephalaioô ロマ13:9の「みな籠 る」と同語。「要約す」「主要点に帰着す」「取りまとめる」というごとき意味の語。アダムの罪のために神を離れ、中心を失いて支離滅裂となり呻吟 しつつある天地は、キリストに従うことによりて再びその中心を得これに帰一する。
「これ自ら定め給ひし所なり」は前節の終りにあり、前節の神の御意の「善しとし給ふ所」 eudokia を受け、その善しとし給うことを「神は彼のうちに定め給へえり」となっている。(▼−▲この部分すなわち本節末の「これ自ら定め給ひし所なり」を前節の▲▲のごとくすなわち「自らの中に定め給いし御意のままに」として前節に移し、その代りに本節末に「・・・・・こと是なり」を加える。)この彼はキリストかまたは神御自身か(hauôi と読む)につき異論あり、キリストと解するよりも(Z0、B1、L1、C3)、神と解するを可とす(M0)。ゆえに9、10節は次のごとくに私訳することを得。「すなわち神は時満ちて天上地上の凡てのものをキリストにありて一つに帰せしむべき経綸を行わんとて自ら定め給える思召しのままに、御意の奥義を我らに示し給えり」。
要義 [神の奥義の啓示]我らが神の恩恵によって罪より救われることは、単に我ら個人々々に関わる問題ではなく、神の宇宙的経綸の一部である。そしてこの宇宙的経綸はキリストにその中心を置き、かつキリストにより実現される処のものであって、宇宙間の凡ての問題はキリストによりて解決せられているのである。これすなわち神の宇宙的経綸の奥義であって、この奥義を示されることにより、人類は始めて生存の意義を見出し、その人生観、世界観、宇宙観に革命的変化を来すに至る。
口語訳 | わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。 |
塚本訳 | 然り、彼において、凡てを御意の欲いのままに為し得給う御方の考えによって予め定められ、(神の王国の)相続人となったのである。 |
前田訳 | キリストにあってわれらはすべてを行ないたもうもののご計画どおりに定められています。それは彼のみ心によるものです。 |
新共同 | キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。 |
NIV | In him we were also chosen, having been predestined according to the plan of him who works out everything in conformity with the purpose of his will, |
註解: 即ち既に基督者となりし者は
註解: 3−10節において述べし神の経綸が、事実として自分に適用せられており、神の自由なる意思の予定によりて神の産業、神の所有し給うものとなっていることを意味す。
辞解
[御意] thelêma は単なる意思。「思慮」 boulê も意思の意味であるけれども、心をもって計画し熟慮すること。
[産業とす] 本来鬮 を引いて自分の分け前を得ることであるが、これとヘブル語のナハラーと同義に用い、嗣業として受ける意味に用いる、ここでは受動態で、神の産業とされ、神により特に重要視され愛される者となったことを意味す。
1章12節 これ
口語訳 | それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。 |
塚本訳 | そしてこれは私達(ユダヤ人)がまずキリストに望みを置いて、神の栄光が讃美されんためである。 |
前田訳 | それはわれらが彼の栄光を讃美するためにキリストにあって希望を先取りするためです。 |
新共同 | それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。 |
NIV | in order that we, who were the first to hope in Christ, might be for the praise of his glory. |
註解: 我ら一般のキリスト者が、予定によりて神の産業とせられし目的は、夙 くより未だその希望が実現せざる前より(ヘブ11:1)キリストに希望を置く者として、希望に充てる生活を送ることによりて神の栄光の誉となり、その生活がそのまま讃美頌栄とならんがためである。
辞解
この「我ら」を次節の「汝らも」と対立せしめ、「夙 くより」を「汝等より以前」と見て、「我ら」はユダヤ人の信者、「汝ら」は異邦人の信者と解する説あれど(B1、I0、M0)、これはパウロの考えではない。かかる区別はこの前後の関係を乱すのみならず、パウロは主語の人称を変えることはしばしばあり、この場合もこれに拘泥する必要がない。唯「我ら」はパウロ等、「汝ら」はエペソ書の読者と見るべし(Z0)。また本節を「これ我らが神の栄光の誉のために夙 くよりキリストに希望を置く者とならんためなり」と訳する説が多い(I0、M0、Z0)けれども、前節より見て不適当である。
口語訳 | あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。 |
塚本訳 | このキリストにおいて君達(異教人)もまた、真理の言すなわち君達の救いの福音を聴いたので──このキリストにおいて君達もまた、信ずることにより約束の聖霊をもって封印されたのであるが、 |
前田訳 | あなた方も、真理のことば、すなわちあなた方の救いの福音を聞いて、キリストにあってそれをお信じのとき、約束の聖霊の印(いん)をお受けでした。 |
新共同 | あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。 |
NIV | And you also were included in Christ when you heard the word of truth, the gospel of your salvation. Having believed, you were marked in him with a seal, the promised Holy Spirit, |
註解: この書簡の読者にして同じく信仰に入れる者。
キリストに
註解: 「印せられ」に懸る。
註解: 信仰は聞くことによる(ガラ3:2)。
註解: 彼はキリスト、「之を」と読みて「福音」を指すと解する(C1)は不適当なり。
註解: 旧約聖書にしばしば約束せられし聖霊を与えられ、あたかも証書に印を押してこれを確実にするごとくに神のものたること、または神より嗣業を与えられることが確実にせられた(Uコリ1:22)。
辞解
[約束の聖霊] ヨエ3:1。ゼカ12:10。イザ32:15。イザ44:3。エゼ36:26以下。エゼ39:29等に約束せらる。ただしこれを神の約束を確むる聖霊(C1、C3)と読む説、または神の約束を実現する聖霊と読む説あれど、不適当なり。
口語訳 | この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。 |
塚本訳 | この聖霊こそ(実は)私達が神の王国を相続することの担保であり、私達を贖って神の所有とするのであって、(凡ては)神の栄光が讃美されんためである。 |
前田訳 | それはわれらの継承の保証であり、神の財産としてのわれらをあがなうためであり、彼の栄光の讃美のためです。 |
新共同 | この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。 |
NIV | who is a deposit guaranteeing our inheritance until the redemption of those who are God's possession--to the praise of his glory. |
註解: あたかも売買契約においてその代金の一部を手付金として受くるがごとく、未来に神の国において受くべき我らの産業(所有たるべき分)の手付金のごとくに今我らは聖霊を与えられている。ゆえに聖霊を受けている者はもはや未来において完全なる嗣業を受けることを疑わない。
辞解
[保証] arrabôn は手付金のこと、本来はセム語系の語。
註解: 神の所有に属する凡ての信徒が贖わるべきために、聖霊をもって印せられたのである。
辞解
[屬 けるもの] peripoiêsis は「残り物」(▲(+)「保留」「保有」「所有」等。)の意味で、そのままでは神に属するものとはならない。またこれに「獲得せるもの」の意あり、これに次の句の「彼の」を加えて「神に属けるもの」と読む。Tペテ2:9の場合に比してこの読み方は無理なり、反対多し。
かつ
註解: 凡ての恩恵、すなわち聖霊をもって印されることすらも結局において神の栄光の誉のためである。かくして全天地は神をたたうる声に充たされるに至る。
註解: 15−23節は4、5節の敷衍と見るべきで、この数節もまた連続せる一つの長文章であるが便宜上内容によりこれを三つの部分に区別した。
口語訳 | こういうわけで、わたしも、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを耳にし、 |
塚本訳 | それ故に私もまた、主イエスに対する君達の信仰と凡ての聖徒に対する愛とを聞いたので、 |
前田訳 | それゆえわたしも、主イエスへのあなた方のまこととすべての聖徒への愛とを耳にして、 |
新共同 | こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、 |
NIV | For this reason, ever since I heard about your faith in the Lord Jesus and your love for all the saints, |
註解: 13、14節を受けると解するよりも(M0)、3−14節の全体を受けて、次の思想に移り行く態度と解するを可とす。
註解: 汝らも勿論左様であろうが、
註解: 小アジヤ地方の信徒の長所は、その信仰と愛とであった。希望の方面は幾分不充分であったのでこれを祈り求めているのを見る(18節)。
辞解
[聞きて] 必ずしもこれのみをもって、パウロがこれらの教会を知らなかった証拠とするには足りない(緒言およびピレ1:5参照)。
1章16節
口語訳 | わたしの祈のたびごとにあなたがたを覚えて、絶えずあなたがたのために感謝している。 |
塚本訳 | 祈りの中で君達のことを述べる時絶えず君達のために(神に)感謝し、 |
前田訳 | わが祈りのうちであなた方のことをのべるときに、あなた方のことを絶えず感謝します。 |
新共同 | 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。 |
NIV | I have not stopped giving thanks for you, remembering you in my prayers. |
註解: 私訳「わが祈りのうちに汝らを憶えつつ汝らのために感謝することをやめず」。パウロの祈りは常にこれらの信徒の上に関する執成しの祈りであり、また彼らの信仰に関する感謝であった。
辞解
[憶え] 「記憶する」の意味ならびに「口に上げる」意味あり、双方と見て差支えなし。
口語訳 | どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、 |
塚本訳 | われらの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と黙示との霊を君達に与えて神の知識に至らせ給わんこと、 |
前田訳 | それは、われらの主イエス・キリストの神、栄光の父が彼を知る知恵と黙示の霊をあなた方にお与えを、という祈りです。 |
新共同 | どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、 |
NIV | I keep asking that the God of our Lord Jesus Christ, the glorious Father, may give you the Spirit of wisdom and revelation, so that you may know him better. |
註解: アリアン主義はこの句を基礎としてキリストの神性を否定し、ある古代教父達はこれに対する反駁 のために「主」をキリストの人間性と解したけれども、かかる必要はない。キリストも父を「我が神」と呼び給うた。ヨハ20:17。マタ27:46。
註解: キリストの栄光を生み出す父(A1、B1)の意味ではなく、また一般に栄光の源の意味でもなく、自ら栄光を有ち給う父の意味。
なんぢらに
註解: 聖霊は人によりて種々の働きを示し給う(Tコリ12章参照)、エペソ書の読者たちは、信仰と愛とにおいて優れていたけれども神の御旨を知る智慧と、神の奥義を悟る黙示とにおいて欠ける処があったので、パウロは彼らのためにかかる働きをあらわす聖霊を祈り求めた。換言すれば聖霊がかかる働きを彼らに示し給わんことを求めた。かくしていよいよ深く神を知るに至らしめんことを望んだ。ただし「神を知らしめ」と訳することは(L1)原文の en を eis と解する必要あり、やや無理である。あるいはこれを「神を知るの知識の中に智慧と黙示との霊を与え」と訳し、範囲を示すものと解し(M0)、またはこの句を後に関連せしめ、「神を知るの知識にて汝らの心の眼を明かにし」と訳す(I0、Z0)。単に智慧または黙示というだけでは、他の類似の説や、偽教師の説と混同する虞 があるので、特にその範囲を「神を知るの知識の中に」と限定したものであろう。
辞解
[黙示] 「啓示」で隠されている神の御旨を知ること。
[知る] ここでは「知識」 epignôsis で普通の gnôsis よりも一層精確にして深遠なる知識または理会。
口語訳 | あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、 |
塚本訳 | また【君達の】心の目を明らかにして、神に召され(ることによって得)た希望の何であるか、“聖徒の受くる”光栄ある(天の)“相続財産”の富の何であるか、 |
前田訳 | 心の目が照らされて、神のお招きへの希望がどんなか、聖徒に示される彼の継承がなんと栄光の富に満ちているか、 |
新共同 | 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。 |
NIV | I pray also that the eyes of your heart may be enlightened in order that you may know the hope to which he has called you, the riches of his glorious inheritance in the saints, |
註解: 肉の眼が如何に明かでも心の眼すなわち理解力が無ければ、多くの異端邪説に惑わされる。
辞解
本節は原文の構造上問題多き箇所。「心」 kardia は人間の心理的霊的生命の中心と考えられた。ゆえに感情、道徳心、知識等に適用される。
註解: 神に召されし者は神の栄光の国に救い入れられる望みを有っている(ロマ8:28−30)。このことを知ることが必要である。
註解: 神の嗣業はやがて聖徒がこれを受くべきものである。かくして神の国が実現し、永遠の生命と永遠の祝福とがその内容を為す(黙21章−22章参照)。その栄光の豊富さは何に譬えることもできない。これが現に聖徒の間にありても大なる意義を有つ。
辞解
[聖徒にある] 意味、および文法上の関係についても諸説あり。中に「聖徒より成る神の嗣業」(Z0)と見る説も注意を要す。
1章19節
口語訳 | また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。 |
塚本訳 | また私達信者に対する神の能力の如何に絶大であるかを知らせ給わんことを願っている──この力強く働く神の威力こそ、 |
前田訳 | われら信ずるものに彼のみ力がいかにすばらしい大きさかを、あなた方が知るように、との祈りです。そのみ力は彼の権威と強さの働きであり、 |
新共同 | また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。 |
NIV | and his incomparably great power for us who believe. That power is like the working of his mighty strength, |
註解: 私訳「我らに対する極めて大なる能力の何たるかを」。前節と本節とにパウロがエペソ書の読者に知ることを望んだ三つの事柄がある。(1)希望、(2)希望の内容に伴う栄光、(3)この希望を与うる神の力の偉大さである。神はその偉大なる力をもって我らの心の中に働きて我らを信ぜしめ、我らにこの希望を持たしめ給うた。そして20−23節においてこの能力がキリストに対し如何に働きしかを示し、そしてこれと同じ力によりて信ぜしめられ、やがてキリストと同じ栄光をもって輝くべきキリスト者の偉大さを暗示す。
辞解
力を表顕する四つの文字が用いられている。「大能 」 ischus は性質としての方面より見たる力、「勢威 」 kratos は稜威というごとく表顕せられし力、「活動 」 energeia は働きの方面より見たる力、「能力 」 dunamis はその能力の方面より見たる力を指す。なお、「神の大能の・・・・・によりて」を「信ずる」に懸けることを好まざる多くの学者はこれを種々に解せんと試みているけれども適当なるものはない(M0、Z0、I0)。我らの信ずるは神の能力が我らの中に働き給うが故であって、現行訳のごとく解して差支えがなくまた原文の語勢よりいうもこれが最も自然である。
註解: 文章としてはなお続いているけれども、思想は一転して神の能力がキリストの上に如何に働いたかを示し前節の内容を
詳 にす。
1章20節
口語訳 | 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、 |
塚本訳 | 彼がこれをキリストの中に働かせ、彼を死人の中から蘇らせ、天上において、“己が右”、 |
前田訳 | それは神がキリストのうちにお働かせのものであり、彼を死人の中から起こし、天上でご自分の右にお置きになったものです。 |
新共同 | 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、 |
NIV | which he exerted in Christ when he raised him from the dead and seated him at his right hand in the heavenly realms, |
註解: hên を energeia を受くる関係代名詞と見て「大能を」は「活動を」とすべしとの説多し。すなわち我に希望と嗣業の栄光の富とを与うることを得る神の能力はイエス・キリストのうちに働き、彼を復活昇天せしめ、かくして彼を凡ての物の上に坐せしめて、教会の首たらしめ給うた。凡てが神の能力の活動である。
註解: イエスの復活も昇天もみな神の能力によったのである。神の右は神につぐ最高の地位。
1章21節 もろもろの
口語訳 | 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。 |
塚本訳 | 凡ての「権威」「権力」「能力」「支配者」の上、またこの代ばかりでなく来世においてもありとあらゆる名という名の上に“坐らせ給うた”力である。 |
前田訳 | それはあらゆる支配、権威、力、統治、そして現世のみか来世でも、あらゆる名のつくものの上にあります。 |
新共同 | すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。 |
NIV | far above all rule and authority, power and dominion, and every title that can be given, not only in the present age but also in the one to come. |
註解: 当時小アジヤの地方には特に天使崇拝が盛んであって(コロ2:18)、それらに種々の名称を附し、それぞれの階級を定めていた。天の使いの観念は当時の人は一般にこれを有し、イエスもこれを否定し給わなかったほどであった(マタ18:10。マタ22:30。マタ24:36等々)。パウロもその存在を否定しないけれども、キリストすでにそれらの凡ての上に坐し給う以上、それらのものはもはやどうでもよいものであった。それ故にここに掲げた数種の天使の名称も、別にその位の上下の順に排列せられたもの(M0)と解すべきではなく(I0、Z0)、またその善天使か悪天使か等(エペ6:12参照)をも問題としているのではない。
辞解
[政治 ] archê 首長の意。「権威」 exousia 「能力 」dunamis 「支配」kuriotês 等はみな天使の名前と解するを可とす、これをユダヤの祭司たちや異邦の君たち等と解することはここでは当らない。
[この世] イエスの再臨までの世。
[来たらんとする世] 再臨の後の時代。
[稱 ふる] 「名付けられる」。
口語訳 | そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。 |
塚本訳 | 然り、神は“万物を彼”(キリスト)“の足の下に屈服せしめ”、彼を万物の上にある頭として教会に与え給うた。 |
前田訳 | すべてをお足もとに置き、キリストをすべての頭として集会(エクレシア)にお与えになりました。 |
新共同 | 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。 |
NIV | And God placed all things under his feet and appointed him to be head over everything for the church, |
註解: 詩8:6の不精確なる引用、Tコリ15:27にも引用せられ、この詩の思想をメシヤ的に解していたことを示す。キリストは神に立てられ万物の首となり給うた。而して凡ての物をその足の下に置き給う時、これを神に返し給う(Tコリ15:24、25)。イエス・キリストが万物をその足の下に服 わせ給うということは具体的に如何なる状態を指すかは不明であるが、神が神として崇められ、万物は万物としてその立つべき場所に立つことを意味することは疑いない。黙21章の光景のごときもその一面を示すものであろう。
註解: キリストは万物を創造し、これを保持し給い(コロ1:16、17)、万物は彼のために存在する。キリストは実に万物の首としてこれを支配し給う、これみな神の能力が彼の中に働きてかくならしめたのである。而してこの万物の首たるキリストを神は教会に与えて、またその首となし給うた。ゆえに教会はまたキリストと共に万物を支配すべきものである(ロマ5:17。黙20:4、黙20:6)。
1章23節 この
口語訳 | この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。 |
塚本訳 | そしてこの教会こそ彼の体であり、万物を万物に満たし給う者の満ち給う所である。 |
前田訳 | 集会は彼の体で、すべてをすべてに全うなさる方による完成そのものです。 |
新共同 | 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。 |
NIV | which is his body, the fullness of him who fills everything in every way. |
註解: かくして教会とキリストとは一体の関係に立つ。ゆえにキリストが万物の上に首たると同じく教会もまたキリストと共に万物を支配す。而して首は身体の全部を支配し、その働きは体に全部に満つるごとく、キリストの体たる教会は、キリストの満つる所、すなわちキリストのプレーローマであり、萬の物をもて萬の物に満たし給う者すなわちキリストの満ち給う所である。「萬の物をもて萬の物に満す」とは逐語的にその意義を定めることは困難であるがパウロの心持はキリストによりて万物は始めて完全なるものとされることの意味であろう。すなわち万物の復興、万物の完成はキリストの再臨の時に成就するのであって、従ってキリストは「萬の物をもて萬の物に満したまふ者」に在し給う。教会はこのキリストの満ち給う所である以上、教会はこの世における最高のそして最も完全なる存在である。
辞解
本節はパウロの大思想を表白してるので、難解であるために種々に解せらる。あるいは「満つる所」を「補充」の意味に解し(I0、Z0)、教会の補充によりてキリストは完成されるごとくに解し、あるいは「満し給う者」を「神」と解する等種々の説があるけれども、この場合としては不適当である。この一節のごときは分解的説明によりて理解すべきでなく、一つの詩として全体としてこれを味得すべきものであろう。
要義 [神の能力の最高の表顕]神の力の最高の表顕はキリストとその教会である。キリストは神の愛子として完全なる従順の生活を送り、人の姿を取りてこの世に下り、十字架の死をさえ味わい給うた。神は彼を甦らせ給うことによりてその大能をあらわし、彼を万物の上に坐せしめ、万物を彼の足下に置き給うた。而して彼を信ずる教会は、彼に連なり彼の体となることによって、万物の首たるキリストを首とすることとなるのである。聖徒にある神の栄光の富の無限なる所以はここにある。この当時の教会はこの世の勢力として微々たるものであった。これをしも、かかる偉大なるものと感得せるパウロの信仰による霊眼の鋭さを見よ。
エペソ書第2章
分類
3 教理の部 2:1 - 3:21
3-1 十字架の贖い 2:1 - 2:10
3-1-イ 旧き我 2:1 - 2:3
註解: 1−10節はエペ1:7の詳述である。原文においては1−7節が一つの文章で1−3節は完全なる文章を為しおらず、4節の「神は」が全文の主語をなす(ただし前章末尾と本章の初頭との連絡につき種々の異説あり。現行訳のごとくするを良しとす)。
口語訳 | さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、 |
塚本訳 | 君達も(私達と同様に)自分の咎と罪によって死んだ者であって、 |
前田訳 | あなた方は過ちや罪に死んでいて、 |
新共同 | さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 |
NIV | As for you, you were dead in your transgressions and sins, |
註解: 異邦人の信者たる者は
[
註解: 「咎」 paraptôma と「罪」 hamartia とは区別なしとする説(I0、M0)または種々の区別を為す説あれど、語義としては大体「咎」は律法に違反すること、「罪」は神の求め給う目標より外れることすなわち神に向わずに他に向うことである。本節の場合は複数故、以上の結果として生ずる種々の悪行を指す故結局両者に大差なし(▲エペ1:7の脚注▲参照)。「死にたる者」は霊的に死にたる者の意味に解する(I0)よりも永遠の死に入るべき者と解す(M0、Z0)。要するに凡ての異邦人は永遠の死に入るべき罪人である。しかしながら実はこれは異邦人のみではなくユダヤ人も同様である(5節)。
口語訳 | かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。 |
塚本訳 | かつてはこの世の世界の流れに従い、すなわち空中の権威と、今も不従順の子らの中に働いている(悪)霊との首領に従って、その咎と罪の中を歩いたのであった。 |
前田訳 | かつてはそれらを犯しつつこの世の時流に従い、空中の権威の支配下にありました。それは今も不従順の子らのうちに働く霊の権威です。 |
新共同 | この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。 |
NIV | in which you used to live when you followed the ways of this world and of the ruler of the kingdom of the air, the spirit who is now at work in those who are disobedient. |
註解: 原文は「この世の時代に従い」であるがこの「時代」 aiôn は本来一定の長さの時を意味するけれども、その時代に住む人間の性格を指す場合あり、俗に「時代がちがう」などいうがごとし。ゆえにここでもこの世の風潮または性格に従いの意。なお多くの異解あり。
註解: この「宰 」は archôn で支配者の意。「権」は exousia でエペ1:21の権威と同語で悪天使の総称としてここに用いられえいる故に、「空中の権の宰 」と訳すべきである。「空中」は悪霊の活動の場所と考えられていた。これらの点につきてはパウロは当時の一般人の思想をそのま活用した。そしてこの空中の権はまた一つの「霊」であり、この霊はサタンの霊であって今も不従順すなわち不信仰(ロマ5:19)の子らの中に働きこれを支配しているのである。従ってこの霊の宰 はサタンであって、凡ての不信者はサタンの支配の下に在る(エペ3:10。エペ6:12。コロ1:16。コロ2:10、コロ2:15を見よ)。
辞解
「空中」「権」「不従順」等につきなお種々の解あれど略す。
口語訳 | また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。 |
塚本訳 | (否、)私達も皆かつてはこの人達に伍して自分の肉の欲の中に生活し、肉と欲望の欲するままに振舞って、他の(異教)人達のように生まれながら(神の)怒りの(審判に定められた)子であった。 |
前田訳 | われらも同様で、皆かつては肉欲のうちに歩み、肉と官能の押すままをしました。生まれながらではわれらも他の人同様、怒りの子でした。 |
新共同 | わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。 |
NIV | All of us also lived among them at one time, gratifying the cravings of our sinful nature and following its desires and thoughts. Like the rest, we were by nature objects of wrath. |
註解: 1節の「汝ら」に対しユダヤ人のキリスト者たる我らもみなの意、ユダヤ人といえども罪の点において異邦人と異なる処がない。
註解: 異邦人の中にてユダヤ人もその生活に影響されていた、「肉の慾」は単に肉慾のみならず神に向かって反する自己中心の生活より生ずる凡ての慾求、「日をおくり」は行動すること、すなわちユダヤ人といえども神を離れし罪人たる点においては同様であった。かくしてパウロは「義人なし一人だになし」の事実を指摘す(ロマ3:10)。
註解: 「肉」につきては前節註およびロマ8:13に続く要義一、二を見よ。「心」 dianoia は本来悪しき思いの意味ではないがここでは「肉」の次にありて「肉の心」(I0)の意味と解するか、または御霊に従うことに対して人間の念に従うことを意味す。
註解: 「怒の子」は神の怒りの下にある人間を意味す。この怒りは最後の審判における怒りのみならず、凡ての場合における神の怒りをも含む。「生れながら」は本来の性質上の意味で、人間はアダムより生れてその性質を受け、罪の子として神の怒りの下にある。かく異邦人とユダヤ人とは共に罪人である点において同一であるが、唯ここに二者の間に差異ある点は、異邦人は罪と咎とに死ねる者たるのみならず悪霊に従っていたが、ユダヤ人につきてはこのことを録していないことである。
要義 [人間自然の姿]人間の自然の姿は、一面より見ればそこに美わしきものがあることを否定し得ない。しかしながら、古今東西の凡ての人類につきて言い得ることは、その何れもが神の御意に従わず、自己の慾に従って生きているということである。これがすなわち罪の姿であり、サタンの僕たる姿である。この点を認識せるものにとりては、他の凡ての美しさは、消え失せて唯神の怒りの下にあるものとしての人類を見るのみとなる。人類の生れながらの真の姿はこれであって、これを発見するまでは真に人間を知ったものとは言い得ない。
口語訳 | しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、 |
塚本訳 | しかし憐憫に富み給う神は、その大なる愛によって私達を愛し、 |
前田訳 | しかしあわれみにお富みの神は、われらをお愛しの大きな愛によって、 |
新共同 | しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 |
NIV | But because of his great love for us, God, who is rich in mercy, |
註解: 「死にたる者」にして「怒の子」なる我ら人類にとりて唯一の望みは神の憐憫のみである。
註解: 愛は最も根本的なる心の姿、憐憫はその具体的の事実に対する働きである。この愛をもって神は罪人を眺め給う時、彼は黙することができなかった。
2章5節
口語訳 | 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし—あなたがたの救われたのは、恵みによるのである— |
塚本訳 | 咎によって死んでいたこの私達をもキリストと共に活かし──君達が救われたのは恩恵によるのだ── |
前田訳 | 過ちに死んだわれらをもキリストとともにお生かしでした。あなた方は恵みによって救われています。 |
新共同 | 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― |
NIV | made us alive with Christ even when we were dead in transgressions--it is by grace you have been saved. |
註解: 罪咎の中にある者は「死にたる者」である(1節)。神はイエス・キリストに由り、その罪を贖い、これに新たなる生命を与え、キリストの生命に与らしめ、彼と共に活きるものになし給うた。
辞解
「咎によりて死にたる我等をすら」を前節の「愛する」に連絡せしめんとする説あれど(Z0)採らず、「キリスト・イエスに由りて」は原文次節にあり、かつ意味の上よりも次節の「甦らせ」と「坐せしめ」に懸ける方が適当なり。
(
註解: 死ねる者が再び生かされるは神の恩恵による以外には不可能である。パウロはその救われし信仰の事実に自ら驚けるもののごとく、この一句を中間に挿入した。読者に特に注意を要求したのである。
2章6節 (キリスト・イエスに
口語訳 | キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。 |
塚本訳 | キリスト・イエスにおいて彼と共に蘇らせ、共に天上に坐らせ給うたのであるが、 |
前田訳 | 神はキリスト・イエスとともにわれらを生かして天の座にお据えでした。 |
新共同 | キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。 |
NIV | And God raised us up with Christ and seated us with him in the heavenly realms in Christ Jesus, |
註解: キリストが甦りて神の右に坐し給えるがごとくに彼と共に彼を信ずる者をもかくし給う。まことに思いにまさる偉大なる恩恵、我らにとりては偉大なる光栄である。そしてすでに甦らせられ、すでに坐せしめられしごとくに言うのは、未来に起るべき事実を信仰によりてすでに完成せりとみたるもの。▲パウロにとっては未来に受くべき凡ての祝福がみな悉 く現在の事実であった。ヘブ11:1。
2章7節 これキリスト・イエスに
口語訳 | それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。 |
塚本訳 | これはキリスト・イエスにおいて私達に与えられた慈愛による神の恩恵の豊富絶大なることを、来るべき代々(の人達)に示し給わんためである。 |
前田訳 | それは彼の恵みがいかに富み、キリスト・イエスによるわれらへの慈愛がいかに深いかを来世でお示しになるためです。 |
新共同 | こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。 |
NIV | in order that in the coming ages he might show the incomparable riches of his grace, expressed in his kindness to us in Christ Jesus. |
註解: 以上のごとく死ねる者が救われて活かされることにおいて神の我らに対する最も深き仁慈 があり、この事実の中に神の絶大なる恩恵がある。そしてこの復活、昇天などの恩恵が与えられるのは神の恩恵が我らのこの世限りの生活のみに顕れて、それで終ってしまうことなく、永遠に継続することによりて来るべき世すなわちイエスの再臨の後の世にもこの恩恵を示さんためであった。遠大なる神の経綸である。罪よりの救いは、決して個人々々のみの小問題ではない。これが神の能力の活動のあらわれとして永遠までその結果を残すべき偉大なる事実である。
註解: 本節以下10節までは4−7節の救いの性質の説明となる。
2章8節 (そは)
口語訳 | あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 |
塚本訳 | 然り、君達は恩恵の故に、信仰によって救われた者である。これは君達の力によるのでなく、神の賜物である。 |
前田訳 | あなた方は恵みのうちにまことによってお救われです。それはあなた方からのものではなく、神の賜物です。 |
新共同 | 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 |
NIV | For it is by grace you have been saved, through faith--and this not from yourselves, it is the gift of God-- |
註解: 4−7節の神の恩恵による救拯とその結果の偉大さとは8−10節のごとき理由によるのであって、凡てが神の御業、神の働きである。汝らの救われし原動力は神の恩恵(5節を見よ)であり、この恩恵が汝らのものとなったのは汝らの信仰である。
辞解
「恩恵により」と「信仰により」とは双方とも「より」と訳されているけれども文法上異なった形を取っている。
(
註解: 救いの成就する源は自己に関する何物でもない、自己の行為や功績の如何によりて救いが来るのではなく、全然神より出で、神の自由なる賜物として恩恵的に与えられるのである。救いは自己の中より生れて来ない。この事実を確保することによりて救いの確実性と救われることの幸福とがわかる。
辞解
[是 ] 「信仰」と解する説と「信仰によりて救われること」と解する説とあり。文勢としては後者が適切である(C1)。
2章9節
口語訳 | 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。 |
塚本訳 | 業によるのではない──誇る者の無からん為である! |
前田訳 | それは人の行ないからではありません。だれも誇らないためです。 |
新共同 | 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 |
NIV | not by works, so that no one can boast. |
註解: 前節後半は救いの客観的原因を掲げ本節はこれを主観的方面より見る。表裏両面より論じていることとなる。もし救われることが自己の行動 ─ 律法の行為のみならず一般に道徳的行為 ─ によるのであるならば、人は自己の救いに誇り得るはずである。しかしながら凡ての善きことは神より出で、救いも我らの価値如何にかかわらず神の恩恵の賜物として与えられるが故に、人間は誇るべき何物をも有たない。唯神に対する感謝と讃美とがあるのみとなる。
2章10節
口語訳 | わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。 |
塚本訳 | 何故なら私達は神が予め準備し給うた善い業のため、その中を歩くために、キリスト・イエスにおいて創造られた神の作品である。 |
前田訳 | われらは彼のみわざで、よい行ないをするようにキリスト・イエスにあって創造されたものです。神はわれらがよい行ないのうちに歩むようあらかじめご準備でした。 |
新共同 | なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。 |
NIV | For we are God's workmanship, created in Christ Jesus to do good works, which God prepared in advance for us to do. |
註解: 神はキリスト・イエスの中に生きる新たなる霊的人類を創造し給う。旧き人類は天地開闢 の第六日に創造せられ、新しき人類は今やキリスト・イエスの中に創造せられつつある。「人もしキリストに在らば新に造られたる者なり」(Uコリ5:17)。この創造はキリストを離れてなされるにあらず、キリスト・イエスの中に(en)すなわち彼との霊の交わりの状態にあるものとして創造せられる。キリストにありて新生せる生命はこの新創造による神の作(poiêma)である。そしてこの創造は「善き業の為」(epi)であって、神は我らの救われるに先立ちて我らをしてこの善行を行い、その中に歩ませようと準備し給うのである。かくて我らの為すもろもろの善行すらもみな悉 く神の御旨の中にあったこととなる。そして神が我らを救い給える目的も、我を救い、我らに幸福を享 けさせるためよりも、むしろ我らをして「善き業に歩ませるため」である。そして神はこの善行に対して予 じめ準備し給い、我らをしてこれを行うことを得るようにし給うのである。それ故に救われし者は善行を為し得ないとの言い訳を為すことができない。
辞解
[神に造られたる者] 直訳「神の作」でこの「作」 poiêma なる語はこことロマ1:20にのみ用いられており、ここでは自然人としての我らではなく新生せる我等を指す。なお本節の訳語は原文の構造を変更している故、訳文よりこれを知ることができないけれども、(1)「神が善行を予 じめ準備し給うた」と読むべきか、(2)または「神が善行に対して予 じめ準備し給うた」と読むべきかにつき諸説あり、後者を取る(L1)。ルカ9:52参照。すなわち神は我らを予 じめ救いに定め給えるのみならず(ロマ8:29)、救われし者が善行を為し得るように凡ての準備を為し給うたとの意味と見るべきであろう。聖霊を与え、サタンとの戦いに対する軍備をなさしむるごとき是である。
註解: 11−22節はエペ1:10の詳述と見ることができる。
2章11節 されば
口語訳 | だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、 |
塚本訳 | だから記憶せよ、かつて君達は肉的には「異教人」で、手で施した肉的のいわゆる割礼者から「無割礼の者」と呼ばれ、 |
前田訳 | それでお忘れなく。かつてあなた方は、肉にある異邦人、肉にある手製のいわゆる割礼者によって無割礼といわれる人々であり、 |
新共同 | だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。 |
NIV | Therefore, remember that formerly you who are Gentiles by birth and called "uncircumcised" by those who call themselves "the circumcision" (that done in the body by the hands of men)-- |
註解: 11−22節においてパウロは、異邦人が救いに与りし結果、ユダヤ人と異邦人の間の障壁と差別は撤廃せられ、二つのものが一体となり、対立は解消して和解の状態に入りしことを論じている。本節および次節においては、ユダヤ人の目より見たる異邦人の姿をさらにパウロの信仰による批判の目をもって巧みに描いていることに注意すべし。ユダヤ人は自らを「割礼ある者」として誇り、異邦人を「無割礼の異邦人」として賤 んでいた。パウロはこの称呼をそのまま用いると同時に「肉によりては異邦人」と言いて、霊においては決して軽蔑すべきにあらざることを暗示し、「手にて肉に行ひたる割礼」と称することによりて、ユダヤ人の誇りも単に外部的肉的たるに過ぎず、異邦人といえども信仰によりて「手をもてざる割礼を受け」(コロ2:11)た者たることを暗示す。そして双方とも「称えられる」云々なる語法を用いて、これらが単なる一般的呼称に過ぎずして、信仰による新たなる創造(10節)によりこの称呼が無意味となることを暗示す。
2章12節
口語訳 | またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。 |
塚本訳 | その当時はキリスト無く、またイスラエルの民籍に縁無く、(従ってアブラハムとその子孫に対する神の大なる)約束に基づく種々な契約にも与らず、この世において希望なく、また神無き人であった。 |
前田訳 | あのころ、あなた方はキリストなしで、イスラエルの共同体からはなれ、約束された契約には無縁で、この世で希望を持たず、神なきものでした。 |
新共同 | また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。 |
NIV | remember that at that time you were separate from Christ, excluded from citizenship in Israel and foreigners to the covenants of the promise, without hope and without God in the world. |
註解: 救いに至る以前の異邦人の状態をユダヤ人の見方をもって描写す。異邦人がキリストの信仰に入る以前は(キリストなく)、多くの点において憐れむべき状態に在った。その一つは神の選民たるイスラエルの民籍とは縁なきものであること、その二はアブラハム (創12:2、3、創12:7。創13:15−17。創15:18。創17:19−20。創22:16−18) 以来、族長、モーセ、ダビデ等に与えられし約束に伴う民族の救拯と発展の契約に対して他人であること、その三は神に対する信頼なきが故にこれによりて生ずる希望を有せず暗黒なる生涯を送っていたものであったこと、その四は信じて依り頼むべき真の神を有せず、全く無神的であるかまたは偶像神を拝するに過ぎないことであった。これらの点において彼ら異邦人はイスラエルに比較して全然憐れむべき霊的状態にあった。
辞解
[曩 には] 「その時には」で前節の「曾 て」(欠訳)を受く。「キリストなく」が主体をなし、以下はその内容の説明である。
[世にありて] 「神なき」にのみ関係せしむる読み方あり、「希望」は約束に対する希望のみならず一般的に人生の希望と解して可なり。
[希望 ] 約束に対する希望のみならず一般的に人生の希望と解して可なり。
2章13節 されど
口語訳 | ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。 |
塚本訳 | しかしながら今やキリスト・イエスに在って、かつては“遠く”あった君達が、キリストの血によって“近く”なったのである。 |
前田訳 | 今やキリスト・イエスに結ばれ、かつて遠かったあなた方はキリストの血によって近くおなりです。 |
新共同 | しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。 |
NIV | But now in Christ Jesus you who once were far away have been brought near through the blood of Christ. |
註解: 「今は」は「曩 には」の反対、「キリスト・イエスに在りて」は「キリストなく」の反対を示す。すなわちキリスト・イエスが十字架に血を流し給えることによりて異邦人も罪を赦されて神の民となり、これによりてイスラエルとの間の距離すなわち差別が無くなりイスラエルと一つとなり、イスラエルの凡ての特権を己が所有となすことを得るに至った。
辞解
「遠き」「近き」はイザ57:19の思想を応用し、これをイスラエルと異邦人とに適用したのである。
[近づつことを得たり] 「近くせられたり」。
口語訳 | キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、[15節]数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、 |
塚本訳 | 何故なら、彼(キリスト)が私達の”平和”であって、(今まで離反していたイスラエルと異教人の)両者を一つにし、(その仲を割いていた)仕切りの籬なる敵意を取り除け給うたからである。すなわちその肉で、[15節](あらゆる)命令規則から成る律法を廃止し給うたのである。これは(今まで敵であった)この二つの者を己において一つの新しい人に創造りかえて平和を作るため、 |
前田訳 | 彼こそわれらの平和です。彼はふたつをひとつにし、お体によって敵意という隔ての垣をおこわしでした。[15節]彼は規則や条例の律法を廃止し、ふたりを彼にあるひとりの新しい人へと創造して平和をつくり、 |
新共同 | 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、[15節]規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 |
NIV | For he himself is our peace, who has made the two one and has destroyed the barrier, the dividing wall of hostility, [15節]by abolishing in his flesh the law with its commandments and regulations. His purpose was to create in himself one new man out of the two, thus making peace, |
註解: 単に我らの間を平和ならしむるはキリストであるとの意味ではなく、彼自身我らの罪の贖い主として神との間の平和を造り給えるが故に、彼がそのまま我らの平和であるとの意味である(Tコリ1:30)(B1)。
辞解
「彼は」は強調されている。「平和」は本節末の「敵意」の反対。
註解: 「廃して」に懸る。イエスの肉を割き血を流すことによりて人類の罪は赦され、神の怒りは宥められ神と人との間の障壁が取り去られしことを意味す。
註解: 直訳「規 よりなる誡命の律法を廃して」で、モーセの「律法」はその内容においては「誡命」であり、その形式においては「規 」すなわち宣言である。イエスの十字架の死によりて律法は律法としては終局となり、その任務を終え(ロマ10:4)、新たにイエスにある新生命より流れ出づる愛の律法がこれに代ることとなる(ロマ13:10)。これがすなわち「キリストの律法」(ガラ6:2)である。
註解: 11−12節におけるごとく神の経綸においては全然対立せる二つのものなりしイスラエルと異邦人とが、律法の廃止によりて一つとせられた(ガラ3:28。ロマ10:12。Tコリ12:13等)。これこの二者を分離し区別する原因たる律法が廃止せられた自然の結果であって、あたかもエルサレムの神殿の中に、イスラエルの庭と異邦人の庭を区別する障壁「隔 の中籬 」があったのが取り毀 たれ、その前に異邦人の立入ることを死刑をもって厳禁する旨の掲示、すなわち「規 」があったのが取りさられたと同様の結果となった。
辞解
[怨 なる隔 の中籬 ] 「隔 の中籬 すなわち敵意」と訳すべく、律法はイスラエルと異邦人との間に対立を来たらしむる事実を指したのである。なお14、15節の文章は構造複雑にして種々の読み方あれど一々論ぜず、最も適当と思われる処による。
これは
註解: 以下16節までは以上の神の御業の目的を示す。イスラエルも異邦人もキリストを信じ彼に在ることにより全く新しき人として創造せられる。しかもこれは二つの異なれる新しき人ではなく、キリストにある一人の新人であり一体たる存在である。従ってこの新しき人としては、イスラエルと異邦人との間に平和が存するのみならず、キリストによりて神との間にも平和が存することとなり凡ての区別と敵意とは消滅する。誠に驚くべき大変革であると言わなければならぬ。
辞解
[一つの] 原語男性「一人の」で(従って「二つの」も「二人の」と訳する方がよろし)全体を一つの人格者として取扱っている。
[己に於て] 「己にありて」または異本「彼にありて」でイエス・キリストとの交わりを指す。これなしには二つのものが一つとなることはできない。
[平和をなし] ユダヤ人と異邦人との間の平和を指すのであるが、しかし「彼にありて」の平和なる故、自然同時に神との平和もパウロの心中に在りしことは勿論である。
2章16節
口語訳 | 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。 |
塚本訳 | かくてまた十字架によって二つの者を一つの体において神と和睦させ、十字架において(神と人との間の)敵意を殺すためである。 |
前田訳 | 十字架によってふたりを神に対してひとつ体に和解させて敵意をお殺しでした。 |
新共同 | 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 |
NIV | and in this one body to reconcile both of them to God through the cross, by which he put to death their hostility. |
註解: 私訳「かくして彼にありて敵意を滅ぼし、十字架によりて二者を一体として神と和がしめんためなり」。イエス・キリストに在ることによりてユダヤ人と異邦との間の敵意は消滅し、キリストの十字架によりて、この両者は共に神の子たる身分を獲得し、神の怒りは宥められて二者一体のまま神と和がしめられるに至ったのであった。かくしてキリストとその十字架は神と人類との関係、ユダヤ人と異邦人との関係を根本的に解決し終ったのである。
辞解
[十字架によりて] 原語「彼によりて」で「彼」は「十字架」を指すとも見ることができるけれども、前後の思想の中心がキリストに在る点よりキリストを指すと解するを可とす。
[二つのものを一つの体となして] 訳語としてやや不適当である。
[和 がしむ] apokatallassô につきてはコロ1:20辞解参照。
2章17節 かつ
口語訳 | それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。 |
塚本訳 | 且つ来て、“遠い”君達に“平和の福音を宣べ、また近い者にも平和の福音を宣べ給うた”のである。 |
前田訳 | 彼はおいでのうえ、あなた方遠い人々にも平和を、近い人々にも平和をお伝えでした。 |
新共同 | キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 |
NIV | He came and preached peace to you who were far away and peace to those who were near. |
註解: 「来りて」はこの場合(1)イエスの肉体にて来り給えること、(2)復活のキリスト、(3)使徒たちによる宣伝等を意味するのではなく、霊において来り給えるイエスを指す(I0、M0、E0、ヨハ14:18。Uコリ3:17。Uコリ13:5。ガラ2:20)。キリストは単に平和を造り給えるのみならず(15節)またこれを霊によりて宣伝え給うた。遠きものは異邦人たる信者であり、近きものはユダヤ人である。
辞解
「平和」を繰返したのは意味を強めるためである。
2章18節 そはキリストによりて
口語訳 | というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。 |
塚本訳 | というのは、(今)私達二つの者が、(イスラエル人も異教人も、)一つの霊で父(なる神)に近づくことが出来るのは彼によるのであるからである。 |
前田訳 | 彼によってわれらふたりともひとつ霊にあって父へ近づけるのです。 |
新共同 | それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。 |
NIV | For through him we both have access to the Father by one Spirit. |
註解: 前節の理由を証明す。すなわちイエス・キリストの贖いにより我らはユダヤ人たると異邦人たるとを論ぜず同一の聖霊を与えられ、この聖霊にありて、すなわち同一の聖霊を有つことによりて父なる神に恐れることなく近付き得るに至っているからである。本節に父、子、聖霊の三位の神が列挙せられていることに注意すべし。
註解: 19−22節は信者の一体たる姿の描写である。
2章19節 されば
口語訳 | そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。 |
塚本訳 | だから、君達は最早余所の人でも居候でもなく、聖徒と同じ(天上の)市民また神の家族であり、 |
前田訳 | 今やあなた方は外国人やよそものではなく、聖徒と同国人かつ神の家人です。 |
新共同 | 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、 |
NIV | Consequently, you are no longer foreigners and aliens, but fellow citizens with God's people and members of God's household, |
註解: 「旅人」は「国人」すなわち民籍所有者の反対であり、「寄寓 人」は「家族」の反対である。今や汝ら異邦人もキリスト・イエスにありてユダヤ人と一体となりたる以上、聖徒らと同様同じ民籍に属し、同じく神の家族であって、神の国の民となったのである。旅人や寄寓 者のごとき不安定なる存在ではない。なおヘブ11:13。Tペテ2:11にキリスト者は旅人また寄寓 者なることを述べているのと矛盾するごときも然らず、本節はキリスト者の天的身分を示し、これらの諸節はその地上の生活の状態を示す。
辞解
[神の家族] 神の国を一家族として見る場合しばしばあり、Tテモ3:15。ヘブ3:2、ヘブ3:5、6。ヘブ10:21。Tペテ4:17。
[聖徒] この場合パウロの心中にはユダヤ人一般を考えてかく言ったのであろう。パウロはユダヤ人は当然イエスを信ずべきものと考えていた。
2章20節
口語訳 | またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。 |
塚本訳 | 使徒と預言者なる土台の上に築き上げられた建物であって、キリスト・イエス御自身がその“首石”である。 |
前田訳 | あなた方は使徒と預言者の土台に建てられ、そのかなめ石はキリスト・イエスご自身です。 |
新共同 | 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 |
NIV | built on the foundation of the apostles and prophets, with Christ Jesus himself as the chief cornerstone. |
註解: 家族の比喩により転じて家屋の比喩となる。その神の家屋の基礎たるものは使徒、預言者であり、信徒はその上に積み重ねられる石材であり、この凡てを支える中心となるものはイエスである。従って汝らももはやこの神の家の不可欠の要素となったのである。
辞解
[使徒と預言者] 新約の使徒、預言者を指す、旧約の預言者にあらず(Tコリ12:10)。「使徒と預言者の基」はこの場合においては「使徒や預言者の置きたる基」(B1)と見るよりも「使徒および預言者そのものが基礎たること」を意味すると見る方が全体の比喩より見て適合する(I0)。Tコリ3:10の場合とは比喩の構成を異にす。同様にTコリ3:11にはキリストが基礎たることが録されているけれども異なった比喩であって本節と矛盾するわけではない。
「自ら」はまた「その」とも訳することができるが、「自らその」と訳することはできない。
2章21節 おのおのの
口語訳 | このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、 |
塚本訳 | そして建物全体は彼において(しっかり)つなぎ合わされて成長し、主に在る聖なる宮となるのであって、 |
前田訳 | 彼によって建物全体が組み合わされ、主にある聖い宮へと成長し、 |
新共同 | キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 |
NIV | In him the whole building is joined together and rises to become a holy temple in the Lord. |
註解: 私訳「建造物全体が彼にありて建て合せられ主にありて聖なる宮に成長するなり」。全教会の固き一体的実在たることと、その生成発育の姿を録す。そしてこの何れも「キリストに在りて」のみ実現可能である。
辞解
pasの後に冠詞なき故「おのおのの建物」と訳することは文法上の必要であるけれども、この文法上の規則は必ずしも絶対的ならざるもののごとく(L2)、全教会の一体観を示す比喩としては、一つの建築物全体と見る方が適当である(▲あるいは「各 の建物」と訳し、全世界に散っている多くの集会(教会)が主にありて一つの宮に建て合されると見る方が文法的にも適当であろう)。そしてこの建造物は、死せる固定物にあらず動植物のごとくに「成長し」(=彌増 に成る)て聖なる宮となる。キリストを隅の首石 とせる全教会の一致とその美しきことはエルサレムの神の宮にも比すべきである。
2章22節
口語訳 | そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。 |
塚本訳 | 君達も彼において一緒に建て合わされ、神の霊の御住居となるのである。 |
前田訳 | 彼にあってあなた方も共に建てられて霊による神の住まいにされるのです。 |
新共同 | キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。 |
NIV | And in him you too are being built together to become a dwelling in which God lives by his Spirit. |
註解: 聖なる神の宮はユダヤ人の信仰の中心でありまたその選民意識の旗印であるけれども、キリストの十字架の贖いにより「汝ら」異邦人もまたユダヤ人と共に一つとせられ、一つの神の宮に建て合せられ、神の住み給う処となる。神はその御霊によりて我らの中に住み、我らを一つの神の住居たらしめ給う。
要義1 [選民と異邦人]キリストの十字架の贖いの効果の著しき一面は選民イスラエルと異邦人とが一つにせられしことであった。異邦人の立場より考うる場合は、イスラエルが選民として特別の地位を有していたことが神の側に一つの不公平が存するかのごとくに思われ、従ってこの二者が一つにせられしことに特別の意義が存在せず、かえって神の不公平がこれにより辛うじて公平に復せしごとくにも思われるけれども、元来神がイスラエルを選び給いしことは、この民を特に唯一神の信仰に訓練し、この民の信仰を通じて万国民に祝福を与え、万国の民を唯一神の信仰に導かんがためであった(創12:3。創18:18。創22:18。創26:4。使3:25。ガラ3:8)。そしてイエス・キリストの贖いにより、ユダヤ人と異邦人の間の障壁が撤去せられ二つが一つに帰したことは、ユダヤ人を通して祝福が異邦人に及んだことであって、神の経綸が完成したのであり、パウロにとりては最も重大なる事実と感じたのであった。この意味をもって11−22節を読むべきである。
要義2 [神の選民たること]神の選民たることは至上の光栄であるけれども、単にその光栄の方面のみよりこれを観察することはその真相を見失う所以である。何となれば選ばれることは同時に責任を負わされることであり、またその責任に伴う鍛錬のために大なる苦難を与えられることをも意味しているからである。光栄の反面には必ずこの責任と苦難とを伴うのであって、もしこの責任を思い苦難を経験するならば、何人も神より選ばれることを欲しないであろう。ゆえに神の選びをもって不公平と考うる者はこの一面を無視するものである。
要義3 [信者の一体観]神の子キリスト・イエスが死にて甦り給えることによりて神とキリストと聖霊によりて新生せる人間(ユダヤ人も異邦人も共に)とが一体なることの新事実があらわれた。偉大なるしかも不思議なる事実である。天にある国の誕生である。三位が一体として人類を抱き、人類(信者)をその中に一体化せしめ、また同時に個々の独立の存在として信者を神の家族と見る。この至高の関係を表顕すべき適当なる言葉はない。パウロはこれを一体、神の家族、神の建築物等種々の用語と比喩とをもって表顕せんと苦心せる跡を見ることができる。